クラウド・アトラス


昨日、20日は春分の日でした。天気予報は曇りということだったのですが、朝起きてみるとそこそこ陽射しもあるので、朝食後、お散歩に出ることにしました。

とくに目的地も決めず、ぶらりと出かけ、修善寺自然公園まで行ってみたところ、桜はまだまだ先のお話、というかんじです。上野公園では早、お花見客であふれかえっているとニュースでやっているのを見ました。これに比べると、ずいぶん遅いかんじですが、標高200mの山の上です、桜も遅いのはあたりまえ。

ついでにお隣の修善寺虹の郷はどうかいな、とちょっと覗いてみるつもりで入園。週中の祝日、しかも午前中ということで、お客さんもそれほど多くなく、ゆったりとしています。こちらも桜の花はまだまだでしたが、菜の花畑やその他の花壇の色とりどりの花々が十分に春を感じさせてくれます。

驚いたのは、シャクナゲの花が咲き始めていること。ここ、修善寺虹の郷では150種2000本あまりの「シャクナゲの森」があって、この花を集めただけの園地は他ではあまりみられないもの。全部咲いたらさぞかしきれいだろうな~と、先日行った黄金崎でもまだ二分咲きだった桜とともに、これからの季節での楽しみになりました。

実はこの日は仕事も一段落したことでもあり、今後のことなどもいろいろ考えてみたく、物思いにふけりたい一日だったのです。が、この散歩から帰ったあとも、なにか物足りないかんじがし、何か刺激がほしいな~と思っていたところ、先日、タエさんが面白そうだと言っていた映画のことを思い出しました。

「クラウド・アトラス」という、トム・ハンクス主演の映画で、「輪廻転生」がいくつかの時代にわたって描かれた作品ということはタエさんから聞いて知っていたのですが、正直なところ、あまり内容はよく知りませんでした。

映画のオフィシャルHPすら見ておらず、人気俳優さんもたくさん出ているようで、「有名」「人気」「流行」とかいったキーワードが大嫌いなひねくれた性格の私としては、どれほどのもんかいなとも思ったのですが、こういうスピリチュアル的な臭いのする映画は昨今あまり制作されていないので、やはり見ておこうという気になりました。

夕方4時半からの放映ということで、昼食後からゆっくりと出かけ、清水町にある「サントムーン」へ到着。祝日の日の映画館とうことで、結構人が多いのかな、と思いましたが、案に反してガラガラで、「クラウド・アトラス」の放映場所も、観客は十数人、といったところでしょうか。ま、静岡の映画館なんて、休日でもこんなものです。

ご存知の方がどのくらいいらっしゃるかわかりませんが、この映画は19世紀から文明崩壊後までの異なる時代に舞台を置いた6つの物語がランダムに進行していくという方式……これを「グランドホテル方式」というのだそうですが……で描かれています。

タイトルのクラウド・アトラスは、クラウド(群衆)が、共通に認識していくべき世界(アトラス)という意味のようですが、原作者がどういうつもりでこのタイトルをつけたのかの本当の意図は不明です。が、いかにもスピリチュアル的な意味合いをかんじさせます。

映画の中では、クラウド・アトラス六重奏という交響曲を主人公のひとりが作曲する、という形でこの名が登場してきますが、物語の進行上はあまり大きな意味はありません。

同じ俳優さんがいくつもの時代で複数の人物を演じ、あるエピソードでは前のエピソードで主役だった人が脇役を演じ、次のエピソードでは今度は逆に脇役が主役に転じるといった複雑な手法が取られており、トム・ハンクスや、ハル・ベリー、ヒユー・グラントといった映画好きの人はおそらく知っているであろう名優さん達がこれを演じています。

海外で人気のサスペンス小説などで同様の手法がよく良く使われており、気をつけて読んでいかないと誰が誰やら、ストーリーすらわからなくなってしまう、という経験をしたことのある方も多いかと思いますが、この映画でもそれと同じ手法が使われています。

6つのお話とその主人公というのは、

・19世紀に南太平洋を船で航海する若き弁護士とその船に密航する奴隷の黒人。
・1970年代。ベルギーで野望を胸に創作意欲を失った老作曲家に売り込みを行う若き音楽家。
・1930年代。サンフランシスコの原子力発電所の汚職を暴こうとする女性ジャーナリスト。
・現代のロンドンで思わぬことから大金を手に入れた出版社の老編集長。
・近未来の韓国でウェイトレスとして生活するクローン人間。
・遠い未来で文明崩壊した弱肉強食の世界の中で僅かな希望に掛ける男。

であり、それぞれ全く時代の違う世界で生きる人間たちがオムニバス形式で描かれていきます。

映画を見たあとにパンフレットを買って知ったのですが、この映画「クラウド・アトラス」の同名の原作を書いた、デイヴィッド・ミッチェルさんは、イギリスの小説家であり、大学卒業後イタリアのシチリアで暮らしたあと、なんとその後、日本の広島市に移動し、ここで日本人の奥さんを貰い、英語講師などをしながら8年間過ごしています。

我々夫婦の郷里にゆかりの人であるということにもちょっと驚いたのですが、その後沖縄県やモンゴルでも生活した上で、長かった日本での生活の際に読んだ、三島由紀夫の「豊饒の海」にヒントを得て、この原作を書いたのだと知り、二度びっくり。

豊饒の海といえば、先日の誕生日に書いたブログでも取り上げたばかりであり、三島由紀夫の最後の長編小説であり遺作です。こちらも「夢と転生の物語」であり、20歳で死ぬ若者の夢と生まれ変わりによって筋が進んでいき、4巻ある各巻毎に主人公に生まれ変わっていくというもの。

三島由紀夫地震の晩年の死生観を描いたものであり、一度読んでみたいなと、私も思っていたのですが、これを読む以前に、こういうかたちでその流れを汲んだ映画を鑑賞することになったのもまた不思議な縁だなと思うのです。

ま、これを偶然と呼ぶべきか必然と呼ぶべきかはまた別の議論にとっておくとして、かんじんの映画のほうですが、感想はといえば、はっきりと言って面白かったです。

我々自身が輪廻とか転生とかいった事象ありきのスピリチュアル的な視点でもいつもモノをみているので、というせいもありますが、普通にSF映画として見る分にも十分に楽しめる娯楽大作だと思います。

ただ、映画を見る前に日経新聞の映画コラム欄で読んだその批評は散々で、「500年の時空を往還し派手な映像で物語るが、魂の不滅の物語と薄っぺらな革命論はいかにもニューエイジ的」とこき下ろしていて、五点満点のうちの星二つしか与えられていませんでした。

確かに、こういう壮大なストーリーをCG映像を駆使したSFXで語るというのは少々軽薄だなというかんじはします。もし、CG抜きで過去から現代までをもっと重厚な歴史物語として描いたらもっと違った映画になっただろうに、と私も思いました。

しかし、そうした作品構成は別においておくとして、生まれ変わるたびに何かを学んで成長していく人(=魂)がいる一方で、何度生まれ変わっても変わらない、変われない人もいるというストーリーは、輪廻転生の有無の議論は別として、現代を生きる我々がよく目にする風景とどこか似ており、身につまされます。

見る人によっては深い意味を持って受け取ることができるのではなでしょうか。

人の心(魂)が長い年月を経て成長していくということが描かれているだけでなく、長い時間を経ても変わらない愛や、いつの世でも自分のことばかりしか顧みない人間の非情さも描かれていて、よくよく観察して見ると個々の役者さんのセリフも意味深に感じられます。

「昨日まで歩いてきた人生が今日、別の方向に向かう」
「なぜ人は同じ過ちを犯すのか、何度も何度も」
「君の運命を僕には変えられない」

ふとしたひょうしに、過去生の自分を思い出して、それを懐かしむあるいは苦しむ、といったシーンもあって、ああこの映画を作った監督さんはそういうことをちゃんと理解していらっしゃる、単に観客の興味を引きたいがためにこうしたテーマを扱ったのではない、と思えました。

