神か仏か…… ~富士山

おとといのこと、この日は朝から富士山が良く見えました。いま、山口から来て滞在中の母は、富士山が大好きで、我が家からも良く見えるその姿をみて大興奮。

こりゃー、もっとよく見せてやらんといかん、ということで、この日は、伊豆南部の松崎のほうへ連れて行こうかとも考えていたのですが、急きょ、進行方向を180°変え、芦ノ湖方面へ行ってみることにしました。

いつものように、三島から国道1号に乗って、箱根峠まで上がり、ここから西進して御殿場まで行くのですが、途中の芦ノ湖スカイラインからは、どアップの富士山がよくみえ、バーさんの興奮もさらにエスカレート。

この日は麓の三島などでは気温は20度を超えていたのですが、スカイライン上の気温は、16°前後と低く、下界では既に散ってしまっている桜やモクレンがまだまだ満開の状態でした。桜と富士を同時に写真に収める機会というのはなかなかないもので、私としても初の経験であり、親孝行をしたことによる思わぬ余得となりました。

このあと、御殿場に下り、ここで食事をして、さらに、富士山の北側に回るべく、山中湖へ。これで、自宅からみえる南からの富士山に加え、芦ノ湖スカイラインからの東側の富士山、そして山中湖からの北側の富士山の「3方面作戦」が完遂。

あとは西側だけ、ということで、このあと本栖湖近くの公園で今開かれている「富士芝桜まつり」会場をめざしたのですが、このころから天候が悪くなり、会場に着いたころには、富士山は全く見えなくなっていました。

これにより、一日で富士山の4方面のすべてを見るという野望も潰えてしまいましたが、3方面だけとはいえ、これだけ大きな富士山を目の前で見ることができた母親の喜びようは尋常ではなく、あー、連れて来てやってよかった、と思ったものでした。

それにしても、こうしたいろいろな角度からみた富士山のかたちは、当然のことながらその表情をいろいろ変えるものだなと、改めて感心してしまいました。

いつも自宅からみている富士山は、右下部分に大きな宝永山火口がありますが、東側の芦ノ湖からのこの火口は、左下に見えます。この「アクセント」の場所によってかなり、印象が変わります。

また、雪面と地肌の境界線がある場所も、いつも我々が南から見ている富士山は左右一直線にまんべんなく、左右同じ高さにあるのに対し、東側から見た富士山では、左から右下へ向かってこの境界線が下がっており、いつも同じレベルの雪原線に見慣れている私には、「何かヘン」にみえてしまいます。

また、北側の山中湖側からみると、この雪原線の場所は、ぐっと下のほうに下がります。山体全体がより白く見え、「真冬の富士山」そのものです。

これは、南側のほうが日中、太陽の日差しを浴びる時間が長いため、その部分の雪が融けやすいためにほかなりませんが、そんな当たり前のことも、同じ日に違う角度から富士山をみると、確認できてしまったりします。

さらに北側からみる富士山は、東側や南側からみる富士山に比べて、山頂部分がやたらにとんがって見えます。これは富士山頂の「お鉢」の北側部分の峰々が南側よりも凸凹しているためです。

また、北側から見た富士は、左右のシンメトリーもややいびつになり、「左肩上がり」のように見えますが、これは富士山東北側へ流れた溶岩流のほうが、西側よりも多かったためでしょう。

これら各角度からの富士山の見え方は微妙なものなので、普段富士山を見慣れていない人にとってはどうってこともない程度の違いなのかもしれませんが、これだけ毎日富士山を見て暮らしていると、ちょっと違う角度の富士山を見ただけで違和感を感じてしまうというのは不思議なものです。

もっとも、いずれの角度からの富士山も、それぞれの美しさがあり、優劣がつけられるようなものではないのですが、私としては、やはり右下に宝永山火口の“あばた”があり、雪原線が水平な、静岡県側からの富士山が一番好きです。「ウチの子一番」といったところでしょうか。

しかし、私のこうした好みだけではなく、昔から富士山の山体そのものは「駿河国」の所有物であるという考え方が普遍的だったようです。

万葉集には、「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」と万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が書いており、また平安時代の役人で学者の都良香(みやこのよしか)も「富士山記」という伝承を記した書物に、「富士山は、駿河国に在り」「富士山は駿河の国の山で(中略)まっ白な砂の山である」などと書いています。

日本最古の物語といわれる「竹取物語」にも、富士山のことを「駿河の国にあるなる山なむ」と書かれており、古くから富士山は駿河の国、つまりは静岡県にあるものということが一般認識だったようです。

とはいえ、これは主要な交通網が東海地方に集中しており、富士山の眺めを見る機会は南側からのほうが圧倒的に多かったためでしょう。もしも古代に東海道のような主要幹線が山梨県側にあったら、その帰属は甲斐の国と目されていたかもしれません。

現在においては、富士山は、静岡県側では、富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町などに所属し、また山梨県側では、富士吉田市、南都留郡鳴沢村などにまたがっていて、たくさんの市町村がその山体を共有しています。

とはいえ、これらの市町村に登録された自動車のナンバーは「富士山」ナンバーのいわゆるご当地ナンバーで統一されており、ゆるくまとまったひとつの地域である、という印象はあります。

また、前にもこのブログで書いたような気がしますが、その昔から「富士信仰」という富士山をご神体として考える宗教があり、この信仰では、富士山の山塊全体を「神体山」と考え、信仰の対象としているため、そこには境界など存在しません。

現在も、古くからの取り決めをもとに、富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き、ほとんどの部分が、富士山信仰の御本家、「浅間大社」の境内となっており、この部分の税金は浅間神社が払うことになっているようです。

ただし、山頂のこの部分の山梨、静岡両県の境界線をどこにするかという問題は、長年争われているにもかかわらずまだ決着していないと聞いています。ということは、どちらへどれだけの固定資産税を払うのかも決まっていないということになります。国税の収入が滞っているといわれる昨今、そこのところはいったいどうなっているのでしょうか。

この富士山頂を「所有する」浅間神社は、富士山をコノハナノサクヤビメを祭神と考え、これを信奉者たちが神霊として祀っている神社であり、その総本宮は麓の富士宮市にあり、こちらは富士山本宮浅間大社と呼ばれています。

そして富士宮市街にあるこの神社が「本宮」であるのに対し、富士山頂に据えられている浅間神社は「奥宮」と呼ばれています。

富士山の山頂がこのように一法人の所有物になったのは、徳川家康による庇護の結果です。

富士信仰を奉ずる人々が、家康から本殿などの造営や、富士山に上る人に入山料として徴収した「内院散銭」を得る権利を得たことから、その後成立した江戸幕府から、正式に八合目以上の土地が、この信仰者たち、すなわち法人としての浅間神社に寄進されました。

その後、明治維新以後は、この土地が浅間神社に帰属するか否かという問題は放置されたままになっていましたが、こうした歴史的経緯を踏まえ、30年ほどまえに、その土地の所有権は富士山本宮浅間大社にあるとした最高裁の判決が下りました。

そして、2004年には富士山の山頂8合目以上の登山道、トイレ、測候所などを除く385万平方メートルの土地の所有権は、財務省東海財務局から無償で同神社に譲渡されたわけです。

ところで、江戸時代よりも前には、富士山の山頂部は「仏」の世界と考えられている時代があったのをご存知でしょうか。

現在は富士山は神の山とされており、山頂に8つある峰々は「八神峰」あるいは、「富士八峰」と呼ばれ、それぞれに神様が宿っているとされていますが、その昔はこれらは神様ではなく、仏様として奉られており、その名も「八葉」と呼ばれていました。

8つの峰々とは、最高峰3776mの高さの剣ヶ峰を筆頭に、白山岳(釈迦ヶ岳:3756m)、久須志岳(薬師ヶ岳:3725m)、大日岳(朝日岳:3735m)、伊豆岳(観音岳・阿弥陀岳:3749m)、成就岳(勢至ヶ岳・経ヶ岳:3733m)、駒ケ岳(浅間ヶ岳:3722m)、三島岳(文殊ヶ岳:3734m)などです。

カッコ内の旧名称を見ても、そのいくつかは、釈迦や薬師、観音などといった仏様の名前になっているのがわかるでしょう。そもそも、これら各峰は仏教関連の名称より由来していたものでしたが、その多くが、明治元年の神仏分離令によりその名称が変更されたものです。

ちなみに、これらの峰々は、剣ヶ峰を除いてすべて富士山頂の北側に位置しており、山梨県側の山中湖などからみた富士山の山頂が凸凹しているように見えるのはこのためです。

古い時代の日本では、神々への信仰が特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的でしたが、ここへ仏教が伝来してきたことから、伝統的な「神」観念に大きな影響を与えるようになりました。

仏教が社会に浸透する過程では、伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、奈良時代以降にはさらに神仏関係は次第に緊密化し、平安時代にはついには、神仏混淆(しんぶつこんこう)、あるいは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれる、空前の神仏合体時代が訪れました。

これにより、もともとは富士山も神様の山だったものが、いつの間にか仏様の山になっていきます。鎌倉時代の書物である「吾妻鏡」では、富士山の山体を「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という風に呼んでいたと記録されています。

また、鎌倉時代中期の文永年間に書かれた「万葉集註釈」にも「いただきに八葉の嶺あり」と書かれており、その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できるといいます。

富士山頂の8つの峰々が、仏教的に「八葉」と呼ばれるようになったのも、このころからのことです。日本各地では、仏教の普及とともに、神様と仏様が同時に祀られるようになり、急速に神仏習合が進んでいきます。

やがて神仏習合は、駿河の国においても浸透するようになり、江戸時代までには、富士山周辺では、富士山をご神体とするたくさんの富士菩薩、または浅間菩薩を祀るお寺さんがたくさんできるようになりました。

ところが、明治元年(=慶応4年、1868年)になって、神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることになりました。

この法律による寺社分離は、その後明治の半ばころまでには、ほぼ全国に広がり、このころまでには従来のように神社かお寺かよくわからん、といった形態の寺社はほとんどなくなりました。

多くの場合、お寺の中にあった神社は別の場所に移され、新たな神社を作るか、もしくは寺を廃して、それを神社とする、あるいはその逆などの改変が加えられましたが、大規模なものでは、それが無理だったため、お寺の中に神社が残されたまま、といったものも残りました。

その典型が、高尾山にある、「高尾山薬王院」と、その“境内”にある「飯縄権現(いずなごんげん)」です。薬王院のほうはお寺さんなので、手を合わせるだけですが、飯縄権現さんのほうは神様であるため、柏手を打ってお詣りをします。

薬王院は、744年(天平16年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、本尊に薬師如来を安置して創建されたという由緒あるものですが、飯縄権現のほうは、その後、永和年間(1375~79年)に京都から移遷した飯縄権現をも守護神として奉るようになったものです。

薬王院には、その後、江戸時代初期の寛永年間(1624~44年)に不動明王を本尊とする奥の院も造られるなどさらに発展し、飯縄信仰のほうも高尾山全体を修験道者の道場として繁栄するようにことになったことから、典型的な神仏習合社となりました。

しかし、両者とも由緒正しいものであり、またあまりにも大きな組織となっていたため、明治になってからの神仏分離令においても、完全分離できず、現在のような形態のまま残りました。このため、高尾山に出かけた多くの人がお詣りに来ても、果たしてお寺に参ったのか、神社だったのか、すっきりしないかんじで帰って行かれるようです。

この神仏分離令ですが、これが発令されたそもそもの目的は、この高尾山の例にもあるように、従来はお寺なのか神社なのかよくわからない組織を分離し、神社とお寺、それぞれから税金を取りやすくするということでした。

そもそも神社分離の考え方は、江戸時代からあり、それを敢行した藩もありましたが、江戸幕府としては、寺社の多くが抱えている既得権益の領域に踏み込むことができず、その全国基準をとうとう作ることができませんでした。

ところが、江戸末期に急速に発展した「国学」という学問がその牙城を崩す要因となっていきました。

国学とは、本来は日本の古典文学を研究する学問です。江戸中期に急速に普及し、その研究者としては、本居宣長(もとおりのりなが)などが有名です。

それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を古事記や万葉集といった古典や古代史のなかに見出していこうとする学問であり、いわば、古代日本人のそもそもの心象風景を明らかにしようとした、「国粋主義」的な学問です。

