ストレングス・ファインダー

台風が過ぎ、秋の青空が戻ってきました。この台風がもたらした雨は、富士山頂では雪に変わり、今朝の富士山はその頂が真っ白になりました。まさに冬の女王が帰ってきたというかんじで、すごい風格です。

やはり雪の富士山はいいなーとつくづく眺めてしまいます。これからしばらくの間はお天気もよさそうなので、この真っ白い富士山を毎日眺められそう、と考えると幸せな気分になります。

さて、昨日はお天気が悪かったので家の中でいろいろ内業をやっていました。少し調べモノがあって、書棚の中を探していたら、その昔やった「性格診断」のような紙が出てきました。

なんだっけかな~と思って開いてみると、それは、「ストレングスファインダー」の分析結果でした。

ストレングスファインダーとは、アメリカのギャラップ社という企業マネジメント会社が提供している、性格診断テストのことです。この会社でマネージャーをやっていた、マーカス・バッキンガムという人と、ギャラップ社の元会長のドナルド・クリンという人が二人が開発しました。

なんでもギャラップ社という会社は、各企業の「社員教育」を任されている会社で、優れたマネジャーを育てるいわゆる企業コンサルタントというヤツです。

そしてそのコンサルタント活動の傍ら、およそ30年をかけて、分野を問わず、傑出した才能を持つ人たちに体系的な調査を行い、およそ200万人超の人にインタビューを行った結果、このテストを完成させたそうです。

このテストの目的は、それぞれの人が持っている「才能」を見つけ出そうというもので、それまでの調査の結果、その才能をみつけるためには、次の4つが手がかりになることがわかったといいます。

無意識の反応
切望
習得の速さ
満足感

「無意識の反応」というのはわかりにくいのですが、例えば、知り合いがほとんどいないパーティに出席したとして、そのパーティでどんな人と一緒に過ごすかを想像してみてください。このとき、初対面の人と過ごすだろうと思い当たる人は、「社会性」にすぐれ、一番親しい人が真っ先に思い浮かび、その人のそばを離れないだろうという人は「親密性」に長けている、と考えることができます。

別の例では、もし部下の一人が子供の病気を理由に欠勤の連絡をしてきたときに、あなたが部下に最初にどんなことを考えるかを想像してみてください。まず何によりも部下の子供のことが気になり、誰が看病しているのだろう、といった質問を部下に投げかけるような人は、「共感性」に優れているのかもしれません。

反対に、部下が欠勤することによって、その穴を誰に埋めさせようか、というようなことに真っ先に意識が向くような人は、種類の異なる複数の事柄に即座に優先順位をつけて整理ができる、「アレンジ」という才能に秀でているのかもしれません。

このように、何か問題が発生したときに無意識に考えたり、行動するその内容こそが、その人の「才能」を表している可能性があるといます。

二番目の「切望」は、とくに幼少期のころに現れやすい才能だそうで、例えばピカソは13才で美術学校に通い大人に交じって芸術を学んでいたそうで、また建築家のフランク・ゲーリーは、5才のときに父親が経営する金物店から持ち帰って木切れで、自宅の居間の床に複雑な模型を組み立てていたそうです。

また、モーツァルトが初めて交響曲を書いたのは12才の誕生日を迎える前のことだそうで、このように、子供のころにこれになりたい、あれをやりたい、という「切望」がその人の才能を開花させるエネルギーになるわけです。

こうした切望は、大人になるにつれ、社会のいろいろな義務によって押さえつけられ、やがては日々の生活の中に埋もれていってしまうことも多々ありますが、子供のころに何が得意だったか、を思い出すことによって、その才能が改めて浮き彫りになる、ということも多いようです。

三番目の、「習得の速さ」はわかりやすいですよね。どんな人にも、これだけは誰にも負けないくらい早く覚えられるし、できる、ということはあるものです。中には本人もその才能に気付いていなくて、ある日これ、やってみて、と言われたことが、これまでは一度もやったことのないにも関わらず、簡単にできた、なんてことはよくあります。

新しい仕事のためにしろ、新しい目標のためにしろ動機は何であれ、新たな技術を学び始めたとたん、配電盤のスイッチがすべてオンになったような感覚をもったことがある人は多いのではないでしょうか。

そして最後の「満足感」。これは簡単なようで難しい感覚です。自分が心して楽しんでいるかどうかはすぐにわかると思います。しかし、それを自分がどう自覚したか、その方法を誰かに教えてみろ、といわれたときのことを考えてみてください。単純ではないことがわかります。

多くの人が、満足感というのは、「感じているか」「感じていないか」程度のものであり、それがどういう感覚なのかを説明しろ、といわれると戸惑います。

しかしそんなことを言っていると、「満足感」を感じさせるための才能は何であるかをみつけることができません。なので、例えば「これはいつ終わるのだろうか」と考えているような仕事をしているときを想像してみてください。この状態はおそらく、才能を生かしていない状態ではないでしょうか。

一方、これからのことを考えたときに「いつまたこれができるか」と考えられるような仕事であれば、その仕事は自分に「満足感」を与える仕事ということになります。満足感を味わえるような仕事をしているその能力こそが、その人の才能のひとつと考えることもできるでしょう。

これらの、「無意識の反応」、「切望」、「習得の速さ」、「満足感」はいずれも自分の才能のありかを突き止めるための重要な手がかりです。

しかし、忙しい日々の中で立ち止まり、冷静になってこれらの手がかりを見つけるのはなかなか困難です。そこで、前述のマーカス・バッキンガムらはこれら4つの要素の調査結果をもとに、最終的にはその人の「強みになりうる最もすぐれた潜在能力の源泉を見つける」ことを目的とした一種のテストを作成しました。これが「ストレングスファインダー」です。

実はこの「ストレングスファインダー」のガイド本は、「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう
―あなたの5つの強みを見出し、活かす (原題:Now Discover Your Strengths)」という名前で日本経済新聞出版社から出版されています。大きな本屋さんに行くと「自己啓発」の項の棚にたいてい置かれていると思います。

最近テレビでもおなじみになった勝間和代さんも推薦されている本で、この本自体には自己啓発テストは、掲載されておらず、この本の中に記されているシリアルナンバーをもとに、インターネットでギャラップ社のサイトにアクセスし、ID登録した上でテストができるようになっています。

このシリアルナンバーは一人にひとつしか与えられないので、このために本を1冊買う必要があります。が、その価格1680円は、これで自分の才能がわかる、と思えば安いものなのではないでしょうか。

本のほうは、結構分厚く、全部で350ページ以上ありますが、その大部分はテストの結果から導きだされたそれぞれの「才能」の説明です。なので、全部読む必要はありませんが、前半部分を読むとこのテストの妥当性がよくわかります。

私もざっと読みましたが、なかなか論理的なテストだと思います。

このテストの結果導き出される才能は、全部で34もあり、それは、

アレンジ、活発性、運命思考、回復志向、学習欲、活発性、共感性、競争性、規律性、原点思考、公平性、個別化、コミュニケーション、最上志向、自我、自己確信、社交性、収集心、指令性、慎重さ、信念、親密性、成長促進、責任感、戦略性、達成欲、着想、調和性、適応性、内省、分析思考、包含、ポジティブ、未来志向、目標志向、

です。このテストは、その結果として、何が適職か、などは出てきません。しかし、その人が持っている上記の34才能と資質、そしてそれをどう生かしたらよいかについての説明があり、これらを読むことで、今後、「仕事に対してどう取り組めばいいか」が分かってきます。

ギャラップ社が長年に渡って実施してきた調査によると、仕事を最も効果的に行える人は、自分の強みと行動を理解している人たちだといい、こうした人たちは、仕事や家庭生活で日々求められていることをやりこなす戦略的な能力に優れています。

