総括! ~修善寺温泉(伊豆市)

一年前の今日、我々はここ修善寺に引っ越してきました。あれからもう一年…… 長かったような、短かったような……とは、よく使われるフレーズですが、実際のところは、その中間……といったところでしょうか。

過ぎ去った一年で細かいところは思い出すものの、断片的な記憶が多く、じゃあその間に何をしていたか、というところが抜け落ちているのは何故でしょう。

齢を重ねた……というところがその理由の最たるものなのかもしれません。歳をとると細かいことをあまり気にしなくなるといいますから。

が、逆に細かいことを覚えていられなくなってるんだろう、といわれると、汗……というかんじです。そういえば最近、固有名詞が覚えられなくて……というか、覚えるのが面倒くさくて、テレビに出てくる女優さんとかで似たようなタイプのお顔をみると、みんな同じ名前しか思い浮かびません。

新垣結衣さんと戸田恵梨香さんが、どうしても同じにみえてしかたがなかったのですが、最近ようやく見分けがつくようになり、これを言い当てると、タエさんから、ハイ、よくできました~といわれます。

深田恭子さんと田中麗奈さんの見分けがつくようになったのもごく最近ですし……

もしかしたら、人やらモノやらの見分けがつかなくなるという、あの病気か!?とも思うのですが、こうしてブログもちゃんと書いていられるし、とりあえずここがどこだかであるかも認知しているつもりなので、今のところは大丈夫でしょう……たぶん……

さて、引越し一周年ということなのですが、今日は奇しくも東日本大震災があったその日です。なのであまりおちゃらけたことばかりを書いているわけにもいきません。今も苦しんでいらっしゃる方が大勢いることを考えると、こうして伊豆に落ちていていられること自体を感謝しなければなりません。

とはいえ、今日はあまり重い記事を書きたくはないので、この一年を振り返っての総括ということで、ここ修善寺という場所がどういうところなのか、もう一度検証してみようと思います。

立地

まず立地です。三島まで東京から高速で約二時間。三島からは約30分ですから、二時間半で都内へ出ることができる、という立地はけっして僻地……という感覚はありません。駿豆線を使えば主要幹線である東海道線まで30分で行けますし、三島には新幹線も止まります。

また、料金は高めで本数は少ないものの、ここからは修善寺駅までバスも出ていて、万一クルマを運転できなくなっても、一応暮らしていくことはできそうです。

近隣にある大きな町は、三島、沼津、伊東ですが、三島・沼津はほぼ同じ都市圏といってよく、東京で言うと、八王子と町田といったところ。

無論、市域の広さはぜんぜん違いますが、それぞれの商圏が競合を避けるために、似たような街づくりになるのを避ける傾向にあり、このため、三島と沼津それぞれで様々なバリエーションの異なった種類の店舗があるということは利用者にとってはありがたいことです。

この点、静岡中部にある、旧静岡市と清水市も似たような傾向があり、さらに西端の浜松もそのすぐ西にある豊橋と切磋琢磨しながらそれぞれ独自の商圏を確立しています。さらに東に目を向けると、熱海と小田原がありますが、この両者の形態もこれにやや近いのではないでしょうか。

こうした東海道沿いの中規模都市へ行くためにはそれなりに時間はかかるものの、ちょっとお買いものを楽しみたいとか、ちょっと気分を変えたいときには、そこへ行けばいいさ、というお手軽な距離にあります。

ただ、六本木や西麻布といったおしゃれな街……ということになるとなかなかこれに該当するものがなく、また新宿や日本橋のようにありとあらゆるものがそこで手に入るという場所が近くにないのはやはり、不便といえば不便。

例えば私の場合は写真をやるので、そのための特殊な必要機材が必要になる場合もあるのですが、ちょっとそれを買いに行って……というのができず、ネットで取り寄せるにも時間がかかるので、しかたなく別のもので間に合わせ……ということが、これまでにも何回かありました。

が、まあそれも時間をかけて取り寄せれば済む話であるし、また本当にどうしても必要ならば一番近い大都市である横浜までは2時間もあれば行くことができます。

それを考えると、ここ伊豆に引っ越してくる前の候補地であった、飯田や伊那といった長野県ではそうはいきません。名古屋まで3時間以上、東京となると4時間は覚悟しなくてはならないでしょう。

以上から、交通の便、立地という点では、ここ修善寺を選んだのはまずまずといってよいのではないかと思っています。

気候

次いで気候。これは人それぞれでしょう。雪が好きな人はもっと寒い東北方面へ行くでしょうし、海が好きな人は瀬戸内海や九州へ、山の好きな人は長野や山梨、広い大地を望む人は北海道と、選択肢はゴマンとあります。

我々が伊豆を選んだ理由は気候とかではなく、広島の霊能者Sさんのアドバイスによるものだったというのは、このブログの初期のころのものにも書きました。当初長野や山梨などの「夏が涼しいところ」への移住を考えており、最終的には伊那に決めかけていた我々に、そこはやめた方が良い、南西方向がいいだろう、と言ってくれたのがSさんでした。

そもそもは二人とも暑い夏が苦手で、できるだけ涼しいところということで移住先を探していたのですが、結果としては、Sさんのアドバイスに従い、雪などにはほとんど縁のなさそうな、夏もけっして涼しくないのではないかと思われる地域を選ぶことになりました。

が、所詮は温暖といわれる静岡です。けっしてそれほど涼しくはないだろう、という予想でしたが、その予想は大幅に裏切られ、実際には猛暑と言われた昨年でさえ、ここへ来てからはクーラーをつけることがほとんどなく、これは本当にありがたい誤算でした。

結果としては、Sさんのアドバイスが正しかったわけであり、これには今でも本当に感謝しています。

確かに日中は暑い日も多いのは確かなのですが、伊豆にあっても標高200mを超えるこの場所では気温が30°を超えることはほとんどなく、また夕方から夜にかけては急激に気温が下がり、真夏でも朝方などは毛布がなくては寝れないこともあるほどです。

ここに落ち着く前にみた伊豆の別の物件の中にはそれほど標高も高くないところもあり、こうした場所を選んでいたらこの評価もまた別のものになっていたかもしれません。

逆にもっと涼しそうなところもあり、それは例えば伊豆中南部に位置する天城高原などですが、ここは逆に冬の寒さもさることながら、雨が多く、おそらくはここに住んでいたら湿気対策が大変ではなかったかと思われます。加えて天城は交通の便が悪く、前述のような東海道筋の都市へ出るのは一日がかりになります。

そこに生活する、ということを考えたとき、交通の便と気候はもっとも重要な要素だと思います。これらの点から考えるとこの要素を満たすのは、伊東もしくは修善寺から伊東にかけての伊豆スカイライン周辺、あとは函南町あたりにかけての一帯ではないでしょうか。

そして気候と交通という二大要素を考えた上での伊豆でのベストポジションはやはり修善寺だと思います。

生活の便と環境

生活の便ということを考えたときに、日常の買い物をどこでするか、ということも大切なポイントです。この点、三島や沼津を除けば、大仁は伊豆の中でももっとも便利な町です。町自体はそれほど大きいわけではないのですが、大型のモールやスーパーが何軒もあり、またホームセンターもふたつあります。

食事どころもいわゆるファミリーレストランの主要なものが林立しており、このほかブックオフや、洋服の青山といった、都内の中堅都市の中心部で見られるような店舗のほとんどがこの大仁に集中しています。

伊豆のあちこちにある別荘地の人達も、平時の買い物はだいたい大仁まで出かけてきて済ませるようです。

もっとも我々も、これら大仁にある施設すべてを日常的にすべて利用しているかというとそうではなく、それぞれに行くのはごくたまに、です。

が、こうした便利な施設がすぐ近くにあるというのは住んでいて安心感があります。日常生活を送るのに必要なものがすぐに手に入るというのは、実はとても大切なことです。長野や山梨の山奥、伊豆の山奥ではそうはいきません。

ただ、住宅環境ということになると、ここは多少評価を下げざるを得ません。大仁や修善寺という比較的大きな町に近い分、この別荘地にも密集というほどのことはないにせよ、それなりの住宅がひしめいて建っているからです。これは交通の便や生活の便のよさとは裏腹のデメリットでもあります。

別荘地というと、軽井沢のように林間にぽつぽつと住宅が建っているようなイメージを持つ人も多いと思いますし、そうしたところを希望する人が多いと思いますが、ここは建蔽率40%、容積率60%のれっきとした都市計画区域内にあり、一定規模以上の住宅は建てることができません。

それでも一軒一軒の敷地はそれなりに広いため、沼津や三島の市内のように住宅がひしめいている、ということはありません。ある程度お互いのプライバシーを保つことのできるややゆったりした住宅地、といったところでしょうか。

もう少しゆったりとしたカントリーライフを期待していたのは確かで、海でも見えれば最高なのですが、残念ながら標高が高いとはいえ、海は見えません。が、その代りに、日々刻々と姿を変える富士山が常に目の前にあり、箱根駒ヶ岳や遠くは南アルプスまで望めるという立地はそうそうありません。

別荘地内には時折、鹿やイノシシが出没するくらいであり、自宅から5分も歩けば森林地帯というこも、ここが紛れもなく都会ではないことの証明です。

特筆すべきは夜空のきれいなこと。これも近くに大きな町がなく、周辺に灯りが少ないためですが、この夜空の美しさを今年はもう少し満喫したいところです。具体的には天体望遠鏡が欲しいのですが、それはまだ先のことかもしれません。

ところが、別荘地というのは古今東西どこでもそうですが、こと人間ということになると、ここはやはり高齢者の巣窟です。私もその予備軍には違いなく、あと20年もすれば間違いなくそのお仲間ですが、近隣を見渡すと、やはりご高齢の方が多く、自治会などの地域の集まりがあったりすると、それがすぐにわかります。

とはいえ、若い人がまったくいないかというとそんなこともなく、すぐ麓にある小学校や中学校にここから通う小中学生もちらほらみかけることもありますが、やはり少数派であり、日常生活で子供の姿をみることは極めてまれです。

