韮山の空 ~旧韮山町(伊豆の国市)

1854年(安政元年)12月、わずか1年3ヶ月という短い期間で完成した五つの台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20~30門の大砲が配備され、翌年4月上旬、将軍徳川家定も出席し、台場完成を祝う試射会が開かれました。

実はこれに先立つ2月、ペリーが日本へ二度目に来航してきたときには、まだ完全には台場は完成していませんでした。が、ペリーは未完成ながらもその偉容に驚き、これより奥の江戸湾に侵入することなく、横浜まで引き返しています。

台場の配置は、江戸湾内の澪筋や水深の浅い場所の位置を正確に計算に入れて決められていたといい、大きな船は喫水が深いため、澪筋を通ってしか江戸湾の奥に進むことができませんでした。

従って、水深の浅い洲の上に台場を築いて、その間の水路を防御するという台場の配置は、蒸気船などの大型の艦船に対して、一定の効果を持っていたと思われます。

しかし幕末維新の動乱の中にあって将軍の居城である江戸城や江戸の街を守るため造られた台場は、結局一度も実戦に用いられることなく、その後の明治という時代を迎えます。

明治維新後、台場の所有権は陸軍省・内務省・民間さらに海軍省と、二転三転しました。その後は、第2台場に品川灯台が設置されたほか、第5台場には水上警察署の出張所が置かれるなど、東京湾内の安全を守るために使われました。また、第4台場は造船所として利用され、基礎工事のみが終了していた第7台場は牡蠣の養殖場として使われました。

第3台場だけが、第二次世界大戦時に高射砲が設置されるなど軍事目的に使われましたが、本来の目的の「海防」のために用いられることはとうとうありませんでした。

1923年(大正12年)の関東大震災では、各台場も石垣が崩れたり、内部の建物が倒壊したりするなどの被害を受けました。この内、第3台場と第6台場は、大正13年に国の史跡名勝天然記念物に仮指定(大正15年本指定)され、これを受けて東京市による補修工事が行われています。

第二次大戦後は、第5台場に一時的に戦災孤児収容施設が置かれたこともあったそうですが、東京港修築計画に伴う大規模な埋め立て工事によってその多くは潰され、船の通行にも支障があるという理由から撤去されました。

こうして昭和1962年(昭和37年)までには、第3・第6以外の台場は東京湾からその姿を消しました。

現在、残った二つの台場の内、第3台場は「第三台場史跡公園」という名前になっていて、お台場海浜公園と陸続きになり、歩いて立ち入ることができます。一方、第6台場のほうは立ち入りが禁止されていて、草木の生い茂る緑の小島として、東京湾内の野鳥のオアシスとなっています。

レインボーブリッジを渡ったことのある方も多いと思いますが、ここからは二つの台場を見下ろすことができます。また、日の出桟橋を発着する水上バスでお台場海浜公園に向かえば、海上から六号台場を間近に眺めることができるようです。

反射炉

さて、昨日から台場のお話が延々と続いてしまいましたが、その台場を築いた立役者、江川英龍のその後について書いていきましょう。

ペリー来航を契機に江戸湾海防の実務責任者となり、お台場建造を命じられ、これを見事に完成させた英龍ですが、幕府は江戸内湾での台場築造と平行して、ここに設置する大砲
の鋳造を英龍に命じました。

これに対して、英龍は大砲の鋳造にあたっては、「反射炉」と呼ばれる特殊な鋳造炉が必要であり、この建設を許可して欲しい旨を幕府に申請し、幕府もこの建造を許可します。

英龍は、早速建造の準備に取りかかり、当初その建造予定地は伊豆の下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市高場(たこうま))という場所に決定していました。この場所が選ばれたのは、現場が下田港に近く、資材や原料鉄の搬入のしやすさと、生産した大砲の搬出・回送の便を考えてのことだったと思われます。

1853年(嘉永6年)、お台場の建設が始まったのと同じ年の12月には、この下田で基礎工事も始められましたが、翌1854年(安政元年)の4月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に侵入するという事件が起こりました。

この年の2月13日、ペリーは予想よりもかなり早く再来日して横浜港に入港しました。お台場はこのころまだ未完成部分もありましたが、ペリー艦隊が品川沖まで侵入してきたとき、この砲台の偉容をまのあたりにし、目をみはったといいます。そして、品川より奥の江戸湾に侵入するのをあきらめ、神奈川沖まで引き返し横浜港に入港しました。

英龍らが短い時間に血の滲むような努力で完成させた台場は、こうして一応その成果をあげたのです。

横浜に入港したペリーらは、その後幕府と協議をはじめ、ひと月以上も粘った末、翌月の3月31日についに日米和親条約を締結することに成功。その中で下田も「開港場」として開放することを幕府に約束させることもできたため、横浜を出港後、アメリカへ帰国する直前に艦隊は下田に寄港していたのです。

反射炉の建設は、ペリーらも目にしたお台場に設置するための大砲を建造することを目的としていました。幕府にとっては国家機密であり、これをアメリカに知られることは、その後の外交上において好ましからぬ事態を招くことは明らかでした。このため、今後同様の事態が起こることを防ぐため、急遽反射炉建設地を移転することになりました。

移転先は、韮山代官所にも近い田方郡中村(現伊豆の国市中)と決定されました。内陸にあり、資材の搬入や製造された銃器の搬出には不利でしたが、代官所による監視もしやすく、外国人が入り込むなどの不慮の事故も防ぐことができました。

「反射炉」とは、銑鉄(鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶解して優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶解するためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射集中させることでその位置に高温を実現できる構造となっています

反射炉は、18~19世紀にかけてヨーロッパで発達し、その構造やそれを用いた鉄製砲の鋳造技術などの知識は、長崎の高島秋帆が輸入した蘭書などを通じて、日本にも伝わっていました。英龍も、それらの蘭書を研究し、反射炉についての理解を深めていたものと考えられます。

ヨーロッパで反射炉が発展した背景には、ナポレオンの存在がありました。19世紀初頭、ヨーロッパを席巻したナポレオンは、優れた戦術家として知られていますが、彼の得意とした戦術の特徴は、砲兵を重視し、大量の野戦砲を迅速に運用するというものでした。

これは、それまでの陸戦の常識を一変させる画期的なものであり、以後各国の陸軍は競って砲兵の充実を図ることとなります。ところが大砲を鋳造するにあたって、その材料となる錫と銅はこの当時いずれも高価な金属であったため、これによって造られる「青銅砲」自体も高価なものにならざるを得ませんでした。

より安価に大量の大砲を製造するためには、相対的に価格の低い材料が必要とされましたが、調査の結果、「鉄」がその材料として適当と考えられ、こうして鉄を原料に用いた大砲の製造が始められました。

しかし鉄は、錫や銅に比べてその融点(溶け出す温度)が高く、この問題を解決するためには特殊な炉が必要とされました。そしてその研究の結果、開発されたのが反射炉でした。

こうしたヨーロッパの事情は日本でも同様でした。英龍は自らの海防政策を完成させるためには、大量の大砲を製造する必要性を感じており、そのためには青銅砲に代わって鉄製の大砲を大量に生産できる反射炉の建設が不可欠であると判断したのです。

こうして計画がスタートした反射炉は、オランダのヒュゲニン(Huguenin)という人が著わした鉄製砲の鋳造マニュアルに掲載されていたものが参考にされ、伊豆の韮山で建設されることになったそれは、溶解炉を二つ備えるものを2基、直角に配置した形となっていました。

つまり、四つの溶解炉を同時に稼働させることが可能な設計であり、現存する韮山の反射炉は当初の計画通りに建造され、その後多くの大砲がこの反射炉によって鋳造されています。

その建設のためには、耐火煉瓦の開発なども必要であり、その煉瓦を焼く窯の調達や、焼いたあとの煉瓦の積み上げ方法などをめぐっても多くの思考錯誤もありましたが、そうした苦労もありながらも反射炉の建造は順調に進むかに見えました。

そうした最中、その竣工をみることなく、その設計者であり、計画の最高責任者であった江川英龍当人が江戸で亡くなってしまいます。1855年(安政2年)1月のことでした。

その前の年の暮れごろから英龍は何等かの病を得ていたようで、それをおして江戸や伊豆を往復していたころから、その病気が悪化したのではないかと思われます。

この前年、駿河湾沖で座礁したプチャーチン提督座乗のディアナ号を巡っては、幕府が出資してその代替船を建造することになり、その建造場所も同じ伊豆の戸田と決まり、後年「ヘダ号」と呼ばれる日本初の洋式帆船が建造が始まっていましたが、英龍はその建造責任者も兼ねていました。

これについては、当ブログの「ヘダ号」の項に詳しく書いてありますので、こちらものぞいてみてください。

かたやほぼ完成したとはいえ、まだ未完成の部分も多々あるお台場の建造責任者でもあり、そこに据える大砲を鋳造する反射炉の建設をも進めていた英龍の日々は、韮山や戸田、江戸と各地を転々とする中で、分刻みのスケジュールで進んでいたと考えられます。

詳しい死因は伝えられていませんが、その死の直前まで激務が続いていたといいますから、今で言うところの過労死であったかもしれません。多くの蘭方医が倒れた英龍の治療に携わったといいますが、そうした努力の甲斐もなく、その波乱に満ちた54年間の生涯を閉じることとなりました。

54才という年齢は、この当時の人の寿命からするとごく普通の年齢でしたが、その足跡を考えるとあまりにも早すぎ、惜しまれる死でした。ちなみに、ヘダ号は英龍の死から3ヶ月後の4月に完成し、日本初の西洋帆船の航行に成功しています。

英龍の死後、その遺体は韮山の江川邸のすぐ近くの「本立寺」に埋葬されています。本立寺は江川家が500年前に菩提寺として建立したもので、ここには英龍だけでなく、江川家ゆかりの者の墓石が100本以上も林立しています。

英龍の死を知った老中首座阿部正弘は、その就任当初こそ英龍には見向きもしませんでしたが、難工事といわれたお台場の建設を彼に一任した後は、その建設が彼なくしては進まないことを知るようになり、後年は彼の技術力だけでなく、人柄を高く評価するようになっていたといいます。

そして、なくてはならないその有能な幕臣を失った嘆きを、次のような歌に自らの気持ちを託して英龍の霊前に贈っています。

「空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽ちせし」

「この世に生きている人の寿命には限りがあるものであるが、真心をもってことを成し遂げてくれた君の勲功は、その死後も朽ちることはないだろう」、というような意味でしょうか。

反射炉その後

老中首座の阿部正弘は、英龍だけでなく、その後勝海舟や大久保忠寛、永井尚志らの西洋事情通を登用して海防の強化に努めるとともに、高島秋帆を復活させて講武所の運営にあたらせるなど、洋式軍隊の整備を進め、長崎海軍伝習所、洋学所なども創設しました。

講武所はのちの日本陸軍の素地となり、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となっており、このほかにも大船建造の禁の緩和など幕末にあって、多くの幕政改革(安政の改革)にも取り組むなど、彼が手がけた事業の多くがその後明治政府に受け継がれました。

