注射はお好き?

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先日の日経新聞の夕刊に、アメリカの化学・電気素材メーカーであるスリーエム(3M)や日本の日東電工などの医療機器メーカーなどが相次いで痛みの少ない注射技術を実用化しようとしている、という記事が掲載されていました。

「マイクロニードル」と呼ばれる微細な針を皮膚に貼る方式などを用いるそうで、これによって痛みをほとんど感じることなく薬を体内に注入できるとのことです。

日本のような高齢化社会においては、体力のないお年寄りにはとくに歓迎されるでしょうし、幼児なども摂取しやすくなるため、こうした体への負担が軽くなる注射の需要は今後ともかなり拡大していきそうです。

この「注射器」ですが、これが最初に誕生したのは、1853年のことで、日本では嘉永6年、ペリー提督らの黒船が浦賀へ来航するという事件があった年です。

これを発明したのは、スコットランドの医師、アレキサンダー・ウッドとフランスの医師、チャールズ・ガブリエル・プラパーズだといわれています。

当時作られた注射器は「皮下用シリンジ」と言われるもので、皮下注射専用だったようです。筒は鋼鉄製で、注射器を中から押し出すシリンダーにはゴムが取り付けられていました。その後、1897年ころにはフランスで、現在のようなガラス製の注射器が販売されるようになります。

やがて、糖尿病患者にとっての特効薬として知られるインスリンが発見されたことから、この薬の体内投与のために爆発的に注射器が使われるようになり、その後薬液を直接静脈内に投与する静脈内注射もさかんに行われるようになりました。

静脈内注射は、皮下注射のように容量の制限もなく、効果の発現も早いほか、栄養素の投与などを目的とする「輸液」の投入にも有利です。

注射は、直接的に人間の体内に薬剤を投入することができます。経口投与や皮膚・粘膜への塗布、ないし吸引などよりも直接的に患部に薬剤を投入できるため、効果が出始めるまでの時間が短く済みます。

また吸収経路で他の物質に変質してしまいやすいような種類の薬剤でも患部近くに投与できるため、より確実な薬剤の投与方法といえます。このような効率的な器具が発明されたということは、医学史上においてもとりわけ重要な出来事だったといえるでしょう。

ところで、大相撲では、「注射」といえば、「八百長」を意味するそうです。これは、「打てばすぐ効く」つまり、「頼めばすぐに勝てる」というところから来たようです。

八百長は、無論相撲だけでなく、他のスポーツ競技などでも、昔からさかんに行われています。

一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負をすることをさし、選手に金品などをあたえ、便宜を図って行われる場合や、選手およびその家族や関係者を脅してわざと敗退を強要するなどその形態はさまざまです。

ちなみに大相撲では八百長が「注射」であるのに対して、真剣勝負は「ガチンコ」というそうです。

それではこの「八百長」という言葉はどこから来ているのでしょう。

これは、明治時代の八百屋の店主で「長兵衛」という人物に由来しています。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」と呼ばれており、大相撲の年寄であった伊勢ノ海五太夫という元相撲取りと囲碁仲間でした。

囲碁の実力は長兵衛が優っていたようですが、相撲部屋へ野菜なども卸していたことから、自分の店の商品を買ってもらうために、時折わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとることが頻繁になっていました。

ところが、ある日のこと、両国にある回向院近くである碁会所が開かれたとき、そのオープニングセレモニーの来賓に長兵衛も招かれました。招待客にはほかにも第20世本因坊の本因坊秀元が招かれており、自然な成り行きから長兵衛はこの秀元と勝負をすることとになります。

いつもは伊勢ノ海親方に負けてばかりいた長兵衛でしたが、もともとはかなりの腕前だったようです。そしてここぞとばかりにその実力をみせようと、この勝負に真剣に望んだところ、本因坊を相手に見事な勝負を見せたそうで、どちらが勝ったのかはよくわかりませんが、結果としてこの勝負はほぼ互角だったようです。

ところがこの真剣勝負のため、伊勢ノ海親方を含む周囲には長兵衛の本当の実力が知れわたるところとなりました。こうして、これ以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを「八百長」と呼ぶようになった、というわけです。

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この「八百長」の「八百」とは、もともと「沢山」と言う意味です。数多くの物を扱うところからきており、このため、たくさんの野菜を扱う青果店も「八百物屋(やおものや)」と呼ばれるようになり、あるいは「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)」などと様々な呼び方で呼ばれるようになりました。

しかし、後には現在のように一様に八百屋(やおや)と呼ばれるようになりました。一説によれば、江戸時代には「青果物」を扱う店ということで「青屋(あおや)」と言う呼び方もあったようで、これが時代が下るにつれてなまり、「やおや」になったともいわれています。

さて、江戸時代の八百屋といえば、「八百屋お七」という物語が思い浮かびます。

井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公となりました。

実在の人物で、生年は不明ですが、寛文8年(1668年)ころに生まれたとされ、天和3年(1683年)に没していますから、この生年が正しいとすれば、15歳の少女期に亡くなったことになります。

天和3年というと、1603年の開幕から60年あまりであり、江戸時代前期のことです。お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるようですが、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされています。

比較的信憑性が高いとされる書物によれば、お七の家は彼女が処刑される前年の天和2年の大火で焼け出され、このためお七は親とともに駒込にあった正仙院というお寺に避難しました。

寺での避難生活のなかで、お七はこの寺の小姓である、生田庄之介という若者と恋仲になります。しかし、やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払いましたたが、お七の庄之介への想いは募るばかりです。

そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。

このとき火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったようです。しかし、江戸の町にはこの当時頻繁に火事が起こっており、いったん火が出ると、木造の平屋の多かった江戸の町は広い範囲が焼け野原になることが常でした。

このため、火を出した大元の家には厳しい処罰が下されることが多く、ましてやこれが付け火となると、死罪はまず免れませんでした。案の定、お七もまた放火の罪で捕縛され、哀れわずか15歳の少女は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑で処刑されました。

現在ならさしずめ、少年刑務所入りして更生を待つというところなのでしょうが、この時代はまだ戦国時代からそう時間が経っているわけではなく、動乱の時代の余韻が残るこのころの刑罰はこうした残酷性を伴うものでした。

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この鈴ヶ森刑場というのは、現在の東京都品川区南大井に存在した刑場です。江戸時代には、江戸の北の入口である日光街道に設置されていた「小塚原刑場」と、西の入口である甲州街道沿いに設置されていた八王子市の「大和田刑場」とともに、江戸3大刑場といわれていました。

現在の南大井も海がすぐ近くですが、江戸初期にはまだ江戸の町のほとんどが芦原の中に浮かんでいるような状態で、ここそこに海水が入っており、この場所もまた海岸線沿いにありました。

この海沿いにあった1本の老松にちなんで、この地はもともと「一本松」と呼ばれていました。ところが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に振ったりすると音がする「鈴石(酸化鉄の一種)」という貴石が安置してあったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになりました。

この場所は東海道のすぐ側でもありました。この東海道の名残でもある第一京浜(国道15号)の傍らにあり、この道路に隣接する大経寺というお寺の境内にその刑場跡が残っています。その跡地は自由に見学できるそうで、当時ほどの広さはないようですが、現在も井戸や、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されているとのことです。

また、この鈴ヶ森は東海道の出発点ともいえる場所近くにありました。西国から来た旅客にとっては江戸の入り口とも言える場所であり、かなり目立つ場所といえ、ここにこうした刑場が建設されたのには理由がありました。

刑場開設当初の江戸初期には、戦国の時代が終りを告げたことから食い詰める武士が増え、このため浪人が増加し、この浪人による犯罪件数も急増していました。江戸幕府としては、急速に悪化する江戸の治安を守るため、とくに浪人たちに警告を与える意味でこうした目立つ場所に刑場を設置したのです。

この鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は、江戸時代に入ってからの最初の本格的な反乱事件といわれる「慶安の変」の首謀者のひとり、「丸橋忠弥」であるとされています。

