銀色夜叉 ? ~旧修善寺町(伊豆市)

昨日は少々多忙だったため、めずらしくブログをお休みしてしまいました。

1月17日ということで、阪神淡路大震災のことでも書こうかと思っていましたが、あまり明るい話題でもないのでいろいろ調べていたら、この日は、「今月今夜の月の日」でもあるということがわかりました。

ここ二十年近く、神戸の震災の陰に隠れてめっきり話題にされなくなってしまいましたが、これは、ご存じ、尾崎紅葉の「金色夜叉」のお話です。

主人公の貫一が熱海の海岸で、貫一を裏切った恋人のお宮に「いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せる」からと言い放ったというあの有名な物語です。

その十七日の昨夜ですが、曇りどころかナンと夕方から修善寺は雪模様となり、今朝起きてみると、真っ白な世界がそこにあり、ここが本当に伊豆かいな、というような景色が目の前に広がっていました。

山の上ということで、3cmほども積もっており、滑っては困るということで、寝癖のついた白髪頭も気にかけず、階段回りの雪かきをしてみましたが、その様子をまわりからみると、「金色夜叉」ならぬ「銀色夜叉」さながらだったに違いありません。

…… それが書きたかったので、この話題にしたんかい、と突っ込まれそうですが、そんなことはありません。たまたま思いついただけです。

が、どうも最近飛ばすジョークがみんな、おやじギャグめいてしまっていけません。気をつけねば。

…… さて、この「金色夜叉」ですが、尾崎徳太郎こと、尾崎紅葉がこの小説を読売新聞に連載したのは明治30年の元旦からのことです。紅葉が30歳のときのことで、この小説はたちまち大評判となり、翌年4月まで連載が続けられたあと、すぐに日本橋にあった歌舞伎の市村座で舞台になりました。

この舞台での、貫一がお宮を蹴り飛ばす場面は異常なほど話題になり、このあとの二人の運命についての民衆の興味をめぐってその熱狂ぶりは収まらず、その後いったん連載が終わったはずのこの物語の再開を要望する手紙が読売新聞社あてに殺到したといいます。

そのファンのひとりで、ある重病にかかっていた名家の令嬢は、「自分の命はこのままもちそうもない。けれどお宮の運命のほうが気がかりなので、自分が死んだらお花や線香を手向けなくてよいから、「金色夜叉」の連載新聞を毎日墓前に供えてほしい」と言ったといい、これほどまでに熱烈に民衆にその継続が請われた小説は古今そうそうないでしょう。

こうした声に応え、紅葉は明治32年、その連載を再開しましたが、このころからすでに体調がおもわしくなく、これをときどき中断。その後3年にわたって連載を続けましたが、ついに病魔に耐えられず、35歳でついに紅葉自身が死んでしまいました。胃癌だったそうです。

こうして、「金色夜叉」は未完のまま終わり、かつ紅葉の遺作となった作品となりましたが、その評判はその死後のあいだしばらくは衰えず、その後も新派の名作舞台となり、貫一お宮の熱海の場面は映画にもなり、また歌謡曲にも歌われ、さらには上方では芸人のコントとしても扱われ、舞台となった熱海には記念像までも造られました。

ところが、紅葉死後のこのフィーバーぶりとは裏腹に、その後、大正、昭和と時代を経たあとも、貫一お宮の名シーンこそは語り継がれていくものの、肝心の「金色夜叉」の原作を実際に読む人がだんだんといなくなり、平成の今に至っては、「金色夜叉」を手にとる者さえほとんどいないといいます。

その最大の理由は無論、未完のまま作者が亡くなり、その主人公たちの行く末を読者の想像でしかたどることができなかったことにあります。

紅葉は、読者の熱望に応えるまま、「続金色夜叉」、「続続金色夜叉」、「新続金色夜叉」と書き続けましたが、結局この長編は未完に終わりました。

明治の小説でもっとも大衆に愛読されたと言われる「金色夜叉」ですが、もっと早く終わりたくても終わらせてもらえなかったのは、「人気連載小説」というその悲しき宿命でもありました。

作品の緊張感を保ったまま、きちんと生前に完結できていれば、現在も読み継がれていたかもしれないのに、この点は非常に残念です。

しかし、この一方で、「金色夜叉」をはじとする晩年の紅葉の作品は、かの三島由紀夫をして、「浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている」と言わしめるほど華麗な文章であり、三島以外の文学者の多くからも賞賛されました。

ただこの文体は、後年、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われるようになり、大正、昭和と時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

他の明治文学作品は、森鴎外や夏目漱石のものなどのように近代訳されており、紅葉の作品もこの古い文体をわかりやすい現代語に「翻訳」して出版されていますが、なぜか近代的な言い回しにすると逆にそのストーリー性が古臭くみえるらしく、現代に至ってもやはり手にとって見る若い世代は少ないようです。

その代表作ともいえる「金色夜叉」も、かつてはそれほど民衆に愛された小説でしたが、現代の人からみればこれは、男性による女性に対する「復讐劇」ということであり、その後、次第に女性の地位が高まっていった、80年代以降の現代社会の実情にそぐわない内容ということもあったでしょう。

また「高利貸し」という職業に代表されるように明治という時代を舞台とするこの時代の背景描写も現代人には理解しがたい面があり、後世になればなるほど、こうした紅葉作品のストーリーの展開の通俗性が強調されるようになり、これを「文学作品」として真剣に検討されることは少なくなっていきました。

この時代の「風俗」を書いた内容でもあるため、当然、小学校や中学校の教科書に掲載されるようなこともなく、こうして世俗社会でも公的社会でも読まれなくなった尾崎紅葉は、その著者名と、有名になった熱海での寛一お宮のシーンだけが、時代の中に取り残されていきました。

とはいえ、読まれなくなったのは尾崎紅葉だけでなく、そもそも「明治文学」といわれるものは全般的に人気がありません。

明治時代のほとんどの作品が旧かなづかいで書かれているためであり、そうでなくても字離れが進んでいるといわれる現代にあっては、読むのがどうしても億劫になりがちなためでしょう。

かくいう私もあまり読んだことがなく、読もうという気にもなかなかならないのですが、この明治文学と呼ばれるものをリストアップしてみると、とくに明治半ばごろからは飛躍的にその内容が充実してくるのがわかり、我々の良く知る有名作家の数々が登場してきてなかなか壮観です。時代を追って有名なところをあげてみましょう(選:筆者)。

明治17年(1884年) 「怪談牡丹燈籠」(三遊亭円朝)
明治18年(1885年)「当世書生気質」「小説神髄」(坪内逍遙)
明治19年(1886年)
明治20年(1887年)「浮雲」(二葉亭四迷)  「三酔人経綸問答」(中江兆民)「武蔵野」(山田美妙)
明治21年(1888年) 「あひびき」「めぐりあひ」(二葉亭四迷訳)「夏木立」(山田美妙)
明治22年(1889年)「二人比丘尼色懺悔」(尾崎紅葉) 「露団々」「風流仏」(幸田露伴)楚囚之詩」(北村透谷)「於母影」(森鴎外等訳)「胡蝶」(山田美妙)
明治23年(1890年)「伽羅枕」(尾崎紅葉) 「舞姫」「うたかたの記」(森鴎外)「対髑髏」「一口剣」(幸田露伴)
明治24年(1891年)「五重塔」「風流艶魔伝」(幸田露伴)「二人女房」(尾崎紅葉)「文づかひ」(森鴎外)
明治25年(1892年) 「即興詩人」(森鴎外訳) 「三人妻」(尾崎紅葉)
明治26年(1893年)「人生に相渉るとは何の謂いぞ」 「内部生命論」(北村透谷)
明治27年(1894年)「滝口入道」(高山樗牛) 「桐一葉」(坪内逍遙)「亡国の音」(与謝野鉄幹)  「大つごもり」(樋口一葉)
明治28年(1895年)「夜行巡査」「外科室」(泉鏡花)「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」(樋口一葉)
明治29年(1896年)「多情多恨」(尾崎紅葉)「三人冗語」(森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨)「東西南北」(与謝野鉄幹)「照葉狂言」(泉鏡花)
明治30年(1897年)「源叔父」(国木田独歩)「金色夜叉」(尾崎紅葉)
明治31年(1898年)「忘れえぬ人々」(国木田独歩)
明治32年(1899年)「天地有情」(土井晩翠)
明治33年(1900年)「高野聖」(泉鏡花)
明治34年(1901年)「牛肉と馬鈴薯」(国木田独歩)
明治35年(1902年)「地獄の花」(永井荷風) 「重右衛門の最後」(田山花袋)「病牀六尺」(正岡子規) 「旧主人」(島崎藤村)
明治36年(1903年)「「天うつ浪」(幸田露伴)
明治38年(1905年)「倫敦塔」(夏目漱石)
明治39年(1906年)「坊っちゃん」「草枕」(夏目漱石)「野菊の墓」(伊藤左千夫) 「破戒」(島崎藤村)
明治40年(1907年)「蒲団」「少女病」(田山花袋) 「虞美人草」(夏目漱石) 「平凡」(二葉亭四迷)
明治41年(1908年)「夢十夜」(夏目漱石) 「何処へ」(正宗白鳥)「竹の木戸」(国木田独歩)
明治42年(1909年「半日」「金貨」(森鴎外)
明治43年(1910年)「刺青」(谷崎潤一郎) 「網走まで」(志賀直哉) 「青年」(森鴎外)「「麒麟」(谷崎潤一郎)
明治44年(1911年)「泥人形」(正宗白鳥) 「濁った頭」(志賀直哉)
明治45年(1912年)「悲しき玩具」(石川啄木)  「彼岸過迄」(夏目漱石)

ここに出てこない有名作家さんもたくさんいますが、江戸時代から下ってわずか50年にも満たないこの時代に、我々の世代にも馴染みのある作家さんがこんなにもたくさんの小説を書いていたのかと驚かされますし、こうしたリストを見るだけでもこの時代の文芸作家のパワーを感じます。

