バイキンマンは悪役?

神戸で、子供たちに人気のアニメキャラクター、バイキンマンにまつわる新しい体験型施設ができたそうです。

中央区の神戸ハーバーランドにあるテーマパーク「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」の別館としてオープンした「バイキンひみつ基地」で、同様のミュージアムは全国に5カ所ありますが、バイキンマンが“主役”の施設は仙台市に続き2館目なのだとか。

施設は広さが約245平方メートルといいますから、15m四方ほど。決して大きくはありませんが、子どもたちが体を動かしたり、遊具に入って写真撮影したりできることを重視した設計になっていて、目玉は高さ約3.4メートルある、バイキンマンが作った巨大メカ「だだんだん」だそうです。

このほか、乗り物の「バイキンUFO」や「ドキンUFO」も再現して設置されているとかで、関西のアンパンマンファンにはたまらない施設でしょう。

営業時間は午前10時~午後6時。入館料はミュージアムとの共通チケットで、1歳以上は年齢に関係なく1人1800円。高くないか?とも思うのですが、本館の方も楽しめることと、小学生以下は夏ごろまで、バイキンマンに関連した入館記念品がもらえるとのことで、それならいいか、という人も多いでしょう。

バイキンマンの登場

このバイキンマンの姿形を、何らかの機会に見たことがある人も多いでしょう。アンパンマンの宿命のライバルであり、アンパンマンを倒して世界を“バイキン“で征服するために、バイキン星“からやってきた”バイキン“です。

赤ちゃんの時に卵の状態でやってきたこのバイキンマン。バイキン城を根城とし、当初は一人暮らしでしたが、現在はドキンちゃんや、カビルンルンなどの手下と生活しているそうで、名前とは裏腹にかなり裕福な生活をしていそうです。

バイキンマンが登場することになったのは、作者の「やなせたかし」さんが「アンパンマンに「何かが足りない」と思い悩んでいた頃、彼の友人、いずみたくが演出したミュージカルを見たことだそうです。

「怪傑アンパンマン」というこのミュージカルの上演時に、その観客の様子を観察していたやなせさんが「悪役が必要だ」と思い至ったことが、この新キャラクターを登場させるきっかけになったのだとか。

自身の顔を分け与えるという、「自己犠牲」の象徴であるアンパンマンに対して、バイキンマンは自己の欲求を満たそうとする「自己満足」の化身です。人間にも良い心と悪い心の両方がバランスを保って存在しているように、両者は「光と影」「プラスとマイナス」のような関係であって、片方だけでは存在できない、というわけです。

そのやなせさんも、5年前の2013年10月に亡くなりました。94歳という大往生でしたが、翌2014年2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された告別式には、ちばてつやを始めとする日本漫画家協会所属の漫画家60人が参列したといいます。

二次大戦では、下士官として、中国戦線に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったといいます。

従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったといいますが、この戦争では弟さんが戦死しています。

戦後、絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたそうです。

1969年発表したアンパンマンは長らくヒットしませんでしたが、1988年(昭和63年)に、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」として日本テレビで放映されてから大ブレークしました。

バイキンマンというキャラクターについては、「怠けたい、いたずらをしたい等という人間の欲求不満を表現している」「バイキンマンは時にはいいこともする。悪に徹しきれないところがある」などと語っていました。

また、「決してバイキンマンは死ぬことはない」「人間が風邪を一度ひいて、またかかるように、やられても平気な顔をして次に出てこられる」とも語り、まさに「バイキン」のような不死身の体を持ったところが大きな特徴だとしていました。



なぜバイキンマン?

それにしても、なぜ、いま、バイキンマンなのでしょうか?アンパンマンの主役は無論、アンパンマンであり、ほかにも人気のキャラクターがいそうなものなのに、なぜ脇役のバイキンマンをテーマにしたミュージアムが成立するのか。そもそも儲かるのでしょうか?

いろいろ調べてみたところ、意外にも「アンパンマンよりバイキンマンの方が好き」という人が多いことがわかりました。

マンガやアニメに登場する悪役キャラの中には、「敵だけど憎めない」キャラクターも多いようですが、その中でも断トツ人気なのが、バイキンマンのようです。

その賛辞の声を集めてみました。

・絶対に根はいい奴。アニメを見ているとけっこう酷い悪さをするなぁと思うけれど、ちゃんと最後はアンパンマンにやられてしまうところがいい。
・ドキンちゃんに振り回されているところがかわいい。
・本当はやさしいやつだと思う。ストーリーによっては、バイキンマンが誰かを助けたりしているときもある。
・言動がかわいい。「ハ~ヒフ~ヘホ~」というわけのわからないセリフが大好き。

とくに女性を中心に人気が高いようで、いつもアンパンマンにやられてしまうバイキンマンは、ドキンちゃんのために尽くすなど、紳士な一面もあり、「憎めない」、「かわいい」、「健気」といったところが、女心をくすぐるのでしょう。

他のアニメの中にも似たようなキャラクターがたくさんいます。例えば、ドラえもんに出てくる「ジャイアン」。いつもはのび太にいじわるばかりするけれど、ときに情味あふれる、頼れるキャラクターに変わるところが、ファンの心を惹きつけるようです。

ほかにも「ドラゴンボール」の敵キャラクターである、「ベジータ」や「ピッコロ」がいます。時にやさしい一面を見せるこのキャラクターを「嫌いになれない」という人も多く、主人公・孫悟空をしのぐほどの人気を獲得しています。

ポケモンに登場する「ロケット団」もそうで、“悪の組織”なはずなのに、コミカルな面があるのが憎めないところ。ロケット団が登場するのを毎回楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。

このように、悪役キャラは、悪い面しかないというわけではありません。「その気持ち、わかる!」と共感できる部分や、ときには味方となってストーリーを盛り上げてくれることもあり、アニメ作品にとっては重要な存在です。

アニメだけではありません。悪役は、その他の映画・テレビドラマ・舞台演劇・小説などでは欠かせないキャラであり、「憎まれ役」なくしてストーリーは成立しません。

マスメディアにバッシングされている人物、組織内で人に憎まれている人物ではありますが、「敵に回る」、「敵に徹する」という言葉があるとおり、彼らがその役を演じてくれているからこそ、物語は面白いわけです。

悪役は、いわゆる「勧善懲悪」の要素を含む物語では必要不可欠の要素です。悪役がふてぶてしく立ち回ることにより主人公の存在感をより鮮明にし、また主人公やその仲間に倒されることで視聴者(読者)にカタルシス(浄化作用)を与えます。

脇役でありながら、基本的には物語の根底を彩り、主役を引き立たせるという重要な役割を担っています。地味ではあるものの重要な存在であり、したがって、悪役が魅力的であればあるほど物語の完成度は高くなるという不思議な存在です。




プロレスにおける悪役

プロレスにおいても「ヒール(heel)」は欠かせません。ヒールとは、プロレス興行において、悪役として振舞うプロレスラーのことであり、悪役、悪玉、悪党派などとも呼ばれます。「善玉」を相手に反則を多用したラフファイトを展開しますが、最後にはやっつけられることで、観客は溜飲を下ろします。

“heel”とは、英語におけるスラングで、もともとは、「卑怯な奴」という意味合いを持ち、それがプロレスに転用されたようです。その由来は聖書にあり、聖書に出てくる一番最初の話、「アダムとイブの物語」の中では、蛇に唆されてイブが、続いてアダムもが「知恵の実」を食べてしまいます。

これを見た神は怒り、蛇と人間に対して「以後は、人間は蛇の頭を砕き、蛇は人間の踵(ヒール)を砕くようになるだろう」と宣言しました。ここから、「踵に食らいつく蛇」=「狡猾なもの」というイメージが生まれましたが、この言葉に使われていた「ヒール(踵)」そのものを悪の象徴とみなすようになったようです。

日本ではプロレスが流行るようになった初期のころは「悪玉」、「善玉」という、それまでよく使われていた日本独特の表現が用いられていましたが、欧米のプロレスラーが来日して多数活躍するようになって以後は、あちらの用語が日本語でも定着しました。

以後、プロレス業界において「ヒール」といえば、悪役を示すようになりましたが、これが転じて、現在では、プロレス以外のスポーツや一般社会や創作物の中でも、敵役的なイメージの人物をヒールと呼ぶことも多くなってきました。

このヒール、「金的」への攻撃、凶器の使用といった反則はもちろん、レフェリーへの暴行、挑発行為、観客席での場外乱闘、果ては他者の試合への乱入などなど、なんでもやります。何を行うかは選手それぞれ、独自の「ネタ」を持っており、時にヒールなのか、善玉なのかがわからなくなるようなキャラすらも登場したりもします。

この「善玉」のことを英語では、ベビーフェイス、あるいは略して「フェイス」といったりしますが、これは「正統派」を意味します。語源は「悪いことをすることを知らない甘ちゃん」といったほどの意味ですが、ヒールと違って日本ではあまり定着しませんでした。

プロレスにおいて、こうしたヒールが生まれたのは1920年代のアメリカといわれています。都市部で隆盛したレスリング・ショーにおいて「正義」対「悪」という、勧善懲悪的アングルが興行を盛り上げる上で必要と考えられ、導入されたという記録があります。

以後、プロレスの興業といえば、「ベビーフェイス」と「ヒール」の戦いというパターンが定着しますが、その後プロレスが国際化して、アメリカ以外の国でも行われるようになってからは、基本的にはどこの国でも自国のレスラーがベビーフェイス、外国人レスラーがヒールというふうになりました。

そのほうが、試合を盛り上げやすかったわけであり、興行収入も伸びました。アメリカでは人種に基づく差別や偏見によってこのヒールを決めました。従って、あちらでは黒人がヒールになることが多く、また戦後のアメリカでは、二次大戦で敵国人だった日本人やドイツ人がヒールになりました。