別の映画ライターさんの一人は、監督の一人、トム・ティクバさんが、観客たちに対して、「この映画に自分たちと一緒になって飛び込んできて欲しい」、と語っていることに対して、

「飛び込む価値は大いにある。なぜならここには、あなたの好奇心を刺激するだけの興奮があり、あなたの知性を豊にしてくれるだけの情報があり、あなたの視野を広げてくれるくらいの出会いがあるからだ。」
と書いています。

この映画の監督は、「マトリックス」で一世を風靡した、ウォシャウスキー兄弟と、「パフューム・ある人殺しの物語」でも話題になったトム・ティクバの三人の共同作品という形をとっており、このウォシャウスキー兄弟のお兄さんのほうは、マトリックス以後、性転換手術を受けて「女性」となり、現在はラナ・ウォシャウスキーと名乗っています。

このラナさんは、アメリカの性科学者、アルフレッド・キンゼイが発表した男女および同性愛者たちの性生活に関する報告書「キンゼイ・レポート」を引き合いに出し、次のように語っています。

「キンゼイ・レポートが提出される前までは、ヘテロセクシュアルとホモセクシュアルしかなかった。しかしキンゼイは、この二元論的な思考に一石を投じ、もっとより幅広いスペクトラムがあることを提示し、従来の世界の構造を超越して見せた。私たちが作ったこの映画も観客の皆さんに、従来の世界の見方をもう一度吟味するチャンスをもたらし、そういった従来の世界の価値観を超越するような刺激を与えられることを願っている。」

「派手な映像」「薄っぺらな革命論」とこきおろした日経新聞のコラムにストさんは、果たしてこうした映画の深い部分までを理解して書かれたのでしょうか。少々疑問におもいます。

先述のライターさんはこの映画についてこうも書いています。

「知識や好奇心だけでなく、もしかしたらあなたの人生観を変えてしまうかもしれない。3人の異才は、そんな力をこの「クラウド・アトラス」に込めたのだ。」

何が何でもこの映画を見てほしいとまでは言いませんが、好奇心がある方はぜひ映画館に足を運んでみてください。きっとあなたの現在が硬直した状態ならば、その頭脳にきっとに新しい「知識」を与える良いきっかけになると思うのです。

さて、今日は昨日までとはうってかわって少し涼しくなりそうです。お天気もよさそうなので、お出かけしたいところですが、ここ数日連チャンで外出が続いているので、一日ゆっくりしようかな、とも思います。

窓から見える公園の桜が、昨日に比べるとまた少し開花数を増やしたようにもみえます。伊豆のソメイヨシノももうすぐ満開でしょう。週末が楽しみです。

風に乗って……


先週末、ここのところ忙しかった日々の憂さ晴らしにということで、タエさんと西伊豆の黄金崎へ行ってきました。ここのサクラもなかなか見応えがあるということなので、黄金崎って行ったことがないし、これからの桜シーズに備えての下見も兼ねてということでした。

黄金崎ではいま、一番眺めが良い場所のすぐそばの駐車場が改修中であり、このため、国道に近いところにあるもうひとつの駐車場から15分ほど歩かなければなりません。

それでも良い眺めをみたいたから、ということで歩くことしたのですが、この日は天気は良かったものの、あいにくのものすごい風で、歩いているうちには海からの飛沫やら砂ぼこりに加えて、どうやらスギ花粉らしいものが猛烈に吹き付けてきました。

おかげで、花粉症の私は始終鼻をかみっぱなしで、涙は出るわ、目は痛いはで、死ぬような思いをして岬の突端まで辿りつきました。

結果としてここからの眺めはやはり素晴らしく、来てよかった!と思えるようなものでしたが、かんじんの桜はまだまだほんの咲きはじめで、多くの木がたわわになるほどの蕾を蓄えてはいるものの、咲いているのはまだほんの2~3輪といったところでした。

とはいえ、今日はその日から3日ばかり経っており、ことのほか暖かいので、おそらくは明日の春分の日ころにはかなりの量の蕾が花開きはじめるのではないでしょうか。この週末に再度訪問するかどうかはまだ決めていませんが、遅くとも来週には行ってみたいと思います。楽しみです。

それにしても、この「花粉症」には毎年のように悩まされ続けており、なんとかならんかいなといつも思います。

いつのころから花粉症になったのか良く覚えていませんが、学生のころには既に春先になると頭が重い、といった症状をかかえていたと思いますので、おそらくはこのころからなのでしょう。東京でも、多摩地方に住んでいたので、ことのほか花粉が多く、その後の人生においてもこのシーズンになるといつも憂鬱な思いにかられていたものです。

その原因となるスギ花粉ですが、ご存知のとおり、戦後復興や都市開発の目的で木材の需要が急速に高まったがために、日本各地でスギやヒノキなどの成長が早いい樹木の植林がさかんに行われた結果もたらされたものです。

ところが、その後の高度経済成長を経て日本では林業が衰退し、木材も外国からの質が良くて安い輸入品に押されて国内スギの需要が低迷するようになったというのは皮肉なもの。

大量に植えたスギの伐採や間伐なども停滞傾向となり、花粉症原因物質であるスギの花粉だけが増え続けるという結果になり、わが国の花粉症患者は年々増加傾向にあります。

また、多くの町では都市化によって土地が土や草原からアスファルトやコンクリートなどの花粉が吸着・分解されにくい地盤となり、一度地面に落ちた花粉が風に乗り何度も舞い上がって再飛散するという状態が発生するようになりました。

加えてクルマや工場からの排気ガスなどを長期間吸引し続けることでアレルギー反応が増幅され、スギ花粉症を発症・悪化させるという指摘もあり、いまや中国からの有毒物質の流入も含めて、花粉の飛散は現代最大の「公害」のひとつであるとまでいわれています。

スギが少ない欧米等ではスギが原因となる花粉症は稀だそうで、中央アジアや西アジア、ヨーロッパなどではそもそもスギは分布していません。一応欧米にも「スギ花粉症」(pollinosis of cedar)という病名はあるそうですが、このcedarは元々スギではなくヒノキあるいはマツを指す単語で、日本のスギ花粉症とは異なる病気・症状であるといいます。

スギ花粉症患者が多いのは日本などアジアの一部だけであり、世界的にはヨーロッパのイネ科花粉症・アメリカのブタクサ花粉症などが代表的な花粉症なのだそうです。

一説にはエジプト文明の頃よりその存在があったことを裏付ける文献があるそうですが、日本で「花粉症」ということばが一般的になったのは、1963年前後から目や鼻にアレルギー症状を示す患者が急に増加したためです。

齋藤洋三という人が1964年に「栃木県日光地方におけるスギ花粉症 Japanese Cedar Pollinosis の発見」という論文を発表。これが公式なスギ花粉症の発表とされているそうで、この斎藤さんは「花粉症の父」とも呼ばれているということですが、あまりありがたくないお父さんです。

その症状としては、言わずとしれた、くしゃみ・鼻水・鼻づまりおよび目のかゆみに加え、咳も含めた「4重苦」であり、人によってはさらに様々な喉の疾患を併発し、肌のかゆみまで訴えるひともいます。

私の場合は肌のかゆみまではないものの、鼻づまりになるので日々頭が重く、気分も重くなるのが特徴ですが、まああまり気にしすぎているとどこへも行けなくなるので、多少の発症はがまんして、あまりマスクやメガネもせずに出かけています。

しかし、花粉症患者さんの中には、その症状を悪化させて重症になる人もいて、頭痛だけでなく発熱までおこし、喘息や気管支炎などの気管支疾患になる人もいるとか。

とはいえ、スギ花粉のアレルゲン性は、ほかのアレルギー物質に比べると低いほうであるため、アナフィラキシーショックや口腔アレルギー症候群といったひどい症例は非常に少ないそうです。

