伊豆の散歩道

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先週末の大雪は、結局先々週のものと同規模になり、伊豆は今でも交通の混乱が続いています。

もっとも公共交通機関を使わない我々にとっては、それほどのダメージでもないのですが、もっぱら移動手段に使っている自家用車をこの別荘地から外へ連れ出すのは大変です。

荘地内の道路は一応、市道となっているのですが、除雪車が少ないためか、主要道路しか除雪をしてくれず、このため、我が家の車が置いてある駐車場前の道路も30cmもの降雪に覆われてしまいました。

除雪が完了している幹線道路までは、300mほどの距離があり、このため、この区間の除雪は住民自らがやらなくてはなりません。ところが、この別荘地でも高齢化が進んでおり、自らスコップを取って除雪をする方が少ないのが問題です。

一応、それぞれの自宅の前だけは除雪をされる努力はされているのですが、それ以外の常住以外の方の別荘地の前はとびとびに雪が残されていて、ここを突破しなければ幹線道路に出れません。

と、いうわけで、多少は若い私が率先してこうした未開通区間のラッセルをする羽目になったのですが、いやはや、今回の雪は雨を大量に含んでいて重いこと重いこと。この雪かきで、すっかり疲れてしまいました。

お蔭で車を出せるようになり、昨日は中伊豆温泉病院に入院中の母の見舞いにも出かけることができたのですが、夕べもすっかり疲れてしまい、いつのまにやら机に突っ伏して寝ておりました。

それでも、昨夜はオリンピックも一段落ということで、メジャーな競技がなかったために、早めに布団に入ることができました。が、明日の明け方にはまた、男子ジャンプの団体競技があるということで、眠れない夜が続きます。これでは体がもたん……

それにしても、今回のソチオリンピックでは、メダルラッシュとまではいかないまでも、大会半ばを前にして、金銀銅とすべてが揃い、大満足の方も多いのではないでしょうか。昨日の葛西選手の銀メダルもうれしいこと限りありませんが、その前のフィギュア羽生選手の金メダルは、誰もが飛び上がって喜んだことでしょう。

ちなみに、羽生選手のこの大活躍を我が家では生で見ることができませんでした。というのも、今回の大雪のためにちょうど、NHKでこの競技をやっている最中に、プツリと停電が起き、テレビを見れなくなったためです。

夫婦二人して楽しみにしていただけにガックしでしたが、翌日の朝5時ごろには停電が解消し、ようやくニュースで羽入選手の雄姿を拝むことができました。が、ちょうどこの競技をやっている最中だけ停電していたかのようで、まるでオリンピックの神様に意地悪されているような気分になったのは確かです。

とはいえ、録画画像でこれを見ることができ、とりあえず満足しました。失敗はいくつかあり、辛くも逃げきった格好ですが、金は金です。

ご本人は無論、見ている我々もハラハラドキドキでしたが、すんなりと優勝が決まる試合よりも、こんなふうに、さんざん産みの苦しみを味わった上での勝利のほうが、より記憶にとどまりやすいということで、かえってよかったのではないかと思います。

記憶にとどまったと言えば、この羽生選手のショートプログラムでのテーマ曲、「パリの散歩道」が大人気だそうで、私の耳にも今も残っています。この曲の原作者、ゲイリー・ムーアのCDが飛ぶように売れていて、音楽ショップでは売り切れが続出しているといいます。

北アイルランド出身のロック・ギタリストで、1970年代にメジャーになり、以降1980年代はヘヴィメタル、フュージョン等を中心に、1990年代以降はブルースを軸に活躍しました。

私はあまりロックやヘビメタは好きでないので、70年代、80年代の学生のころにはあまり聞きませんでしたが、彼の後半生で流行ったフュージョンなどは、時々聞いていたような記憶があります。

この「パリの散歩道」は、1978年のヒット曲だそうで、彼がヘビメタから、晩年の得意ジャンルであるフュージョンやブルースに移行しつつあったころの曲のようです。この曲の英名、”Parisienne Walkways”は、UKシングル・チャート8位を記録しましたが、彼が生涯いろいろ出したCDの中ではこれが最高位だったようです。

日本でもこのCDのヒット直後ごろから人気が出てきたようで、1983年1月に初来日公演を果たしました。このとき、チケットは即日完売し、追加公演も組まれたといい、プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組「ベストヒットUSA」にも出演したそうです。

晩年は、ブルースをベースに、ジャズ、フュージョンのほかクラシカルなフィーリングも加わった曲をよく演奏し、ファンを魅了しました。ギターを弾くその驚異の速さ、正確さは天才さながらだったといい、自分の演奏でもさることながら影響を受けたギタリスト達のスタイルをそのまま再現できたそうです。

このことから、“巧すぎるギタリスト”というあだ名がついたといい、またマシンガンのようなピッキングによる速弾きから“ギタークレイジー”と形容されていました。

ただ、彼の魅力が最も発揮されるのはバラードにおける「泣きのギター」であったといい、この「パリの散歩道」の中にもその魅力がふんだんに盛り込まれています。ギターを泣かせることにおいては最高峰のひとりではなかったかと言われており、その曲作りや演奏においての時代や流行に左右されない頑固一徹ぶりも有名でした。

1990年代にブルースを主に演奏するようになってからは、ハード・ロック時代に聴かせた速弾きを比較的抑えるようになったそうですが、時折昔の癖で、マシンガン・ピッキングが出てしまうこともあったといいます。

残念ながら2011年2月に満58歳没。天才ギタリストの演奏は聞けなくなってしまいましたが、それから3年後に羽生選手の活躍で、再び脚光を浴びることになったというわけです。

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この「パリの散歩道」、がどういう詩想で作曲されたのかは不明ですが、この曲がリリースされる直前彼は、「シン・リジィ」というアイルランドのハードロックバンドに所属してヨーロッパ各地や遠くはアメリカまで演奏旅行の日々を重ねています。おそらくその途中にパリへ寄ることも多かったと思われ、そのとき生まれた曲なのでしょう。

このパリという町にいったいどれくらいの散歩道があるのだろう、と調べてみようかと思いましたが、市街中心域の外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せると、その総面積は105.40平方キロに及びます。

ティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地だけでも、86.99平方キロに及び、これがどのくらいの大きさかといえば、東京都・山手線の内側は63平方キロ、ニューヨーク市・マンハッタンは59平方キロですから、これらの約1.5倍に及ぶことになります。

市内に20もの街区があり、凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通りであり、パリの歴史軸を構成するシャンゼリゼ通り(8区)を初めとし、世界屈指の高級ブランド街であり、コンコルド広場、ルーブル美術館、テュイルリー庭園などに囲まれたパリ中心部の通り、サントノーレ通り(1区)など他にも多数の有名な散歩道があります。

また、エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園(7区)は、パリを代表する観光名所としてあまりに有名で、セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中しています。

このほかにも、パリを見下ろす高台にあり、現在ではパリを代表する名観光地となっているモンマルトル(18区)や、このモンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」ピガール、ブランシュ(18区)なども有名であり、これらの地はかつて数多くの映画や小説にも取り上げられました。

こうした市街地だけでなく、パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地が数多くあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できるので人気があります。とくに16~17区に繋がるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっていて、散歩道としては人気があるようです。

おそらくは、ゲイリー・ムーアもまた演奏旅行の合間を見て、その疲れをいやすべくパリの喧騒を抜け、こうした静かな地を訪れて、そこで曲の詩想を得たのではないでしょうか。

このパリの歴史について語るのは、あまりにも紙面が少なすぎ無謀なのでやめますが、このパリという言葉の語源は「パリースィイ)“Parisii”」だそうです。元々は、「田舎者、乱暴者」の意味だそうで、ローマ人がパリに入ってくる以前からの先住民であったケルト系部族をローマ人が見てこう呼んだことに由来します。

言うまでもなくパリは、フランス革命を成し遂げたナポレオン一世によって現在の街区のほとんどの基礎が形成されましたが、第二次世界大戦が勃発したときには、ナチス・ドイツによる侵略を受け、1940年6月にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領し、アドルフ・ヒトラーもここを本拠としました。

しかし、ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放され、その後の20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出しました。

これにより数多くの原題小説家や文筆家が輩出され、彼等が掲げた、構造主義とポスト構造主義が世界的な影響力を持った結果、フランス現代思想は隆盛を極め、現代に至っています。

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無論、この現代フランス文化は、第二次大戦以前の王政ないし帝政時代に形成された文化が礎となっています。この時代にはさらに共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来によりフランスの経済、文化は大きく繁栄しました。

文化面では、ユーゴー、バルザック、スタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはマネやモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、シスレーといった印象派の画家が活躍し始め、彼等の活躍はゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなりました。

これらの時代に形成されたフランス文化は現在もなお、世界の芸術家に影響を与え続けており、それゆえにパリは「芸術の都」と呼ばれ、彫刻、流行、音楽に至るまで、さまざまな芸術の世界的な中心地です。特に近年はパリ・コレクションや料理競技会の開催にみられるように、服飾文化や食文化の分野でも世界的な情報発信地となっています。

そんなパリを私は一度も訪れたことはなく、一度は行ってみたいと思っている街ではあります。タエさんは数回訪れたことがあるといい、今もその当時の楽しさが蘇るのか、テレビでパリの様子などが放映されると食い入るように見ています。

いつかは夫婦で行きたいとは思っているのですが、先立つモノと暇のなさゆえに当分はパリの散歩は実現しないかも。

ま、もっとも日本においても散歩をしていないところはゴマンとあり、当面は行ったことのない場所を中心に散歩を楽しむこととしましょう。

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ところで、この「散歩」の語源を調べてみると、なんと驚くことに、麻薬中毒患者の治療法の一つだそうです。中国の三国時代に「五石散」とうドラッグが貴族や文化人の間で流行ったといい、一応表向きは滋養強壮薬として売られていました。

名前のとおり主材料は五石、石鐘乳、紫石英、白石英、石硫磺、赤石脂などの5つの薬だそうで、見るからに怪しそうですが、これを混合したものを服用すると体が熱くなるといい、この状態のことを中国人は「散発」と呼んでいました。

ところが、この散発の状態が長く続くと体に毒が溜まり、パッパラパー状態の症状が出てくるようになり、このため散発を促すべく常に歩き回ることが推奨されました。これを最初は「行散」といっていたようですが、後には散発のために歩く、ということを「散歩」と呼ぶようになり、やがてこれが転じてただ普通に歩くことも散歩というようになりました。

ただ、行散をして毒気を発散していても、実際にはひどい中毒症状が出ることが多かったそうで、このため命を落とす者も多くいたといいます。

現代社会における散歩をドラッグをさますために行う人は少ないでしょうが、酔いざましに行う人も多いでしょう。戸外に出る事で音や光といった様々な刺激をうけることで、精神に刺激を与えることが、健康にもいいということはよく言われます。

戸外に出る事で太陽光線を浴びることは、日光浴にもつながり、この日照はビタミンDの生成を促します。このため、乳児の成長に欠かせないと考えられており、ベビーカーでの散歩がよく行われます。

一人で出歩けるようになった小さい子供にとっても、一般的には歩くという刺激は体の健全な成長に欠かせないと考えられているようで、散歩は健康維持に有効であるとされており、遠足が教育に取り入れられているのはそのためでもあります。

無論、大人にとっても散歩という活動は、身体面・精神面で一定の好作用がみられるとおおむね好感をもって受け止められており、ストレスの発散や肥満の防止で歩く人も多いようです。

特に心肺機能の衰えが出始めた高齢者や病み上がりの人、あるいは循環器系障害のある人の健康維持に、散歩を勧める医療関係者は少なくないようで、このほか適度な散歩は睡眠にも良い効果があるとして、不眠症に散歩を勧めるケースも見られるようです。

最近は、高齢者を中心として、膝や腰を痛めやすいジョギングよりは「ウォーキング」などを推奨する向きも多いようです。

「ウォーキング」は、これを運動の一種と考、普通の散歩とは異なり、歩く距離、歩数、時間などを計り、運動量や消費カロリーを定量的に知り管理することにより、健康の維持や増進に役立てるというものであり、このため、ウォーキングに適した服装や靴を準備して、適切な姿勢で歩くことが推奨されます。

健康に対する関心が高まる中、生活習慣病などの予防や対策のための手軽な運動として全国各地の自治体の健康関連部門など公的機関も、ウォーキングコースの設定をしたり、ウォーキング大会やウォーキング教室の開催などを積極的に推進しています。

とはいえ、この背景には、増大する医療費を少しでも抑えるために市民の健康増進を図る目的があるともいわれています。とくに静岡県などでは、「長寿政策課」を設けて高齢者に対してウォーキングなどを積極的に県民に勧めており、病院などでも普通の生活に戻ることを第一義に掲げたリハビリテーションを積極的に推進しているということです。

こうした成果もあってか、自分の健康は自分で守るという風潮が静岡では強いらしく、平均寿命は毎年全国トップクラスだし、老衰死亡者数もだいたい毎年10位前後をキープしているようです。

ウォーキングの利点としては、なんといっても始める際のハードルが低いことが挙げられます。各スポーツメーカーからはウォーキングシューズなどが販売されてはいますが、無論、始める際には普段履いているスニーカーでも差し支えなく、初期投資がほとんどかかりません。

また、道路や公園を利用する場合が多く、専用の器具や競技施設を必要としないことから、いつでもどこでも行うことができるほか、歩行さえ可能であれば、高齢者や身体障害者でも自分のペースでウォーキングに取り組むことができます。

もっとも、「ウォーキング」を運動などと考えずに、気楽に散歩のつもりで外へ出ればいいだけの話なのですが、ただ単に歩くのではなく、姿勢を正して「歩く」ことを意識することが大事なのだそうで、それによって運動量やカロリー消費量もかなり変わってくるのだとか。

なので、散歩といえども多少は運動としての「ウォーキング」の要素をもう少し意識したほうが良いのでしょう。最近では、大人数が参加する多種多様なウォーキングイベントが開催されているようなので、こういう大会に出て、長距離を歩き自己の限界に挑戦するというのも励みになって良いかもしれません。

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その昔は、クルマや電車といった交通機関がなかったので、人は良く歩きました。このため、旅といえば「徒歩旅行」が一般的でした。

旅行者の体格や体調、携行品の重量や道程の環境によっても左右されますが、一般的にヒトの徒歩での移動速度は、時速4~5kmであると言われています。このため、旅行の場合は、1日の内、食事や睡眠・休憩を除いた正味8時間を歩いたとして、だいたい30kmを距離の目安とすることが多かったようです。