グレート東郷、ハロルド坂田といった、日系アメリカ人プロレスラーの名前を憶えている方はかなり年配といっていいでしょう。

オレゴン出身のグレート東郷のリングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときには決まって卑屈な懇願をし、その後突然豹変して「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」といった反則技で相手を窮地に貶めることを売り物にしました。

卑屈にも許しを乞うた後のいきなりの反則、というのがお決まりのパターンで、これは観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想させました。無論、その後は大反撃に遭い、負けを喫しますが、観客にとってすれば、卑怯な日本人を見事成敗できた、ということで心晴れ晴れ帰宅できるわけです。

一方のハロルド坂田のほうも同様なキャラでしたが、彼の場合は、1964年の映画「007 ゴールドフィンガー」にも出演。悪役ゴールドフィンガーの部下で、ツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する用心棒を演じました。同作品の世界的なヒットにより坂田は一躍有名な存在となり、以降20年にわたり俳優として映画やテレビに出演しました。

このほか、日本でも活躍したことのあるドイツ人のハンス・シュミット、スラブ系のイワン・コロフ、アラブ系のザ・シークなどをご記憶の方も多いと思いますが、なんといっても日本で有名なのは、正体不明の覆面レスラー、ザ・デストロイヤーでしょう。

ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人で、本名はリチャード・ジョン・ベイヤー。現在なんと88歳です。デストロイヤーは、昨年、日米両国の友好親善及び青少年交流に貢献してきた実績が評価され、秋の叙勲で、外国人叙勲者としては初めての旭日双光章を受章しました。

このほか、ジャイアント馬場もアメリカ修行時代にはヒールとして活動しており、日本でも力道山が活躍した時代には、外国人=ヒールという図式のもと、アメリカ人の悪役を力道山ほかの日本人レスラーが倒す、というのが定番の流れでした。

とくに、戦勝国であるアメリカの大柄なレスラーを、敗戦で意気消沈した日本の小柄な力道山が倒すという展開に当時の日本のファンは熱狂したものです。

ヒールの終焉と新時代

しかし、1980年代以降、次第にヒールは姿を消していきました。とくに1983年にロード・ウォリアーズがNWA世界タッグチーム王座を獲得した以降、単純な勧善懲悪の時代も終わり、1990年代にはストーン・コールド・スティーブ・オースチンやジ・アンダーテイカー、に代表されるような、「かっこいいヒール」が人気を博すようになりました。

ヒール=アンチヒーロー、という不思議な現象が起き、日本では蝶野正洋、鈴木みのる、藤田和之、またノーフィアーやラス・カチョーラス・オリエンタレスといった、悪役っぽいんだけどなぜか「カッコいい」というキャラが受けるようになりました。

こうした「風」を受け、かつてベビーフェイスだったレスラーが、ヒールに転向する、といった逆転現象も起きるようになります。これを「ヒールターン」と呼びます。

興行自体がマンネリ化するのを避けるためであったり、レスラー自身のベビーフェイスでの人気が今一つであったり、陰りが見えてきた場合や、若手レスラーのキャラクター作りのために行われるものです。従来は単純に善との戦いというパターンであったのに対し、悪役の幅をより広げることで、プロレスの復権を図るねらいがありました。

現在では、レスラーが新人・若手・中堅を経てトップレスラーへと上り詰めてゆく過程において、こうしたヒールターンがよく行われます。リング上のパフォーマンスで観客の心理をコントロールするスキルと演技力を身につけるためには有効と言われ、その実践訓練としてヒール修行は必須ともいわれるようになりました。

いわばトップレスラーを目指すにあたって超えるべき関門の1つともいえ、実際、ヒールレスラーのパフォーマンスに憧れてプロレス入りした者も珍しくはなく、自ら志願してヒールターンする、あるいは最初からヒールとしてデビューするケースもあります。

ヒールにターンする場合、観客が理解しやすい様に、他のベビーフェイスレスラーを襲撃する、リング上で仲間割れを起こす、コスチュームや髪型を変えるなどの派手なパフォーマンスを行うのが普通で、この豹変ぶりをみて、観客が驚き、次には熱狂する、というパターンがほとんどです。

エース候補と注目を浴びている若手選手が、ある日突然ヒールターンして狂人やエゴイストの様な振る舞いをする、という筋書きが組まれる場合もあります。

長期的なキャラクターイメージや販売戦略を考えた場合にはマイナスとなりかねなませんが、「若さゆえにフロントに反逆し、世代闘争を掲げて現エースという大きな壁に歯向かう」といった筋書きは、意外性を持って観客にアピールしたりもします。

キャラクターの立ち位置はヒールでありつつも、リング上での成長物語的な要素も絡めて単純な悪役像に落とし込まない様にうまくストーリー立てているわけであり、ここまでくるとプロレスというよりも何か演劇を見ているような気分になります。

実際、演出もいろいろ工夫されていて、ヒールターンを選手が自ら行動を起こす、といったケースだけでなく、ヒール軍団による勧誘される、といったパターンがありますが、無論、これは選手が所属する団体経営陣やプロモーターの判断によって決められ、了承されている演出であるわけです。

このため、選手によっては不本意ながらヒールに転向しているケースやもあります。この場合、それまでベビーフェースもしくはスター選手であった選手が1年以上長期欠場し、後遺症に悩まされ以前のファイトが出来なくなる、といった悪影響も時にはあるようです。

ヒールキャラクターには不向きな性格の者がヒールを演じているケースも少なくないようで、偽りのプロフィールに嫌気がさしたり、基本的な試合運びができないといった事態により、試合中に負傷してしまい、短期間で引退を余儀なくされてしまった選手もいるといいます。

希にデビュー前の新人をヒールとして売り出すために架空のプロフィール、たとえば元不良や暴走族出身といった出自をぶち上げ、デビュー戦でラフファイトの試合を行わせていたこともあったといい、ここまでくると明らかにやりすぎです。

プロレスにしても、それ以外のスポーツや一般社会においても、敵役的なヒールは「必要悪」であることは間違いありませんが、元々は悪ではない人間を悪役に仕立てる弊害というものはいつかどこかで出てくるものであり、本人の人格を尊重するうえにおいても、行き過ぎは戒めなければならないことです。

現在大きな話題になっている、森友学園問題における国会答弁を見ていると、なにやらこうしたプロレスのラフファイトと似ているようにも思えてしかたがないのは、私だけでしょうか。

誰がヒールなのか、あるいはベビーフェイスなのか、日に日にわからなくなってくる様相ですが、「観客」としての我々国民にとってわかりやすい構図としては、さしずめヒールは政府与党、ベビーフェイスは野党ということになるのでしょう。

が、はたしてこのヒールはもともと善玉だったのかどうか。実はもとからヒールではなかったのか、あるいはベビーフェイスも実はヒールなのではないか、とも思ったりもするわけですが、さてさて、みなさんはいかがでしょう。




おもちゃの未来

アメリカのトイザラスが、国内全店舗を閉鎖、というニュースが飛び込んできました。

債務総額は、昨年4月末時点で52億ドル(約5800億円)にも達していたといい、その背景には、Amazon.comをはじめとするインターネット通販の台頭や、ウォルマート・ストアーズなど、大型量販店の安値攻勢があるようです。

業績不振を受け、既に昨年の9月、連邦倒産法の申請を出していたとのことで、これは日本の民事再生法に相当します。以後、店舗およびネットを通じての営業は続けていましたが、ここへ来てどうやら持ちこたえられなくなったようです。

アメリカでのネーミング、「TOYSЯUS」または、「TOYS“Я”US」であり、ほかのお店とはちょっと違うのよ、といったアピールが受けたようです。日本法人のトイザラスの商標も「トイザらス」と一文字だけをひらがなにする、といったさりげない?アピールがあり、初めて見たときには、なかなかうまい商標だな、と思ったものです。

1948年、アメリカ・ワシントンで子供家具・洋品店「Children’s Bargain Town」を創業した、チャールズ・ラザラスという人が、玩具専門コーナーを設けたことに始まります。トイザラスの“ザラス”は、無論この人の本名から採ったものでしょう。

その後世界各地に店舗を誘致するようになり、イメージキャラクターとして採用した「ジェフリー」というキリンも世界中で人気者になりました。

2005年、米投資会社コールスバーグ・クラビス・ロバーツに買収されましたが、どうやらこのころからおかしくなっていたようです。2012年には、全米で子供向けタブレットの「タビオ」を発売しましたが、発売前、開発に関わった関連会社から企業秘密を盗んだとして訴えられるなど最初からつまづき、その後も販売は伸びていません。

日本トイザらスは?

