ここ伊豆に住むようになってから時々思うのですが、ここの景色は郷里の山口によく似ています。とくに山間の田園地帯などをクルマで走っているときなど、ふと、もしかしてここは本当は山口の田舎ではないかと思えるようなことがよくあります。
伊豆にはあまり高い山がなく、一番高いのは万三郎岳など天城山の1000m級の山々であり、山口もまた1300mほどの寂地(じゃくち)山が最高峰です。ほかは数百メートルの低い山々ばかりであり、これらの低山の合間を縫って里が切り開かれるため、あまり広大な田畑は存在しません。
従って、山口には棚田が多く、ここ伊豆でも低山と狭い田畑の組み合わせがいたるところに見られ、こうしたことが似たような風景を形成しているのではないかと思われます。
似ているといえば、変わった地名が多いことも似ているように思います。伊豆では、修善寺もそうですが、そのまま読めば「しゅうぜんじ」のはずなのに、なぜか「しゅぜんじ」であり、このほか、田牛(とうじ)、八幡(はつま)、原保(わらぼ)といった、なぜそう読ませるのか首をかしげてしまうものがたくさんあります。
山口もまたそうで、柳井市の伊陸(いかち)や、周南市の金峰(みたけ)、下関市の特牛(こっとい)、豊田町の八道(やじ)、長門の向津具(むかつく)などなど、本当にムカつくほど難解な読み方であり、素直に読ませてはくれません。
実家のある山口市内からほど近い街である、防府に(ほうふ)もそうで、普通に読めば「ぼうふ」なのに、なぜ「ほう」と読むようになったのかよくわかりません。
この防府の町の中心にある防府駅の北口を出て、商店街の中を歩いてさらに北へ1kmほど歩くと、そこには防府天満宮の赤いお社が見えてきます。防府天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並び日本三天神と称されており、また、日本でもっとも古い天満宮でもあります。
この防府はその昔、三田尻(みたじり)もしくは松崎と呼ばれていました。菅原道真は、大宰府に左遷される際、ここ三田尻港から流刑地である福岡に出港予定でしたが、時化のため数日をこの地で過ごしました。その際、この地がことのほか気に入ったと伝えられており、これがご縁で、道真の死後、ここに天満宮が祀られるようになりました。
三田尻と呼ばれていた時代にはまだ防府という呼び方はされておらず、幕末の頃の防府天満宮は、「松崎天満宮」あるいは「宮市天満宮」と呼ばれていました。勤皇の志士たちによって篤く信仰され、中でも維新の立役者として知られる高杉晋作もまた、熱心なこの天神の信者であり、頻繁に参拝していたようです。
晋作は、その晩年肺結核を患い、慶応3年(1867年)5月17日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。享年若干27。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、このとき、晋作ら勤皇の志士を助けていた野村望東尼にみとられて亡くなったと伝えられています。
野村望東尼は、長州の人ではなく、福岡藩の人です。福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚しましたが、すぐにこの夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりして幕末の志士たちの活動に貢献しました。
望東尼は、勤王の歌人でもあり、勤王の志士を多く匿った罪で、今の福岡県糸島郡の沖にある「姫島」に流され投獄されたこともありました。そのことを知った高杉晋作は、福岡藩脱藩の志士6名を送り込んで彼女を救出し、下関の白石正一郎邸に匿いました。
白石正一郎というのは、下関で万問屋を営んでいた豪商で、尊皇攘夷の志に強い影響を受け、高杉晋作などの長州藩の志士たちを資金面で援助していた徳人でした。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていたことがあります。
晋作は、世に名高い奇兵隊を組織するとともに、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として長州軍を指揮するなど活躍しましたが、その直後に肺結核のため療養生活を余儀なくされ、下関の北にある桜山という場所に小さな家を建て、野村望東尼や、愛人 おうのの看病による療養生活を送りました。
