ウルトラの父


梅雨明け以降、良いお天気が続きます…… というか、はっきりいって良すぎます。

もう少し雨を降らせてもらわないと、庭木にやる水の水道代ばかりかかるという切実な問題もあります。

雨乞いでもしようかな、とでも思うのですが、やり方がよくわかりません。

調べてみると、雨乞いの方法としては、山野で火を焚く、神社への参籠、神仏に能を奉納する、呪術、などのほかに、「禁忌を犯す」というのがあるようです。

禁忌を犯す?? は、何かと思ったら、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものだそうで、かなり過激です。

また、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものもあるそうで、こちらはつまり脅迫です。穏やかではありません。

山野で火を焚くというのも消防法違反で捕まりそうなので、やめておきたいところ。

神仏に芸能を奉納する……音楽オンチなので踊れません。呪術は……呪いをかけた張本人は、それなりの報いを受けたり、場合によっては死んでしまうと聞いたことがあります。死んでしまっては雨が降っても仕方がありません。

と、いうことで、とどのつまりは、神社への参籠ぐらいがオーソドックスで無難な雨乞いのようなので、今日は午後からどこか涼しそうなところの神社にでもお参りに行ってきましょうか。

が、もしかしたら、ウルトラマンなら雨を降らしてくれるかもしれません。
おーい、うるとらまーん、とみんなで呼んでみることにしましょう。

……と、いうことで、昨日の引き続きです(……ちょっと苦しい前振り(-_-;) )

ウルトラの父

ウルトラマンのデザインは、前作「ウルトラQ」でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを依頼された彫刻家の「成田亨」という人物が担当しました。

しかし、ウルトラマンのデザインに関しては、この人が最終案としてのデッサンという形で残したものはありません。

実は、ウルトラマンの製作にあたっての仕上げの最終段階では、平面上でのデッサン作業には限界があると成田が判断し、この作業に見切りをつけたため、最終段階での「デザイン画」の決定稿というものはこの世に存在しないのです。

もし、そういうものが残っていたとしたら、おそらくは今日、ものすごく高額で取引されるプレミアムアイテムに違いありませんが、これまでのところ、そうしたものは発見されていないようです。

従って、ウルトラマンの撮影のためのスーツを造るための雛形は、成田の指示のもと、美術スタッフが粘土によって造型し、その作業を繰り返す中で、あの独特のマスクと身体の模様が次第に出来上がっていきました。

成田亨は、神戸市で生まれです。しかし、父の仕事の関係からか、幼少期より父方の故郷である青森市で育っています。1980年代に「エイリアン通り」などの独特の作風で一世風靡した女性漫画家の「成田美名子」はこの成田亨の従兄弟の娘にあたります(……といっても誰もしらないか)。

1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかったそうです。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなったといい、この辺のエピソードは、同じ東北の福島県で生まれ、幼いころに手にやけどを負った野口英世と酷似しています。

まさか、共通点はないよな、と面白半分で二人の運命数を調べてみました。そしたら、なんと、二人ともその運命数が「6」だったのにはびっくりしました。

運命数というのは、西暦に直した生年月日をすべて足し込んでいき、最後に残った数字です。野口 英世は、1876年(明治9年)11月9日生まれなので、1+8+7+6+11+9=42、4+2=6です。同様に、成田亨は、1929年(昭和4年)9月3日で、合計33になり、3+3=6になります。

我が家の「なっちゃん文庫」にあった、「数霊法運命鑑」という本をみると、運命数6の人は、「離合集散常なき陰の数霊にして、吉凶相なかばし、混乱の巷を意味す」とあり、どうやら波乱万丈の人生を送るようです。

確かに、野口英世も、ノーベル生理学・医学賞の候補にまであがるほどの業績を残しつつも、アフリカで黄熱病の研究中に自身も罹患して亡くなるという、波乱万丈の一生を送っています。

