宇宙エレベーターのお話


先日、中国北部の万里の長城ツアーで年配の方が三人も亡くなるという痛ましい事件がありました。急激な天候の変化に対応できる装備を持っていらっしゃらなかったことが原因のひとつのようです。

チベット出身の山に慣れたガイドさんがいたようですが、このガイドさんは中国当局がこの地への観光客への立ち入りを禁止していたということを果たして知っていたのでしょうか。

また、ガイドとはいえ、見ず知らずの他人に自分の命を託し、知らなかったとはいえ危険な場所に立ち入ったという点においては、亡くなった方々の自己管理や自己責任の面でやはり弱さがあったと言わざるを得ません。

しかし、それ以上にツアーを提供する側の旅行会社側に大きな問題があったことは間違いありません。「ツアー」という商品を企画しておきながら、売り出した側が現地の下見もせず、危険な場所であると認識していなかった、つまり商品の中身を売主が十分に把握していなかったというのは言語道断です。

「前科」もあるということで、こういう会社が他にもたくさん野放しになっているとすれば、こういう業者に認可を下した行政側も責任を問われてもしかたがないと思います。

行政側の責任といえば、シンドラーエレベーターの事故も同様の臭いがします。こちらも前科があるということで、この業者の運営再開を許可した運輸局は何をやっていたのだと大きな批判が出ています。

この二つの事件に共通するのは、いずれも業者側が売り出した「商品」のことを十分に把握していなかったという点であり、またどちらも人の命に係わるものであったという点です。

先日、テレビでどちらかの有識者さんがおっしゃっていましたが、日本のメーカーの多くは(すべてとはいいませんが)、商品を売ったあとのアフターケアをかなり重視しているということです。

顧客に買ってもらったものに不具合があれば、いずれその評価は他の自社製品にも返ってきます。アフターケアをしっかりやって、自社で売った商品の不具合はとことん直していく、というのが日本製品の良いところだ、とその方はおっしゃっていましたが、私も同感です。

先日、我が家でも冷蔵庫の調子がおかしくなり、メーカーに問い合わせ、系列会社の方が修理に来てくださいました。購入後5年以上も経っており、補償もきかない商品でしたが、懇切丁寧な対応をとっていただき、結局部品も無償で交換してもらいました。

タダで修理してもらったから言うわけではありませんが、こうしたことは欧米では考えにくいサービスだといいます。売ったら売りっぱなし、そういうメーカーが多いそうで、だからこそ日本のようなこういうキメの細かいアフターケアができる商品が世界でも評価されているわけです。

中国や韓国の製品が粗悪とはいいませんが、こうした「使う人のことを考えたモノづくり」はやはり日本のほうが上だし、世界に誇れるものだと思います。いずれこのような日本メーカーの良さが見直され、日本製品が復活する日も遠くないのではないのでしょうか。

もっとも、今回の一連の事故に見られるような悪質業者は徹底して懲らしめるべきです。人の命に係わる商品を、いい加減なチェックだけで済まして儲けようという輩は徹底的に排除して欲しいと思います。

宇宙エレベーター

さて、エレベーターつながり、ということで、今日は「宇宙エレベーター」というモノを話題にしてみたいと思います。

宇宙エレベータは、「軌道エレベータ」という呼び方もあるようですが、まだ公的な正式名称はありません。一般的には、地球などの惑星の表面から静止軌道以上まで伸びる「軌道」を持つエレベーターのことです。

宇宙空間への進出手段として構想されていますが、現状の技術レベルではその建造は極めて困難と考えられており、その構想のほとんどは「空想的」とまでいわれています。

しかし、かつては軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ素材が存在しなかったものの、理論的にその実現が可能な存在としてグラファイト・ウィスカー(人造黒鉛結晶を軽量の束にしたもので原子炉素材などに使われる)などが発見され、さらに20世紀末になってカーボンナノチューブが発見されたことにより、その早期の実現を目指した研究プロジェクトが発足しているそうです。

そのメカニズム

宇宙エレベーターでは、地上から静止軌道以上まで延びる塔や、レール、ケーブルなどに沿って運搬機が上下することで宇宙と地球の間の物資を輸送します。動力を直接ケーブル等に伝えることで、噴射剤の反動を利用するロケットよりも安全に、かつ遥かに低コストで宇宙に物資を送ることができると考えられています。

その概念は簡単です。静止軌道上の人工衛星を、重心を静止軌道上に留めたまま地上に達するまでケーブルを縦長に伸ばし、そのケーブルを伝って昇降することで、地上と宇宙空間を往復するだけです。その際、全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にもケーブルを伸ばしたり、十分な質量を持つアンカーを末端に設けます。


宇宙エレベータの概念図

ケーブルの全長は約10万km必要といわれ、下端(地上)、静止軌道、上端の三ヵ所に発着拠点が設けられます。上端のアンカーにおける移動速度はその高度における脱出速度を上回っているため、ここからは燃料なしでも地球周回軌道から脱して惑星間空間に飛び出すこともでき、ここを「外宇宙」への出発駅とすることもできます。

エレベータという呼称が使われていますが、地上のエレベータのように滑車を介して可動するケーブルで籠を動かすのではなく、固定されたケーブルを伝って籠が上下に移動します。ケーブルは下に行くほど重力が強まり遠心力が弱まる一方、上に行くほど重力が弱まり遠心力が強まるので、ケーブルのどの点においても張力がかかります。

その大きさは、その点より上の構造物に働く重力と遠心力の絶対値の差です。このため、ケーブルは一定の太さではなく、静止軌道から両端に向かって徐々に細くなっていく構造で、こうした構造を「テーパー構造」といいます(静止軌道上の「宇宙ステーション」部分が一番太くなる)。

ただし、地上から数kmの部分は風や雷の影響を避けるために10倍ほど太くし、さらに上空数百kmまではケーブルの構成物質が酸素原子と反応して劣化するのを防ぐために金属で薄くコーティングする必要があります。

荷物を上げ下げする際にコリオリ力(地球の自転による遠心力)が発生し、ケーブルを左右前後に揺さぶりますが、ケーブル自体が地球につなぎ止められているため全体が逆さの振り子状態で「しなり」、エレベーター全体は常に元の位置を維持することが可能です。

地上側の発着拠点(アース・ポート)は、赤道上が有利といわれます。赤道上であればケーブルにかかる張力を小さくできるためです。緯度が上がるほどケーブルにかかる張力が大きくなり、また赤道以外ではケーブルが地面に対して垂直にはならないため、赤道から極端に離れた場所に建設するのは難しくなります。

ただし、これは緯度だけを問題にした場合であり、それ以外にも、気象条件や周辺地域の政治的安定性など考慮すべきことは多く、また赤道は暑い場所であるため、ケーブルの振動や熱による伸縮への対策も必要です。

なお、静止軌道上には、多数の人工衛星や大きなスペースデブリ(宇宙ゴミ)が存在するため、これらとの衝突の回避などのために、アース・ポートは地上に固定するのではなく海上を移動可能なメガフロートなどにしたほうが、衝突の回避を制御しやすいのではないかという意見もあります。

ロケットなどとの比較

現在、地球上から宇宙空間へ人間や物資を運ぶ手段はスペースシャトルなどの化学ロケットしか存在しません。しかし、ロケットは、地球の重力に抗して宇宙空間まで重量物を移動させるために莫大な燃料を消費します。

また、燃料そのものが有害物質であったり、燃焼時に有毒物質を発生したりして、環境を汚染する場合もあり、爆音や有毒ガスの発生以外にも、信頼性や事故発生時の安全措置の面でも不安があります。

このため、将来的に大量の物資・人員を輸送することを念頭に置いた場合、経済的で無公害の輸送手段が望まれ、現在、ロケットに代わるさまざまな輸送手段が検討されており、宇宙エレベータもその一つの候補です。

籠の昇降には電気動力を使い、ロケットのように燃料を運び上げる必要がないため、一度に宇宙空間に運び出す、または宇宙から運び降ろす荷を大幅に増やすことができる可能性があります。

また、上るときに消費した電力は位置エネルギーとして保存されているので、下りで回生ブレーキを使って位置エネルギーを回収すれば、エネルギーの損失がほとんどなく、運転費用が非常に安くて済みます。

ある試算によると、現行ロケットの場合、1ポンドあたりの打ち上げ費用が4~5万ドルなのに対し、軌道エレベータの場合たったの100ドル(1kg当たり220ドル=2万円程度)で済むといいます。

電力供給に関しては、昇降機にパラボラアンテナを装備してマイクロ波ないしは遠赤外レーザーの形で送電する方法などが考えられており、加えて人工衛星やISS(国際宇宙ステーション)などでも使用されている太陽電池や燃料電池も流用できると予想されています。

環境への影響や安全面などを考慮して、ケーブルを通じて供給するべきだという意見もあるようですが、もしカーボンナノチューブを使うとすれば、この素材には電気の十分な伝導性がないため、実用化は難しくなります。

昇降機がケーブルと接触した状態のまま動く場合、その速さは毎時200km程度が想定されていて、現在検討されている10万キロの長さのケーブル上を通り、この速度で「アース・ポート」から静止軌道まで達するためには約1週間までかかり、さらにその上端のアンカーポイントまでは更に5日間もかかる計算です。

エレベータに乗る人は、宇宙飛行士のような特別な訓練を受けなくても宇宙に行くことができますが、移動時間がかかるため、利用者にストレスを与えないように、昇降用の駕籠(昇降機)には高い居住性を持たせる必要があるといわれています。

リニアモーターなどを使用すればもっと時間を短縮でき、例えば昇りのとき1Gで加速し、中間点からは1Gで減速すると約1時間で静止軌道に到着できるそうです。

ただし、この場合、中間地点での速度は時速64000kmにも達するそうで、この速度に昇降機やケーブルが耐えられるかどうかがはなはだ疑問視されていて、今のところ、リニアモータは検討対象外ということのようです。

ちなみに、ISS(国際宇宙ステーション)は地上から一番近いところで高度278 km、遠いところで高度460 kmぐらいのところの軌道を回っており、この程度の高度でよければ、毎時200km程度の速度でもごく短時間に到達できるそうです。

その検討の歴史

宇宙エレベータの着想は、かなり昔からあるようで、ロシア人で「宇宙旅行の父」と呼ばれたコンスタンチン・ツィオルコフスキ博士が1895年に自著の中で記述しているのが一番古いそうです。

1970年代ころから軌道エレベータの材料に関する研究が始まり、その結果、上空に行くに従い重力が小さくなり、かつ遠心力が強くなることを考慮すると、一様な重力場においてこれが切れないような太さのケーブルを想定してその長さは4960kmが必要という算出結果が出ました。ただし、この数値は鋼鉄を想定した場合であり、現実的ではないとされました。