しかし、日に日に病状は悪化し、ついに死に瀕したとき、有名な辞世の句、「面白きこともなき世を(に)おもしろく」を詠みましたがそこで力尽き、代わりに東尼がこの下の句を引き継いで、「すみなすものはこころなりけり」と詠みました。
晋作はこの下の句を聞いていたかどうかもわからないほど衰弱していましたが、望東尼がこれを詠んだあと、「おもしろいのぉ~」といいながら亡くなったと伝えらえています。
望東尼は、晋作の死を看取ったのち、一年後、薩長倒幕軍の船出を見送るために、桜山からここ三田尻の地に移住しました。その際に、必勝「王政復古」を祈願し、天満宮に断食しながら7日間参拝しました。望東尼はまた、この7日間の参拝の際、天満宮に一日一首歌を奉納したといい、この歌の碑文が同天満宮の境内にあります。
「もののふの あたに勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え」
ところが、望東尼は、この7日間の参拝と断食による無理がたたり、病死してしまいます(慶応三年 1867年)。61歳でした。防府駅の南東側に県立の防府高校という学校がありますが、この学校のすぐ南側に野村望東尼終焉の地であることを示す記念碑があります。
道路を挟んで丁度その向かい側には、大正時代に移設された望東尼の終焉の宅も移設されて残っており、「史跡 野村望東尼終焉の室」という表示がなされています。
この望東尼の終焉の地や終焉の宅がある場所のすぐ西側には、「桑山」という小高い丘があり、公園として整備されていて、防府市民の憩いの場となっています。ここからは三田尻港が遠望でき、なかなか眺めの良いところです。
望東尼の墓は、この桑山の南麓にあり、その東側の山麓から少し離れたところが終焉の地という位置関係です。この終焉の地から桑山方面に向かって少し歩いて上るとお地蔵さんがたくさん並ぶ道があり、ここに大楽寺というお寺さんがあります。
この寺の案内板には、「望東尼香華所」という表示があり、境内には墓所こそないものの、本堂に望東尼の位牌が安置されていて、「防府望東尼会」の主催で毎年供養が行われているそうで、この寺をはじめ、この地域の人々が望東尼を当地の偉人として大切に扱っていることがわかります。
実は、この寺の墓所には、30年ほど前に亡くなった女優の夏目雅子さんの墓があります。
えっなぜ?と意外に思う人も多いと思いますが、これはご主人であった伊集院静氏が防府市出身であり、彼の家の菩提寺がこの大楽寺だったためです。
この伊集院静という名前を本名だと思っている人も多いかもしれませんが、これは作家としてのペンネームです。実は伊集院さんは、日本に帰化した韓国人2世であり、帰化前の名前は、「趙 忠來(チョ・チュンレ、조 충래)」といいます。
1950年に防府市で生まれ、のち日本に帰化した際、本名を西山忠来(にしやまただき)に変え、その後作家として有名になったため、ペンネームのほうが広く知られるようになりました。
前述の山口県立防府高等学校を卒業しており、その後進んだ立教大学では、文学部に所属して日本文学を学び、卒業後は広告代理店に勤め、その後CMディレクターになりました。広告代理店時代に最初の夫人と結婚し、二児をもうけていますが、1980年に離婚。
その翌年の1981年、「小説現代」に「皐月」を発表し「伊集院静」の名前で作家デビュー。しかし、このペンネームは実は自分で決めたのではなく、勤めていた広告代理店に入社予定になっていた別の女性ライターにつけられるはずの名前を与えられたものでした。
入社後、本人は元の名である「趙」で作家活動を続けていくつもりでしたが、ある時、スポンサーへのプレゼンテーション時にこの「趙」の名を使おうとしたところ、この広告代理店の社長が「いや、それではダメです。これでやってください」と渡された名刺に印刷してあったのが「伊集院静」でした。
この社長は、新人が入ってくるたびに、本名では仕事をさせないという妙なポリシーを持っていたといい、この「伊集院」という名前の元ネタは、大和和紀作の漫画「はいからさんが通る」の登場人物からとったものでした。ただし、原作では「静」ではなく、伊集院「忍」であり、これはこの漫画のヒロインの許婚の少尉の名前でした。