彼によって近代日本の基礎が造られたといっても過言ではなく、英龍を台場や反射炉、ヘダ号の建設責任者に任命したのも阿部正弘です。これ以外にも山ほどの事業を企画していましたが、1857年(安政4年)6月、老中在任のまま江戸で急死。

阿部正弘は将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたといい、生きていればその後の幕末の動乱において、慶喜の懐刀としてその能力を最大限に発揮したことでしょう。享年は39才。こちらも早すぎる死でした。

一方、英龍の死後、世襲代官江川家の跡を継いだのは、英龍の三男の江川英敏(ひでとし)でした。このとき英敏はわずか16才であり、単独では反射炉の完成はおぼつかないと周囲は考えたのか、英龍の代から交流があり、また蘭学の導入に積極的であった佐賀藩にその応援が依頼されました。

佐賀藩は快くこれを受け、杉谷雍助ら11名の技師を韮山に派遣し、英敏の要請に応えています。その結果、阿部正弘が亡くなったのと同じ年の(安政4年)11月、すべての炉が稼働可能な状態となり、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成の日をみました。

完成した反射炉では、幕末直前の1864年(元治元年)に使用が中止されるまで、数多くの鉄製砲が鋳造されました。

それらの中には、英龍が完成させたお台場に設置された6~80ポンドの大小のカノン砲(日本語では「加農砲」と表記)も含まれています。カノン砲は、低い弾道で目標物を直接狙うもので、お台場を通過する船舶を砲撃するのには最適な砲でした。カノン砲はお台場の固定砲以外にも移動式の野戦砲などの多くの種類が造られました。

このほかにも、攻城戦などの主として目標間に遮蔽物がある場合に用い、強力な搾穿威力を持つモルチール砲(臼砲)、カノン砲とモルチール砲との中間的な大砲で多目的に使用できるホーイッスル砲(忽砲)、小型船舶搭載用のボートホーイッスル砲などもこの韮山の反射炉で造られました。

反射炉を無事完成させた英龍の三男、英敏は反射炉の完成後の5年後にわずか23才で亡くなり、その跡を継いだのが英龍の五男の英武で、その後幕府が瓦解したことからこの人が、最後の韮山代官となりました。

明治維新後、反射炉は陸軍省に移管されましたが、その後はより強度の高い鉄を鋳造できる転炉などが導入されたことから、その後は使われることもなくなり、長い間放置されていました。

次第に破損の進む反射炉の保存運動が本格化したのは、英龍の没後50年にあたる1905年(明治38年)からのことです。

反射炉の保存運動は、韮山県令の女婿であった山田三良(さぶろう)という東大法学部の教授と、最後の韮山代官江川英武の息子で同じく東大法学部教授だった「江川英文」氏らが中心になっておこし、陸軍省の後援もあって無事、その保存修理事業を実現させました。

江川英文氏は、その後財団法人江川文庫を設立し、現在も残る江川邸の保存に努めるとともに、江川家代々の資料を研究者に公開する活動をしていましたが、1966年(昭和41年)に逝去。江川文庫は現在、英文氏のひ孫の江川洋氏が代表を務められており、その方のお父様?とお見受けする方に私たちがニアミスしたことは、この項の初めに書いたとおりです。

この江川文庫には、韮山代官役所の公文書と江川家の私文書などからなる古文書類と、多くの典籍、書画・工芸類・洋書・古写真・銃砲鋳造関連資料などが保管されており、このうち代官役所文書のうち、整理された3000点余りが昭和40年代に公開されはじめ、その後も整理が続いて現在では6000点程の古文書が公開されているそうです。

現在も非公開の資料の公開をめざして、静岡県が主体となり文化庁の後援を得て、整理・調査が続けられているそうで、最終的には目録点数だけで数万点に及びそうだということです。

反射炉の保存修理は明治42年1月に終了し、周囲に鉄柵をめぐらせ、煙突には地震対策として鉄帯をはめて補強された反射炉が完成しています。そして、1922年(大正11年)には史跡名勝天然記念物法によって史跡に指定され、最近、世界遺産への登録をめざして運動が行われ始めました。

その後は、1930年(昭和5年)の北伊豆地震によって北側炉の煙突上部が崩壊するなどの被害を受けたこともありましたが、昭和、平成と計三回の修理を経て、現在もその姿を間近に見ることができます。

幕末期には、佐賀藩や萩藩、水戸藩などでも反射炉が建造されましたが、当時のほぼ原形を保っているのは韮山の反射炉だけです。私も郷里の山口萩の反射炉を見に行ったことがありますが、原型をとどめているのは煙突部分だけであり、韮山の反射炉のようにきれいには保存されていません。

ヨーロッパでは製鉄技術の発展とともに高性能の高炉が開発されて反射炉に取って代わったため、反射炉の遺構は残っていないそうで、日本でもその後転炉などの最新式の鉄溶融炉が導入されたことから、現存する反射炉は全国でも数カ所になってしまいました。

調練所と韮山塾その後

韮山で「反射炉」を計画し、その完成を見ずして亡くなった江川英龍は、これ以外にも韮山で近代的装備による農兵軍の組織を企図しており、その一環として軍隊では食糧の補給がもっとも重要なテーマのひとつであると考えました。

そして軍用の携帯食料として「パン」の効用に着目し、日本で初めてパン(堅パン)を焼いたことは昨日も書きましたが、この兵糧パンは後年幕府軍が薩摩や長州と長期戦を戦ううえで大いに役立ったといいます。このため後年英龍は、日本のパン業界からは「パン祖」とも呼ばれるようになりました。

こうした数々の英龍の偉業をたたえ、英龍が亡くなった1855年(安政2年)の5月、その後を継いで韮山代官に就任した江川英敏に対して、幕府は芝の新銭座(しんせんざ)に八千数百坪の土地を下賜し、その後ここには大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されました。

芝新銭座のこの調練場は「大小砲習練場」と呼ばれ、その後、幕府の徒組(かちぐみ)が入門して西洋砲術を学んだのをはじめとして、数多くの幕臣が砲術の伝授を受けており、諸藩士の入門者と合わせると、その人数は三千人以上にのぼりました。

他藩の入門者の中には、井上薫、黒田清隆、大山巌など、明治維新で名をなした長州や薩摩などの西国の人材がとくに多く含まれています。

英龍亡き後、入門者の指導に当たったのは、韮山塾で英龍から直接兵学を伝授された、壬生藩士の「友平栄(さかえ)」や川越藩士の「岩倉鉄太郎」と、韮山代官所の手代として高島秋帆から共に砲術を学んだ岩嶋源八郎・長澤鋼吉などでした。

調練場には理論を学ぶための学塾も併設されており、そこでは後に幕府の歩兵奉行となる大鳥圭介らが招かれ、語学を講義していました。また、築地に設けられた軍艦操練所との交流も盛んで、榎本武揚や福地源一郎(桜痴源一郎、後の東京日日新聞主筆)、福沢諭吉らもしばしば訪れたと伝えられています。

のちに福沢諭吉がこの調練所の建物を譲り受け、「慶応義塾」を創設したことは先のこのブログでも述べました。

後年、福沢諭吉が記したという「福翁自伝」には英龍の記述があり、「江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、……(中略)、これもなかなか評判が高い。あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸と聞いて……」などと記しており、この当時の英龍の高名ぶりを披露しています。

韮山で英龍が創設した「韮山塾」は、その後これを母体として、1886年(明治19年)、町村立「伊豆学校」として再発足。前述の英龍の五男、江川英武氏が韮山の地元有力者に請われて初代校長に就任しました。

江川家は、1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発した際には、早々に明治政府側に恭順の意を示したため旧領を安堵され、1869年(明治2年)には最後の韮山代官だった、江川英武が「韮山県」の知事となりました。

その後、江川英武は明治4年(1871年)、兵部省の命を受け、岩倉使節団と共に留学生として渡米し、約8年の留学の後、1879年(明治12年)に帰国。内務省・大蔵省に出仕しました。

江川英武が伊豆学校の校長に請われて伊豆に戻ったのは33才の若さのときであり、明治政府を辞した理由はよくわかりません。が、薩摩や長州の人材ばかりが登用される明治政府の中にあって、旧幕臣の出身である英武の居場所はかなり狭かったためかもしれません。

この学校では、英語教育と柔道教育(富田常次郎氏を講師として招聘)に力を入れましたが、経営難から生徒が減少し、英武は数年後に校長職を辞して東京に戻りました。しかし、学校そのものは継続され、現在、「静岡県立韮山高等学校」として、現存する江川邸のすぐ西側で多くの学徒を排出し続けています。

ちなみに、富田常次郎という人は、もともとは沼津の西浦という場所の出身で、幼少時に天城で給仕をしていたところを、ちょうどこのころ天城山に出張に来ていた海軍省管財課に勤務の「嘉納治郎作」の目にとまり、嘉納治郎作の息子で、後年柔道家として有名になる「嘉納治五郎」の書生として引き取られました。

常次郎は、嘉納治五郎が1882年(明治15年)に講道館を設立する折には、その一番弟子として尽力し、講道館四天王の一人として称せられるようになります。四天王とは常次郎をはじめとして、西郷四郎、横山作次郎、山下義韶の4人で、この中の西郷四郎が「姿三四郎」のモデルといわれています。

しかしながら、韮山塾の精神を後世に伝えていこうとした英武の努力にもかかわらず、数年後には伊豆学校の生徒数は激減します。高額な教員への給料や学校運営の出資金の不足が、定員減の原因だったようです。

資金不足の原因は、英武を招聘した地元有力者たちのその後の協力が思ったほどのものではなかったためのようで、かつての江川家の家臣であった岡田直臣という人物がこの頃の「君澤田方郡」の郡長でしたが、こうした有力者による伊豆学校への協力も薄く、このため次第に英武の情熱も冷めていったようです。

伊豆学校を辞し、東京へ移った最後の韮山代官、江川英武は、その後又、第1回衆議院議員総選挙に静岡県第7区(駿東郡など)から無所属で出馬しましたが落選。続く第2回衆議院議員総選挙にも同選挙区から立候補しましたが、このときも最下位得票で落選しています。昭和8年(1933年)、神奈川県三浦郡葉山町において死去。享年81才でした。

衆議院選挙に落選後の晩年の多くは東京で過ごし、亡くなるまでの四十年以上は伊豆での学校経営の失敗を悔やんでいたのか、あるいは選挙落選の反動なのか、あたかも徳川幕府瓦解後の徳川慶喜の晩年と同じように趣味に没頭する生活をして過ごしていたそうです。

しかし、英武が校長として育てた伊豆学校は、この当時としては最高の質を持つ名門校だったようで、ここを卒業した生徒たちの多くがその後政界や財界で活躍していきました。幕末にあってその後の時代を支える英才を数多く輩出した韮山塾を彷彿させるものがあり、その伝統は現在の県立韮山高等学校に受け継がれているといいます。