ところが、軍隊などでは歩兵の移動速度は時速6kmぐらいで、普通50分行軍し、10分小休止を繰り返していたそうで、こうした規則正しい歩行によって、より長距離を移動することが可能でした。古代ローマでは舗装された道路を移動するので緊急時は軍隊が1日100kmの移動も可能であったといいます。

日本では古くより、東海道や中山道などの主要街道をはじめとする、高度に発達した道路網が整備されてきており、これらは徒歩での移動を前提としていたため、徒歩での1日の移動距離を基準として一定間隔ごとに宿場が設けられていたようです。

しかし、こうした徒歩旅行は、日焼けや風・雨など自然環境の変化を直接受けるため、肉体的な疲労が他の移動手段と比較した場合、非常に大きいのは確かです。にも関わらず、古くより徒歩旅行が愛好され記録されてきており、徒歩旅行の記録を残した歴史上の有名な人物には、小林一茶、与謝蕪村、松尾芭蕉、種田山頭火などが挙げられます。

ご存知、四国八十八箇所めぐりは、四国にある88か所の空海(弘法大師)ゆかりの札所を徒歩で回るもので、宗教や信仰として行う徒歩旅行の代表例でもあります。現在もこの苦行を求めて八十八箇所巡りをする人は後を絶ちません。

伝統的には、四国遍路は「歩き遍路」とも呼ばれ、1日30kmの徒歩で約40日を要するようです。

一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道も廃れ、幹線道路になった遍路道は車の排気ガスが充満するなど歩き遍路にとってはつらい状況だったそうですが、最近は排気ガス規制や、寺院や地元の人たち、「へんろみち保存協力会」などによって、遍路道の整備や復興、道しるべの設置などが行なわれ一時期よりは歩きやすくなったといいます。

が、歩きやすくなったとはいえ、現代人にとって40日もの時間を作ることがそもそもできにくくなっており、かくある私も40日ともなるとさすがに躊躇してしまいます。せいぜい日帰りのハイキングか、ピクニックでしょう。

いわんや、修善寺近辺にはたくさんのハイキングコースや、散歩道があり、それらを歩くだけでも健康にはよさそうです。今あるこの大雪が融けるころには、ウメを求めて散歩やピクニックに出かけることにしましょう。

とかく現代人は歩かなくなったといいますが、羽生選手によって流行るようになった「パリの散歩道」によって、お散歩ブームなどが生まれるようになるかもしれません。

先日の東名の大渋滞のときに、高速道路上に閉じ込められた人達は、食糧やトイレを求めて、コンビニや売店のある場所までの冬道の過酷な「散歩」を強いられたようです。が、文明が発達し、機械に頼って歩くことを忘れていた現代人にとっては好い啓発になったのではないでしょうか。

近年の日本の道路行政はモータリゼーションを最優先したため、日本を縦横に貫く主要な国道から小さな路地に至るまで、歩行者の安全を最優先しているとは言い難い部分があります。道路交通法上は歩行者の安全を最優先していても、実際は歩道が極めて狭い場所もあり、徒歩による通行には危険を感じることが多いものです。

特に主要国道やトンネルや橋には歩行者用の専用道路が施設されていますが、身の危険や利便性の低さを感じる箇所も多いと思います。

「パリの散歩道」のヒットを境に、ぜひもっとパリのようなたくさんの散歩道を日本にも作って欲しいと思う次第です。

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雪の国から

2014-1130505再び、なんということでしょう、です。

朝起きて見ると、そこには真っ白な世界があるではありませんか。

昨日の天気予報で今日は雪になるだろうということは知っていたのですが、こんなに朝早くから、しかもざんざんと降るとは予想していませんでした。積もったとしてもせいぜい数センチくらいだろうとの予報でしたが、このまま降り続けるなら、10センチぐらいは楽にいきそうです。

またまた雪かきに追われることを考えると、少々うんざりしますが、しかし雪国でもない伊豆でこうした経験ができることを、心の中ではどこか喜んでいたりする自分がいたりします。

普段あまり積雪を拝むことのない、関東などの地域の方も同じなのではないでしょうか。

テレビでも、はるかかなたの雪の地での熱戦が続いています。昨夜はまた夜更かしをしてしまい、結局カーリングと男子フィギュアを見てしまいました。

またしても男女対決でしたが、男子のほうは圧巻なのに対して、女子のほうは惜敗。どうも今回のオリンピックは男尊女卑のような感じになってきましたが、このあと、どう展開していくのでしょうか。

ウチの奥様は、このカーリングが大のお気に入りのようで、初戦の韓国戦からずっと熱心にご覧になっています。実は私は最初あまり興味がなかったのですが、余りにも彼女が熱中しているので、一緒になってみているうちに次第に引き込まれるようになり、昨夜の夜更かしもそのせいです。

「氷上のチェス」とも呼ばれるぐらいですから、高度な戦略が必要とされ、その理詰めの試合展開をスリリングと感じる向きも多いのは分かる気がします。

日本においては比較的新しいスポーツで、競技として定着するようになったのは、北海道の元常呂町(現北見市)が、町をあげてその普及に取り組んだことがその礎です。

当初は、ビールのミニ樽やプロパンガスミニボンベなどでストーンを自作したそうですが、こうした努力が実を結び、1981年には、第1回NHK杯カーリング大会の開催に成功。1988年には、国内初のカーリングホールを建設して国内外の大会を開催するようになり、ここから多数のオリンピック選手を輩出するまでに急成長しました。

1998年の長野オリンピックでの男子チームスキップ敦賀信人選手の健闘や、2002年のソルトレイクシティオリンピックでの出場がテレビで中継されたことで徐々に認知が広がり、2006年に開催されたトリノオリンピックに出場した「チーム青森」の試合は、その全試合が中継されました。

この試合で7位に入賞したことから、日本におけるカーリングの認知度が一挙に高まり、その後も多数のチームが結成されて現在に至っています。

ただ、まだまだ新興の競技であるだけに、現在競技可能な施設は非常に少なく、競技人口も少ないようです。しかし、老若男女を問わず楽しめる競技であるため、今後のさらなる普及、発展する可能性を秘めています。似たような競技であるペタンクの普及ともあいまって、全国的にさらに人気が出てくるのではないでしょうか。

もともとは、15世紀にスコットランドで発祥したとされています。当時は底の平らな川石を氷の上に滑らせていたそうで、今のように成形した石を使ったカーリングの試合の最も古い記録は、1541年2月だそうです。

1541年というと、戦国時代の走りのころであり、甲斐の武田信玄が、その父の信虎を駿河に追放し家督を相続したころであり、そんな昔からあるスポーツと聞かされると驚きです。

この試合が行われたのは、スコットランド南西部に位置する同国最大の都市グラスゴー近郊のレンフルシャーという町です。

このころのベルギーの有名画家、ピーテル・ブリューゲルの作品に1565年の「雪の中の狩人」の中に、既に遠景として、氷上でカーリングを楽しむ人々が描かれているそうで、このころ既にスコットランド以外のヨーロッパ諸国でもさかんに行われていたことがわかります。

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「カーリング」という名称の起源については、はっきりわかっていないそうですが、一説によれば、髪の毛の「カール」にたとえられるように、投げられた石がゆっくりカールすることに由来するといわれているようです。1630年のスコットランドの印刷物中にこの名称の使用が確認されているのが一番古い記録のようです。

スコットランドでは16世紀から19世紀にかけて戸外でのカーリングが盛んに行われていましたが、現在のルールは主にカナダで確立したもので、カナダでは1807年には王立カーリングクラブが設立されています。

1832年にはアメリカ合衆国にカーリングクラブが誕生し、19世紀の終わりまでにはこのクラブが制定した新しいカーリングルールが、ヨーロッパに逆輸入され、スイスやスウェーデンなどで広まりました。

オリンピック競技としては、1998年の長野オリンピックで冬季オリンピックの正式種目として採用されたのが始まりです。以後のオリンピックでは毎回開催されています。そのこともあって現在ではヨーロッパや日本を含むアジア諸国だけでなく、オーストラリアのような比較的温暖な国でも競技人口が増えているということです。

そのルールは説明しだすとキリがないので細かいことは書きませんが、「エンド」と呼ばれる4人同士の攻守戦を10エンド行います。各エンドごとに選手が2投ずつ行う「ショット」で相手のサークルに石を投げ入れます。

相手チームのストーンに自チームのストーンをあてて、ハウスからはじき出してもよく、そのまま当てずに残すもよしですが、そのあたりは非常に緻密な駆け引きが要求されます。

各エンド終了時に「ハウス」と呼ばれる円の中央に最も近いストーンを残したチームのハウス内のストーン数の合計がそのチームの得点となります。逆に中央付近にストーンを残せなかったチームの得点はゼロです。このあたりの勝か負けるか、いちかばちか、といったドキドキ感もこのスポーツの醍醐味のひとつでしょう。

非常にスポーツマンシップを重んじる競技でもあります。例えば相手チームの失策を喜んだり、あるいはそのような態度を示すことは、慎むべき行為として忌避されています。また、途中のエンドの終了時に自チームに勝ち目がないと判断したとき、潔く自ら負けを認め、それを相手に握手を求める形で示すという習慣もフェアプレーの表れの1つです。

自分がファウル(ルール違反)をした時、それを自己申告するくらいのプレイ態度が期待され、このあたりは、同様の自己申告制がフェアプレーとされるゴルフと似ています。

このゴルフもスコットランドが発祥地です。ゴルフも、もともとは、審判員が存在しないセルフジャッジ制であり、同様にカーリングも、試合中のその場の両チームの競技者自身が判定を行う競技です。

このため、無用のトラブルを避けるためにも、その競技理念が、「カーリング競技規則」の冒頭に“The Spirit of Curling「カーリング精神」”として掲げられているそうです。世界カーリング連盟が定めるこのカーリング競技の基本理念をまず遵守することが、この競技における鉄則であるといいます。

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そこには、例えばこんなことが書いてあります。

「カーラーは勝つためにプレイするのであって、負かすためにプレイするのではない。真のカーラーは、不正をして勝つくらいなら負けることを選ぶだろう。」

「ゲームというものは、プレイヤーそれぞれの技量を明らかにするためにある。しかし同時にゲームの精神について言えば、善きスポーツマンシップ、思いやりある態度、そして誇り高い振る舞いが求められている。この精神は、(中略)ルールの解釈や適用のしかたに生かすべきであるのみならず、(中略)すべての参加者が行いの鑑とすべきものである。」

後段の「ゲーム」のところを、「政治」に置き換えて国会で披露してもらえば、一部の暴徳議員はみんな恐れ入ると思うのですが、どうでしょう。

このカーリング競技で使われている石は、その重さが1個約20kもあります。国際大会で使用されるものは、高密度で強度と滑りやすさに優れたスコットランドのアルサクレッグ島特産の花崗岩が使われているといいます。

他の石では密度が低く、氷の上で石が水を吸い、吸われた水が再び凍ったときに石が膨張して割れてしまうといい、このアルサクレッグ島で採掘される「粘りと弾性に優れた石」は衝突が起こる胴体部に、また「硬く滑りやすい石」を滑走面に使うことで、競技に最も適したストーンになるそうです。

「リーベック閃」という石綿の一種を含む特殊な花崗岩で、正式名称は「エイルサイト」というそうです。また、2004年現在、世界中で使用されているすべてのカーリング・ストーンの60-70%は、この島で採石されたエイルサイトから作られているといいます。

このアルサクレッグ島というのは、スコットランドの南西部の沖合約16kmにある島で、元々は火山島ですが、今は死火山になっています。

中世の16世紀における宗教改革ではカトリック教会の教会員の避難所となりましたが、現在は石工以外の居住者はおらず、ほぼ野鳥の楽園であり、多数のシロカツオドリの巣があるといいます。

周囲は3キロメートルほどしかなく、また最高地点の標高は338メートルという小さな島であるため、ここで獲れる花崗岩には限りがあります。このため石の資源保護の観点から、採石は20年に一度しか行われないといいます。

近年では2002年に採石されており、2010年のバンクーバーオリンピックでも、この石が使われていたそうです。非常に希少な石ということで、1個10万円以上するそうで、これを両チーム合わせて16個用意すると、160万円にもなります。

しかし、丈夫な石なので、一度加工すると、100年以上も使用できるそうです。ネットオークションの対象になっているのかどうかは知りませんが、古いものが出てきたとしたら、相当な価値があるのではないでしょうか。

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このカーリング競技ですが、上でも述べたとおり非常に歴史のあるものではあるのですが、片や他競技のアスリートなどから「カーリングはスポーツではない」という批判を浴びることもあるようです。

とくに日本においては「スポーツ=体育」という認識が定着しており、身体を激しく動かしていなければスポーツではない、という価値観が根強く存在します。

例えば将棋や囲碁、チェスなどは、「マインドスポーツ」であり、カーリングもまたそのひとつではないか、とする向きです。

カーリングは他の競技に比べ、一見激しい運動動作を伴わないため、スポーツと認識されないのでしょう。ところが、実際には、投擲の正確なコントロールや、的確にスウィーピングを行うためには、強靭な体力も要求されます。

この点は射撃とも似ています。私も大学時代に射撃をやっていたのでわかるのですが、この競技もまたカーリングのように、一見激しい運動を伴わないように見えます。しかし、止まっている標的を狙う以上、構えた銃は常に静止していなければなりません。

ところが、人間というのは呼吸をします。また、じっと静止しているつもりでも、心臓は常に動いています。この二つをいかに制御するか、というのは射撃の精度を上げる上において極めて重要です。

このため、射撃をやる人には、非常に柔らかい柔軟性が求められらると同時に、かなりの長時間息を止めて10kg以上もある銃を保持する体力が求められます。このため、足腰や腕の筋力も必要であり、通常の運動部以上のトレーニングを常に行って、自分のコンディションを整えなくてはなりません。

また、実射訓練においては、多いときは、一日に200回以上もの回数で銃の上げ下ろしをします。これは、一丁の銃を10kgとすると、述べ2トンもの鉄を上げ下ろしすることに相当します。射撃をやったことがある人はご存知だと思いますが、これはかなりの重労働です。