自分にどのような知識やスキルがあるかはある程度は分かっている人は多いと思いますが、自己の基本的な能力とは別に、こうしたテストを通じて自分の本来の資質に気付き理解することができれば、将来的などのような行動を取れば成功を収められるかも、おのずとわかってくるといいます。

「自分だけの特長的な資質」を強みとして成長させ、仕事やプライベートの両面で一貫してよい結果を出させることができるようになる、というのは素晴らしいことだと思います。

ちなみに、私がテストをやった結果は以下のとおりでした。

着想
戦略性
未来志向
運命思考
最上志向

上から順に強い資質だそうです。かなり端折ってまとめてみると、「着想」は、複雑に見える表面の下に、なぜ物事はそうなっているかを説明する、的確で簡潔な考え方を発見することができる能力。

「戦略性」は、いろいろなものが乱雑にある中から、最終の目的に合った最善の道筋を発見することができる能力。

「未来志向」は、常に未来に何ができるかというビジョンが見え、それを心に抱き続ける夢想家であるが、それゆえにそのビジョンを人にも分け与えることができる。

「運命思考」は、「偶然に起こることは一つもない」と考えているタイプで、人々の見えない力を敏感に感じ取り、平凡な日常生活の中に意味があるという安心感を他の人に与えることができる能力。

そして、「最上志向」は、平均以下の何かを平均より少し上に引き上げるには大変な努力をし、平均以上の何かを最高のものに高めるのにも同じように多大な努力をするタイプ。

どうでしょう。このブログを読んでいる方々には私のそうした資質が見えるでしょうか。私自身もおおむねあたっているようにおもいました。とくに、「着想」の部分ではとくになるほど、と感じます。こんがらがった事象を単純化して考えるのが好きみたいです。

タエさんにも、同じくテストをやってもらいましたが、タエさんの場合は、

運命思考
ポジティブ
学習欲
適応性
共感性

だそうです。二人に共通するのは「運命思考」ですが、この能力はスピリチュアリズムにも通じるものだと思います。お互い同じような能力を持っているところに惹かれあったのかもしれません。

彼女自身は、これ以外の「ポジティブ」や「共感性」の部分が特に納得できる部分だと言っていましたが、伴侶からみて「学習欲」はどうなのかな?とも思うのですが、テレビのクイズ番組は好きですね~。その他はおおむね当たっているように思います。

ちなみに、同じテストを何回もやるとどうなるか、という疑問は誰でも持つと思います。ギャラップ社によれば、この順位の変動は多少あるかもしれないが、ほとんどの人は、テストをやった年齢や生活環境、人種や性別の違いなどには左右されず、いつも同じ結果が出るといいます。

ただし、中学生以下では設問の意味が理解できないこともあるので、年齢としては14歳以上が対象ということでした。

今日の項を読んで、「ストレングスファインダー」に興味を持たれた方はすぐさま本屋へ直行してください。きっとあなたの隠れた能力が開花するきっかけになると思いますから。

細野高原へ ~東伊豆町

太平洋を進んでいる台風の影響でしょうか。昨夜は結構な量の雨が降り、今日の午前中は雨はやんでいましたが、午後からはまた時折激しい雨が降っています。こんな天気だと、ついおととい行った細野高原の爽やかさが懐かしくなります。

その細野高原について今日はその訪問記を綴っていきましょう。

まずその場所ですが、東伊豆町の「稲取温泉」という場所の山の手のほうになります。伊豆東急線に、「伊豆稲取駅」という駅がありますが、この駅よりほんの少し南へ下ったところにある「稲取文化公園」付近にこの高原へ登っていくための入口があります。

「東伊豆町観光協会」さんのHPによれば、この入口付近の135号線に案内看板が出ている、ということだったのですが、河津方面から北上してきた我々には案内看板がよくわかりませんでした。もしかしたら、一本手前の道を入ったのかもしれません。

この135号は通常でも交通量が多く、気を付けていないと見落としてしまうかもしれませんので、もし伊東方面からアクセスされる方は注意して入口をみつけてください。

この入口から細野高原へは延々とクルマで登っていきます。ふもとに近い部分は両側に民家が迫っている細い道で、クルマ二台がすれ違うのもやっとという場所や、明らかにクルマ一台しか通れない部分もあって注意が必要です。

この細い道のまわりにある民家ですが、どこの家も、きれーいに組まれた石垣の上に整地された土地にたっていて、この石垣がまたどちらのお宅も見事な出来栄えなのです。

おそらく、東伊豆ということもあり、台風などの嵐が来たときにはかなりの強風が吹くための対策だと思われますが、こんなにきれいな石垣をみたのは、昔沖縄へ行ったとき以来かもしれません。

沖縄も台風がよく通過するところであり、ここ東伊豆もそれは同じなのでしょう。災害の多いところに住んできた先人からの知恵のたまものなのでしょうが、それにしても見事な石垣だと、妙に感心しながら上へ上へと登っていきました。

そんな石垣もだんだんと高度を稼いでいくと徐々にみられなくなっていき、かなり標高を稼いだなと感じたころからは全く民家はなくなり、路の両脇は生い茂った杉林や雑木林になります。

その後はひたすらこの林間の間の道を上っていくのですが、ふもとの民家の間を上っているとき以上にこの道は細く、時折、既に上の高原訪問を済ませて下ってきたクルマともすれ違いましたが、場所によってはすれ違うことのできないような場所もあり、ガードレールもなく、運転には気を遣います。

おそらくはこのアクセスの悪さが細野高原の知名度が上がらない原因なのだと思いますが、仮にもっと知名度が高くなって、この道に乗用車がひしめいたら、事故が起こるのではないかと心配になってしまいます。

我々が行ったのは平日だったためそこそこの車の量で済みましたが、週末の土日などにはもっとたくさんの車であふれかえっているのかもしれません。これからもし週末に行かれる方があれば、ご注意ください。

さて、延々と林間の道を上り続けることおよそ10分ほどでしょうか。突然、視界が開け、その先には駐車場のようなものが見えてきました。この駐車場、まだできたばかりのようでかなり真新しく、そこには「イベント会場」の看板があり、東伊豆町の観光協会の方らしい人が空いている駐車場を指示してくださいました。

あとで知ったことなのですが、クルマで来た人はここまでが限度で、このあとさらに上に楽して登りたい人は、観光協会の用意する乗り合いタクシーに乗って、さらなる上の「三筋山」まで直下まで行けるのだとか。ススキのシーズンである10月末までこの措置が取られるようで、やはり週末などに観光客が殺到するためかと思われました。

ただし、観光協会の方がこの駐車場を管理されているのは、午後3時までだそうで、そのあと、頂上の三筋山までクルマで行く人は、「自己責任」をとれる方ならば入山してもかまわない、ということになっているそうです。

既に書き忘れていますが、そもそもここ細野高原とは、天城山の一部である三筋山(みすじやま)、大峰山(おおみねやま)、浅間山(せんげんさん)などを三方に囲まれた標高400~500mの山の上にある草原地帯です。

ススキの原として最も観光スポットとなっている細野高原からはさらに上の三筋山まで乗用車で乗り入れができる道路が造られていて風光明媚な場所なのですが、知る人ぞ知るで、あまり一般の観光客は来ないようです。

これだけの高所にクルマで上がってこれるのに、あまり観光客が来ないのはやはり途中のアクセス道路が狭いためでしょう。我々が訪問したときのような秋のススキのイベントがないときには、さらに制限なく標高800m超の三筋山頂上直下までクルマで行けるわけですから、もっと人気が出てもよさそうなものです。

