大瀬崎

昨日、この山の上では激しい雷雨が降りました。ふもともさぞかし激しかっただろうなと、夕方山を下りてみると、路面はぜんぜん濡れていません。あー、局地的な雷雨だったんだと、わかりましたが、改めて山の上の天候が変わりやすい、とよくいわれる意味が分かったような気がしました。

今朝はその雷雨の名残なのか、外は一面真っ白な霧の世界で明けましたが、しばらくすると、そんな悪天候を忘れさせるようなスキッ晴れとなり、あざやかな紺色の富士山が窓からよく見えます。今日も暑くなるのでしょうか。

さて、本日の話題です。

おせざき

修善寺から西へ向かい、三津の海岸に出てから、更にひたすら西へ西へと向かうと、「大瀬崎」という岬に出ます。

この地名、「おおせざき」なのかと思っていたら、正しくは「おせざき」なのだそうで、伊豆の地名の読み方にはいつも悩まされます。大仁にある山も「城山」と書いて、「じょうやま」だし、長岡のひとつ北にある町は、「原木」と書いて「ばらき」と読むなど、よそ者にはなかなか読めない地名ばかりです。そういえば、ここへ来たてのころに、伊豆箱根鉄道の「駿豆線」は、「すんとうせん」と読むのだとばっかり思っていたら、正しくは「すんずせん」と読むのだと聞いて、びっくりしたことがありましたっけ。

さて、この大瀬崎には、ここへ引っ越してくる前に一度、タエさんと行ったことがあります。伊豆の中でも屈指といわれるダイビングスポットなのだそうですが、我々が行ったときは10月の終わりころだったので、ダイバーもちらりほらりしかいませんでした。おそらく、夏まっさかりの今は、多くの人魚たちでにぎわっていることでしょう。

この大瀬崎ですが、伊豆半島の北西端から北へ駿河湾内に突き出した半島で、別名は琵琶島(びわしま)と呼ばれるそうです。半島の形が琵琶に似ているためのようですが、伝承によると、684年(白鳳13年)に発生した大地震に伴って海底が突然隆起し、出現したのが始まりだそうです。

その後、島と本土の間に、砂洲ができて陸とつながり、現在のように半島になりましたが、半島としての長さは1キロメートル弱、最も狭い部分の幅は100メートル足らずです。半島の東側は遠浅の砂浜を持つ湾を成しており、海流や波が少ないので、海水浴を楽しむ人も多いようです。一方、西側は大きな石が堆積した海岸になっていて、ここから駿河湾越しに見える富士山は、なかなかのもの、らしいです(残念ながら我々が訪れたときには富士山はみえませんでした)。

海水浴場になっている、半島東側の湾内の砂浜は、1974年のいわゆる七夕豪雨(昭和49年)7月7日(日)に静岡県静岡市付近で発生した集中豪雨)により失われましたが、1977~82年に行われた養浜事業によって復活しました。

半島の先端から300メートルほどの、標高10メートル余りの高台の上には引手力命神社(ひきてちからのみことじんじゃ)があります。大瀬神社または大瀬明神とも呼ばれています。927年(延長5年)に編纂されたという、延喜式神名帳(全国の神社一覧)にも記載があり、海の安全の神として名高く、多くの文化財や風習が今に伝わっているそうです。

この神社には源頼朝と政子も参拝していたそうで、源氏の再興を祈願して、この神社に弓矢、兜、鏡、太刀などを奉納したという逸話が残っています。その後、源氏の再興が叶い鎌倉幕府が成立して以降は、多くの武将たちが弓矢や太刀を奉納するようになったとされ、室町時代には熊野国の水軍の武将であった鈴木繁伴もこの神社の祭祀に勤しんだそうです。

引手力命神社を含む半島の先端部分は神社の境内地とされていて、ここにはビャクシン(別名イブキの木)の樹林と、これに囲まれた神池と呼ばれる、直径が100メートルほどの淡水池があります。

ビャクシンの樹林のほうは、昭和7年(1932年)に「大瀬崎のビャクシン樹林」として国から天然記念物に指定され、神池は、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされています。

伊豆の七不思議というのは次のようなものです。

大瀬明神の神池(沼津市)
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
函南のこだま石(田方郡函南町)

これらについては、長くなりそうなので、またの機会に探訪してみましょう。

前述したように、この大瀬崎では、養浜事業が行なわれ、このため遠浅になったことで、海水の透明度が増し、1982年頃からは急速にダイバー数が増加したそうです。

1983年には大瀬崎で最初のダイビングサービスが開業しましたが、増加するダイバーと地元漁協の衝突も多くなりました。このため一般ダイバーやダイビングサービス関係者、潜水団体関係者からなる「大瀬崎潜水利用社会(現在の大瀬崎潜水協会)」が設立され、地元漁協との協議と調整の結果、1985年に正式に大瀬崎にダイビングスポットが開設されました。

その後はスキューバダイビングの人気と共に日本を代表するダイビングスポットとなっていますが、その理由としては、駿河湾に面し生物相が豊かであることや、海底が砂利であるため砂が舞い上がらず、また流入する河川もないため海水の透明性が高いことなどがあげられます。

また、三方を陸に囲まれ天候に影響されず海が穏やかであるために台風時を除き一年中潜水が可能であり、遠浅であるため船を使わず直接海岸から潜水する「ビーチ・エントリー」が可能であることもその人気の理由のひとつのようです。

「湾内」は、台風でも直撃しない限りは潜れるというほどの安定したポイントだそうで、このため、体験ダイビングや講習に多く使われ、他のポイントは中級者~上級者向けのスポットとなっているそうです。多様な生物と海水の透明性の高さから、水中カメラマンも多く訪れるとか。

しかし、その昔は、地元漁協とダイバーの間に深い溝があったといいます。1993年に漁協がダイバーに対して徴収している「潜水料」の是非を巡って一部のダイバーが漁協に対し訴訟を起こす「大瀬崎ダイビングスポット裁判」が起こりました。この裁判は注目を浴び、最高裁まで持ち越されましたが、2000年11月の判決で原告の訴えが棄却され、それ以後、全国のダイビングスポットにおける潜水料の徴収に正当性が与えられることになりました。

