望東尼と雅子と文さんと

2014-1030242ここ伊豆に住むようになってから時々思うのですが、ここの景色は郷里の山口によく似ています。とくに山間の田園地帯などをクルマで走っているときなど、ふと、もしかしてここは本当は山口の田舎ではないかと思えるようなことがよくあります。

伊豆にはあまり高い山がなく、一番高いのは万三郎岳など天城山の1000m級の山々であり、山口もまた1300mほどの寂地(じゃくち)山が最高峰です。ほかは数百メートルの低い山々ばかりであり、これらの低山の合間を縫って里が切り開かれるため、あまり広大な田畑は存在しません。

従って、山口には棚田が多く、ここ伊豆でも低山と狭い田畑の組み合わせがいたるところに見られ、こうしたことが似たような風景を形成しているのではないかと思われます。

似ているといえば、変わった地名が多いことも似ているように思います。伊豆では、修善寺もそうですが、そのまま読めば「しゅうぜんじ」のはずなのに、なぜか「しゅぜんじ」であり、このほか、田牛(とうじ)、八幡(はつま)、原保(わらぼ)といった、なぜそう読ませるのか首をかしげてしまうものがたくさんあります。

山口もまたそうで、柳井市の伊陸(いかち)や、周南市の金峰(みたけ)、下関市の特牛(こっとい)、豊田町の八道(やじ)、長門の向津具(むかつく)などなど、本当にムカつくほど難解な読み方であり、素直に読ませてはくれません。

実家のある山口市内からほど近い街である、防府に(ほうふ)もそうで、普通に読めば「ぼうふ」なのに、なぜ「ほう」と読むようになったのかよくわかりません。

この防府の町の中心にある防府駅の北口を出て、商店街の中を歩いてさらに北へ1kmほど歩くと、そこには防府天満宮の赤いお社が見えてきます。防府天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並び日本三天神と称されており、また、日本でもっとも古い天満宮でもあります。

この防府はその昔、三田尻(みたじり)もしくは松崎と呼ばれていました。菅原道真は、大宰府に左遷される際、ここ三田尻港から流刑地である福岡に出港予定でしたが、時化のため数日をこの地で過ごしました。その際、この地がことのほか気に入ったと伝えられており、これがご縁で、道真の死後、ここに天満宮が祀られるようになりました。
 
三田尻と呼ばれていた時代にはまだ防府という呼び方はされておらず、幕末の頃の防府天満宮は、「松崎天満宮」あるいは「宮市天満宮」と呼ばれていました。勤皇の志士たちによって篤く信仰され、中でも維新の立役者として知られる高杉晋作もまた、熱心なこの天神の信者であり、頻繁に参拝していたようです。

晋作は、その晩年肺結核を患い、慶応3年(1867年)5月17日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。享年若干27。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、このとき、晋作ら勤皇の志士を助けていた野村望東尼にみとられて亡くなったと伝えられています。

野村望東尼は、長州の人ではなく、福岡藩の人です。福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚しましたが、すぐにこの夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりして幕末の志士たちの活動に貢献しました。
 
望東尼は、勤王の歌人でもあり、勤王の志士を多く匿った罪で、今の福岡県糸島郡の沖にある「姫島」に流され投獄されたこともありました。そのことを知った高杉晋作は、福岡藩脱藩の志士6名を送り込んで彼女を救出し、下関の白石正一郎邸に匿いました。

白石正一郎というのは、下関で万問屋を営んでいた豪商で、尊皇攘夷の志に強い影響を受け、高杉晋作などの長州藩の志士たちを資金面で援助していた徳人でした。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていたことがあります。

晋作は、世に名高い奇兵隊を組織するとともに、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として長州軍を指揮するなど活躍しましたが、その直後に肺結核のため療養生活を余儀なくされ、下関の北にある桜山という場所に小さな家を建て、野村望東尼や、愛人 おうのの看病による療養生活を送りました。

しかし、日に日に病状は悪化し、ついに死に瀕したとき、有名な辞世の句、「面白きこともなき世を(に)おもしろく」を詠みましたがそこで力尽き、代わりに東尼がこの下の句を引き継いで、「すみなすものはこころなりけり」と詠みました。

晋作はこの下の句を聞いていたかどうかもわからないほど衰弱していましたが、望東尼がこれを詠んだあと、「おもしろいのぉ~」といいながら亡くなったと伝えらえています。

望東尼は、晋作の死を看取ったのち、一年後、薩長倒幕軍の船出を見送るために、桜山からここ三田尻の地に移住しました。その際に、必勝「王政復古」を祈願し、天満宮に断食しながら7日間参拝しました。望東尼はまた、この7日間の参拝の際、天満宮に一日一首歌を奉納したといい、この歌の碑文が同天満宮の境内にあります。

「もののふの あたに勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え」

ところが、望東尼は、この7日間の参拝と断食による無理がたたり、病死してしまいます(慶応三年 1867年)。61歳でした。防府駅の南東側に県立の防府高校という学校がありますが、この学校のすぐ南側に野村望東尼終焉の地であることを示す記念碑があります。

道路を挟んで丁度その向かい側には、大正時代に移設された望東尼の終焉の宅も移設されて残っており、「史跡 野村望東尼終焉の室」という表示がなされています。

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この望東尼の終焉の地や終焉の宅がある場所のすぐ西側には、「桑山」という小高い丘があり、公園として整備されていて、防府市民の憩いの場となっています。ここからは三田尻港が遠望でき、なかなか眺めの良いところです。

望東尼の墓は、この桑山の南麓にあり、その東側の山麓から少し離れたところが終焉の地という位置関係です。この終焉の地から桑山方面に向かって少し歩いて上るとお地蔵さんがたくさん並ぶ道があり、ここに大楽寺というお寺さんがあります。

この寺の案内板には、「望東尼香華所」という表示があり、境内には墓所こそないものの、本堂に望東尼の位牌が安置されていて、「防府望東尼会」の主催で毎年供養が行われているそうで、この寺をはじめ、この地域の人々が望東尼を当地の偉人として大切に扱っていることがわかります。

実は、この寺の墓所には、30年ほど前に亡くなった女優の夏目雅子さんの墓があります。

えっなぜ?と意外に思う人も多いと思いますが、これはご主人であった伊集院静氏が防府市出身であり、彼の家の菩提寺がこの大楽寺だったためです。

この伊集院静という名前を本名だと思っている人も多いかもしれませんが、これは作家としてのペンネームです。実は伊集院さんは、日本に帰化した韓国人2世であり、帰化前の名前は、「趙 忠來(チョ・チュンレ、조 충래)」といいます。

1950年に防府市で生まれ、のち日本に帰化した際、本名を西山忠来(にしやまただき)に変え、その後作家として有名になったため、ペンネームのほうが広く知られるようになりました。

前述の山口県立防府高等学校を卒業しており、その後進んだ立教大学では、文学部に所属して日本文学を学び、卒業後は広告代理店に勤め、その後CMディレクターになりました。広告代理店時代に最初の夫人と結婚し、二児をもうけていますが、1980年に離婚。

その翌年の1981年、「小説現代」に「皐月」を発表し「伊集院静」の名前で作家デビュー。しかし、このペンネームは実は自分で決めたのではなく、勤めていた広告代理店に入社予定になっていた別の女性ライターにつけられるはずの名前を与えられたものでした。

入社後、本人は元の名である「趙」で作家活動を続けていくつもりでしたが、ある時、スポンサーへのプレゼンテーション時にこの「趙」の名を使おうとしたところ、この広告代理店の社長が「いや、それではダメです。これでやってください」と渡された名刺に印刷してあったのが「伊集院静」でした。

この社長は、新人が入ってくるたびに、本名では仕事をさせないという妙なポリシーを持っていたといい、この「伊集院」という名前の元ネタは、大和和紀作の漫画「はいからさんが通る」の登場人物からとったものでした。ただし、原作では「静」ではなく、伊集院「忍」であり、これはこの漫画のヒロインの許婚の少尉の名前でした。

その後、「機関車先生」などのヒット作に恵まれ、故郷の防府市を舞台とした自伝性の強い「海峡」なども著しました。1984年、かつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールとして人気を博していた夏目雅子さんと一緒に仕事する機会があり、これをきっかけに交際を始め、7年後に再婚。

しかし、夏目さんはその後急性骨髄性白血病を発病し、1985年9月11日に27歳の若さで亡くなり、この地に埋葬されたというわけです。

この夏目さんの墓のある大楽寺の墓所また眺めの良い場所であり、ここからも防府市街が見通せます。墓には、戒名として「雅月院梨園妙薫大姉」という名が刻まれ、その脇に本名である、西山雅子とともに、「芸名夏目雅子二十七才」とも刻まれており、今でもファンだった人が東京などからわざわざ墓参するため、いつも花が絶えないといいます。

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伊集院さんはその後1992年、「受け月」で直木賞を受賞し、同年8月に現在の夫人の女優篠ひろ子さんと再婚。現在は仙台市妻と共に在住のようですが、仕事柄、東京でホテル住まいのことも多く、また取材での国外滞在も頻繁にあるため、仙台にいるのが1年のうち1ヶ月位の年もあるといいます。

自らのエッセイには、東京は生涯のほとんどを過ごしているにもかかわらずなぜかなじめず、また故郷・防府に対しても「安堵はない」と書き、また仙台に至っては、犬が中心の家の片隅で仕事と競輪をやっているだけと書いているそうです。

こうした放浪癖のある人であるためか、結婚前も仕事をするための住処として、鎌倉にほどちかい「逗子なぎさホテル」を下宿先としていたそうで、ここは、後の妻・夏目雅子さんとの愛をはぐくんだ場所でもあり、結婚前の7年間をここで共に過ごしています。

夏目さんの死後、伊集院さんはしばらく表舞台から姿を消し、喧嘩やギャンブル、酒におぼれる生活を送ったといいますが、同じく一番身近だった人をなくしている私にもその悲しみはよくわかります。

ところで、この夏目雅子さんが眠る大楽寺には、野村望東尼が高杉晋作の死後防府で過ごした際に、並々ならぬ加護を加えたある人物と、その妻の墓もあります。

楫取素彦(かとりもとひこ)といい、明治時代に活躍した官僚、政治家でもあり、晩年その功績を認められて男爵の爵位を授かっています。初代の三田尻宰判管事(市長)も務めており、明治9年には、初代群馬県令(県知事)となり群馬県の発展の礎を築きました。望東尼の墓の建立にも尽力しており、お墓の裏には、楫取素彦の撰文が刻まれています。

楫取は幕末には、維新の志士でもあり、山口では、望東尼を自宅に住まわせたこともあり、その活動の中で知り得た薩長連合倒幕軍の情報を望東尼に教えたりもしていました。望東尼を福岡から防府の地に導いたのも楫取だといわれています。

楫取はまた、一つ年下だった吉田松陰とも無二の親友だったといわれています。松下村塾の創立にも関わっており、こうした深い関係から、松陰の2番目の妹「寿(ひさ)」を貰って結婚しており、この寿と死別後は、さらに寿の妹であり、松陰の末妹でもある「文」と再婚しています。

実は、この文こそ、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインのモデルです。「花燃ゆ」は、大河ドラマとしては、第54作であり、昨年末の2013年12月にその制作発表が行われました。

吉田松陰の吉田の性は、婿養子として入った先の家の苗字であり、元々は「杉寅之助」と言いました(通称は寅次郎)。このため、妹も本名は「杉文」ということになりますがが、のちに久坂玄瑞と結婚して久坂姓を名乗ることになり、その後さらに、楫取素彦と再婚後は改名して「楫取美和子」と称したため、生涯で3つの名前を持ったことになります。

久坂玄瑞の名は知っている人も多いと思います。松下村塾における松陰の高弟のひとりであり、のちに尊王攘夷運動を牽引しますが、禁門の変(蛤御門の変)で、会津と薩摩連合運に敗れ、自刃しました。

この玄瑞の妻である文役を務めるのは、大河ドラマ初出演となる井上真央さんで、兄である松陰役は伊勢谷友介、久坂玄瑞は東出昌大、楫取素彦役は大沢たかお、という豪華キャストです。

無論、高杉晋作も物語に登場し、その役を担うのは高良健吾ということで、こうしたメインキャストのすべてがこれまでに放送されたNHKドラマの主演・副主演経験者ばかりという、NHKとしても相当気合いの入ったドラマになるようです。

こうした登場人物に加え、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜながら、幕末から明治維新へ向けた激動の時代を描いていくといいますが、現在までのところ、まだこの伊藤以下のキャストははっきりとは決まっていないようです。

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この杉文は、二番目の夫、楫取素彦の妻となったあと、今も防府市内にある華浦幼稚園(現・鞠生(まりふ)幼稚園)の創立のため夫とともに奮闘しており、また後年、素彦が貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられた際、美和子もともに貞宮御付となっており、後半生は夫と二人三脚での「教育」がテーマだったようです。

ほかにもその生涯をみると山あり谷ありであり、かなり激しい一生を送っており、なぜこの人物にNHKが目をつけたのか、その理由がよくわかります。

ただ、吉田松陰の妹というわりには、そのかなりのネームバリューにも関わらずこれまではほとんど知られておらず、また、再婚相手である、楫取素彦もあまり知られていません。おそらくはこの人が群馬県令(県知事)になったということを、群馬県民でも知っている人は少ないのではないでしょうか。

ところがこの楫取素彦が群馬県令に在任中には、今年世界遺産登録が決まっている、富岡製糸場が完成しており、楫取はその建設とその後ここに勤めることになる女工たちの教育にも深くかかわっており、このほか現在の東京大学農学部、筑波大である「駒場農学校」などの旧制教育機関の設立にも尽力するなど、かなりの活躍をしています。

おそらくNHKとしては、ドラマ前半には松陰ゆかりの人物たちをとりまぜながら、維新のドラマティックな時代変遷をとりあげつつも、後半ではこうした明治という新しい時代における創成期の教育界における数々のエピソードを取り上げていこうと考えているに違いありません。

富岡製糸場の世界遺産登録が決まったことも、このドラマの企画を後押ししたに違いありません。、

毎年前半では高視聴率を稼ぐものの、回が進むにつれて尻すぼみになりがちな大河ドラマにおいては、後半までいかに視聴者の興味を惹きつけていくかが重要なポイントであり、この楫取美和子という、誰も知らないような地味なヒロインを選んだのも、NHKとしてはそれなりの戦略があってのことでしょう。

美和子が53歳のときには、実姉であり、夫の先妻でもある寿子の息子(つまり美和子にとっては甥であり、義子でもある)「楫取道明」が、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂において、抗日事件により殺害される、という事件も起こっており、こうした教育界における大事件もまたドラマの主筋の中に盛り込まれていくに違いありません。

ただ、松陰の実家の杉家や楫取家、玄瑞の久坂家などの諸家の交わりは非常に複雑で、このあたりの説明が過剰になると娯楽番組としての楽しみがスポイルされる可能性もあるため注意が必要です。

