バラ・薔薇

我が家の庭に植えたバラのうち、「イブ・ピアッチェ」という品種が、一輪の花を咲かせました。香りの強い品種だそうで、1mほど離れていても良い香りが漂ってきます。1982年の「バガテル国際コンクール」で、芳香カップ受賞したとかで、このほか、1982年にもジュネーブ国際コンクール金賞及び芳香賞受賞しているらしい、「名花」です。

フリルの入った弁が、ぎっしりと詰まった姿はシャクヤクを思わせます。時期により12センチもの大きさの花を咲かせることもあるらしく、これからが楽しみです。

この「薔薇」ですが、人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」なのだそうで、この詩の中には、バラの棘について触れた箇所があるのだとか。バビロニアといえば、現在のイラクの南部。結構暑い場所ですが、古代もそうだったのでしょうか。だとすると、原種は砂漠地帯に生えているような植物だったのかもしれません。

古代ギリシアのローマでは、バラは愛の女神アフロディテやヴィーナスと関係づけられ、その香りが愛好され、香油も作られたそうです。そういえばエジプトの女王クレオパトラが、バラの花や香油を愛用していたと聞いたことがあります。

暴君として知られるローマ皇帝、ネロもバラが大好きだったそうで、お気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会では、庭園の池にバラが浮かべられ、バラ水まで噴き出す噴水があったとか。皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にもバラの花が使われていたといいますから、そのお気に入りぶりが目に浮かぶようです。私的には、バラの花が入った甘ったるい匂いのする料理なんて食べたいとも思いませんが……。

誰にでも愛されるかのように見えるバラですが、中世ヨーロッパでは、バラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によってタブーとされ、修道院などで薬草として栽培されるにとどまりました。

しかし、イスラム世界では、白バラはムハンマドを表し、赤バラは、唯一神アッラーを表すとされ、崇められた花だったようで、香油なども生産され愛好されました。このためか、十字軍以降、中近東のバラが逆にヨーロッパに紹介されるようになり、ルネサンスのころには再びヨーロッパで流行するようになります。

かつてはバラを禁じた教会でも、カトリック教会が聖母マリアのことを「奇しきばらの花」と呼ぶようになり、庶民の間でバラは高貴な人を表す代名詞のようになっていきます。

貴族の中でもバラは大人気で、ナポレオン・ボナパルトのお妃のジョゼフィーヌもバラを愛好し、夫が戦争をしている間も、戦争をしている相手国からバラの原種の情報を集めていたとか。それだけでなく、日本や中国など、世界中からバラを取り寄せて居城に植栽させる一方、「バラ図譜」まで作っています。

このころから、人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立されるようになり、ジョゼフィーヌが亡くなったあとも、彼女の造営したバラ園で原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3,000を超えました。そして、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となったということです。

ジョセフィーヌが日本から取り寄せたバラのうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスなどは日本原産のものです。日本はバラの自生地として世界的に知られていたそうで、古くからバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、「万葉集」にもバラの花を恋人に例えた歌があるそうです。

茨(イバラ)は、戦争のときに敵を近づけないようにするために植栽されることも多く、常陸国(現茨城県)では、イバラを穴に仕掛け、土俗をこの穴に追い込んで退治したという話も残っており、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名も残っているとか。そして、これが茨城県の県名の由来にもなったという説もあります。

江戸時代初期の慶長年間には、ヨーロッパに遣欧使節が送られましたが、その副使だった仙台藩の支倉常長(はせくらつねなが)がその帰途、バラを持ち帰りました。そのバラは、伊達藩主、伊達光宗の菩提寺の円通院にある霊廟の厨子にも描かれたそうで、このため、その後円通院は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになったといいます。

江戸時代には、江戸を中心として、身分を問わず園芸が流行ったそうですがが、バラも例外ではなく、「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されました。ノイバラの果実は、利尿作用があるとして薬用のために栽培されたそうで、園芸品種とともにバラは庶民の間に浸透していきました。

その後、明治になると、明治政府が「ラ・フランス」という品種を農業試験用の植物としてヨーロッパから取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させます。このころは、まだ西洋のバラは庶民にとっては高嶺の花だったようで、その花をひと目見て、香りを嗅ごうと見物客が押し寄せたので、ラ・フランスの株には金網の柵までかけられたそうです。

その後、バラが接ぎ木で増やせるということがわかり、専門の接ぎ木職人なども現れるようになります。東京近郊では、川口市(埼玉県)や大阪では、宝塚市などで栽培が行われるようになり、皇族や華族、高級官僚の中にも愛好家が増えたことから、庶民の間でも人気が高まり、生産量も急増します。

大正から昭和のころには広く一般家庭にも普及し、戦後の高度成長期にはバラは高級な嗜好品としてもてはやされるようになり、そして更なる珍しい品種を求めて品種改良がさかんに行われるようになっていきます。

品種改良を行った花のできばえを競うコンテストが全国で盛んに行われるようになり、大いに栽培技術の向上につながった反面、「喧嘩花」と呼ばれるほど熾烈な競争が今もあるそうで、栽培家の間で喧嘩が絶えないとかいう話を聞くと、たかが花のために……と思ってしまうのは私だけでしょうか。