その後、「機関車先生」などのヒット作に恵まれ、故郷の防府市を舞台とした自伝性の強い「海峡」なども著しました。1984年、かつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールとして人気を博していた夏目雅子さんと一緒に仕事する機会があり、これをきっかけに交際を始め、7年後に再婚。
しかし、夏目さんはその後急性骨髄性白血病を発病し、1985年9月11日に27歳の若さで亡くなり、この地に埋葬されたというわけです。
この夏目さんの墓のある大楽寺の墓所また眺めの良い場所であり、ここからも防府市街が見通せます。墓には、戒名として「雅月院梨園妙薫大姉」という名が刻まれ、その脇に本名である、西山雅子とともに、「芸名夏目雅子二十七才」とも刻まれており、今でもファンだった人が東京などからわざわざ墓参するため、いつも花が絶えないといいます。
伊集院さんはその後1992年、「受け月」で直木賞を受賞し、同年8月に現在の夫人の女優篠ひろ子さんと再婚。現在は仙台市妻と共に在住のようですが、仕事柄、東京でホテル住まいのことも多く、また取材での国外滞在も頻繁にあるため、仙台にいるのが1年のうち1ヶ月位の年もあるといいます。
自らのエッセイには、東京は生涯のほとんどを過ごしているにもかかわらずなぜかなじめず、また故郷・防府に対しても「安堵はない」と書き、また仙台に至っては、犬が中心の家の片隅で仕事と競輪をやっているだけと書いているそうです。
こうした放浪癖のある人であるためか、結婚前も仕事をするための住処として、鎌倉にほどちかい「逗子なぎさホテル」を下宿先としていたそうで、ここは、後の妻・夏目雅子さんとの愛をはぐくんだ場所でもあり、結婚前の7年間をここで共に過ごしています。
夏目さんの死後、伊集院さんはしばらく表舞台から姿を消し、喧嘩やギャンブル、酒におぼれる生活を送ったといいますが、同じく一番身近だった人をなくしている私にもその悲しみはよくわかります。
ところで、この夏目雅子さんが眠る大楽寺には、野村望東尼が高杉晋作の死後防府で過ごした際に、並々ならぬ加護を加えたある人物と、その妻の墓もあります。
楫取素彦(かとりもとひこ)といい、明治時代に活躍した官僚、政治家でもあり、晩年その功績を認められて男爵の爵位を授かっています。初代の三田尻宰判管事(市長)も務めており、明治9年には、初代群馬県令(県知事)となり群馬県の発展の礎を築きました。望東尼の墓の建立にも尽力しており、お墓の裏には、楫取素彦の撰文が刻まれています。
楫取は幕末には、維新の志士でもあり、山口では、望東尼を自宅に住まわせたこともあり、その活動の中で知り得た薩長連合倒幕軍の情報を望東尼に教えたりもしていました。望東尼を福岡から防府の地に導いたのも楫取だといわれています。
楫取はまた、一つ年下だった吉田松陰とも無二の親友だったといわれています。松下村塾の創立にも関わっており、こうした深い関係から、松陰の2番目の妹「寿(ひさ)」を貰って結婚しており、この寿と死別後は、さらに寿の妹であり、松陰の末妹でもある「文」と再婚しています。
実は、この文こそ、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインのモデルです。「花燃ゆ」は、大河ドラマとしては、第54作であり、昨年末の2013年12月にその制作発表が行われました。
吉田松陰の吉田の性は、婿養子として入った先の家の苗字であり、元々は「杉寅之助」と言いました(通称は寅次郎)。このため、妹も本名は「杉文」ということになりますがが、のちに久坂玄瑞と結婚して久坂姓を名乗ることになり、その後さらに、楫取素彦と再婚後は改名して「楫取美和子」と称したため、生涯で3つの名前を持ったことになります。
久坂玄瑞の名は知っている人も多いと思います。松下村塾における松陰の高弟のひとりであり、のちに尊王攘夷運動を牽引しますが、禁門の変(蛤御門の変)で、会津と薩摩連合運に敗れ、自刃しました。
この玄瑞の妻である文役を務めるのは、大河ドラマ初出演となる井上真央さんで、兄である松陰役は伊勢谷友介、久坂玄瑞は東出昌大、楫取素彦役は大沢たかお、という豪華キャストです。