慶安の変というのは、慶安4年(1651年)に起こった事件で「由比正雪の乱」ともいわれています。主な首謀者は由井正雪と丸橋忠弥のほかの4名ほどでした。由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来るほどの人物でしたが、仕官には応じず、軍学塾である「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていました。

この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれており、これによって関ヶ原の戦いや大坂の陣以来の多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増する結果となり、彼等の再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていました。

こうした浪人たちには自分たちを没落させた「御政道」に対して否定的な考えを持つ者も多く、生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も数多く存在していました。

これが大きな社会不安に繋がっており、正雪はそうした浪人の支持を集めていました。特に幕府への仕官を断ったことが彼らの共感を呼んだようで、こうして張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになりました。

こうした情勢の中、慶安4年(1651年)徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の家綱が継ぎます。そしてこのとき、次期将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆を計画します。

この計画は江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取るというものでした。同時に大坂でも同志を決起させ、その混乱に乗じて天皇を担ぎ出し、将軍を討ち取るための勅命を得る、という作戦でした。

しかし、仲間の密告により、計画は事前に露見し正雪ら首謀者は捕縛されます。正雪自身は江戸を出て大阪へ向かう途中の駿府で駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。これよりのちに丸橋忠弥もまた、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われ、切り殺されました。

しかし、丸橋忠弥の死体はこの後、鈴ヶ森の処刑場にわざわざ運び込まれ、改めて磔刑が実行されました。無論、幕府への反乱は重罪であることを人々に知らしめるセレモニーの意味でしたが、これがこの処刑場で行われた初めての公開処刑であったというわけです。

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この鈴ヶ森ではその後も、平井権八や天一坊、白子屋お熊(白木屋お駒)といったのちに歌舞伎や浄瑠璃で語られるようになる有名な人物がここで処刑されており、先の八百屋お七もその一人です。

平井権八というのは、因幡国鳥取藩士でしたが、数え18歳のときに、父の同僚を斬殺して、江戸へ逃亡。新吉原の遊女と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬りを犯すようになります。結果として130人もの人を殺し、金品を奪ったとされています。

しかし、その後権八は悔い改め、目黒にあったとされる東昌寺という寺に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、その後自首。しかし罪は赦されることなく、享年25歳で鈴ヶ森刑場で処刑されました。処刑方法は磔刑(たっけい)でした。

江戸の侠客、幡随院長兵衛との関係なども噂されたことなどから、その後その生涯が講談や浄瑠璃・歌舞伎で演じられ、近代では映画化もされ、これらの世界では、「白井権八」の名で著名になりました。

また、天一坊というのは、正式には「天一坊改行」といい、この時代の山伏です。紀州和歌山の生まれで、14歳のときに母が死に出家して山伏となり、改行と名乗り、このころから周囲に自分は「徳川吉宗」の御落胤だと言いふらすようになります。

吉宗はこのころはまだ将軍ではありませんでしたが、未来の公方様になるに違いないと嘱望されており、実際、その後紀州藩主から将軍になりました。

天一坊は、死んだ伯父から自分の素性が高いものであると聞かされたといい、将軍家の御落胤であると自分でも心からそう信じ込んでいた風があったといいます。

長じてからも自分は公方様の御落胤であると周囲に語り続け、30歳になる直前のころには、近々大名に取り立てられると信じ込むなど、その妄想はエスカレートしていきます。ところが、やがてこの広言を聞いた江戸市中の浪人たちが彼の言葉を信じて集まるようになり、騒ぎはだんだんと大きくなっていきました。

彼としてもこうした浪人たちに崇めたてられるのを喜び、彼等の来訪を来るにまかせるままだったといいます。

天一坊は集まった浪人たちに、「自分は公方様にお目通りして、お腰物を拝領した。現在上野の宮様におとりなしを頼んでいる」などと語っていたといい、彼等を集めて大名に取り立てられての際には、おのおのに役職を与えることなどまでも約束するようになっていきました。

ところが、これを不審に思った関東郡代が本人の周囲の人間や集まった浪人たちを取り調べたところ、当然のことながらそんな事実があろうはずもなく、まっかな偽りだと発覚。

そして公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられ、やがて死罪を申し渡された天一坊は、鈴ヶ森刑場で処刑され、獄門磔となりました。天一坊のもとに集まっていた浪人たちも遠島や江戸払いとなり、ほかに関係していた名主や地主も罰を受けて死罪になったといいます。

もうひとり、この鈴ヶ森で処刑された、白子屋お熊(白木屋お駒)というのは、日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」という大店の娘でした。亭主は正三郎といい、妻・お常の間にできたのが、このお熊であり、ひとり娘でした。

やがて、長じて両親の勧めにより、大伝馬町の資産家の息子であった出来の良いまじめな若者・又四郎を婿に迎えます。しかし、お熊はこのまじめ一方の又四郎が気に入らず、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて浮気に走ります。

そのお相手は白子屋の番頭・忠八であり、お熊は忠八の母・お常と忠八の三人で共謀し、さらに下女・きくを使って主人の又四郎を殺そうとします。

ところが、これに失敗し、妻の不倫にも気づいた又四郎は奉行所にこの事件を訴えました。

判決の結果、お熊の罪は証明され、彼女は引き回しの上死罪を申し渡されました。共謀者のお常もまた引き回しの上島流しとなり、番頭の忠八は、引き回しの上晒し首、きくも死罪となりました。忠八との不倫をとりもったひさもまた引き回しの上死罪となりました。

しかし、訴えた夫の又四郎だけは、お咎めなしの判決でした。が、世間を騒がせたとして、幕府は白子屋の財産没収を命じ、これによって白子屋は没落してしまいました。

このお熊は、結婚前から日本橋中でも美貌で知られていました。このため、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けたといいます。

このとき、裸馬に乗せられたお熊は観衆の期待に応えるかのように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね着していました。しかも、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿だったといい、引き回されている間中は、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったと伝えらえています。

殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌やこうした処刑時の派手なパフォーマンスなどから、この話はその後江戸中で大きな波紋を呼びました。

このために後世には格好の演劇・芸能の題材とされ、安永4年(1775年)に発表された人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」では、白子屋が「白木屋」に変わり、名前もお熊が、「お駒」になって、「白木屋お駒」として世に知られるようになりました。

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このように、数々の有名人を処刑してきた鈴ヶ森刑場は、1651年(慶安4年)に開設されて以降、1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われています。

上述のとおり、当時は東京湾沿いにあり、刑場近くには海があったことから、水磔による処刑も行われたとの記録も残されています。

以後、明治の初めごろまでにはまだ死刑と言えば斬首であり、この方法で普通に処刑が行われていましたが、その後は絞首刑が主流となり、現在に至っています。

しかし、江戸時代には絞首刑という刑罰は存在しませんでした。江戸時代の死刑は、前述してきたように一種類だけではなく、基本的には6種類ありました。罪人の罪の重さに応じて、死刑方法が選ばれ、これは下手人、磔刑、鋸挽き、火刑、死罪、獄門などです。

例えば、「下手人」、これは斬首の刑です。一瞬のうちに命を絶たれるために、本人には苦痛は少なく、現在からみると野蛮なようですが、この当時はこれでも比較的おだやかな処刑法といえました。

ところが、これが「死罪」となると、斬首のあとの試し斬りが追加されます。これも苦痛は少ないとはいえ、より「見せしめ」の効果がまします。

次いで、厳しい処刑法が「磔刑(たっけい)」であり、これは、町中を引きずりまわされたあと、十字架に体を縛りつけられ、左右から槍で突かれて絶命させられます。当然処刑される本人にとっては激しい苦しみとなり、周囲への見せしめ効果もより高まります。

次いで、もっとも残酷な処刑法として知られるのが「鋸挽(のこびき)」です。この処刑法では、罪人はまず、両肩だけを切りつけられ、血を流しながら鋸とともにさらされます。