日本への進出は、1991年のことであり、同年12月20日に茨城県稲敷郡阿見町に1号店となる荒川沖店が開設されました。牛久大仏のある牛久の近くにある街で、なんでこんなところに、と思うのですが、近くには柏市や成田市、つくば市といった大都市もあり、とくに、関東東部、北部の住民の潜在需要がある、と考えたのでしょう。

折りしも当時は日米貿易摩擦の最中でもあり、大きな話題となりました。2号店である奈良県橿原市の橿原店の1992年1月のオープンに際しては、当時のアメリカ合衆国大統領、ジョージ・H・W・ブッシュまでもが視察に訪れました。

この当時、アメリカからみれば、トイザらスは日本が課している高い関税の障壁打破の目玉的存在とみなされていたわけです。

以来、日本各地に、独立店舗だけでなく、スーパー・百貨店・ショッピングセンターのテナント、といった形で次々と出店し、2000年11月には100店舗目(としまえん店)が開店。現時点(2018年3月時点)では、姉妹店であるベビーザらスを加えると162店舗を展開しています。

その出店傾向をみると、とくに関東や関西などの人口集中地域では、郊外や再開発地域に出店し、店舗面積を確保しているのが特徴で、ここ伊豆においても、トイザらス・ベビーザらス 長泉店(駿東郡長泉町)があって、ここは近年都心からの移住者が増えている土地柄です。

しかし、日本トイザらスのほうの業績も思わしくないようで、2010年には、納入業者への不当な値引きや返品の強要による独占禁止法違反の疑いで、本社や物流センターなど数か所で公正取引委員会の立ち入り検査を受けています。日本での創業以後、閉店した店舗も多く、筆者のカウントした限りでは33店舗にのぼります(移転を含む)。

アメリカ本社の営業悪化の影響も受けたのか、昨年7月には上場廃止しており、このとき米トイザラスが日本トイザらスの株を買い付けて完全子会社化した、という経緯もあり、米本社の倒産を受け、今後ともまったく影響がない、というわけにはいかないでしょう。

経済の専門家ではないので、あまりエラそうなことは書けませんが、いずれはどこかの大手の企業に吸収合併、といったことになるのではないでしょうか。日本トイザらスは、1994年より写真館チェーンのスタジオアリスと提携しており、多くの店舗でスタジオアリス店と店舗面積を同居していますから、可能性はあるかもしれません。

このほか、玩具メーカーのタカラトミーとは、「リカちゃん人形」を通じて提携、任天堂も、日本トイザらス限定のゲームボーイカラーなどをリリースしていることから、こうした会社の傘下に入ることもあるのかもしれません。また、デンマークの玩具メーカー、「レゴ」も 多数の限定発売商品をリリースしており、こちらの可能性もあるのでしょう。

一時期は、「おもちゃ業界の黒船」と騒がれ、一世を風靡した感のある会社ですが、今後の去就が注目されるところです。


玩具店よ、どこへ行く

それにしても、日本のおもちゃ屋の数がここのところ激減しています。無論、このトイザらスの日本進出の影響が大きいわけですが、それだけでなく、トイザらスが1991年 に日本一号店を出店して以後は、他社の店も含め 90 年代以降大型店が急速に増加し、これらの大規模店舗に玩具売り場が併設されたのが原因と考えられます。

「玩具・娯楽用品小売業」の商店数は70年代まではうなぎのぼりで、 1979 年には 17,812 店と過去最多を誇っていましたが、90 年代半ば以降になり、一転してその数を急減させています。

無論、トイザらスをはじめとする大型店が増えたことが原因です。1985 年には、日本国内において、売場面積 1,000 ㎡以上の大型店はわずか11 店しかなかったものが、97 年になると 103 店(85 年比 92 店増)に増加し、なかでも売場面積が 3,000 ㎡を超える大型店が 85 年の 0 店から一気に 41 店に増加しました

2000 年以降も大型店の増加は続き、とくに2000 年には、大型店の出店を規制していた大店法が大店立地法に代わりました。これにより、 1,000 ㎡未満の店が規制対象から外れたこともあって、1997~2002 年の間には特に 500~1000 ㎡未満クラスの商店数が大幅に増加。2000年代後半以後も 3,000㎡以上の店を中心に大型店はさらに増加しています。

こうした大型店の増加は多くの中小小売店の減少をもたらすことになり、ピーク時には約 1万5千店あった中小小売店は次々と廃業し、2007 年には 1 万店を割りました。

かつて「おもちゃのハローマック」というお店が日本中にあったのをご記憶かと思います。城をイメージし、ピンクのラインが入った白い外壁にギザギザがある建物をあちこちでよく見かけたと思いますが、2008年に撤退しており、同系列の会社が運営して現在も残っているものは、だいたいが靴屋になっています。

以後も玩具店の減少は続き、2014年の経済産業省のデータによれば、中小玩具店の数は6364軒となっており、2007年のレベルをさらに割り込んでいます。

同じ統計によれば、人口10万人あたりの店舗数は、和歌山県が最も多くて6.69軒ですが、県内にあるおもちゃ屋さんの数はわずか65軒しかなく、最も多い東京都の798軒の1割以下です(東京は10万人あたり5.96軒で9位)。また、最下位の宮崎県にいたっては、30軒しかなく、10万人あたり2.69軒という寂しさです。

2位以下は愛媛県、岡山県、栃木県、鳥取県と続いており、傾向としては、関東から中国・四国地方にかけておもちゃ屋が多いようです。全国平均では人口10万人あたり5.01軒となっており、関東でいえば伊勢原市、関西でいえば池田市あたりが人口ほぼ10万人ですから、これだけの規模のある町に5軒ほどしかおもちゃ屋がないことになります。

ちなみに、同じく減少傾向にある書店は人口10万人あたり全国平均が7.03店、スポーツ用品店が11.07店、文房具店が6.07店ですから、おもちゃ屋の数がいかに少ないかがこれらとの比較でもわかります(私の好物、ラーメン店は全国平均で25.17軒です(^_^;))。





大人のおもちゃ

こうした中小規模の玩具店が激減したそもそもの原因が、トイザらスの日本進出だったとしたなら、それが仮に今後消えてしまうとして、その更なる復活はあるのでしょうか?

少子化が進む中、なかなか難しいと思うわけですが、しかし、おもちゃを使うのは子供とは限りません。最近は「大人のおもちゃ」というのもかなり増えてきており、おもちゃ業界の復権にあたっては、大人も遊べるおもちゃの新たなる開発というところが鍵になると考えられます。

近年は、子供向けだけでなく、大人向けの玩具がずいぶん増えてきており、あるいはその走りは、ジグソーパズルやルービックキューブだったかもしれません。他のパズルやゲーム類でも大人が楽しく遊べるものが増えており、近年ではハイテク化が進み、癒しを与えるロボットなども玩具の一種として重宝される時代になってきました。

ソニーの犬型ロボットAIBOが12年ぶりに復活した、というニュースを見た方も多いでしょう。また、かつてタカラトミーから発売されて好評を博したバウリンガルなどは、いまやiphone用があるそうで、ワンちゃんがあなたの気持ちを代わりにツイッターでつぶやいてくれる、といった機能まであるとか。

かつて、我々50代や60代の憧れの的だったラジコン飛行機は、いまはドローンというハイテクおもちゃに姿を変え、より安価に楽しめるものになっており、かつて「テレビゲーム」と呼ばれたコンピュータゲームは、高年齢層までも取り込んだ幅広い支持層を獲得しつつあります。

さらにはVRという略称で広まりつつあるバーチャルリアリティに至っては、人工知能を駆使して仮想空間を生み出す「近未来型玩具」であり、単なる玩具としてだけではなく、セキュリティ、訓練、医療、芸術など生活に密着した領域における補助用具として、その機能は加速しつつあります。

一方では、昔ながらの蒐集(しゅうしゅう)の対象として、「おもちゃ集め」を楽しむ向きも増えてきています。「なんでも鑑定団」のようなテレビ番組を見て集めはじめた人も多く、中には転売目的で集める人もいるようですが、昔からある骨董集めの延長線上で玩具集めを楽しむ人も増えてきているようです。

「おもちゃの文化史」などの著作があり、アメリカ映画「マリー・アントワネット(2006年公開)」の原作者としても知られるイギリスの小説家、アントニア・フレイザー女史は、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思うもの」と述べ、大人でも楽しめるものであるし、また、集めることができるのは大人の特権だ、といった意味のことを書いています。

近年、女性向きには、16世紀に始まったと言われるドールハウス、フランス人形といった分野に愛好家が多いようですが、男性ではレトロなおもちゃ、ソフビ人形、超合金、カードといったものが人気を集めています。

無論、古いものばかりではなく、新しく出たおもちゃを収集して楽しむ、といった向きもあるようで、各種フィギアなどがその代表例であって、こうしたものを展示販売する「ホビーショップ」も増えており、年期の入った「オタク」さんたちも増えてきました。

こうした蒐集目的の玩具集めは、明治時代からあり、「おもちゃ番付」といったものが作られたりもしていたそうです。また、人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成して機関紙の発行なども行っていたといい、この「大供」とは「子供」と対を成す造語です。

こうした活動の現代版ともいえるものが「おもちゃショー」といった玩具メーカーのイベントでしょうか。毎年東京のビッグサイトで行われる催しに参加するのは子供よりもむしろ大人の方が多いようです。

未来のおもちゃ

このように、最近おもちゃは大人向けに拡散する傾向が強いようですが、一方では、少子化が進んでいるとはいえ、「ハイテク玩具」として子供向けにリリースされるものも増えています。

とくに、メディアミックスを用いて漫画やアニメーション、インターネットなどと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されおり、従来型の「手で持って遊ぶ」タイプの玩具を製造販売する企業の市場を脅かしています。

こうしたハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もあります。さらには、日本国内がダメなら海外進出もある、ということで積極的に世界進出している玩具メーカーも増えています。

世界の玩具市場は、現在のところ推計で年700億ドル以上とされており、これは日本円では8兆円規模の市場になります。

世界的な人口増加に比例して、毎年5~6%の伸びがあるといい、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されているようです。こうした市場を前に、玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えており、たとえばアメリカで流通する玩具の75%が中国製です。

さらに、世界をリードする最先端技術がこうした次世代の玩具とコラボする時代もそこまで来ているようです。

マテル社と並んでアメリカを代表する世界規模の玩具メーカーで、ロードアイランド州ポータケットに本拠を置く玩具メーカー、ハスブロ社は、先日、3Dプリントメーカーとタイアップしておもちゃを販売することを発表し、おもちゃ用の3Dスキャンの特許を取得した、と発表しました。

スマホをセットしてハンドルを回すとおもちゃの3Dデータが作れる、といったシステムらしく、「簡易3Dスキャン」のようなもののようです。取得した3Dデータはアバター(自分の分身となるキャラクターのこと)やゲームの素材として使用したりすることは無論、将来的には3Dプリンターでコピーし、現物で使えるようになるかもしれません。

遅かれ早かれスマホに3Dスキャンの機能が搭載される時代が来るのは目に見えており、そうした時代が来れば、仮想現実だけで終わるわけはなく、現物を3Dコピー機で手に入れたい、とする向きも増えるでしょう。