成田亨もそうなのでしょうか。

旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業後、印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。当初洋画を専攻していましたが、授業に不満を感じ、途中で彫刻学科に転科。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたといいます。

1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ、東宝の映画作品「ゴジラ」にアルバイト参加。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作しており、以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に加わるようになります。

1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選し、1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了。この年正式に映画界入りし、以後様々な特撮映画作品に参加。1962年には第26回新制作展新作家賞を受賞しています。

この「新制作展」は、入選者数、受賞者数とも少なく、作品の質などから考えても、そのレベルは非常に高く、現在、国画会の国展、独立美術協会の独立展と共に、洋画部門ではハイレベルな御三家といわれている展覧会です。

1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、翌年の1966年、TBSの特撮テレビ映画「ウルトラQ」の第2クールから美術監督を務めるようになります。

続いてデザインを依頼されたのが、同じTBSの「ウルトラマン」であり、その後、「ウルトラセブン」(1967年、TBS)、「マイティジャック」(1968年、フジテレビ)などでも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけました。これらキャラクターデザインに関しては、後述のとおり、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになります。

1968年春、円谷プロを退社。「ウルトラセブン」の美術監督を中途降板した後、青森市で初の個展を開催。その後、大阪万博において岡本太郎がデザインしたかの有名な「太陽の塔」内部の「生命の樹」のデザインを手掛けているほか、沖縄海洋博でも「WOSくじら館」の内部企画デザインなどを任されています。

さらに映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催しつつ、多くの著書・作品集を残しましたが、2002年2月26日、多発性脳梗塞により没。享年73歳でした。

野口英世ほど波乱万丈といえるかどうかは、議論の分かれるところですが、天才といってもよいほどの才能に恵まれながらも、ありきたりの成果には満足せず、不安定な生活の中に身を置き、自我を貫き通した末に一生を終えた、というところはやはり似ているように思います。

あなたも、ご自分の運命数を調べてみてください。そしてもし6だったら、波乱万丈の生になるのかもしれません。が、数霊の6は、「旧殻を破って新しき芽の伸び出る象を表す」ともあるので、新しいチャレンジに向いた人でもあるようです。がんばってください。

ウルトラマンのデザイン

さて、前述のとおり、成田は円谷特技プロダクション製作の「ウルトラQ」に途中参加し、番組内に登場する怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけました。

この次回作「ウルトラマン」の企画では、主人公が正義の怪獣(宇宙人)という設定となり、当初「怪獣」のイメージから東宝特技課の美術監督渡辺明により、クチバシと翼を持つ烏天狗のような怪獣タイプのデザインが提案され、これを「ベムラー」と仮称することになった、という経緯は昨日書いたとおりです。

企画が進行し、主人公を「怪獣」から「宇宙怪人」にコンセプト変更されたのち、文芸部の金城哲夫は成田に主役ヒーローのデザインを依頼し、「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文をつけます。

金城の依頼を受けた成田は、「宇宙怪人」のイメージとして、角を生やし、ダイヤモンドカットの髭を生やした宇宙人デザイン起こしましたが、これが、「科学特捜隊レッドマン」のヒーロー像の原型でした。

さらに検討が加えられるうちに、宇宙時代のヒーローとして、身体にぴったりフィットした宇宙服と、ヘルメットをベースとしたマスクデザイン画に変化。「人の顔」から余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返していきました。

その作業の際に成田は以下の方針を立てています。

・広隆寺の弥勒菩薩像にも通じる、アルカイックスマイルをヒントにした口元
・能面のように単純化された様式でありながら、見る角度や陰影によって様々な表情を表す
・宇宙ロケットから着想を得た銀色の肌
・火星の模様からの発想による全身のライン

これらのデザインコンセプトを元に何枚かのスケッチを描いたのち、成田は平面画によるデザインを諦め、「ウルトラQ」で怪獣造形を担当した、武蔵野美大の後輩である造形家佐々木明とともに、粘土原型による直接の形出しに切り替えました。