無論、高杉晋作も物語に登場し、その役を担うのは高良健吾ということで、こうしたメインキャストのすべてがこれまでに放送されたNHKドラマの主演・副主演経験者ばかりという、NHKとしても相当気合いの入ったドラマになるようです。
こうした登場人物に加え、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜながら、幕末から明治維新へ向けた激動の時代を描いていくといいますが、現在までのところ、まだこの伊藤以下のキャストははっきりとは決まっていないようです。
この杉文は、二番目の夫、楫取素彦の妻となったあと、今も防府市内にある華浦幼稚園(現・鞠生(まりふ)幼稚園)の創立のため夫とともに奮闘しており、また後年、素彦が貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられた際、美和子もともに貞宮御付となっており、後半生は夫と二人三脚での「教育」がテーマだったようです。
ほかにもその生涯をみると山あり谷ありであり、かなり激しい一生を送っており、なぜこの人物にNHKが目をつけたのか、その理由がよくわかります。
ただ、吉田松陰の妹というわりには、そのかなりのネームバリューにも関わらずこれまではほとんど知られておらず、また、再婚相手である、楫取素彦もあまり知られていません。おそらくはこの人が群馬県令(県知事)になったということを、群馬県民でも知っている人は少ないのではないでしょうか。
ところがこの楫取素彦が群馬県令に在任中には、今年世界遺産登録が決まっている、富岡製糸場が完成しており、楫取はその建設とその後ここに勤めることになる女工たちの教育にも深くかかわっており、このほか現在の東京大学農学部、筑波大である「駒場農学校」などの旧制教育機関の設立にも尽力するなど、かなりの活躍をしています。
おそらくNHKとしては、ドラマ前半には松陰ゆかりの人物たちをとりまぜながら、維新のドラマティックな時代変遷をとりあげつつも、後半ではこうした明治という新しい時代における創成期の教育界における数々のエピソードを取り上げていこうと考えているに違いありません。
富岡製糸場の世界遺産登録が決まったことも、このドラマの企画を後押ししたに違いありません。、
毎年前半では高視聴率を稼ぐものの、回が進むにつれて尻すぼみになりがちな大河ドラマにおいては、後半までいかに視聴者の興味を惹きつけていくかが重要なポイントであり、この楫取美和子という、誰も知らないような地味なヒロインを選んだのも、NHKとしてはそれなりの戦略があってのことでしょう。
美和子が53歳のときには、実姉であり、夫の先妻でもある寿子の息子(つまり美和子にとっては甥であり、義子でもある)「楫取道明」が、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂において、抗日事件により殺害される、という事件も起こっており、こうした教育界における大事件もまたドラマの主筋の中に盛り込まれていくに違いありません。
ただ、松陰の実家の杉家や楫取家、玄瑞の久坂家などの諸家の交わりは非常に複雑で、このあたりの説明が過剰になると娯楽番組としての楽しみがスポイルされる可能性もあるため注意が必要です。
ここでもこのあたりの人間関係のことが少々わかりにくいので、少し整理しておくこととしましょう。まず杉文は、杉寅之助、すなわち、吉田松陰の末妹になりますが。この杉家には7人の子供がいました。
杉家というのは、萩に長らく続いた一族ですが、長州藩での家格は「無給通組」であり、これはかなりの下級武士で、石高も26石という極貧の武士でした。1石=1両と言われており、だいたい1両=2~3万円くらいといわれていますから、年収はわずか50~80万円にすぎなかったことになります。
当然武士業だけでは食っていけないため、農業もしながら生計を立てて7人の子供を養っており、おまけに三男の敏三郎は発声が不自由でした。その兄妹構成は、修道(民治)、松陰、千代、寿、文(美和子)、敏三郎、艶の順であり、艶は文の生後すぐに夭折したため、実際には文が末妹ということになり、これらを更に整理すると以下のようになります。
修道(民治) →長男、杉家を相続 1828?