誰でも簡単手軽に物をデータにしてネットで配布したり、改変できるようになってしまう時代がくるかもしれず、そうした未来の子供は、自分のおもちゃすらも3Dプリンターで作り、新たなおもちゃを創りだすようになっているのかもしれません。

あなたの息子さんや娘さんに投資し、今からベンチャー事業を立ち上げる準備をはじめてはいかがでしょうか。




ホーキング博士の遺品

ホーキング博士が亡くなりました。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、1942年1月8日、イギリス生まれの理論物理学者であり、一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表して世界的に有名になりました。

1970年代には、宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生した、とする説や、ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する、とする理論(ホーキング放射)を発表し、これがその後「量子宇宙論」という分野を形作るところとなり、現代宇宙論に多大な影響を与えた人物です。

20歳前、学生のころに筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、余命5年程度と宣告されました。しかし、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けました。晩年は意思伝達のために重度障害者用意思伝達装置を使い、コンピュータプログラムによる合成音声でスピーチや会話を行っていました。

その生涯

父親はオックスフォード大学で医学を学び、母親も同大学でPPE(哲学・政治・経済の学際領域)を学んだ才媛です。第二次世界大戦中、両親が暮らしていたロンドンは爆撃を受けており、母が疎開していたオックスフォードで彼が誕生しました。ほかにフィリッパ、メアリーという二人の妹と、エドワードという、養子縁組による兄弟がいます。

両親は子供たちの教育に力を入れており、とくに父のフランクはスティーヴンを評価の高いWestminster Schoolに入れたがっていました。しかし、家計の状況は苦しく、奨学金無しで通わすのは困難であったため、地元の標準的な学校に通うところとなりました。

しかし、このことが彼にとってはよかったようです。幼少期はむしろのびのびとした教育環境で過ごすことができ、仲の良い友人たちとボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機やボートで遊ぶ、といったことなどが情操面ではプラスに働き、その後の優れた人格の形成に寄与したと考えられます。

宗教的な色合いの強い学校でもなかったことから、キリスト教など特定の宗教に偏った考え方を持つこともなく、また、友達とはオカルト的なことも平気で話し合うことができました。超常現象についても興味があったといい、こうした方面から次第に科学に興味が向いていったようです。

16歳のころには、学校の数学教師の助けも借りつつ、親しい仲間たちと、時計部品、電話交換機、中古部品などを使って計算機を作りあげたといい、こうしたことから、学校では「アインシュタイン」というあだ名で呼ばれていたそうです。

しかし、成績はそれほどでもなかったようで、ただ、理数系の分野では優れており、恩師に勧められて大学で数学を学ぼうと決意しました。とはいえ、自らも医者だった父は、数学専攻で卒業した人には職が少ない、という理由から、彼に医学を学ぶことを勧めました。

父のフランクはまた、自分の出身校であるオックスフォード大学で息子が学ぶことを望んでいました。結局、医学部には入りませんでしたが、1959年10月に17歳で、オックスフォード大に奨学生として入学。当時同校には希望していた数学科がなかったため、ここで物理と化学を学ぶことになりました。

幼少のころの学力はそれほど秀でたものではなかったものの、彼の学才はこのころから飛躍的に伸び始めます。入学したのちに学んだ物理化学の領域は、彼にとって退屈なほど簡単だったようで、彼に言わせれば、「ばからしいほど簡単」でした。

その一方で、第二学年、第三学年と学年が進むにつれ、学生生活も謳歌するようになります。クラシック音楽を通じて多くの友人を得るとともに、サイエンス・フィクションに興味を抱いている者たちのグループとも交流するようになりました。

さらにスポーツでもボート部に参加するようになり、ボート部では、コックス(舵手)役を務めていたといいます。

こうした学業だけでなく、いわば「遊び」の部分にも慣れ親しんだところが、子供のころから英才教育によって育てられた温室育ちの秀才とは異なるところです。幼少期にごく普通の学校でのびのびと過ごし、充実した大学生活も満喫できた、といったことは、その後、世界的に知られるようになる天才の人格形成に大いに役立ったと考えられます。




この学生時代、彼はまた数々の恋愛経験をしたようです。なかでも同じ大学で文学を学んでいたジェーン・ワイルドと懇意になり、その後二人は結婚することとなります。

オックスフォード卒業後は、21歳でケンブリッジ大学大学院、応用数学・理論物理学科に入学。ところが、このころ、 検査で「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」と診断されます。しかし、恋人だったジェーンの献身的な助けもあり、なんとかこの困難な時期を乗り切りました。

体が次第に自由に動かなくなり、医者からは余命わずかとされますが、親の反対を押し切り、二人は結婚します。やがて男児が生まれ、ブラックホールに関する博士論文を教授たちから絶賛されるに至ります。

このあたりのことは、2014年にイギリスで製作された伝記映画、「博士と彼女のセオリー」の中にも詳しく描かれているので、ご興味のある方はビデオレンタル店で借りて鑑賞してみてください。

その後、24歳でケンブリッジ大学トリニティー校で博士号を取得。「特異点定理」「ブラックホールの蒸発理論」などの発表などで高い評価を得て、ロンドン王立協会フェローに選出されたほか、1975年には、業績を讃えられ、ローマ教皇庁から「ピウス11世メダル」を授与されるなどの栄誉を得ています。

1977年、35歳のときにケンブリッジ大学の教授職を得て以降は、一般人向けに現代の理論的宇宙論を平易に解説する「サイエンス・ライター」としての才能も開花しました。その著作群は日本をはじめ、各国で翻訳され、「ホーキング、宇宙を語る : ビッグバンからブラックホール」は、世界的なベストセラーにもなりました。

しかし、そんなさなか、公演の最中に倒れ、死か気管切開かと医者に迫られ、声が出なくなる後者を選択。以後、「スペリングボード」を使う生活を強いられるようになりますが、有能な看護師を雇い、他者とコミュニケーションがとれるようになるまで回復しました。

その後、埋め込みの音声合成器を使いながら自ら音声を発することができるようになりますが、それまでの声が出ない生活において彼を支えたこの看護師こそ、その後彼の二番目の妻となった、エレイン・マンソンでした。

以後、昨日の逝去まで、難病を抱えている人物とは思えないほどの活動的な日々を送っています。2001年には来日し、東京大学安田講堂にて一般講演を行っているほか、2007年には、アメリカでゼロ・グラビティー社の専用機「G-フォースワン」に搭乗。車いすから離れた無重力体験まで経験しています。

2009年、ケンブリッジ大学の教員退職規定により9月の学年末に大学を退任しますが、その後も同大学に留まり、応用数学と理論物理学部の研究責任者を務め、研究活動を続けていましたが、昨日、ついに76歳で亡くなりました。20過ぎのころに、医者からは余命5年と言われたのに関わらず、その後50年以上を生きたことになります。


名言の数々

ホーキング博士は、その生前、数々の名言を残したことでも知られ、多くの人を勇気づけました。

人生訓も多く、例えば、次のようなものがあります。

・人生は、できることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。
・自らの行動の価値を最大化するため努力すべきである。
・期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分に今あるものすべてに間違いなく感謝の念が湧くはずだ。
・人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで、最善をつくすべきである。

ネットを探ればそれこそ山ほど博士の「名言集」が出てくると思いますが、そうした中で、私がとくにいいな、と思うのは次の一節です。

一つ目は、足元を見るのではなく星を見上げること。
二つ目は、絶対に仕事をあきらめないこと。仕事は目的と意義を与えてくれる。それが無くなると人生は空っぽだ。
三つ目は、もし幸運にも愛を見つけることができたら、それはまれなことであることを忘れず、捨ててはいけない。

父親としてどんなアドバイスを子どもたちに伝えていますか?という質問に対して答えたものだそうですが、どうでしょう。厳しい人生を歩む上で、一般の人々にも響く言葉だと思いませんか?


私生活

ホーキング博士は、私生活では、前妻のジェーン・ワイルドとの間に、3人の娘・息子を授かっています。が、26年間連れ添った後、1991年に離婚。上述のとおり、その4年後の1995年に看護師のエレイン・メイソンと再婚したものの、2011年に再び離婚しています。

最初の妻との離婚のころから有名になり出したようですが、地位、名声、富などを一気に手に入れたことで生活が変わってしまったことが離婚に至った大きな理由とも言われているようです。

再婚相手であるエレイン・メイソンさんは、博士のために特注のパソコンを作ってくれた人の元妻だったといい、おそらくはその試用の際の立会などで知り合い、そのまま看護して雇い入れたあと、恋愛関係に発展したのでしょう。

ただ、博士の別の元看護師によると、メイソンは 「支配的で計算高く横暴」 な性格だったといい、あるときから、周囲の人間が博士の体に説明のつかない痣や傷があるのに気づくようになったといいます。

何が起こっているのかを博士に問いただしますが、博士もメイソンも虐待を一切否定。警察にも届けたものの、博士が断固として協力を拒んだため捜査もできなかったといい、そのまま2007年に離婚。

そんな彼があるとき、インタビューで、「1日のうちで最も多く考えていることは何ですか?」と、聞かれたそうです。おそらくインタビューワーは、何か難しい話を期待していたのでしょうが、返ってきた答えはというと、「女性のことだ。彼女というのは、実にナゾに満ちてる存在なんだ」というものだったそうです。

世界的に高名な科学者、天才と言われた人でありながら、私生活、とくに女性面ではいろいろ悩み多き人であったようです。




スピリチュアルに対する見解

一方、この世界的な科学者が神や宗教、あるいは、スピリチュアル的なことに関して、どう考えていたか、についても興味があるところです。このうち神については、若い頃には次のように発言していました。