ここでもこのあたりの人間関係のことが少々わかりにくいので、少し整理しておくこととしましょう。まず杉文は、杉寅之助、すなわち、吉田松陰の末妹になりますが。この杉家には7人の子供がいました。

杉家というのは、萩に長らく続いた一族ですが、長州藩での家格は「無給通組」であり、これはかなりの下級武士で、石高も26石という極貧の武士でした。1石=1両と言われており、だいたい1両=2~3万円くらいといわれていますから、年収はわずか50~80万円にすぎなかったことになります。

当然武士業だけでは食っていけないため、農業もしながら生計を立てて7人の子供を養っており、おまけに三男の敏三郎は発声が不自由でした。その兄妹構成は、修道(民治)、松陰、千代、寿、文(美和子)、敏三郎、艶の順であり、艶は文の生後すぐに夭折したため、実際には文が末妹ということになり、これらを更に整理すると以下のようになります。

修道(民治) →長男、杉家を相続 1828?
松陰 →吉田家に養子として出、幕府により斬刑で死亡 1830年生
千代 →長州藩士、児玉祐之と結婚 1832年生
寿(ひさ)→楫取素彦と結婚するも、早逝 1838年生
文(美和子) →久坂玄瑞と結婚するも死別し、楫取素彦と再婚 1843年生
敏三郎 →障害があり、生涯独身だったと思われる 生年不肖
艶 →幼いころ夭逝 生年不肖

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一家の主は、杉常道といい、通称は百合之助。無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として生まれ、文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に同じ萩の下級武士、児玉太兵衛の養女、瀧子を娶りました。

この児玉家というのはもともと杉家と関係の深かった家のようで、細かく調べていないので本当かどうかはわかりませんが、のちに長女の千代が結婚する児玉祐之という人物もこの児玉家の人かもしれません。ただ、山口には児玉姓の人は非常に多く、ほかにも明治の陸軍大将で日露戦争で活躍した児玉源太郎などがいます。

妻をめとって家督も相続した常道は、農業をやりつつも武士としての務めも真面目にこなす人物だったようで、公的には記録御次番役を拝領し、その後呉服方なども務めています。記録番は下級の事務官であり、呉服方は役人のユニフォームを商人から買い入れる役目であり、いずれにせよ、上級官僚ではありません。

この常道には大助という弟がいましたが、常道が家督を継いだことから、この弟は他家へ養子に出されました。ところが、この大助は若くして死去してしまい、山鹿流兵学師範家でもあったこの養家の吉田家(家禄57石)の家督を継ぐものがいなくなったことから、これを次男の寅之助(松陰)が相続することになりした。

このとき、松陰はわずか5歳でしたが、このときから杉寅之助ではなく、吉田寅之助と名乗ることになります。また、常道には、大助の下にもうひとり弟がおり、これを文之進といいましたが、彼もまた、大助と同様に養子に出されていました。

ただし、入った家は、家格では杉家より上にあたる大組士で、40石取りの玉木正路(十右衛門)が主でした。文之進はこの玉木家の養子となって家督を継ぎ、玉木文之進と称するようになりました。

松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家でしたが、実の叔父にあたるこの玉木文之進が相続した玉木家も山鹿流兵学に熱心で、このため文之進も兵法に非常に明るい人でした。

実は、のちに高名となる松下村塾は、この玉木文之進が創始者であり、のちにこの塾を引き継ぐことになる幼少期の松蔭に山鹿流兵法だけでなく、その他の学問についても厳しく伝授しました。

その教育方法は、かなりのスパルタ教育だったようで、その厳しさについては、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に細かく描かれていますが、一例としては、松陰が膝を揃えて文之進の講義を聞いていたとき、頬に蚊が止まったのを払おうとしただけで、文之進に思いきり殴り飛ばされたといったエピソードなどがあります。

剣術の稽古などでも、松陰が失神するまで、徹底的にその技を鍛えこんだといい、そのあまりに厳しい教育に、母の瀧子が、「寅(松陰のこと)、いっそのこと死んでおしまい」と言ったといったことなども司馬さんの小説に書かれています。

そこまでして玉木文之進は松陰に「私利私欲を捨てさせる」ことを徹底したために、後に多くの維新の志士たちに影響力のある人物に成長したのだ、と言った意味のことを司馬さんは書いておられます。

こうした厳しい教育の成果もあり、松陰は若干11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義ができるほどの英才として成長します。

この講義の出来栄えが見事であったことにより、その後長州藩内でもその天才ぶりが評判となり栄進するとともに、その後過激な尊王攘夷運動に邁進していきますが、子ども時代の松陰の生活は叔父の厳しい指導はあったものの、その日々は父や兄とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読をするという穏やかなものだったようです。

このほか、農作業のあいまに頼山陽の詩などを父が音読し、後から兄弟が復唱していたというエピソードも残っており、夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませていたといい、貧しいながらも教育熱心な一家だったことがわかります。

夏の御用門

ちなみに末妹の文は松陰より13歳も年下であり、松陰が玉木文之進からスパルタ教育を受けているころにはまだ生は受けていません。のちに松陰が物心がついたころ、常道の四女として誕生しましたが、その名付け親は松陰の師でもあった玉木文之進で、「文」という名前も玉木が自分の名からとって彼女につけたものです。

その後、長女の千代は児玉祐之に嫁ぎ、次女の寿はこのときまだ小田村伊之助と名乗っていた楫取素彦のもとへそれぞれ嫁ぎます。寿は文より5歳年上で、千代は1832年生まれで松陰より2つ年下でした。

その後、松陰は尊王攘夷を実現させるべく奮闘しますが、下田沖で黒船に密航しようとしたところを幕府廷吏に捕えられ、安政元年(1855年)から生家預かりとなり、常道宅に蟄居する事となりました。

このとき松陰は父や近親者に「孟子」や「武教全書」講じたりして過ごしましたが、その翌年の安政2年(1856年)は処分が一旦解け、このとき、叔父の文之進から松下村塾の主宰の座を譲り受け、その後ここで多くの維新の志士たちを育てていくことになります。

その翌年の安政4年(1857年)の12月、文も久坂玄瑞と結婚します。時に玄瑞18歳、文15歳でした。当初は「人間到る処青山有り」の漢詩で有名な、勤王の僧侶・月性が文を桂小五郎の妻に推したこともあったそうですが、兄の松陰が玄瑞の才を高く評価していたため、最終的にはこの松陰の強い勧めにより縁談がまとまりました。

このとき、この縁談を玄瑞に持ち込んだのは松下村塾の年長者であった中谷正亮という人で、玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしました。これに対して中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、その勢いに押され、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したといいます。

このことから、この文ことのちの楫取美和子は、平凡な容貌の女性だったのではないかと思われ、現存する明治時代になってからの晩年の写真からも往時の美形を想像させるような面影はありません。なので、美人さんの評判の高い井上真央さんがこの美和子を演じるというのは、ちょっと歴史考証的には無理があるといえるかもしれません。

この文の結婚2年後の、安政6年5月(1859年)、松陰の罪が確定して江戸護送となると、父の常道もその責を問われて藩職を罷免され、その直後松陰は斬刑に処されました。享年30(満29歳没)。

辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」であり、これもまた高杉晋作の辞世の句とともにかなり有名です。

常道は本来松陰に家を継がせるつもりだったようですが、この処刑により翌年、長男の修道に杉家の家督を譲っています。ところが、悲劇は更に続きます。このころ文の夫となった久坂玄瑞は、京都を拠点に江戸や各地で尊皇攘夷運動を続けていましたが、元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)において自害してしまいます。

文と玄瑞の間には子供がいなかったため、姉の寿と、このころまだ「小田村伊之助」と呼ばれていた楫取素彦の子、すなわち文にとっては姉の寿の子で、甥にあたる粂次郎(のちの道明)が久坂家に入り、養子となって久坂家を継ぐことになりました。

そしてこのあと、未亡人となった文は、長州藩最後の藩主となった毛利元徳の長男興丸(後の毛利元昭)の守役などを勤めていましたが、楫取素彦に嫁いでいた姉の寿が亡くなったことから、素彦と再婚しています。

この再婚話もなぜそうなったのかについては、興味深いところですが、NHKの「花燃ゆ」では、この謎解きも含めてその後の改革の時代をこの二人が力強く生き抜いていく、というストーリーになるはずです。

ちなみに、文の名付け親の玉木文之進は、明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱において、養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で自害しており、おそらくはそのあたりのことも、このドラマの中で描かれていくことでしょう。

このほかにも、この吉田松陰の一族に関しては色々面白いエピソードがあるのですが、今日はもう紙面もかなり進んできたことから、これらについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

そろそろ、下田公園のあじさいが満開かと思われます。みなさんもこんな私のブログなど読んでいないで、ぜひこちらにもお出かけください。

夏の朝

メーソンと自由の女神

2014-2893梅雨の晴れ間が続いています。外へ出ると暑いのは暑いのですが、日陰に入ると心地良いそよ風が頬を撫でます。

この上天気に誘われて、先週末からは、伊豆西部を中心に撮影行脚三昧だったのですが、その反動もあって昨日の午後あたりからは少々疲れが出て、ぐったりしておりました。

お天気が良いからと精力的に動くのもいいのですが、そろそろ齢も考えんといかんかな、とか、妙に年寄臭いことを考えてしまう、今日このごろです。

さて、1885年の今日あった出来事を調べてみると、自由の女神像がフランスからニューヨークに届いた、という事実があったようです。

私は若いころ、アメリカのあちこちを旅して回ったことがあり、仕事でも行ったことがあるのですが、なぜかニューヨークだけにはご縁がなく、一度も行ったことがありません。

その昔のニューヨークはまだまだ人種間対立などがあって治安も悪く、犯罪の巣窟とまで言われた時代がありましたが、1990年代までには人種問題もかなり緩和され、犯罪率は劇的に下落していました。

が、私が頻繁にアメリカを訪れていたころにはまだ少々治安に問題があり、ここに行くのがためらわれた、というのがこれまで行ったことのない主な理由です。2001年9月11日には、同時多発テロ事件もあり、ワールドトレードセンターの倒壊で、3000人近くの人が命を落としたことなども思いおこされ、何かと怖い街というイメージがあります。

とはいえ、この同時多発テロは、このことをきっかけに、逆にニューヨークの治安をよくし、その後この街の安全性は飛躍的に高くなってきているようです。

ワールドトレードセンタビルの跡地には、新しいオフィスタワーが建設されており、この地区には、記念博物館も建てられる予定であるそうで、こうした「復興」ムードと安全性の高まりを背景にアジアやラテンアメリカからの新しい移民の波が訪れており、シリコン・アリーのような新しい産業部門も興り、街は活気づいているといいます。

シリコン・アリーというのは、インターネット上の新たなアプリケーションサービス・プロバイダー(ASP)を核としたネットビジネス産業をさします。世界的なインターネット利用者の急増に伴い、電子商取引、音楽配信、ソフトウェア流通 などインターネットを利用した様々なアプリケーションサービスが増えています。

今後、インターネット接続の次のステップとなるインターネット応用フェーズでの事業展開には、ビジネスや生活シーンあらゆる局面において国際性が要求されますが、ニューヨークはその基盤となるすべてが整っている街、というわけです。

こうしたこともあってアメリカ国内でも多くの人がニューヨークを目指しており、ニューヨークの人口は、2000年の国勢調査で史上最高に達した以降も増え続けているようです。

自由の女神像は、そんなニューヨークの象徴として、アメリカ合衆国の独立100周年にあたる1886年に完成して以降、世界各地からやってくる移民にとっては、新天地を象徴するものであり続けてきました。

そもそもは、この独立運動を支援していたフランス人達の募金によって、ニューヨーク市に贈呈されたもので、フランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエという人が南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し、両国の友情の証となりうるモニュメントを寄贈しようと提案し、これに対しては多く人が賛同し、多額の寄付が寄せられました。

その設計の依頼は、1874年にラブライエからフランスの彫刻家である、フレデリク・バルトルディに対してなされました。

このバルトルディという人は、自由の女神像以外にはあまり、世界的に有名な作品はあまり多くないようで、日本でもほとんど知られていません。

フランスでもあまり知っている人は多くないと思われますが、その代表作といわれるのは、フランスの中央高地の都市、クレルモン=フェランの中央広場に置かれているフランスの伝承の英雄「ウェルキンゲトリクス」の銅像、あるいは、フランス南東部、リヨン市内西部に位置する「リヨン歴史地区」にあるテロー広場の彫刻の噴水などです。

このほか、自由の女神の構造的な部分の設計にはエッフェル塔で知られるギュスターブ・エッフェルも関わったそうで、像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵「民衆を導く自由の女神」をモデルにしたものだといわれています。

が、バルトルディはフランスの象徴ともいわれる「マリアンヌ」をイメージしたのではないか、ということもいわれているそうです。これは実在の人物ではなく、フランス共和国を象徴する女性像のことで、フランス共和国の擬人化されたイメージです。

フランス革命の際には、「サン・キュロット」とよばれる手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの貧困層が革命の推進力となりましたが、サン・キュロットとは「キュロットをはかないひと」という意味で、キュロットとは当時貴族の一般的なボトムスであった半ズボンのことです。

このサン・キュロットたちを代表するイメージとして、マリアンヌという偶像が創出されたわけですが、しかし、バルトルディが自由の女神のデザインを作った当時はまだ、このマリアンヌの具体的なイメージはフランス国内で定まっていませんでした。

マリアンヌといえばなんとなく女性というイメージですが、サンキュロットの代表としてのマリアンヌは当初は性別すらはっきりときまっていなかったようで、無論、どういった顔をしているかということもイメージされておらず、マリアンヌの顔の具体的なイメージ像は最近になってようやく作られました。

「フランスの顔」とも言える美しい女性の著名人の顔を合成してつくられたそうで、それらの中には、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴといった女優さんや、このほかの有名歌手やファッションモデルさんが含まれています。

その顔は、パリの共和国広場に設置されているマリアンヌ像でみることができ、この像は右手高くかかげて手に月桂樹の枝を持ち、頭にも月桂樹の冠のようなものをかぶっていて、逆にニューヨークの自由の女神をモデルに創作されたことがわかります。

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しかし、バルトルディが自由の女神のデザインをしたときにはまだ、こうしたイメージは固まっておらず、このため、彼は自分の母親をモデルにしたといわれています。ウィキペディアなどに掲載されているバルトルディの顔写真をみると、なるほどその目元などが自由の女神の顔は彼に似ているようです。

ところが、です。このバルトルディは、フリーメイソンのメンバーだったそうで、自由の女神のモデルは、実はフリーメイソンが崇拝している魔女、メデューサがではなかったかとする説もあるようです。