だからといってそれが何も悪いということではないのですが、もしここに震災や台風などの災害が起こったときに、共助できる地域体制が整っているかいうことを考えるとはなはだ心もとないかんじです。

町ぐるみで何かを達成するという場所ではないことは確かで、その点、自治組織が色々な取り組みをしている東伊豆の別荘地がうらやましく思えることもあります。とはいえ、ここへ来てまで一年。この別荘地のすべての人を見知ったわけではありません。今年、これから出会う人々に期待したいと思います。

災害

災害という点に目を転じてみると、さすがに地震に対しては不安になります。地震の巣窟といわれる駿河トラフが静岡沿岸には長々と横たわっており、東海・東南海地震の襲来は時間の問題ではないかといわれています。

しかし、こうした大震災の想定範囲をみてみると、最も震度の大きい範囲などでは伊豆半島はギリギリはずれており、被害の大きいだろうと考えられているのは、すぐ南側に地震の巣があって、これに面している沼津や清水、静岡です。

伊豆の被害が相対的に低いと考えられているのは、その地盤が強固なためです。都内においても八王子などの山岳地帯は比較的地盤が固く、東京でも地震を避けて住むならばできるだけ東京西部にした方が良いといわれるのはそのためです。

伊豆半島はもともと、もっと南にあった火山島がどんぶらこドンブラコと北へ移動してきて、どーんと本州にぶつかってできた半島であり、このときのぶつかった衝撃で地殻が盛り上がり、その後火山のマグマが冷え切ってできた岩体ともあいまってできた非常に強固な岩盤が地下にあります。

だからといって地震の被害をすべからくまぬがれるかといと、そうはイカのなんとかなのですが、それでも静岡の他の地域よりは安全だと思います。

富士山の噴火も気になるところですが、過去の直近で宝永山が噴火したときの噴煙のほとんどは、西風に乗って東、もしくは北東方面に流れており、このため火山灰や火山弾の被害は富士山東部から東北部にかけての場所に集中しました。

火砕流などが及んだ範囲も沼津のあたりが南縁であり、長岡や韮山にまで被害は及んでいません。ある程度の火山灰は降るでしょうが、ここ修善寺まで熱気を持った灰が及んで火災などが発生するということはまず考えにくいでしょう。

ということで、災害に関しては地震や富士山の噴火については、まあなんとか大丈夫というレベルにあるといえるのではないでしょうか。

ただ、問題は風です。住んでみてわかったのですが、ここはおそろしく風の強いところです。とくに秋から冬にかけての風はすさまじく、空は真っ青な良いお天気なのに、風だけは台風なみのものが吹きます。

最初は、ここが山の上だからなのかなと思っていたのですが、どうやらすぐ麓の大仁や修善寺温泉街などでもかなりの風が吹くらしく、修善寺温泉街の南の端っこにあるバス停に「うなり石」という名前がつけられているのは、昔から巨大な石を揺らすほどの強い風がふくためです。

以前、学生のころに沼津に住んでいたときにもこの風の強さは感じていました。これを科学的に説明してくれているサイトもあるのではないかと思いますが、なかなかうまいこと書いているものがみつかりません。

が、私が察するには、箱根から伊豆半島につらなる山岳地帯は、西からの風を堰き止める壁のような役割をしているはずです。ここに風が吹き溜まり、これが東へ抜けようにも山があるために抜けきれず、このため、その西側の町では風が強まるのではないのでしょうか。

そしてこの山の上の別荘地はといえば、ここらあたりにちょうどその風が抜ける通り道があり、ここを求めて風が集中するため、いつも強風が吹き荒れている……というのが私の推測です。

推測ですが、おそらくあたっているでしょう。……ということは、この地の最大の弱点は台風などによる風害ということになるかと思います。ここに住むようになってから、近隣の人からここで過去に大きな風害があったという話を聞いたことはまだありませんが、風が強いというのはみなさんやはり口にされます。

災害というのはいつも思いがけないときにやってくるもの。いつ何時竜巻でも起こって屋根ごと吹きとばさされる可能性がないとはいえません。いくら気を付けても、災害はいつ何時やってくるかもわからず、先日のロシアの隕石のようなものがここに降ってこないとも限りません。

心配しすぎてもしょうがないとは思うのですが、今年から二年目を迎え、こうした想定される災害の予兆だけには常に気を配り、事前準備を心掛けていきたいと思います。

そして自然

さて、長々と書いてきましたが、最後にここに住み始めて最もよかったと思うこと、それはやはりすぐれた自然や景勝地に囲まれていることでしょう。

すぐ近くには修善寺虹の郷や修善寺自然公園といった伊豆の環境をうまく生かした公園施設があり、さらに山の上かとおもいきや、ほんの20分ほどもクルマを走らせれば海に出ることもできます。

同じく車で20分ほどで行くことのできる達磨山はここへ移ってきてから最も気に入っている場所のひとつであり、ここからは富士山はもとより、眼下には青く広がる駿河湾、その先には青々と横たわる南アルプスを望むことができます。

まだ踏破していませんが、南へ行けば伊豆最高峰の天城山もあり、その周辺には浄蓮の滝や河津七滝などの景勝地、さらに天城山の東側に広がる伊豆高原から細野高原に至る一帯は、日本でも有数なリゾート地であるとともに、多くのレジャースポットが点在する一大観光地でもあります。

さらに、伊豆最南端の町、下田。アジサイがあり、水仙が咲き誇り、なおかつ歴史的にも重要な史跡も数多くあるこの町には、まだまだ何度でも足を運びたいものです。

すぐ北にある街、韮山にも頼朝や北条早雲ゆかりの史跡が多く、こられの場所にもまだまだ行っていない魅力的な場所がたくさんあります。

こうした場所場所へすべて1~2時間もかければ行けるという、この修善寺の立地は、まさに伊豆観光の中心地と言っても過言ではなく、事実多くの鉄道会社やバス会社がここを拠点にしています。

ここへ移住してきてまだ、あまり行っていない西伊豆から、南伊豆にかけての場所もまた魅力です。アクセスが悪いために観光客もあまり行かない場所であり、それだからこそ、手つかずの自然もまだまだたくさん残っているに違いありません。

今年も、こうした自然や景勝地を訪ね歩き、またたくさん良い写真を撮って、またこのブログで紹介していきたいと思います。乞うご期待……です。

さて、河津桜はもうそろそろ終わりですが、これからはソメイ吉野が本番です。伊豆各地へこれを見るための行脚が今から楽しみです。

皆さんの町の桜もそろそろピンクに染まってきたのではないでしょうか。地元の桜も良いですが、今年はぜひ伊豆の桜も見に来てください。

そしてそれがきっかけになってみなさんも伊豆暮らしをしたくなるかもしれません。その時はこのブログも少しは役に立つかもしれませんね。

そうではなく、今実際に移住先を探している方々の参考にもなれば幸いです。すぐ近くへ越してこられたらぜひお声掛けください。ぜひ、一度お花見をご一緒しましょう。

河津の一日 ~河津町


ここ数日、暖かい日が続きます。我が家の庭先の梅の花も3~4輪が花開いたので、おそらく修善寺梅林の梅も満開なのではないでしょうか。今日か明日、行ってみたいと思います。

修善寺虹の郷のほうも気にはなっているのですが、こちらはあまり梅の木はないと聞いており、見事なのはこのあとすぐに咲く桜と、4月中旬ころから咲き誇るというシャクナゲの群落ということです。

このほか、狩野川沿いの桜や韮山城址の桜などももうすぐだと思います。去年は引越し直後のゴタゴタでこうした花の名所を落ち着いてみることもできませんでしたが、今年はじっくり見て回ろうと思っています。

さて先日、忙しい中をぬって、河津町まで桜を見に行ってきました。

ここからは通常だと一時間半ほどの行程ですが、平日だというのに141号は結構混んでおり、途中何度か滞りがありました。おそらく、我々と同じく河津へ行く車と、あとは伊豆西海岸のあちこちで今盛りという、マーガレットや菜の花を見に行く車による混雑だったのでしょう。

天城峠を抜け、ループ橋を回ってそろそろ河津町に近づこうとすると…… 思ったとおり町の入口付近から渋滞が始まっており、ああ、こりゃいかん、ということで、とりあえず迂回路を使って下田まで出、昼食を済ましてから改めて河津町まで北上することにしました。

下田での昼食は、「ペリーロード」沿いにある、「ページワン」さんで頂きました。去年のあじさい祭りのときにもここでパスタを食べましたが、ここのズワイガニのパスタは絶品でした!

今回は別のお店に行く予定だったのですが、タエさんお目あてのこのお店がご店主の都合で休憩中だったために入れず、再びページワンさんに行くことに……

タエさんは、トマトのボロネーゼ、私が今回頂いたパスタは「4種のチーズのショートパスタ」というものでしたが、これがまた絶品で、とてもおいしかったです。

今回は写真を撮らなかったのでこのおいしそうなパスタをご紹介できませんが、下田へ行かれる方、ぜひ立ち寄ってみてください。我々と同年齢?ぐらいのご夫婦がやっておられて、お客さまへの対応もとてもエレガント。小さなブティックも兼ねていて、なかなかしゃれたものも置かれています。女性向きのものが多いようですが……

食事後は、下田を出て再び河津へ戻ることにしました。海岸沿いを北上するルートで海側から街中へ侵入しましたが、今度は目立った混雑ぶりもなく、スムースに駐車場まで辿り着きました。

今、河津町では「河津桜祭り」の真っ最中で、この期間中は、町内のあちこちで料金一律500円の駐車場サービスをやっていて、どこへクルマを止めても同じ料金です。ただ、我々が行ったときには、平日だったにもかかわらず、駅に近い駐車場などでは既に満杯状態でした。

とはいえ、ちょうど一台空いたスペースに、滑り込むことができ、ここはメイン会場からすぐ近くにある駐車場でとてもラッキーでした。すぐ目の前には伊豆急行、「河津駅」も。ここから河津川沿いの桜並木まで300mほどの「参道」があるのですが、この道沿いには出店がびっしりと並んですごい熱気です。

