塔のはなし

週末の昨日は、愛妻のタエさんのお誕生日でした。なので、「山の神供養」ということで、お昼から外出し、おしゃれなランチを食べたあとお買いもの……というパターンで、財布の中身は「終末」の一日でもありました。

とはいえ、師走の町は賑やかで、いつもはひっそりと山の上で暮らす身にとっては、久々の良い刺激になりました。今日からは三連休ということでもあり、その前日ということもあってか、いつも平日には人の少ない三島のショッピングセンター「SUN TO MOON」も普段よりも人の出が多かったようです。

明日23日は天皇誕生日で、天皇陛下ももう79才になられます。「今上天皇」という呼びかたもあるようですが、これは「在位中の天皇」を意味する用語だそうで、恥ずかしながらこのことを私は知りませんでした。

ただ、「今上天皇」というのは正式な敬称ではないそうで、諸外国の国王・女王などもそうですが、一般的には「陛下」のほうが正式な呼称で、皇室典範でもそう規定されているということです。

従って、正しい敬称は、「今上陛下」または「天皇陛下」であり、多少公的ではない場所では、陛下もしくは、聖上と呼ばれ、古い表現では帝、天子様と呼ばれたようです。

このように天皇にいろんな呼称がある理由としては、そもそも日本や唐以前の中国では、敬意を示すものについてはっきりした言い方を持たない文化があり、当代の天皇の呼称もあまりはっきりしたものがなかったためのようです。

しかし、大正天皇や昭和天皇などの過去の天皇と並べて表記したい場合には「今上陛下」では座りがわるく、「今上天皇」とすると並列したときに客観的な表現に感じられるため、新聞雑誌やテレビなどのメディアではこちらが使われる頻度が高くなったということです。

なお、皇室典範でも「陛下」のほうが正式になっていることから、皇室関係者自らが「天皇」と呼称することは少ないそうで、皇后美智子さまも公の場を中心として「今上陛下」、「陛下」と呼ばれることが多いということです。

さて、この12月23日は天皇誕生日であるとともに、1958年に東京タワーが完成した祝いの式典があった日で、東京タワーが完成した日ということにもなっています。

その高さ333mは、無論、現スカイツリーが完成するまでは日本で最も高い建築物であり、この当時の費用で約30億円をかけ、一年半の間に延べ22万人もの人員を要して完成された本邦一の塔でした。

ところで、この「塔」とは、本来は西洋建築における見張り台のような軍事的目的の構造物や宗教的な意味を持たせるために造られた建造物を指す用語であり、日本では江戸時代までは仏教の構造物のみを指して使用されていました。

五重塔や多宝塔などがそれであり、そもそもは仏教用語でしたが、明治以降は西洋建築物、すなわち英語で言うところの tower の概念も「塔」に含まれるようになり、様々な高構造物に対して使用されます。ただし、この言葉の用法に厳密な定義が存在するわけではありません。

塔のほかにも、「超高層建築物(超高層ビル)」という用語がありますが、こちらも、どの程度の高さ以上の建築物を超高層ビルと呼ぶかについては、統一された明確な基準はありません。「広辞苑」でも、「15階以上、または、100m以上の高さの建築物を超高層建築と呼ぶことが多い」としているだけです。

従って、日本初の超高層ビルとされるのは霞が関ビルディング(147m)やこれ以前に最も高い建築物であったホテルニューオータニ(73m)なども、竣工当時には超高層ビルとは呼ばれてはいませんでした。

法律でも「超高層建築物」の定義はないということですが、ただ、「建築基準法」では高さが60mを超える建築物に対しては、それ以下のものと異なる構造基準が設定されています。そして一応、「60m」という高さが、超高層建築物と呼ばれるものとそうでないものの境界となっているようです。

このため、超高層ビル群の多い新宿区でも、「新宿区景観形成ガイドライン」の中で「超高層ビル」の対象を「高さ60mを超える建築物」としているということです。

ちなみに、現在日本で一番背の高い超高層ビルは、横浜ランドタワーの296mで、これに次ぐのが大阪の「りんくうゲートタワービル」の256mです。いずれも東京タワーには及ばず、またスカイツリーと比べてもその高さは大きく引き離されています。

この「塔」という言葉ですが、そもそもはインドのサンスクリット(梵語)の「stūpa(ストゥーパ)」が語源で、ももともとは「…を積み上げる、蓄積する」という意味だったようです。古代インド仏教において、饅頭(まんじゅう)型に盛り上げた土塚状の墓のことを指すことばだったようで、仏教が日本に伝来してからは「卒塔婆」のことをさすようになったようです。

stūpa は中国で「窣堵坡」とその音がそのまま漢訳され、これが日本では「卒塔婆」と書かれるようになりました。やがて、この「卒」と「婆」が抜けて単独に「塔」と呼ぶようになりましたが、そもそものその発祥の意味からすると、「塔」とは「仏塔」をさす用語になります。

こうしたstūpa(仏塔)を造るという習俗は、初期の仏教において、釈迦やそのほかの聖者のゆかりの品や舎利、すなわち遺骨や遺髪、歯などを、聖なる記念品や遺品・遺物として土中に埋め、盛り土したことに始まります。

当初の仏塔は盛り土の上を日干し煉瓦で囲っただけの建造物だったそうで、釈迦の存命中、最初のストゥーパがインドに造られていたということが、日本の古い宗教書「十誦律」に記されているということです。

これを造ったのは、釈迦の弟子のスダッタ(Sudatta シュダッタ)で、この人はインドのコーサラ国の富豪だったそうですが、その富を捨てて釈迦に弟子入りしたあと、釈迦にその説法場所として「祇園精舎」という寺院を建立して寄進したことで知られています。

釈迦が諸国を遊行して説法をして回っている間は、釈迦に接することができなくなると嘆き、せめて身近に縁の物を置かせてほしいと願い出て釈迦の爪と髪を授かり、これらを納めたのが「ストゥーパ」であり、このため、爪塔・髪塔とも呼ばれたということです。

また、釈迦が入滅したのち、その遺骨の所有を巡って弟子たちの間で争いが起こりましたが、その弟子の一人のドローナ(ドーナ)という僧が他の弟子を仲介し武力衝突は回避されたそうで、これによって遺骨は8つに分けられることになりました。

その遺骨の分配の席では、この武力闘争に参加しなかったもう一人の弟子に釈迦の遺灰が譲られたということで、分配者ドローナには分配に用いた瓶が与えられました。このため釈迦の8つの遺骨と合わせて全部で10のストゥーパが、最初の「仏舎利塔」として各地に建てられることとなりました。

それから200年ほどが経ったあと、敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王がインド統一を果たし、このとき、全国8個所に奉納されていた仏舎利のうちの7か所の仏舎利を発掘しました。

そして、遺骨は細かく粉砕しひと粒ひと粒に分け、灰塵は微量ずつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施しました。

しかし、仏教の伝来国である中国や日本にまでこの本物の仏舎利が渡るわけはなく、中国では多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利の収められたストゥーパの前で供養した宝石類を「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自寺の仏塔に納めました。

これは日本も同じであり、供養した宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきました。

こうして、東アジアを中心に、こうした仏舎利塔を元祖とする仏塔が各地で造られるようになり、中国では三世紀頃の三国時代から仏塔が造られはじめました。ただ、中国では中国古来の楼閣建築の影響を受けて、インドのストゥーパとは異なり、重層な高層建築物として仏塔が建てられるようになりました。

この中国で造られた仏塔の様式は、その強い影響下にあった東アジア文化圏の朝鮮や日本にも伝えられましたが、その外観はそれぞれの文化の元に変わっていき、中国オリジナルものもとはまた別のものになっていきました。ただ、遺物を納める「器」としての仏塔の位置づけは踏襲されました。

日本でもその仏塔の様式に中国の影響を強く受ました。ただ、日本様式の仏塔は、元来のストゥーパ同様に経文などの聖なる品を納める小さな塔もあれば、楼閣様の独特の塔も造られ、これらの塔は必ずしも中国のような重層建築物ばかりというわけではありませんでした。

一方、タイやインドネシアなどの東南アジア文化圏では、元来のストゥーパの形状がほぼ忠実に引き継がれ、その後の中世時代には「石造」の仏塔が多く造られるようになり、比較的原形に近い「パゴダの様式」と呼ばれる仏塔になっていきました。

ただし、このパゴダは、中国や日本の仏塔が遺物を納める「器」であったのに対し、釈迦が住む「家屋」として受け継がれ、信者が出入りする建築物に変化しました。しかし、これを誤解した西洋人は、パゴダこそが本来の「仏塔」と考えたため、英語では「仏塔」を指す用語が pagoda になっています。

ちなみに、仏教文化圏以外の地域、すなわち、中近東や欧米、古代アメリカなどでの「塔」は、見張り台などの軍事目的の建造物や宗教的建造物であり、「地上と天上を結ぶ象徴」としてのモニュメントのような意味合いを持つものとして発展してきました。

したがって、単なる高い建物というわけではなく、人を天上へと運ぶというような意味があり、こうしたものを英語では tower というようになりました。軍事目的であれ宗教目的であれ、人が立ち入ることを前提する構造物であり、このため、これ以外の目的を満たすために高くなった構造物、例えば「煙突」は tower(塔)とは呼ばれません。

さて、こうして日本にも仏塔が伝来しましたが、日本にはその前からそもそも古神道において「神霊」が宿るとされる山や森の領域を信仰する風習があり、森林や神木、鎮守の森や神体山、あるいは特徴的な岩や滝などを崇拝し、ここに石碑のようなものを建てる「石塚信仰」がありました。

