春よホイ!

河津にて11春です。

春は、寒い冬から気温が上がり始め、朝晩はまだまだ肌寒さは残るものの、次第に日中は暖かくなる時期であり、秋と並んで一年の中では最も気候の良い穏やかな季節とも言われます。

雪や氷が溶け、植物が芽を出す時期でもあります。日が長くなり、地中の虫が動き始めます。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になります。桜が咲き、そして散り、次第に木々の緑が濃さを増し、徐々に暑い日が増えてきます。

日本では毎年3月が年度替わりとされ、さまざまな区切りとなります。テレビ・ラジオではその番組の内容が改編されることも多く、また法律・制度が実施されたり、市や町などの行政区画が変更されたり合併なども行われ、居住環境が変わることもあります。

学校では卒業式、入学が行われ、会社では入社式、人事異動があって、出会いと別れの季節でもあります。花見などはこれに重ねて扱われ、それゆえに桜が咲き、散るとうれしかなしい気分になります。

サマータイムが実施される国では、春の半ば頃から時計を1時間進めることとなり、サマータイムの言葉が指すとおり、夏の前哨戦でもあります。陽射しが長くなり、冬の寒さが和らぐことによって、一般に生物の活動が活発になります。

また、豪雪地帯では雪解けが起こり、ここから排出される雪解け水は貴重な水資源となります。と同時にこの水は日本においては農耕、とりわけ米作には欠かせないものとなります。

その一方で、この雪解けは雪崩や融雪洪水をもたらす場合もあり、この他、発達した低気圧が太平洋側を通り気温が低いと太平洋側に春の大雪をもたらすこともあり、この低気圧が日本海側を通ると春一番と呼ばれる南風が吹くことでも知られています。

正月を「新春」といいますが、これは旧暦では一月が春とされていたためです。このため、春という言葉には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合があります。

西洋でも春を意味する、イタリア語の「プリマヴェーラ(Primavera)」やフランス語の「プランタン(Printemps 」には、「第一の」を意味する接頭語「プリ(pri-)」を冠しており、元々の意味は、「第1の季節」です。これは農耕暦であるローマ暦において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春を年のはじめとしたことに由来します。

また、ヨーロッパや中東では、春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されまる。このことから、春の語は「雪どけ」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用されます。プラハの春、アラブの春がその良い例です。

また、春から初夏にかけての季節を木の芽時とも言い、「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがあります。いろいろヘンなことばかり思い悩む若い頃のことを、思春期とも呼びます。

不思議の国のアリスには、「三月ウサギ」は、自宅の前で「狂ったお茶会」を開いており、お茶会に加わったアリスをおかしな言動で翻弄する頭のヘンなウサギとして登場します。

春はまた、性的活動が盛んになるものとされています。春(しゅん)と言った場合には、いかがわしいことや性的なことを示すことばとして使うことが多く、たとえば春画・売買春があります。

爪木崎に咲く

春は生物の動き始める時期でもあります。温度が上がり、日差しが強くなり、植物の活動が始まる時期です。春に芽を出すため、柔らかな植物や花が多いことから、またそれを食べる昆虫などの活動も盛んとなり、これを餌とする多くの鳥もこの季節に繁殖を行います。

それに伴って鳥がさえずるので、野外はにぎやかになります。ツバメなど、南方から渡ってくる鳥もあり、ほ乳類の育児もこの時期に行われる例が多いようです。

ただ、猛禽類や大型肉食獣の場合、冬から育児を始めることが多く、これは子供がやや大きくなって食欲が増した時期が春となるよう、小型動物の育児や繁殖の時期と餌の多い春が重なるように適応して進化してきたためです。

日本では主要作物であるイネの植え付け準備に当たる時期でもあります。初冬から水田ではレンゲが緑肥として栽培され、田起こし、苗代作りなどが続きます。田植えは初夏の行事と思っている人も多いでしょうが、本州では早いところでは四月に始まります。

梅・桜・桃は、春の花の代表であり、それぞれを対象として花見が行われます。日本においてはとくに桜の開花が文化と密接な関わりをもち、桜の開花宣言が地域ごとに出されます。桜前線が北上するころには、菜の花も咲き乱れ、桜と菜の花の取り合わせは代表的な春の畑の風景です

もうひとつ、春の代表花としては、フクジュソウがあります。この花は、どちらかといえばもう少し早く、冬と位置づけていい時期に咲きます。が、一般にはこれも新春の花と認識されているようです。

春はまた、新芽の伸び始める季節でもあり、また、園芸植物では球根系のチューリップ・ヒヤシンス・アネモネなどの春の花が咲き誇ります。ただ、これらの花は、春の代表と認識されてはいるものの、実際の開花時期は地域によって異なり、特に寒冷地ではそれはかなり遅くなります。

このほかにも、ミズバショウは「夏の思い出」に唄われるため、夏の花と思っている人が多いようですが、実際には水場所が咲く尾瀬などでは、この花が咲く季節は春早に当たります。

また、寒い地方では、これらの春の花の開花は、単に遅くなるだけでなく、その期間が圧縮されます。例えば梅、桃、桜は本州南部では2月、3月、4月と順に咲いていきますが、東北地方ではほぼ同時に咲きます。

アロエ

ところで、チューリップやヒヤシンス、アネモネといった花は、ヨーロッパが原産であり、これらは彼の地では、「スプリング・エフェメラル」とされてきました。

ヨーロッパでも、多くの植物はこの時期から葉を伸ばし、栄養を蓄えてから繁殖を始めますが、特に春にだけに限って爆発的に発生するこうした植物や昆虫類を総称してスプリング・エフェメラルと呼んでいます。

ヨーロッパ原産の植物だけでなく、たとえば早春の花として有名な日本原産のカタクリは、地中深くに球根を持って越冬します。地上に顔を出すのは本州中北部では3月、北海道では4月で、これはほぼ雪解けの時期に当たります。つまり雪解け直後に地上に顔を出し、すぐに花を咲かせるのです。

花はすぐに終わり、本格的な春がくるころには葉のみとなり、葉も6月ころには黄色くなって枯れ、それ以降は地中の球根のみとなってそのまま越冬します。その地上に姿を見せる期間はわずか2ヶ月ほどです。

このカタクリのように、春先に花を咲かせ、夏までの間に光合成を行って地下の栄養貯蔵器官や種子に栄養素を蓄え、その後は春まで地中の地下茎や球根の姿で過ごす、という生活史を持つ植物は意外に多いものです。

とくに落葉樹林の林床ではこうした植物はよく見られ、そのためそのような森林の林床は、春先にとてもにぎやかになりますが、このような一群の植物をスプリング・エフェメラルと呼ぶのです。

スプリング・エフェメラルと呼ばれる植物は、いずれも小柄な草本であり、地下に根茎や球根を持っているほか、花が大きく、華やかな色彩を持つものが多いのが特徴です。小柄であることは、まだまだ寒い時期に高く伸びては寒気に耐え難いためであり、背を伸ばすよりは花に多くの栄養を割いた結果とも考えられています。

また、気温も低く、光も強くない春先に素早く成長し、まず花をつけるために地下に根茎や球根を持つことが必要になり、この根や球根が大きいものはそのためです。

スプリング・エフェメラルはまた、温帯の落葉広葉樹林に適応した植物でもあります。冬に落葉した森林では、早春にはまだ葉が出ていないため、林床は日差しが十分に入ります。この明るい場所で花を咲かせることこそがこの種の植物の最大の特徴です。

やがて樹木に新芽が出て、若葉が広がり始めると、次第に林内は暗くなりますが、それでも夏まではやや明るい状態です。つまり、この種の植物は、この光が十分にある間に、それを受けて光合成を行い、その栄養を地下に蓄えることができるわけです。

したがって、これらの植物は森林内に生育しているものの、性質としては日向の植物です。日本の場合、落葉広葉樹林帯に当たるのは、本州中部以北、あるいはそれ以南であれば標高の高い地域です。

特に、里山はそれらが比較的よく出現すると言われています。人為的な撹乱を連続的にうけた樹林帯であり、スプリング・エフェメラルは人が落葉樹林帯を作ったからこそ、ここに誕生した植物ということになります。

ムラサキナバナ

約1万年前の最終氷期が終わるころ、このころの日本にいた旧石器時代人は、氷期の落葉広葉樹林の生態系に適応していました。ところが、氷期が終り、新しい照葉樹林の生態系が生まれると、これに適応して縄文人が生まれました。

この縄文人たちは、木の実や食用の葉など生活資源を獲得する上においては、落葉広葉樹林のほうが有利であることを知っており、これを維持するように仕向けたといわれており、このために、森林の一部に一定の手入れを続けて、今日の照葉樹林地帯における里山や草原の原型を作り出しました。

つまり、現在の日本の照葉樹林地帯で普通に見られるスプリング・エフェメラルは、縄文人による生態系操作によって生み出された常緑樹帯によって間氷期を生き延びて現在に至っているということになるのです。

それにしても、なぜスプリング・エフェメラルは、背が高くなることよりも花を咲かせることを優先させるのでしょう。

その理由は、これらの植物が「虫媒花」としての性質を持っているからだといわれています。「虫媒」というのは、春の早い時期に活動を始める少数の昆虫がその花粉を運ぶ媒介役を担うことをさします。

つまり、多くのスプリング・エフェメラルが、ほかの植物体に比べて大柄な花をつけるのは、春先にはまだ活動が鈍く、それほど数の多くないこの昆虫の目を引くためです。

このような花の受粉を担っている昆虫としては、北方系の昆虫であるマルハナバチや、低温環境下でも活発に活動できるハナアブ科のハエ類などが多いそうです。例えばカタクリやエゾエンゴサクの花は、マルハナバチに受粉を依存しており、フクジュソウの黄色の皿状の花は、とくにハナアブ類に適応した花の形をしていることなどがわかっています。

なお、ギフチョウやウスバアゲハなど、春先のみ成虫が出現する昆虫のことをもスプリング・エフェメラルということがあり、とくにこの語で呼ばれるのは、華やかなチョウなどが多いようです。

例えば、ギフチョウの場合、春先に羽化した成虫は、すぐに卵を産み、卵はすぐに孵化して、食草をどんどん食って成長します。夏には蛹になって、そのまま春まで、落ち葉の下で休眠します。つまり、その生活史は植物のスプリング・エフェメラルそのものです。

スプリング・エフェメラルとして、日本産で代表的な植物としては、以下のようなものがあります。

キンポウゲ科
キクザキイチゲ、ユキワリイチゲ、アズマイチゲ、イチリンソウ、ニリンソウなどのイチ

リンソウ属
フクジュソウ、セツブンソウ

ケシ科
エゾエンゴサク、ヤマエンゴサク、ムラサキケマン

ユリ科
カタクリ、ショウジョウバカマ、ヒロハノアマナ、バイモ属(コバイモ類)

ウメ07

ところで、このスプリング・エフェメラルは、英語では“Spring ephemeral“と書きます。直訳すると「春の儚いもの」「春の短い命」というような意味で、「春の妖精」とも呼ばれます。

この妖精を逆に英語に直訳すると、“fairy”となります。西洋の伝説・物語などで見られる、自然物の精霊であり、中国では、もともと妖怪や魔物を指して使われていました。

西洋では神話や伝説によく登場します。超自然的な存在、人間と神の中間的な存在の総称であり、人とも神とも違う性格と行動は、しばしば「気まぐれ」と形容されます。その語源は、ラテン語で運命を意味する「Fata」に由来します。元々天使でしたが、天使の座から「降格」された存在であったとも言われています。

イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、ノルマンディー地方などの神話・伝承の精霊や超常的な存在を指しますが、日本では、この妖精のことを「こびと」や妖怪と呼び、時に龍や、仙女なども妖精としてきました。

ゲルマン神話のエルフ、メソポタミア地域のリリス、インドおよび東南アジアのナーガなども妖精の一種です。

これらは人間に好意的なもの、妻や夫として振る舞うものなども多いようですが、一方では人にいたずらしたり、だましたり、命を奪おうとするもの、障害として立ちはだかるもの、運命を告げるものなど、必ずしも人に幸せをもたらすものではありません。

伝承とはいえ、実際にいるはずだ、とする人は古今東西後を絶たず、その昔、イギリスでは「コティングリー妖精事件」とうのがありました。20世紀の初め、イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー村に住む10代の姉妹が撮ったという妖精の写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動のことです。

写真に写った妖精は、小さい人の姿で、1920年代の髪型をし、非常に薄いガウンをはおり、背中には大きな羽がありましたが、作り物ではないかという指摘が当初からありました。

しかしその後70年以上を経たのち、この写真は、子供向けの絵本の絵を模写して切り抜いて撮影したものであったことを老婆となったこの姉妹が告白したことから、この写真は捏造であったことが発覚しました。

しかしながらその当時は、多くの人が妖精の実在する証拠としてこの写真を例にあげたそうで、その中には、シャーロック・ホームズ・シリーズの作者として有名なアーサー・コナン・ドイルもいたそうです。

このコティングリー事件によって妖精は人が創作したものと一般に認識されるようになりましたが、一方ではこの事件を受けて、妖精といえば、この写真のように羽をもつ非常に小さな人型の姿で絵や物語の中で登場することが多くなりました。

恋人岬の菜花02

以後、同様に「小さい妖精」としての類型としてさまざまな名前や姿形で、世界中の異なる地方、民族の伝承にあらわれるようになっていきます。

しかし、もともとのフェアリーの起源としては、土着の神などが、異教の神が入ってきたために神格を剥奪されたものであったり、社会的に差別・追放された人々を説明するための表現、しつけのための脅しや芸術作品の中の創作、などでした。

ただ、これらの創作物でも小さい姿に描かれるということは昔からあったようであり、このほか「遠い場所に行ってしまう」という話も多く、これは意識の中で小さくなってしまった存在であるということを表しています。

ヨーロッパ人の起源といわれるケルト族の神話や伝説にはいろいろな種類の「小人」が登場します。ドワーフ、レプラコーン、ゴブリン、メネフネの名で呼ばれた神話上の生き物も同じように「小人」と呼ばれ、アイルランドではシー(Sidhe)、スコットランドではディナ・シー(Daoine Sith)として知られています。

日本でも古来から、「妖怪」とされるものが妖精と同一視されてきましたが、最近では、「小さいおじさん」がひとつのブームです。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めたようです。

目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度で、窓に貼りついていたとか、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などいろんな話があります。

ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されていて大人気ですが、もともとは、2009年にテレビ番組「やりすぎコージー」(テレビ東京)で元お笑いタレントだった人が、「関東中央の神社の参拝者に妖精がついてくる」と話したことが発端となったようです。

その後この神社は、実は東京都の中央に位置する神社である杉並区の大宮八幡宮ではないかとする噂が独り歩きし始め、番組放映直後の3月の連休には、この神社に例年の倍以上の参拝者が殺到したといい、現在でも参拝者が多いといいます。

2010年にはキャラクターグッズとして、携帯ストラップ「幸せをよぶ小さいおじさん」が発売され、小さいおじさんを目撃すると小さな幸せがある、見た後は成功するなどと宣伝されたことなどもブームに火をつけ、2011年には、「昭和47年(1972年)に秋田県で撮影された」とする写真も公開されました。

