東急 vs 西武


先日、爪木崎の水仙を見に行った帰り、海岸沿いの135号が道路工事のために混雑していたため、修善寺へ帰るために伊豆西海岸を通って帰ることにしました。

下田から国道414号を通って北上し、途中の谷津から西進して県道15号を通り堂ヶ島へ向かうルートをとりましたが、この途中、河津から下田へ向かう伊豆急行の「蓮台寺駅」の側を通過しました。

辺鄙な山の中にある駅であり、なんでこんなところに駅あるんだろう、なぜ海側に線路を通さなかったのだろう、と疑問に思いましたが、昨日このブログでも取り上げた五島プラネタリウムの創設者、五島慶太のことを調べていてその理由がわかりました。

五島慶太は、東急グループの創設者であり、昭和の鉄道王として知られた人物ですが、ここ伊豆の観光開発にも力を注いだ人で、この伊豆急行も彼が率いる東急電鉄によって伊東から下田まで延伸されました。

その際、当初は海岸沿いに線路を敷設する予定だったものが、その予定地がすべて他社により買収されており、線路を通すことができず、やむをえずこんな山側の場所にまでトンネルを掘って線路を敷設し、下田までの開通を果たしたというのです。

この海岸沿いの土地を買収したというのが、ことあろうか東急グループの総帥として知られ、五島慶太の生涯の最大のライバルで、西武鉄道グループを率いる「堤康次郎」でした。そして、この鉄道建設にあたっては、「伊豆戦争」と呼ばれる激烈な企業間争いがあったこともわかりました。

この二人は、伊豆や箱根といった観光地の開発をめぐって長い間の対立を繰り返しており、ここ伊豆だけではなく箱根での争いは「箱根山戦争」と呼ばれており、人をして「戦争」とまで呼ばしめたこの争いは、現在でも語り草になるほど熾烈なものだったようです。

そもそもの事の発端は、戦前にその当時日本国有鉄道(国鉄)が熱海~下田間に鉄道を敷設する計画を立てたことでした。

伊豆では熱海や伊東より以南にもたくさんの良好な温泉があり、とくに海岸線沿いには風光明媚な場所が多いことから、戦前より下田までの鉄道敷設が地元民から要望されていました。

しかし、戦前の1920年代以降は、徐々に戦争へと突入していく時代であり、軍備拡張のため、大蔵大臣や総理大臣を歴任した濱口雄幸などが緊縮財政政策を推進したため、こうした国内の観光開発に絡む鉄道事業はなかなか実現されず、熱海~伊東間のみが「伊東線」の許可を受けることができ、なんとか路線が開通するにとどまっていました。

しかし、戦後の復興期になり国民の生活が落ち着いてくると、伊豆方面に湯治や観光に出かける人も増えるようになり、これに目をつけた五島慶太の東急でした。

東急は1956年(昭和31年)に伊東・下田間地方鉄道敷設免許を国に申請しましたが、これとちょうど時を同じくして、力をつけてきていた西武グループの堤康次郎も、地元有力者と謀って国鉄に伊東~下田間の鉄道敷設を働きかけます。

しかし、伊豆東部の各所にある温泉の有力者をまとめきれずこれに失敗。急遽系列会社であった「伊豆箱根鉄道」に同区間の免許を申請させます。しかし、この申請書は急ごしらえであったためか不備が多く、結局同じころに申請書を出していた東急側に免許が与えられました(1959年(昭和34年))。

ちなみに、東急側が勝ち取ったこの路線の権利は元々国鉄の計画路線であったため、免許発行には「早期に着工・完成させること」「国鉄の規格に準じて建設すること」「国鉄が列車の乗り入れを求めてきた時は応じること」「国鉄が買収を求めてきた時は応じること」という4条件がつけられました。

この条件のうち、「国鉄が買収を求めてきた時は応じること」だけは実現していませんが、ほかはその後その通りとなり、二番目の条件の「国鉄の規格に準じて建設すること」も忠実に守られたため、今でも伊豆東岸を走る伊豆急行線は国鉄規格に準じる1067mm幅の狭軌路線となっています。

伊豆開発に一歩遅れをとる形となった西武側ですが、東急側だけ免許を与えられたことを不服に思ったのか、はらいせなのかよくわかりませんが、鉄道の経由予定地であった下田市白浜周辺の土地を押さえるという実力行使に出ます。このあたりの土地の権利の多くは現在でも西部が持っており、例えばこの地には現在、下田プリンスホテルが建っています。

このため海沿いを走る予定だった伊豆急行線は河津駅の南で山側へ進路を変更せざるを得なくなり、長大な谷津トンネルを掘削して下田までの伊豆急行線を通すことになりました。我々が目にした蓮台寺駅は、このトンネルを抜けて二つめの駅になりますが、本来は海側に造られるべき駅だったわけです。

が、こうしてルート変更が行われた結果、ここに河内温泉という小さな温泉街もでき、今もそれなりに賑わっています。

こうして進路変更を余儀なくされた伊豆急行線なのですが、迂回を余儀なくされた河津~伊豆急下田間にできたこの蓮台寺駅は、その後、ここから松崎、堂ヶ島など西伊豆方面への玄関口となりました。

バブル期を経て1996年(平成8年)までには全ての特急列車が停車するなど伊豆急行線の主要駅の一つとなり、西伊豆における観光化に大いに貢献しました。

しかし、この蓮台寺から西伊豆へは当然ながらバスでしか行けません。伊豆急行線が開通した当時、この路線におけるバスは、戦前より伊豆半島全域にバス路線を持ち、国鉄との連帯運輸も行っていた「東海自動車」が運行していました。

ところが、この東海自動車は、東急と西部の間の伊豆戦争の最中にあっても中立の立場をとり、東急・西武のいずれにも与しませんでした。

このため東急が東海自動車の買収を画策したり、西部傘下の伊豆箱根鉄道が下田の中小バス会社の昭和乗合自動車を買収し、「伊豆下田バス」と改称して東海自動車のテリトリーである下田への進出を図るなど、争いは鉄道以外にも広がりました。

しかしその後バブルが崩壊したことで伊豆方面への「豪華旅行」も自粛されるようになるなど旅行形態が変化し、またモータリゼーションの進展もあいまって、伊豆半島を南へ南へと争いながら拡大抗争を繰り広げた両者とも、次第に事業の縮小がみられるようになっていきます。

一時は東証二部上場企業であった伊豆急行は、業績悪化に伴い2004年(平成16年)に東急の完全子会社になりました。

また蓮台寺駅からの西伊豆方面観光もふるわなっていき、2007年(平成19年)よりスーパービュー踊り子号が通過するようになり、さらに2009年(平成21年)からは踊り子号を含む全ての特急列車が蓮台寺駅を通過することが決定されました。

西部グループの伊豆箱根鉄道も、2006年(平成18年)には事業展開が望めないとして伊豆下田バスの解散とバス路線の廃止を決定し、かつては敵対していた東海自動車へ事業譲渡しています。

一方の東海自動車は、当初の伊豆急行線の開業により大打撃を受け、1971年(昭和46年)には既にこの両者のどちらにも属さない小田急グループの傘下に入りました。

その後鉄道と競合するバス路線を廃止し、拠点駅から特定観光地までのフィーダー輸送や南伊豆・西伊豆方面の輸送に注力するなど、業績の回復をめざしましたが、経営の悪化に伴い1999年(平成11年)には地域分社化を余儀なくされました。

地域分社化というのは、経営環境が厳しくなる状況下において、運営の効率化を果たすため、もともとの会社事業を細かく分けて分割し、これを中枢機能を持たせた管理会社が統合運営するというものです。

東海自動車では、タクシー事業を1999年(平成11年)に第一交通産業に譲渡するとともに路線バス事業を5つの運行会社に分割し、貸切バス事業も分社化。もともとの東海自動車は統括管理会社となり、この際に、従業員は全員退職となり、希望者を再び雇用する形になりました。

この分社化によって経営は持ち直し、その後2002年(平成14年)には、既に傘下に入っていた小田急グループ全体の効率化の一環として、同グループの「箱根登山鉄道」の熱海営業所の事業を引き継ぐようになったほか、沼津東海バスは、小田急傘下の沼津箱根登山自動車の事業も引き継いで「沼津登山東海バス」となりました。