それでも重症患者が極端に多量のアレルゲンを体内に取り込んでしまった場合には、ごくまれにショック症状を示す場合さえあるそうで、たかが花粉症といえどもあなどれません。重症患者の中にはスギ花粉を見ただけで、「のぼせ」になる人もいて、これは「マイナスプラセボ効果」というのだとか。

スギ花粉症は、既に「国民病」とまでいわれるほどになっているため、その治療法としてもいろんなものがあるのはご承知のとおり。しかし、スギ花粉症は基本的には「アレルギー症状」にすぎないため、現時点では根治療法が存在しないといわれ、したがってこれほどまでに蔓延しているにもかかわらず、一般には対症療法が行われているだけです。

普通は抗ヒスタミン薬などの抗アレルギー薬や漢方薬などを飲む、あるいは点鼻薬や点眼薬などの外用薬を用いるなどですが、経口薬のほうは、スギ花粉の飛散期が2か月以上と長いため、この期間中服用し続けると重大な副作用も出てきやすいそうです。

例えば「セレスタミン」という薬は長期作用型で副腎への抑制効果が強いために1日1錠ペースの投与でも2週間が限度とされており、重症時以外の人が摂取し続けるのはやめておいたほうがいいといわれています。

ただし医師の中にはそういう長期投与が推奨できない薬を、ただ漫然と長期間処方している場合もあります。お医者さんだからといって頭から信じ込まず、どんな薬を投与されているくらいは自分でしっかりと確認しましょう。

花粉症対策としては、こうした対症療法のほかにも、「アレルゲン免疫療法」とかいう免疫療法があるそうで、これは主に、皮膚にアレルゲン(抗体)を針などで無理やりにくっつけてやるという方法で、言ってみれば種痘のようなものです。経口投与による免疫療法もあるそうで、これらの免疫療法では、治療終了後も数年の間、その効果の持続が期待できます。

とはいえ、やはり根本的な治療ではないので、何年かに一度は同じ治療を受けなければいけません。

このほかにも、いろんな民間療法や食餌療法もあるみたいですが、治癒実績や科学的根拠も乏しい治療法も多いみたいで、金儲けのために何の効果もない代物を売りつけられ、問題になったこともしばしば。

それで何の不具合もなければそれでもまあよしとするとしても、副作用によって目が見えなくなるとか、逆に喉の痛みがひどくなるとかいうものもあるようですので、こうした手口にひっかからないよう、くれぐれも気をつけましょう。

花粉症に対する農林水産省などの国の対策もすこしずつ進んでいる、というふうには聞いていますが、なかなかその根絶には時間がかかりそうです。

行政が言うところの、「花粉症対策」とは基礎研究や治療法の開発、花粉飛散の予報技術の向上などといった対処療法ばかりであり、スギ・ヒノキなどの花粉発生源そのものを無くすといった根本的な対策は進んでいません。

しかし、先日の新聞に、スギの花に塗りつけることで、花だけを枯らしてしまう「特効薬」が農林水産省関連の機関で開発されたという記事が掲載されていました。こういった薬が広く日本中で散布されるようになれば、もしかしたら近い将来、花粉症に悩まされることはなくなるのかもしれません。

とはいえ、まだまだ時間がかかるとすれば、あとはもう、スギ花粉がないところへ移住するしかありません。

北海道の大半や沖縄県ではスギ花粉の飛散が少ないそうで、スギ花粉症の患者数も他県にくらべるとかなり低い水準だということです。このため自らを「避花粉地」と称し、「むらおこし」のために、花粉症患者が花粉症の時期のみを過ごす地を設けることを検討している自治体もあるということです。

北海道の十勝地方の山奥にある、「上士幌町」や鹿児島県の奄美群島などがそれで、療養や保養目的の花粉症患者の誘致を既に始めているそうです。

この上士幌町は、然別湖という北海道の湖では最も標高の高い場所にある(標高810m)湖があることで知られている町で、私も行ったことがあります。

この湖には、サケ科イワナ属の淡水魚で、この湖に陸封されることで固有種となった「オショロコマ」という魚がいることでも有名で、ほかに、放流され自然繁殖したニジマス、サクラマス、ワカサギ、ウグイなどが生息しています。

なので、釣り客やレジャー客には人気があるようで、またこの地域一帯は、夏にはすごく大気が安定している高原地帯だということで、この安定した空気を利用して、最近では「気球イベント」が行われるということです。

「北海道バルーンフェスティバル」というのがそれで、なんともう第40回を迎える大会であり、今年も8月8日(木)~11日(日)の4日間の予定で開催されるとか。フェスティバルとはいうのですが、これは競技大会で、日本全国から集まった気球愛好家によるレースが行われ、これを顔見世パンダにして色々な催しが開催されるというもの。

気球といえば、佐賀のバルーンフェスタのほうが有名で、私もこの北海道のほうのフェスタを知らなかったのですが、上士幌町では、1973年に「日本気球連盟」が発足したその翌年の1974年にもうすでに第1回熱気球フェスティバルが開かれています。

このときの参加機数はわずか5機でしたが、1976年の第3回熱気球フェスティバルでは参加機数も14機となり、昨年の39回大会では、オフィシャルバルーン4機を加えた計30機もの気球が青い空を舞ったとか。

先日のエジプトの気球墜落事故が思い浮かぶので、ちょっと怖いなという印象を持つ人も多いと思いますが、聞くところによると日本で気球を飛ばす場合の国土交通省の基準は世界で最も厳しいとのことで、過去にもあまり事故があったというのは聞いたことがありません。

私自身は高所恐怖症なので乗ってみたいとも思いませんが、ふわりふわりと色とりどりの気球が飛ぶさまは一度眺めてみたいもの。しかし、8月ということになるともう既に、花粉の季節は終わっていて、「避花粉地」としてここへ行く意味はあまりありません。

とはいえ、北海道ではこのほか、「富良野バルーンミーティング」というのが2月上旬に、また富良野市で、また「ゆめ気球とかち」が2月中旬に同じ十勝の音更町で開かれ、このほかにも、「流氷バルーンフェスティバル」というのが、小清水町で同じく2月中旬に開かれるということです。

2月中ということなので、まだ花粉はあまり飛んでいない季節かもしれませんが、時間とお金に余裕がある人は、これをきっかけにしばらく北海道に長期滞在して花粉を避ける、なんてこともありなのかもしれません。

とはいえわが身を振り返ってみると、今はその暇も経済的余裕もなく、今年もしかたなく、花粉を運んでくるそよ風に吹かれているしかなさそうです。

が、東京に比べればアスファルトやコンクリートに覆れた土地は少なく、これでも花粉は少ないほうなのかもしれません。とりあえずは、この地に落ち着いてまだ一年。多少の花粉はあきらめるとして、いまだ見ぬ、あまたある多様な自然を楽しむことにしましょう。

さて、今日はお天気もよく、気温もあがりそうです。花粉を避けてこれが少ないどこかへ出かけたいところですが、先日の黄金崎ような海際でもあのあり様ですから、そんなところはなさそうです。

じゃどこへ行くか。映画でも行きますか…… いつ行くか? 今、ではないでしょう。

春の女神

恋人岬にて

最近、春になって暖かくなってきたせいか、いろんな夢をよくみます。先日も妙な夢をみました。

使っていた「スーパーコンピューター」が突然大爆発して、普通のパソコンになるのですが、爆発したためか、中に入っていたデータもパソコン並みに小さくなっており、それを見ていた私は、あぁさすがにスーパーコンピュータだ、たいしたもんだなぁ~と妙に感心する……という、笑っていいのか泣くべきなのかよくわからん内容でした。

まあ、夢なんてたいがいそんなもので、これがいったいどんな意味を持つのかどうかも考えてみましたが、吉兆なのか悪い夢なのか結論は出そうもないのでその解釈はやめることにしました。ま、何か意味があるんならそのうちその兆候があるでしょうし……

ところで、このコンピュータには名前があって、どうやら「クレオ」という名前のようなのです。なぜかその名前だけをよく覚えていて、夢から覚めても頭に残っており、どうにも気になったのでネットで調べてみました。