その後、罪人は首だけ出して埋められたものを、そこを通る者が、思い思いに罪人の首を置いてある鋸で挽くというもので、これも極めて残忍なものです。最後は磔刑と同じく、町中を引きずりまわされたあと、磔にされ絶命させられました。

鋸引きは主として「主殺し」をした者に科せられたもので、これもかなり重い罪でした。このほか火つけも重罪であり、前述の八百屋お七のようにこの罪では火あぶりにされる「火刑」が普通でした。

最後の「獄門」というのは、打ち首の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにするというものです。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいい、付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されないという、最も厳しい刑でした。が、処刑される本人の苦痛は、磔や火あぶりよりはましといえます。

ただし、これらの死刑は江戸中期以降の世の中が比較的平和になった時代の方法であり、これでもまだ穏やかなほうです。それ以前はさらに残酷な死刑が横行していました。たとえば、五右衛門風呂で有名な「釜入り」は、釜に油を入れて、この中に罪人を入れて下から熱するという残酷なものでした。

ほかにも、それぞれの足を二頭の牛に反対方向へ引かせて体を引き裂く「牛裂」、牛の代わりに車を使う「車裂」、ムシロで体を巻いて水中に投げ込み溺れさせる「簀巻(すまき)」などがありましたが、さすがにこうした中世の野蛮な処刑法は平和な江戸の世では受け入れがたい雰囲気があったのでしょう、やがて廃れていきました。

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現在、日本では死刑といえば絞首刑ですが、日本以外の死刑存置国の間では、このほか、銃殺刑、電気椅子、ガス殺、注射殺(毒殺)などが処刑法として採用されています。しかし、死刑廃止論の声が高まる中、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用される傾向にあり、各国とも文明化と共に死刑を制限する傾向が顕著です。

これらの近代的な処刑方法の中でも、薬殺刑は、比較的穏やかな処刑法の一つといえるでしょう。囚人に致死量の薬物を注射することによって執行される死刑ですが、古代には毒物を服用させて囚人を死に至らしめる刑罰もあったようです。

著名な例としては、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、民衆裁判所による判決でドクニンジンの服毒により薬殺刑(賜死(しし))に処された例があります。また旧朝鮮時代においては「賜薬」と呼ばれる薬殺による賜死がありました。

現在、世界で最も薬殺刑が行われているのは、アメリカ合衆国です。すべての州というわけではなく一部ですが、このほか、中国も1997年以降一部の州で薬殺刑を実施しており、グアテマラやタイでも行われています。

また台湾(中華民国)においては、臓器提供を希望する死刑囚は全身麻酔を施した上で、脳組織を銃撃で破壊し脳死状態に至らしめたうえで臓器を摘出されるといいますが、これも広い意味で薬殺刑の範疇に入るでしょう。

20世紀に入ってから薬殺刑の導入を最初に検討したのはイギリスでしたが、その後イギリスは死刑制度自体を廃止したため導入されていません。アメリカでも薬殺刑が唯一の法定刑とされる州と、選択することが出来る州とにわかれています。

薬殺刑においても、「注射器」が用いられます。といっても、一度に注射でコロリというわけではなく、刑の執行は段階を追って行われます。

まず、この刑に処せられる受刑者は、注射によって静脈にカテーテルを挿入されます。3種類程度の薬物を段階的に注射されることが多いようで、最初の一本で意識を失い、次の注射には筋弛緩剤が入っており、これで呼吸を止められます。そして最後のものは塩化カリウム溶液で、これによって心臓を止められて処刑が完了します。

死に至るまでの過程は心電図でモニターされており、通常7分で処刑が完了するといいます。これらの死刑執行を取り仕切るのは医師であり、大抵は医師同席で実施されます。執行される場も手術室のような部屋で行われるため、このため一見するとその死に際は綺麗であり安楽死にも見えるようなものだといいます。

ただし、医師同伴で実行されますが、カテーテルを挿入後、薬剤を投入するために、実際の注入スイッチを押すのは従来どおり刑務所職員です。この点が病院で行われる安楽死とは違います。

とはいえ、一見穏やかな処刑法であるため、尊厳なる死が迎えられるとして人権に配慮していると主張される反面、死刑反対論者からは、死刑制度を存続させるためにその方法をソフト化し、効率を高めるためだという批判もなされています。

また生命を助命する医師が死刑に参加することについて道徳面からの批判が強いほか、薬殺刑は残酷な刑罰と主張する者もおり裁判の争点ともなっているようです。

事実、稀に失敗することもあるそうで、アメリカでは2006年に処刑に失敗して当時55歳の死刑囚が34分間にわたり苦しんだことがあり、この事例では、内臓疾患のために薬物が効かなかったそうです。

この際は再度処刑されるための別の薬物が注入されて刑が執行されました。このほかにも肥満体のため静脈を医師がなかなか見つけることが出来ず、完了まで2時間以上もかかったという例もあるようです。

こうした事例などから薬殺刑は批判を集めるようになり、アメリカではそれまで薬殺刑を可としていたノースカロライナ州では2007年以降薬殺刑が事実上停止されています。

アメリカ医師会もその後の議論の結果から倫理規定で「医師は死刑執行に関わるべきでない」と決めており、現在でもこうした決定を受け、薬殺刑の可否についての論議が全米を通じて高まっているようです。

日本でも時折こうした死刑のあり方についての論議が出るようですが、死刑を存続するか止めるかという議論が主流をなしていて、死刑の方法に言及してまでの意見はあまり活発ではないようです。

が、時に苦痛を伴う絞首刑よりも、薬物刑のほうがより穏やかだ、とは誰しもが考えることであり、死刑の方法を見直そうと声を上げる団体なども出てきているようです。

ただ、いずれそういうことも議論になっていくことになるのかもしれませんが、現在ではやはり死刑ありきかどうか、またその死刑の執行を最終的に決断する法相の判断基準や時期などが争論の中心であり、死刑執行方法の見直しについてはまだまだ先になりそうな雰囲気です。

私自身は、死刑には反対です。一人の人間の生を別の人間が奪うというのは、生を奪われる人間の尊厳をも奪うことにつながると思います。例え死刑になるような極悪な人間であってもこうした命の尊厳は守られるべきだと思います。

また、こうした罪を犯した人間は生きていること自体が苦痛でもありますが、これは考えようによっては大きな学びの場でもあるはずです。その苦痛を一生味わうことで、自分がなしたことを反省し、その反省が次に魂が生まれ変わるときの教訓、糧となってその魂に刻まれていくはずです。

人は生まれてきた以上、生を持って何かを達成するため、あるいは何かを学ぶためにこの世に存在します。誰しもがその魂を磨くためにこの世に生まれてきますが、あの世ではあまりにもそれを希望する魂の数が多いため、生まれ変わり希望者であふれかえっている、ともいいます。

そうした中で、そのめったにない機会を与えられ、この世に落ちてきたわけですから、言い方を変えればそれは、選ばれし者ということになり、生を受けたということはそれだけでもかなり大きな意味を持っているはずです。

従ってたとえ罪を犯したとしてもそのことにも意味があり、その罪への反省のための時間が与えられる、ということこそがそうした犯罪者がこの世に生まれてきた意味だとすれば、その与えられた大きなチャンスを他人が奪って良い、という論理は成り立たない、私はそう考えています。

みなさんはいかがでしょうか。

さて、今日は注射に始まり、注射に終わりました。最初からこんな重いテーマになる予定ではなかったのですが、ついつい深入りしてしまいました。反省至極です。

明日からは三連休という方も多いでしょう。今年初の連休を取るにあたり、風邪気味という方も多いと思いますが、くれぐれもこじらせて、病院で注射を打ってもらうハメにならないよう、ご注意ください。

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2014年元旦 広瀬神社にて

ギャンブルはお好き?