バラの品種改良は、「青いバラ」を生み出すまでになっています。昔ながらのオールド・ローズの中には、青っぽいものもあるようですが、純粋な青さを湛えたバラを作り出すことは、青いチューリップと同様にかなりの困難だったようで、世界中の育種家の夢でもありました。1957年にアメリカで「スターリング・シルバー」という品種の開発に成功した育種家がおり、その当時、これが、「青バラ」の決定版といわれましたが、その後もアメリカや、フランスでより一層青いバラが開発されていきます。

日本でも青いバラに対する挑戦は盛んで、今日までに数多くの品種が生み出されていて、世界でも注目を浴びているのだとか。現在、一般的な交配による品種改良で最も青に近いとされる品種は、岐阜県の河本バラ園が2002年に発表した「ブルーヘブン」だそうで、このほかにもアマチュア育成家が1992年に発表した「青龍」や2006年に発表した「ターンブルー」という品種などがあるそうです。

実際に見ていないのでどの程度青いのかわかりませんが、確かに青いバラというのは魅力的です。青や紫といった色の花が好きな私としても興味のあるところ。素人でも購入できるほどの値段なのかどうかわかりませんが。

新しいバラを開発すると、人の名前をつける風習がバラの育種家の間では、昔からあるようです。バラの品種名になった人名で有名なところでは、エイブラハム・リンカーン(品種名は「ミスター・リンカーン」)、ジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガンなどの大統領の名前のほか、オペラ歌手のマリア・カラスやバーブラ・ストライサンド、俳優では、ケーリー・グラント、クリス・エバート、ヘンリー・フォンダ、マリリン・モンローなどなど。

皇室関係では、ヴィクトリア女王やエリザベス2世、チャールズ皇太子などがありますが、亡くなったその奥様、ダイアナ元皇太子妃のバラの名前としては、生前命名された「プリンセス・オブ・ウェールズ」と、死後命名された「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」の2品種があるそうです。

バラの品種改良がさかんだったフランス関係では、ジャンヌ・ダルクや、ルイ14世、マリー・アントワネット、ナポレオン・ボナパルトなどの「定番」のほか、シャルル・ド・ゴール、カトリーヌ・ドヌーヴ、クリスチャン・ディオールなんてのもあるそうです。

日本では、美智子皇后が皇太子妃時代につけられた「プリンセス・ミチコ」が有名で、皇后になった後に名づけられた「エンプレスミチコ」というのもあるのだとか。このほか、皇太子妃の雅子さまや、愛子さまなどの皇族方の名前も多いそうです。

総理経験者関係では、吉田茂の娘で、麻生和子さん。麻生太郎のお母さんですが、「デイム和子」というのがあるそうで、このほか、鳩山一郎の奥さん薫さんの名前をとって「薫夫人」というのがあります。いい香りがするんでしょうか。

鳩山由紀夫元首相の奥さん、幸さんのもあって、これは「マダムミユキ」。鈴木善幸の奥さんもサチさんですが、これは「マダムサチ」だそうです。

芸能人では、大地真央のほか、黒柳徹子さんのものがあって、これは「トットちゃん」。まんまじゃないか、と笑ってしまいますが、このほか、渡辺美里さんのが、「シャンテロゼミサト」だとか。エレガントです。

人名以外では、「アロマテラピー」「つくばエクスプレス」「ティファニー」「ステンレス・スティール」なんてのもあるそうで、ここまでくると、バラなのかなんだかわからなくなりますね。

宇宙飛行士の向井千秋さんが1998年にスペースシャトル、ディスカバリーの中で開花させて地球に持ち帰ったバラは、その枝から挿木により育てられたものが、埼玉県川口市内のバラ園で育てられたそうで、「宇宙バラ」というのだとか。ここまでくると、もう地球のもなのかさえ分からなくなってしまいそうです。

ちなみに、わが静岡県では、静岡市清水区(旧清水市)が、日本一のバラの生産量を誇るのだそうで、このほか、富士市や島田市がバラを町の花に指定しています。島田市には、ばらの丘公園というのがあるそうで、360種8700株もあるとか。先日訪れた河津のバガデル公園の6000株をしのぐ数です。見応えがありそうなので、今度行ってみたいと思います。

夏本番になり、バラをはじめとする庭木にとってはつらい時期。厳しい日差しの中で枯らせないように、メンテナンスに気を付けていきたいと思います。さて、次に我が家で咲くバラの花はどんな色でしょうか。

守山 ~旧長岡町(伊豆の国市)

守山より田方平野を望む 画面奥が沼津

昨日、韮山へ行く用事があったので、願成就院すぐ裏手にある守山「(もりやま)」に登ってきました。昨日の小室山に続く、プチ登山シリーズです。このお山、茶々丸のお父さん、足利政知が築いた砦の跡ともいわれ、狩野川のすぐそばに整備された公園から山頂までよく整備された登山道があります。お昼を食べたのが、すぐ近くの韮山にあるラーメン屋だったので、腹ごなしに登ってみることに。汗をかきながら旧な階段の続く登山道を上ることおよそ15分。山頂には、屋根付きの立派な展望台がありました。