メドゥーサというのは、ギリシア神話に登場する怪物だということは多くの人が知っているでしょう。

元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンと交わった際、その場所が美の女神アテーナーの神殿であったことからアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまいます。この怪物は石のように輝く目を持ち、見たものを恐怖で石のように硬直させてしまいますが、ペルセウスによって首を切り落とされ退治されてしまいます。

もともとは、メドゥーサが「自分の髪はアテーナーの髪より美しい」と自慢したことが、アテーナーの怒りを買ったともいわれており、その美貌は身の毛のよだつような醜さに変えられ、讃えられるほどの美しい髪はその一本一本を蛇に変えられてしまいました。

しかし、この蛇の髪の毛が、自由の女神のあのとげとげの王冠の元デザインだ、というのは少々無理があるので、やはりそのモデルはバルトルディの母親だったか、あるいはドラクロアの絵からモチーフを得たというのが正しいのかもしれません。

ところが、このドラクロアの描いた自由の女神をみると、たしかに右手をあげてそこに旗を持っている姿は確かに似ているのは似ているのですが、ほかには着ている衣装がちょっと似ているくらいであり、モデルというには少々違うのではないかな、という気がします。

一方では、同じくギリシア神話には、ヘカテーという女神がおり、自由の女神像はどちらかといえばこちらに似ています。このヘカテーは「死の女神」と呼ばれ、他にも「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれており、いずれにせよあまりいいイメージの女神ではありません。

「三相一体」といわれ3つの体を持ち、頭も三つあって、それぞれの方向に睨みを利かせた姿でよく現されますが、現存するギリシャ彫刻などを見ると、その姿は自由の女神とそっくりです。同じくとげとげがついた冠をかぶっており、その表情は死の女神だけに少々こわもてですが、これが自由の女神のモデルといわれるとなるほど、とうなづけそうです。

ギリシャ神話では、松明を持って地獄の猛犬を連れ、夜の十字路や三叉路などに現われるそうで、この十字路や三叉路というのは、二つの道が交わる場所であり、これはすなわちあの世とこの世が交わる場所です。

ヘカテーが、三つの体を持つのも、その力が天上、地上、地下の三世界に及ぶことを表しており、これはまた、新月、半月、満月という「月の三相」を意味します。または処女、婦人、老婆という女性の三相や、過去、現在、未来という時の三相を表しているといいます。

中世には、魔術の女神として黒魔術の本尊ともされ、密かに魔女や魔術師達によって崇拝されたといいますから、フリーメーソンのメンバーであったバルトルディは、むしろこちらをモデルとして選んだのではないかと想像されます。

さて、自由の女神のモデルが、ドラクロアの絵なのかメドゥーサなのか、あるいは、ヘカテーなのか、はたまたバルトルディの母親だったのか、については諸説あるものの、ともかくバルトルディがデザインしたものは、最初にその頭部だけがフランスで造られました。

この像を作るためには、資金集めのため「記念像建造キャンペーン」が代々的に催され、ここで得られた寄付と、宝くじによる収入なども合わせて約40万ドルの資金が集まり1878年にパリで開かれた万国博覧会のために製作が進められ、1884年になってようやくその完成を見ました。

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そのときの写真が残っているのですが、頭部と肩のやや上のほうの部分だけが台座に載ったもので、その台座の部分にはトンネル状の入口が設けられ、現在ニューヨークにあるものと同様、頭部の中に階段が作られていて、冠の部分に相当する一番上まで上がると、そこに窓があって、外を見渡せる、というものでした。

現在ニューヨークに設置されているものも、頭部の冠部分は展望台になっており、まったく同じものだということがわかります。その後、パリ万博は終了しましたが、このとき首の部分はいったん解体されました。

首から下の部分は万博には間に合いませんでしたが、その後こちらも部分部分で製作されました。ただし、その後アメリカに搬送されることが決まっていたために組立ては行われず、仮組みで完成され、これでバルトルディがデザインした頭部から足元までの全体ができました。

そして、214個のパーツに分解された女神像はフランス海軍の軍用輸送船を用いてアメリカに運びこまれ、ニューヨークで再度組み立てられることになりました。ところが女神の本体は到着したものの、到着した当時、この像にはまだ台座の部分がありませんでした。

しかも、本体の組み立てのための足場の調達にも事欠き、台座製作のための資金も足りず、このため、台座の部分は改めてアメリカで寄付を募ろうということになりました。

この建設資金集めのキャンペーンは、「ニューヨーク・ワールド」紙社主だった、ジョセフ・ピューリッツァーが音頭をとって行なわれ、この結果、多くのアメリカ国民からの寄付が集められました。

この台座部分の設計はアメリカの建築家、リチャード・ハントによって行われ、その設計図をもとにおよそ1年かけて台座が完成。そしてその上にフランスから持ち込んだパーツを組み立てていき、最終的に自由の女神像の除幕式が行われたのが、1886年10月28日でした。

当日はあいにくの雨でしたが、この当時の大統領、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトルディが除幕したそうです。

この女神像が置かれることになったリバティ島は、この当時はベドロー島と呼ばれていたそうです。ニューヨーク中心部を流れるハドソン川の河口部に近い部分のど真ん中にあり、左岸側のロウワーマンハッタンやブルックリンや、右岸側のジャージーシティー側からも大変よく見える位置です。

像の内部は空洞ですが、その外部は銅製で、緑青(りょくしょう)化しているため、緑色に見えます。像の頭の部分までの高さは約34メートル、台座からたいまつ(トーチ)までの高さは約46メートル、台座の高さは47メートルであり、台座部分も含めた全体の高さは93メートルにもなります。また、総重量は225トンもあるそうです。

右手には炎がメラメラ燃えるたいまつを空高く掲げ、この炎の部分は純金でコーティングされています。また、左手に持っている本のようなものはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命勃発の日である「1789年7月14日」と、ローマ数字で刻印された銘板です。

さらに足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけており、これは全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴しています。女神がかぶっている冠には7つの突起がありますが、これは、7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味を持つといいます。

あらためて、ギリシャに残っているヘカテー像の頭にあるとげとげをみると、5本しかないようで、バルトルディがこれをモデルにしたとすれば、あとの2本の追加は彼の創作ということになります。

台座部分にはエレベータが設置されていて、エレベータの最上階は10階です。10階からは像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていましたが、2009年7月4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開されました。

ただ、再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240人までと制限されたほか、入場には予約が必要となったそうです。

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この台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっており、エマ・ラザラスという詩人が書いた「新しい巨像」という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。

このエマ・ラザラスという人はあまり著名な人ではありませんが、ドイツ系ユダヤ人であり、19世紀末のロシアにおけるユダヤ人迫害から脱し、難民を受け入れるアメリカへやってきたようです。

詩の内容は、「あなたの国の貧困や疲労で息苦しい人たちを私のところに連れてきなさい。
私は黄金の扉のそばでランプを掲げています」といったもので、アメリカを訪れる移民たちの歓迎の光としてランプをとりあげ、これを象徴としたものです。

実際には自由の女神は、ランプではなくたいまつを掲げていますが、実はこの松明の中には灯台のランプが仕込まれる予定だったそうです。しかし、ランプの光が雲に反射して逆に船舶運航の妨げになるということでこの計画は中止になりました。

灯台として使われる予定だったという証拠に、女神像は南側のハドソン川河口にあるニューヨーク港を向いています。

ところで、この女神像の造作は、前述のとおりフランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエがアメリカとフランスの友情の証となりうるモニュメントを寄贈したという「美談」で語られることが多いようですが、実際には、フランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物なのだということもいわれています。

その証拠に、この自由像をデザインしたのもフリーメーソンのメンバーだったバルトルディであり、また台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。

「この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。

グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。」

このフリーメーソンという組織については、謎が多く、この紙面を借りてそのすべてを描き出すことは不可能です。かつその起源についても諸説が存在していて、説明しようとすると煩雑この上ないのですが、いずれの説でも言えることは、300年以上前から欧州にフリーメーソンの支部が存在しており、かなり古い組織であることは間違いないようです。

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一般的に言われている「フリーメーソン」という言葉は略称で正式名称はフリー・アンド・アクセプテッド・メーソンであり、「メーソン」とは「集団としてのフリーメーソンリーに属する構成員」のことを指します。

フリーメーソンは世界各国に会員が600万人以上いると言われており、フリーメーソンに加入するにはフリーメーソン関係者の紹介やフリーメーソンの審査を通過する必要があるようです。

世界中にいるフリーメーソンのリーダーは、会員を管理するために「ロッジ」と呼ばれる支部を世界中に設置しており、さらに、ロッジの上にはグランドロッジがあり、グランドロッジが各地のロッジを管理しています。

フリーメーソンの存在において特に重要なことは、フリーメーソンの歴代会員には歴史上の重要人物が勢揃いしているという点です。アメリカの建国の父である初代のジョージ・ワシントンをはじめ、米国大統領にはメーソンのメンバーは少なくありません。

リンカーンもセオドア・ルーズベルトもフランクリン・ルーズベルトもトルーマンも、最近ではフォードもそうだったといわれており、確認されているだけで、歴代の米国大統領のうち、15人がメーソンだそうです。

アメリカだけでなく、ヨーロッパでも多く、イギリスでは、古くはジョージ4世やエドワード7世、アーサー・コナン・ドイル、ウィンストン・チャーチルなどがおり、このほかウィーン古典派三大巨匠の一人であるモーツァルトなどなど、歴史に詳しい人なら驚くようなメンツが揃っています。

このように多くの著名人が会員となった背景には、フリーメーソンの秘匿性というメリットがあったからだと推測されます。元々はフリーメーソンは宗教的な秘密集会場だったようで、情報の秘匿は徹底していました。このため、時代時代の権力者が秘密の相談や会議をする際にフリーメーソンを利用していたと言われています。

フリーメーソンの会員にはこうした権力者や上流階級や貴族階級の人だけでなく、フリーメーソンに集まっているこうした人達と繋がりを持ちたいがゆえに入会した人も多いようで、いずれもフリーメーソンの秘匿性を利用しようとした人が次々に集い、やがては大きな組織に発展していったようです。

日本でも、戦後の一時期、首相をつとめたこともある皇族の東久邇宮さんがそうだったといわれており、自民党初代総裁の鳩山一郎元首相も会員でした。ほかにも元幕臣で明治時代初期の啓蒙思想家の西周(にしあまね)や、ピューリッツァー賞受賞の写真家、沢田恭一もメーソンだったそうです。

アメリカ独立と建国の歴史そのものが、フリーメーソンリーにサポートされてきたといわれており、だとすれば歴代の大統領の多くがフリーメーソン出身であるということにも何ら不思議はなく、このようにみると、アメリカの象徴そのものである自由の女神がフランスのフリーメーソンによって贈られたというのもまた不思議ではありません。

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自由の女神は、1984年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

世界遺産センター公表の登録基準である、「人類の創造的才能を表現する傑作」「 顕著で普遍的な意義を有する芸術的作品」といった基準に該当したためですが、フリーメーソンのような秘密結社が関わってできたものを世界遺産に登録してしまって本当にそれでいいのだろうか、とちょっと考えてしまいます。

自由の女神の話題はともかく、このフリーメーソンについては、もう少し書いてみたい気がしたのですが、今日はもうだいぶ紙面が進んだので、またの機会に譲りたいと思います。

さて、天気は今週半ばから次第に下り坂のようで、今朝まで見えていた富士山も今は厚い雲に覆われてきました。空気も少し湿ってきたような気さえします。

いまのところ空梅雨の予報はないようなので、これからまた雨の季節に戻っていくのでしょう。昨日負けてしまったサッカー日本代表のギリシャ戦での奮起も期待したいところですが、私としては、9連敗で2位に陥落してしまった広島カープの動向が気になります。

来週のいまごろまでには、サッカーも野球もその行方がかなりはっきりしているでしょう。が、スポーツは観戦するばかりではなく、自分でもやるもの。必ずしも純粋なスポーツとはいえませんが、私も最近遠ざかっているジョギングやサイクリングでも再開して体力をつけ、この後にくる暑い夏に備えることにしましょう。

皆さんはいかがでしょうか。最近スポーツしてますか?

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はやぶさの失敗

2014-2375梅雨だというのに上天気です。サッカーのワールドカップが始まりましたが、それどころではありません。お出かけして、さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴び、緑を満喫しましょう。

さて、4年前の今日、小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに地球に帰還してきました。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)が打ち上げた小惑星探査機で、惑星間移動の切り札として期待される新型イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星イトカワに到達。その表面を詳しく観測し、サンプル採集を試みた後、のべ60億 kmの旅を終え、地球に大気圏再突入しました。

正確な大気圏への突入時間は、2010年6月13日22時51分で、その5分後、管制室でカプセルからの電波信号(ビーコン)が受信され、パラシュートが開いたことが確認されました。

カプセルは23時8分頃にオーストラリア南部の砂漠に着陸したと推定され、着陸予想地点の周囲に展開していたJAXAの探測班は、ビーコンの方向から落下位置を推定し、発熱による赤外線を頼りにヘリコプターによる捜索を行い、オーストリア南部の「ウーメラ」という町の北西約200キロで地球に帰ってきたカプセルを発見しました。

このウーメラ近郊には、127,000平方キロメートルという途方もない広さを持ち、世界最大の地上軍実験・演習施設および航空宇宙施設である、「ウーメラ立入制限区域」があります。
ウーメラ自体もここで実験を行う人達の利便のために造られた町であり、立入制限区域内にはロケットの部品や発射体および不発弾があちこちにころがっている、という場所です。

「はやぶさ」のカプセル帰着の際には、この制限区域内への誘導が画策され、大気圏突入前には制限区域内の道路が2時間にわたり封鎖されましたが、結局はやぶさはここへは落ちませんでした。

はやぶさが落ちた場所は砂漠地帯であり、また、先住民アボリジニーの聖地でもありました。このため、彼等に配慮し、翌14日午前中に改めてアボリジニーの代表をヘリに乗せて再度現場を視察し、了解を得た後、宇宙機構のチームが地上からクルマでカプセル回収に向かいました。

回収にあたっては、カプセルに付いている火薬などの危険物が安全な状態かどうかを調べるなど手間がかかり、この収納作業には約4時間を要しました。そして安全が確認されたのち、無事カプセルは専用のコンテナで現地の拠点施設まで移送され、その後厳重に管理されながら、日本に移送されました。

これ以前にも日本の宇宙機が自力で大気圏再突入に耐えた例はいくつかありますが、回収まで予定通りに成功したのは、このはやぶさ以外では、2003年に回収されたUSERSカプセルだけでした。7年ぶり2度目のことであり、打ち上げ当時はISASと呼ばれていたJAXAが機構変更後に回収した衛星・探査機としては初のものとなりました。

なお、USERSというのは、“Unmanned Space Experiment Recovery System”の略で、地球周回軌道上から 宇宙実験成果物を帰還回収させることができる、日本で初めて実用化された無人の宇宙船です。