佐々木の造形に、単純化されたデザインが間延びしないよう、目の位置や耳の角度など、パーツデザインにこだわり苦労しながら成田が手を加え、試行錯誤が繰り返されました。

こうしてようやく、日本初の巨大宇宙人ヒーロー「ウルトラマン」は、1尺サイズの粘土原型の形で完成するに至りましたが、既に述べたとおり、実物での造形を優先させたため、この姿を平面上に表したウルトラマンの最終デザイン稿は存在しません。

特徴的な銀と赤の体色に関して、当初は体のラインには宇宙感を示す青を考えていたようですが、この当時の特撮では撮影にあたってのその背景がブルーに設定されることも多く、青空に染まってしまうため断念し、このため赤いラインに落ち着いたということです。

カラータイマー

ウルトラマンの特徴の一つである「カラータイマー」は、子供にも視覚的にわかりやすくウルトラマンが弱っていることを示すためのちょっとした仕掛け、いわゆる「ギミック」として高い評価を受けました。

円谷特技プロ文芸部の発案で追加されたものでしたが、実はデザイン段階では存在せず、成田はこれを大変嫌っていたそうです。

しかし、「ウルトラマン」の次に円谷プロのスタッフとして成田が手がけることになった「ウルトラセブン」では、セブンの額にカラータイマーがとりつけられており、これは成田自身が取り付けたそうです。

成田は、「どうせ人から押し付けられて後から付けられるような事になるなら、最初から自分なりに選んだものを付けておいたほうがまだまし」という考えだったそうです。

このためセブンのときには、ウルトラマンの胸に取り付けられていたカラータイマーを廃し、自らがウルトラセブンの額に「ビームランプ」を設定し、カラータイマーの役割を兼用させることにしたのだそうです。

また、番組をよくみるとわかるのですが、ウルトラマンの「瞳」の下には小さな穴があいています。この「覗き穴」は、デザインを損なうとして最初にはなかったものですが、ウルトラマンの着ぐるみの中に入る「演者」であった俳優の「古谷敏」の視界確保のために、のちに取り付けられたものだそうです。

新番組の放映にあたっては、その番宣のためマスコミを招いてのスチール撮影会である「第一回特写会」というものが開かれましたが、この「特写会」で覗き穴をどう処理するか成田も決めかねていてそうです。

結局、当日になり、視界をほとんど確保できないままでウルトラマンの着ぐるみを着て登場することになった古谷は、円谷英二社長やマスコミ関係者の見守るなか、手を引かれるようにして、よろめきながらステージに立つような状況だったそうです。

これを見ていた成田は、結局この「第一回撮影会」の休憩時間に、控室にドリルを持ち込み、自らがデザインしたそのスーツにその場で「覗き穴」を開けています。当然、これは成田にとっては不本意なことであり、このときの成田を見た関係者は「怒っているようでもあり、マスクに傷を入れるのを悲しんでいるような複雑な表情だった」と語っています。

のちになって成田はアクターの古谷に、「やるせなかったが、あの場では仕方がなかった。実際の撮影では戻すつもりだったが、時間もなく面倒くさくてあのままにしてしまった。デザイナーとしては失格だったよ」と心情を吐露したそうです。

その後実際に撮影が始まりましたが、その特撮ステージにおいても最初の穴の大きさでは視界が不満足であることがわかり、古谷の依頼で機電担当者によってさらに穴が拡げられました。

このように、成田は自分が納得して完成させたデザインを、人に言われて修正するようなことをとくに嫌っていたようで、成田による最初のウルトラマン彫刻には、原則としてカラータイマーも目の覗き穴も存在しておらず、その後彼が書いたイラストなどにもこれは書き込んでありません。

怪獣のデザインの特徴

成田は「ウルトラマン」やその後の「ウルトラセブン」に登場する怪獣のほとんどをデザインしています。このデザインにおいて成田は、コスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣は「カオス(混沌)」の象徴という理念でデザインしたそうです。

あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指したといいますが、内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考え、けっしてこうしたデザイン案は出しませんでした。

演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたようですが、成田は彼らを説得する上でも重要と考え、ウルトラ怪獣のデザインに当たり、次の三原則を打ち出しました。

1.怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
2.動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
3.身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。

また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、”不思議な格好よさ“がなければいけない」とも述べています。

バルタン星人は今でも人気怪獣であり、成田の代表作と取られがちですが、成田自身は「セミ人間に角と大きな鋏をつけてくれという無意味な注文が嫌だった」と、撮影所で目にしたその最終形も毛嫌いしていたそうです。

逆にケムール人は、自身の芸術的理想に照らして会心の宇宙人として挙げているそうで、ご存知の方はこのケムール人がどんなものかすぐに目に浮かぶと思いますが、少々おどろおどろしい幽霊のような形をしています。

このあたり「怪獣然」としたゴツゴツとした怪物の造形には優れていたものの、いわゆる「人型」の怪獣については、これを支持するファンの希望するデザインとの間に乖離があったように思われ、「ウルトラマン」の形が万人に受け入れられたのはむしろ不思議なことのようにも思えます。

成田はまた、たとえ自らが定めた三原則に沿っていたとしても、後に別のデザイナーにより生み出されていったような奇怪で複雑なウルトラ怪獣のデザインをも嫌っていたそうです。

表現の初期衝動を大事にせず、既存の怪獣デザインの枠内だけで新しいデザインを考えるといった安易で狭い姿勢の若いデザイナーを批判していたそうで、物のかたちの根底や問題の根源は何かといったことを考えず、既に誰かがデザインした怪獣の単なる組み合わせや、これを複雑化したにすぎないデザインは堕落であるとまで言っていたようです。

「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と雑誌の取材でも述べています。

最終的には銀色塗装に落ち着いたウルトラマンとウルトラセブンの体表の金属感の表現にも不満だったそうで、1972年に日本テレビで放映された「突撃! ヒューマン!!」の主役ヒーロー「ヒューマン」のマスクデザインは、ステンレスの叩き出しによる金属成型で表現し、これを成田は「会心の作」と述懐しています。

この番組は、視聴率も低く、どんなヒーローだったか私自身も見た記憶がないので、ネットで調べてみたのですが、ウルトラセブンとアンパンマンに出てくるドキンちゃんを合わせたような様相であり、私自身は、ムムム……というかんじです。みなさんもネットで探せばすぐにみつかると思いますが、どう思われるでしょうか。

メカデザインなど

このほか、成田は、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」における主要メカニックや小道具なども、その多くをデザインしています。

しかし、オリジナルのメカ自体が少ない「ウルトラQ」はともかく、「ウルトラマン」では彼がデザインした主役メカと言うべき「ジェットビートル」が諸事情で間に合わず、東宝映画「妖星ゴラス」(1962年)で用いたプロップと同じ木型から作った複製を使用せざるを得なかったそうです。

そういえば、その後のウルトラセブンに出てくる「ウルトラホーク」比べて、ウルトラマンに出てくるビートルはまるでおもちゃのようで、エライちゃちいな~と子供心に私も思った記憶があります。

成田自身も、ウルトラマンにおいて、自らがデザインした他のメカ・小道具等との統一性が図られなかった事を後々まで悔やんでいたそうです。

「ウルトラセブン」ではトータルデザインを重要視し、主役級メカをはじめ、特捜隊の極東基地全体の構造図、隊員服、ビデオシーバー等の小道具、さらに基地作戦室のパーマネントセットに至るまで一貫したカラーの元にそのデザインが企画されました。

これらのメカはプラモデルとしても発売され、私も自らが完成させた主役機「ウルトラホーク」はカッコいい!と思い、何度もこれで遊んだのを覚えています。

また、成田の作品ではありませんが、東宝が作成した「キャプテンウルトラ」に登場する主機のデザインなども秀逸であり、今でもこの当時の特撮映画のデザイナーさんたちのデザインというのは、およそ現在の戦隊ヒーローものに出てくるものなどよりもはるかに高水準で美しいと思います。