その韮山高校の校訓は、「忍」だそうです。江川英龍が29才のときに亡くなった母の「久子」が亡くなる直前、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」とこの文字を英龍に遺言したといい、以後英龍は「忍」の文字を書いた紙を死ぬまで懐中に携帯していたといいます。

その英龍の精神は、今も韮山高校に受け継がれており、同校ではその創立者はその当時の県令「柏木忠俊」氏であるとしながらも、これとは別に江川英龍、坦庵公を「学祖」として仰いでいるということです。

この韮山高校のすぐ裏手には、かつて北条早雲が築造した「韮山城」の跡があり、この山頂に登ると、そこからは西北方面に田方平野が一望でき、その彼方には堂々とした富士山を眺めることができます。

江川英龍の時代にはもうすでにこの韮山城は廃城になっており、徳川幕府による太平の世でもあって砦などの構造物もなく、このためこの場所は江川家の人間にとっては「庭」のような存在だったものと思われます。

おそらくは英龍も江戸から伊豆韮山へ帰ってきたときには、何度となく散歩がてらにこの山に登り、我々と同じように富士山を眺めていたに違いありません。

その眼下には、英龍が設立した韮山塾の跡を引き継いだ韮山高校のグラウンドがほんとうに間近に見え、時折、校舎内からは、風に運ばれて授業を行う先生の声や生徒たちのざわめく声までが聞こえてきます。

そしてその生徒たちは、英龍が残した「忍」の字を継承する子供たちです。いつか彼らの中から英龍の意思を継ぎ、時代を率いていってくれるような逸材が出てくれることを祈りつつ、この項を終えたいと思います。

伊豆の国市周辺では最近、「江川酒」というお酒が製造されたそうです。いつか入手し、かつての英龍の栄華をしのびつつ晩酌をしてみたいと思います。その「味」がどんなものかについては、またこのブログでも紹介することにしましょう。

お台場 ~旧韮山町(伊豆の国市)

伊豆韮山の反射炉脇を流れる賀茂川の欄干

毎月12日はパンの日だそうです。パン屋さんたちが作った「パン食普及協議会」が1983年(昭和58年)の3月に制定したそうで、1842年(天保13年)4月12日に伊豆韮山代官の江川英龍が軍用携帯食糧として日本で初めて「乾パン」を焼いたのを記念し、毎月12日をパンの日にしたのだとか。

だからといって、毎月12日にはパンを食べなくちゃ、と義務感にかられる人は皆無だと思います。それに、12日は「とーふ」ということで豆腐の日でもあるみたいだし。個人的には湯豆腐でも食べながら晩酌をするほうがいいか……な。

この江川英龍のパン作りは、英龍の砲術の師匠、高島秋帆の従者に、長崎のオランダ屋敷で料理方として勤め、製パン技術を覚えた作太郎という人物がいたことにはじまったそうです。……ということは、この作太郎が焼いたパンが日本初のはずですが……まあ、そこは良いことにしましょう。

かねがね軍隊においては兵糧の補給が重要であると考えていた英龍は、この作太郎を伊豆韮山に呼び寄せ、パン焼き窯を作り、1842年4月12日、「兵糧パン」第1号が焼き上げられました。

このパン焼き釜(模型?)は韮山の江川邸にも展示してあって、結構大きなものです。先日行ったときに写真に撮るのを忘れてしまいましたが、また機会あれば写真に撮ってアップしましょう。

この英龍が作った兵糧パンはそこそこの評判だったみたいで、その後、大規模な製パン所で大量のパンが作られるようになったといい、水戸藩や薩摩藩でもこれをまねて、同じようなパンが作られたということです。

秋帆投獄

英龍が初めてパンを焼いたという1842年(天保13年)という年は、英龍にとって良しにつけ悪しきにつけ多くの事件があった年でした。

1839年(天保10年)におこった蛮社の獄は、渡辺崋山や高野長英が逮捕されるという英龍ら尚歯会のメンバーにとっては痛恨の事件であり、そのリーダー的存在であった崋山と長英を失うことで、その後尚歯会は事実上の解散となりました。

しかし、英龍にはその後もとくにお咎めもなく、逆に、同じ幕臣で渡辺崋山の弟子であった下曽根信敦とともに、長崎の高島秋帆のもとで高島流砲術を学ぶことを正式に幕府から命じられ、兄弟弟子として秋帆から最新式の西洋流砲術を学ぶ日々が始まりました。

こうして高島秋帆から近代砲術を学んだ英龍は、江戸へ帰府後、幕府に対しても積極的に高島流砲術を取り入れることを勧め、江戸でも実地演習を行うよう働きかけます。そしてこれらはすべて認められ、以後英龍は高島流砲術をベースとしてさらにこれに改良を加え、自分のものとした西洋砲術の普及に努めるようになります。

やがて幕府からは直参の旗本だけでなく全国の藩士にこれを教育するように求められるようになり、英龍のもとへは高島流砲術を学ぶため全国から有能な人々が集まるようになりました。その中には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)などの幕末から明治に活躍した錚々たる面々が含まれています。

老中首座の水野忠邦は英龍の才能を高く評価しており、砲術の指南を英龍に許可するばかりでなく、次第に幕府の軍事顧問としての役割を英龍に期待するようになっていきます。

1842年(天保13年)、水野ら老中の連名で英龍に青銅砲の鋳造を依頼しており、その翌年には「鉄砲方」の役職を英龍に与えました。もはや地方の一代官ではなく、中央政権における重職を担うことになったのです。

そして英龍の砲術の師匠、高島秋帆もまた幕府から砲術の専門家として重用されるようになっていましたが、英龍が幕府から青銅砲の鋳造の依頼を受けたこの年、なんとこの師匠の秋帆が投獄されるという事件が起こりました。

この逮捕劇を演じたのが、ほかでもない鳥居耀蔵です。蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らの時代の逸材を葬ってきましたが、それだけに懲りず、あいかわらず蘭学者やその他の開明派といわれる学者たちを弾圧していました。

高島秋帆の罪状は、「密貿易をしている」というものであり、無論これは何の根拠もないものでしたが、これにより長崎奉行の伊沢政義は、秋帆を逮捕・投獄した上、高島家は断絶となってしまいました。

秋帆は、武蔵国岡部藩(現埼玉県深谷市)へ移送され、ここで幽閉されるようになりましたが、その弟子の英龍や下曽根信敦(しもそねのぶあつ)は、秘密裏に高島秋帆に接触し、同じく秋帆から洋式兵学を教わっていた諸藩の助けも得て、秋帆を救出しようと奔走を始めました。

しかし、秋帆の赦免はなかなか実現せず、結局秋帆が放免されたのは、それから十年以上もたった1853年(嘉永6年)ペリー来航のときで、英龍が亡くなる二年ほど前のことでした。

その後、ペリー来航によって社会情勢が変化し、西洋の軍事技術に詳しい人物が求められるようになったため秋帆は赦免されますが、その十年あまりの幽閉のうっ憤を晴らすかのように活発に動きだし、再度の処罰を覚悟の上で「嘉永上書」という提言書を幕府に提出。その中で「海防が不整備ではアメリカとは戦えない」と強く主張しています。

その後、薩英戦争や下関戦争(長州がイギリス船を砲撃)を経て、幕府もようやく諸外国との交戦は無益だとわかり、世間でも攘夷論の声も低くなる中、秋帆は1856年(安政3年)には幕府の軍事学校「講武所」の運営を任せられるようにまでなり、幕府軍隊の砲術訓練の指導にあたるようになりました。

その後、維新直前の1866年(慶應2年)69歳で死去。その後の明治以降の日本軍の祖といわれた数多くの人材を育てた人物としてその名を歴史に刻むことになりました。

秋帆は講武所における門人への指導の傍ら、「歩操新式」などの教練書を著述していますが、その内容は英龍が伊豆の韮山で設立した「韮山塾」でも受け継がれ、英龍の甥で蘭学者だった石井修三(のち江戸築地軍艦操練所教授方)に英龍が頼んで日本語に訳させています。

今でも日本中で使われる「気を付け~」や「右向け右」、「前へ進め」「回れ右」「右へならえ」などの掛け声は、その時に一般の者が使いやすいようにと秋帆がオランダで記したものを石井が日本語に翻訳したもので、英龍はこの新訳語を使って農民たちの訓練を行いました。

忠邦失脚

さて、その後も秋帆の釈放はなかなか実現しませんでしたが、英龍は秋帆に代わり、江戸や韮山で全国から高島流砲術を学ぶために集まった有能な人材の指導を行っていました。

ところが、1843年(天保14年)、水野忠邦が沿岸要地の上知令(土地没収の命令)の発布を計画したことから、これに諸大名・旗本が反発し、この反対派に加担した鳥居耀蔵の暗躍もあって、水野忠邦は老中辞任に追い込まれます。

英龍らにとっては、自分たちをひいきにしてくれた水野忠邦を頼って高島秋帆を救出しようとしていた矢先のことであり、忠邦の失脚は秋帆の逮捕に続く大きな痛手となりました。

新しい老中首座には政敵の土井利位(どいとしつら)が就任しますが、利位の老中首座就任のすぐあとに英龍は「鉄砲方」を罷免され、以後、幕府からは鉄砲指南などの依頼は一切こなくなってしまいます。

水野忠邦に代わって老中首座に就任した土井利位ですが、その就任の翌年の1844年(弘化元年)、江戸城本丸が火災により焼失した際、その再建費用を集められなかったことから将軍家慶(いえよし)の不興を買い、家慶は外国問題の紛糾などを理由に土井を罷免してしまいます。

そして再度老中首座に就任したのは、これまでも外国問題ではそれなりの実績をあげていた水野忠邦でした。しかし、再び実務についた忠邦に昔日の面影は無く、かつてのような辣腕ぶりは影をひそめていました。

御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったといい、自らが先頭を立って何かを裁可するということもなく、裁断といえばかつて天保改革時代に自分を裏切った鳥居耀蔵を逮捕するなどの報復くらいだったといいます。

そんな人物に動乱の時期の幕府を管理できるわけもなく、そのころ幕閣にあって勢力を伸ばしてきていた、老中阿部正弘や前老中首座の土井利位(どいとしつら)らは、忠邦を排除しようと動きだします。

そして、天保改革時代に忠邦が鳥居耀蔵を使って行った疑獄事件や贈収賄の事実を掘り出し、これを問責理由として1845年(弘化2年)、忠邦を辞任に追い込むことに成功します。忠邦は、2万石を没収された上で強制隠居・謹慎が命じられ、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられました。

この山形への転封に際して忠邦は、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたそうで、このために領民が怒り、大一揆が起こりました。その後山形でも何ら歴史に残るような活躍もなく、1851年(嘉永4年)春に死去。享年58才。