伏見稲荷の神官であった荷田春満という人が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱え、これを体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵であり、その弟子としてこれを更に深く追求したのが本居宣長でした。

本居宣長の時代には、国学の源流はほぼ完成されていましたが、さらにこれに夢中になったのが、本居宣長の弟子と「自称」していた平田篤胤(あつたね)でした。

平田篤胤は、1776年(安永5年)8月24日に出羽久保田藩(現在の秋田市)の大番組頭であった下級武士の大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下に生まれました。

現存する史料からは、不幸な幼年期を送ったようであり、父親からは、頭が悪く落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたといいます。

そんな境遇から逃れるためか、20歳の時に故郷を捨て江戸に出奔していますが、無一文同然で頼る処ところもなかったため、生活の苦難と戦いながら勉学に励みます。苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊きなどもしていたそうです。

1800年(寛政12年)、25才になったころ、勤め先の旅籠で、備中松山藩の藩士で、代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまって養子となり平田姓を名乗るようになります。

平田篤胤が本居宣長の弟子を「自称」していたというのは、そのことを詐称していたのではないかと考える人が多いためです。

その根拠としては、平田篤胤はそもそも生前の宣長とは面識がなかったらしく、宣長が没した後2年ほど経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようです。

知人に送った手紙には、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと書かれているそうで、没後の門人として加わるために涙ぐましいウソをついています。

また、のちの書いた自伝によれば、本居宣長が死ぬ直前に宣長のことを知り、門下に加わろうとしたと書かれており、その後すぐに宣長は没してしまったため、没後の門人としてその名を宣長が主唱していた塾に置かせてもらったとも書いているとのことです。

ところが、色々な歴史研究によれば、篤胤は、宣長が生きているころにその存在を知ったというのさえウソだったことがわかっており、自分の学派をかつて宣長が研究していた国学の正統として位置付けるため、史実を改竄したのではないかというのがもっぱらの見方のようです。

とはいえ、平田篤胤という人は努力の人でもあったようで、そのためかなり学識豊かでもありました。しかし、夢の話を知人に平気で送るような人でもあり、どちらかといえばオカルト的なことが好きな人物だったようで、こうした「不思議」が吸引力となり、多くの門人を持つ結果につながっていったようです。

一種の呪術者のような存在といってもよく、彼の周囲には弟子といいながらも「信者」というかんじの門人が多く集まっていたといいます。

いずれにせよ、本居宣長は真面目な古代史研究者でしたが、平田篤胤は宣長の弟子であると偽りを言い、国学の正統的な継承者としての自己の能力を周囲に喧伝したかったというのが事実のようです。篤胤がその後完成させた国学の中身はともかく、学問成立に至る動機はかなり不純なものでした。

こうして、国学の「権威」になりすました篤胤は、やがて日本のオリジナルなものはすべて仏教伝来によって破壊されたと考えるようになりました。

そして、日本人の霊性も、仏教という異国の宗教によって穢され、歪められたとして、古来行われてきた神仏習合も仏教によって神道が穢された状態であるとし、神道を仏教伝来以前の姿に戻すべしとして「復古神道」を唱えるようになっていきます。

それまでは、本居宣長が研究していたような国学は、「古典文学研究」にすぎませんでしたが、この思想が加わることによって国学はやがてある種の「宗教」のようなものに変わっていきました。

ちょうどこのころ、日本の近海には外国船がしばしば出没するようになり、日本人は外国にたいする脅威を感じ始めていました。そんな背景もあり、平田の唱えた排他的・排外的な国学は、かなりの信奉者を生みました。

とくに寺に既得権利を脅かされることの多かった神社の神主には熱烈に支持されるようになりましたが、同時にこの考え方に傾倒していったのが、幕末に「尊皇攘夷」をとなえるようになった「志士」たちでした。

比較的新しい幕府はよりも、古来から君臨する天皇をより尊重すべきだと考える人たちの中には、この国は純粋な日本人によってのみ統治されていくべきだという、国粋主義的な考え方を肯定する人が多く、このことから、平田国学の熱烈な信奉者になる者も多かったようです。

そして、その考え方の影響下にあっては自然と、外国はけがらわしい、獣のような異国人に神国日本を蹂躙されてはたまらないと考えるようになり、やがて開国に反対し、攘夷の実行を幕府に迫っていきます。

かなり、偏った考え方であることは誰が考えても明らかですが、結果としてはこの平田国学の浸透が、尊皇攘夷運動のエネルギー源となり、のちには討幕運動に発展し、新しい時代が生まれる要因になっていったことは皮肉なかんじがします。

ところが、この平田国学は、明治になってからも、国を築いていく人々の間に根強く残っていました。

かつて外国など穢らわしいと考えていた勤王の志士たちも、じっさいに自分たちが政権を担うようになってからは、外国人を疎外するというのはどだい無理だとわかり、このため諸外国の力を得ながら近代化を図る、西洋化政策をとっていきます。

ところが、収まりがつかないのは、かつて志士たちを思想的に「指導」した平田国学者たちでした。

こうした国学者たちも維新の功労者にはちがいはなく、今や明治政府を主導する立場となったかつての志士たちも、自分たちもその昔は外国人を毛嫌いしていたくせに、その考え方を「指導」してくれた国学者たちをむげに切り捨てることはできませんでした。

このため、これらの古い考え方をもった国学者たちにも何等かの役職を与える必要があり、とはいえ、できるだけ実際の政治には口を出させないようにすべく、「神祇官」という役職を考え出しました。

神祇官とは、宗教政策を担当する職種であり、実際には政治にかかわることができませんが、その名の通り、かつての神社やお寺を管轄し、ここから税金を取るなどの役目を一手に握ることができます。

こうして、神祇官となり、一定の権力を得たかつての国学者たちは、平田篤胤が唱えていた「復古神道」、つまり神道を仏教伝来以前の姿にもどす、ということを実践するため、政府に働きかけて実現させたのが「神仏分離令」です。

これにより、神社なのかお寺なのかよくわからん、といった寺社は高尾山のような特殊な例は別として次々とその姿を消していき、明治政府としては、これらの寺社の管理を国家制度に取り込むことによって、彼らが信徒から徴収していた貢金の一部を税金として確実に徴収できるようになりました。

しかし、その一方では、非常に重大な問題が生じました。寺社分離令を施行し、お寺と神社を別々に分離して建て直す過程において、無数の文化財が破壊されることになったのです。

この政策は、日本史上最悪の文化破壊ともいわれ、これによって多くの寺や神社で仏像や神像が破壊されただけでなく、それまで神仏折衷のまま存在していた建築様式の多くが破壊され、姿を消していきました。

また、一方では、靖国神社などの国学に基づく、「純粋な神社」も新たに建てられるようになり、これを建設したのも平田国学を信奉する、江戸時代から生き残った国学者たちでした。

別の見方をすれば、神仏分離というこの政策によって新たな文化が生み出されたという考え方もできるかもしれません。その後に生まれ変わった文化をすべて悪いという評価はできないと思います。

しかし、明治の初期、権力を得た国学者たちが、自分たちの権益の拡大のために、神道の国教化を推進しようとしたのはまぎれもない事実であり、これがその後はびこるようになった軍国主義につながっていったことは確かです。

さて、富士山周辺の神仏分離の話をしようとして、熱が入り、話がずいぶんと飛んでしまいました。

ともかく、こうして神仏分離令が発せられたため、富士山周辺においても、あちらこちらにある神社やお寺で、仏像の取り壊しなどが進んでくようになります。

現在、富士宮市の村山というところにある村山浅間神社は、かつては、同じ境内にあって、大日如来を祀る大日堂や僧坊などがあり、これらを一体として「富士山興法寺」と呼ばれていました。

しかし、神仏分離令によりそれぞれが分離され、大日堂は人穴浅間神社となり、富士山興法寺としての「仏教部門」の機能は事実上消滅してしまっています。なお、興法寺の境内にもともとあった、大棟梁権現社というお社は廃止され、場所を移して「富士大神社」として祀られています。

さらには、山梨県の富士吉田市上吉田にある「北口本宮冨士浅間神社」でも仁王門や護摩堂などが取り壊されています。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名が「八神峰」に変更されたのもちょうどこのころのことです。

こうして、かつては「仏の山」でもあった富士山は現在ではすっかり、「神山」となってしまい、今や富士山に向かって、ナムアミダブツと唱えるような人は皆無となっています。

それというのも、一人の経歴詐称歴のある学者のため、というふうに考えると、一体日本の文化って何ナノ?という気にもなってきます。

もっとも、平田篤胤が没してからは今年でもう170年にもなります。この間、明治・大正・昭和・平成と時代は移り進んでおり、明治のころ大きな変革が起き、その後定着していった現在の文化も、現代の我々が慣れ親しんでいるという意味では純然たる日本の文化であることには間違いありません。

靖国神社の可否や天皇を男性に限定してしまった現状の天皇制の問題など、この時代に遡った課題が現在も解決されずに引き継がれてきているのもまた事実ではありますが……

さて、夕べあたりからかなり気温が低くなり、かつこの週末は天候も悪くなるようで、今朝も富士山は見えません。私が富士山は神の山ではなく、もともとは仏の山だと書いたために、コノハナサクヤヒメが怒ったのかもしれません。

なので、今日はこれくらいにして、神の怒りが静まるのを待つことにしましょう。来週明けにはまた天気も回復しそうです。そしたら今度はぜひ、今回見ることのできなかった富士山の西側を確認しに出かけようかと思います。

富士山の西側には、朝霧高原という広々とした高原地帯があるのですが、今回は天候悪化のために満喫できませんでした。新緑が深まるころ、ぜひ再訪したいものです。

日帰り富士山一周の旅、みなさんもやってみませんか?

伊豆の瞳 ~伊東市


先週までは天候不順のことが多かった伊豆ですが、日曜日くらいからは天気がよく、今日も一日陽射しに恵まれるようです。

この上天気を連れてきたかのように、今週初めに山口の母が我が家にやってきて、滞在しています。気候もよくなってきた頃でもあるし、一度ゆっくり温泉にも浸かりたいし、我々の新居もみたいし、ということで、遠路はるばるやってきてくれたのです。

今年もう81才にもなるバーさんですが、私が小学生のころには、ママさんバレーのキャプテンなどもやっていて、地方大会で優勝などしたこともあります。高校のころには、陸上の選手として、国体にも出たことがあるということで、この年になってもかくしゃくとしています。

昨年、肺血栓をやって倒れるという、彼女にとってはこれまで経験したことのなり大病を患い、生まれてはじめての入院までしましたが、今は元気になり、前と同じように外を自由に歩き回っています。

そんな母に、伊豆観光もいろいろさせてやろうということで先日、伊東の大室山にタエさんと三人一緒で行ってきました。

大室山は、静岡県伊東市にある標高580mの火山です。以前も一度、このブログで紹介したことがあります。北海道の昭和新山などと同じく、火山としては数少ない国の天然記念物のひとつであり、山域一帯は富士箱根伊豆国立公園にも指定されています。

山焼きが毎年行われるため大きな樹木はなく、一年生植物ですっぽりと覆われており、遠くからみるとのっぺりとした禿山にみえます。頂上まで、有料のリフトで登ることができ、ここからは伊豆半島東岸とそれに隣接する山々はもとより、気象条件が良ければ、北は南アルプスから富士山、箱根の山々までみえます。

さらに海の方に目をむけると、東から南に伊豆大島をはじめとする伊豆諸島、遠くには三浦半島から房総半島、東京スカイツリーまでも望むことができる……というのですが、この日は天気は悪くはなかったのですが、富士山はもとより、房総半島も見通すことはできませんでした。

大室山は伊豆東部火山群の活動の一端として約4000年前に噴火した単成火山です。マグマが噴き上がってできた多孔質の岩石が累積することによってできる「スコリア丘」であるということは前にこのブログでも説明しました。

山頂まで上がると初めてわかるのですが、この山の中央には、直径およそ300m、深さが70mもある火口跡があり、その周囲は約1kmもあるスリバチ状になっています。

このすり鉢の上端をぐる~っと一周する遊歩道も整備されていて、ここからは上述のような大パノラマをみることができます。太古の昔、ここから流れ出た溶岩流は、すぐ東側の相模灘に流れこみ、海を埋め立て、これが「城ヶ崎海岸」の独特な海岸を造り出すとともに、なだらかな地形をも形造り、これが現在の伊豆高原の別荘地となっています。