なお、この「箱根登山鉄道」と「伊豆箱根鉄道」は私もよく混乱するのですが、前者は小田急グループに属し、後者は西武グループに属する別会社です。間違えないようにしましょう。ちなみに三島から修善寺まで乗り入れている駿豆線は、「伊豆箱根鉄道駿豆線」が正式名称であり、西武グループの一員ということになります。

この東海自動車の地域分社化による伊豆各地の事業の再編においては、地域毎の自治体が関わっていることも多く、両者の連携によって維持される路線も多くなっており、「東海バス」の名称で伊豆のあちこちを走っているバスの多くは半官半民の形で運行され、文字通り「地域の足」になっています。

東海バスは、前述のとおり、西武グループが手放した「伊豆下田バス」の事業を2006年(平成18年)に引き継ぎこれを吸収しており、これによって南伊豆地区を走るバスのすべてが東海自動車に統一されることとなり、伊豆半島のほとんどのバス路線は東海バスが仕切るという形になっています。

ただし、西武グループの伊豆箱根鉄道は、終点の修善寺駅から伊豆中部の観光地である長岡温泉や修善寺虹の郷、三津シーパラダイスといった観光地などを中心にバスやタクシーを運行していて、バス路線の一部では東海バスと競合しています。

東海バスはオレンジ色を主体としたバスですが、西武グループのバスはブルーが主体であり、その横腹や背後に西武グループのシンボルである、ジャングル大帝の「レオ」の顔がプリントしてあります。

こうして地元の自動車会社なども巻き込んだ、かつての東急と西武の「伊豆戦争」は現在ではすっかりなりをひそめています。

が、今ではその名残として、伊豆の東海岸では東急電鉄の運営する伊東~下田間の伊豆急行線が、また伊豆の中央部には西部グループが運営する駿豆線、そして伊豆の南を中心とする地域では路線バスを運営する小田急グループ傘下の東海自動車が君臨し、伊豆は大きく分けて三つの交通会社グループがしのぎを削っています。

ただ、東急や西武グループが鉄道乗り入れしていない西伊豆と伊豆南西部の地域は、いまだ交通網が手薄であり、厳密にいえば東海バスの運行が細々と行われているのですが、運行本数も少なく、マイカーを持っていない人達がこの地域に行くのには少々不便です。

実はマイカーを持っている我々もまだ西伊豆の堂ヶ島以南の松崎や南伊豆町といった地域には行ったことがなく、ここが唯一伊豆での「空白域」になっています。松崎には古い町並み、南伊豆町には波勝崎や石廊崎といった景勝地あるということで、今年はぜひ出かけてみたいところです。

今はまだ少々早いようですが、河津桜もあちこちで咲き始めているとのことであり、この2月3月はお出かけラッシュになるかもしれません。

寒い冬にうんざりしている関東地方や名古屋方面の方もそろそろ、梅や桜の開花が気になるところでしょう。

今週末は天気がよさそうです。ちょっと遠出をして南伊豆まで行ってはいかがでしょうか。その際、西武グループの鉄道を使うか、東急グループにするか、はたまた小田急グループにするかは自由です。が、我々はどのグループにも属さない我が家の愛車で行くことにしましょう。

あるプラネタリウムの話

昨日出かけた東京都内は、朝方は少し涼しかったものの、日中の気温はかなり上がり、先日降ったという雪の痕跡もほとんどなかったのは少々意外でした。

東名高速を使い、東京ICを経て首都高渋谷で一般道に降りましたが、その直前首都高の高架道路から新しくオープンした「渋谷ヒカリエ」が見えました。

この場所にはかつて、東急グループが建設し、東急百貨店が所有・運営する「文化施設」、「東急文化会館」がありました。

が、私が渋谷に勤務していた20年ほど前のころ既に「文化施設」というのもおこがましいほど老朽化ており、1989年(平成元年)、東急百貨店本店に併設される形で「新」複合文化施設として「Bunkamura」が開業すると、このころから東急グループを代表する施設ではなくなりました。

廃館になる直前まで東急の運営する映画館などが入っており、私も若いころには何度となくここに入ったことがありますが、いつ行っても古ぼけたビルだなーという印象であり、正直なところ早く新しい施設に建て替わらないかな~と思っていました。

このビルが取り壊されはじめたのは、2~3年前だったと思います。東京を離れる前、このあたりを通る機会があり、その取り壊しの様子をみたとき、ああ、ついにその日が来たか、と思っていましたが、その後この跡地で新ビルの建設が始まったときには、今度は何になるのかなと思っていました。

そして、我々が昨年東京を去って伊豆に来た直後にオープンし、これがヒカリエという名前の複合施設になったことを知ったのはかなりあとのことでした。

昨日の午前、私はあまり私用に割く時間がなかったためここに行くことはできませんでしたが、都内での打ち合わせ? 私も行く行く! といっていそいそとついて来た新し物好きのタエさんは、私の打ち合わせの間にちゃっかりとここを見学してきたようです。

なかなか「おしゃれ」に仕上がっていたようで、女性が多かったということですから、内部の仕様やテナントなどもどちらかといえば女性客目当ての志向になっているのだろうと推察。

ただ、タエさんによれば地下3~5階の食品販売を中心とした商業スペースはかなり充実していて男性も楽しめそうとのことで、また中層階には「東急シアターオーブ」「ヒカリエホール」等の文化施設、高層部にはディー・エヌ・エー等が入居する業務施設がゾーニングされているとのことであり、女性客だけでなく男性客も抜かりなく惹きつけるつくりは、さすが東急の仕事だなと思わせます。

このヒカリエの前身の東急文化会館も、開設した1956年(昭和32年)当時は東京の名所として修学旅行のコースに組み込まれた程の人気を博したそうで、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上8階、その上に設置されたプラネタリウムのための塔屋3階建を含む、東京でも有数の建築物でした。

このプラネタリウムは、東急文化会館の廃館にともない、2001年3月に閉館しましたが、「天文博物館五島プラネタリウム」の「五島」は開館当時の東京急行電鉄会長、五島慶太の姓にちなみます。「東急文化会館に文化施設が欲しい」という五島の思いと「戦後の東京にプラネタリウムを!」という天文・博物館関係者の双方の思いから生まれた施設だそうです。

元々、東京には1938(昭和13年)に開館した東日天文館というプラネタリウム放映施設が有楽町ありましたが、終戦直前に空襲により焼失し、東京近郊にプラネタリウム施設はない状態でした。ちなみに、大阪にあった日本で最初のプラネタリウム、天象館は戦災を逃れ、戦後営業を再開しました。

このため、東京の天文・博物館関係者たちの中では東京にもプラネタリウムを復活させたいと願う関係者が多く、このうちの国立科学博物館の職員たちが中心となり、東京天文台(現在の国立天文台)の台長や研究者が所属する「東京プラネタリウム設立促進懇話会」が1953年(昭和28年)に設立されました。

このとき、東急に新しいビルが建つという噂を聞きつけたこれら関係者らは、五島慶太に、このビルにプラネタリウムを併設して欲しいという嘆願を手紙で行いました。1955年から既に東急文化会館の建設は始まっていましたが、そのさなかに手紙を受け取った五島は、プラネタリウム建設を英断。

自社事業の拡大のために他の企業の乗っ取りを強引に進めたため「強盗慶太」とまで呼ばれた五島慶太ですが、こうした文化施設の建設には意外に熱心であり、当時地味で人が素通りする状態であった渋谷をなんとか復興させたいという思いがあったといいます。

しかし1944年(昭和19年)に東條英機内閣の運輸通信大臣に就任していたため、戦後準戦犯とみなされ、公職追放令の憂き目を見ていた五島は、この当時もまだ公には東急の経営に手を出せない状態でした。このため、影で東急を支えていたいという彼の願いと合致したのがこのプラネタリウム建設であったようです。