晩節を汚したとはいえ、天保の改革をはじめ、その統治時代にある程度の功があったとされ、謹慎は死後5日で解かれたといいます。

韮山塾

こうして水野に代わって老中首座となったのは「阿部正弘」でした。しかし、英龍はこの阿部から当初は疎んじられていたようで、あいかわらず「本業」の代官職以外には何の依頼も幕府からは来ませんでした。

しかし、英龍は、忠邦が失脚する前の年の1842年(天保13年)、伊豆の自らの屋敷(現在の江川邸)に「家塾」をつくり、これを開放して、入門者たちに西洋砲術の技術を伝授しはじめていました。

前述のパン焼き釜が制作され、パンが焼かれたのもちょうどこの塾が創立されたころのことです。

この塾が、通称「韮山塾」」と呼ばれているもので、天保13年10月から英龍が死去する1855年(安政2年)の正月までの間に、およそ280名がここで西洋砲術を学んでいます。この塾には正式名称がなく、「韮山塾」というのは、塾生たちが便宜的に使っていたものと考えられています。

英龍は、入門者に砲術を伝授するにあたって、講義で理論を学ぶのはもちろんのこと、実地訓練をも重視していたそうで、このため、韮山では実際に大砲や小銃を使っての試射が頻繁に行われたといいます。

韮山代官所の手代で英龍の部下だった「長澤鋼吉」という人物が書き残したカノン砲(中距離砲)の試射記録には、砲弾の重量や火薬の量、射角と着弾の関係などの数値が記されており、きめ細かい訓練が行われていたことがうかがわれます。

また、このころ江戸の斎藤弥九郎の「練兵館」の改革にも手をつけており、弥九郎に積極的に他流試合をするよう勧めたりしています。逆に練兵館のほうからも弥九郎の息子が韮山塾に入門するなど、あいかわらず二人の親密ぶりは続いていました。

ペリー来航

それから10年ほどのあいだ、英龍は韮山代官職に専念し、その傍ら韮山塾では教べんをとり、ときたま塾生を連れて山へ狩りにでかけたりしていたようで、鉄砲方を罷免後の毎日は、比較的穏やかだったようです。それは父英毅から代官職を継ぐ前の若き時代をほうふつさせるような日々だったことでしょう。

しかし、1850年代に入り、英龍が管理する伊豆の下田沖では頻繁に外国船が出没するようになっており、1852年(嘉永5年)には英龍自らが自領の下田の警備を指揮しています。この頃から英龍はさかんに幕府に対し海防の建議を提出するようになっており、この建議書が徐々に幕閣の要人の目に留まるようになってきました。

そしてこの年の6月、ついに英龍は幕府の勘定吟味役格の「海防掛」を任じられ、再び歴史の表舞台に帰ってきました。地方一代官にすぎない英龍が勘定吟味役にまで昇進するのは異例中の異例でした。英龍の抜擢の理由はよくわりませんが、おそらくこのころ幕閣で重用されるようになっていた川路聖謨あたりの推薦によるものだったかもしれません。

海防掛を任じられて3日後には、幕府の中枢の人物らが江戸湾防備計画のため、湾内の海岸区域を検分に出かけたのに同行。この検分にはかつての盟友で、このころ勘定奉行に昇進していた川路聖謨も同行しています。

英龍と川路はその後約1ヶ月間にわたって検分を続け、見聞報告書を作成しましたが、その中で英龍は江戸湾の防御線を、「浦賀水道」としました。

地図をみるとよくわかるのですが、浦賀水道とは房総半島の富津岬と三浦半島の観音崎の間にある狭い海域であり、外国船が通る場合に砲撃を加えるとしたならばここは最適な場所でした。

そんな中、その翌年の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ついに、アメリカのペリーが浦賀港に入港しました。そして、7月14日に、ペリーらは久里浜に護衛を引き連れ上陸。幕府の使者、戸田氏栄と井戸弘道に米国大統領からの親書を手渡し、その回答を得るために再来日することを告げ、去っていきました。

ちなみに、ちょうどこのころ江戸には、土佐の漁師の息子で漂流民となり、運よくアメリカ船に引上げられて米国本土で英語教育を受けることができ、その後帰国して幕府に通訳官として採用されたジョン万次郎こと、中浜万次郎がいました。

ところが、水戸の烈公、徳川斉昭は、万次郎は実はアメリカのスパイではないかという疑惑の目を向け、老中首座の阿部正弘に万次郎を登用させまいと圧力をかけはじめました。これを聞いた英龍は、万次郎を自らの翻訳兼外交顧問として招き入れることを決めます。

来るべき日米交渉の場では英語の堪能な万次郎が不可欠になるのは目に見えていましたが、烈公の手前、彼を表舞台に立たせるのはまずいと考えたためと思われます。あるいは阿部正弘から内々にその旨が英龍に依頼されたのかもしれません。

このため、翌年1月に再び来航したペリーに対して、幕閣は万次郎を直接通訳・交渉の場に立たせることができず、オランダ語の通詞森山多吉郎を介して、日本語→オランダ語→英語という回りくどい通訳による日米交渉を行っています。

しかし、英龍にすれば思いもかけず万次郎という逸材を得たわけであり、その後万次郎を直々の翻訳官として重用し、韮山代官職以外にも激増していくその後の外国関連の諸業務において大いに役立てたといいます。

後年英龍の死後、1860年(万延元年)に、日米修好通商条約の批准書を交換のための遣米使節団がアメリカに派遣され、ジョン万次郎もその使節団の一人として咸臨丸に乗船しました。

このとき、この使節団の中には江川家の家臣団もおり、江川家の面々と親しくなっていた万次郎は、長い航海の間、とかくいさかいの起こりやすい船内において、同じ使節団内の他藩の面々と江川家臣団をつなぐ格好の潤滑剤になったと言われています。

この「ペリー事件」による江戸幕府や日本全国各藩への衝撃はいまさら語る必要もありませんが、この事件以降、幕府は英龍の唱える「海防」の重要性をいやというほど認識させられるようになります。

そして、ペリーらの上陸からわずか9日後の7月23日には、幕府は台場の企画、設計及びここに据え付ける大砲の鋳造などの一連の事業をすべて英龍に委任します。

ところが、幕府が最終的に決定した台場の位置は、英龍が考えたような浦賀水道ではなく、ずっと江戸湾(東京湾)の奥の品川沖でした。

英龍らの台場設置案では、富津(現千葉県富津市)~旗山崎(現神奈川県横須賀市)の間に9基の台場を築き、江戸湾の入口を封鎖する案を最上としていました。しかし、莫大な費用がかかる上に、完成までに20年は必要と見積もられ、ペリーの再来航に間に合わないことは明らかでした。

このため次善策として選ばれたのが品川沖で、この江戸湾の奥の品川猟師町(現品川区)から深川洲崎(現江東区)にかけて、目標として12基(海岸砲台含む)の台場を築くことが決定されました。そして、英龍は、台場の設計および築造の最高責任者に任命されました。

しかし、幕府から台場を完成させるために与えられた時間はおよそ1年と、英龍らが考えていたよりもはるかに短い時間でした。ペリーが来航したとき、幕府は将軍が病気であって決定できないとして即答を避け、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため1年後に再来航すると告げて去ったのでした。

台場建設

台場築造を命じられた英龍は、その設計にあたって、西洋式の築城術を取り入れることを考えました。参考資料としたのが、ハッケヴィッツ(Hackewitz)というドイツの兵法家が著した築城教本で、これをオランダ語に訳したものを使用しました。現在も江川家には、このオランダ語写本が保存されているそうです。

英龍は台場設計の基本理念として「間隔連堡(かんかくれんほ)」という考え方を導入しました。これは複数の台場を一定の間隔をもって築き、それぞれに役割を分担させる方式です。つまり、各台場に備え付けられた大砲の火線が死角なく交わるようにすることで、攻撃力と防御力を高めようとするものでした。

台場の形状は本来は函館の五稜郭にみられるような複雑な多角形形状をめざしたようですが、実際にはより単純な四角形に近い形となりました。台場という初めての工事を請け負った業者の技術力には限界があり、またペリーの再来航に備えての緊急工事であったために、可能な限り工期を短縮しなければならなかったことなどが、理由として考えられます。

台場築造に必要とされた資材は、埋め立て用の土砂、基礎固めや石垣に用いる石材、土台を組むための木材を中心として、縄や釘、俵など多岐におよんでいます。この内、土砂は品川御殿山近くの畑地や高輪泉岳寺の丘土など、建設現場付近から調達されています。石材は大部分が相模と伊豆から切り出され、海路現場へと輸送されました。

松・杉などの木材は、関東一円の幕府直轄林から伐採され、数多くの村々で伐採・製材・輸送のために人足が動員されました。築造工事には、さらに多くの人足が雇われています。

英龍はこれらの材料を産出する幕府直轄地の多くを司る代官でしたから、その調達はスムースに行われたと考えられます。あるいは、英龍がそれらの地の代官であったことが、台場建設の責任者として任命された大きな理由のひとつだったかもしれません。

こうして、第1台場~第3台場は1853年(嘉永6年)の8月に着工され、翌1854年(安政元年)の5月に完成。第5、第6台場も、11月に完工するという超突貫工事で完成しました。

しかし、予定されていた第4、第7台場は未完成に終わり、第8以降の台場は未着工のままとなりました。この結果、台場は、当初計画のおよそ半分の規模となってしまいましたが、その背景としては、この頃幕府には京都御所の造営計画があり、そちらに予算を振り分けたいという思惑があったためと言われています。

しかし、計画の半分といっても、最終的に台場築造には75万両あまりの巨額の費用が投入されています。台場の大きさは、第1から第3台場がおよそ9000~1万坪、第4から第6台場がおよそ5800~6600坪ほどもあり、メートル換算すると、例えば第3台場は一辺およそ172メートルの正方形で、その広さは、甲子園球場のグラウンドの約二倍にあたります。

一応の完成を見た台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20~30門の大砲が配備されました。1855年(安政2年)の2月には、将軍徳川家定上覧のもと、大砲の試射も行われています(……続く)。

龍とマムシ ~旧韮山町(伊豆の国市)

3日前の10月8日は、「寒露」だったそうで、これは二十四節気(にじゅうしせっき)上の17番目にあたる「季節変化」だそうです。

二十四節気は、一年の太陽の動きを24等分し、そのそれぞれの節目に季節の変わり目を表す名称を与えたもので、今年はこのあと、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、と寒そうな名前ばかりが続きます。

いよいよ冬の到来ということで、寒露という名称も「露が冷気によって凍りそうになる」ためにつけられたとか。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギも鳴き止むころだそうで、最近、確かに夜になっても虫があまり鳴かなくなりました。

とはいえ、巷ではまだまだ秋が始まったばかりというかんじでしょう。昨夜、テレビのニュースで、伊豆東海岸の稲取の山の手のほうに「細野高原」という場所があり、ここのススキの原が素晴らしい、と報じていました。