すると、クレオソートとか、サッカー選手の名前とか、会社名とかいろいろ出てきたのですが、その中に「クレイオー」というギリシア語があって、これはクリーオー、ともいい、日本語では長母音を省略してクレイオ、クリオ、そしてクレオとも表記されるようです。

本来の意味は、「祝福する女」だそうで、ギリシャ語の祝福する(kλεί-εω)に由来するといいます。英語では“Clio“(クリーオー)というスペルになります。

全知全能の神、ゼウスと、「記憶」の女神といわれるムネーモシュネーの間には、カリオペー、エウテルペー、タレイア、メルポメネー、テルプシコラー、エラトー、ポリュムニアー、ウーラニアーなどの娘が生まれましたが、クレオもまたその姉妹になります。

この9人の女神たちは、ギリシア神話で文芸(μουσικη)を意味する、ムーシケー、ムシケ、またはミューズ、ムーサとも呼ばれ、それぞれが「文芸」の一分野を司る女神です。

この九姉妹のそれぞれの名前と司る分野、および持ち物は以下の通りです。

カリオペー(カリオペイア)、英雄叙事詩、書板と鉄筆
クレイオー(クリーオー、クレオ)、歴史、巻物
エウテルペー、抒情詩、笛
タレイア、喜劇、喜劇用の仮面・蔦の冠・羊飼いの杖
メルポメネー、悲劇・挽歌、悲劇用の仮面・葡萄の冠・靴
テルプシコラー、合唱・舞踊、竪琴
エラトー、独唱歌、竪琴
ポリュムニアー(ポリュヒュムニアー)、讃歌・物語
ウーラニアー、天文、杖

私の夢に出てきたクレオは、このうちの「歴史」の担当ということで、このブログでも歴史好きが高じていろんな史実を書いてきましたが、このことと符合したのにはちょっと驚き。もしかしたら、「歴史の女神さま」が私の仕事に対して祝福してくれているのかも……とうれしくもなったりもしました。

ミューズたちの持ち物は、書板と鉄筆、巻物入れなどなどですが、それぞれのミューズの分野が確定し、このように持ち物まで決まったのはローマ時代でもかなり後期の時代になってからのようです。

このうちの、ポリュムニアーだけが「持ち物」の割り当てがないのですが、この女神は、不朽の名声を得る作品を書いた作家に名声を運んでくるのだそうです。たいへんに厳格な性格で、いつも憂いに沈んで瞑想にふけっており、こうした深い瞑想をするためには持ち物など必要がない、ということなのでしょう。

当初の古代ギリシャにおいては、これら9人の女神の分野はとくに割り当てられておらず、それぞれが音楽・詩作・言語活動一般を司る知の女神たちであったそうですが、その後歴史が下るにつれ、ローマ時代の後期のころまでは各ミューズがつかさどる学芸の分野が定められ、現在のような形が出来上がったといいます。

この「ミューズ」は英語やフランス語では、“muse”と書き、フランス語での複数形は“muses”であり、これがすなわち、「音楽」を意味する語“music”の語源となったようです。また「美術館」「博物館」を意味する、ミュージアム(museum)もこのミューズから派生してできたことばです。

ミューズたちは、ギリシャ中央に実際にある「パルナッソス山」という山に住んでいるとされています。

ギリシャ中央部、コリンティアコス湾の北にある、標高2547mもある結構大きな山で、その山塊の多くは不毛の石灰岩でできているそうですが、頂上からは、オリーブの木立と田園風景が展望できるということです。

ただ、冬季には結構寒くなるらしく、スキー場も建設されていて、ギリシャ屈指のスキーリゾートになっているということです。

その昔、このパルナッソス山にはクレオドラというニンフ(山や川、森や谷に宿るといわれる精霊)とクレオポムポウスという人間の男子が住んでおり、この二人の間に生まれたのが「パルナッソス(Parnassos)」でした。

パルナッソスは大きくなって、この山麓に小さな町を作りましたが、度重なる洪水に見舞われたため、山の斜面に避難し、ここに、リュコーレイアという名前の新しい街を作りました。

この、リュコーレイアは、ギリシア語で「狼の遠吠え」を意味し、パルナッソスたちがその昔住んでいた町に大雨で洪水が押し寄せてきたとき、オオカミの遠吠えでその兆候を知り、危うく難を逃れたことに由来するといいます。

一方、パルナッソス山の麓には「デルポイ」という町がありました。この当時のギリシャではこの地に「神の御神託」が下されるとされ、ここでのご宣託は神意として古代ギリシアの各都市に住む人々に尊重され、ギリシャ各所にあった都市国家ポリスの政策決定にも大きな影響を与えていました。

今でいうバチカン市国のような場所ですが、このデルポイにおいてパルナッッソス山に軍神アポローンを祀れ、というご宣託が得られたことから、その後パルナッソス山は、アポローンの聖地としても知られるようになりました。

このデルポイは、その神託をめぐってギリシャ中に噂が駆け回る根源となるほどの情報戦のメッカでもあり、そのご宣託を得ようとギリシャ中の人たちその貢物の献納のために、デルポイに財産庫を築いたといいます。

ちなみに、デルポイの町は現存し、パルナッソス山の西南麓に位置し、アテネから西北へ122kmの距離にあります。

古代デルポイの遺跡としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されていて、アポローン神殿を中心とする神域と、都市遺構からなる「神域」とされる場所に隣接し、有力な各諸都市からの貢物が保管されていた財産庫の跡もあるということです。

このアポローン神殿の壁には1000を超す「メッセージ」が記されているということです。

奴隷の解放がその主な内容であり、条件付きであっても部分的自由を与えるといった内容がほとんどだそうで、これをご宣託というのかどうかよくわかりませんが、長い歴史の間にはそういう現実的な取り決めをするための裁判所のような役割を担うようになっていたのでしょう。

さて、こうしてデルポイでのご宣託により、リュコーレイアを含むパルナッソス山全体はアポローン神を祭る「神山」となります。そして、そこにはミューズたちが住んでいると言われるようになり、ミューズたちが住まうようになったことから、パルナッソス山は詩、音楽、学問の発祥の地として広く知られるようになっていきます。

このミューズたちを主宰して指導する神こそが、軍神であるとともには学芸の神でもあるアポローンであり、その後作られた数多くの叙事詩の中には、アポロンがミューズたちに対しての呼びかけを行うシーンが出てきます。

この呼びかけのことを「インヴォケイション」または、インボケーション(Invocation)といい、現代ではスピリチュアル的な意味合いでよく使われる用語です。身体に神や女神、天使といった神聖な存在を招き入れることであり、神に対する“祈り”と違うのは、この祈りが私たち自身の内部に向かって行われるものであるということです。

長くなりそうなので、これについてはまた、別の機会に書くことにしましょう。

さて、このパルナッソス山に住んでいたという、アミューズの一人、クレオの話に戻りましょう。

このクレオ、何を思ったのかよくわかりませんが、美の女神として良く知られる、アフロディーテーに対してある日、「あなたは女神の身であるにもかかわらず、人間アドニスを恋した」といってアフロディーテを嘲笑します。

これを聞いて怒ったアフロディーテは、クレオに呪いをかけ、この呪いによって、クレオは、自分自身も女神であるのにもかかわらず、人間であるマケドニアのペラの国の王様、ピーエロスに恋をしてしまいます。

そして、王ピーエロスとの間にヒュアキントスという息子を産みました。

このヒュアキントス(Hyakinthos)は、たいそうな美少年に成長し、パルナッソス山の主アポローンにたいそう愛されるようになります。

ところが、ある日アポローンと一緒に円盤投げをして遊んでいたとき、この円盤があらぬ方向に飛んで行ってしまい、岩にあたってその跳ね返った円盤はヒュアキントスの頭を直撃、彼は死んでしまいます。