人を呼ぶ施設として東急文化会館に目玉となる施設を入れればそれが東急の復興にもつながると考えたようで、プラネタリウムなどというものがあるとは全く知らなかった五島は、最初は「屋上で鯨を泳がせろ」と言っていたといいます。

無論、この「鯨博物館」計画は早々に頓挫し、そこへちょうど入ってきたのがプラネタリウム建設の話というわけです。

施設は1956(昭和31年)に正式に文部大臣の許可を受け、その設立団体は「財団法人天文博物館五島プラネタリウム」として発足。機器には、西ドイツカール・ツァイス社製の最新鋭のプラネタリウム投影機IV型1号機が導入されました。この当時の大学初任給が1万円の時代に約7000万円もしたという高級機で、現在の価格にすれば10億円は軽く超える値段です。

それだけにプラネタリウムを開設後の人気は上々で、東京の新名所として喧伝され、数多くの人が渋谷を訪れるようになりました。東急文化会館を中心とした渋谷にはこのほかにも多くの商業施設が進出し、五島慶太のもくろみどおり人であふれかえる東京でも有数の繁華街になりました。

しかしその後、高度成長時代を経てプラネタリウム以外の映画や演劇といった他の娯楽が日本中を席巻するようになり、東急文化会館の人気、ひいては五島プラネタリウムの人気も急激に落ち込んでいきます。

国内の他の箇所にもプラネタリウムが建設されましたが、その多くは採算がとれないために次第に閉鎖さえるようになり、この五島プラネタリウムもまた当初最新鋭施設であったものが老朽化したこともあり、入場者は年々減少の一歩を辿っていました。

そこへ東急文化会館の解体の話もあり、ついに2001年(平成11年)3月に惜しまれつつもプラネタリウムは閉館、財団は解散となりました。

ちなみに財団としては入場者の減少などからもっと早くに閉館を予定したそうであり、財団側は当初「1999年に閉館」の旨を東急側に伝えたところ、逆に東急側から「20世紀いっぱいまで」とお願いされたため、ミレニアムである2000年の翌年に閉館されたものです。

東急としても愛着のある施設であり、設立に関係した内部関係者からぎりぎりまで存続させたいという希望の意見などがあったのでしょう。

この五島プラネタリウムで使用されていたプラネタリウム投影機は、現在も渋谷区文化総合センター大和田で展示保存されているそうで、この投影機も含めたこの当時の館の資料は現在、渋谷区教育委員会が所管する「渋谷区五島プラネタリウム天文資料」に引き継がれているそうです。

実は私もこのプラネタリウムを若いころに一度見に行ったことがあります。どんな番組をやっていたのか良く覚えていませんが、梅雨時の星空も見れないような時期だったような記憶があり、日々の会社での仕事がマンネリ化していた当時、暗闇に広がる星々をみてなんだかずいぶんとスッキリとした気分になったことなどが思い出されます。

20年ほど前に留学から日本へ帰ってきてからも、プラネタリウムは良く見に行った思い出あり、西東京市の多摩六都科学館や、八王子市のサイエンスドーム八王子、府中市の府中市郷土の森博物館、相模原市の相模原市立博物館などには近いせいもあって、幼い息子や亡き妻を連れてよく通ったものです。

私同様若いころからこうしたプラネタリウムに慣れ親しんでいる世代の中には、この五島プラネタリウムにかなりの愛着を持っていた人も多いようで、廃止が決まったときも存続の嘆願などがかなり寄せられました。が、それもかなわないとわかると、せめて投影機の保存だけでも、ということで上記の渋谷区による保存が決まったといういきさつがあるようです。

日本には、現在でもおよそ300館を超えるプラネタリウム館が存在し、サッカーJリーグの観客動員数を上回る年間500万人もの人が利用しているといいますが、美術館や博物館等の文化施設同様、プラネタリウム館運営は入場料収入のみでは経営が成り立ちにくい文化事業です。

国や自治体の緊縮財政の影響で、自治体が運営母体のプラネタリウム館の中にも、閉館や運営規模の縮小を余儀なくされている所が少なくないようです。

ちなみに、静岡には、浜松市と富士市そして焼津市の三カ所にしかプラネタリウムがないそうで、いずれも伊豆からは少々距離もあるので、以前のように足しげくプラネタリウムを見に行くということもこれからは少なくなりそうです。

が、ここ伊豆では満天の星空がいつも見えるので、言ってみれば毎日プラネタリウムの下で暮らしているようなものです。

そんなきれいな冬の夜空も、そろそろ春が近づくにつれて曇っていることも多くなってきました。最近、きれいな星空を撮影したくて何度かチャレンジしているのですが、やはり本格的な機器も欲しいということで、そのうち天体望遠鏡を買おうかなと考えています。

そしたら、このブログページでもその輝く星々でいっぱいの写真を掲載したいとおもいます。いつになるかわかりませんが。。

会津 vs 長州

NHK大河ドラマの「八重の桜」は、初回の平均視聴率21.4%と好スタートを切ったようですが、その後はだいたい18%台で推移していて、昨年思ったほど視聴率の上がらなかった平清盛の初めてのころの17%台をかろうじて1%前後勝っているだけの状態のようです。

ヒット作といわれた08年の「篤姫」は、常に20%以上の視聴率をキープしていたようなので、それに比べるとやや低調な滑り出しが少々気になります。

もっとも視聴率がよかろうが悪かろうが、ドラマは続いていくわけであり、私のような歴史ファンにとっては、今回の作品が幕末モノというだけでワクワクしてしまい、毎回面白く見させてもらっています。

この先のドラマの展開としては、当然のことながら戊辰戦争に突入していき、この中で主人公の八重がスペンサー銃を手に、官軍と戦うシーンなども放映されると思われます。

また、会津戦争の中、会津藩が組織した少年兵の部隊「白虎隊」が、会津の鶴ケ城を眼下に臨む飯盛山で集団自決した事件なども扱われるであろうことから、徐々に視聴率もあがっていくのではないでしょうか。

ところで、この会津を攻めた官軍の主力軍であった長州藩こと、現山口県人達と会津の人々はこの会津戦争の悲劇が起こってから100年以上経つというのに、ごく最近まで和解していなかった、という話があるのをご存知でしょうか。

ちょうど昭和から平成に年号が変わった平成元年(1988年)のころ、旧長州藩の城下町であった山口県萩市から姉妹都市を結ぼうという提案があり、これを受けて会津若松市では、市議会議員らがその受け入れの準備を進めたのですが、当時50歳以上の人を中心に「とんでもない」という批判が出てこの提携を中止したというのです。

萩市の側は重ねて和解を呼びかけましたが、会津のほうでは「ならぬことはならぬ」と返したといい、その後長いあいだこの和解の話が再び持ち上がることはありませんでした。

ところが、2007年4月、山口県では8人目の総理大臣となった自民党の安倍晋三首相の発言によって、この和解話は急展開を迎えます。

安倍晋三首相が2007年4月14日、「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」と発言したのです。

場所は福島県会津若松市で、参院福島補選の応援演説の中でのことで、その日の夕方のニュースで安倍首相の発言を知った元会津若松市長の早川広中さんは「よく言ってくれたと思った」と述べたそうです。

同氏は、地元会津若松市で「白虎隊記念館」の理事長を勤めたこともあり、白虎隊に関する著書もあり、「当然の発言。もっと早く言ってほしかったくらいだ」とも述べたといい、この安倍首相の発言を、早川氏だけでなく、多くの市民が歓迎したに違いありません。

会津の人々にすれば、長州への恨みは戊辰戦争だけではないようで、長年の長州と会津の不仲は、明治維新以降も長州閥の高官が会津出身者の登用を妨害するなど長い経緯が積もり積もった問題でもあったといわれています。

しかし、現代の若い会津の人々には既にそういうわだかまりを持っている人は少ないようで、ある新聞社が会津若松市の市役所の30代、40代の職員数人に話を聞いてみたところ、「こだわりはない。首相発言も特に感想はない」という人が多かったといいます。

しかしその一方で、この和解を評価しつつも、親や祖父母から聞かされた恨み話がしみついているという人も多いといわれ、なかなか複雑な感情を持つ会津人はいまだに多いようです。