大瀬崎には大瀬崎灯台もあり、富士山も見える絶景地であることから、ダイビングや海水浴が目当ての人たちだけでなく、一般観光客も魅了する有名観光地です。

1990年代に遠浅で透明度の高いことがマスコミで取り上げられて家族旅行先として有名となり、2006年には環境省の「快水浴場百選」にも選ばれました。海水浴シーズンは潜水が制限され、海水浴場とダイビングスポットとしての両立がされているそうで、海水浴場沿岸と県道17号へ通じる市道沿いの高台には、ダイビング・海水浴双方の利用客を相手としたペンション・民宿が軒を連ねています。

海水浴場沿いにあるペンションは、ダイバー向けのマリンショップと海の家を兼ねている店舗が多く、ダイビングサービスの多くが宿泊施設を伴う点と、その多くが地元民により経営されている点が大瀬崎の大きな特徴となっています。このほか、私営のオートキャンプ場も営業しているようです。

海軍技術研究所

このように今はにぎやかな観光地になっていますが、その昔、大瀬崎一帯は長らく無住地で、周辺住民も漁業や温州みかんの栽培、薪炭生産などで生計を立てていたそうです。

戦前は、海軍技術研究所の「音響研究部大瀬崎実験所」があったそうで、沼津市内に建てられていた音響研究部本部で研究された、水中聴音機や潜水艦探知機などの現地実験が行われていました。

この、海軍技術研究所・音響研究部は、大正12年に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関の出先機関で、沼津に設置されたのは昭和16年のことです。現在の沼津市下香貫にある、市立第三中学校の敷地を含み、その周辺合わせて約82000坪もある、広大な研究所だったそうです。

メインとなる研究所のほかに工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫なども配置されていたそうで、大瀬崎のほかにも江浦、淡島、長井崎、多比、下土狩などにも用地・設備を保有し、実験用船舶も10隻以上あったといいます。

この研究所では、空・水中聴音機や潜水探知機、音響魚雷、爆雷の開発などの開発研究が行われ、その当時の技術を駆使した近代的な施設でした。研究テーマ毎に研究室があり、武官や文官、工員や挺身隊(女性らによる勤労奉仕団体)も含め、2000人もの人が働いていたそうです。

この研究所において海軍が最も重視していた研究がレーダーの研究だといいます。1942年(昭和17年)のソロモン沖海戦で、日本は複数の戦艦や空母を失うなど、アメリカ海軍圧倒されましたが、その敗因のひとつは、レーダー装備の差であったといいます。

この戦いにより、陸海軍ともようやくレーダーの開発に本腰を入れるようになり、1943年(昭和18年)には、海軍大臣がレーダーの新規設計と基礎研究を緊急に進めるように指示。レーダーの開発のための組織的な整備が始まります。その年の3月に東京の月島、横浜の鶴見、千葉の大東岬にレーダーの試験場が設置され、そして、6月にレーダーを生産するために「沼津海軍工廠」が設立されました。

そして、7月には、沼津の海軍技術研究所にレーダーを専門に開発する電波研究部が設けられます。昭和20年には、電波、電気、無線、有線、音響関係の兵器研究部門を統合して、第二海軍技術廠・音響研究部となり、水中聴音機、水中探信機研究等を中心とした音響兵器研究が行われるようになったということです。

本土空襲が激しくなると、沼津市郊外の多比(たび・現沼津マリーナの東側あたり)にあった石切り場の中に、地下工場を建設し、実験室、機械などを疎開させたといい、この当時の名残を感じさせる石切り場やトンネル、岩穴などが今でも多比や内浦地区等でみうけられるそうです。

下香貫にあった海軍研究所は、その後、1945年(昭和20年)7月17日の沼津大空襲で焼け落ちました。アメリカ軍のB-29、130機の編隊が、海軍工廠や多くの中小軍事工場、そして海軍研究所のある沼津市街上空3200mに侵入。愛鷹山と香貫山の高射砲が迎撃しましたが、午後3時頃までに9077発、1039トンの焼夷弾を投下し、9523戸が焼失、274人が死亡しました。アメリカ軍の記録によるとこの空襲により市の89.5%が破壊されたそうです。

海軍研究所があった場所には、「海軍技研跡碑」という石碑が1973年(1973年)に建立され、そこに広大な研究所があったことが偲ばれますが、大瀬崎のほうには、何も建てられておらず、その当時の様子がうかがえるものは何も残っていません。

現在は、多くの観光客やダイバー、海水浴客でにぎわう大瀬崎ですが、戦争があった当時、ここにあった実験所では、海軍技官たちが日々、海中にソナーを備え付けては、その性能をテストしていたに違いありません。

大瀬崎に初めて行ったときにはこうした事実は知りませんでしたが、今度行ったときには、そうした目で改めて半島を散策してみようと思います。

このブログでは、これまでも恋人岬や爪木崎などの海辺のスポットを紹介してきましたが、
大瀬崎はその3番目です。伊豆といえば海。その近くに住んでいるのですから、これからももっと積極的に海に行って、レポートをしていきたいと思います。もっとも、今はどこの海岸へ行くのも渋滞覚悟のホットシーズン。次のレポートは秋口になるかもしれません。あしからずご了承のほどを。

全国中等学校優勝野球大会

暑いさなか、甲子園球場では高校球児たちの熱い熱戦が続いていますね。私のゆかりの地でいうと、広島の広島工業は一回戦敗退。静岡の常葉橘も同様に敗退しています。唯一、山口の宇部鴻城高校が頑張ってくれているので、次の試合はぜひ応援したいと思います。

ところで、今日は、夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)の前身の「全国中等学校優勝野球大会」の第一回大会が開催された日だそうです。1915年(大正4年)8月18日から23日までの6日間にわたって、大阪府の豊中にあった、豊中グラウンドで行われたそうで、参加校は以下のとおりです。