さらに南へ流れた溶岩は谷をせき止め、「池」という地名の場所に小さな湖を造り出しましたが、地元の人が、この湖の水を排出するためのトンネルを掘り、湖を干あげてしまったので、ここは現在は水田になっています。

大室山山頂からここをみると、周囲はでこぼこしているのに、ここだけは真っ平な田んぼになっているので、すぐにここが湖だったことがわかります。

さらに北に流れた溶岩流の一部は、大室山の北側にある一碧湖にも流れ込みました。

大室山ができたのは、4000年ほど前であり、比較的若い火山といえるでしょう。ところが、この一碧湖は、およそ10万3500年前に起きた激しい水蒸気爆発によってできた「マール」であると考えられています。

「マール」は、もともとドイツ西部のアイフェル地方の方言で「湖」を意味することばです。アイフェル地方にはこのようにして生じた湖沼が70か所以上に点在していて、俗に「アイフェルの目」とも呼ばれているそうです。

このマール、水が豊富にある場所でマグマ水蒸気爆発が起こったとき、爆発によって生じた円形の火口の周囲には、マグマの堆積物からなる低い環状の丘が形成されますが、火口の真ん中にはぽっかりと穴が開きます。

火口底が地下水面より低い場合は、ここに、水が溜まることが多く、一碧湖もこうしてできたものです。

一碧湖は南東から北西に伸びたひょうたん型をしており、北西側を「大池」と呼び、南東側の比較的小さいほうは「沼池」と呼ばれています。

この大池と沼池の窪地は、それぞれ別の爆発でできた火口跡であり、ここに地下水が貯まって湖が形成されていたところに、約4000年前、およそ4キロメートル離れた大室山の噴火によって流れ出た溶岩流の一部が流れ込み、これが「十二連島」になりました。一碧湖の美しい景観を形作っている造形のひとつです。

実は我々が一碧湖を訪れるのはこれが初めてでした。いつも伊東へは買い物その他で良く出かけ、その途中でこの湖の真ん中を通る市道を通ることもあったのですが、クルマを止めて周囲を歩いてみたことはありませんでした。

大池と沼池は、そのちょうど境を市道によって分断されていて、この中間地点に無料の駐車場もあります。ここへクルマを止めて大池のほうへ歩いて行くと、案内標識があり、これをみると、大池のほうは周囲ぐるりと一周できる遊歩道が整備されているようです。

また、沼池のほうは、湖とはいいながら、その名のとおり沼地状態の場所であり、葦などの植物が繁茂していて、やや見通しも悪く、周囲を歩いていける遊歩道も途中で途切れています。沼池は水位が低いときには大部分が干上がることもあるといいます。

この二つを合わせた一碧湖は、「伊豆の瞳」とも称されているそうであり、なぜ「瞳」といわれるかというと、その美しさにも由来するのでしょうが、二つの目のように、二つの湖があるからだと、後になって気がつきました。

二つとも満々と水を蓄えていれば確かに瞳のようにみえるかもしれませんが、沼池のほうは瞳と呼ぶにはちと苦しいかんじであり、さしずめ、「半目」といったところでしょう。

この一碧湖、1927年(昭和2年)には日本百景にまで選定されているそうで、確かに、周囲をうっそうとした森に囲まれた静かな湖畔は幻想的で、非常に美しい湖です。我々が訪れたこの日は、新緑のころのことでもあり、湖面のブルーと新緑の緑が良くマッチしていて、美しいことこの上ない景色でした。

昭和初期には与謝野鉄幹・晶子夫妻が当地を訪れて数多くの短歌を残したということで、その歌碑が湖畔に作られた公園に立っていました。

何しに東京からこんなところにまで来たのかなと調べてみると、昭和初期といえばちょうどこのころ晶子は、17年かけて作成中だった6巻本「新新訳源氏物語」の完成間際だったようであり、その創作にあたってのイメージづくりのためにこの地を訪れたのかもしれません。

源氏物語の「宇治十帖」という草には、その最後に「夢浮橋」という項があるので、この作品の背景描写のためにこうした幻想的な景色を参考にしたかったのでしょう。

夫の鉄幹のほうの昭和初期といえば、1930年(昭和5年)には雑誌「冬柏」を創刊し、1932年(昭和7年)には、上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たすなど、最晩年で一番光り輝いていたころのことです。

しかし、その3年後の1935年(昭和10年)は、気管支カタルがもとで62才で死去しています。おそらくは、夫婦二人でこの一碧湖で過ごしたその一時期は、生涯において美しい思い出となったことでしょう。

この一碧湖、ヘラブナなどの釣りを楽しむ場としても親しまれているようで、我々が行ったときもたくさんの人がルアー竿を片手にあちこちの水辺を獲物を探してうろうろされていました。

ここは、外来種のブルーギルが日本で初めて放流された場所としても知られています。1960年に当時の皇太子明仁親王(今上天皇)がアメリカ外遊の際に寄贈されたものを、水産庁淡水区水産研究所が食料増産を図る目的として飼育。その後、ここに放流されました。

このことがきっかけとなり日本各地に生息域を拡大していきましたが、ブルーギルの繁殖力と生命力、捕食力はすさまじく、その後、その食性が日本の池や湖の生態系に大きな脅威となっていきました。

ブルーギルは、小動物から水草まで何でも食べ、汚染などにも適応力があるだけでなく、卵と稚魚は親が保護しているため、なかなか捕食者は手を出すことができません。こうした習性からブルーギルは短期間で個体数を増やすことができ、爆発的に日本の各地でその分布を拡げました。

その後起こったバス釣りブームの際には、バス釣り業界の関係者や愛好家の手によりブラックバスの「餌」と称して各地の湖沼に放流され、これがブルーギルの繁殖をさらに助長する結果となってしまいました。

さらには、生活廃水で汚れた水でも生息できるため、一度広まってしまった個体数を減らすことは難しく、現在では生態系維持と漁業の観点から日本中の湖沼でその存在はかなりの問題とされています。

このブルーギルが今や外来種として深刻な問題を起こしていることについて、今上天皇は、天皇即位後の2007年第27回全国豊かな海づくり大会において、「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と発言されたそうです。

この天皇の発言にもあるように、当初は食用として養殖試験なども行われ、各地の試験場にも配布されましたが、その後、成長が遅く養殖には適さないことが判明しました。

原産地の北米では大型のものが釣れ、フライパンでバター焼きにするとおいしいため、パンフィッシュ “Pan fish” と呼ばれて愛されているようですが、日本の湖沼で釣れるものは、大型にならず身が薄く、骨が多くて調理や食べる際にも手間がかかります。

味そのものは、タイにも少し似て美味しいようですが、いかんせん、小さい個体は食材としては調理しにくいため、養殖して大きく成長させなければ食材としての価値は出ません。

現在は、養殖どころか既に外来生物法によって特定外来生物に指定されており、各地で駆除が進められるようになっています。むしろ、食用にせよ何にせよどんどんと釣り上げられ、数が減るほうが日本の自然環境には良いことのようです。

我々が、一碧湖を訪れたときにも、あちこちの湖畔の緑陰でこのブルーギルらしき魚を目撃できました。木陰であまり動きもせずに、ひらひらと泳ぐその姿はなかなか愛らしく、嫌われもののようにはみえません。無論、この一碧湖だけで生息する分には何も問題はなく、アメリカから無理やり?連れてこられたブルーギルには何の罪もありません。

ところで、この湖畔公園には、一碧湖に昔から伝わるとされる、民話を紹介している表示板もありました。この湖に住む、「赤牛」にちなんだものであり、それはこんな話です。

その昔、この一碧湖のある周辺の地域には神通力持った「赤牛」が住み着いていましたが、水を飲む場所がだんだん少なくなったため、新しい住みかを探しはじめました。

そこで見つけたのが、この「吉田」の地にあった、大池(一碧湖)でした。この赤牛、年をとった赤牛の化け物だといわれていましたが、見つけたこの池は大きな池ですから、漁師の舟とかもよく通ります。

赤牛は、それがうるさかったのか、ここに住みつくようになってからは、たびたび通る舟をひっくりかえしては、 村人を困らせていました。また、ときどき娘や竜に化けて里人をたぶらかすわるさをしていました。

あるとき、里の与一という若者が、山仕事をおえ、夕焼け空を映した湖のほとりをとおりかかったとき、美しい娘が立っているのに気がつきました。その娘は、まるで湖面に映る月のように美しかったことから、仕事の疲れも忘れて、与一はふらふらと娘のそばに寄っていきました。

……すると、娘は岸辺からするすると湖のほうへと入っていき、ついには腰までつかり、そして与一に向かって、何もいわずにおいでおいでと手招きをするではありませんか。これは自分に好意を持ってくれているのだと思い込んだ与一は、娘の顔をもっと身近に見たさに、湖の中に入っていきました。

しかし、娘の姿がようやく見えそうになったときには、既に深い深みに入り込んでおり、ズブッと湖底の泥にはまり込んだと思った瞬間、ずるずると水に引き込まれ、そのまま溺れて死んでしまいました。

また、あるときには、平太という百姓が、仕事のあい間をみて、夕暮れにこの大池に釣りにやってきました。岸辺から糸を垂らし、魚のかかるのを待っていましたが、どうしたわけか、その日に限って、小ブナ一匹も釣れません。

つい、うとうとと竿を持ったまま眠ってしまった平太ですが、それからどれほどの時間が経ったでしょうか、ふと竿の先に手ごたえを感じました。これに気付いてはっと目をさました平太は、竿を引き上げてかかった魚を取り込もうとします。

そして、なんとか魚を湖面に引き上げられそうになったとき、その魚の姿がみえる先の湖の中に、何やらチカチカ光るものが見えるではありませんか。何だろうと平太は思いましたが、魚に逃げられては大変と、力にまかせて糸をたぐります。が、どうしたことか、どうしても魚は上がって来ません。

せっかくの魚を逃しては惜しいと思った平太は、とうとうふんどし一丁になって、湖の中に入り込み、手で魚をすくおうとしました。そして、水の中に手を入れようとして、水面に目を近づけた瞬間、そこにはらんらんと目を輝かせた竜が、いまにも平太に襲いかからんかという勢いで、水面まで浮上してくるのが見えるではありませんか。

おどろきのあまり、平太は腰を抜かし、ほうほうの体で水際に引き返しましたが、あまりの恐ろしさに気を失い、気がつくと、朝になっていました……

この大池のある吉田には、日蓮宗の「光栄寺」というお寺があります。富士宮にある西山本門寺の末寺で、この本寺には、織田信長の首を収めたという首塚があり、その脇には樹齢500年の柊が植えられ、静岡県の天然記念物にも指定されています。吉田の光栄寺もその末寺ながらも地元の人々からの篤い信頼を受けていました。

ここの住職の、日広和尚もまた霊験あらかたな上人として敬われていましたが、ある日の法事で、里人からこの赤牛の仕業と思われる災難の数々について聞かされます。

これを聞いた日広和尚は、村人を苦しめている赤牛とやらを退治してやろうと思い、大池までやってきて、湖の中にある十二連島のひとつにこもりました。

そして、七日七晩、毎日のようにお祈りをしましたが、このときも、赤牛は和尚のところにやってきて、あの手この手で上人をたぶらかそうとしました。日広和尚は何度か赤牛の魔力に負けそうになりましたが、七日目の夜、悪戦苦闘の末、とうとう赤牛の神通力を封じ込めることに成功します。

そして、ここに小さなほこらを建て、二度と赤牛の魔力が現れないようにと、このときに読んだお経の本とともに、雨を呼ぶといわれる八大竜王のお札を納め、おまつりしました。

それから後は、赤牛によるわざわいもなくなり、里人は安心して仕事にはげむことができるようになりました。また、日照りが続くと里人は湖の岸辺に集まって、八大竜王に雨ごいをしました。すると西の天城山の方から厚い雨雲がたれてきて、きっと雨を降らせるようになりました。