人の数もかなりのもので、年末のアメ横ほどひどくはありませんでしたが、伊豆の南の端のちいさな町にこれほどの人が集まるのか、というほどの人出です。ちなみに我々が行ったのは水曜日でしたが、これが土日ともなるともっとすごいのでしょう。今日、土曜日あたりは更にものすごいことになっているに違いありません。

そして、川沿いに出てようやく桜を見ることができましたが、これはもう……見事としか言いようがありません。

河津川を伊豆急の線路がまたぐあたりから上流3kmほどの川沿いには、びっしりと見事なピンク色の河津桜が並び、サクラであるため花の香などはしないのですが、川沿いはまるで「桜色が匂うような」と書くと、少しはその雰囲気が伝わるでしょうか。

お天気が良かったせいもあり、川沿いにもびっしり並んだ出店の間を縫うようにしつつ、あちこちで写真を撮りあってはうれしそうに笑う人達の表情は、これもまたほんのりとピンク色に染まっているような気さえします。

我々二人は結局、最上流まで行き、ここからまた引き返して帰ってきましたが、この間、何枚写真を撮ったでしょう。やはり有名な桜の名所だけのことはあります。どこを撮っても絵になるとはこのことです。

ただ、惜しむらくは、うまく撮らないとどうしても他の観光客が写り込んでしまうこと。仕方のないことではありますが、これがいやならば今度は早朝にでもやってきて、人がほとんどいない中で撮影するしかありません。今年はともかく、来年はこれにチャレンジしてみようかな、と帰りながら思ったものです。

……と、ここでブログを終えてしまうのも少々名残惜しいので、もう少しこの河津町のこ
とについて書いておきましょう。

地図を見ればわかることではありますが、河津町は、伊豆半島の南端、下田から北東に十数キロ行ったところにある「今井浜」というところから山側に入ったところにあります。ここから天城山に向かって国道が通り、この道路に並行して天城山南東の山稜を源流とする河津川が流れており、この川沿いにできた平地に形成された細長い町です。

江戸時代末期には、およそ15の村々があったそうで、この村々を領有していたのは当初沼津藩の水野氏と掛川藩の太田氏でした。しかし、1868年(慶応4年)に両藩とも移封となり、幕府の直轄地になりました。その理由はよくわかりませんが、幕末に下田が開港され、一躍この地域が国際的な要地になったためではないかと思われます。

明治以後、幕領地であった土地はすべて県地となり、韮山県となりますが、1871年(明治4年)に伊豆はすべて足柄県の管轄になったのに合わせて、河津も足柄県所属となり、そして、1876年(明治9年)に足柄県が廃されたとき、晴れて静岡県に編入されました。

現在の人口は約8000人あまりであり、山間にあって耕作できる土地も限られることから農業はあまりさかんではなく、工業もいわんやであり、やはり最も大きな収入源は観光業のようです。その目玉はもちろん、河津桜ですが、このほかにも以前このブログでも紹介した「河津バガデル公園」があり、ここはバラの名所です。

このほかにも「峰温泉」という温泉街があり、ここには間欠泉があって、「大噴湯」と呼ばれて人気のようです。我々もまだ見にいったことがないので、今度またじっくり見学しに行こうと思います。

このほか、河津川の上流には、「河津七滝(かわづななだる)」と呼ばれる景勝地があり、その名の通り、七つの滝があるようですが、こちらも我々はまだ未踏破。なかなかのものとのことなので、今年こそぜひ探訪してみたいところです。

こうしてみると、小さい町ながら、「観光地」と呼ぶにふさわしい、たくさんの見どころがあり、下田と伊豆高原の間に挟まれて目立たないながらも、なかなかの人気もあるようで、「隠れ名所」とでもいうのでしょうか、ここだけを目的に遊びにきてもそれなりに楽しめそうです。みなさんもいかがでしょうか。

町のHPによると、川端康成の小説「伊豆の踊り子」にもこの町が出てくるそうで、また河津町の東の端にある前述の今井浜は、三島由紀夫の短編小説「真夏の死」の舞台にもなったということです。

このほか、井伏鱒二、梶井基次郎、石坂洋次郎、西村京太郎などもここを舞台にした小説を書いているということで、これら作家さんのゆかりの地だけを訪ねて歩くのもまた面白いかも。

このほか、ウィキペディアには、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)という人が、「かっぱの甕」という作品を残している、と書いてあったので調べてみたのですが事実かどうかよくわかりませんでした。

種田山頭火とも親交のある俳人だったようですが、俳句を詠むために河津の町を訪れたときに地元の人から聞いた話を随筆にでも残したのかもしれません。

気になったのでさらに調べてみたところ、この「かっぱのかめ」というのは、河津駅からほど近いところにある栖足寺(せいそくじ)というお寺に伝わる話のようです。

1319年(元応元年)草創と伝わる禅寺ということで、かなりの歴史を持っています。大きなお寺のようですが、調べてみたところとくに歴史的に重要なエピソードはなさそうです。今回は訪問しなかったのでよくわかりませんが、こちらも案外と隠れた名所かもしれません。

このお寺に大事に保管されているのが、その名も「河童のかめ」と呼ばれる古い甕であり、甕自体は、古瀬戸風の黒褐色の焼き物で、底に、「祖母懐加藤?右門」の記銘があるということです。江戸時代の中頃の作といわれることから、この話も江戸時代ごろから伝わるものなのでしょう。

それはこんなはなしです。

栖足寺のすぐ近くそばには河津川が流れています。寺にほど近いところの淵は裏門(うらもん)と呼ばれ、昔からかっぱが棲んでいるという言い伝えがありました。

その日はお寺の田植えの日でした。大勢の檀家衆が、お寺が持っている広い寺田の田植えを手伝いましたが、大人数で田植えをしたので、早めに終りました。田植えの終わった村人たちは、体や馬を洗うために「裏門」にやってきて、にぎやかにどろを落としていました。

そのとき、一頭の馬が何かにおどろいたのか、一声いななくと土手に飛び上がりました。村人がハイドウドウ……といくらなだめても暴れるので、何だろうと思ってよく見ると、おやっ? 馬の尻尾に河童が取り付いているではありませんか!

これを見た村人たちは、「ウチのせがれが、水浴びしたときにいたずらした河童だ」「ウチの娘も川に引っ張り込まれた」などと、口々に叫びながら、鍬や棒を手に持ってきて、大勢でこの河童に打ち掛かって殺そうとしはじめました。

そのとき、この騒ぎを聞きつけて、和尚さんがお寺の中から飛び出てきました。村人たちが河童にひどいことをしているのを見た和尚さんは、「めでたい寺の田植えの日じゃ、殺生はいかん。今日のところはいのちだけは助けてやってくれまいか。」と村人たちに頼みました。

村の檀家衆は、「こやつは、馬を脅したり、子供に悪さをする悪い奴ですよ」とにくにくしげに言いながら、ふたたび鍬や棒を振り挙げましたが、和尚さんは、まあまあと手でこれを制しながら、村人たちに頭を下げました。「わしに免じて、河童を殺すのを止めてくれんか。これ、この通りじゃ。」

そして、河童に向かってこういいました。「こりゃ、河童、よく聞け!これは日ごろのおまえのいたずらの報いじゃ。これからは悪いことをしてはいかん。この川を出ていき、どこか人の邪魔にならないような遠くへ行って暮らせ!」

これを聞いた河童は聞いているのかいないのか、とにかく命を助けてもらったので、うれしそうに淵にするりと潜りこむとすぐに姿を消していきました。

村人たちは、「あぁぁ、和尚さんのおっしゃることだで、仕方ないわい。じゃあ、庫裏(くり)で、お寺さんのご馳走になるとしようか……」と、その後は夜更けまで酒を飲んだり唄を歌ったりして、賑やかに村人の宴が続いていきました。

……そして、深夜になったころのころ。和尚さんはうとうとしながらも、“今日は、河童の命を助けてやって、よいことをした。”と思い返して微笑みながら、ようやく眠りかけようとしていました。

そのときのことです。雨戸がとんとん、とんとんと鳴ります。

“おかしいな、風も吹いている様子もないが……“と、また眠ろうとすると、また、とんとん、とんとん、と叩く音がします。

「いったい誰じゃ!こんな夜更けに!」と和尚さんが飛び起きて引き戸をガラリと開けると、広いお寺の庭の片隅に誰かがしょんぼりとたたずんでいました。

よくみると、その姿は頭もひげも真っ白い老人で、和尚さんが「誰じゃ、こんな時間に!」と声をあらげると、その男が申し訳なさそうに口を開きました……

……「こんな夜更けにお騒がせして申し訳ありません。私は今日の昼間、命を助けていただいたあの河童です。」

驚いた和尚さんですが、「いったいその河童がいまごろ何しに来たのじゃ?」とおそるおそる河童に尋ねました。

すると河童は後ろ手に持っていたものを取り出し、和尚さんに差し出しました。そして、

「私はこれから遠い土地へ行き、今後はもう二度と悪さをいたしません。助けていただいたお礼にと、このかっぱの宝瓶を持って参りましたのでどうぞお収めください」と言いながら大きな黒ずんだ甕を差出しました。

和尚さんは、河童の申し出をいぶかりながらも内心では、“ふうん、動物といえども気持ちがあるもんじゃな。”と、感心しながら河童が差し出す甕をだまって受け取りました。

甕を和尚さんに渡した河童は、安心したのか、と同時に煙のように消えてしまい、和尚さんの手には河童の残したずしりと重い甕だけが残りました。

“不思議なこともあるもんじゃわい”と和尚さんは思いつつも、この甕を床の間に飾り、それからようやく訪れた長い眠りにつきました。

……ところが、さらに数時間たった朝方のこと、和尚さんは、どこかからチョロチョロ、チョロチョロ、サラサラ、サラサラという川の流れるような音がすることに気付きます。

…………? とそば耳を立ててみると、どうやらその音はさきほど河童が持ってきた甕の中から聞こえるようです。“

“おやおや? さっきの甕の中から聞こえるようだぞ!?”……と和尚さんがさらに耳を甕につけて聞くと、さらに水の音が大きく聞こえます。

“もしかしたら、これは河童が泳いでいる音かもしれん!”と思ってさらに音を聞いていると、河童の声のような音も聞こえてきました。そして、それはどうやら「この音の続く限りお寺も村も栄えますよ」と言っているように和尚さんには聞こえました。