そして、こうして神道で崇められていた石塚などが仏塔と結びつき、神々を祀る「供養塔」となっていきました。「供養」ということばはそもそも仏教用語でしたが、日本古来のこうした神仏を祀る行為と結びつき、神道でもこの行為が「供養」と呼ばれるようになりました。

こうした供養塔は、後年亡くなった人の「墓」を意味するようにもなりましたが、本来は山や森などの自然に対して祈念や祈願を行い、「そこに宿る命」が荒ぶる神にならぬように、慰霊や鎮魂として祀ったものでした。

こうした供養塔の中には、仏教寺の五重塔などを模したものもありましたが、当初はただ単に石を積み上げたり、石版状のものを立てたりするだけのものが多かったようです。そしてこの塔の前に食料として捕獲した魚や鯨などの獲物のほか、包丁や人形などの器物、道具などをお供えし、森羅万象に命が宿るとされる神々を崇めたてました。

一方、こうした神道と結びついた供養塔とは別に、「塔」という用語を単独で使う場合、これは仏教寺の「仏塔」を指す言葉として使用されていきました。したがってたとえば吉野ヶ里遺跡で再現されたような古代の櫓や中世の城郭建築に見られる天守などを「塔」と呼ぶことはありませんでした。

この風習は、江戸時代まで続きました。しかし、明治以降に西洋文明が日本に入ってきたとき、背の高い西洋建築物を指す用語のtower に該当する適当な日本語がみつからなかったことから、この訳語として仏教で使われていた「塔」の文字がそのまま使われるようになってしまいました。

この結果、現在までのように背の高い構造物はすべて「塔」と呼ばれるようになり、電波送信の高いアンテナや送電のための構造物などには「塔」の字があてられるようになりました。しかし、前述のように「塔」の対訳英語である towerの意味は本来、人の出入りができる軍事的、あるいは宗教的な構造物です。

したがって、現在我々が「塔」と呼んでいる電波塔などは、人の出入りできるような構造物ばかりではなく、ましてや江戸時代までの本来の「塔」である仏塔でもないため、厳密的には tower とも「塔」とも呼ばれるべきではありません。

ただ、東京タワーやスカイツリーは、電波塔ではあるものの実際には人が出入りする建造物であるため、towerと呼んでも差し支えないことになります。しかし、軍事的・宗教的構造物でもなく、このあたり「塔」といえども、実にカテゴライズしづらい構造物です。

ちなみに、塔をかぞえるときには、「基」や「層」を使いますがこれも仏塔由来と考えられます。電波塔の場合、「基」は使うことがあるかもしれませんが、「層」は使いません。このことからも電波塔は、日本本来の「塔」を意味するものではありません。

日本に伝播した本来の「塔」すなわち「仏塔」は、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無縫塔(むほうとう)などのように、墓塔・供養塔などに使われる小型のものが多く、石造や青銅製のものがほとんどです。

こうした小型の塔の形は時代の変遷を経て大きく変わったものの、釈迦のお墓であったストゥーパとその意味は変わっておらず先人を供養するためのものであり、日本でも貴人といわれるような人の死後、これを供養するためにその信奉者によって立てられたものが多いようです。

一方、大きい物では層塔・多重塔と呼ばれるものも数多く建築されており、2階建て以上の大規模な仏塔が各地に建造されています。

日本では、各地の仏教寺院や神社などに木造の五重塔や三重塔があり、地区のランドマークとなっているものも多いようです。木造塔のほか、石、瓦、鉄製の塔もあり、近代以降は鉄筋コンクリート造の塔もあります。

古い時代に建造され、現存するものには三重塔・五重塔などが多く、多層塔としてはほかにも十三重塔や九重塔がありますが、木造の九重塔の現存するものはありません。

ただ、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)には木造の十三重塔が残されています。ただし、これは楼閣形の塔ではなく、二重から十三重までの屋根は密に重なっていて、屋根と屋根の間にはほとんど空間がありません。

ちなみに、談山神社は今は神社になっていますが、神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といいました。鎌倉時代に成立したお寺さんで、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後、その長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したものです。

中国の層塔は最上階まで登れるものが多いのに対し、こうした日本の木造多重塔、とくに五重塔は、現代の建築物のような五階建ではなく、内部は軒を支えるために複雑に木組みがなされています。これは耐震性を強化するための知恵であり、この構造のために普通は上層に登ることはできません。

この点、同じ宗教上の構造物として建てられた西洋のtowerが建物内に入れるのと対照的です。ただし、内部にはしごを有していて登ることができる塔もあるにはあるということです。が、そもそもこうした仏塔が高層化したのは、境内に入れない一般の人々が離れた場所から参拝できるようにという配慮からのようです。

現在では宗教と関係なく建てられた観光用のものもあり、こうした近代の建築技術を使った塔では上部まで登れるものも多いようです

なお、層塔と呼ばれるものには、「多重塔」と「多宝塔」の二つの様式があります。多重塔とは、三重塔や五重塔に代表されるもので、平面上から見て四方形(円形や多角形もある)の空間を何層にも重ねたもので、その源流は、中国の楼閣であると考えられています。

一方、多宝塔は本来、多宝如来と釈迦如来の2つの仏像を安置した塔のことです。通常、一層目が方形で、二層目が円形をした二層形式のものが一般的ですが、その外観は一定していません。また、木造の他に長野の常楽寺多宝塔などのように石造の多宝塔も存在します。

さて、今日の塔の話は、これくらいにしたいと思います。海外の塔の話もしようかと思いましたが、とんでもなく長くなりそうなので、またの機会にしたいと思います。

ちなみに、ヨーロッパで過去に造られた最大の塔は、エッフェル塔のような近代構造物をのぞけば、世界の七不思議にも数えられるアレクサンドリアの大灯台ではないかと思われます。

昨日のブログのテーマ「アンティキティラ島の機械」と同様に紀元前に造られたそうで、灯台の全高は約134mもあり、大理石造りだったということです。1650年余もの長いあいだ地中海に臨む一大建築物であったといいますが、14世紀に2度の地震に遭って崩壊したそうです。

こうした塔を初めとして、ヨーロッパ各地には探訪してみたい魅力的な塔がたくさんあります。以前私も訪れたことのあるスペインのサグラダ・ファミリアもそのひとつです。こうした美しいヨーロッパの建築物のエピソードなどもいずれ折を見てこのブログで取り上げてみたいと思います。

さて、今日を含めて三連休という方も多いと思います。この休みを利用してスカイツリーに上るという方もおられるのではないでしょうか。もしかしたら、明日は東京タワーの完成記念日ということでこちらに上る方もいるかもしれません。

あるいは、古都を訪れ、五重塔や三重塔を拝観される方も。いずれにせよ、高いところに登るのは気持ちの良いものです。伊豆には高い塔はないようですが、高い山はありますので、明日以降、天気が良ければも登ってみたいと思います。皆様方も良い連休をお過ごしください。

アンティキティラの機械

先日、NHKのBS放送の録画をみていました。このブログでも時々引用する「コズミックフロント」という番組ですが、最新の宇宙科学を素人にもわかりやすく解説してくれており、なかなかのお気に入りです。

私が見たのは、「アンティキティラ島の機械」と呼ばれるものに関するもので、この機械は、長い間、ギリシャ沖のクレタ島の近くの海底に沈んでいましたが、1901年に古代の難破船の積み荷が発見され、様々な財宝と共に海綿採集者の手で引き揚げられました。

今からもう100年以上も前の話です。現代よりも当然科学は遅れており、この当時の人は大昔のからくり玩具程度のものと思っており、その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがなかったそうです。

作られた時期が紀元前150~100年ころだということだけはその後しばらくしてわかったようですが、これと同じような複雑さを持った技術工芸品は、その後何百年も造られておらず、当初は本当にこれがそんな昔に作られたものかどうかが疑われたといいます。

何等かの複雑な機械らしいことは想像できましたが、それが何のために作られたかは長い間解明されず、発見から1世紀近くもの間、科学界の謎とされていたそうで、これがようやく何であるかが解明されたのは、ガンマ線やX線を用いた分析装置やリニア断層撮影装置などの最新の3D技術のおかげでした。

これらの最新の科学分析技術によって腐食し石化の進んだこの機械を調べたところ、これは実は最古の複雑な科学計算機であることがわかりました。多くの歯車が組み合わさっていることがわかったことから最古のアナログコンピュータとも呼ばれていましたが、その謎がようやく解明されたのは2006年11月のことだそうです。

問題は何に使ったのかで、多くの学者によってその制作目的が調査されましたが、結論として、機械の表面に書かれてあった文字などの分析からこれは天体運行を計算するために作られた古代ギリシアの歯車式機械であることが判明しました。

ギリシャの天文学者らにより進められた天文学と数学の理論に基づいて製作されたのではないかと推察されましたが、誰がいったいこうした精巧な機械を作ったかについてはいろんな議論が交わされました。

ひとつの仮説として、古代ギリシアにストア派という哲学研究の一派がありましたが、その一人の哲学者に「ポセイドニオス」という人がいました。

紀元前95年にエーゲ海南部のロドス島(現ギリシャ)に移り住み、哲学者であっただけでなく、政治家、天文学者、地理学者、歴史家、教師でもあり、とくに科学の研究で高い評価を得ており、この時代の最高かつ万能の知識人であったといわれています。

ロドス島から何度か科学研究のための海外旅行を行い、旅行した場所にはギリシャ、イスパニア、イタリア、シシリーなどの地中海沿岸だけでなく、現在のクロアチアであるダルマチアや現フランス・ベルギー・スイスとなったガリアやリグーリア、更には北アフリカ、アラビアの東海岸にまで足を延ばしました。