ここから見える田方平野は絶景でした。今日は富士山は見えませんでしたが、眼科には、北へ流れる狩野川がみえ、その手前には先日行った堀越御所の跡地も見えます。東に目を向けると4両編成で走る駿豆線も見ることができ、青々とした田んぼの間を縫って三島へ行く電車の姿はのどかそのもの。あー来てよかった、と思いました。

この田方平野ですが、今から約6000年前の縄文時代には、気候最温暖期によって海面が現在より数メートル高くなり、沼津市から、伊豆の国市の長岡付近までが入江だったころの名残だそうです。その後、海面が低下し、狩野川とその支流が運ぶ土砂が堆積し現在の姿となりましたが、低地だけに、古くから狩野川の氾濫によって何度も浸水し、昭和33年の狩野川台風では、死者・行方不明者1269人という大きな被害が出ました。

また、これは私も知らなかったのですが、昭和5年(1930年)に、函南町付近を中心とする「北伊豆地震」というのがあったのだそうで、この地震でも多くの死者が出ました。

この地震、昭和5年の11月26日早朝に発生した、直下型の地震で、地元では「伊豆大震災」とも呼ばれて伝承されているのだとか。

震源地は東海道線の丹那トンネル付近で、ここにある丹那断層という断層がずれて地震がおこりました。マグニチュード7.3といいますから、新潟の中越地震(M6.8)規模の地震になります。震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測したほか、北は福島・新潟、西は大分まで揺れを感じたそうで、死者・行方不明者が272名も出るなど、大きな被害が出ました。

この死者の中には、この当時日本第二位の長さといわれた丹那トンネルでの工事関係者3人も含まれています。この丹那トンネル、この当時の技術で掘り進めるには、かなりの難工事だったそうで、これ以外にも数多くの殉職者を出し、完成までに36人もの方が亡くなっています。難工事だった原因は、トンネルを計画する段階で、設計者がこれを横断していた丹那断層を考慮に入れていなかったためで、このため、トンネル掘削が、断層付近に到達したところで、大量の出水が出ました。

北伊豆地震のとき、この大量の出水に対処するため、本坑とは別に排水用の坑道が掘られていましたが、これが、地震の際に丹那断層がずれることによって切断され、西側から掘られた坑道の先端部が北へ2.7mも移動したのです。これによって、坑道の崩壊事故が発生し、工事関係者3名が死亡しました。トンネルは当初直線で設計されていたそうですが、この地殻変動で直線で掘り進めることができなくなり、その後、トンネルの中央部でS字にカーブするように設計し直されたそうです。

丹那トンネルの難工事は、地質が分かっていない場所へ、遮二無二トンネルを掘ろうとした結果でした。これを教訓として、その後のトンネル工事は事前にできるだけの調査を実施し、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになったそうで、その次に彫られた長大トンネルの関門トンネル工事では、事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事が円滑に行われたそうです。

北伊豆地震は突然起こったのではなく、前触れの前震が何度もあったのだそうです。大きな地震がおこる11月にさきがけ、「伊東群発地震」とよばれる地震が、2月から4月にかけて何度もおき、一時的に沈静化したものの、5月からも再び活発化し、伊東を中心とした地域で8月までに1368回もの有感地震が起きたそうです。

そして、11月の初旬からふたたび新たな群発地震が、今度は伊豆半島の西側(網代の西方10km付近)で発生するようになり、11月の26日の本震の前日、25日までに、なんと2200回を超える地震が記録されました。さらに、25日午後4時5分にM5.1(最大震度4)の前震があったといいますから、被害に遭われた人たちもそれなりの心の準備はできていたはずです。

それにもかかわらず、大きな人的被害を出した原因は、地震が早朝におこり、人々が眠っていたということも大きいようですが、地震が起こった伊豆半島北部の山間部では、山崩れや崖崩れが多発し、とくに天城湯ヶ島(現伊豆市)では大規模な山津波が起きるなど、地震による土砂災害によって亡くなった人が多かったためです。

湯ヶ島では、農家3戸が埋没して、15名亡くなったほか、中伊豆(伊豆市の南)では山の上にあった畑が1haほどが陥没したそうです。被害から見ると、断層帯(後記述)に沿った地域(函南町~伊豆市にかけて)では、震度7の激震に値する揺れであったと思われ、この激しい揺れによって地盤が揺さぶられ、土砂崩れやがけ崩れ、地盤の沈下が起こったのです。

このほか、狩野川に沿った地域では家屋の倒壊が多く、韮山では家屋の全壊率がなんと40%に達しました。韮山町だけで、全壊した家屋は463戸、半壊420戸、死者76名、負傷者152名だそうで、その当時の世帯数は1276、人口7400人だったそうですから、7割の世帯が何等かの被害を受け、住民のおよそ1パーセントが亡くなったわけで、かなりの大打撃だったことがわかります。