しかし、どうしても「明治期の作品=教科書に載っている作品」というイメージが強いのでなかなかこれを読破しようという気にならないのは私だけではないと思います。

が、その昔、本を一般市民にも普及すべく、必死になって文芸運動を繰り広げたのが、こうした明治期の文芸作家さんたちだったわけであり、肩の力を抜いて、現代の小説と同様の単なる日本文学作品のひとつというスタンスでもう一度読み返していくと、新たな発見があるのかもしれません。

このリストをみてわかるように、この中には、尾崎紅葉とその仲間たちの名前もかなり頻繁に出てきます。

なぜ現代ではそれほど人気がないのに、この時代にはこれほど多くの文学を発信できたのか、その出自を知ることは、こうした明治文学の全部の出発点を知ることにもなると思われるので、それについてごく簡単にまとめておこうと思います。

尾崎徳太郎は、1868年(慶応3年)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れました。父は、いわゆる幇間(ほうかん)で、根付を彫る仕事もしており、職人としてはそれなりの腕を持っていると評判であった「尾崎惣蔵」という人物です。

幇間は、「太鼓持ち(たいこもち)」ともいい、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業であり、現代の「ホスト」のようなイメージもあり、あまり世間体のよくない職業でした。

もともとの尾崎家は商家だったようですが、紅葉の父の惣蔵代には既に廃業しており、徳太郎こと紅葉はこうした父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していたといいます。

1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母のもとで育てられ、寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。

このときの同級生に「幸田露伴」や他にも大正自由主義教育運動で有名になる「沢柳政太郎」や京都帝国大学初代校長になる「狩野亨吉」らの有名人がいました。

しかし、府第二中学はその校風にそりが合わなかったのかすぐに中退してしまい、愛宕の漢学者の「岡千仭」という人物の「岡鹿門塾」で漢学などを学び、その後三田の英学校で英語も学びはじめ、大学予備門入学を目指し始めました。

そして19歳で東京大学予備門に入学し、このとき1級下には紅葉の幼なじみの山田美妙がおり、また野球と器械体操好きの夏目漱石、俳句好きの正岡子規がおり、彼らとも親交を深めるようになりました。

紅葉はこれらの仲間とともに既に文学活動を始めていたようですが、なかで一番の交際上手は紅葉だったということで、人好きがして、みんなから慕われていたようです。

そんなころ、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきといい、世態風俗などの心理的写実主義を主張した「坪内逍遥」が、その理論を実践すべく執筆した「当世書生気質」が世に出、これがなかなかシャレているということで、紅葉の仲間全員がこれに強い刺激をうけます。

とくに紅葉は発奮してこの逍遥の筆致に似た文章を集めはじめ、これを編集して半紙半切32葉の回覧雑誌「我楽多文庫」をつくりました。これが後年紅葉が主宰する「硯友社(けんゆうしゃ)」のスタートであり、これによってもともと広がりのあった紅葉の交流範囲はまたさらに大きく広がりました。

とくに紅葉が影響をうけたのが江戸文芸に造詣の深かった淡島寒月という人物で、紅葉は寒月に言われて初めて「井原西鶴」を読みました。

紅葉は「黄表紙」などの戯作には通じていましたが、それ以前の江戸文学は初めてだったようで、なかでも「好色一代女」にはたいそう驚き、これをどうしたら逍遥のシャレた近代感覚と合わせられるのか、と思ったようです。

また、ちょうどこのころ幸田露伴が出した処女作「禅天魔」が人気になっており、これを読んだ紅葉はこれにも奇妙で斬新な味があると感じます。

こうして、明治21年に「我楽多文庫」が公売されるようになると、紅葉も自分で新しい小説を書くようになり、とくにこの露伴の作品に強い影響を受けた紅葉は、最初の作品「二人比丘尼色懴悔」を発表します。

これは、許婚の愛人を失った「芳野」という女性が仏道に入って供養のために諸国をめぐるというお話です。諸国めぐりをするうちに行き暮れて山間の草庵をたずねると、そこに若い尼がおり、この尼と夜話をしているとその尼も夫を失っていて、それは実は芳野の許婚の夫だったという話でした。

素材と文体は西鶴の「好色一代女」などを参考とし、とくに露伴の文章を強く意識して何度も練りなおし、かなり凝った文体であったこの作品は、彼のもくろみどおり、大当たりします。

そして、その印税はかなりの額になり、大きな収入を得るようになった紅葉は、このころまだ23才にすぎませんでしたが、喜び勇んで同じ文学仲間たちと頻繁に熱海に遊びに行くようになりました。

このころの熱海には既にいくつかの旅館がありましたが、まだ観光地になる前のことであり、浜辺には多くの自然が残っていたといいます。そしてこの訪れた熱海を舞台として生まれたのが、のちの「金色夜叉」です。

この後紅葉は、幸田露伴とともに大学在学中ながら読売新聞に迎えられ、ここで文学欄の充実のために働くようになり、ここでも才能を発揮しはじめます。やがて牛込横寺町(現飯田橋、神楽坂近辺)に引っ越して結婚もし、ここからの紅葉は若いながらも文壇の一大センターの中心のような存在となっていきます。

かつて自分が創立した「我楽多文庫」は、「硯友社」と名前を変え、このころには文芸の梁山泊の趣きを呈しており、人好きで有名だった紅葉のもとへは、文士の卵が次々に集まり育てられ、ここから「泉鏡花」や「徳田秋風」、「小栗風葉」といった英才が輩出されていきました。

とくに、これらの「弟子」のひとり、「泉鏡花」の師の紅葉への奉仕的ともいえる敬愛は、異常なほどだったといいます。

こうした紅葉の絶頂期に書かれたのが「金色夜叉」です。

実は、この「紅葉」という名前には、その由来となったある料亭があります。そのころ芝にあった「紅葉館」というのがそれで、ここは、この当時、鹿鳴館とも並び称されたほどの名士交流の場であり、尾崎徳太郎だった紅葉は、この旅館の名前を自分のペンネームにしました。

紅葉自身も芝の生まれであり、このころ文壇においては右に出るものはないといわれるほどの栄華を誇った彼にとって、おそらくその誉の象徴というつもりのネーミングだったでしょう。

この旅館にとびきり美人の「中村須磨子」という女給がいて、紅葉がいろいろ面倒をみていた学生のひとりが、ぞっこん惚れこんでいました。このころ一世風靡した巌谷大四という資産家の息子だったそうです。

ところが、この須磨子は、このころ既に大手の出版社になっていた「博文館」の社長の息子に見初められ、結局はそこへ嫁いでしまいます。これを知った紅葉は須磨子に「なぜ巌谷君のところに行ってやらないのか」と迫りましたが、須磨子は美貌を曇らせて泣くばかりだったといいます。

これをみた紅葉が、この「恋の社会」の理不尽に深く心を動かされて創作のヒントを得たといわれるのが「金色夜叉」です。

このころにはちょうど日本にも近代資本主義が萌芽しはじめ、「金持ちと貧乏書生」の愛という構図や「資本家と女工」の哀史というような構図が新聞などではゴシップ記事として取り上げられ始めた時期です。

紅葉もまた「金色夜叉」の中で、須磨子を「鴫沢宮」に、巌谷を一高生の「間貫一」に置き換え、博文館社長の息子を金貸しの「富山唯継」に仕立て、それぞれをモデルに借りて新たな長編作品を構想しました。

題名も凝りに凝って「金色夜叉」とし、そのストーリーは、今ここで改めて書く必要もないほど有名になっていますので割愛しますが、圧巻はなんといってもその「雅俗混淆」ともいえるその文体でした。

その絢爛な文章は目にして心地良いだけではなく、読みあげてみてもすばらしく、その音と律動にこの明治という時代の人々は酔いしれていきました。

たとえば例の熱海の海岸の場面では、

「宮は見るより驚く逞(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まみ)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまじ)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、揺動(ゆれうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ」。

といったかんじで、このあと、「どうして、貫一さん、どうしたのよう」というセリフが入ります。

そしてかの有名な「僕がお前に物を言ふのも今夜かぎりだ。一月の十七日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか。再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れない」云々が続き、ついにはお宮を下駄で蹴り飛ばす、というあの名シーンに入っていくのです。

この金色夜叉はそのストーリー展開の巧みさや創作性の高さから、紅葉のオリジナル作品と思われていました。

ところが、後年、1980年代になって、紅葉が興した硯友社文学を全体的に再評価しようとする人たちがあらわれ、その典拠や構想についての研究が進んだところ、この金色夜叉は、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものではないかという説が出てきました。

2000年(平成12年)、北里大学の講師であった、「堀啓子」氏は、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) という無名作家が書いた「Weaker than a Woman (女より弱きもの)」がその種本であるという論文を公表し、このことは、金色夜叉は彼のオリジナル作品だと考えていた研究者たちにとっては大きな衝撃を与えました。

実は、あまり知られていないことですが、紅葉はかなり英語力に優れた人だったようで、イギリスの百科事典「ブリタニカ」が日本ではじめて丸善で売りに出されたとき、最初に売れた3部のうちのひとつは紅葉が買ったものだったといわれています。

ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にしたという説もあるようですが、いずれにせよ、このころ、胃癌をかこい、死期が近いことを知っていたと思われる紅葉にとっては、その入荷待ちの時間が惜しかったようで、この百科事典の購入は紙幣で即決しており、このことを同じ作家仲間の「内田魯庵」は、

「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」

と評しています。

こうしたことから、尾崎紅葉はその英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを巧みに翻案して自作の骨子としてとりいれたものと考えられ、そう考えると、彼の元から多くの明治文学作家が巣立って行ったその素地には、英米の大衆小説文化の流れがあったことがわかります。

この金色夜叉の種本が存在すると公表した「堀啓子」氏はその論文の中で次のように述べています。

「多くの大衆読者にわかりやすく、一時的な楽しみを与えるストーリーテリングは、読後に響く「謎」を残してはならない。いかなる場合であっても、作中の登場人物の一連の動きには決着はつけられ、そうした意味での整合性が成り立つように著される。