そのため、長い間、宇宙エレベータはSFの素材や未来の工学として概念的なものとして扱われてきただけでしたが、1982年になって、理論的には宇宙エレベータを建造できる強度のグラファイト・ウィスカーが発見され、さらに1991年に極めて高い強度を持つカーボンナノチューブが発見されたことにより、実用化可能と言われるようになりました。

NASAなどは、宇宙エレベータの実現を本気で考えているようで、2031年10月27日の開通を目指し1メートル幅のカーボンナノチューブでできたリボンを、赤道上の海上プラットフォーム上から10万キロ上空まで伸ばすプロジェクトを、全米宇宙協会とともに進めているそうです。

また同じアメリカのLiftPort社という会社もNASAからの援助を受けて宇宙エレベータの早期実現へ向けた研究開発を行っているそうで、実際LiftPort社は2005年9月に同社が開発中の宇宙エレベータの上空での昇降テストを行いました。

この時のテストは、カーボンナノチューブではないケーブルを使用して気球に接続し、次第に気球の高度を上げていくというものでしたが、3回目で高度約1,000フィート(約304.8メートル)に達したそうです。

日本においても、「宇宙エレベーター協会」というのができているそうで、2009年から同協会主催の宇宙エレベーター技術競技会が開かれています。ルールは毎年改定され、2010年第2回大会での競技規則は上空の気球から幅5cmのベルト状のテザー(長くて強靭なヒモ)を垂らし、高度300mまで上昇・下降するというものでした。

ゼネコン大手の「大林組」は建設会社としての視点から、宇宙エレベーターの可能性を探る構想を、2012年2月の広報誌「季刊大林」の中で掲載し、「2050年ころの実現を目指す」としたことから話題を集め、新聞各紙の科学情報欄を賑わせました。

建造方法

宇宙エレベーターの具体的な建造方法としては、長大な吊り橋を建設する場合と同じ方法を採ることなどが提唱されています。まず静止軌道上に人工衛星を設置し、地球側にケーブルを少しずつ下ろしていきます。この場合、ケーブル自体の重さによって重心が静止軌道から外れないように、反対側のアンカー側にもケーブルを伸ばします。

そして地球側に伸ばしたケーブルが地上に達すると、それをガイドにしてケーブルをさらに何本も張って太くしていき、エレベータの最終形を目指します。

なお、カーボンナノチューブは軽量なので、かなり長いガイド用の細いケーブルと必要最小限の付帯設備だけならば、これをロケットに積み込んで静止軌道まで打ち上げることも不可能ではないと考えられています。

どんな工法をとるにせよ、現在の構想では、最終的に必要なケーブルの量は長さ1kmあたり7kg、アンカーまで含めた全体の質量は約1400トンだそうで、建設費は100億ドルから200億ドル(1兆円から2兆円)程度になるとか。ISS(国際宇宙ステーション)の建設・運用には1000億USドル以上の費用がかかっていますが、これに比べればかなり「格安」といえます。

技術的課題

とはいえ、宇宙エレベータを実際に建設するためには、乗り越えなければならない技術的課題が多数あります。

一番心配なのはやはりケーブルの材料で、材料の強度の点では、従来の最強クラスの素材であったピアノ線やケブラー繊維では静止衛星軌道から垂らすには強度がまったく足りませんでした。しかし、カーボンナノチューブ(CNT)の発見により、少なくとも理論上は可能性が見えてきたといえます。

ただし、ケーブルの自重を支えるために必要な比強度(強度/密度)は現在のCNTの2倍の比強度のものが必要考えられており、その開発が必要になります。

CNTの研究では、日本は世界の最先端を行っていると言われており、経済産業省の研究機関、産業技術総合研究所では既に、この強度に近づくことのできる非常に高品質なカーボンナノチューブの生成に成功しているといいます。

また、ケーブル材料としての決め手は従来ではカーボンナノチューブのみと考えられてきましたが、近年、「コロッサルカーボンチューブ」と呼ばれる新物質が開発され、この物質を使えば、破断長は6000kmのケーブルの制作も可能といわれ、地上から静止軌道上までのエレベータケーブルの最低破断長の条件を満たすと考えられています。

ただ、CNTやこれらの新物質を使って、外気圏や宇宙空間などの「極環境」の下で建造物を造るための構造計算や維持運用についてはまったくの白紙状態であり、強い宇宙線にさらされる外宇宙では物性の変化も予測されます。このため、実際のエレベータステーションの建造の前に、そのノウハウの蓄積のための十分な実験と試用の期間が必要と考えられています。

ケーブルを昇降させる昇降機の構造も問題です。エレベータのケーブルにラック式鉄道の様なラック(歯)を設けるような原始的な方法はほぼ不可能であり、昇降機はケーブルとの摩擦のみで地球の重力に逆らって昇降を行う必要があります。

駆動系に十分なトルクを得るには減速ギアなどで機構が複雑になり、重量や故障率を増加させてしまうため、いかにシンプルで軽量な機構で十分な昇降能力を実現するかが課題となっています。

しかし、この問題に関しては、ケーブル材料に比べれば遙かに現実的な課題であり、他分野での技術応用も見込めるため、日本でも大学や研究機関も含めて複数の研究者が既に開発を行っています。前述の宇宙エレベーター協会主宰の競技会でも、気球から吊したテープに小型モデルを昇らせる技術競技が行われたそうです。

このほか、昇降機を動かすエネルギーも課題です。前述のようにマイクロ波もしくは遠赤外レーザーの形で昇降機に送電する方法、太陽電池による発電、搭載型燃料による発電などの方法が考えられています。

これらのうちどのエネルギーを使うかは、昇降機の規模や構造によっても違ってきますが、バックアップの意味も含めて複合的な供給が望ましいと考えられいるようです。

レーザーによる供給については高高度における減衰と十分なエネルギーが得られるか疑問点が残ります。太陽電池の場合、非常に大きなパネルが必要とされます。

搭載型燃料については、燃料電池が有力候補ですが、燃料電池は既に自動車各メーカーが開発合戦を続けており、宇宙エレベータに使えるようなものは将来的には火力発電にも使えるのではないかと期待されています。

建造可能性以外の課題

建造の可能姓などの技術的な問題以外にも課題は山積みです。まず、維持費。宇宙空間は相当に過酷な環境であり、宇宙エレベータのような長大な建造物も日光や宇宙線などにより材料の劣化にさらされる懸念があり、スペースデブリとの衝突による破損も考慮に入れなければなりません。

宇宙エレベータのようなまだ誰も建造したことがないような長大な建造物を維持修繕していくのにどの程度の費用がかかるかは全くの未知数です。建設費用と維持費用が、はたして宇宙エレベータ建造が与える利便に見合うかどうかという、費用対効果の問題もあります。

次に、安全上の問題点があります。宇宙エレベータに対する安全上の脅威としては、航空機やシャトル、人工衛星などとの衝突が考えられます。エレベータのケーブルやシャフトの一部でも損傷した場合、損傷箇所に極めて大きな応力がかかって、エレベータ全体が崩壊する可能性があります。

衝突事故を防ぐためには、宇宙エレベータの周囲の広範囲を飛行禁止区域として設定し、レーダーなどで常時監視することが必要です。

宇宙エレベータの軌道は長い弦とみなせるので、荷物を上げ下げ時や天候悪化のときの震動はこれをある程度予測計算することが可能であり、「弦」を自由にコンピュータ制御することによって震動を打ち消すとともに、弦を動かして人工衛星やスペースデブリとの衝突を回避できると考えられています。

ただし、ある程度大きなスペースデブリは軌道がわかるため、上記の方法で回避できますが、小さなものは衝突を避けられません。宇宙エレベータ自体への影響は軽微で済むとしても、宇宙エレベータの昇降機や乗客・貨物への悪影響が考えられます。

このため、小さなものが衝突することを前提とし、スペースシャトルのように複数の昇降機を用意し、一度使った昇降機を修理して再度使うということなども考えられています。

もし宇宙エレベータがかなり大きなものになり、質量も大きくなれば、万一これが落下した場合、地上の広範囲に被害をもたらす可能性もあります。

ただ、全米宇宙協会などが考案しているような案では昇降機はそれほど巨大化しない構造で、ケーブルもラップフィルム状の薄いものを想定しており、このことから落下時の空気抵抗が大きく、万一落下した場合でも地上に大きな衝撃を与えることはなく、重大な影響を及ぼす可能性は少ないと考えられています。

また、宇宙エレベータは縦にきわめて長大な建造物であり、材質の強度と遠心力や重力などのバランスの下に成り立っているため、テロリストなどによる破壊工作に対してはかなり脆弱な構造物であるという指摘もされています。

類似の問題として、軍事衛星との衝突の可能性も考えられます。軍事衛星は機密上存在自体が秘匿されることもあり、特に低高度を飛ぶ偵察衛星などは周回時間も短く、想定範囲外の衝突が発生する恐れがあります。

これらの「秘密衛星」による衝突をすべて回避するようにコントロールするのは困難ですし、他国の偵察活動の妨げになるような建造物を造ることに異を唱える国家が出てくる可能性もあります。

このほか考えられるのが環境への影響です。宇宙エレベータのような大規模構造物が環境にどのような影響を与えるかはまだ全くわかっていないという状況です。ただし宇宙エレベータのケーブルは極めて細いため、大気の擾乱や熱伝導による気温変化への影響は小さいだろうと考えられています。

アース・ポート建設地点の生態系の変化や、建造に伴う廃棄物による公害なども考えられますが、宇宙エレベータが完成すれば有害物質や騒音を撒き散らすロケットの打ち上げは激減し、相対的には環境によい影響をもたらすのではないか、という意見のほうが多いようです。

いずれにせよ現段階では環境問題への影響は想像の域を出ず、このためこの分野に関しては本格的な研究にはまだ着手されておらず、ましてや定量的に環境への影響を示すことはできません。

政治的課題というのもあります。宇宙エレベータはロケットに比べて遥かに安価な輸送手段ですが、赤道上が有利など建設できる場所が限られています。このため強力な国家や経済ブロックの存在は、アース・ポートの建設において、領海・領空の使用権、宇宙エレベータの権利などが生じ、国際的な紛争が起こる可能性もあります。

しかし、南局大陸の平和利用や、ISSのような国際的な取り組みが成功している時代ですから、技術的な問題さえクリアーできれば、将来的にも各国が協調して宇宙エレベータを建設することは可能でしょう。

…………

以上、長々と宇宙エレベーターについて書いてきましたが、いかがだったでしょう。私も最初は、???実現可能なの?という感じでしたが、書き進めているうちに不可能ではないような気がしてきました。

1957年に打ち上げられた世界初の人工衛星スプートニク1号は、大きさわずか58cm、重さは83kgしかありませんでしたが、いまや世界最大のロケットなら10トンちかい重量物を打ちあげられるといいます。

ましてや、国際宇宙ステーションのように何度も部品を打ちあげて大きな構造物を地球周回軌道上に造ることができる時代です。いつか、宇宙エレベーターも実用化するに違いありません。