北伊豆地震全体での総被害としては、死者・行方不明者272名、負傷者572名、全壊2165戸、半壊5516戸、焼失75戸だそうです。無論、昨年おきた東北の大震災や阪神淡路大震災に比べるべくもないですが、災害の悲惨さは失われた方々の命の数だけでは計れないもの。ここ、伊豆でもこうした大地震が起こりうるということを知り、改めて教訓として肝に銘じ、地震に対する備えを怠りなくしていきたいものです。

ところで、この北伊豆地震、前触れの前震が多かったためでもありますが、前兆は地震におる揺れだけではなく、各地で発光現象や地鳴りといった「宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう)」が数多く記録されたのだそうです。

本震前日の25日の夕方5時ごろから本震発生後の26日午前5時頃までのほぼ半日にかけて、静岡県南部を中心に発光現象がみられたそうで、その当時の記録によると、光の形はオーロラ状で色は青とが多かったといいます。また遠く離れた北関東や近畿地方では、地鳴りのような音が聞こえたという証言もあったのだとか。

宏観異常現象とは、地鳴り、地下水、温泉、海水の水位変動、水質の変化、動物の異常行動、天体や気象現象の異常、通信機器、電磁波の異常など、大規模な有感地震の前兆現象として知らされる現象の総称です。有感地震の因果関係は、多くの科学者がその説明を試みていますが、これが、定説といえるほどの科学的な根拠や統計的なデータは得られていないようです。

ただ、昨年の東北関東大震災では、東北の上空で異常な電磁波の発生が観測されており、これと地震との因果関係がいまさかんに研究者によって調べられているようです。うまくいけば、電磁波の異常を検知することで、地震が来ることを予知できるわけですから、良い成果が出てくることを祈りたいものです。

ちなみに、昨年の地震のとき、ウチのテンちゃんは、まったくといっていいほど、宏観異常現象を見せてくれませんでした。地震の発生とともに、どこかへ隠れてしまい、地震がおさまったころに、すりすりと足元に寄ってきて、不安そうな顔をしていただけ。あらためて、ネコは役にたたん、と思った次第。

地震が起こる前の動物の異常行動として、ナマズが騒ぐというのはよく言われますが、このほかとしては、鶏が夜中に突然騒ぎ始めるとき、日中カラスの大群が移動するとき、日中カラスの大群が異常な鳴き声で騒ぐとき、などがあるそうです。が、ネコが騒ぐというのは、あまり聞いたことがない。ネコの場合、ひげで気温や湿度がわかるそうで、ネコが手で顔を洗いはじめると天気が悪くなりそうだということで、天気予報には使えそうですが、地震予報には使えそうもありません。

宏観異常現象として、よく言われるのは、地震雲や地下水の異常などですが、前述の北伊豆地震でのオーロラのようなものや海面が光るなどの発光現象もよく報告されています。夜空が異常に明るい、とか、光の柱のようなものが見えた、太陽や月に傘のようなものがかかった、月が赤い色をしていた、などなど、枚挙のいとまがありませんが、これらと地震との実際の因果関係を証明した人はまだ誰もいません。

もしかしたら超能力がある人は、地震の予知もできるのかもしれませんが、残念ながら私にはその能力はなさそうです。が、素粒子が目に見えるものとして発見されるような世のなかですから、もしかしたら地震の予知も画期的な発見によって達成できるようになるのかもしれません。

でも、それが実現するとしたら、東京や大阪などの人口密集地帯ではとんでもない人口移動が起こるかもしれませんね。東京の人たちがみんな、伊豆へ引っ越してくるようになったりして。でもその前に地震によって伊豆半島が本州から切り離されないよう、祈ることにしましょう。

小室山 ~伊東市

 画面中央に見えるのが手石岩

ここ二~三日は陽射しにこそ恵まれませんでしたが、気温は低く、比較的快適に過ごせました。九州ではまだ大雨が続いているようですが、今年の梅雨の雨の量は西高東低だったようですね。豪雨で被害に遭われた方に、お見舞いを申し上げたいと思います。

今日は一転して上天気になり、窓からは富士山もよく見えます。より一層雪が少なくなったようですが、富士山の頂上の気温ってどのくらいなのでしょうか。気象庁のデータをみてみると、昨日の最高気温が8.1度。最低気温が2.3度だそうで、やはり涼しい、というより寒いくらいですね。

いつか、その頂上を極めたいと思うのですが、なかなか踏ん切りがつかず、延ばし延ばしになっています。人ごみがきらいなので、上での宿泊はなんとか避けたいと思っていますが、富士山から見るご来光も見てみたいもの。そのうち何かきっかけがあれば、山小屋利用で登山してみようかな。いつになるかわかりませんが。

登山といえば、昨日、プチ登山をしてきました。伊東に用事ができたので、そのついでに、小室山という「火山」に上ってきたのです。標高300mちょっとの小高い山で、その南側にある500m超の火山、大室山と合わせ、「伊豆東部火山群」という火山グループの一員です。山の中腹まではクルマで行くことができ、比較的大きな駐車場があります。ここからは、遊歩道を通って徒歩で頂上まで行きますが、観光リフトもあって、お年寄りでも上ることができます。