秋田中(秋田県)
早稲田実(東京府)
三重四中(三重県)
京都二中(京都府)
神戸二中(兵庫県)
和歌山中(和歌山県)
鳥取中(鳥取県)
広島一中(広島県)
高松中(香川県)
久留米商(福岡県)

たった、10校だったんですね。1914年ということは、いまからもう100年近く前のことになります。いったいどんな試合だったのか、興味深いところです。しかし、「中等学校」というのは、現在の高等学校と何が違うのでしょうか。おそらくは、ほぼ同じと考えて良いのでしょうが、修養年数などが少し違うと思われるので、以下に整理してみました。

旧制中学とは

まず、入学資格ですが、基本的には「尋常小学校」を卒業していることとされており、この尋常小学校の修養年数は6年で、入学時期も今の小学校と同じでしたから、卒業時の年齢は12才、と今と同じになります。今の高校は、16才から入ることになりますから、ここがまず違いますね。

しかし、中等学校の修業年限は5年間だったそうで、そうすると、17才で卒業ということで、今の高等学校よりも1才若い年齢になりますが、卒業したときの年齢はほぼ同じになります。

ただ、現在甲子園大会で戦っている高校球児の主力は2年生や3年生で、年齢は17才か18才ですから、この当時の中等学校の最年長者が17才というのは、今と比較すると若干のパワー不足、という感じがしないでもありません。

この旧制中学校、太平洋戦争に突入した1941年(昭和18年)に制定された中等学校令では、さらに修業年限が1年縮まり4年間に改められましたが、その6年後の1947年(昭和24年)に現在の中学校制度に移行しました。

この第一回全国中等学校優勝野球大会が行われた当時は、尋常小学校の6年間が義務教育であり、その後に、2年間の修業年限の高等小学校へ行くか、旧制中等教育学校へいくかは、自由でした。1936年(昭和11年)ころの統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、高等小学校に進学する者が66%、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者が21%、まったく進学しない者(就職等)が13%でした。

高等小学校は、今の中学校に相当するものと考えられますから、この当時は小学校を出ると高等小学校へ進むのが普通で、旧制中学へ進む子供は5人にひとりという割合という、どちらかといえば少数派だったことがわかります。

ちなみに、旧制中学校を卒業すると、旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することを自由に選べたそうで、より高いレベルの教育を受けたいと考える生徒は、旧制中学校を選んで進学していたようです。また、旧制中学校2年生を修了すると師範学校への進学が可能だったそうです。

なお、この当時、旧制中学校への進学者は男子のみで、女子に対する中等教育は高等女学校で行われました。このほか、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校もありましたが、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するためには制限があり、より高度な教育を受けたい女子は、男子が卒業する旧制中学校よりも不利な条件でした。まだまだ男尊女卑の時代だったようです。

男女共学の学校が登場するのは、第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の下でのことであり、これによって、公立校の多くが共学化されました。しかし、一部地域(北関東・東北など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、さらに、私学の大半は男子校のまま新制中学校・高等学校へと移行しました。

学校教育法が定められると、その多くが県立や市立だった旧制中学校は募集を停止し、これにかわって、現行制度と同じ「中学校」が設置されました。

さらに1948年4月に現在の高等学校制度が発足すると、旧制度との不陸を解消するために、旧制中学2年生以下の生徒は、新制高校の中に暫定的に作られた附属中学校の生徒に編入され、3年生はこの新制高校へ進級しました。

暫定の付属中学校に振り分けられた2年生以下の生徒がこれを卒業すると、希望者は新しい高校へ編入されることになります。暫定付属中学は、その役割を終えると、廃校になるか、新しく設置された中学校に吸収される形で残っていったようです。

ちなみに、私の母も終戦直後に高等女学校へ通っていましたが、1948年の制度改革時に、旧山口中学校が解体となって新しくできた高校と、この高等女学校が合併され、この新校、現在の山口県立高等学校に編入、そのまま卒業生したため、入学したのは女学校だったけれども、山口高校の卒業生ということになっています。

第一回大会

さて、いつものことで申し訳ありません。前置きが長くなってしまいました。第一回の全国中等学校優勝野球大会のことです。

1915年(大正4年)8月18日に開催されたこの大会では、始球式で、朝日新聞の村山龍平社長がボールを投げました。審判長は、京都大学の荒木寅三郎総長で、この方は燕尾服にシルクハットをかぶり、村山社長は羽織紋付という和礼装姿の写真が残っており、なんとものどかなかんじがします。

村山社長が投じたこの第一球ですが、記録によると、この第1球がそのまま、本試合である、鳥取中と広島中の対戦における、先頭打者に対する「初球」としてカウントされ、記録としては、その打者は三振に打ち取られた、ということになっているそうです。鳥取中と広島中のどちらが先攻だったのか知りませんが、文句が出なかったんですかね。いずれにせよ、のどかな時代です。

大会の試合結果は、以下のとおりです。

1回戦
鳥取中 14 – 7 広島中
和歌山中 15 – 2 久留米商
2回戦
京都二中 15 – 0 高松中
早稲田実 2 – 0 神戸二中
和歌山中 7 – 1 鳥取中
秋田中 9 – 1 三重四中
準決勝
京都二中 1 – 1 和歌山中(9回裏1死1塁降雨コールドゲーム引き分け)
京都二中 9 – 5 和歌山中(再試合)
秋田中 3 – 1 早稲田実

準決勝で、京都二中は和歌山中学に再戦の末、勝っていますが、この初戦がコールドゲームというのは、球史に残る出来事でありました。さらに決勝で京都二中は、秋田中を、2対1という接戦で破り、初の優勝校に輝いていますが、この試合も延長13回の大激戦であり、まさに歴史に残る大試合でした。

ただ、その幕引きはあっけなかったようです。この試合、両チームのエースによる見事な投手戦によって延長に入りましたが、延長13回裏、京都二中は、先頭打者で4番バッターの大場がセンターのエラーで出塁し、その後二塁へ盗塁。