同様なトレーニングは、カーリングの選手にも必要です。正確なショットを打つための筋肉トレーニングや、ブラシで氷上をスウィーピングするための瞬発力は当然必要となり、一見、力を使っていないように見えますが、あの動作をするためには、相当の練習を積んでいるはずです。

これらの体力に加え、ストーンを正確にコントロールする技術力、チーム内でのプレーの連携、そしてスコアを競い合う先読みを繰り返す戦略性や戦術といったゲーム性も兼ねそろえたスポーツといえ、私はかなり高度なスポーツとみています。

こうした話を読むと、あらためてこのカーリングや、ゴルフといったスポーツの発祥地であるスコットランドという国を見直す気持ちが沸いてくるのではないでしょうか。

ちなみにこのスコットランドという国を独立国家と勘違いしている人も多いと思いますが、これは間違いです。スコットランドは、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、すなわち「イギリス」を構成する4つの国(カントリー)のひとつにすぎません。

この連合王国の国王であり、首相であるのが、「エリザベス2世」であり、エリザベス女王は他の三つのカントリーの国王でもあります。

ただし、スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度は他の3国からは独立したものとなっており、スコットランド教会がこの国の独自性の基礎でもあります。このため国際法上は1法域を構成する独立国家とみなされています。

とはいえ、これは法律上の話であってスコットランドはやはり独立国家ではありません。国際連合および欧州連合の直接の構成国ではないことがそれを物語っており、国連における代表国はあくまでイギリスという国家です。

そんなことぐらい知ってるよ~という声も聞こえてきそうですが、私自身も時々誤解しているところがあるので、念のためです。役に立った知識だった方も中にはいるのではないでしょうか。

とはいえ、スコットランドは、イギリスそのものです。古くは石炭がスコットランドの主要産業であり、産業革命を支えのもこの国です。1960年代に北海油田が開発されると、スコットランド北東部の小さな漁港にすぎなかったアバディーンは石油基地として大きな発展をとげました。

現在では、エディンバラ、グラスゴーに次ぐスコットランド第3の都市といわれ、港湾都市として発達するとともに、ヨーロッパの石油の首都とまで呼ばれています。

1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯は「シリコングレン」と呼ばれるほど、情報産業がさかんなところです。

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数々の文化人、有名人を輩出したことでも知られており、「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツ、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれです。

スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者をも輩出しており、それらの発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多数あります。

ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装を発明したジョン・ロウドン・マカダム、などはスコットランドの生まれです。

そして、電話を発明したグレアム・ベルもまた、スコットランド出身です。

実は、このベルは私と誕生日が同じです。なので、妙に親近感を感じてしまうのですが、その生誕から167年を経た雛祭りがもうすぐ近づいてきました。

私もとうとう5×歳になります。その私と同じくらいの年齢でベルは何をやっていたのかな、と調べたところ、なんと、この歳で飛行機の開発をしようとしていたようです。

アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション(AEA)という会社を起こし、三角翼の凧のような飛行機の開発を始めており、その研究を通じてイギリスの航空宇宙工学研究の発達に多大な貢献をしました。

残念ながら、人類初の動力飛行機の離陸成功の栄誉は1903年のライト兄弟によって奪われましたが、その5年後の1908年にAEAが開発したレッド・ウィング号が初飛行に成功し、パイロットのフレデリック・ボールドウィンは最初に飛行に成功したカナダ人となりました(この当時ベルはスコットランドからカナダに移住していた)。

そうした晩年に至るまで発明に励んでいたベルにあやかり、私も何ごとかを成し遂げたいところですが、なにぶんこの雪が……

雪のせいにしてはいけません。今日も明日を夢見てせっせと仕事に励みましょう。が、ときには息抜きも必要です。

そうそう、スコットランドといえば、スコッチ・ウイスキーはやっぱり、スコットランド産でなければなりません。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多いそうです。

この寒い雪のなか、スコッチ・ウィスキーをちびちびやりながら、今晩もオリンピックを見ることにしましょう。

仕事はどうするかって?それは、今日貰う予定のチョコレートをかじりながら、ウィスキーを飲んだあとのことにしましょう。

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キンメ!

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昨夜は、夜更かしして、ソチ五輪の男子ハーフパイプと女子ノーマルヒルジャンプ競技を見てしまいました。

男子のほうの快挙!に湧く中、女子のほうは残念な結果になりましたが、メダルの獲得の有無はともかく、二十歳にも満たない若い彼らの健闘には全国から惜しみない拍手が送られたことでしょう。

ジャンプの高梨選手と同じ北海道上川町出身の、元スキージャンプ選手の原田雅彦さんが、今朝のNHKニュースで、高梨選手のときだけ、まるで彼女に不利に働くかのような風が吹いていたことなどを明らかにしていましたが、今回良い成績を残せなかったことには、まるで天の意思があったかのようにも思えます。

彼女が奢っていたとかそういうことではなく、まだまだ成長過程にある彼女に更なる試練を与えることが今回のことだったと考えれば、次のオリンピックのときまでの道のりもまた大きな意味を持ってくるでしょう。

金メダルへの期待への重圧に今回耐え続けることが成長につながったと思うし、この失敗における口惜しさをバネに励むべき次のオリンピックまでの長い苦行の道もまた、本人を成長させる「必然」だと思うのです。

「よく頑張った」という普通の賛辞ではなく、「よく耐えた」「これからも頑張れ」が彼女への正しい声のかけ方のような気がしてなりません。

ところで、この原田選手もまた、なかなか金メダルを取れない人でした。長野オリンピックのスキージャンプ団体競技でこそ金メダルを取っていますが、長野を含めて、それ以前のリレハンメル、そのあとのトリノにおいても、銀・銅メダルは獲得しているものの、個人競技ではついに金は取っていません。

しかし、オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しており、これは日本人最多だそうです。

これだけ偉大な結果を残していながら、オリンピックにおける金はたったひとつ、ということを考えると、いかに「魔物が棲む」というオリンピックという場での金メダル獲得が難しいかが想像できます。

それにしても、世界のアスリートたちが憧れるこの金メダルって、実際にはどのくらいの価値があるのだろうか、と最近儲かっていないせいかこうした下卑た疑問しか湧いてこないこの脳味噌が言うので、早速調べてみました。

金メダルに使われている金の純度とはどのくらいなのだろう、という観点から調べてみたところ、意外にも、このオリンピックで用意される金メダルというのは純金ではないのだそうです。

「純度92.5%以上の銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたもの」と、オリンピック憲章に定められているそうで、つまり、万年筆などに使われている「バーメイル(vermeil)」と同じもの、ということになるようです。

vermeilと言うのは、元々はフランス語の「ベルメイユ」の英語表記です。

本来は、スターリング・シルバーの加工法の1つで、これをベース素材にし、その上から14金を金張りやメッキした物がバーメイルです。

その昔は、宝飾品によく用いられ、万年筆などが普及し始めてからは一般用語として使われるようになりましたが、最近ではパソコンが普及で、万年筆すら使わない人も増えているので、このバーメイルもあまり聞きなれない用語になっています。

ちなみに、スターリングシルバー (sterling silver)とは、 銀の含有率92.5パーセントの合金で、銀に銅やアルミニウムなどを加えて、強度を上げたものです。ほかにブルタニアシルバーというのもあって、こちらは純度95.8パーセントです。ブルタニアシルバーのほうも無論、金メダルとして使えます。

オリンピック憲章では、金メダルに使われるのは、このどちらでもよいようなのですが、純金が使われないのは、開催国によっては経済的に落ち込んでいるところもあるので、こうした国でオリンピックが開かれるときに、大きな負担にならないように、という配慮からなのだそうです。

なお、金メダルに限らず、銀・銅を含めてのメダルの大きさは、オリンピック憲章では「大きさ直径60mm以上、厚さ3mm以上」だそうです。しかし、これ以上大きくしてはいけない、という規定は無いので、極端な話、タイヤサイズのメダルでも一応OKということです。

が、それではメダルではなくて浮き輪になってしまいますし、だいいち重過ぎます。メダル授与式を重量挙げの場にするわけにはいきません。

ただ、メダルの意匠はある程度開催国の自由に任せられていて、トリノオリンピックではその形状が実際に浮き輪と同じドーナツ型にされました。また長野オリンピックでは一部に漆塗りが用いられるなど、その形態はさまざまです。

ただし夏季オリンピックのメダルの裏面については規格が統一されており、勝利の女神が浮き彫りにされています。

この規定は、2004年のアテネオリンピックからで、オリンピックの発祥地、ギリシア側からIOCへの要請によりこのように統一規格が変更されました。ギリシアとしては、発祥地としての誉を永遠にメダルに刻みたかったのでしょう。

ソチでのメダルは、金・銀・銅とも、直径が10センチ、厚さが1センチあり、その半分が中空になっていて、そこにクリスタルなどがはめ込まれ、ロシアの伝統的な模様と、氷や太陽が輝くイメージをあしらわれた、大変美しいデザインです。

今回のオリンピックでは、来る2月15日に開催される競技で金メダルを獲得した人に限って、昨年の2013年2月15日に西シベリアに落ちた隕石がはめ込まれたメダルが特別に用意されているそうです。

調べてみると、15日は、スケートのショートトラックは、スピードスケート1500m、ラージヒルジャンプなどの競技の決勝が行われる予定のようなので、もしかしたら、日本人選手の中にもこの隕石入り金メダルを獲得する人が出るかもしれません。楽しみです。

金以外の銀メダルの素材としては、上述のスターリングシルバーなどがそのまま使われるようです。が、銅メダルも純銅製ではなく他の金属との合金です。

こちらは錫との合金の青銅が多いようですが、銀、亜鉛、ニッケルとの合金の場合もあります。従って、「ブロンズメダル」と一般には呼ばれていますが、その実態は「青銅メダル」ということになります。

近代オリンピックでは、1位から3位までの順位でそれぞれこれらの金・銀・銅のメダルが授けられますが、第1回近代オリンピックでは優勝者には銀メダルが与えられ、準優勝者は銅メダルだったそうです。このときの3位入賞者にはメダルではなく賞状が贈られたといいます。

ただ、2回以降の優勝選手に贈られるこの金メダルも、実はその素材はほとんど銀であり、実質は銀メダルということになります。

つまり、極論をいえば、金メダルを目指して練習に励み、これを得てきた選手たちは、いわば「シルバーコレクター」ということになります。がまァ、これはそういうひねくれた見方もある、というだけのことです。

それにしても、金メダルというのはほんの一握りの選手だけが受け取ることができる勲章である以上、二番手、三番店に甘んじる人が多いのは当然であり、古来、シルバーコレクターと呼ばれる人が多いことも確かです。

シルバーコレクターの意味は、スポーツの世界において、何度もあと一歩で優勝を逃し2~3位に甘んじている選手やチームを指す俗称です。つまり日本語における「万年2位」と同じです。

「優勝するだけの能力を持ちながらも運に恵まれない」としてその選手(チーム)の実力を賞賛する目的で使われることがある一方で、「実力はあるが肝心のところで精神的な弱さが露呈する」などと揶揄する意味で使われる場合もあります。

シルバーコレクターと呼ばれる人は過去にたくさんいますが、有名なところでは、陸上競技のフランク・フレデリクスでしょうか。アフリカ南西部のナミビアの元陸上競技者で、とくに200m走が得意だった選手です。黒人です。

その競技中のポーカーフェイスぶりから、“ナミビアの鉄仮面”の異名をとった選手で、世界選手権では、1993年シュトゥットガルト大会での金メダルがありますが、オリンピックでは1992年バルセロナ、1996年アトランタの男子100m、200mに出場し、合計で4個のメダルを獲得しましたが、そのすべてが銀メダルでした。

この時期には、彼のライバルとしては、世界記録樹立経験者のマイケル・ジョンソン、ドノバン・ベイリーらがいたための悲運でもありましたが、フレデリクスは生涯のレースで3位以下は一度もなく常に安定した成績を残してきた選手です。

オリンピックでこそ金メダルは取れませんでしたが、このほか、IAAFグランプリファイナル,IAAF陸上ワールドカップも含めて1位は6回もあり、2位に至っては12回にも及びます。キングオブ、シルバーコレクターと呼ぶべきでしょう。

ちなみに、オリンピックの男子短距離走の個人種目における最多メダル獲得数「4」は、カール・ルイスや、アト・ボルドン、ウサイン・ボルトなどですが、フランク・フレデリクスもまた金メダルこそは取れなかったものの4個の銀メダルを獲得しており、メダルの数だけをみれば彼らに並ぶ最多記録保持者です。

このほか、冬季オリンピックにおけるシルバーコレクターとして思い浮かぶのは、フィギュアスケート競技のサーシャ・コーエン(アメリカ)でしょうか。

世界フィギュアスケート選手権で2位が2回、3位が1回であり、オリンピックにおいてもトリノオリンピックでの2位が最高でした。全米フィギュアスケート選手権においても優勝が1回あるだけで、2位が4回、3位が1回です。

フィギアスケートに関しては、ほかにもたくさんのシルバーコレクターがいますが、技と体力に加えて、高い芸術性が求められるという非常に難しい競技であるだけに、たとえ金メダルはとれなくても、上位のメダルを取り続けるというのは、やはり相当に卓越した優れた技量がなければできることではありません。

日本の浅田真央選手もまた、数々の世界大会で金メダルを獲得していますが、前回のバンクーバーでは銀メダルに終わりました。今回も銀メダルになってしまって、シルバーコレクターといわれることのないよう、頑張ってほしいところです。

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このほか、2位や3位にもなれず、力はあるのになかなか結果が出せずに、「入賞」だけを繰り返すという選手もおそらくは数限りなくいます。

こうした人たちの中でも特に実力を兼ね揃えているにもかかわらず結果が出せない選手のことを「無冠の帝王」などと言ったりもします。

この用語は、もともとは儒教で孔子のことを「素王」と呼んでいたのにちなみます。

孔子という人は、その生涯にわたって貴い地位には縁が無かったといわれており、帝王に据えてもおかしくないほどの徳を持っているのに、「帝王の冠を持たない人」であり、日本にはその考え方だけ導入され、のちの世で「無冠の帝王」という使われ方をするようになりました。

しかし、実際には孔子は何度となく仕官を求め、時には儒教の道徳上からみてもあまり好ましくないような人物に願って出仕しようとしたこともあったようです。ま、無冠の帝王と呼ばれる人の中には、その実力以上に人気が先行してそう呼ばれるようになった人たちもいるのも確かであり、孔子もまたそうなのかもしれません。