天気もよさそうなので、今日か明日にでも時間を作って行ってみようかなと考えています。いい写真が撮れたらまたこのブログでも紹介したいと思います。

マムシの耀蔵

さて、昨日の続きです。

尚歯会で渡辺崋山という盟友を得、また生涯の師匠と仰ぐ高島秋帆とも知り合うことで、西洋の軍事技術の学びを深めるための素地が整うこととなり、より一層意気さかんであった英龍でしたが、その行く手を阻む大きな敵がちょうどこのころ現れます。

この当時、幕府内においては、蘭学などの西洋の学問を嫌い、こうした学問を取り入れようとする新進の蘭学者たちを排除しようとする動きがあり、その急先鋒にあったのが、目付の「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」らの保守勢力でした。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)の実父は幕府の官僚育成機関、大学寮の教授(大学頭)を務めた江戸幕府の儒者、林述斎(はやしじゅっさい)で父方の祖父の松平乗薀(まつだいらのりもり)は美濃岩村藩の第3代藩主であり、耀蔵はいわば徳川家のエリートの息子でした。

寛政8年(1796年)、林述斎の3男として生まれ、25歳の時に同じ旗本の鳥居成純(とりいなおずみ)の婿養子となって家督を継ぎ、2500石を食む身分となります。鳥居家も松平家の系列につらなる名家であり、やがて耀蔵も11代将軍徳川家斉の側近として仕えるようになります。

そして家斉が隠居して徳川家慶が12代将軍となったあと、老中首座である水野忠邦の天保の改革の下、「目付」に就任したあと南町奉行になり、市中の取締りを行うようになります。

目付は、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察する幕府の官職で、今でいえば警視庁長官のような役目。幕府の中でもとくに有能な人物が任命されました。一方、奉行のほうは最高裁判所の裁判長のような役割であり、目付に就任したあとに奉行に昇進する者が多く、この当時の出世コースのゴールでした。

鳥居耀蔵がそれほど優秀な人物であったかどうかはその後の素行をみるとはなはだ疑問です。が、大学頭で儒学者である林家の出身であったため、学識はかなり豊富だったといわれ、また詩を作るのが得意で、若いころから漢方の心得もあったといいます。

後年目付に就任した以降は、「おとり捜査」を常套手段とするなど権謀術数には長けており、天保の改革ではこの改革に反対する者も多かったことから、この改革の推進者の水野忠邦は目端のきく鳥居を使ってこれらの政敵を排除しており、自分の意のままに動く「狂犬」として重宝していたようです。

ちょうど同じころ北町奉行として就任した「遠山景元(とおやまかげもと)」は、後年講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる「遠山の金さん」のモデルといわれています。この遠山は当時の江戸庶民にも大変人気があったのに対し、鳥居耀蔵は江戸の市民からはかなり嫌われていたようです。

遠山と同じく市民に人気のあった「矢部」という南町奉行の後任として奉行に就任した際、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたといいます。また巷では、「マムシの耀蔵」とも「妖怪」とも呼ばれ、この「妖怪」とは、甲斐守でもあった耀蔵の「耀」の字と「甲斐」を掛け合わせたものです。

一般人からだけでなく、同時代人の知識人たちからも相当嫌われていたようで、同じ幕臣で幕末に外国奉行や勘定奉行を務めた「栗本鋤雲(くりもとじょうん)は、「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」と酷評しています。

また、同じく勘定奉行や軍艦奉行などの幕府重職を歴任し、勝海舟とともに「幕末の四舟」(ほかは海舟、鉄舟、泥舟)のひとりといわれた「木村芥舟(きむらかいしゅう)」も「若いときから才能があったが、西洋の学問を嫌い、洋書を学ぶ者を反逆者として根絶やしにしようとした。天保の改革を推進するためには邪魔者を陰険な手段で追い払った。この点は鳥居にとって大いに惜しむ所である」と後年語っています。

同じく幕臣の勝海舟の鳥居耀蔵評はもっとひどく、「残忍酷薄甚しく、各官員の怨府となれりといえども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうってかへりみる事なく、後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益勇。八万子弟中多くかくのごとき人を見ず。」とこきおろしており、幕府きっての人物といわれた海舟にしてここまで言わせるのですから、いかに人好きのしない嫌な人物だったのかがわかります。

政敵やそりが合わない者に対する敵意、憎悪はすさまじかったといわれ、後年、その政敵の一人であった阿部正弘の訃報を聞いた折には「快甚し(こころよいことはなはだしい)」と日記に記述したそうです。

その主人として仰いだ水野忠邦すら敵にまわしており、天保の改革末期の1843年(天保14年)、水野が国防目的で沿岸要地の上知令(土地没収の命令)の発布を計画した際には、それまでの忠実な部下から一転して上司をおとしめる行為に出ています。

この上知令の内容が事前に諸大名・旗本に洩れたのは鳥居の仕業と言われていますが、これを知った諸大名はこれに猛反発。鳥居耀蔵は水野を裏切って彼ら反対派に寝返り、この反対派の旗手であった水野のライバル、土井利位(どいとしつら)にそのほかの機密資料も残らず横流ししています。

このため改革は途中で頓挫し、水野は老中辞任に追い込まれ、これに代わって土井利位が老中首座に就任しますが、この「功」により耀蔵は土井の元で奉行職を継続することを安堵されます。

ところが半年後の1844年(弘化元年)、外交問題の紛糾から水野が再び老中首座として将軍家慶から幕政を委ねられると、水野は自分を裏切り改革を挫折させた耀蔵を許さず、同年に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任。1845年(弘化2年)には有罪を申し渡し、耀蔵は全財産没収の上で讃岐丸亀藩に預けられます。

これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上もお預けの身として軟禁状態に置かれました。明治政府による恩赦で、1868年(明治元年)に幽閉を解かれましたが、このとき耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせたといいます。

鳥居耀蔵は実は静岡県民で、駿府(現静岡市)の出身です。1870年(明治3年)、幽閉を解かれたあと、郷里の駿府に戻りましたが、2年後の明治5年には再び東京に戻り、明治6年、多くの子や孫に看取られながら亡くなったといいます。享年78才。

死にゆく前、このころにはもう江戸時代とはかなり様変わりしていた東京の状態をみて「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたといいます。

また最晩年、昔の部下が尋ねてきたとき「昔、自分は外国人と近づいてはならぬ。その害毒は必ずあると幕府に言い続けたのに誰も耳を傾けなかった。だから幕府は滅んだのだ。もうどうしようもない。」と傲然と言い放ち、部下は圧倒されて帰ってしまったという逸話も残っています。

このような頑迷というのか時代の「癌」のような人物はいつの時代にもいるものですが、こうした人物であっただけに、幕閣の誰とでもぶつかり合うことも多く、英龍とも1838年(天保9年)に江戸湾測量を巡って対立することになります。

江戸湾岸測量

1837年(天保8年)の12月、このころにはもう江戸湾防備強化の必要性を強く感じていた老中首座水野忠邦は、江戸湾内に侵入してくる外国船を威嚇するための新たな防御線をどこかに張りたいと考え、その場所の選定とそのための正確な測量を鳥居耀蔵と江川英龍に命じました。

本来は鳥居だけが任命されるところでしたが、このころ英龍は水野に対して度重なる海防建議を提出しており、この選任は英龍の建議を高く評価した結果でした。しかし、幕府内にあっては目付の鳥居のほうが身分は上であったため、鳥居は「正使」、英龍は「福使」という立場で事にあたることになりました。

早速、英龍は部下の弥九郎を渡辺崋山の元に派遣し、測量士の推薦を依頼したところ、崋山は、高野長英門下の「奥村喜三郎」と「内田弥太郎」を推薦してきました。ところが、鳥居は鳥居のほうで、別の測量技師を用意しようとしていたことなどから、奥村喜三郎は身分が低いので参加を見合わせるようにとのクレームをつけてきました。

その後双方の間に幕府上層部が入って調整が続けられ、その結果、結局奥村も同行することが許されました。こうして、正使の鳥居耀蔵一行のおよそ110名と、副使の英龍一行約30名、合計140名が翌年の一月江戸を出発し、現地を測量しはじめます。

ところが、現地に入った直後、鳥居が今度は、奥村喜三郎が増上寺の「御霊屋代官」であることを問題にし、不浄な寺侍を同行させるわけにはいかない、という難癖をつけて、奥村を江戸に追い返そうとします。

無論、英龍もこの暴挙に猛反発し、奥村が幕府から裁可されて現場へ来たことを挙げて反論しますが、「正使」であり現場では上司である鳥居には結局逆らえず、泣く泣く奥村を江戸へ返しました。

このことがしこりとなり、このあと英龍と鳥居は激しく反目しあうようになっていったと言われています。が、どちらが悪いかどうかという問題以前のお話で、いかに鳥居耀蔵という人物が低俗で底意地の悪い人間であったかということが、このことからもわかります。

蛮社の獄

こうした問題はあったにせよ、ともかく現地の測量は3月には終了し、全員が帰還。英龍はその成果を幕府に提出する復命書作成にとりかかるとともに、江戸防備改革案の作成にとりかかりました。

と同時に、渡辺崋山には同じく幕府に提出する目的で、外国事情に関する上告書の執筆を依頼。これを受けて、崋山は、江戸湾防備の私案を述べた「諸国建地草図」と、ヨーロッパの現状について書いた「西洋事情書」を英龍に渡しました。

ところが、英龍が「西洋事情書」の内容を改めたところ、幕府の対外政策批判の色が濃かったことから、その内容を崋山に書き直すように依頼。あらためて「外国事情書」という名前の文書に書き直してもらい、こちらを幕府に提出しました。

そのころ鳥居は、先だっての江戸湾測量でのいきさつや、蘭学嫌いであることも手伝って英龍に敵意を抱くようになっており、英龍を支援する渡辺崋山に対しても次第に敵意を抱くようになっていたようです。

そもそも、儒学などの国学だけが正当な学問であるとする大学頭林家の出身である鳥居にとっては、異人が考えた蘭学は世の人を惑わす異端邪説に過ぎず、蘭学を通じて西洋事情を学ぼうとしていた尚歯会の面々らの「開明派」の台頭はもっとも忌み嫌うところであり、機会あらば彼らを失脚させたいと考えていました。

英龍や鳥居耀蔵が江戸湾の測量を終え、幕府へ復命書を提出したちょうどこのころ(1938年(天保9年)の4月ころ)、ときを同じくして、渡辺崋山や高野長英などの尚歯会の面々がモリソン号事件での幕府の対応を批判し、これに関する質問書を提出していたことに対しての幕府からの回答がありました。

崋山らが提出したその質問書は、再度モリソン号が来日した場合、幕府としてはどういう対応をとるつもりか、という内容でしたが、これに対して幕府側からの回答は、漂流の送還はオランダ船によるもののみ認め、あくまでモリソン号などのオランダ以外の外国船の寄港は認めないというものでした。

この回答を崋山や高野長英をはじめとする尚歯会の面々は、幕府の意向はやはり異国船打ち払いにありと解釈し、強く反発します。そして、長英は打ち払いに反対する書「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」を書きあげ、これを匿名とはいえそのまま写本にして公表してしまいます。