和尚さんは翌朝目覚めると、“村のみなにもこれを聞かせてやろう”と思い、檀家衆に知らせたところ、大勢の人が集まり、村人たちもまた、サラサラ、チョロチョロという川の音を聞き取ることができました。

このためこの甕は村中の評判になり、また「甕の中で、河童が泳いでいるそうだ!」とやがて他の村々にも評判が伝わり、これをひと目みようと大勢の人がおしかけるようになりました。

こうして、「河童のかめ」は栖足寺の寺宝として大切にされるようになり、今でもかめの口に耳を当てるとすんだ川の音が聞こえてくるということです……

と、こういうお話です。甕の中に黄金や小判が入っているというわけでもなく、ただの水の音がするだけ、というのが素朴なかんじで、私はなかなか面白いし、いい話だなと思いましたがみなさんはいかがでしょうか。

この河童のかめのお話の伝わる栖足寺だけでなく、河津町にはこのほかにも「杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ)」というたいそう古い神社があります。

社伝によれば、かなりの古代から鎮座していたようですが、和銅年間(708~15年)ころに再建され、1193年(建久4年)には源頼朝がこれを更に再建したといい、その後も洪水や火事で何度も社殿が失われたものを時の権力者が建て直してきました。

現在のものは、1538年(天文7年)あった火事でやはり社殿が焼け、小さな祠だけになっていたものを、1544年(天文13年)にこのころの国守で代官であった「清水康英」らが再建したものだそうです。

古くは「桙別明神」、「木野大明神」、「来宮大明神」、「木野神社」、「木之神社」、「鬼崎(きのさき)明神」などと呼ばれており、現在でも「河津来宮神社(かわずきのみやじんじゃ)」と通称で呼ばれています。

が、本当の名前は、前述のとおり「杉桙別命神社」であり、「来宮」、すなわち「木の宮」ということで、木にまつわる神様が祭神という説もあるようです。

この神社には、以前のブログでとりあげた「伊豆の七不思議」のひとつである「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」という神事が伝承されていて、これは、年末の12月17日から23日の間には、鳥や酒を口にしてはいけないというものです。

これは、この神社の祭り神であり、大酒飲みだった「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)」が、ある日酒に寄って野原で眠ってしまっていたところに、「野火」が起こり、ミコトがあやうく焼死しそうになったとき、小鳥の大群が河津川へ飛び込み、羽に付いた水を運んできてまたたくまにこの野火を消火したというエピソードにちなむお祭りです。

この鳥たちのおかげで一命を取り留めた、ということで杉桙別命はその後、大酒を慎むようになり、また年末のこの時期、飲酒とともに鳥肉、そして鳥が生む卵も食べることを禁じたといいます。

・鳥を食べない
・卵も食べない
・お酒を飲まない

ということで、「鳥精進酒精進」と呼ばれるようになり、その神事が現在までも続けられているというもの。ちなみに、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられており、河津の町では、いまでも、小学校の給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られているそうです。

この来宮神社の境内の本殿奥には、樹高約24m、幹周14mの巨大な楠の木があります。昭和初期の時点で樹齢1000年以上と推定されたそうで、昭和11年(1936年)には国の天然記念物に指定され、現在に至るまで「来宮様の大クス」と呼ばれ、神木として崇められてきました。

かつて河津には7本の大楠があり、明治時代中頃まで河津郷七抱七楠(ななかかえななくす)と呼ばれていたものが、現存しているのはこの1本だけになってしまったということ。

しかし、境内の参道入口付近と、拝殿右前にもかなり大きな楠の大木があり、とくにこの参道入り口の楠の木は「となりのトトロ」のモデルになったのではないかと思われるような大きな「ムロ」があります。

これら古い楠木に囲まれた境内は静けさが漂い、神社好きの私にとっては、たまらなく心地よい空間でした。河津観光の目玉はこんなところにもあったのか、とこれまた大きな穴場をみつけてずいぶん得をしたような気分にさせてくれたものです。

ちなみに、熱海市にも同名の「来宮神社」という神社があり、こちらは「阿豆佐和気神社」というのが本名のようで、ここにも有名な天然記念物の大楠があるということです。こちらも今度ぜひ行ってみたいと思います。

そんなかんなで、夕方かなり遅くまで河津の町を散策し、その日は大満足で修善寺に帰ったのは言うまでもありません。

おそらく今日いまごろは、土曜日ということもあって河津の町はこの日以上に賑わっているに違いありません。

我々が行ったときには、まだ全然花は散っていませんでしたが、これからは次第に散っていくことでしょう。しかし、おそらくはまだ一週間くらいは楽しめるのではないでしょうか。

河津の桜が咲くのを皮切りにようやく春が訪れたような感のある今日この頃。みなさんもこの週末、河津桜を見に、伊豆へやってきませんか?

命のロウソク


昨日に引き続き、今日も良いお天気のようです。河津桜がそろそろ満開だという情報も入ってきたので、これから下田方面へ出かけてみようかと思っています。

仕事はどうするんじゃい!……とお叱りを受けそうなのですが、それはそれ、昨日までにあらかたメドをつけたので何とか今日一日ぐらいサボっても大丈夫でしょう。

若いころには、こうした段取りがなかなかつけられなくて、時間ばかり経過していくうちに仕事の締切が迫り、徹夜を余儀なくされる……なんてこともよくありましたが、経験を積んだだけのことはあり、仕事の手は20代、30代のころに比べると格段に早くなりました。

このまま、60代、70代に突入しても今のままでいられると良いのですが、昨日のブログでも書いたように、テロメアがどんどん短くなっていき、やがては放射能にだけ強い、ゴジラジジイになっていくのでしょう。

その先には当然、死神が待ち受けているでしょうが、できるものなら、今のうちからこの死神さんとも仲良くなっておいて、死に際になったら彼(彼女?)の裁量でもう少し寿命を延ばしてもらう……なんてことができると良いのですが。

ところで、この「死神」というワードを調べてみると、出所はやはりヨーロッパのようです。エジプトやギリシャなどの多くの古代文化では、その神話の中に死神を組み入れており、このころから既に、「死の象徴」であり、その性質上「悪の存在」的な認知をされていたようです。

が、一方ではそのほとんどの場合は宗教上においても最も重要な神の1つとされ、最高神もしくは次いで位の高い神となっている場合が多く、崇拝の対象にしている宗教もあるといいます。

日本においての死神は、仏教の伝来によってもたらされたようで、仏教では死にまつわる魔ということで「死魔」と呼ばれていたようです。人間を死にたくさせる魔物で、これに憑かれると衝動的に自殺したくなるなどといわれ、これが日本的な神道と結びついて後年、「死神」と説明されるようになったと考えられます。

仏教の極意がつづってあるという日本の古い文献、「瑜伽論」には衆生の死期を定める魔にのついてのことが書かれているそうで、これがまた後年、冥界の王とされる閻魔(えんま)を生みだしました。閻魔大王の配下には牛頭馬頭(ごずめず)などの鬼がいますが、これもまた死神の類とされることもあります。

一方、神道では、日本神話におけるイザナミのミコトが死者の国である黄泉の国に行ったということで、これを人間に死を与えた、というふうに解釈し、イザナミを死神と見なすこともあるようです。

ちなみに、このイザナミはその死後、自分に逢うためにわざわざやってきてくれたイザナギに、自分の腐敗した死体を見られたとき、これを「恥をかかされた!」と大いなる勘違いをして怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかけます。

しかし、黄泉国と地上である葦原中津国(あしはらのなかつくに)の間にある黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナギが大岩で黄泉の国までの道を塞ぐことに成功。イザナギは地上に出て来れなくなりました。そしてイザナミとイザナギはその後、離縁したということですが、イザナギが慰謝料を払ったかどうかまでは記録に残っていません……

これに対して、西洋の死神はというと、一般的には大鎌、もしくは小ぶりな草刈鎌を持ち、黒を基調にした傷んだローブを身にまとった白骨化した人の姿で描かれることが多いようです。ほかにも色々バージョンがあって、白骨化した馬に乗っていることもあり、常に宙に浮遊している状態のもの、黒い翼を生やしているものなど、色々です。

持っている大鎌を一度振り上げると、振り下ろされた鎌は必ず何者かの魂を獲ると言われていて、死神の鎌から逃れるためには、他の者の魂を捧げなければならないとか。

ヨーロッパでも死神は基本的には悪い存在として扱われる事が多いようですが、誰が名付けたかは知りませんが、死神には「最高神に仕える農夫」という異名もあるそうで、この場合の死神は、冥府への先導者ということのようです。

死を迎える予定の人間が、魂のみの姿で現世でさまよい続け、悪霊化するのを防ぐため、この「農夫」が冥府へと導いていくれるといわれているそうで、多少は怖さが軽減されるものの、逆にそんな得たいのしれない農夫にあの世に連れて行かれるのは、余計に不気味なかんじがします。

ところで、死神といえば、「命の蝋燭(ロウソク)」という話を思い出します。

ある男が、命の蝋燭が置いてある場所に迷い込み、そこにある自分の蝋燭が消えかかっているのを見て、その場所の番人である死神に、なんとかもう少し長く……と懇願するという例の話ですが、この話の大元になったのは、有名な「グリム童話」だそうで、「死神の名付け親」というタイトルがついているということです。

そのあらすじはこうです。

ある貧乏な夫婦のもとに男の子が生まれました。その父親の男は無学であったため、自分で子供に名前をつけることできず、名付け親を探すために、赤ん坊を抱いて家を出、町はずれの街道まで行きました。そこを通る通行人を探して名付け親になってもらうつもりでしたが、ちょうどそこには神様がやってきました。