復刻版でも作ってもらえれば、今でも手にしてみたいほどなのですが、人気があっただけに、おそらくこうしたものも中高年向けに販売されているかもしれません。今度探してみましょう。

円谷プロとの対立

さて、こうして世界にも類例のないようなユニークなウルトラマンは大ヒットテレビ番組として精彩を放ちながらもその短い放映を終えましたが、その成功の功績は無論、成田によるところが大きいといえるでしょう。

しかし、造形やストーリー・演出も重要な成功要素であり、これらをすべて統括していたのは、円谷プロという組織でした。

成田も、その円谷プロの一社員として制作スタッフに参加していたにすぎず、このため作品内におけるすべての権利は製作会社に帰属することになっていました。

ところが、成田は後年になってこのことの不満を漏らすようになり、ウルトラマンやその他の怪獣のデザインに関する著作権を主張するようになります。そして、作品そのものの著作権を持つ円谷プロに対して一方的な対立姿勢をとるようになり、ついには裁判訴訟を起こすまでに至りました。

この当時、成田の肝入りにより朝日ソノラマから「円谷プロ作品における成田画集」なるものが出版されましたが、円谷プロがこれについてクレームを入れてきたことから、「なぜ、俺の絵を出版するのに円谷プロの許可が必要なんだ」とこの当時既に円谷プロからの退職を表明していた成田は猛反発。本人の意向により絶版になるなどの事態が生じています。

円谷プロ退職後も、何度かあった新しいウルトラシリーズへの円谷プロからの参加依頼に対して成田がこの著作権のロイヤリティーの話を持ち出したため、円谷側のスタッフが怒って席を立ってしまう、ということもあったそうです。

こうして、成田を原告として円谷プロを相手取り民事訴訟をおこされましたが、結局裁判は判決を待たずに「原告側の訴訟取り下げ」により終了しています。

社員であった当時にデザインや設計を行ったものの権利はその所属会社に属する、というその後も多くの他の裁判事例で標準的ともいえるようになった判決結果をながめつつ、自らが起こした裁判の成りゆきにも同じ結果が待っていると観念したためでしょう。

その後

その後、成田亨は、円谷プロが手がけた「平成第2期ウルトラシリーズ」と呼ばれるウルトラシリーズのひとつ、「ウルトラマンコスモス」が放映されている中、2002年(平成14年)に亡くなっています。

成田が手がけたウルトラマンやウルトラセブン以降、これらの作品の流れをくむ作品群は「ウルトラシリーズ」として継承され、各作品のヒーローは「○○ウルトラマン」「ウルトラマン○○」と呼称されるようになりました。

TBSは、「ウルトラマン」の後もこの「ウルトラシリーズ」の続行を望みましたが、円谷特技プロが赤字を理由にこれを断ったことから、これに代わって、東映によって「キャプテンウルトラ」が制作され、これをTBSは「ウルトラQ」、「ウルトラマン」に続く、「宇宙特撮シリーズ」、「ウルトラ・シリーズ第三弾」として内外にセールスしました。

しかし、「キャプテンウルトラ」の平均視聴率は25.6%であり、 1967年の第2話では、最高視聴率32.2%を記録したものの、その後も視聴率はふるいませんでした。

25%超の視聴率といえば、普通ならば大ヒットと言えるところですが、前番組「ウルトラマン」が平均36.8%という驚異的な数字を獲得していたために、スポンサーの武田薬品側も納得せず、TBSに対してクレームがつきました。

このため、これを製作した東映の平山亨プロデューサーはTBSの上層部から何度も叱責されたといい、「キャプテンウルトラ」の終了後、この番組枠は再び円谷特技プロ制作作品に戻ることになりました。