この無冠の帝王という呼び方ですが、日本では最初、これは新聞記者に対する呼び方でした。新聞記者の中には、特に地位や権力を有しているわけではありませんが、決して圧力に屈することなく、常に世論を武器に権力者に対抗しようとする人がいます。

そうした実力がありながら、影の立役者の立場に甘んじていることから、彼らを称賛してこう呼ばれるようになったものであり、これが、スポーツの世界にも持ち込まれて使われるようになりました。

現在では、新聞記者やスポーツなどの分野に限らず、相当の実力を持ちながらも、その実力に相応しい賞やタイトルを獲得できていない人物全般を指す言葉となりました。が、肝心なところで勝負強さを発揮できず、賞を取り逃している人を指すこともあり、こうした場合にはやや揶揄的な意味を込めて使われます。

今回のソチオリンピックにモーグルで出場した上村愛子選手なども、もしかしたら無冠の帝王と呼ぶべきなのかもしれません。

オリンピック以外では、ワールドカップ日本人最多の10勝を成し遂げており、2007-08シーズンには日本人初の総合優勝を成し遂げていますし、フリースタイルスキー世界選手権では2009年猪苗代大会で2個の金メダルを獲得しています。

ここまで立派な成績を残していながら、5大会も出場した五輪では最後までメダルに縁がなく、そこは運というしかないのかもしれません。ただし、出場した五輪全てに入賞し、しかも一度も順位を落とさなかったところが素晴らしいと評価されています。

ちなみに、上村選手は、1998年長野では7位→2002年ソルトレイク6位→2006年トリノ5位→2010年バンクーバー4位、と大会ごとに順位を上げており、その集大成であるソチ大会では3位になるはずでした。実際、すわ銅メダルか、思われるほどの活躍をみせてくれましたが、判定などの問題もあり、やはり前回と同様の4位に甘んじました。

スキージャンプの葛西紀明選手もまた、無冠の帝王のまま終わるのかどうかが注目されています。ワールドカップ日本人最多タイの16勝を誇り、しかも今年1月に行われたワールドカップでは史上最年長優勝(41歳7ヶ月)も果たした実力者です。

が五輪では、1994年の リレハンメルで 団体ラージヒルで銀メダルを取っているものの、個人競技でのメダル獲得は一度もありません。先日のノーマルヒルでも結果が出せず、残りはラージヒルですが、ぜひ頑張って、隕石入り金メダルを取ってほしいものです。

ところで、過去のオリンピックにおいて、日本はいったいいくつ金メダルを取っているのかが気になったので調べてみたところ、過去の夏季オリンピックの金メダリストは、130だそうです(団体競技はひとつにカウントしているので、実際に日本に持ち帰られた金メダルの数はもっとありますが)。

金メダル取得者の出身地ごとにこの金メダル分布をみてみると、全国的に見ると東高西低。のようで、とくに東海地方と九州地方では全ての県が金メダリストを輩出している一方で、北陸地方ではロンドンオリンピックでの松本薫(柔道女子)だけだったりします。ちなみに最多は北海道で、なんと8人もの金メダリストがいます。夏なのに意外。

一方の冬季オリンピックのほうですが、こちらは歴史も浅いこともあり、1972年の札幌オリンピックにおける笠谷幸生(スキージャンプ70m級)以後、金メダル獲得数は9つ(同様に団体競技はひとつにカウント)にとどまっています。

前回のバンクーバでは獲得者がおらず、今回金メダリストが出るとすると、その前の2006年トリノで、荒川静香がフィギュアスケート女子シングルで金メダルを取って以来ということになります。果たして今回のソチでの結果はどうなるでしょうか。

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さて、ここまで書いてきたところで、ついでだからメダルとは何か、ということを調べてみようと思いたちました。そこでまず浮かんできた素朴な疑問なのですが、そもそもメダルとコインは何が違うのでしょうか。

大きさが違うんだよ!という声が聞こえてきそうですが、調べてみるとメダルというのは、金属板に何らかの意匠を施したものを意味し、ともかく何らかのデザインがしてあれば、これすなわちメダルと呼ぶようです。

ただ一般的概念としては、メダルと呼ぶ場合は、スポーツなどの競技で勝利選手、優秀選手を表彰して贈られる各メダルのことを指します。もっとも、同じスポーツでも団体競技の場合には、トロフィー及びフラッグがその「チーム」に「ひとつだけ」授与されますが、メダルはこうした場合には競技者1人ずつに授与されます。

従って、「個人表彰」の意味合いが非常に強いのがメダルの特徴です。円形のものが一般的ですが、円形以外の形状にデザインされることもあり、実際2009年世界陸上競技選手権大会では長方形の形状のメダルがデザインされました。

一方、コイン(硬貨)は、貴金属を通貨として利用する上で、ニセ金貨などの公正性を欠くようなものが出回るのを予防する観点から、極めて精巧な意匠が凝らされて製造された「メダルの一種」です。

つまり貴金属と同じ希少品として位置づけられますし、実際に金や銀を用いて鋳造されるものもあります。貴金属を用いないものでも、貴金属と同等の価値があるとみなされ、これと引き換えが可能です。

これに対してメダルは、褒賞として与えられる記念品・表彰品に過ぎず、先の金メダルの組成の話からもわかるように、必ずしも金などの貴金属である必要はありませんし、これを貴金属と同等の価値があるとして、引き換えることはできません。

個人の名誉に敬意を表して与えられるものであり、その元来の意味からすれば、鋳潰して貴金属の資源的価値に還元される必要も無いわけです。

このため、メダルの意匠は、偽造防止を目的としたコインの意匠とは異なり、一般的にはそれほど精巧な造りは求められません。無論、オリンピックのような世界的な大会では、コイン並の精巧なものが作られることが多く、また国威を発する意味もあることから、独自の意匠が凝らされるのが常ですが、通常のメダルにはそこまで求められません。

個人の努力に対して与えられるものであることから、単に「見栄え」だけを強調されることも多く、また、見栄えさえよければいいわけですから、貴金属である必要さえなく、安い金属にメッキでもいいわけです。安っぽさを補うためにリボンなどで装飾されたものさえ存在します。

つまり、メダルはその性質上、“メダリスト”の呼称に見られるように、メダルを受けることによるそれぞれの競技の世界における強力な「ステータス」を表すものであり、そのステータスを手に入れるために各選手とも必死なプレイを行うわけです。

しかも、本来はけっして、金目当てにこれを求めるものではありません。

しかし、金メダルなどのメダルを獲得するということは、国によってかなり大きな社会的ステータスを得ることにもつながり、このためこうした選手には兵役の免除や、生涯にわたる生活保障、そして多額な報奨金が支払われあることもあります。

なので、もともとはメダルの獲得というものは無欲なものであったはずなのに、最近では金儲けのため、と目される部分もあり、貧困な国などでは何が何でも勝ちたいという選手が出てくるのはやむを得ないところはあります。ドーピングや審判員の買収といったことが後を絶たないのはそのためでもあります、

ところが、個人の奮闘をたたえて与えられるメダルには、スポーツだけでなく、軍隊におけるメダルのようなものもあります。戦場などにおいて、著しい軍功をあげた・軍に功績のあった人物を表彰するためのものであり、スポーツのように自己満足や金のために個人が努力して得るものではなく、国家のために働いた人にだけ与えられます。

これが、つまり「栄誉」と呼ばれるものです。

一般には、「勲章」という形のメダルが与えられます。国家、あるいはその元首が代表して、個人に対しその国家に対する功績や業績を表彰するために与える栄典であり、一般にはその章飾の授与こそが「栄誉」と称されます。

日本では、軍隊以外にも文化や芸術・技術や教育といった分野などで功績があった人にも「叙勲」と称して勲章が皇室から贈られますが、これも「栄誉」です。

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ところが、軍隊には、もうひとつ「従軍記章」というのがあります。明治8年に太政官布告として制定されたもので、日本が参戦した戦役・事変に関わった人物へ、これを顕彰するために日本国から贈られる一種の勲章です。ただし勲章ではなく、その戦役に参加した人全員に与えられるため「記章」と呼ばれます。

欧米の”Campaign medal”に相当するもので、軍功の如何や階級に関係なく、また軍人及び軍属に限らず要件を満たせば文民や民間人にも広く授与されます。ただし、その佩用は本人に限り、子孫に及ぶものではありません。かつての日清・日露戦争や第一次世界大戦といった戦役では多くの人がこれを授与されています。

このほかにも、「大東亜戦争従軍記章」というのがあり、これは太平洋戦争の従軍記章として計画・準備されていたものです。しかし、第二次世界大戦敗戦による陸海軍解体に伴い授与されず生産分の大半は破棄され、法律的な効力も大戦後失効しています。

ところが、戦後国家軍隊として復活した自衛隊では、この従軍記章が、「防衛記念章」として復活しています。自衛官がその経歴を記念して制服に着用することができる徽章のことであり、自衛官特有の栄誉でもあります。

勲章の一種である、「略綬(りゃくじゅ)」に似た長方形の布製の板で、大きさは横36ミリメートル、縦11ミリメートルです。

ここで、略綬というのは、本来、勲章・記章の受章者がそれらを佩用しないときに受章歴を示すために着用する綬(リボン)のことです。

受章した勲章・記章の全てを日常佩用することは実用的ではなく、破損や紛失の危険も伴います。しかし、一方では受章者には自己の受賞歴を誇示したいという要求もあり、そこで、式典等礼服を着用する場合以外は、略綬を日常的に着用して正式の勲章・記章の佩用を省略するようになりました。

元々は、重要な儀式の場以外で勲章自体を身につけるのは華美に過ぎるといった場合において、メダルである勲章本体をつけるのではなく、このメダルに付属した、リボンだけを折って代用としたものであり、このため「綬」=「リボン」という漢字があてがわれたものです。

いちいち勲章をつけなくて済むことから、各国の軍隊で普及しましたが、この普及によって、常装でも何の勲章・記章を受章しているのかが確認でき、その着用している軍人の功績や経歴を窺い知る事ができるようになるというメリットが生まれました。

当初は本当にリボンだけが使われていたようですが、時代が下るつれいろんな形式のものも出てきて、現在では背広などの平服の襟に付けるスティックピン形式や、軍服に並べて着ける長方形略綬などいろいろな形式があります。

ただし、外国の場合は、軍人が胸に着けている略綬は「略」の意味そのものであり、もともとはリボンのついた勲章が授与されて別にあり、これを省略してつけているものです。これに対し、日本の防衛記念章は略綬型のもの自体が勲章となっていて、メダルのような勲章本体は存在しません。

このため、自衛官の間では多少この「栄誉」を軽んじてみる向きも多く、この略綬のことを評して「グリコのおまけ」と呼ぶ人も多いようです。

なぜ、日本には略綬しかなく、本体の勲章がないかといえば、それは、自衛隊の創設後、大きな戦役は一度もなく、従って戦争で活躍した栄誉として勲章を与えるという場がこれまでになかったからにほかなりません。

創設時の自衛隊には、第二次大戦を経験した旧日本帝国軍の所属者が多数在籍しており、戦前に受章した勲章・記章の略綬を着用する者もいました。

ところが、戦後の叙勲基準は、基本的には憲法において戦争をやってはいけない、と書かれていることを元に定められています。つまり戦争を放棄している以上は、今後とも自衛官が戦闘に従事することはないだろう、というわけで、自衛官が現職の間に戦闘に従事した証として勲章を与えるということが無くなってしまいました。

戦前のように従軍記章や記念章も発行されることが無くなったため、旧軍の軍歴が無い戦後の自衛官は、勲章は無論のこと、戦争に参加していないので従軍記章の略綬さえも着用することはなくなったというわけです。

とはいえ、アメリカを中心とする多国籍軍による湾岸戦争のときなどは、日本は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させ、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇を派遣、自衛隊の海外派遣を実現させました。

近年はさらにこうした超法規的措置として派遣されるようなケースが増えてきており、こうした戦闘に参加した場合にはおおっぴらに勲章を与えたり従軍記章を与えることはできないものの、苦労した彼らに何等かの証を与えてあげたいのは人情というものです。

また、戦後も他国の軍人は制服につけることのできる多数の勲章類を保持しており、特にアメリカ軍では、朝鮮戦争やベトナム戦争を始めとして多数記念章・従軍記章が数多く制定されているため、略綬を着用している軍人が多数いました。

戦後、自衛隊もハワイやグアム、カリフォルニア沖で、アメリカ軍と合同演習を行うような機会も増えましたが、そうした折に行われる儀礼・儀式の会場や、パーティなどでも、現役の自衛官は、略綬など何もつけられないのに対し、米軍軍人は常服でもきらびやかな略綬をたくさんつけて、これらの会合に出席します。

こうした状況に対して、自衛隊内部からはこれではあまりにもみすぼらしい、国のために頑張っている隊員が可愛いそすぎる、という声があがったのはごくごく自然のことでもあります。

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このため、外国軍人との外見上の均衡をとるという必要がある、という名目で、1982年(昭和57年)4月1日に制定されたのが、「防衛記念章制度」であり、このとき、戦後初めて自衛隊が身に着ける15種類の略綬が定められました。

その後、自衛隊の活動領域が狭かった昭和時代には「防衛記念章の制式等に関する訓令」の改正はわずかに3回しか行われておらず、略綬の数もあまり増えませんでしたが、平成に入り自衛隊の活動領域が飛躍的に拡大すると共にその数も増えていきました。

同訓令は平成元年から平成10年末までの間に8回も改正が行われ、授与対象が拡大するところとなり、平成23年9月の改正時点では、なんと41種類もの防衛記念章が存在しています。

これらの略綬こと、防衛記念章は、自衛官の服装のうち、常装、第1種礼装、第2種礼装及び通常礼装に着用することができるとされています。

略綬の本体の金属心の構造などの細かい規定は規定では定められていないそうですが、自衛隊内で販売されているものは記念章単体で着ける事が出来ない構造になっており、留めピン付きの連結金具に通して左胸ポケット上に着ける形式です。

従って、より上位の章を貰った時は、ピン付金具はそのままに新しいものと差し替えることができます。なお自衛官が外国勲章を受章した場合、その略綬を防衛記念章と一緒に並べて着けることもできるそうです。