この写真には、身長15センチメートルほどの小人らしきものが写りこんでおり、「小さいおじさん」の写真として、妖怪研究家・山口敏太郎の解説とともに新聞紙上で報道されました。そうしたこともあり、その後目撃談があいつぎ、とくにミュージシャンやグラビアアイドルなど、芸能人による目撃談が数多く語られるようになりました。

コブシと月

その正体が何かについては、妖精、河童、妖怪、幽霊、宇宙人といったさまざまな説がありますが、実際には肉体および精神的な疲労などを原因とする幻覚ではないかと指摘する人もいます。

認知症の一種によるものだとする説もあり、これは「レビー小体型認知症」というれっきとした名前のある病気です。特徴的な症状として、覚醒レベルでの具体的で詳細な内容の幻視・幻覚などで、本症に出現する幻視は非常にリアルであるとされ、患者本人は具体的に「そこに~●●がいる」などと訴えます。

ところが、この病気にかかると視覚的に物事を捉えることが難しくなります。「認知症」としているのはこのためですが、アルツハイマー型認知症と違い、図形描写が早期に障害されることが多いそうで、これらの症状は、後頭葉の障害によって出現するものと考えられるそうです。

科学の信奉者がこのように否定的な見解を示す一方では、北海道などでコロポックルなど小人の伝説も実際に伝わっているため、一概に幻覚や病気説によってこれらの小人を否定することはできないとの意見も多いようです。

私自身は肯定も否定もしませんが、実際に見たことはありません。が、霊能者の方に背後霊のひとりとして、コロボックルがついていると言われたことがあります。かつて、北海道への出張が多かったころについて来たのでしょうか。

この小さいおじさんが妖精であるかどうかは別として、ともかくも、見える人には人型のものとして見えるようです。しかしその一方で、人の姿を取らないフェアリーも少なくないようで、ヨーロッパで旅人を惑わすウィル・オ・ウィスプという妖精は人の形をしていません。

日本でいう鬼火、人魂であり、白い光を放ち浮遊する球体、あるいは火の玉として現れ、イグニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれます。他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があるようです。

夜の湖沼付近や墓場などに出没したり、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿など様々なことが言われています。

ウィル・オ・ウィスプ“will-o’-the-wisp”とは、「一掴みの藁のウィリアム(松明持ちのウィリアム)」の意味で、これは死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィル(ウィリアム)という名の男の魂だといいます。

生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、この聖人を言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わりました。

しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門の前で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と言われ、煉獄の中を漂うことになります。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡しました。この時からウィルが持ち歩く明々と燃える石炭の光が、人々には鬼火として見えるようになり、恐れられるようになっていったということです。

実際にこの鬼火はよくヨーロッパでは見られるそうで、これは「球電現象」と呼ばれています。

その実態は、稲妻の一種、あるいは湖沼や地中から噴き出すリン化合物やメタンガスなどに引火したものであるといわれているようですが、これは日本における人魂も同じで、墓場で埋められた死者から発生したガスが原因で発光するのだとする説もあるようです。

ボケA

ヨーロッパにおけるこうしたウィル・オ・ウィスプは人形にはならない一方で、家畜や身近な動物の姿をとることもあるそうです。

クー・シーというイヌの妖精は、外見以外は通常の犬に近い性質を持ちます。コナン・ドイルの「バスカヴィル家の犬」やハリー・ポッターシリーズに、墓守あるいは死に結びつけられる「黒妖犬」として登場するものなどがそれです。

騎馬民族の多いヨーロッパでは馬もまた、妖精として登場することが多く、その激しい気性は、御しがたい川の激流に結びつけられ川馬ケルピーや人を乗せて死ぬまで走る夜の白馬などとして登場します。

このほか猫は妖精的な生き物とされ、魔女の使い魔、魔女の集会に集まると考えられたり、そのものが妖精ケット・シーとされます。“Cait Sith”と書き、アイルランドの伝説に登場する妖精猫のことで、ケットは「猫」、シーは「妖精」です。

ケット・シーは人語をしゃべり二本足で歩くそうで、しかも王制を布いて生活しているそうです。また二カ国の言葉を操るケット・シーもいるそうで、かなり頭のいい奴らだということがわかります。

犬くらいの大きさがある黒猫で胸に大きな白い模様があると描写されることも多いようですが、虎猫や白猫、ぶち猫など様々な姿で描かれることもあり、必ずしもクロネコというわけでもなさそうです。

アネモネ

こんな話があります。

ひとりの農民が満月の夜帰宅の途に着いていました。

すると、村境のある橋の上に猫がたくさん集まっていたので、奇妙に思った男は、好奇心からこっそりとその様子をうかがってみることにしました。

すると、猫たちが葬式のような行事を行っているようであり、さらに耳をそばだててみると、なんと人間の言葉でしゃべっているではありませんか。男は仰天し、さらに猫たちの声を聴いていると、どうやら猫たちは「猫の王様が死んだ」と騒いでいるようです。

その後も意味不明な会話をしていましたが、しばらくするとその話も一段落したのか、一匹残らずどこかへ逃げ去ってしまいました。

男が家にたどり着いたのはその夜もうかなり遅い時間だったので、その日はそのまま寝てしまいました。翌朝、その不思議な出来事のことを思い返した男は、気持ちを抑えきれずにその話を妻に話し始めました。すると、暖炉のそばで眠り込んでいた愛猫が、突然飛び起き、そして、こう叫びました。

「何だって!? それならぼくが次の王様だ!!」

猫は叫ぶと煙突から風のように外に飛び出して行き、二度と帰ってはこなかったそうです。

…… さて、ウチのテンちゃんは妖精でしょうか。

ネコ万歳!

原爆ドーム

2014-1120862しばらく仕事が忙しく、めずらしくブログの間が空いてしまいました。

この間、桜の開花がかなり進んだようで、山の上の我が家の周辺でも河津桜がほぼ満開です。もうそんな季節になったかと改めて思う次第ですが、では、今年になって何があったかなと思い返してみると、ほとんど何も思い出しません。

それでも、今年は2月にオリンピックがあり、その観戦で明け暮れたことは思い出したのですが、では1月に何があったかな~と思い返してみると何も出てこず、あわててかつてのブログを読み返してみると、あー、そうだったと思いだしたのが、月末に行ったプチ旅行でした。

姪の結婚式があり、二泊三日の短い日程で広島へ出かけたのですが、そのことを皮切りに、その旅行の準備で忙しかったことや、直前に母の入院先が手術をした病院から別のリハビリ専門の病院へ移ったことなど、芋づる式に思い出しました。

この広島では、広島駅近くの京橋川のほとりにあるビジネスホテルに宿泊したのですが、ここから市内の中心部である八丁堀までは歩いても十数分と近く、また、20分ほども歩けば、世界遺産の原爆ドームのある平和記念公園までも行けてしまいます。

高校時代までこの地で過ごした私にとっては、この平和記念公園は思い出がいっぱい詰まった場所なのですが、この旅行でもそうした昔のことが懐かしくなり、姪の結婚式がある日曜日の朝、早起きして、ここまで散歩に行ってきました。

お天気も良く、ちょうど原爆ドームに到着したころには、朝日もかなり高く昇り、オレンジ色の光を浴びたドームは妙に神々しく思え、原爆投下という悲惨な出来事を象徴する建物であることを忘れてしまうほどで、思わず見入ってしまいました。

場所としては、原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっています。北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、旧広島市民球場跡地と向き合う、といった位置関係で、東側約200メートルの位置には、爆心地とされ、現在も開業している島外科病院があります。

元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。

その建築の経緯ですが、これは広島が明治時代には、「軍都」と呼ばれるほど大規模な軍隊を置いていたことと関係があります。

日清戦争時代には一時的ではありますが、大本営がおかれたこともあり、これを契機として、町としても急速に発展していきました。このため、その経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓とうことが声高に叫ばれるようになり、その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」でした。

1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工しました。ドームの一番高いところまでの高さは約25mもあり、ネオ・バロック的な骨格にドイツ・オーストリア様式の細部装飾を持つ建物であり、建築の段階から大勢の市民が見物に来るほど耳目を集める建築物でした。

完成後は数々の物産展が開かれ、1921年に広島県立商品陳列所と改称した後も、第4回全国菓子飴大品評会の会場になるなど、中国地方における経済の中心都市である広島のシンボル的な存在となっていきました。

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1933年には更に、「広島県産業奨励館」という名称に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献するようになりました。しかし、戦争が長引く中、1944年3月にはその業務を停止し、内務省の土木事務所や県地方木材会社の事務所として使われるなど、行政機関・統制組合の事務所として使用されるようになります。

1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下しました。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂します。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達しました。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、産業奨励館は350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされました。

このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、なんとか残存できました。しかし、しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなりました。

ドーム部分が全壊しなかった理由としては、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜け、ドーム内部の空気圧が外気より高くならない条件が整ったことなどが理由としてあげられています。

また、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったことや、銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったことも、その生き残りに寄与したようです。

このとき、広島市内は文字通りの焼け野原となりましたが、とくに爆心地付近での残存建築は少なく、この焼け残ったドーム部分は、爆心地付近では最も背の高い被爆建造物となりました。

原爆投下時には、この建物内で約30名の内務省職員がいましたが、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されています。ただ、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち1名だけが、原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅していて生存し、原爆投下当日の勤務者の中での唯一の生存者となりました。

その後、このドームを原爆の記憶としてとどめようという市民運動がおき、戦後の復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められました。

1955年(昭和30年)には「広島平和記念公園」が完成しましたが、この公園は、原爆ドームを起点とし、原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館とを結ぶ軸を南北軸として設計され、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものでした(原爆ドームは公園の北端にあたる)。

1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定し、これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦。1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合で、正式に世界遺産としての登録が決まりました。

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この原爆ドームを巡っては、その前身である「広島県物産陳列館」の時代に、二人のヨーロッパ人が深くこれに関わっていたことは、有名です。

その一人は、ヤン・レッツェルという、チェコ人であり、この広島県物産陳列館の設計者です。1880年(明治13年)にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)に生まれ、高等専門学校で建築を学び、1899年にパルドゥビツェの学校の土木課の助手の職を得ました。

1901年には奨学金を得、プラハの美術専門学校に入学し、チェコの近代建築の重鎮の一人であるヤン・コチェラ教授に師事。1904年に卒業し、プラハに今も現存する数々の建築物の設計を手掛けるようになり、25歳になったとき、エジプト・カイロの設計事務所に勤めはじめました。

その傍ら、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなどの名建築が数多いイタリアの各都市を訪れており、その一年後の1907年(明治40年)に来日。日本では横浜のゲオルグ・デ・ラランデというドイツ人の設計事務所で働くこととなりました。

その翌年に、事務所を主宰していたラランデが本国のドイツへ帰国したのに伴い、これまで勤務していた設計事務所から、ゲオルグの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデが横浜に設立した新会社に移籍しました。

レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町にあったこの会社のある洋館に通うようになりますが。この洋館は、現在、府中市にある江戸東京たてもの園に、「デ・ラランデ邸」として、移築復元工事中だそうです。

しかし、ここでの勤めは長続きせず、1910年には友人ととともに独立し、自分の会社を設立。事務所を横浜と東京に置き、日本の政府筋や学校関係から15件以上の建物の設計を受注するようになり、広島県物産陳列館の設計もこのときに行ったようです。

その後も日本での事業は順調に推移していたようですが、1915年には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国。これでいったん日本との絆は絶たれたかのように見えましたが、1919年に、今度はチェコスロバキアの在日大使館の商務官に任命され、その翌年に再来日しました。

レッツェルは母国で、同じチェコの女性と結婚していましたが、この再度の来日の時には彼女も同伴していました。ところが、二人の間には子供ができなかったため、このとき日本人の5歳の女児を養子に迎えました。

本国の外交官として再来日したレッツェルの暮らしは順調かに見えましたが、1923年9月1日に関東大震災が勃発し、一家も被災してレッツェルは全財産を失います。かつて自らが設計した多くの建物も被災し、その多くが失われたことを目にして彼は失意のどん底に沈み、体調を崩したため、同年11月に療養のために一人帰国します。

しかし、本国でも体調は持ち直すことなく、そのまま入院生活に入り、2年後の1923年にプラハで死去。45歳でした。帰国後は、母国を捨てて日本へ行ったということで家族友人から見放されていたといい、遺体は公共墓地へ埋葬されるなど、寂しい末路だったようです。

レッツェルの建築家としての活動の大半は日本におけるものであり、チェコ本国では、彼の本国での経歴の短さから、ほとんど知られていないようです。

ところが、近年、世界遺産となった原爆ドームとの関連からようやく評価されるようになり、かつて彼が本国で設計した当時の作品が探されるようになったといい、2009年にもモラビア地方の町ブルノの墓地で神社の鳥居を模した墓石が見つかり、彼の初期のデザインであると判明したそうです。

レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、関東大震災のためにほとんど残っておらず、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)がその中でも一番大きいもののようです。このほかには、こちらも関東大震災で倒壊した聖心女子学院校舎(1909年竣工)の正門のみが現存しています。

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さて、原子爆弾の投下によって廃墟と化し、原爆ドームとなった産業奨励館と深い関わりがあったもう一人の外国人とは、カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムと言うドイツ人でした。

戦前の日本で活躍したドイツ出身の菓子職人、実業家であり、第一次世界大戦中に捕虜として連行された日本に留まり、現在も神戸市にある「株式会社ユーハイム」の前身である喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店したことで知られ、日本で初めてバウムクーヘンを作り、マロングラッセを販売した人物としても知られています

その生涯をすべて語ると長くなりそうなので、少々割愛しながら話を進めるとしましょう。

1886年12月25日、ドイツで10人兄妹の末っ子として生まれ、国民学校卒業後に菓子店で修行をしつつ、夜間職業学校に通って菓子の製造技術学んだ彼はめきめきと菓子職人としての腕をあげました。

22歳のとき、菓子店協会の会長に勧められてドイツの租借地である中国の青島市で同じドイツ人が経営する喫茶店に就職します。まもなく、その店主が帰国しなくてはならない理由ができたことから、彼はその喫茶店を譲り受け、これを自分の名前「ユーハイム」の名で営業するようになりました。

この当時から、ユーハイムの作るバウムクーヘンは本場ドイツの味そのものだと外国人を中心に評判だったといい、店は大繁盛。しかし、28歳と年頃であった彼は、数年後結婚相手を探すためにいったん帰郷し、1914年春にエリーゼ・アーレンドルフと婚約。同年7月に青島市に戻ってきて彼女と式を挙げました。

ところが、挙式直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦することとなり、青島市はドイツに宣戦布告した日本軍の攻撃を受け、陥落。ユーハイムは非戦闘員であったにもかかわらず、日本軍の捕虜となり、大阪の西区にあった大阪俘虜収容所に収監されてしまいます。

このとき妻のエリーゼは青島市に残され、ユーハイムが連行されてすぐに長男カールフランツを出産していましたが、彼はこの第一子が生まれたことも知らず、妻の安否を心配しつつ悶々とした日々をここで送りました。