観光リフトも少し興味はあったのですが、高所恐怖症の私としては、あえて危ない橋を渡ることはせず、ここは地道に歩いて上ることに。小室山は円錐状のきれいな山で、それを時計まわりと反時計回りに巻くように遊歩道が整備されていて、サンダルでも登れそうなほど楽ちんです。時計まわりで登ることに決め、歩きはじめましたが、少しずつ高度を上げていくにつれ、左手に青い海原が見えてきて、気持ちのよいこと。

この日は雨こそは降っていませんでしたが、曇天で見通しはあまりききません。晴れていれば遠くに伊豆諸島や湘南海岸なども見えるのでしょうが、遊歩道の木立の合間から見えるのは、少し波立った海ばかりと、二から三隻の船のみ。

20分ほどで頂上につきましたが、やはりここからの景色も遠くは見えません。すぐ近くにあるはずの大室山も雲に隠れているらしく、確認できませんでした。山の東側のすぐ真下には、ゴルフ場がふたつと、その先には青い海原が広がっています。南側に目を向けると、緑色の海岸線が見えますが、こちらの眺めはいまひとつ。が、晴れた日にはきっと伊豆高原方面の景色が広がるのでしょう。

西側から西北には富士山が見えたはずなのですが、これも雲の中。唯一、良い眺めだと思えたのが、伊東港とその北側に連なる海岸線。その沖合に、小さな島のようなものがあるのが、「手石岩」との説明が看板にありました。よくみると、島の周りに波があたって白いしぶきがあがっているのも見えます。今度、近くへ行ってじっくり観察してみようかと思います。

この岩、うちに帰ってから調べると、なんと、1989年に海底火山の噴火でできた海底火山のすぐ近くにある島のようです。1989年6月に、伊東市沖では頻繁に地震が起こりました。7月9日にはM5.5の比較的大きな地震が観測され、この頃には、伊東市周辺の井戸の水位や温泉の湧出量、地表面の変位が観測されるようになります。

やがて7月13日18時33分に海底噴火が噴火。そしてこの噴火、翌8月の末まで活発な活動を続けます。その結果、水面下81mの海底で火口の直径200mの火山が形成されていることが確認されました。近くにある手石岩にちなんでか、「手石海丘」とその後名づけられましたが、今はその活動は休止しているようです。

この噴火、伊豆半島においては、約二千七百年ぶりだったそうで、火山学的には大事件だったそうです。幸いなことに、火山噴火による被害はとくになく、噴火の前の7月9日に発生した地震で、伊東市の宇佐美地区を中心に、家具の下敷きなどで21人が軽傷を負っただけですみました。しかし、家屋の損壊や屋根瓦の落下、がけ崩れや道路の損壊などの災害も見られたそうです。

歴史に残る噴火記録や地質学的に調査された噴火史から判断すると、この手石海丘も大室山・小室山と同じく、「伊豆東部火山群」に属するのだとか。

この、伊豆東部火山群に属する火山は、そのほとんどが単成(たんせい)火山という種類の火山なのだそうで、単成火山は、いったん噴火して小型の火口ができたあと、二度と同じところからは噴火しない性質をもつのだとか。これに対し、同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、その火口の周りに溶岩や火山灰を積もらせ、さらに大きな火山体を成長させる火山を、複成(ふくせい)火山と呼ぶそうです。

その代表選手が富士山や、箱根山、伊豆大島だということですが、なるほど大きな山ばかりです。単成火山は、伊豆東部火山群でみられるように、ある地域に群れをなして存在することが多いということで、こうした単成火山の群れの中にある、ひとつひとつの火山は、一度噴火した後に死んでしまいます。しかし、単成火山群全体として見た場合には、次々と別の場所で噴火を起こし、新しい単成火山をつくることを繰りかえすのだとか。

ということは、手石海丘と同じく、また別のところでこれからも小さな火山が噴火する可能性があるということ。なかなか油断がなりません。

日本にある火山のほとんどは複成火山なのだそうで、単成火山群があるのは、伊豆半島と中国・近畿地方の日本海側と男鹿半島ぐらいだそうで、全国的にみても珍しんだそうです。このうちの、伊豆は、そのむかし、13も複成火山があり、それが今の半島の骨格を作っています。そして複成火山お活動が終わり、今のように単成火山ばかりが起こるようになったのが、15万年前のこと。アフリカでホモ・サピエンスが誕生したころに相当しますから、我々にとっては途方もない昔のことです。

このように、同じ地域に多数の複成火山ができ、そのあとに単成火山群ができて両方が共存している例は、とくにまれなのだそうで、伊豆は、大きな学術的価値のあるものを持っているのだとか。以前にも書きましたが、伊豆ジオパーク構想などのお話が持ち上がっているのもわかるような気がします。

昨日は、小室山しか登れませんでしたが、今度は大室山やその他の単成火山にも登ってみたいもの。全部で15かそれくらいあるようです。そうした山に登りつつ、太古の伊豆を想像してみるのも面白いかも。山の頂からあちこちに噴煙が上がる伊豆半島の様子はさぞかし壮大でしょう。