ある時期まで会津若松市では、市長が県外の会合に出かける際、山口県内の首長と同席予定がある場合、主催者側の自治体関係者から「同席になって大丈夫でしょうか」などの問い合わせがあることも珍しくなかったといい、時間差で2人の市長が入れ違いになるよう調整することまであったといいます。

1996年(平成8年)にも、萩市長が市民劇団の招きに応じ、初めて会津若松市を「非公式」に訪れ、翌年会津若松市長が「答礼」として萩市を訪問した際も、出迎えの場面では握手した2人ですが、記者会見の場で握手を求められると、会津若松市長は「こうしたシーンが「和解」としてニュースで流れるには時間が必要だ」と応じなかった、というのは今でも語り草となっています。

一方の山口県側の反応はというと、2006年9月には「長州と会津の友好を考える会」という会が萩市にでき、この会から長年会津若松市へ通いうなどの積極的な活動をしています。

しかし、会津側との折衝において「今でも基本的に厳しい態度の人は多い」と肌で感じているメンバーも多いようで、萩市の側から謝罪とか和解とかは口に出せる雰囲気にはなかったともいわれています。

「長州と会津の友好を考える会」のメンバーのひとりは、某新聞社のインタビューに答え、安倍首相発言について、「戊辰戦争だけでなく、その後の歴史を含めどこまでご存知でそういう発言をされたのかな、とは思う」と述べ、自身は批判的な気持ちはないといいつつも「山口県民の中には違和感を持つ人もいるかもしれません」と語っています。

そんな両市だっただけに昨年4月に某新聞で「萩市が会津若松市に震災義援金2200万円送る」というニュースを目にしたときは、関係者たちは大きな衝撃受けたといいます。

東日本大震災で会津若松市は、津波や原発事故の被害を受けた沿岸部からの避難者を大量に受け入れ、これを知った「仇敵」萩市が支援を申し出たのです。会津若松市は萩市からこの義援金や原発事故避難者用の救援物資の提供を受け、これに対して、会津若松市長は、萩市をお礼の意味で訪問しました。

萩市によれば、義援金は市職員や市議会などからの寄付だそうで、これとは別に、萩市唐樋町の町内会から50万円が寄付されたということで、唐樋町には白虎隊の志士を供養する「地蔵堂」があり、町内会が「ぜひ会津若松市に」と50万円を預けたということです。

さらに昨年の11月、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行っています。こうした萩市からの善意を受け、会津若松市の職員は「まさか、萩市から支援が届くとは思わなかった」といい、一方の萩市の担当者は「過去にはいろいろありましたけど、困ったときはお互い様です」と述べたといいます。

歴史を振り返るとこの問題の解決はなかなか簡単ではないと思われましたが、震災をきっかけに両市が和解したとすれば、これは震災の死者たちが、会津戦争の死者たちにそのように働きかけたのかもしれません。あるいは諍いは永遠には続かないという歴史上の必然でもあるのでしょう。

奇しくもこうした「和解事件」があった翌年に八重の桜のようなドラマも放映され、これを見る両市の人々もまた、改めて歴史を見直す良いきっかけになっていくことでしょう。

さて、今日はこれから都内へ出張です。あまり時間もないのでこれくらいにします。都内の雪は大丈夫でしょうか。

ジャンプ !

今朝、東京など関東地方では雪が降っているようです。今回はこの雪は伊豆には降らないようで、ちょっと残念な気もしますが、2月もまだまだ先が長いことから、まだもう一回くらい降るのではないかと思います。期待しましょう。

ところで、雪といえば、41年前のちょうどいまごろには、雪の祭典、冬季オリンピックが札幌で行われていました。1972年2月3日から2月13日まで行われた札幌オリンピックで、日本およびアジアで初めて開催された冬季オリンピックでもありました。

この大会では、スキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)で、笠谷幸生が金メダル、金野昭次が銀、青地清二が銅と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占しました。

札幌オリンピックでは結局これ以外に日本選手によるメダル獲得はなりませんでしたが、ジャンプ70m級の金銀銅メダル独占という快挙は、のちに日本のジャンプ陣が「日の丸飛行隊」と呼ばれるようになるきっかけにもなりました。

このスキージャンプは、北欧が発祥の地の「ノルディックスキー競技」のひとつとされています。ご存知のとおり、ジャンプ台と呼ばれる専用の急傾斜面を滑り降り、そのまま角度の付いた踏み切り台から空中に飛び出し、専用のスキー板と体を使ってバランスをとり、滑空します。

その飛距離と姿勢の美しさ、「美しく、遠くへ跳ぶ」ことを競う競技であり、このスキージャンプ競技に出場する選手は、「ジャンパー」と呼ばれ、他の競技ではなかなか味わうことのできない、観客を魅了する華麗な競技のひとつでもあります。

このノルディックスキー (Nordic ski) ですが、競技の名称かと思ったら、もともとは北欧で使っていた「スキー板」のことだそうで、これは、北欧のスカンジナビア地方で誕生・発展したスキー板であり、板とブーツの構造が、ビンディングでつま先だけが繋がれるものをさします。

現在はスキー板ではなく競技そのものを指す用語として定着していますが、滑降競技が主である、アルペンスキーと比較するとかかとが固定されない点で異なり、その競技形態は以下の3つの型に分類できます。

・クロスカントリースキー
長いストックと細長くて軽いスキー板で、雪原や整地されたなだらかなコースを滑る。冬季五輪正式種目。

・スキージャンプ
太く長いスキー板で、ジャンプ台から飛躍する。冬季五輪正式種目。

・テレマークスキー
アルペンスキーのように雪山やゲレンデを滑る。テレマークという名称は、特に技術や用具について、ノルディックの別名としても用いられる。世界選手権やワールドカップがあるが、冬季オリンピックの種目にはなっていない。

現在、「ノルディックスキー競技」、「ノルディック競技」などと呼ばれるのは、オリンピック正式競技に認められている、クロスカントリーとジャンプをまとめた競技の呼称であり、本来はノルディックスキーのひとつである、テレマークスキー競技はこの中には加えられていません。

もっとも、テレマークスキーの派生形がアルペンスキーと考えることもでき、かかとを固定するアルペンスキーとは少し形態が異なりますが、事実上、本来のノルディックスキー3競技すべてがオリンピック正式種目になっていると考えることもできます。

ジャンプ競技の歴史

このうちのジャンプ競技は、1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方が発祥の地とされており、1840年といえば日本ではまだ江戸時代で天保年間のころのことです。

そもそもノルウェー地方の冬の間の遊びだったようですが、多くの人がスキーで遊んでいるうちに、自然発生的にその技術を競おうということになり、地元のお祭りなどで競われる競技になっていったようです。

その後、1860年代ころには、競技ルールもかなりまとまってきて、このころ行われていたジャンプ競技では、正式に「選手」と呼ばれるような人も出てきており、テレマーク地方出身のノルトハイム (Nordheim)という競技者などが有名だったそうです。

このころのジャンプ競技は、その発祥がテレマーク地方を中心に発達してきたこともあり、この競技において最も美しいとされ高得点に結びつく着地時の姿勢のことを、「テレマーク姿勢」と呼んでいました。

今日でもテレマークという呼称は、ジャンプ競技選手がジャンプを終えて滑降するときの美しい姿のことを、「美しいテレマーク姿勢です」などとアナウンサーが言っているのを聞いたことがあろうかと思います。

現在では、ジャンプ競技の着地時にこの姿勢が求められ、スキーを前後に開き、片足を前に出してひざを深く折り、腰を落としてショックを吸収しながら停止する姿勢のことをいいます。

競技が行われたとして記録に残されている最も古いジャンプ競技は、1877年(明治10年)にノルウェーで行われたジャンプ競技だそうですが、この大会の由来やどのくらいの選手が出場したとか、どのくらいの飛距離が出たとかの詳しい記録は残っていないようです。

が、その二年後の1879年(明治12年)に同じくノルウェーのテレマークで行われた競技では、この地方の靴屋で働いていた少年、「ジョルジャ・ヘンメスウッド」がクリスチャニアという場所の競技場となった丘で23m飛んだという記録が残っています。