やがて、この島を村人たちは「お経島」と呼ぶようになりました。その後も干ばつで水が無くなると、「お経島」で三日三晩雨乞いのお祈りをすれば必ず大雨が降ってきたといい、現在もこの島は地元の人達に大切にされているといいます。

一碧湖には、すぐ脇の湖面に赤い鳥居が据えられている島があり、これがこのお経島のようです。これとは別に、湖の東側の湖畔には、「一碧湖神社」が建てられていて、ここの祭神はやはり龍神様、水神様ということです。

この一碧湖の赤牛を諌めた日広和尚ゆかりの光栄寺は、ここから東側に約800mほど山を下った場所にあります。この地は「吉田」と呼ばれる周囲を山に囲まれた盆地であり、古くから農業がさかんなところでした。

ここで農業を営む人達は、一碧湖から流れ出る湧水を耕作に使うか、あるいは一碧湖までわざわざ水を汲みに行っていたと思われ、大池のほうはともかく、沼池のほうは現在でも水が干上がることもあり、こうしたときには農作が進められず、大いに困ったようです。

このため、地区に安定した水を供給するため、江戸時代、幕末にもほど近い文政年間には、一碧湖から、吉田地区へ水を送るためのトンネルが掘られ、吉田までの用水路が作られました。これが「吉田用水(一碧湖用水)」と呼ばれるものであり、用水を通すため、一碧湖と吉田地区を隔てる小高い山の下に掘られたのが、「吉田隧道」です。

この隧道は、文政時代に山口半五郎という人物が中心となり、吉田村の農民が完成させました。素掘りにより掘削され、高さ8尺、幅4尺といいますから、約2.4m×1.2mの大きさです。

この「山口半五郎」というのがどういう人物だったのか調べてみたところ、どうやらこの人はこの吉田地区の住民ではなく、外部の人だったようです。どこの出身の人だったかはよくわかりませんが、人を殺めるか何かの罪を犯したのでしょう。その償いのため諸国を旅して歩いていたといいます。

その半五郎が、どこから何故この吉田にやってきたのまではわかりませんが、この頃の吉田は、一碧湖や周囲の山々から流れ込む沢水も少なくなり、思うように農作をすることができず人々は困っていました。

しかし、よそ者である半五郎に対しても、その氏素性を聞くこともせず、篤いもてなしをしてくれる村人の人情に感激した半五郎は、この人達のために、何か報いることをしてあげたいと考えたようです。

そんなとき、村人から、一つ山を越えた所に、水を満々とたたえる湖があるということを教えられた半五郎は、この湖から水を引いてくることができないかと思いつきます。

そして、村人の間を回り、一緒に用水を切り開こうと説いて回りましたが、溶岩でできた山を切り開いて用水を引くということが、どれだけ大変なのかが分かっている村人たちは、その志をありがたいと思いつつも、途方もないことだとなかなか取り合ってくれません。

しかし、半五郎は、それならばいっそのこと、自分ひとりでもできるかできないかわからないがやってみよう、ともかくこれまで犯してきた罪の償いとして一生をかけてこの事業に取り組もうと考え、手のみ一丁で山をくり抜き、隧道を掘る作業を始めました。

そして寝食を忘れ、来る日も来る日ものみを使い続け、この難工事に挑みました。途中、何度か挫折しそうにもなりましたが、時折、みるにみかねた村人からの差し入れなども受けることもあり、そのたびに人情厚い村人の幸せのためと、自らを励ましながら、工事を続けたといいます。

やがて、その努力が実り、隧道は少しずつ掘り進むようになります。工事が進むにつれ、村人たちも差し入れをするだけではなく、ときに農作業の合間をぬって手を貸してくれるようにもなり、少しずつトンネルの形が出来上がっていきました。

そして、ついに、1825年(文政8年)、13年もの歳月をかけて吉田隧道は完成しました。

この用水の完成により、吉田盆地の水不足は解消され、その後長きにわたって、美しい水田が保たれるようになりました。吉田の水田は、この隧道のおかげで、他の村々に比べて、約1ヶ月も早く田植えが行うことができるそうです。

その後、半五郎がどうなったかについては、詳しい記録は残っていないようです。が、おそらくは吉田の村の人々の一員として暖かく迎えられ、残りの一生を幸せに過ごしたことでしょう。

この吉田隧道は、その後、平成5年におきた北伊豆地震によって崩落し、不通になっていましたが、平成9年度から県のため池等整備事業により改修が行われ、平成15年度に完成。現在、昔と同じように、一碧湖の豊かな水を吉田盆地に送り込めるようになっています。

吉田隧道は現在、伊東市の有形文化財に指定されており、一碧湖の東側にはその取り込み水門とその脇に記念碑が設置されているということです。

…… さて、今日は一碧湖にまつわるお話をいろいろしてきました。あまり、故事がない場所かと思いきや、色々出てきたのには私自身正直驚きです。

伊豆にはこのほかにも、きっと世に埋もれているお話があるに違いありません。これからもそういうものを色々発掘していきたいなと思っています。

さて、窓の外をみると、今日はこの季節にしてはかなり富士山が良く見えます。山口からはるばる来たバーさんをどこへ連れて行ってあげようかと考えていましたが、やはり富士山が良く見える場所が良いでしょう。

ソメイヨシノは終わってしまいましたが、まだまだ八重桜の咲き誇る場所もあるはず。富士と八重のコラボが美しい場所をみつけたら、またこのブログでもご紹介しましょう。

Boys be……

今朝がた、アメリカ東部のボストンで行われていたマラソン大会のゴール付近で、大きな爆発があったようです。死者も出たとのことで、誰がやったのかなどの詳しいことはまだ調査中とのことですが、おそらくはテロ事件なのでしょう。

ボストンマラソンは市民大会としては世界で最も歴史のあるレースで、運営サイトによると、今年のマラソンには96カ国から2万7000人ほどが参加していたとのこと。

そういう人が集まるところを狙って殺傷能力の高い爆弾をしかけるという卑劣なことをやる輩といえば…… だいたい想像は難くないところですが、誰あれ早くとっつかまえて、相応の裁きを受けさせたいものです。

このボストンですが、私も行ったことがあります。マサチューセッツ州の州都で、アメリカで最も歴史の古い街の一つです。ニューイングランドと呼ばれる、アメリカ島北部の6つの州を合わせた地方でも最大の都市で、同地域の経済的・文化的中心地と考えられています。

「ニューイングランドの首都」と言われることもあり、アメリカ有数の世界都市であり、金融センターとしても高い影響力を持っていて、ニューヨークとともにアメリカ東部の中では日本人にもなじみの深い街のひとつでしょう。

このNew Englandという地名は、1616年に初めてイギリスが入植した土地であることが、その地域名の由来ですが、その後1620年ころからイギリスのピューリタンがマサチューセッツへ移住を始め、各植民地を設立していきました。

しかし、1616年というと、徳川家康が死んだのがちょうどこの年であり、こうした史実をみると、やっぱりアメリカはまだまだ若い国なんだなと思ってしまいます。

1637年には北のヌーベルフランス、南のニューネーデルラントに対抗するため「ニューイングランド連合」が結成され、のちの1776年にはアメリカ独立戦争発祥地となりました。19世紀にはニューイングランドの商人や漁師が活躍するようになり、ここから出た捕鯨船が世界を駆け巡るようになり、その一部は日本にまで出没するようになります。

やがて、幕府が下田や横浜、長崎などなど多くの港を開放したことで、アメリカ人も多数来日するようになり、このころ箱館港に入港していた米船ベルリン号では、新島襄が密出国しています。

新島は、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、この船の中で、船長のホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後、自分を襄と呼ぶようになったといいます。そして慶応元年(1865年)、ボストンに到着。ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができました。

その翌年の慶応2年(1866年)には、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。明治3年(1870年)にアマースト大学を卒業して、理学士の学位をえます。これは日本人初の学士の学位取得でした。

このアマースト大学で新島は、ウィリアム・スミス・クラークなる人物の化学の授業を受けており、この人こそ、後年、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のことばで有名になるクラーク博士です。

新島襄はクラークにとっては最初の日本人学生でしたが、これが縁で、その後クラークは来日することになります。新島は、明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業すると、その齢の11月に横浜に帰着。

アメリカを去る前には、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を得ることができ、帰国後は、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷の約半部を借り受けて校舎を確保し、学校を設立します。

これがのちの同志社大学の前身となる、同志社英学校であり、新島はこの学校の初代社長に就任しました。

ちょうどこのころ、北海道でも、札幌に「札幌農学校」という新しい学校をつくろうという建設計画が持ち上がっていました。札幌市街の建設は、明治2年(1869年)に始まりますが、このころには何もない沼地ばかりの荒地であり、町の建設以前に札幌に住んでいた和人はわずか2家族しかいなかったといいます。

そんな原野を開拓して今の札幌の街ができたのは驚きですが、明治5年(1872年)ころまでにはかなり町の様相を呈してきており、札幌郊外に東京・芝の増上寺の方丈25棟を購入して「開拓使仮学校」と呼ばれる、北海道初の学校も設置されました。

この学校は、北海道開拓に当たる人材の育成を目指して建設されたものですが、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったことから「仮学校」とよばれていました。

初年度全生徒数は120名であり、最初は男性ばかりでしたが、この年の9月には50名からなる女学校も併設されるようになりました。

明治8年(1875年)、札幌本府建設から5年が経ち、ようやく町の形ができてきたころのこと、この二つの学校を併合し、場所も札幌郊外から、市内中央に移転させ、仮学校を本学校にすることになりました。

新島襄が日本に帰国したのはこの前年のことです。本学校は、「札幌学校」という名称にすることが決められ、その場所も、北海道石狩国札幌郡札幌。現在の札幌市中央区北2条西2丁目付近に決められ、校舎の建築がはじまりました。

その後、「札幌学校」に「農」の字を加え、「札幌農学校」とさらに改められ、開拓使札幌本庁学務局所管の学校として、9月7日に開校式が行われました。のちの北海道帝国大学、現在の北海道大学の誕生です。

ただ、仮学校からの移転した女学校のほうは、翌年の明治9年(1876年)までには廃校になりました。

この女学校校舎の一部は、明治21年(1888年)12月14日に北海道庁の赤レンガ庁舎ができるまでのおよそ10年あまり、開拓使、札幌県及び北海道庁の庁舎として使用されました。今はもう形も残っていませんが、現在の札幌市中央区南1条西4丁目付近にある、三越札幌店付近にその校舎があったということです。

この札幌農学校の初代校長には、元薩摩藩士で、元老院議官、貴族院議員などを務めた、のちの男爵、「調所広丈」が選ばれましたが、教頭に選ばれたのが、このころマサチューセッツ農科大学学長を務めていたウィリアム・スミス・クラークでした。

そして、このクラークを日本政府へ紹介したのが、その教え子である、新島襄でした。

この新島襄も卒業した、アマースト大学(Amherst College)は、日本人にはあまり馴染のない名前です。しかし、全米最高峰のリベラルアーツ・カレッジ(において人文科学・自然科学・社会科学及び学際分野に渡る学術の基礎的な教育研究を行う四年制大学)ともいわれ、徹底した少人数による学問教育から、卒業生として4人のノーベル賞受賞者を輩出しています。

マサチューセッツ州に本部を置く私立大学であり、2008年度のU.S News College Rankingのリベラルアーツ大学部門では1位に選ばれており、最新の2010年度同ランキングでは、長年のライバル校であるウィリアムズ大学についで2位につけています。

クラーク自身もこの大学を卒業しており、卒業後はヨーロッパに渡り、ドイツのゲッティンゲン大学にて博士号取得。その後帰国して、アマースト大学教授となりました。

マサチューセッツ州のアッシュフィールドで生まれ、お父さんのアサートン・クラークは医師であったそうです。大学教授に就任する前には、南北戦争にも参加しており、このときは北軍少佐として従軍したといいますから、単なる青っちろいインテリ学者というわけではなかったようです。

専攻は園芸学、植物学、鉱物学で、この母校のアマースト大学で教鞭をとったあと、このころマサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)の第3代学長に就任していましたが、新島襄から紹介を受けた日本政府から、農学校教頭就任への熱烈な要請を受けます。