一年半ほどをここで過ごしたのち、ユーハイムは1917年2月、「インフルエンザの予防」という理由で、今度は他の捕虜とともに、広島県安芸郡仁保島村、すなわち現在の広島市の南側に浮かぶ、「似島(にのしま)」にある「似島検疫所」に移送されます。

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この似島検疫所というのは、日清戦争から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の検疫所の一つとして、1895年(明治28年)に設置されたもので、開設時の名称は「臨時陸軍似島検疫所」でした。

似島に検疫所が置かれたのは、当時、東京起点の鉄道網の西端が広島であり、出征兵士・輸送物資の玄関口となっていた宇品港(現・広島港)のすぐ沖合に似島が位置していたからです。

開所直後には北里柴三郎博士が新しい機器(蒸気式消毒罐)の実験のために訪れており、その後は膨大な捕虜の検疫を成功させ、この当時の児玉源太郎陸軍次官から高く評価されました。

日露戦争時の1905年(明治38年)には検疫所内にロシア人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が置かれたことがありましたが、この跡地に大阪からユーハイムを含むドイツ人捕虜545名が大阪から移送されてきたのです。

この似島検疫所内でユーハイムは、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げており、これがバームクーヘンの日本における発祥地は広島であるといわれるゆえんです。

また、同じく捕虜として収容されたソーセージ職人のヘルマン・ウォルシュケもここで日本初といわれるソーセージを製造しており、解放後も日本に残ってソーセージ文化を広めました。彼は、1934年(昭和9年)阪神甲子園球場で行われた日米野球で日本で初めてホットドッグを販売しており、これも日本初のホットドックであるといわれています。

1919年(大正8年)には、このドイツ人捕虜チームと広島高等師範学校チームや広島県師範学校チームとでサッカーの試合が行われ、いずれも大差でドイツ人捕虜チームが勝利しており、これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われています。

このドイツ人選手達の技量はかなり高かったようで、その選手の一人は、ドイツ帰国後にサッカークラブを創設しており、このクラブからは、後にサッカーの元ドイツ代表、ギド・ブッフバルトなど数多くのプロ選手を排出しています。

また、このとき広島高師の主将を務めた田中敬孝は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得て捕虜からサッカーを教わっており、田中は翌年から広島一中の監督として指導しています。このため、似島はその後ある時期には「サッカーの島」と呼ばれるほどサッカーがさかんになり、ここからは多くのサッカー選手を輩出しています。

ちなみに、この広島一中というのは私の母校である、現在の広島県立国泰寺高校の前身であり、この当時もそうですが、現在も県下では屈指のサッカー強豪校として知られています。ここで二年間を共にした私のクラスメートの中の一人も、この似島出身で当時サッカー部に所属しており、50を過ぎた今でもなお、趣味としてサッカーを続けています。

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1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際には、この似島検疫所が被爆者救護のために重要な役割を果たしました。爆心地からは海を隔てて約9キロメートルのところに位置し、直接の被害は爆風により窓ガラスが割れた程度であった一方、広島市内の救護施設はまひ状態に陥ったため、船で続々と負傷者が搬入され応急処置を受けました。

短時間に多数の患者が殺到し、また重篤な罹災者も多いわりに薬品類や医療器具・人的資源が絶対的に不足していたために、検疫所で息を引き取る者も多く、運び込まれた時点で既に死亡しているケースも数多かったといいます。

検疫所での処置数は被爆後20日間で10,000人といわれ。遺体は最初は焼かれましたが、処理が間に合わないためにその後は単純埋葬とされました。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立されています。

そんな似島検疫所に収監されていたユーハイムですが、彼が創ったバームクーヘンは、検疫所を運営する日本軍人の中でも有名となり、1919年3月4日には、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品を広島県が主催して展示即売会を開催することになりました。

ユーハイムはバウムクーヘンだけでなく、ほかの菓子も作ることになりましたが、良い菓子を作るためには、これを焼き上げるための堅い樫の薪などを必要とし、その入手は難航したといいます。

しかし、苦労の末、ついに母国の味に近いバウムクーヘンを焼くことに成功。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で製造販売を行うに至りました。その後、このバウムクーヘンが、日本で初めて作られたバウムクーヘンとして世に知られるようになります。

ただ、この時ユーハイムが作ったバームクーヘンは、まったくのオリジナルのドイツの味ではなかったそうで、その味は日本人向けにアレンジされていました。

ユーハイムは青島市が日本軍に占領された際の経験から、バターを多く使用した菓子が日本人に受け入れられないことを知っており、このバターを控えることにしたそうで、これが功を奏してユーハイムの作った菓子は好調な売れ行きをみせたといいます。

1918年、ドイツは連合国との間に休戦協定を結び、第一次世界大戦は事実上終戦を迎え、これにより、日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、解放された者の大半はドイツへの帰国を希望しました。

ユーハイムもまた、無論妻子が待つ青島市に帰るつもりでしたが、当地でコレラが流行しているという報に接して泣く泣くこれを断念し、日本残留を決めます。しかし、その後妻子は無事であることがわかり、のちに青島市から日本に呼び寄せています。

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日本に残ることを決めたユーハイムはその後、明治屋の社長、磯野長蔵が銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に採用され、製菓部主任の肩書が与えられます。やがて青島から妻子を呼び寄せ、この喫茶店の3階で暮らすことになったユーハイムの作る菓子は高い評価を得るようになっていきました。

最も評価が高かったのはやはりバウムクーヘンで、その他にプラム・ケーキが品評会で外務大臣賞を獲得したこともあったそうです。「カフェー・ユーロップ」の常連客の中には、小説家の里見弴、二代目市川猿之助、有名女優の栗島すみ子などの著名人がいたといいます。

しかし、「カフェー・ユーロップ」は貸店舗であったため、1922年にはその契約期間が終わることとなります。ユーハイム夫妻が今後の身の振り方を考えていた最中、横浜市中区で経営しているレストランを売りたいと申し出たロシア人がおり、これを購入して店の名前を「E・ユーハイム」として再出発を図ります。

Eはエリーゼ(Elise)のEだったそうで、その名を冠した妻のエリーゼは結構なやり手で、近辺に手頃な価格で昼食を提供する店がないことに着目し、ドイツ風の軽食も出すことをユーハイムに提案。このアイディアが当たり、店は大いに繁盛しました。

しかし、こうして苦労して開店した店もまた1923年9月1日、関東大震災によって焼失してしまいます。ユーハイムは家族とともに神戸市垂水区の知人の家に身を寄せ、ここ神戸で再起を図ることにし、当初ホテルに勤務しようと考えていました。

ところがこのとき、ある人が当時の生田区(現在の中央区)三宮町にあった3階建ての洋館に店を構えるよう勧めてくれました。その洋館を視察したユーハイムはこれをとても気に入り、政府の救済基金から借りた3000円を元手にこの洋館の1階に喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店しました。

当時神戸には外国人が経営する喫茶店がなく、この店はすぐに多くの外国人客でにぎわうようになり、開店から1年ほど経つと「JUCHHEIM’S」の菓子を仕入れて販売する店も出てくるようになるなど店の経営は順調に推移していきました。

近隣の洋菓子店がユーハイムのバウムクーヘンを模倣した商品を売り出すようになってからも人気が衰えることはなく、ユーハイムはバウムクーヘンのほか、日本で初めてのマロングラッセも販売しました。ここでの常連客にもまた、多くの有名人がおおり、多くの芸能・文化人や政治家、財界人が常に入り浸っていました。

谷崎潤一郎も「JUCHHEIM’S」をひいきにしていたといい、こうした多くの有名人を虜にした理由は、彼の徹底した味へのこだわりだったようです。このころ40歳目前で、働き盛りであったユーハイムは、厳格な職人気質だったそうで、売れ残りのケーキを窯で焼いて捨てるという習慣を持っていたといい、弟子に対してもかなり厳しかったそうです。

衛生面に気を配るよう厳しく指導し、自らも風呂には毎日入り、爪は3日に1度は切り、汚れのついた作業着は着ない、といった具合でした。これ以前に店主をしていた「カフェー・ユーロップ」に勤務していた時期でも、初任給が15円であったところ、風呂代と洗濯代を月に3円ずつを従業員に支給していたという逸話も残っています。

原料についてもこだわり、常に一流店が扱う品を仕入れたといい、国内で品質の良いものが手に入らないと見るやラム酒をジャマイカから、バターをオーストラリアから取り寄せるほど徹底していたそうです。こうして、次々と新たな工場を建てて事業を拡大し、JUCHHEIM’Sはさらに発展していきました。

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ところが、1937年夏、51歳になったユーハイムに、妻のエリーゼはその振る舞いに尋常でないものを感じます。そしてユーハイムを精神病院に入院させますがが、ユーハイム自身は自分が病気であるという認識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、エリーゼは彼をドイツに帰国させて治療を受けさせることにしました。

数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの、明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていました。さらに店のほうも1941年に開戦した太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなってきていました。

1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにしましたが、1945年6月、空襲により工場は機能しなくなり、ユーハイムは家族とともに六甲山にある六甲山ホテルで静養することになりました。

しかし、終戦前日の8月14日午後6時、ユーハイムはホテルの部屋で椅子に座り、静かに亡くなりました。死の直前まで妻と語り合っていたといい、医師が書いた死亡診断書には、中風による病死と書かれていたそうです。

ユーハイムの死後、その親族(エリーゼと戦死した息子の妻子)はGHQの命令でドイツに強制送還されました。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務め、かつドイツへ帰国した経験があること、息子のカールフランツがドイツ軍に在籍(のちに戦闘で死亡)したことが問題視されたためです。

ところが終戦から3年経った1948年、かつて「JUCHHEIM’S」に勤務していた日本人の部下3人が同店の復興を目指して任意組合「ユーハイム商店」を設立。1950年には株式会社に改組し、1953年は、ドイツへ去ったエリーゼを呼び戻します。帰国直後から彼女は会長に就任し、1961年には社長に就任。

その後エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、ユーハイムを切り盛りして大きくしましたが、1971年5月、80歳のとき兵庫県神戸市で大往生を遂げました。兵庫県芦屋市の芦屋市霊園には愛する夫の墓があり、ここに彼女自身も入れられ、二人は今静かにここで眠っています。

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ところで、この菓子職人である、ユーハイムと、原爆ドームを設計したレッツェルは、一見何のつながりもなさそうですが、歴史とはまことに皮肉なエピソードを潜ませるもので、実は、この二人は奇妙な縁で結ばれていました。

その縁のひとつは、無論原爆ドームであるのですが、彼等二人は互いに面識はないものの、ユーハイムの妻のエリーゼと、レッツェルの師匠のラランデの妻はそれぞれの夫が亡くなったあと、知り合いになっていた、という事実があるようです。

レッツェルが初来日したときに、横浜で建築事務所を主宰していたゲオルグ・デ・ラランデという人物の建築事務所に勤めていたことは前述しました。

このオルグ・デ・ラランデは、その後朝鮮総督府の仕事のため京城(ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、日本に帰ってから亡くなりました。このラランデの妻は、エディといいましたが、彼が亡くなったことから、彼女もまたその後、子どもを連れて母国のドイツに帰国しました。

ところがその後彼の地で後の外務大臣となる外交官、東郷茂徳と知り合い、かつて日本に居住していたという縁から親しくなり、この東郷と再婚を果たしました。

東郷というと、元帥海軍大将の東郷平八郎を思い浮かべますが、血縁関係はなく、その先祖は朝鮮から渡ってきた陶工だそうです。外務省に入ってからは、欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任し、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたりましたが、日米開戦を回避できませんでした。

鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力しましたが、にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没しています。

この東郷茂徳の妻エディは、その後日本に帰化して「東郷エヂ」と名乗っていたようですが、その彼女が、ユーハイム再興に深くかかわっていたらしい、という事実がその後明らかになっています。

エディが死後に遺した日記には東郷茂徳とユーハイムとの関わりが記されていたそうで、その記述からは、どうやらユーハイムの再興においては、この東郷茂徳とその妻エディが深くかかわっていたらしいことが読み取れるそうです。

また、これを裏付けるように、ユーハイムの妻のエリーゼが1971年に六甲山の麓で他界したときに発見された遺品の中には、東郷茂徳の妻である東郷エヂが遺した日記もあったそうで、合わせて彼女の元夫のゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートが発見されたそうです。

このことから、エディとエリーゼは親交があったことがうかがわれ、ラランデの弟子であったレッツェルとユーハイムはここでつながることになるのです。原爆ドームという遺物を介してだけでなく、この二人が間接的とはいえ交わっていたというのは、興味深い話です。

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さて、原爆の投下後、広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まりました。その中でドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていました。

復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められましたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による「広島平和記念公園」が完成しました。

こうして、原爆ドームはこの公園の中心的存在となり、原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになりましたが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こります。

一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になりました。

広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていました。

ところが、この流れを変えたのは地元の女子高校生、「楮山ヒロ子」の日記でした。彼女は1歳のときにこの当時平塚町と呼ばれていた場所(現在は広島市中区)の自宅で被爆し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため15年後の1960年に16歳で亡くなりました。

「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議するに至ります。

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翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存活動が継続されています。当初は、広島市単体での保存・管理が続けられていましたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。

原爆ドームの登録審議は、メキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われましたが、このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました。

アメリカ国民の中では「原爆使用は日本にポツダム宣言を受け入れさせた事で百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉える傾向が強かったためです。また、中国は、「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」としてこのとき審議を棄権しています。

原爆ドームは単なる戦争遺跡というだけでなく、核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘といったメッセージ性のある遺産、犠牲者の墓標という性格を持つため、保存に際しては「可能な限り、破壊された当時の状態を保つ」という特殊な必要性をはらんでいます。このため、世界遺産でありながら、負の遺産とも呼ばれています。

その保存作業は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はその度に取り除かれています。しかし、定期的な補修作業・点検や風化対策にもかかわらず経年による風化も確認されており、他の世界遺産で施されるような一般的な意味での修復や改修・保全とは別種の困難が伴います。

1967年にはかなり大規模な保存工事を実施しましたが、その後、市民の募金と広島市の公費によりと1989年に2度目の大規模な補修工事を実施し、この大補修以降も、3年に1度の割合で健全度調査が行われています。

広島はそれほど地震の多いところではないのですが、先週の14日にも四国や中国、九州にかけて強い地震があり、愛媛県西予市で震度5強、広島でも5弱を記録しており、2001年3月24日の芸予地震でも、広島市中区は震度5弱の揺れに遭遇しました。が、いずれの地震時にも目立った被害はありませんでした。

このように、広島もまたけっして地震とは無縁ではありません。このため、保存工事ではこうした大型地震に対しての耐震性も考慮されているといいます。しかし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外の場合、崩落する危険性を常に抱えているといわれます。

2004年以降、この原爆ドームの保存にあたっては、その方針を検討する「平和記念施設のあり方懇談会」が開催されています。

この会では、保存に当たり、1.自然劣化に任せ保存の手を加えない、2.必要な劣化対策(雨水対策や地震対策)を行い現状のまま保存、3.鞘堂・覆屋の設置、4.博物館に移設、などの四つの案が提案されましたが、2006年にこの2番目の「必要な劣化対策を行い現状のまま保存」とする方針が確認されました。