宇宙船といっても、小型の衛星サイズであり、USERSとは、この飛行体を宇宙から地球に無事に帰還させるソフトや地上の装置を合わせたシステムの総称です。

その内部にある実験スペースを使用して、一般の企業、大学の研究者が宇宙実験を行うことが可能であり、これにより日本は、宇宙ステーション等の外国の手段に頼らない独自の宇宙実験システムを有し、かつ宇宙実験の成果物を無人で地上に持ち帰ることを可能にしました。

USERS初号機では、宇宙の微小重力環境を利用して、地上では実施することが難しい超電導材料製造の実験が行われました。

その打ち上げは2002年9月であり、H-IIA3号機で軌道上約500kmに打ち上げられ、約8ヶ月後の2003年5月、超電導材料製造実験により得られた成果物を乗せ、大気圏の過酷な環境をくぐり抜けて小笠原東方沖の海域に無事着水し、これまで未知であった超電導材料製作手法の知見を得ることができました。

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はやぶさの成功はこれ以来になりますが、今回の回収では海ではなく、陸上になったのは貴重なサンプルが入ったカプセルを確実に回収するためです。海上では場合によっては時化などによってカプセルが失われてしまう可能性があります。

また、落下地点がオーストラリアの砂漠になったのは、はやぶさを地球外縁部(高度約630 km)への精密誘導した際、その後の軌道修正によって最終的に落下させる地点を、周囲にビルなどの人工構造物が多い地域、あるいは湿地帯やジャングルのようなアクセスが困難な場所にしたくなかったためです。

発見されたカプセルは、オーストラリアのラボに持ち込まれ、クリーンルームで爆発の危険性がある装置と電子回路を取り除いた後、窒素を満たしたポリエチレンの袋に入れた上で内箱に収納。さらに衝撃吸収用のボールを並べた免震箱に入れて熱シールドと共にチャーター機で日本に輸送され、17日深夜に羽田空港に到着しました。

さらに18日にトラックでJAXAの相模原キャンパスの研究棟に搬送された後、カプセルは、CTスキャンによる精密検査が行われ、容器に亀裂などがないことが確認されたのち、昼夜連続で念入りに清掃が行われ、22日に開封されました。

ここまで念入りに清掃をしたのは、カプセル外についているゴミなどの地球上にある物質と、イトカワから持ち帰られたかもしれない貴重なサンプルと混同されないようにするためです。

サンプルが収納されていたコンテナはA・Bの二つがあり、まずサンプル容器室Aが開封されました。この結果、7月5日、JAXAはカプセル内のサンプルコンテナから肉眼で確認できる直径1ミリメートルほどの微粒子十数個と、容器室A内壁から直径10マイクロメートルほどの微粒子2個を顕微鏡で確認したことを発表しました。

その後、カプセル内の内側を舐めるように調べていったところ、発見された粒子の数も増えていきました。さらに電子顕微鏡で観察できるサイズの特殊なテフロン製ヘラを開発し、容器の壁面をこすって微粒子を採取するようにしたところ、さらに10マイクロメートル以下の微粒子を約3,000個ほどを回収することができました。

11月16日までには、A室内から回収した微粒子のうち約1,500個が岩石質であることが判明。ただ、これらの微粒子が地球上で混入したものなのか、本当にイトカワ由来なのかは研究室内での簡易分析だけでは判断できないと思われ、もっと詳細な分析ができる本格的なラボに持ち込む必要性があると考えられました。

ところが、簡易的なX線分光分析の結果だけでも、この持ち帰られた物質の組成が地球上の岩石では見られないものであることがわかり、この物質のスペクトルは「コンドライト」の組成と一致しました。

コンドライトとは、「コンドリュール」と呼ばれる物質を含む岩石質の隕石のことで、コンドリュールは多くの隕石中に見られます。コンドリュールを含む隕石を「コンドライト隕石」と呼び、含まれるコンドリュールの大きさや、含有量でさらにコンドライト隕石は分類されます。

コンドリュールは1500℃から1900℃に達する急な加熱の後、急速に冷却されたことによってできたと考えられており、これらの微粒子同士がくっついて、隕石の母天体である小惑星に成長する以前に、宇宙空間で形成されていた物質と考えられています。

こうした結果から、このサンプルは間違いなくイトカワから持ち帰られたものと確認がとれ、また、これまでも光学観測からイトカワの組成はこうしたコンドライトと近い物質であると推定されていたことが実証されました。この結果は同日に公表され、世間を大いに沸かせました。

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その後、12月7日には、さらにサンプル容器B室が開封されました。サンプルコンテナAでの実績では、テフロン製ヘラによる採取では、微粒子がヘラに付着して取れなくなってしまうということもあったころから、今回は、サンプルキャッチャーをひっくり返して振動を与え、石英ガラス製の円盤に粒子を落下させるという方法が試されました。

この結果、今度は大きなもので300マイクロメートルを超える粒子を回収することができ、翌年の2013年3月15日までには、さらに400個ほどの粒子が回収されました。

回収された粒子は初期分析のため国内の各研究機関に配付された他、NASAや公募によって決まった各国の研究機関にも提供されることが決まり、さらに一部のサンプルは将来、もっと分析技術が進歩したときに改めて分析をすることになり、手つかずのまま保存されることになりました。

結局、各研究機関における粒子の初期分析はその年一杯かかり、翌年の1月になってようやく「SPring-8」での本格的な分析が始められました。SPring-8(スプリングエイト)とは、兵庫県の播磨科学公園都市内にある大型の「放射光分析施設」です。

輝度・エネルギー・指向性などの点で世界最高クラスの放射光を発生させることができ、これをイトカワから得られた微粒子にぶつけて、X線領域の光や、よりエネルギーの低い赤外線を発生させ、これを分析することによって、より詳しい組成を調べることができます。

こうした科学分析だけでなく、一般の犯罪捜査などに使われることもあり、最近では和歌山毒物カレー事件での毒物分析に使われたことがあり、またオウム真理教の事件では警察庁長官狙撃事件の重要人物とされる巡査長のコートやメガネの付着物分析に使用されました

このスプリングエイトによる分析はいまだ続けられており、昨年3月にアメリカで開かれた第42回月惑星科学会議でその分析結果の中間報告が発表されましたが、最終的な報告書上程はまだまだ先になるようです。

しかし、いずれにせよ、はやぶさが地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸し、ここからサンプルを持ち帰ったことは間違いなく、これは大きな偉業であるとして、JAXAは内外に喧伝しています。

ただ、地球重力圏外にある遠くの天体から世界で初めて、サンプルリターンに成功したのは、2006年にカプセルを帰還させたアメリカの彗星探査機スターダストです。とはいえ、スターダストは、天体の固体表面に着陸したわけではなく、宇宙空間に漂うチリを捕獲したもので、はやぶさのように天体着陸はしていません。

また、スターダストの探査は氷の粒をまき散らしながら消えゆく彗星対象でしたが、はやぶさのミッションは、たとえ小さくても「惑星」対象であり、小惑星といえどもここに直接着陸・離陸し、地球に還ってきたというのは、確かにすごいことです。

しかもイトカワは平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、これは、従来の惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体であり、地球を50mのガスタンクに例えると、イトカワは1.3mmの仁丹サイズにすぎません。

またイトカワは楕円軌道を持っていますが、近日点では1億4256万kmも離れており、遠日点で2億5356万kmものはるかかなたにある天体であり、これにピンポイントで着陸を成功させるというのは、ちょっと考えただけでもすごいことだということがわかります。

もっとも、こうした小惑星へのチャレンジは1990年代から始まっており、初の小惑星探査機は1991年にガスプラという小惑星を探査した、アメリカのガリレオでした。また1996年打ち上げの同じくアメリカ発のリニアシューメーカーも小惑星を周回し、軟着陸を成功させました。が、いずれもはやぶさのように帰還はしていません。

従って、小惑星に着陸後、離陸・帰還したということになると、世界初の探査機はやはり、はやぶさということになります。

しかし、です。世界に誇る宇宙開発技術、と文部科学省が胸を張るほど、このはやぶさは大成功を収めたとは言えないのではないか、という批判があります。実際、はやぶさはそのミッションにおいて多くの失敗を重ねており、それを乗り越えての帰還は評価されるべきものですが、サンプルリターンはそのおまけ、と酷評する人もいます。

はるかかなたの天体にピンポイントで探査機を着陸させ、しかも戻ってこれたというのは、確かにすごいことではあるのですが、その過程においては数々の致命的なミスを犯しており、サンプルを持ち帰ることができたのも、怪我の功名ではないか、といわれます。

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たとえば、着陸着陸といいますが、そもそもはやぶさのイトカワへの着陸は予定されていたものではありませんでした。はやぶさには、火薬で弾丸を発射し、これをイトカワに高速で打ち込んで、舞い上がる粉塵を吸い上げる機能が付いていました。

これを行ったのち、すぐにイトカワを離れることになっていため、これは、「タッチ&ゴー」にすぎず、着陸というよりは「タッチダウン」と呼ぶべきものでした。

また、はやぶさは、イトカワに2度も、タッチダウンしているにも関わらず、最初のタッチダウンでは何も回収できていません。

この最初のタッチダウンでは、後の分析でわかったことですが、30分もの間、イトカワにどっしりと座っていたことがわかっています。

意図としての出来事ではなく、これを果たして着陸と言えるのかどうかもありますが、ましてやそれよりも、この間何も動作していなかったことがわかっており、ちゃんと仕事せんかーい、と突っ込みたくもなってしまいます。

最初のタッチダウンの際、はやぶさはまず、ターゲットマーカーを分離しました。ターゲットマーカーというのは、はやぶさへの接近を安全に行うために、着陸地点となるイトカワ上にポトリと落す物体で、重力の小さなイトカワ上で弾まずに確実に定着するよう、薄いアルミ製の袋にフィルム材料を粒状にしたものを中に納めています。

お手玉サイズの構造体で、転がり防止用の4つのとげが付けられており、これをはやぶさが空中から広角カメラでフラッシュ撮影し、その反射光を確認しながら、正確位置を計算し、ピンポイントでそこに着陸させます。

ターゲットマーカーを先に着陸地点となるイトカワ上に落としておき、ゆっくり接近しながら、フラッシュで照らした画像から自分の位置を内蔵コンピュータで計算し、姿勢制御するしくみですが、イトカワはこの処理を複数回行って、予定通り1回目のタッチダウンに挑戦しました。

この最初のタッチダウンでは、その後の解析によって、「はやぶさ」はなんと小惑星への「着陸に成功」していたことが分かりました。ただしこのときは、サンプルを吸い上げるための筒である、「サンプラーホーン」が小惑星の表面に接触する前に、コンピュータがイトカワ表面の何かを障害物として検出してしまい、「危ないので逃げよう」と判断しました。

前述のとおり、タッチダウンの際、はやぶさに火薬で弾丸を発射し、これをイトカワに高速で打ち込む予定でしたが、タッチダウン中止指令の中には、この弾丸の発射中止の命令も入っていましたので、このときは弾丸を撃ちませんでした。

ところが、タッチダウンの指令が送られたのに、なぜかその後「はやぶさ」は小惑星を離脱せずに、そのまま小惑星に降下し続けました。原因はよくわかっていないようですが、このため最初にホーンの先端が表面に接触し、2回バウンドした後に、コテンと小惑星の表面に倒れて、30分ほどその場に居座ってしまったのです。

はやぶさには、地球との通信を行うアンテナは3種備わっており、これらのアンテナははやぶさの制御装置と地球の地上局との間を電波通信によって接続するのに用いられていました。また、探査機の姿勢や電力状況によって3種のアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。

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間の悪いことに、ちょうどこのときは、このアンテナの受信状態を切り替えるときで、はやぶさは地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけを受信できず、その返事を寄こさなかったため、地上局側は着陸の事実を把握できませんでした。

その後アンテナの切り変えが終ったのにもかかわらず、通信途絶が長すぎることを不審に思った管制室は緊急指令で上昇を命じ、ハッと我に返ったはやぶさは離陸を開始しました。

ところが、管制室側ではまさかはやぶさが着陸を果たしているとはつゆ知らず、しかしそれを知らなかったとはいえ、月以外の天体においていったん着陸した探査機が再び離陸を成し遂げたというのは奇しくも世界初の出来事となりました。

タッチダウン中止モードが解除されないまま降下してしまったはやぶさからは、この離陸の際にも当然弾丸は発射されませんでした。しかし、のちにはこのときの「不時着」の衝撃でイトカワの埃が舞い上がり、回収された可能性もあると考えられました。

2回目のタッチダウンは、この最初のタッチダウンの失敗を反省して、3度のリハーサルを終えたのちに開始されました。このときは、それまでの降下リハーサルの成果を発揮して、サンプラーホーンの先端が約1秒間だけ小惑星の表面に接触して、すぐに上昇するという、予定通りのタッチ&ゴーができました。

ところが、弾丸を撃つために必要な着地信号が正しく検出されたことも確認できたにもかかわらず、実際に弾丸発射の火薬が爆発したかどうかだけは確認できませんでした。

この火薬の爆発を確認する情報は、「はやぶさ」のメモリーに書き込まれます。しかし、小惑星表面から上昇して地球に通信を送り始めた頃、「はやぶさ」は燃料漏れを起こして姿勢を崩し、数日間、地球との通信が不通になってしまいました。

その後、通信は回復しましたが、地球との通信が途絶えた間に「はやぶさ」は一度凍りつき、もし発火したなら一時的なメモリーに書かれていたはずの火薬爆発の記録は失われてしまっていました。

しかし結局、その後残された情報から周辺状況を調査すると、弾丸はやはり発射されなかった可能性が高いことがわかりました。そしてもし、2回目のタッチダウンでも弾丸が撃たれていなかったら、当初の予定通り1秒ほどしか小惑星に接触していなかったので、サンプルはほとんど採れていないと考えらえました。

その後、はやぶさからは試料採取のための弾丸発射の火工品制御装置の記録が取得でき、それによれば、正常に弾丸が発射されたことを示すデータはやはり確認できず、弾丸は発射されなかった可能性が高いことがわかりました。

弾丸が撃ち込まれた衝撃で飛散するであろう「岩石のかけら」のような大きなものは採取できなかったわけですが、ただし、2回もタッチダウンしていることから、その衝撃で少量ながらも塵のようなものは採取できている可能性はあるとされました。

この想像は当たっており、地球に帰還したカプセルからは、岩石のような大きなものは発見されず、上述のような塵以下のサイズのものが回収されました。しかし、正常に弾丸が発射されていれば、もっとイトカワの組成がわかるような重要なサンプルが得られていたかもしれません。

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こうした点が、はやぶさの成功は怪我の功名だと批判されるゆえんですが、それ以上に、はやぶさはもうひとつ大きな失敗をしています。実は、はやぶさにはイトカワの表面を走り回るための、ローバーが搭載されていました。