スプートニクから約60年が経ちました。私は60年後に生きているでしょうか。生きていなくてもいいですから、それまでに実用化していることを願いましょう。

緒明菊三郎のこと ~旧戸田村(沼津市)

以前、このブログで三島駅前の「楽寿園」のことを話題にしましたが、その時この庭園を朝鮮王朝の李王家から買い取った、「緒明圭造(おあけけいぞう)」なる人物がいることを書きました。

この緒明圭造は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後造船王になったという「緒明菊三郎」の子孫ではないかとも書きましたが、最近これに関する記事をみつけ、どうやら緒明圭造は緒明菊三郎の娘婿だったらしい、ということが分かりました。

どういう経緯で緒明家に養子に入ったのかまでは分かりませんが、これで緒明菊三郎と緒明圭造がつながり、この当時の緒明家の系図がはっきりしました。

つまり、江戸時代に船大工だった嘉吉の息子が、菊三郎、その娘婿が圭造、そしてこの圭造の子孫は、今も三島に在住されており、現在も三島市の名士、ということのようです。

伊豆の戸田で宮大工をされている方のホームページによれば、楽寿園の東側にある「三島市民会館は」はこの緒明家の御子孫の方の土地で、これを三島市に貸しているそうで、また緒明家は静岡銀行の大株主で、かつてその頭取を勤めた方を排出されたこともあり、しかも緒明家の今の御当主のご母堂は西郷隆盛の孫娘さんということです。

これらのことから、この緒明家の「開祖」ともいうべき「緒明菊三郎」氏は、どうやらその当時の明治政府の要人と関わりの中で、大きな財を得るようになった人物であったことがうかがわれます。その人物関係の詳細はまだよく分からないことも多いのですが、とりあえず今現在で私が把握していることを以下にまとめておきたいと思います。

まず、緒明菊三郎のお父さんの嘉吉です。江戸時代に戸田の船大工で、この当時はまだ平民ですから、緒明姓は名乗っていません。これも以前このブログで紹介した戸田造船資料博物館で公開されている資料の中に、ロシアのプチャーチン提督の帰国のために造られた「ヘダ号」の建造に関わった大工7人の名前がありますが、このひとりが、この嘉吉です。

ヘダ号の造船は、この7人だけで行われたわけではなく、そのほかにも数百人単位の大工が関わりましたが、この7人は他の大工の「世話人」ということで選ばれたようで、要するに大工頭、頭領という立場だったようです。

ほかに、上田寅吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉、石原藤造の名前がありますが、このうち、上田寅吉がリーダー格です。

この上田寅吉はヘダ号の建造に加わったのち、江戸に「長崎海軍伝習所」が開設されると、幕府から「蒸気船製作習得」の命を受け、この伝習所に入所。さらにその後、幕末の1862年(文久2年)から5年間にわたって、榎本武揚や明治政府で重職を歴任した「肥田浜五郎」らと共に「職方」、つまり「技術担当」ということでオランダに留学しています。

オランダから帰国後は、学んできた西洋の造船術を国内で他の技術者に伝授していましたが、やがて幕末の動乱に巻き込まれます。そして榎本武揚に従って箱館戦争にまで参加しますが、維新後許されて、1870年(明治3年)から明治政府に出仕。

その後横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)で造船技術者として、国産軍艦の「天城」「清輝」などの多くの明治海軍の艦船製造に従事しました。

戸田の造船郷土資料博物館前には上田寅吉を顕彰した「大工士碑」があります。また、ここから2kmほど離れた牛ヶ洞には、「造船記念碑」が立っており、碑に刻まれた顕彰の言葉のなかにも「上田寅吉」の名が記されており、戸田の人々にとっては誇るべき郷土の偉人とされているようです。

この上田寅吉と嘉吉は仲がよかったようで、「ヘダ号」の造船時には、嘉吉の息子の菊次郎を手元に置き、そのころまだ10才程度だった菊次郎に船大工としての指南をしています。

後年、こうした上田と交流のあった嘉吉は息子の菊次郎を最新の造船技術を学ばせるため、上田の元に送っていたようです。そしてそこで菊次郎は榎本武揚とも知り合ったようで、戊辰戦争で幕府が新政府軍に敗れた際、幕府軍艦である「開陽丸」に座上して大阪から江戸へ引き上げる榎本に、菊次郎も修理工として付き従っています。

しかし、「蝦夷共和国」終焉まで榎本と行動をともにした上田寅吉とは異なり、菊次郎は箱館戦争には参加していません。このころ父の嘉吉の病気が悪化していたためと伝えられています。

上田寅吉とともにヘダ号の造船のリーダーとして活躍した嘉吉ですが、ヘダ号が建造された江戸末期の時代は、大工頭とはいえ生計は大変貧しく、船大工をしても日銭しか入らないため、そのお母さんが内職をして家計を助けていたといいます。

先だっての戸田の宮大工さんのHPによれば、古着をさばいて「鼻緒」にする内職をしていたそうで、一晩中この鼻緒作りを続け、夜明けを迎えることもしばしばだったようです。

明治になると、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、1870年(明治3年)に平民も苗字を持つことが許される「平民苗字許可令」出され、1875年(明治8年)からは、平民すべてが苗字をつけるよう義務付ける法令もでました。

このとき、大工の嘉吉の家でもその苗字を何にしようかと色々と考えましたが、上述のように母が「夜明け」まで鼻緒の内職をしていたことにちなみ、「緒明」という名字にしたといいます。まるでウソのような話ですが、「緒明」という名前は全国的にみてもほとんどないことから、事実かもしれません。

こうして、嘉吉の息子であった、菊三郎もこのころから、緒明菊三郎と名乗るようになったようです。菊三郎は1845年(弘化2年)生まれですから、明治3年には25才になっていたはずです。

このころ、父親の嘉吉がどういう仕事をしていたのか不明ですが、上田寅吉とともにヘダ号造船に関わったことでもあり、おそらくは嘉吉を初めとする戸田の大工たちも横須賀に呼ばれ、上田寅吉から最新の造船技術を伝授されながら、海軍の艦船の製造に携わっていたのではないでしょうか。

このころ榎本武揚は、明治5年に新政府から許されて開拓使となった後、東京に帰任。明治7年には海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアに渡って千島・樺太条約を結び帰国。翌年には海軍卿に任じられています。

こうした海軍での要職を務めるようになっていた榎本の紹介か、あるいは横須賀造船所で新しい造船技術を駆使して新造船に励んでいた上田寅吉の紹介で、菊三郎もまた横須賀、あるいは東京に出てきていたと思われます。

現在、横須賀に「緒明山」という公園がありますが、ここはその昔、緒明菊三郎が持っていた土地だそうで、横須賀にも縁が深かった菊三郎が後年財を成してから購入したものと思われます。

しかし、その父の嘉吉の収入は明治になってもまだ乏しく、このころの菊次郎はそうした父に頼ることもできず、東京で暮らし始めたころは生活も苦しかったことでしょう。

あるいは父とともに横須賀造船所で働いていたのかもしれませんが、厳しい生活の中で苦労して貯めたお金で、小さな和船とこれに乗せる蒸気エンジンを苦労して入手することに成功します。

この当時はまだ庶民にとって蒸気で走る船などというものは夢の乗り物であり、これが水の上を走る姿はさぞかし人々の耳目を集めたに違いありません。菊五郎青年の偉いところは、これをただ走らせるだけでなく、「乗船料」をとって、人を乗せれば儲かるのではないか、と考えたところです。

そして、この蒸気和船を隅田川に持って行き、これにひとり一回「一銭」で乗れるという「一銭蒸気船」なる商売を始めました。このころ隅田川に浮かぶ船のほとんどは手漕ぎや帆かけの和舟でしかなかったはずで、そんな中をポンポンと軽やかな音を立てて快走する蒸気船に人々は殺到したようです。

連日行列ができるほどの大繁盛となり、菊三郎はたいへんなお金持ちになっていきました。

このころ、榎本武揚は、かつて同じ伊豆出身の代官である江川太郎左衛門が建造したお台場のうち、4号お台場が何も使われていないので、明治政府が手放そうとしているらしいという話を耳にします。

維新後の明治政府は、このころたいへんな財政窮乏状態にあり、近代国家建設のために国内だけの資金では足りず、イギリスやフランスなどの諸外国からも借金をしまくっていました。旧幕府が保有していたもので売って金になるものは片っ端から売り払っていたようで、使いどころもなく草ぼうぼうになっていたお台場もその候補のひとつでした。

このころ海軍卿にまで上り詰めていた榎本武揚はこの話を聞き、上田寅吉に相談したところ、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎にここを買わせ、そこで我が国初の本格的な西洋式造船所を造ろうと上田が提案しました。

こうして4号お台場に造られたのが「緒明造船所」です。しかし、このお台場を菊三郎は購入したわけではなく、明治政府からの「貸し出し」ということで格安に入手したようです。そういうことができる人物といえばやはり榎本武揚以外には考えられず、その入手にあたって裏で暗躍したに違いありません。

現在での場所は北品川の天王州アイル駅の前にある「第一ホテル」の敷地がそれだそうです。この造船所はその後昭和14年ころまで操業されましたが、太平洋戦争に突入する前に軍備増強をしたかった昭和海軍も金欠であったため、とんでもない安い金額でこの造船所を緒明家から買い取ったという話が残っています。

ちなみに、港区の東京海洋大学の構内に保管され、国の重要文化財に指定されている帆船「明治丸」は、明治政府がイギリスから購入した船ですが、この船のマストを当初の2本マストから3本マストに改造したときの責任者は緒明菊三郎という記録が残っており、改造されたのもこの緒明造船所ではないかと思われます。

榎本武揚の部下に「塚原周造」という人がいましたが、この人は、下総豊田郡(茨城県下妻市)出身で、江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学び、明治政府にあっては大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進め、1886年(明治19年)には逓信省管船局長となりました。

このころ、榎本武揚が箱館戦争当時の同僚で、明治後は農商務大臣になっていた荒井郁之助が、箱館(函館)で討ち死にした戦友の中島三郎助という人物の供養のために造船所の創設を提唱しました。

中島三郎助は、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた人で、その後築地の軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、浦賀にあった長川という川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行うなどの功績のあった人です。

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁であった榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に加わりました。「蝦夷共和国」下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤めましたが、箱館市中が新政府軍に占領された後、本陣五稜郭降伏2日前に二人の息子とともに戦死。享年49才でした。

この荒井郁之助の提案に榎本武揚も賛成し、榎本の部下であった塚原にも声がかかり、榎本、荒井、塚原の三人は会社設立に向け奔走しました。この結果、浦賀の豪商の臼井儀兵衛と、緒明造船所社長になっていた緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立することになりました。

後年、さらにこの会社には後の浅野セメント社長になる浅野総一郎らも参加し、1897年(明治30年)、日本で最初のドライドックを保有する浦賀船渠(ドック)株式会社(現東洋汽船)が設立されました。