そしてイスパニア(スペイン)では潮の干満を研究し、その原因が月の運動にあることを発見したほか、天文学の分野では太陽の距離と大きさを測定し、また月までの距離の測定も行いました。

地理学の分野においてもアレクサンドリア(エジプト)とロドス島間の緯度差を高い精度で測定しており、船の速度と航海の期間などから、地球の全周長まで推定しています。

こうした様々な分野において膨大な著作をおこなったといわれていますが、現在はその断片しか伝わっておらず、古代ギリシア・ローマ時代の最大の天才といわれながらもその業績はいまひとつはっきりしていません。

しかし、共和政ローマ期の政治家、文筆家、哲学者であったキケロ(BC106~43年)が、ポセイドニオスは太陽や月や惑星の位置をしめす器具を組み立てたという記述を残しており、これが、このアンティキティラ島の機械と呼ばれる装置か、あるいはその原型になったものではないか、とする研究者が多いといいます。

また、ポセイドニオスと同時代の同じくギリシャ人の天文学者に「ヒッパルコス」という人がいましたが、この人は天空の46星座を決定した人として知られ、また恒星を1等星から6等星までの6段階に分け、世界で初めて三角法による測量を行ったことでも知られています。

アンティキティラ島の機械を詳しく調べたところ、月の運行の計算技術にこのヒッパルコスの理論が用いられていることがわかったそうで、このため、おそらくはポセイドニオスかヒッパルコスのどちらか、または両方が製作に関わっていたのではないかともとみられています。

この当時、ロドス島には天文学と数学の中心として知られていたアカデミーが設立されていたそうで、この機械はそこで製作されたものと考えられており、その指導者がこの二人ではなかったかと研究者たちは言っています。

機械が積まれていた船が沈没した地点は、ギリシャ沖のクレタ島付近であり、研究者たちは、この当時のローマ帝国の将軍ジュリアス・シーザーがこの地を征服した際にその凱旋式を称えるため、この機械をこの島から略奪されたその他の財宝と共に船でローマに運ぶ途中、その船が沈没したのではないかと考えています。

地図をみないとわかりにくいのですが、ギリシャのアテネより約80kmほど南西に行ったところにコリントスという町があります。ちょうどペレポネソス半島とギリシャ本土との間の狭い「陸峡」付近にある都市です。

アンティキティラ島の機械は、ここから貨物船に載せられて、ローマへ運ばれる途中だったのではないかといわれており、その運搬に至る経緯は不明ですが、学者たちの共通見解としてはこの機械自身はギリシャで作られたことは間違いないということです。

すべての使用説明はコイネーとう現代ギリシャ語の元になった言語で書かれており、これが根拠となっているようです。

紀元前150~100年ころのギリシャは、その基礎となったマケドニア王国が滅亡すると内紛と分裂を繰り返し、古代ローマの侵略を受けてその多くの地域がローマの属州のような状態になっていました。

こうしたこの混乱の中で、ポセイドニオスやヒッパルコス以上に高名な学者のアルキメデスもローマ軍に蹂躙されて殺されています。

アルキメデスが住んでいたシラクサは、イタリア半島南部のシチリア島にあります。もともとはギリシャ人が開拓した島です。

アルキメデスの時代には、アフリカ東部の国のカルタゴの侵略を受け、シラクサのある島東部を残してギリシア人とカルタゴ人が対峙するような状態になっていましたが、ここにローマ軍が乱入。そのさなかにアルキメデスも殺害されました。

ポセイドニオスやヒッパルコスやアルキメデスは、住んでいた場所こそは違いましたが同じギリシャ人ということになりますが、このローマ人に殺されたアルキメデスもこのアンティキティラ島の機械の開発と何等かの関わりがあったのではないかと言われています。

2008年に発行されたイギリスの科学雑誌ネイチャーで発表されたアンティキティラ島の機械研究プロジェクトの最新報告では、この機械の概念はこの当時ローマの植民地になりつつあったシラクサに住んでいたアルキメデスとも関係があると考えられると発表しています。

その根拠としては、前述のキケロが記した哲学対話集「国家論」という書物に、太陽、月、その他当時知られていた5つの惑星の動きを予測する2つの装置についての記述があり、これは、アルキメデスにより作られたことが確認されているためです。

紀元前212年にシラクサがローマ人に包囲されて彼が死んだのち、この機械はローマの将軍マルケッルスによって、ローマに運ばれました。マルケッルスはアルキメデスに敬意を表し、この機械をマルケッルス家の家宝としたそうで、ある知人に機械について「覚えた説明」を語り、実際に機械を動かして見せた、と言われています。

このため、学者の間には、少なくとも一つ以上のアルキメデスの機械がおよそ紀元前150年の時点まで機能しており、そしてその機械は、おそらくかなりアンティキティラ島の機械と似ていたのではないかと指摘しています。

気になるこの機械の構造ですが、凝縮されたその形状や部品の複雑さはとても紀元前のものとは思えないほどであり、18世紀の時計と比較しても遜色ない程だそうです。30以上の歯車を持ち、歯車の歯は正三角形で、クランクを回転させると機構が太陽、月やその他の天体の位置を計算することができます。

機械の目的が地上にいる観測者を基準とした天球上での天体の位置計算であるため、当然のことながら天動説モデルが採用されています。装置には主な表示盤が3つあり、1つは前面に、2つは背面にあります。

前面の表示盤には2つの同心円状の目盛が刻まれていて、このひとつは365日のエジプト式カレンダーを表示し、もうひとつにはギリシャの黄道十二星座の記号が刻まれています。この前面の表示盤には3つの針があり、1つは日付、残りは太陽と月の位置を示しており、月の表示針を動かして月と太陽との角度が求められと同時に、太陽のほうを動かしても月との角度が表示できます。

このほか、機械に刻まれた文字には火星と水星に関する記述があり、はっきりしたことはわからないようですが、こうした惑星の位置を示すこともできたのではないかと推定されており、おそらくは主要な5惑星全ての位置を表せたのではないかといわれています。

背後にある表示板のほうの目盛は螺旋状に配置されていて、19年周期で235回の月の朔望を表現するために1周47目盛りが刻まれています。この周期は年々微妙にずれていくため、これを修正するための目盛も付加されているそうで、さらにもうひとつの表示盤で日食や月食が起こる日も予測できます。

英国、ギリシャ、米国からの専門家から成る、アンティキティラの機械研究プロジェクトチームは、2008年の7月にこの機械の青銅の表示盤上に「Olimpia」の文字を発見しましたが、これは古代ギリシャのオリンピックの開催日を示すと考えられました。

さらにこの表示盤の4区画には年を表す数字と二つの競技祭典の名が刻まれていたそうで、これは古代ギリシャの全国的な競技祭典の名前だったそうです。

このため、この機械は日蝕や月食といった天体現象を予測や占星術といった目的のために使われる以外に、この当時の大学や寺院、博物館や公会堂といった一般市民が集まるところで展示されて、一般向けに公開されていたのではないかという意見があります。

しかし、展示用としては小さすぎるのではないかとい意見もあり、現代のラップトップコンピューターのような小型化を目指していたのではないかという学者もいます。

現在までのところ、前後の表示盤は公共の場での表示するには小さすぎるのではないかという意見が大勢を占め、公共の場所に固定されて展示されていたというよりも、携帯性を追求していたのではないかという意見のほうが強いようです。

機械には扉のような板が付属しており、そこには少なくとも2000以上の文字が刻まれていたらしいことから、この板は取扱説明書ではなかったかとも言われており、機械に説明書がきちんと付随しているということは、この機械が個人用の携帯機器であると主張する学者もいます。

さらにこの機械は非専門家の旅行者のために作られたのではないかと推測している学者もおり、その根拠は、「説明書」の文章の中によく知られた地中海沿岸の地名が数多く判読されていることをあげています。

それにしても、これほどすごい機械が何故その後の世に伝承されなかったのでしょうか。これと同じもの、あるいはこれ以上のものは、現物があったのであればこれを見本として開発されてもおかしくなかったのではないかと思われます。

その答えのひとつは、こうした優れた古代ギリシアの発明品の品々、すなわちハードとは異なり、アルキメデスらの優れた学者が編み出した数学などの多くの科学技術そのもの、つまりはソフトが、その後のローマ時代以降には正しく伝承されなかったことが考えられます

アルキメデスは、エジプトの大都市アレクサンドリアの学者などと交流が深かったといいますが、アルキメデスからアレクサンドリアに伝わった数学などの学問はその多くがアルキメデスの文章を引用していたにも関わらず、包括的にはまとめられていなかったということです。ようするにそれを理解できるだけの優れた学者がいなかったのです。

ギリシャの国々を滅ぼしたローマ人たちも同様であり、ギリシャ人の優れた発明の数々を没収しておきながら、ついにはそれを生かしきれなかったものと考えられます。

アルキメデスの業績はその後、東ローマ帝国の数学者で建築家のミレトスが、530年に編集し、6世紀には広くその内容が一般に知られるようになりましたが、これらもまた中世までに廃れてしまいました。

その後、14~16世紀のルネサンス期になって、ようやく多くの科学者の目に触れるようになり、その発想の元を提供する役目を持つようになりました。

その後1906年には、アルキメデスがこれらの数学理論を羊皮紙に書いた「アルキメデス・パリンプセプト」が発見されたことから、彼が得た数学的帰結や知られていなかった洞察の過程についての情報が広く一般に知られるようになりました。