この41種類の防衛記念章のうち、一番上の「特別賞詞」とその次の第1級から第3級までの賞詞を受賞した自衛官には、合わせて「防衛功労章」が授与されるそうです。

無論、著しい功績があつた隊員に対して授与されるもので、「使命感を醸成し得る礼遇の付与を目的とした」功労章だということです。防衛記念章と異なり終身保有することができ、受賞者が死没した後もその遺族が保存することができます。

しかし、この特別賞詞を受賞した人はこれまで一人もいません。が第1級賞詞と第2級賞詞を貰った人は、ほんのわずかおり、これが、現役自衛官でオリンピックのメダリストになった人たちです。

金メダルを取った人には第1級賞詞が、銀・銅メダリストになった者には第2級賞詞が授与されており、これまでは、元重量挙げ選手で東京、メキシコの二つの大会で金メダルを獲得した三宅義信氏と、ロンドンオリンピック女子レスリング48kg級・金メダリストの小原日登美氏がいます。

二人とも、第1級賞詞を2度受賞しており、当該記念章の紺色の略綬中央に銀色の桜花がついた記念章を襟元につけているはずです。

この三宅 義信さんは、1939年(昭和14年)に宮城県柴田郡村田町で生まれた人で、オリンピックには法政大学在学中であったローマオリンピックで銀メダルを獲得し、1964年東京オリンピック、1968年メキシコシティオリンピックで優勝。

その次のミュンヘンオリンピックは4位に終わったものの、現役引退後も幹部自衛官として勤務する傍ら多くの選手を育成し、日本重量挙げ界に大きな貢献してきた人です。

1997年に自衛隊体育学校校長を最後に退官(最終階級は陸将補)され、退官後の現在は小松製作所顧問を務める傍ら、日本トライアスロン連合副会長、日本オリンピアンズ協会常務理事などを務められているそうです。

小原 日登美さんのほうは、その後結婚されましたが、旧姓は「坂本」さんです。

青森県八戸市出身で、17歳の1998年のときに全国高校生選手権50kg級で優勝。以後、1999年にも全日本女子学生選手権51kg級と全日本選手権で優勝するなど数々の大会で優勝し続け、24歳で自衛隊に入隊。自衛隊体育学校に所属しつつ、2006年と2007年の世界選手権で連覇を達成するなどその後も活躍をし続けました。

北京オリンピックでは55kg級で出場を目指し、2007年1月の全日本選手権で吉田沙保里と対戦しましたが、完敗。同年9月開催の世界選手権の55kg級でも吉田が優勝したため、北京オリンピックに出場する夢は断たれました。

そして、2008年の世界選手権での優勝を最後に現役を引退を決意。このときそれまでの自衛隊員としての数々の戦歴(無論、スポーツ競技としての)が認められ、防衛大臣浜田靖一から、女性自衛官としては初となる第1級賞詞と第1級防衛功労章が授与されました。

現役引退後は同じく女子レスリング競技者だった、妹の真喜子さんらの指導に当たっていましたが、2009年12月、この妹が結婚を機に競技生活から引退することを明らかにした際、なんと、現役復帰を表明。48kg級でロンドンオリンピックを目指すこととなりました。

こうして現役復帰後の、2010年9月に行われたレスリング世界選手権モスクワ大会では、7度目の優勝を果たして見事復活を実現。このとき、世界柔道選手権銅メダリストの國原頼子とともに防衛大臣北澤俊美からこの功績を顕彰されています。

そして、2012年8月9日、ロンドンオリンピック女子48kg級でついに悲願の金メダルを獲得。このことは、まだそれからあまり日数が経っていないので、覚えている方も多いでしょう。

しかし、小原選手は、この直後にこのオリンピックを契機として引退することを表明しました。ところが、前回の最初の引退のときに第1級賞詞を授与されたのと同様、このときもロンドンオリンピックでの金メダル獲得が評価され、再度の引退後、防衛大臣森本敏から2度目の第1級賞詞が授与されました。

同年には、青森県県民栄誉賞・八戸市民栄誉賞・彩の国スポーツ功労賞(2度目)が授与されるとともに、紫綬褒章も受章しています。

このように、2度も自衛官として第1級賞詞受賞したのは、上述の三宅義信以来史上2人目となりますが、オリンピックの金メダルだけでなく、自衛隊における金メダルともいえる「防衛功労章」も受賞したのは、日本広しといえども、このお二人だけ、ということになります。

雪の朝

さて、これまで各界のメダル事情をみてきましたが、このほかにも、メダルには学術研究などにおいて、ある分野で著しい功績があった研究者・技術者に対して授与するものがあります。

その分野の有名な研究者の名前を冠していることが多く、 生物学におけるダーウィン・メダルや、電気電子工学分野でのエジソンメダルなどが有名です。 ベンジャミン・フランクリンメダルのように、複数の分野を対象としたものも存在します。

しかし、メダルとして思い浮かぶものといえば、このほかにもゲームセンターのメダルゲームやライブハウスのドリンクチケットの代わりとして用いられるものなどを思い浮かべる人も多いでしょう。このほか海外では、一部の公共交通機関のほか、カジノのような遊戯施設において、やはり硬貨やチケットの代替としてメダルが利用されます。

英語圏では、この様な一種のチケットとしての役割を持つメダルは、メダルとは呼ばずに「トークン」と呼ばれることが多いようで、カジノにおいては、とくにスロットマシーン専用に金属製のトークンが現金の代わりに用いられたりします。

トークンはカジノにおいては現金の代わりをしますが、一般的にカジノの外では価値を持ちません。しかし、カジノ内では得たトークンは無論換金可能であり、その性質上、カジノは「賭博」とみなされる風潮が強いことはご存知のとおりです。

ところが、21世紀に入ってから、日本でも一部の地方自治体の中でカジノの許可権限やカジノによる税収や経済効果を求め、構造改革特区を目指す動きがあります。

東京においても、かつての石原慎太郎東京都知事や、その後任で先ごろ辞任したばかりの猪瀬直樹知事、そして自民党の一部の議員らが、「国際観光産業振興議員連盟」を結成して合法化を求めていました。

この団体はいわゆる「カジノ議連」と呼ばれ、現在もカジノの合法化を求めた活動しているようですが、猪瀬知事の献金疑惑問題が浮上してからは、その活動は縮小しつつあったようです。

カジノの日本導入にあたっては、青少年への悪影響、治安悪化、暴力団などの犯罪組織の資金源になるなどの恐れがあることや、国会による法改正を必要とすることなどの事情があるため、反対意見も多く実現には至っていません。

ところが、昨年暮れの12月初旬、自民・維新・生活の3党と無所属議員の一部が突如「特定複合観光施設区域整備推進法案」を提出し、カジノ実現への執念を見せており、これに対して日本共産党や社民党など一部の政党がこの動きを警戒しています。

これを推進しようとしていた猪瀬元知事自身はその直後に辞任していますが、この法案提出がなぜこうした時期に提出されたのかは不明ですし、猪瀬知事辞職との関係はよくわかりません、

しかしもしかしたら開催が決定した次期東京オリンピックでの自分の功績をもとに、どさくさに紛れてカジノも導入できると考えていたのかもしれません。

が、その後彼が公職選挙法に違反していたかどうかが捜査されているこの時期において、こうした法案が通過するとは思えませんが、はたしてどうなるでしょう。

新知事となった、枡添要一さんの見識が注目されるところです。

私としては、東京にカジノができ、そこに導入されたスロットマシーンで多くのメダルが取引されるかどうか、といった話題よりも、目下の最大の懸念である、金メダルのほうが気になります。

そろそろ夕飯時も近づき、おなかもすいてきました。今の気持ちとしては、さらに金メダルよりも、キンメダイが食べたいかも…… これから魚市場までダッシュして取ってこようかしらん。

雪の朝に

ロシアは女尊?

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なんということでしょう。

ここは本当に伊豆か?という景色が眼下に広がっています。

これでもだいぶ融けたのですが、昨日の朝には我が家の目の前の道路は完全に雪で陥没。苦労してクルマを出したのですが、それでもウチの車が四輪駆動でスタッドレスを履いていたから出せたのであって、同じ別荘地内では、当分買い物にも行けないお宅もかなりありそうです。

しかも、この降雪の影響なのか、伊豆市周辺ではあちこちで停電が発生しているようで、昨夜我が家でもここへ引っ越してきて初めて2時間ほど停電しました。

また、昨日もそうでしたが、今朝も防災無線で、伊豆市から中伊豆方面へのバスは終日運休だとのお知らせがありました。その他の路線でも今日もまだ運休しているダイヤも多いことでしょう。

中伊豆にあるリハビリ温泉病院に今、骨折した母が入院しているのですが、今日、そこへ辿りつけるかどうか、心配です。

あちこちで除雪車が引っ張りだこになっているようですが、もともと伊豆はこれほど大雪が降るような場所ではなく、除雪車そのものの台数も限られているようです。当分伊豆の交通網は混乱したままでしょう。回復するのは明日以降でしょうか。

この連休を利用して、伊豆方面へのお出かけを予定している方、くれぐれも道路情報に気をつけるとともに、冬用タイヤをお持ちでない方は、チェーンをお忘れなく。

さて、テレビをつけてみると、折りも折り、そこにも同じ雪国の風景が広がっています。先週末から始まったソチオリンピックです。彼の地の絶景とともにいろんな競技の様子をほとんどのテレビ局が放映しています。

内も外もまるで雪だらけ。まるで別世界に送り込まれたようで、不思議な気分です。

ところで、今日2月10日は、奇しくもちょうどこのオリンピックを開催しているロシアと日本が戦った日露戦争が勃発した日です。

この戦争は当時の大日本帝国と帝政ロシアとの間で、朝鮮半島と満洲南部の覇権をめぐって発生したものです。

ちょうど110年前の今日、すなわち1904年(明治37年)2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされました。しかし、この宣戦布告の二日前の8日には、すでに戦闘は始まっており、現中国の旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)が行われていました。

戦闘は、その後、旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦と続き、クライマックスともいえる日本海海戦において日本の連合艦隊がバルチック艦隊を打ち破り、これをもってトータルでは日本が辛くも勝利するという形で終了。

両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年(明治38年)9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

その後、ロシア帝政は、革命によって滅び、共産党によるソ連邦の形成と崩壊後、現在のロシア連邦に落ち着いており、今回のオリンピックも、プーチン大統領が率いるこの新生ロシアの旗のもとに史上初めて行われた冬期オリンピックということになります。

開催地であるソチは、黒海に面したヨーロッパでも有数のリゾート地です。スターリンをはじめ、歴代のソビエト連邦やロシア連邦の指導者たちの別荘があり、プーチン大統領もソチの別荘で毎年のように夏期休暇を過ごしているそうです。

また、イタリアの政治家シルヴィオ・ベルルスコーニ氏も休暇を過ごすために毎夏ソチを訪れているといいます。雄大なカフカース山脈の他にも、美しい砂浜や温暖な気候による亜熱帯風の植生に恵まれ、帝政時代に築かれた美しい公園やスターリン時代の様々な建築物などは、休暇を過ごす人々に大変人気があるといいます。

ところで、日露戦争当時、ロシア帝国はこのソチが面する黒海に「黒海艦隊」という艦隊を持っていました。日露戦争勃発後、これを遠く極東まで廻航させ、日本海海戦に参加させようという計画がありました。

しかし、当時日英同盟を結んでいたイギリスなどの圧力により、黒海艦隊はボスポラス海峡を通過することができず、帝政ロシアは結局この計画を断念。それでもなんとか、黒海から軍艦を出そうとしましたが、結局商船に偽装した仮装巡洋艦数隻を脱出させることしかできませんでした。

このため、黒海艦隊は日本海海戦には参加できず、そのせいもあってヨーロッパにあったロシア艦船で日本海海戦に参加できたのは、北欧のバルト海にあったバルチック艦隊だけになりました。

その勢力が減った分、日本はこの戦闘を有利に展開することができましたが、黒海艦隊がもし参加していたら、日本海海戦における日本の圧勝はなかったかもしれません。

無論、この海戦において日本海軍は圧倒的な兵員の錬度と卓越した戦術を持っており、また下瀬火薬というこの当時世界最高威力をもった炸薬を入れた砲弾を使用しており、それらの総合力によってこの勝利に寄与したということは歴史家の多くが認めるところでしょう。

日本海海戦によって、バルチック艦隊はほぼ全滅し、ロシアは敗北を認めてポーツマス条約の締結に合意しましたが、この敗戦はその後の帝政ロシアの衰退を招く要因となり、ロシア革命を許すことにもつながっていきました。

日露戦争において、黒海艦隊はとうとう出動することはありませんでしたが、この革命後にもたいした出番はなく、その後のソビエト連邦時代に至るまで、ほぼ無傷のまま大部分が温存されていきました。

革命前のロシア帝国時代には、この黒海艦隊の兵員は多くがウクライナ人で占められており、1917年の時点で構成員の80 %を占めていたそうです。このため、ロシア革命後では黒海艦隊は長らく独立状態に置かれ、反ロシア共産党派についた時期があったといいます。

しかし、その後ソ連邦に接収され、1965年ころからは段階的にその割合は減ぜられ、ロシア人の割合が上昇していきました。

ソ連邦になって、アメリカとの冷戦期に入ってからは、この黒海艦隊にもようやく出番が回ってくるようになり、しばしば黒海から地中海へ艦艇を継続的に進出させて、アメリカ海軍やイギリス海軍を牽制する役割を果たすようになりました。この時期、米英海軍艦艇との接触事故も何度か発生しています。

やがて、このソ連邦も1991年に改革派のボリス・エリツィンが台頭するようになり、連邦を構成していた各共和国は、そろって連邦を脱退する中、ソ連邦は解体の方向に向かい始めました。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は事実上崩壊します。

その過程において、黒海艦隊の主要基地であったセヴァストポリ軍港が、ソ連邦から独立したウクライナの領地になったことから、艦隊の帰属が宙に浮くことになりました。

セヴァストポリというのは、ソチから西へ500kmほど離れた黒海のほぼ中央に突出するクリミア半島の先端に位置する町です。現ウクライナの首都は内陸にあるキエフですが、このセヴァストポリはこれに次ぐ中堅クラスの都市です。

黒海艦隊の帰属をめぐっては、長らく新生ロシアと独立したウクライナの二国間で協議が進められた結果、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれました。この協定により、黒海艦隊は2017年までセヴァストポリに駐留することが認められ、ロシア海軍はウクライナ領に基地を残すことに成功しました。