MINERVA(ミネルバ)といい、これは、”MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid” の略です。当初はアメリカ航空宇宙局 (NASA)が開発中だったローバーの搭載が予定されていたのですが、これがキャンセルされたため、それまで日本でのんびりと開発されていたものが、急遽準備されるようになったものです。

NASAが開発していたローバーは岩石組成を測定するために、赤外線とX線の分光器を搭載するなどの高度な性能を持っており、NASAはこれに約25億円をつぎ込み開発していました。が、近年の財政縮小によって、宇宙開発の事業費が削られ、このローバーの開発も中止となりました。

一方、JAXAのはやぶさ本体の開発コストは127億円でした。このNASAのローバーは、これだけでもこのはやぶさ開発費の1/5の値段であり、アメリカと同じく財政縮小が求められていた日本でも新たにこれと同じ費用をつぎ込むのはかなり難しい状況でした。

このため、はやぶさ打ち上げ事業には、「ミネルバ開発費」という予算は計上されず、正式なプロジェクトとしては扱われないことになりました。このため、開発費は技術研究費用からなんとか捻出されることになり、民生品や宇宙仕様品の廃棄部位の使用、宇宙用品の御用達メーカーによる無償提供などで開発コストが大幅に削減されました。

その費用は公表されていないのでよくわかりませんが、せいぜい1~2億円でできたのではないか、ともいわれているようです。

急遽搭載が決まったローバーであり、しかももともとは予定されていなかったために、ミネルバは当初、カウンターバランスの代わりになればいいさ、程度に考えられていたようです。

あまり期待されていなかった装置ではあるのですが、しかし、せっかくなら最小限の装備を載せようと、ミネルバには表面から突き出たピンに内蔵された6つの温度センサーが取り付けられ、これ以外にも、3つのカメラなどが搭載されるなど、それなりに智恵を絞った機能が搭載されました。

カメラは3つとも同じものであり、2つのカメラは同一方向に向けて隣同士に設置され、近くをステレオ視可能であり、これは主に小惑星表面を撮影する予定で、残り一つのカメラは2台のカメラと反対側に据え付けられ、はやぶさのタッチダウン時に上空から小惑星を撮影することを主目的とされました。

つまり、NASAのローバーのような岩石組成を分析できるような高度な機能はありませんでしたが、今まで誰も目視したことのない、小惑星の表面の様子を詳細に撮影できる装置であり、また着陸に成功していれば、小惑星を走破した世界初のローバーとしての栄冠を得ることができるはずでした。ところが、はやぶさはこのミネルバ放出にも失敗しました。

ミネルバは、着陸のために行われた3回のリハーサルのうちの、3回目で放出されました。本番ではなくリハーサルでミネルバの放出を行うことになった理由は、はやぶさ本体による小惑星からのサンプルリターンを目的とする本番時に、ミネルバ放出を同時に行う余裕はないと判断されたためでした。

そもそもこのプロジェクトは、はやぶさによるサンプル回収というミッションが主目的であり、その完遂を求められていた状況では、残された燃料は少なく、ミネルバを安全に着陸するためだけにリハーサルをもう一回追加する時間的余裕はありませんでした。

実は、はやぶさの2回目のタッチダウンを確実に成功させるためには、近距離レーザー距離計という自分の位置を特定する装置を作動させることが必要とされました。ところが、既に一回タッチダウンに失敗して燃料を消費してしまっているため、改めてこの装置の事前試験をするためのリハーサルの機会は残り1回しかありませんでした。

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つまり、近距離レーザー距離計の試験を行ってその安全を確かめたあとに、ミネルバ自体がその機能を使って着陸することは許されず、ミネルバ自体の着陸の安全性は無視せざるを得なくなりました。

このため、近距離レーザー装置の試験リハーサルとミネルバの放出は同時に行われることになり、ミネルバの放出は、地上から電波による指令で行うことになりました。これは、ミネルバが持っている自律機能を使った自動着陸ではなく、いわば「手動」放出を行うことと等しいものです。

地球とイトカワ間の通信に片道約16分かかるため、はやぶさからのデータを見ながら、往復分である約32分後のはやぶさの位置と速度を予測しながらミネルバの放出を決定することになります。

こうして、11月12日15時8分、地上からミネルバ放出のコマンドが送信されました。ミネルバはイトカワ上空70メートル、イトカワとの相対速度は秒速5センチ以下で放出される予定でしたが、果たしてミネルバの放出は失敗しました。

このリハーサルでは、イトカワに接近し、近距離レーザー装置の試験は無事完遂しました。ところが、リハーサルを終えて、ミネルバ放出するコマンドを送るより前に、はやぶさに対して上昇するよう指示するコマンドが先に送られるという、考えられないような人為的ミスが発生しました。

その直後に放出のコマンドが送られ、ミネルバははやぶさから放出されたものの、このときはやぶさは既にイトカワから秒速15センチで離脱上昇しつつあり、その高度は約200メートルにも達していました。結局ミネルバはイトカワに着地することなく、宇宙を漂うハメになり、イトカワとともに地球重力圏外を回る、「史上最小の人工惑星」となりました。

人工惑星は人工衛星とは違います。人口衛星が惑星の周回軌道を廻る衛星軌道にあるのに対して、これは太陽・恒星を周回する公転軌道上にあるものを指します。太陽を観測する探査機やフライバイ観測を終了した惑星探査機がそのまま人工惑星となる例もたくさんありますが、これほど小さいものはこれまではありませんでした。

しかし、ミネルバははやぶさから分離後、約18時間に渡って通信を継続しました。もし無時に着地していれば、イトカワの自転周期から考えて3時間前後で夜間となるため、いったん通信が途絶するはずでした。しかし継続して通信できたことからも、ミネルバはイトカワに着地することなく、人工惑星として宇宙空間を漂っていたことがわかりました。

その後、はやぶさは2度目のタッチダウンを成功させましたが、上述のとおり弾丸を発射できなかった可能性が高く、サンプルを無事回収できたかどうかもわからないまま、地球に帰還しました。しかし、その途中に何度もトラブルを起こし、時には完全に通信も途絶えて、帰還が絶望視されるといったこともありました。

それだけに、世間でも最初はそれほど「はやぶさ」への関心が大きかったわけではありませんでした。はやぶさの着陸失敗のほうがは非常に大きく取り上げられ、その後実は着陸していたことが取り上げられたにもかかわらず、電波を捉えられなくなり、帰還が危ぶまれるようになるとほとんど報道されないようになりました。

ところがマスメディアが関心を失っていく一方、インターネット上でははやぶさに関する話題の盛り上がりがあり、次第に注目を集めていきました。2010年6月13日の地球帰還が近付くにつれてニュースやワイドショーで取り上げられる機会も増え、NHKも「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」を放送しました。

NHKはオーストラリアに取材班を送り、大気圏再突入の模様をハイビジョンで撮影して翌14日未明から定時ニュースの冒頭で繰り返し放送しましたが、にもかかわらずなぜかこの模様の生中継を行わず、民放も同じく生中継しなかったため、失望の声も上がりました。

JAXA自身もマスコミへの情報提供にはかなり消極的であったようで、正確な突入時刻などを公表しておらず、もしこれが公表されていれば、生中継を企画できた放送局も多かったのではないかという批判がなされました。

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ところが、翌日14日の朝刊各誌が1面トップに写真付ではやぶさ突入の記事を掲載すると、民放各局もはやぶさの帰還を報道し始めるなど、急にこの話題が熱狂的に取り上げられるようになり、国民的な関心も高まっていきました。

やがてはやぶさのカプセル帰還成功には各界からは絶賛する発言が相次ぎ、複数の技術的なトラブルに見舞われ帰還を絶望視されつつも、それを乗り越えて地球への帰還を目指すはやぶさの旅程は、多くの日本人に「美談」として受け止められました。

はやぶさに対する反響の一環として、模型や書籍、果ては日本酒といったグッズも出され、無人探査機を扱った商品としては例外的な売れ行きを示しました。たとえば、プラモデルメーカーの青島文化教材社から発売されたプラモデルは、同社における通常のヒット商品と比べて約4 ~5倍もの受注があり、初回製造分が数日で売り切れました。

はやぶさの困難な旅程を叙情的に描いたプラネタリウム番組が公開され、ふだんプラネタリウムなど見向きもしない人たちの足を博物館に向かわせ、異例の人気を博しました。

しかし、この「はやぶさブーム」をリードしたのはやはり当初からのインターネット上での盛り上がりでした。実は、JAXAは、はやぶさの打ち上げに際して、「星の王子さまに会いに行きませんか」というキャンペーンを実施し、これによって国内外から88万人の署名を集め、これをターゲットマーカーに入れていました。

はやぶさが最初にイトカワへの着陸を試みたとき、このターゲットマーカーが無事イトカワに着地したことだけで、この投下成功のニュースがネットに氾濫するようになり、多くの励ましのメールがJAXAに届けられました。

これに気をよくしたJAXAは、さらに本番のイトカワ着陸の際には、管制室のインターネット中継や、ブログによる実況をOKしました。

2度目の着陸の際には、管制官たちが徹夜の監視体制の際に飲む「リポビタンD」の空き瓶が管制室の机にどんどん増えていく様子がブログを通して紹介され話題になり、後にこのブログを書いた人のもとには大正製薬からリポビタンDが2カートン贈られたといいます。

こうした人気を受けてJAXAのwebサイトでは、ミッションの経過を絵本仕立てで紹介した「はやぶさ君の冒険日誌」が公開されるようになりました。また、音楽家、福間創が、はやぶさの地球への無事帰還を願って作曲した、「swingby」という楽曲を相模原のJAXA宇宙科学研究本部の一般公開イベントにおいてBGMとして正式に採用しました。

地球帰還に向けて最後の軌道修正に入った2010年4月には特設ページをつくり、プロジェクトマネージャーの川口淳一郎を始めとする関係者たちのメッセージが掲載されたほか、ブログやTwitterで状況が報告されました。

Twitterでは「はやぶさ君」“本人”がつぶやいたり、「あかつきくん」や「イカロス君」と会話することもありました。リアルタイムで多くの情報が公開されたことによりネットでの注目を集め、はやぶさを擬人化したキャラクターや、はやぶさをテーマにしたフラッシュ・MADムービー・楽曲などが作られました。

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2010年6月13日の大気圏再突入の際には、前述のように生中継を行った放送局が皆無であったのに対し、動画配信サイトでは現地からのインターネット中継が行われ、ニコニコ生放送に延べ21万人、JAXAの配信に36万アクセス、和歌山大学の配信に63万アクセスが殺到し、それぞれ視聴者数が制限されたり回線が繋がりにくくなりました。

Twitterでは、再突入を捉えた動画や画像が公開された頃を中心に、10分間辺り最大で27,000件を上回る発言がはやぶさの話題に費やされ、これは翌日の同時間帯に放送された2010 FIFAワールドカップにおいて、日本対カメルーン戦でゴールを決めた本田圭佑に対する、10分間最大16,000件の発言を圧倒的に上回りました。

さらにはやぶさの帰還後、今上天皇も、天皇誕生日に先立つ2010年12月20日の記者会見で、はやぶさを賛辞する発言をされ、また皇后は、はやぶさが大気圏に突入したことを和歌に詠まれており、これは「その帰路に己れを焼きしはやぶさの光輝かに明かるかりしと」というものでした。

こうしたはやぶさ人気を受け、この当時はまだ民主党が政権を握っていましたが、このときの総理大臣だった、菅直人首相は参議院本会議で、後継機「はやぶさ2」の開発を推進する考えを示し、当時の文部科学大臣川端達夫や、福山哲郎官房副長官もはやぶさの後継機開発について「来年度予算での扱いを検討したい」と述べました。

また、事業仕分けで「どうして2番じゃいけないんですか?」という発言で有名になった蓮舫行政刷新担当相も「国民の様々な声は次期予算編成に当然反映されるべきだ」と語り、これら一連の発言に対して、読売新聞は鳩山政権下ではやぶさ後継機の予算が削減されていたことを指摘し、「現金すぎ」と民主党政権を批判しました。

かつて司馬遼太郎さんは、「日本人ほどミーハーな国民は、世界的にみても稀有である」といった意味のこことを書いておられましたが、まったくその通りだと私も思います。

数々の失敗を重ねたのにもかかわらず、一定の人々が賛同し始めると、とたんそれらの失敗を忘れ、逆に試練を乗り越えて帰還したヒーローに祭り上げ、皆がその「美談」に酔いしれるようになっていくというのは、ミーハー以外の何物でもありません。

最初はまったく興味もなかったものに対しても、次第に大勢がシンパシーを感じるようになっていく、というのは、単一民族で構成されている日本人の癖のようなものかもしれませんが、言い方を変えれば個性のようなものかもしれず、皆が皆でお祭りに酔いしれることができるというのは、ある意味幸せかもしれません。

おめでたい、という言い方もありますが……

とはいえ、人は失敗を重ねて成長していくものです。現在計画されているはやぶさ2では、
先代での失敗を教訓にして、今度こそは怪我の功名ではなく、世界に胸を張って成功と言えるようなしっかりとした成果を得てほしいものです。

この「はやぶさ2」ですが、「はやぶさ」のときもそうでしたが、当初よりインターネットによりその開発を支持する声が高まっており、初代のはやぶさが帰還したその翌日には、早くもオンライン署名サイトで「はやぶさ2予算増額の嘆願署名」が掲載されたそうです。

はやぶさ2については、JAXAも既に開発がかなり進んでいることを表明しており、順調に開発が進めば、今年度中(2014年度中)にもH-IIAロケットで打ち上げられることになるようです。

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今度は、イトカワと同じ地球近傍小惑星である、「(162173) 1999 JU3」への着陸およびサンプルリターンが計画されているということで、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ではあるものの、イオンエンジンの推力も向上させるとともに「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった問題点を改良した準同型機となる予定です。

サンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式ですが、事前に爆発によって衝突体を突入させて直径数メートルのクレーターを作ることによって深部の試料を採取できるようにするなど、グレードアップしているということで、着陸機の「ミネルバ2」も搭載されます。

また、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、これら二つの方法を用意することでより確実に試料を取るようになり、さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの際の撮影と巻き上げられた粒子の光学観測も行われます。

先代が航行途中にトラブルに見舞われたため、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれているということで、ミネルバの着陸失敗の原因にもなった通信システムを見直し、「はやぶさ」のようなパラボラアンテナに代わって新型のアレイアンテナを使用し、破損があった燃料配管や御装置などにも信頼性向上などの改良も行われているそうです。

ターゲットとされる「(162173) 1999 JU3」という小惑星からのサンプルリターンは、新たな生命の起源の論説をもたらす可能性もあるそうです。

このJU3はC型小惑星と呼ばれる主として炭素でできた小惑星で、アミノ酸のような有機物が存在する可能性があります。水や有機物など、昔からそれほど変質せずに残っているより始原的な物質を含んでいるとされる小惑星で、こうした有機物を含んだ石がここから離れ、隕石として地球に落ちたとすれば、ここが生命の起源と考えることができます。