そしてそのうち富士山にも。今年の夏実現できるかどかはわかりませんが。

富士と植物と ~函南町・富士山

梅雨が明けたと思ったら、いきなり30度越えの日が続き、うんざりしかけていたところ、思いがけず昨日は最高気温20度の快適な一日になりました。陽射しはなく、一日中雨ではあったものの、やはり気温は低いほうが楽。一日中寝ていようかとも思いましたが、タエさんから買い物のリクエストがあったので、しぶしぶ山を下りました。

ただ単に買い物をして帰ってくるだけでは、ガソリンがもったいないので、すぐ麓にあるカインズホームで、庭木を見てくることに。ようやく庭に木が植えられるようになったのがうれしくて、最近はホームセンターに行くと必ずといっていいほど、園芸コーナーを探索して帰ってきます。

この日もそんなつもりはなかったのですが、気が付くと5~6鉢もコニファー類を買ってしまい、しかもそれで火がつき、別のホームセンターにも行って、結局、10鉢以上の庭木を買ってしまいました。あーあ、また植えるのが大変だー。

ところで、前から思っていたのですが、ここ伊豆の植生って、よそと違うんだろうか、昔、富士山が噴火したときの火山灰って降っているんかしら、という素朴な疑問。

そこで、いろいろ調べてみました。まず、過去に富士山が噴火したときの火山灰の件。富士山の噴火と言えば、およそ300年前の1707年の12月に起きた宝永噴火が有名ですが、この噴火は、富士山の噴火史上でもトップクラスの大規模かつ激しい噴火だったようです。

南東斜面に開いた3つの火口から、マグマ量に換算して7億トンもの火山灰が成層圏まで噴き上がったそうで、この噴煙は、冬のジェット気流に乗って東に流れ、その風下にあたる静岡県東部・神奈川県・東京都・千葉県などでは火山灰が山のように降りつもったらしい。

その厚さは、小山町の須走付近で2メートル超、小田原で10~20センチメートル、当時の江戸でも2~3センチメートルあったということです。この降灰によって、農地や農作物が全滅しただけでなく、山林が荒れたために土石流や洪水が頻発したため、静岡県の東部や神奈川県の西部の人たちは、その後数十年もの長いあいだ降り積もった火山灰と格闘することになったそうです。

しかし、ここ、伊豆地方はというと、ほとんど被害を与えなかったらしい。火口から立ち上る噴煙や火柱は、三島や沼津など東海道沿線の宿場町からも目撃されたという記録が残っていますが、火山灰は噴火開始の翌朝未明に沼津などにわずかに降った程度だったそうです。風向きが安定する時期であったことや、噴火した期間も16日間という短かかったことが幸いしたようです。

伊豆方面に降った火山灰はほんの少しであったため、その現物を見つけることすら困難なのだそうで、これでウチの庭の土も東京のように黒くない理由がわかりました。

しかしながら、さらに過去にさかのぼると、約4万年前に富士山噴火したときの火山灰層が函南町内で見つかっているそうで、また、富士山から流れ出た溶岩流や土石流の中には三島付近に達したものもあるとのことで、もし、再度富士山が噴火した場合には、火口の位置や噴火規模によっては、同様のことが起きる可能性はあるそうです。

しかしどうやら、ここ修善寺あたりまでは溶岩流は来ることはないだろう、と安心していたら、別の記事がみつかりました。それによると、伊豆には、富士山からだけでなく、その東にある箱根山から噴出した軽石や火山灰が、伊豆にも降りつもった過去があるそうなのです。

富士山はおよそ10万年前に噴火を始め、その活動期間のすべてが伊豆東部火山群の活動期間(約15万年前~現在)と重なっているんだそうで、もし富士山が噴火したら、箱根山も噴火する可能性があるということ。富士山よりも、箱根山により近い伊豆のこと。それが噴火したときは、全く影響はないというわけにはいかないのかもしれません。

そして次の疑問。伊豆の植物相は?です。正解は、やはり「本州島」とは違って、南方系なんだそうです。このブログで前にも書きましたが、伊豆半島は、伊豆諸島の島々と同様に、元はフィリピン海プレート上の南方で生まれ、それがどんぶらこ~どんぶらこ~と本州に近付いてきてぶつかってできた場所であり、このため、植物相は本州島とは異なる南方系を形成しているのだとか。

そういわれてみれば、半島内のあちこちで、ヤシの木やらソテツが立派に育っているのをみますが、そういうことなのか~と納得。雪もあまりふらないので、植物も越冬しやすい場所だろうし、冬には枯れてしまうような一年草も翌年まで枯れないで越年するなんてことも多いのかもしれません。

それに関連する記事がないかな~とネットサーフィンしていたところ、面白い記事を発見しました。なんでも、その昔、明治期から昭和中期にかけての伊豆では、その植生景観は、
「非常にスカスカした、高木が少なくやぶ、あるいは草原的なもの」だったそうです。

どちらかの国立大学で植物を研究されている方のブログのようですが、それによると、伊豆半島の潜在植生、つまり自然にまかせた場合に成立する植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)であると推定されているのだとか。にもかかわらず伊豆半島の多くの地域が低植生となっている理由としては、過去の住民による激しい資源利用がだとこの方はおっしゃいます。