しかし、その期限もあと3年と迫っており、その存続は注目を集め始めているところです。ただ、現在のウクライナは親露派の地域党党首、ヤヌコーヴィチ氏に率いられており、おそらくはこの地での黒海艦隊の残存は決定的でしょう。

この黒海艦隊が縄張りとする黒海は、言うまでもなく、ロシアにとってはヨーロッパ各国からの侵略を防ぐうえでは最重要な海であり、そこに駐留する黒海艦隊もまた非常に重要な軍隊です。

しかし、黒海艦隊はソ連邦の崩壊後、十分なメンテナンスが行われなかったことから、老朽化が進んでいるといわれ、約40隻の在籍艦艇中、稼動状態にあるものは20隻程度でしかないといわれます。

しかも、黒海の東部には、ロシアから独立後もかつての旧主国との争いの絶えないグルジアがあります。2008年8月のような武力紛争が再び発生した場合には黒海艦隊が海上優勢の確保や輸送を担わなければなりません。

このためロシア海軍は今後10年間で黒海艦隊の近代化を重点的に進める予定で、フリゲート艦や潜水艦、大型揚陸艦を含む20隻を新たに配備して、兵力増強を図る予定だといいます。

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ここで、この黒海の地理的な側面をみてみましょう。

黒海はヨーロッパとアジアの間にある内海であり、マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がっています。黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、グルジアです。

どちらかといえば、日本人には馴染の薄い地域といえますが、その南岸のアナトリア半島を「小アジア」と呼んでいるように、ここから東へ向かうシルクロードを通じて、かつてはアジアともつながりの強かった地域です。

面積は約44万平方キロで、これはイベリア半島に位置するスペインとほぼ同じくらいの面積になります。意外なことに、その最大水深は2206mもあります。

「黒海」の名称はその黒味を帯びた海水に由来します。ちなみに地中海はトルコ語でアク・デニズ (白い海)というそうです。

その名の由来である、黒い色をした海水は、硫化鉄によっててきているとする説と、地中海よりも豊富な微小藻類によるとする説があり、なんとまだその成因ははっきりわかっていないそうです。

いずれにせよ、その層水は充分な酸素と栄養塩を含むため豊かな生態系を擁しており、さかんに漁業も行われています。漁獲高は年25万トンから30万tに上り、その3分の2がアンチョビで、残りはアジやイワシ、ニシンやチョウザメなどです。

これらの魚介類は日本にも輸出されており、スーパーなどで、「黒海産」の表示のある食材を見たことがある人も多いでしょう。無論、沿岸諸国にとっても豊富な海の幸を与えてくれる良好な漁場です。

今回のオリンピックが行われるソチだけでなく、あちこちにリゾート地があり、ヨーロッパ人にとっての別荘地帯でもあります。黒海沿岸全域が温暖な気候であり、とくに北岸のクリミア半島やソチ東部の山側にあたるコーカサス地方などはとくに過ごしやすい気候を持っています。

このうち北岸を中心とするロシア領では、ロシア帝国時代からリゾートとしての開発が進められ、特にソヴィエト連邦時代には、ヨーロッパなどの他国への渡航が難しかったこともあって、唯一のリゾート地として急速に開発が進みました。

特に大きなリゾート地であったヤルタ(現ウクライナ領)では、1945年にヤルタ会談が行われ、第二次世界大戦後の世界の枠組みが決められました。ヤルタのほかにも、ロシアやルーマニア、ブルガリア、グルジア領内には多くのビーチリゾートが存在します。

ソチもまた、ヤルタと並ぶ大リゾート地です。現職大統領であるプーチン氏のお気に入り地でもあり、ここが冬季オリンピックの開催地として選ばれたのも、「私がソチを五輪の地に選んだ」と公表するほど、プーチン氏がここにぞっこんであったためと言われています。

黒海南部のアナトリア半島の大半はトルコの領内になります。その南西には、トルコの経済、文化、歴史の中心地である、イスタンブールがあり、この地には古くには東ローマ帝国、オスマン帝国の首都があって栄えました。このことから、黒海地域の歴史はここを中心に作られたといっても過言ではなく、かつ、何回もその支配者が変わったことから、非常に複雑な歴史事情を持ちます。

現在オリンピックが行われていたソチも、かつてはオスマン帝国の領土でしたが、その衰退に伴い、現在のロシアに吸収されたという経緯を持ちます。

黒海には、これよりはるか昔の、紀元前7世紀ごろから、ボスポラス海峡を通ってギリシア人が入植し、沿岸各地に居住地を形成して植民を始め、タナイスやパンティカパイオンといった植民市が各地に建設されていきました。

これらの植民市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人から穀物や奴隷を購入し、ぶどう酒や武器などのギリシアの産物を取引して力をつけていきました。そして紀元前5世紀にはこれらの植民市を統合して「ボスポロス王国」が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていきました。

ボスポロス王国は、クリミア半島を中心にギリシア人の植民者と現地人らによって形成された国家で、黒海交易の中心として古代世界で繁栄を誇りました。

現在イスタンブールのど真ん中を通る、ボスポラス海峡の名は無論、これに由来しています。

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えますが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放ちました。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされています。

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この黒海の歴史をさらにこのギリシャ神話時代にまで遡ると、この当時黒海は、「アマゾン海」と呼ばれていたようです。黒海沿岸を含むギリシャより北方の未開地には、女性だけの部族「アマゾーン」がいたという伝説があり、現にトルコ沖の黒海には「アマゾン島」という小さな島が現存するそうです。

アメリカに本拠を持つ、世界最大のネット通販サイト、Amazon.comもまた、このアマゾンに由来しています。もっとも、こちらは、その創業者が南アメリカのアマゾン川にちなんでつけた社名です。

アマゾン川の流域にも女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたという説があるほか、その初期の探検者のスペイン人が、ギリシア神話の女人族アマゾネスのことを知っていて、そう命名したという説があります。

ちなみに、Amazon.comは、最初、創業者のジェフ・ベゾスによってCadabra.com(カタブラ)という名前をつけられていたそうです。この cadabra はおまじないの、「アブラカダブラ」から採られたものです。ところが、開業直前にベゾフ氏が、このベンチャー計画についてある弁護士と電話で話した際、この弁護士が、” What? cadaver? “と聞き返したそうです。

実はこのcadaverは、英語で死体の意味であり、ベゾフはこの電話によって以後この名前に嫌気がさし、名前をアマゾンに変更した、という逸話が残っています。

この黒海周辺に住んでいたとされるアマゾーンという女部族の話は、実はほとんど伝説に近いものです。ギリシャ神話が起源だともいわれており、神話上では、軍神アレースとハルモニアーという女神を祖とする部族であるとされています。

彼等(彼女ら)が住む黒海沿岸は、当時のギリシア人が住まう地中海地方よりも、かなり北方に位置しました。ギリシア人たちはこの未開の黒海沿岸地域のことを多少の侮蔑を含めて「アマゾン」と呼び、現在のトルコ付近であるアナトリア半島や北アフリカに実在した母系部族のことも「アマゾーン」と呼んでいたようです。

ただ、あまりにも古い話で歴史的な根拠も希薄であり、ほぼ神話に近い話と考えてよいでしょう。

が、神話上では、アマゾーンは馬を飼い慣らし弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していたとされています。人類で最初に馬を飼い慣らした部族、ということになっており、その後アジアにも広がる、騎馬民族の元祖だともいわれています。

アマゾーンは弓の他にも、槍や斧、半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中でも、多くの戦闘に参加しています。

基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わりました。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷としたといい、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたともいわれています。

古い絵画には、ウクライナを中心にその昔活動していた遊牧騎馬民族である「スキタイ人」によく似た姿で描かれているようです。現代のレオタードのような民族衣装を着ており、これに近い民族衣装を持つ、現在のウクライナ人の先祖とみなす人もいるようです。

この「アマゾーン」の語源ですが、弓などの武器を使う時に左の乳房が邪魔となることから切り落としたため、否定語である”a” と「乳房」の意味の “mazos” の組合わせをもって、「乳無し」と呼ばれたことからとされています。

このように、アマゾンは、かなり勇ましい部族だったようです。このため、現在でもアマゾーン、アマゾネスといえば、強い女性を意味する言葉としてよく使われます。

1973年に製作されたイタリア・フランス・スペインが合作で作った、イギリスのテレンス・ヤング監督作品の「アマゾネス」もこの伝説に着想を得て作られたものです。

そのストーリーですが、最強の女武族アマゾネスの女王がギリシャ軍の男兵士と恋仲になり、やがて二人は結ばれます。

しかし、元々このギリシャとアマゾネスは敵対関係にあり、かなわぬ恋は、やがて、両国の武力紛争には巻き込まれていきます。アマゾネスは、ギリシャ軍に対し宣戦を布告し、こうして血で血を洗う戦いが始まりますが、戦力豊富なギリシャ軍の前に女戦士たちは次々と倒れていきました……

この映画では、異性同士のからみだけでなく、アマゾネス同士のレスビアンの関係も生々しく描写されていて、大ヒットはしなかったと思いますが、この当時結構話題になったような記憶があります。

ギリシャ神話においては、黒海沿岸にトロイアという国があったことになっており、ここをギリシャ人が侵略したことき、アマゾーンはトロイア側についています。この戦争は「トロイア戦争」と呼ばれており、「トロイの木馬」の話で有名です。

ギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、トロイアは巨大な木馬を作って人を潜ませ、わざと負けてこれを敵に戦利品として持ち帰らせた後、夜中に木馬から兵士を出して敵をやっつける、というあれです。

このときトロイア側についたアマゾーンもまた女王ペンテシレイアに率いられ勇敢に戦いましたが、女王はギリシャの英雄アキレウスに討たれてしまいます。

このときアキレウスは死に際のペンテシレイアの美しさを見て恋に落ち、彼女を殺したことを嘆いたという話がギリシャ神話にもあり、上の映画アマゾネスもまた、こうしたギリシャ神話をネタにしたのでしょう。

ところで、このアマゾネスの話にもあるように、古来から実は女は男より強い、ということがよく言われます。男尊女卑ではなく、女尊男卑というのは、古代の日本では当たり前であり、古くは邪馬台国を治めていたのは卑弥呼という女性であり、その後も女性天皇は頻繁に歴史に登場しています。

現代においては、性差別に関しては「男性が加害者、女性が被害者」という構図で語られることが多いものです。が、「男性差別」ということも、最近はよく話題として取り上げられるようになりました。とはいえ、男性差別は女性差別に比べてとかく矮小化されて扱われることもまた多いようです。

が、真に男女平等を達成しようとするならば、男性差別は女性に対する性差別主義と同じくらい真剣に受け止めなければならないというような、まことしやかな主張もあって、インターネットなどでは男性差別に関する議論で大いに盛り上がっているサイトもあるようです。

こうしたサイトで取り上げられている、男性差別の具体例としては、例えば、メイル・レイプ、逆レイプというものがあります。女性が男性に暴力を加えるというもので、これは実際にそういうことがあるかどうかは別として、こうした暴力を取り締まる法律としては、刑法第177条に「強姦罪」というものが規定されています。

ところが、この法律では、女子に対する強姦の規定だけしか存在せず、逆に男性がレイプされた場合にはこの法律は適用されません。

このことは、国連の自由権規約委員会も指摘しており、この法律の定義の範囲を拡大して、性差別是正の観点により男性に対する強姦も重大な犯罪とするよう、同委員会は日本政府に勧告しているといいます。

このほか、助産師については、保健師助産師看護師法では助産師資格についての規定がありますが、第三条にて資格対象を女性のみに限定しており、男性差別の観点から疑問が呈されています。

また、離婚時の親権をめぐっても、子供の父母が離婚し親権をめぐって訴訟が提起された場合、特段の事情がないかぎり、父親側より母親側に子供の親権が与えられることが圧倒的に多いといわれています。

このほかにも、遺族年金の支給対象において妻は条件がないのに対し、夫は55歳以上との条件があり、また、配偶者を亡くした際に支給される遺族基礎年金においては、子を持つ妻が支給される対象とされ、子を持つ夫は支給の対象とされません。労働災害、遺族年金についても同様です。

さらに、児童扶養手当についても、2010年7月までは児童扶助手当が母子家庭には支給されますが、父子家庭に対しては児童扶養手当が支給されませんでした。がこれは、父子家庭を不当に排除しているとの批判もあり、2010年8月に児童扶養手当法が改正され、父子家庭に対しても支給されるようになりました。

教育の世界についても男性差別はあるといいます。

例えば、九州大学は、2012年度の理学部数学科の入学試験後期日程において「女性枠」を導入しようとしていましたが、男性差別であるとの批判が多数寄せられたため、2011年5月19日に導入の取りやめを決定しています。

また、日本の大学に男子校は存在しないのに対し、女子大学は多数存在します。私立に女子大が多いほか、国立でもお茶の水女子大学・奈良女子大学を始めとして、2校の公立4年制大学があり、このほか2校の公立短期大学が女子大学です。

ちなみにウチの奥様は、このひとつの広島女子大学を卒業しています(だからなんなのよ、おまえも入りたかったんかい、という話でもありますが……)。

このほか、必ずしも教育現場ということではありませんが、図書館においても、女性専用・優先席が設置されている公立図書館があります。台東区中央図書館、荒川区南千住図書館、江東区東雲図書館、葛飾区お花茶屋図書館等がそれであり、「不公平だ」などと男性から抗議が寄せられているといいます。

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このほか「女性専用」と聞いて真っ先に思い出すのが、電車での「女性専用車両」でしょう。東京や大阪で導入されているケースが多く、都営地下鉄、大阪市営地下鉄などの主に都市鉄道において、女性専用車両が導入されています。

この女性専用車両についてのブーイングは結構多いようです。

インターネット上のブログ等では「男女平等なら男性専用車両を作るべきだ」といった意見も少なくないようで、女性専用車両の導入が広まるにつれて、「女性専用車両に性差別を感じる。導入はやめて欲しい」など、女性専用車両に対する疑問や不満の意見もみられるようになっています。

こうした声は、最近とかく話題にされることの多い痴漢の「冤罪」や、増えているといわれている「痴女」をなんとかして防いでほしい、という観点からわきあがってきているようです。

一方では、列車や電車に続いて、ほかの交通機関でも「女性専用」を作ろうという根強い動きがあります。

空の交通においても、全日本空輸 (ANA) が、2010年3月1日より国際線の中型機と大型機に女性専用のトイレを設置すると発表したのは記憶に新しいところです。「体調不良時」には男性も使用できるとされていたようですが、だからといって女性専用トイレと同時に男性向けのトイレを設置するわけではありませんでした。