とはいえ、完全な保存のままの維持には限界もあるであろうし、いつの日にか、この原爆ドームの姿が完全に失われることもあるでしょう。私の目の黒いうちにはないかもしれませんが、やがてその姿が崩れ去って無くなるころまでには、世界中の核兵器が根絶されていることを願ってやみません。

さて、今日も長くなりました。この項を書いている途中から無性にバームクーヘンが食べたくなりました。みなさんも、おいしいバームクーヘン、おひとついかがでしょうか。

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ウソかまことか

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ちかごろの新聞やニュースでは、中国や韓国との関係悪化といった国際問題がよく話題になっていますが、国内に目を向けると、やたらに殺傷事件が多く、このほか詐欺や語りといった事件が連日のように報道されていて、なんだかずいぶんとすさんだ感じがします。

詐欺といえば、オレオレ詐欺は以前にも増して増加しているそうですが、最近はこうした詐欺と殺傷事件が相乗りしたような事件も増えていて、先日、柏で起きた連続殺傷事件も犯人がまるで一般人のようにメディアの取材に登場し、スター気取りで犯行の様子を話していたことなどが報道されていました。

また、ちょっと前には耳が聞こえない作曲家さんの大ボラがバレ、本人は記者会見を開いて謝罪していますが、本当のことを言っているかどうか疑わしく、これまでも彼の虚言に振り回された人々に対しての詐欺罪の適用も取沙汰されているようです。

今朝のニュースでも、理化学研究所の女性研究員が海外科学雑誌に発表した革命的な人工細胞に関する論文が、実は捏造ではないかとの内外からの指摘を受けており、こちらはその内容が本物であるかどうかは別として、その発表の仕方に対して科学者としての礼節が問われる事態に至っています。

作曲坂さんの件でもまさかウソではないよな~と信じたい、信じようと思っていたところに、続けざまにこうした事件が重ねて起きると、なんだか人間不信になってしまいそうです。この女性科学者さんも、もしかしたら……と疑心暗鬼になっているのは、私だけではないでしょう。

日本人はよくウソに騙されやすい、といわれるようですが、その理由についてネットで調べてみると、実にたくさんの意見が見受けられます。

日本人の均質性を取り上げる人がいて、これは日本人が同一人種のために、みんな同じになりたがる、だからウソをついてでも標準に合わせようとする、とか、日和見&集団主義の集団であるため、「嘘も方便」ということになり、なにごとにつけても表面的に上手くいく事が優先される、といった意見があるようです。

また、物理化学などの科学の世界では合理性を追求してハイレベルの成果を残してきたにも関わらず、「和」を重んじる国民性のため、社会制度のほうの合理性は追及してこなかったため、合理性のない虚実も簡単に信じ込む癖がついたのだということを唱える人もいます。

さらには、他国の侵略を受けたことがなく、他国、他民族との交渉などもほとんどしてこなかった歴史が、多少のウソがまかり通るような風潮をつくったという意見、いや欧米のように信用を得るためのコストを払ってこなかったことが原因という意見もあったりして、日本人は騙されやすい、と言われるという点については、実に多様な見解があるようです。

おそらくはどれもが一理あるのでしょうが、日本社会は性善説,外国は性悪説ということもよくわれるようであり、上の数々の意見も、「性善説」というキーワードをもとに考える説明できるような気もします。何ごとにつけ、日本人は、この世に悪人というものはいない、ということを信じたがる、善良な国民性を持っている、というわけです。

性善説については、いまさら説明する必要もないでしょうが、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学的な説であり、もともと中国の思想家が唱えた説です。孟子や朱子が、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要である、と説いたことに由来します。

じゃあなんで、日本人は性善説を信じるようになったのか、ということですが、これについても議論を始めると、キリがありません。が、やはり、他国の侵略を受けたことがない、同一の民族国家であり、しかも島国のために、誰もが悪人だと思いはじめたらやっていけない、というところがあったのでしょう。

日本の法律には性善説を前提で作られたものが多いと言われているそうで、社会制度そのものが性善説に基づいて成り立っているからこそ、長い不況で社会が疲弊している現在、詐欺まがいの事件がやたらに起こるのかもしれません。

騙すほうも、騙されるほうも「こんな善良な我々が悪いことをするはずがない」という社会通念に乗っかっているということなのでしょう。

では、法律の上での詐欺というのはどういう定義になっているのかな、と調べてみると、民法96条には、「他人を欺罔(ぎもう)して錯誤に陥れること」と書いてあります。錯誤って何なのよ、ということですが、これは法律用語としては、「人の主観的な認識と客観的な事実との間に齟齬を生じている状態」のことをさすようです。

ようするに信じた何かについて、客観的・冷静にみれば誰もがウソであると思えることが詐欺に相当する、ということのようです。

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では、その法律に抵触するような詐欺行為というものに、どんなものがあるのかな、と調べてみたところ、まぁ、あるわあるわ、そのリストと説明書きを作っただけで、ちょっとした論文が書けてしまいそうです。例をあげましょう。

●主に企業がターゲットとなるもの
→取り込み詐欺、籠脱け詐欺、融資詐欺(貸します詐欺)、小切手詐欺、保険金詐欺、鉄砲取引

●主に個人がターゲットとなるもの
→食い逃げ、オークション詐欺、チャリンカー詐欺(オークションにおける自転車操業)、ペニーオークション詐欺(サクラによる価格つり上げなど)、代金引換郵便詐欺、リフォーム詐欺(建築行為は完成するまでは作業所であり、不動産にならない)、コピー商品(模造品)販売、貴金属や宝石の模造、模造骨董品、贋作(美術品、絵画)、偽造食品、荒唐無稽品販売(竜の骨、楊貴妃の使った匙など)、

●人心掌握(人の情、信仰心や欲望、コンプレックスや社会上の信頼関係に付け入る)
→募金詐欺、寸借詐欺、結婚詐欺、美人局(つつもたせ)、泣き落とし、霊感商法、包茎手術詐欺、資格商法

●単純な錯誤から始まる詐欺(単純な思い込みや思い違い(錯誤)がきっかけで術中には→まっていく詐欺。瞞す側が身分を偽る、あるいは瞞される側の誤解や不明を利用する)
かたり詐欺(成り済まし詐欺)、振り込め詐欺(オレオレ詐欺、架空請求詐欺、融資保証金詐欺、還付金詐欺など)、ワンクリック契約

●有価証券、出資法、手数料、不動産に関する詐欺
→生命保険犯罪(保険金詐欺など)、チケット詐欺、クレジットカード詐欺、フィッシング詐欺、投資詐欺、起業詐欺、419事件・ナイジェリアの手紙(先進国など豊かな国に住む人から、手紙やファクシミリ、電子メールを利用して金を騙し取ろうとする詐欺)、還付金残高確認証、通貨債権回収詐欺(例:イラク・ディナール)、ポンジ・スキーム(配当金詐欺の一種)

ほかにもまだまだあるようですが、これだけあると、騙されやすい国民性というよりも、騙すのが得意な国民なのではないか、と思ってしまいます。が、無論、これらの中には諸外国の詐欺をマネして国内で流行るようになったものもあるわけで、これすべてが日本独特の詐欺というわけではなさそうです。

とはいえ、日本特有のものも当然あり、このほか、賭博行為も、詐欺罪が適用されるものが多いようです。

これらには、いかさま賭博、馬券予想会社、コーチ屋(非公認の予想屋など)、ノミ屋(私設投票券販売など)、攻略法詐欺、打ち子(パチンコ・パチスロの台から玉やメダルを抜く)、ノミ行為(税金の特別徴収制度を利用した企業による税金搾取)、などがあります。

ノミ屋やノミ行為の「ノミ」というのは、例えばノミ屋は客からの申込金を受け、客の予想が的中すれば払戻金を交付しますが、外れた場合は申込金を利益として「呑み込む」というところから来ているようです。

また、上に列記した中で、わかりにくいものに美人局(つつもたせ)というがあります。

最近ではあまり使わないので、聞いたことがないかもしれませんが、これは夫婦が共謀し行う恐喝または詐欺行為で、例えば妻が「かも」になる男性を誘って姦通し、行為の最中または終わった瞬間に夫が現れて、妻を犯したことに因縁をつけ、法外な金銭を脅し取る、といった詐欺です。

また、妻でなく、他の女で同等行為をする場合もあり、出会い系サイトやツーショットダイヤルなどで知り合った女に部屋に誘われ衣服を脱ぎ、いざ性行為などを行おうとしたときに女の仲間の男が登場して「おれの女に何をする」というのが典型的なパターンです。

あるいは、屈強な男に囲まれ金品を巻き上げられるということもあり、また呼び出されてラブホテルに入っていく所を写真に撮られ、後日家族や会社に曝露すると脅迫してくるケースもあります。

「美人局」の語源ですが、これはもともと中国の元のころからの文献に見られる犯罪名です。中国の元の時代、娼婦を妾と偽って人に押し付ける犯罪の名称で、日本にこの言葉が入ってきてからは、これに「つつもたせ」の当て字が与えられました。

しかし、日本に入ってきてからは、この「つつもたせ」の意味は、いかさま賭博の用語に変わりました。

もともとは、胴元の都合のいい目が出るような仕掛けがしてあるさいころを使った賭博のことを指していましたが、やがて二束三文の安物を高く売りつける行為をさすようになり、さらには法外な料金で売春させることもそう呼ぶようになったといわれています。

なぜ「つつもたせ」なのか、ですが、この「つつ」とは暴力団の使う女性器の隠語であるともいい、これを持った女性を標的とする男性と一時的に同伴させて良い思いをさせる、つまり良い女のあそこを「持たせた」あとで恐喝することから「筒持たせ」転じて「つつもたせ」となったというわけです。

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それにしても、悪いヤツらは、よくまぁこれだけの詐欺の手口を考えるものだと呆れてしまうのですが、その手口を考える「詐欺師」にもまたいろいろあります。

この詐欺師とは、言うまでもなく、詐欺を巧みに行う者を指すわけですが、その定義としては、例えば、ある役割を演じ他人にその人格、職業を信じ込ませ、信頼関係や信仰心、恐怖心や権威等にて被害者を洗脳または精神的に縛ることにより疑う余地を与えず、心理的な駆け引きにより金品を騙し取る、といったところです。

被害者が被害にあったと認識出来ないこともあり、または、信じたいという気持ちが強く、この詐欺師の犯罪を立件するのは非常に難しいといわれ、また、騙される側が信仰心や恋愛感情をコントロールされて洗脳された場合、精神的にも健康上においても二次的なダメージを被るといったこともあります。

詐欺師の分類としては、手配師、ポン引き、ペテン師、山師、詐話師、いかさま師、ゴト師、などがあります。いずれも「師」の称号がつくぐらいですから、それぞれ相当な手練れの詐欺師といえます。

簡単に説明しておくと、まず手配師とは、人材の周旋によりその手数料をとる詐欺師で、斡旋した人の技術や知識、経験を偽り、派遣先から不当な利益を得る者をさします。

例としては、複数の職人が協力して完成する和箪笥、山車、神輿、家屋などを請負い、実際には履行せず、職人に対する手付けや、材料費の購入資金を搾取します。

ポン引きというのは、繁華街などで、風営法上の料理店などを紹介し手数料を得る者で、店を紹介する際、その店とは何の関係もないのに善意を装って紹介して金をとるケースや、店とグルになっていて、客にウソの料金を言ってその店に呼び込み、高額の金を要求するといったケースなどがあります。

このポン引きの語源は、茶の湯が流行るようになるよりもはるか昔の鎌倉時代に日本でよく行合われていた、「闘茶」の行事から来ていると言われています。その名の通り、お茶の味を本物か偽物かをききわける技を競うもので、この当時、最高級とされていた宇治茶を「本」とし、その他の安いお茶を「非」として、それぞれを効きくらべます。

当初は単純なお遊びだったようですが、そのうち金をかけて勝負が行われるようになり、次第に賭博性が強くなっていったことから、後世になってこの古事にちなんで、客引き詐欺のことを「ポン引き」というようになったようです。

ペテン師、というのは誰もが知っているでしょうが、その語源はというと、中国語の「繃子(ペンツ)」だそうです。中国でもある地方の方言・俗語だったようで、詐欺・詐欺師を意味しましたが、日本に伝わってからは、「ペテン」というふうにまず音が変わり、またその意味も「悪知恵が利く」というふうになっていきました。

現在では、ペテン師というと、「知恵が回る」ヤツという風に解釈され、「ペテンにかかる」というと、策略かかってしまう、という意味になります。頭脳犯であり、ある意味「役者」であって、口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者をさします。

山師。これは、本来は鉱物資源や水資源などを産出する山岳を探し出し、莫大な利益を得ることに賭ける事を生業にする人のことをさしました。これが転じて「一山当てる、山を賭ける」など低確率であるが当たれば利益の多い事に賭ける事をする者を指すようになりました。

大きな利益になる嘘のはなしを持ちかけ、資金提供や出資を持ちかけ、金品を騙し取る者を山師といいます。

詐話師は、作り話を主体にした詐欺師のことです。関西で「鹿追」と呼ばれる詐欺の手口がありましたが、これ関東に伝わって「詐話師」と呼ばれるようになったもので、現在でいう「劇団型犯罪」に相当するものです。

被害者を陥れる優れた筋書きを作り、一般にはこれに基づいて複数の詐話師が動き、大がかりな詐欺を行います。犯罪小説でよく出てくる手口です。

いかさま師とは、古くは手品師と同義語であり、文字通り仕掛けやカラクリのある道具を使う詐欺師のことを指します。昭和初期ごろに流行った「がまの油売り」などがそれです。日本刀で腕をちょっと切って血がでたところへ、ガマの油を塗るとたちまち傷が消えさります。

実際には刃の部分は切れなくした刀を使い、そのエッジに朱を塗っておく、というのがタネであり、いかにも(如何にも)本物のように見せて客寄せをし、物品を販売する輩のことを「如何様(いかさま)」と呼ぶようになり、これがそのままこの詐欺師の呼称となりました。

ゴト師。これは、パチンコのゴト師が一番知られているでしょう。ちょっと前まではパチンコ台の釘を不正に動かしたりする人のことを言いましたが、最近ではパチスロに変わったため、不正な電気信号を送って機械を操作したり、出玉やスロットの確率を制御するICチップ(ROM)を交換するなどの行為を行う人のことを指します。

「仕事師」が語源とされており、古くは仕事を企画立案し推し進めるリーダー的な職人のことをこう呼びました。が、転じて悪巧みをする者といった隠語となり、主に賭博場(鉄火場)において丁半博打での細工したサイコロや札や麻雀賭博での牌のすり替え、積み替えなどで勝負を自在に操り、気付かれぬよう金品を騙し取る者をさすようになりました。

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古今東西、こうした詐欺師はゴマントと排出されており、詐欺師という職業は、世界でも最も古い職業のひとつにあげられているようです。

過去において最も有名な詐欺師って誰だろう、と調べてみたところ、これについては、実にたくさんの候補者がいて、これが一番、というのはなかなか選び難いのですが、なかでも有名な一人として、アメリカに「チャールズ・ポンジ」という詐欺師がいました。