おそらく伊豆稲取という場所も、伊豆高原や下田の間にあってマイナーなため、あまり人に知られてこなかったのでしょう。

この三筋山頂上ですが、ここは、パラグライダーの基地にもなっていて、そこから眼下にみえる相模湾に向かってダイブ!ができるようです。、高所恐怖症の私などは聞いただけでも足元がぞわぞわしそうなスポーツですが、こういうことが好きな人にはたまらないレジャースポットになっているようで、これも知る人ぞ知る、らしいです。

我々が行ったこの日にはパラグライダーで飛んでいる人はいませんでしたが、おそらく休日にはこちらの方面の方々でも賑わうのでしょう。このパラグライダー客のためか、草原のあちこちに風向・風速がわかるようにと、目印を兼ねた吹き流しが立ててありました。

さて、駐車場に車を止めて、いざ入山しようとしたところ、どうやら入山のためには「入山簿」に記入をしなければならないようです。協会の人たちが建てたプレハブの前にはその入山簿が並べてあり、係の方からそこに記入をするよう促されました。

駐車場のすぐそばにある看板によると、この入口の駐車場がある付近だけでも400m近い標高があるようで、三筋山の頂上の標高は前述のとおり800m以上もあります。この日のように天気の良い日ばかりではなく、天候の悪い日もあり、この頂上ではこれから10月も下旬に入ればさらに頂上の気温は下がります。

その頂上付近までクルマでアクセスできることもあり、観光客の多くは気軽に平服で登ってきますが、この入山簿への記入は、こうした観光客が天候の悪い日に遭難しないとも限らない、という配慮からなのでしょう。わかる気もします。

ということで、おとなしく言われたままに住所と電話番号を記入し、いざ「入山」です。といっても、我々も薄着の長そでとジーパンに町歩きの普通の靴を履いての登山ですから、おのずと登れる距離は知れています。

協会の方から渡されたパンフには、三筋山の頂上まで登って帰ってくるロングコースと、細野高原の周りをぐるりと回ってくるミドルコース、そして細野高原を横断して、主だったところを見るショートコースの三つが書いてありました。

前述したように、三筋山の頂上までは協会さんが用意した乗り合いタクシーで行けるのですが、協会の係の方からの詳しい説明を聞きそびれたため我々はそのことを知らず、時間的にも午後2時近くになっていたことから、中間のミドルコースをとることにしました。

中間のミドルコースとはいえ、最高標は600mくらいになるようです。駐車場から見上げると上のほうにその到達地点らしい東屋のようなものも見えます。

さっそく駐車場脇の手続き場所から一歩高原のほうへ足を踏み出しましたが、そこだけでももう別世界!でした。行く手の三筋山のほうを見上げると、その頂上までのほとんどの部分が薄い緑色の草原地帯となっていてその直下のあたりから、白く光るススキの原が広がり、それが盛り上がり下がりしながら、なだらかに連なりながら今我々が立っているレベルまで降りてきます。

三筋山からやや左手の南側へ目を向けると、そこには三筋山から流降りる優雅なスロープがあり、ここもススキで覆われた草原地帯になっています。ところによりそのスロープに針葉樹林帯が残されていて、太陽のシルエットとなって影のように立ち並んでいます。逆光の太陽に照らされた目の前のススキの原とこの黒々とした針葉樹林は絶妙のバランスをみせており、なかなか絵になります。

そして、すぐ自分たちの立っている間近の足元に目を落とすと、その平面は見渡す限り、ほぼ100%ススキの原であり、強い逆光の中、ときおり強い風に揺られて一斉になびくその様子は、映画でみた「風の谷のナウシカ」のラストシーンのようです。

振り返って、今まで登ってきたふもとのほうを見ると、眼下にはぼんやりと青い色の海がみえます。相模湾です。左手のほうには、この相模湾からの強い風を受けることで発電をしようとするのでしょう、大きな白い風車も見えます。

さらに北側には、青々と連なる山々も見えます。大昔この細野高原や三筋山を形成した、天城火山の名残の山塊です。こちらの方向にはススキの原は多くはありませんが、青々とした天城山塊とその前に連なる針葉樹林帯、そして手前にみえる若干のススキの原はこれはこれで絶妙な組み合わせです。

この細野高原の全体の広さは、東京ドーム26個分ほどもあるそうで、箱根の仙石原にも広大なスススキの原がありますが、それと比べても7倍の広さがあるとか。

こうしてその夢のような世界をゆっくりゆっくりと歩いて堪能し、二時間ほども歩きましたでしょうか。まあどこもかしこも絵になること甚だしく、気がつくと写真を300枚ほども撮っていました。

この細野高原の生い立ちなのですが、そもそも数十万年前このあたりは、天城山が噴火を繰り返して流れ出た溶岩で埋め尽くされた場所であり、原始の天城山塊の一部でした。

その後長い間をかけて、この原始天城山は浸食を受け続け、また断層の活動変化を受けることで、その中から三筋山・大峰山・浅間山などの高まりが「洗い出され」ます。そして、これら三つの山々の間には、凹地や緩傾斜地が形成され、それが現在の細野高原になったそうです。

もともとが火山由来なため、この高原地帯は大雨が降ったときには火山灰や火山土が雨と混じって泥水になって山を下り、これが「稲取泥流」と呼ばれるものです。この泥流はやがて各所に堆積し、それが土石流堆積物で覆われた今の広い高原を形成しました。

この堆積物中には泥質分が多くて水はけが悪いため、地表に湿原がつくられて水辺の植物が生育し、そしてその中でもススキが卓越種となり、現在のようなのススキで覆われた「細野湿原」が誕生しました。

確かに、草原のあちこちには沢水が流れていて、確かに「草原」ではあるのですが、「湿原」でもあることがわかります。ススキのような水辺を好む植物が大繁殖したのもその水はけの悪さゆえんのことのようです。

細野湿原は県内の湿原の中でも自然状態が最もよく残されているそうで、「タヌキモ」や「ミミカキグサ」などの食虫植物のほか、多くのラン科の植物や絶滅が危惧される貴重種も数多く生育しているとか。オオタカやハイタカなどのタカ類の狩場ともなっているそうで、こうした猛禽類が捕食する小動物もかなり多そうです。

昭和54年7月に、東伊豆町指定文化財(天然記念物)となり、保護・保全されてきましたが、その希少性が評価され、平成8年3月12日には静岡県指定の文化財となりました。

我々が訪問したこの日は、夕方まで上天気で、しかも時間帯が日暮れ近いこともあって、風になびくススキの原が夕日の逆光にあたって映える絶景が数多く撮影できました。その全部はご紹介できませんが、一部をこのブログでも紹介してみましたのでご笑覧ください。

これを見て、細野高原へ行ってみたいと思った方は今がおすすめです。10月末までいろんなイベントもやっているようですから。ぜひ行ってみてください。まさに「知られざる観光スポット」だと思います。

以下に東伊豆町観光協会のHPからの抜粋をそのまま掲載しておくのでご参考ください。なお、私自身は観光協会さんから一銭も宣伝費を頂戴しているわけではありませんので、ご承知おきを。

開催期間:平成24年10月1日(月)~10月31日(水)

■開催時間:9時~15時(雨天中止)

■イベント詳細:
稲取細野高原の大自然を楽しんでいただけます。イベント広場ではすすき狩り、マウンテンバイクの貸出、すすきソリすべりなどご用意いたしております。また、希望者にはイベント広場から絶景が眺められるポイントの三筋下駐車場までタクシーが運行しております。(片道10分)(環境保全協力金として1名200円の協力金のご負担をお願いいたします。)