さて、松が明けました。

この「松」は「松の内」から来ており、玄関などに松飾をしている期間です。

そんなこと知ってるよ~という人が大多数だと思いますが、この松の内は関東では7日ですが、大阪などの関西では、松の内といえば、元旦から1月15日の小正月までを指すそうです。従って全国的に松が明けるのは15日を過ぎてからということになるようです。

今日、1月8日は、平成という時代が始まった年でもあります。1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御して現在の今上天皇が即位しました。これを受け、元号法に基づきこの年は「平成元年」に改められ、1月8日に改元がなされました。

ということは、この年の元旦から1月7日までに生まれた人は、昭和64年生まれ、ということになるのか?という疑問ですが、色々調べてみましたが、平成元年生まれとしても昭和生まれとしてもどちらでもいいみたいです。厳密な法律上の手続きなど細かいことはよくわかりませんが……

この元号が変わる際の手続きの混乱から、「昭和64年」と記載された書類も多数あるようで、これは造幣局で製造している紙幣やコインなども同じくです。「昭和64年発行」とされるコインなども少なからずあるようで、500円玉では1604万枚も発行されており、一円玉に至っては1億1610万枚もあるとのことです。

ただし、全数としてはこの数は非常に少ないものです。例えば昭和63年の500円玉の発行枚数はおよそ12億枚ですから、この昭和64年と刻印された500円玉はそのうちのわずか1%超にすぎません。

なので、今すぐ財布を漁ってみてください。運よく昭和64年発行の500円玉が見つかったら今年はあなたの運勢はきっと最高潮に違いありません。

ちなみに5円玉は6733万2千枚、10円玉は7469万2千枚、50円と100円玉は63年内に発注が完遂されず、昭和64年の刻印のものは未発行だそうです。

ところで、この平成という時代は、戦後の高度経済成長期に流行語となった「昭和・元禄」にならって「平成・享保」とも称されることが多いようです。江戸時代の1716年(享保元年)から1736年(享保21年)の享保期の約20年間は、いわゆる「享保の改革」が行われた時代であり、かなりの政治改革が断行され、時代の転換期といわれました。

これと同じように、1990年(平成2年)からの約20年間はバブル崩壊に始まり、民主党による政権交代、現在のアベノミクスに至るまでの過渡期の時代であり、「調節の時代」と考える人も多いようです。

平成に入ってからは幕末のヒーローであった坂本龍馬が人気となり、また平成維新の会や大阪維新の会が設立されるなど維新思想がブームとなるなど、動乱の時代でもあり、幕末期から明治維新に続く明治時代に類似しているという意見もあるようです。

大正時代にも似ていると言われます。戦前の大日本帝国憲法下における2代目の大正天皇の在位期間は15年と短く、現在の今上天皇もはや26年の在位とはいえ、昭和天皇のようにあと数十年も在位されるとは到底思ません。大正時代は関東大震災が発生しており、平成には阪神大震災と東日本大震災が発生した点なども大正時代に類似しています。

さらには、平成時代は、戦前の大日本帝国時代の昭和にも似ていると言われます。この時代には世界恐慌後の大不況を経て第二次世界大戦が勃発しており、こうした大動乱期を経て戦後の昭和日本は急激に高度成長を果たしました。

こうしてみると、これからの日本は長い動乱の時代、調整の時代を経て、これからはようやく明るい展望が見える時代に入っていくような気がします。景気も回復しつつあるようで、日経株価が2万円に達するというのもまんざら夢ではなさそうです。

我々庶民にとっては、まだまだ給料が上がるとかいった身近な恩恵を受けとれていないといった感もありますが、今年の夏のボーナス頃までには本当に景気が良くなったと多くの人が思うようになっているのではないでしょうか。

大いに期待したいところではありますが、しかし今、現在の天皇が崩御されて、また新しい年号に変わる、というところにはあまり期待したくありません。多くの国民が好意を持ち、親しまれている今上天皇ご夫妻にはぜひ長生きしていただきたいところです。

さて、ところで今日1月8日は、「一か八か」とも読めるということで、「バクチ(博打)の日」ともされているようです。

この一か八かの語源・由来にはいくつかの説が有るようです。が、有力なのは、サイコロを使った丁半賭博の「丁(偶数)か半(奇数)か」で、最初は「丁か半か」と言っていたのが、次第に丁の漢字の上部と半の漢字の上部をとって「一か八か」と言うようになったという説です。

バクチのことを、一般には「賭博」といいますが、これは「賭事」と「博技」の合成語です。

博技の「博(ばく)」とはその昔、こう呼ばれたボードゲームがあり、これに金をなげうつことで勝敗を決めていましたが、やがて、「博を打つ」から「博打」と言う語ができ、これを職業にする人達が出てきました。

博打を運営する者を胴元と呼び、賭けた者に配分しない胴元の取り分を「寺銭」と呼び、サイコロを振る職業人を「博打うち」と呼ぶようになり、その技術を博技と呼ぶようになっていきました。

チンチロリンともいわれるこうした古びた丁半博打は、最近はさすがに行われなくなりました。しかし、賭博そのものは、パチンコや宝くじなどの公営ギャンブルに代表されるように公然と行われるものもあり、必ずしもこの世から否定されているものではありません。

しかし、相撲、サッカーといったスポーツの勝敗をネタに金をかけ合う非合法の賭博はあとを絶たず、春夏に行われる高校野球では、一般の会社や公務員の職場を舞台とした賭博摘発のニュースなども時に流れます。

賭け麻雀、賭けゴルフなどは金額も少ないためかあまり摘発されることはないようですが、スポーツの世界ではさらに意図的に賭博で勝たせるために「八百長試合」が行われることもあり、これに有名人なども絡んで、トップニュースになることもしばしばあります。

このほか、公営競技の結果と配当を利用して行われる、いわゆる「ノミ行為」などもあり、当然これらは法令によって禁止されている違法行為です。

最近では、日本国外にサーバを設置しつつ、日本語によるサービスを提供し日本国内からのアクセスを受け付ける「オンラインカジノ」も数多く登場しています。ただ、日本の刑法における国外犯規定との関係がグレーゾーンであるため、日本国内からオンラインカジノにアクセスした者が必ずしも摘発を受けるとはいえないようです。

こうしてみると、公営ギャンブルに違法ギャンブルを加えると、これをやっている人はかなりの人数に上ると考えられ、日本はもしかしたらギャンブル天国のような状況にあるのではないか、と思えます。

ギャンブルなしでは生きていけなくなった人のことを「ギャンブル依存症者」と呼び、これは、進行性で完治することはないともいわれており、れっきとした精神病だそうです。

ギャンブルをしたいという衝動を制御することができず、自己の生活基盤、価値観、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてもギャンブルを続けてしまいます。

当然金銭面でも苦しくなり、社会生活上の問題が生じているにもかかわらずやめられず、そのあげくにはヤミ金融等に手をだし、暴力団になどに付け込まれて一生をフイにしてしまう人も多くないようです。

日本では2007年に、厚生労働省がギャンブル依存症に関する調査を開始しており、2009年に発表されたその研究調査結果によると、日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.6%、全体平均で5.6%がギャンブル依存症であるという驚くべき結果が出ています。

これはアメリカの0.6%、マカオの1.78%などと比較して極めて高い数値であると言え、2009年の国勢調査推計による成人人口から推定すると、男性はでは483万人、女性は76万人、合わせて559万人がギャンブル依存症となるという計算になります。

このギャンブル依存症は、かつては長らく意思薄弱・性格未熟など本人の資質の問題とされてきましたが、1970年代以降、精神疾患として認識する動きが広がっているそうです。

しかし、病院に行って依存症であると認定されたとしても、その治療には数年を要し、長期間ギャンブルを絶つことに成功した後でも再びギャンブルに手を出すとたちまち症状が再発するという特徴もあります。このため、ギャンブル依存症は治らない「不治の病」ともいわれます。