こうした作品を読む読者は、「娯楽」として切り取られた時間の、独立した楽しみを求めるのであり、それを日常に持ち帰ろうとはしないからだ。この種の小説の多くが「鉄道小説」と称され、列車の中、という時間的空間的に外界と遮断された箇所に持ちこまれるのはそうした理由からだ。」

結局「金色夜叉」は、尾崎紅葉が存命中には完成せず、そのストーリーもまた多くの「謎」を残したまま、その結末は彼の死とともに迷宮入りし、その華麗なる文章もその後の時代の変遷の中に埋もれ、現代人が電車の中に持ち込む「秘密の一冊」になりうることはできませんでした。

この「失われたストーリー」ですが、しかし、1940年頃に企画された中央公論社版の「尾崎紅葉全集」の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされたそうです。

遺稿の断片が整理された「金色夜叉腹案覚書」というものが後年作られ、これによると、最後に寛一は高利貸しを廃業し、宮のことを許すという内容になる予定だったようです。

こうした話をもとに、金色夜叉の続編を勝手に創作する人などもいるようですが、いまだにそういった類がベストセラーになったというお話は聞きません。

かつて尾崎紅葉が「金色夜叉」で仕組んだ華麗なる文章は、彼の稀代の「大実験」であったわけですが、当時の文学としても大実験だったがゆえ、その創作にはかなり苦しみぬいたようです。

古い文体から脱出するために紅葉はあえて卑俗な設定を試み、華麗な擬古文体で織り成すことにしたわけですが、こうした文章はたった一行でも手を抜けば、たちまち物語は卑俗なものになりがちです。

そしてこれだけ苦しみぬいた上で創作された美文も、後年の口語文で書かれた小説が一般的になると、古めかしい文章として嫌われ、もともとが俗なストーリーであるがゆえに他の明治文学作品のように翻訳されることもなく、時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

しかし、紅葉が創作したその芸術的ともいえる文体で彫りこまれた「金色夜叉」は、その後の昭和の時代に新たな文体にチャレンジした三島由紀夫や野坂昭如の作風にも大きく影響を与えたといわれており、彼らの作品もまた、その後の文学作品に影響を与えていきました。

かつて国木田独歩は、紅葉の作品を評して「洋装せる元禄文学」であったと語ったそうです。

古きは江戸に確立された元禄文学を、近代文学に昇華させたその功績は、間違いなく日本文学における大きな金字塔だったといえるでしょう。

ありし日の紅葉は、江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もありよく小言を言っていたといい、しかしその叱り方は口の悪さと諧謔さがまざりあった独自のものだったらしく、泉鏡花ら弟子たちは叱られるたびに師の小言のうまさに感心したそうです。

紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だったそうです。

いつの時代にも傑出した人物は周囲の人々を惹きつける何かを持っています。かくある私も紅葉にあやかり、人気者でその一生を終えたいものです。

ぶきみの谷のアシモ

毎年お正月になると、日本の今後の技術開発はどうなるか、といった経済モノの特集番組が組まれます。そのひとつに、「ロボット」を特集したものがあり、新しいものとラーメンが大好きな私としては、ぜひ見ておきたいと思い、録画しておきました。

今朝、すこし早起きしたのでそれを思い出し、見てみたのですが、この特集番組のトップバッターは、本田技研工業が開発した二足歩行ロボット“ASIMO”でした。

予測運動制御によって重心を制御して自在に歩くことができ、階段の上り下りや駆け足し、ダンスまでできるロボットで、そのコミカルな動きをみたことのある人も多いことでしょう。

ASIMOの開発

「ASIMO」という名称はAdvanced Step in Innovative Mobility 略ということで、意訳すると「革新的モビリティ開発の旗手」ということになりますでしょうか。

その開発は1986年以前より秘密裏に行われていたそうで、最初のモデルは、「Eシリーズ」と呼ばれる下半身だけの実験型であり、その後、「Pシリーズ」と呼ばれる人型をした試作型を経て、「人型」にかなり近いモデルである「P2」が正式に発表されたのは、17年前の1996年のことです。

その開発の動機には、手塚治虫の鉄腕アトムがあったとされており、経営難に陥った時にマン島TTレースやF1レースなどの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直したことでも知られる、創業者の本田総一郎さんの「遊び心」によりその開発にゴーサインが出たと伝えられています。

このP2が公表された当時、二足歩行ロボットは早稲田大学での研究開発が最先端と公表されていました、ホンダから発表されてそのベールを脱いだ時点で、ASIMOはこうした大学研究室の水準を遙かに凌ぐ人間型自律二足歩行ロボットであったことがわかり、世界中のロボット研究者がその水準の高さに仰天したといいます。

ASIMOの研究は、その後、さらに形状を人型に近づけたP3の発表を経由して、2000年以降、現行の形状に限りなく近い改良型モデルが次々と発表されました。

発表されたモデルは、見た目にはその形状はほとんど変わらないように見えましたが、それぞれ費用の軽減や軽量化がより進められており、2005年の「ASIMO 2005」では、旧型よりもさらにバランス能力の向上が図られ、従来モデルの歩行速度が、1.6km程度だったものを、このモデルでは歩行速度、2.7km/hにまで引き上げました。

またこのモデルからは、時速6kmで「走る」ことができるようになり、自動で受付案内やワゴンを使ったデリバリー作業等を行なえるようになるなど、単に二足歩行する「人形」からさらに「知恵」を身につけた知能型二足歩行ロボットへと変身しました。

2011年11月8日に発表された最新モデルでは、これよりもさらに重量が6kgも軽減され、最高速度も2005年モデルよりも3倍も速い、時速9kmに向上したほか、知能のほうも更なる進化を遂げています。

この最新型のASIMOの身長は130cm、重量は48kgであり、重量の対身長比をみると少々人間より重めですが、その動作は限りなく人間の生活に近くなるよう作られていて、人の動きを感知し、自律的に行動することが可能です。

例えば人を追従して歩行、手を出すと握手する、障害物を回避する、音源が何であるかを認識する、階段歩行などが行える、などなどであり、あらかじめ設定することにより音声認識と発音も可能だそうです。

また、3人が同時に発する言葉を認識することができるようになり、予め設置された空間センサーの情報を基に人の歩く方向を予測し、衝突を避けることが可能となったほか、手話をこなすこともでき、身体能力の向上により片足けんけんや両足ジャンプなどが連続して実行することまでできるようになりました。

私が見たこの番組では、このほか、ステンレス製の水筒のふたを器用に開けて紙コップ!に飲み物を注ぐ様子も放映されていて、とくに指先の柔軟性が向上し、「感触」を覚えることが可能となる圧力センサーなどの大幅な改良がはかられたことがわかります。

このASIMO、現状では販売の予定などはない「試作品」だそうですが、今後ともさらに改良を重ねて開発を続けていくとして、いったいどのあたりで「完成形」として発売することになるのでしょうか。

これについてのインタビューアーの質問に対するホンダ技研の開発担当者の答えとしては、「こうしたロボットは、人間をアシストする、ということを目的として開発されている以上、何等かの形で十分に人間の「代用」が務まるようになるほどの実用化がはかられてから」というものでした。

この答に対して、インタビューアーの「知花くらら」さんが、現状でも「ASIMOカフェ」なんてものに十分に使えるのではないか、と突っ込んでいましたが、紅茶やコーヒーの運搬をしながら客にお愛想ぐらいを言うことぐらいは現状のモデルでも朝飯前にできそうであり、私からみてもモデルの完成度はかなり高まっているようにみえました。

現状では販売はしていないものの、問い合わせに応じていろいろなイベントなどに貸し出されていて、2002年には、ニューヨーク証券取引所の始業ベルを人間以外で初めて鳴らしたこともあるそうです。

本田技研としては、今後はASIMOの技術を応用し、福島原発のような危険な現場で活用するアーム型ロボットも開発する予定だといい、また現状でも、ASIMOの技術を応用した一人乗りの小型ビークル、”UNI CAB” などの応用製品が試作されています。

このUNI CABは、ひょうたんのような外見を持つ、高さ60cmほどの電動乗用一輪車であり、東京モーターショーを一月後に控えた2009年9月24日に本田技研工業本社で初公開されました。

操縦桿などの操作装置は一切なく、その移動は、これに乗った人が「体重移動」をすることでコントロールでき、自動的にバランスを取るので静止したままでも倒れません。車輪のタイヤ部分は横向きに並べた複数の小径車輪で構成されているということで、小径車輪の回転で真横へも移動することができます。

バランス制御には二足歩行ロボットASIMO(アシモ)の技術を応用しているといい、テレビでも知花さんが試乗していましたが、ほんのちょっとの試し運転ですぐに運転できるようになり、室内をスイスイと乗り歩いていました。現状でも、足腰が不自由な人が室内の移動に使うのにも使えそうで、その実用化もそれほど遠くないようにみえました。

しかし、ASIMOのように車輪を持たず、二足歩行型で移動するロボットでは、まだ仰向けやうつ伏せに転倒した場合に起き上がることができないなどの問題もあるそうで、人間の生活環境に置くにはまだ多くの課題をクリアーする必要があり、実際にこうした人型ロボットを我々が身近で見ることができるようになるのはまだ少々先の話のようです。

なお、本田技研は、ASIMOの開発途中の段階で、ローマ教皇庁に人間型ロボットを作ることの是非について意見を求めたそうで、その結果として問題がないことを承認してもらったといい、今後のロボットの人間との共存における倫理性の問題までも視野に入れて今後の開発を行っていこうとしているようです。

アンドロイドサイエンス

こうしたASIMOのような「ロボット」と呼ばれるものにもいろいろなものがあり、その一般的な定義としては、「人の代わりに何等かの作業を行う装置」、もしくは、「人や動物のような機械」であり、これをもう少し詳しく書くと以下のようになると考えられます。