このことに海外のメディアが飛びつき、報道されて話題になり、男性差別に当たるとの指摘や男性専用を求める声が多数寄せられるようになったため、ANAはその反響の大きさに驚き、結局この女性専用トイレは廃案となりました。

現在においても、ANA国際線のシートマップには女性専用化粧室なるものは存在しないようです。

こうした交通だけでなく、巷の飲食店を中心とした店舗でも男性差別は起こっています。実際、一部商店には、女性のみの入店を許可し、男性の入店を制限・禁止しているものがあるそうで、例えば、2006年4月、JR北海道函館駅内に、「16時までは女性のみ」入店をうたったパスタ店が開店しました。

ところが、「男性差別では」という批判が寄せられるようになり、その後、開店2か月後の2006年6月には、批判が寄せられたことを背景として女性専用の時間帯は14〜16時にまで縮小されました。このときJRは「お客の要望に応えた」と説明しており、その後さらに女性専用時間を縮小したところ、逆に来客数は増えたといいます。

東京都新宿区にあるタカノフルーツパーラーもまた、昨年の4月までは、全時間帯において男性は女性同伴でない限り利用できなかったそうですが、最近では、5:00PM以降なら男性のみの利用もできるというふうに規定を改めていいます。

DV(ドメスティックバイオレンス)もまた、本来であれば女性から男性への暴力とされ、「夫または恋人などの男性から女性への暴力」と説明される場合が多いものです。

ほとんどのDVが男性から女性への暴力と考えられる場合が多く、被害者の95%が女性と主張する者も少なくないといいます。ところが、平成17年度に内閣府が実施した「男女間における暴力に関する調査」によると、DVの被害を受けた経験がある女性は33.2%、男性は17.4%だったそうです。

このことにより、「圧倒的多数」の被害者が女性というのは誤りであることが明らかになり、確かに男性が女性にDVすることのほうが多いものの、その逆もありきだ、という認識が世に生まれようになってきています。そういえば、一昔前に、「猟奇的な彼女」といった韓国コメディー映画も流行りましたね。

このほか、痴漢もまた、DVとはいえないかもしれませんが、暴力行為には違いないものです。先の女性専用車両も、主として痴漢行為の抑制を目的に導入された制度です。

とくに都内や府内では、痴漢被害を受けた際に恐怖心や大きなショック・不快感などを受ける女性が急増しており、中には同一人物から繰返し痴漢に遭う人もいて、このほか集団痴漢などといったケースも多いといいます。

咎めた側が逆に返り討ちに遭うケースなどまであり、このため、これを見かねた運営会社側が「緊急避難場所」や「駆け込み寺」としての防衛的機能を持たせるために導入したのが、「女性専用車両」です。

その歴史は意外に古く、1912年(明治45年)1月31日に東京の中央線で朝夕の通勤・通学ラッシュ時間帯に登場した「婦人専用電車」が最初とされています。もっとも、この「婦人専用電車」は、この当時、男性と女性が一緒の車両に乗るのは好ましくないという国民性を反映して導入されたものであり、短期間で廃止されたそうです。

戦後も1947年(昭和22年)5月に、やはり中央線で「婦人子供専用車」が登場し、同年9月からは京浜東北線にも連結されましたが、すぐに姿を消しました。

ところが、2000年代に入ってから、車内における迷惑行為や痴漢行為が社会問題として大きく取り上げられるようになり、明瞭な犯罪として意識されるようになっていきました。

このような状況を背景に、2000年(平成12年)12月、京王電鉄京王線で平日深夜帯に新宿駅を発車する下りの急行・通勤快速の最後部の車両に「女性専用車両」が試験的に導入されました。

この導入は好評であり、国土交通省も痴漢被害を減らす効果が期待できると評価したことから、京王以外の電鉄各社にも急速に普及していきました。

女性専用車両がなかった時代、痴漢による被害者は心理的にも物理的にも安全な逃げ場がなかったのに対し、この女性専用車両の導入は女性たちに安心感をもたらすようになりました。

最初に導入した京王電鉄によれば、痴漢の被害は、通勤時間帯に多いものの、次いで深夜での発生率が高く、こうした夜間では被害者が泣き寝入りするケースが多かったといい、この対策として女性専用車両は安全な避難場所として高く評価されたこともその普及の要因でしょう。

ところが、痴漢行為には、どうしても「冤罪」がつきまといます。また、痴漢被害は女性専用車両に乗れば防げますが、すべての女性客が女性専用車両に乗っている訳ではない以上、一般車両における痴漢の冤罪を完全に防ぐことはできません。

このように、痴漢防止として女性専用車両導入を図ることが、実は男性側にとっての冤罪防止には何の役にも立っていない、という意見もあり、誰でもが冤罪被害者になりうる可能性を指摘して、「男女平等の社会に反する」と不公平感を訴える意見もあるようです。

現に台湾では女性専用車が男性差別であるとされて3ヶ月で廃止になっており、このため日本においても、痴漢の捜査方法の改善が模索されるとともに、テレビなどでどうやったら痴漢とみなされるか、といったことが周知されるような風潮が出てきました。

実際に冤罪が認められるケースも多くなり、また、こうした冤罪の防止効果のない女性専用車両の導入だけを推進することについては、「かすかな違和感」を覚えるという女性も出てきており、一部の男性の「陰湿」さを指摘しつつも、「女性の隔離によってこうした一部男性のゆがんだ品性そのものが改まるとの保証はない」とする女性評論もあるようです。

あげくは、男性のみが利用できる車両、すなわち男性専用車両を導入すべきであるとの主張を行う人さえいて、これに加え、男女の乗車車両を分離すべきであるとの極端な意見を吐く輩もいるようです。

が、私としては、そんなもん、気持ち悪くて乗れません。夏の暑い日に飛びこんだ車両に乗っていたのが全員おっさんで、汗をかき拭き車中に汗臭い匂いが充満するとかいったシーンを、想像するだけでぞっとします。

女性専用車両には反対の立場をとりながらも、老人などより広い交通弱者のための専用車を求める中庸的な意見もあるようですが、それなら私も納得できます。「女性専用」とはせず、「弱者専用」でいいのではないでしょうか。が、そこがオカマやオナベの溜まり場になるのも考え物ですが……

この女性専用車両というものは、海外でもあるのかな、と調べてみたところ、イスラム教やヒンズー教では男女の同席が忌避されるため、これらの宗教の信者の多い国では、戒律に基づき女性専用車両(男女別車両)を設定している例があるようです。

例えば、パキスタンでは、「男女同席せず」が原則であり、女性専用車両にしか女性客は乗車しないため、他の車両は事実上「男性専用車両」となっています。また、イランでも、首都テヘランの地下鉄に女性専用車両が先頭と最後方のあわせて2両に終日設定されていて、エジプトのカイロ地下鉄にも女性専用車両が設定されているそうです。

このほか、韓国、台湾、フィリピン、タイ、インドネシア、インドなどのアジア諸国ではのきなみ女性専用車両、あるいはバスなどが導入されているようです。が、なぜか欧米諸国では少ないようです。

ヨーロッパでもイギリスとチェコぐらいであり、しかも列車や電車ではありません。イギリスでは、1995年から首都ロンドンに「会員制女性専用タクシー」というのがあるそうで、普通のロンドンタクシーは黒色なのに対して、これは車体をピンク色にしていて、運転手も女性が務めているそうです。

ただし、利用時は会員が電話で自宅や勤務先などに呼び出会員制なので、会員以外の女性は利用できず、駅や空港などでの客待ち営業や市中での流し営業も行っていません。ロンドンでは、無許可で営業している、いわゆる白タクが多く、こうしたタクシーでは女性客が乱暴されたり、金品を奪われる事件が多発したのが登場したきっかけだそうです。

じゃあ、今オリンピックが行われているロシアは?ということなのですが、ここにもあります。

長距離列車に酔客対策として「女性専用コンパートメント」が設けられているそうで、このほか、首都モスクワには2006年8月よりロンドンと同様に車体がピンクに塗られた女性専用タクシーがあり、これは「ローズタクシー」と呼ばれているそうです。

ロンドンと同様に運転手は女性が務めていますが、女性だけしか乗車できないロンドンの場合と異なり、父親・夫・恋人・息子など、何等かの女性の近親者が同伴していれば一緒に乗車できるそうです。

このローズタクシーは、イギリスのピンクタクシーを見習って導入されたそうですが、もともとは日本の交通機関における女性専用サービスを見ての発案だといいます。

思わぬところで日本は「女尊男卑」の習慣をロシアに輸出していることになります。

さて、そのロシアの彼の地において日本はいくつメダルが取れるでしょうか。今夜も眠れぬ夜が続きます……

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免許とウソと…

2014-1100348もうすぐソチオリンピックが始まります。

時差マイナス5時間ということで、あちらでは夕方でも日本では真夜中過ぎに行なわれる競技も多いと思われ、また寝不足になりそうな予感です。

地球という回転している天体に住んでいる以上、太陽の当たるところと当たらないところがあるのは当然であり、時差ができるのは仕方ないと重々承知はしているのです。

が、それなら「オリンピックタイム」なるものを設けて、これに合わせて各国ともオリンピック期間中だけ時間をこれに合わせて仕事も生活もする、とかやったらどうかと思うのですが、ダメでしょうか。

もっとも、オリンピックなどのスポーツ競技が好きな人ばかりではなく、ウチの息子君のようにまるで興味がない、といった朴念仁もいるので、さすがに地球人全員にこうした仕組みを強制するのは難しいでしょう。

スポーツをやらない人はこれに興味がなく、ほかの趣味にしたって自分がやったことのないものに愛着がわかないのは仕方のないこと。

幸い、嫁のタエさんはスポーツ観戦が大好きなので、今回も二人して夜なべでオリンピックを観戦することにしましょう。寝不足になって、日夜逆転状態が続くことは覚悟するしかありません……

ところで、この息子君が、一昨日からひょっこり我が家に帰ってきています。今は春休みで、この空いた時間を利用して、浜松にある自動車学校で合宿免許を取りたいというので、なけなしの金をはたいて、これをOKしたところ、晴れて先日の路上教習をパスしたのです。

合宿が終わったので、通っている千葉の大学に帰る途中、我が家に立ち寄ったというわけなのですが、今までクルマの話題を振ってもとくに関心をみせなかったところが、今回は道交法に関する話や、クルマの性能などの話で親子して盛り上がることができ、また新たなコミュニケーションの糸口を見つけた感があります。

それにしても、なぜ千葉から浜松なのよ、ということなのですが、これは最近は少子化で18歳人口減少したり、若者の車離れが顕著になっており、これに伴い、都市部を中心に各教習所間の競争が激化しているためのようです。

道路交通法によって公安委員会の指定を受けて営業する、いわゆる「指定自動車教習所」などを中心に、これまで「殿さま商売」的な営業を続けて、サービス業としての自覚が持てなかったこれらの教習所が、顧客に対する態度の悪さなどがツケとして回ってバタバタと倒産している、という背景があります。

こうした指定校以外の、いわゆる届出自動車教習所や指定外自動車教習所では、自らが検定や仮免許試験を実施が認められていないのに対し、指定校では公安に認められているため、自らが検定や仮免許試験を実施することができます。

受験生にとっては、いちいち運転免許試験場まで行って仮免許技能試験や仮免許学科試験、本免許技能試験を受ける必要がないため、免許を取るために大幅な時間節約になります。

しかし、そうしたサービスを自前でやることができるという「特典」の上にあぐらをかいてきた結果、熱心にサービス・接遇、料金のディスカウントに取り組んできた他の未指定の届出校や指定外教習所に客を盗られ、競争が激しくなってきました。

このため、地方部の不採算校では「合宿教習」を売りにして「短期間で免許が取れる」をうたい文句に、東京などの関東地方で免許を取りたがっている学生に積極的に声をかける、という作戦に出るところも多く、我が息子君もこれにひっかかった、というわけです。

多くの自動車教習所では普通自動車においては、おおよそ60時間程度の講習カリキュラムが組まれています。通常は、これらを自宅から日通いで数週間から数か月の期間で習得していくのですが、合宿免許では寮やホテル、旅館といった宿泊施設に泊まりこみながら教習を行うため、短期間で免許が取れる確率が高くなります。

集中して、免許取得に取り組むことで効率性が高まるためであり、ウチのような愚息であっても、15日間で路上試験をパスすることができました。ただ、地方で路上試験を受けたため、最終的な免許取得は、千葉に帰って地元の運転免許センターで最終筆記試験に受かってから、ということになるようです。

しかし、こうした指定校が行う合宿教習も、宿泊施設などの管理や仲介業者への手数料負担がこれを経営していく上で重くのしかかってきており、厳しい経営環境で回復の見込みが立たないこともあって廃業するところが2000年頃から目立ってきているということです。

それにしてもよく思うのですが、日本の運転免許取得は、どうしてこんなに難しいのでしょう。学科や路上に多大な時間をかけ、しかも「仮免許」なる段階を経て免許をとらねばならず、時間や段取りだけでなく、一般に教習所に通えば通常は、免許取得まで20万円ほども費用がかかります。

私も息子と同様に大学時代に免許を沼津で取得しましたが、その後アメリカへ留学していた折には、彼の地のライセンス取得に挑みました。しかし、「挑む」というほど難しいわけではなく、簡単な教習本を理解する程度の英語力があれば、だいたい誰でも免許を取得できます。

筆記試験は、多言語での試験問題が用意されており、最近は日本語で受験できる試験場もあるようです。合格に必要な視力も0.5以上とゆるく、取得年齢は州によって異なるのですが、ほとんどの州が16歳以上でOKです。

日本と異なり、助手席に指導者が乗車していれば、全く運転をしたことがない人が「練習中」と表示して路上で練習してよいところもあり、実技試験も日本よりかなり簡単です。

私はフロリダのゲインズビルというところで、この州の免許を取ったのですが、このときの路上試験の試験官は太った優しそうなオバサンでした。

数百メートルの距離の行き来と、各所のコーナーを回る程度の簡単ルートを走り、この間、ウィンカーの出し方やスピード制限の標識を遵守しているか、などのチェックがありますが、日本の路上試験のように、前を行く車との車間距離を開けなかっただけで試験に落ちた、といったような厳しさはありません。