■交通手段:
伊豆稲取駅から稲取細野高原イベント広場行きの無料ピストンバスが出ます。帰りの便は稲取文化公園を経由します。なお、バスは先着順となり、予約制ではありませんのでご了承ください。バスに乗りきれなかった場合はお手数ですが有料タクシーにてご来場ください。

■細野高原イベント広場駐車場:
乗用車37台、身障車1台、マイクロ(中)3台 (トイレあり)お車でお越しの場合、伊豆稲取駅より車で約15分です。

*イベント開催期間中は細野高原イベント広場より先はお車の通行ができませんので、イベント広場駐車場にてお車を駐車してください。

下田街道 ~下田市

今朝の富士山は朝から笠雲がかかっていて、それが時間の経過とともに次第に大きくなってきました。富士山に笠雲がかかると天気が悪くなるといいますが、案の定、午前中は上天気で青空が見えていたものが、お昼過ぎからは掻き曇ってきて、今にも雨が降りそうです。「笠雲予報」的中です。

今日はこんな天気なのですが、昨日は朝から上天気で、天気予報も午後いっぱいもお天気が続く、ということだったので、かねてから行こうと思っていた、東伊豆町、稲取にある細野高原に行ってきました。

ここ修善寺からは、県道12号を使っていったん東海岸の伊東へ抜け、ここから135号を南下する、という方法もありますが、修善寺から真南方向へ延びる、「下田街道」を通って河津へ抜け、ここから北上して目的地へアクセスする方法もあります。

後者のほうが、距離的には近いようなので、今回もこの下田海道を使うルートで細野高原まで行くことにしました。下田方面へは、今年の6月に河津のバガデル公園と下田公園へ続けざまに行って以来になります。

6月にはまだ新緑が残っていて初々しいかんじの山肌でしたが、もう10月ともなると深緑のころさえ過ぎ、あちこちで色づく木々も垣間見えて良いかんじです。まだ紅葉には早いようですが、もう少しすると天城の山々も紅葉がみごろになるのでしょう。

この近辺では、修善寺温泉街と虹の郷の紅葉が見事だと聞いているのですが、そのほかにはどんなところが紅葉のみどころなのかまだよく把握していません。これからリサーチして、また穴場などがあったらぜひ紹介してみたいと思います。

さて、この下田街道ですが、別名は天城街道ともいい、その起点は東海道の「三島宿」のあった三島の「三島大社」です。ここから136号線を南下して、伊豆の国市韮山・大仁を経て、伊豆市修善寺、そして湯ヶ島に至ります。

ここまでは比較的平坦な道なのですが、ここからは国道の名前も141号線に変わり、と同時に険しい登りの山道となり、下田街道の最高標高地点の天城峠(標高638m)を越えてからは下り道となり、河津町の湯ヶ野に至ります。

河津町はもうすぐ近くに海があります。現在はここから下田まで海沿いの道路が建設されていますが、江戸時代にはこの海岸沿いのルートは開発されていなかったため、下田街道は、湯ヶ野からはさらに、峰山という峠を越え、下田市北部の町、箕作・河内を経てからようやく下田市街に至ります。三島からの通算距離は、合計「十七里十四町二十一歩」だそうで、現在の距離に換算すると、だいたい66kmほど。

この距離を歩くとすると、仮に一時間に4km、一日8時間ほど歩いたとして32km。二日ほどで三島へたどり着くことになります。が、江戸時代には道の状態もまだ悪く、またアップダウンの激しい峠道であること、また天候の変わりやすい天城山中であることなどなどを考えると、健常者でも三島から下田まで4~5日はかかったのではないでしょうか。

とはいえ、江戸時代の初期にはまだこの下田街道はなく、北伊豆から遠く隔てられた南伊豆へ行くには海路のほうが便利であり、南伊豆の人たちは物資の輸送もすべて海運に依存していたようです。陸路である三島~下田間の下田街道が整備・発達するのはもっとあとの江戸中期のことになります。

江戸幕府成立直後の江戸時代の初めには、伊豆国のほとんどは「天領」でした。その後1690年代ころに、伊豆の最北部には「沼津藩」が設けられ、また東海道沿いに「掛川藩」、「小田原藩」などの幕府直参でない藩も置かれるようになりました。こうして「外野」が騒がしくなってきたことから、天領であった伊豆にも各藩の藩士が頻繁に足を踏み入れるようになります。

その後1700年代以降には伊豆でも旗本領が設置され、このため下田街道にも「継立場(つぎたてば)」と呼ばれる茶屋が設けられるようになります。これができたことで安心して下田へ向かうことができるようになったため、幕末に至るまでにはさらに通行人の数が増大し、街道は更なる盛況を呈したようです。

この継立場(つぎたてば)ですが、単に「立場(たてば)」または継場(つぎば)ともいわれ、江戸時代の主だった街道(五街道など)やその脇街道に設けられた施設で、「宿場」よりも小さいものをさします。

江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町で、現在では役所のある大きな市や町に相当するものです。しかし、宿場と宿場の間の距離がかなり遠い場所もあり、街道を歩くための利便性を増すため、次の宿場町が遠い場合にはその中間地点や、また途中に峠のような難所がある場合はそこに「立場」と呼ばれる休憩所が置かれるようになりました。

最初のころはその周辺の町民が経営する茶屋や売店が設けられていただけで、俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種でした。しかしその後、馬や駕籠の交代を行なうような機能も備えるようになり、やがて街道を管理する諸藩などが手がける半公営の立場なども造られるようになりました。

現在、我々が日常会話でよく使う、「立場がない」の立場(たちば)はこの立場(たてば)のことで、立場がないので街道の往来がままならないという意味がその後、「面目が立たない」という意味の現代の用語になっていったようです。

立場の中には、次第に宿場に近いほど大きくなるものもあり、やがて大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたものは、その後「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれました。

中には小さな宿場町よりも大きくなる立場や間の宿もでてきましたが、江戸幕府が直接管理し、保護された「公営宿場」とは異なり、あくまで「私的な宿場」であり、そこが博打うちたちのたまり場になったりしないよう、厳しい制限が設けられていたといます。

江戸時代に、下田街道で、継立場があった場所は、以下のとおりです。

原木村(伊豆の国市原木)
大仁村(伊豆の国市大仁)
湯ヶ島村(伊豆市湯ヶ島)
梨本村(河津町梨本)
芽原野村(下田市須原)
箕作村(下田市箕作)

これらの立場の多くは現在も大きな町として存続しています。下田街道だけでなく、ほかの地域においてもその昔、宿場ではなかったものの、宿場と宿場をつなぐ中継地点として存続し、比較的大きな町として残っているものはその昔継立場または、間の宿であった可能性が高いといいます。

下田街道にできた立場は、ここを通る通行人にはもちろん便利なもので、これが設置された沿線の村々の人々にとっても、これによる副収入が得られるため当初は喜んで立場を運営していたようです。しかし、次第に通行人が増えるにつれ、通行人にとってはなくてはならないものになり、やめるにやめられなくなったようです。

逆に馬や駕籠、食事の用意などの立場としての機能も増え、これを経営していくためには経費もかかるようになります。これを維持するのがやっとという立場も多かったらしく、そうした立場の経営者には明治時代に至っても江戸時代に重ねた多大な借入金が残ったといいます。

その後、明治になると馬車などの交通機関も発達するようになり、次第に下田街道の様相も変わってきます。主だった変化を時系列にみると、次のようになります。

1880年(明治13年) 北伊豆で馬車が走る。
1899年(明治32年) 豆相鉄道が敷設。三島~大仁間に鉄道が通る。
1905年(明治38年) 旧天城トンネルが開通、自動車でも通れるようになり、難所の天城峠越えが解消。
1916年(大正5年) 「下田自動車」が下田~大仁間に米国製乗合バスの運行を開始。
1924年(大正13年) 駿豆鉄道(前豆相鉄道)が大仁~修善寺間で鉄道運営開始。
1933年(昭和8年) 伊東~下田間の東海岸道路が開通。この後、伊豆半島の陸路は東海岸道路が主となっていく。