1. ある程度自律的に連続、或いはランダムな自動作業を行う機械。例・産業用ロボット、軍事用ロボット、掃除用ロボット、搾乳ロボットなど。

2. 人や動物に近い形および機能を持つ機械。「鉄腕アトム」や「機動戦士ガンダム」等のSF作品に登場するようなもの。いわゆる「人造人間」や「アンドロイド」と称されるものであり、広義には「パワードスーツ」なども含まれる。

日本では従来、ロボットというとASIMOにも代表されるような「2」を指す事が多かったようですが、近年では実用性の高い「1」のロボットのほうの研究が先行しており、日本の技術力は世界でもトップクラスといわれています。

しかし、「2」に関する研究も進んでおり、こうした研究では、単にロボットを機械と考えるだけでなく、「人間との共通点」あるいは「人間との相違点」について研究する「アンドロイドサイエンス」と呼ばれる学究分野の確立が進んでいます。

あまり聞き慣れない用語かもしれませんが、「アンドロイドサイエンス  (Android science)」
とは、生身の人間と、アンドロイドのような「人造人間」のような機械との相互作用やお互いの「認知」を調査、研究する学問です。

将来にわたって、もし見た目も動きも人間とほとんど寸分も違わないようなアンドロイドが開発されたとして、その内面的な面においても、社会的、心理的、認知的、神経科学的などのあらゆる面において優れたパフォーマンスを持っていると仮定しましょう。

そうしたアンドロイドが仮にできた場合、研究者はこうした優れたロボットを使って、生身の人間の被験者とこのアンドロイドの比較研究をすることが可能になります。

そして、その研究の過程では、人間とアンドロイドのどこが違っていて、どの分野においてどちらが優れているか、その違いを近づけていくためには何が必要かを研究していくことができ、その研究結果に基づいてよりそのアンドロイドに人間に近い生態学的な機能を与えていくことができます。

また、この研究の過程では、人間とアンドロイドとがお互いに共存していく上において、お互いにどのように認知しあっているか、例えばアンドロイドの行動が人間の精神面にどのように影響するのか、あるいはその逆で、人間の行動がアンドロイドの「精神回路」にどのような影響を与えるかがわかります。

アンドロイドと人間の被験者との相互作用をテストすることができるようになり、現在の認知科学と工学がより発達した将来では、アンドロイドと人間との関係だけでなく、その結果から人間同士の関係についても研究が進み、このことによってますます人間に酷似したアンドロイドの開発が進むと考えられています。

現状では、人間に限りなく近いアンドロイド、なるものは存在しませんが、今でこそそのギャップは大きいものの、将来にわたって人間と機械の差が縮まっていくとそれを比較研究できるようになると期待されており、ある段階からはその差はさらに飛躍的に縮めることができるのではないかといわれています。

過去の人間の技術力の発展と同様、将来のロボット技術においては、こうした比較→差の修正→進化→比較→修正→更なる進化、といった過程がだんだんと加速していくと考えられているわけであり、その結果としての「Xデー」にはついに、人間とアンドロイドはほぼ同じものになる、というわけです。

こうしたアンドロイドサイエンスという考え方はまだ確立されているわけではありませんが、ASIMOの開発においても似たようなプロセスが既に実践されています。

例えば人間が歩行するときの機能とASIMOの歩行の違いを研究した結果、その違いは「足」の構造にだけあるのではなく、上半身のバランスがその歩行に大きな影響があることがわかったといいます。

同様に、例えばロボットの「精神」について人間との違いを考えていく場合、それがシナプスなどの精神伝達機能だけによるものだけではなく、「脳」における機能をも考慮しなければ解決できない問題であることは誰しもがわかっています。

であるならばその違いを解消していくためには、脳の機能の解明がロボットに「精神性」を持たせるための最短の道であり、脳と同じ機能を持つコンピュータの開発においてこれに「思考」する能力を持たせ、これと人間の思考を比較するということもアンドロイドサイエンスの一環というわけです。

不気味の谷現象

ただ、こうしたアンドロイドサイエンスの確立が更に進み、「人間に酷似したロボット」が完成されるまでには、こうした人間の機能を「疑似的」に真似る装置の研究開発を進めるだけでは不十分であり、まだまだ現状の科学でも解明されていない問題や課題も多く、そこまでに至るには遠く険しい道のりが予想されます。

その道のりの険しさを予想させるもののひとつとして、「不気味の谷現象」というものがあります。

これは、ロボット工学者の森政弘・東京工業大学名誉教授が1970年に提唱した理論であり、人間のロボットに対する感情的反応についての現象です。

近年、とくに二足歩行ロボットの開発が進み、ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになってきていますが、こうしたロボットに対して我々は、例えばASIMOのようなロボットに対しては、そのひょうきんな動き方などに「なんとなく」好感を覚え、ときには共感を持ってみることができます。

しかし、ロボットによっては、とりわけ人間にきわめて近いような形をしたものについては、「ぶきみ」にみえることがあります。

人間が話かけるとこちらを向いてにっこりと笑いながら、擬声によって「コンニチハ、ご機嫌いかが」とかしゃべってくれる「受付ロボット」などが開発され、テレビなどで公開されているのをご覧になったことがあるかと思います。

こうしたロボットは、合成樹脂などで人間の肌に限りなく近いような顔を作り、髪の毛などもできるだけ人に近づけた上で、顔の表情や口の動きなどを内蔵されたモーターで「自動制御」してできるだけ自然に見えるようにしたものです。

こうしたロボットは、ぱっと見た目には、まるで人間と寸分違わないようにみえるのですが、ひょんな拍子でこちらを向いたときに、「ギロッ」とこちらを見て「睨まれた」ように感じられることがあり、こうしたときには、それまで好意をもって見ていた見方が一瞬にして変わり、突然強い嫌悪感に変わる、といったことがあります。

このように、ロボットにはその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感度があがり、共感を持てるようになっていきますが、その類似度がある一定の限度を超えると、突然、強い嫌悪感情がわいてきます。

このため、これよりもさらに人間に近づけようと更にその外観や動作に手を加え、見分けがつかなくなるほどに似せて作り込んでいくと、再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになるといいます。

このロボットを人間に似せていく過程において、最初は外見と動作が「人間にきわめて近い」ために好感が持てるロボットが、ある時点で「人間と全く同じ」であるがゆえに、急激に嫌悪を感じるようになるといった人間の著しい感情の差異を森教授は、「不気味の谷」現象と呼びました。

今後「人間型ロボット」を開発していく上において、人間とロボットが生産的に共同作業を行うためには、人間がロボットに対して親近感を持ちうることが不可欠ですが、「人間に近い」ロボットは、逆に人間にとってひどく「奇妙」に感じられる場合があり、親近感を持てないほど「不気味」に映るものもあることからこうしたネーミングがなされました。

この現象は次のように説明できます。

まず、対象とするロボットが実際の人間とかなりかけ離れたルックスである場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすいものです。

SF映画がこの世に初めて出てきたころ、いろんな人間型のロボットが登場してきましたが、これらの多くは二足歩行するなど人間の形状は真似てはいるものの、表情などはなくその形はデフォルメされていて、その多くは「雪だるま」のような剽軽さを覚えます。

ところが、近年のSF映画に登場するロボットでは、その形状をかなり「人間に近い」ものに近づけているものも多くなり、こうしたロボット中には「非人間的特徴」の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせるものがあります。

ちょっとSF古い映画で、「メトロポリス」という映画がありましたが、これに登場するロボットがまさにそれで、かなり人間に近い形状をしている分、その動きや「表情」などをみると、かなりの違和感を覚えます。

よりわかりやすい例えでは、こうした人間型ロボットが不自然に見えるのは、「病人」や「死体」と良く似ているからだといいます。

ただ、死体の場合、その気持ち悪さはわかりやすいのですが、ロボットに対して同じような警戒感や、嫌悪感を抱くのはなぜか、なぜそれが気持ち悪いのか、明確な理由がわからないために、実際には死体よりも不気味に感じるといったことさえあるようです。

これについては、動作の不自然さもまた、病気や神経症、精神障害などを思い起こさせ、否定的な印象を与えるからだろうという説もありますが、実のところよくわかっていないというのが実情のようです。

こうしたロボットを作りこんでいき、さらに人間に似せていくとその嫌悪感はなくなるというのですが、これもケースバイケースのようで、むしろ悪化するのではという意見もあります。

何故この「不気味の谷」の問題がロボット開発において問題かというと、こうした人間のロボットに対する感情が、ロボットを似せていくと、本当に言われているようにV字曲線のように肯定に向けて回復するのかが、実のところまだ誰にもわかっていないという点です。

本当に完全な人間に近づけば好感度が増すのか、そして「人間と全く同じ」になれば好感を持つのかに疑問が残るわけで、いまだかつて「人間と全く同じ」ロボットが作られたことはないため、これについては誰もまだ答えを持っていないというわけです。

また仮に「人間と全く同じ」ロボットができたとしても、ロボットだと聞けば不快感を持つかもしれませんし、ロボットが完璧すぎると逆に気味が悪くなる人もいるかもしれません。こればかりは、本物のロボットが登場してみないことには解決できない問題である、というのがそもそも問題なのです。

つまりは、そんな不気味なものを作って本当に人類のためになるのか、というわけです。

この「不気味の谷」の原理は、実はアメリカ映画のコンピュータ動画のキャラクターなどには既に適用されるようになっていて、映画を見るひとに良い感情を抱かせるためには、不気味の谷に落ちないように、登場人物には人間的な特徴をより少なくする、という技法が用いられたことがあるといいます。

例えば「トイ・ストーリー」における登場人物である人形は、かなり実際の人間よりもデフォルメされており、これがゆえに、たいていの子供はキュートな外見のエイリアンやウッディーが大好きなのだといいます。

これとは逆に、「ロード・オブ・ザ・リング」という映画に、「ゴラム」というキャラクターが登場しましたが、ゴラムの皮膚のきめと唇の周りに唾液のような不気味なものがまとわりついているような外観は、不気味の谷を意識した先進的なモデリングによって完成されたといいます。