さらに、1死後に二塁へ飛んだライナーを秋田中の津田が落球、そして1塁へ悪送球となり大場が生還。秋田中の3つ続いたエラーにより、京都二中がサヨナラ勝ちをおさめるという内容でした。

この第一回大会で出た本塁打は、第一試合で広島中学の中村隆元選手が打ったもので、なんとこれは、ランニングホームランだったそうです。ただし、試合は、7対14で広島中が鳥取中に大敗しています。

この試合では、広島中学の捕手として出場した田部謙二という選手が、試合中指を傷めて付近の病院に担ぎ込まれたそうで、これをきっかけとして、各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話も残っているそうです。

わが母校は……

実は、この広島中、私の母校にあたり、現在の県立広島国泰寺高校の前身になります。現在の国泰寺高校は、サッカーの強豪高として、地元で知られており、戦後3回も優勝と準優勝を経験しています。

ところが、野球のほうは、この第一回出場以降、夏春通じて一度も甲子園へ行ったことがなく、全国大会への出場の夢をすでに1世紀ちかく持ち越しています。最近は2005年に広島県春季大会で準優勝するなど、奮戦はしているようですが、なんとか甲子園への出場を果たしてほしいもの。

万一?出場を決めたら、絶対応援に行こうと思います。だから、私を甲子園へ連れて行って~

ところで、わが母校以外の第一回出場校のその後はどうなのかな、と調べてみると、広島一中以外にも、三重の山田中学(三重四中・現宇治山田高校)が一度も甲子園へ行っていません。その他の旧制中学はというと、すべてが甲子園へ少なくとも複数回以上は出場していて、一番少ない神戸二中(現・兵庫高校)ですら、春4回、夏1回の5回も出場しています。

一番多いのが、早稲田実業(現在も同名)の春19回、夏28回で、これに次ぐのが、和歌山中学(現・桐蔭学園)の春15回、夏20回、鳥取中学(現・鳥取西高)で、春4回、夏22回などです。

さすがに、よく聞く名前ばかりですが、この中にわが母校の名前が入っていないのが、く、くやしい~。

それにしても、三重の宇治山田高校(山田中学)も弱いよな~、と思っていたら、この学校は、平成4年夏の三重県大会で決勝にまで進出したそうで、惜しくも三重高に敗退し77年ぶりの大復活を逃したのだとか。春の大会で準優勝しても、選抜に選ばれなかったわが母校よりも上を行っています。ということは、目下のところ、第一回出場校の中では最下位の成績かい。なさけないのう。

まあ、このブログで広島中学のことを知ってくれた人たちが、今後は、きっと甲子園に出れるように応援してくれるわい、ということで、今日のところは、これくらいにしておきましょう。

それにしても、今年の優勝校はどこになることやら。まだまだ14~5校が残っているはずですから、熱闘甲子園はまだまだこれからです。今日はこれから雨になるようですから、おとなしく家にいて、ビール片手にテレビ観戦でもすることにしましょう。

みなさんのごひいきチームはまだ勝ち残っているでしょうか?

夏の夜空に

昨夜、どこか遠くのほうから花火の音が聞こえてきました。もしかしたら、伊豆で上がる最後の花火かもしれません。8月も下旬に近づくと、あちこちで夜空を彩っていた花火も次第になりをひそめていきます。まだまだ各地では猛暑が続いていますが、秋風が吹きはじめるのもそう遠くないことでしょう。

おもちゃ花火と打ち上げ花火の違い

ところで、その花火ですが、普通のおもちゃ花火と、花火大会で使う打ちあげ花火はどこで線引きがあるのかな、と気になったので調べてみました。

すると、基本的には日本では、打ち揚げ花火のような大型花火を扱うには、免許が必要で、大型の打上花火のことは、法令上では、「煙火」といい、おもちゃ屋さんで売っている小型のおもちゃ花火とは区別されるそうです。おもちゃ花火のほうは法令上は「玩具花火」というそうで、ちゃんと区別されているんですね~。

この「煙火」花火のほうは、ご存知のように紙でできた紙製の球の中に火薬を入れて打ち揚げるわけですが、この火薬のことは、専門用語では「星」と呼ぶのだそうです。打ち揚げるときには、円筒の底に発射薬を入れ、その上に「玉」を乗せ、「投げ込み」と呼ぶ火薬を円筒に投げ入れて発射薬に点火します。

発射薬の量は「玉」の大きさ、すなわち「花火の高さ」によって決めます。当然高くあがる花火のほうが、発射薬は多くなります。この玉は、打ちあげと同時に内部にある導火線に火がつき、目標とする高さに到達すると、導火線が燃え尽きて玉内部の割火薬に点火されて「玉」が破裂し、「星」が飛散します。

このとき「星」には、光の尾を引きながら燃焼するものや、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど様々なタイプがあり、その配合をどう決めるかが花火師の腕の見せどころです。「玉」の内部にいかに「星」を均一に詰めることが重要なのだそうですが、どういうふうに詰めるかについては、花火師さんの企業秘密とされ、ほかの花火師さんには安易に教えたりしないのだとか。

花火師さんによっては、江戸時代からの老舗を名乗る人もいて、こういう花火屋さんには、たいてい秘伝書があるそうで、結構奥深いもののようです。

ヨーロッパの花火との違い

ところで、先日ロンドンオリンピックが終わったばかりですが、その開催式や閉会式のときに揚がっていた花火は、日本の花火とどこか違うのでしょうか。

これについても調べてみたところ、一般的に、日本や中国などアジアの打上花火は、打ち揚げ時に光が同心円状に広がるものが多く、花火玉そのものの形も球形をしています。これに対して、日本以外の国、とくに欧米諸国の花火は、打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形をしているんだそうです。