松陰 →吉田家に養子として出、幕府により斬刑で死亡 1830年生
千代 →長州藩士、児玉祐之と結婚 1832年生
寿(ひさ)→楫取素彦と結婚するも、早逝 1838年生
文(美和子) →久坂玄瑞と結婚するも死別し、楫取素彦と再婚 1843年生
敏三郎 →障害があり、生涯独身だったと思われる 生年不肖
艶 →幼いころ夭逝 生年不肖
一家の主は、杉常道といい、通称は百合之助。無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として生まれ、文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に同じ萩の下級武士、児玉太兵衛の養女、瀧子を娶りました。
この児玉家というのはもともと杉家と関係の深かった家のようで、細かく調べていないので本当かどうかはわかりませんが、のちに長女の千代が結婚する児玉祐之という人物もこの児玉家の人かもしれません。ただ、山口には児玉姓の人は非常に多く、ほかにも明治の陸軍大将で日露戦争で活躍した児玉源太郎などがいます。
妻をめとって家督も相続した常道は、農業をやりつつも武士としての務めも真面目にこなす人物だったようで、公的には記録御次番役を拝領し、その後呉服方なども務めています。記録番は下級の事務官であり、呉服方は役人のユニフォームを商人から買い入れる役目であり、いずれにせよ、上級官僚ではありません。
この常道には大助という弟がいましたが、常道が家督を継いだことから、この弟は他家へ養子に出されました。ところが、この大助は若くして死去してしまい、山鹿流兵学師範家でもあったこの養家の吉田家(家禄57石)の家督を継ぐものがいなくなったことから、これを次男の寅之助(松陰)が相続することになりした。
このとき、松陰はわずか5歳でしたが、このときから杉寅之助ではなく、吉田寅之助と名乗ることになります。また、常道には、大助の下にもうひとり弟がおり、これを文之進といいましたが、彼もまた、大助と同様に養子に出されていました。
ただし、入った家は、家格では杉家より上にあたる大組士で、40石取りの玉木正路(十右衛門)が主でした。文之進はこの玉木家の養子となって家督を継ぎ、玉木文之進と称するようになりました。
松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家でしたが、実の叔父にあたるこの玉木文之進が相続した玉木家も山鹿流兵学に熱心で、このため文之進も兵法に非常に明るい人でした。
実は、のちに高名となる松下村塾は、この玉木文之進が創始者であり、のちにこの塾を引き継ぐことになる幼少期の松蔭に山鹿流兵法だけでなく、その他の学問についても厳しく伝授しました。
その教育方法は、かなりのスパルタ教育だったようで、その厳しさについては、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に細かく描かれていますが、一例としては、松陰が膝を揃えて文之進の講義を聞いていたとき、頬に蚊が止まったのを払おうとしただけで、文之進に思いきり殴り飛ばされたといったエピソードなどがあります。
剣術の稽古などでも、松陰が失神するまで、徹底的にその技を鍛えこんだといい、そのあまりに厳しい教育に、母の瀧子が、「寅(松陰のこと)、いっそのこと死んでおしまい」と言ったといったことなども司馬さんの小説に書かれています。
そこまでして玉木文之進は松陰に「私利私欲を捨てさせる」ことを徹底したために、後に多くの維新の志士たちに影響力のある人物に成長したのだ、と言った意味のことを司馬さんは書いておられます。
こうした厳しい教育の成果もあり、松陰は若干11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義ができるほどの英才として成長します。
この講義の出来栄えが見事であったことにより、その後長州藩内でもその天才ぶりが評判となり栄進するとともに、その後過激な尊王攘夷運動に邁進していきますが、子ども時代の松陰の生活は叔父の厳しい指導はあったものの、その日々は父や兄とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読をするという穏やかなものだったようです。
このほか、農作業のあいまに頼山陽の詩などを父が音読し、後から兄弟が復唱していたというエピソードも残っており、夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませていたといい、貧しいながらも教育熱心な一家だったことがわかります。