このほかにも、「A.I.」というSF映画がありましたが、この映画では新型のアンドロイドがリアルに作られていることに多くの人々が不安を感じている、という設定の未来世界を描いていて、このため映画の中で「肉体祭り」と呼ばれる「ロボット破壊競技」を観衆が見て大喜びするというシーンがあります。

ところが、この引き裂かれる対象が大人のロボットではなく、リアルな少年のロボットになると、観衆はこのロボットが急に愛らしい人間のように思われ、これが破壊されると聞いてみんな静まり返る、というふうに描かれていて、これも「不気味の谷」の理論を応用した作品だといわれています。

こうした映画の世界の話だけでなく、アメリカのプリンストン大学では、猿を使った実証実験が行われ、この実験においては、5匹のカニクイザルに対し、猿の顔のデフォルメ画像と、実物に近いCG画像、実物写真のそれぞれを見せたそうです。

この実験では、猿たちがより多くみたのはデフォルメ画像や実物写真だったということで、実物に近いCG画像を凝視する回数は有意に少ないという結果が得られ、人間だけでなく、猿のような動物にも「不気味の谷」のような現象があるらしいことがわかってきています。

このように、不気味の谷現象だけでなく、人間に限りなく近づくロボットを実現しようとする過程ではまだまだ多くの課題がありそうですが、その開発の過程において、これまでは明らかになってこなかったまた別の新たな分野の問題が出てくることも十分に予想されます。

いつかこうした問題がすべてクリアーになった時代には、かつてのSF映画に登場したような人間とは全く区別がつかないようなロボットも存在していることでしょう。

そのころにはこうした精神的な問題や倫理上の問題もクリアーになっており、ロボットとの結婚なんてのも、普通に行われているのかもしれません。機械と人間が融合する、というのは現状では想像もできませんが、我々の孫や曾孫の世代ではそうした世界の実現も、もしかしたら、もしかして、です。

ただ、そのころにはもう人間はこれまでのような肉体を地上に持つことはやめていて、精神世界だけで生きる存在になっているかもしれません。そして地上のことはロボットにまかせ、じぶんたちは宇宙のはるかかなたまで飛んでいき、その世界の住人には現在の我々が「宇宙人」と呼んでいる存在のように見えるようになっているかも……

妄想は膨らみます。されど、されど……です。

私を高いところへ連れて行って ~富士山

昨日の伊豆地方は激しい雨と風で一日中天候は荒れまくり、先週までの好天はどこへ行ってしまったの?というかんじでした。

伊豆では雨で済みましたが、お昼すぎにテレビを見てびっくり!かつて住んだ都は一面の銀世界にあり、あちこちで車がスリップしたり鉄道や他の交通機関が止まったりで大騒ぎのようです。

ですが、白い雪に覆われた懐かしい町をみると、これはこれで妙にうらやましく、伊豆でも降らないかな~と窓を開けて空を眺めてみるのですが、どうやらここでは降るよしもなさそうです。

2階へあがり、北側の空を眺めてみると、いつもの青空は影をひそめ、空は厚い雲に覆われていますが、よくみるとその雲は均一ではなく、厚い雲と薄い雲がまだら模様になっていて、それらが東から西へと足早に動いていきます。

ふだんはそこに見える富士山の上の雲は西から東へと流れているのに、それらはいつもと逆の東から西へと流れており、これは名古屋沖を北上する発達した爆弾低気圧に向かって流れ込む東寄りの風によるものだとわかります。

全天が見えるというわけではないのですが、山の上のこの地から見える広い空とそこを流れていく雲をみあげていると、伊豆半島のど真ん中にいる自分の姿が想像でき、地球の上に立っているなという実感を味わうことができます。

東京でマンション住まいをしていたときにはこうした感覚はなく、広い関東平野の西のはじっこにあるその住宅街から見ていた空はひどく狭く、天候を気にするよりもまず、その環境の息苦しさに先に注意が行ってしまったものです。

これとは比較にならないほどの開放感のある広い空を手に入れた今は、より天上に近づいたような感がありますが、もし可能ならばさらにこれより高いところに住みたいとも思います。

今後さらにそうした場所に移住する可能性がないわけではありませんが、なかなかそうした場所に気に入った土地や家が手に入るとは限りません。なので当面は、山登りなどによって一時的にそうした高いところを訪問するだけということになりそうです。

日本一高い場所にある町

そこでふと思いついたのが、日本一高い場所にある町はどこかな、ということで、早速これを調べてみました。

「町」という定義からすると、何等かの「役場」が存在するところということになりますから、この線で調べてみると、どうやら日本一高い場所にある役場は、長野県の川上村の村役場のようで、その標高は1185mということがわかりました。

この川上村は、その西側に八ヶ岳を望む場所であり、八ヶ岳の広大な裾野である「野辺山高原」の一部のようです。この北側には奥秩父山塊の支脈があり、その隣には「南牧村」や「南相木村」といった同じく野辺山高原に属する村々があります。

川上村役場が高地にあるのと同様、この南牧村の役場も標高1030mの高地にあって、日本で三番目に高い場所にある役場です。こうした1000m近い場所にある日本の市町村役場をその標高順に並べてみると次のようになります。

長野県川上村 1185m
群馬県草津町約1180m
長野県南牧村約1030m
長野県原村約1000m
長野県南相木村約990m
長野県北相木村約970m
福島県檜枝岐村(ひのえまたむら)939m
長野県木祖村約925m

草津町をのぞけば、一位から六位までをすべてこの八ヶ岳東山麓の村々が占めていて、どうやらこれらの村々が属する野辺山高原一帯が、日本一天上に近い「居住」に適した場所ということになりそうです。

単に標高が高いだけでなく、年間を通して降雨量が少なく晴天の日に恵まれる日も多いということで、国立の野辺山天文台や、電波宇宙観測所といった施設もあり、鉄道ファンのみならず天文ファンも集う場所として有名です。

ちなみに、我々が一昨年前に移住先を探し始めたころ、一番最初に訪れたのがこのひとつの「原村」で、ここは東京にも比較的近い高原にあるリゾート地ということで近年人気を集め、多くの別荘が建てられています。

しかし、人気の場所であるだけになかなか売りに出されるような別荘地は少なく、いいなと思うところには既に家が建っていたり、農地のために住宅地が建てられないような場所も多く、こうした土地に家を建てるためには、宅地への転用許可申請などのために時間がかかります。

環境といい、眺めといい、大いに気に入った土地柄ではあったものの、結局良い物件をみつけられず、この地への移住はあきらめました。

日本一高い場所にある駅

上述の村々のうち、南牧村には、JR東日本の小海線(こうみせん)の野辺山駅(のべやまえき)という駅があって、これはJRの駅の中では最も標高の高い位置にある駅であり、その高さは1345.67mで、この駅で販売されている記念入場券には「空にいちばん近い駅」とあるそうです。

ちなみに、逆にJRの駅の中で一番標高が低いのは、東京の総武快速線、馬喰町駅(ばくろうちょうえき)のマイナス30.58mです。

また、世界で最も高い位置にある鉄道駅は中国チベット自治区にあるタングラ駅の標高5068.63mだそうです。これに比べれば八ヶ岳東麓のこれらの村々ははるかに低い場所になりますが、それでも東京スカイツリーの二倍以上の高さの1300mを超える場所に鉄道駅があること自体が不思議なかんじがします。

なお、鉄道の線路が敷かれている場所で最も高い位置は、野辺山駅のすぐ隣の駅の清里駅との間にある同じ小海線の中の地点で、ここの標高は1375mです。

さらに、JRの鉄道路線以外のトロリーバスのような路線も含めた中での日本の最高標高の駅は、立山黒部アルペンルートのトロリーバスのターミナル駅、室堂駅の2450mになり、ロープウェイまで含めるとなると、その最高峰は中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅であり、ここの標高は2611.5mです。

室堂駅は、ここから東側にある大観峰駅まで出ているトロリーバス路線の始点駅であり、この大観峰駅からはさらにロープウェイを乗り継いで、かの有名な黒部ダムサイトまで行くことができます。駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅のほうは終点であり、ここからは富士山はもちろん、雄大な南アルプスの山々を一望に見ることができます。

以上のことから、とにかく歩いて行くのはイヤ、動力でできるだけ高い場所に行きたいという人で、その中でも鉄道などの公共交通機関を使って日本で最も高い場所まで行きたいということになると、それは立山か駒ヶ岳ということになります。

日本一高い場所にある道路

ちなみに、乗用車で行ける場所は?ということになると、富士山には、「富士スカイライン」を使って、五合目の標高約2400m地点まで行けます。が、到達できる高さはこの駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅にわずかに及びません。

一般国道でもその最高地点は長野県と群馬県の境にある志賀草津道路の「渋峠」でその標高は2172mだそうです。

ただし、現在「一般車両全面通行禁止」となっている、岐阜県高山市丹生川町にある「乗鞍スカイライン」の最高標高は2702mということで、この高さは上述のいずれをも凌駕しています。

通行禁止になった理由は、この道路が、日本一の高度を走ることのできる「雲上のスカイライン」としてあまりにも有名になり、観光客のマイカーで溢れかえって渋滞が続くようになったため、著しい排気ガスによって自然破壊が進んだためのようです。

このため、乗鞍岳自体が中部山岳国立公園の特別保護区に指定されて規制が厳しくなるとともに、2003年(平成15年)からは通年マイカー規制となり、一般車両は走行する事ができなくなりました。

しかし、路線バスやタクシーによってここまで行くことは可能で、バスの場合、ふもとの「平湯温泉」から定期便が出ており、最高峰付近の「畳平」まで片道約1時間10分ほどで行けるようです。往復料金2200円かかりますが、楽して高所に行きたいという人にとってはそれほど惜しい出費ではないかもしれません。

日本一高い場所にあるホテル

さて、以上のように、鉄道や乗用車などを使えばそれなりに高所へ行けることはわかりました。がしかし、これらの場所へはその日に行って帰ってくるだけの、いわばタッチ&ダウン式の訪問であって、せっかくそこまで行っても、その場所の風景や環境を短時間しか味わうことができません。