そして、明治9年(1876年)7月に来日し、札幌農学校教頭に就任します。日本に来るにあたっては、マサチューセッツ農科大学を退職して正規に職に就くいうかたちはとらず、1年間の休暇を利用して訪日するという期間限定での就任でした。

クラークの立場は教頭で、名目上は調所広丈が校長でしたが、クラークの希望により、その職名は英語で President と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていたといいます。

ちなみに、この調所も戊辰戦争に従軍し、箱館戦争に参加するなど、クラークと同様に戦火をくぐり抜けてきた経歴を持っています。同じような経験をしているということで、お互い気があったのではないでしょうか。

調所は、明治5年に開拓使に入り、以後、開拓幹事、開拓少判官などを経て、開拓権書記官兼務で札幌農学校長に就任しています。

その後は、開拓大書記官などを歴任後、札幌県令に就任。開拓使廃止後は、元老院議官に就任し、その後、高知県知事、鳥取県知事なども勤め、明治44年に71才で亡くなるまで貴族院勅選議員を任じられていました。

こうした長年の功から、錦鶏間祗候(きんけいのましこう、功労のあった華族や官吏を優遇するために設けられた資格)にも任じられ、60才では男爵の資格をも叙爵しています。

しかし、農学校の運営にはほとんどタッチしていなかったようで、その教育内容の構築の作業はほとんどがクラークに委ねられたようです。

クラークの滞在は、わずか8ヶ月でしたが、この間に、その後の帝国大学の礎となるような学制の充実に力を入れ、とくに科学教育に力を入れるとともに、キリスト教的道徳教育を熱心に行いました。

その薫陶を受けた1期生からは、のちの北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介や東京農学校講師で実業家となる渡瀬寅次郎らが輩出されました。

ちなみに、この渡瀬寅次郎は、静岡ゆかりの人物です。1859年に江戸で生まれましたが幕末に臣沼津に移り住み、沼津兵学校などで学問を学んでいましたが、札幌農学校が設立されたときに、この一期生として入校しました。後に「東京興農園」という農場を開いたほか、日本各地に試験農場を開き、農業の発展に大きく貢献します。

「二十世紀梨」の命名者としても知られています。恩師・クラーク博士の理念を基に、自らも学校を開こうと考えていましたが、67才で病没。札幌農学校では、新渡戸稲造、内村鑑三らと同学であり、その後その意思を継いで設立された「興農学園」の初代理事長は新渡戸稲造でした。

更に余談ですが、寅次郎の兄・渡瀬庄三郎も札幌農学校に入学、後に動物学者となり、こちらは「ホタルイカ」の名付け親だそうです。

新渡戸稲造は、札幌農学校の2期生として入校し、主として教育学を専攻後、名高い教育者として世に知られるようになります。また、内村鑑三は、農学校を経て思想家として著名になり、このほか、この当時の農学校卒業生として有名な人物には、土木工学の権威、広井勇や、植物学で有名な宮部金吾などがいます。

これらの有名人の多くは、クラークが教える「キリスト教学」にも傾倒し、クラークの作った「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をしました。

のちに、彼らは「札幌バンド」と呼ばれるようになり、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本におけるプロテスタントの浸透に貢献した青年グループとして、その筋の方々には著名です。

ちなみに、横浜バンドは、米国オランダ改革派教会のS.R.ブラウンが教育した日本青年たちであり、これは、日本基督公会に発展し、また、アメリカ人教師L.L.ジェーンズが熊本の青年を育て作り上げた熊本バンドは、新島襄が設立した同志社英学校におけるキリスト学の系譜の成長に大きな影響を与えました。

熊本バンド出身者は後に牧師、教職、官公吏、政治家などになり、のちのYMCA設立にも大きく関係しました。

こうして、のちの北海道大学の基礎を形づくり、日本におけるキリスト教の布教にも大きな影響を与えた多くの青年を育てた「クラーク博士」は、8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年(明治10年)5月に離日しました。

その去り際に残した言葉が、かの有名な、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」ですが、これは、札幌農学校1期生との別れの際に、この当時月寒村と呼ばれていた現在の北広島市の島松という場所でクラークが発したものとされています。

しかし、この1期生の一人で、後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長となる大島正健氏が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容によれば、正確には「Boys, be ambitious like this old man」であったといいます。

「ジイサンのワシのように野心的になれ」という意味になりますが、このほかにも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もあるようです。

このほかにも、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたというながったらしい弁舌めいたものであったという説もあり、さまざまです。

大島氏によれば、その去り際は次のようだったといいます。

“先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、”Boys, be ambitious!” と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された”

なんともカッコいい、去り方です。

ここでは、簡潔にBoys, be ambitiousとなっていますが、当然原語は英語であり、このときクラーク博士を見送った日本人たちすべてが英語が堪能だったかどかも疑問なため、本当にそういったのかは、今となってはわかりません。

また、「Boys, be ambitious」というのは、彼の出身地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だったという説もあり、だとすれば、クラーク博士もそれほど意味深な言葉を吐いたつもりはなかったのかもしれません。

その後、クラークはアメリカへ帰国後、元のマサチューセッツ農科大学の学長の席に戻りましたが、やがて大学を辞め、洋上大学の開学を企画しますが、資金難などからその実現に失敗しています。

この洋上大学というのはよくわかりませんが、かつての南北戦争時代の軍務経験や日本での経験を生かし、若者を船の上で鍛え上げるといったスパルタ教育だったのかもしれません。色々調べてみましたが結局詳細な内容は不明です。

その失敗によって、それまでの彼の人生のひとつのテーマであった「教育」というものに幻滅してしまったのか、クラークはその後、知人と共に鉱山会社を設立し、事業家をめざすようになります。

この鉱山事業は、当初は大きな利益を上げたようですが、所詮はもともとは大学の先生のこと、やがて経営に行き詰まり、資金の確保が出来ず多額の借金を抱えるようになり、この会社も倒産してしまいます。

その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされ続けますが、これがたたったのか、その後心臓病となって寝たり起きたりの生活となります。

そして、1886年、その持病の心臓病によりこの世を去りました。享年59才。

クラーク博士の「弟子」のひとりである内村鑑三は、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたそうです。が、その後、米国に渡る機会があったときに、ある学者にクラークの評判を聞いたところ「クラークが植物学で幅を利かせているなんて不思議だ」と笑われたそうで、このとき、内村は、「ついに先生の化けの皮がはがれたか」と思ったそうです。

しかし、内村はその後の著書で「ものを教える」技能を有し、教育で貢献する人物の好例としてクラークを引用し、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があり、「植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました」などと書いており、この方面でのクラークの才能を高く評価しています。

また、 札幌農学校に赴任してきてその校則を作ったとき、クラークの招聘をし、この当時の開拓使長官であった黒田清隆に、「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われています。

しかし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多かったそうで、本音とタテマエは別、ということだったようです。

この“Be gentleman”も“Be ambitious”と並んで有名になりそうな言葉ですが、こういう言動といい、そのアメリカに帰るときの去り際の様子といい、これらがすべて本当だとすると、どうも、「エエかっこしい」のところがあったような人物であるよう気がします。

その後の洋上大学の試みでの挫折や、鉱山会社の経営と失敗などをみてもわかるように、えーカッコしたくて、やってはみたものの、うまくいかない、ということの繰り返しのような人生だったのではないでしょうか。重厚な人物のような印象がありますが、案外と「軽い」ところのある人だったのかもしれません。

現在、札幌郊外の羊ヶ丘展望台に作られているクラーク博士の銅像もまた、エエかっこしいの典型のような像ですが、実は、これとは別の像が、北海道大学の構内にあります。

全身像ではなく胸像ですが、この羊ヶ丘展望台の像ができる前は、こちらのほうがより有名であり、多くの観光客が訪れていました。

しかし、北海道大学では研究活動に支障が出るとして1973年に観光バスの入場を禁止し、この像を一般人は見れなくなってしまったため、この事態を受けてあわてた札幌観光協会は新しい像を市内のどこかに作ることを企画。

そして、1976年にアメリカ合衆国建国200年祭が行われるのに合わせ、この年が奇しくもクラーク博士の来道100年でもあったことから、札幌農学校の創基100年記念ということで、全身像としてのクラーク像を建立することになったようです。

なんとなく軽々しい印象もあるクラークですが、とはいえ、この先生、弟子たちにはかなり慕われていたようであり、その後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けたといい、そうした書簡が今も数多く残っているといいます。

クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もあるそうです。もしかしたら、こうした学生たちと一緒に食堂でカレーライスを食べることによって、その交流を深める目的があったのかもしれません。

また、米食を禁じた理由はよくわかりませんが、寒冷な北海道では米よりも麦のほうが育ちやすいため、その栽培方法を普及させたほうが日本人のためになる、という考えだったのかもしれません。現在では北海道は日本でも有数な麦の産地となっていますから、あながちその推論は間違っていないようにも思います。

……そんな北海道にかつては年に数十回も仕事で行っていた私ですが、最近はとんとご無沙汰しています。ときおり、あのひんやりとした澄み切った空気がむしょうに懐かしくなりますが、当面、無理して旅行でも組まない限りは、行けそうもありません。当面はこの伊豆の青い空と海だけで我慢することにしましょう。

さて、ゴールデンウィークも間近になりました。北海道へ行くことを企画している人も多いことでしょう。もし北海道へ行ったら、羊ケ丘展望台にも足を延ばしてみてください。

そこからは、遠くにまで広がる札幌市街や石狩平野を見渡すことができ、これを背景に丘の上で羊が牧草をはむ牧歌的な風景が広がっているはずです。

そして、その丘の上に立ち、札幌市街を指さすクラーク像を見たら、彼の有名な言葉、Boys, be ambitiousを口づさんでみましょう。あるいは、Be gentlemanでもよいかも。

きっとあなたも、クラーク博士になった気分になれるに違いありません。

小次郎は長州人?

突然ですが、下関へ行かれたことはあるでしょうか。

私の郷里の山口県を代表する都市の一つであり、その人口規模は県庁所在地の山口市を凌ぎ、山口県一の規模を誇ります。中国地方でも広島市、岡山市、倉敷市、福山市に次ぐ、5番目の人口規模の街であり、経済面でも山口県の中心的都市です。

全国規模の企業でも、下関市に営業拠点を置く企業は多いでしょう。日本銀行も山口市ではなく下関市に日銀下関支店を置いているくらいです。

中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれており、これを「赤馬関」とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)ともよばれ、江戸時代ころまでは、ここにある関門海峡のことを、馬関海峡と呼んでいました。

幕末に長州とイギリスが砲戦を行ったことでも有名であり、その当時の大砲のモニュメントなどが海峡を見渡せる公園に置いてあったりします。九州と本土をつなぐ、関門大橋の真下にあるこのあたり一帯は、「壇ノ浦」とも呼ばれ、江戸よりもはるか昔、源氏と平氏が最後の戦いを行った戦場でもあります。

こうした史跡も多い下関は本当に見どころの多い場所であり、かつ九州と中国地方のつなぎ目をまるで大河のように「流れる」関門海峡一帯は実に風光明媚なところであり、私も大好きな場所のひとつです。

私の実家は山奥の山口市内にあるのですが、時折、この関門海峡の眺めがむしょうに見たくなり、そのためだけにわざわざ車を飛ばして出かけることもあるくらいです。

関門海峡のやや南西付近には、「あるかぽーと」という商業開発区域があり、ここには世界的にもめずらしい、「フグ」の展示で有名な、下関水族館「海響館」を中心とした商業区域であり、これに隣接した「カモンワーフ」には海産物卸場と市場が併設されていて、いつもたくさんの人で賑わっています。

この一角も私のお気に入りの場所のひとつです。市場では朝早く行けば、新鮮な魚介類がリーズナブルな価格で手に入るし、時によってはエビやカニなどの甲殻類もかなり格安に入手できます。飲食店街も充実しているため、海産物を中心にしたメニュー目当ての観光客がいつもゴマンといるのが少々難点ですが……

この、あるかぽーとより更に西方向へ1kmほど行ったところには、別の商業施設の開発区域街があり、ここは「下関海峡メッセ」と呼ばれています。

旧国鉄貨物ヤード跡地を対象として再開発された場所であり、「海峡ゆめ広場」として公園整備されるとともに、各種の商業テナントビルのほか、海峡ゆめタワーと呼ばれる展望塔が建てられています。1996年(平成8年)に完成したもので、その高さは153m、展望室の高さは地上143mあります。