で、どう違うかというと、結論からいうと、日本の花火のほうがヨーロッパのものより高度な技術を使っているらしいです。

ヨーロッパなどでよく使われる円筒形の花火は、球形のものに比べ、火薬量などを増やすことができ、かつ華やかな光や色を出すことが可能ですが、玉が破裂して、中の星が広がっていく途中で、その色を様々に変化をさせていくのが難しいのだそうです。

これに対して、日本の花火も同心円状に広がり、色の変化も工夫次第によってはバラエティに富んだものにすることができますが、一方では製造が困難で、かなりベテランの花火師さんになるまでは、色とりどりの花火を打ち上げるのは難しいといわれます。

また、昔から日本では、花火を河川で打ち揚げることが多く、この場合、お客さんはあらゆる方向から花火を見ることになるため、花火を立体的に発光させなければならなかったのに対し、ヨーロッパでは、貴族の館など建物の裏から打ち上げた花火を庭で眺めるだけなので、観客は一定方向からしか見ないことが多く、このため、平面的な発光でもよかったのだそうです。

先日のロンドンオリンピックでの花火をテレビで見ていたところ、打ちあがった花火は円形状に見えていたように思いますので、日本などのアジアの花火師さんが入っていたのかもしれません。しかし、後述するように、イギリスも日本と同様、花火に関してはかなり古い歴史と高度な技術があるようですから、案外と国威発揚ということで、イギリス製国産花火が打ち上げられたのかもしれません。

日本では、伝統的に打上花火の「玉」の大きさは「寸」や「尺」であらわされます。一番大きいのは四尺玉(40号玉)で、二尺玉(20号玉)の花火の広がりが、直径約500m程度なのに対し、四尺玉は直径約800m程度まで広がるといい、世界最大の花火とされています。

ちなみに、日本テレビのバラエティ番組の企画で、うちあがった花火の直径が1000mになる巨大花火玉を作ったそうですが、花火玉自体が重過ぎたために、上空に達することができず、爆発。この企画は失敗に終わったそうです。ですから、この大きさの花火の打ち上げに成功すれば、まちがいなくギネスブックに登録されることでしょう。

花火の歴史

さて、花火の歴史ですが、一番古いものは、6世紀ごろに中国で作られたのではないかといわれています。10世紀ころだという説もあるようですが、いずれにしてもその発明の地は中国です。初期のものは、戦争のときに、ロケット花火のようなものを敵陣に打ち込んで火災を起こさせる目的でつくられたようです。

これが、ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、伝来以後、最も火薬と花火の製造に力を入れたのはイタリアでした。この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するために、王が催すイベントなどでうち揚げられたといいます。

その技術をさらに発展させたのはイギリスで、1532年に国王のヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録があるそうです。

また17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、より専門的な花火師集団が形成されていき、これと同時にイギリスの花火も進化していき、1672年には「花火研究所」までつくられ、1683年には花火に関するテキストが刊行されたそうです。

一方の日本ですが、花火に関するもっとも古い記録は、室町時代のお公家さん、万里小路時房の日記「建内記(建聖院内府記)」の中にその記述が出てくるそうです。1447年(文安2年)に書かれたこの日記の中に、お寺での法事の後に境内で「唐人」が花火を打ち揚げたという記事があるそうで、筆者の時房は「希代之火術也」と花火師をたたえ、褒美を与えたそうです。

1447年というと、室町幕府の6代将軍、足利義教の時代であり、そのころ再開されていた日明貿易により、中国から、花火が入ってきたのではないかと考えられています。

その後、16世紀に鉄砲が伝来して以降は、日本人の火薬の扱いも手馴れてきたとみえ、日本でも花火が製造されるようになりました。日本を訪れたも宣教師や「唐人」の手記などにも、日本でみた花火のことに触れた部分が見られるそうで、 1582年にポルトガル人のイエズス会宣教師が、現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録が残っているそうです。

しかし、この当時の花火は、現在でいうところの玩具花火程度だったようで、大量の火薬を必要とする、煙火花火の登場は、さらに下った江戸時代になるようです。

江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場します。1648年(慶安元年)には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったようです。現存する日本で最も古い花火業者は、江戸の宗家花火師「鍵屋」だそうで、1659年(万治2年)に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出しました。

鍵屋の初代弥兵衛は大和国篠原(奈良県吉野郡)出身であり、幼少の頃から花火大好き少年だったらしく、江戸に出てきてすぐに、葦の中に星を入れた玩具花火を売り出したところ大ヒット。弥兵衛はその後さらに研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号とするまで店を大きくし、以後、代々世襲するようになります。

その後大型花火の研究を進め、1717年(享保2年)には隅田川の水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げており、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。そしてこれがおそらく日本における打ちあげ花火の起源だと思われます。

鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋です。玉屋は鍵屋の手代であった「清吉」という人が、1810年(文化7年)に玉屋から暖簾(のれん)分けをしてもらい、「市兵衛」と名乗って、両国の広小路に店を構えたのが始まりです。

その後、鍵屋とならんで、江戸の二大花火師といわれるまでになり、その後、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになりました。花火が揚がるときの掛け声、「たまや~ かぎや~」はここから来ているんですね。

ところが、この玉屋、1843年(天保14年)に店から火を出してしまい、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼いてしまいます。当時失火は重罪でしたし、ちょうど将軍家慶が、日光の東照宮にお参りに出かける前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は財産没収になり、主の市兵衛は江戸追放となってしまったそうです。かわいそうですね~。

この当時、鍵屋や玉屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれたのに対し、大名らの武士は、配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げさせたそうで、これらの花火は町人花火に対して、武家花火と呼ばれました。

特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があったそうです。

武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、現代の打ち上げ花火のように、垂直方向の火花の変化に着目したんだそうです。片や町人販売のほうは、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした花火であり、この両者の長所をとりいれて発展してきたのが、現代の日本の花火技術です。

近代の花火

明治時代になると、海外からそれまでは国内にはなかった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化します。

1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事では、二重橋から多彩な色彩を持った洋式花火打ち上げられたという記録が残っており、このころから、打ち上げ花火は大規模な行事が行われるときに沿える「花」として定着していきます。