しかし、神様は忙しかったので、名付け親になることを拒み、次にやってきた悪魔にも断られてしまいます。最後にやってきたのが、死神であり、男が名付け親になってほしいと懇願すると、死神は快くこれを引き受けてくれました。しかも、死神は男に対し、この子を将来、大金持ちにする、とまで約束してくれました。

こうして男の息子はすくすくと成長しますが、ある日、その息子のもとにあのときの死神が現れます。

死神は息子を薬草が生える群生地に案内してこう言いました。「お前が、今後もし病人の元に呼ばれることがあれば私もついていこう。その時、私が横たわる病人の足下に立っていたら薬草を飲ませなさい。その人間の命は助かる。しかし、枕元に立ったならその人間の命は私のものだ。」

息子のところへはその日から、次々と病人が連れてこられるようになり、そのたびに病人の枕元には死神が現れました。多くの場合、死神は病人の足元に立ったため、病人の家族は大いに喜び、息子に金銭を渡すようになりました。

時には死神が枕元に立ち、その病人はあの世へ連れて行かれることもありましたが、息子はこの死神の教えをしっかりと守って薬草を飲ませ続け、ついには名医とまで言われるようになりました。

ところが、ある日、息子が住んでいた国の王様が重病にかかります。王様の側近は息子の評判を聞きつけ、王様を息子のところに連れてきました。そのとき、死神はなんと王の枕元に向かおうとし、それはやがて彼が死ぬ運命であることを意味することは息子にもわかっていました。

ところが、この王様は国民に慕われていて、たいそう人気がある人だったため、息子はこのときに限って死神を騙して王の命を救おうと考えました。そして、死神が目を離しているスキにとっさに王様の体を逆転させ、王様を助けました。

死神はこのことをあとになって気づき、二度目そんなことをしたらお前の命はないぞときつく息子を叱りましたが、その後王様の娘の王女が病気になり、息子のところへ連れてこられたときにも、息子は同じようにして死神をだましてその命を救いました。

のちにまたしてもだまされたことを知って怒った死神は、息子を地獄の洞穴に連れて行きます。そこには人の命を表すロウソクが林立しており、死神は息子に彼の命のロウソクを見せました。

それは、今にも消えそうな弱々しい炎であり、息子は大きなロウソクに火を接ぎかえてくれと懇願します。

死神は今度だけだぞ、と言ってそれを了承しますが、ロウソクの火を移しかえるふりをして、わざとそれを落としてしまいます。息子はあわてて床に落ちたロウソクを元に戻そうとしますが間に合わず、その炎が消えていく中、息子の命も消えていきました……

……と、原作を読むと、結構もの悲しいかんじのあるお話なのですが、グリム童話がその後日本でも読まれるようになってから、この話を有名な落語家の三遊亭圓朝が翻案して、「死神」という落語に仕立てあげました。

これが圓朝によって演じられるやいなや大人気になり、以来この演目は、古典落語の一つとして、多くの落語家が演じるようになりました。

ここで、その落語バージョンのあらすじも書いてみましょう。

何かにつけて金に縁が無く、子供に名前をつける費用すら事欠いている男がいました。ある日その男がふと、「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」とつぶやくと、何と本物の死神が現れてしまいます。

仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる」と言い、「もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、呪文を唱えて追い払え」と言い、それをネタにして医者になるようアドバイスを与えて消えていきました。

男は死神のいいつけを守って医者になりすまし、多くの患者を「救う」ふりをしてお金をもうけていきましたが、良家の跡取り娘の病を治したことなどから、世間からは本物の医者としてもてはやされるようになりました。

こうして有名になった男なのですが、「悪銭身に付かず」ですぐ貧乏に逆戻り。おまけに病人を見れば死神はいつも枕元にいることが多くなり、あっという間に以前以上に貧乏になっていきます。

こうして困っていた男のところに、ある大店から手代がやってきて、ぜひご隠居の病気を治療してくれと頼まれます。行ってみると、今度もちゃっかりと死神が枕元にいましたが、手代がご隠居を治してくれたら三千両差し上げる、と言ったことから男はその金に目がくらんでしまいます。

そして死神が居眠りしている間に布団を半回転させ、死神が足元に来たところで呪文を唱え、おまけに死神をたたき出してしまいました。

こうして大金をもらい大喜びで家路を急ごうとした男でしたが、途中で怒った死神に捕まり、大量のロウソクが揺らめく洞窟へと案内されます。

おそるおそるここはどこだと死神に聞くと、死神はこのロウソクはみんな人間の寿命だといいます。「じゃあ俺のは?」と聞く男に、死神は黙って今にも消えそうな一本のロウソクを指差しました。

そして、「お前は金に目がくらみ、自分の寿命をご隠居に売り渡したんだ。」といい、ロウソクが消えればその持ち主は死ぬ運命にある、と男に告げます。男はパニックになり、死神から渡されたロウソクの寿命を延ばそうと継ぎ足そうとしますが……

「アァ、消える……」

……というお話。「アァ、消える……」と呟いた後、演者は高座にひっくり返り、これが「死」を暗示するというオチのようなのですが、私は実際にはこの落語をみたことがありません。みなさんはありますか?

三遊亭圓朝が演じたあとも、いろんな落語家が演じて結構な人気になったようですが、同圓遊派の三遊亭圓遊は、正月や客層など縁起のからむ高座にかけるためにこれを改作し、「誉れの幇間」という演目でこれを演じたそうです。

その内容は、オリジナルでは「アァ、消える……」と言って演者がひっくり返りますが、このバージョンでは、その直後にむっくりと起き上がり「おめでとうございます!」などと言いながら、ロウソクの継ぎ足しに成功して男がしぶとく生き残る、というもの。

その後、このほかにもオリジナルの噺に少し手を加えて、より面白おかしくしたものがたくさん出るようになりました。

死神をだます前に、主人公が風邪気味になるというバージョンもあり、これは死神が登場し「お前はその風邪が原因で死ぬだろう」と言い、ロウソクの継ぎ足しの段ではいったんこれに成功して主人公が喜悦満面となりますが、そこでクシャン!と一発くしゃみが出てロウソクは消え、無言のまま演者が舞台で倒れこむというもの。

これは、10代目柳家小三治が演じたそうで、ほかにも、ロウソクを継ぎ足した後に気が抜け、思わず出したため息でロウソクが消えてしまうもの、継ぎ足したロウソクを持ってその明かりで洞窟を戻り、その後死神が「もう明るいところだから消したらどうだ」と言われて自分で消して死ぬ、というものなどもあり、さらに笑いが倍増していきます。

このほか、ロウソクが消えても生きているパターンもあり、ただしこの場合にも、実際には主人公が既に死んでいるか、あるいはまもなく死ぬ、といったオチになるようです。

さらには、死んだ男が死神となり、また別の男に対し自分に儲け話を持ってきた死神と同じように儲け話を持っていくという、エンドレスな展開を予想させるオチも存在し、こういうのは「回りオチ」というのだそうです。

最後のセリフの「消える」は、最初は、「消えた」と言っていたそうで、「消える」に変わったのは6代目三遊亭圓生からだということで、これは圓生が、死んでしまったら「消えた」とは言えないはずだろう、と考えたためにこう変わったということなのですが、なるほど「言葉」で勝負している人達の奥は深いわい、と感心させられます。

この落語をレコードに録音したバージョンでは、聞く人は倒れるしぐさを見せることができないため、全て死神のせりふにして「消(け)えるよ……消えるよ……消えたぁ」と演じているそうで、ここでも噺家の工夫に感心させられます。

いずれにせよ、オチの部分に手が加えられていろんなバージョンができていくというのがこの落語の楽しいところで、このほかにも、7代目立川談志は、「死神が、せっかくついた火を意地悪で吹き消してしまう」というバージョンを作り出したそうです。

また立川志らくのバージョンでは、男がロウソクに一度は火をつけることに成功しますが、死神が「今日がお前の新しい誕生日だ。ハッピバースデートゥーユー」というと、男がつられて火を吹き消してしまう、というのもあって、本当に笑ってしまいます。

落語家ではないのですが、人気芸人の千原ジュニアが大銀座落語祭で披露したオチは、男が無事につぎ足したロウソクを持って喜びながら帰宅するのですが、「昼間からロウソクを点けるなんてもったいない」と妻にあっさり吹き消されるというもの。

いかにもありそうなブラックジョークですが、ペーソスが効いていて秀逸です。パーティネタにもなるのではないでしょうか。

さて、今日はこれから下田へ行くのでこのあたりで終わりたいと思います。

最後に、男が死神から伝授されたという呪文を披露しておきましょう。

演者、演出によりそれぞれ若干ことなりますが、三遊亭圓生が作ったものがもとになっており、次のようなバージョンがあるそうです。

・アジャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツのパー
・アジャラカモクレン、ハイジャック、テケレッツのパー
・アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパー

「ハイジャック」のところは、中国の文化大革命がおこったころには「コーエイヘイ」、ロッキード事件の頃には「ピーナッツ」などに置き換えられたそうで、現代ならなんでしょう。「アベノミクス」とでも唱えるのでしょうか……

不老不死のはなし

今日は啓蟄だそうです。

暖かくなったため、あちこちから虫やら蛇やらが這い出してくるということで、想像するとあまり気色のいいかんじはしませんが、寒かった今年の冬もそろそろ終わりということで、歓迎する向きも多いことでしょう。

私といえば、この時期になるといつも齢を重ねざるをえない、ということもあり、あまり歓迎ムードではありません。どちらかといえば寒いほうが好きで、ある程度暖かくなるのは歓迎するとしても、その先にある暑い夏を想像すると、そんなもんが来るくらいなら、ずっと冬のままのほうがありがたいくらいです。

いっそのこと冬のまんま、年をとらずにいられたら……とも思うのですが、現代科学では不老不死はまだまだ夢の話のようです。もっとも、そんなに長生きしたいとは思いませんが……

中国では古くは始皇帝が不老不死を求め、実際に家来に外国へいって不老不死をもたらすという仙薬を持ってくるようにと命じた、ということが「史記」に書かれているそうです。