この展望台の高さは大阪梅田スカイビル空中庭園展望台の170mに次ぐものですが、梅田のはビルに設けられた展望台であることから、この海峡ゆめタワーは、自立型タワーとしては西日本では最も高いものになります。

展望室が球体状になっているため、360°の景色が楽しめ、夜間にもオープンしているため、関門海峡周辺の美しい夜景を楽しむこともできます。

この海峡ゆめタワーに上って、南側すぐの真下に、ひとつの島が見えます。

これがかの有名な、「巌流島」であり、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたとされる場所です。決闘が行われたとされる当時は、豊前小倉藩領で「船島」と呼ばれていましたが、小次郎が使っていた剣の流派が「厳流」であったため巌流島と呼ばれるようになりました。

意外と知られていませんが、「巌流」は「岩流」とも表記され、岩流剣術という流儀の名称です。後年、これが小次郎の号であると誤解されるようになったため、佐々木小次郎のことを「佐々木厳流」とも呼ぶ向きがあるようですが、これは間違いです。

この巌流島ですが、下関市街から約400mほど沖合にある小島です。標高は最高地点でも海抜10mに満たない平べったい地形であり、現在は公園として整備され人工海浜や多目的広場が設けられています。東の端にある海岸に設けられた遊歩道などからは関門海峡を行きかう大型船を間近に見ることができるといいます。

島の北端に船着場が設けられており、下関港と北九州側の門司港から、船便が運航されていて、800円くらいで渡れるはずです。私自身は、海峡ゆめタワーなどから直下に見えるのでわざわざそこまで行ってみようという気にもならず、一度も渡ったことがありませんが。

かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていました。豊臣秀吉も名護屋城(現佐賀県唐津市)から大阪へ帰る途中、ここで乗船が座礁転覆したといい、このとき秀吉は配下の毛利水軍によって助けられたと言われています。

このとき転覆した船の船長は、明石与次兵衛といい、船とともに沈んで死んでしまったため、江戸時代にはこの巌流島付近の浅瀬のことを「与次兵衛ヶ瀬」と呼んでいました。

この岩礁、その後も航行する船舶の邪魔になっていたため、大正時代に爆破されましが、その後はここを通らないで済む航路が開発されたため、埋め立てられ、現在の巌流島と合わせて一つの島となっています。

従って、現在の巌流島は300m四方もありますが、かつてのオリジナルの巌流島はもっと小さく、せいぜい100数十メートル四方の本当に小さな島でした。

与次兵衛ヶ瀬とともに埋め立てられてからは、明治中期にはコレラ患者の医療施設が立地していたそうで、第二次世界大戦後には島に移住者があり一時は30世帯に達したこともありました。

しかし、1973年には無人島に戻り、その後島の大半が下関市に譲渡され、2003年に公園として整備されました。が、今も島の一部はもともとここを埋め立てた三菱重工業の所有地になっています。

この公園、2003年度のNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の放映にあわせた造成されたそうです。

原作は吉川英治ということで、主演もあの暴行(された)事件で有名になった市川海老蔵さんで、ほかに武蔵の幼馴染・本位田又八役に堤真一、幼馴染で恋人のお通役には米倉涼子、宿敵・佐々木小次郎にはTOKIOメンバーの松岡昌宏、小次郎の恋人・琴役は仲間由紀恵が配されました。

ほかにも、津川雅彦、西田敏行、中村勘三郎、藤田まこと、谷啓、中村玉緒らの蒼蒼たるメンバーがその脇を固め、大河ドラマ初出演になるビートたけしらの演技も話題を呼びましたが、視聴率は前半以降は低迷し、平均視聴率も16%台だったようです。大河ドラマ好きの私も、なぜかあまり興味がわかず、これを見ていません。

……と、ここまで前振りをしてきた以上、巌流島の戦いについて触れないわけにもいかないでしょう。

とはいえ、既にもう語りつくされた感のある武蔵のほうについては、あまり食指が動かないので、やっつけられて死んでしまったという、佐々木小次郎のほうをクローズアップしてみようと思います。

まず、武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、熊本藩の豊田景英が武蔵の生涯について編纂した「二天記」では、慶長17年4月13日、新暦では1612年5月13日に行なわれたことになっています。

慶長年間といえば、徳川家康が幕府を開いたころのことであり、まだ戦国時代の余韻が冷めやらぬころのことです。

これより20数年前、織田信長は、15代将軍足利義昭を擁立して、畿内から三好氏の勢力を一掃しましたが、このとき足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力したのが、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた名門、細川家出身の「細川藤孝(幽斎)」です。

その後、義昭と信長は対立するようになりますが、藤孝は長男の忠興とともに信長に従い明智光秀の組下として活躍、信長から丹後一国を拝領するようになりました。しかし、細川藤孝は本能寺の変では光秀に味方せず、その後は豊臣秀吉に服するようになりますが、その子の忠興は秀吉の死後、今度は徳川家康に属します。

このように、細川家というのは、時代ごとの覇者をうまく見極め、うまく立ち回って生き残っていった家系です。

そして、関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩39万9千石を領し、その子忠利の代には肥後熊本藩54万石の領主となるなど、徳川幕府内においては最大級の親藩でありながら、他藩のようなお取り潰しの憂き目をみることもないまま、明治維新に至っています。

この忠興の正室が、誰あろう、明智光秀の娘の「玉子」であり、これがかの有名な細川ガラシャです。

関ヶ原の戦いが勃発する直前、夫の忠興が徳川方につき、上杉討伐のため不在となった際、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしました。が、ガラシャはこれを拒絶し、家老に槍で自らの胸を貫かせて死んでおり、このことから悲劇のヒロイン、悲劇のキリシタンとして後年一躍有名になりました。

しかし、夫の忠興はその後の戦乱を生き抜き、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築きました。また父・藤孝と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖としても知られています。

佐々木小次郎は、そんな細川氏が興した、後年の肥後細川藩の支藩である、小倉藩の剣術師範として生計を得ていました。

関ヶ原の戦いの際、東軍方に属し居城である丹後国の田辺城を守りとおした細川忠興は、豊前と豊後をの約40万石を領する大名となり、当初は中津城に入城しましたが、のちに毛利氏が所有していた小倉城を改修し、1602年(慶長7年)にこの小倉城に藩庁を移しました。

その後、忠興の子で、細川家2代の忠利の代になって、1632年(寛永9年)、幕府から改易を命じられ、このとき減封されるどころか逆に、54万石に加増されて熊本藩に移封されています。このため、細川家というと熊本、と思っている人が多いようですが、小次郎が細川家に務めていたころには、小倉が本拠だったわけです。

この小次郎ですが、その出自に関しては、武蔵ほど史料が残っておらず、不明な点の多い謎の人物です。出身については、豊前国田川郡(現福岡県田川郡)の有力豪族、佐々木氏のもとに生まれたという説があるほか、「二天記」では越前国宇坂庄(現福井県福井市浄)とも記されており、ほかにも長州生まれではなかったかという説もあるようです。

越前国出身説は、その秘剣「燕返し」を習得したのが、福井にある一乗滝という場所であったという史実から来ているようですが、長州説のほうは、山口県の阿武郡に、佐々木小次郎のものと言われる墓が現存していることから来ています。

しかし、もっとも信憑性が高いのではないかといわれているのが、豊前出身説であり、これは、北九州の郷土史家や武蔵研究家が唱えている説で、小倉藩家老で、門司城の城代だった沼田延元という人の家人が残した、「沼田家記」からそう推察されるからだということです。

なぜこの沼田家記からの推論が信憑性が高いかというと、これを記録するように命じた沼田延元という人は、実際に巌流島の決闘を目撃した人物だそうで、決闘の実際の内容を詳しく証言した内容をその子孫が詳しく書き残したものが、この沼田家記だからです。

とはいえ、400年以上も前の話です。小次郎が、北陸出身か、九州、はたまた長州出身かどうかというのはあまり意味のある議論でもないように思うので、とりあえず脇においておきましょう。

この小次郎、剣術使いとしては非常に才に恵まれた人で、これを学んだのが、中条流という流派の名人で剣豪といわれた、越前朝倉氏の家臣、「富田勢源」、あるいはこの勢源の門下で鐘捲(かねまき)流という流派を編み出した「鐘捲自斎」という人物だそうです。

剣術を学んだのが、こうした北陸の人だったということで、前述の佐々木小次郎の出身地論議の帰結は、やはり福井、ということになるのかもしれません。

剣の奥意を極めたのちは、安芸国の毛利氏に仕えますが、その後武者修業のため諸国を遍歴するようになり、このとき案出したのがかの有名な、「燕返し」であり、この剣法を考案したころから、小次郎は自らの流派を「巌流」と呼ぶようになります。

しかし、諸国をめぐって武者修行しているばかりでは食えないのは当たり前で、このため仕官してようやく採用されたのが小倉藩であり、ここで同藩の剣術師範となり、小倉城下に道場を開くようになります。

この小次郎が武蔵と決闘に至った経緯については、諸国修行中の武芸者となっていた宮本武蔵が、細川家の家来の長岡佐渡を通じて試合を申し込んだことが発端とされていますが、これは、吉川英治の小説などに記載されていたことであり、実際にはどういう経緯で試合に及んだかははっきりわかっていないようです。

しかし、前述の「沼田家記」には、ある年、宮本武蔵が小倉の城下へやってきて、二刀流の剣術の師範をするようになり、多くの弟子を持つようになったことが記載されています。

同じように小倉城下で剣術師範をしていた小次郎のもとにも弟子が大勢おり、この双方の弟子たちが、それぞれの師の兵法の優劣から口論になった、と沼田家記には書かれています。

そして、それがのちにさらにエスカレートし、ついには武蔵と小次郎をそれぞれの流派の代表者として二人で兵法の優劣を決するための試合をすることになったようで、場所を巌流島と指定したのは小次郎側だったようです。

公平を期すため、双方とも弟子は一人も連れてこないよう事前に取り決められて試合が行われましたが、結果としては誰もが知るように、小次郎は打ち負かされてしまいます。

吉川英治の小説では、約束の時間に遅れて島に着いた武蔵は、船の櫓(ろ)をけずって作った長い木剣で「物干しざお」と呼ばれるような大きな刀を使う小次郎を倒した……と語られています。

この物干しざお、刃長三尺三寸ということで、およそ1メートルもある野太刀だったということで、「備前長船長光」という銘も入った名品だったとか。

わざと遅れてきた武蔵に対し、待たされてイラッチになっていた小次郎は心の平静を乱されます。

しかも、「小次郎破れたり!」とエラそうに宣言する武蔵にさらにムカッときたといい、剣術で敗れたというよりもその気合いに勢いによって敗れた、というようなことが多くの史書や小説やらに描かれており、この時小次郎は、武蔵が繰り出した木の櫂で眉間を割られて死んだとされています。

しかし、「沼田家記」によれば、この決闘で武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返したと書かれています。

しかも小次郎は、この果し合いの約束ごとを忠実に守り、一人も弟子を巌流島に呼んでいませんでしたが、一方の武蔵の弟子達はひそかに島のどこかに隠れていました。そして、試合が終わって小次郎が息を吹き返したころを見計らって出てきて、ノックアウトされ脳震とう気味だった小次郎を打ち殺してしまったといいます。

一方、巌流島には来なかった小次郎の弟子らも、その後師匠が決闘で負けたことを知り、しかも小次郎が武蔵の弟子たちに惨殺されたのを知るとこれを大いに恨み、今度は武蔵を襲撃しようとします。

このため、あやうく武蔵も小倉城下で襲撃されそうになりますが、このとき武蔵を助けたのが、ほかでもなく、沼田家記の伝承を残した沼田延元であったというのです。

武蔵を助けたからといって武蔵に何等かの恩義があったかというとそういうわけでもないようで、この点については佐々木小次郎のほうに対しても同じであり、このような公正な立場の人物であったからこそ、決闘の現場に居合わせることを両者とも認めたのでしょう。