ちなみに末妹の文は松陰より13歳も年下であり、松陰が玉木文之進からスパルタ教育を受けているころにはまだ生は受けていません。のちに松陰が物心がついたころ、常道の四女として誕生しましたが、その名付け親は松陰の師でもあった玉木文之進で、「文」という名前も玉木が自分の名からとって彼女につけたものです。
その後、長女の千代は児玉祐之に嫁ぎ、次女の寿はこのときまだ小田村伊之助と名乗っていた楫取素彦のもとへそれぞれ嫁ぎます。寿は文より5歳年上で、千代は1832年生まれで松陰より2つ年下でした。
その後、松陰は尊王攘夷を実現させるべく奮闘しますが、下田沖で黒船に密航しようとしたところを幕府廷吏に捕えられ、安政元年(1855年)から生家預かりとなり、常道宅に蟄居する事となりました。
このとき松陰は父や近親者に「孟子」や「武教全書」講じたりして過ごしましたが、その翌年の安政2年(1856年)は処分が一旦解け、このとき、叔父の文之進から松下村塾の主宰の座を譲り受け、その後ここで多くの維新の志士たちを育てていくことになります。
その翌年の安政4年(1857年)の12月、文も久坂玄瑞と結婚します。時に玄瑞18歳、文15歳でした。当初は「人間到る処青山有り」の漢詩で有名な、勤王の僧侶・月性が文を桂小五郎の妻に推したこともあったそうですが、兄の松陰が玄瑞の才を高く評価していたため、最終的にはこの松陰の強い勧めにより縁談がまとまりました。
このとき、この縁談を玄瑞に持ち込んだのは松下村塾の年長者であった中谷正亮という人で、玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしました。これに対して中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、その勢いに押され、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したといいます。
このことから、この文ことのちの楫取美和子は、平凡な容貌の女性だったのではないかと思われ、現存する明治時代になってからの晩年の写真からも往時の美形を想像させるような面影はありません。なので、美人さんの評判の高い井上真央さんがこの美和子を演じるというのは、ちょっと歴史考証的には無理があるといえるかもしれません。
この文の結婚2年後の、安政6年5月(1859年)、松陰の罪が確定して江戸護送となると、父の常道もその責を問われて藩職を罷免され、その直後松陰は斬刑に処されました。享年30(満29歳没)。
辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」であり、これもまた高杉晋作の辞世の句とともにかなり有名です。
常道は本来松陰に家を継がせるつもりだったようですが、この処刑により翌年、長男の修道に杉家の家督を譲っています。ところが、悲劇は更に続きます。このころ文の夫となった久坂玄瑞は、京都を拠点に江戸や各地で尊皇攘夷運動を続けていましたが、元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)において自害してしまいます。
文と玄瑞の間には子供がいなかったため、姉の寿と、このころまだ「小田村伊之助」と呼ばれていた楫取素彦の子、すなわち文にとっては姉の寿の子で、甥にあたる粂次郎(のちの道明)が久坂家に入り、養子となって久坂家を継ぐことになりました。
そしてこのあと、未亡人となった文は、長州藩最後の藩主となった毛利元徳の長男興丸(後の毛利元昭)の守役などを勤めていましたが、楫取素彦に嫁いでいた姉の寿が亡くなったことから、素彦と再婚しています。
この再婚話もなぜそうなったのかについては、興味深いところですが、NHKの「花燃ゆ」では、この謎解きも含めてその後の改革の時代をこの二人が力強く生き抜いていく、というストーリーになるはずです。
ちなみに、文の名付け親の玉木文之進は、明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱において、養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で自害しており、おそらくはそのあたりのことも、このドラマの中で描かれていくことでしょう。
このほかにも、この吉田松陰の一族に関しては色々面白いエピソードがあるのですが、今日はもう紙面もかなり進んできたことから、これらについてはまた別の機会に書くことにしましょう。
そろそろ、下田公園のあじさいが満開かと思われます。みなさんもこんな私のブログなど読んでいないで、ぜひこちらにもお出かけください。