・宇宙がどうして存在するのか知りたい、なぜ無より偉大なものがあるのかが知りたい。
・宇宙に始まりがある限り、宇宙には創造主がいると想定することができる。
・神の概念に触れずに宇宙のはじまりを論ずるのは難しい。
・神は存在するかもしれない。とはいえ、創造主ぬきでも、科学で宇宙を説明することができる。

世界的ベストセラーとなった「ホーキング、宇宙を語る(1988)」においても、「神というアイデアは、宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」と記しており、彼の中では神そのものを否定する気持ちはなかったようです。しかし、その四半世紀後、彼の神に対する態度は著しく厳しいものになりました。

2010年の「ホーキング、宇宙と人間を語る」では、「宇宙の創造に神の力は必要ない。宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない。」と述べており、「物理学における一連の進展により、そう確信するに至った」、とも語っています。

その晩年、こうも語りました。

「わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね」
「死は脳というコンピュータが機能を停止したに過ぎない。天国も死後の世界もない。それは闇を恐れる人のおとぎ話だ」

こうした発言から、晩年の彼は死後の世界を信じておらず、おそらくは、スピリチュアル、といったことに対しても、否定的だったと推測されます。

一方では、人間そのものも「不完全なもの」という考えがあったようで、「不完全さがなければ、あなたも私も存在しないだろう」という、意味深な言葉を残しています。不完全だからこそ、この世に生まれてきて、それを是正することこそが人生だ、と言いたかったのでしょうか。だとすれば、なにかしらスピリチュアル的な発言ではあります。

さらに、「人工知能」については、昨今将来人間の脅威になるとして、次のような言葉を残しています。

「すでにわれわれが手にしている初期形態の人工知能は、非常に有用であることが分かっている。しかし、私の考えでは、完全な人工知能が開発されれば、人類は終焉を迎える可能性がある(2014年、英BBC放送とのインタビューから)。」

いずれ、人工知能によって人類が脅かされる時代が来ることを示唆するものであり、この発言は、人工知能の開発による危機の訪れを世界に警鐘するもの、として一時期大きな話題になったことは記憶に新しいところです。

そんなホーキング博士もついに亡くなってしまいました。

彼が否定するあの世において、眼下の我々を眺めながら、生前の自分のこうした発言をどう考えているでしょう。あるいは、これはあの世ではない、おまえたちの想像の中にあるお伽噺だ、と未だに考えているのでしょうか。


後を継ぐ者

ところで、そのホーキング博士が生前、その能力を高く評価した、新進気鋭の理論物理学者がいました。

リサ・ランドール(Lisa Randall、1962年6月18日 )さんといい、アメリカ合衆国の理論物理学者で、専門は、素粒子物理学、宇宙論です。2001年、ハーバード大学から終身在職権を与えられ、現在もハーバード大学物理学教授であり、プリンストン大学物理学部で終身在職権(tenure)をもつ最初の女性教授となりました。

また、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学においても理論物理学者として終身在職権をもつ初の女性教授であり、1999年、ラマン・サンドラム博士とともに発表した「warped extra dimensions(ワープした余剰次元)」により、物理学会で一躍注目を集めるようになりました。

2002年 – 欧州原子核研究機構(略称:CERN)で行われた、CERN理論物理学研究会では、生前のスティーブン・ホーキング博士から隣の席を薦められており、こうしたことから、博士も彼女の業績を高く評価していたことがわかります。

2007年には、米「タイム誌」により、「世界で最も影響力のある100人」の一人に選出されており、同年には日本も訪れています。このときは、脳科学者・茂木健一郎さんとも対談しており、この対談を兼ねて、東京大学・小柴ホールで来日記念講演を行いました。

このリサ・ランドールが着目されているのは、高次元世界(5次元、6次元など)の存在を理論的に提唱し、物理学の世界に革新をもたらしたとされる点です。タイムスリップの話でよく出てくる4次元空間を超えてそのさらに上の次元があるとしたものであり、これはいわゆる「あの世」と直結するものではないか、とする議論が沸き起こっています。

恐竜の絶滅に関して、「ダークマター」の力が関与していたのではないか、とする説も展開しており、その可能性について論じる新著「ダークマターと恐竜絶滅(NHK出版)」なども話題となっています。、ホーキング博士以外では、昨今、大きく着目されている人物であり、今後ともにその言動に目が離せない人物となっていくでしょう、

2016年の7月に、超常現象などのニュースを配信するネットサイト、「トカナ(運営会社は出版社のサイゾー)」が、来日中のランドール博士への独占インタビューを敢行しています。

このインタビューでは、ダークマターをはじめとする最新の研究成果からAIなどの近未来技術などのインタビューのほか、幽霊や超能力といった超常現象、果ては人間の愛と心、そして博士の私生活のことなどが語られたようですが、ネットではその一部が公開されているようです。

この中で、記者の「意識や愛の感覚といった事象は、時空を超えて伝わるものでしょうか?」という質問に対して、ランドール博士は、

「例えば音楽について考えたとき、音が科学的にどのように伝わるのか、そのとき脳がどのように反応するかは科学的に解明されている。しかし、それは音楽そのものを理解するということではなく、音楽の本質はそれ以上のものである。抽象的な物事というのは、より高い階層に存在しているのでは。」

「(中略)高い階層にある抽象的な事象が時空を超えて伝わるか、といった物事の仕組みを解釈するには、さまざまな観点があるとしか言えない。」

と答えています。「時空を超えるものであるかどうか?」という問いに対して、それを否定こそはしていませんが、明確な回答もなく、さまざまな観点がある、としています。ただ、「高い階層」というのは、あるいはあの世の存在を意味する発言かもしれません。

さらに、「幽霊や超能力といったものは科学的に分析可能なのでしょうか?」という質問に対しては、

「それは現実を超越したものであり、今の我々の科学では検証しようがない。しかしそれを言い換えれば、今後の進展によっては検証可能な余地が残されていると考えられるのかもしれない。」

以上のように、さまざま観点がある、検証可能な余地が残されている、といった回答は、将来的に解明される可能性もある、という可能性を示したものでもあり、彼女自身がその残りの人生で明らかにしていきたい、という意欲を示したものでもあります。

さらに、今後、そうした未知の世界を解き明かす可能性があるとされる「ダークマター」については、

「ダークマターの研究は、少しずつ進んできてはきているものの、まだその特質さえよくわかっていない。未だに網羅しきれていない可能性もあり、これまでまとめてきた結果や現存するデータをどのように解釈するかという点を突き詰めていきたい。」

といったふうに応えています。

ダークマターこそ、今後、スピリチュアルの不思議を解き明かす鍵になっていくようです。21世紀最高の頭脳を持つと言われたホーキング博士亡きあと、彼をしのぐ理論を打ち立て、ぜひとも「あの世」の原理を見極めていただきたいものです。




カーリングの科学

冬季オリンピックが終わって、ひと段落しました。まだ、パラリンピックが開催されている最中ですが、それも今週末で終わってしまうようで、さみしい限りです。

それにしても、銅メダルを獲得したカーリング女子の活躍には日本中が沸きましたね。北海道、常呂町の「LS北見」の美人カーラーたちの、最後まであきらめない精神にはおおいに学ぶべきところがありました。

この常呂町がどこだったかな、と改めて地図をみたところ、道東第二の町、網走のやや北西部になります。

その昔、仕事で何度か網走には行ったことがあるものの、日帰りも多く、この町まで足を延ばすことはありませんでした。もっとも、プライベートでは、すぐ近くにある能取湖やサロマ湖に出かけたころもあり、亡き家内とも旅行したことのある場所でもあったことなどを、今思い出しました。

LS北見のLSは、「ロコ・ソラーレ」だそうで、何の意味かなと思あったら、これは常呂町の「常呂」から来ており、常呂の町に育った「常呂っ子」と、「ローカル」から「ロコ」 、そして、 イタリア語で太陽を意味する「ソラーレ」を組み合わせたそうです。

地元常呂から太陽のように輝きを持ったチームになるよう、「太陽の常呂っ子」という意味を込めて名付けた、とチームのオフィシャルサイトにも書いてありました。

ただ、日本カーリング選手権大会など日本カーリング協会(JCA)主管の国内試合では、LS北見として登録されていて、「ロコ・ソラーレ」をチーム名として使用できないのだとか。これは、JCA競技者ユニフォームの規定によるものなのだそうです。

今回のメダル獲得でLS北見の名が世界中の轟いたかと思いますが、その名前の由来も覚えておいてあげてください。

ところで、現在行われているパラリンピックでは、カーリングはないのかな、と調べてみたところ、残念ながら、パラリンピックの正式種目、「車いすカーリング」に関しては、チームJAPANは予選で敗退したため、選手団を送り出すことができなかったようです。

2016年11月4日〜11月10日に行われた、世界車いすBカーリング大会 2016(フィンランド)で、グループリーグ4位、16チーム中全体第8位となった時点で、平昌パラ出場の夢は断たれてしまいました。

この車いすカーリング、ルールは健常者大会とだいたい同じですが、1試合8エンド制であるという点が違います。このほか、1チーム4人で戦うところは同じですが、チームは男女混合で編成されなければならないそうです。

また、ストーンを投げる際、低い姿勢でも投げやすいようにデリバリースティックを用いるのが特徴です。これは杖のようなもので、利き手でもって車イスに座ったまま、杖の先にあるストーンを押し出すようにして使います。

この車いすカーリングと同様に、男女混合で行われるのが、平昌オリンピックから正式種目となったミックスダブルスです。残念ながら、今大会では日本はエントリーがありませんでしたが、アメリカやロシア、カナダ、ノルウェー、韓国 フィンランド、中国、スイスが出場し、決勝戦では、カナダが10-3でスイスを破って金メダルを取りました。

日本の男女混合チームの活躍を見ることができなかったのは残念なのですが、昨夜のニュースでは、平昌五輪で銅メダルを獲得したLS北見と男子のSC軽井沢クラブの選手が、チーム再結成をするそうで、この先開催される大会を前に記者会見の様子を報道していました。