しかし、このときにはもうアンティキティラの機械が発明されてからは2000年近い月日が経っていたわけです。

よく歴史に「もしも」は禁物といわれますが、もしアホなローマ人が聡明なギリシャ人たちを駆逐しなければ、あるいは迫害したとしてもその学問を理解するだけの能力があれば、この古代ギリシャの優れたラップトップコンピュータは更なる発展を遂げ、現代人は今よりもはるかに高度な文明を持っていたかもしれません。

このアンティキティラ島の機械に関して、最新の研究を指導しているイギリスのカーディフ大学のマイケル・エドマンド教授は、この装置の価値について、こうした科学技術的な価値以上に、美術品としての価値に言及しています。

「歴史的にまた希少価値から見て、私はこの機械はモナ・リザよりも価値があると言わねばならない」とまで言っているそうですが、実際の美術評論家からみてどうなのかも聞いてみたいところです。

が、私もネットの写真を見る限りは美しい機械だという印象を持ちました。優れた機能を持つものは必然として優れた外観を持つものだ、ということはよく言われます。

我々日本人もまたこうした優れた精密機械を数多く造ってきた民族として知られています。長引く不況や災害に見舞われ、今はあまり元気がありませんが、その技術の発揚はいずれまた自らを救っていくだろう……そう信じたいところです。

ただ、そのときかつてのギリシャ人を滅ぼしたローマ人のような仇敵が日本人の前にも現れないことを祈りたいものです。

果無と一本だたら


今年もあと10日あまりとなりました。年賀状も書かなきゃ、大掃除もしなければと思うのですが、いまひとつ積極的に動こうという気になりません。気温が低いので寒い思いをしたくないというのが先にたつからでしょうが、このあたりワニやカメとあまり変わりありません。

なのに鳥たちは元気です。なんでこの寒いのに飛び回れるのでしょうか。あちこち飛び回らないとエサにありつけないからかも。それは一理ありそうです。積極的に行動しないと、この時期には昆虫などはそうそう見つかりませんから。

で、あるならばカメ変じて鳥になるためには、おなかをすかせばいいのかも。腹が減っても料理をするのは面倒なので、外食が増える→ 行動的になる。この図式でいきましょう。しかし外出ばかりしていては大掃除はできそうもありませんが……

とはいえ、今日12月20日は、「果ての二十日」という「忌み日」だそうで、この日にはそもそも外出や仕事を避けるべき日なのだそうです。

なぜ?と思って調べてみると、どうやらこの日には「一本踏鞴(いっぽんだたら)」という妖怪が出るとされている日だからだそうです。日本に古来から伝わる妖怪の一種で、和歌山県の熊野の山中などに棲み、一つ目で一本足の姿をしているということです。が、他の地方にも出没し、これはまた違う姿をしているらしいです。

それにしてもなぜ12月20日なの?というところを調べてみたのですが、どうもその理由はよくわかりません。

ただ、この一本だたらの伝説は紀伊半島に多いらしく、その中でも、奈良県の伯母ヶ峰山というところに、猪笹王(いのささおう)という鬼神がいたという伝説があり、この中に具体的な日にちが出てくるようです。

この鬼神も一本足で、背中に熊笹の生えた大イノシシの姿をしているそうで、もともとはイノシシだったものが大悪さをするので、地元の狩人に撃ち倒されといいます。ただし、同じ奈良県でも川上村の猪笹王の前身はイノシシではなく老いたネコとされているということです。

伯母ヶ峰山の猪笹王のほうは、里の人に殺されたことを恨んで亡霊となったもので、一本足の鬼の姿になって峰を旅する人々を襲っていました。

ところが、あるとき、丹誠上人という高僧によってその悪事が封印され、凶行はおさまりました。しかし封印の条件として年に一度、12月20日だけは猪笹王を解放することを条件としたため、このことからこの日が「峰の厄日」という厄日に指定されたというのです。

無論、伝説の世界の話であり、だからなんで12月20日なの?という答えにもなっていないのですが、所詮はおとぎ話の世界の話なので日にちの件はこれ以上突っ込むのはやめにしましょう。

この一本足の妖怪の話は、すぐ近くの和歌山と奈良県の境にある、「果無山脈」というところにも残っています。「果無」は「はてなし」と読みます。こちらに出る一本だたらは、皿のような目を持つ一本足の妖怪で、これも12月20日にのみ現れるといいます。

この「果無」という地名をとって「果ての二十日」という言葉がでてきたのではないかとする説もあるようで、だとするとこちらのほうが伝説の元祖なのかもしれません。

一方では、果無の名の由来は「果て」、つまりその年の暮れである12月の下旬にもなると人通りが少なくなります。なので「果て」に人が「い無くなる」ということで「果無」と呼ばれるようになったという説もあります。

12月下旬って人が少なくなるのかな~とも思うのですが、現在のようにやれクリスマスだ忘年会だといって外出するのが多いのに比べ、大昔には家内の大掃除などに精を出し、静かに正月を迎える準備をしていたでしょうから、たしかに人通りは少なかったのかもしれません。

この果無山脈はどこにあるのか調べてみたところ、どうも紀伊半島の中央部に位置する山々のことのようです。

南紀白浜にある田辺市から北東に12~13kmほど行ったところに行者山、三里ヶ峰、虎が峰といった山々がありますが、これを「虎ヶ峯山脈」というそうで、これが果無山脈という説と、さらにその東にある笠塔山も含めさらに東側の和田ノ森山から、安堵山を経て、熊野川のある熊野本宮あたりまでの山脈をさすという説があるようです。

このあたりは、その昔大和国と紀伊国の国境だったそうですが、朝廷のあった大和国からみれば確かに「最果て」です。しかし、いずれの山々もせいぜい1000m位の高さしかなく、「果無」というほど険しい山塊ではありません。

こういう山々に何故「果無」という名前がつけられたかについてですが、江戸時代の地誌「日本輿地通誌」では「谷幽かにして嶺遠し、因りて無果という」と書かれているようで、これを訳すと「行けども行けども果てなく山道が続いていて困ってしまう」という意味になります。

私自身も、30代のころに「熊野詣で」に行ったことがありますが、確かに熊野の山々は幽玄な雰囲気を漂わせており、けっして高い峰々はないのですが、そういう山々が延々と奥深くまで続いていく雰囲気で、たしかに、「行けども行けども」といった感じであり、「果無」という名前がつけられたのもわかるような気がします。

しかし、ここの地元の人たちに伝わる民俗伝承では、この「果無」の名の由来は地理的な特徴からではなく、この地方に伝わる妖怪一本だたらの怪異譚によるものとしているようです。

それによると、果無山脈にはある怪物が棲んでおり、その怪物は「ハテ」つまり、年末20日過ぎになると現れ、旅人を喰ったことから、峠越えをする者がなくなったといいます。「いなくなった」は「ナシ」になったとも言いかえることができますから、「ハテ」に「ナシ」になる峠ということで、この山々を「ハテナシ」と呼ぶようになったというのです。

前述の奈良県の伯母ヶ峰山の一本だたらは、大イノシシの化け物でしたが、この地方では、このほかにも電柱に目鼻をつけたような姿をしている一本だたらがいるという伝説があり、こやつは、雪の日に宙返りしながら一本足の足跡を残すといいます。

いかにも怪しげな振る舞いで不気味ですが、大イノシシバージョンの一本だたらほど凶悪ではなく、こちらは意外にも人間には危害を加えないそうです。

人に危害を加えないといえば、なぜか一本だたらは、郵便配達員だけには危害を加えないという話もあります。妖怪も郵便を配達してもらっているからなのでしょうか。それとも郵便貯金を持っているから?

このほかにも和歌山の熊野山中にも別の一本だたらがいるとされ、こちらのほうはその姿を見た者はない幻の妖怪で、雪の降り積もった上に幅1尺ほどの足跡が残っているのを村人がたびたび見るのだとか。なお、人に姿を見せない一本だたらは、広島の厳島にもいるとされ、こちらも人に姿を見せたことはないということです。

さらに和歌山県の白浜町や田辺市のある西牟婁郡には、「カシャンボ」という一本だたらがいます。このカシャンボは、カッパの一種ということで、もともとは川に棲んでいてこれは「ゴーライ」と呼ばれていますが、これが山に入ると、山童の一種である「カシャンボ」に変身するのだということです。

2004年春には、田辺市の富田という地域の田んぼの中で1本足の「カシャンボ」の足跡が発見されて大騒ぎになったそうで、これは「富田のがしゃんぼ」と呼ばれ、やれ一本だたらの復活だ、それカシャンボの再来だとかいろいろ地元の人の間では話題になったということです。

そういえば、私が育った広島の山奥にも、「ヒバゴン」と呼ばれる類人猿?の目撃談がたくさんあり、複数の足跡が発見されたとして、地元紙の中国新聞などで一時期かなり騒がれました。最近とんとお話を聞きませんが、ヒバゴンさんお元気でしょうか。

これらの紀伊半島に残る一本だたら伝説が、このほか日本のいたるところに伝承されている一本だたらの元祖かどうかはっきりしたことはわからないようですが、全国の中でも和歌山や奈良での伝承がとくに集中していることから、このあたりが発祥であることは間違いないでしょう。

おそらくは紀伊半島での伝承が日本各地に飛び火していったものと思われますが、直近では海を隔ててすぐ隣の高知県に「タテクリカエシ」という妖怪がいます。こいつは手杵(てきね)に似た形をしているといい、手杵とは、あのお月様でウサギが餅を突くときに使っている真ん中が細くなっている棒状の杵のことです。