こうして、菊三郎は、、自らが興した緒明造船所の経営の傍ら、浦賀船渠などの経営にも参画し、造船業を中心に多角的な事業展開を図っていきました、造船のほかにも海運業を手掛けるようになり、このほかにも銅鉱石の採掘と精錬所の経営、伊豆や関東各地での緑林や開墾なども行うようになりました。

最盛期に菊三郎の所有した汽船の総排水量は3万tにおよんだそうで、明治時代における文字通りの造船王・海運王になりました。

ところが、お台場に造った造船所は、その後、焼失してしまいます。原因は不明ですが、同じ地に再建をしようとしたところ、政府からの貸地であったことから、明治政府からその継続借地の許可が下りなかったようで、この地での再建をあきらめます。

そして、移転を繰り返したのち、1903年(明治36年)になって三重県の志摩郡鳥羽町安楽島(現鳥羽市)に造船所を移す計画を立てました。

この地は遠浅の湿地帯だったようですが、ここに流れ込む「加茂川」という川の下流の浅瀬を埋め立て、ドック、倉庫等を建設し、7~8000トン級の汽船を4~5艘を横付けにし、参宮線も延長するといった遠大な計画でした。そして、大規模な埋立工事を開始しましたが、泥の深い海に堤防を築く事はかなりの難工事だったようです。

三重県関連のホームページ「三重県案内」の中の資料には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し・・・資を投すること百数十万」とあり、多くの経費を投入して工事を進めていたことがわかります。

その後も工事は続けられましたが、日露戦争で所有船が買い上げられてしまい、ついに工事が完工するのを見届けることもならず、菊三郎は、明治42年に死去。65才でした。

この干拓事業は、戦後農林省により再開され、昭和39年に完成しました。昭和45年には鳥羽市に払い下げられ、この土地には、「大明東町・西町」という名前がつけられました。この町名は「緒明」にちなんだものといわれています。

以上が緒明菊三郎に関するまとめです。緒明菊三郎という人物は、歴史上それほど有名な方ではなく、あまり資料のない中でのとりまとめなので苦労しましたが、なんとか形にしてみました。

まだまだ書ききれていない部分もあることでもあり、また後日新資料などを入手したら書き改めてみたいと思います。今日のところはここまでにさせていただきます。

漫画大国

戸田造船民族資料館にて

今、鳥取では、「第13回国際マンガサミット鳥取大会」という催しが行われているそうです。

「アジアMANGAサミット運営本部」という団体と県や米子市が主催しているもので、今月の7日から5日間の予定で、米子コンベンションセンターで開催されています。

このサミットは、日本、中国、韓国、台湾、香港の五か国が持ち回りで開催しており、国内では2008年の京都市に次いで4回目だとか。次回の開催は香港だそうです。

鳥取県では約3万人の人出を見込んでいるそうで、かなりの規模の催しです。今回のサミットのテーマは「食と海」で、開催五か国にマカオを加えた六か国から計177人の漫画家の参加も予定されています。

尖閣諸島の問題とか取りざたされているなか、大丈夫なのかなと思いましたが、案の定、中国は8月末段階の参加予定者31人を8人にまで減らしたそうです。せめて文化的な集いぐらい国を超えて協調すればいいのにと、ついつい思ってしまいます。

さて、今日はこの「漫画」について話題にしていきたいと思います。

文化庁所管の公益法人、「出版科学研究所」の発表によると、日本国内で2006年の段階で出版された漫画の単行本は10965点、漫画雑誌は305点だそうで、このほかにも廉価版の雑誌1450点が出版されています。

漫画と漫画雑誌の販売部数は、2006年に販売された出版物全体の36.7%に及ぶそうで、出版不況と言われる中において、出版業界における漫画による収益は大きな比重を占めています。

漫画というと、どうしても外来語である「アニメーション(アニメ)」と十把一からげにまとめられがちですが、アニメーションという言葉が1970年代後半から一般化し始めるまでは、テレビアニメ、アニメ映画などのアニメーション作品及び児童向けドラマなどはすべて、「漫画」「まんが」「マンガ」と呼ばれていました。

私も子供のころ「東映まんがまつり」などを映画館に見に行き、テレビでも「まんが日本昔ばなし」などが放映されていて、「アニメ」というよりも「マンガ」と呼んでいました。たしか、「テレビマンガ」という表現もされていたと思います。

最近の子供さんはみんな「アニメ」と呼ぶようなので、テレビのアニメを見て、「マンガ」などとついつい言ってしまう方、年齢がバレてしまいますので注意しましょう。

語源と歴史

さて、この「漫画」という言葉の意味ですが、字を見て素直に解釈すると「気の向くままに漫然と描いた画」という意味のようです。

「漫画」という用語がどのような経緯で使われるようになったのかはよくわかっていないようです。

が、中国から伝わった漢語では「気の向くままに文章を書く」、すなわち「随筆」を意味することばを「漫筆」といい、これが日本に伝来されて「漫筆画」という文字だけでなく絵を描く意味も含ませた語に派生し、これが変じて「漫画」になったのではないかという説があります。

また、中国語名で「漫画(マンカク)」というヘンな名前のヘラサギの一種がいるそうで、このヘラサギは雑食で水をくちばしでかき回して何でも乱雑に食べるようです。

このことから「種々の事物を漁る」という意味を表す言葉をマンカクというようになり、やがてマンカクとは「雑文」や「様々な事柄を扱う本」を指す意味に変じていき、これにも絵が加わって、絵や文字を綴ったものを「漫画」と呼ぶようになったという説もあるようです。

いずれにしても、もともとは文章を書いたものを指す用語だったものが、これに絵を加えたものも指すようになったと考えられているようです。

日本で初めて「漫画」という用語が使われたのは、江戸時代後期の1798年(寛政10年)に発行された「四時交加」という絵本で、この本の序文で浮世絵師の「山東京伝」という人が「気の向くままに(絵を)描く」という意味の言葉として、「漫画」を使ったのが一番最初といわれています。

しかし、漫画の発祥といえば、かの有名な平安時代の絵巻物「鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)」が日本最古のものであるとよくいわれます。

この時代にはまだ無論、「漫画」という言葉はまだ定着しておらず、また描かれたものも単に「滑稽な絵」という程度の単純なものでした。

このほかにも南北朝時代の作といわれる「福富草子」という御伽本では、主人公が「屁芸」で成功する話の中に、直接台詞が人物の横に書かれたものがあります。これは現代でいう「フキダシ」に近いものであり、このころの絵巻物には既に漫画的な表現が使われていたことがわかります。

また、平安時代末期の絵巻物で国宝に指定されている「信貴山縁起絵巻」でも一枚絵を連続させて次々場面転換をする技法が使われており、こうした絵巻物の文化自体が既に「現代の漫画」に似た要素を含んでいるという指摘もあるようです。

こうした物語風の絵を直接指し示して「漫画」というようになったのは、幕末に近い1814年(文化11年)に出版された葛飾北斎の画集、「北斎漫画」がはじめてです。北斎55歳のときの作で、その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行され、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれました。

この画集は国内で好評を博しただけでなく、1830年代にヨーロッパに渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えたというのは有名な話です。

北斎漫画のヒットにより、「漫画」は戯画風のスケッチを指す意味の言葉として広まっていきました。「北斎漫画」は絵手本、つまり「スケッチ画集」でしたが、戯画や風刺画も載っており、単に画集という枠を超えて、「戯画的な絵」「絵による随筆」という意味合いも強いものでした。

北斎漫画は、明治以後の、大正、昭和そして第二次世界大戦後も版行されるロングセラーとなり、幅広い層に愛読されるほどの名作でした。

これに先立つ江戸時代には、早くもこの影響を受け、日本画の絵師の尾形光琳までもが「光琳漫画」と称し、いくつもの戯画風の絵を載せた書籍を出版するなど、「○○漫画」というスタイルの本の出版は一種のブームになっていたと考えられます。

幕末から明治前期にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も「芳年漫画」を出版(1885年(明治18年))するなど、その後も「○○漫画」は多数世に出ていきました。

しかし、まだこのころの漫画はどちらかといえば浮世絵、または絵手本の域を出ず、「漫筆画」の形態に近いものであり、これが「漫画」という独立した分野の描法として確立するのはさらにそのあとになります。

まず、それまでは「ポンチ」や「鳥羽絵」、「狂画」、「戯画」などと呼ばれていたものを、現代と同じような意味で「漫画」と呼び始めたのが、明治時代の「錦絵師」、「今泉一瓢(いまいずみ いっぴょう)」です。

一瓢は1895年(明治28年)、風刺画を中心とする「一瓢漫画集初編」を出版し、”caricature”または”cartoon”の訳語として、始めて「漫画」という用語を入れて本を出版しました。

ただ、”cartoon”と”comic”という英語を初めて「漫画」ということばに訳したのは、明治から昭和にかけて活躍し、「日本の近代漫画の祖」といわれる北澤楽天です。

北澤楽天は「時事漫画や「東京パック」という雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画を執筆し、更に「漫画好楽会」という漫画同好会も結成して後進の漫画家の育成に努めました。「日本で最初の職業漫画家」ともいわれています。

その後、大正、昭和、戦後にかけての間、数多くの職業漫画家が出るようになり、最も有名なところでは、麻生豊が「ノンキナトウサン」を描き、田川水泡が「のらくろ」を、そして手塚治虫の名作の数々へとつながっていきます。そして、現在のように世界に漫画を輸出し「漫画大国」とまで言われるまでの日本の漫画界が築かれていきました。

近年の動向

手塚治以降の日本漫画の潮流については、それだけで膨大な量の記述が必要になるので、かなり端折らせていただきます。

日本の漫画は1960年代に、少年誌である「少年サンデー」や「少年マガジン」、少女誌である「少女フレンド」「マーガレット」、あるいは「ガロ」といった雑誌の流行により、瞬く間に日本国中に浸透していきました。

1980年代後半には、「週間少年ジャンプ」の発行数が400万部を超えるなどさらに隆盛を極め、さらにこうした少年誌だけでなく、青年漫画雑誌やレディスコミック誌も投入されて幅広い世代で漫画が読まれるようになりました。

そして、1995年に日本の漫画の売り上げはピークに達しました。時代の変化に合わせて取り扱われる漫画のジャンルも拡大し、発刊される雑誌も大幅に増え、情報雑誌と複合した漫画雑誌も生まれました。

読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊され、一方で性別・年齢の区分が半ばボーダレス化し、幅広い年代の男女に受け入れられるような雑誌が増え続けました。

ところが、1990年代後半のころからその売れ行きに陰りが出はじめ、新たな漫画雑誌の創刊が多くなされてきている一方、休刊になってしまう漫画雑誌も増えてきました。低年齢層の漫画離れが進み、少子化の影響もあってか、とくに少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込むようになりました。