こうして、円谷プロにより「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」が「ウルトラシリーズ」として製作され、TBSで放送されることになりましたが、結局、TBSの番組枠として制作された「ウルトラシリーズ」は、以下の5作品で終わりました。

ウルトラQ 1966年(昭和41年)、全28話(円谷プロ)
ウルトラマン1966年(昭和41年)~1967年(昭和42年)全39話(円谷プロ)
キャプテンウルトラ1967年(昭和42年)全24話(東映)
ウルトラセブン1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)全49話(円谷プロ)
怪奇大作戦1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)全26話(円谷プロ)

以後、「ウルトラシリーズ」の製作は、円谷プロダクションが現在に至るまで継続していますが、その放映権の取得は、朝日放送や毎日放送、日本テレビと転々と変わり、最新作の「ウルトラマンメビウス」は再びTBS系列の各局で放映されました。

ただし、かつてのように特定の局が円谷プロや強力なスポンサー一社とだけ組んで、特定の番組を造る、といったことは、今では行われなくなっています。

TBSが円谷プロに依頼して制作した「特撮もの」としては、「ウルトラシリーズ」とは別に、「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」「メタルヒーローシリーズ」がありますが、これらもまた日本の代表的な特撮作品シリーズとしての金字塔を立てました。

これらの作品を「ウルトラシリーズ」のひとつとして語る向きもありますが、ウルトラマンが登場するのは本家の「ウルトラシリーズ」だけであり、正当な後継とはいえないでしょう。

現在に至るまでのところの「ウルトラシリーズ」の最新作は、「ウルトラマンメビウス」ということにはなりますが、中部日本放送(CBC)・TBS系列で全50話が放送され、2007年(平成19年)に終了して以降、TV番組としてのウルトラシリーズはその後6年にも及ぶ休止期間に入っています。

この前にも休止期間があり、これは「ウルトラマン80」から「ウルトラマンティガ」までのTVシリーズの16年間でした。

今後またこのウルトラシリーズが復活するかどうかは、不透明です。しかし、ウルトラマンシリーズの復活を望む声は高いといわれ、関係者の間ではこの作品を放送する環境は好転していると受け止められているようです。

ところで、成田亨は、1989年(平成元年)に、初代ウルトラマンのリデザインを試みています。

円谷プロがオーストラリアで新しい「ウルトラマン」を撮影する計画を立ち上げ、成田に新たなウルトラマンと怪獣のデザイン依頼を打診したそうで、結局成田のデザインは採用されませんでしたが、これは後に「ウルトラマンG(グレート)」として映画化されました。

成田は直ちに新ウルトラマンのデザイン画を描き上げ、これは「ウルトラマン神変」と題されたそうです。そして、その新しいウルトラマンのデザインはなんと、金色のボディに黒いラインだったといいます。

当時成田の頭の中には金と黒がヒーローのイメージカラーとしてあったようで、ウルトラマン、ウルトラセブンなどに続く全く新しいヒーロー像として1996年の成田亨特撮美術展で発表された「ネクスト」も金と黒だったといいます。

オーストラリア版「ウルトラマン」のほうは、成田がデザイン料として著作権の30%を要求したため、円谷プロと折り合いが付かず、結局成田の登板は実現しなかったということです。

しかし、もしこの金色のウルトラマンが採用され、かつてのウルトラマンのような人気を博していたとしたら、もしかしたら、2020年の東京オリンピック実現のあかつきにはメインキャラクターとして採用されていたかもしれません。

無論、何の根拠もなく、私がそう思うだけですが、新制作展の受賞者であり、万博や海洋博といった国家的な催しのデザインを数々担い、かつ、国民的ヒーロー像ともいえるウルトラマンというキャラクターを生み出した功績は大いに称えられてよく、もしご存命だとしたら、こうしたオリンピックのような国家事業のデザインを担う人物としては最適です。。