このとき、ヒュアキントスの頭部から流れた血が地面に溜り、ここから咲いた花が、その後「ヒヤシンス」と呼ばれるようになりました。

実際には現在のヒアシンスとは少し違う種類だったようで、アイリス、ラークスパー、あるいはパンジーの一種でなかったかといわれているそうです。元来ギリシャの田舎の地方で信仰されていた先住民族の植物神の名前だったという説もあるようです。

この「ヒュアキントス死亡説」には別のバージョンもあります。ヒュアキントスは、その美貌ゆえに、アポローンだけでなく、西風の神ゼピュロスにも溺愛されていましたが、ヒュアキントスは彼の愛の告白を拒絶してしまいます。

そして、ある日アポローンとヒュアキントスが仲睦まじく円盤投げをしているのを見たゼピュロスは嫉妬に狂います。そしてアポローンの投げた円盤がうまくヒュアキントスに当たるよう風を操り、そしてそれを頭に直撃されたあわれなヒュアキントスは死んでしまう……というのが別バージョンです。

このように、ギリシャの神様たち、とくにアフロディーテはしばしば美少年に恋をし、ひと悶着をおこしています。ヒュアキントスの母、クリオが人間と結婚することになったのも、アフロディーテが恋したアドニス(Adōnis)という美少年がきっかけでした。

アドニスは、フェニキアの王キニュラースとその王女のミュラーの息子でした。つまり、一応人間ということになっています。

キニュラースの家系は代々、アプロディーテーを信仰していました。がしかし、王女ミュラーはとても美しかったため、一族の誰かが「ミュラーは女神アプロディーテーよりも美しい」とうっかり発言してしまいます。

これを聞いたアプロディーテーは「何を~~!」っと激怒し、娘のミュラーが実の父であるキニュラースに恋するように仕向けました。

こうして実の父親を愛するようになってしまい、思い悩んだミュラーは、自分の乳母に正直にその気持ちを打ち明けます。そして、彼女を哀れんだ乳母は、ある祭りの夜に二人を引き合わせることにします。

ミュラーには顔を隠すように指示し、その通りのいでたちで父親と密会しますが、まさかそれが自分の娘だとは知らないエロジジイ、キニュラースは、あろうことか彼女と一夜を共にしてしまいます。

しかし、その夜更けのこと、明かりの下で彼女の顔を見てしまったキニュラースは、それが自分の娘のミュラーだと知ってしまって驚き桃の木(山椒の木)。

娘のふしだらな行為に怒った彼は(自分も未成年に手をだしたくせに)、いったんはお城に返したミュラーを部下に命じて殺させようとします。しかし、ミュラーはあやうく乳母の助けを受けて難を逃れ、城から落ち伸びることができ、逃げに逃げてとうとうアラビアまで来てしまいました。

この一連の騒動をみていた神々は、はるばるアラビアまで逃れてきてひとりぼっちになったたミュラーを哀れにおもい、「ミルラ(没薬)」の木に変えてやります。

こうしてミルラの木になり、アラビアの地で一人さびしく泣きくらしていたミュラーですが、ある日、その木に猪がぶつかり、木の幹が裂け、飛び散りました。そして、木の幹の中から生まれたのが、アドニスでした。

ちなみに、ミルラ=没薬(もつやく)は、古くから殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていたほか、ミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されており、ミイラの語源はミルラであるという説もあります。

聖書にも没薬の記載が多く見られ、聖所を清めるための香の調合に没薬が使われたという記述もあるそうで、イエス・キリストの埋葬の場面でも遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたことが記されており、東洋でも線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていたようです。

ミルラとなったミュラーは、アドニスが生まれてからも涙を流し続け、この涙=樹液を飲んで、アドニスは成長していきました。

アドニスは、赤ん坊の時から、既にもう神々を魅了するようなうっとりした美しさを持っておりり、ミュラーに父を恋させ、失意のどんぞこに追いやった、あのアフロディーテーも、このアドニスにうっかり恋をしてしまいます。

そして、アプロディーテーはこの赤ん坊を自分で育てようと考え、アドーニスを箱の中に入れると、冥府の王ハーデースの妻で、冥府の女王のペルセポネーの所に預けることにします。

アフロディーテはペルセポネーに、けっして箱の中を見るなと注意しておいたのですが、ペルセポネーは中から聞こえてくる赤ん坊の泣き声を聞いて、とうとう好奇心に負けてしまい、箱を開けてしまいます。

すると、そこにはこの世の子とは思えないほどの美しい赤ん坊が入れられており、彼を見たペルセポネーもまたアドーニスに一目ぼれしてしまいます。大きくなったら自分のツバメにしよう、とペルソポーネが思ったのでしょうか、ともかくこうしてアドーニスはしばらくペルセポネーが養育することになりました。

アドニスはすくすくと成長し、美しい少年になったため、これを聞いたアフロディーテーが彼を迎えにやって来ました。しかし、彼を育て上げ、溺愛するようになっていたペルセポネーはアドーニスを渡したくないと思い、2人の女神は争うようになります。

しかし、この争いには容易に決着がつかず、ついに二人は天界の裁判所に審判を委ねることにしました。

その結果、1年の3分の1はアフロディーテーがアドニスと一緒に過ごし、3分の1はペルセポネーと過ごすことになり、残りの3分の1はアドーニス自身の自由にさせるということで決着がつきました。

ところが、アドニスは何を思ったのか、かつて自分の母親をいじめたこともあるアフロディーテのほうが好きになり、自分の自由になる一年の3分の1の期間も、アプロディーテーと共に過ごすことを望みます。

アドニスを手塩にかけて育てたペルセポネーは、アドニースのこの態度に大いに怒り、「ふんとにこの子は、あれほど私がかわいがってやったのに、あんな年増のオバンの、アフロディーテのどこがいいのかしら」…… といったかどうかわかりませんが、多いに不満を持ち、次第にその気持ちは憎しみに変わっていきました。

成長したアドニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していました。パトロンのアフロディーテは、狩りは危険だから止めるようにとアドニスにいつも言っていましたが、アドニスはこれを聞き入れませんでした。

そして事件が起きます。アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーが、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をしたのです。

これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼の前に飛び出して彼を突きとばします。そしてあわれアドニスは岩に頭をぶつけてあっけなく死んでしまいました。

これを知ったアフロディーテーはアドーニスの死を、大変悲みますが、あとのまつり。アドニスの死んだ場所に行って泣き暮らしていましたが、やがてアドニスの流した血のあとからは、一輪の花が咲きました。

そして、後年、この花は「アネモネ」と呼ばれるようになりました。

アネモネはギリシア語でもともとは「風」を意味することばであり、アドニスとは縁のないことばでしたが、いつのころからかアドニスが流した血から生まれたこの花のことをアネモネと呼ぶようになり、ときにこの花のことを「アドニス」とも呼ぶそうです。

そして、「アドニス」はその後「美少年」の代名詞としても広く使われるようにもなりました。

こうして、アドニスの死を嘆き悲しんだアフロディーテですが、その後は愛の女神としての性格を強め、同じく愛の神のエロースと共に、愛恋の神様として、現在の乙女たちには最も人気のある女神さまになりました。エロースは、アフロディーテーテがその後アレースと情を交わして生んだ子であるという伝承もあります。

ギリシャ古来の神様のように思われていますが、元来は古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられるそうで、この時代、アフロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあったということです。

そして、今でも春になると、自ら恋愛をする傍ら人々のそばに行っては、彼らの情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出しているということです。

なので、暖かくなった昨今、あなたのそばにも、もしかしたらアフロディーテが立っているかもしれません。

春です。若き人は恋をしましょう。そしてジジイのわたしは…… 花見にでもいきましょう。

劇薬にご注意


今日の誕生花は、「ドクニンジン」とあったので、どんな花かいな、と思って調べてみたら、セリ科の有毒植物のひとつだそうで、ちょっと見た目にはパセリにも見えることから「毒パセリ」とも呼ばれるようです。