もちろん家来たちがそれを探し出すことなどできなかったため、始皇帝は不老不死の薬を作るために今度は、「練丹術」なるものを部下たちに研究させますが、その無謀な命令を受けた結果、彼らが最終的に作りだしたのは「辰砂(しんしゃ)」でした。

この辰砂、実は不老不死の薬でもなんでもなく、水銀などを原料とした毒薬であり、家来たちはこれを使って無理難題ばかり押し付ける皇帝を暗殺しようとしたのでした。そして、不老不死の薬ができました、と家来たちから手元で薬を渡され、大喜びでこれを飲んだ始皇帝は、その猛毒によってもだえ苦しんで死んでいったといいます。

これが史実なのかどうかはよくわかりませんが、始皇帝の死はそのように取りざたされています。皇帝が死んだのは、熱い砂漠を移動する中であったため、始皇帝の死体はすぐに腐臭を放ち始めたそうです。が、家来たちは自分が葬った皇帝の死が発覚するのを恐れ、皇帝の死体を腐った魚が入った箱の中に入れたなどという話も残っています。

ま、毒殺されようが病気にかかろうが、いずれにせよいつか始皇帝は死んでいたでしょうが、生物学的な見地からみても、多細胞生物である我々は再生能力の限界に伴い必然的に老化し、最後には死を迎えます。

その代わり、一定期間の間生きて、子孫となる個体を作るという方式で生命を繋ぐわけで、種の保存という意味では死というものはありません。滅んだ肉体に宿っていた魂だけはその後も転生していく、というのはたびたびこのブログでも紹介しているスピリチュアル的な考え方ですが、このことは今日はちょっと脇に置いておきましょう。

多細胞生物であっても、いったん個体が老化したのちに若返りができる「ベニクラゲ」などという不老不死の生物もいるにはいるようですが、これは例外中の例外です。ただし、多細胞動物の一部の細胞を取り出して培養した場合はこの細胞が不死化する場合があり、人間においてもがん化した細胞が不死株として培養され続けている例があるそうです。

最近のIPS細胞の研究は、いつかは不死身の体を手に入れる日がくるかもしれません。現代の医学においても老化の防止は重要な課題であり、実際、「抗老化医学」なる学問分野もあるそうです。

一方、病気としての「不老症」というものは確認されていないそうです。ところが、驚くなかれ、アメリカのメリーランド州ボルチモアには、赤ん坊の姿のまま成長が止まっている事例があるということです。

テレビのバラエティ番組などで紹介されているので、ご存知の方も多いかもしれませんが、奇跡の遺伝子を持つかもしれないと、この「赤ちゃん」は世界の医学界から注目を集めています。

ブルック・グリーンバーグという女性で、1993年1月8日生まれということですから、今年でもうは20歳です。昨年の段階で、身長76cm、体重7.7kgということで、現在もまだご存命中のようです。が、まだおむつが必要で、食事は胃に直接栄養を入れるという方法をとっているようです。

医師は彼女の染色体異常を疑いましたが、手足の指の屈曲、耳の位置が低いなどの発達遅延障害の症状が若干みられるものの、検査の結果、染色体に異常は見つからなかったということです。

生まれてから現在まで、1年間でわずか100gくらいづつしか体重が増えないそうで、いろんな検査が行われましたが成長しない理由はいまだに分かっていません。3、4歳になったときに、脳に腫瘍が見つかりましたが、その腫瘍も数日で自然に消えたということで、その驚異的な治癒力が成長しない体と何か関係があるのかもしれません。

全米の医師たちが彼女の体を調べることを申し出ているということで、医学に関しては世界最先端の技術を持っているアメリカのことですから、そのうちその原因が解明され、本当に不老不死の方法が割り出される日も近いのかもしれません。

この子はもしかしたら神が我々に与えてくれた「福音」なのではないか、と早くもキリストの再来のような扱いをする宗教団体もあるようで、私的にはそれはどうかとは思うのですが、案外と彼女は、今後の人類に「希望」を与えるために霊界から「贈り」だされた使者なのかもしれません。

しかし、彼女の研究が進んだとしても、実際に我々が使えるような不老不死の薬が開発されるまでにはまだまだ長い時間がかかりそうです。

不老不死は無理としても「アンチエイジング」は可能だろうということで、これまでも色々な研究がなされてきています。それらの研究の成果から、ヒトの老化現象には、染色体の末端にあって、染色体を保護する構造物である「テロメア」というものが関わっていることも分かっています。

テロメアは細胞が分裂するたびに短くなっていくということで、ヒトの線維芽細胞(コラーゲン・エラスチン・ヒアルロン酸といった真皮の成分を作り出す細胞)を培養すると、およそ50回の分裂で増殖が止まってしまうということです。

つまり、テロメアが短くなりすぎて、染色体を保護できなくなるということは、細胞が死ぬ、すなわち老化が進むというわけです。

無限に分裂を繰り返すがん細胞や、生殖細胞などにはテロメラーゼ(telomerase)という酵素があり、テロメアの短縮を防いでいるため、これらの細胞は長いテロメアを持っているということです。

つまり、テロメアは人間の生体に悪い作用も良い作用も及ぼしているということが最近の研究でわかってきており、その研究がさらに進むことで、今後はアンチエイジングの特効薬ができるのではないかと期待されています。

ハーバード大学ではテロメアを長くする実験が行われ、その結果、アンチエイジングのひとつの方法が確立されたそうです。

人間の体の中には絶えず分裂している細胞があって、この分裂細胞のテロメアの中には長いものも短いものもありますが、若い人には当然長いものが多いわけです。

ところが、老化が進んでいる高齢者の幹細胞にも長いテロメアが残っていて、これを試験管の中で増やしてあげてから体に返してあげるという方法が実用化されていて、これによって数か月くらいはエイジングを防げるということです。

細胞の培養に一回150~200万円もかかるということですが、半年は若さを保っていられるなら安いと考える向きもあり、アメリカなどでは結構な人気になっているそうです。

これもまあお金がある人はできますが、我々?のような貧乏人にはこれはちときつい出費でしょう。ただ、テロメアの長さには食べ物も関係しているということで、我々も食生活にも気を付けることでそれが短くなるのを防ぐことができるようです。

長野県の高山村は、りんごやぶどう、赤ワインなどの産地として有名ですが、この地に住む人の中には高齢者が多いことでも有名で、医療費も全国平均に比べて著しく低いことで知られています。

高山村は山の裾野なので坂が多く、高齢になっても運動量も多いから若さを保っていられるのだとも言われていますが、研究者の多くは食べ物との因果関係のほうが強いと考えているようです。

新鮮な野菜や果物をふんだんに食べることのできるため、高山村の人は健康で長生きできるのではないかということが研究結果からわかってきており、実際にこれとテロメアの長さとの因果関係が確認されているそうです。

逆に野菜の質が下がったり、カロリーだけ増えて栄養素密度が下がるとテロメアが減る率が高くなるそうで、ジャンクフードなどはカロリーばかり高くて栄養素が足りない食べもの代表選手であり、アンチエイジングをしようと考えている人にとっては最悪の食べ物ということになります。

このほか最近着目されているのが、発酵食品だそうで、これを従来の塩や砂糖に置き換えていくのも効果があるということです。砂糖の代わりに麹、塩の代わりには塩麹というあんばいに食生活を変えていくと、食事全体が天然に近づき、体全体がテロメアを保護するような体質になっていくのだそうです。

「塩麹」は最近のブームですが、なかなか理にかなった健康食品ということになります。

実はこのテロメア、放射能にも弱いそうです。放射能に一番弱い細胞が幹細胞だそうで、幹細胞は人間の成長には欠かせない細胞であり、かつテロメアも長く、この長いテロメアの幹細胞をたくさん持っている若い人ほど放射能の影響は大きいようです。

同じく長い細胞を持っている癌細胞も放射能に弱いということで、癌にかかった場合の放射能治療というのは、その性質を利用したものだそうです。

逆にテロメアの短い細胞をたくさん持っている高齢者は放射能にも強い、ということになり、つまり、私のような半老人はゴジラのような肉体を持っているということになります。

そうか~、放射能に強いのか~。それなら歳をとるのも悪くないな~ と、何か勘違いしているような気もするのですが、年をとるのも悪いことばかりではなさそうです。

齢を重ねたら重ねたで、人生経験も豊富になり、若いころには見えなかったことが見えてくるということもあります。ボキャボラリーも豊かになり、今こうして書いているブログでさえも、若かったころには考えられないような速度で綴っていられたりします。

無論、体力は落ちてきますので、早く走ったり跳んだりはできなくなってきていますが、それでもまだまだ体力のない最近の若い人には負けないつもりです。もっとも、運動量が多いとそれだけエイジングも進むというお話もあるので、あまり動き続けるのも痛しかゆしです。

最近ジョギングをするのも昔ほどスピードを出さず、ゆっくりと走るようにしているのはそのためです。そのほうが回りの景色もよく見えますし……

さて、暖かくなってきたので、河津の桜もそろそろ満開のようです。アンチエイジングのために食事に気を付けるのもさることながら、こうしたきれいな景色をみるのもまた老化防止になるのではないか、とも思う次第。

今日明日はお天気もよさそうなので、ひさびさに下田方面に出かけてみようかと思っています。みなさんの町の桜はどうでしょう。そろそろつぼみ赤らんできたのではないでしょうか。

胡蝶の夢


今日、3月3日は何を隠そう、私の誕生日です。

まあ、なんとおめでたい日に生まれて……というのは、もう子供のころから聞き飽きたセリフで、人に自分の誕生日がこの日であることを告げると、たいていはこうした反応が返ってきます。

別にこの日に生まれてきたかったわけでもなく、所詮は365分の1の確率の事象にすぎないわけで、ことさら人さまに驚いていただくようなことではないと思ってはいるのですが、あまりにも同じ反応が返ってくることが多いので、最近はむしろ、どうだ!男の癖に3月3日なんだぞっ、わざと誇らしげに強調することにしています。