日本のネズミ講などを含む、特定多数に出資を求める詐欺の総称である「ポンジ・スキーム」という言葉の由来として名を残した人です。

1903年にイタリアからの移民としてアメリカに渡りましたが、このとき、海外で購入する国際返信切手券による切手の交換レートと実際の外貨交換レートに差があり、これから利ざやを得ることができることに目をつけました。

この利回りは実際には大したものではありませんでしたが、ポンジは40%の利回りが得られるとの触れ込みで出資者を募り、ニューイングランドを中心に数千人から数百万ドルもの大金を集めました。

その手口としては、「あなたのお金を株取引などの資金運用して増やし、増えた分を「配当」としてあなたに支払う」などと謳って、出資金を集めるのですが、そのお金は実は全く運用されません。ところが出資者にはある程度の「配当」を渡し、さもまともな資金運用をしているかのように装います。

こうして、配当があるということで評判を呼んで、出資者の人数はどんどん増えていきますが、システム全体では実はどこでも利益を生んでいません。配当を垂れ流しにしているだけで、実際には負債が増え続ける仕組みであり、やがて最後には必ず配当金が工面できなくなり、このスキームは破綻します。

そして、後から参加した出資者にとっては、配当がどんどん少なくなっていき、つまりは出資金を回収できなくなるということが起き、どんどん損害は大きくなっていきます。そして、最後の出資者に至っては、配当金は一回も受け取れず出資金がまるまる消えて戻ってこなくなる、という大損害になるわけです。

日本では上述の「出資金詐欺」という投資詐欺の一種に分類されるもので、「ネズミ講」と同じしくみです。

ポンジーのこの犯罪は、後の調査で、出資者すべてを破綻させることが前提の大規模な詐欺であることが判明。集めた金を持ってどこかへトンズラする予定だったようですが、最後の一人に至る直前に発覚し、詐欺罪で有罪となり刑務所に収容されました。

その後ポンジは、出所したようですが、その後も数度の詐欺を働き、実質的にアメリカ市民権を剥奪されると、1934年出身国のイタリアに戻り、さらに第二次世界大戦が勃発するとブラジルに渡り、その後は心臓発作や脳障害、視力障害などに苦しみ、晩年はほとんど失明同然だったそうです。

1949年、貧しいままリオデジャネイロ市内の慈善病院で67歳で没したといい、「悪銭身につかず」はやはり本当のようです。

このほか、詐欺師として有名な人に、「フランク・アバグネイル」という人もいます。1980年に出版した自伝の“Catch Me if You Can”が、2002年に映画化され、ディカプリオさまとトム・ハンクスが共演して話題作となったので、知っている人も多いでしょう。

無論、実在の人物で、信用詐欺、小切手詐欺、身分詐称、脱出などの数々の犯罪歴で知られ、その犯罪の実施過程で、航空機パイロット、医師、連邦刑務局職員、弁護士など少なくとも8回の身分詐称を行なったことが明らかとなり有名になりました。

逮捕されてからも、21歳になるまでに警察の拘留から2回逃れ、うち1度は空港誘導路から、もう1度は連邦刑務所から脱出して話題を呼びましたが、その後刑務所に収監されたのちは真面目にここで過ごし、5年で出所しています。

ところが、その出所後、かつての詐欺師としての技を見込まれて連邦政府に雇われるようになり、現在も連邦捜査局アカデミーや現場事務所でコンサルタントや講師をしており、このほかにも金融詐欺のコンサルタント会社を経営するなど、その波乱万丈の生涯はまるで映画の世界そのものです。

歴代の詐欺師の中では詐取した金額こそ突出してはいないものの、16歳という若さで活動を始めたことや、その手口の大胆さ・鮮やかさによって米国内で広く知られるようになり、彼のひきおこした詐欺事件の数々はTV番組などで繰り返し放映されています。

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1948年のニューヨークの裕福な家に生まれ、16歳までブロンクスヴィルで過ごしましたが、その後両親が離婚しました。このため父との二人暮らしになりましたが、初めての彼の詐欺の被害者はこの父親であったといいます。

父親は、アルバイトに通勤するためのガソリンを自分で購入できるようにと、クレジットカードを彼に渡していましたが、このカードを使ってガソリンスタンドでタイヤやバッテリーなど車関係の物を一度買い、それらを返品してデート費用として使うための現金に換えていたのです。

その額は数千ドルにも及んだといい、これに味をしめた彼は、以後、巧妙な手口で詐欺師として「成長」していきました。初期の頃は、残高のない自分の口座から小切手を切るという信用詐欺を行なっており、これは銀行から請求が来るまでの最初の数回しか通用せず、他の銀行での口座開設を繰り返すというものでした。

この詐欺を繰り返すためには、何人もの「自分」が必要となるため、やがては身分証明書を偽造するようになり、そのうちには、銀行を騙すために小切手のほぼ完璧な複製作成を開発するとともに、偽の勘定残高による前貸しなどにまで手を染めていきました。

そして、空白の預金伝票に自分の口座番号を印刷し、銀行で本物の伝票に紛れ込ませる手口で、自分の口座に入金があるように仕向ける、といった手品まがいのことまでするようになります。

やがては、ターゲットを銀行以外にも代え、対象をユナイテッド航空やザ・ハーツ・コーポレーションのような航空会社やレンタカー会社にも伸ばしていきます。

これらの会社では、日々の売上金を袋に入れてドロップ・ボックスに預けることを知った彼は、地元の衣装店で警備員の服装を手に入れ、「“業務停止中”につき、警備員に預けてください」と書かれた看板を用意し金銭を騙し取りました。が、よくよく考えればドロップ・ボックスのような単純なものが「業務を停止」するわけはありません。

こうした単純で大胆な手口は徐々にエスカレートしていき、このころまだ16歳になったにすぎない彼は、生き抜く術を模索する中、やがては、パイロット・医師・弁護士といった社会的信用力を持った人々に着目するようになります。

以来、実際には在籍したこともない、エンブリー・リドル航空大学、ハーバード・メディカルスクール、ハーバード・ロー・スクールなどを卒業したと偽り、約5年間にわたって、こうした職業人になりすまし、詐欺を重ねていきました。

このころ、少なくとも8つの偽名を駆使していたといい、当時のレートで250万ドル以上に相当する不渡り小切手を26カ国で乱発する犯行を重ねていました。

無料で世界中を飛び回りたい、という理由からパイロットに成りすましたときには、パンアメリカン航空の従業員と偽り、制服をなくしたと電話をし、偽の身分証明書を提示してその制服を手に入れ、連邦航空局のパイロットの身分証明書も偽造しました。

こうして、16歳から18歳の間に250回以上1,000,000マイル(1,600,000 km)のフライトを経験し、26カ国を訪れたといい、この間、正規のパイロットとして無料でホテルに泊まり、飲食物なども全て会社持ちであったそうです。

高度30,000 ft(9,100 m)を飛ぶ飛行機のパイロットのふりをしていたときには、実際に操縦を任されそうになったこともあったそうで、このときは自動操縦が可能だったために、実際に操縦しようと思えばそれもできたといいます。

が、このときのことを彼は後年語っていますが、「自分を含めて140名の命を預かっていることをとてもよく理解していた」といい、資格もないのに操縦することについては罪悪感を感じ、このときは理由を取り繕って操縦を固辞したそうです。

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このほかにもコロンビア大学卒と偽り、ブリガム・ヤング大学でフランク・アダムスの偽名で教員助手として1学期間社会学を教えていたほか、医師としては、偽名でジョージア州の病院で小児科のチーフ・レジデントとして11ヶ月間身分を偽って働いていました。

このときは、ニューオーリンズで同じアパートに住む本物の医師と友達になり、地元の病院の欠員補助で研修医の指導者となっていましたが、指導者は実際の医療行為をしないため、彼にとっては簡単ななりすましでした。

夜間のシフトで担当となった場合でも、骨折の手当てなどは研修医に任せるなどして切り抜けたため、偽りの仕事は割とうまくいっていました。

ただ、酸素欠乏で瀕死の幼児を目の前にした時、看護士が言った「ブルーベビー」の意味がわからず正体がばれそうになったこともありました。パイロットのときもそうでしたが、こうした生と死の境界に直面した時の自分の無力さには気付いており、人を命の危険に陥らせるような行為は決して行わない、と決めていました。

このため、この事件があったあと、すぐに病院を去ったといい、やはりこうした犯罪行為を重ねていることには良心の呵責を感じていたのでしょう。

彼はよくハーバード大学法学部卒と偽っていましたが、実は実際にもルイジアナ州の司法試験に合格しており、その資格を使ってルイジアナ州司法長官の事務所の職を得たこともあったといいます。

彼が司法試験を受けようと思ったきっかけは、パイロットのふりをしていたころに知り合った、女性の客室乗務員との交際でした。彼はこのとき彼女に対して、今は休職してハーバード・ロー・スクールに通っている、と偽っていました。

これを聞いた彼女が彼に紹介したのが、一人の男性弁護士であり、この男はアバグネイルに対して、アメリカではこれから弁護士がもっと必要とされている、と熱い思いを語ったといいます。

これに触発されたのか、アバグネイルはハーバード法学部卒の偽の成績証明書を作り、これを使って司法書士試験を受けようと決意します。そして試験のために懸命に勉強した結果、初回の2回では落ちたものの、3回目の受験で見事に司法試験に合格しました。

当時ルイジアナでは合格するまで何度も受験することができたといい、これが幸いしたとはいえ、弁護士資格を取れるほど頭のいい人であったことは間違いないでしょう。

こうして試験に合格し、ルイジアナ州の事務所で真面目に働く口をみつけたアバグネイルでしたが、しかしこの事務所の同僚に本物のハーバード卒業生がおり、彼にハーバードでのことをしつこく色々聞かれました。が、当然答えられなかったため、疑いを持ったこの男は彼の経歴について調べ始めました。

これに気付いた彼は、8ヶ月後、辞職して行方をくらまします。そして、1969年、例によってパイロットとしてフランスでエール・フランス機に乗った際、手配者のポスターに気が付いた搭乗員がアバグネイルを確認して通報、ついに、フランス警察に12カ国で行なわれた詐欺容疑で逮捕されました。21歳の時のことでした。

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その後すぐに裁判が行われ、1年の求刑に対して6ヶ月間の実刑判決を受け、フランスペルピニャンの刑務所で服役を始めました。収監された暗い独房は、小さくてトイレ、マットレスもなく、ブランケット、食事、水は厳しく制限されていたといいます。

このときの彼の罪は詐欺罪でしたが、その後、偽造罪にも問われ、その他の有罪判決も受けたため、刑務所でさらに6ヶ月服役することになり、さらに各国で罪を犯していたため、続いてはイタリアで裁判を受けることになりました。

イタリアでの裁判の結果、アバグネイルは母国のアメリカへの移送され、ここで12年の禁固刑を受けることになりましたが、その途中で一度脱走に成功しています。

ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の誘導路に入るところで、それまで乗ってきたイギリスの航空機ビッカース VC-10から逃走しており、闇に紛れて近くのフェンスを乗り越え、タクシーでグランド・セントラル駅に向かい、ブロンクス区に寄って服を変え、2万ドルを預けていたモントリオール銀行の貸金庫の鍵を手にしました。

そして、アメリカと犯罪者引渡条約のないブラジルのサンパウロに向かうためモントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港に向かいましたが、チケット・カウンターに並んでいる際にカナダ騎馬警察に捕まりアメリカ国境警備隊に引き渡されました。

こうして、ジョージア州アトランタの連邦拘置所に入れられたアバグネイルですが、今度は1971年4月、ここからの二度目の逃走に成功しています。

この逃走の発端はまったくおそまつな刑務所側のミスだったようで、彼の自伝によると、彼はこのとき連邦の覆面捜査官と誤認され、他の受刑者よりも食べ物の面などで優遇されるという特権を持って収監されることとなりました。

このころ彼には、ジーン・セブリングという女性の友人がいました。

巧妙な手口で彼女を連邦捜査官であると刑務所側に信じ込ませ、自らも覆面捜査官で通していた彼は、「連邦拘置所の防火対策のための打ち合わせ」という理由で、監視なしで拘置所外の車で彼女と面会することを許されます。そしてそのまま偽装を気付かれることなく車は急発進してあえなく脱出に成功。

彼女は彼をアトランタのバス停で降ろし、彼はそこからグレイハウンドでニューヨークへ至り、さらに電車でワシントンD.C.へ到着しましたが、そこではホテルのフロント係に発見されて逮捕されそうになります。

しかし、連邦捜査官の振りをして逃がれ、なおもブラジルへの逃亡を計画しますが、その数週間後、気付かないうちに覆面パトカーの脇を通るという単純ミスを犯し、手配写真に気が付いたこのニューヨーク市警察官によって取り押さえられました。

こうして、彼は再びバージニア州ピーターズバーグの連邦拘置所に拘禁され、ここで12年間の刑に服することになりました。しかし、その後は模範囚で過ごしたため、5年余りを過ごしたあと、週に一度、無給で連邦政府の詐欺罪の調査を助けるようになります。

やがて、塀の外でもその連邦政府事務所での仕事を続けることを条件として仮出所を認められた彼は、出所後はコック、スーパー店員、映画映写技師など様々な職を転々としました。

しかし、犯罪歴を隠していたためそれが発覚するたびに解雇され続けていたといい、これに嫌気がさした彼は一念発起し、銀行に自分を売り込むことにします。

そして地元のある銀行で、過去に行なった小切手詐欺など銀行を騙す様々な手口を銀行職員に紹介した上、もし彼の話が役に立たないのであれば金銭は受け取らない、逆に役立つと思ったら彼に500ドルを支払いさらに他の銀行に彼を紹介してほしい、と言ったところ、この銀行はこれを条件とする契約に承諾しました。

こうして彼はその後の人生をセキュリティ・コンサルタントとして、合法的な職業人生を送るようになりました。その後も、オクラホマ州タルサを拠点に、企業向けの詐欺対策をアドバイスする会社、「アバグネイル・アンド・アソシエイツ」を創立しました。

また連邦捜査局と提携し、全米の連邦捜査局アカデミーや現場事務所でコンサルタントや講師を行うようになり、彼のウェブサイトによると、現在14,000以上もの機関が詐欺予防プログラムを受けているといいます。

2012年には、アメリカ合衆国上院で、メディケア・カードなど個々を識別する社会保障番号を使用する場が多いこと、高齢者が詐欺に遭い易いことなどの証言を行うなどの活躍を重ねており、現在は結婚し、設けた3人の息子のうちの1人は現在連邦捜査局に勤めているといいます。

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ところが、です。

このアバグネイルの犯罪歴の信憑性は自伝の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」公開前から疑問視されていたといいます。

「サンフランシスコ・クロニクル」というサンフランシスコの新聞の記者が、彼がそれまで行った講演や自伝で、なりすましたことがあると語った(あるいは書いた)、銀行、学校、病院などその他の機関で彼が使用したという偽名を調べたところ、そういう名前は一切存在した証拠が出てこなかったというのです。

この彼の自伝は、実は彼の単独作品ではなく、スタン・レディングという人との共著でしたが、その大部分はこのレディング氏が書いたのではないかといわれています。

アバグネイル自身も「私は共著者と4回ほどしか話し合わなかった。彼はとても良く書いていたと思うが、いくつかの話については脚色や誇張が過ぎたと思う。これは彼の執筆スタイルであり、編集者が求めていたことである。彼は物語を書いたのであって、私の伝記を書いたのではない」と語っています。