ついこのあいだまでオリンピックで活躍していた美女美男の組み合わせであり、これをテレビで見ながら、タエさんと、まるで結婚発表の記者会見みたいだね、と話していました。それぞれ近いお年頃のようなので、もしかしたらもしかするかも、とミーハーに期待したりもしています。

このミックスダブルスですが、2人のプレーヤー(男性1人と女性1人)から構成されるという点が、通常のプレーと異なりますが、得点方法は、通常のカーリングと同じです。

ただ、ゲームは8エンドから成る、といったところが異なり、これは上の車いすカーリングと同じです。このほかの違いは、各チームの持ち時間は8エンドゲームをプレーするのに48分と短く、各チームは1エンドにつき5個のストーンをデリバリーする、といったところも違います。通常のプレーは、8個でしたよね。

このほか、チームの最初のストーンを投げるプレーヤーは、そのエンドの最後のストーンを投げなければならず、もう一人のチームメンバーは、そのエンドチームの2個目、3個目、4個目のストーンをデリバリーする、と言ったところも違います。ただ、最初のストーンを投げるプレーヤーは、エンドを終了すれば交代しても構わないそうです。

今日から始まるという、第11回全農ミックス日本ミックスダブルスカーリング選手権大会は、18日まで、青森市の「みちぎんドリームスタジアム」で開催されるようです。LS北見とSC軽井沢クラブの男女混合チームがどんな活躍をするのか、目が離せません。試合の放送がある地域ではぜひ鑑賞してみてください。

”カーリング” の物理学的性質

ところで、冬になるとにわかに注目を集めるこのカーリングですが、文字通り、観客の数や熱気が気温を高めて氷の状態を変化させます。会場によっては暖かい会場もあり、エアコンの状態なども異なるほか、アイスの状況も微妙に異なるようです。

従って、いかに氷の状態を読んで精確なショットを放てるかが勝負の分かれ道になりますが、一方では、放たれたストーンの行方を修正する“スウィープ“が重要になります。

このカーリングのストーンが氷上を滑る性質については、運動量保存など力学に基づくことは明らかです。ただ、回転によって曲がる(カールする)性質や、さらに氷との摩擦も大きなファクターであり、それらが組み合わさった結果として、いったいどういう現象が起こっているのか、については、実はまだ実際にはよくわかっていないのだそうです。

より詳しくストーンの動きを考察することは、氷上の摩擦に関する研究途上の科学でもあるといい、とくにストーンのカールと摩擦との関係は一般的な理論化ができない複雑な現象であり、まだ解明されていない部分があるといいます。

さらにはこれに加わるスウィーピングの効果など、実際のストーンの動きは実験と理論の両面から分析されなければならない課題であり、「カーリング」の語源ともなっているストーンの「カール」はそれ自体が、多くの物理学者に対して興味深い問いを投げかけています。

実際、カーリングの物理の実践的な分析も科学者を交えながら行われており、日本カーリング協会でも「研究を通じて選手の独創性や先見性を育て、新たな戦略に結びつけたい」として、2008年より氷やストーンの特性とストーンの動きとの研究を行っているといいます。

カーリングの強国、カナダでは2010年のバンクーバーオリンピックに向けてデリバリーのフォームやスウィーピングの科学的研究を極秘裏に行った結果、現在のように世界ランキング1位の座を獲得できました。今後日本チームがカーリングで強くなっていく上でもこうした科学的分析は欠かせないと考えられます。



ストーンの軌道が大きく曲がる(カールする)という性質は、カーリングのゲームを面白くさせている大きな要素でもあります。衝突の動きが初等的な力学で比較的よく記述されるのに対して、カールの物理的メカニズムは、氷の状態によって大きく変化します。

通常、こうした曲がりの大きさは、仮にスウィープをしない場合においても、元の軌道と比べてストーンの停止までに1メートル前後にも達することがあるそうです。

カーリングの競技場は、標準で長さ約44.5〜45.7メートル、幅約4.4〜5.0メートルのカーリング・シート(アイス・シートとも)と呼ばれる細長い長方形のリンクで行われますが、このシートは薄く氷が張られます。

できるだけ平坦に保つため、アイス・メーカーにより表面にペブル(pebble) と呼ばれる数ミリメートル程度の氷の突起が多数作られ、融けないように氷温は摂氏−5度程度に維持されます。

意外ですが、このぺブルがまったくないアイスの方が曲がりが大きいのだとか。摩擦も大きくなり遠くまで飛ばなくなるといい、ペブルを設けることの意味は、ストーンを滑りやすくするためのものではなく、逆に摩擦の低減に寄与していることがわかります。

また、これも意外なのですが、カーラーがストーンを投げるとき、軽く回転させて投げますが、この回転の速さ(物理学的には角速度という)はカールの効果に大きな影響は与えないのだそうで、その回転は曲がる方向を決めているにすぎないのだといいます。

さらに、早すぎる回転を与えると、ストーンはむしろ余りカールしなくなるのだといい、このため、通常、カーラーたちがストーンを投げる際、その回転の速さが、通常ハウスまで2~3回転程度となるよう、小さく保つようにするのだそうです。

このほか、カールの効果もハウスに近づきストーンの直進速度が小さくなってから顕著になることが知られており、試合を見ていると、最初はあまりまがっていなかったのに、ストーン同士のぶつかり合いになる直前になって急激にその進行方向が変化したりします。

このほか、通常の氷以外の盤面上でリング状の物体を回転させながら滑らせるとき、反時計回りで右に曲がるのに対し、氷上のカーリング・ストーンは逆に曲がることが知られています。例えば左回りの回転を与えながら投げると、氷以外の盤面、たとえば平なコンクリートの上では右に曲がりますが、氷上ではそのまま左に曲がります。

ご自宅の机の上などで、実験してみてもらうとわかるのですが、たとえば反対向きに伏せたグラスなどを同じように左回りに回転させながら滑らせてみると、グラスはカーリングのストーンとは逆向き、すなわちカールの方向は反時計回りで右となります。

これについては物理学的説明がついており、こうした場合の曲がりは、接触面の摩擦力が原因です。グラスの接触面前部における方が後部よりも押さえつける力が大きく、これに回転が加わるとき、接触面前部においては、進行方向右向きの摩擦力の方が後部の左向きの摩擦力より大きくなり、進行方向に向かって右向きの力が生まれるのです。

ところが、カーリング・ストーンの場合はこれとは逆になるため、いったい何故だ??ということが昔から議論になっており、その謎を説明するために1920年代ごろから、いろんな説が現れてきました。

そうした中で、もっともらしい説が出てきたのは、1980年代になってからのことであり、1981年に、カナダの学者で、ジョンストン (G.W. Johnston)という人が、ストーンが曲がる理由は、ストーンの前部で大きくなる摩擦熱によって氷が融け、摩擦係数が低くなるためではないか、としました。

同様に、カナダの物理学者で自身もカーラーでもあるマーク・シェゲルスキー (Mark R.A. Shegelski))という人も、この考え方を支持し、1996年、溶けた水の非常に薄い膜がストーンの接触面に形成されるのだと主張しました。

彼は、圧力の強い前面ではこの膜が厚くなるために、摩擦力を後部より小さくしているとするとし、またストーンが水の膜を引きずりやすい性質をもつ花崗岩で作られていることと関係があると考えました。

摩擦の方向は氷面に相対的な速度の方向ではなく、この引きずられた水の膜に相対的になっているとし、さらにストーンの停止間際では引きずられた膜が一周して前面がさらに厚くなり、一層曲がりやすくなると説明し、こうしたことから予測される性質の一部を実験でも証明しました。

一方では、摩擦によってできる氷の膜が影響しているのではない、という説もあります。ストーンの底面と摩耗によって氷が瞬間的に蒸発して気化熱を奪い、ストーン後部ではむしろ温度が低下して摩擦係数が大きくなるのだといいます。

摩擦による氷の溶融によって曲がり方が左右されるという点は大多数の学者の意見が同じであるものの、その原理についてはまだまだ論争があるわけです。

ごく最近の2012年のスウェーデンのニーベリ (Harald Nyberg) は、ストーンの接触点であるペブル上につけられた高さ0.01ミリメートルに満たない程度の多数のひっかき傷がストーンの軌道を変えているのだとしました。

この説では、進行しつつ回転するストーンは軌道に対して数度程度斜めになった微小な傷をペブルの先端に作ることが原因としています。ニーベリらはこうした傷を顕微鏡写真で調べるとともに、底を磨いて凹凸を少なくしたストーンではカールの効果が現れないことを実験的に示しています。

いずれにしても、ストーンがカールする量は、氷面のペブルの状態やコースの使用状況、氷面の温度、ストーンの速度などに応じて、ストーンとの間で、なにか敏感な変化を起こすために左右される、ということはだんだんと明らかになってきています。

これらがストーンの動きの状況に応じた鋭敏な変化をもたらしていることは確かですがそれをどう予測するかについては、競技者であるカーラーの氷の読みに対する経験とそれにもとづく判断がこの競技において最も重要な要素のひとつとなっていることは間違いありません。

また、これらのことから、投げた石は必ずといってもいいほど曲がる、ということは明らかであり、そのためにその軌道を修正するための「スウィーピング」が欠かせない、というのもこの競技を面白くしている要因です。

スウィーピングの意味

スウィーピングは、方向を微調整するだけでなく、自分のチームのストーンの距離を伸ばしたりするために、ストーンの進行方向の氷をブラシで掃く行為ですが、相手チームのストーンをスウィーピングですることもでき、その結果は、勝敗を左右することが多々あります。

ストーン前面の氷をこすることで、ストーンの摩擦を減少させ速度を保つことができるため、結果的に速度を保ったストーンは、大きくカールし出す地点も遅くなり、またハウス内では曲がったコースのままより先へと進めることができます。