この手杵の形をした「タテクリカエシ」は夜道をごろごろと転がる妖怪だそうで、タテクリカエシは、「立て繰り返し」のことのようです。この妖怪は伝えられている形は違うものの、伯母ヶ峰山の一本だたらと同じものだという説もあります。

静岡にも一本だたらがいます。県西部の浜松市天竜区の川上にいる一本だたらは、誤って片足を切断して死んだ木こりの怨みが妖怪になったということで、やはり一本足であり、雪が降った日の翌日などに山中に片足のみの足跡が残っているそうです。

ここからほど近い愛知県の設楽町の一本だたらは、大雪が降った晩などに山奥にある山小屋の周りなどで「ドスンドスン」と音を立てるそうで、翌朝には2尺(約60センチメートル)ほどの片足のみの足跡が残っているとか。

さらに、北陸の富山市や岐阜県北部の飛騨地方、岡山の倉敷あたりに伝わる一本だたらはいずれも「雪入道(ゆきにゅうどう)」と呼ばれているもので、一本足だけでなく目も一つ目であり、これも雪の降った翌朝の雪上に足跡を残すといいます。

このほか和歌山の伊都郡のかつらぎ町に出る一本だたらも、雪の上に足跡を残す小児のような妖怪で「雪坊(ゆきんぼ)」と呼ばれており、愛媛県北宇和郡の松野町のものは「雪婆(ゆきんば)」というそうです。

こうしてみると、一本だたらだとされる妖怪の伝承の多くは「雪」にちなんだ名前が多く、雪の降った翌日に雪の上に足跡状の痕跡を残すことに共通点があるものが多いことがわかります。

これはおそらく、この「果ての二十日」が年末の寒い時期で雪の多い時期であり、この時期に雪が降れば、何等かの動物の足跡が残るためにれが人目に触れることも多く、片足などを失った動物などの足跡を、一本だだらと勘違いしたことなどに由来するものでしょう。

そして、これらの伝承の発生地はやはり紀伊半島を中心としたその周囲の県に多く、それが東北や九州などの遠くにまでは及んでいないことを考えると、やはりその発祥の地が紀州あたりであるということは間違いないのではないかと思われます。

「果ての二十日」といった具体的な日にちも、紀州に近く人口密集地で国都でもあった京都や奈良にこの伝承がもたらされ、妖怪のような怪しい話が大好きだった都人の「忌の日」として一般化したのではないでしょうか。

このように紀州で発祥したと考えられる一本足妖怪は、この地に古くから伝わる山の神や道祖神のご神体がそもそも一本足だったからという説もあるようです

また、お隣の国、中国にも一本足の妖怪で一夔(き)または山魈(さんしょう)という名前の妖怪がいるそうです。もともとは殷(いん)の時代に信仰された神様だそうで、夔龍とも呼ばれる龍神の一種でした。

一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳凰(ほうおう)とともに中国で出土する銅鏡等に刻まれているそうで、鳳凰が雨の神様であったように、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられているようです。

後の世には一本足の牛の姿で表されるようになりましたが、これは牛が請雨のために龍神に捧げられた生贄であったためと考えられています。中国の歴史書によると、この夔は牛のような姿をしていますが、角はなく、脚は一つで体色は蒼であり、水に出入りすると必ず風雨をともなったといいます。

これは私の推測なのですが、紀州といえば高野山を修験道の場として開いた空海こと弘法大師が思い浮かびます。この空海は9世紀の初頭に遣唐使として中国に渡っており、真言密教などの仏典を数多く日本に持ち帰っていますが、そうした中国の書の中にはこうした中国の神話に出てくる神様のお話も記載されていたのではないかと思うのです。

これを空海自身が広めたのかその取り巻きが広めたのかはわかりませんが、紀州といえば日本全国の中でも一番雨の多いところです。空海が広めたかもしれないこの雨の神様、夔の伝説は、降雨に慣れた紀州の人々にはわりとすんなりと広まっていった、と考えればこの地のあちこちに一本だたらの伝説が残されているわけがわかります。

もっともこういう説を唱えているのは私だけで、他にどんな学者さんがこうしたことを言っているわけではありません。

ただ、「古事記」に出てくる一本足の神様で、「久延毘古(くえのひこ)」の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連があるのではないかという指摘があるようです。

「鵺(ぬえ)」という古代妖怪もいることから、クエは夔が変化したもので、やがてこれが鵺になり、そして一方では紀州では一本だたらとして広まっていった、つまり一本だたらと鵺のルーツは同じ夔であるという可能性だってあるのです。

ただ、説として根強いのは「一本だたら」の「だたら」は、その昔「タタラ師」と呼ばれた「鍛冶師」に通じるのではないかというものです。これは鍛冶師は、片手で「たたら」と呼ばれる鞴(ふいご)を扱い、火の加減や刀の曲がり具合を片目で見るという重労働から、職業病として片目や片脚になることが多かったためではないかといわれています。

一本だたらが出没する場所の近くには鉱山跡が多いと指摘する学者もいて、鉱山の近くには鍛冶師も当然たくさんいただろうと考えられます。紀州の山の中は京に近いことからたさくさんの鍛冶師がいたと考えられ、こうした鍛冶師の祀り神として一つ目の一本だたらが崇められるようになったのではないかという説です。

なお、これは、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)というもともとは神様だったものが零落した姿であるという人もいるようです。

中国の史書で「韓非子(かんぴし)」という有名な法家の思想書がありますが、この中に、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われているそうです。そして、この書についての議論の結論は如何にと問われた孔子はこういったそうです。

「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。だから「一本足」であるかどうかという議論はそもそも間違っている。「一足」が正しいのだ」と。

なにやら寓話めいているというか、はぐらかされているとうか釈然としない回答ですが、私なりに解釈すると、「錆びた刀はたくさん持っていても仕方がない、一本切れるものを持っていれば良い」ということを言いたかったのではないかと思います。つまり人間は突出した才能が一つあればよいのだ……とも。

………… 何はともあれ、今日20日は忌の日ということで、もうこれからの外出は控えようかな、と考えていたりします。

たまには外出をやめて家に引きこもり、何かやりたいことをひとつだけやる、というのも良いかもしれません。やはりそのひとつは、もっとも自分が得意とするものが良いでしょう。私の場合、いつでもどこでも寝れるというのが得意技ですが……

涙の香り


選挙が終わりましたね。結果はともあれ、新たな政権への期待と不安うずまく今日このごろ、といったかんじでしょうか。以前、2012年はアセンション(上昇、即位、昇天)の年らしい、と書きましたが、果たしてこの選挙結果が、長く低迷にあえぐ日本の上昇のきっかけになるのでしょうか。今後も見極めていきたいと思います。

さて、一昨日のブログで飛行機の話題を書きましたが、今日19日は、日本で初めて動力機が飛行した日のようです。

明治もほぼ終わりの1910年(明治43年)の12月19日、この当時、代々木の練兵場と呼ばれていた現代々木公園で、陸軍中将の徳川好敏と日野熊蔵の二人が操縦する軍用機が初飛行に成功したとされています。

しかし、実はこれに先立つ5日前の12月14日にも、滑走試験中に日野が「60メートル程度の飛行に成功した」、という新聞報道がなされているそうで、こちらが本当の初飛行ではなかったかと見るむきもあるようです。

しかし、現場責任者としてこの飛行を間近で注視していた学者のジャッジでは、初飛行とは目に映らなかったようで、この新聞報道の根拠となった「距離60メートル」は10紙ほど来ていた新聞社のうちのひとつの記者の目測のようで、取材していた他の9紙は距離を記載しておらず、初飛行とも報じていないということです。

この記事を書いた記者自身も後日の回想で、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした」と書いていることから、実際には「飛行」というよりは「ジャンプ」程度ではなかったかと推察されています。

「飛行」とは航空力学的には、翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態をさすそうで、このことからしてもこの「ジャンプ」は「飛行」ではない、ということのようです。

このため、この5日後の12月19日のほうが初めての動力機初飛行の日として公式に認められ、現代に至るまで「日本初飛行の日」ということで記録されるようになりました。

徳川好敏と日野熊蔵

この初飛行を成功させたうちの一人、徳川好敏(とくがわよしとし)は、その名前からわかるように江戸時代の将軍家、徳川家の血筋の人です。しかも、清水徳川家第8代当主ということで、かなり徳川家の主筋に近い人物です。

この清水徳川家というのは、「御三卿」のひとつです。

田安、一橋、清水の三家がそれで、その家格は尾張、紀州、水戸のいわゆる「御三家」に次ぐものでした。御三家で将軍に値する血筋の人が出ない場合には、この御三卿家から将軍を出すことができ、実際、第11代将軍の徳川家斉が田安徳川家から、第15代将軍の「徳川慶喜」が一橋徳川家から出ており、それぞれ徳川宗家を相続しています。

なので、この初飛行は、徳川家の名家の血筋である好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍の意向だったのではないかという評価もあるようです。

徳川好敏はもう一人のパイロットの日野熊蔵大尉とともに、操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され、ここを卒業しています。

日野のほうは、熊本の旧相良藩の藩士の家の出であり、江戸時代であれば徳川好敏に比べればはるかに身分の低い平民でした。しかし、明治のこのころには天才発明家などと報道される有名人だったそうです。

この初飛行のあとも、自身で飛行機を設計し続け、その機体は「日野式飛行機」として知られているほか、「日野式自動拳銃」の開発者として知られています。

1916年(大正5年)には陸軍歩兵中佐にまで昇進しましたが、40歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞め、その後生活は困窮したといわれ、68才で没しています。