このジャンプ競技における飛行姿勢については、最初から現在のように両手を両脇に揃えて飛ぶような形ではなく、初期のころにはほぼ「直立不動」の姿勢で飛んだようです。1920年代には、腰を曲げて前傾姿勢を取る「タムス型」と呼ばれる姿勢と、この直立不動状態で飛ぶ「ボンナ型」という2つの前傾姿勢が広まりました。

いずれの型においても、両腕は脇に揃えられておらず、バランスを取るため前後左右にグルグルと回すことが認められており、二つの型のうちとりわけタムス型のほうが、飛距離が伸びたことから、その後戦後直後まで多くのジャンパーがこの型を取り入れるようになりました。

現在のように両腕を揃えて飛ぶようになったのは、1950年代前半からのことで、その先駆けは、フィンランドの「アンティ・ヒバリーネン」という選手でした。このころから、手を動かさず体に付け、深い前傾姿勢を取るスタイルが定着し、このスタイルはその後長らく基本的なフォームとして1990年頃まで主流となりました。

その一方で1960年頃には、両手を前に出して万歳のような姿勢で飛ぶジャンパーもいたようで、アメリカのカリフォルニア種のスコーバレーで行われたスコーバレー冬季オリンピックでは、ドイツのヘルムート・レクナゲルがこの姿勢で優勝しています。しかしその後の五輪ではこの姿勢で勝つ選手はなかなか現れず、結局このスタイルは自然消滅しました。

その後、20世紀後半までは、気をつけの姿勢でスキーを揃え、横から見ると、胸から上とスキーが平行になるのが理想とされ、前述の札幌冬季オリンピックでの笠谷幸生以下の三選手がメダルを独占した際の姿勢もこの飛型でした。

また、1970年代までは、滑降は始める際のアプローチのときには、両腕を前に下げる「フォアハンド」のスタイルが主流であり、この姿勢が一番空気抵抗が少なく、速度が出ると思われていましたが、現在では最初のアプローチから中腰で両手を並行に後ろへ揃えるスタイルが主流になっています。

このアプローチスタイルは、「アッシェンバッハスタイル」と言われ1976年頃、東ドイツのアッシェンバッハ選手が、アプローチを滑走する際にこの姿勢をとり、好成績を残したことからほかの選手も真似をするようになりました。現在では「バックハンドスタイル」といわれるようになり、ジャンプ競技におけるスタンダード姿勢となっています。

ジャンプ姿勢はその後、20世紀終盤には、スウェーデンの「ヤン・ボークレブ」選手が始めた「V字飛行」が主流になりました。

このV字飛行は、それまでの板を揃えて飛ぶ飛型よりも前面に風を多く捉えて飛距離を稼ぐことができましたが、このころのジャンプ競技の採点基準では、姿勢の乱れとみなされ大幅な減点対象になっていました。

しかし、上位に入るには他を大きく引き離す飛距離が必要であったため他の選手も次第にこの姿勢を取り入れるようになり、その後競技規定のほうが変更され、V字飛行で飛んでも減点対象から除かれるようになりました。

このクラシックスタイルからV字飛行への転向には、日本やオーストリアが素早く対応しました。

V字時代最初のオリンピックとなったアルベールビルオリンピックでは、唯一V字をマスターしたトニ・ニエミネンを擁するフィンランドがオーストリアを下して優勝しました。その一方ではフィンランドなどの強豪国は転向に乗り遅れ、その後しばらく成績が低迷することになりました。

日本は、この大会で金1・銀2・銅4の合計7個のメダルをとり、冬季オリンピックでは当時史上最多数のメダルを獲得しましたが、このうちの金メダルは、ノルディック複合団体の三ヶ田礼一、河野孝典、荻原健司の三選手の活躍で得たものです。

前半のジャンプをV字飛行で飛んだ日の丸飛行隊は、2位以下に大差をつけ、翌日の後半・クロスカントリーでも危なげなく逃げ切って金メダルを獲得したのです。この金メダルの獲得は、1972年札幌冬季オリンピックの笠谷幸生以来のものであり、冬季五輪での日本2個目の金メダルとなりました。

現在のジャンプ競技

現在のジャンプ競技は、ジャンプ台の大きさや形状、助走距離の長さ、K点までの距離などによって、ノーマルヒル、ラージヒル、フライングヒルの三種目に分かれています。

ノーマルヒルは、一般にK点90mであり、かつては「70m級」と呼ばれていたもので、ラージヒルのK点はこれより長く120m。こちらはその昔「90m級」と呼ばれていました。もっとも飛距離の長いフライングヒルは、K点が180mを超えるもので、この飛距離を飛ぶジャンプ台は現在日本には存在しません。

ところでこのK点(ケイてん)って何だ?と疑問に思われる人も多いでしょう。このK点とは、そもそもはドイツ語で建築基準点を意味するKonstruktionspunkt(英: construction point)のことであり、スキーのジャンプ競技におけるジャンプ台の建築基準点を意味します。

テレビなどでジャンプ競技を見ていると、上述のノーマルヒル、ラージヒル、フライングヒルなどの各ジャンプ台の着地斜面の下部には、赤い線が引かれているのをご覧になった方も多いでしょう。

この赤線の位置がK点であり、ジャンプ台はだいたいこの位置を境にして着地滑走路の「傾斜曲率」が大きく変わります。そして、選手がジャンプ台から飛び降りるとき、この着地地点よりも先に飛び降りると、そこでは急に傾斜角度が変わって上向きになるため、着地時に危険が伴うことになります。

このため、本来は建築基準点を示すイニシャルであった「K」を、飛ぶと危険であるというドイツ語で「極限点」を意味するkritischer Punkt(英: critical point)の意味に置き換えて使うようになり、1972年に日本で開催された札幌オリンピックのころからこの極限点をK点と呼ぶようになりました。

ジャンプ競技は、その日の風の具合やジャンプ台の雪の状況によって、選手の飛ぶ飛距離がかなり異なってきます。競技が始められる中でもこうした条件は変わってくる可能性があり、かなりの飛距離を伸ばす選手が出てきた場合、ある「最大着地地点」を超えると選手の安全が脅かされる可能性があります。

そして当初は、大会運営者は競技者ができるだけこの「最大着地地点」つまり、K点を超えないよう、競技の前にテストジャンパーに試験的にジャンプを行わせ、スタート地点の高さや助走路の長さを調節して「K点」を決め、できるだけこれを超えないように競技してもらうのが一般的でした。

しかしその後、滑空中の姿勢を含む滑空技術・着地技術・競技服等が大幅に進歩したことなどから、ジャンプ場の完成時に固定されていたK点1を越えてもあまり危険がないことがわかるようになり、K点の設定にもそれほど気を使わなくてもよくなりました。

このため、いわゆる「K点越え」のジャンプが可能になり、当初のように建築基準点の指標の意味であった「極限点」としての「K点」は事実上意味をなさなくなりました。

このK点を超えるか超えないかが採点基準にも取り入れられるようになり、この採点法ではK点を飛距離の基準とし、K点に着地した飛躍に対してはより高得点が与えられます。逆に着地地点がK点に達しなかった場合は減点され、超えた場合は加算されます。

減加算される点数は、ジャンプ台の規模により異なり、例えばノーマルヒルでは2.0点/m、であり、ラージヒルでは1.8点/mです。

かつて「K点」ということばがなかったころ、各ジャンプ台の許容できる飛行距離を表すことばとしては、「ヒルサイズ」が使われていました。これは選手がこの距離を超える飛行をすると危険であるという飛距離であり、初期のころのK点と同じ意味でした。

天候条件などが変わりこの「ヒルサイズ」越えをする選手が増えてくると、競技の続行について審議される「指標」として使われていましたが、現在ではこのヒルサイズは、およそ選手が到達できない飛距離をさすようになり、現在ではジャンプ台の大きさは「ヒルサイズ=○○m、K点=○○m」というかたちで示されています。