治癒したといえるためには、まずはギャンブルを完全に絶つ必要がありますが、まずこれからして大変です。ギャンブルから引き離すと、発汗、手の震え、不眠、幻視などの離脱症状を起こす人や、ストレスで食べ物の摂取量が増加する人も多いといわれ、アルコールや覚醒剤に手を出す人もいます。

こうしたギャンブル依存者を我々が見ると、ギャンブルが楽しくてやめられないと思いがちですが、実際には「やめなければ」という思いや借金に対するプレッシャーなど苦しさを感じつつギャンブルをしている場合がほとんどだそうです。

不快な感情やストレスから逃れようとしてギャンブルをした結果苦しさを味わい、さらにストレスを感じてギャンブルに走る「負のスパイラル」が存在するとも指摘されており、これはやはりどう考えても「病気」です。

自分がギャンブル依存症であるかどうかをチェックするためには、例えば、次のような設問に答えてみてください。

1.ギャンブルのことを考えて仕事が手につかなくなることがある。
2.自由なお金があると、まず第一にギャンブルのことが頭に浮かぶ。
3.ギャンブルに行けないことでイライラしたり、怒りっぽくなることがある。
4.一文無しになるまでギャンブルをし続けることがある。
5.ギャンブルを減らそう、やめようと努力してみたが、結局ダメだった。
6.家族に嘘を言って、ギャンブルをやることがしばしばある。
7.ギャンブル場に、知り合いや友人はいない方がいい。
8.20万円以上の借金を5回以上したことがある、あるいは総額50万円以上の借金をしたことがあるのにギャンブルを続けている。
9.支払予定の金を流用したり、財産を勝手に換金してギャンブルに当て込んだことがある。
10.家族に泣かれたり、固く約束させられたりしたことが2度以上ある。

以上の設問のうち、5項目以上に該当する場合、ギャンブル依存症と診断されるそうですが、どうでしょう。あなたはギャンブル依存症ではありませんでしたか? 5つはないとしても、3~4は該当があり、ドキッとした人も多いのではないでしょうか。

これは、アメリカの精神医学会が定めたもので、「精神障害の診断と統計の手引き」というガイドブックに掲載され、世界各国で用いられたものが日本版として修正されたものです。ほかにもいろんなチェックのためのテストがあるようですので、ご心配なら他のテストも試してみてください。

このギャンブル依存症の治療法ですが、まず、治療をするほど悪化する前にまずはその予防法を覚えておくことです。

ある精神科医の先生によれば、例えば、ギャンブルに使う金を小遣いをベースとした範囲にとどめ、レジャーの範囲を逸脱しないようにする、ギャンブルで大きく負けたとしても、借金をして負けを取り戻そうとしないことなどが肝要だといいます。

また、特定のギャンブルへの固執といったレパートリーの狭小化が依存症を招くといわれているため、ギャンブル以外のレジャーを増やすなどのストレス発散の方法のレパートリーを増やすことも必要です。

さらには、現在の自分の仕事や立場、人間関係に関する不満を考え、その上で目標とする将来像を描き、実現に向けて努力することが大事で、そもそも、何故自分はギャンブルをやっているのか、その目的を自問してみることが重要だといいます。

しかし、不幸にしてギャンブル依存症になってしまった場合。これは結構破滅的です。

ギャンブル依存症には、長期間ギャンブルを絶った後でもギャンブルをするとたちまち症状が再発するという特徴があり、このため、ギャンブル依存症の治療においては「適度にギャンブルを楽しめるようになる」といった治癒・回復は起こりえないといいます。

言葉はあまり良くありませんが、つまりバカは死ななきゃ治らない、ということです。

とはいえ、それでも社会復帰するためには、何とかこの症状から脱出しなければなりませんし、ギャンブルを完全に絶ち、その上で人生を再構築し充実した生活を送りたいものです。

不治の病といいますが、まったく治療法がないわけではなく、そのための治療には数年もの長時間を要しますが、現在のところ、その治療法として有力といわれているのが、「心理療法」です。

いわゆる専門家によるカウンセリングであり、ただし、心理療法を行う場合、1対1のカウンセリングはあまり効果がなく、集団精神療法を行うことが望ましいそうで、ギャンブル依存症を治療するには集団精神療法を週に1、2回、最低でも2年間継続する必要があるということです。

こうした集団精神療法は、日本でも病院やギャンブル依存者の自助グループ、回復施設で行われているそうですが、病院については、ギャンブル依存症の治療に取り組んでいる医師は決して多くないといいます。

ギャンブル依存症になる原因としては、心理的要因、環境的要因のほか、遺伝的要因なども取沙汰されているようです。いずれも定説はないようですが、心理的要因で言うと、ギャンブルは勝ちたいという欲求に基づいて行われるということがよく言われます。

当初は1回の勝ちによって欲求が充足されますが、ギャンブルを繰り返すうちに1回の成功体験では欲求が充足されず、たとえ勝ったとしても更なる勝ちを求めて儲けを次のギャンブルに投入することになります。

負けた場合には不快感が生まれ、それを埋めるために次のギャンブルにのめり込むことになります。これを「充足パラドックス」といいます。ギャンブル依存者は充足パラドックスに陥り、勝ち負けに関係なくギャンブルを繰り返すようになるわけです。

このほか、心理的にギャンブルをやめようとしない原因としては、負けが続く中でたまに勝ちを経験するとその経験に執着し、負けが続いていても「負けが続いているのでそろそろ勝つだろう」あるいは「次は絶対に勝てる」という心理状態に陥り、過去の成功パターンを繰り返そうとすることなどがあげられます。

ほかにも日常の生活で何等かのフラストレーションを抱えていて、そのはけ口としてギャンブルを選ぶ場合や、家庭環境のほか交友関係、近隣住民が持つ価値観、信仰する宗教などの環境が変化し、しかもそれが悪化の場合、これから逃れようとするあまりにストレス発散の手段としてギャンブルを選ぶということが言われています。

遺伝的には、ギャンブル依存症は精神疾患とみなされているため、その発症に遺伝的要素が関与するとみる向きもあるようです。ギャンブル依存者の血縁関係をみると、ギャンブル好きや大酒飲みが存在することが多く、ギャンブル依存者の親の20%から30%、兄弟姉妹の14%がギャンブル依存症もしくはその予備軍であるという調査結果もあるそうです。

ただし親子ともにギャンブル依存症であるとしても、たとえば幼少期にしばしば親に連れられて競馬場やパチンコ店といったギャンブル場に足を踏み入れたためギャンブル場の敷居が低くなったというような、遺伝的以外の家庭環境などの要因が関与している可能性も考えられるといいます。

また、ギャンブル依存症の場合発症に遺伝的要因が関係しているとしてもひとつの遺伝子によって発症が決定されるということはなく、複数の遺伝子が作用していると考えられているそうで、必ずしも遺伝によりギャンブル依存症になるとは考えにくにようです。

が、まあ遺伝でないにせよ、心理的要因や環境的要因によってギャンブル依存症になってしまう前に、まずは前述のような予防法でもって、病気を未然に防ぐことが大切です。

ギャンブル依存症は、依存者自身のみならず周囲にいる人間への影響も大きく、周囲の人間が傷つく度合いにおいて、ギャンブル依存症を超える病気はないともいわれます。とりわけ家族については、患者本人とは別にケアを行うことが必要とされることも多いようです。

加えて、その本人が行っているギャンブルが違法性が高いものであれば、より悲劇性は増します。

日本の法律では、「刑法」に「賭博及び富くじに関する罪」というものが明記されていて、いわゆる「賭博」と呼ばれるギャンブルを行った者は、「五十万円以下の罰金又は科料に処する」とされており、また常習的にて賭博をしたことが確認された場合には、三年以下の懲役に処するという、結構厳しい罰が与えられます。