しかし、その発展とともに、事故も多く発生したことから、1910年(明治33年)には、その製造は許可制となります。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったそうですが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むようになります。

大正期にはさらに火薬の材料の工夫が進み、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになるとともに、大きな音を出させる発音効果を持つ花火も完成し、その技術はますます円熟していきました。

昭和に入り、戦火が拡大する中でも、出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていましたが、戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止。やがて物資の不足もあり、市中での打ち上げ花火も自粛されるようになり、そのまま終戦を迎えます。

戦後再開された、最初の花火大会は、1946年9月29日と30日に土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)だそうで、その翌年の1947年にも新憲法施行記念で皇居前広場で花火大会が行われました。しかし、皇居前広場での花火大会はこれが最初で最後のものになったそうです。

その後、1948年8月1日に両国川開きの花火大会が復活すると、戦後の自粛ムードを払拭するように日本の各地で花火大会が催されるようになります。復活した両国の花火大会では、GHQの統制により、わずか600発しか打ちあげが許可されなかったそうですが、平和な時代の再来を祝い、大輪の華に70万人の観客が歓声をあげたそうです。

その後、夏の夜空を彩る催しとして、お盆を中心とした時期に全国で花火大会が開かれるようになり、大きな行事があるときなどにも花火大会が並行して催されることなども増えてきました。

しかし、現在、日本のあちこちで行われる花火を手掛ける花火業者さんが儲かっているかというと、なかなかそうはいかないようです。その多くは零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっていることもあり、打ち上げ花火の製造には半年以上かかり、ほとんどの工程が手工業で量産は不可能だからです。

また、危険な業種でもあることから、手掛ける業者さんがなかなか増えず、花火大会開催の要請はあるものの、戦後の長い間、花火大会の数はあまり増えなかったそうです。1980年ごろでも、名のある主な花火大会は10~20くらいしかなかったとか。

しかしその後、安価な中国産の火薬や花火が大量に輸入されるようになり、1985年に鍵屋の十四代目、天野修という人が、電気点火システムを開発すると、少人数で比較的安全に花火の打ちあげができるようになりました。そして、このころから花火大会の数は激増。

日本煙火協会のホームページによれば、毎年花火大会が行われるなど継続性のあるものだけでも230カ所ほどあるそうで、このほかの小さなものや洞爺湖や熱海などのように、夏の間の一定の時期、ほとんど毎日打ちあげられるものも含めると、ものすごい数になると思われます。

そのうちのひとつが、先日我々も見に行った大仁の狩野川河川敷で行われた花火大会。間近で見れてど迫力でした。今年はもう、花火を見に行く機会もないと思いますが、来年は別のところの花火も見てみたいもの。とくに伊東で打ちあげられるという海上花火大会は一度みてみたいところです。

あっそうそう。我が家ではまだ、花火をしたことがありません。過ぎゆく夏が終わる前に、一度試してみたいと思います。煙火花火は無理ですが、玩具花火を試してみようかな。満天の星をみながら、ビールでも飲みながらやる花火も風情がありそうです。

打ち上げ花火にしようかな。いや、線香花火にしましょう。修善寺で初めて迎えた記念すべき夏の思い出を、ぜひもうひとつ作っておきたいものです。

沼津アルプス ~沼津市

今日の修善寺は、久々に朝から陽射しに恵まれ、遠くに見える富士山にも雲ひとつかかっていません。さすがにこの時期になるともう、雪はほとんどなくなっていて、山頂付近に、「!」という形の雪渓が一カ所ほど残っているのみ。富士山の初冠雪は、例年だと9月の下旬だそうですから、これからまだまだ暑い日が続くとすると、今見えている「!」も「・」くらいになってしまうのかも。

今年は、こうした積雪の様子を定点観測してきませんでしたが、来年からは定期的に写真を撮って記録してみようかな、などと考えています。

ところで、今ここから見えている富士山の真横、東側に見えている葛城山もその昔は、火山だったそうです。いまからおよそ1千万〜200万年前の海底火山の名残で、伊豆半島がフィリピン海プレートというプレートに乗っかって北上し、本州側のプレートと衝突、隆起してできました。

このとき、葛城山以外にも、西伊豆にあるほかの山々も隆起し、西伊豆の海岸沿いに南北に連なるこれらの山々を「静浦山地」と呼ぶそうです。この静浦山地、通称、「沼津アルプス」とも呼ばれていて、ハイキングコースとしてとても人気があります。

それもそのはず、その稜線からは晴れていればくっきり富士山が見え、かつその真下には黒々と横たわる駿河湾とそれを縁取る松林、そしてはるかかなたには南アルプスまでみえる絶景なのです。東京からもさほど遠くはない距離にあり、標高も500m内外と手ごろなため、週末には結構な人でにぎわうとか。

私自身は葛城山以外はまだ登ったことがないのですが、もう少し涼しくなって、富士山が毎日見えるような日が続くようになったら、ぜひこの沼津アルプスの縦走をやりたいと思っています。

この沼津アルプスの東側に、我々が住んでいる修善寺・大仁地域がありますが、ここからら北には、いわゆる「田方平野」が広がっています。この田方平野では、約6,000年前の縄文時代には、気候温暖化により海面が数メートルも上昇し、海水が流入したため、伊豆の国市の旧伊豆長岡町付近までは入江だったそうです。

現在は水が引いて長岡の町は畑と田んぼが広がるのどかな田園地帯になっていますが、縄文時代に住んでいた人たちの遺跡が、これらの田園地帯よりやや高い標高にある丘の中腹などにちらばっています。

このあたりにその昔、「伊都国」という「王国」があったらしい、ということはを前のブログ「伊豆の王国(伊豆歴史ものがたり)」でも書きましたが、確かに海にも近くて山もあり、海山のふんだんな食べ物が手に入りそうです。少し北上すれば、昔からの大往来である東海道筋にも出れるという立地は、畿内との連絡もとりやすく、王国を作るには適した土地のように思えます。