だとすると、延々と書いてきた上のような話も実は虚実だったのか、ということになってきます。波乱万丈なるその人生ストーリーすらも、また詐欺であったのかもしれず、もし本当だとすると、今の彼の現在の地位もまた虚実であり、アメリカは国家をあげて現在も彼に騙されていることになります。

どこまでが本当でどこがウソなのかまったくわからなくなってしまう、こうした話を聞くと、希代の詐欺師というものは、あるいはこういう人を指すのかもしれないと思えてきます。そう考えてくると、最近日本で流行っているオレオレ詐欺や、作曲家や科学者としての詐称などは、ほんのかわいいいもの、と思えてくるから不思議です。

嘘をつく人の言うことが信用できるかどう、というのは、ときにややこしい問題を生みます。

その昔、ギリシャの哲学者でクレタ島出身のエピメニデスという人が「クレタ人はいつも嘘をつく」と言ったそうです。

しかし、クレタ人が本当にいつも嘘をつくなら、クレタ人である彼のこの言葉も嘘となってしまう、ということになり、この逸話は「エピメニデスのパラドックス」として有名です。

同様な例は他にも数多くあり、例えば次のような小話もあります。

地球を侵略してきた火星人への対応に苦慮した学者が、ふと「彼らは嘘をつけないのではないか」という仮定を思いつき、これをもとに彼等を追い出す対策をたてようとします。が、そこに出てきた火星人が言いました。「俺たちは嘘がつける。さあ、これをどう考える?」

ウソがつけるというのがウソならば、ウソがつけるといった彼等は確かに嘘つきであり、彼らがウソとつけないという仮定は崩れます。しかしそれでは彼らを追い出す方策は立てられません。

一方、ウソがつける、というのを本当だと信じるとすると、彼等はウソがつけるということになり、こちらでも彼らを追い出すことはできない、というわけで、結局は火星人の勝ち、というわけです。

ほかにもこういうのがあります。

「道が天国行きと地獄行きに分かれている。もちろん天国に行きたいが、どちらかはわからない。分かれ道には正直者と嘘つきがいて、どちらかに1回だけ質問が可能。さて、何と尋ねればいいか」

正直ものがどちらかが分かっていればこのクイズの答えは簡単なのですが、このケースではどちらが嘘つきかはわかりません。

もし嘘つきにどちらかと聞いた場合には、彼がこっちが天国だよといった場合にはウソの可能性があります。しかし、もしかしたら嘘つきと思っていた人は正直者かもしれず、考えれば考えるほどその質問内容には迷ってしまいます。

さて、あなたならなんと質問しますか?

アバグネイルならきっとこう聞くに違いありません。

教えてくれたら天国に連れて行ってやる。さあ一緒に天国に行きたいのはどっちだい?

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ああ貞山堀

2014-1090643一昨日の3月11日は、東日本大震災の起こった日でしたが、この震災の日から奇しくも一年後の同じ日、我々二人はこの伊豆に引っ越してきました。

なので、伊豆暮らしも丸々二年ということになるわけで、もうそんなになるか……と、感慨深いものがあります。

引っ越してきた日が震災が起こった日だったので、とくに引越し祝いという気分にもなれず、荷物の片づけやらなにやらで疲れていたこともあって、その日は段ボール箱の山の片隅に布団を引いて眠りについたような記憶があります。

今も被災地で不自由な生活を送っておられる東北の方々も、まだそんな落ち着かない環境の中で暮らしておられるのかな、と思うと胸が痛みます。

伊豆での生活もそろそろ落ち着いてきた最近、遅ればせながら、そうした震災被災者の方々のために、何ができるだろう、何かしてあげたい、と考え始めている今日このごろです。

実は、この震災が起こる9~10年ほど前は、そのころ勤めていた会社の仕事で、仙台の名取川河口付近をたびたび訪れていたことがあります。

この川の河口左岸に、井戸浦という湿地帯があり、ここは、仙台地方でも屈指といわれるほど自然豊かな場所であり、絶滅危惧の植物や魚類が多数生育・生息し、その背後にあった松林にはオオタカが営巣するなど、ラムサール条約登録地にしてもいいのではないかと思われるくらいの良い場所でした。

残念ながら規模がそれほど大きくなかったので、そうした世界遺産的なモノへの登録の運動は起きませんでしたが、このように自然豊かな場所であることから、その環境を知る地元の人達からは、維持保存を求める声も高かったようです。

ところが、そのすぐ隣の名取川の河口に溜まる砂をうまく海へ流してやるための「導流堤」という施設を新築する計画が持ち上がったことから、この建設による井戸浦への環境影響評価が必要、ということになりました。

その当時、環境調査を専門にしていた私はその調査の責任者に指名され、かくして、その調査のために、この井戸浦に足しげく通うにようになりました。

この調査は、いわゆる「環境アセスメント」と呼ばれるもので、自然環境の保全ために、動物や植物の調査だけでなく、地形や地質、景観およびこの地で行われている野外レクリエーションなどの人為活動への影響まで含めた調査を網羅的に行いますが、調査内容が多岐にわたるため調査そのものだけでも単年度では終わらず、2年ほどかかったかと思います。

その準備やまとめの期間もあり、結局この地とのお付き合いはかなり長くなり、あしかけ4年ほどに及びました。

そのおかげで、仙台市内の事情はもとより、名取川の河口付近の地理地形には、かなり詳しくなり、今回の震災で被害の大きかった河口右岸の閖上地区などにも、調査の傍らよく足を延ばしました。

なので、名取川河口付近のこれらの地区が、後年のあの巨大な津波に飲み込まれる様をテレビで見たいたときには、あぁァあのときお弁当を食べていたあそこが、写真を撮っていたあそこが、オオタカの巣をみつけたあそこが……と、知っている場所が次々と海水に飲み込まれている様子をみて、茫然としたものでした。

今でも震災前のこの地区の美しい自然が脳裏に残っているのですが、震災津波以後のこの地の様子がテレビで映し出されるのを時々みかける限りでは、その当時の面影はほとんど残っていないようです。

実は、この井戸浦のすぐ裏手(陸側)には、貞山堀、という運河があります。江戸時代から明治時代にかけて数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので、最初の堀が仙台藩伊達政宗の命により開削されたため、没後に貞山公と尊称された政宗公にちなんで、のちに貞山堀と呼ばれるようになりました。

この貞山堀もあの津波で埋もれてしまったのだろうか、と心配になり、合わせて井戸浦の様子も知りたくなったので、グーグルマップの衛星写真から、現在の様子を調べてみることにしました。

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すると……井戸浦も貞山堀も、上空からの写真を見る限りでは、健在ではありませんか!

ただ、井戸浦のすぐ裏手に青々と続いていた松林はきれいに姿を消し、貞山堀と仙台市内との間にあった集落の多くは、廃墟のようになっていました。また、航空写真ではよくわからないのですが、緑豊かだったはずのこの一帯は土砂で埋もれているようです。

グーグルマップでは、ストリートビューという機能があり、現場の写真なども見ることができるので、これを閲覧してみたところ、やはり付近一帯はかなりの土砂で埋もれているようでした。

貞山堀も一見健全のようには見えるのですが、堀の左右にあった石垣の護岸などが一部壊れているようであり、ここだけでなく貞山堀のほかの場所もきっと大きなダメージを受けているに違いありません。

この貞山堀は、旧北上川河口から松島湾を経由して阿武隈川河口まで、おおむね海岸線に並行して続いており、仙台湾の海岸線約130kmの内、約半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河です。湾沿いに点在している湿地は、全体で日本の重要湿地500の1つに選定されており、井戸浦もそのひとつです。

この堀は仙台藩保有の、喫水が浅く乾舷の低い川船が、河口からそのまま海に乗り出す危険を避け、あるいはそのために荷を積み替える手間を省いて川船による物資輸送を円滑に行うために建設されました。

「貞山運河」と一括して呼ばれてはいますが、実際は、次のように3つの運河系から構成されています。

北上運河(一番北に位置する):13.9km。石井閘門(旧北上川との接点)から石巻湾の最南部に位置する鳴瀬川河口まで。明治時代開削。
東名運河:3.6km。鳴瀬川河口から松島湾まで。明治時代に開削。
貞山運河(一番南):31.5km。松島湾南西部に位置する塩釜港から、ずっと南下して阿武隈川河口まで。一番古く、江戸時代に開削。

この貞山堀が位置する、いわゆる「仙台湾」というのは、波の静かな石巻湾に端を発し、その西南部の松島湾と、さらにその南側の仙台港から井戸浦のある名取川河口を経由してさらに南下し、阿武隈川河口に至るまでの区間(これは一般的には「狭義の仙台湾」とされる)に分かれています。

江戸時代に最初に掘削されたのは、この波の荒い「狭義の仙台湾」の部分の海岸線の背後部分であり、井戸浦裏にある貞山堀は、上の三区分の三番目にあたり、一番古いもの、ということになります。

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その後、明治時代になってから、仙台北の石巻湾に注ぐ鳴瀬川河口に、新たな東北地方の拠点港として、「野蒜築港」が建設されることになり、これに伴って石巻港から松島湾までの部分も開削されて現在の姿になりました。

掘削されてからの貞山運河は、仙台の城下町からの物資運搬だけでなく、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りなどなどの広大な河川交通・物流に供するようになりましたが、とくに仙南平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路の排水路としても機能しました。

現在の貞山堀は物流に用いられていませんが、震災前までは、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーにも用いられていました。運河沿いの一部には自転車専用道路が設置されており、サイクリングを楽しむことができるようになっていて、私も仕事の合間をみてよくここを散歩したものです。

名取川河口南の、閖上地区のさらに南側には仙台空港もあり、この当時将来発生が予測されていた宮城県沖地震(結果として東日本大震災となりましたが)が起こった場合に、空港から貞山運河を経由して仙台市内へ援助物資を運ぶことが出来るかどうかという期待がもたれ、このための調査・研究が行われたこともあります。

しかし東日本大震災では、この仙台空港そのものが水没するとともに、貞山運河の多くの部分が大津波によって分断・破壊されたようです。このため、現在、宮城県では地域の復興とも併せ、この運河の再生・復興ビジョンをも策定しているといいます。

現在の塩釜港の背後の地域には、古代には、陸奥国府である「多賀城」があり、この城下の外港として、まず塩竈津(現在の塩釜港)が発展しました。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮・鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港でした。

ところが、11世紀以後、この多賀城が、現在の多賀城市の西側に移され、鎌倉時代には定期市も開かれるようになって、かなり大きな街になっていきました。南北朝時代以降には上町、下町と呼ばれるような行政区分もでき、戦国時代になると多賀国府町(たがのこうまち)と呼ばれるようになり、塩釜港も町の発展に合わせて整備が進められていきました。

安土桃山時代になると、伊達政宗が現在の宮城県・大崎地方(仙台より50kmよりも北方)の岩出山城にその本拠を移しました。

このとき、政宗は、塩釜港と内水系とのネットワーク化を考え、仙台よりはるか南の阿武隈川河口から仙台北方に位置する松島湾の塩釜港に到るまでの仙台湾に沿った運河の開削に着手しました。これが一番最初に掘削された貞山堀となります。

この運河は、前述のとおりの「狭義の仙台湾」の部分に造られており、南部の阿武隈地方から川船のまま塩釜港に物資を運ぶことがを目的として、開削に開削を重ね、その工事期間は、1597年から1661年までのなんと61年間にもおよびました。この間に政宗は仙台城を建築し始め、1600年には岩出山城から出で、現在の仙台の街を開きました。

運河は、仙台城下を流れる広瀬川(下流は名取川)や七北田川などの河口近くでも交差しており、しかもその先は塩釜港に至るという位置関係で、このため仙台城下から名取川や七北田川を下って貞山堀に至る水路は城下町仙台の主要な交通ルートとなり、こことつながった塩釜港は仙台の表玄関として発展していくことになります。

帆船が用いられていた江戸時代の仙台藩内では、この塩釜港の他に、その北方に位置する北上川河口の石巻港、そして、南方に位置する阿武隈川河口の荒浜港を保有しており、この3つにおける交易は、伊達家に莫大な利益をもたらしました。

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1626年、伊達家家臣の川村孫兵衛重吉によって北上川の改修が完了すると、仙台藩のみならず、岩手地方の南部藩領内の北上盆地各地からも北上川に米が川下げされ、川船によって北上川河口まで運ばれ、石巻港に集積されるようになりました。

このため、東北太平洋岸海運の拠点は、それまでの塩釜に代わって石巻となり、石巻港が仙台藩内の中心港となりました。

ところが、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩が仙台周辺のみに減封されると、この石巻は明治政府によって横取りされ、「石巻県」として直轄地となりました。明治政府はさらにここに、「東山道鎮台」を設置し、石巻を東北地方全域を管轄する拠点とするようになります。

しかし、その後の廃藩置県によって、仙台藩が「仙台県」となって権限を与えられるようになり、石巻と同格の直轄地となると、この石巻の鎮台は仙台に移封され、以後、東北地方を広域管轄する国家の出先機関などはすべて仙台に集中するようになっていきました。

ただ、短い期間ではあったのですが、このように仙台が中心地となる前には、この地方の中心地は石巻だったということになるわけです。

とはいえ、幕末以降、汽船が運行されるようになってからは、沈降海岸で水深が深い松島湾内にあって、外洋に面している塩釜港の重要性のほうが再認識されるようになり、水深の浅い河口港である石巻は、軽視される傾向にありました。

従って、鎮台の移転だけでなく、石巻はいずれは衰微していくことになる運命にあったともいえます。

1876年(明治9年)の天皇巡幸の折、この石巻港から西側10kmほど離れた、松島湾の北に位置する鳴瀬川河口の右岸にある野蒜(のびる)地区に、東北地方の拠点としての新しい港の建設が持ち上がりました。

これが野蒜築港であり、現時の内務卿・大久保利通が当地を視察して建設が決定し、1878年(明治11年)、オランダ人技師ファン・ドールンの設計で、西洋式近代貿易港として着工されました。

計画は、鳴瀬川河口に内港を設け、奥松島の宮戸島の北東の潜ヶ浦(かつぎがうら)を外港とするもので、鳴瀬川河口に東西2本の防波堤が建設され、新鳴瀬川の新設、および、大規模な新市街地の造成がおこなわれました。

同時に、鳴瀬川から松島湾にいたる3.6kmの「東名運河」が開削され、鳴瀬川から北上川河口の石巻に到る13.9kmにおよぶ「北上運河」の開削も行われました。これによって、すでに江戸時代につくられた狭義の仙台湾の貞山運河と合わせ、北上川河口~松島湾~阿武隈川河口までの全長約60kmに及ぶ、日本で最長となる運河が完成することになりました。

この運河系により、野蒜築港を中心として、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系との川船ネットワークが完成し、仙台湾の多くの海港同士の物流も繋がる運びとなりました。