とくにアミノ酸は、上述のアメリカの探査機スターダストのミッションにおいても彗星の尾から採取されていますが、(162173) 1999 JU3にも存在している可能性が高いといわれています。

また、観測により「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在が推定されており、実際に存在するかどうかは不確定ですが、その表面での存在が期待されます。また、JU3は大きさもイトカワより大きく、表面は一様ではないため、このほかにもいろいろな物質が存在する可能性もあります。

これまでの国内外の観測から、自転周期は約7時間半で、これは、約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速く、形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、とはいえ多少いびつで、サトイモに近い形だそうです。

直径は約920メートで最大540メートルのイトカワよりも若干大きめですが、それでも探査対象としてはかなり小さい天体であることには変わりはありません。

2014年度中に打ち上げられた場合、2018年にもはやぶさ2は1999 JU3に到着する予定で、うまくいけば、2020年に地球へ帰還することができるそうです。

東京オリンピックの年でもあり、楽しみではあります。今度は恥じることなく全国民がミーハーになれることを期待しましょう。

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廃墟から愛をこめて

2014-1300まだ梅雨の走りだというのに、雨がどしゃどしゃ降っているところが多いようで、6月の降雨量は過去最大になるのではないか、と予想される地域が早くも出てきているようです。

ここ伊豆ではまだそれほどでもないのですが、去年大島に土砂災害をもたらした大雨のことを考えると、その可能性もないとは言い切れず、ちょっと警戒してしまいます。今年の1月には大雪で我が家も屋根の一部が破損したのですが、これに引き続いての被災とならないよう願いたいものです。

さて、過去にあった今日の出来事の一覧表をみていたら、1962年の今日、アメリカのアルカトラズ連邦刑務所から二人の囚人が、脱獄に成功した、とありました。

首謀者は、フランク・リー・モリスという男で、このほかにも仲間2人が脱獄。この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」に描かれました。

このアルカトラズというのは、カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内にあり、市内から2.4kmのところに浮かぶ小島で、私も上陸こそ経験はありませんが、サンフランシスコに観光に行った際、遠目に視認したことがあります。

少々赤茶けた黄土色の建物が立ち並んでいて緑は多くなく、さながら洋上要塞のようでしたが、あぁこれがかの有名なアルカトラズかと、感心すると同時に、海が平穏ならば、泳いでいけそうな距離にあり、なぜ、脱出不能といわれたのだろう、と不思議に思ったものです。

これは、後で知ったことですが、この島のある周囲は、カリフォルニア海流と言う寒流が湾内に流れ込むため水温が極端に低く、また、サンフランシスコ湾の狭い湾口から大量の海水が出入りするため、海流がかなり早くなります。さらに、太平洋から大陸に当たった下層水が湧き上がる湧昇流が起こっており、表層ではかなり海流が乱されています。

栄養価の高い下層水が湧き上がるため、プランクトンが集まりやすく、このためこれを餌とする魚類も多く、その中には危険なサメも多く含まれていて、遊泳は危険です。

海流や深層水におる表層水の乱れは波浪にも影響を与え、一カ所に多方向からの波が集中することで波高が高くなる現象、俗にいう「三角波」も発生しやすく、このため航行船舶にとっても難所とされ、その昔は、アルカトラズにも灯台が建設されていました。

この灯台はその後拡張され、軍事要塞として活用されるようになりましたが、太平洋戦争後は軍事監獄となり、1963年まで連邦刑務所として使用されていました。このころから「ザ・ロック」の名で親しまれるようになり、これは、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが共演し、ここを舞台とした映画のタイトルにもなりました(1996年)。

監獄島とも呼ばれ、連邦刑務所時代には凶悪犯ばかりが収容されており、14回の脱獄事件が起きています。脱獄した受刑者数は36人にのぼりましたが、このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死しました。5人は行方不明となりましたが、溺死したものと推測されています。

1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られています。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れましたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧されました。6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られました。

フランク・リー・モリスたちが、この島から脱出しようとした1962年ころにも、まだ凶悪犯が多く、著名なギャング、アル・カポネや、ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていました。

このほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られましたが、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、連邦刑務所としての運用が終了されることになりました。

モリスたちが脱獄するのはその閉鎖のほぼ1年ほど前のことでした。ワシントンD.C.で生まれたモリスは、幼い頃から里親に育てられましたが、13歳の頃に犯罪に手を染め、10代の後半に麻薬所持や強盗の罪などで逮捕されました。IQは133だったと言われ、その知能を生かした巧妙な手口の犯罪が多かったようです。

収容されたのは脱獄を実施に移す2年ほど前の1月のことですが、モリスはアルカトラズに着いてすぐにその盲点に気付き、脱獄を計画し始めたといいます。この計画には、アレン・ウェストと、ジョン&クラレンス・エングリンという兄弟が加わりましたが、ウェストだけは計画の立案には加担したものの、脱獄そのものには加わりませんでした。

脱出に先立ち、モリスとエングリン兄弟はほぼ2年をかけていかだと自分たちに似せた人形を作りました。このいかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせ、並べてその上にシートを貼り付けたものでした。また、人形は、紙くずと、粘土や穴の削りくずを合わせて作ったもので、首から上の部分だけでしたが、遠目には本物と見えるほど巧妙なものでした。

三人はまた、仕事場から穴を掘る道具を盗み取り、交替で穴を掘りつづけ、そして、1962年3月になってようやく独房の裏手へと続く穴を掘ることに成功しました。

1962年6月11日の夜、計画は実行に移されました。3人はベッドに用意しておいた人形を配置し、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、かねてから用意しておいたいかだで闇の中へと消えていきました。

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看守たちがモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。直ちに連邦捜査局(FBI) は大勢の捜査員を動員して、捜査を開始しましたが、その結果、彼等が使ったと思われるいかだの一部やエングリン兄弟の物であった防水バッグなどが発見されました。

しかし、モリスらの遺体は見つからなかったため、FBIはモリスらがサンフランシスコ湾で溺死したと断定しました。彼らは強盗などの常習犯であったにもかかわらず、脱獄後もそうした犯罪で捕まったという報告はなされることはなく、サンフランシスコ湾の荒波を乗り切れなかったのではないか、という観測がなされたためでした。

しかし、筏まで周到に用意した脱出であったことや、主犯格のモリスは頭の良い男として知られており、はたして失敗するような未熟な計画を実施に移しただろうかといったことが取沙汰されました。

また、後年、アメリカのバラエティー番組でモリスらと同じ材料同じ道具で作ったイカダでサンフランシスコ湾を横断したところ、見事に渡れる事が証明されたといい、こうしたことから、彼等は脱獄に成功し、今もどこかで生きているのではないか、という伝説が生まれました。

この伝説から生まれたのがクリント・イーストウッドがモリスを演じた。映画「アルカトラズからの脱出」ですが、この映画もまた結局は彼等の生死は不明、という終わり方をしています。

現在、この島は、アメリカ合衆国国立公園局が運営するゴールデンゲート国立レクリエーション地域の歴史地区となっており、一般観光客に公開されています。観光客は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ近くのピア33からフェリーで島に渡ることができます。

毎日午前9時から30分ごとに出発しているそうで、島そのものへの入場は無料です。島内では、オーディオガイドの案内に従って回ることもできるそうで、このオーディオガイドの使用料金はフェリー料金に含まれていてリーズナブルなうえに、臨場感ある説明もあいまって大変人気があるようです。

また、アルカトラズ島にはこうした歴史的建造物の見学だけなく、自然保護区となっているがゆえの豊富な野鳥を見ることができるという魅力があります。カモメや鵜、ウミバトのような海鳥や、ユキコサギ、ゴイサギのような水鳥がいるほか、島では花々を楽しむこともできるといいます。

人間が入るまでは、島には薄い土壌にまばらな草と灌木が生えているだけだったといいますが、軍事要塞ができると軍当局が島外から土壌を持ち込み、1865年には頂上の砦のそばにビクトリア様式の庭園ができました。1920年代、全島的な美化計画が行われ、受刑者らの手によって多くの木々、灌木、種子が植えられていきました。

しかし、1963年に連邦刑務所が閉鎖され、島が打ち捨てられていた約40年間、島の厳しい環境に耐えられずに枯れてしまった花もあったようです。しかし、そうした中でも咲き続けた花もあり、2003年からは非営利団体が、国立公園局と提携して、庭園の修復・保存に取り組むようになったといいます。

私がサンフランシスコを訪問したのは、20年ほど前ですから、この取組が始まる前です。このためかつて遠目には殺風景だったこの島も、今は緑に覆われているのかもしれませんが、再度アメリカへ行く機会があったら、ぜひ島にも渡り、どうなっているのかを確認してみたいところです。

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ところで、日本にもこのアルカトラズと似たような島があります。

長崎の天草灘に浮かぶ端島(はしま)という島で、この名よりも「軍艦島」という名称のほうがポピュラーでしょう。同じく天草灘にある「高島」という島と同じく、かつては海底炭鉱によって栄えました。

高島のほうは、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受けて採掘が減少し、1985年の粉塵爆発事故という追い討ちもあり、1986年をもって閉山しました。が、端島のほうはこれよりもさらに早く、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)に閉山しています。

一時期は、東京以上の人口密度を有していましたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島となり、アルカトラズのように緑はほとんどないため、文字通り殺伐とした「廃墟」となっています。

長崎港からは、南西の海上約17.5キロメートルの位置にあるため、とても泳いで渡れる島ではありません。またサンフランシスコから最短で2キロしかないアルカトラズのように陸上から詳細に視認する、というのは天候にもよりますが、難しいようです。

この島と高島の間にはもうひとつ、「中ノ島」という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されていましたが、ここは開鉱後わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が火葬場や墓地として使用していたそうです。

この端島ですが、元々は、南北約320メートル、東西約120メートルほどの小さな瀬だったそうです。ところがここの海底で炭鉱が発見されたことから、その周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から埋め立て始め、1931年(昭和6年)までにはその大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルまで拡張されました。

島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があり、後年、かなり高層のアパートなども建てられるようになりました。このため、遠目にはこの建物群がまるで戦艦の艦橋のように見え、端島の名前よりも「軍艦島」で親しまれるようになりました。

戦時中の1945年(昭和20年)6月11日(奇しくも今日)には、アメリカの潜水艦「ティランテ」が、端島近くに停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈させる、という事件がありましたが、この事件は「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になり、広まりました。

この話は、かなりまことしやかに伝えられたため、未だ信じている人が多いようですが、しかしアメリカ軍もアホではなく、実際に軍艦と間違えて砲撃を加えられるようなことは一度もしていません。

「端島」と呼ばれるようになったのが、いつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明です。が、江戸初期の元禄時代にはもう既にこう呼ばれていたようで、「元禄国絵図」という古地図には既に「端島」と記されています。

しかし、石炭の発見は江戸末期のことで、一般に1810年(文化7年)のこととされます。発見者は不明ですが、1760年(宝暦10年)の記録には、佐賀藩の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)がここの石炭の掘削権をめぐって争いになったという記述がみられるということです。

とはいえ、実際の採炭のほうはまだこのころには小規模なものであり、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。

明治になって長崎の業者がやや本腰を入れて採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続く会社が3社ほどもありましたが、いずれも大風による被害のために1年から3年ほどで、廃業に追い込まれています。

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さらに本格的な採炭が始まったのは、1886年(明治19年)のことで、1890年(明治23年)には36メートルもの大きな竪坑が完成し、本格的な採掘が始まりました。この事業を手掛けたのは三菱財閥で、端島炭鉱の所有者であった旧鍋島藩深堀領主の鍋島孫太郎から、島を10万円で譲り受けました。これは現在換算でおよそ40億円になります。

こうして、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となり、譲渡後の出炭量は、すぐ隣の高島炭鉱を抜くまでに成長しました。三菱は、明治の中ごろまでには、社船「夕顔丸」を就航させ、蒸留水機設置にともなう飲料水の供給も開始(明治24年1891年)。

さらに、社立の尋常小学校の設立(明治26年、1893年)など基本的な居住環境を整備するとともに、島の周囲を段階的に埋め立て、居住面積を増やしていきました。

1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、このとき大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいます。

このころから、「軍艦島」の通称はさらに定着するようになったとみられますが、ただし、この頃はまだ軍艦は軍艦でも戦艦ほど重厚ではなく、鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく、30号棟以外は、木造の平屋か2階建ての日給社宅が大半であり、巡洋艦程度だったようです。

大正期に入ってからは、朝鮮人労働力を導入するようになり、第二次世界大戦中までには三菱が徴用した員数と、朝鮮人自身の経営する飯場を合わせて500~600人ほどの朝鮮人がいたといい、これと併せて自由渡航でやって来た所帯持ちの朝鮮人労働者80人ほどを合わせて700人ほどがこの狭い島にひしめいていました。が、それでもまだ序の口でした。

さらに、1944年(昭和19年)には200人ほどの中国人労働者が徴用されてきたため、島の人口は1000人に迫りました。しかし、これらの外国人労働者は、豊富な給料や食事や休日も与えられるなどの虚偽の好条件で騙されてやってきた者が多く、実際には満足な食事や休息も与えられず酷使されました。

過密な人口に加えてこういう劣悪な環境に耐えられず、島抜けする(泳いで島を脱出する)者も多く、自殺を図る者も多数出ました。労働者の大多数は朝鮮人や中国人でしたが、彼等の場合は島抜けを試みるものが多かったのに対し、自殺者には日本人が多かったといい、このあたりのことにも、文化の違いが見て取れます。

ただ、こうした労働者の「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、警察や監視する職員に捕まって連れ戻され、見せしめに拷問されました。対岸の野母半島(長崎半島)の住民たちは、端島や高島から労働者たちが命懸けで逃げ出してくるのを見て、この島のことを軍艦島ではなく、「監獄島」と呼んだといいます。

また、三菱側は朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容し、作業現場も交代時間も重ならないようにしたといい、作業員管理を徹底していました。

これほどこの島での採掘に力が注がれたのは、無論、太平洋戦争に突入していくにあたって豊富に必要となる船舶などの運用エネルギーをまかなうためでした。端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。

石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭したといい、その後突入する太平洋戦争を支えたと言っても過言でないほどの存在感がありました。

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終戦後の復興期にもまだ良質な石炭は取れ続け、これに対応するため、いなくなってしまった中国人や朝鮮人に代わって日本人労働力が主力となりました。が、食えない時代とあってその労働力が衰えることはなく、終戦後15年を経た1960年(昭和35年)には島内人口は最盛期を迎え、5,267もの人がこの狭い島に居住するようになりました。

その人口密度はなんと83600人/km²となり、これは10m四方におよそ8人が居住していたことになります。これはこの当時世界一の人口密集度を誇り、東京の9倍以上の過密度でした。島内には、炭鉱施設とこれに付随する住宅のほか、小中学校・店舗が作られ、常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました。