上述のように昭和のはじめに東海岸道路が開通する前までは、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心でした。しかし、東海岸道路が開通するころから、道路を利用して物資が運搬されるようになります。

そして、1961年(昭和36年)に伊豆急行線が伊東から下田まで開通すると、伊豆は一躍観光地としてクローズアップされるようになるとともに、伊豆を縦断する物資の輸送は完全に陸路が主体となり、伊豆の海運業は衰退していきました。

現在は、三島から修善寺までの伊豆中央を縦断する駿豆線と東海岸の伊豆急行線、そして網の目のような道路によって、大勢の観光客が伊豆を南北に往来するようになり、江戸時代には主要な交通路として、下田街道一本だったころと比べると隔世の感があります。

この江戸時代に天城峠をこえて、下田まで行った、あるいは下田から北へ向かった主だった有名人は以下のとおりです。

1793年(寛政5年) 老中松平定信、海防巡視のため。
1810年(文化7年) 富秋園海若子、伊豆全体を歩く。「伊豆日記」を執筆。
1824年(文政7年) 浦賀奉行小笠原長保、下田巡見のため。「甲申旅日記」執筆。
1854年(安政元年) 勘定奉行川路聖謨、日露和親条約折衝。「下田日記」を執筆。
1857年(安政4年) 米国領事タウンゼント・ハリス、江戸へ日米修好通商条約折衝。「日本滞在記」を執筆。

富秋園海若子(ふしゅうえんかいじゃくし)という人は、女性かとおもったら男性のようで、寛政年間(1789~1801)には、幕府の命により八丈島で数年間代官をつとめたことがあり、江戸の湯島に住んでいたそうです。

文化7年(1810)の秋、およそ1ヶ月がかりで伊豆半島各地を旅し、その旅行記が「伊豆日記」として、1821年(文政4年)に木版本で刊行されました。その後、1915年(大正4年)にも復刻版が出て、昭和50年にも修善寺駅前になる長倉書店から、復刻版が限定発売されたといいます。

天城峠を越えた初めての外国人はおそらくハリスでしょう。ハリスはアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられ、1856年(安政3年)の8月に、伊豆の下田へ入港。幕府と折衝の末に正式許可を受けて、下田の「玉泉寺」というお寺に日本初の領事館を構えました。

下田ではさらに薪水給与や和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年(安政4年)5月には下田協定が調印されます。そして、さらに大統領親書の提出のためにハリスは重ねて江戸出府を要請し続けていましたが、幕府はこれを拒否。

しかし、同年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可します。こうしてハリスは通訳官のヒュースケンらとともに、1857年10月に下田を出発し、江戸へ向かうのです。

ハリスらは、星条旗を先頭に350人の行列を仕立て、7日下田を出発。河津の梨本に泊まって翌8日に天城峠に向かっています。以下は、このときハリスの一行が江戸に向かうために、天城峠を越えたときの様子を、後年ハリス自身が「日本滞在記」として記したものの邦訳です。

「午前8時に出発、今日は天城山を越える。高さ3500尺。路は余りに険阻で、私は馬から降りて駕籠に乗らなければならなかった。路は往々にして35度もの角度を成し、8人で担ぐ駕籠棒の長さ(22尺)に満たないほど曲がりくねったところもあった。山は糸杉、松、樟などの見事な樹林で覆われ、蘭科植物も豊富で植物学的に大きな収穫があった。」

この当時の下田街道の険しさがよく伝わってきますが、このとおり天城峠はその昔から旅人を苦しめる最大の難所でした。

とくに峰と峰をはさんだ「天城六里」という区間は峻嶮な峰が「屏風のような障壁」と形容され、旅人は喘ぎ喘ぎ急坂を上り、狼の足跡におびえながら、灯り一つない峠で苦難の旅を強いられたといいます。

そんな伊豆半島最大の難所も、明治38年の「旧天城隧道」の完成でようやく解放され、ここが川端康成の小説「伊豆の踊子」 や、松本清張の「天城越え」の舞台になりました。そして昭和45年には、さらに上下二車線の新天城トンネルが開通することにより、旧天城隧道はその役割を終え、下田はより近くになりました。

昨日、我々もその新天城トンネルを抜け、東伊豆稲取に向かい、細野高原をめざしました。その詳細はまた明日以降書いて行こうと思います。

秋の夕空に ~西伊豆町

今年3月に伊豆に越してきてから、先週の11日でちょうど7ヵ月になりました。東日本大震災があった日と同じなので、この日になると毎月のようにテレビでなんらかの追悼の番組やニュースをやっていて、その都度、ああ○ヶ月経ったか……と思い起こされます。

我々にとっては記念すべき日ですが、被害に遭われた方々にとっては忘れられない日であり、「記念」という言葉は軽すぎて、使うのもはばかられます。「記憶に残すべき日」という意味なのでしょうが、どうもこの「記念日」というのは良いことがあった日という意味合いのほうが強いような気がします。

「終戦記念日」は、戦争が終わったのでこれを祝うという意味合いで記念日なのでしょう。片や「関東大震災」のあった日は、「震災記念日」というのでしょうか。あまり言わないような気がします。

事故や事件、災害はいったいいつになったら「記念日」と呼べるようになるのでしょうか。東北のこの震災の日も「記念日」と呼べるようになるまで、あと何十年もかかるのかもしれません。もしかしたら、我々が生きているあいだにはとても記念日などとは呼べないのかも。

さて、その我々の引っ越してきた伊豆では、最近よく空を見るようになった、というのは口癖のようによくこのブログでも書いてきました。四六時中空を眺めているわけではありませんが、毎朝今日は富士山がみえるかな、と遠くの空を眺めるのが習慣になっているせいか、そのついでに富士山とは違う方向の空を見ることも多くなったためでもあるようです。

そのせいかわかりませんが、山を下りて普通に市街を通っているときも空が気になります。とりわけ、夕日のきれいなときには、空を仰ぎたくなり、ふとみると、真っ赤な夕焼けで染まっていることもままあります。

昨日の伊豆もそうでした。最近見たこともないようなウロコ雲が真っ赤に染まり、えも言われないような色合いでした。残念ながらカメラもケータイも持参していなかったのでこの美景を記録できませんでしたが、これからはちょっとした外出でもカメラを携帯することを心掛けたいと思ったものです。

この夕焼けですが、なぜ赤く見えるかというと、その原因は夕方になると太陽の入射角が浅くなるため、その光が通過する大気層の距離が長くなるためだそうです。

太陽が普通に空の上を通過しているときには、太陽と自分の間にある空気層の長さは限られていますが、夕方近くになって太陽が水平線(地平線)に沈むころになると、太陽までの距離は「無限大」とまではいいませんが、天上にある時と比べればはるかに遠くなります。

太陽の光のうち、青い光は障害物に衝突すると吸収されやすくなるため、この大気層の距離、言い換えれば空気の厚さが増せば増すほど、青い光だけが減少していき、代わって黄や橙、赤などの光だけが目に届くようになり、太陽が沈む方向の空が赤く見えるわけです。

……と、理論で説明されるとなんとなくわかったような気にもなるのですが、じゃあ何故毎日夕焼けを見ることができないの?と聞かれると答えに窮してしまいます。

その理由はどうやらその夕方になると太陽までの距離が長くなる大気層に含まれているチリやらなんやらの不純物のせいのようです。

大気中にそういう不純物が多ければ多いほど赤くなるのだそうで、1883年には世界中で鮮やかな夕焼けが確認されましたが、これはその年に噴火したインドネシアのクラカタウ火山の噴火で大気中に障害物が撒き散らされたためです。