いや、そうじゃないんだ、せっかく行くんだからその場所の雰囲気をじっくり味わいたい、できればそこに1~2日は滞在してみたい、という人にとっては、何等かの宿泊施設がある場所で一番高い場所はどこなの?ということになると思います。

そういう場所というのはおそらく、高所にあるリゾートホテルか、もしくは山小屋のようになると思うのですが、まず、ホテルとして一番高いものはどこかを調べてみました。

すると、これは前述の木曽駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅、2611.5mに併設して建てられている「ホテル千畳敷」のようです。

この千畳敷駅に至るロープウェイの始点は、ふもとの標高1661.5mにある「しらび平駅」であり、ここと千畳敷駅との高低差は950m。終点の千畳敷駅は「千畳敷カール」と呼ばれる雪渓の中にあり、ここにはスキー場もあって、かつ木曽駒ヶ岳の登山口ともなっています。

ホテル千畳敷はこの駅舎に併設されており、客室は全室和室で、16部屋。食堂、お風呂なども備えている鉄筋コンクリート造り3階建てのホテルです。

客室数が少ないことから万人向けとはいえませんが、このロープウェイは冬季も含めて通年営業されており、またふもとの駒ヶ根市街にはたくさんの別のホテルもあることから、必ずしもこのホテルに泊まらないと駒ヶ岳観光ができない、というわけでもありません。

千畳敷駅のある2611m地点からは南アルプスの眺めが雄大に見えるそうで、またやや北よりには富士山も望むことができ、ここからのご来光が美しいと評判のようです。

一昨年前に移住先探しをしていたころには、この麓の駒ヶ根や伊那などの土地を見て回り、このころには、ここに住むようになったらぜひ一度登ってみたいと思っていましたが、結局移住先が伊豆になったために、ここへの訪問はいまだに果たせていません。なので、私としても一度は行ってみたい場所でもあります。

このほか、前述の鉄道(トロリーバス)駅としての最高地点駅である、立山の「室堂駅」2450mにもホテルが併設されていて、こちらは「ホテル立山」といいます。

ホテル千畳敷のほうは通年営業していますが、こちらは冬季には、積雪20メートル、最低気温摂氏マイナス24度におよぶ酷寒の地にあることもあり、冬期はふもとからのバスなどの交通が遮断されるため休業となります。

が、6階建ての鉄筋コンクリート造りであり、客室数は和室、洋室を合わせて85室もあるほか、入浴施設もあります。

ちなみに、私はこのホテルにタエさんと結婚前に行ったことがあり、宿泊こそしませんでしたが、お食事もできる立派なレストランもあって、高所にあるホテルとしてはなかなか良い設備だなと思いました。

ここを訪れたのは、10月のおわりだったと思いますが、すでに積雪は3m近くあり、ホテルの周囲は一面の銀世界で、その雪で覆われた見渡す限り広い平原地帯のまわりには、立山、剱岳、室堂といった神々しい山々がそびえていて、ここが天上の世界か、と思えるほど美しい場所でした。

その見事な景観から通年を通じて多くの観光客が訪れ、厳冬期でも山岳スキーの愛好家には人気のスポットのようです。が、一般人が冬季にここを訪れるのはまれで、スキーなら11月初旬までか、4月以降の春スキーがシーズンのようです。

秋季の紅葉も素晴らしいとの評判で、夏でも涼しく星空がきれいなことから、天文ファンならずともその美しい星々を見たいがために行く人も多いと聞きます。

その気になれば「ライチョウ」の観察などの自然観察や、周囲の美しい景色をみながらトレッキングできるコースも整備されているようなので、今度は寒い時期ではなく、温かい時期を選んでまたぜひ一度行ってみたいと思います。

日本一高い場所にある山小屋

これらの二つのホテルのある標高はいずれも3000m未満です。これよりさらに高い場所に宿泊したい、ということになるとあとはもう、山小屋しかありません。

以下が、日本にある高所の山小屋のベストテンになります。

1位 赤石避難小屋 3,120m 南アルプス(赤石岳)
2位 北穂高小屋 3,100m 北アルプス(北穂高岳)
3位 荒川中岳小屋 3,080m 南アルプス(荒川岳)
4位 槍ヶ岳山荘 3,060m 北アルプス(槍ヶ岳)
5位 南岳小屋 3,000m 北アルプス(南岳)
5位 北岳肩ノ小屋 3,000m 南アルプス(北岳)
5位 大汝休憩所 3,000m 北アルプス(立山)
8位 穂高岳山荘 2,996m 北アルプス(奥穂高岳)
9位 剣ヶ峰旭館 2,980m 木曽御嶽山
10位 御岳頂上山荘 2,950m 木曽御嶽山

1位の赤石避難小屋は無人の小屋になり、その名の通り赤石岳などに登頂する人のための緊急の小屋です。ですから仮に「宿泊」を目的に行くとすれば、最も高所にあるのは2番目の北穂高小屋からになります。ただし、こうした山小屋は厳冬期には閉鎖されてしまうものが多く、この北穂高小屋も営業は、4月から10月の終わりまでです。

もっとも、こうした山小屋に宿泊だけを目的で行く人は少ないと思いますし、またこれらの山小屋はあくまで登山客が山に登るための一時通過のための宿泊施設ですから、温泉や豪華な夕食を期待する人向きではありません。

が、メシはともかく、温泉だけでもという人は、以下の山小屋では温泉にも入れるようですから検討してみると良いかもしれません。

温泉のある山小屋(高所順)

1位 みくりが池温泉 2,430m 北アルプス(立山室堂)
2位 高天原山荘 2,285m 北アルプス(高天原)
3位 湯元本沢温泉 2,150m 八ヶ岳(夏沢峠)
4位 鑓温泉小屋 2,100m 北アルプス(白馬鑓ヶ岳)
5位 白馬岳蓮華温泉ロッジ 1,475m 北アルプス(白馬岳)
6位 三斗小屋温泉 1,470m 那須(茶臼山)
7位 県営くろがね小屋 1,346m 東北(安達太良山)
8位 法華院温泉山荘 1,303m 九重山(坊ガツル)
9位 三条ノ湯 1,103m 奥秩父(雲取山)
10位 赤湯温泉山口館 1,050m 上信越(苗場山)

ちなみに、富士山の山小屋は、これらよりも高い標高にあるものも多く、最高地点にあるのは、「御来光館」でその標高は、ナンと3450mだそうです。150名もの宿泊キャパがあるようですが、一番高いところにあるということもあって、夏季にはかなり混雑しているようです。

予約もできるようですが、場所が場所だけに、予約したからといって必ずしもここまで辿り着ける人ばかりではありません。このためこうした富士山の山小屋では、飛び込み客も受け入れてくれる場合も多いようです。

が、それにしてもこうした富士の山小屋はそれでなくても近年の富士登山ブームでどこも混雑しているようですから、一応の予約はしていったほうが安全でしょう。

さて、以上、長々と高いところに行きたい!人向けの情報をかき集めてみましたが、ご参考になったでしょうか。

私自身は、やはり今年はぜひ富士登山を目指したいと思います。できれば宿泊施設に頼らず、夜登ってその日の日中に下ってくる「直行直帰」をひとりで実現したいと考えているのですが、そうしたいと言うとタエさんが横目でにらむので、山小屋もしかたないかな~と考え始めているところです。

季節はまだ冬であり、その日が来るまでにはまだまだ時間がありそうなので、どうやって富士山を攻略するかについては、またおいおいじっくり考えることにしましょう。

今もこの部屋の窓から見える富士山は手に取るように近くに見えます。あそこまで修善寺から誰かロープウェイでも引いてくれればいいのに……と思うのですが、そんなわけにはいきません。

やはり歩いて登るしか今は方法はなさそうです。今からしっかり体を鍛えて来たるべき日に備えることにしましょう。みなさんも今年はぜひ体を鍛え、富士山にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

コクリコの花


先日からひいている風邪はかなりよくなったものの、のどをやられていて、声が魔法使いのジイさんのようです。もとからあやしいジジイなのですが、これが魔法使いのような声になるといかなるキッカイな人物になっているだろうかはご想像にお任せします。

あいかわらず外へ出る元気もまだないので、水仙やアロエ見物のための下田行きは今週末考えていましたが、来週にしたほうがいいかな~とおもったりしています。なので、この週末はコタツに入って、正月に録り溜めてあった映画などをみて過ごすことにしましょう。

昨夜のテレビでも、一昨年前に話題になったジブリ映画の「コクリコ坂から」を放映していました。前から気になっていた話題作でしたが、東京ではついに見に行く機会もなく、伊豆へ来てからはビデオでも借りに行こうと思っていましたが、思いがけなく放映されるということで、ここぞとばかりに録画してじっくり鑑賞させていただきました。

感想としては、とくに派手な描写のある映画ではないものの、全般を通して爽やかな空気が流れているような内容であり、雰囲気づくりといい、絵もきれいでなかなかよかったと思います。誰しもが見たあとにホッとするといったストーリーも単純ながらよかったのではないでしょうか。

この映画、1964年に開催された東京オリンピック前年の1963年5~6月に時代を設定し、その舞台を横浜近くの町にしたということですが、登場する学校や病院などはすべて架空であり、背景画などもこの当時の横浜の風景を想像して描かれたようです。

が、いつかどこかで見たことのあるような風景ばかりだったような気がするのは、私が昔育った広島や山口でも同じように坂を下った先に海が見える風景があり、これと重ね合わせてみていたためでしょう。

映画の主題歌は、1976年に放映されたテレビドラマに使われていたもののリバイバルで、これを唄っていたのは森山良子さんです。「さよならの夏」というタイトルで、この当時高校生だった私は森山さんの声が大好きで、たしかLPも持っていたと思います。

そしてこの曲もその中に入っていたはずであり、どうりでこの映画のプロモーションが一昨年全国で大々的に繰り広げられていたとき、どこかで聞いた曲だよな~と思ったわけです。