ギャンブル依存者は様々な手段を使ってギャンブルの資金を工面しようとしますが、資金を得るために犯罪に走るケースも少なくなく、アメリカ合衆国での調査によると、退役軍人病院においてギャンブル依存症の治療を受けた人の46%に逮捕歴があったそうです。また、同国の一般受刑者の3割がギャンブル依存症という調査結果もあります。

借金の額が大きくなると保険金殺人など暴力を伴った重大犯罪に走るケースもあり、花粉症になればくしゃみが出るのと同様、依存症が進行する中でギャンブル依存者は道徳性を失い、嘘をついたり犯罪に走る者が現れるようになるといいます。

ギャンブル依存者が走りやすい犯罪の一つに詐欺があり、先のアメリアの例では、ギャンブル依存者の自助グループ「ギャンブラーズ・アノニマス」の会員の実に47%が事故などのでっち上げや故意に事故を起こすなどの保険金詐欺に走っていたという統計があるようです。

そのように考えてくると、最近日本で急増しているオレオレ詐欺を筆頭とする数々の詐欺事件もまた、こうしたギャンブル依存症の人達が起こしている犯罪ではないかと疑ってしまいます。

上述のように他国と比べても高い比率のギャンブル依存症患者を抱える我が国の病巣の原因は、実はギャンブルなのかもしれません。

日々流れる宝くじやパチンコのコマーシャル、競馬、競艇、ケイリンといった「スポーツ」を標榜する公営ギャンブルなどはもう少し自粛してしかるべきではないかと思う次第です。

とくに静岡県では、○○○○○と称するパチンコ店のコマーシャルが頻繁に流れてうんざりしていますが、全国チェーンのかの有名パチンコ店のコマーシャル、あの下卑た内容ももう少し見直していただきたいと切に願う限りです。

私としては、まったくギャンブルというものをやりません。パチンコはもちろん、宝くじだって買ったことがありません。なので、ギャンブル依存症ではないと胸を張って言えるのですが、遊びのない、面白味のないヤツと言われても、犯罪に走るよりはかなりの程度でマシと考えています。

さて、みなさんはいかがでしょうか。上の依存症のテストをチェックして、5つ以上の該当があったあなた、ギャンブル依存症予備軍として、今からでもその予防を始めてください。

それでも喰いますか?


さて、午年です。

なんで、「牛」という文字のてっぺんがない文字を「ウマ」と読ませるのかなと、調べてみると、これはもともと牛とは関係なく、「忤」、すなわち「きね」から来ているそうで、長い間に左側のりっしんべんが取れて使われるようになったためのようです。

じゃあなんで、きねなのよ、ということですが、きねなんて最近の日本では餅つきのときぐらいしかほとんど見たことがない、という人も多いでしょう。

その形は、上下に対称であり、持ちやすいように真ん中あたりがえぐれています。砂時計と似た形、といったほうがわかりやすいかもしれません。

現在の十二進法では、一日の前半を「午」の文字を使って「午前」と書き、後半は、「午後」です。そのちょうど中間は「正午」といいますが、お察しのとおり、つまりこれは杵の真ん中という意味です。

一日の経過をさす用語として、日常品で左右対称のものを探したところ、その昔はどこの家庭にもあった杵が選ばれたということのようですが、これが奇しくも時を測る用具である砂時計と同じ形であった、というのは面白いところです。

ではこの「午」をなぜウマと読むか、です。

この「午」には、別途「つきあたる」「さからう」の意味があります。草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しています。

従って、午年というのは、十二年周期の干支のちょうど真ん中を過ぎて、物事が成熟期に入ったころ、という意味があり、これは上で書いた一日の中間を正午と呼ぶのと同じ感覚です。一日の中でもお昼ごろというのは、朝起きてひと仕事して、一段落する時間帯でもあります。

従って今年のウマ年というのは、何事につけ、一休み、小休止をするのにはもってこいの一年、ということになります。

じゃあなんで、午を「ウマ」と読ませるのよ、ということなのですが、これは十二支を覚え易くするために、鼠、牛、寅……から始まる12の動物名を決めたとき、たまたまこの「午」の年に「ウマ」を割りあてただけです。

とはいえ、誰がこの干支の動物を決めたのかはわかりませんし、また、なぜウマでなければならなかったのかは定かではないそうです。

従って、「午」と書いて「ネコ」でもよかったわけです。兎、龍、蛇ときて、猫、羊、猿、鳥……でもゴロは合っています。なので、ペットとしてイヌの双璧にあるネコを採用し、今年からはウマ年あらためて、ネコ年にしても良いわけです。

ネコ好きの私は大賛成なのですが、みなさんはいがかでしょうか。

が、今からではカレンダーを差し替えるわけもいかず、第一、既に来てしまっている年賀状にもほとんどがすべてに馬の絵が描いてあるのでこれを消すわけにもいきません。

なので、今年に限っては我慢することにしましょう。が、十二年後には「午年を猫年にする党」を結成して国会議員に立候補しようと思いますので、皆さまのご支援をぜひ頂きたいと思います。

それにしても、現代社会においては、このウマという動物ほど、我々が普段目にしないものはないのではないでしょうか。

北海道あたりでは別ですが、都内でウマを見るということは、皇居の馬車を曳くウマが、外国人の来賓を迎えるときに登場するのを目にするぐらいのもので、あとは、わざわざ大井競馬場にでも出向かなければ見ることはできません。

それを言えばトラなども同じで、こちらは絶滅危惧種なので最近では動物園でも見ることはできませんし、龍に至っては想像上の動物なので、見たことがある、という人がいたとしたら精神病院行きが関の山です。

考えてみれば十二支の動物のうち、普段目にすることが多いのはイヌとトリぐらいのもので、ほとんどが都会では見なくなった動物ばかりです。ネズミなんて最近は目にしたこともありません。

ウマもまたそれほどではないにせよ、あまり現代人が普段目にするものではないのは確かであり、たまにダービーなどがあれば、ニュースでその勝敗が放映されることはあるので目にはしますが、普通に外で見る機会はまずないでしょう。

従って、今年が午年だからといわれても、午年生まれの人には大変恐縮なのですが、だからなんなのよ、という気持ちになるのは私だけでしょうか。

去年のヘビ年は、蛇はお金儲けの神様なので、今年こそは金持ちになれるかも、という期待感があるものの、今年のウマ年に至っては、ものごとが「ウマく行く」などというダジャレぐらいしか思い浮かびません。

このウマというヤツは、紀元前4000年ごろに、ロバとともに家畜化され、どうやら労働力として使われ、場合によっては食用にされていたようです。

ところが、紀元前3500年ごろに、メソポタミア文明で「車」が発明されてからは、これを曳くための「馬車」が発明され、さらに紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることができるようになってからは瞬く間に世界中に馬車を走らせる「馬力」として普及していきました。

やがて、ヨーロッパや北アフリカ、地中海世界といった西洋社会から黄河流域の中国までの東洋においても広く使われるようになりました。

これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、「戦車」として軍隊の主力となり、また、ウマの普及は、これを利用して耕作を行う「馬耕」という農法を生むきっかけにもなりました。

その後、長きに渡り、ウマは主には戦争や農業の道具として飼われ続けてきましたが、20世紀に至り、2度の大戦を経て軍事革新が進むとともに、農業機械の発達によって馬の重要性は急速に失われていきました。

従って、軍隊、警察において使われていたウマなども、儀典の場で活躍しているだけとなっています。しかし、競馬や乗馬などの娯楽、スポーツを楽しむ手段としてはいまだ親しまれており、世界では現在も数多くの馬が飼育されています。

とはいいながら、日本ではやはり馴染の少ない動物のひとつであることには違いなく、終戦直後の昭和25年(1950年)に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超していましたが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、昭和40年代初頭には30万頭に、昭和50年(1975年)には僅か42000頭まで減りました。