大気中の不純物が多ければ多いほど、はるかかなたに沈む太陽からの赤い光がその不純物にあたって、あっちこっちに散乱しやすくなるため、きれいな夕焼けになる、ということのようです。

夕焼けになると翌日はお天気になることが多いとよく言いますが、これは「不純物が多いにも関わらず遠くにある太陽が見える」ということであって、夕焼けが起こるときにははるかかなたの西の空の空気も澄んでいる(けれどもチリは多い)。その澄んだ空気がやがてやってくるということなのでしょう。

このあたりになると説明していてもなんだかわからなくなってきてしまいますが、これ以上によくわからんのが同じく空気がきれいなところでよくみられる「グリーンフラッシュ」という現象で、これは見通しの良い場所で、夕焼けや朝焼けの太陽の上端が緑色に光る現象です。

このグリーンフラッシュが見える条件として大事なのは、ともかく「空気が非常に澄んでいること」だそうで、こうした環境下では通常より大気層に青い色があまり吸収されず、とくに緑色の光は届きやすいのだとか。

そして、夕日が沈む直前に赤色の太陽が地平線(もしくは水平線)で隠されたとき、太陽の中央は赤いにもかかわらずその周辺の一部では緑色の光が透過できる部分があるためこの部分だけが緑色にみえ、「瞬く」のだそうで、非常に稀な現象だということです。

そこまで稀だ非常に珍しいとか言われると一生に一度でいいからどんなふうに見えるのか見たくなります。

しかし、空気がきれいなところということになると、当然高い山の上か離島のような場所になってしまいます。高い山の上にはあまり人は住んでいないことから、やはり目撃されるのは島であることのほうが多いようで、日本では小笠原諸島、身近な外国としてはハワイやグアム島で比較的多く目撃されているとか。

ハワイやグアムでは、グリーンフラッシュを見た人は幸せになるという言い伝えがあるのだそうですが、私がハワイにいたときには見た記憶がありません。幸せにはなるにはまだちと修業が足りないのかも。

日没や日が昇る時にはこのグリーンフラッシュ以外にも「珍現象」が見られることが多いようで、そのひとつに、「太陽の蜃気楼(Sunset Mirage)」というのがあり、これは、太陽が「ダルマ」状になって二つ重なって見える現象です。

これを見ることのできる条件としては「蜃気楼」と同じように太陽の見える方向の空気の層に温かい部分と冷たい部分があること。この二つの空気層が重なることで、大気中に一種の「プリズム」のようなものができ、これによって遠くにあるものが複数以上みえるようになるみたいです。

沈む太陽が二つ見える、というのは何か「ラッキー」なかんじしますよね。きっとどこかの星では太陽が二つあって、それが別々に沈むのが見えたりもするのでしょうが、それもきっと幻想的な景色でしょう。

ちなみに、火星の夕日は地球の夕日とまた違う意味できれいらしいです。火星の大気にはチリが大量に含まれているので、このチリの影響で長い波長の散乱が常に卓越するため、地球とは反対にピンクの空の中を夕日が沈んでいき、その夕日の色はなんと青い!のだそうです。もし生きているうちに火星旅行が日常になったら、こちらもぜひ見てみたいものです。

さて、この夕焼けですが、日本では秋の夕焼けはとりわけ美しいそうです。その理由は秋になると大気がカラッとしてきますから、大気中の水分が少ない、つまり空気が澄んでいるという状態が多くなるためです。

空気が澄んでいればより遠くまで見通せるようになり、夕方にはとくに遠くに沈む太陽との間にある大気層に青い光が吸収されやすくなります。そして、条件が整えば赤っぽい光がそこにあるチリに散乱され、きれいな夕焼けになるというわけ。

また日の長かった夏に比べて、仕事が終わるころにはもう真っ暗になっていることも多い秋ですから、夏に比べて日没をより意識しやすくなるため、夕焼けを目にすることが多くなるともいいます。

この夕焼けは芸術家たちのインスピレーションも掻きたてるようで、歌や文学でも夕日にちなんだものも多いですよね。動揺の「赤とんぼ」や「夕焼小焼」もそうですし、映画の「オールウェイズ三丁目の夕日」なんてのもありました。

フランスの画家、フランソワ・ミレーの「晩鐘」も夕日の中、一日の農作業を終えた夫婦がお祈りをしている場面を描いたものですが、なんともいえない秋の哀愁が表現されていて見ている人の心をゆさぶります。

そういえば北島三郎の「与作」も一日の労働を終えたあとの歌でした。「よさぁくぅ~よ~さぁくぅ~、夕日がぁ泣いている~ ホーホー」でしたっけ。きこりの与作が夕日の中で斧をふるう手を休めて夕日を眺めているのが目に浮かぶようです。昔、会社勤めをしていたころ、仕事が終わるとよくこの歌を口ずさみながら、帰宅していましたっけ。

それにしても、日没や夕焼けをみることができる時間というものは、ものすごく短いものです。昨日我々がみた素晴らしい夕焼け空もクルマを走らせているほんの十数分で終わってしまいました。

しかし、そんな短い時間の自然のショーをうまく町興しに利用している場所もあります。島根県の松江市、宍道湖にある「島根県立美術館」もそのひとつで、ここは「夕日のみえる美術館」として有名です。

この美術館では、ロビーの西側をすべてガラス張りにし、夕日観賞のために一般開放しています。普通、美術館といえば夕方5時くらいには閉まってしまいますが、ここは夕日が沈むまで館内に入ることができます。

美術館の外の湖畔側にはたくさんのオブジェが展示され、夕日とともにこれを写真撮影するには絶好のロケーションであり、また館内の2階の展望テラスと1階のロビーから見る夕日は素晴らしいそうです。

宍道湖を一望できるこの場所からは、日中でも刻々と移り変わる宍道湖の表情が楽しめますが、夕方になるととくに美しい夕陽がロビーを黄金色に染め上げるとか。

家内のタエさんが松江生まれなので、私も行ったことがあってもよさそうなものですが、残念ながらまだ行ったことがありません。ぜひ行く機会を作りたいものです。

この島根県立美術館は、「日本の夕日百選」にも指定されているそうです。

この「夕日百選」ですが、「特定非営利活動法人日本列島夕陽と朝日の郷づくり協会」というNPO法人が選定しているそうで、どんな活動をしているのかなと思ったら、全国各地の夕日がきれいな場所の旅館やホテルとタイアップして、その旅館などがある場所の町興しに関与している団体さんみたいです。

我が伊豆では、どこが百選になっているのかなと、調べてみると西伊豆町の「大田子浜海岸」と「堂ヶ島海岸」だそうで、私はまだどちらも行ったことがありません。ぜひ行かねば。

ちなみに私の郷里の山口では、萩市の「笠山」と「菊ヶ浜」、山陽小野田市の「きららビーチ焼野」と「竜王山公園」だそうです。私にはなるほどとうなずける場所で、とくに後者のきららビーチ焼野と竜王山公園は、瀬戸内海に浮かぶ島々の中を行き交う船を見ながら夕日を見ることができるというロマンチックなシチュエーションで、素晴らしいものです。

山口に行く機会がある方、ぜひ訪れてみてください。

さて今日も上天気です。運がよければきれいな夕焼けがみれるかもしれません。今日もし出かけるとしたらカメラを絶対忘れないようにしましょう。みなさんも秋の日には、カメラを常時携帯することをお勧めします。そして良い写真が撮れたらぜひ教えてください。