その中には、古くから続いたものも多く含まれており、2000年代に入った最近も漫画雑誌の売上は減少を続け、漫画単行本の売上もピークのころに比べて10%ほども減少しているようです。

出版不況といわれ、漫画に限らず書籍全体の販売も落ち込んでいる中、1995年には漫画雑誌の販売金額が3357億円、単行本の販売金額が2507億円もあったものが、2005年には漫画雑誌の販売金額が単行本の金額を下回り、2009年には1913億円までに落ち込んでいます。

しかし漫画雑誌の売上が低下する一方で、単行本にはアニメ化などのメディアミックス(商品を広告CMする際に異種のメディアを組み合わせること)によってされた作品を中心にヒット作が生まれるほか、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになり、ゲームやライトノベルとの関連も強くなるなど、漫画を巡る環境は従来とはまるで違う方向に変化しつつあります。

漫画の輸出

こうした中、日本の「文化」として発達した漫画は、海外へ「輸出」されるようになり、出版業界の中でもとくに重要な分野として注目されるようになってきています。

「漫画」という用語は、既に大正時代に中国に輸出されて「中国語」になっており、また英語の“manga”のスペルはヨーロッパ語圏でも普通に通じる日本語の一つになり、”manga”とは、「日本の漫画」を指し示す代名詞として使われているほどです。

“manga”だけでなく、“tankōbon”(単行本)も英語圏でそのまま通用するといい、米国の「アメリカン・コミックス」や、フランス語圏の「バンド・デシネ」といった各国独自に発達した漫画と比べて、日本の漫画は、モノクロ表現や独特のディフォルメ、ストーリー性などが高く評価されています。

とくに、大友克洋さんのアニメ「AKIRA」が海外でも高く評価され、オリジナル作品はアニメにもかかわらず、漫画本として出版されることが決まり、他の国際版漫画と同様に、アメリカン・コミック形式の構成や彩色が行われて出版された結果、大ヒットとなりました。

これがきっかけとなり、他の日本アニメを漫画化して出版することが頻繁に行われるようになり、ヨーロッパを中心として日本漫画の一大ブームがおきました。

しかし近年出版される日本の漫画は、アニメ作品の流用ではなく、むしろオリジナルの日本漫画がそのまま出版されるようになり、その特徴を前面に押し出すために、「ヨーロッパ仕様」とはせず、日本で出版される「原書」に近い形で出版されることも多くなったといいます。

フランスにおけるブーム

現在、世界において、日本漫画の「消費量」で最も多いのは、日本を除けばフランスであり、アメリカがこれに続き、両国とも日本漫画の「消費大国」となっています。

1978年以前に、フランス語圏では現代的な意味での日本漫画の紹介はほとんど行なわれていませんでしたが、1990年代に入り、前述の大友克洋さんのアニメ映画「AKIRA」が大ヒットしたことから、まず最初に白黒版で書籍版が出版されました。

この本はアニメ映画版とは異質な部分もありましたが、漫画としての革新性がフランス国内で注目を集め、同年の末にはフルカラー版が刊行され、これがまた大ヒットを記録します。

その後も、北条司さんの「シティーハンター」がヒットするなど、1991年には豪華な誌面の「Animeland」などの日本漫画が掲載された雑誌が創刊され、次第にフランス語圏の日本漫画雑誌の代表へと成長してゆくようになります。

1996年には、Animeland 誌では日本アニメ・日本漫画特集号が組まれ、その後他の出版社でも日本の人気漫画が相次いで翻訳されていき、日本漫画の単行本の発行数は、1998年には、151冊、1999年200冊、2000年227冊、2001年269冊とうなぎ上りに増えていいきました。

2007年現在、フランス国内における新刊の漫画のうち、日本漫画のシェアは42%にも達しています。もっともこれはバンド・デシネのシリーズが年に一冊程度なのに対して、日本漫画は数冊のペースで出るためでもあります。しかし、それだけ頻繁に出しても売れるということの裏返しでもあり、日本漫画の人気ぶりがうかがわれます。

日本漫画がフランスで人気な理由は、その内容もさることながら、出版社が予め作品の人気を日本市場で確認でき、西欧の漫画作品よりも安い価格で入手できることなどがあげられます。また、着実な刊行ペースであることなどが固定読者の獲得を促したと考えられています。

フランスの出版社はこぞって日本漫画に特化したシリーズものを出版しており、フランスのテイストに配慮しつつ“manga”の普及を図るようになりました。そして2006年初頭には年間の発行部数が1110万部に達し、前述のとおりフランスは日本に次ぐ世界第二の日本漫画「消費国」となりました。

日本漫画は漫画類全体の流通総額でも25%を占めるようになり、出版界で最も動きの激しい部門の中で筆頭の伸び率を記録しているといいます。

今後の動向と輸出

一方、日本の漫画業界を振り返ってみると、国内の漫画の売り上げは1995年にピークに達したあとは、ずっと下り傾向です。低年齢層の漫画離れが進み、1990年代後半以降は少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込み、青年漫画が最も大きな市場となりましたが、その青年漫画においても、休刊、廃刊になる漫画雑誌が後を絶ちません。

しかし、その一方では、時代の変化に合わせて漫画のジャンルも拡大し、読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊されるようになりました。メディアミックスとの関係性も強くなり、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになりました。

かつては「読み捨てられるもの」であった漫画も文化と見なされるようになり、絶版となった作品の復刻や、漫画の単行本の図書館への収蔵が盛んに行われるようになり、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」に代表されるように、その昔一世風靡した漫画家たちが再び着目されるようになってきています。

出版業界の外に目を向けると、同人誌やアンソロジー、ウェブコミック(ウェブ漫画、インターネット上で公開する漫画)の文化も発展し、書き手の幅も広がっています。

同人誌ではいわゆる「二次創作(漫画作家による原作を一般人が真似て創作)」も広く受け入れられ、インターネット上でネタにされたことにより有名になった漫画も出てくるなど、漫画文化の多様化が著しくなってきています。

同人誌(どうじんし)とは、同人、つまり「同好の士」が、資金を出し作成する同人雑誌の略語で、非営利色の強い物も多く、商業誌としても少部数のものがほとんどです。

漫画・アニメ・ゲームなどの二次創作市場の拡大により、「同人誌」=「漫画・アニメ・ゲームの二次創作同人誌」というイメージが広がり、また、いわゆる「成人向け」の内容で流通するものも多いことから、「卑猥なものしかない」といったネガティブなイメージももたれています。

かつて新人のデビューの場といえば漫画雑誌でしたが、現在では同人誌即売会やインターネットが新人の発掘場所になっており、商業誌に作品を発表しながら、同人活動を続ける作家も多いといいます。

昔からアジア圏では、日本漫画を無許可の海賊版で出版されることが多かったようですが、近年はアニメブームとの相乗効果もあり、全世界規模で日本漫画を翻訳し、「正規版」としての出版が急速に伸びて来たといいます。

かつて欧米では翻訳して出版する際、漫画を左右反転させて左開きにして出すのが一般的だったものが、近年では作品を尊重して、日本と同じ右開きのまま出されるケースも増えてきているそうです。

2000年代からは各国で「少年ジャンプ」などの漫画雑誌が、現地向けに編集・翻訳されて多角的に出版されるなど、これまで見られなかったような日本漫画のグローバル化が進んできています。

前述のフランスにおける出版各社は、日本の昔の作品の発掘や、愛蔵版の編纂も進めているといいます。

中沢啓治が自身の原爆の被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」の復刊や、劇画創始者の一人である辰巳ヨシヒロの作品、「ガロ」を舞台に活躍した寡作な作家として知られる、つげ義春の「無能の人」など、最近では日本人さえ目にしないような内容の漫画ですらフランスでは刊行されるようになっています。

2006年には「水木しげる」の作品も出版され、その翌年には水木さんの「のんのんばあとオレ」がヨーロッパ最大の漫画イベントである「アングレーム国際漫画祭」の最優秀作品賞を受賞し、フランス市場における日本漫画の浸透ぶりを象徴する出来事となりました。

さらに、最近は日本の若く活発な世代による作品が売上を伸ばしており、どちらかといえば、大人向けの作家性豊かな日本の漫画も人気を博しているということで、こうしたフランスという「日本漫画消費大国」の動向は、そのまま他の日本漫画消費国に飛び火していくものと考えられています。

長い不況にあえぐ日本ですが、いまや重要な輸出品目になりつつある日本漫画は外貨獲得の上で重要な産業になっていくことは間違いありません。「たかが漫画」と思わず、このほかにも日本独自の文化を探し出し、その質を世界に問いかけていく、という道もまた今後の日本が歩む道のひとつの方向性かもしれません。

函館と白系ロシア人

昨日までの低気圧の通過に伴い、静岡県地方では激しい雷雨になりました。しかし一夜明けた今朝は、この雨が汚れた空気をすべて洗い流してくれたためか、すがすがしいものになり、窓から見える富士山もひときわきれいです。降雪もあったようで、低気圧通過前よりもさらに白さが増したような気がします。

さて、これまで何度か、伊豆沖の駿河湾でロシアのプチャーチン提督が乗ったディアナ号が遭難したお話を取り上げてきました。このプチャーチンは、日本で初めて建造された洋式帆船「ヘダ号」に乗って帰国しましたが、その直前に苦労した甲斐もあって幕府と日米修好通商条約を締結することに成功しました。

この結果、この当時「箱館」と呼ばれていた函館が日本初の国際貿易港として開港され、外国人居留地が設置されました。

この開港以来、函館は貿易地として栄えるようになり、函館山の北東部方面に向かって徐々に市街地ができ、周辺の市や町を合併しながらさらに市街域を広げながら人口を増加させていきました。

明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれ、その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあり、こうした経緯から札幌ができるまで箱館は北海道の中心地でもありました。

短い間とはいえ県庁も置かれていたためもあり、今日でも主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関などが一通り所在しており、教育においても旧制中学校や高等女学校、実業学校や師範学校などの明治時代に設立された学校の後身校が今日まで存在しています。

函館の中心市街地は、函館山と陸つながりの「砂州」の上を中心として展開する形で広がっており、この砂州が接続する函館山北東麓斜面(元町・末広町)には、幕末や明治期からの都市景観が数多く残っています。

この地区は明治期より度々大火に見舞われましたが、そのたびに復興事業が行われ、大街路が縦横に通る都市計画が実施されてきました。1879年(明治12年)の復興時には「斜面に建つ家屋はロシア・ウラジオストク港のスタイルにならうように」と条令が定められ、2階の外観のみ洋風で内部と1階は和風である和洋折衷建築が多数建てられました。

このため、坂の下の港から望むと洋風の2階建の建物の外観が目に飛び込むという特徴的な景観が生まれ、日本の港町とは思えないような情緒ある洋風の景観を醸し出しています。