作曲は数々の昭和歌謡を手掛けてヒットを飛ばした「坂田晃一」さんで、有名なヒット曲としては、ビリーバンバンの「さよならをするために」とか、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」などがあり、これらは今すぐにでも歌えそうです。

作詞のほうは、「万里村ゆき子」さんとうことですが、失礼ながらあまりヒット曲はなく、この「さよならの夏」が最たるものかもしれません。ただ、ほかに岩崎宏美さんが歌った「すみれ色の涙」もこの人の作詞であり、これもそこそこヒットしましたね。

妙に懐かしいような哀愁を感じさせる名曲で、この曲をバックにアニメながらも昔ながらの横浜の風景が流されるこの映画をみて、昔見たふるさとの海辺の風景などを思い出されたのは私だけではないと思います。

光る海に かすむ船は
さよならの汽笛 のこします
ゆるい坂を おりてゆけば
夏色の風に あえるかしら
わたしの愛 それはメロディー
たかく ひくく 歌うの
わたしの愛 それはカモメ
たかく ひくく 飛ぶの
夕陽のなか 呼んでみたら
やさしいあなたに 逢えるかしら

こうした曲を聞くと、広島の港の高台から海を眺めて過ごした少年時代を思い出します。太陽の光できらきら反射している海を行きかう船を見ながら、かつての高射砲陣地の跡が残るその高台の草原に寝っころがっていると、ときおり本当に汽笛が聞こえてきて、ああいい気持ちだな~と子供心に感じたことなどが昨日のことのように思い出されます。

今、日本国内においてこうしたのんびりした港風景が見れる場所というのがどのくらい残っているのでしょうか。少なくとも広島港の湾岸はほとんど宅地開発されていて、こうした場所は残っていないでしょう。

この映画の舞台となった横浜もまたしかりであり、へたに横になって海など眺めていようものなら、浮浪者と間違われてしまうに違いありません。

ただ、ここ伊豆ではこうした海の見える高台に草原が残っているような場所も多いと思いますので、これからもう少し暖かくなったら、そういう「特等席」を探して山々を行脚してみるもの良いかもしれません。これはこれで楽しみです。

ところで、「コクリコ坂から」という題名は、1980年代の少女漫画雑誌に掲載されていた同名の漫画のタイトルそのままということで、この「コクリコ」というのはフランス語で「ひなげし=ポピー」のことだそうです。

ヒナゲシは、漢字では「雛芥子」と書きますが、このフランス語のコクリコにも当て字があり、「雛罌粟」と書くようです。ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、あのアヘンなどを作る芥子(けし)の一種ですが、園芸品種として改良されたものであり、アヘンのような薬効はほとんどないようです。

ひなげしは、別名虞美人草(グビジンソウ)ともいわれます。そのいわれは、中国の伝説に由来していて、秦の時代の終わりごろの武将の「項羽」の虞(ぐ)という愛人、つまり「虞美人」にまつわるものです。

三国志の世界のお話ですが、項羽はその領地である中国の大地をめぐって仇敵の劉邦と長年戦ってきましたが、あるときついに劉邦に敗れ、垓下(がいか)という場所に追い詰められます。

項羽軍を完全包囲した劉邦は勝ち誇り、ここで自国の楚の国の歌を配下の兵士たちに歌わせたため、これを聞いた項羽側は大いに嘆き、このことから「四面楚歌」という言葉が生まれました。

このあと項羽は虞美人という愛人と別れ、死を覚悟して敵中を突破してついには果てます。その敵中突破の前に項羽が詠った歌が「垓下の歌」といい、虞美人はこの歌に合わせて舞いを舞ったといいます。その内容は、

力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅逝かざるを如何せん)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

という、自分が死したあとの虞美人の行く末を案ずる歌でしたが、当の本人の虞美人はこの歌を聞きながら舞ったあとに自害してしまいます。彼女を葬った墓の前には、次の年の夏に赤色のヒナゲシの花が咲き、それからは毎年のように咲くようになったといい、こうした伝説から、ヒナゲシのことを虞美人草と呼ぶようになりました。

同名で夏目漱石が明治40年に小説を書いていますが、その内容は、許婚(いいなづけ)の関係にあった二組の男女の話が絡まって展開していく中で、そのうちの一人の女性の利己と道義の相克心理を描いたものです。

漱石の小説の中ではもっとも地味なもののひとつであり、男女関係の内面をえぐろうとした意欲作であったものの、登場人物にもあまり魅力のない社会小説のような内容であり、虞美人草やコクリコ坂の物語のような悲しい、あるいは哀愁を帯びたラブストーリーが大好きな日本人にはあまり受けませんでした。

このヒナゲシことポピーは、耐寒性の一年草で、初夏に直径5~10cmの赤・白・ピンク・黄・オレンジなどの様々な色の花を咲かせ群生するため、日本各地の庭園で植えられて、「ポピー祭り」なるものがよく開催されているのを目にします。

改良されて八重咲きの品種が多いようで、八重というと豪華に聞こえますが、アヘンがとれるケシやオニゲシに比べるとずっと華奢なかんじで、薄い紙で作った造花のようにも見えます。いかにも弱々しく、すぐに折れてしまいそうな風情があることから、こういう悲恋の物語における象徴花としても使われることが多いのでしょう。

花言葉も、恋の予感、いたわり、思いやり、陽気で優しい、忍耐、豊饒などなどであり、やさしくて芯の強い女性を想像させるようなものが多く、およそ私のような50過ぎのオヤジには似つかわしくない花です。

もっとも、ヒナゲシの花言葉には「妄想」というのもあり、こちらは私にぴったりですが……

この花は、このようにひ弱なイメージがあることから、ヨーロッパでは葬儀の際などに良く使われるようで、この花に対するイメージは日本で言えば「菊」のような印象があちらの人にはあるようです。

とくに第一次世界大戦においてイギリスとその同盟国であった諸国では、赤いポピーがこの戦争における犠牲の象徴とされていて、フランスでもその国旗にある赤色はこの花の色を表しているそうです。

毎年11月11日が「リメンブランス・デー(Remembrance Day)」とされていて、これは1918年の11月11日に第一次世界大戦の講和条約が締結されたことからこの日を記念日としたものであり、イギリス中心としたヨーロッパ各地ではこの日に追悼記念式典が行われます。

イギリスでは、「ホワイトホール」とよばれる中央省庁や政府機関が数多く連立する地区の戦没者記念碑前に女王陛下をはじめ首相や官僚が集まり、戦没者を偲んで毎年この日の午前11時に2分間の黙祷が行われ、ヒナゲシ(ポピー)の花輪が捧げられます。

何故ポピーの花かというと、第一次世界大戦中に、ヨーロッパで戦場になったベルギーやフランスの野では、この当時ポピーの花がたくさん咲いていたそうで、数あるポピーの花の中でもとくに赤い色が戦死者の血の色を思わせることから、赤い色のポピーの花が戦死者のシンボルになったということです。

1915年に、カナダ軍医であり、兵士としてフランスのフランドル戦線で戦ったジョン・マックレア(John McCrae)という人が書いた、戦争の犠牲者を悼む詩も大きく影響しているといわれ、この詞は「In Flanders fields(フランダースの野にて)」という題名でヨーロッパ中で広く知られ、有名です。そのまま引用すると、

“ In Flanders fields “

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

フランダースの野にポビーがなびく
十字架の間に、漕ぐように、
これが私たちの場所、そして空には
ひばりが、雄々しく歌って、飛んでいる
銃の下ではほとんど何も聞こえない 。

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

私たちは死んだ。数日前に
私たちは生きた、夜明けを感じ、輝く夕日を見た、
愛し愛された、そして横たわる
フランダースの野に。

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.

敵との戦い、
失った手からあなたたちに投げかける
光を、あなたたちのために高くかざし、
もしあなたたちが私たち死者の信頼を裏切れば
私たちは眠れないだろう、ポピーが咲く
フランダースの野で。

という内容であり、ヨーロッパの荒れ果てた荒野に累々と横たわる死者のそばのあちこちで咲くポピーの様子が想像され、いかにももの悲しく悲壮なかんじがします。

ヨーロッパ、とくにイギリスでは11月になると真っ赤なポピーの花を胸につけている人をよく見かけるようで、これは、1921年にイギリス王室関係のセクションが、戦没者への募金を集めるために赤いポピーが売りはじめたところ、この運動が年々盛んになっていったためのようです。

現在ではこの日が近づくと店のレジ横などに赤いポピーが置かれていて、毎年多くの人々が募金活動に参加しているということであり、第一次世界大戦からはもうすでに100年近い年月が経っているというのにヨーロッパの人々はまだこのときの痛ましい記憶が忘れられないのでしょう。

日本でも第二次世界大戦後で多くの方が亡くなりましたが、第一次対戦中のヨーロッパと異なり、その国内の戦場の多くは焼け野原となり、ヒナゲシの花の咲くような風情どころではありませんでした。

が、終戦を迎えた夏におもに咲く「野菊」がみられる地方も多く、戦争を主導したとされる皇室の紋章も「菊」であることから、敗戦というと「菊」をイメージする人も多いことと思います。

死者に花をたむけるという風習の起源は、死臭を花の香りで消すためであったというのが定説のようですが、ヒナゲシも菊もどちらかというと芳香漂うという花ではありません。

なのに、これらが死者の花として使われるのは、その花弁の美しさには、この世にあって最高の芸術作品であると感じさせるような何かがあり、その何かがこの世の生命の営みを感じさせるためでしょう。

この世の役目を終えて逝く人には、そうしたこの世の最高のものを持たせたいと古人は考えたに相違なく、時に香り発ち乱れ咲く花は、いつかは一生を終える人間にとっては生命への惜別の象徴でもあります。

花の種類こそ違え、洋も和も問わず人々が死者に花を手向けるのは、花には何かそういう役割というか、深い意味が持たされているような気がします。

ただ、「人はなぜ、死者に花を手向けるか」を論じ始めると、これはかなり奥の深い文化論になっていきそうなので、今日のところはこれ以上この問題について語るのはやめておきましょう。