ちなみに俳句においては、「夕焼け」は「朝焼け」とともに夏の季語だそうで、秋の夕暮れを詠むときは「秋の夕焼け」という特別な季語を使うそうです。

俳句ではありませんが、最後に、清少納言が「枕草子」の中で夕日を詠んだ文章を引用して今日は終わりにしたいと思います。

「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」

沼津みなと ~沼津市

昨日は、一日中曇り空であまり秋らしくないお天気でした。にも関わらず一日中富士山はよく見えていて、あいかわらず「夏山」のままだなぁと思っていたら、今朝起きてみると、頂上付近が白くなっています。

待ちに待ったというか、久々の雪です。まだまだ真っ白になるというまではいきませんが、今後はこの雪も溶けることもなく、いま降った雪の上にまた重なりあってより白さを増していくに違いありません。

先日の金曜日、稲取の細野高原へ行こうかなと思ったのですが、この日もあまり天気がよくなく断念。それなら、ということで、180度方向を変え、これまで行ったことのなかった「沼津港」へ行ってみることにしました。

私が学生のころにはなかったと思うのですが、最近、沼津港の東側、狩野川との間には寿司や海鮮料理等の飲食店が軒を連ねてにぎやかになっている、とガイドブックを読み知っていたからです。

また、狩野川河口には、狩野川へ遡上する津波を防ぐ目的で造られた水門、「びゅうお」もあると聞き、前から気にはなっていたので、この機会に行ってみようと思いたったわけ。

その飲食店街やびゅうおの話題はあとに譲るとして、その沼津港の歴史とやらはどうなのかな、とまたぞろ気になってしまったので調べてみました。

このブログを読んでいただいている方々の中には、私の歴史モノの長い文章を読むのにうんざり、という方も多いとも思うのです。が、まあそこが暇つぶしにもいいんだよ、と言ってくださる奇特な方もいらっしゃるとも思うので、勝手ながらこういう「神様」を優先することにして続けたいと思います。

で、いろいろ調べてみると、面白いことがわかりました。この沼津港、もともと水産物などを扱う港として発展したのではなく、いまや東海道線の一部になっている、沼津~富士川東岸間や沼津~熱海間の「東海道線」の建設資材を揚げ降ろしするための「基地」として整備されたもので、現在のように水産物で賑わう沼津港はそのあとに整備されたものなのだそうです。

事の発端は、明治20年代のこと。この当時、朝鮮半島を我が国のものにしようと考えていた日本は、同じく朝鮮を属国と考えていた「清」との関係を悪化させつありました。今、中国との間で問題になっている尖閣諸島を日本の領土として公に示すための「国標」を建てようとしていたころのことです。

政府は清国との開戦をにらみつつ、朝鮮方面への進出のためには東京から迅速に人やモノを西へ面に移動させる必要性を強く感じており、このため東海道か中仙道(埼玉~群馬~長野~岐阜~関西)に鉄道を敷設しようと考えました。

しかし、この中仙道ルートはかなりの山道になるため、とりあえずこれは後回しにすることを決定。東海道も箱根の山をどう越えるかが問題となりましたが、ともかく、箱根から西側に線路を造っていこう、ということになりました。

この箱根山をどうやって超えるかという問題は、その後箱根山の北を大きく迂回するという形の「御殿場線」によって解消され、これにより、東京から小田原~御殿場~沼津という初期の東海道線ルートが確立されることになります。

この御殿場線はその後昭和になって、熱海と函南の間にある「丹那山」をぶち抜く「丹那山トンネル」が完成することでお役御免になります。丹那トンネルが完成する昭和初期までは、御殿場線が東海道線の一部でしたが、その完成により東海道線は、小田原から熱海を経由して丹那トンネルを抜け、沼津に至るルートに切り替えられたのです。

で明治政府は、当初は東海道線だったこの御殿場ルートは比較的東京に近いので徐々に横浜あたりから延伸していけばよいと考えましたが、御殿場から先のルートもこれと並行して建設を進めるためには、山越えで資材を運ばなければなりません。

しかし、必要となる鉄道建設資機材一式を横浜港から、今の沼津港のかなり南側にあった「江浦港」まで船舶輸送すれば、ここから比較的容易に建設現場まで資材を運べると考え直しました。

江浦港は、現在の「ヤマハマリーナ沼津」があるあたりにあった港で、地形的には内陸の大仁や長岡にも近いため、その昔は内陸からの物資が陸路で運びこまれ、ここから船で江戸や関西にその物資が運び出されていました。江浦港よりもさらに南側にある三津港や土肥港とともに、古くは西伊豆の三大港としてにぎわっていたようです。

なぜ直接沼津港に着岸しなかったかというと、江浦港は比較的水深が深く大型船が着岸できましたが、この当時、蛇松(じゃまつ)と呼ばれていた現在の沼津港付近は狩野川の河口付近にあり、狩野川から流れ出る砂で海が埋まっていたため、あまり大きな船が着岸できなかったためです。

このため、横浜から運ばれた物資は江浦港でいったん降ろされ、ここから艀(はしけ)に積換えられて、より東海道線に近い今の沼津港、この当時「蛇松(じゃまつ)港」と呼ばれていた小さな漁港に陸揚されました。この「蛇松」という地名は、狩野川河口付近に生えていた「蛇のように曲がりくねった松=蛇松」にちなんでいるそうです。

そして、この蛇松から現在の東海道線沼津駅の間には鉄道が真っ先に建設され、東京横浜間の鉄道開業時に使われた第5号蒸気機関車が運び込まれました。これを現地で組立後、明治20年(1887年)に運転を開始。このとき「陸蒸気(おかじょうき)」なる物を一目観ようとしたため、蛇松の桟橋は現地沼津の住民たちで大賑わいだったといいます。

この5号蒸気機関車は、その後、1906年(明治39年)まで使われ、そのあと160型160号というよりパワフルな蒸気機関車が導入されました。この蒸気機関車はさらに1911年(明治44年)まで使われ、その後九州の「島原鉄道」に払い下げられ、1955年(昭和30年)に廃車になったあとも解体されず昭和30年代後半まで現存していたそうです。

この辺のお話は鉄道ファンにはたまらないお話でしょう。ファンならずともどんな機関車だったのか、みてみたいものです。また機会あらば調べてみましょう。

この鉄道路線は、現JR沼津駅の東のほうから緩いカーブを描きながら、沼津港方面へ南下するように建設され、蛇松港にターミナルがあったことから、「蛇松線」と呼ばれるようになります。

その後、蛇松港より北側に、より水深の深い「新沼津港(現在の沼津港)」が建設されたため、この線路も新沼津港方向へと付け替えられるなど若干のルート変更がありましたが、蛇松線はその後、昭和49年までのおよそ90年間、建設資材・農水産物・石油等の貨物輸送に活躍しました。

こうして、沼津港(蛇松港)から東海道線の沼津駅までの資機材輸送ルートが確立したため、蛇松港へ陸揚げされた鉄道建設物資が、東海道線の建設現場にピストン輸送されるようになり、建設は急ピッチに進行。こうして沼津から東側の国府津までの鉄道路線と静岡までの路線の両方が1887年(明治22年)までには完成ました。

しかし、この区間の東海道線の開通の結果、蛇松線は資機材輸送線としての役割を終えることになり、その後一時期は使用実績もないまま遊休施設化し、半ば放置状態が続いていました。

ところが1898年(明治31年)になって、「兵陽運送」という会社がこの路線での貨物輸送を願い出たため、逓信省鉄道作業局は審査の結果これを許可。

1899年(明治32年)から鉄道の運転が再開され、海路を経由して蛇松港に陸揚された石油、石炭、及び、木材等々が沼津や御殿場、富士方面へ運ばれるようになり、その路線は「蛇松線」その終点部は「蛇松駅」と命名されました。