これらの水運ネットワークには、日本海側の山形県や秋田県に到る道路網計画とあわせて、日本の表玄関の役割を担うことが大いに期待されました。

ところが、この野蒜築港は、完成して間もない1884年(明治17年)、台風による波浪と増水により一夜にして突堤が破壊されてしまいます。これによって、船舶の入港が不可能になったことにより、完成からわずか2年で廃港の憂き目をみることになりました。

なぜこの手間暇かけて作った近代的な港を修復しなかったかはよくわかりませんが、そのすぐ近くにある塩釜港のほうを新たに整備する方が金がかからない、ということだったのだと思われます。

こうして、その後の宮城県の港湾整備は、明治から戦後にいたるまで塩釜港を中心に進んでいくことになります。やがて塩釜埠頭駅がつくられ、鉄道が港に乗り入れるようになると、塩釜港は物流の中心として栄えていきました。

現在においても、東北地方を代表する商社や流通業者は、隣の仙台港よりも塩竈を出自とするものが多いのはそのためです。

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しかし、塩釜港は、数多くの島が浮かぶ松島湾内にあるため、ここを通る航路が大型船の航行に不適当であること、また、港は松島丘陵と呼ばれる山に囲まれており、広い背後地が得られない、などの不利な点があり、重厚長大の臨海工業が盛んになっていく戦後においては、その将来性が危ぶまれていました。

こうして1960年(昭和35年)、塩釜港よりも20kmほども離れた東に位置する石巻港の西の浜辺に、掘り込み式人造港である「石巻工業港」が着工されました。苫小牧港や鹿島港と同様に、当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したことを背景に建設されることになった新港です。

さらには、ここから松島湾を挟んで、その南側の狭義の仙台湾一帯の北側の地区が1964年(昭和39年)に「新産業都市」の指定を受けました。これを受けて、この地にも新たな工業港として掘り込み式人造港が計画され、これが現在の「仙台新港(=仙台港)」になりました。

この仙台新港には、背後に仙台市という大都市を抱えていることに対する期待が寄せられ、商業港としての機能も付加することになり、こうして西の仙台新港と東の石巻工業港という二つの新しい港が誕生することとなりました。

1967年(昭和42年)には石巻新港が、1971年には仙台新港(以後、仙台港と呼ぶ)も開港し、この2港はやがて宮城県の臨海工業の集積地となっていきました。

ところが、仙台港が開港した年には、ニクソン・ショックと呼ばれるアメリカの大幅な経済政策の転換があり、これはドルショックとも呼ばれ、アメリカがドル紙幣と金の兌換を一時停止したことによって、世界経済は大混乱に陥りました。

また、1973年にはオイルショックも発生し、日本にも中東からの油が入ってこなくなったことから、それまでこの二つの新港周辺に次々と建設されていた石油化学コンビナートや関連工場は、その発展の方向性を見失ってしまい、工業港としての発展は頓挫することになりました。

このうちの仙台港は、北海道の苫小牧港や名古屋港とのフェリー航路、国内フィーダーなどによる商業港としての色合いが強くなりました。

「フィーダー」というのは、大型の船が寄港する主要港から小型船に積み替えて別便で運ぶことです。

例えば香港~横浜間を行き来している大型コンテナー船の貨物を、横浜で小型船に積み替えて仙台港に持っていくようなことを、「内航フィーダー船を使って貨物を横浜から仙台に運ぶ」という風に使いまわします。あまり聞き慣れないかもしれませんが、海運の世界ではよく使うので、覚えておかれると良いでしょう。

こうして仙台港はなんとか生き残るところとなり、すぐ隣にある塩釜港が持っていた物流機能もこの仙台港のほうに集中するようになっていき、1994年にはついに、塩釜港の鉄道貨物取扱いが終了に追い込まれました。

さらに仙台港への一極集中は加速し、1998年からは、横浜港本牧~仙台港間で仙台臨海鉄道・東北本線などを経由する20両編成の「よこはま号」と呼ばれる貨物列車(JR貨物)や、東京港と直結する貨物列車が運行されるようになり、仙台港は東京湾の補完機能を持つようになっていきます。

やがて仙台港は、国際貨物も集約される重要港湾となっていき、その過程で近代的なコンテナ流通にも対応するようになり、こうした機能を持たない塩釜港は物流機能を完全に失っていきました。現在の塩釜港は、ほぼ「漁港化」するまで衰退し、仙台港がこの地域一帯の物流拠点としてその中心的な役割を一手に担うようになりました。

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一方、仙台港とほぼ同時期に誕生した石巻工業港は、オイルショック後に製紙工場が立地するようになり、その後原料となる木材やパルプの輸入の増加があったことから息を吹き返し、港湾拡張が行われるようにまで回復しました。

また、仙台港と石巻工業港の両港は、三陸自動車道や国道45号で結ばれるようになり、その近代港としての機能が補完されるようになりました。

こうして現在にまで至るわけですが、両港は今も貞山運河によっても結ばれています。しかし、現在は物流のためには使われておらず、しかも先の震災において著しいダメージを受けていて、おそらくは船の行き来などはできないような状態ではないでしょうか。

この二つの港だけでなく、県内の港は地震・地盤沈下・津波・火災などにより、埠頭施設や背後の臨海工業商業地区は大きな被害を受けました。また、港湾従事者の犠牲や離散により港湾機能が著しく低下しているようです。

このため、とくに仙台港と塩釜港、石巻港、松島港という4つの港区を、「仙台塩釜港」という1つの港に統合されることが決まり、震災からの効率的な復旧・復興と将来的な発展を目指して現在、必死の改修作業が進められているということです。

この4つの港区は、すべて貞山堀で結ばれていて(総延長46.4km)、本来ならば小型船舶なら外洋に出ることなく相互の往来が可能であるはずです。が、運河の幅が狭いうえに、震災のがれきやら津波に運ばれてきた土砂の堆積よって船の航行に適した状態にはなさそうです。

もっとも、震災前にもこの運河を一気通貫で通るような流通ルート、もしくは観光ルートは確立されていません。が、これを有効利用して、観光資源にしようとか、いろいろな取り組みがあったと聞いています。

遠い将来かもしれませんが、これらの運河が復活して、流通だけでなく、レジャーなどにも使われるようになり、町の活力になっていくことを願ってやみません。

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以上が、貞山堀と仙台湾沿岸各所に設置された港の歴史です。

話しは少々変わりますが、冒頭で話をした、井戸浦付近の狭義の仙台湾では、仙台港付近の湊浜に加え、荒浜、ゆりあげビーチといった3ヶ所ほどのサーフスポットがあり、とくに仙台港付近の湊浜では、仙台港の防波堤が最も長く太平洋に突き出ているため、波が増幅されやすく大きな波ができるようです。

これらのスポットは、仙台空港からもほど近いためか、関東方面からも多くのサーファーが訪れていたようで、以前、私がこの地域に調査に通っていたころにも、たくさんのサーファーが波乗りを楽しんでいるのを目にしました。

このうちのひとつ、ゆりあげビーチは、名取川河口の南に近年開設された海水浴場であり、河口の南側に防波堤があり、北寄りからの波が押し寄せることの多いこの海岸を穏やかにしてくれています。

以前は、どこの浜辺にも車で進入可能であったため、ここを拠点にしてこの海岸の近くでもサーフィンを楽しむ若者がたくさん見られたのですが、現在ではおそらくその姿もみることができないでしょう。

一方の仙台港の湊浜ではかつてプトライアスロンの国際大会が毎年開かれており、またプロのサーフィン大会が毎年開催されていました。

このゆりあげビーチでもアマチュアのサーフィン大会がよく開催されていたようです。が、それもおそらくは震災以後長らく開催されていないのではないでしょうか。

この一帯では季節によっては潮干狩りを楽しめる場所があったような記憶があり、夏には普通の海水浴客や釣り客も数多く訪れていました。井戸浦でも糸を垂れている地域住民をよく見ました。が、確か地元の漁協が漁業権を設定しており、勝手に釣りはできないはずでしたが……

仙台湾の外海のほうは、カレイ、マアナゴ、アカガイ、ホッキガイ、ウニ、カキなど豊富な魚介類が採れることで有名な豊饒の海でしたが、今はどうなっていることでしょう。少なくとも養殖のほうは回復傾向にあるようで、松島湾のマガキの養殖や、仙台湾のノリの養殖は、最近になってようやく復活したと、先日のニュースで報じていました。

たくさんの鯨類がこの海を訪れることでも有名で、春から夏にかけてザトウクジラやシャチなど数多くの種類が現れており、湾内ではミンククジラなら普通にみることができたようですが、そのクジラたちは戻ってきているのでしょうか。こちらも気になります。

長らくこうした海を見に戻っていませんが、伊豆での生活が落ち着いた今、時間が許せばまたあそこへ行ってみたいと思います。

とはいえ、変わり果てた井戸浦や貞山堀を見るのは忍びない気持ちもあります。が、もしその復興計画などが持ち上がるようであれば、そうしたことに関わることが、私にできるこの地への恩返しのような気がしています……

人にも海にも港にも、一刻も早い復興が訪れることを願ってやみません。

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クジラは歌う

2014-1070280今日は、童謡詩人、金子みすゞの命日だそうです。

北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された、かの西条八十からも「若き童謡詩人中の巨星」と称えられるほどの実力者でしたが、1930年(昭和5年)の今日、26歳でその短い生涯を終えました。

大正末期から昭和初期にかけて、512編もの詩を綴りましたが、このように専門家の評価は高かったにもかかわらず、当初はあまり世間一般には知られていませんでした。

ところが、2000年代のはじめに、ラジオ大阪の携帯サイトで金子みすゞの詩を朗読するプログラムが公開され、またTBSラジオのミニ番組「童謡詩人・金子みすゞ」でも詩作の朗読が放送されたことなどから、徐々に人気が出るようになりました。

その後、東日本大震災後に、テレビ各局がCMを自粛するようになった折、その差し替えのために放送された公共広告機構のCMで、みすゞの作品の一つである「こだまでしょうか」が取り上げられたことにより一挙にブレイク。

「金子みすゞ童謡集“こだまでしょうか”」などが急遽電子書籍化されたほか、この「こだまでしょうか」をモチーフに、その独特の語調をパロディにした作品などもインターネット上で流行り、その名前が広く知られるようになりました。

この影響もあって、山口県の長門市仙崎にある「金子みすゞ記念館」の入場者数も急増、2011年には累計入場者数が100万人を突破しました。

このみすゞが生まれた仙崎という町は、日本海に面した青海島と本土の間に形成された砂嘴の上に成り立った港町で、魚類の大消費地である下関や福岡にも近いことから、日本海側屈指の漁港として成長しました。

蒲鉾の産地としても知られ、面積14平方キロメートルほどの青海島はその北岸が日本海の荒波を受け、奇岩が並び立つ景勝地であり、「海上アルプス」とも称され、山口県を代表する観光地でもあります。

私も子供のころから何度となく訪れ、その絶景を見るのが好きでしたが、長じてからは、この仙崎漁港のお土産物屋で売っている豊富な魚介類目当てに、よくここへ行ったものです。が、最近の不況でこの土産物屋の数がずいぶん減ったと聞いており、少々心配しています。

みすゞが生まれたのは、1903年(明治36年)4月11日のことでしたが、彼女が生まれてすぐに、父は下関の本屋の支店の店長として中国(当時は清国)の営口に赴任し、彼女が3歳のときにこの地で不慮の死をとげています。

彼女には弟が一人いましたが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である下関の上山家という家に養子に出されています。ところが、この叔母もまたその後亡くなり、この弟の養父が一人者となったことから、同じく寡婦であったみすゞの母と再婚。

このため、みすゞも下関の上山家に移り住むようになり、みすゞとこの弟とは姉弟でありながら、しかも義理の姉弟というややこしい関係となりました。

みすゞは23歳のとき、この養父(叔父でもある)の経営する本屋(上山文英堂という名前)の番頭格の男性と結婚して、二人してこの養父の家で住むようになり、やがて娘を1人授かります。

同じく同居していた弟とは、実はみすゞは不仲だったといい、このため彼をかわいがっていた叔父から次第に冷遇されるようになります。結婚相手とも折り合いが悪かったようで、このためこの旦那は不倫に走るようになります。これが謹厳実直だった叔父にバレ、激怒した彼は、夫婦を上山文英堂から追い出しました。

みすゞは夫に従ってこの家を出たものの、自暴自棄になったこの旦那の放蕩は収まりません。そうしたすさんだ環境のなか、もともと、文学的な才能があったみすゞは、気分転換にと雑誌などに詩の投稿を始めました。が、偏屈な夫は家業をないがしろにして遊んでいる、とこれを喜ばず、彼女の投稿活動や詩人仲間との交流まで禁じました。

しかも、女遊びの末に、淋病に感染し、あろうことかこれをみすゞに移してしまいます。こうした夫のしうちにも我慢に我慢を重ねていたみすゞでしたが、ついに耐え切れなくなり、1930年(昭和5年)2月にこの夫との離別を決めます。

周囲のとりなしによって正式に離婚は決まったものの、しかし夫はこれを拒否したため、手続き上は成立していないまま、彼女は家を出ようとします。このときみすゞは、せめて娘を手元で育てたいと夫に要求し、夫もこれを一度は受け入れました。

ところがすぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求するようになります。離婚もできず、娘も取り返すことのできない中、苦悩の日々を過ごしたみすゞは、ついに同年3月10日、夫に対して娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺して服毒自殺。その26年の短い生涯を閉じました。

代表作には、「わたしと小鳥とすず(自分のことを「すず」と呼んでいた)や「積もった雪」、「大漁」などがありますが、その死後、これらの誌は長らく忘れられており、1984年になってようやく岩波文庫「日本童謡集」の中に「大漁」が取り上げられました。

この作品は、これを読んだこの当時の流行詩人たちに高く評価されました。そのおかげで、亡くなった実家などから次々と遺稿が発掘され、遺稿集としてとりまとめられるようになり、巷でも次第に人気が高まっていきました。

やがて大学の国語の入試問題にも彼女の誌が出題されるようになり、こうした小ブレイクを受けて、地元の仙崎でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。ここでは、みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されています。

この記念館は本当に小さなもので、大きな看板は出ているのですが、地味なのですぐ前を通っても気が付かないことがあります。が、これだけを目当てに仙崎にやってくる観光客も多いようで、私も夏休みなどに、大勢の学生が押しかけていたのをみかけたことがあります。

この仙崎という街ですが、古くは、捕鯨が盛んだった時代があり、仙崎漁港の入口には、鯨を形どったオブジェなども飾られています。また、多くの鯨を殺したことへの償いと畏敬の念を込めて、「鯨墓」なるものも建立されています。また鯨の魂を慰める「鯨法会」という地域の慣わしもあって、地元のお寺さんを読んで、毎年法要が行われています。

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みすゞもまた、鯨の供養のためにと、「鯨法会」という作品を書いており、自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの作品の特徴です。

この「鯨法会」というのを紹介しておきましょう。

鯨法会は春のくれ、
海にとびうおとれるころ。

はまのお寺が鳴るかねが、
ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

村のりょうしがはおり着て、
はまのお寺へいそぐとき、

おきでくじらの子がひとり、
その鳴るかねをききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしとないてます。