現在、この長岡の「江間」という地域は、「いちご」の産地として有名で、いちごが旬の2月中旬から3月下旬にかけては多くの観光客がいちご狩り目当てに出かけてきて、たいそうにぎわいます。

伊豆では、この長岡や韮山などの中伊豆のほか、東海岸では熱川や稲取でもイチゴ狩りを楽しむことができます。主流の品種は、「章姫(あきひめ)」と「紅ほっぺ」で、それ以外の種類を栽培しているところもあって、だいたい全部で6品種くらいあるそうです。1品種しか栽培していないところも多いみたいですが、施設によっては、いくつかの品種を食べ比べができるようです。

静岡といえば、昔は、章姫(あきひめ)が有名でしたが、今ではこの章姫の改良型の「紅ほっぺ」のほうが多く、平成20年度には82%を占めるまでになっています。この紅ほっぺ、果実は丸っぽくて色はかなり濃い赤色。しかもかなり中のほうまで赤く、甘みと酸味のバランスが良く、コクもあって、なかなかおいしいと思います。痛みにくいこともこの品種の特徴だそうで、東京や遠くからわざわざイチゴ狩りに来る人にとっては、鮮度が保ちやすいということもアピールポイントのようです。

ちなみに、静岡県のいちご生産面積は全国第6位(20年度)だそうで、一位から五位は、それぞれ、栃木、福岡、佐賀、熊本、長崎、です。なので、とりたててイチゴ栽培がさかん、というほどではなさそうですが、温暖な気候を利用してイチゴ栽培は昔から行われています。

おそらく静岡で一番有名なのは、久能山(現清水区と駿河区の間の海岸付近)の石垣栽培イチゴでしょう。ここのいちごの栽培は100年以上の歴史があります。石垣栽培とは、石垣の石と石の間にイチゴを植える栽培方法で、イチゴは2~3月の寒い時期に育てるため、温室のない明治時代にイチゴを栽培するためにはこの方法しかなかったのです。

いま現在は、石垣栽培をした上にさらに温室をかぶせたりしていますが、これは、いちごを育たるためというよりも、海岸から吹き付ける砂でイチゴ棚が埋もれてしまうのを防ぐためみたい。私は学生時代に清水に住んでいたので、よくここを通りましたが、石垣イチゴ棚を囲ったビニールハウスの半分ほどが砂で埋もれていたのをよく見ました。

昔は本物の石を使っていたようですが、現在は擬石コンクリートブロックを積んで、その間にイチゴの苗を植えています。全国的にもめずらしい栽培方法みたいで、イチゴ狩りを楽しむというよりも、その石垣を見に来る観光客も多いようです。

この久能海岸のすぐ裏手の山の上には、徳川家康の霊廟、久能山東照宮があり、さらにその先には富士山の絶景で有名な日本平もあることから、イチゴ狩りとこれらの観光地めぐりを組み合わせた観光ツアーが人気を呼んでいるようです。

イチゴのそのほかの栽培方法としては、土耕栽培や高設栽培があります。土耕栽培は、文字通り地面を耕して盛り土(畝:うね)を作り、黒いビニールシートで土を覆ってイチゴの苗を植える方法です。簡単でいい方法なのですが、地べたにイチゴができるので、ナメクジやほかの病害虫の被害も受けやすく、衛生面が気になります。

高設栽培というのは、地面より高い位置でイチゴを栽培する方法で、いろんな方法がありますが、ベンチのようなものの上に鉢を置いたり、これを何段も重ねて棚のようにしたもの、あるいはメッシュ状の板を立てかけて、その斜面上でイチゴを栽培したりするものなど、多種多様なものが開発されています。

イチゴは草丈が低いため、土耕栽培での収穫や葉かぎなどの作業は、中腰や膝を曲げた状態で行わなければならず、体に大きな負担がかかります。農家も高齢化が進んでいることもあり、これを解消するためには、作業姿勢の改善が図れる高設栽培を導入する農家が全国的にも増え、栽培面積が急速に拡大しているとのことです。長岡や韮山のイチゴ栽培もほとんどがこのタイプです。

さて、話がずいぶん飛んでしまいました。話の発端は葛城山です。標高は452mもあります。以前、このブログでも紹介しましたが、この山の山頂付近は、「伊豆の国パノラマパーク」として観光利用されており、山麓から山頂までロープウェイが運行されています。

山頂部からの眺めは最高で、晴れていればが、富士山や箱根山、天城山などがの絶景が楽しめます。また、ちょっとした食事ができる軽食レストランやアスレチックなどのほか、平安時代よりその名が確認されている葛城神社や、鎌倉時代から置かれているといわれる地蔵尊もあり、子供から大人まで楽しめる観光スポットになっています。

この山に登るには、ロープウェイが一番早いわけですが、健康的な方のために登山道が複数用意されています。そのひとつは、狩野川のすぐそばにそびえる城山(じょうやま)まで登頂し葛城山を目指すルートで、葛城山に登頂したあと、さらにその西側にある発端丈山に向かい、駿河湾に抜けることもできるみたいです。私も今度ぜひトライしたいと思います。

ところで、この城山(じょうやま)にはその昔、金山城というお城があったそうです。南北朝時代に「畠山国清」が作ったお城だそうで、修善寺に近くの城山(しろやま)にあった「修善寺城」と発端丈山の山頂の「三津城」の3城で鎌倉公方勢を迎え打ったという歴史があるとか。この地域の歴史といえば、狩野氏や北条氏、源氏のお話ばかりだと思っていたのが、また新たな人物が出てきたのにはびっくり。

この畠山国清という人がどんな人だったのかについては、また改めて調べ、ここで書いてみようと思います。案外と面白い歴史秘話があるかも。乞うご期待です。

8・15

本日15日は終戦記念日です。前々から気になっていたのですが、お盆の中日でもあるこの日が終戦記念日になったのは偶然なのでしょうか、それとも誰かが意図してそうなったのでしょうか。