こちらの原理のほうはある程度わかっていて、一般にこの摩擦の減少は、ブラシとペブルとの間の摩擦熱によってペブルの表面をわずかに溶かし、水の膜を形成しているためだと説明されます。

とはいえ、カナダのウェスタン・オンタリオ大学の研究者は、計測の結果温度上昇はわずかなものであり、実際には氷を溶かすのではなく、スウィーピングによって氷の微粒子が形成されてそれが潤滑剤として働いているのだとしています。

またスウィーピングには、ブラシをストーンの進路に対して斜めに置くとする昔ながらのやり方と、直角に置くとする最近のやり方があるそうです。が、前者が均一に氷を暖めるのに対し、後者はムラができ効率がよくないという説もあるようで、これについても競技者によって流儀が違うようです。

このほか、スウィーピングにおいて、遅くても力をかける方がよいか、力が弱くなっても素早くスウィープする方がよいかという2つの選択肢があります。これについては、ブラシの位置だけを考えた場合にはかける力を大きくする方がはるかに効率的です。

しかし、同じ氷を複数回ブラシがこするほうがさらに熱が発生するため、全体としてはハウスの近くでは素早くスウィープする方が効率的なのだそうです。ただしストーンが素早く動いている間は同じ場所をスウィープできないため、力をかけたスウィーピングの方が効率的であるといいます。

スウィープひとつをとってもかなり細かい技術が要るようですが、このスウィープについては、ストーンを投げる側とスウィープをする側の阿吽の呼吸もまた勝敗を左右するため、「掛け声」というのも非常に重要です。

カーリングの試合を見ていると聞きなれない掛け声が飛び交っていますね。掛け声にはそれぞれ意味があり、イエス 、ヤー、イェップは、スウィーピングをしてという指示。ウォー、ノー、オフ、アップ、はスウィーピングをやめてという指示だそうです。

このほか、「ハード」は、もっと強く掃いてという指示。「ハリー」はもっと速く掃いてという指示。「クリーン」はストーンの前のゴミを取り除く意味で軽く掃いてという指示です。

これだけを覚えているだけでも、今後カーリングを見ていて楽しくなるかもしれません。
今日、ここで書いたことも、少し皆さんのテレビ鑑賞の際のお役に立てたなら、幸いです。

さて、3月も半ばに入ってきました。暖かい伊豆では、もうどこにも氷のかけらはなさそうですが、かくある私もテレビでカーリングの試合をみつけて、冬の名残を楽しむこととしましょう。




ゲージ戦争

伊豆はここ一週間ほど、ほとんど陽射しがなく、毎日雨か曇天です。

気温のほうも上がったり下がったりで、まさに三寒四温。この季節特有の気象状況が続いています。

そんな中、伊豆中の道路の多くが花街道になりつつあり、ピンクと白に彩られています。

白梅に紅梅、そしてピンクの河津桜という花々に囲まれて迎えるえー春というのは格別なものがあり、なかなか他の地方では味わえない風情でしょう。

つくづくこの地へ越してきてよかったなぁと思える時期ですが、花はこれだけでは終わらず、これからはさらにソメイヨシノにシャクナゲ、サツキツツジへと続いていきます。

わが家がある別荘地の隣にある「修善寺虹の郷」は、そうした伊豆の花の各季節ごとの移ろいをほぼすべて味わえる公園であり、ここへ来た時から、まるで裏庭のように使ってきました。

これといって大きな特徴のある公園ではないのですが、広々とした敷地内は、カナダ村、イギリス村、日本庭園、伊豆の村、といった趣向を凝らしたイベントのある各ゾーンに分かれており、それぞれの表情で季節を味あわせてくれます。

これらの間をつなぐのが、レトロを模したバスと、ミニチュア鉄道であり、広い園内を歩いて見学するのはちょっと辛い、というお年寄りや、子供たちに大人気です。

ミニチュアとはいえ、「ロムニー鉄道」という実際にイギリスを走っていたものを移入したもので、人が乗れます。ただ、レール幅が、たった381 mmしかなく、鉄道というよりはトロッコに乗っているかんじ。381mmは、ちょうど“15インチ“であることから、「15インチゲージ鉄道」と呼ばれます。

ゲージ(gage)とは、これすなわち鉄道の軌間(レール幅)のことであり、元は各種メーターや計量器、燃料などの残量を示していたものですが、鉄道でも列車の規模を示す表示として使われるようになり、定着しました。

たかが40cmに満たないレール幅であっても、鉄道というものは、その延線距離が延びれば伸びるほど大量の鉄材が必要になってくるもの。と同時に、その上を走る車両もこれに比例して数多く作らなければなりません。このため、これをどの程度の幅にするか、ということに関して、昔から激しい論争があり、企業間の争いなども生じました。

鉄道の発祥の地、イギリスでは、その昔、異なる軌間の鉄道の間で、列車をどうやって通すか、という問題が浮上し、軌間が異なると直通運転ができないという弊害が初めて顕在化しました。

1844年のことであり、イギリス南部のグロスターにおいて4フィート8.5インチ(1,372 mm)軌間と、7フィート4分の1インチ(2,140 mm)のそれぞれを走っていた車両をどう通すかで議論が発生しました。

この軌間をどちらに統一すべきか、という問題は、その後「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれるまで激しい論争にまで発展することになりますが、翌年の1845年に決着を見ます。

英・王立委員会は広軌の7フィート4分の1インチ軌間の技術的な優位を認めつつも、それまでの敷設の歴史がやや長く、路線長の長い4フィート8.5インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告しました。

こうして、翌1846年に制定された軌間法では、グレートブリテン島、すなわちイギリス全土において、今後新しく敷設される新規路線は、原則として4フィート8.5インチの軌間で建設されることになり、以後、これが「標準軌」としてイギリスのみならず、世界のスタンダードになりました。

それにしても、なぜ、4フィート8.5インチといった中途半端なサイズが導入されたかですが、その起源は、イングランド北東部の「キリングワース」という炭鉱で用いられていた馬車鉄道です。




1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために、蒸気機関車を製造しましたが、以後、その他の炭鉱向けにも同様の機関車を製造するようになり、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立し、次々と同じ軌間で走る蒸気機関車を設計するようになりました。

スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えており、その考えは理にかなっていました。

政府としてもこの考えを受け入れ、1825年に公共用の鉄道としては初めて、イギリスの北東部に建設されストックトン・アンド・ダーリントン鉄道という路線でスティーヴンソンの蒸気機関車が使われました。

そして、さらにその5年後の1830年に、世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道といわれある、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業したときも、スティーブンソンが提唱する軌間を持つ機関車が用いられました。

ところが、よくよく考えてみると、軌道が大きければより大きな列車が走らせることができるわけで、同じ時間で輸送できる人や物資は軌間が大きい方が多くなります。スティーヴンソンが採用した馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も当然多く、イザムバード・キングダム・ブルネルもその一人でした。

イザムバード・ブルネルは、世界初の河川の下を通るトンネルであるテムズトンネルの建設で有名になった技術者マーク・イザムバード・ブルネルの息子です。マーク・ブルネルはこれより前、世界初の地下鉄開発にも関わっていました。

その息子のイザムバードは、イギリスのポーツマスに生まれ。フランスで教育を受け、20歳で父親のテムズ川のトンネル工事に技師として加わりましたが、2年後出水事故で負傷したためその仕事から離れます。

27歳のとき、ロンドンとブリストルを繋ぐグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、以後、橋梁、トンネル、駅舎などを設計し、施工を監督するようになり、次第に父以上の名声を博していきます。

彼は、自分が手掛けたこのグレート・ウェスタン鉄道における安定性と乗客の乗り心地の改善のためには、より広軌のほうが良い考え、7フィート4分の1インチを採用し、以後これは「ブルネル軌間」と呼ばれるようになりました。

今日、優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈される「ブルネル賞」は彼に由来します。ブルネルはまた、2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位となっており、現在では鉄道を発明したとされるスティーヴンソンと同様に、イギリスを代表する技術者と目されています。

ブルネルは当初、自分が手掛けたグレート・ウェスタン鉄道が、スティーヴンソンの4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていたようです。しかし、鉄道の普及は彼が考えていた以上に著しく、結果、上のような「ゲージ戦争」が勃発しますが、王立委員会の裁定により、スティーヴンソンとの争いには敗れてしまいました。



ところが、鉄道の普及は、孤島であるイギリスだけでなく、大陸ヨーロッパでも加速しました。ヨーロッパ各国では、イギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定することが普通でした。

当然、輸送量の面で有利と考えられたブルネルの広軌を採用する国も多く、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌が採用されました。

広軌鉄道はまた、安定性や技術的には優れているという見解を持つ国も多く、オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて標準軌に改軌ましたが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っています。

ヨーロッパよりもはるかに国土の大きいアメリカ合衆国においても、これは同じでした。1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業しましたが、これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、ブルネイの広軌の他にも様々な広軌幅が採用されました。

例えば、1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチの標準軌が多かったものの、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように広軌が数多く導入されました。

しかしのちの1863年に、「大陸横断鉄道」が敷設されたときの軌間が、標準軌とされたことがきっかけとなり、以後、アメリカでも全国的に4フィート8.5インチに統一されるようになっていきました。

同じ北米大陸にあるカナダでも、当初の1851年には5フィート6インチの広軌を標準とする法律が制定されましたが、アメリカ合衆国との直通の必要から1870年に廃止され、4フィート8.5インチに改軌されました。このように、ヨーロッパやアメリカでの「標準軌道」は、時代の変遷とともに4フィート8.5インチということで、ほぼ定着するようになりした。

ところが、1872年に開業した日本の鉄道が採用したのは、3フィート6インチ(1,067 mm)という、いわゆる「狭軌」軌道でした。

冒頭でも述べたとおり、鉄道というものは、延長距離が延びれば伸びるほどコストがかかります。鉄製のレールだけでなく、枕木・砂利などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅は必要です。標準軌なら大量の鉄材と枕木が必要でも、狭軌ならそのコストを抑えることができます。