1934年(昭和9年)に完成する丹那トンネル建設では、その西口工事現場で使用する建設機材や資材を輸送するために、この蛇松線が大変活躍したといい、その存在がなければトンネルの完成は難しかっただろうといわれています。

その後、狩野川河口付近には、1933年(昭和8年)に前述の新しい港が建設され、これを「沼津港」と命名。その後、太平洋戦争終結後の1947年(昭和22年)からは、蛇松線は「沼津港線」、蛇松駅は「沼津港駅」に改称されました。

しかしこのころから、トラックなどの別の陸上輸送手段による物資の輸送量が増えるようになり、このため沼津港線輸送量は年々低下の一途をたどっていきます。また沼津港線が国道1号線と直角に交差していることから、交通事故も増えるようになってきたことから、廃止が決定。

1974年(昭和49年)の8月31日、DE11型ディーゼル機関車が旧型客車2両を牽引して沼津駅~沼津港間を臨時列車が運転されたのを最後に、その長い歴史の幕を閉じました。

路線廃止後しばらくは沼津駅側線扱として施設自体は残存していたようですがが、1976年(昭和51年)に沼津市に払下げられ、整備後現在は地元の生活道路として使われるとともにその一部は「蛇松緑道(じゃまつりょくどう)」と命名され遊歩道となっているということです。

狩野川河口に造られた沼津港のほうは、港湾管理者を静岡県とし、その後、特定地域振興重要港湾に指定されるなど、静岡県でも有数の港となりました。

元の「蛇松港」は、現狩野川河口から2kmほども遡った永代橋付近の右岸側にありましたが、新しい港は狩野川河口のすぐ右岸側を深く掘り下げられ、1933年(昭和8年)4月、現在の内港が完成。その後船舶需要の増加に伴い、1970年(昭和45年)には外港が作られました。現在、水揚げ量に関しては、静岡県では2位だそうで、全国でも15~20位の漁獲量を誇ります。

この沼津港のすぐ脇の狩野川河口には、2004年(平成16年)9月26日に展望施設を備えた大型水門、「びゅうお」が造られました。水門扉の重量470トン、高さ32メートルもある巨大な水門で、東海地震の発生時には津波被害を防ぐために自動的に自身を感知、ゲートが閉められるといいます。

水門の上は展望台になっていて、「びゅうお」の名称も展望を意味する“View“と「魚(うお)」を合わせたものとか。あんちょくなネーミングだなーと思うのですが、地元ではこの名前で定着しているようで、まあ、文句を言う筋合いもないか。

展望台へ登るのはタダではなく、100円払います。安いといえば安いのですが、どうせならタダにすればいいのに……。

入口受付脇にあるエレベーターに乗って水門上部へ。ここは総ガラス張りになっていて、なかなかの壮観です。この日は残念ながら天気がいまいちで、富士山は見えませんでしたが、西へ広がる駿河湾とその真下に見える沼津港外港、そこから北へ黒々と続く松原はなかなかの美観です。

水門を真ん中にしてその周りを「ロ」の字で囲うようにして回廊が設けられており、そのすべてがガラス張りというのはなかなか気持ちの良いもの。水門の周りにはトンビがたくさん飛び交っていて、この日は風が比較的強かったので、その風に乗って空を「泳ぐ」姿は気持ちよさそう。

トンビが飛び交う先には、大瀬崎(おせざき)も見え、それに連なる水平線の手前には太陽の日を浴びてきらきら光る海が。夕日が落ちるころに来たら、きっとロマンチックでしょう。

このびゅうおのすぐ下には、「沼津港市場」があり、ここでは早朝からセリが行われ多くの水産関係者で賑わうようです。我々が行ったのは夕刻近くだったので、あまりその関係の方はいませんでしたが、しかし水産物を運んでいると思われるトラックが観光客の間を縫うようにして出入りし、結構な交通量でした。

その市場の周辺は、海鮮料理や寿司、干物の販売店などが軒を連ねており、これ目当ての大型観光バスも入ってきていて、かなりのにぎわいです。

この一角は、2007年(平成19年)11月に、国土交通省局の「みなとオアシス制度」に登録されたとかで、市場やトラックヤードなども併設された「INO(イーノ)」という大型の水産複合施設のほか、そのすぐそばには「沼津みなと新鮮館」というショッピングモールなどもあります。

このINOや新鮮館ですが、第三セクターの運営かな?と思ったらそうではなく、INOのほうは、「沼津魚市場株式会社」という会社組織が、新鮮館のほうは、沼津魚仲買商協同組合という組合組織が運営しているようで、純粋な商業施設みたいですね。

この二つ以外にも、海鮮料理や寿司、干物店などなどの小さなお店が集まった区画があって、こちらは「ぬまづみなと商店街協同組合」に加盟されているお店屋さんが出店している区画です。上述の大型施設と競合しないのかな、とも思うのですが、いずれもかなりの観光客が寄っていて活気があるところをみると、それなりに儲かっているんでしょう。

どこかで、こんな景色をみたよな~と考えていて思い立ったのですが、しばらくたって思いついたのが秋葉原。彼の地でも同じような電気屋さんがたくさん寄り合っていて、それで儲かるのかな~とよく思うのですが、たくさんのお店が集まることで、それなりの集客効果を上げ、全体がうるおうというしくみは、この沼津港の飲食店街も同じなのでしょう。

これはこれでよいのでしょうが、私的にいえばもう少し「洋風」のお店もあっても良いのではないか……と。どこのお店もが「海鮮」を売りにしていて、新鮮な魚や干物を食べさせてくれるのはいいのですが、若いカップルが行って、海を見ながらちょっとおしゃれにお食事をして、という雰囲気のお店はほとんど皆無でした。

どうせなら、シーフードを売りにするフレンチやイタリアンのレストランなどもできればいいのに。中華料理くらいはもしかしたら、1~2軒あったかもしれません(未確認)が、こちらも海鮮を売りにする本格中華のおいしいお店が欲しいところです。あと、喫茶スペースももう少し欲しいかな~。

なので、これを読んでいる関係者の方。ぜひともそちらのほうも考えてみてください。

この沼津港から西北方面にはずっと砂浜が広がっていて、これは千本浜と呼ばれ、その背後には「千本松原」と呼ばれる松林が続きます。沼津港の喧騒をあとにして、その日最後に行ったのは、この千本松原の中心にある「千本浜公園」というところ。

何があるというわけでもないのですが、「玉砂利」を敷き詰めたような広い浜に出ると、そこからは眼前に駿河湾が広がり、天気が良ければ富士山も見えるはずです。「びゅうお」からの眺めと同じといえば同じなのですが、すぐ目の前には岸に押し寄せる波がしぶきをあげ、いたるところに流木がころがっていて、「手元」に海があるというところがいいところ。

市民の休息の場として定着しているようで、何に使うのか、この流木を集めて回るひとやら、あちこちで海をみながらボーっとしている人、犬を散歩させている人、クルマの中で爆睡している人などなど、のどかなのどかな環境です。

私も護岸に腰掛け、ぼんやりと海を眺めたり、写真をとったりしていましたが、この間、タエさんは浜辺での「石収集」にご専念。ハート型の石とか変わった形の流木とかをたんまり集めていました。

自宅からクルマで一時間もかからないでこうした海に来れるというのも伊豆へ来たからこそ実現できること。そのありがたみを感じつつ、沼津でのショートトリップを終え、この日は帰宅。

そろそろ秋も本番になってきました。次は海ではなく、山をめざしましょう。そろそろ紅葉もきれいになってきているはず。秋深まる伊豆でまたそんな素敵な風景をみかけたらご報告したいと思います。