この決闘の結果として、小次郎が決闘の際に死んだか、あるいはその後に武蔵の弟子たちに殺されたかどうかは別として、ともかく小次郎が武蔵との戦いに敗れたのは確かです。

破れた要因は、やはり武蔵のほうが戦略を立てるのがうまく、またやはり力量の差もあったということがいわば定説になっているようです。

ところが、佐々木小次郎は、このとき、70才を超えていたのではないかという話があります。片や宮本武蔵のほうは、少なくとも20代前半か、おそらくは10代後半であったであろうといわれており、だとすると、力量以前にかなりの年齢差があり、見方によっては「老人いじめ」ではないかといわれそうです。

「二天記」には小次郎は、巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったと記されているそうです。が、この「二天記」の元になったに肥後細川藩の筆頭家老で二天一流兵法師範の豊田正脩という人が著した宮本武蔵の伝記、「武公伝」にはこの記述はなく、こちらには、佐々木小次郎が、自らの流派の巌流を18才で打ち立てた、としか書いてないそうです。

また小次郎の師匠の鐘捲自斎の生きた時代はわりとはっきりわかっているようで、もし小次郎がこの自斎の教えを乞おうとするためには、武蔵との決闘時に最低でも50歳以上でないとつじつまが合わないそうです。

しかも自斎の弟子たちに教わったのではなく、自斎から直接教えを受けた、いわば直弟子であったとすれば、相当の老人ではなかったかと考えられるそうで、二天記の十八の「十」は「七」の誤記ではないかとまで言われているようです。

だとすれば、十代の武蔵が戦ったのは、78歳以上の老人だということになり、これは果し合い云々というよりも単に、両派のいがみ合いからやむなく発生した、一つのセレモニーのようなものであり、小次郎のほうが負けるのは目に見えていた、ということになります。

だとすれば、小次郎を負けさせるためにわざとこうした無茶な試合を組んだのではないか、と指摘する人もいて、中には、小倉藩の藩中には小次郎が剣術師範をやっているのを快く思わない一派がいて、小次郎を排除するために、武蔵との試合を仕組んだのではないか、と考える人もいるようです。

これについては、事実関係を確認できるような史料もいまさら出てこないようで、ホントかどうかもわかりませんが、いずれにせよ負けた側の小次郎にとっては踏んだり蹴ったりの話であり、勝った武蔵がその後「剣聖」として崇められるようになったのとは対照的です。

ちなみに、武蔵は、その後、熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移っており、7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷まで与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられています。

1640年(寛永17年)といいますから、まだ20代後半のころのことであり、同じく客分として招かれていた将軍足利義輝の遺児、足利道鑑と共に細川藩では大事にされ、その後も死ぬまで毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇され続けたといいます。

これに対して、小次郎のほうは、仕組まれた試合だったかもしれないとはいえ、ともかく敗れて死んでしまったわけですから、無論藩からは何の恩賞もありません。しかし、土地の人々は小次郎に同情的であったようで、巌流島には自然石を利用した墓が作られていたようです。

その昔舟島と呼ばれていたこの島を「巌流島」と呼ぶようになったのも、地元の人達の憐憫の表れでしょう。

ところが、この佐々木小次郎の墓が、山口県北部、ほとんど島根県との県境に近い、「阿武町」というところにあるといいます。

阿武町大字福田下というところに、「小沢津」という場所があり、この山あいは、地元の人から「寺ヶ浴」と呼ばれていて、小次郎が死んだ慶長年間には真言宗の正法寺という古寺があったということです。

この境内跡地にあるのが小次郎の墓であり、小次郎の墓所を示す案内看板の奥に、小さな墓石が残されています。墓石の裏側には、「佐々木古志らう」の文字がかすかながら読み取れるといい、これがこの墓石が小次郎の墓であるという根拠になっています。

一説によれば、巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻は、「ユキ」という名前であり、キリスト教の信者、つまりキリシタンでした。小次郎が敗れた当時、懐妊中だったユキは小次郎の遺髪を抱き、ちょうどこのころから家康によって始められたキリスト教徒への弾圧を避け、多くの信者とともに九州から山陰の地に安全な居所を求めたのだといいます。

ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、その墓のすぐ下の庵で一生を終えたといわれています。このとき正法寺は既に別の場所に移転しており、この跡地にユキがこの小さい庵を建てたのだといいます。

そして、武蔵に敗れたあとも、その弟子たちが我が子に迫害を加えるかもしれないと考えたユキは、これを防ぐために、小次郎の名をわざと「古志らう」と変えて墓に記し、死ぬまでこの墓を守っていたのではないかとも言い伝えられています。

この場所には、小次郎の墓と並んでたくさんの佐々木姓の墓があるそうで、現在もこの近辺には佐々木姓を名のる家が数軒有り、末裔ではないかとも言われているそうです。

小次郎がもし、本当に70を超える老人だったとすると、その齢になって子供はちょっと……と考えられなくもありませんが、現在でも70過ぎでいまだ元気……というお年寄りはいないことはないので、無下に否定もできません。

この地に佐々木姓が多いことも相まって、この地が小次郎の出身地ではないかといわれるゆえんでもありますが、無論、真実は歴史の闇の中です。

吉川英治の小説「宮本武蔵」でも、小次郎は周防国岩国(現山口県岩国市)の出身とされているそうで、もし本当に小次郎が長州人だったらと思うと、郷里が山口の私もうれしい限りです。しかし、実際のところは、錦帯橋は巌流島の決闘の60年もあとになって建設されたそうで、この話の信憑性はゼロです。

にもかかわらず、岩国の錦帯橋のすぐ近くにある吉香公園内には、小次郎の銅像が据えられているそうです。おそらくは地元の観光協会か何かの陰謀でしょうが、観光客が地元に落とすカネが重要な収入となっている山口県としては、ネタとなるものさえあれば、なりふりかまわず観光資源化したかったのでしょう。

巌流島もまたしかりで、毎年5月のゴールデンウィークに開催される「しものせき海峡まつり」では、巌流島フェスティバルのイベントとして、コンサートや宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の再現などが行われるそうです。

そういう茶番をどれだけの人が見に行くだろうかと少々疑問ですが、まあ、冒頭で述べたとおり、風光明媚な下関のことですから、その観光のついでくらいのつもりで行くと良いかもしれません。ゴールデンウィークの行先をまだ決めかねている人は検討されてはどうでしょうか。

さてさて、今日も長話になりました。が、自分でも長年疑問だった佐々木小次郎について一通り整理できてすっきりしたかんじ。これからは小次郎のことを、小次郎ジイサンと呼ぶことにしましょう。

それにしても、小次郎とユキの間にできた子供はその後どうなったのでしょう。もし男の子だったなら、小次郎二世になるわけで、その優れたDNAを引き継いでいたとしたらきっと、優れた剣術使いになっていたはずです。

その子孫が、その後の長州藩の維新の活動を支えていたりして…… 妄想は膨らみますが、もしかしてその子孫こそが、わがご先祖さまだったりもして……

妄想の暴走はやめましょう。キリがありませんから……

シャボン玉飛んだ…… ~旧修善寺町(伊豆市)


爆弾低気圧が来る直前の先週末、土日は天気が悪くなりそうだから今のうちにと、タエさんと二人でいつもの修善寺虹の郷へ行ってきました。

平日ということもあるでしょうが、低気圧の接近間近の情報が行きわたっているのか、お客さんは非常に少なく、広い園内のことですから、他の人を全く見ることのない場所もあって、まるで貸切りのようなぜいたくさ。

ここ修善寺虹の郷は、とくに桜の名所ということでもないため、桜の本数もそれほど多くはなかったのですが、それでも日本庭園のすぐ脇にある立派なサクラの木数本が、ほぼ満開状態で、なかなかきれいでした。

ここの「シャクヤクの森」がきれいなことは、前にも書きましたが、この日もその咲き具合をチェックしてきました。すると、早咲きの芍薬がすでに何本も満開状態で、まだまだ見ごろ、というまではいきませんが、もともとが花弁の豊かな花のため、数本が固まって満開状態になっているだけでも、十分な見応えがありました。

あと一週間もすれば、もっとゴージャスな眺めになると思われるので、また日を改めて鑑賞にこようと思います。みなさんもいかがでしょうか。ゴールデンウィークに突入すると、結構人出も多くなるので、もしお時間があるなら、今週末もしくは、来週ぐらいがチャンスだと思いますよ。

ところで、修善寺虹の郷の入口付近は、「イギリス村」ということでイギリスの古い町並みを真似た一角があるのですが、ここにはお土産物屋さんや飲食店なども集中していて、その中央にあるイベント広場では、時折コンサートなども開かれていたりします。

いわばこの施設の「顔」のような場所でもあるため、いつもきれいに花が飾られていて、お掃除も行き届いています。

このほか、子供が遊べるようにと、フラフープやケン玉、ジャグジーといった遊具も置いてあります。子供だけでなく、大人もこれを使って遊んでいるのを時々見ることもありますが、みなさん童心に還って本当に楽しそうで、見ていてもほほえましいものです。

その遊具が置いてある建物の付近には、いつもシャボン玉が「舞って」いるので、どこから来ているのだろう、とその出所を探してみたところ、どうやら「テディベア博物館」と称する建物の二階の窓から出てきているようでした。

自動で、シャボン玉を放出する機械が置いてあるらしく、一定間隔毎に、ここから面白いようにシャボン玉が噴き出されてきます。これがまた風に乗って、イギリス村のあちこちに飛んでいき、これを小さな子供さんが追いかけたりしていて、こうした光景もまたのどか。お天気の良かったこの日は、本当におとぎ話の世界のようでした。

このシャボン玉遊び、やったことがないという人はおそらくいないでしょう。石鹸水にストローなどの細管の一端を浸け、ストローから勢い良く息を吹きだすと、たくさんの小さなシャボン玉が吹きだします。

またゆっくり吹き出すと、大きなシャボン玉ができるので、どれくらい大きくできるか、とやっていると、パンッといきなりはじけてしまって、がっかり、などという経験は誰でもあると思います。

大人になってからも楽しいもので、私も一人息子君が小さいころには、一緒に遊んでやるという名目のもと、結構、自分でも楽しんで遊んだような記憶があります。

日本ではいつごろからあるのかな、と思って調べてみると、1837年(天保8年)に発行された「守貞謾稿(もりさだまんこう)と呼ばれる、江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典のような書物には既に、「シャボン玉売り」の話が出ているそうです。

しかし、広辞苑には、これよりも160年も前の江戸初期にはもうシャボン玉屋があったと書いてあり、これが1677年(延宝5年)といいますから、鎖国令により、1639年(寛永16年)にポルトガル船の入港が禁止されるようになる以前に既に輸入され、江戸などで広まるようになっていたのでしょう。

「シャボン(sabão)」とはポルトガル語で「石鹸」を意味する単語です。その語源のとおり、ポルトガルかあるいはスペインから入ってきたようですが、ではいったい、これがいつごろ日本に入ってきたのかを調べてみました。

すると、戦国時代末期か安土桃山時代に入ってきたと推測されているようで、1596年(慶長元年)、石田三成が博多の豪商神屋宗湛に宛てて「シャボン」を貰った礼状を出しているのが、記録として残っている一番古い文献みたいです。

ただし、このときには、その製法までは伝わらなかったようで、その後長い間、輸入されたものだけが流通していました。

その後、製法を書いた文献が入ってきたことから、これが翻訳され日本でも製造されるようになりましたが、一番最初に石鹸を製造したのは、江戸時代の蘭学者の宇田川榛斎と宇田川榕菴で、これが1824年(文政7年)のことだそうです。

ただしこれは医薬品としてであったそうで、上述の守貞謾稿におけるシャボン玉売りの記述がこれより13年ほどあとであることから、おそらくこの間に、医薬品として製造されたものが「泡立つ」ことを誰かが発見し、遊び道具として広めるようになり、その製造方法も広く普及していったのでしょう。

シャボン玉売りが商売として成り立つくらいですから、シャボンの原料そのものはかなり高価なものであったに違いなく、石鹸の卸元の薬問屋などが、希釈した原液を製造して売り子たちに卸していたのでしょう。中には固形の原料を入手して、より大きなシャボン玉ができるように自分たちなりに調合して使っていたシャボン玉売りもいたようです。