海のおもてを、かねの音は、
海のどこまで、ひびくやら。

このみすゞも謡ったクジラの子は、捕鯨によって親を奪われ、一人ぼっちになったのでしょう。現在でこそ調査捕鯨しか行われていませんが、その昔は、日本全国あちこちの海で大規模な漁が行われ、こうした親を失った子クジラがたくさんいたことと思われます。

8世紀の奈良時代には文献上に捕鯨を意味する「いさなとり」の枕詞が出現しており、初期には「突き捕り式」と称する銛を用いた捕鯨法でしたが、これが16世紀には捕鯨専用の銛を使うようになっていきました。

江戸時代に入った17世紀初頭には、水軍から派生した専門的な捕鯨集団「鯨組」が各地に出現します。

17世紀後半には、網を用いてクジラを拘束してから銛で仕留める「網捕り式」と呼ばれる技術が鯨組により開発されました。

初期のころのクジラの捕獲対象は、西洋と同様にセミクジラやコククジラでしたが、この網捕り式捕鯨の開発後は、死亡すると水に沈んでしまうために捕獲が難しかったナガスクジラ科のクジラまでも対象とできるようになりました。

やがて「鯨組」という漁師軍団が形成されるようになり、彼らは捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行う数千人規模の巨大な組織となり、多大な利益をもたらすことから各地方で厚遇され、藩からの支援も受ける団体も多かったようです。

捕獲された鯨からは、鯨油が生産されて農業資材や灯油などとして全国に流通したほか、ヒゲも様々な工芸品の材料として使用され、さらに、鯨肉は食糧としても利用されており、中でも保存性の高い皮脂や鰭の塩漬けは広範囲に流通しました。

西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んだという記録もあります。

また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなりました。ただし、このような多数の労働者を必要とする鯨組による古式捕鯨は、巨大組織であるがゆえに経営維持が難しい面もあり、ときには経営難から解散に至る例もあったようです。

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日本の古式捕鯨は、好不調の波もありつつ19世紀前半にはピークを迎えましたが、やがて徐々に衰退していき、明治時代末には近代的なノルウェー式の捕鯨に取って代わられました。

現在でも、商業捕鯨を操業するノルウェーや調査捕鯨を実施している日本、先住民が捕鯨をおこなっているアメリカ合衆国やカナダなど、一部の国や地域では捕鯨が継続されています。

が、ご存知のとおり、捕鯨継続の是非に関しては議論があり、絶滅を招くおそれがあるという以外にも、非常に知能が高い哺乳類であるから、という理由から反対論が優勢な状況です。

一説によるとクジラはイヌやネコよりも賢いといわれており、そんな知能の高い生物を食物として人間が狩ってもいいのか、というわけです。

クジラの種類の中でも比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類をイルカと呼ぶことが多いようです。この区分は明確ではないようですが、いずれにせよ、クジラもイルカも非常に高い知能を持っているといわれています。

とくにイルカは体重に占める脳の割合(脳化指数)がヒトに次いで大きいことから、その知性の潜在的可能性が古くから指摘されており、世界的にも数多くの研究者の研究対象になり、世間一般からも興味の対象とされてきました。

イルカが高い周波数をもったパルス音を発して、物体に反射した音からその物体の特徴を知る能力を持つことはよく知られています。

更にその特徴を他の個体にパルス音で伝えたりと、コミュニケーション能力は高い一方で、人間のようないじめも同類に行うこともわかっており、魚などを集団で噛み付き弱らせ弄んだ挙句食べずに捨てる、小さな同種のイルカや弱ったものを集団で噛み付くなどして、殺すなど集団的な暴行行為も行うといいます。

実は、クジラもまた、歌を歌って、他のクジラとコミュニケーションをとっているといわれています。

歌といっても、一連の雄たけびのような「音」です。クジラ類すべてが発するというわけではなく、特定の種に属するクジラ(代表的には、ザトウクジラ)などが発する、反復的でパターンが予測可能な音で、その発声が人間の歌唱を想起させるためによく「歌」に例えられます。

音(声)を発生するのに使われるメカニズムは、クジラの種類により異なっていますが、コミュニケーション目的のために発しているらしいという点では共通しており、このあたりは必ずしもコミュニケーション目的でもなくやたらに吠えまくる陸上の哺乳動物と異なります。

クジラのコミュニティの維持にはこのような音と、これを聞き取る感覚が不可欠だと言われています。また、水中では光の吸収が大きいため視界が悪く、空気中に較べると、水中では分子の拡散速度が相対的に遅く、嗅覚が有効に働かないことも、こうした歌を歌う理由だと考えられています。

水中での音の速度は、海水面上において大気中の速度のおよそ4倍と速いため、泳ぐ、跳ねるといった動作を視認して意思を伝えたり、匂いで味方を確認したりするよりも、音でコミュニケーションをとるほうが効率的というわけです。

クジラだけでなく、海の哺乳動物たちの多くは、コミュニケーションや摂食において聴覚に非常に依存しています。このため、世界中の海洋で起こっている、船舶航行や軍事用のアクティブソナーや海洋地震による環境雑音の増加は、海洋哺乳動物に対し悪影響を与えつつあるとする意見もあり、環境保護論者や鯨学者たちの関心を集めているそうです。

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このクジラの声ですが、我々人間は、喉頭を通して空気を単純に外に押し出すことで声を発します。ところが、クジラの場合は、喉頭内にある声帯がこの連続的な息の流れを、いくつかの空気の塊に分解しながら外に押し出し、また必要に応じて声帯を開閉するといった複雑なコントロールができます。

こうして発せられた空気の塊は、咽喉部、舌、唇によって、さらに意図する音へと整形され、クジラの体外へと飛び出していきます。

従って、人間が出す声と異なり、クジラが出す声は非常に複雑なものとなり、一度聴いたら容易に忘れることのできない深い響きのあるものになります。とくにザトウクジラやある種のシロナガスクジラのものは、耳の奥底に響くような種類の音だといいます。

もっとも、彼らが一年中この声を発しているかというとそうでもないようで、クジラがこうした非常に複雑な歌を歌うのは、主として雌雄選択のための発情期だけのことが多いようです。

一方、トウクジラやシロナガスクジラ以外の、他のクジラが発する声はもっと単純で、こちらは一年を通して発せられます。シャチ(オルカ)を含む、歯を持つ大多数のイルカなどが発する声は、物体の大きさや性質をきわめて正確に探知する目的の「エコーロケーション」であるといわれています。

これは、一種の超音速の音波の放出で、水中での深度や、前方にある大きな障害物などは、この発せられた超音波で探知できます。これを発して対象物から跳ね返ってくる音波でそれが何かを確認するわけで、このあたりはコウモリが超音波を発して暗闇でもぶつからずに飛べるのと同じ原理です。

こうした小型のクジラ類もコウモリと同じで、水中環境における視界の悪さから、水中で容易に伝達し得るエコロケーションという音波を使って、その遊泳を補助しているのだと考えられています。

一方で、クジラの中でもかなり大型であるザトウクジラや、シロナガスクジラの声はこのエコロケーションではなく、上述のとおり、様々な周波数で複雑かつ反復的な音を発します。

海洋生物学者として有名な、フィリップ・クラファムは、この歌を、「動物界におけるおそらくもっとも複雑な歌」と形容し、クジラを歌の名手だと語っています。

とくに雄のザトウクジラは、交配期において非常に複雑な歌を歌うことで知られており、この歌の目的は、お相手の雌を探すときに、その性的選択を補助するためであろうと推測されています。

ただ、この歌が雌を争う雄同士の競争が目的の振る舞いなのか、あるいは雄から雌への「恋の駆け引きによる戯れ」のようなものか、はたまた、雄どうしで集って対象とする雌が誰のものかを決めようとしているのかなど、いずれが目的であるのかについてはまだよくわかっていないようです。

こうしたクジラの歌の研究としては、1971年のアメリカの生物学者、ロジャー・ペインとスコット・マクヴェイらのものが有名であり、その研究結果によれば、クジラの歌にはある種の「メロディー」があり、これは明瞭に区別される階層構造によって構成されているそうです。

このクジラの歌の基本単位(時として、「楽音」と呼ばれる)は、数秒間ほど継続する中断のない単一の発声で、20ヘルツから10キロヘルツまでの周波数で変動します。人間は、だいたい、20ヘルツから20キロヘルツの音を聞くことができますから、こうしたクジラの歌のほとんどを聞くことができます。

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この歌はまた、周波数変調が可能だそうで、すなわち、音が高くなったり低くなったり、同じ周波数に留まったりし、また音量も変化します。

その歌の多くは、4個または6個のサブフレーズから成るセットで成り立っているそうで、10秒ほど続くサブフレーズ2つでひとつのフレーズが構成されています。この一つのフレーズを歌うのには2分から4分かかるといい、そしてこのフレーズは何度となく繰り返されます。

ひとつのフレーズは「テーマ」とも呼ばれており、テーマの集まりが、すなわちワンセットの歌です。この歌は普通は長くても20分ほどで終わるそうですが、更に繰り返され、何時間にも渡って続き、数日にも及ぶこともあるといいます。

どんな歌なのか私も実際の録音をすべて聞いたことがあるわけではないのですが、科学映画などでクジラの生態を紹介しているものを見たときに聞いたものは、独特な悲しげな歌でした。みなさんもそうしたクジラの歌の片鱗をどこかで聞いたことがあるのでないでしょうか。

直接的にこの歌を聞いた人の話では、この歌はまるで深い階層構造のようになっているそうで、それはまるで、ロシア式入れ子人形、マトリョーシカに例えられるそうです。

こうした幻想的な音の階層がどういうふうに形成されるのか、については多くの科学者を魅了するテーマだということで、バイオリンのような楽器を製造する人たちにとっても非常に興味深い対象だといいます。

更に、これらのクジラの歌は、時間と共にゆるやかに進化するそうです。例えば、一ヶ月に渡る時間の経過と共に「アップスウィープ」するそうで、これは「周波数における増大」を意味します。

つまり低音から高音へとだんだんとシフトしていくわけで、特定の音程で始まった一単位の歌が、ゆるやかに高音化していき、かなり高い定周波の音にまでなることもあります。また、別の一単位の歌では、一貫して音量だけが大きくなっていく場合もあるといいます。

こうしたクジラの歌の変化は、その変化ペースが、また変化するそうです。何年かもの間に、急速に歌の内容が変化することがあり、また別の数年のあいだは、ほとんど変動が記録されない、といった具合です。

さらに、この歌の内容は、クジラの生息密度によっても違いがあるそうで、テリトリーが込み合った地域に生息するクジラが歌う歌には、わずかなヴァリエーションしかなく、類似した歌を歌う傾向がある一方で、テリトリーに重複のない地域のクジラは、まったく異なる非常にたくさんのユニットの歌を歌うといいます。

さらに、こうした歌は、変化していったとしても、古いパターンがもう一度立ち現れることは稀だそうです。クジラの歌を19年にわたって分析した研究結果では、同じパターンの歌が若干出現する程度で、同じフレーズを組み合わせた歌が再現されたことは一度もなかったといいます。

このクジラの歌は、求愛行為のためのものではないかとする説がある一方で、いやそうではない、必ずしも生殖活動のためだけではない、とする学者もいます。

例えばザトウクジラは、フィーディング・コール(feeding call)と呼ばれる音を発します。これは、前述の歌とは明らかに異なるもので、定周波数に近い、長い音(声)であり、5~10秒程度持続します。

ザトウクジラは一般に、群として集まることで、協調して摂食します。魚群の下側で遊泳し、全員が、魚の群を突き抜けて垂直に上方に突進し、一緒に水から飛び出ます。この突進の前に、このフィーディング・コールを発するといい、このことから、摂餌行動と何等かの関係が深いと考えられています。

クジラに追いかけられる魚のほうは、この声が何を意味するのかを知っているようで、このフィーディング・コールを録音した音を再生してニシンの群れに発しところ、実際にはクジラがいないのにもかかわらず、この音に反応して、ニシンたちは、コール音を避けるように移動したといいます。

このように、クジラが発する音が、求愛のためであるにせよ、摂餌のためであるにせよ、それがクジラ類の進化とその生息環境の安寧において、とくに重要な役割を果たしていることは容易に想像できます。

一方で、クジラが生息する海という環境は、空気の中で暮らしている我々の世界と異なり、非常に幻想的なものなのかもしれず、こうした美しい環境がクジラをして魅力的な歌を歌わせているのだ、というロマンチスト的な考え方をする研究者もいるようです。

ただ、クジラの歌を擬人化したり、神格化することについては、生物学的には無意味だとし、クジラの音(歌)の役割について過度に美化する必要はない、という指摘も多いようです。

とはいえ、クジラやイルカの知能の高さを考えると、喜々としてその美しい世界の素晴らしさを歌っているのだと考えたくなるのも無理はありません。できることなら、私もそう考えたいところです。

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一方では、生物学者たちの中には、まったく別の観点からクジラの声(音)の意味・内容を研究している人たちもいます。それは例えば、クジラの声がどこから発せられ、どこまで届くのか、といった音響学的な観点からの研究です。

その正確な発生位置を探知するため、わざわざ潜水艦を追跡するための水中聴音器(hydrophone)まで使って、クジラの声が、大洋を横断してどれだけ遠くからもたらされたか、といったことを調査している研究者までいるそうです。

実はこうした水中聴音器を使って収集されたデータというのは、潜水艦など駆逐艦といった軍の艦船によって集められた膨大なものが存在し、こうした軍事データのおよそ30年分ほどを使って行われた研究もあります。

コーネル大学のクリストファー・クラークという研究者は、こうした研究から、クジラの声は、なんと3,000km遠方まで到達することを明らかにしています。

さらにクジラの歌についても研究した結果、クジラが交配のために歌った歌の追跡によって、クジラが恋の季節にどこを回遊したかがわかったといい、さらに研究を進めることで、これまで生態のよくわかっていない種類のクジラの回遊経路を辿ることも可能になるのではないかと、結論づけています。

さて、もうすぐ東日本大震災から3年が経ちます。先日のNHKのサイエンス番組では、この震災後、太平洋側の海底にある地震の巣のあちこちに地震計を設置していることなどを放送していました。

たくさんの地震計の設置により、地震や津波の早期発見につなげようとする試みのようですが、もしかしたら、この遠くまで伝わるというクジラの声を分析結果もまた、もしかしたら将来的には地震の予知につながるのかもしれません。

イヌの声を翻訳する機械で、バウリンガルというのがあるそうですが、鯨の声を翻訳する、ホエールリンガル、いや「ホエリンガル」、というのを開発する、というのはいいアイデアかもしれません。地震のことだけでなく、鯨がどんな会話をしているかは興味深いところです。

もしかしたら、日本の近海を泳ぐクジラは、お互いに地震情報を共有しているかもしれず、また、福島沖を泳いでいるクジラは、あそこはやばいぞ、行かない方がいいぞ、と言っているかもしれません。

あるいは伊豆の海はえーぞ。あそこは餌がいっぱいあって暖かい、とか噂をしているのかもしれません。

伊豆諸島の御蔵島沖などでは、とりわけクジラがよく見れるそうです。今年こそは、そのホエールウォッチングに出かけてみたいものです。できれば、ホエリンガルを持って……

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