かつての定住ロシア人が建設したロシア領事館やこれに付属するハリストス正教会の聖堂などのロシア建築もこの美しい風景を彩っています。

ロシアと函館の関わりは、1855年の日露和親条約に伴う開港から始まりましたが、その後多くのロシア人がこの地に定住するようになったきっかけは、1917年に起こったロシア革命です。

1917年(大正6年)の10月、レーニンが指導するボルシェビキ(後の共産党)が武装蜂起し、首都ペテログラードを占拠。ケレンスキー内閣を倒し、歴史上初めて社会主義政府を実現しました。

悪名高かったロシア帝国を滅ぼして成立したボリシェヴィキ政府ですが、この革命に入る前、旧ロシア帝国とドイツは戦状態にあり、ドイツはこの革命のどさくさに紛れて旧ロシア領である現在のバルト三国方面に深く攻め入っていました。

このドイツとの交戦の継続は、一日も早く国内を安定させたかった新政権にとっては大きな問題であり、できるだけ早くドイツと講和を結ぶ必要性を感じていました。

このため、1918年、「ブレスト=リトフスク条約」という講和条約をあわててドイツと締結しましたが、この講和条約は新生ロシア連邦共和国にとっては苦渋の選択でした。講和の条件として、旧ロシア領であった現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかったためです。

このようなドイツ軍の横暴を食い止めることができなかったボリシェヴィキ政権に対し、国内では大きな不満が渦巻くことになり、講和条約の締結に刺激され、ロシアの内外のあちこちで反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めました。

こうしていわゆる、「ロシア内戦」が始まり、この内戦は1920年までに終結しましたが、この内戦を避けるために、多くのロシア人が祖国を脱出し、日本へ逃れてきました。

日本に亡命してきた旧ロシア帝国国民の多くはいわゆる「ロシア人」といわれる生粋のロシア人が多数でしたが、このほかにも多くのロシア系の非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人などが含まれていました。

非ロシア人の多くは、母国語であるウクライナ語やポーランド語を常用語としていましたが、日本人と意思疎通を図るためには、それよりは通じやすいロシア語を用いていました。このため、彼らは正確にはロシア人ではありませんでしたが、日本人は彼らのことを「ロシア人」であると解釈していました。

こうして、1918年に日本に来たこれらのロシア人およびロシア系非ロシア人の亡命者の数は、1年間だけでも7251人(当時の日本の外事警察の記録による)となりましたが、この中にロシア人以外の非ロシア人がどの程度含まれていたかは明らかになっていません。

なので、これらのロシア人およびロシア系非ロシア人のことを一般的には「白系ロシア人」という言い方をします。その多くは、その後函館で暮らしたあと、しばらくしてからオーストラリアや米国などに再移住していきましたが、そのまま日本にとどまって永住した人たちも少なくありません。

そして彼らがロシアからもたらした風習は現在に至るまで函館の日本人の生活にも溶け込み、現在に至るまで「函館の文化」としてこの町に根付くようになりました。

ロシア革命後、日本とボルシェビキ政府、その後のソ連はしばらく国交が断絶していましたが、1925年(大正14年)に「日ソ基本条約」が締結されると国交が正常化しました。

このとき、ロシア革命時の亡命者の一人で、ロシア帝国最後の在日代理大使を務めていたアブリニコフという人は、日ソ基本条約締結後も日本に留まり、第二次世界大戦の終結まで白系ロシア人の取りまとめ役として日本政府との交渉に当たりました。

こうしたとりまとめ役の存在により、函館における白系ロシア人の治安はかなりよかったようで、日本人との交流の進む中、積極的に日本人とともに働く人々が増えていきました。

白系ロシア人が携わるようになった職業としては、漁業のほか、貿易、毛皮、不動産業、ジャム製造業、パン、化粧品売りなどなどで、他に喫茶店やカフェ経営もありました。最も有名なのは、「ラシャ売り」と呼ばれた主に紳士服の行商人でしたが、この人達はその後、内地に拠点を決めて年ごとに全国を移動するようになり、必ずしも函館を定住地には定めなかったようです。

こうしてロシア革命で亡命した白系ロシア人は函館一カ所にとどまらず、全国各地に散らばっていきました。その後完全に日本人として暮らし始めた人も多く、知的職業としては、漁業会社の通訳、あるいはロシア語教授もおり、東京などの大都会へ進出し、ピアニストやバレリーナ、画家等になった人も多かったといいます。

創生期のプロ野球で300勝を記録したスタルヒンは、日本名は「須田博」と名乗っていましたが、結局日本国籍の帰化申請が受理されず、生涯無国籍のままで終わりました。

また、ガラス容器入りプリンで人気を博した神戸の老舗洋菓子店「モロゾフ」の創業に深く関与したフョドル・ドミトリエヴィチ・モロゾフとヴァレンティン・フョドロヴィチ・モロゾフの親子もそうしたロシアからの亡命者です。

モロゾフ家の末裔は、これとは別に「コスモポリタン製菓」という会社を設立して、これを直営していましたが、2006年に廃業しています。

このほかにもお菓子屋さんとして、神戸に洋菓子メーカーの「ゴンチャロフ」という会社があります。チョコレート菓子を中心に作っていて、ウイスキーボンボンで有名ですが、この創業者マカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人であり、ロシア革命当時に日本に亡命してきた人のようです。

ヴァイオリニストの小野アンナさん、本名アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワさんは、日本人女性ヴァイオリニストの生みの親と呼ばれた人です。

日本人ヴァイオリニストとして著名な諏訪根自子(すわねじこ)さんや巌本真理(いわもと まり)さん、前橋汀子やさんや潮田益子らを育てた人として有名ですが、この人もロシア革命時に日本にやってきた白系ロシア人です。

ロシア革命当時、ペトログラードに留学していた日本人の小野俊一氏(後のロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年に結婚。翌1918年、革命下のロシアを離れ、東京にやってきました。その後長らく「小野アンナ」名義で日本でヴァイオリン教師として教鞭を執り、戦後は武蔵野音楽大学で前述のような若手ヴァイオリニストを育て上げました。

1958年に、お姉さんのワルワーラとともにソ連に渡り、グルジアのスフミ音楽院にてヴァイオリン科教授に就任した後、1979年にスフミにて永眠。

このほか、指揮者の小澤征爾さんの奥さんで元女優、ファッションデザイナーの入江美紀さん(現小澤ヴェラさん)もお父さんが白系ロシア人で、ご本人も本名はヴェラ・ヴィタリエヴナ・イリーナといいます。

そのほか、松田龍平さんの奥さんの太田莉菜さん、歌手の川村カオリさん、その弟で俳優の川村忠さんなどもお母さんがロシアの方だそうで、元歌手で俳優の東山紀之さんも、父方の祖父がロシア人の血を引いているそうです。

最近テレビをつけるとたいてい何等かの番組に出ているローラさんも、お母さんが日本人とロシアのクォーターだそうで、こうしてみるとロシア人系の方というのは芸能・音楽関係でとくに目立ちます。ロシア人の血というのは、そうした職業に向いているのかもしれません。

しかし、白系ロシア人の亡命者やその子孫の人数は、戦後の混乱期の影響により、資料や統計が不足しているうえに、すでに日本国籍を保持し、見た目は日本人とほとんど変わらなくなっているため、いったいどれくらいの「ロシア系」の人が日本にいるのか、正確な数字はわかりません。

ロシア人以外の在日韓国人や中国人、米国人やその他のアジア人の混血などに比べても、その存在はほとんど目立たなくなっており、むしろもう日本人と同化しているといっても良いのかもしれません。

ただ、日本で活躍した白系ロシア人の亡命者達の中には、「ハリストス正教会」の信者であった人も少なくなく、その多くの子孫は現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命ロシア人系のコミュニティを形成しているようです。

このハリストス正教会ですが、1859年にロシア領事のゴシケヴィッチが、函館の領事館内に聖堂を建てたのがそもそも日本での発祥になります。

この最初のハリストス正教会の初代司祭は、教会ができたあとすぐに帰国しましたが、1861年に来日した修道司祭の「亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)」によって日本人3人が洗礼を受け、これが現在の「日本正教会」の原型となったそうです。

函館ハリストス正教会は日本正教会の最初の聖堂を持つ教会であり、日本における正教会伝道の始まりの場所でもあります。日本の正教会の拠点はその後、ニコライによって函館から東京の神田に移され、以後当地に建設されたニコライ堂(東京復活大聖堂教会)を中心に宣教を拡大させていきました。

しかし、日本正教会は、明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。

まず日露戦争によって、日本とロシアの関係が悪化し、正教会が白眼視されたことがあげられます。さらには突然、ロシア革命という決定的打撃を被り、日本正教会は、物理的にも精神的にも孤立無援の状態となりました。

しかも引き続いて起こった関東大震災により、東京のニコライ堂が崩壊します。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、火災が起き、聖堂内部のものをすべて焼き尽くし、貴重な文献や多くの書籍なども焼失してしまいました。

その後日本全土の信徒の募金によって昭和4年に東京復活大聖堂は復興しましたが、日本の中では正教会だけでなくすべての宗教にとって政治的な統制を受ける困難な時代を迎えました。世界大戦の混乱の中、司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいました。

しかし、戦後、日本正教会は、アメリカ正教会から主教を迎えました。アメリカ正教会もロシアから伝道された正教会で、日本の正教会とは姉妹関係にあります。そしてアメリカ正教会がロシア正教会から完全独立するのに伴い、昭和45年に日本正教会も自治教会となりました。

自治教会とは、完全には独立しないものの、経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行うという形です。こうして日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励むようになり、各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されました。

この中でも函館のハリストス正教会は日本正教会でも最も長い伝統を誇る教会としてその活動を今も存続し続けています。

2010年現在、日本ハリストス正教会の信者は1万人ほどもいるといいます。ほとんどの信者は日本国籍を持つ日本人ですが、前述のように亡命ロシア人系のコミュニティもこの中に存在し続けているようです。

聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)と、函館ハリストス正教会(復活聖堂)、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財にもなっており、
その他のハリストス正教会でも、いまやほとんど見ることのできなくなった貴重な明治・大正の建築をみることができます。

現在、日本には15のハリストス正教会の聖堂があり、その多くは明治時代や大正時代に建築された貴重なものであり、各地の観光にも役立っています。以下に、そのリストを示しましたが、あなたの町にもハリストス正教会聖堂があるのではないでしょうか。