花言葉は、「死も惜しまず」だそうで、今日3月15日に生まれた人は、そんな献身的な人なのかな~と、思って調べてみると、騎手の武豊さんが1969年の今日生まれています。きっと死をも恐れず、馬を走らせているんだろうな~と思ったりもしますが、確かに乗馬は危険なスポーツには違いありません。

このドクニンジン、かつては日本に自生していませんでしたが、近年ヨーロッパと気候の似た北海道の山野では帰化植物となっていて普通にみられるそうで、このためパセリなどと間違えて採取され、食べた人が死んだ例も報告されているとか。

北海道だけでなく、東日本でもしばしば水辺やどぶなど、水はけの悪い土地で発見されるということで、とりわけ若葉は、パセリや、山菜のシャクと見間違えやすいそうなので、パセリにみえても摘んで持って帰らないように注意しましょう。

とはいえ、ドクニンジンは、鎮静剤や、痙攣止めの用途のために昔から使われてきた薬草でもあるそうで、古代ギリシアや中世アラビアの医学では、関節炎などのさまざまな難病の治療にドクニンジンを用いたといいます。しかし、治療法によっては必ずしも効能が期待できるわけでなく、服毒量も多いと危険が高く、呼吸困難に続いて麻痺や言語障害を引き起こし、死に至りかねないそうです。

この点、今真っ盛りのウメも同じで、ウメの実は漢方薬として使えるそうで、燻蒸(くんじょう)して真っ黒になったものを、「烏梅(うばい)」といい、これを服用すると、健胃、整腸、駆虫、止血、強心などの効果があるということです。

しかし、ウメの未成熟の青い果実の種には、青酸配糖体(アミグダリン)という物質が含まれているため、青ウメを種ごと食べてしまうと、腸内にある細菌が持っている酵素により、この物質がシアンを生成します。

このシアンは実は猛毒であり、これが胃酸によって反応してり有毒性を発揮すると、痙攣や呼吸困難、さらには麻痺状態になって死亡するといわれています。ただ、ほんの少し青ウメを食べたくらいでは、シアンを生成するほど胃酸や胃の消化酵素が分泌されないので、大量の種子をかみ砕く、などといった無茶をしない限りは、青ウメを食べたからといって死ぬ、などということはめったにないようです。

こうした天然にあるシアンをうまく科学的に調合して作られるのが、シアン化合物であり、そのひとつのシアン化カリウムは、いわゆる「青酸カリ」(青酸カルシウム)とも呼ばれ、劇薬の代表選手として最も有名な存在です。

その、経口致死量は成人の場合150~300mg/人と推定されていて、胃酸により生じたシアン化水素が呼吸によって肺から血液中に入り、体内の重要臓器の細胞を「壊死させる」ことで死に至らしめるとされ、このため、青酸カリを飲んで中毒した人の呼気を吸うのは、非常に危険ということです。

実際に飲んだことがないのでよくわかりませんが、摂取した場合の症状としては、めまい、嘔吐、激しい動悸と頭痛などの急速な全身症状に続いて、血液のpHが急低下することによる痙攣が起きるそうです。

致死量を超えている場合、適切な治療をしなければ15分以内に死亡するといい、青酸カリで死んだかどうかは、静脈血が明るい色になって皮膚に浮き出てくるのでひと目でわかるといいます。ちなみに一酸化炭素中毒も同じように、静脈が浮き出てくるそうなので、一酸化中毒なのか、青酸カリで死んだのかわからないときには近づかないようにしましょう。

ただ、青酸カリで死んだ人の死体の死斑は必ずしも明るいピンク色ではないとする説もあって、「青酸ガス」による中毒の死斑であれば間違いなくピンク色なのだそうですが、口から青酸カリを飲んだ場合には体表面に特徴的な死斑が現れない場合も多いのだとか。

どのみち、ご縁がないことを祈りたいクスリですが、もし、これから警察官にでもなろうというご希望がある方は覚えておいたほうがよいかも。

ついでにもうひとつ豆知識としては、青酸カリを口から摂取して胃酸と反応するとアーモンドまたはオレンジ臭、アンズ臭を発するそうで、ここでいうアーモンド臭とは、収穫前のアーモンドの臭いであり、お菓子に使われるアーモンドエッセンスの甘い香りと異なり、甘酸っぱい香りだそうです。

なので、アーモンドチョコレートを食べた彼、または彼女から甘酸っぱいアーモンドの香りがしたからといって、逃げなくても大丈夫ですからご安心を。

ちなみに、ミステリー小説などで、青酸カリは口から飲まない限り毒性はない、などと書いているものもあるようですが、これは真っ赤な嘘で、実際には経口でも注射でも両方で即死させることができ、青酸ガスの場合は、皮膚からも吸収させることができるといいます。

ただ、胃酸と反応して発生するシアン化水素が死に至らしめる中毒の原因であることから、仮に青酸カリを舐めても、その直後に口内を洗浄すれば毒性を発揮しないそうなので、ここのところをうまく使えば面白いミステリーが書けるかも。

このほかにも、ミステリーでは青酸カリを「あらかじめ塗っておいた」食べ物を、仕掛けた犯人が逃げおおせたあとに、知らずに登場人物が食べて死ぬ、つまりは犯人のアリバイが成立する、なんてのもあると思いますが、実際には空気中では青酸カリは、炭酸水素カリウムや炭酸カリウムに変化してしまうので、これはあまりありえない設定なのだとか。

また、化学変化なんかしていなくても、青酸カリを混ぜた食べ物は、味が強烈なうえ、強アルカリ性なので口の中に激痛が走るため、致死量に至る青酸カリは通常は吐き出されるということで、「私がバナナに塗っておいた青酸カリで、彼は死んだのよ!」 なんて描写も実際にはありえん話なのだそうです。

その昔、ロシア帝国の皇室を牛耳って宮廷人事を意のままにあやつった、「怪僧ラスプーチン」という悪人がいましたが、このおっさんに宮廷貴族たちが危機感を抱き、ついに暗殺計画が立て、ラスプーチンを晩餐に誘い、彼の食事に青酸カリを盛ったといいます。

しかしラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も、まったく平気の平左だったそうで、まるでその態度にも変化を示さず、周囲を驚愕させたといいます。ラスプーチンは、甘いものが何よりも好物で歯を磨く習慣がなかったため、虫歯だらけだったそうですが、この暗殺の時もお菓子に青酸カリを盛られたといいます。

おそらくはこのケースでも、お菓子に入れた青酸カリが時間が経って化学変化を起こして無害になったため、食べても大丈夫だったのでしょうが、こうした事実もあったことから、ラスプーチンは、「怪物」といわれるようになっていったようです。

しかし、その怪物伝説は、ウソではなかったらしく、その後何度も暗殺計画があったにもかかわらず、その都度死からよみがえり、その最後のときも、食後に祈りを捧げていたラスプーチンに背後から鉄製の重い燭台で、頭骨が砕けるまで激しく殴打された上、大型拳銃で2発の銃弾を撃ちこまれたといいます。

それでも反撃に出るラスプーチンに対してさらに2発、計4発の銃弾を受け、倒れたところに殴る蹴るの暴行を受け、最後には窓から道路に放り出されたとか。それでも息が残っていたので、絨毯で簀巻きにされ、さらには凍りついた近くの川まで引きずられ、氷を割って開けた穴に押し込まれ、これでようやく怪物も死んだか、と暗殺者は思ったようです。

ところが、驚くなかれ、三日後にラスプーチンの遺体が発見され、警察の検視の結果、肺に水が入っていた事から死因は溺死とされたといいます。

川に投げ込まれた時もまだ息があったというわけで、もし簀巻きから解放されて岸に泳ぎ着いていたら、歴史は変わっていたやもしれず、本当にゾンビのような強靭な肉体を持った人物だったことがわかります。