一方の徳川好敏のほうは、その後陸軍に航空兵科が新設されると、ここの航空学校教官を勤め、その後航空兵団長を経て航空兵団司令官となるなど順調な出世人生を送っています。

1928年(昭和3年)に、日本陸軍航空兵分野確立の功労により、華族に列せられて男爵を授爵。1940年(昭和15年)には勲一等旭日大綬章を受章し、終戦時には陸軍航空士官学校長も勤めました。昭和38年まで生き、79才で没。ともに日本初の動力飛行機を飛ばした日野とは対照的な華やかな人生でした。

萬朝報と黒岩涙香

この話はこれで終わりです。なーんだそれだけか、とお思いでしょう。

なので、このお話の裏にもうひとつ面白そうな話を見つけたのでご紹介することにします。

それは、この日本初の動力飛行が行われた日の5日前の12月14日の滑走試験中、「60メートル程度の飛行に成功した」と新聞した記者が所属していた新聞社のことです。

他社が飛行したとは認めていないのに、「初飛行だ」といわばフライング報道をしたわけであり、そういう意味ではジャーナリストとしてどうかな、と思うのですが、調べてみるとこの新聞社、なるほどそういう会社か……と思わせるような新聞社でした。

この新聞社の名前は萬朝報(よろずちょうほう)といいます。東京を中心に日刊紙を発行していた新聞社で、その名前は「よろず重宝」というシャレから来ています。このネーミングからして怪しげですが、1892年(明治25年)に発刊されたいわゆる「ゴシップ紙」のはしりとして知られています。

有名人が囲った妾についてのスキャンダルを「蓄妾実例」といった見出しで報道するなど、プライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞で、この「蓄妾実例」の例にもみられるように、権力者のみならず、一般人の商店主や官吏の妾の情報までをも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業までその新聞に掲載していました。

それでもこの当時はこの明治という時代なりのおおらかさがあり、プライバシーにはそれほどうるさくない風潮があったらしく、「俺の妾をなぜ載せない」という苦情まであったといい、いかがわしい新聞というイメージを持ちつつも、労働者階級に絶大な人気を博したそうです。

一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれ、また第三面に扇情的な社会記事を取り上げたため、現代でも使う「三面記事」という用語ができました。

この新聞社を創立したのは、「黒岩涙香(くろいわるいこう)」という人物です。1862年(文久2年)に土佐国の安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩の下級武士である「郷士」の子として生まれました。

藩校の文武館で漢籍を習得したあと16歳で大阪に出て、のちの大阪英語学校となる中之島専門学校に学び、英語力を身につけると翌年上京して成立学舎や慶應義塾といった有名校に進学。しかし、学業が性にあわなかったらしくいずれも卒業せず、このころから新聞への投書を始め、自由民権運動に携わるようになりました。

20才になった1882年(明治15年)には官吏侮辱罪により有罪の判決を受けるなど、「インテリ不良」ともいえるような前半生を送っていますが、その後「同盟改進新聞」や「日本たいむす」などに新聞記者として入社。

その後、1882年(明治15年)に創刊された「絵入自由新聞」に入社して2年後には主筆にまでになり、語学力を生かして記者として活躍していきます。このころから得意の英語力を生かして翻訳小説に自分なりのアレンジを加えた、いわゆる「翻案小説」に取り組むようになります。

そのひとつが、発刊当時は「今日新聞」という名でしたが、現在は「東京新聞」と呼ばれるようになった「都新聞」に連載した「法廷の美人」で、これが大ヒットしたことから、たちまち翻案小説のスターといわれるようになります。そして、次々に新作を発表していきます。

涙香はこれらの小説の執筆にあたって直訳(逐語訳)はせず、原書を読んで筋を理解したうえで一から自分の文章で物語を構成していったといいます。

私も翻訳をいくつかやったことがありますが、翻訳というのは結構難しい作業で、英語力というよりもむしろ日本語の能力が試されます。英文をうまい日本語表現に改めるためにはある種文学的な才能が必要であり、涙香はその方面の才能に恵まれていたのでしょう。

朝報社と萬朝報

1889年(明治22年)、涙香は、前述の「都新聞」に破格の待遇で主筆として迎えられましたが、社長が経営に失敗し、これに代わって新たに社長に就任した新社長と対立して退社。その三年後の1892年(明治25年)に自らの会社「朝報社」を設立します。そしてこの朝報社で発刊を始めたのが「萬朝報」でした。

この当時、「相馬事件」と呼ばれる旧徳川時代の武家の名家の御家騒動に端を発するスキャンダル事件がありました。

旧相馬中村藩(現福島県の一部)という藩の主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症の症状が悪化したため、家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁後に精神科病院にへ入院させました。

この行為に対して、旧藩時代のある家臣が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令であった志賀直哉の祖父、志賀直道ら関係者を告発したことから事件が表面化しました。

この告発者の元家臣、元部下は世間からは忠義者として同情が集まり、この告発があったことから高名な大学教授等による精神病の診断などが行われ、その結果、精神異常はないという判断が下され、事件はさらに混乱の度合いを増しました。そんな中、こともあろうにこの告発者が旧藩主が入院している病院に侵入し、その身柄を奪取するという事件が勃発。

この元部下は一週間後に逮捕され、家宅侵入罪などに問われ禁錮処分を受けましたが、その行動があまりにも奇矯で偏執的であるとして今度は逆に世間から猛烈な批判を浴びます。

元部下の藩主奪還から5年後には当の相馬誠胤が病死。元部下はこれを毒殺によるものとし、再び相馬家の関係者を告訴したことから、また世間を騒がせることになります。

元部下は遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとし、捜査当局もこれに応じましたが最終的には死因は毒殺とは判定できませんでした。その2年後には元部下が逆に相馬家側より虚偽告訴罪で訴えられ、後に有罪が確定し、事件はここにようやく収まりを見せました。

黒岩涙香の萬朝報は、この相馬事件を「相馬家毒殺騒動」としてスキャンダラスに書き上げ、他紙よりもドラマチックに報道することで部数を伸ばしていきました。このほか「淫祠蓮門教会」といったスキャンダラスな連載記事があり、これは、コレラの治療として「神水」を配布した蓮門教を「淫祠邪教」として徹底的に批判したものでした。

このほか、上流階級の腐敗を暴露した「畜妾調」などのセンセーショナルなスキャンダル記事が都市中下層民の人気を博し、明治32年の発行部数は東京一の9万5000部を数えるようになり、最高潮時には30万部の発行数を誇ったといいます。

翻案小説

これらの連載の多くは涙香自身の手になるものでしたが、この新聞がここまで人気を博したもう一つの理由は、涙香がこの新聞で発表した翻案小説でした。

この中には、我々もよく知る、「鉄仮面」、「白髪鬼」、「幽霊塔」、「巌窟王」「噫無情(あゝ無情=レ・ミゼラブル)」などがあり、これはさらに後年の作品ですが、「八十万年後の社会」というのがあります。実はこれはH・G・ウェルズの “The Time Machine(タイム・マシン)”が原題です。

このうちの、「白髪鬼」や「幽霊塔」はこの黒岩涙香の翻案小説をもとに後年江戸川乱歩がそのリメイク版を発行しており、昭和世代の間で大ヒットしました。

涙香のバージョンでは、「鉄仮面」のほうが先に萬朝報で連載されましたが、これが大好評を呼び、その連載が終了した翌日から「白髪鬼」が連載されました。この白髪鬼は、白髪鬼となった男の手記実伝として書かれ、これも前作「鉄仮面」を上回る大人気を博しました。

江戸川乱歩版のほうは1931年(昭和6年)に同じ題名のまま公表されました。乱歩自身も彼が少年の頃に耽読した涙香作品の中でも「白髪鬼」がいたく気に入っていたと語っていますが、私は乱歩のほうを読んだ世代で、子供のころに学校の図書館にあったのを何度も借りて読み返したのを覚えています。

このリメイクに際し、乱歩はあらすじを変えるなど独自の改変をおこなっていますが、涙香の遺族の承諾を得て作品名は同じにしているということで、戦前の文庫本には涙香版と乱歩版の二つがあるそうです。乱歩版には「乱歩の白髪鬼」と付けられていたそうですから、古本屋でみつけたら読み比べてみるのも面白いかもしれません。

ちなみにそのストーリーですが、殺害された後、埋葬された墓の中で蘇生し、恐怖のために白髪と化した一人の男の復讐譚です。ウィキペディアに掲載されていたその導入部分を以下にそのまま示します。

「九州の子爵・大牟田敏清は、無二の親友と恃む川村と、美貌の妻・瑠璃子と共に、この世の幸福の絶頂を味わっていた。しかし、瑠璃子と川村の2人は謀って敏清を殺し、埋葬する。

墓の中で甦った敏清は、墓所内で味わったおぞましい恐怖のために自分の姿が白髪の醜い老人と化していたのを知る。敏清が自分の家に戻ってみると、妻であるはずの瑠璃子が朗らかに笑い、親友であるはずの川村が瑠璃子と深い関係を持っていることを知り、また、彼らが謀って自分を亡き者にしたことを悟った。

妻と親友に裏切られた敏清は、2人への復讐を固く誓う。復讐を誓った時点で、敏清は既に人間をやめてしまった。ただ、復讐に燃える一匹の鬼であった。敏清は墓所内で見つけた海賊の財宝を利用して綿密な復讐計画を立て、里見重之として戻ってくる。そして、その計画に則ってじわじわと彼らを追い詰めていくのだった…。」