これが江戸の巷で反響を呼ぶようになり、この長英の「夢物語」の内容に意見を唱える形の「夢々物語」「夢物語評」などが現われ、世間を騒がせるようになります。

こうした江戸市内での事態を知り、危機意識を感じた幕府は、奉行の鳥居耀蔵らにその作者を探るように命じます。これを受けた鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに「戊戌夢物語」の著者を探索させるとともに、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じます。

そしてその結果小笠原らは、「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという「風説」をでっちあげ、また、頼まれもしないのに、シーボルト事件でお尋ねものとなりこのころ捕縛されていた蘭学者の幡崎鼎(はたざきかなえ)と親しい者として、英龍や川路聖謨、羽倉簡堂といった尚歯会のメンバー、奥村喜三郎、内田弥太郎などの測量隊の面々などの名前までを鳥居に報告します。

この結果を受け、鳥居はすぐに渡辺崋山の家宅捜索を命令し、その結果、草稿として箱にしまってあった「慎機論」や「西洋事情書」が押収されます。そして、その内容が幕府の対外政策に批判的であることが明らかとなったため、同年5月には崋山を逮捕、7月には有罪を申し渡し、12月からは在所蟄居が命じられました。

これがいわゆる「蛮社の獄」といわれる言論弾圧事件であり、尚歯会のメンバーとしては渡辺崋山と高野長英が入牢することになります。鳥居らはさらに、本岐道平という元徒士が小笠原諸島に隠密裏に渡航しようとしたとして、本岐ほか6名を逮捕。さらには本岐の渡航計画に崋山が加担し、自らもアメリカへ渡ろうとしていたという旨の告発状を幕府に提出します。

蛮社の獄ではこのほかにも、キリストの伝記を翻訳していた小関三英という人物が逮捕直前に自殺しています。

しかし、鳥居が水野忠邦に提出した告発状の中には、他の尚歯会メンバーなどは含まれておらず、英龍や川路の名前もありませんでした。これは、英龍や川路聖謨を水野忠邦が高く評価していたからであり、鳥居が水野に遠慮したからだといわれています。

その年の12月には鳥居の告訴状にあった人物全員に評定所から判決が言い渡されましたが、その結果、本岐らの小笠原諸島計画等に関わった人物たちには100日間の入牢などの比較的軽い刑が言い渡されたのに対し、渡辺崋山には幕政批判のかどなどで地元の田原(現愛知県田原市東部)で蟄居が命ぜられ、高野長英には永牢、すなわち終身刑が命ぜられました。

その後崋山は、判決翌年の1月に地元三河の田原藩に護送され暮らし始めましたが、生活が困窮した上に藩内では反崋山派の策動があり、また彼らが崋山が藩主を問責したという風説を流したことなどを苦にして、蛮社の獄から2年半後の1841年(天保12年)に自刃しています。享年49才。

また高野長英は、判決から4年半後の1844年(弘化元年)、牢に放火して脱獄しています。そして蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しましたが、脱獄から6年後の1850年(嘉永3年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。

長英自身の人物像としては、若いころから才能を鼻にかけて増長する傾向があったそうで、仲間内の評判も悪かったようです。その一方、服役後、牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えており、もともと親分肌の気性であったためか牢名主として祭り上げられるようになったといいます。

脱獄後は酸で顔を焼いてまでして逃げおおせようとしたという逸話も残っており、自己の才を惜しむ自我の強い人間だったようです。とはいえ、当時の蘭学者として最大の実力者のひとりであり、生きていれば討幕の旗手としてその才能を発揮できたでしょうが、惜しいことに享年47才の若さで亡くなりました。

しかし、マムシの耀蔵が行った開明派への弾圧はこれにとどまりませんでした。その魔の手は英龍の盟友だった崋山や長英などの尚歯会メンバーのみにとどまらず、やがてその恩師にまで及んでいくようになります(……続く)。

砲撃…そして砲術 ~旧韮山町(伊豆の国市)

ここ2~3日気持ちのよい秋晴れの日々が続きます。日中の気温は25度を超えることはなくなり、夜の最低気温は、17~18度にまで下がるようになりました。温泉のありがたみが分かる季節です。昨日の夜もついつい長湯をしてしまいました。

富士山にはあいかわらず雪が降りません。その南側頂上付近の雪渓はひとつき前には“ i ”の形に見えましたが、いまや完全なる“・”になりました。しかし、おそらく頂上の気温は日中でも4~5度。夜には氷点下に下がっていることでしょう。いずれ低気圧の通過とともにそこは雪の原になるに違いありません。その日が楽しみです。

天保騒動

さて、昨日からの続きです。父英毅のあとを継いて34才で韮山代官に就任した江川英龍のその後の人生を辿っていきましょう。

英龍が代官に就任する少し前の、1833年(天保4年)のころから日本では全国的に洪水や冷害があいついでいました。このため、陸奥国や出羽国といった東北の地域では大飢饉となり、特に仙台藩は100万石を超える石高を有しており、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大でした。

また東北だけでなく韮山代官所の管理地であった甲斐国でも飢饉に陥り、英龍が代官に就任した翌年の1836年(天保7年)には、それまでにない大規模な一揆がおこり、これはのちに「天保騒動」と呼ばれました。

この一揆をあおっていたのが、甲州博徒といわれるヤクザ者たちでした。英龍は彼らがおこしたこの騒動の実情を調査するためにこの年、手代や鉄砲隊の足軽を引き連れて、韮山を出発しています。

このころから、撃剣館で苦楽をともにした、斎藤弥九郎が英龍の手代(部下)として英龍を補佐するようになっており、江戸からやってきた弥九郎と英龍は厚木村(現神奈川県厚木市)で合流し、八王子から西へ向かって甲斐の国に極秘裏に潜入しました。

幸いなことに、甲斐国の騒動が拡大化することはありませんでしたが、翌年の1837年(天保8年)には、大阪で大塩平八郎の乱が起こり、その残党が甲斐国にも潜入したという情報も入ってきました。

そればかりでなく大塩平八郎自身が潜伏しているのではないかという噂もあったため、このときにも英龍と弥九郎は刀剣商の身なりで甲斐国や武蔵国、相模国などの管理地を調査したといいます。

結局大塩平八郎はその年大阪で自刃していますが、弥九郎だけはその一連の情勢を探りに大阪まで行っています。英龍はこの弥九郎からの報告とともに自らも「隠密」として諸国を調査した結果と合わせ、後日「甲州微行」という報告書をとりまとめ、幕府に提出しています。

こうした一連の調査行を通じて各国を旅することの多くなった英龍は、自らが管理する伊豆や駿河、相模国、武蔵国それぞれが海に面していることもあり、このころから頻繁に日本近海に現れる外国船のことについての情報を耳にすることも多くなっていきます。

そしてこの頃から、長い海岸線を持つ管理地の「海防」についても深く考えるようになります。もともと知識欲の旺盛だった英龍は、このころから、蘭学者の「幡崎鼎(はたざきかなえ)」などを通じて、西洋の情勢や軍事、海防関係の新知識の吸収に努めようとし始めました。

幡崎鼎は長崎出身で、シーボルト渡来当時、長崎出島のオランダ商館のオランダ人部屋付小者でしたが、シーボルト事件に連座して入牢。その後長崎から脱獄し、大阪に出て蘭学塾を開き、1834年(天保5年)ころから江戸に出て水戸藩に仕えるようになっていました。

江戸では高野長英らと共に渡辺崋山の蘭学研究を助けており、この関係から英龍も幡崎鼎を知るようになったようです。1837年(天保8年)に水戸藩の要請で長崎に出張。おたずね者となっている地を訪れる無神経さには舌を巻くほかありませんが、案の定正体が露顕して捕縛。江戸に護送され、再度幽閉されましたが、その4年後に獄死しています。

このころ水戸藩の藩主は、「烈公」と呼ばれた徳川斉昭であり、この人物は激烈な尊王攘夷家でした。このため、水戸藩士の多くも血の気の多い開国主義者が多く、その後、保守派の伊井直弼を桜田門外で暗殺したのもこの水戸藩の藩士を中心としたグループでした。

徳川家親藩の大名であるにもかかわらず、藩主自らが開国主義者であったことから、幡崎鼎のようなお尋ね者が頼ってきてもこれを拒むことをせず、逆にこれをかくまうような藩風があったようで、幕末にあって水戸藩は非常に特異な立場の藩でした。

烈公自らが「国民皆兵」路線を唱え、幕府の西洋近代兵器の国産化を推進するとともに、蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言するなど、その影響力は幕府のみならず全国に及びました。

しかし、のちの将軍継嗣問題において伊井直弼と争った結果破れ、幕府中枢から排除されるなど、晩年はその能力を発揮する機会が失われてしまいました。

とはいえ、開国をめざし西洋の知識を積極的に得ようとする若い学者を重用し、自らもまた蘭学を学ぶなど聡明な人物であったため、そのもとにはその後幕末に活躍する多くの人物が集まり、その彼らが維新を起こす原動力になり、またのちの明治政府を支えました。

英龍もその一人であり、同じ幕府直参の身であることから、烈公のお屋敷にもよく出入りしていたようです。先日書いたように勝海舟の氷川清話にも英龍が烈公に請われて酒の席で上手に琴を奏でたという逸話が残っているほどです。

モリソン号事件

さて、ずいぶんと余談が過ぎました。

このように西洋に関する知識を豊富に持っている人物たちから積極的にその知識を吸収した英龍は、それらの情報の分析の結果から、外国船が日本を攻めてくることになれば、現在の幕府の体制ではまったく対応できないことを知るようになります。

このため、その後積極的に幕府にその改善を進言するとともに、自らも洋式軍船や大砲の建造、守備設備(台場)の築造技術などの西洋軍事技術の導入について研究を重ねていくようになります。

一方では、「本職」である韮山代官としての施政の公正にも励み、幕末きっての農政家といわれた「二宮尊徳」などの意見をとりいれ、直轄地の農地改良などを行っています。

先日も書きましたが、日本に種痘の技術が伝わり、江戸でこれを知った英龍は、自領の領民への種痘の接種を推進したり、父が進めた商品作物の栽培技術をさらに向上させました。新田開発、河川・道路の改修土木工事の推進などにも余念がなく、こうした領民の生活の向上を積極的にはかった英龍を領民も強く愛し、「世直し江川大明神」とまで呼ぶようになりました。

こうした中、日本近海に外国船がしばしば現れるようになり、ときには薪水を求める事態も起こるようになってきます。鎖国政策をとっていた幕府は異国船打払令を制定し、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていましたが、ついに1837年(天保8年)、「モリソン号事件」のような外国人との「小競り合い」が発生します。

モリソン号事件とは、日本人漂流民7人を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件です。鹿児島湾と浦賀沖それぞれに現れたアメリカの商船の「モリソン号(Morrison)」に対し、薩摩藩と浦賀奉行所は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。

このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人が乗っており、この漂流民の送還と通商・布教のために来航していたのですが、砲撃が行われたとき、モリソン号は非武装でした。しかも、薩摩藩も浦賀奉行所もモリソン号はイギリスの船だと勘違いしていました。

モリソン号が実はアメリカの船であるという情報は、その後一年もたってから長崎に入港したオランダ船の乗員がもたらされ、長崎商館などの関係者を通じて幕府関係者にも伝えられました。

これを「尚歯会」を結成していた渡辺崋山や高野長英らが知り、どこの国の船ともわからずに砲撃を加えたことを批判。再度、モリソン号が漂流民を乗せて来航した時にどう対応するかについての質問状を幕府に提出したため、時の老中首座水野忠邦はその調査をするよう評定所に命じました。

その結果、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し、漂流民はオランダ船による送還のみ認め、今後ともアメリカ船の寄港は許可しないというものでした。しかし、渡辺崋山や高野長英をはじめとするその尚歯会の面々は、幕府の意向はあくまでも外国船の打ち払いにあり、と誤解してしまいます。

このことに特に渡辺崋山が憤慨し、幕府を批判する意見書「慎機論」を作り、提出しようとしました。が、直前になってその内容があまりにも過激であることに気付き、提出を思いとどまります。しかし、このときの一連の幕府批判の動きがその後の開国論者の大弾圧、「蛮社の獄」につながっていくことになります。

この事件は、英龍にも大きな衝撃を与えました。自らが代官として管轄する伊豆や相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海岸線にも同様に外国船が浸入してくる可能性があるためです。これらの中には海防上重要な地域も含まれていたことから、こうした問題にさらに大きな関心を寄せるとともに大きな危機感を持つようになります。

こうした時期に英龍は、同じ代官仲間で旗本の川路聖謨(かわじとしあきら)や羽倉簡堂(はくらかんどう)の紹介で、「尚歯会」の面々を知る事になります。

「尚歯会(しょうしかい)」は、蘭学や儒学者などの学者たちが集まって作った一種のサロンで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や蘭学者の吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成され、前述の渡辺崋山や高野長英らのほか、川路聖謨もメンバーでした。

川路聖謨は、江戸町奉行や勘定奉行を経て、のちに阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられた人物で、ペリー艦隊来航の際の対応を行い、その後の日露和親条約締結でも活躍した人物です。

英龍同様に幕末きっての名官吏といわれましたが、のちに大老に就任した伊井直弼が一橋派を排除したのに伴い左遷。のちに外国奉行として復帰しますが、明治維新を直前にした1868年(慶応4年)、病気を苦にして割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺しました。享年68。

このころ外国事情や西洋の技術に興味を持ち、尚歯会に加わりましたが、ちょうど同じ時期に英龍もそのメンバーとなりました。尚歯会の面々はその当時最新の西洋事情を知る識者ばかりでしたが、しかしその彼らでさえ、モリソン号はイギリス船であり英国要人が乗船していたと思い込んでいました。

ところが事件発生後一年も経ってそれがアメリカの商船で日本の漂流民を移送してきた船であったという事実を知り、自らが得ていた情報の不確かさに愕然とします。日本国民を救出してくれた船に砲撃を加えたというだけでなく、その相手が英国ではなくアメリカであったという事実誤認は、それだけで彼らの危機意識を高めるのに十分でした。

こうして、尚歯会のメンバーは、海防問題に関しては十分な情報を得る必要性を痛感するとともに、また海防のあり方についても大きな改革の必要性を強く感じるようになり、その考え方を幕府にも共有させるべきだと考えるようになっていきます。

高島流砲術

この当時、江戸を中心とする幕府の沿岸備砲は旧式のものばかりで、幕府のみならず多くの諸藩の砲術の技術も古来から伝わる和流砲術であり、建造された各地の砲台も古色蒼然としたものばかりでした。

こうした情勢の中において国防に強い危機感を感じていた尚歯会の面々は、洋学知識の積極的な導入を図り、英龍も彼らの中にあって積極的に知識の吸収を図ろうとしていました。

ちょうどそのころ、英龍と同様に自藩の三河国田原藩で海防問題を抱えていた渡辺崋山は、長崎で洋式砲術を学んだという「高島秋帆」の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かそうと考え始めるようになりました。

高島秋帆は、1798年(寛政10年)生まれで、渡辺崋山のほうが5才年長。英龍よりも3才年下の人物です。長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれ、その先祖は近江国高島郡 (現滋賀県琵琶湖西北部) 出身の武士でした。

長崎で育った秋帆は、頻繁にオランダの船が入港している様子を若いころから見ながら育っており、このため早くから出島のオランダ人からオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え、1834年(天保5年)、34才のときにこれらの技術を集大成した「高島流砲術」を完成させました。

この秋帆の技術はこのころ既に九州の諸藩において名高く、肥前佐賀藩の武雄領主、鍋島茂義などは自らが秋帆のもとに門下生として入門しています。高島流砲術が完成した翌1835年(天保6年)には、いち早く秋帆から免許皆伝を受けており、この記念のためか、秋帆自らが制作した第一号の大砲(青銅製モルチール砲)が佐賀藩に献上されています。

秋帆はのちに火砲の近代化を訴える「天保上書」という意見書を幕府に提出するなどしてこれを認められ、1841年(天保12年)には、武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なうなど、我が国初の近代的な砲術家として幕末にその名をとどろかせるようになっていきます。

江川英龍や渡辺崋山がこの高島秋帆と知り合うのはこの3~4年ほど前のことであり、その後、渡辺崋山の門下にあった、下曽根信敦(しもそねのぶあつ)とともに、長崎の秋帆のもとで洋式砲術を学ぶようになります。

下曽根信敦は、英龍より5才年少の1806年(文化3年)生まれ。幕臣で旗本の筒井政憲の次男で、同じく旗本の下曽根信親の養子となり、下曽根家を家督相続後、1835年(天保6年)に渡辺崋山の門人となりました。

後年、秋帆から西洋砲術を学んだ下曽根と英龍は、それぞれ自らが学んだ砲術を伝えるために「砲術塾」を設立していますが、下曽根と英龍の両方の塾とも、高島流砲術と西洋式兵制を学ぶために諸大名以下多くの門弟が集りました。この英龍が作った砲術塾が、のちの先日のブログでもとりあげた芝の「鉄砲調練所」の前身になります。

信敦はのちの1855年(安政2年)に幕府鉄砲頭に任命され、翌1856年(安政3年)には、新設の「講武所」の砲術師範、1863年(文久3年)には歩兵奉行に任じられるなど、幕府の軍事顧問としてその後も活躍しますが、維新後、明治7年(1874年)死去。享年69才でした。

こうして高島秋帆と知り合い、その西洋砲術を学ぶことで日本を変えていこうと意気さかんであった英龍と崋山でしたが、その二人の行く手を阻む大きな敵がこのころ現れます……(続く)。

韮山代官 ~旧韮山町(伊豆の国市)

昨日までの大型連休は、多少天気は不純でしたがそこそこ晴れ、伊豆の各地も観光客で賑わったようです。6日の土曜日に三島方面まで行く機会がありましたが、南へ向かう国道136号は他県ナンバーの車であふれていて、途中何ヶ所も渋滞していました。こういう風景をみると、ああ、伊豆の住人になったのだな、という実感がわいてきます。

伊豆の住民になったことを感じるもうひとつのことは、あちこちで頻繁に曼珠沙華を見ることです。東京でも見る機会はありましたが、田舎の伊豆ではもっと頻度が増えたように思います。

この曼珠沙華ですが、別名は「ヒガンバナ」ともいい、この呼称は毎年お彼岸のころから開花することに由来しているようです。花や茎、また根も強い毒性があるので、一説によると、これを食べたあとはもう「彼岸(あの世)」へ行くしかない、ということで、ヒガンバナと言われるようになったといいます。

ほかにもいろいろ呼び名があって、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、捨子花、はっかけばばあ、などなど、あまり良い印象を与えない名前ばかりです。地方によっては不吉な花として忌み嫌われることもあるそうですが、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも呼ばれ、これは「赤い天上の花」という意味で、仏様のおそばにあり、めでたい兆しの象徴とも考えられています。

毒性は強いものの、玉ねぎのような形をしたその根っこ(鱗茎といいます)は、デンプン質に富みます。その有毒成分である「リコリン」という物質は水に溶けやすいそうで、このため、長時間水にさらせば無害になり、食べられるみたいです。

古くから飢饉になったときには、「救飢植物」として食べることを目的として田んぼのあぜ道などに植えられていたということで、実際、戦中と戦後すぐの食糧事情が悪かったときには食用にされたといいます。

江戸時代には、有毒であるため「農産物ではない」とされ、年貢の対象外とされたため、万一の飢饉に備えて多くの農家が田畑や自宅の周り、お墓などに植えられるようになりました。

先日話題として取り上げた韮山の「江川邸」も周りを田んぼや畑に囲まれており、今あざやかな曼珠沙華に彩られています。

この江川邸の持ち主、「江川家」の歴代当主のうち、後年もっとも有名になった、江川英龍(ひでたつ)について、今日以降しばし話題にしていこうと思います。

多彩な才能

先日も書いたとおり、江川家では代々その当主を「太郎左衛門(たろうざえもん)」と称していたため、江川英龍も「江川太郎左衛門」と呼ばれることのほうが多いようです。しかし少々長ったらしいので、以下では単に「英龍」と呼ばせていただくことにしましょう。

江川英龍は早くから洋学を学び、その中でもとりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱くようになり、やがては近代的な軍隊や西洋砲術を日本に普及させるようになる人物です。

幕府の官僚であり技術者というイメージが強い英龍ですが、意外に知られていないのはその芸術的な才能です。

京都の宇治に「大国士豊」という土佐派の日本画家がいましたが、英龍ははじめこの人に絵を学び、後にはかの有名な「谷文晁」について絵を学び直しています。

一説によると、谷文晁は、老中の松平定信が1793年(寛政5年)に伊豆巡検に来た折に同行して江川家を訪れており、そのとき英龍の父英毅はこの文晁から絵の手ほどきを受けたといいます。このころ文晁が描いた作品に「久余探勝図」というものがありますが、これには伊豆各地の風景が鮮やかに描かれているそうです。

この伊豆訪問を契機として、江川家の当主、江川英毅は谷文晁と親しくなり、その後は韮山屋敷に何度も逗留して、息子の英龍にも絵を教えたと言われています

英龍はさらに後年江戸で「尚歯会(しょうしかい)」という蘭学や儒学者などの学者たちが集まって作った一種の勉強会に顔を出すようになりますが、このことがきっかけで、この会の主要メンバーでもあった「渡辺崋山」と知り合います。

渡辺崋山は、三河国の田原藩(現愛知県田原市東部)の藩士であり、長じてから同藩の重役に抜擢され、藩政改革でその手腕を発揮した人ですが、その改革においては自ら学んだ蘭学を生かし、近代的な農業や工業の技術を藩に導入し普及させました。