平成13年(2001年)の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18000頭にすぎません。

また、日本が原産の日本在来馬はわずか8種に過ぎないそうで、平成17年(2005年)現在ではこれらすべてを合わせても約2000頭のみだそうです。

このように、日本では普段ほとんど我々が目にすることのない動物になってしまった感がありますが、こと食べモノとしては、「馬肉」としての愛好家も多いようです。ちなみに日本では食肉用に肥育されるウマは、別名「肥育馬」ともいい、ウシやブタと同じく農業生産物とみなされています。

ところが、ヨーロッパなどの西洋人の間では、ウマは歴史的に農耕や馬車の牽引、乗用に使用され、家畜であると共に狩猟や戦場における足ともなり、人々とともに生きてきたという経緯があり、このことから、肉食に供することに嫌悪感や抵抗感を持つ人も多いようです。

とくにアメリカ、イギリスでは馬肉食をタブー視する傾向が強く、ウマを食う日本人の習慣は、動物愛護の観点からはトンデモナイということで毛嫌いされています。

と、いいながらも実はイギリスでは、食用馬肉の屠畜と消費は法律で禁じられていません。18世紀から19世紀にかけてはペットフード用の肉を扱う猫肉屋が馬肉も用いていたそうで、複雑に入り組んだヨーロッパの食品流通経路により、イギリスの食卓にも長年、馬肉が使用されてきていたという経緯があります。

ところが、昨年2013年の1月、アイルランドの食品基準監督当局により、イギリス・アイルランドの大手スーパーマーケットで販売されている牛肉に、最大で100%の馬肉が使用されているという食品偽装事件が発覚したそうです。

この事件は、イギリスでは一大スキャンダルとなり、今なおヨーロッパ全体でこのニュースが話題になっているそうです。

おそらくアメリカではそういうことはないと思うのですが、そもそも英語で「馬を食べる」“eat a horse”という比喩は、「ウマを丸々一頭食べられるほど空腹である」という意味で、それほど欧米人の間でも馬肉を食らうことは普通であったわけです。

そこで前々から気になっていたのですが、競馬や乗馬で使われていたウマの末路はいったいどうなっているのでしょうか。とくに北海道に行くとよくわかるのですが、道南から道東へ行くとここもあそこもというぐらいに競走馬を飼っている牧場がありますが、あの全部が全部、競走馬になるとはとても思えません。

これらの一部は駿馬となり、ダービーなどにも出るのでしょうが、あとは種馬や労働力として使われる以外、その行く末はどうなっているのだろう、と北海道へ行くたびに気になっていました。

そこで、ちょっと調べてみたのですが、いわゆる「競馬雑誌」と言われるものを見ると、その中には競走馬の「異動欄」というのがあるのだとか。ここには現役を引退する馬の異動先が記されていて、例えば地方競馬への場合、引退後のその移籍先や種牡馬・繁殖入りの他に乗馬になるなどの「用途変更」の内容が記載されているそうです。

ところが、この「用途変更」欄には移籍先や種牡馬・繁殖入りなどと記載されているだけでなく、単に「用途変更」とだけ書かれてその内容が記載されていないものが多いそうで、この「用途変更」という名称だけで、姿を消す馬が相当数いるということです。

そして、これは必ずしも明らかにはなっていませんが、その「用途」の中には食用もあるといわれているようです。実際に、過去に廃止された、山形県上山市にあった上山競馬場や、大分県中津市の中津競馬場に在籍していた競走馬の末路は食肉処分だったことが明らかにされているそうです。

また、北海道で行われている「ばんえい競馬」では、競走に出るための能力試験を突破できなかったり、あるいは満足な競走成績が残せなかったりした競走馬が食肉向けに転用されており、公式サイトでも包み隠すことなくそのことが解説されているそうです。

一般の地方競馬では、こうした能試で運命が分けられるということはないようですが、ばんえいの場合はこうした能試の結果がいわば「生死を分ける」ため、馬主もさることながら、ウマたちも生き残りをかけて必死で実戦を戦うそうです。

このように自分たちのために頑張ってくれているウマたちをかわいそうに思うためか、日本の乗馬及び競馬に携わる人の中には馬肉を食べる事を忌避する人達が少なからずいるといいます。

そりゃーそうでしょう。毎日ブラッシングをかけて可愛がっていた愛馬を次の日に食するというのは、なかなかできることではないでしょう。

しかし、それでもレースに出ることもなく、老いていくウマたちを多数飼っていくことは牧場などの経営をも圧迫するわけで、泣く泣くなのかどうかはわかりませんが、北海道や各競馬場にいるウマさんたちの哀れな行く末のほとんどは、食肉というのが悲しい現実のようです。

そもそも、日本では、獣肉食が宗教上の禁忌とされ、食用の家畜を飼う文化が九州の一部などを除いて、ウマをウマく頂くというのは、一般的ではなかったようです。

しかし、江戸時代の日本本土では、廃用となった役用家畜の肉を食すことは半ば非公然的ではありますが、貴重な獣肉食の機会でもあり、一部の地方では馬肉は400年以上も前から重要な蛋白源として重用されてきたそうです。

その後、明治維新が起こり、日本人は馬肉以外にも牛肉や豚肉などを普通に食するようになりました。ところが、この牛豚肉は当初かなり高価なものだったため、従来からあった馬肉を牛肉の増量材として用い、馬肉と牛肉を混ぜたものが加工食品として販売されるようになりました。

その名残から、現在のように牛豚肉が安価に入手できるようになってからも馬肉を食べる習慣が続いており、主には、熊本県、長野県伊那地方、山梨県、福島県会津地方、山形県置賜地方、青森県南部地方などで郷土料理として定着するようになりました。

とくに「馬刺し」や「桜鍋」用に用いられる生鮮肉は、滋養のある食べ物として現在の日本では広く普及するようになりました。

しかも、今では上述のような競走馬流れのウマなどだけでも足りなくなり、カナダやアメリカなどの北米産や若干の欧州産なども混入されているということです。

とくに熊本県の郷土料理でもある「馬刺し」の消費量は、年間約2万3000トンにも及ぶそうで、現代の日本で流通している馬刺し用肉の多くは輸入物、あるいは生体を輸入して国内肥育したものであり、純国産はわずかだそうです。

こうした馬肉の輸入は、オーストラリア、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、アメリカからがほとんどであり、現在そのシェア60%がオーストラリアからの輸入です。

このほか、世界では、およそ主要14カ国で毎年70万トンが生産されており、ウマは世界中で食されています。その生産国は上位から中国、メキシコ、カザフスタン、イタリア、アフガニスタン、モンゴルとなっていることから、主には日本を含むアジア諸国と南米などで食べられているようです。

このうち、日本に入ってくるもののほとんどは馬刺しになるようです。その総需要量のほとんどは外国産で賄われるため、つまり競走馬流れの馬肉というのは全体のうちのほんのわずかの分量になるようです。

従って、普段われわれが口にする馬刺しがダービー流れの競走馬や北海道で悠々と草を食む馬さんたちである確率はかなり低そうです。

そう考えると、馬肉を食らうときの罪悪感は少し和らぐかもしれませんが、外国産にせよ国産にせよ、ウマであることにはかわりはありません。

また、馬肉は安価な食肉として、ソーセージやランチョンミートのつなぎなどの加工食品原料として使われているほか、ペットフード原料にも利用されることもあるそうなので、知らず知らずにウマを食べているかもしれず、もしかしたら、ウチのテンちゃんもウマを食っているのかも。

なので、今年は午年だから馬肉を食べるのはやめようかしら、と思っている人がいたとしたら、食品に表示されている内容表示には気を付けたほうが良いかもしれません。

とはいえ、馬肉は、他の畜肉と比較すると栄養価が高く、滋養強壮、薬膳料理ともされているようです。牛豚鶏などの畜種より、低カロリー、低脂肪、低コレステロール、低飽和脂肪酸、高たんぱく質なだけではなく、アミノ酸も20種類ほども豊富に含まれています。

さらに、ミネラルは牛肉や豚肉の3倍のカルシウム、鉄分はほうれん草・ひじきより多く、豚肉の4倍・鶏肉の10倍も含まれており、ビタミン類も豚肉の3倍、牛肉の20倍も多く、しかも、牛肉の3倍以上のグリコーゲンを含んでいます。

なので、今年こそ元気をつけたい、健康になって何事もウマく事を運びたい、という人はむしろ積極的にウマを食ったほうが良いのかもしれません。

さて、あなたはどうしますか。午年にウマを食って元気になるか、ウマを食うのはやめて動物保護に徹底するか。

私ですか?わたしは、やっぱり馬肉を喰らい、元気になってペガサスのごとく空を飛翔したいと思っています。が、そうウマくいくでしょうか……

骨折りもうけ?