どうでしょう。面白いと思いませんか。実際、この小説はその後もテレビや映画でたくさん実写化される人気作品となっているので、皆さんの中にもご覧になってご存知の方も多いと思います。

理想団の設立

さて、こうした翻案小説などで萬朝報で一世を風靡した黒岩涙香ですが、やがてこうした連載小説やスキャンダル報道は大衆に飽きられるようになり、部数が伸びなくなってしまいます。このため、涙香は今度は、幸徳秋水や内村鑑三、堺利彦らといった進歩的思想家を入社させ、青年学生層の読者を開拓する方針に転じます。

1901年(明治34年)には自ら「理想団」を設立し、人心の改善、社会の改良といった社会運動を起こしました。

この理想団は、社会問題や女性問題を通じ、社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードし、その論理を掲載した萬朝報は、主たる購買者であった労働者層をめぐってこのころのライバル社であった「二六新報」などと激しい販売競争を展開するようになります。

しかし、その後勃発することになる日露戦争をめぐって、涙香は内村らと社内で対立するようになり、涙香が開戦論を頑強に主張し始めたことから非戦論の内村らは退社していきました。

1911年(明治44年)に涙香は今度は、新しい婦人雑誌「淑女かゞみ」創刊。婦人問題について執筆するようになり、「小野子町論」や「予が婦人観」といった随筆などを刊行しました。

この「淑女かゞみ」は、のちの「婦人評論」という雑誌になりました。この当時女性の間に生まれつつあった「新しい女」とか「婦人矯正運動」ともよばれる気分に乗った執筆であり、新しい時代の女性を模索する乙女たちの人気を博したといいます。

さらその後の明治末期から大正初期にかけて涙香は、憲政擁護運動にも立ち入るようになり、シーメンス事件(ドイツ・シーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件)では最も急進的立場に立ち、民衆運動を組織化するとともに政府批判の新聞キャンペーンをリードしました。

晩年

しかし、このころから萬朝報は他紙との営業競争に後れをとるようになっていきます。シーメンス事件の余波を受けて1914年(大正3年)に海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職すると、涙香は続く大隈重信の新内閣を擁護するようになります。

しかし、この内閣でも内相の大浦兼武の汚職事件(大浦事件)などが起こり、大隈自身も古い体質の藩閥政治家と批判されていたことなどから、涙香も批判を浴びるようになり、このころから万朝報の声望も低下し、涙香自身も新聞経営への意欲を衰弱させていきました。

1915年(大正4年)に大正天皇の即位の礼が会あった際、涙香はそれまでの新聞事業の功労により勲三等に叙せられました。

同じ年に長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業しており、このころから執筆活動は徐々に少なくなっていきます。が、1918年(大正7年)にはH・G・ウェルズ原作の翻案小説「 The Man Who Could Work Miracles (奇蹟を行なう男)を出版しています。

その二年後の1920年(大正9年)没。57才でした。その後半生の活躍の母体となった萬朝報は、その後20年も続きましたが、1940年(昭和15年)「東京毎夕新聞」に吸収され廃刊となりました。

エピソード

涙香がこの萬朝報を立ち上げたときには「永世無休」を宣言したという逸話が残っており、ほかにも「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとしたといいます。

萬朝報で涙香は、翻案小説以外にも、家庭欄に「百人一首かるた」や「連珠(五目並べ)」のやり方を掲載させてこれを流行させたといい、こうしたことからも単に発想豊かな文人という以外にも、何か人を楽しませる、楽しませたい、ということに生きがいを感じる気分の人だったように思います。

「黒岩涙香」という名前も、分解してみると「黒い」「悪い」「子」になるというのはよくいわれるようですが、これを本当に本人が意識してつけたとすれば、そのブラックユーモアあふれる精神が想像できます。

この「涙香」というのは、「愛読していた」とされる「紅涙香」に由来する、とあちこちの方のブログに書いてあるのですが、中国の詩句か何かなのでしょうか。ついにそのソースを探すことができませんでした。

本名は黒岩周六といったようですが、ほかにも、「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用いていたようで、この骨や涙が「香る」というネーミングがなんともおしゃれなかんじがします。

さらに、号は「古概」、「民鉄」「黒岩大」と称したそうで、こちらでは骨太な印象。若いころにはあだ名で「マムシの周六」と呼ばれたそうですから、その名のとおり、喰えない印象のある人物だったと想像されます。

しかし、ジャーナリストとしても小説作家としてもまた新聞社主としても読者の意識を鋭敏にとらえる独特の才覚をもっていたに違いなく、そうでなければ今は無くなってしまったとはいえ、50年近い歴史を持つ新聞社は作れなかったでしょう。

さて、今日も長くなってしまったので、この項、そろそろ終わりにしたいと思います。

が、最後にひとつ、この涙香のお兄さんは、黒岩 四方之進(くろいわよものしん)といいました。この人はクラーク博士で有名な札幌農学校(のち東北帝国大学農科大学、現在の北大)の第一期生として博士に学び、その後北海道における畜産開発に尽力し、後年功労者として表彰されている、北海道では結構有名な人です。

涙香がかつて社員として招いた内村鑑三もある時期には北海道におり、この四方之進と友人だったということですが、内村鑑三といえばキリスト教の思想家として有名です。

萬朝報時代には、その英文欄の主筆として通算200数十篇の文章を書いたそうで、この文章は外国人系新聞からも高く評価され、日本人の有識者にも愛読されたといいます。後年、黒岩涙香と意見が合わずに退社することになりますが、このとき涙香は熱心に慰留したともいわれています。

キリスト教論者の内村を高く評価していたことがわかり、こうした事実から涙香もクリスチャンではなかったとはいえ、その博愛の精神の理解者であったことは想像できます。いや、その本質は実は万人を愛する博愛主義者だったのかもしれません。

涙香という人物はあまりまだ世に知られていませんが、多くの執筆物が残されていることから、そうした面からの人物像が今後また発掘されていくかもしれません。今後の歴史研究に期待したいところです。

箱根の関所 ~箱根町

芦ノ湖スカイラインより元箱根方面を望む

先週、お天気もよかったので、タエさんが行ったことのないという箱根の大涌谷方面へ出かけてきました。

修禅寺の我が家からはいつも箱根の駒ヶ岳が見えるのですが、大涌谷はこの北側の裏手にあたり、ここへ行くには国道一号線で箱根峠まで上がり、ここから芦ノ湖スカイラインで北上するのが最短です。

この日はほぼ快晴で、芦ノ湖スカイラインの各所にある展望所からは富士山はもちろん、駿河湾や芦ノ湖も一望の絶景がみられ、大満足したことは言うまでもありません。

この芦ノ湖スカイラインは芦ノ湖の西側の箱根外輪山の稜線上を通っているため、ここからは芦ノ湖越しにその湖岸にある箱根の関所も見通すことができます。

ご存知の方も多いでしょうが、箱根関はかつての東海道にあった関所です。海沿いを走る東海道を通って江戸へ入るためには、この関所のある箱根峠を越えるか、さらにその北側にある足柄峠が最短です。厳密にいえば足柄峠を通ったほうが関東へは近くなりますが。

芦ノ湖の北側にあるのが足柄峠で、南側が箱根峠。前者には東名自動車道が通っており、後者には国道一号線が通っています。

そのさらに南側には熱海峠があり、ここを超えても関東に入ることはできます。が、距離的にはかなり遠くなるため、その昔から江戸へ入るには箱根峠か足柄峠を通るルートがポピュラーでした。

こうした位置関係は、地図を見れば一目瞭然なのですが、どうしても頭の中では熱海のほうが近いのでは……と思ってしまいます。が、実際に地図をみてください。足柄峠か箱根峠を越えるほうが旅程はより短くすむのがわかります。

箱根に最初に関所が設置されたのがいつごろのことなのかについては定かではないようですが、律令期には箱根峠を経由する「箱根路」が開設されていたようで、この当時既にその路上に関所が設置されていたといいます。

この箱根路は足柄路とともに、古くから関東防衛のためにはもっとも重要な役割を担っていたようで、平将門が坂東(関東)で乱をおこしたときにも、西からの討伐軍を抑えるため将門は箱根に兵を派遣してこれを封鎖しています。

源氏と京都の朝廷がその覇権を争った「承久の乱」の際にも、執権の北条義時が鎌倉幕府の御家人を箱根路・足柄路へ出し、この関を固めて関西からの官軍を迎え撃ち、これを退けています。

その後の室町幕府も、鎌倉府に箱根に関所を設置させています。ただ室町幕府はただ単に人の出入りの制限のために関を設けていたのではなく、この関所で「関銭」を徴収することを目的としていました。そしてそれで得た収入で、1380年(康暦2年)には、鎌倉の円覚寺の修繕をしています。

その後戦国時代になり、北条早雲の後北条氏が芦ノ湖の南側の山中に山中城を設置し、この山中城に関所の機能を吸収しました。これも地図をみないとわかりにくいのですが、この山中城は箱根峠よりもかなり沼津側に下ったところの東海道(国道一号線)沿いにあります。

現在、きれいに整備されていて公園になっていますが、その当時はかなり広大なお城だったようで、関所を兼ねていたのです。

その後、後北条氏は秀吉によって滅ぼされ、さらにこれを継承した江戸幕府は、箱根峠のすぐ東側を小田原へ向かって流れる須雲川沿いに新道を切り開き、これを「箱根八里」と称して東海道の本道として整備しました。

そしてこの新道の北側の、芦ノ湖の湖畔にある「箱根神社」の位置に当初の関所を設置しました。ところが、この地が神社の社域であったことなどから、これに対してここに住む住民が猛烈に反発したため、関所をもう少し南側に移し、ここに新しい町である「箱根宿」を設置しました。