・日京都ハリストス正教会
・生神女福音聖堂
・札幌ハリストス正教会 (主の顕栄聖堂)
・斜里ハリストス正教会(生神女福音会堂)
・函館ハリストス正教会(復活聖堂)安政5年(1858年)築。現聖堂は大正5年改悛。
・旧石巻ハリストス正教会教会堂(聖使徒イオアン聖堂)明治13年(1880年築)木造教会堂建築としては国内最古。
・仙台ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治2年(1869年)開教。
・東京復活大聖堂(ニコライ堂)竣工1891年、再建1929年。
・豊橋ハリストス正教会(聖使徒福音記者マトフェイ聖堂)大正4年築。
・半田ハリストス正教会(聖イオアン・ダマスキン聖堂)大正2年築。
・京都ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治34年(1901年)築。1891年竣工のニコライ堂と並んで最古級。
・大阪ハリストス正教会(生神女庇護聖堂)昭和37年再建。鐘楼は明治43年のもの
・神戸ハリストス正教会(生神女就寝聖堂)昭和27年建立。
・徳島ハリストス正教会(聖神降臨聖堂)昭和55年建立。
・鹿児島ハリストス正教会(聖使徒イアコフ聖堂)昭和32年再建。

近年、日本のキリスト教諸教団が「靖国問題」や「憲法問題」などの政治運動に熱心に取り組んでいるなか、日本ハリストス正教会は他の諸教団とは一線を画して、正教会という団体としては政治運動と一切関わりを持っていないそうです。

これについては「政治的中立性を保っている」という評価から、「体制従属的である」という批判までさまざまでありますが、「体制従属的である」という批判の声があがる原因のひとつは、ハリストス正教会が捧げる祈りの中に、「天皇と為政者のための祈り」というものがあるためです。

諸外国の正教会では君主や為政者への祈りを捧げることは珍しくなく、イギリスの正教会では女王のために祈りを捧げ、また米国でもアメリカ正教会が大統領と全軍のために祈りを捧げています。

こうした祈りは、君主や為政者、国軍が暴走をせず国民の平和と安寧秩序のためになるようにとの願いを常に込めているとされ、日本ハリストス正教会による天皇と為政者への祈りもまた同じ意義を持っているそうです。

ハリストス正教会では、ローマ帝国時代からオスマン帝国、ソビエト連邦において迫害を受けていた時期にも、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイによる福音書による)」を実践し、異教徒である為政者のための祈りを正教会は行ってきており、一貫して「敵のための祈り」を実践してきたといいます。

「その国の象徴・元首のために祈る」のは「体制迎合」では説明できない何か広い心のようなものを感じることができ、「汝の敵を愛せ」と言ったキリストの言葉を今も忠実に実践しているこの正教会の姿勢には好感が持てます。

日本の政治家も「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とまではいいませんが、せめて敵対する相手に対して礼節を持って対峙し、理解できる点を共有しともに育てていこうという姿勢が欲しいものです。

敵をも愛せるという思想がどこかにあれば、今のような国民そっちのけの誹謗中傷合戦は少しは治まるのではないかと思います。

アメリカの大統領選も終わったようです。オバマさんにせよ、ロムニーさんにせよ、アメリカの政治家たちは果たして汝の敵を愛せるような人たちなのでしょうか。

結婚します?

「今日は何の日?」というテーマを売りにしたサイトがたくさんあります。そうしたサイトに今日は「お見合い記念日」と書いてあるのを見て、当ブログの今日のテーマもお見合いだな?とにらんでいた方、当たりです。

その昔、若いころに、渡辺昇一さんの「知的生活の方法」という本を読みましたが、この中に「リソースフル」な人間になるための方法が書かれていたように記憶しています。

リソースフルとは、発想力豊か、というほどの意味だったと思いますが、最近、このリソースフルに焼きが回ったのか、ブログを書くにあたってもなかなか良い発想が出ず、ついついこういうサイトを見てしまいます。もう一度渡辺さんの本を読み返して、「リソースフル」を取り戻す努力が必要なのでしょう。

さて、とはいえ、せっかく見つけた面白そうなテーマなので、今日のお話は「結婚」にまつわるお話としましょう。

まずは、今日がなぜ「お見合いの日」なのかというと、1947年(昭和22年)の今日、結婚紹介記事を主に扱う「希望」という雑誌を出していた出版社が、東京の多摩川の河畔で集団お見合いを開催したことを記念したことにちなんでいるそうです。

戦後間もないころのことであり、戦争に私生活を蹂躙されたために婚期を逃した20~50歳の男女386人が参加してお見合いを行ったのだとか。お見合いの結果がどうであったのかよくわかりませんが、現在と比べるとかなりの高率での結婚成立に至ったのではないかと推察されます。

ちなみに、私の父も戦争にとられ、シベリアに抑留された後に帰国し、旧建設省でダムの仕事をしていたころの山口県で母とお見合いをして結婚しています。このころは、そういう若いカップルをみつけては結婚させる、おせっかいなおじさんおばさんが結構いたようで、私の父もその当時住んでいた官舎近くの村の誰かと懇意になり、そこから来たお見合いの話に乗ったようです。

確か昭和25年ころのことだったと思いますが、このころの日本の平均初婚年齢は男性が26才、女性が23才くらいだったようです。

その後平成に入るまでは、だいたい男性が26~28才、女性も23~26才くらいまでには結婚していたようですが、平成に入ってからはだんだんと初婚年齢があがり、平成22年の段階では男性の平均が30.5才、女性が28.8才となるなど、もうじき男女とも初婚年齢が30才を超えようかという勢いです。

先進国の中では、日本は結婚率の高い国のひとつだそうで、正式婚の数は、1978年以降、平成16年に至るまで年間70万件台を維持しているということですが、未婚率は年々上昇しており、30代前半で未婚の男性の割合は1960年の9.9%から2005年には47.1%まで上昇しているとのこと。

生涯未婚率も上昇しており、2010年時点で男性19.4%、女性9.8%となり、男性の5人に一人、女性の10人に一人は一生結婚しないという時代になりました。

ちなみに婚外子、つまり結婚していないシングルマザー、シングルファザーの子供の数は全体の2%程度だそうで、フランスなどのように半数以上が結婚せずに子供を産んでいる国に比べればかなり低率のようですが、これも年々増加しつつあるのだそうです。

結婚しない理由

このように、平均結婚年齢が年々上昇し、未婚率が上昇して非婚化・晩婚化が進んでいる要因については、いろいろな原因が取沙汰されています。

一般的には女性の高学歴化や社会進出が言われ、女性が自身で相当程度の収入を得られる社会になり、「結婚しないと生きていけない」というような状況ではなくなったことが原因とされます。

また、不況などの影響もあって、結婚して子供ができたらその育児が困難になる、という理由や、「どうしても結婚しなければならない」という社会通念が希薄化しているのではないかという指摘もあり、女性の社会的身分が男性と肩を並べるようになったことも、結婚への意欲を削ぐ原因になっているのではないかといわれています。

働く女性にとっては、「出産」は大きな負担であり、一時的なリタイヤのあと、再び復帰できるのかを心配する向きも多いのではないでしょうか。

ジャーナリストで、ライターの「白河桃子」さんという方がいらっしゃいますが、女性たちの年代別ライフスタイル、未婚、晩婚、少子化などをテーマに執筆活動を続けられておられます。

「婚活時代」という本を旦那さんである現中央大学教授の山田昌弘と共に書かれ、この中で使われた「婚活」という言葉は、2008年度に続き、2009年度も新語・流行語大賞にノミネートされ、社会に影響力を持つワードとして注目されました。

旦那さんの山田さんのほうも、成人後や学卒後も親と同居し続ける未婚者のことを「パラサイト・シングル」と命名するなど何かと最近話題になることの多いご夫婦です。

この白河さんは、「婚活アドバイザー」を自称していらっしゃって、そうした活動の中でいくつもの婚期を遅くしてしまった男女の例を見てきた結果、近年なぜ結婚が晩婚化しているのか、なぜ結婚しないのかについて、以下のように分析しておられます(筆者要約)。

○女性の視点から見て、男性と同居することの魅力の減少(男性の収入の不安定化)

男性の場合、収入が低くて将来の見通しが不安定だと、結婚率が低くなります。結婚を安定させるだけの収入がないのに、結婚どころではありませんし、まして子育てができるような見込みも立ちません。

1990年頃までは、男性は年功序列制度により、収入が低くても将来収入が増える見通しがありましたが、1990年代に入り、ニューエコノミーへの転換やグローバル化という大きな社会変化がありました。これにより、正社員や一部の専門職とは別に、パートやアルバイト、派遣社員などの非正規社員・周辺的正社員などが必要な状況へ社会構造が変わっていきました。

この結果男性の収入は全体的に低くなり、将来の見通しがたたない不安定な状態になっていき、女性からは結婚相手として魅力に欠ける相手と映るようになっていったというわけです。ただし、女性の場合は、年収はそれほどなくても結婚はできると考える人が多いためか、収入と結婚率の間には相関関係はみられないといいます。

○男性の視点から見て、女性と同居することの魅力が減少

一方では、男性で正社員の職についていて収入が良くても、男性自身が結婚しない、結婚したがらない人も増えており、結婚に特にメリットを感じない、女性と暮らすことにあまりメリットが感じられない、と考えている男性も増えているといいます。

現代では、家庭で自炊をしなくとも外食産業や中食(コンビニ等)などが発達し、家事においても洗濯機や調理器具などの便利な家電製品が数多くあり、女性に頼らなくても、男性だけで十分に快適な生活が成り立ちます。独身男性の視点から見て、女性と同居することのメリットが減少しているというわけです。

○社会的圧力の減少

かつての日本には、「結婚して一人前」とする周囲からの社会的な圧力がありました。たとえば、「結婚しないと出世が遅くなる」というのは多くの企業であたりまえであり、独身をつらぬこうとするだけで勇気が必要であったといいます。

これは、扶養義務を持たない「身軽な」人間を要職に就けることに企業経営者が抵抗を感じていたためであり、結婚適齢年齢までに結婚することを「義務」とするような社会的な風潮があったためです。若手女性社員は男性社員のお見合い要員と見なされるような風潮もあり、企業が結婚相手を世話することも多く、結婚は企業が従業員を統制する手段でもありました。

しかし現代では、男性はそのような社会的な圧力は受けることは少なく、企業からの結婚話の斡旋は逆にセクハラやパワハラの問題となる可能性もあり、仮にそういった申し出が会社の上司からあったとしても、とくに男性の場合、女性よりも収入は良いことが多いため、いくらでも結婚の回避や先延ばしが安易になってきています。

○社内恋愛、社内結婚、お見合いなどの機会の減少

従来、社内恋愛は大切な出会いの場でしたが、近年は就職氷河期が続き、女性社員も採用が減り、インフォーマルな付き合いとはいえ、社内恋愛も減ってきました。若い男女が社内でふれあう機会の減少に伴い、社内結婚も減少しました。

同時に前述のように社会的な圧力が減り、知人などから勧められて「お見合い」の席に着く人も減ったため、結婚相手としての異性と巡り合うきっかけも減ったことが結婚率の低下につながったと考えられます。