おそらく、10分か15分ほどの路上試験だったと思いますが、あっけなく合格し、免許証もその日のうちに交付されたように記憶しています。

今はもうこのとき取得した免許は失効していますが、英語もかなり堪能になった現在は、再び同じチャレンジをしても簡単に取得できるでしょう。が、もしかしたら失効した免許を持参すれば、復活させてくれるかもしれません。

それほど、アメリカでは免許の取得が簡単ですが、これはやはり国土が広大で、その移動のためにはクルマが不可欠であり、免許は誰にでも取らせる、という方針があるからでしょう。

日本のように国土が狭く、クルマも人もひしめいているようなところでは、交通事故も起こりやすく、免許取得についても厳しくせざるを得ない、というのは分かる気もします。それにしても、免許取得に多額の費用のかかる現在の制度は、もう少しなんとかならんのかいな、と思います。

最近では、個人で免許取得のレッスンを格安にやってくれる人もいるようです。無論、未指定にはなりますが、費用が安く抑えられ、こうした人達に教習を頼む人も増えているようです。自動車教習所もこれを見習って、システムをさらに見直していってほしいものです。

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ところで、こうした日本の免許の取得が難しい難しいというのですが、自衛隊にも、軍の車を運転するために隊員を訓練する「自衛隊自動車訓練所」というのがあり、ここの試験はもっと難しく、厳しいそうです。

基本的に、自衛隊に入ると、誰もが大型自動車免許取得を推奨されるそうで、このため、一般人なら通常は、普通免許を取得してから大型免許取得へ進みますが、自衛隊の場合は普通免許等を持っていなくても、いきなり大型自動車免許の取得に進むことができます。

自衛隊自動車訓練所とは、そんな自衛官に大型免許を取らせるための自動車訓練施設であり、自衛隊の駐屯地または訓練場(演習場)内に開設されているため、無論、履修対象は自衛隊員や自衛官に限定されます。また、輸送科職種に配属された隊員にはここへの入校は必要不可欠とされているようです。

道路交通法においても、きちんとその存在が認められており、指定自動車教習所と同じ扱いを受けるのでこの訓練所には運転免許試験場があり、ここで学科試験などを受けることができます。また、免許取得費用は国費で賄われるため、自腹を切る必要はありません。

ただし、自衛隊に入ったら誰でもここへ入れるかというと、そうではなく、一定の審査基準を経てではないとここへは入れません。

例えば各部隊毎に、年間計画でここへ入校できる受入枠が決まっており、配属先部隊によって異なるようですが、職務上車両を取り扱う隊員であることは無論、2任期以上かつ継続的に部隊で勤務する意思を持つ者や、中隊長等の伝令業務を行った経験のある隊員などでなければ入校させてもらえないことも多いといいます。

さらに、民間の自動車学校と異なり、入所前には、運転適性検査があり、これを受験して運転適性が「適」または「準適」、かつ車両運行適性が5段階中「3」以上の者のみに入校が制限されるそうです。運転適性が「不適」や車両運行適性「1~2」の者は当然ながら事故を起こす危険性を考慮し入校は一切認められないという厳しさです。

民間では適性に関係なく免許取得が可能ですから、こうして入口で足切りが行なわれるのは自衛隊ならではのことです。

なぜここまで厳しくするのかは自明でしょう。自衛隊の車両というのは当然火器を搭載したものも多く、有事には公道を走らなければならない場合もあります。こうした特殊車両を扱うためには、それなりの技術が求められ、法規にも詳しくなくてはなりません。

卒業時には公安委員会試験合格基準をはるかに上回る運転技術を要求されるため、その技能訓練もかなり厳しいものだそうです。自衛隊車両による加害事故事案を発生させぬよう、その運転技術等に関しては指導員によるマンツーマン指導が行われ、徹底的に身体に運転技能がたたき込ます。

その基準について行けない者に関しては、同期学生の運転を同乗する形でよく観察を命ぜられて運転技術を向上するよう徹底的に訓練されるといい、このほか学科試験においても、厳しい指導がなされます。

仮運転免許取得の際の学科試験及び卒業時の免許センターにおいては、学科試験において一人も不合格者を出さない事を目的とするなどの高いハードルを掲げているそうで、試験受験基準はなんと100点満点が要求されます。

それよりも低い点数しか取れなかった者に対しては外出の制限と課業外の自己鍛錬を命ぜられるそうで、仮に試験センターにて不合格者が発生した場合は、当該学生だけでなく同期学生や次期入校者にもペナルティが科せられ、さらに指導が厳しくなるケースもあるということです。

富士の山麓には自衛隊の演習場があり、御殿場方面へ出かけると頻繁にこうした自衛隊自動車訓練所を卒業した自衛隊員が運転する車両に出くわします。公道をのろのろと走り、邪魔だな~といつも思うのですが、彼等にすれば、民間車両への加害事故を起こさないよう、細心の注意を払いながら運転をしているのです。

普通の公道だけでなく、災害時に土砂や流木、がれきで埋もれるような地域にも自衛隊車両は派遣されます。こうした危険地域においては、高い運転技量が求められるがゆえに厳しい運転教習がなされるのであり、一般の運転手よりもはるかに高い運転技術を持っている彼等には、もっと敬意を払ってしかるべきです。

なので、ノロいからといって、こうした自衛隊車両をあおったりするようなことはくれぐれもしないようにしましょう。

2014-1100314

ところで、この項を書くために各国の運転免許証の基準などをいろいろ調べていたら、面白いエピソードに出くわしました。

アイルランドでのお話なのですが、このアイルランドという国は、1990年代から「ケルトの虎」と呼ばれるほどの経済成長が進み、旧ソビエト連邦の崩壊が進む中、かつての東側諸国から多数の労働者を受け入れるようになりました。

ポーランドもそうした東側諸国の一員でしたが、あるときから、増える一方のポーランド移民の中で、「プラヴォ・ヤズディ」なる人物が、アイルランド国内において頻繁に道路交通違反をしている、という事実が浮かび上がってきました。

ヤズディはアイルランドの国内各地でスピード違反や駐車違反など、およそ50件の交通違反を繰り返していたといい、これに手を焼いていたアイルランド警察は当然のことながら、この人物の周辺を洗い出し始めました。

ところが、このプラヴォ・ヤズディなる人物は、取り締まりのたびに住所を変えていたといい、これを不審に思ったアイルランド警察は、この人物についてさらに詳しい調査を行いました。

その結果、意外な真実が明らかになりました。実は、Prawo Jazdy とはポーランド語で「運転免許証」という意味であることがわかったのです。

交通違反を犯したポーランド人運転手から提示された運転免許証はポーランド政府が発行したものでしたが、実はこの運転免許証の冒頭に書かれている「運転免許証」を意味する“ PRAWO JAZDY”を取り締まりにあたった警察官が運転手の名前と誤認していたことが判明したのでした。

つまり、交通違反事例として、50件近く検挙されていたポーランド人というのは、そのほとんどが、別人であり、同じ過ちを別々の警察官が繰り返し、その都度、プラヴォ・ヤズディなる人物が警察のコンピューターに登録されていた、というわけです。

事の真相を知ったアイルランド警察は、さすがにこれを恥ずかしいと思ったのか、警察の内部メモとしてまとめただけで、その事実を公表しませんでした。

そのメモには、2007年6月の日付が入っており、「プラヴォ・ヤズディという人物を創り上げてしまったことはきわめて恥ずべきことだ」と書かれていたそうです。

ところが、この「怪人物プラヴォ・ヤズディ」の一連の経緯をアイルランドのある新聞がどこからか聞きつけ、2009年2月にその誌上ですっぱ抜いたことから、このアイルランド警察の失態は世の人々に知られるところとなりました。

ここぞとばかりにその後他紙もこの事件に飛びつき、警察を揶揄しましたが、その中の記事のひとつには、「警察がたった2つのポーランド語の単語を知ってさえいれば、プラヴォ・ヤズディという悪名高いポーランド人ドライバーが出現することはなかっただろう」と書いてあったそうです。

このアイルランド警察の大失態は、2009年度のイグノーベル賞文学賞を受賞しました。

イグノーベル賞というのは、アメリカのサイエンス・ユーモア雑誌「風変わりな研究の年報(Annals of Improbable Research)が1991年に創設したもので、その共同スポンサーは、ハーバード・コンピューター協会、ハーバード・ラドクリフSF協会など、名門ハーバード大学卒業生の息のかかった面々です。

同賞には、工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞などの部門があり、毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて各賞が授与されます。

このアイルランドの事件は、このとき「文学賞」としてアイルランド警察に授与されており、その受賞理由は、「アイルランド国内で頻繁に交通違反を繰り返した乱暴なドライバーであるプラヴォ・ヤズディに対して50回以上違反切符を書き続けたこと」に対してだったそうです。

その授賞式は毎年10月、ハーバード大学のサンダーズ・シアターで行われるそうで、ノーベル賞では式の初めにスウェーデン王室に敬意を払う儀式があるのに対して、このイグノーベル賞では、「スウェーデン風ミートボール」に敬意を払う儀式が行われるのだとか。いったいどんな儀式なのでしょう。

受賞者の旅費、滞在費は自己負担で、式のスピーチでは聴衆から笑いをとることが要求されるそうですが、この2009年の授賞式にアイルランド警察が恥を忍んで出席し、笑いをとったかどかまでは、わかりません。

このほか、このスピーチにおいては、制限時間が来るとぬいぐるみを抱えた8歳の少女が登場し「もうやめて、私は退屈なの」と連呼しますが、この少女を贈り物で買収することによってスピーチを続けることが許されるそうです。

どこまでも人を食ったような授賞式の内容ですが、こうしたユーモアというよりも、馬鹿さ加減はアメリカ人特有のもので、彼等はとかくこういうアホなことをやりたがります。

私もアメリカ留学時代、アメリカ人のパーティに呼ばれて行ったとき、女性のパンティを頭から逆さにかぶって陽気に踊る複数の男子学生に出くわし唖然としましたが、彼等はともかく、こういうアホなことが大好きです。

この授賞式のフィナーレでは、舞台に向かって観客が紙飛行機を投げつけるそうで、多くの紙飛行機がさながら紙ふぶきのように飛び続けるといいます。しかも、その後始末の掃除のためのモップ係はハーバード大学の物理学教授が例年勤めているとか。

ところが、2005年に限っては、この掃除は別の人がやったそうで、それは、このモップ係のロイ・グラウバー教授が、この年にノーベル物理学賞を受賞し、そちらの式典に出席していたためです。

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このように、ノーベル賞をパロディ化したイグノーベル賞ですが、その授与には実際のノーベル賞科学者のような学識の高い人も大勢参加するなど、ある面、非常にまじめな賞です。

脚光の当たりにくい分野の地道な研究に人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという点が評価されている一方で、だがしかし、賞の性質上、この受賞を不名誉と考える人も多いようです。

イギリス政府のある主任科学者などは、「大衆がまじめな科学研究を笑いものにする恐れがある」と、イグノーベル賞の運営者に対しイギリス人研究者に今後賞を贈らないよう要請したといいますが、この主張に対し、イギリスの科学者の多くからは反発・反論が起こったそうです。

このイギリス政府の要請にも関わらず、要請が行われた1995年以後もイギリス人にはイグノーベル賞が贈られ続けているということで、なんとも懲りないことではあります。

日本人も多数受賞していて、1992年に医学賞として「足の匂いの原因となる化学物質の特定」という研究に対して授与されたのを皮切りに、毎年のように日本人研究者・科学者の中からイグノーベル賞受賞者が出ています。

記憶に新しいところでは、2002年に、犬語翻訳機「バウリンガル」の開発によって、「ヒトとイヌに平和と調和をもたらした業績に対して」ということで、玩具メーカーのタカラなどに、平和賞が贈られています。

このほか、2005年には、「34年間、自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析したこと」に対して「栄養学賞」が、今度の都知事選に出馬している「ドクター中松」氏に贈られています。

このほか、ウシの排泄物からバニラの香り成分「バニリン」を抽出した研究(2007年化学賞)とか、自身の話した言葉をほんの少し遅れて聞かせることでその人の発話を妨害する装置、「スピーチジャマー」(SpeechJammer)を発明したことに対して(2012年音響賞)とか、人を笑わせるものが続出しています。

昨年の2013年は、「たまねぎに多く含まれているアミノ酸を反応させると、涙を誘う「催涙物質」が作られ、目を刺激し、涙が自然と出てくる仕組みになっている研究、が認められ、ハウス食品ほか東大・京大教授に化学賞が贈られました。

また、「心臓移植をしたマウスにオペラの「椿姫」を聴かせたところ、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという研究に医学賞が、順天堂大学教授らに贈られています。

今年のイグノーベル賞としては、私的には、先日聾唖者を偽って作曲も他者が行ったことが暴露された作曲家さんに「音楽賞」を差し上げたいと思うのですが、どうでしょう。

1994年には、「地震はナマズが尾を振ることで起こるという説の検証」を7年間にわたって研究していたとして、日本の気象庁が「物理学賞」を受賞しましたが、のちにこれはウソだということがわかり、イグノーベル賞は取り消される、という「事件」が発生しました。

ナマズによる地震予知を、地震の専門家である、気象庁が本気になって検証している、というところが評価されたのでしょうが、これについては、実際には、東京都水産試験場が1976年~1992年にわたって「ナマズの観察により地震予知をする」研究を実際に行っていたものでした。

気象庁が行っていた研究だとの誤報がアメリカ側にまことしやかに伝えられていたためのようです。

作曲家Sさんの件も誤報である、と信じたいところですが、事態は悪い方向へと向かっているようです。まさか本当に、イグノーベル賞を受賞するとは思えませんが、多くの人々を感動させた名曲に関わった人、ということである程度評価してもいいのでは、と擁護する向きもあるようです。

文字を書くことが困難、あるいは翻訳作業などが必要な外国出身者が本を出版する際、事実上の代筆担当者として口述筆記のために、ゴーストライターが起用される事もあるそうです。

が、音楽はごまかしがききません。ぜひ、真実を明らかにしてもらい、必要があるならば、受けるべき罰を受けて欲しいと思います。

エッ?このブログも、実は誰かにゴーストライターを依頼しているんじゃないかって?

それはありません。細々とつつましやかに暮らしている伊豆のヒゲオヤジが毎回苦労して書いているものです。けっしてイグノーベル賞に推挙するなどという暴挙に出ないよう、お気をつけいただきたいと思います。

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