長野オリンピックでジャンプ競技がおこなわれた白馬ジャンプ競技場のK点は、前述のとおり、ノーマルヒルで90メートル、ラージヒルで120メートルでした。

なお、それぞれのジャンプ競技場では「バッケンレコード(最長不倒記録)」といった形で、最高記録が認定されており、大会において選手たちがこうした記録を塗り替えるか否かもまた、このジャンプ競技の楽しみでもあります。

さて、ジャンプ競技には、ノーマルヒル、ラージヒル、フライングヒルの三種目があると書きましたが、冬季オリンピックにおける正式種目はこのうちのノーマルヒル、ラージヒルの二つだけです。

一方、スキージャンプのワールドカップでは、ノーマルヒル競技は行われておらず、より飛距離が長いためにダイナミックな競技を観戦客が楽しませることのできるラージヒルとフライングヒルだけが行われることが多く、オリンピック同様、個人戦だけではなく国対抗で団体戦も行われています。

ジャンプ競技の技術

こうしたこのジャンプ競技の醍醐味ですが、やはりなんといっても屋外競技のため、競技結果が天候や風の向きや強さなどの自然的条件に左右される、その不確実性というか意外性でしょうか。

実力十分で優勝間違いなし、と思われた選手でも天候の悪化によって待ち時間が長くなり、その間に体調や精神面での不調をきたしたりして、思ったより成果があげられないといったこともままあります。

気温に起因した、助走面の雪質にも左右され、こうした競技環境の変化は、外見上は派手でダイナミックな競技である反面、選手たちの精神状態をも大きく左右するかなりデリケートな競技です。

助走路上では、クラウチング (crouching)と呼ばれるしゃがみ込むような助走姿勢をとって風の抵抗を低減し、スピードを得ますが、このときの重心の位置、助走面の状況、スキーワックスの種類などはその後のジャンプの際のスピードに影響を与えます。

踏み切り地点(カンテという)上においては、立ち上がる反動力で飛び出す「テイクオフ」姿勢が重要となりますが、助走で得た速度に加え、踏み切りの方向、タイミング、飛び出し後の空中での風向風速などが飛距離に大きく影響します。

空中姿勢は、前述のとおり、スキー後方の内側の角が接触させ、スキーの前方が大きく開いたV字型をとり、スキーと身体との間に空気を包み込むようなスタイルが理想とされています。

着地後は、前述のテレマーク (Telemark) 姿勢が理想とされ、両手を水平に開き、しゃがんだ状態で、膝から下を前後に開いて、後ろの足はつま先立ちます。

着地後、転倒ラインを越えるまでの間に手をついたり、転んだりすると飛型点が減点されますが、いうまでもなく着地するまでの落下・滑空距離のほうが大事であり、このほか、空中での滑空時姿勢(飛型)や着地時の姿勢の美しさ(着地姿勢)をポイント化して競技が競われます。

飛行は通常は2回行い、合計点で競うことになっていますが、天候の悪化などにより、1本目のみで競技終了となる場合もあります。

ワールドカップでは、1本目を終えた時点で、飛型点・飛距離点を合計し、上位30人に絞り、残った者から得点の低い順に2本目を跳ぶため、1本目に最高得点した者が、最終ジャンパーとする方式を採用していますが、現在多くの大会でこの方式が用いられているということです。

他の競技でもそうですが、スキージャンプでは、それに使う用具がスキー板一枚とシンプルなのがまた魅力のひとつです。しかし、シンプルなだけに飛距離をいかにして稼ぐかについては、このスキー板の性能にも寄るところが大きいのも確かです。

ジャンプ競技では、ジャンプしたあとの飛行では揚力を得て落下を遅らせることが必要であり、このため幅が広く、長いスキーを使用しますが、一方では板が大きく長いにもかかわらず、非常に軽量に造ってあります。

またスキー板の裏面には7~9本以上の溝があり、直進方向に適し、スピードを得られる工夫がなされ、かかと部分は「ヒンジ」になっていて、靴がスキー板の角度の変化に追従できるようになっています。

毎年各メーカーは、規定の範囲で細かな工夫を重ねていますが、過去にはスキーの先端が通常の三角形でなく、四角くトップの角度を低くした、カモノハシの口のような板や、先端に穴をいくつも空けて空気抵抗を低くしようとした板などのユニークな板もあったそうです。

スキーの長さについては、度々規則が改定され、現在は、身長とBMI(体重と身長から算出される肥満指数)を元に長さを算出する形式が用いられており、現在では幅95mmから105mm、長さは身長の145パーセント以内に規制されているそうです。

なお、コスチュームも滑空時に揚力を得る滑降の材料であるため、かつては多くの選手が特殊素材のだぶだぶの全身スーツを着ていましたが、現在ではより身体に密着したスーツを用いることがルールで規定されているということです。

日本勢の活躍

2008年現在、日本には、ノーマルヒルとラージヒルの双方の正式競技場を有する場所は、冬季オリンピック会場だった、長野県白馬村(白馬ジャンプ競技場)と、北海道札幌市の「宮の森ジャンプ競技場(ノーマルヒル)」と「大倉山ジャンプ競技場(ラージヒル)」だけです。

札幌オリンピックにおいては、この宮の森ジャンプ競技場においての70m級ジャンプ競技(現ノーマルヒル)において、笠谷以下の三選手が金銀銅のメダルを独占しましたが、大倉山での90m級ジャンプ(現ラージヒル)では、笠谷幸生は、いずれも1回目に2位の好位置につけながら2回目に距離を伸ばすことができずメダル獲得を逃しました。

その後も、1992年アルベールビルオリンピックでは原田雅彦が4位、1994年リレハンメルオリンピックでは岡部孝信がまたしても4位とあと一歩メダルに届かず、過去日本人選手は、オリンピック、世界選手権において多くのメダルを獲得していますが、ラージヒルだけでは長い間金メダルを獲得できず、日本選手の鬼門とされていました。

しかし、1997年トロンヘイムの世界選手権で原田雅彦が金メダルを獲得し、その翌年の1998年長野オリンピックでは船木和喜が、ラージヒルで金メダルを獲得しており、ようやく長い間金メダリストのいなかった時代の雪辱を果たしました。

しかし、まだオリンピックにおける女性選手のメダル獲得はありません。それもそのはず、女子によるジャンプ競技は先の2010年バンクーバーオリンピックまで正式競技種目として認められていなかったためです。

ところが近年、オーストリア、ドイツ、ノルウェー、日本などで、ノーマルヒルを中心とした女子選手の増加に伴い、ヨーロッパなどで女子の国際大会が頻繁に開催されるようになりました。男子の競技のように飛距離は出ないものの、女性ならではの「しなやか」なジャンプにも人気が集まり、競技人口も増えたことから、女子スキージャンプはオリンピックでの採用の可能性が十分ありといわれるようになりました。

しかし、2006年11月の国際オリンピック委員会の理事会では、2010年バンクーバーオリンピックの競技種目としては見送ることが決定され、このことは関係者の批判を呼び、アメリカが中心となって見送り決定の撤回を求める運動が起きました。

この結果、2011年4月6日、国際オリンピック委員会は、2014年ソチ冬季五輪で女子スキージャンプを含む6種目の新たな採用を決定しましたが、IOCはその採用の理由として「以前より競技レベルが上がり国際的普及度も上がった」と述べています。

そのソチオリンピックも来年に迫り、日本でもジャンプ女子競技の採用が大きく報道され、
メダル有望種目として期待を高めています。

ただ、日本のジャンプ女子はまだ競技が始まって間もなく、本格的に大会が行なわれるようになったのは1990年代終盤に入ってからのことで、スキージャンプ・ワールドカップより1つ下の格付けであるコンチネンタルカップの女子ジャンプで、2005-06年シーズンに田中温子が総合8位に入ったのが最高でした。

ところが、2011年にこの女子コンチネンタルカップのオーストリア・ラムソーでの大会に出場した「高梨沙羅」選手は、この大会史上最年少で優勝し、大きな注目を浴びました。

この大会が開かれたのは、世界選手権の直前であり、ランキング上位の数人は出場していなかったといことですが、ジャンプ競技の世界大会で日本女子が優勝するというのはすごいことです。