病院も整備され、外科・内科といった基本医療施設以外に分娩設備もあったといい、さらには「泉福寺」という寺院まであり、禅寺だったそうですが、すべての宗派を扱っていました。また、映画館やパチンコ屋・雀荘、スナックなどの遊戯施設もあり、このほか理髪店・美容院まであり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。

ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これは前述のとおり、端島と高島の間にある中ノ島に建設されました。

ところが、1960年以、高度成長時代にさしかかると、日本の経済において必要とされるエネルギーは、次第に石炭から石油へとシフトしていきました。これにより高島や端島における採炭は衰退し始めます。

高島における採炭事業はその後1986年まで続き、また端島のほうも1965年(昭和40年)に新坑が開発されて一時期は持ち直しましたが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1974年(昭和49年)1月、ついに閉山に追い込まれました。

このころまでには、島内住民も約2000人まで減っていましたが、閉山後は徐々に島を離れ、この年の4月20日までに全て島を離れ、端島は完全な無人島となりました。ただ、その後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続きました。

しかし、その後30年近い歳月を経る間、島の施設に手を入れる人はいなくなり、その多くは劣化し、廃墟となりました。島は三菱本社からその子会社の三菱マテリアルが管理するようになっていましたが、2001年(平成13年)、旧高島町に無償譲渡され、その後の平成の大合併により長崎市に継承されるようになりました。

ただ、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、市は島内への立ち入りを長らく禁止していました。ところが、近年になって近代化遺産としての評価が高まってきたのと同時に、大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されるようになり、廃墟ブームもあいまって、この端島もまた話題に上るようになってきました。

このため、2005年(平成17年)、長崎市は、報道関係者限定で特別に上陸を許可し、長らく放置され、荒廃が進んでいた島内各所の様子が各メディアで紹介されるようになりました。

こうして長らく無人だった島に徐々に人が入りこむようになったことから、市としても危険個所の補修などを行うようになり、島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決されるようになりました。

その後、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことから、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月からは観光客が上陸・見学できるようになりました。

ただし、島内にはヘリの発着場などはなく、島への交通は昔ながらの船のみです。かつて三菱が保有していた社船「夕顔丸」は既に昭和37年に廃船になっており、「野母商船」が長崎港より運行していたフェリーも廃止されています。

このフェリーは1970年の時点では1日12往復しており、長崎までの所要時間は50分だったそうですが、以後こうした定期便は就航していません。ただ、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、禁止されていたにもかかわらず、上陸を試みる無法者が出るようになり、海上白タクなどが利用されていました。

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一方では、合法的に島へ運行する船の就航を望む声が高くなり、これを受け、長崎市は地元の海運会社に島の周囲を巡る遊覧船の運用を許可しました。

現在、長崎港などから運航するようになったこれらの会社が運営する渡船では、種々の「端島上陸ツアー」を行っており、軍艦島コンシェルジュ、 やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアーの場合、長崎市に払う施設使用料込み(市への負担金は300円)で大人4000円何がしかの費用となっています。

ただし悪天候の場合は、桟橋が利用できないため上陸できません。やまさ海運の2009年度の統計によると、欠航便や上陸中止の割合は数割だということで、台風などで海の荒れやすい7月の「上陸率」はわずか34%にとどまるといいます。しかし、海が穏やかな季節は上陸が可能なことが多く、例えば2月と9月はほぼ9割方上陸が可能だそうです。

軍艦島上陸ツアーは、最近の廃墟ブームを受け、年間約6万人もの利用者があるといい、長崎市によれば、ツアー開始後の経済波及効果は65億円に上るといいます。

さらに、経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を世界遺産への登録することを決定したため、端島の人気は更に高まりそうです。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されたもので、ユネスコによる2015年の審議の結果が待たれます。

ちなみに、端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった東京の同潤会アパートより古いものがいくつか含まれており、7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートです。

30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような、1918年(大正7年)に建設された日給社宅(16号棟から20号棟)などもあり、第二次世界大戦前の真っ最中で、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったころにも、この島では例外的に建設が続けられており、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅です。

なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためです。つまり、コンクリート製の高層住宅には作業員が住み、鉱長や幹部職員などのための住家は木造の高級住宅でした。

高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあり、また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われました。

ただ、木造で内装作りが進められた建物も多く、これらはひどいときには、島全体を覆う波に飲み込まれて腐敗し、塩水の浸透から主構造の鉄筋コンクリートも急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものも多数あります。

また、建設当初のものはその建築技術が未熟なものも多く、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり、これはさらに劣化を促進しました。ただ、古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊されること無く手付かずのまま放棄されているため、これは建築工学の観点からみると、経年劣化を研究する上でも貴重な資料であり、研究者からは注目されています。

近年、廃墟ブームはさらに広がりを見せ、この端島のような文化遺産的な性格も持つ廃墟は人気観光スポットとなり、観光ツアーが企画されて多くの人々が廃墟を訪れる現象が起きています。

この廃墟ブームのはしりと言われるのは、1988年(昭和63年)に写真家の、宮本隆司氏が廃墟や取り壊し中の建造物を撮影した「建築の黙示録」だと言われます。宮本氏はこのほかにも香港九龍の九龍城地区に造られた城塞と、その跡地に建てられていた巨大なスラム街を撮影した「九龍城砦」を発表し、廃墟写真ブームの火付け役となりました。

1989年にはまた、同じく写真家の滝本淳助と漫画家の久住昌之が、「東京トワイライトゾーン(タモリ倶楽部)」を発刊しており、その後も1993年に、写真家丸田祥三が「棄景 廃墟への旅」を出版して、これらはさらに廃墟ブームに火をつけました。

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ブームの始まりは、バブルの崩壊とも一致しており、バブル時期に何らかの計画が立ち上がったものの、経済の破たんとともに消滅したものなど、都市開発の計画が頓挫した場所などの建物などが廃墟状態になり、とくにこれらに人気が出るようになりました。

また、北海道など地価が安価で土地に余裕のある地域などでは、撤去費用がかさむのを回避し、古い建屋を撤去せず近くに新たに建てるなどすることが多く、これらの廃屋、廃墟も人気が高いようです。

さらに鉄道ファンの一部には、廃線跡をたどる廃線マニアと呼ばれる者がおり、廃線巡りを熱心に行うマニアは、昨今の鉄道ブームにより「廃鉄」とも呼ばれています。廃線後のみならず廃車体等にも目が向けられ、鉄道廃墟への関心が一気に高まっています。

1990年代以降、廃墟となった施設、学校、病院、鉱山などの跡を訪ねて回る廃墟めぐりツアーも増えてきており、廃墟マニア向けに「廃墟の歩き方」(2002年)といったマニュアル本が発行され、Webサイト、DVDなども、人気を得ています。

その興味の対象としては、廃墟化した建物が持つ特有の雰囲気でしょうが、廃墟となった施設が使われていた頃の様子を想像し、愛着を感じる者もおり、また廃墟の「探検」が楽しいという人もいるようです。

さらには、勝手に人の土地に入込み、旧式のドアの取っ手や、水道の蛇口、照明器具などを無断で持ち帰る人もいます。崩れかけたものを壊して回る輩もいて、このように廃墟には破壊や搾取の対象となり得るものが多く取り残されており、侵入・破壊のターゲットとなりやすい傾向があります。

こうした行為は現役の建造物に対するそれと比べて比較的低いリスクで行える破壊行為であることから、快楽的・愉快犯的な破壊行為ともいえます。いたずら目的ともいえ、こうした行為のことを「ヴァンダリズム」というそうです。

西ローマ帝国を侵略し、ローマ市を略奪したゲルマン系のヴァンダル族にちなんで名づけられたもので、芸術品・公共物・私有財産を含む、美しいものや尊ぶべきものを、破壊もしくは汚染する行為のことであり、平たく言えば「文化破壊運動」です。当然、器物損壊や迷惑行為として取り締まりの対象となります。

廃墟への侵入そのものも、建造物侵入罪による摘発の危険性が非常に高いものであり、写真を撮るだけなら大丈夫と思っている場合でも非難されることがあるため注意が必要です。

ところが、特に廃業したホテルやテーマパークは、廃墟か否かはひとめでわかりますし、入口や窓が壊れている(壊されている)ため侵入しやすくなります。また廃墟として目立ちやすい割には、中に入ってしまえば人の目が行き届かないため、興味も手伝ってこうしたところに抵抗なく立ち入る人が多いのも確かです。

このため、「廃墟愛好家」を自称して違法行為を行う人は後を絶たないようです。が、やはりその立ち入りには許可を得てから行うのが妥当であり、写真家と言われるような有名な人達は、たいていその撮影には許可を得ているようです。

我々も写真を撮っただけなら大丈夫などとタカをくくらず、お縄になる可能性も含めて馬鹿げたリスクは冒さないよう、最大限の注意をもって廃墟に立ち入るようにしたいものです。

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しかし、こうして放置されたままの廃墟の中には文化的な価値の高いものも多く、被写体としても魅力的なものがた多いのも確かです。

現在公に公開されていないこうした廃墟の中で有名なものの中には、犬島精錬所跡(岡山市東区)、松尾鉱山(岩手県八幡平市)、摩耶観光ホテル(神戸市灘区)、鳥島気象観測所跡地(東京都八丈支庁・鳥島)、平沼駅跡〈京浜急行電鉄〉(横浜市西区)といったものがあります。

一方では、こうした廃墟を観光や町おこしなどのために積極的に利用しようという動きもあります。原爆ドーム(広島県広島市)の整備は観光のためではなく、戦争の悲惨さを伝えるという目的のために行われたものですが、廃墟といえば廃墟であり、1996年に世界遺産に登録されました。

このほかにも、行川アイランド(千葉県勝浦市)、カッパピア(群馬県高崎市)、ムーラン乙女(現・御殿場美華ガーデン)、丸山変電所跡地(群馬県安中市)、ホテルエンパイア (神奈川県横浜市)などがあり、現在は廃墟であるもののいずれも何等かの利用が計画されています。

このうち、ホテルエンパイアは、横浜ドリームランド内にあったホテルが廃墟同然となっていたもので、最近大がかりな改装が施され、横浜薬科大学の図書館棟として活用されるようになりました。また、丸山変電所なども、重要文化財に指定され、補修工事が施工され建設当時の姿に復元されています。

このほか、岡山水道南東部にある犬島には、犬島精錬所跡があり、ここではベネッセコーポレーション(岡山市)の会長が美術館財団を設立し、精錬所付近を使った恒久的なアートワークの設置を展開しています。

10年前から「犬島アートプロジェクト」として計画され、2008年(平成20年)「犬島アートプロジェクト“精錬所”」としてオープンしたそうで、以前は予約者のみ見学可能だったものが、2010年度以降は事前予約が不要になり、自由鑑賞制を導入しています。

ここ伊豆もバブルの時代には多くの観光施設が建設されましたが、廃墟同然になったものも多く、実は私が住んでいる別荘地にも、かつて廃墟となったホテルがあったそうです。

「ホテル修善寺ニューッキャッスル」という名前のホテルで、その昔はある議員さんの御用達でずいぶん羽振りの良い時代もあったようですが、バブル後に閉鎖されてからは廃墟同然に荒れ果てていったということです。

あそこにだけは行ってはいけない、必ず憑いてくるから、と地元の人はささやかれる「心霊スポット」でもあり、外部からは怖いものみたさに入り込む人が多かったといいます。

今は解体されて、跡地には瀟洒なスペイン料理店が立っていますが、もしまだ残っていたらもしかして、私も行ってみたかもしれません。

無論、こうした放置施設への無断立ち入りはご法度ですが、ほかにもたくさんあるに違いない伊豆の廃墟を探しに行くというのも案外と楽しいかもしれません。とくに最近凋落の激しい熱海や下田などでは、探せばかなりの廃墟がありそうです。

古いモノ、妖しい雰囲気のある場所になにかと人は惹かれやすいもの。かくゆう私も同じであり、廃墟写真家にまでなるつもりはありませんが、それでもって新たな境地を切り開けるのなら、チャレンジしてみるのもまた楽しいかもしれません。

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ネロの亡霊

2014-0054梅雨に入ったとはいえ、陽射しがないわけではなく、昨日に引き続き今日も朝から陽光に恵まれ、これなら洗濯物も乾きそうです。が、湿気はそれなりにあります。

雨の季節だからと暗くなりがちなのですが、このあと真夏に入れば、我慢しがたい暑さに見舞われるわけで、それを考えると、この少し湿った空気の中で緑を楽しむ気分もまた貴重な時間のような気がしてきます。

いやだいやだと思っているものでも、見方を少し変えてみると、あぁこんなにいいものだったのかと目からウロコ的にその評価が変わるもので、例えばどちらかといえば毛嫌いしていた隣人と、ある時深い話をしたのがきっかけで、見方が180度変わる、と言ったことはよくあることです。

人や物事の評価をひとつの側面ばかりだけからしてはいけない、ということはよく言われることですが、何かと評判の悪い歴史上の人物も、よくよくその生涯を見直してみると、評価すべき点が多かったりします。

有名な生類憐れみの令をはじめとし、後世に「悪政」といわれる政治を次々と行ったとされる5代将軍徳川綱吉なども、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、没落した将軍権威の向上に努めるとともに幕府の財政を建て直し、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した名君という評価があります。

また、2000年ほど前のローマ皇帝としてかのヨーロッパの地に君臨したネロも、多くの近親者や側近を粛清した「暴君」として知られていますが、死後その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったといい、災害時の被災者の救済や芸術活動の普及などその生前の功績を称えるものも少なくなかったそうです。

ところで、今日6月9日というのは、このネロにとっては、かなり因縁のある日のようで、最初の妻オクタウィアと結婚したのがこの日であるとともに、その9年後の同じ日にこの妻を殺し、さらに6年後、自らの命を絶ったのもこの日のようです。

意図としてそう仕向けたのか、と思えるほど、ドラマチックな筋書きですが、こうしたコインシデンスはままあることで、私の父は幼いころに母親を亡くしているのですが、父もまたその母親の命日に身罷っています。

そんなことってあるんだ、とその当時も驚いたものですが、長らくリハビリ病院で寝たきり生活だった父を祖母が憐れんで、呼んだのではないかと今も私は思っており、ネロの死もまた、殺害したこの最初の妻があの世から意図として仕組んだのではないかと、考えてしまいます。

このネロというのは、ローマ帝国の第5代皇帝で、本名は、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという長ったらしい名前です。その晩年、民衆の反感を買い、元老院が「国家の敵」と断罪したため、逃亡した先のローマ郊外で自らの喉を剣で貫き自殺しました。

しかし、自分では死にきれず最後は奴隷に切らせて果てたといい、わずか31歳という若さでした。

さらに死後もネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエという刑を課されたといいます。これは、「記録抹殺刑」の意味であり、生前の功績をすべて抹殺するという、暴君とはいえ、行った数々の善政をも否定するものでした。