いずれにせよ、遊び道具とはいえ希少なものですから、江戸時代には当然、庶民が手を洗ったりするのに使われるほど普及はしていません。

最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の商人であった、堤磯右衛門という人のようです。

もともとは、江戸時代に、品川台場の建設資材輸送に携わっていた土方でした。磯子村で切り出した材木や石材を品川まで運んで儲け、1866年(慶応2年)には後の横須賀海軍工廠となる横須賀製鉄所の建設にも従事するなどして事業を拡大。

明治に入ってからは、公共事業の建設請負から物資の製造に転身し、最初は煉瓦と、灯台の灯り用の菜種油の製造を行っていましたが、のちに灯台用油が植物油から鉱物油に変更されたため、この事業からは撤退し、このころから実験を繰り返し、試行錯誤の末に石鹸の製造に成功します。

こうして1874年(明治5年)に、横浜市南区万世町に、日本で初めての石鹸工場である、「堤石鹸製造所」を開設しました。

当初は経営的に苦戦していたようですが、明治10年代ころまでには、国による「衛生」の徹底指導もあいまって石鹸の使用が国民の間にも広まっていき、このためようやく経営は安定。1881年の売上は2万4千円を超えていたといいますから、現在の貨幣価値に換算すると数億円規模となります。

1877年(明治10年)には、香港・上海へも輸出されるようになり、磯右衛門が作った石鹸が第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞するなどしたことからさらに評判があがり、その後明治10年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎え、磯右衛門は一躍大金持ちになりました。

しかし、単に儲けるだけでなく、さらに石鹸を普及させるべく、日本各地からやってくる研修生に技術指導を行うなどのボランティア活動も行っており、石鹸の普及にあたっては、大きな役割を果たした人物でした。

しかし、明治10年代後半には同業者の増加やデフレーションなどにより経営が悪化。1890年(明治23年)、ついに堤石鹸製造所は操業を停止し、翌年、磯右衛門自身も病に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。

58才だったそうですから、現在なら若死にといわれそうですが、平均寿命がまだ短かかったこの当時としては普通であり、功なり遂げたあとの死、ということで無念さはさほどではなかったかもしれません。

彼の門下生の中にはその後、花王を創立した長瀬富郎や、資生堂の創立者、福原有信などがおり、ご存知のとおりその後日本を代表する化学薬品メーカー、化粧品会社となりましたが、これらの会社では現在も石鹸を製造しています。なので、その創業者を育てた堤磯右衛門は、さしずめ日本における「石鹸の父」といっても良いかもしれません。

この石鹸の起源はヨーロッパにあるようです。では、石鹸は日本に入ってくる前、ここでどうやって誕生したのでしょう。

そもそも石鹸は、水だけで落ちにくい汚れに対し、古代から粘土や灰汁、植物の油やサポニンなどがその代りとして利用されていました。

サポニンというのは、水に溶けて石鹸様の発泡作用を示す物質の総称であり、ステロイド、ステロイドアルカロイド、あるいはトリテルペンといったものが多くの植物から抽出されます。

サポニンが含まれる植物として、我々の馴染の深いものには、サイカチ、ダイズ、アズキ、トチノキ、オリーブ、朝鮮人参、ブドウ(果皮)、ハスイモなどであり、このほかにもたくさんの植物に含まれます。またヒトデやナマコといった棘皮動物の体内にも含まれます。

こうした植物由来の石鹸は、紀元前2800年ごろには、アムル人の王都バビロンで利用され、紀元前2200年ごろのシュメール粘土板には、シナニッケイという植物の油を原料とした石鹸の製造方法が示されているということです。

ところが、その後こうした植物由来のものとは別に、動物由来のものが人類により発見されます。

古代の人々は、火を使えるようになると、捕えた動物の肉を焼いて食べるようになりました。このとき焼いた肉をからは、脂肪が滴り落ちます。これが薪の灰の上に落ち、この混合物に雨が降ると、アルカリによる油脂の鹸化が自然発生します。そしてこれが人類が最初に発見した動物由来の石鹸であると考えられています。

その後紀元前700~500年くらいまでには、古代ローマ人が神への供物として羊を焼いて作るようになり、その供物を捧げるための場所が、「サポーの丘(Mount Sapo)」という場所であったため、このSapoが、soap の語源になったのではないかといわれています。

前述のサポニン(saponin)もまた、これが語源です。

その後、この動物由来の石鹸は、ヨーロッパでは主にゲルマン人やガリア人が使うようになり、その後いったん廃れます。しかしその製法はアラビア人に伝わり、アラブ世界で生石灰を使う製造法が広まると、8世紀にはスペイン経由で「逆輸入」され、ヨーロッパ各地で家内工業として定着していくようになります。

しかし12世紀以降、それまでの動物油脂を使って作ったアルカリ石鹸に替わって、オリーブ油を原料とする固形のソーダ石鹸が地中海沿岸を中心に広まるようになり、特にフランスのマルセイユが生産の中心地となりました。

そして18世紀から19世紀にかけての産業革命下のロンドンでよりその製造がさかんになり、以後大量生産されるようになり輸出もさかんに行われるようになります。日本にも入ってくるようになったのもこのころのことのようです。

この石鹸、その原料は天然油脂とアルカリのみのため、造るのは至って簡単みたいです。

石鹸の製造は、油脂の構造、アルカリによる鹸化、界面活性などなどの化学的知見を比較的容易な操作で学ぶことが出来るため、かつて理科や化学の実験教育に利用されていたぐらいです。

確か私も高校のときの化学の授業の一環で石鹸を作ったような記憶があります。しかし、もともと理系とはいえ化学は苦手なほうだったので、あまりその製造過程は良く覚えていません。従って、ここでみなさんに説明するほどの知識もありませんし、いろんな方がその説明を別のHPで書いていらっしゃるので、ご興味のある方はそちらのほうをどうぞ。

日本では、1990年代、家庭で使用済み天ぷら油を下水道に流す問題が取り上げられ、廃油を使った石鹸作りが広まるきっかけとなり、その後、環境教育やリサイクル、環境保全の一環としてこうした石鹸作りが学校などで行われるようになったようです。

また、近年、こうした身近な薬剤の「自然志向」が進んでおり、アレルギー対策や添加物による悪影響を回避するスキンケアを目的として、オリーブ・オイルなどを原料として安全な石鹸作りを行う人もいるようです。

オリーブオイルで造った石鹸には副生物のグリセリンが多少残留するものの、おおむね無害であるため、人気が高いようです。

ただし、製造時に水酸化ナトリウム、水酸化カリウムといった高濃度の劇物を使用する必要があるということで、このためこうした薬品を使うことのリスクを覚悟する必要があり、また、出来た石鹸の品質が100パーセント保証されているわけでもないため、原料の残留による肌荒れ等の恐れもないとはいえないようです。

なので、自分で安全な石鹸を作ってみたいという人は、十分な知識を持った人に教わった上で不純物質の除去の方法などを会得したほうが無難でしょう。また、アレルギー体質の人は、できた石鹸を少しづつ使いながらその経過をみるほうが良いと思います。

一方では、工場で大量生産された石鹸は、その後、化粧石鹸、薬用石鹸、洗濯用石鹸、台所用石鹸などなど様々な石鹸が誕生するようになり、いまや我々の生活にはなくてはならないものになっています。

ペット用石鹸などというものもあって、人間さまが使うのとどこがどう成分が違うのかよくわかりませんが、しかも犬用とネコ用と別々にあるのがこれまた不思議。ちなみにウチのテンちゃんは、普通の石鹸で洗っています。もっとも本ニャンが嫌がるのでニャンプーするのも年に一度か二度ですが……

もともと動物や植物などの自然にある素材を使って作ったものなので、口にしても害はないみたいですが、食べるとおなかが痛くなる、と昔学校で教わりましたが本当でしょうか。

ちなみに、昔、学校では石鹸を網袋に入れて蛇口に吊すことが広く行われていましたが、最近これをほとんど見なくなったため、なぜかなと思っていましたが、これは、カラスが食べてしまうため、吊るすのを止める学校が増えたためだそうです。

石鹸を食ってのた打ち回っているカラスというのはみたことがないので、やはり人畜無害なのでしょう。石油や油脂を原料として化学的に合成された合成洗剤とは違うので、基本的には無害のはずです。

とはいえ、最近の石鹸は本来は入っていない香料が加えられており、また泡立ちを良くしたり、汚れを落としやすくするために人体には良くない余計な添加物を練り込んでいるものも多いので、無害だからといって、カラスのごとく、むやみやたらに石鹸をぱりぱり食べるのはやめましょう(そんな人はいないでしょうが)。

ところで、従来の石鹸に変わって登場したこの合成洗剤ですが、石鹸より水溶性に優れ、洗浄力が強く、石けんカスが発生しないため、戦後、洗濯機の普及とともに爆発的に広まりました。

第二次世界大戦以降の1952年、この当時「花王石鹸」と呼ばれていた花王から日本初の弱アルカリ性合成洗剤「花王・粉せんたく」が発売され、これが後の「ワンダフル」になります。

登場以降石鹸に代わって広く普及したため、1987年には、従来の洗剤から助剤を削減し、より少ない容積で同等の洗浄力を得るようにしたコンパクト洗剤、花王の「アタック」が発売されました。確認していませんが、スーパーなどではいまだにこの商品名は健在なのではないでしょうか。

2000年代に入った現在では、従来の粉末洗剤に代わって液体洗剤が登場し、粉末合成洗剤以上に家庭に浸透してきていますが、旧来の石鹸に比べて自然環境での生分解性が悪く、水質汚濁の原因物質になりやすいことが指摘されています。

しかし、最近の合成洗剤は、80年代、90年代に問題になった公害問題を反省して、さらに技術開発が進み、現在では水質汚濁原因の要素もかなり取り除かれ、また従来の石鹸と同様、誤使用・誤摂取においても問題を生じることは少なくなっているそうです。

それにもかかわらず依然として、合成洗剤は毒であるとか、環境を著しく汚すと考えている人は多いようで、市民団体や労働組合などの中には、合成洗剤には毒性があり人体に危険として合成洗剤不買運動をまだやっているところもあるようです。

過去に問題提起された点を根拠としているようですが、そのあたりの根拠づけをしっかりした上で運動したほうが良いのでは……と個人的には思います。

しかし、合成洗剤の使用が、肌荒れや脱毛、アトピー性皮膚炎を引き起こしており、その原因物質を含んでいるとする説も多く、かくいう我が家も、タエさんのご指導により、洗濯石鹸は、できるだけ「無添加」を使っています。

わざわざ「無添加」を選ばなくても、低刺激性の合成洗剤を使用すれば問題ないという人もおり、またアルカリ性である石鹸よりも合成洗剤のほうが肌荒れしにくいという人までいるようですが、私的には、幸い、面の皮が人よりも厚いのか、無添加であろうがなかろうが、また自然石鹸でも肌荒れやアトピーなどになったことはありません。

が、こうした問題を抱える人達にとってはたかが洗剤とはいえ、重大な問題に違いありません。

とはいえ、昨今やたらに耳にするこうしたアレルギーらしき症状の原因が、本当に洗剤だけなのかといえばそうであるはずもなく、おそらくは現代人が多く抱えるストレスなども原因になっているのでしょう。

洗剤だけでなく、やれ水道水の中のカルキだの、壁紙に含まれるホルムアルデヒドだの、排気ガス、はたまた中国からのPM2.5だの、現代社会はまるで化学物質の檻の中のようです。

そんな世の中だからこそ、できるだけ空気の良いところに住みたいもの。そう考えると、ここ伊豆は東京に比べてはるかに安全な国のような気がしてきました。

そんな伊豆に住み始めて早一年あまりがたちました。正確には今日で一年と一か月。去年と比べてより健康になったか?と聞かれると、YES!と胸を張って言えそうです。

ということは、来年はもっと元気になり、その次はさらに若返って、だんだんと若くなるのでは……という気さえしてきました。

来年の今頃、このブログをまだ続けていたら、また更に若くなっちゃいました~!とご報告ができることを夢見て、今日の項は終わりにしたいと思います。

あ、そうそう、ここ2~3日は、外出先から帰ったら必ず手や顔を洗いましょう。中国から大量の黄砂とともにPM2.5が到来しているようですから、これを洗い流すためです。

そのとき、使うべきもの。それは、やはり「石鹸」でしょう!