高梨選手はその後も、2012年には、ドイツ、ヒンターツァルテンで行われたFISワールドカップ女子の第3戦で2位となり、初の表彰台に立ったほか、インスブルックユースオリンピック個人戦でも優勝。

国内でもNHK杯、全日本選手権(ノーマルヒル、ラージヒル)を連覇し、今季のワールドカップ女子ジャンプでもその第1戦、4戦、5戦、8戦で優勝しています。

高梨沙羅はまだなんと16歳の高校生であり、コンチネンタルカップで初優勝したときはまだ14歳の中学生だったといいますから唖然としてしまいます。

ほかにも2011年の世界ジュニア選手権で3位に入り、日本女子勢で初めて同大会の表彰台にも立った伊藤有希選手などもおり、伊藤選手もまだ18歳という年齢を考えると、高梨選手同様、来年のソチオリンピックまでにはまだまだ伸びしろがありそうです。

日本がこれまでに冬季五輪で獲得した金メダルはわずかに9個(うち5個は長野五輪)であり、女子選手の冬季五輪金メダリストとなると里谷多英と荒川静香の2人しかいません。

それだけに女子ジャンプにかかる期待は大きいようですが、かつての日の丸飛行隊を養成した男子ジャンプ陣がその後ろ盾になり、今後も競技の普及と選手の強化につなげていくことでしょう。もともとスキージャンプへの関心度が高い日本だけに、女子選手の強化で他国に立ち遅れるという心配も少ないはずです。

来年のソチ五輪に向け、日本の女子ジャンプ陣がどのような軌跡を描いていくのか注目したいところです。

アポロ月面着陸船と神


今日は何の日?を見ると、今日2月5日は1971年(昭和46年)にアポロ14号が月面に軟着陸を成功させた日ということのようです。

ところで、軟着陸ってそもそも何だ?と少々疑問になったので調べてみると、これはソフトランディング(Soft Landhing)の邦訳のようで、飛行機などが、緩やかに降下して安全に地面に着陸をすることをさしているようです。

反対語はハードランディング(Hard Landing)で、これは「硬着陸」ということで、こちらは飛行機などが急激に降下し地面に叩き付けられる形で着陸をすることをさすということなので、あまり使うことはない言葉かもしれません。航空機事故などで、車輪が出なくて「不時着」しました、などというような状態をさすのでしょう。

宇宙開発においてもこれと同等の意味で使われるようで、軟着陸は、月や火星などの衛星・惑星に探査機や着陸船を衝撃を和らげて着陸させること、硬着陸は逆に衝突させるほどではないにせよ、なんとか無事に着陸できる状態のことをさすようです。

アポロ14号そのミッション

ということで、アポロ14号は無事に着陸したので軟着陸ということなのですが、よくよく調べてみると、かなり深刻なトラブルがあった末の着陸だったらしく、物理的にはソフトランディングであったとしても、宇宙飛行士たちの心理的にはかなりハードなランディングだったようです。

1960年代から始まったアポロ計画では、1969年のアポロ11号で初めて月面着陸に成功し、その二年後の1971年には、三度目の月着陸を目指すアポロ14号が打ち上げられ、月着陸船アンタレス(Antares)に乗った、アラン・シェパード Alan Shepard、スチュアート・ルーザ Stuart Roosa 及びエドガー・ミッチェル Edgar Mitchell の三人の宇宙飛行士が月面の周回軌道に入りました。

そして目標降下地点をみつけ、まさに月面に向かって降下中、突然月着陸船の中にあるコンピュータが着陸中止の信号を受け取りました。地球上のNASA が調べたところ、そんな指令は出でいないことがすぐにわかり、その原因を急遽調べると、それはどうやら着陸船内の着陸中止スイッチの回路から出されたものであることが判明。

しかし、宇宙飛行士の誰もが着陸中止スイッチには触れていないこともわかり、このことから、NASAのオペレーターは、着陸船の振動が回路のハンダ(半田)を剥がし、その小さなかけらなどが着陸スイッチの機械回路の中を動き回って接点をショートしたため回路が閉じたのではないか、と推論します。

そこで、オペレーターは、「スイッチの操作パネルを叩いてみろ」と着陸船に指示し、いちばん近くにいる乗員の誰かが、実際にパネルを叩いてみたところ、半田の欠けらは接点を離れたらしく、この着陸中止信号はすぐに消えたということです。

しかし仮に、この半田のかけらの問題が降下エンジンの始動後に再発すれば、コンピュータはこの信号を正しいものと判断して月着陸船の上昇ステージのエンジンを噴射し、月周回軌道に戻すシークエンスが動きかねません。

NASAのエンジニアと、このころアポロ計画のソフトウェア開発を全面的に支援していたマサチューセッツ工科大学(MIT)のメンバーなどのソフトウェア担当チームは、着陸までのごくごく限られた短い時間内でこの問題の一番確実な解決策を導くことに迫られます。

そして、コンピュータのプログラムを修正して信号を無視することを思いつき、これを着陸船に指示したため、飛行士たちはぎりぎりのところでこの修正を完了でき、なんとか無事に着陸船のエンジンを月への降下に向けて作動させることに成功しました。

このトラブルの原因は極めて低い次元のもので、対策も「パネルを叩く」というローテクで対処し、しかも頼りにしていたコンピュータプログラムを無視せざるを得なかったというこの教訓は、その後のNASAにおけるハードウェアとソフトウェア開発の両面においてかなりの影響を与えたといわれています。

ところが、アポロ14号アンタレス着陸のトラブルはこれだけではありませんでした。

エンジンを逆噴射して月面への着陸のための降下を続ける中、今度は月面に照射して照準を定めるためのレーダーが故障したのです。レーダーが正常に作動しない場合、着陸船は極端な場合大きな岩石の上に降りてしまい、機体が横転するなどの事故が起こりかねません。

このトラブルにあたってもNASAとMITの面々が地球から遠隔操作でいろんな対策を講じた結果、なんとかギリギリ着陸の直前になってレーダーは無事作動させることができ、こうしてアンタレスは無事に月に着陸することに成功しました。

アンタレスは、同じくトラブル続きで結局月面着陸を果たせなかったアポロ13号の着陸予定地だったフラ・マウロ高地に着陸し、乗組員のシェパードとミッチェルは2回の月面歩行を行い、地震計を月面に設置するなどの作業を行いました。

この装置を運ぶ際には初めて、手押し車が使用されました。これは 実験用具や標本などを持ち運ぶ手押し式のカート (Mobile Equipment Transporter, MET)であり、その後のアポロ15号の月面着陸では初めて動力で動く月面車が用いられましたが、動力はなかったとはいえ、月面を初めて「走った」車輪付きの車であり、”Rickshaw”(人力車)の愛称で呼ばれました。

2回目の船外活動では、直径300mのコーン・クレーターと命名されたクレーターの縁まで到達することを目指しましたが、二人の飛行士はクレーターの斜面の地形が起伏に富んでいたためにクレーターの縁を見つけることができませんでした。

しかも酸素が無くなりそうになったため結局引き返さざるを得ませんでしたが、その後2009年に月面探査衛星のルナー・リコネサンス・オービターが撮影した画像によれば、彼らが実際に到達していたのはクレーターの縁から約30メートルの地点だったことが明らかになったそうです。

このミッションにおいてシェパードとミッチェルは月面で様々な科学分析装置や実験装置を展開・作動させ、約45kgの月の標本を地球に持ち帰り、一方もう一人のルーザは月面に降り立つことはありませでしたが、月軌道上の司令船キティホークから写真撮影を行い多くの写真を地球に持ち帰りました。

こうした正規の任務とは別に、この辺がユーモアにあふれたアメリカ人だなと思わせるエピソードなのですが、シェパードはこの日のために特注した、折りたたみ式の特製の6番アイアンのゴルフクラブとゴルフボール2個を着陸船に持ち込んでおり、これを月面で打っています。

2つ目のボールを打った時に「何マイルも何マイルも飛んで行ったぞ」と叫んだといいますが、後の計算では実際の飛距離は200~400ヤード(約180~360m)と見積もられています。

また、ミッチェル飛行士は月面で使うスコップを使って「やり投」を行ったといい、本人曰くこれが、人類史上初の「月面オリンピック」となりました。

神との出会い?