ところが、このネロを自死に至らしめた元老院に加担し、その後に第6代の皇帝になった
セルウィウス・スルピキウス・ガルバは、わずか1年の在位で、ルシタニア(イベリア半島西部)総督であったマルクス・サルウィウス・オトに暗殺されて死んでいます

ガルバが失脚した原因は、ネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図ったものの、潔癖すぎた人だったがために、軍部内での賄賂などを一切認めず、このため、軍隊の支持を得ることができなかったためです。

また、民衆の反乱をしばしば許すなどネロの死後もその治世を安定させることができず、オトに殺害されましたが、その後皇帝の座についたこのオトもまた、軍部の支持を得ることができず、わずか3ヶ月の在位で自殺しています。

古代ローマ帝国は、初代皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝、すなわちアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの治世の代には安定した繁栄を築き、この時代は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれましたが、ネロの死によってこの王朝は5代94年の歴史にいったん幕を下ろし、断絶することになります。

以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、上述のようにガルバやオトといった短命の皇帝が相次ぐなど、ローマは内戦といもいえる状態に突入しました。

従って、ネロは暴君だとネガティブな面ばかりで批判されがちですが、ローマの安定を図るために周囲の粛清などによってタガが緩み始めた帝国を引き締めようとしたのではないかとみる向きもあるようです。

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ネロの生前の評価が高かった証拠に、死後にネロを神格化する向きもあったようで、ガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認め、ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買いました。

また、オトの次の皇帝アウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行い、慰霊祭を催して民衆を喜ばせたといいます

さらに後年に11代皇帝となるティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスは、この人も暴虐な君主として恐れられた人ですが、その暴君ぶりはネロが乗り移ったためだという伝説や、このほかにもネロがよみがえったとする伝説は多々あります。ローマ周辺の属国などでも、ネロが蘇ったとする「偽ネロ」の出現が相次いだといいます。

ネロは、皇帝に即位したのち、その治世の初期には名君の誉れが高かったといいます。家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、このころローマを襲った大火後にもネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策が実行されました。

このローマ市の再建は非常に市民に受けがよかったといい、ネロに批判的だった勢力も、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と評価しています。

また、ネロは建築技術の革新にも大きな足跡を残しました。当時のローマ市内は木造建築がメインでしたが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、現在でもその高い耐久性が評価されているローマン・コンクリートを生み出しました。

さらに、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれており、たびたび起こった住民間での争いなどにも公平な対処をしたといわれます。南イタリアのポンペイの円形闘技場起こった住民間の争いでは、ネロはこの後10年間、闘技会の開催を禁止しており、これは、市民の秩序と安全のためだったといわれています。

このほか、この当時「パルティア」と呼ばれ、現在のアルメニアやイラク、グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェート、サウジアラビアなどにまたがる帝国との外交政策も成功させ、その後こうしたオリエント諸国とは50年以上平和を保つことができました。

ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」申し出て受理されています。

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これほど善政を敷いてローマ市民からの受けもよかったネロが、何故暴君と呼ばれるようになったかですが、これは、ネロが皇帝になるために第4代ローマ皇帝であった伯父のクラウディウスの後継者と目されていた、息子のブリタンニクスを毒殺したのに引き続き、数多くの近親や側近を殺しているためです。

その4年後には実母のアグリッピナを殺し、3年後には妻オクタウィアを自死に追い込み、さらに3年後には家庭教師のセネカを殺害しており、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として多数のキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになったものです。

ただ、ネロの後半生の悪行は、ネロの二番目の妻、ポッパエア・サビナによるものとする説も多く、ネロを牛耳り政治に介入しようとした母親のアグリッピナの暗殺を画策し、ネロの最初の妻のオクタウィアが不倫をしているとネロに告げ口したのもこのポッパエアだといわれています。

母親のアグリッピナや、妻のオクタウィアが本当にそういう悪いことをしていたのかどうかについては諸説あるようですが、いかんせん、こうした近親者を死に至らしめるという行為は、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題でした。

ネロの幼少期の家庭教師だった、セネカは、ネロが皇帝になったその初期にはブレーンとして彼を支え、哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、この時代の代表的な文学者としても有名な人でした。

ところが、その晩年には横領の罪を着せられ、セネカはこれを機に、ローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、今後は研究のために生涯を捧げたい旨をネロに伝えたといいます。が、64年のローマ大火に際しては今度は放火犯の一味として告発されます。

放火犯として処断されたキリスト教指導者と手紙をやり取りしていたと断罪されましたが、後世、この書簡自体が全くのでっちあげだったことがわかっており、この告発からセネカは、ネロに「ローマから離れて地方で暮らしたい」と要望しました。しかし叶えられず、以後は病気と称して部屋から出ることを避けるようになりました。

その後、ネロを退位させて新たな皇帝を擁立しようとする陰謀計画が露見した際、その共犯者とされる人物がセネカこの陰謀に関与していると名指ししため、ネロはセネカを尋問するべく役人を送りました。

しかし、セネカは曖昧な対応に終始したため、ついにネロはセネカに自殺を命じました。このときネロはまた、セネカの甥で詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌスがこの陰謀に関与したとして、同じく自害を命じています。

セネカは始めにドクニンジンを飲みましたが、死に切れなかったため、風呂場で静脈を切って死に至ったとされています。このとき、セネカは最期に以下のように語ったそうです。

「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」

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こうしてセネカもまた自死とはいえ、ネロに殺害されましたが、このときセネカの妻パウリナも夫と共に自殺を図りました。しかし、これ以上の評判下落を恐れたネロによって阻止されたといいます。

こうした周囲の人間の粛清のほかにも、ネロは暴君といわれるようになる数々のエピソードを残しています。

例えばネロは自分のことを「芸術家」と思い込んでいたようで、歌が好きだっために、数千人に及ぶ観衆を集めコンサートと称してワンマンショーを開くのが趣味だったといい、さらに「青年祭」という私的祭典まで興し、ここで自ら竪琴を演奏したといいます。

4年に1度開かれるオリンピア祭(現オリンピック競技)に対抗し、5年に1度開かれる「ネロ祭」なるものも創設したといい、これは音楽、体育、戦車の三部門からなる大会で、この内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場したそうです。

元老院は皇帝がまるで庶民のような行動をするのを阻止しようと、出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたといいますが、ネロは「おーきなお世話だ、ワシは堂々と出場して勝利する」とこれを拒否したそうです。

さらにはオリンピア競技にも出場し、優勝によって獲得した栄冠は1800にも及んだといいます。もっともこれは主催者側が画策した大胆な出来レースであり、その多くの勝利は明らかに不正であり、戦車競技などでは戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになったこともあったといいます。

また、ネロは「詩人」としても舞台に立ちたがったといいます。住民を集めて独唱会も開いてたといいますが、そのあまりのへたくそ加減に退屈して逃げる者が続出。しかしネロはこれを見越して出入り口が使えないようにしていたといい、このため、塀をよじ登って脱出する住民が続出し、死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者まで出たといいます。

更にはネロの独唱中に外に出ることを禁じられていたがため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられており、ネロの親友の一人はネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因でその後ネロから絶交を申し伝えられたそうです。

こうした歌手の真似事のほかにも、部下や親族の中に美人を見つけると皇帝の権限で搾取をしたそうで、この当時は男色も普通だったため、見目麗しい男性をみつけるとつまみ食いをしていたそうです。また、あるときには、スポルスという美少年を去勢させ妻に迎えて歴代の皇后の装身具で着飾らせたともいいます。

皇帝暗殺の陰謀に関連して、有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したこともあり、やがてこうした振る舞いは、皇帝としてふさわしくないと側近や元老院だけでなく多くの市民にも見放されるようになり、最後には軍からも反感を買うようになっていきます。

こうした憤懣が高まり、68年3月には、ローマの属州で、現在のフランス東部にあったガリア・ルグドゥネンシスというところで、反乱が勃発。ここの総督で、こののちネロに続いて皇帝になるガルバや親友だったオトまでもがこれに同調しました。

この反乱はいったん鎮圧され、ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡しますが、その後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロはさらに市民の反感を買うようになります。

こうして元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを逆に「国家の敵」と断じ、前年に国家の敵としていたガルバを皇帝に擁立します。これによって、ネロは国外逃亡を図り、ローマ郊外で妾の解放奴隷の別荘に隠れましたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺しました。

その死ぬ直前にネロは、「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という有名な言葉は吐いたというのですが、これが本当かどうかの真偽は定かではないようです。

また、ネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに息絶えていたネロに危害を加えるのはさすがに人の道に反すると考え、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとしとき、突如ネロが目を見開き「遅かったな。しかし、大儀である」と言い残し、目を見開いたまま絶命した、という話も残っています。

百人隊長はこれを見て仰天し、恐怖したといいます。が、これはあまりにも出来すぎた話なので、これも後年の創作であるという説が強いようです。

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このように、この皇帝ネロの短い生涯には光と陰がありますが、14年という比較的短い在位中に造られた数々の「ローマ建築」は、現在にも受け継がれ、高い評価を得ています。

ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、その代表的なものであり、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設されました。

ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池とこの宮殿を建設しました。

その後この宮殿はほとんど壊され、その代りに現在まで残るコロッセオが建設されましたが、今も残るこの当時の浴場の地下には、その宮殿の一部が残っています。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、これはローマン・コンクリートによって構築されたドームでできた八角型の部屋です。

ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、この時代から使われるようになったローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅にこうした革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となりました。

ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用され、宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウムが建設されました。

このコロッセウムは、当初の正式名称は「フラウィウス闘技場」だったそうですが、建設開始当時にはまだネロの巨大な像、「コロッスス」が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれています。

このほか、ネロが手がけた建築事業のうち、その最大規模のものが「コリントス運河」だといわれています。アテネの約100キロ西にあるこの運河の開削をネロは67年に開始。

ギリシャの本土とペロポネソス半島とをつなぐ幅約6kmのコリントス地峡は、イオニア海につながるコリンティアコス湾とエーゲ海のサロニコス湾を隔てており、船による両海の航行を妨げていましたが、この運河の開削によって、エーゲ海からイタリア側への航路はかなり短縮される予定でした。

この運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていましたが、ネロの時代についにこれに着手。6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘りましたが、その途中にローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまいました。

死後、帝位についたガルバによって工事は中断され、その後長きにわたって放置されていましたが、その後1815年ぶりの1882年に工事が再開されました。

途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難などもありましたが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけました。現在もネロが計画した運河は、この完成した現在のコリントス運河の一部となっており、ネロの時代の土木建設技術の高さがうかがわれます。

このように、暴君といわれつつも数多くの偉業をなしとげたネロですが、その評判がかんばしくないのは、やはり多数のキリスト教徒を迫害したことによるものが大きいようです。

人類史上初めてのキリスト教徒迫害を実施したといわれており、当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するキリスト教を嫌悪している者が圧倒的に多数派であったといい、ネロもその一人でした。このため、ネロはローマ大火にかこつけて、多数のキリスト教徒を殺害しました。

挙句のはて、この迫害は「人類(ローマ国民)全体に対する罪」によるものだとキリスト教徒を一方的に断罪しており、このためもあって、現在でもキリスト教文化圏を中心にネロに対する評価はことさら低いようです。

また、初代のローマ教皇・ペテロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したともいわれており、このため、キリスト教信者の間では、ネロは悪魔や堕落した女性(大淫婦)で暗喩される人物となっています。

男性なのに、なぜ大淫婦とされるかについては、上述のとおり、ネロには男色の趣味もあり、花嫁衣裳を着て解放奴隷との結婚式をあげたという話が残っているほか、宝石趣味があったとされ、おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる嗜好があったためのようです。

宝石の中でもとくに蛍石が大好きだったといい、気に入った蛍石はどんな手段を使っても手に入れていたそうで、このためある執政官は、ネロに取られたくないばかりに蛍石製の柄杓を死の直前に叩き壊してしまったと伝えられています。

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また、キリスト教では、「666」を「獣の数字」つまり、悪魔の数字として忌み嫌いますが、「皇帝ネロ(Nero Caesar)」をギリシア語で表記し、その頭文字を「数秘術」で読み解くと、それぞれ50,200,6,50,100,60,200になるそうで、その和が666になるということです。

もっともこれはネロの死後のこじつけだと思われ、キリスト教徒を迫害したネロのことを、暴君転じて、悪魔としてみなし、その象徴としてこの数字の持つ意味を悪魔主義的なものとしてみなすようになったものです。

映画「オーメン」で有名になりましたが、欧米では「666恐怖症」と呼ばれるほど忌み嫌われており、有名な話としては、ナンシー・レーガンとロナルド・レーガン夫妻が1979年にロサンゼルスに転居した際、666 St. Cloud Roadという住所を668 St. Cloud Roadに変えさせたという事例があるそうです。

また、2003年には米ケンタッキー州にある神学校の電話の局番号が666であったため変更したという例や、2006年6月6日に子供が生まれることを懸念する女性が多数いたといい、2007年にも、オランダのあるキリスト教系財団が発行していた歌集が666号に達した時、彼らはその番号を飛ばしてこれを発刊しました。

日本でも、干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信がありますが、これは、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された八百屋お七が丙午生まれだとされたことに由来します。

以後、丙午の年には火災が多いといわれるようになり、丙午の年にはお産をためらう人が増えました。ちなみに偶然ですが、このお七が生まれたとされたという丙午の年は、西暦に直すと1666年になります。まさかキリスト教の666とは関係ないでしょうが、案外と数字の持つ意味というのは霊的なものを含んでいるのかもしれません。

さて、今日は暴君といわれたネロについて長々と書いてきましたが、このネロによって一時代が形成されたローマ帝国はその後400年もの間続き、その後東ローマ帝国、西ローマ帝国に分裂しました。その後476年に西ローマ帝国は滅亡し、東ローマ帝国を継承したといわれるオスマン帝国もまた、1461年までには滅亡しました。

もっとも、オスマン帝国を東ローマ帝国の継承者とみなすことには反対意見も多く、その滅亡をもって「ローマ帝国の滅亡」と認識されることはむしろ少なく、ローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いては「西ローマ帝国」の滅亡をもってローマ帝国の滅亡とすることが一般的のようです。

その継承国家としての資格は、西ローマ帝国滅亡後にとくに勃興したゲルマン系諸王国にあるといわれますが、現在、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会と関係の深いヨーロッパの国々はそのほとんどが継承者といっても間違いなく、またオスマン帝国滅亡後に興ったトルコやかつてのロシア帝国もその後継者を称していました。

現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しませんが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味であり、またイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分があるそうです。

そんな、ヨーロッパ各国の強豪が名前を連ねるサッカーワールドカップがもうすぐはじまります。

日本はローマ帝国とは縁もゆかりもなく、逆にこれらの皇帝ネロの亡霊が守る国々と対決していくことになりますが、ネロの亡霊に負けることなく、頑張って欲しいと願う次第です。

2014-0613