その生家は貧しく、子供のころから絵を描くのが得意だった崋山少年は生計を助けるために得意の絵を売って、生計を支えています。のちに谷文晁に入門した結果、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには著名な画家として知られるようになり、この絵の技術のおかげでその後の生活は苦労せずにすむようになりました。

同じく谷文晁に師事した英龍と崋山の二人はいわば兄弟弟子で、齢は崋山が英龍よりも8つも年上でした。その絵の腕前は師匠の文晁よりも上だったという評価もあり、英龍も自分より年下の崋山に師匠になってくれるように頼みこんでいます。しかし、崋山は師匠の手前もあったのでしょう、これを謝絶しています。

英龍は絵だけでなく、刀剣制作についても造詣が深かったようで、出羽国(現・秋田山形県)の名匠、「庄司直胤(なおたね)」に師事して自らその技法を学んでいます。また、同じく直胤門下の小駒宗太(おごまそうた)」という刀工を韮山の自宅に引き取って、そこで自分の刀を打たせています。

この小駒宗太という人物は、かなりの酒飲みだったらしく、そのために師匠の庄司直胤から破門されています。が、師匠の名の一字をもらい、「胤長(たねなが)」と称していたぐらいですから腕は確かだったらしく、彼が鍛えた刀の一本は今も伊豆に残り、静岡県の指定文化財に指定されています。

英龍がこのように、いろいろな技芸を学ぶことができたのは、父英毅(ひでたけ)から韮山代官職を継いだ年齢が34才と遅かったためでもあります。

1801年(享和元)、韮山代官であった、父英毅と母久子の次男として韮山で誕生した英龍は、幼名は「邦次郎」といい、上述のようにいろいろな芸事や基礎的な学問をしながら、物心がつくころまでは韮山の屋敷で何不自由なく育ったようです。

しかし、1818年(文政元年)、17才になった年、江戸で学問を修めるように父から命じられた英龍は、江戸では公儀の学問所、昌平黌(しょうへいこう)へ入学し、その儒官(総長)であった、美濃出身の高名な儒学者、「佐藤一斎」などから英才教育を受けるようになります。

このころの昌平黌は門下生3000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子の中には、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等などがおり、いずれも幕末に活躍した人材たちばかりです。

山田方谷はあまり知られていませんが、幕末に主国である松山藩の藩政改革で手腕を発揮するとともに、幕末にイギリス式の軍隊を整え、その混乱期を乗り切った人として知られています。

江戸での英龍はまた、幕末きっての書家であった「市川米庵(いちかわべいあん)」に書を習い、詩でも頼山陽と交流のあった「大窪詩仏(おおくぼしぶつ)」に師事し、もともと素養のあった絵画とともに、さらにその方面の才能を伸ばしています。

おそらくはこの時代にあって最高の教養人ばかりから教育を受けており、先日の当コラム「江川家のこと」の最後のほうでふれたように、琴などの楽器演奏もそうした教育を受ける傍らの「余業」として、これらの師匠の誰からか学んだものと考えられます。

このように、英龍はいろんな分野で技芸を学び、いずれの道でも一流を極めたため、その方面では彼の号である「坦庵(たんあん)」の名で呼ばれることも多いようです。地元の韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読み、現代でも「たんなんこう(坦庵公)」として親しまれています。

一方、江川家は、徳川家の天領地を管理する世襲代官職を奉じている以上、英龍も武士としてのたしなみは一般の旗本以上に厳しく求められました。このため、子供のころから剣術の手ほどきを父の英毅や他の郎党から受けていたと考えられます。

後年、17才で英龍が江戸へ出たころには、もうそれなりの剣の腕前を持っていたと思われますが、さらにその腕をあげるために剣術の師匠として仰いだのは「神道無念流」の正統な継承者として知られる、「岡田吉利(よしとし、通称、岡田十松)」でした。

吉利は、同じ神道無念流の師匠、戸賀崎暉芳(とがざきてるよし)に入門し、22才で免許皆伝を得ると、武者修行によって江戸中でその名をあげたつわもので、このころ、神田に「撃剣館」という道場を開いていました。

英龍はここに入門し、本格的な剣道を修業しはじめてから、わずか二年後には免許皆伝を受け、そののちには「撃剣館四天王」の一人に数えられるようにまでなりました。

同門には、水戸藩の政治学者「藤田東湖」や、のちに韮山代官所で英龍の部下となる「斎藤弥九郎」がいます。斎藤弥九郎は英龍よりも三才年下でしたが、撃剣館への入門は英龍よりも先である「兄弟子」であり、剣術の腕前も「江戸三剣客」の1人にも数えられるほどで、英龍を凌駕していたと思われます。

英龍が免許皆伝を受けたそのすぐあとに、師匠の吉利は病死しています。このため齋藤弥九郎が師範代となりますが、やがて独立して「練兵館」を立ち上げたとき、その厚い援助を行ったのは英龍とその父英毅だったといいます。弥九郎らが設立した練兵館は、その後、幕末江戸三大道場の一つとまでいわれるようになりました。

練兵館があったのは、現代の九段坂上、すなわち靖国神社境内です。ちなみに、この江戸三大道場は、この齋藤弥九郎の練兵館と、千葉周作の「玄武館」、そして桃井春蔵の「士学館」でした。それぞれ「技の千葉」、「位の桃井」、「力の齋藤」と称され、多くの門弟をかかえていましたが、その中から多くの幕末の志士を排出しています。

有名なところでは、坂本龍馬や清川八郎が玄武館で、武市半平太や上田馬之介などが士学館から排出されました。

齋藤弥九郎は、その後の英龍の生涯にわたって彼を支えました。後年、黒船が浦賀に来航したとき、幕府は英龍らに台場の築造を命じますが、品川に台場の築造が計画されると、弥九郎は江川の手代(部下)としてその指示に従い、実地測量や現場監督を行ったほか、湯島馬場で大砲の鋳造を行っています。

もともとは、越中国射水郡(現・富山県氷見市)の下級武士の長男として生まれ(1798年(寛政10年))、12才のとき、隣国の越中高岡に出て、油屋や薬屋の丁稚となりますが、思うところがあり、いったん帰郷。14才になったころ、わずか銀一分を持って江戸に出て、旗本屋敷に奉公します。

そして、昼は仕事、夜は勉強と努力し、やがて儒学者の古賀精里(こがせいり)などに儒学を学ぶようになり、幕府御家人で兵法家として高名だった平山行蔵(ひらやまこうぞう)には兵法を学び、さらには後年、英龍とともに西洋砲術の大家、高島秋帆(たかしましゅうはん)から砲術を教わりました。

前述のとおり、剣術の岡田門下では、神道無念流の第一人者といわれるようになり、ちょうどそのころ、入門してきた英龍と親しくなり、後年、公的には主従になりますが、私的には生涯の友ともいえる間柄になりました。

英龍は、このように江戸へ出てから文武両面にわたってありとあらゆる英才教育を受けるとともに、その過程において多くの先人や知己、そして弥九郎のような友人を得ます。幕末においてこれほど多様な人種と交流のあった人物もめずらしいのではないでしょうか。

無論、それは英龍が父親から継いだ代官職という仕事柄のためでもありましたが、そんな英龍が江川家の世襲職である「韮山代官」の職を継いだのは1835年(天保6年)、英龍が34歳の時のことでした。

韮山代官就任

父の英毅が長命だったため、それまで比較的悠々としていた生活を送っていた英龍ですが、その人生は父の死とともに大きく変わり、これ以降英龍が関わった歴史的な出来事については山ほどの史料が残っています。

反面、英龍が父のあとを継いで韮山代官になる前の生活についてはあまり資料が残っていないようです。

ただ、この年になるまでずっと江戸にいたわけではないようで、江戸と韮山の両方の代官所を年に何度も往復する父につき従って、その仕事内容の見習いをするとともに、ときには武者修行の旅にぶらりと出るということなどもあったようです。

代官に就任する以前の英龍について、はっきりしているものだけを順番にみていくと、まず1821年(文政4年)には、兄で長男の英虎が病死したため、英龍は20才で江川家を継承する嫡子となっています。またその二年後の1823年(文政6年)には、旗本の北条氏征(うじまさ)の娘と結婚しています(夫人の名前不詳)。

この北条氏征という人物がどういう人物だったのかはいくら調べても出てこないのでよくわかりません。しかし、北条早雲を祖とする後北条氏の末裔であったことは間違いないようです。また、英龍の奥さんになった人についてもあまり資料が出てきません。また詳しいことがわかったら、アップしたいと思います。

1824年(文政7年)、23才のとき、英龍は韮山代官職見習となり、このとき、将軍家斉に謁見しています。これ以降、江戸本所の韮山代官所へ出仕することが次第に多くなっていきますが、あいかわらず江戸と韮山の間を父に従って往復する習慣は続いていたようです。

1830年(天保元年)母の久子が病死。母久子からは、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」と「忍」の字をさとされ、以後英龍は「忍」の文字を書いた紙を常に懐中に携帯していたといいます。

父の英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培などによって自領の増収を実現するなど幕閣からも高い評価を得た人物でしたが、母久子が亡くなった4年後の1834年(天保5年)ついに亡くなります。65才でした。

英毅は、代官として管理している諸国の新田開発や、河川・道路の改修といった土木工事を積極的に行い、その父親の「英征」の時代の放漫財政を立て直したといいます。学問への関心が高く、杉田玄白、大田南畝、山東京伝、伊能忠敬、間宮林蔵といった有名人とも交流があり、とくに伊能忠敬や間宮林蔵とは親しかったようです。

このため海防に関する知識についても豊富であったといい、こうした英毅の知識がまた英龍にも受け継がれていったと考えられます。

地元の伊豆では、修善寺の熊坂の国学者で「竹村茂雄」という人物と交流し、国学や歌への関心も高かったといいます。竹村の提言により、狩野川の鯉の放流を許可したり、また漢学者の「秋山富南」からは、伊豆ではいまだかつて詳しい地誌が造られたことがないと聞き、その編さんを秋山に許可しました。

この秋山が書いた地誌は、「豆州志稿」と呼ばれ、今日、江戸時代後期の伊豆半島の様子を知ることのできる貴重な歴史資料となっています。

伊豆、韮山代官としての仕事としては、年貢の徴収、戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用などであり、行政・司法・警察・金融と、現在の市役所と警察署、そして銀行が行っていたような役務のほとんどすべてを担当していました。

こうして英毅が代官として治世を行った幕府領の農商工の生産性は着実にあがり、このため代官就任時の直轄地の石高は5万余石ほどでしたが、亡くなる前には7万石を超えるまでになっていました。

英毅が亡くなった翌年の1835年(天保6年)、ついに34才にして英龍は韮山代官に昇進し、父の英毅が豊かにした、伊豆、駿河、相模、武蔵国の各地を管理する主となりました。幕末においてもっとも有能な官吏としてようやくその歴史の表舞台に登場するようになるのです(続く……)。