そういう難しい問題は棚上げにするとして、今はこの風邪をいかになおし、下田へ花を見に行く体力を回復することに執念を燃やすことにします。

まだまだ寒波の襲来が続くようです。みなさんも暖かくて栄養のあるものを食べて体力を温存し、来たるべき「花見の季節」に備えましょう。

軽より高性能の小型モビリティを


最近、日本航空やANAが導入した最新型機、ボーイング787の不具合が続けざまにおこり、話題になっています。

新型の飛行機に限らず、我々が普段乗っている乗用車も、新型が出てすぐにリコールの対象になったりします。リコールなどによる不具合は、それにかかる費用もばかにならないばかりか、信用不安にもつながりかねないため、各メーカーにともそれなりの時間とお金をかけて、新車開発を行っているようです。

しかし、実際に走らせてからでないと出てこない不具合もあって、世界一優秀で故障が少ないと評判の高い日本車であっても、毎年のように何等かのリコール対象になる車が出てくるのはしかたのないことのようにも思えます。

私も若いころには何台かの新型車を買いましたが、思いもかけないところに不具合が出ることがあって、それ以降は新しい車にすぐ飛びつくということはしなくなりました。

現在乗っているホンダ車も、5~6年前に新型車として出たものですが、その後マイナーチェンジを何度か重ねたあとのモデルであり、およそ不具合らしいものはほとんどないだろう、と判断したため一昨年に購入しました。

おそらくは開発段階までさかのぼると、10年一昔前の設計によるものだろうと思いますが、現在の最新型車と比べてとくに燃費が悪いわけではなく、装備や機能としてもとくに不満もなく満足して乗っています。

車に乗っていて一番怖いと思うのは、高速道路などで違法なスピードを出し、いわゆる「あおる」という行為をする車に後ろにつかれたときとか、前後左右を大型のトレーラーなどに囲まれる状況に陥ったときなどであり、こうした際にも十分にその場を「脱出」できるような、最低限の加速とパワーを持った車を買うようにしています。

また、これ以上に怖いと思うのは悪天候のときであり、雨や風はもちろんのことですが、はげしい降雪があったり道路が凍結している場合というのは、運転者にとっては最悪の状況です。こうした天候の悪化にも対応できるようにということで、ここ10年ほどは乗った車はすべて4WD(四輪駆動)にしてきました。

普段は使いもしない重量の重いプロペラシャフトを積んで走っているわけであり、市街地を走る際などにはこれがあだになって燃費も当然落ちますが、いざ天候が悪化した場合の安心感に代えられるものはなく、とくに大雨で前方がほとんど見えず、道路上は水浸しと言った場合や、吹雪の高速道路を走るようなハメになった場合でも、あわてることなくハンドルを握っていられます。

無論、こうした機能に頼っていてばかりではいけませんが、いざ道路へ出れば好むと好まざるとに関わらずこうした急な天候の変化に出くわすことはままあり、また他者が運転する車はいつでも自車への凶器にもなりうるものであり、安全に関する機能はつけられるものであればできるだけつけておく、というのが私の考え方です。

一瞬の事故で車ばかりでなく、自分や同乗者の命を失ってしまうことも考えればそのための出費は安いものです。

経済的な問題もあるでしょうから、全ての方にこうした考え方を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、たとえ軽自動車を買うとしても、快適性能はさておき、こうした安全性能を最優先したオプションチョイスをすべきだと考えています。

もっとも、私は軽自動車は買おうとは思いません。多くの人がこれを選ぶ理由は無論車両価格が安いから、燃費が良いから、税金が安いからでしょうが、あんな不安定な「箱」に乗って、これよりもっと大きな凶器が往来する公道を走るのはゴメンです。

統計的にみても、車両相互での死亡率は普通車に比べて軽自動車では間違いなく高く、1000台あたりの死亡率は1000~2000ccクラスの普通乗用車が1台程度なのに対して、軽自動車はなんとその2倍以上の2.5台です。

最近の軽自動車はその大きさが小さいために、内部容量を大きくするため思い切り背を高くしており、そのために重量が増したため、容易に転倒したり、ブレーキが効かずに追突したりしてしまう可能性が高くなります。

しかも、大きさに制限がありながら、660ccという普通車並みのパワーが与えられ、さらに最近はエンジンの製造技術が進み、一部のスポーツ車ではその排気量には見合わないほどの高出力を出しますが、構造的にはペラペラのこうした軽自動車が、高速道路などで他の普通車に混じって120km以上のスピードで走っているのをみるとぞっとします。

一方では660ccといいますが、これは人一人、ないしは二人分を運ぶのには十分かもしれませんが、多くの軽自動車は4人乗りであり、それを考えるとこんなパワー不足の車に大人4人も乗ることを許可していること自体が国土交通省の認識不足だと私は思います。

私は軽自動車に乗るくらいなら、多少もう少しお金はかかっても普通乗用車に乗ります。たとえ1000ccの普通乗用車であっても、海外へ輸出されているような車種であればそれなりのグローバルセイフティに対応しているはずだからです。

軽自動車は日本国内だけの規格です。海外へ持っていったらこうした危険な乗り物は使いものにはなりません。実際、日本以外でこうした小さい規格の車を造っているのは韓国と中国、そしてフランスだけです。

ただ、フランスのは「フランス・クワドリシクル」といって運転免許がなくても運転できます。が、高速道路も走れず、しかも出力も20馬力以下に限定されています。フランスの法律ではこれは乗用車とは認めておらず、「四輪原付」と呼んでいるようです。

規格からみてこれと日本の軽自動車を同じとみることはできませんから、そうすると軽自動車のようなヘンは車を造っているのは先進国の中では日本だけです。そもそも軽自動車というのがいかに特殊な規格であるのかを理解している日本人自体が少ないのではないでしょうか。

とはいえ、日本のこの軽自動車の歴史もそろそろ半世紀以上になるようで、軽自動車の規格が550cc(現660cc)に設定された1976年からはもう40年近くが経っています。この間、当初のものに比べればそれなりの安全性能も高められた結果、最近ではさらに小型の自動車規格の導入まで取沙汰されています。

「超小型モビリティー」というそうで、排気量125cc以下の超小型車の規格化を日産やトヨタをはじめとする大手メーカーが目指しているようです。

すでに日産自動車は2010年に2人乗りの超小型電気自動車を開発し、横浜市などで公道走行を含む実証実験を進めています。日産を傘下におくルノーもこの姉妹車を開発し、上述の「フランス・クワドリシクル」として、フランス国内をはじめ欧州で販売を開始しています。

トヨタ車体も1人乗りの超小型EV車を開発し、福岡県で実証実験が進められており、この車は既に販売が開始されたといいます。他にもダイハツやホンダ、スズキなどの各社も2011年の東京モーターショーなどでこうしたコンセプトの車を発表しました。

こうした動きを受け、国土交通省も2012年の6月にこうした超小型モビリティについてのガイドラインを出しており、その直後には、これら自動車メーカー各社の開発車両が国土交通省内駐車場に集められ、一部車両の試乗会も行われたそうです。

まだこの超小型モビリティの規格は確定していないようですが、排気量としては125cc程度とし、乗員は二人まで。ただし、重量や大きさはまだ検討中のようです。

主として地域内の手軽な移動・運送を目的とし、従来の「ミニカー」(50cc以下で免許不要)とは異なり、「ある程度の衝突安全性能」を求める、というところまでは決まっているようです。

ここまで小さくなるとさすがに「乗用車」」と呼ぶのさえはばかりがあり、近場の買い物や散のために乗り回す「足」という感覚でしょう。このため、高速道路や自動車専用道は想定されていないようで、この意味では原付と同じです。

ただ、周囲を外板に囲まれていない原付よりも安全、ということで、ひとりまたは二人乗りに限定し、これにかなりの安全性とそれなりのパワーを付加した上で公道を走らせるなら私も賛同できます。

ヘたに原付バイクに道路脇をちょろちょろ走られるより、こうした安定性の高い車が道路の中央をデンと走ってくれるほうがよっぽど安全だと思うからです。が、導入にあたっては、安全性の確保と何よりもほかの乗用車の走行を妨げるようなノロノロ運転をしないように、それなりのパワーとそれに見合った安全性能を与えて欲しいのです。

ちいさな車にパワーを与えた方が良いというと、前述までに書いたことと矛盾するようですが、適正な重量で適格な形状の乗用車にそれに見合った適正なパワーを与えることはむしろ安全性の向上につながります。

ダイハツの軽自動車で、前席2座だけの軽スポーツ車の「コペン」という車がありますが、車重も軽いわりにタイヤサイズも大きく、動力性能も豊かで、とっさの急ブレーキでも高い制動性能を誇るそうです。

私自身は乗ったことがありませんが、軽くて軽快でそのレスポンスの良さによって危険回避をしやすいということを、その多数のオーナーさんが証言しています。

軽自動車の中では車高が低くてこうした安定性のある車は別格といえますが、多くの軽自動車は欲張らずにこうした2座などにして軽量なものを作れば、もう少し積極的に安全性が確保できるのにと思うのです。

従って、「超小型モビリティー」のような新しい規格を考えるのであれば、従来の660ccの軽自動車と統合してその規格を一から見直し、軽量かつ的確なパワーを与え、それに見合った安全性能を確保した車をつくるべきなのです。

ついでに税制を見直し、ばか高い税金が課せられている普通乗用車も、排気量の少ないものに限っては軽自動車同様にすれば、現在軽に乗っている人の普通乗用車へのシフトもしやすくなります。

そして、その下に軽と新しいモビリティを合体させたような規格をつくれば、こうした新しい規格は、現在の軽自動車なんかよりははるかに日本に適した規格になる可能性を秘めているように思います。

ぜひともこういう方向で導入を進めてもらいと思いますが、その前段階として現況のあぶない軽自動車や原付の規格の見直しも行い、これらの車の運行規制も考慮に入れて日本の道路事情の改善をすこしづつ図っていって欲しいものです。