そうすると、たいがいの人はウケてくれて、初対面の人であってもその後の会話がスムースに運ぶ……なんてこともよくあるわけで、そう考えるとひな祭り生まれというのもまんざら悪くないなという気もします。

まあそれがひな祭りだろうがなんであろうがともかく、誰にでも一年に一度ある日であることは間違いなく、この歳になるとそれがめでたいかめだたくないかは別として、毎年のことながら何やらその日を境に人生が変わるような気にならないでもありません。

そのあといつも、やっぱり全然かわらないじゃないか、とがっかりすることになるのですが……

転生について

人生が変わるといえば、こうした誕生日は前世と関わりがある、つまり生まれ変わりがあるとすれば、前世における命日が現在の誕生日である場合もある、ということを力説する人もいたりします。

私自身、輪廻転生はあると信じていますが、誕生日と前世の命日の関係については少々疑問に思います。別に新たに生まれてくるのに前世で死んだ日をわざわざ選ぶ必要もなく、もし選ぶとすればどういう家がいいかとか、どういう親のもとに生まれてくるかといった環境のほうが問題であり、日にちなんてどうでもいい、と思う次第です。

……と、いいながらも過去に3月3日に亡くなった人ってどんな人がいるのかな?と思って調べてみました。

すると、有名なところでは、イギリスの科学者のロバート・フックが1703年3月3日に亡くなっています。自然哲学者、建築家、博物学者でもあり、フックの法則など発見した物理学者・生物学者です。

まさかこんな有名な人の生まれ変わりはないよな、と思いながら、日本人のほうを調べてみると、なんと、以前このブログでもとりあげたことのある、下岡蓮杖が、1914年3月3日に亡くなっています。

この方の経歴は、拙作のブログ「蓮の杖」をご覧いただけると良くわかると思いますが、生まれも伊豆の下田生まれで、写真家(写真師)である点も写真好きの私と共通しています。

苦労して写真術を身につけたのは感心なのですが、ひとつのことを成し遂げるだけでは満足できない性格だったらしく、商業写真で成功をおさめたあとは、石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車業などに手を出し、はたまた晩年には日本初の喫茶店まで始めています。

多方面に次から次へと興味が移っていく移り気なところは、私も同じです。こりゃーもしかしたらもしかして……と思ったりもするのですが、無論、なんの根拠があるわけでもありません。が、伊豆出身の人であることなど共通点も多いことから妙に親近感を覚えてしまいます。

魂レベルでは、同じ目標のためにグループを作り、集いあってエネルギーを結集し、その中から一人ずつ地上へ送りだして修業を積み、死ぬとその経験をまたそのエネルギー体に持ち帰って、グループ全体のレベルを目標に近づけていく……ということも聞いたことがあります。

なので、もしかしたら蓮杖さんと私は同じグループの人、という可能性もあります。

もし、仮に蓮杖さんと前世を共有している仲なら、下田へ行くと前世のことを思い出すかもしれないので、今度また行って街中をじっくり散策してみましょう。案外と昔馴染んだ風物などにめぐりあうかもしれませんし、それに下田は散策するととても気持ちの良い街のように思えます。

ところで転生(てんせい、てんしょう)とはそもそもなんでしょう。ウィキペディアで調べてみると次のように書いてありました。

「死後に別の存在として生まれ変わること。肉体・記憶・人格などの同一性が保たれないことから復活と区別される。(中略) 転生する前の人生のことを前世、転生した後の人生のことを来世と言う。輪廻のように人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある」

もともとはインドで発生した、というか、この土地の人が「気付いた」考え方だったようですが、しかし必ずしも仏教に固有の思想というわけではなく、インドのみならずヨーロッパでもギリシア古代に似たような宗教思想があったといいます。

もともとの仏教では、人は生まれ変わり(輪廻)によって、苦から解脱できる、ということが教えられましたが、この考え方がその後日本に伝来してからは、民衆を道徳へ導くための建前として語られることも多くなり、宗教活動のための説法として利用されるようになりました。

仏教を「職業」として生業にされている方々も多く、とくにその活動自体を否定するつもりもありませんが、輪廻転生の考え方というものは、そもそも広い宇宙の共通法則のようなものであったはずです。が、日本へ入ってきた段階からその考え方は大きく変わり、長い間に輪廻転生の部分についてはかなりゆがめられた解釈がされるようになりました。

一方では、仏教以外の多くの宗教団体が「科学的研究」と称し、転生に関する調査をしていますが、その多くは事例蒐集のみで終わっていることが多いようです。

本当にそれがどういうことなのかを追求したかったなら、もっと科学的、あるいは合理的な方法によって実証する努力をするべきだと思うのですが、どうもそういうことは日本人は苦手なようで、あまりそうした成果を見たことがありません。

結局、信じる、信じないの議論に陥ってしまって、旧来の宗教の枠を超えることができなくなっている、というのが現在の「宗教業界」の実情のような気がしてなりません。

この問題についてこれ以上深い論議をはじめると、すぐには終わりそうもないので今日はもうやめておきます。「すべてのことに意味がある」とすれば宗教にも何等かの存在意義があるに違いない……と今のところは逃げておくことにしましょう。

が、科学的アプローチ云々と書いた以上、今日はそうした研究例について少し書いておくことにしましょう。

イアン・スティーヴンソン

かつて、カナダ人のイアン・スティーヴンソンというお医者さんがいました。アメリカのヴァージニア大学の精神科医で、ここに50年以上も勤め、この間、いわゆる「生まれ変わり」についての科学的アプローチを世界で最初に行った人であり、その研究成果は現在でも高く評価されています。

調べてみると、残念ながら2007年に89歳で亡くなっていますが、この件については数多くの著作が残っているようであり、邦訳もされて出版されたものも多いようなので、私もいずれまた読んでみたいと思います。

1949年にアメリカに帰化し、1951年にヴァージニア大学の精神科の責任者に任命されましたが、1958年からは同大学のニューオーリンズの精神分析研究所に移って、主として子供の精神分析を研究し始めました。

このころ彼が書いた論文のタイトルは「乳児期および小児期は柔軟な性格を形成するか?」というものでしたが、この中には既に幼児が時たま見せる「超常現象」についての記述などがあったことから、彼らの同僚は彼を異端児扱いし、一緒に仕事をするのを拒絶するようになっていったといいます。

しかし、そうした周囲の冷ややかな目にも屈せず、1961年からは生まれ変わり事例の実地調査を本格的に始め、その後40年以上にもわたって事例を集め、最終的に2000例を超える「生まれ変わりを強く示唆する事例」を収集ました。

それらの成果は、1997年にはいったんとりまとめられ、生まれ変わりの信憑性が高いとされた225例の調査例掲載したこの報告書は、現在でも精神分析を専門とする専門家にとっては重要な参考図書になっているということです。

スティーヴンソンのこの研究の実施にあたっては、乾式複写機の発明者チェスター・カールソンが資金援助を申し出ており、ヴァージニア大学側もこの研究には理解を示し、1968年には彼に超心理学研究室の設立が許可されました。

この研究室は1987年には人格研究室と改称され、彼の死後もその弟子たちが仕事を引き継ぎ、ここは現在でも超心理学事例研究の一大拠点となっているそうです。

スティーヴンソン博士が数多くの事例を収集した結果、「生まれ変わり」とされる典型的な例にはだいたい次のようなものがあることがわかりました。

1.事実と符合する証言がある →「過去の自分」やその親族の名、土地や家屋の状況、所持物の見分けなどの証言が事実と一致する

2.特異な行動あるいは行動障害がある →現在の自分の性別や地位とそぐわない行動を示す(女性なのに戦争ごっこばかりするとか貴族のようにふるまうなど)、特定の物に対して異常な恐怖や愛着を示す、自国語を習得することに障害がある、「前世」の家族に対する親近感の表明、水や火への恐怖など死亡時の状況に類似した事柄への恐怖の表明など

3.身体的な「痕跡」がある →特に死に方に関連した先天性欠損や、痣(母斑)、などが見られる(たとえば、前世で戦闘機の銃撃で死んだ日本兵だったと主張するミャンマーの少女の鼠蹊部に、銃撃痕に似た奇形があるなど)

4.他者の証言との一致。例として、ある子供は、前世の自分が死んだ時、その遺体を高みから見おろしていたところ、ちょうど通りかかった女性がいたのでついてきて、その女性を母親として生まれてきた、と証言したが、母親の方も、その遺体のあった場所にいたことを覚えていることを証言した、など。

これらのすべてのパターンが一つの事例で観察されるという特異な事例はなかったようですが、このうち、スティーヴンソン博士は、もっとも客観的な検討が可能でありそうな3.の要素に注目し、「前世」の人物のカルテや検死報告なども入手し、転生が事実であるかどかについて検証していきました。

そして、3.を含めたそれ以外の事例についても、その信憑性について捏造説、偽記憶説、偶然説、人格憑依説などのさまざまな観点から検討を行っていきました。

その結果、まず「捏造説」について彼は否定的な見解を示しました。

それは例えば「前世」では「現世」の村とはとても交流のない遠い村に住んでおり、村人は誰も知らないような情報を語る子供たちの例が多数含まれていること、また「前世」を語る子供の親は、子供の振舞いに当惑し、むしろ語りをやめさせようとしている場合が多く、話を作って子供に語らせると考えるには無理があると考えられたことなどからでした。

また、「殺人被害者の生まれ変わりだ」と子供が主張したと親が証言した例などでは、保護者である親がこうした証言をする動機や利点が見当たらず、またそうした子供が特段、被暗示性が高いということもなかったそうで、これらのことなどから博士は、捏造の可能性のある例は少ないと考えるようになりました。

また、「偶然説」については、先天的な母斑や身体欠損は医学的に発生確率が推定できることを証明し、極めて稀ではあるものの「複数の」身体欠損や母斑が、「前世」の人物の傷跡などと一致する事例もみられることから、これは偶然とは考えにくいという結論を出しました。

このほか、「偽記憶説」については、はっきりとした結論を述べることができるほどの傍証が得られなかったため結論は出せませんでしたが、人格憑依説についても後述するように否定的な見解を得ました。