……さて、毒の話を書いていたらだんだんとエスカレートしてきて、自分でも気持ち悪くなってしまいました。

今日は根を詰めて仕事してきたので、少々疲れ気味。息抜きのつもりでしたが、返って疲れてしまいました。明日以降はもっと楽しい話題にしましょう。

でもみなさん、けっして青ウメを大量にかじらないようにしましょう。

サ・ク・ラ


正月からこの方、NHKの大河ドラマ「八重の桜」をずっと「観察」しています。

福山雅治さんの「竜馬伝」以来、3年ぶりの幕末モノということで、歴史の中でもとくにこの時代のはなしが好きな私としては、非常に楽しみにして見てきました。

残念ながら視聴率のほうはあまりふるっていないようで、初回には20%以上あったものが次第に落ちてきて、先週の放映では15%そこそこにまでなってしまったようです。

何が原因なのかな、と考えてみるのですが、ひとつには登場人物があまりこれまでクローズアップされてこなかった人達ばかりなので、馴染にくいというのがあると思います。しかもいろんな人物が登場しすぎていて、その人物像を追っているうちに、ストーリーがよくわからなくなってしまう……ということがあるのではないでしょうか。

今放映されているのは、長州勢力が薩摩と会津の結託により、京都から駆逐されていく……という、その後幕末に吹きまくる嵐の前の前哨戦の話であり、この時期というのは歴史上でも地味~な話が多いので、こうした事件ばかりとりあげられているここ数回はとくに視聴率が低いのかもしれません。

この翌年(1864年)、追い落とされていた長州が起死回生を狙って起こした事変、蛤御門の変(禁門の変)が起こり、このあと時代は薩長同盟が結ばれて大きく転回していくことにもなるので、このあたりになれば少しは視聴率もあがっていくのかもしれません。

ところで、こうした番組のストーリー性とは別に、この番組を見ていて少々気になっているのは、物語の描きかたがものすごく会津寄りに描かれている点です。

会津といえば時代の流れに逆行した藩ということで、これまで逆賊呼ばわりされていた人物達をクローズアップし、地震や津波被害で苦しんでいる福島のひとたちを勇気づけたい、という意図はわかるのですが、この時代に会津人がとった行動をあまりにも美化しすぎてちょっと強引じゃないの?と思えるシーンが時々みられます。

私の郷里が山口県であり、長州人の視点でこれを見ているせいもあるのですが、吉田松陰が会津に逗留して山本覚馬と深い親交を結んだとか、松平容保役の綾野剛君が涙を流して時の天皇をお守りする決意を述べるシーンなどをみると、ホントにそんなことあったのかな~としらじらとした気分になってしまいます。

確かに吉田松陰は幕府に捕えられるまえに東北行脚をしており、その際に会津藩の藩校である日新館の見学などをしているようですが、八重の兄である山本覚馬とそれほど親交があったという記録はないと思います。

このほかにもあまり歴史には登場してこなかった人物と歴史上の事実を多少強引に結びつけて無理やりストーリーを造っているようなシーンが各所で見られるのがとても気になります。

もっとも、このあと物語は会津戦争に突入していき、多くの有能な会津人が死んでいくシーンに入っていくわけで、その伏線として今のように少しオーバーな描き方をしていれば、のちの放送分でその悲劇の衝撃度がより増すだろう、という脚本家さんならではのたくらみもあるのでしょう。

脚本を書いているのは、「お宿かわせみ」や「ゲゲゲの女房」などの作品で好評を得た「山本むつみ」さん、ということで、こういう人情話を描いた作品では人気の作家さんのようです。が、本格的な歴史ものは、あまりたくさん手がけられていないようなので、そのあたりの経験不足が出ているのかな、とも思ったりもします。

ま、テレビドラマの専門家でもない私がとやかく言うのもなんですし、所詮は「ドラマ」にすぎないので、あまりぐだぐだ言うのはやめましょう。少々気になるところは置いておいて今後もその内容を楽しんでいくことにしましょう。これまで私自身あまり知らなかった事実もいろいろ描いてくれていることですし……

ところで、タイトルの「八重の桜」の「桜」はこの番組でこのあと、どういう扱いをされるのだろう……なぜ、桜なんだろう、と妙に気になったので調べてみましたが、とくに理由らしいものは見つけられませんでした。

おそらく「八重桜」にひっかけたネーミングだと思うのですが、もしかしたら「八重」という名前は、山本八重さんが、八重桜の咲く季節に生まれたために両親がそうネーミングしたのかも……と思って調べてみたら、八重さんは12月生まれでした。

なのでどうも桜とはあまり関係なさそうです。その生涯にも桜と関連するエピソードはなさそうなので、こちらもまた脚本家の山本さんかNHKのウケねらいのネーミングなのでしょう。しかし、桜の季節が終わってもこの視聴率、果たして保ち続けられるでしょうか……

さて、このサクラですが、実は「突然変異」が非常に多い植物として知られているそうです。花弁やおしべの変化、花の大きさ、色、実の多さなどの特徴が、あるとき突然ガラッと変わった品種ができることが多いそうで、こういう性質があるからこそ、品種改良も数多く行われるようになったということです。

なので、日本では非常に親しまれた花ということもあり、数多くの園芸品種が作られ、野生種、自生種だけで100種程度のサクラが存在し、各々の野生、自生種の特徴を継がせながらの配合も行われた結果、現在では固有種・交配種を含め600種以上もの品種があるそうです。

サクラのおおもとの原産地はヒマラヤ近郊だということがわかっており、日本だけでなく、北半球の温帯地域に広範に分布しているそうで、日本では、北海道から沖縄までのほぼ全土で何らかの種類が生育可能だということです。

さまざまな自然環境に合わせて多様な自生種がはぐくまれ、伊豆大島が原産のオオシマザクラ、エドヒガンやヤマザクラなどが日本では原産種に近い品種です。

とくにオオシマザクラは突然変異を起こしやすい種だったため、これから数多くの園芸品種が品種改良によって造りだされ、自然種から改良されてできあがった園芸品種全体を「サトザクラ」と称して、まとめて分類することもあるということです。

多くの品種改良が江戸末期に行われ、明治以降、その風習が日本全国各地に広まり、いろ九州から北海道まで至るところで、その地の気候風土にあったいろんな種類のサクラの品種が開発されていきました。

このように日本人は、桜の木の花を楽しみたいがために、その花を変化させるために多くの努力が払われてきた歴史があるのに対し、西欧では「花よりだんご」ということで、その実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良がおこなわれてきたといます。

このため、花が多かったり八重などの見栄えのよいものには興味はなく、むしろ虫害への強さや、樹形、木の高さ、寒さや暖かさへの強さなどに配慮した園芸品種が多く造られ、いわゆる「サクランボ」が作られるようになりました。

こちらは、「桜」というよりも、「桜桃」という亜種だそうで、別名「甘果桜桃」といい、一般には「セイヨウミザクラ」とよばれます。もともとはイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していたものをヨーロッパ人が品種改良しておいしい実をつける木に仕立てあげたものです。

日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルという人によって北海道に植えられたのが始まりだとされ、その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

ほとんどのサクランボの木は「自家不和合性」といって自分の木に咲いた花だけでは受粉ができず、ほかの木からの受粉が必要です。サクランボの木も桜の木もイチョウのように♂♀があるわけではなく、その多くが雌雄同株だということです。

前に梅について同じようなことを書いたような記憶がありますが、桜も同じであり、庭に一本植えただけでは実をつけません。よそから「結婚相手」をみつけてきてやらないと「子供」はできないのです。

さて、こうして大きくなってたくさんの花や実をつけるまで大きくなったサクラも、その幹や枝をむやみやたらに傷つけると、そこから腐って枯れてしまうことが多いそうです。

その昔は剪定した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺が生まれました。

私も庭に梅を植えていたのでよくわかるのですが、梅の木はバシバシといじめるくらいに切ってもぜんぜん平気ですぐに枝を伸ばして元通りになってしまいます。

これに対して桜はかなりセンシティブで、ちょっとした植え替えをしただけのつもりだったのに、数日もしないうちに枯れてしまって残念な思いをしたことが何度かあります。

花見の宴会でサクラの木を折って騒いでいる人達をときどき目にしますが、これは実は大変なタブーということで、こうした悪い観光客が増えたためにサクラ並木全体が弱ってしまい、ついにはお花見もできないほど荒れてしまったという事例もあるということです。