資源として山林が利用されていた時代に、植生が現在よりも低かったという例は各地でみられるのだそうですが、伊豆半島の古い写真などもみると、他の地域と比較してもとくに樹木が少ないのだそうで、どちらかといえば草原的な植生が多くみられるのだそうです。

その理由について、この方は伊豆半島で野焼きが頻繁におこなわれていたことと関係があるのだとおっしゃいます。伊豆は「半島」であるために、海がすぐに迫っていて、高い山といえば天城山系しかなかったとう理由もあり、少ない山林を効率よく使うために、昔から焼畑が頻繁におこなわれていたのだそうで、野焼きは戦後すぐくらいまで続いていたそうです。

春先には湘南から、伊豆の野焼きのけむりがのぞめたというくらいですから、あちこちで焼畑農家があったのでしょう。

この話を読んで、ふと思い出したのが、先日書いた、軽野船の話。詳しくは、「軽野船」の項をご覧になるとわかると思いますが、その昔、日本書記が書かれる前の西暦2~300年ころから伊豆は造船がさかんな土地で、造船をするための木材を大量に消費した、という歴史があるようなのです。

おそらくは近代、焼畑農業がさかんになる以前のずっと昔から、伊豆では材木を切り、それを加工する産業が発達していたのではないか、そしてそのために伊豆では高木が少ないのではないか、というふうに思うのです。

無論、私の推測にすぎませんが、そうした事実があったとしてもおかしくないのではないでしょうか。

しかし、明治、大正、昭和と続いた、燃料革命や肥料革命といった経済構造の大変革をへたあと、伊豆半島も他の地域同様に草原地帯から、森林地帯へとまた戻りつつあるのだそうです。「まもりたい静岡県の野生生物 植物編」という本では、アズマギクやキキョウといった陽地性の植物が軒並み減少あるいは行方不明となっているのだそうで、草山や疎林がなくなり、今の伊豆では、森林が増えてきているのだとか。

森林が増えると良いことなのか、と思いきや、その昔の伊豆は、森林は貧弱だけれども、草山や疎林があちこちにある環境というのは、生物が生息するためには良い環境なのだそうで、いわゆる生物多様性が昔のほうが高かったといいます。

確かに森林ばかり増えている伊豆では、最近、鹿や猿による農作物の被害が甚大だといいます。豊かな自然を取り戻すためには、昔のような草原地帯が増えるほうが、伊豆らしいということなのでしょう。

伊豆全体の植生と我が家の庭とは、にわかにリンクはしないでしょうが、ウチの庭もいろんな生物の憩いの場所になるようなものにしたいもの。そのためには何をすれば良いのかまた勉強です。

そうそう、庭に鳥たちが頻繁にやってくるように、エサ台を作ろうと思っていました。今日はそのエサ台の材料を買いに行くことにしましょう。

メンタリズム?

昨日、夕食時にテレビを見ていたら、「メンタリズム」なるパフォーマンスをやっている番組がありました。出演者の一人、Daigoさんによると、メンタリズムとは、科学や心理学などを駆使し、人が「あり得ない」と思っている現象を現実に作りだすことだといいます。

マジックとは何が違うのかというと、人間の錯覚などを利用して意識を操ることで、マジックのようなパフォーマンスを行うのがメンタリズムなのだとか。人の深層心理を読み取ってコントロールしているために、あり得ないと思っていることが目の前で起こすことができるのだということでしたが、では、超能力なのかそうでないのか、というところについては、はっきりしたことはおっしゃいませんでした。

これに対して、一緒に番組を見ていたタエさんは、いや、あれは超能力だ、超能力を持っているけれども、それを隠して、マジックのようなショー仕立てにしているけれども、本当はすごい力を隠し持っている人たちなのだ、といいます。

たしかに、わざとマジックや心理学の応用技術のように「見せかけ」ているようにもみえ、本当は超能力を持っているのだが、わざと、それを人にわからないようにしている、というふうにも思えるのですが、じゃあいったい何のため?

ひところはユリゲラーさんなどが、スプーン曲げなどを披露したことで、「超能力」が流行りことばにもなり、「オカルトブーム」ともいわれましたが、そういうブームも去り、いまや普通に「超能力」といっても誰も驚かなくなっているから? というふうに考えれば、視聴率をとるためのパフォーマンスと受け取れなくもない。

それにしても、すごい能力を持っている人たちが、それだけでは食っていけなくなるような世の中なのかな~ と思うと、ちょっと寂しい気持ちもしますが、みなさんはどうお思いでしょうか。

私が思うに、超能力的な能力は多少の違いはあるとしても、誰もが持っているものであり、メンタリズムを主張する人たちはおそらく、普通の人たちよりもその能力がかなり高いのだろう、と解釈しています。

先日読み終えた、「魂の真実」の著者、木村忠孝さんは、目の真裏の左右大脳半球の正中線上にある、松かさ状の内分泌器官である「松果体」についてふれていて、この器官の持つ光受容蛋白質(光に感応して、視覚に関するエネルギーを発生させるタンパク質)が目の網膜の光受容蛋白質に似ていることをとりあげ、「本来は感受性が強く、光によって作用し、発生学的にも目と類似点があるが故に、第三の目とも呼ばれています。」と書かれています。