スティーヴンソン博士は、捏造説や偶然説は考えにくいという自ら出した結果を更に検証し、さまざまな考察をおこなった上で、最終的には「事例報告をつぶさに読んだうえで、各自が自分なりの結論を得るべきであるから、私の解釈は重要でない」としながらも、最終的に「生まれ変わり説」を受け入れたともいえるような次の二つの結論を出しました。

1.事例研究を実施した子供たちを検証した結果、彼らがいわゆる超常能力(超能力:PSI)能力を発揮し、「前世」に当たる死者の状況を遠隔透視したという考え方もできる。

しかし、子供たちには、「前世」を語る以外のことがらでPSIを発揮したというような検証結果は全く得られておらず、このことから、彼らが前世をみるだけのためにPSIの能力を発揮したという説の説得力は弱い。

また、親などの子供たちの周辺人物がPSI能力をもっていて、母斑などもサイコキネシス(PK)で形成させたとも考えられなくもない。が、仮にPKという能力が存在するとしても動機などの面からみてその必要性に疑問が生じ、この説明にもかなり無理がある。

2.「転生」は人格憑依説ではないかという考え方もある。この説は、「肉体を持たない人格」という実体を持たない「何か」が存在し、これが実態のある肉体にとり付いて支配するという考え方である。

しかし、その「何か」が子供たちに憑依したのならば、それほど支配に成功した人格が、子供たちが8歳になる頃までに一様に憑依をやめてしまうのは、まことに奇妙である。また、子供たちに憑依された人格と、子供たち自身が成長する人格とが闘っているような,人格の分裂傾向は見られていない。

実は、スティーヴンソン博士が多くの事例を調べた結果では、子供たちが「前世」を語り始めるのは、だいたい2歳から5歳であり、ほとんど喋れるようになるのと同時に開始されるのがわかっていました。

そして5歳から8歳まで、この状態が続くと、ぱたりと語るのをやめてしまうことが数多くの事例でみられたのでした。

語られる内容は、「前世」の人物が死亡した時の様子、居合わせた人や物に関するもの、さらには死亡してから生まれ変わるまでの様子などなどであり、多くの事例でこれらは、感情の高まりと共に自発的に語られました。

また、「前世」の死から「現世」の生までの間隔は、死の直前という例から数十年後という例まで大きくバラついていて、「前世」では非業の死を遂げた人物であることが多く、殺人被害者である場合には、かつての加害者のことを敵意をもって語り始めるという例もありました。

このほか、「前世」が自殺者であることは少なく、動物であった例は報告されませんでした。

被疑者のうち、とくに子供たちが示す行動には、「前世」の家族に対する親近感の表明、水や火への恐怖といった、死亡時の状況に類似した事柄への恐怖の表明などが多く、「前世」の人物と同様の食べ物の好き嫌いや「前世」の人物を思わせるような独特な遊び方をするといったことも多数観察されました。

観察した子供の中に時には「現世」への違和感を表明し、「この人は本当の親ではない、本当の親のところへ連れて行って」などと訴えるものもあり、また「前世」と「現世」の性別が異なっている場合には、現世での性についての違和感を語るといった例もありました。

スティーヴンソン博士が研究を行った2700件以上の生まれ変わり事例ではまた、「輪廻転生」が「ある」と考える文化圏での事例が多かったといいます。がしかし、「ない」とする文化圏でも報告もあったそうです。

これについて、博士は「輪廻転生」などを否定している文化圏では、実際には生まれ変わり事例が多いにもかかわらず、文化としてこれを否定しているため、その事例報告があまりおおっぴらに行われていないのではないかと考えました。

文化の違いによって生まれ変わりの数が左右されるというよりも、生まれ変わりを多くの人が否定しているような文化圏においては実際には普遍的に事例が起きているにも関わらず、そういう考え方が定着していないため、迷信などとして報告もされず、結果として埋もれてしまったものが多いと考えるほうが自然ではないか、というのが博士の見解でした。

また、事例研究が行われた人達の家庭の状況や、社会的地位、経済状態などは様々でしたが、社会的地位の高い人物が低い家庭に生まれ変わった例では、子供が周囲とは異なる高貴な振舞いをするということなども観察されたそうで、博士はこうした細かな傍証なども積み上げた上で「前世はある」と判断したようです。

こうして、最終的にスティーヴンソン博士は「生まれ変わり」がありうるという見解を示し、人間は生前の身体的特徴の記憶,認知的・行動的記憶を媒介する何等かの機構をもっており、これを博士は、「心搬体(Psychophore)」と呼びました。

博士によれば、心搬体は、これによって運ばれた死者の人格の一部が直接、後世の生まれ変わりへの受精卵や胎児に影響するといいます。そして、人間の生物学的・心理学的発達は、遺伝要因と環境要因に加えて、他の要因に比べて影響は小さいかもしれないが、「生まれ変わり」という第3の要因の影響を受ける可能性はある、と結論づけました。

豊穣の海

振り返ってみると、日本の文化はどうでしょう。生まれ変わりを肯定する文化でしょうか。それとも否定的でしょうか。

もともとインドで発生した仏教には、輪廻転生の考え方があり、チベットなどに伝わって発達したヒンドゥー仏教などでは生まれ変わりが信じられているようです。しかし、日本に伝わった仏教では、「死んだら仏になる」と信じられており、その時点で止まってしまてっていて一般的には転生はないと考えている人が多いと思われます。

仏壇に仏像や位牌を飾って手を合わせるのも、「死んだら神になる」という考え方に近く、日本の八百万の神は自然万物と繋がっていると考えられているため、死んだら自然に帰る、という考え方が定着しているためでもあります。

この日本的な考え方を、亡くなった作家の三島由紀夫も生前疑い、彼なりの結論を出すために色々悩んでいたようで、その最後の長編小説であり事実上の遺作といわれた「豊饒の海(ほうじょうのうみ)」も、そうした輪廻転生を扱ったものでした。

「春の雪」、「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」の全四巻からなり、第四巻「天人五衰」の入稿日に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した「三島事件」はあまりにも有名です(1970年、45歳のとき)。

「豊饒の海」とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」のラテン語の邦訳だそうで、モデルとなった寺院は奈良市にある「圓照寺」というお寺だということです。

この小説は「浜松中納言物語」を典拠とし、「夢と転生の物語」のイメージが作られており、夢と生まれ変わりによって筋が運ばれ、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に生まれ変わっていくという構成になっています。

生前三島は、この小説のことを「それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説」と自画自賛し、その結論は「幸魂」へみちびかれるもの、と述べていたそうで、この小説を私は読んだことがないので詳しくは知りませんが、その内容はある男が転生を繰り返していき、最終的にその魂は「幸」へ導かれる、というストーリーのようです。

創作ノートからは、第四巻は当初の構想は全く異なるものであったことがうかがえるそうで、死の直前、三島は親しい友人の作家さんに、「豊饒の海」の第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしていたといい、第四巻の当初予定された題名は「月蝕」だったそうで、「天人五衰」とは全然イメージが違います。

天人五衰(てんにんのごすい)とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのことということで、三島はこの最後の作品において既に自分の死を見据えていたとも考えられます。

三島はこの一連の作品について、「あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくっていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです」と語っており、この「ニルヴァーナ」こそが彼の考えていた転生だったかもしれません。

三島は、「小説家になつて以来考へつづけてゐた“世界解釈の小説”を書きたかつた」というように、この人間世界の成り立ち、その意味を解き明かし、小説そのものの存在意義を示す「究極の小説」を目指していたといいます。

1950年(昭和25年)に25歳だったときに書いた創作ノートには、既に「螺旋状の長さ、永劫回帰、輪廻の長さ、小説の反歴史性、転生譚」といったメモがあるそうで、これらは「豊饒の海」の執筆を予告するようなことばであり、三島由紀夫もまた、輪廻転生ということの意味をその一生を使って考え抜いた作家であったに違いありません。

胡蝶の夢

「胡蝶の夢」という寓話があります。荘子が夢で胡蝶になって楽しみ、自分と蝶との区別を忘れたという故事からきたという話で、広辞苑には「現実と夢の区別がつかない、自他を分たぬ境地。また、人生のはかなさにたとえる。蝶夢」と書かれています。

「夢に胡蝶となる」などともいわれますが、その話というのはこうです。

荘子がある日、陽当たりのよい縁側辺りでウトウトして夢を見ました。その夢の中では荘子は蝶になっており、花から花へと移って行きました。

夢の中での荘子は生まれながらにして蝶であって、人間の荘子が蝶に化したなどという考えはまるで浮かばず、そうこうするうちにハッと目が覚め、自分の身体を眺めるとそれは紛れもない人間の姿でした。ついさっきまで「蝶だ」とおもって少しも疑わなかったのに。

荘周は考えました。さっきまで自分は蝶になるという夢を見たと思いこんでいるがはたしてこれは本当だろうか。もしかすると、蝶である自分が人間になった夢を見ているだけではないのだろうか……

夢と現(うつつ)とはいうが、一体だれが、どちらが夢でどちらが現だと本当に区別がつくだろうか……夢の中の蝶は、目覚めるまで自分が蝶以外のものであろうなどとは思いもしなかったように、自分の人生も一夜の夢で、それに気づかずに生きているのかも知れない……

中国では、この荘子の寓話から「夢見鳥」ということばができ、これは蝶のことをさすのだそうです。また、夢か現実か分別できないような事象のことを「胡蝶の夢」というようになり、人生を振り返ってそれがあたかも夢の如くであったと思う事を「胡蝶の夢の百年目」などとも言うようになりました。

3月3日の誕生日の今日、5×才になったと考えている自分はこれは本当に現実なのでしょうか。もしかしたら本当の自分ではなく、また別の人が見ている夢なのかもしれません。

だとしても、けっして悪い夢というわけではありません。少なくともこれまでは良い夢でした。もし夢だとしてもこれからも、せいぜい良い夢を見ていきたいものです。いつか来る目覚めの時に、この人生を楽しく思いおこせるように……