あけましておめでとうございます。

今年はじめての書き込み、ということなのですが、本当は元旦から書き出そうと思っていたのですが、年末に思いもかけないトラブルがあり、今日になってしまいました。

トラブルというのは、自分自身に起こった出来事ではなく、昨年末に山口から我が家にやってきた母の身に起こったことです。

年末年始を温泉のある我が家で過ごしたいということで、ちょうど時を同じくして千葉の大学に通っていた息子君も帰ってきた昨年末の夕方のこと。私は麓のホームセンターで灯油を買って帰ってきてリビングに入ったところ、この母が床に足を投げ出して座っているではありませんか。

???どうしたの?と聞いたところ、タエさん曰く、母が突然イスから落ちたというではありませんか。見ると確かに床座りしている母の背後には、IKEAで買ったリクライニングチェアがあります。

息子君の話とも併せてこの原因を総合すると、どうやら母が息子君のケータイをのぞきこもうとして、このチェアに半座りになっていたところ、バランスを崩して椅子からずり落ちたらしい。このとき腰をしたたかに床に打ちつけたようで、その直後に私がちょうど帰ってきた、ということのようでした。

本人はわりとケロッとしており、しばらくこうしていたら大丈夫といい、また彼女のいうとおり、その後しばらくすると、杖は必要でしたが、何とか食卓のイスの上にも座ることもできました。

ところが、その後そのイスから再度自分で立つのもままならないという状況だということがわかり、とても一人で歩くことはできないようです。温泉に入れば楽になるかと勧めてみたものの、どうやら本人はそれどころではないようで、トイレにも私が抱えて連れて行く始末。

結局、その夜はそのまま寝せることにしましたが、とりあえずは、ちょっとの移動もかなり辛そうなので、寝所までは連れて行かず、リビングにあったソファで寝せることにしました。

が、さすがに尋常ではない様子だったので、翌朝起き出すと、まずはすぐにと救急病院を消防署などに問い合わせることに。早速タエさんが電話をしてみたところ、すぐ近くにある中伊豆温泉病院というところが今月の担当と知わかったため、続いてここにも電話をしました。

すると、丁寧な受け答えの男性が出て、確かに当方が今月の担当医ではあるのだが、症状からして、骨折している可能性もあるので、万一その場合には、当方では手術の用意がない、もっと大きな病院へ連れて行ったほうが良いのではないかという提案が。

そして、紹介されたのが、伊豆でも一番大きな病院として知られる順天堂大学病院(伊豆の国市)です。伊豆でも一番大きな病院ですが、静岡県内でも屈指の大病院であり、救急搬送のためのヘリポートがあるのは、ここと静岡市内のもうひとつだけとか。

我が家からはクルマで20分ほどの距離にあり、普段からよくこの前を通るのですが、幸い我々夫婦はまだこの病院のお世話になるような大事に出くわしたことはありません。

骨折??といぶかしみながらも、とりあえずここに電話をして症状を伝えたところ、すぐに連れてこいとの応答があり、早速母を車までおんぶして、連れて行き、なんとか救急搬送口まで運び込むことができました。

ちなみに母は、身長は150cmちょっとしかないのですが、寄る年波もあって運動不足もたたってやや小太りであり、私ひとりで彼女を背負って歩く際にも下手をすればよろけそうになるほど重かったのですが、タエさんの助けもあって、なんとか無事に病院に連れて行くことができたのです。

こうして、この長~い病院での一日が始まりました。その後、レントゲン検査、血液検査、CTスキャンなど数々の検査が行われましたが、すべての検査結果が出たのが11時過ぎごろだったでしょうか。

最初に見たててくれた先生のお話では、右足と左足の長さが微妙に違うのが気になる、とのことで、これを聞いた私は、多分捻挫か骨がずれた程度のものだろうと思っていたのです。

が、結果としてはやはり骨折ということで、レントゲン写真を見せていただいたものには、大腿骨の上部のほうに、綺麗に一本の筋が入っているではありませんか。

その後、整形外科の別の先生から詳しいお話があり、こうした骨折の場合、できるだけ早く手術を行う必要がある、と言われ、改めてびっくり!それもそのはず、病院入りしてまだたったの数時間しか経っていないのに、緊急手術だと言われて目を白黒させたのは、私だけではなく、タエさんもであり、怪我をした母本人にいたっては、ぽかんと口を開けていました。

手術内容は、骨折箇所を切開して、折れた部分に骨と骨をつなぐ、チタン製の板を入れ、さらに補強のために同じくチタン製のボルトを埋め込むというもの。

手術そのものは単純なのですが、いざ手術をするとなると、親族の同意書だの、輸血になった場合の合意だの、術後の入院の手続きなどなど、おそらく10枚以上の書類にサインをし、はんこを押さねばなりません。

かつて、先妻が入院したときもこうしたわずらわしい手続きがあったのですが、しかし日を置いて徐々にであり、今回は緊急手術ということなので、一時間ほどでこれだけの書類を処理しなけらばならなかったわけですが、こんなことは始めての経験です。

こうして、手術が始まったのが、お昼過ぎの午後1時前とのこと。全身麻酔+局部麻酔の二つの麻酔が必要という、大がかりなもので、手術時間も2時間ほどかかり、3時過ぎにようやく無事終わったということを先生から聞かされ、ホッ。

それから一時間ほどして麻酔から目が覚めた母本人と対面しましたが、彼女自身の口から出た、何が何だかよくわからん、は我々もその言葉にのしをつけて返してやりたいぐらいでした。

かくして、この年末年始は、そそっかしい母のアクシデントとともに始まり、入院と手術、その後の彼女を見舞うための病院通いというおまけがつくものとなり、今日もまた、これから面会に出かける予定となっている、というわけです。

病院の話では、母は二週間で退院できるようですが、その後リハビリテーションのできる病院へ転院し、ここでのリハビリ後に、我が家でのトレーニングも加えてなんとか一人で歩けるようになるのには約二か月ぐらいかかる見通しとのこと。

母自身は、正月明けには帰山する予定だったようですが、本人も我々も思わぬこととはいえ、伊豆へ長滞在となりそうです。

が、我が家は温泉も出ることでもあり、退院後のリハビリにはちょうどよく、また、父が亡くなって以降、長年一人暮らしの長かった母に親孝行する時間としてもちょうど良い、ということで、私としては、彼女を襲った不幸をかわいそうと思いながらも、不埒ではありますが、半分は喜んでいる、というのが本音でもあります。

そんなわけで、波乱万丈で始まった2014年ですが、考えてみれば母の骨折が起こったのは昨年のこと。厄は既に昨年捨て去り、今年はすべて回復していく方向にある、と考えれば、なるほどまたとない縁起の良い、一年のスタートと言えるかもしれません。

それを裏付けるように、昨日、おとといと出かけた初詣で引いたおみくじも、私が引いたのは、末吉と吉。これからだんだんと良くなっていくだろう、というお見立てでした。

なので、今年はこれからどんどん良いことが増えてくる、と信じ、今年一年を頑張っていきたいと思います。

「骨折り損」ではなく、「骨折り儲け」だったと、あとで笑っていられるような一年になることを祈りつつ、今日のこの項を終わりにしたいと思います。

さて、みなさんの年末年始はいかがだったでしょうか。