この箱根宿にあった関所跡は現在きれいに整備されていて、関所の復元はもちろん、この当時の資料などが展示されている博物館(箱根関所資料館)なども併設されていて箱根観光の中心的存在になっています。

大きな駐車場もあるためいつ行っても観光客であふれていますが、正直言って関所と博物館以外にはあまり見るところもありません。富士山の眺めもイマイチ、というかそもそもこの関所跡の位置からの富士山は頂上付近しか見えなかったように思います(間違っていたらスイマセン)。

この箱根関所を管理していたのは、幕府譜代の大藩である小田原藩でした。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路であったため、外様藩などには任すことができなかったためです。

通行時間は明け6つから暮れ6つまでで、これは冬至のころならば明け方6時くらいから夕方5時ぐらいまでで、夏至のころなら朝の4時から夜の7時くらいに相当します。ようするに明るい時分だけ通行可能だったようです。

夜間通行は原則禁止されており、しかもいわゆる、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていました。

ご存知の方も多いでしょうが、これは江戸に入ってくる鉄砲、つまり「入鉄炮」と、大名の家族の女性が江戸より出て行かないように江戸から外に出て行く女、すなわち「出女」を特に注意して取り締まった交通政策です。

もう少し補足すると、入鉄炮には老中が発行する「鉄炮手形」が必要であり、出女には留守居が発行する「女手形」の携帯が義務付けられており、この手形がないと関所の通行はできませんでした。

鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、関所に備え付けられた「判鑑」によって手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認したそうで、その上さらに鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかが確認された上でないと通過が許されなかったといいます。

また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持などの検査も厳重に行われたそうです。ところが、逆に江戸からの鉄砲の持ち出しについては、意外にも簡単な検査しか行われなかったといいます。

出女のほうの改めも厳しいもので、女性が関所の外側(地方)に出る際の女手形の提出はもちろん、入鉄砲と同じく「判鑑」で幕府留守居の印鑑が本物であるかどうかをチェックしました。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていたといいます。

こうした出女のチェックは現在の浜名湖の西側にある「新居関」などの他の関所でも行われていましたが、江戸により近い箱根関の場合は特に厳しかったらしく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)まで常駐させて、出女をじっくりと観察したそうです。

この検査はかなり厳重なもので、髪の毛の有無や身体的特徴、とくにほくろの有無や妊娠の有無などについてまで吟味が行われたということで、さらには男装していないかを見破るため、男に対しても同じ検査をしていたという記録もあるということです。

これはこの当時の通行手形の発行手続は男性のほうが簡単だったためで、女が男のふりをして手形の発行を受ける可能性があったためです。「男装の麗人」は簡単には通過できなかったわけですが、おかまさんはどうだったのでしょうか。

ただ、伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があったそうで、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものとみなされて簡単な手続で済ますこともあったといいます。

とはいえ、基本的には通行手形がないと通行ができず、これを持たずに強行突破をするいわゆる「関所破り」はかなり重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔(はりつけ)にされるなどの厳罰が課されました。

ただ、幕末にもほど近い文久年間のころには改革によって参勤交代が緩和されるようになり、これに伴い関所での手続は大幅に緩和され、「女手形」の発行手続きも簡素化されました。さらに幕末の1867年(慶応3年)には手形が廃止され、事実上関所の通行は自由になり、関所改めもなくなりました。

1686年(貞享3年)ころの小田原藩の職制の記録によれば、箱根関所は番頭1・平番士3の侍身分の番人のほか、小頭1・足軽10・中間2の「足軽」身分の者、そして定番人3・人見女2・その他非常用の人夫などから運営されており、常時20人以上の番人がいました。

侍と足軽身分の者はすべて小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務しましたが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用されたといいます。侍と足軽身分の者の手当ては小田原藩が負担しましたが、これらの農民に対する手当は幕府が肩代わりを行ったといいます。

箱根関所には常備付の武具として弓や鉄砲、槍などが常備されていました。その数も、弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具(突棒・刺股・袖搦)1組・寄棒10などなどきちんと決められていたといいます。

しかし、これは関所に立てかけて置いてあるだけだったそうで、ほとんどが旅人を脅すためだけの示威目的のものでした。火縄銃にも火薬は詰めておらず、弓は置いてあるものの矢は常備されていなかったことなどが記録として残っています。

関所内には主たる番所のほか、番士の詰所や休息所、風呂場まだあったそうで、このほか牢屋や厩、高札場などが設置され、これらすべてが柵で囲まれていました。また、関所裏にある屏風山という山には「遠見」のための番所が置かれ、芦ノ湖南岸にも「外屋番所」という監視所が設置されました。

そのほか、周囲の山林は幕府によって要害山・御用林の指定を受けており、そこを通過して関所破りを行おうとした者は厳罰に処せられました。実際に現地へ行ってみるとわかるのですが、この関所とその周辺の山々はかなりの高所にあるため見晴らしがよく、監視の目をくぐってこれらの場所を通過するのはかなり厳しいのではないかと思われます。

ただ、これより北側の足柄峠や南側の熱海峠側は比較的標高が低く、獣道などもあったと思われることから、秘密裡にこれらのルートを通って江戸へ出入りする「隠密」なども少なからずいたのではないかと推察されます。確たる資料があるわけではありませんが、所詮は街道筋の関所だけで人やモノの出入りを完全にシャットアウトするのは不可能です。

しかし、この辺のことは幕府もご承知だったらしく、できるだけその穴を埋めるべく箱根関所以外にも主要な街道筋(脇往還)には別の関所を設けています。

そのひとつは、芦ノ湖のすぐ北側の仙石原付近をとおる「箱根裏街道」に設けられた「仙石原関」であり、さらにその北側の足柄峠を通過し、丹沢の南側方面へ抜ける「矢倉沢往還」には「矢倉沢関」が設置されました。この「矢倉沢往還」は現在の国道246号とほぼ並行して通っていました、

芦ノ湖の南側の熱海峠を越える「熱海入湯道(熱海道)」には「根府川関」などが設けられ、箱根関以外には全部で5ヶ所の関所が設置されています。

このうち箱根関は、江戸幕府直営の公式な関所とされ、他の5つの関は「脇関所」として位置づけられ、厳重に出入りがチェックされました。ただ、前述のようにこれ以外の経路を通過することはけっして物理的に不可能ではなかったようです。

とはいえ、万一これらの関所を通過しない経路を無断に通行しているのが発見された場合、その行為自体が「関所破り」「関所抜け」とみなされ、厳罰に処せられました。

これらの関所は、明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したとき、同じく廃止されています。いずれの関も、もともと大した構造物もなかったことからその当時の形跡はほとんど残っておらず、私もすべての関所跡を見たわけではありませんが、史跡として整備されているのは観光目的で復元されたこの箱根関くらいのようです。

が、もともと関所というのは狭隘な場所に造られているものです。なので、この場所も、特段眺めが良いわけではなく、観光場所としては今ひとつぱっとしません。

あまりつまらん、つまらんと書くと、箱根観光協会からお叱りを受けるかもしれませんので少しフォローしておくと、この関所の南側には観光船の船着き場があり、ここから出る観光船に乗ると、芦ノ湖周遊船が出ています。乗船料を払わなければなりませんが(北端の湖尻までたしか。1000円くらいだったと思います)。

関所の北側には「関東総鎮守・箱根権現」といわれた壮大な箱根神社もあります。こちらは無論入場料はいりません。かつて総鎮守であった箱根神社の存在感はこの地域においては非常に大きく、吉田茂を始めとする政財界の大物が参拝したことで知られています。

この箱根神社の北東側にそびえるのが「駒ヶ岳」であり、山頂まではロープウェイが通っており、ここからは西の駿河湾はもちろん、東の小田原方面も見渡せる絶景がみれます(こちらの運賃も往復千円くらいのはず)。山頂には先の箱根神社の奥宮(元宮)もあり、山塊自体が境内になっています。

このほかにも先日のブログでも書いた曽我兄弟のお墓や、精進池、お玉ケ池といった小スポットもあり、更に足を延ばせば大涌谷もほど近く、これらをつぶさに見ていこうとすると一日では足りません。

……とまあ、このくらい書いておけば観光協会さんからもお叱りは受けないでしょう。

以上が箱根の関所にまつわるお話です。あまり目新しい話でもないのですが、私自身、地図を見ながらこれを書いていて、長年、箱根の関所ってなぜこんなへんな場所にあったのだろう、と疑問に思っていたのが解消されました。

他の関所があった場所も、地図を見比べながら確認してみるとなぜそこに関所があったのか理由が分かると思います。多くは現在の主要幹線の途中にある場所であり、その幹線道路が遮断されることを考えると大いに不便になることがわかります。

先日の笹子トンネル事故もしかりです。現在、このトンネル一本が不通になっていることで、地域経済への打撃は相当なものになっているそうです。

もし、今富士山が噴火したら、これらのかつての関所があった幹線道路のほとんどが通行不能になることも考えられます。関東と関西をつなぐ大動脈の分断は、東北の大震災以上に我が国の経済に影響を及ぼす可能性があるといわれています。

普段はごく当たり前に通っている道でもそこが自由に通れなくなったときのことを考えると、そのありがたみが増します。そうしたことを考えると江戸幕府がこれらの関所を重視していたわけもわかるような気がします。

関所のあった時代に少し思いを馳せ、普段自由に通っている道のありがたみをあらためてかみしめてみましょう。