ほとんどの哺乳類では、単なる内分泌器官となっていて、光受容機能は失われているそうですが、古代人はこれに「覚醒」という意味の「エピフィンス」という名前をつけ、インドのヨガではアージュナー・チャクラ、すなわち「第三の目」と呼び、霊的なものを探求したレネ・デカルトは、松果体のことを「魂の玉座」と位置付けていたそうです。

そういえば、昔手塚治さんの漫画で、「三つ目がとおる」というのがありましたが、この主人公はおでこに三番目の目があり、普段はばんそうこうがそこに貼ってあって普通の少年ですが、いざというときにばんそうこうをはがすと、超能力を発揮する、というものでした。手塚さんもお医者さんでしたから、松果体のことをよく知っていて、それを題材にしてこの漫画を描いたのだろうと思います。

特定の刺激を松果体や間脳に与え続けると、より多くの波長の電磁波と同調できるようになり、通常眼に見えないものが見えるようになるといわれているのだそうです。修善寺で温泉をみつけた弘法大師、空海は、その昔室戸岬で、普賢菩薩求聞持法という修業をしたそうで、これは、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもの。

これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるのだそうですが、この修業を終えた空海はその後、数多くの奇蹟を残しています。この修業、松果体や間脳に刺激を与え続けるのと同じ効果があったと木村先生も書かれていますが、と、いうことは、「メンタリズム」などの超能力的なパフォーマンスを持った人たちは、そういう修業をしてその能力を身につけたかのかもしれません。

あるいは、先天的に普通の人とは違った松果体を持って生まれ、「三つ目がとおる」の主人公のような超能力をもとから持っている人がこの世にいても、おかしくないようにも思えます。

「魂の真実」における木村先生の主張のひとつは、我々の肉体などのように目に見える物資は、粗い振動数の低い波動帯でできている世界にあるのだそうで、素粒子のように目に見えないものは、よりきめの細かい振動数を持ちより高い波動帯の世界にあるのだということ。当然のことながら、粗い波動帯に住む我々には、振動数の高い波動帯の世界は目に見えません。そして、その振動数の高い波動帯でできている世界の中に、霊の世界もある、といいます。

無論、波動帯はひとつではなく、波動の違う波動帯がたくさんあるわけですが、その一つ一つに一個の天地、世界があると木村先生はおっしゃいます。

たとえば、あるひとつの高い振動数を持つ、波動帯でできた世界があるとします。元の世界に残る者からは、その世界を見ることはできませんが、その世界に住み、同じ振動数でできた体を持った人にとっては、我々の世界で我々の世界の物質をみるのと同じように、その世界の物質(我々にはみえない)を普通にみることができ、触ることもでき、普通の生活ができるといいます。

この世界の住人は、振動数を自由に変更することができ、そのことによりその世界からより高い波動帯の世界へ行くことによって、突然消えたり、現れたりすることもできます。
つまり、我々がいうところの、幽霊さんは、それができる世界の人ということになります。

振動数の変化は、時空の変化にもなります。つまり、私たちが現れたり、触れたりできるこの世界以外に、数多くの世界がその世界と重なり、また隣り合わせして存在しているというのです。

さらに、振動数の高い世界においては、精神活動を作動させる波動帯と、周囲の環境を形作る波動帯がより近似しているので、意識や思考することによって、それによって発生するエネルギーによって、周囲の環境や世界を作ることが可能になるといいます。つまりは、これが霊界であり、波動帯の違う霊界が数多くあり、それらの世界が重なりあい、また同時に私たちの世界ともつながっているというわけです。

現世における私たちの体は一定の周波数を持っていますが、それは細胞自体が周波数を持っており、その集合体として肉体が存在するためです。木村先生によると、肉体だけでなく、この世にあって、我々が見ることができる物質は、すべて波動がいろいろな形に姿を変えたものにすぎないのだそうです。ある波動とある波動が干渉、交叉し、いろいろな形や色となって現れる。色は波動の内容や働きを知らせる表現方法なのだそうで、色の種類や統合、区分、変化の仕方によって、一見してその働き、機能を知ることができるのだとか。

肉体の場合、細胞エネルギーは光となって体外に放射されており、これをバイオフォトン、バイオプラズマと呼ぶそうで、一般的には、「オーラ」として知られています。この我々が放射しているオーラは、考えや気分、感情によってその振動数波長が変わるため、当然色も変わります。つまり、オーラの色をみることによって、その人の今の状態がわかるといいます。

昨夜テレビに登場した「メンタリスト」さんたちは、もしかしたら、一見して他人のオーラなどが見える人たちなのかもしれません。あるいは第三の目の機能がすごく発達していて、相手に触るだけで、その相手が思っていることが瞬時にわかったり、目隠ししていても相手の持っている物質が放つ振動数波長でそれが何であるか当てたりすることができるのかもしれません。

そういう能力が自分にもあることを信じたいものです。もし本当にあるのならば、訓練をしてみたいかも。ただそれによって、これまで見えなかった世界が突然見えるようになったとしたら、それはそれでちょっと、怖いものはあります。

興味は尽きませんが、この話題については今日は、これくらいにしておきましょう。