ところで、このミッチェル飛行士なのですが、その後地球に戻る乗員との間での超能力 (ESP) 実験を独自に行うなどの奇妙な行動をとったという記録が残っており、地球に帰還後の1972年10月には、NASAと海軍を辞め、ESP(超能力)研究所を設立し、自ら所長となっています。

その後、イギリスの音楽専門ラジオ局のインタビューに答え、「アメリカ政府は、過去60年近くにわたり宇宙人の存在を隠ぺいしている。また、宇宙人は奇妙で小さな人々と呼ばれており、われわれ(宇宙飛行士)の内の何人かは一部の宇宙人情報について説明を受ける幸運に浴した」と語り、この発言にUFOマニアやゴシップ好きのテレビ局が飛びつき、一時期かなり話題になりました。

この、エドガー・D・ミッチェル(Edgar D Mitchell)という人は、1930年のテキサス州ハーフォード生まれといいますから、今年でもう83歳になられます。

カーネギー工科大学を卒業後、マサチューセッツ工科大学で航空航法学と宇宙航法学の博士号を修得しており、経歴を見る限りは立派な人であることから、いかがわしげな研究所の設立やいろいろと物議を醸し出す発言を繰り返したりしているとはいえ、UFOや宇宙人の存在を信じているという人達がこの人を持ちあげたがるのは分かる気がします。

とはいえ、ほかにも「月面で神に触れた」とか、月へのミッションにおいて「テレパシー能力が増幅されることも発見した」といった不可思議な発言も繰り返しており、アポロ14号の同僚飛行士、ミッチェルとシェパードとの間では、「何も言葉を交わさないのに、彼の考えていることが直接わかった」などと語っています。

どうやらアポロ14号による宇宙飛行がその後の彼を「狂わせてしまった」と思わせるようなふしがあり、このほかにも、「神とは、宇宙霊魂あるいはコスミック・スピリット(宇宙精神)である」とか、「宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)」なるものが存在するなどの発言を繰り返しています。

この人の頭はおかしいとか、狂っているとかいうのは簡単なのですが、調べてみると、アポロ計画によって月面に降り立ち、地球に無事に帰ってきた宇宙飛行士の中には、帰還後急に宗教にめざめたり、あるいはかなり奇矯な行動に出たり奇妙な発言をする人も多く、また精神に支障をきたした人もいるようです。

最初に月に降り立ったアポロ11号以降、そうした人を順番にピックアップしてみましょう。

アポロ11号

エドウィン・ユージン・オルドリン(Edwin Eugene “Buzz” Aldrin Jr.)空軍軍人。ニュージャージー州モントクレア出身。

月面への第一歩を船長のニール・アームストロングとオルドリンと果たした人物です。どちらが踏み出すかについてオルドリン自身に相当な葛藤があったらしく、最終的にはアームストロングの経歴がオルドリンより上であったことなどから、アームストロングが月面の第一歩を踏み出すことになりました。

あまり知られてはいないことのようですが、オルドリンはイギリスの秘密結社「フリーメイソン」のメンバーであり、月面ではこの会に由来する聖餐式(せいさんしき)を行っています。フリーメイソンは、その歴史が古代エジプトまで遡るといわれ、これも古代エジプトの神、オシリスとイシスに供物を捧げる儀式だそうです。

オルドリンは「月面に降り立った二人目の人類」という名誉を「自身の敗北」と感じたらしく、地球帰還後、うつ病を患ったといい、薬物中毒にもなり、入院を繰り返したといいます。

その後も「科学と宗教はそもそも対立するものではない」とか、「科学は神の手がいかに働いているかを、少しずつ見つけだしていく過程である」といった哲学的な発言をしており、月面に降り立つという特異な経験がその思考に何等かの影響を与えたことをうかがわせます。

アポロ14号

前述のエドガー・ミッチェル Edgar Mitchell参照。

アポロ15号

ジェームス・アーウィンジェームズ・アーウィン(James Benson Irwin)空軍軍人、牧師。
ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。最終階級は空軍大佐。

1971年7月26日アポロ15号で月面着陸。退役後、ハイフライト基金キリスト福音教会所属牧師として世界中を歩いて布教を行ないました。

その後、第2の人生をノアの箱舟探索に捧げようと考え、トルコのアララト山標高5165mにまで出かけ、旧約聖書に記述されているノアの箱舟を探しだそうとしているといいます。

月では、「臨神体験」をしたと語っており、この人も月で「不思議体験」をしたのではと思わせますが、「神は超自然的にあまねく偏在しているのだということが実感としてわかる」といった発言には多少不自然さもありますが、ごくまっとうな人のようにも思えます。

が、キリスト教に帰依する聖職者とはいえ、ノアの箱舟探しは少し突拍子もない感じもします。

アポロ16号

チャールズ・デューク(Charles Moss Duke, Jr.)は、アメリカ空軍の准将。月面を歩いた12人の宇宙飛行士の中では最年少。

デュークは、1972年にアポロ16号の月着陸船パイロットとなり、この飛行で、彼と同僚飛行士のジョン・ヤングは3回の船外活動を行い、デュークは月面を歩いた10人目の人物となりました。アポロ17号でも月着陸船の予備乗員を務め、累計265日間もの間、宇宙に滞在し、合計で21時間28分の船外活動を行っています。

この人も宇宙からの帰還後、熱心なキリスト教徒になり、刑務所内の教会で布教を行うなど活発な活動をしています。「科学的真理と宗教的真理という二つの相克をかかえたまま宇宙に行ったが、宇宙ではこの長年悩み続けた問題を一瞬で解決することができた」と述べており、宇宙の体験と「神の存在の認識」をダブらせるような発言をしています。

…… 以上のように、月を歩いて帰ってきた彼らは不思議と「神の存在」を異口同音にとなえるようになり、これは同じNASAに属した宇宙飛行士であることから、もしかしたらNASAそのものがそうした精神世界に関する教育を彼らに施していたのではないのかと疑ってしまいます。

がしかし、無論そんなことはあろうはずもなく、だとすれば最初に「臨神体験」をしたというオルドリンが後輩飛行士たちに何等かのレクチャーでもしたか、とも考えられなくもありませんが、どうやらそういう事実もなさそうです。

月を歩くという特殊な宇宙体験が何を彼らにもたらしたのか?先端科学の諸分野の最高峰的な人材だった彼等が、何故にこれほどまでに神を語るのかについては科学的にいろいろ類推することはできます。

極度の精神的ストレスによる重圧、あるいは耐えられない精神的抑圧への自己防御としての精神的逃亡、はたまた宇宙旅行による酸欠、または酸素濃度の変化などから来る物理的な脳細胞の損傷、幻視体験といった後遺症、興奮状態からくる精神の変容といったことも考えられるでしょう。

が、科学を逸脱した考え方をするならば、彼らが月に降り立ったとき、科学を超越した何かが存在し、それを感じることで彼らの精神が変容していったということもまたありえるように思います。とはいえ、その何かについてこの項で結論づけるつもりもありませんし、また月面にも行ったことのない我々にはそれを想像することさえできません。

リーディングによって20世紀最大の預言者といわれたエドガー・ケイシーは、月は地球の水域と人体内の水との両方の活動を司っているといった意味の霊的な啓示を残しているそうです。

だとすれば、月の地面に降り立ち地面に直接触るという行為は、きっとその何等かの不思議な力を人体に及ぼすに違いありません。それによってこれら宇宙飛行士たちの精神構造に何等かの変化が起きたと考えれば、その後の彼らの数奇な人生航路の変更もわかるような気がします。

そう考えると、私自身も月へ行ったらどう変わるのかがどうしても知りたくなります。が、残念ながら生きているうちには月には行けそうもありません。月に近づく、あるいはもっと身近に感じるのは夜空のそれを眺めることしかないようです。

なので、次の良く晴れた夜を選び、月が出ていれば月光浴をしてみることにしましょう。案外と宇宙飛行士が感じたような何等かの神性を感じることができるかもしれません。

次の満月が待ち遠しくなりました。