これからのお花見シーズン、桜の枝は折らないように節度を保ちましょう。

お花見といえば、その代表選手はやはりソメイヨシノ(染井吉野)ですが、こちらは自然種であるエドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれたと考えられています。ソメイヨシノはほぼ全てクローン、つまり同じ同体から作られた同じDNAを持つ品種ということです。

これが何を意味するかというと、クローンであるがために、株ごとのばらつきも小さく、つまり、条件さえあえば一斉に咲くということです。日本全国、北から南まで温度変化があるため、咲く時期が微妙にずれていきますが、これら全国の桜をもしすべて同じ場所に集めて植えたら、すべて同じ時期に咲くはずです。

なので、例えば東海地方や、関東地方などの一地域であれば、ほとんどの桜が一斉に咲き誇り、また一斉に散っていきます。桜といえば、驚くべき爆発的な開花をする、という印象を持つのはこのためです。

ソメイヨシノがさかんに植えられるようになる江戸時代以前の日本では、少しずつ別の株、別の種に移りながら、様々な桜が咲いては散っていくというのが、普通の姿だったそうです。

温度変化や雨の寡多が散る散らないの原因となり、花が咲いた後に気温が下がるいわゆる「花冷え」が起こると花は長く持ち、花が盛りになった後に雨が降るといち早く散ってしまう、しかもそれがそれぞれの違った品種の桜によってあちこちで起こる、という昔ながらの風情は逆に今は見られなくなってしまった、ということになります。

ソメイヨシノがなぜそれほど人気になったかといえば、その花弁の色や形が見目麗しいというのはもちろんのことなのですが、その最大の理由は葉より先に花が咲くことです。

このため葉っぱが生い茂る中で咲くヤマザクラなどに比べ、格段に開花の姿が華やかに映り、かつ成長の早いソメイヨシノは多くの公園施設に植えられ、また川沿いの堤防に植えればそこに根を張って堤防を強くしてくれるということで、こうした水際には特に好んで植えられています。

一方では、若木でもきれいに花を咲かせてくれるため、一般家庭でも好まれ、明治以来、自宅の庭に植える人も徐々に全国で広まっていきました。

戦後の日本はあちこちで焼け野原になりましたが、この殺風景な景色の中で、若木でも花を咲かせるソメイヨシノは人気があり、このため「復興の印」という意味を含めて、戦争で元気を失った日本人の多くが好んで植樹するようになり、今や日本でもっとも一般的な桜となりました。

ただ、あまりにも人気がありすぎて、多くの場所で植えられている反面、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられているということは、「遺伝子汚染」を引き起こすのではないか、と憂慮する向きもあるようです。

遺伝子汚染とはつまり、各地の野生の桜などがすべてソメイヨシノの子孫になってしまう可能性があるということであり、日本特有の原種が駆逐されてしまう可能性もあるわけです。これも良し悪しですが、「多様性」の保全という意味からは、今後はあまり同じ品種ばかり植えないようにしていくべきなのかもしれません。

もともとクローンとして造りだされた品種であるがためか、桜としての寿命も短いようで、数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べ、ソメイヨシノでは高齢の木が少なく、「60年寿命説」なる俗説もあるようです。

老木の少なさの原因ははっきりしていないようですが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もあります。

以前、NHKの番組で見たのですが、ソメイヨシノは接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木が腐って心材腐朽を起こすケースも多いということで、公園や川の堰堤に植えられているソメイヨシノの多くがこうした内部腐食を起こしているそうです。

内部から腐っていくので見た目にはよくわかりませんが、ある時から急激に弱っていくようで、台風などが来たときに強風が吹いてこうした木がぽっきりと折れる、というのもよく目にします。たいがいは中が腐っており、強風によって立木全体を保つだけの力が内部腐食によって弱っているためです。

また、ソメイヨシノはクローンであるために全ての株が同一に近い特性を持つ、と先ほど書きましたが、この性質がゆえに病気や環境の変化に負ける場合には、多くの株が同じような影響を受ける、という側面もあります。同じ川沿いに咲いていた桜が、ある年にはまったく花をつけない、ということがしばしばみられるのはこのためです。

こうしたことから、ソメイヨシノの寿命は他の自然種よりも短いといわれますが、実際にはかなりの老木もあちこちでかなりみられるようで、例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しており、また神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在するといいます。

青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功したそうです。こうした技術が日本全国に「輸出」されれば、より長寿のソメイヨシノが生まれ、またきれいな並木が回復する、といった事例も増えてくるに違いありません。

桜はよく、「日本人のこころ」といわれます。なぜそれほどまでに日本人は桜が好きなのかといえば、それは桜の開花した姿が美しいからだけではなく、散って行く儚さや潔さが日本人のこころの琴線にひっかかるからでしょう。

古くから桜は、「諸行無常」といった感覚にたとえられており、そのぱっと咲き、さっと散る姿そのものが、はかない人生を投影する対象でした。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしています。

この「潔よさ」こそが、人の「模範」であると見て、江戸時代以降は、しばしば武士道のたとえにもされてきました。ただ、すぐに花が散ってしまうということは、家が長続きしないという想像を抱かせるため、意外にも桜を家紋とした武家は少ないといいます。

明治時代に新渡戸稲造が著した「武士道」には、「武士道とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」と記されているそうで、こうした考え方を軍の規律に利用しようとした旧日本軍では、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

海軍飛行予科練習生、通称「予科練」の生徒の制服の「七つボタン」には「桜に碇」のマークがあしらわれ、これは軍歌「同期の桜」でも歌われ、戦争末期に造られた特攻機にも「桜花」の名前が与えられるなど、「華と散る」ということばは、戦死や殉職の暗喩としても用いられました。

現代においても、桜は春を象徴する花として日本人には最も人気の高い花であり、ある携帯電話会社の調査などでも、その回答者の8割が桜を「とても好き」と答えているそうです。桜が咲く時期は年度の変わり目に近く、様々な生活の変化の時期とも重なるため、より一層その存在が記憶に残りやすいということとも関係があるのでしょう。

「さくら」という呼称は、富士の頂から花の種をまいて花を咲かせたとされる、富士山の祭神「コノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)」の「さくや」からとったのではないか、という説もあります。

この「富士に桜」というのは、日本人にとってはたまらなく好きなモノ同志の組み合わせであり、「最強」のコンビです。今年も桜の咲くころには、富士山と一緒に写真をとろうと、富士五湖周辺や伊豆に進出してくるアマチュア写真家も多いことでしょう。

かくいう私も昨年は、引越し直後のことでもあってその片付けに追われ、写真など撮っている場合ではない、という状態でしたので、今年こそは……という思いがあります。

静岡で「さくら名所100撰」に選ばれているのは、大室山の麓にある「さくらの里」と御山町にある「富士霊園」だそうです。このほか、先日行ったばかりの河津の桜もさることながら、沼津にある香貫山や、松崎町の那珂川堤の桜が見事だというので、今年はぜひ訪れてみたいと思います。

気象庁が定める「桜の開花予想」に使う東京のサクラの標本木は、靖国神社境内にある特定のソメイヨシノだそうです。本来標本木がどれであるかは非公開となっているそうですが、東京の標本木については2012年にどの木が標本であるかを公開したとのこと。

静岡ではどこの木が標本木だかわかりませんが、探し出してぜひみなさんにもお伝えしたいもの。今年の開花予想は平年よりやや早くて、東京では22日ころとのことです。ということは静岡では1~2日早いのでしょう。

いち早く満開になった桜を撮ってまた、このブログでもアップしたいと思います。しかし、まだまだ河津桜にも間に合うはず。この週末は別のところの河津桜を探してみようかと思っています。

みなさんはもう見ましたか?見ていない方はまだまだ間に合うと思います。急いで休みをとって、伊豆へ見に出かけましょう。