8月15日といえば、昭和天皇の玉音放送で、日本の降伏が国民に公表された日ということで知られていますが、日本がポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告したのは、その前日の14日であり、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した日は9月2日ですから、終戦記念日は、8月14日でも9月2日でもよかったはずです。

しかし、実際には、8月15日が、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として終戦記念日に制定されたのは、この日を決めた当事者たちが、この日はお盆だし、戦没者を弔うためにもこの日がいい、と思ったからではないでしょうか。

このことについて、とくにいちゃもんをつけようとか言うつもりはまったくありません。が、記念日にするなら、いっそのこと国民の祝日にすればいいのに、と思うのは私だけでしょうか。

この日がお休みならば、その日を中心として夏休みもとりやすいし、休日だから会社を休んでまでお墓参りに行く必要はありません。しかも、祝日がないのは8月だけというのはあまりにも不公平? な気もします。もっと国民の祝日を増やせーと声を大にしていいたい。

ところで、8月15日って、過去にほかにどんなことがあったのかな~と気になったので調べてみました。すると、主だった事件として、以下のようなことがありました。

1534年 イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
1549年(天文18年7月22日) – フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1573年(天正元年7月18日)将軍・足利義昭が織田信長によって京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
1863年(文久3年7月2日)イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。
1914年 パナマ運河開通。
1947年 インドがイギリスから独立。
1948年 大韓民国が成立。
1964年 富士山頂レーダーが完成。
1977年 電波望遠鏡ビッグイヤーが特徴的な信号Wow! シグナルを受信する。

いずれも特に関連性はなさそうですが(あたりまえか)、イエズス会の発足と、フランシスコザビエルが日本にやってきた日が同じというのは面白いですね。また、インドと韓国が同じ日に独立しているというのも単なる偶然ではないような気もします(偶然でしょうが)。

「Wow! シグナル」というのは、アメリカのオハイオ州立大学の地球外知的生命体探査(SETI)チームが、電波望遠鏡で宇宙からの電波信号を受信したいたところ、突然、狭い周波数に集中した強い信号を受信し、これを詳しく調べたとろ、太陽系外の地球外生命によって送信された可能性が高いことが判明したという事件です。この信号は、72秒間もの間観測されたそうですが、以降の探査では同じような信号は受信できていません。

宇宙人がいるかいないかという議論は昔からされていますが、間違いなくいる!という決定打がなかなか出ないのは何故なのでしょうか。中には、その証拠が出てこないということが、すなわちいないということだ、と言う人もいるようですが、私自身はいると信じています。

ただ、本当に「宇宙人」というような形のあるものなのかどうかとなると、必ずしもそうでないような気がします。素粒子のように目にはみえないけれども物質であると科学的にも証明されているものがあるくらいですから、我々が視認できないような体を持った宇宙人がいてもおかしくないと思います。

もしかしたら、実はもう地球はそういう目に見えない宇宙人で満ち満ちていて、その宇宙人たちの影響で私たちの生活が成り立っていたりして…… 妄想は膨らみます。

しかし、私と同じようなことを考えている人は多いようで、意識や精神など霊的な存在のみ、または電気などのエネルギー信号のみで構成された、実体の存在しない生命体がいるのではないか、ということで研究を進めている学者さんもいるとか。

「スタートレック」の中でも、物質的な体を持たない高次元生命体がでてきましたが、高度な文明種族が生物種としてではなく、精神における「進化」を遂げて肉体を捨て霊的な存在へ変化した宇宙人もいるのではないか、と言われています。

こういう宇宙人のことを、アパリッショナル型宇宙人というのだそうですが、原語の「apparition」は、幻影、亡霊、妖怪、幽霊、魔物、魂魄、魂、幻姿、妖魔、怨霊とさまざまな意味を持っており、どちらかといえばおどろおどろしいもの、というかんじで、あまりいい意味ではありませんね。私的には、天使とか、妖精とかいう言葉のほうがぴったりくると思うので、分類名を変えたらどうかと思いますが。

このほかにも、エキゾチック型(異型)宇宙人という分類もあるのだそうで、これは、アパリッションな宇宙人のように形がないわけではなく、明確な物質で構成された身体を持つものだそうです。ただし、地球における高等生物のような形はとっていなくて、アメーバのようなどろどろとした流動体生物であったり、無機物で構成され、知性はあるが外見は固形物(鉱物)そのもの、といったものがこれに該当するそうです。

人間の目には見えるけれども、一見、宇宙人とは思えないようなものであることから、地球人には気づかれないまま、太古から地球に住んでいるのかも。案外と我々がウィルスだと思っているものが、知性を持つ生命体で、人類を滅亡させようと次々と新種になって現れ、我々の脅威になっているのかもしれません。

ま、いずれにせよ、我々地球上にある生命の形態は、地球の環境に適応して進化してきたわけですから、地球とまったく異なる異星の環境で進化を遂げた異星人は、我々の想像もつかないような特異な形態をしていたとしてもおかしくはありません。

「生命」という定義にあてはまらないようなものだっている可能性もあるわけで、そういう宇宙人とはどうやってコミュニケーションをとるのでしょうか。案外と、コミュニケーションをとるということ自体が、彼らにとっては無意味、なんてこともあるのかもしれません。

先日、NASAの火星探査機キュリオシティの着陸が成功しましたが、このミッションでは地球外における生命探査が最も重要なテーマだそうです。本当に生物がみつかればそれはすごいことであり、それによって地球外生物がいる確率はものすごい確率にまで上昇するとか。

この探査機が火星で宇宙人に遭遇する、なんてSFみたいなことは起こらないでしょうが、せめてほんの少しでいいから宇宙で地球人はひとりぼっちではないという証拠を見せてほしいものです。

今、夏の夜空では、ペルセウス座流星群の出現がピークを迎えているようです。昨日までは雨模様が続き、星など全く見えませんでしたが、今晩あたりはもしかしたら晴れるかも。久々に夜空を眺めてみたいと思います。もしかしたら、その流星に乗って地球にやってくる宇宙人がみれるかも。期待したいところです。