○女性の専業主婦志望と男性の共稼ぎ希望との齟齬

「女性も収入をもたらして欲しい」という望みを抱く男性も以外に増えていることに女性が気づいていなかったり、応えようとしていないことも考えられます。白河氏独自の調査では、女性が専業主婦を希望していることを嫌がる男性も統計的に増えてきているそうで、結婚後も、女性が労働し、収入を家庭にもたらして欲しいと考える男性が増えているといいます。

白河氏による2005年の調査では、66%ほどの男性が、女性にも収入をもたらして欲しい、と思っており、女性に専業主婦になって欲しいと望んでいる男性はわずか12%にすぎないという結果が出ました。

ただし、女性に年収800万だの1000万円という高収入ではなく、手堅く仕事をして数百万円程度を稼いでくれることを男性は期待しているようです。近年の不況下では、ひとりの人間が収入を100万円増やすことも至難であるので、女性の稼ぎの有無で、一家の生活状況は大きく変わるというわけです。

……いかがでしょうか。未婚のあなた、結婚しない理由として心当たりのある原因があったでしょうか。私も白川さんのご意見にはだいたい賛成ですが、とくに「社会的な圧力の減少」というのはインパクトが大きいように思います。

こういう考え方は時代錯誤だ、といわれてしまうかもしれませんが、企業のみならず、一般的にも結婚を社会の一員となるための「義務」というふうにとらえる風潮は全くなくなっており、私はこのことが最大の原因のように思います。

まさか結婚を法制化するなんてことはできないにせよ、結婚することによって経済的なことや育児の面でいろんなメリットが出てくるような法律を造り、社会的にみても若い人の結婚を後押しをするようにすることが促すことが、少子高齢化が進む日本では必要なことではないでしょうか。

離婚率の上昇

しかし、我が国ではせっかく結婚しても、離婚する人も増えているといいます。は平成元年から平成15年にかけて連続して増加しているそうで、平成18年の離婚件数は約25万件、「人口千人あたりの、一年間の離婚件数」、すなわち「離婚率」は平成17年で2.08件ということです。

離婚率が3.39であった明治時代に比べればかなり減っていますが、これは、明治時代の女性は処女性よりも労働力として評価されており、再婚についての違和感がほとんどなく、嫁の追い出し・逃げ出し離婚も多かったことや、離婚することを恥とも残念とも思わない人が多かったことが理由とされています。

1000件のうちの、2.08件というと少なそうにみえますが、これは、厚生労働省の統計による「その年1年間の離婚率」にすぎません。全国の「その年の離婚件数」を全国の「その年の新規婚姻件数」で割ると、マスコミなどでよく言われているように「3組に1組が離婚」となり、この比率は「生涯のどこかで離婚する割合」にかなり近くなるといいます。

また、厚生労働省「平成21年 人口動態統計」をみると過去40年間の婚姻数が3202万人、であり、同じく30年間の離婚数が748万人となっており、この数字をもとにすると離婚率は23%となり、このデータの中にはもっとも婚姻数が多い1970年代のデータが含まれているにもかかわらず「4組に1組が離婚」という衝撃的な数字になっています。

こうした離婚の原因ですが、法務省が整理した「司法統計」によれば、離婚の申し立てにおいて、夫からの申し立て理由で最も多かったものは「性格の不一致」であり、これに次いで「異性関係」、「異常性格」の順が多いのだそうです。

また女性からの申し立て理由だけを取り上げると、その一番はやはり「性格の不一致」ですが、これに次いで、「暴力をふるう」、「異性関係」の順が多くなっており、DV(ドメスティックバイオレンス)が増加している社会風潮がこのデータからも見て取れます。

離婚の子供への影響

ところが、離婚について、どう思うか、という調査をしたところ、意外なことに離婚に対しては罪悪感を感じている人が多いようです。

内閣府が平成19年に行った「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「相手に満足できないときは離婚すればよいか」との質問に対して、賛成派(「賛成」と「どちらかと言えば賛成」の合計)は46.5%にとどまったのに対して、反対派(「反対」「どちらかといえば反対」の合計)は47.5%となり、賛成派を上回りました。

この調査は毎年行われており、反対派が賛成派を上回るという結果が出たのは23年ぶりだそうで、賛成派は1997年に行われたときの54.2%をピークに毎回減り続けており、一昔前に比べると、離婚をあまりよくないことだと考えている人が多くなってきているようです。

その理由についてはいろいろ取沙汰されているようですが、やはり原因として一番大きなものは、夫婦の間に子供がいた場合、離婚が子供に与える影響をおもんばかってのことではないかと考えられます。

かつて、離婚は子供に何の影響も与えないと考えられていましたが、アメリカの心理学者ジュディス・ウォーラースタインは、親が離婚した子供を長期に追跡調査して、子供達は大きな精神的な打撃を受けていることを見出したといいます。

子供達は、両方の親から見捨てられる不安を持ち、学業成績が悪く、成人してからの社会的地位も低く、自分の結婚も失敗に終わりやすいなどの影響があったといい、これはアメリカの研究結果ですが、こうした研究結果を日本の離婚予備軍も目にすることが多くなったと考えられます。

バージニア大学のヘザーリントン教授が1993年に行った実証的研究では、両親がそろっている子どものうち、精神的に問題が無い子どもは90%であり、治療を要するような精神的なトラブルを抱えている子どもは10%であるのに対して、両親が離婚した子どもではトラブルを持っている子供の比率は25%という高率でした。

このほかにも離婚が子どもに悪影響を及ぼすことについて、スウェーデンやイギリスなどの多くの国で大規模な追跡調査が行われた結果、悪影響が実際に存在することが確認されたそうで、親の離婚によって「壊れていく」子どもたちの症例が多数報告されたそうです。

逆に、子供から引き離された片親が精神的なダメージを受ける「片親引き離し症候群(PAS)」という病気まであるそうで、離婚によって子供から引き離される親の心理的なダメージも相当なものと考えられます。

ケンブリッジ大のミッシェル・ラム教授は、離婚が子どもの成育にマイナスの影響を及ぼす要因として、次の5つを挙げています。

① 非同居親と子どもとの親子関係が薄れること
② 子どもの経済状況が悪化すること
③ 母親の労働時間が増えること
④ 両親の間で争いが続くこと
⑤ 単独の養育にストレスがかかること

ラム教授によれば、子どもの健全な発育には、父親の果たす役割はかなり大きいそうで、こうした調査結果などを踏まえて、欧米各国では、1980年代から1990年代にかけて家族法の改正が行われ、子どもの利益が守られるようになったといいます。

日本も批准した「子どもの権利条約」では、その対策として、①子供の処遇を決めるに際しては、年齢に応じて子供の意見を聞くこと、②別居が始まれば両親との接触を維持すること、を求めているそうです。ところが一方、子供の側からみた「子どもの権利」は、日本では裁判規範とはされず、裁判所によって無視されているそうで、国際機関から再三勧告を受けているといいます。

「子供の権利」とは、「両方の実の親との関係を維持する権利」であり、それだけでなく、「基本的な食事の必要を満たし、国家がお金を出す普遍的な教育を受け、体のケアを受け、子供の年齢と発達の度合いから見て適切な刑事法の適用を受け、人間としての独自性を発揮する権利」まで含まれています。

このほかにも、子供が虐待から身体的にも精神的にも感情的にも自由になることを援助することまで含まれており、こうした主旨の権利の主張が子供側からあった場合でも裁判所がこれを無視できる国というのは、先進国とはいえないのではないでしょうか。

父親と母親が争って相手を非難しあっているとき、きっと子供自身もまるで自分が非難されているように感じていることでしょう。

傷つき引き裂かれるであろう子供の心を思いやり、たとえ離婚がやむを得ないとしても、子どもの利益を最優先し、離婚後もきちんとコミュニケーションを行って、協力して子どもを育てていく、というのが全世界ルールとなっています。

先進国では、離婚手続きの一環として、育児計画の提出を要求されることが多いといいます。離婚時に詳細な育児計画を決めておけば、その後の多くの争いを予防できるためであり、日本でもこうした制度を取り入れていくべきだと思います。

負け犬の遠吠え?

さて、とはいえ、離婚はまず結婚しなければできないもの。世にはまだまだたくさんの独身者がいます。

前述の白河桃子さんは、近年の女性の結婚観が、従来通り結婚への願望は抱きつつもDVをはたらくなどのダメな男性をできるだけ避けたいというふうに変化している、と指摘されています。

そして、こうしたダメな男を避け、たくましく一人で生きていこうとする女性たちをむしろ応援したいとする女性活動家も増えています。

「だめんず・うぉーかー」などを書いた漫画家の倉田真由美さんなどもその一人です。28歳で結婚し、一子となる男児を出産後に離婚し、さらに自らの連載上で未婚のまま第二子を妊娠していることを発表されるなど、いろいろマスコミをにぎわせている方ですが、シングルマザーとしてのその生活を明るく笑い飛ばし、多くの独身女性の支持を得ています。

また、エッセイストの酒井順子さんも未婚女性を応援しています。2003年(平成15年)に出版したエッセイ集 「負け犬の遠吠え」において、30歳代超・子供を持たない未婚女性を指してこう表現する事で逆説的にエールを送り、この「負け犬の遠吠え」は2004年度流行語大賞のトップテン入りも果たしました。

日本では、結婚・子育てこそ女の幸せとする価値観が根強い一方、結婚よりも仕事、家庭よりもやりがいを求めて職業を全うする女性が増加の一途を辿っています。

この結果、気が付いた時には「浮いた話の一つもない30代」という女性が、昔ならば「ダメ女」の烙印を押されるところが、現在では相応の社会的地位を得て安定した生活を送っています。酒井さんは、こうした女性を半ば自嘲的に「負け犬」と自称し、この「開き直り」の姿勢がまた若い未婚女性に大いに受けました。

職場では相応の地位を獲得しながらも結婚できないというジレンマに陥り、それでもそうした人生を悲観することなく明るく生きていく……それでホントにいいのかぁ?と問いたくもなります。

しかし、近年では主夫の増加など、女性だけでなく、男性の社会における役割も変化してきている時代であり、伝統的な価値観だけに縛られて生きる必要性もまたありません。

現在、スウェーデンでは56%の人が未婚のまま出産するか、あるいはその多くはそのまま生涯未婚を通すそうです。フランスでも半数以上が未婚のまま出産を行っているとのことで、こうして生まれた「婚外子」は年々増加しつつあるのだそうです。

こうした中で結婚しなくても夫婦と同等の権利になれる制度が法的に定められているからではありますが、案外とこうした社会形態が今後の日本にも定着する未来形なのかも。

別々に暮らしてはいても、夫婦として子育ての責務はきちんと全うし、子育てが終わった後のちに、本当に愛し合い一生連れ添いたいとお互い思った場合のみ結婚を行うという考え方もあってもよいと思います。

あるいは我々が死ぬころにはそれが日本社会一般の常識になっているのかもしれません。一生連れ添いたいと願っていても、その日までどちらとも元気でいるとは限りませんが……