明治維新によって次々とヨーロッパの技術を導入し続けていたこのころの日本には経済的な余裕がなく、政府は、より低規格・低コストの路線を作ることを可能ならしめるためには、狭軌鉄道の方が都合がよいと考えました。

こうした事情は日本だけでなく、その他のアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域においては同じであり、1860年代後半から1880年代にかけては、日本だけでなく、世界中で狭軌軌道の導入が相次ぎ、イギリス人を中心とする技術者の指導により、1067mmや1000mm、914mmなどの狭軌鉄道の建設が次々と行われました。




馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)があります。

ただし当時はこうした狭軌鉄道では、小型の蒸気機関車を作るのは難しいという技術的な問題もあり、蒸気機関車を用いることはできませんでした。しかし、1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になりました。

冒頭で紹介した、虹の郷のロムニー鉄道こと、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道もそのひとつであり、1920年代に建設され、1927年7月16日に開業しました。全長23kmの路線にすぎませんが、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線です。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものであり、現在でも運行されています。観光鉄道としての色合いが強い路線ですが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されています。

以上のように、ヨーロッパ諸国や北米では、標準軌が主流となりましたが、その中でもイギリスのように狭軌を残した国もあり、また日本やその他の国では狭軌のまま定着しました。その後20世紀を迎えるころまでには、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、やがてこうした軌間の優劣に関する議論は低調になりました。

しかし、20世紀初めごろになってから、南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こり、日本においても「改軌論争」が起こりました。

日本で狭軌が採用された理由としては、上述のように経済性によるものでしたが、ほかにも「イギリスから植民地扱い」され、このころ彼の国の植民地で導入がさかんになった狭軌鉄道を押し付けられた、という説があります。大隈重信は、日本の鉄道の発祥時に、半ば適当に外国人の意見に押される形で軌間を1067mmと決定してしまったと述べています。

そのイギリスでは、本国においても、1860年代後半から1870年代初頭までは「新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的、という意見が強くなり、既存の客車や貨車は大きすぎ重量過多なので、小型化した方がよいという意見が出始めていたといいます。

また、日本のように狭くて急峻な地形を持つところでは急曲線になることも多く、この場合「狭軌のほうが有利」とする意見がありました。

ところが、実際に敷設された日本の路線は急曲線どころかむしろ緩やかで、幹線鉄道である「甲線」の最小曲線半径は300m、より低規格の「乙・丙線」ですら250m・200mであり、同じ狭軌のノルウェーと南アフリカの最小半径が150mと100mなのに比べれば、かなり緩い曲線で線路が引かれました。

実際には標準軌に近い最小曲線で線路が引かれていたわけであり、それなら最初から狭軌にこだわる必要はなく、広軌(標準軌)にすればよかったじゃないか、という意見が出てきました。これも必然でしょう。

また、日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになりましたが、それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌でした。

広大な中国大陸における軍事輸送のためには、広軌のほうが都合がよいとい意見も出始め、実際、満鉄(満州鉄道)の成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連~長春)は標準軌に改軌して旅客輸送が行われるようになりました。

1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任しましたが、後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決されました。

これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達が出されるに至ります。

ところが、これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れました。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけですが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまいました。

一方、後藤らの後押しによって、1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われ始めました。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になりました。

しかしさらに、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、後藤新平は、内務大臣となります。この内務大臣就任は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、後藤はここぞ絶好の広軌化の機会と考えました。

このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、こうした政策論争とは無関係に、独自に改軌計画を練っていました。

島は、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部)を卒業後、関西鉄道に入社。高性能機関車「早風」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世しており、広軌化こそがより利用者のサービスアップにつながると考えていました。

そして、この島こそが、のちに「新幹線の父」として、我が国初の標準軌の導入に成功する島秀雄の父です。

これを知った後藤はこの島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させました。が、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らず、計画は早々に頓挫しました。

さらに、1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道大臣には腹心の床次竹二郎を就任させました。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「改主建従」を標榜する者の多くを左遷しました。

1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えました。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きもありましたが、実現したのは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)だけであり、全国的な展開には至りませんでした。

以後、今日に至るまで、日本の鉄道は世界的にも珍しい「狭軌」が標準仕様となっています。

もっとも、狭軌仕様が広軌仕様よりも劣っている、という論理は今日では必ずしも正しいとはいえません。一般に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされます。しかし、これらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではありません。

標準軌間と狭軌の間の差の約30cmを補う技術力は日本は持ち合わせており、現在ではその輸送力にはほとんど差はないといわれています。



また、蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていましたが、動力が電力に変わった現代では、標準軌仕様の機関車と狭軌仕様の動力差は著しくないと考えられており、むしろパワーは上回っています。

原敬の主導によって標準軌構想は葬られ、狭軌がスタンダードになってしまった日本ですが、しかしその後、日本国有鉄道内部で、再び標準軌による路線を新設しようという動きが出てきました。それは、「改軌論争」といわれる、上の後藤と原の争いが起こったのち、日中戦争の始まった1938年のことです。

当時、戦争の影響で中国方面への輸送量が旅客・貨物ともに急増しており、特に東海道本線と山陽本線は国鉄全輸送の3割を占めるほどであったため、近いうちに対応ができなくなると予測されました。このため、両本線に並行して新しい幹線を敷いたらどうかという提案が出たのです。

これには軍部も積極的に賛成したため、計画が推し進められ、1939年に「鉄道幹線調査会」が発足し、ここの調査により標準軌ないしは狭軌により別線を東京~下関間に敷設することが決定しました。

これについては、従来路線(在来線)からの直通や部分使用が可能な利点を取り上げ、狭軌新線を敷く案も多勢でしたが、特別委員長に、前述した広軌論者の島安次郎が就任し、島が朝鮮や満州の標準軌路線と鉄道連絡船 (関釜連絡船)を挟んで車両航送ができることを理由に広軌化を推進したため、標準軌での敷設が決定しました。

この新線計画は内部においては「広軌幹線」や「新幹線」と呼ばれ、世間では新聞社が「弾丸のように速い」と報じたことから「弾丸列車」と言われるようになりました。1940年より建設に移され、日本坂トンネルや新丹那トンネルの工事が進められ、ここでの軌道は広軌となりました。

しかし戦況の悪化で、その推進は1943年に中断。さらに、文字通りの「牽引車」であった島が終戦直後の1946年に亡くなり、またしても日本での標準軌導入は頓挫します。

ところが戦後、日本各地で復興が進むにつれ、東海道本線の輸送力不足はいよいよ表面化し、弾丸列車計画のときと同様に、新線敷設の必要性を求める声が高くなってきました。

当初「東海道新線」と呼ばれたこの計画についても、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わった官僚の「十河信二」国鉄総裁に就任します。

この十河総裁の指導のもと、研究を進めた鉄道技術研究所のメンバーは、標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能と提言。1957年5月25日の山葉ホールにおける講演で発表されたこの研究結果は大きな反響を呼びました。

このとき、国鉄技術長に就任したのが、島安次郎の息子の島秀雄です。島は、戦前の1937年(昭和12年)、長期海外視察を行い、世界各国の鉄道事情を研究した結果、父も関わっていた「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」でも、電気動力を本命として計画を立案していました。

戦後ようやく父の悲願を達成する契機に恵まれた彼は、国鉄の優秀な技術者を集めてデータを作成し、これを十河に提出。この十河と島の二人三脚によって、ついに日本で初めて標準軌高規格新線での敷設が決定します。

この計画による「東海道新線」は、戦前の計画の遺構を活用して建設することになり、1964年に「東海道新幹線」として結実し、ようやく、日本において国鉄初となる標準軌路線が実現することになりました。

その後、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と、順次新幹線の延伸が進みましたが、これは、従来の狭軌鉄道とは別に、標準軌鉄道の敷設を優先する「改主建従」といえるものでもありました。

その後、この標準軌の新幹線路線と、従来の狭軌路線の相互に乗り入れる、「ミニ新幹線」も導入されるようになりました。新幹線の建設は莫大な費用を要することから、費用を抑制する方法として考え出されたものです。

ただ、これは、在来線を単に新幹線と同じ標準軌へ改軌し、車両も在来線規格、複電圧対応として、新幹線と標準軌に改軌した在来線の間で直通運転(新在直通という)を行うものでした。

しかしこの方法の導入によって直通運転が可能となったために、双方からの乗換えが解消され、所要時間も従来の軌道を使用していたのに比べればある程度短縮されるようになりました。

とはいえ、新幹線が走らない区間との分断が新たに生じ、速度も新幹線ほど早くない(現状では在来線区間は130km/h)ということもあり、全国的な普及には至っていません。いまのところ、1992年に開業した山形新幹線(東北新幹線と奥羽本線)と、1997年に秋田新幹線(東北新幹線と田沢湖線、奥羽本線)だけが実現しています。

1998年、運輸省~国土交通省の施策により、新幹線と在来線との間で改軌を要さずに直通運転ができる軌間可変電車(フリーゲージトレイン、ゲージチェンジトレイン)の開発が開始されており、これによってミニ新幹線が抱えているような改軌に関する諸問題の解決が図られることが期待されています。

いずれ、リニア新幹線の開通に加えて、こうした新しい世代の鉄道が開通する時代がくるに違いありません。その新しい鉄道は、従来の「ゲージ論争」を超えたものになるはずであり、やがては世界に名だたる国産技術になっていくことでしょう。

ただ、伊豆・修善寺虹の郷のロムニー鉄道はそんな中でも、今後とも狭軌鉄道のまま、もくもくと煙を出しながら運行されていくことでしょう。

三寒四温の中、春がもうすぐやってきそうです。ぜひ、このレトロなロムニーに乗るために伊豆までお越しください。