また、東京オリンピックが行われた1964年の二年後に放映されたこの「ウルトラマン」は、その後の日本の高度成長期の象徴のような気がしてなりません。

だとすれば、長い不況を乗り切るため、新たな東京オリンピックの象徴としてこの「ネクスト」なる新ウルトラマンを採用するならば、きっとうまくいくに違いない、なんとなくそう思えるのです。

単に思いつきにすぎませんが、もし、本当に次会の東京オリンピックが決まったならば、そのマスコットとして、この「新生ウルトラマン君」が採用されてもいいのではないでしょうか。

何度も繰り返しますが、単に私の思いつきにすぎません。忘れてください。

さて、昨日今日と、この項はかなり長くなりました。久々のことです。子供のころに大好きだったヒーローに関するものだっただけに、少々思い入れもあったのかもしれません。もう少し書き足りないこともあるのですが、今日はもう終わりにしたいと思います。

暑い日が続きます。熱中症にお気をつけください。

ほおずき市とウルトラマン


毎年7月の9日、10日にかけて浅草寺で催される「四万六千日」という行事は、御本尊の観音さま詣での縁日と盆の草市が結びついたもので、この日には「ほうずき市」も開かれ、東京ならではの夏の風物詩になっています。

そもそも、観音さまのご縁日は「毎月18日」だったそうです。しかし、室町時代以降にこれとは別に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。

中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより、なぜかそのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになり、「四万六千日」と呼ばれるようになりました。

この数については諸説があり、定説はないようですが、一説では「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」のではないかといわれています。

徳川時代以来、江戸東京の庶民は、夏になるとこの日に浅草寺に詣でて格別のご利益にあずかりながら雷よけの赤玉蜀黍(あかとうもろこし)を求めたり、また盆の草飾りを買って帰り、先祖様の仏壇に飾っていました。

そして、「四万六千日」のこの10日には一番乗りで参拝したいという人々も多く、これが高じて前日の9日よりお詣りする人も出始めたため、長い間には7月9・10日の両日が四万六千日のご縁日になったそうです。

この両日には前述のとおり、「ほおずき市」が開かれます。

なぜ「ほうずき」なのかというと、そもそもこの市は、東京芝にある23区内で「一番高い山」、標高25.7mの愛宕山の上に築かれた愛宕神社の縁日に開かれていたものでした。

当初、ほうずきは薬草としてこうした縁日にも売りに出されていました。そして、その効用が評判となって人々の知るところとなり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるようになりました。

こうしたほうずき市が開かれるようになったのは、現在のような神仏分離前のことですから、愛宕神社のような社殿でも仏教の故事である観音さまの縁日が開かれていたわけであり、これをお寺さんと同じく「四万六千日」と呼んでいたようです。

ところが、四万六千日ならば、仏教の浅草寺のほうが元祖で、「本家本元」というわけで、その後浅草寺境内のほうでもほうずき市が立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になっていきました。

愛宕神社のほうでも、今でも負けじとほうずき市が開かれているようですが、今では、四万六千日は浅草寺に譲ったような形になっており、今年のほうずき市も6月23に24日に行われたようです。ただ、HPをみるとそのご利益は46000日ではなく、「千日分」になっています。

ま、東京在住でなければ、浅草寺にも愛宕神社にも行けないわけで、そのご利益は得られませんから同じこと。せめて地方にいる我々は近隣の神社仏閣へ行って、46000日分の功徳を得られるようにしましょう。

ただし、その神社やお寺の「四万六千日」の縁日が7月10日とは限りませんから、ご注意を、です。

ところで、今日7月10日は、1966年(昭和41年)、TBSテレビで「ウルトラマン」の放映が開始されたということで、「ウルトラマン記念日」だそうです。

好評だった特撮テレビドラマ「ウルトラQ」の続編で、怪獣や宇宙人によって起こされる災害や超常現象の解決に当たる科学特捜隊と、それに協力するM78星雲からやってきた光の国の宇宙警備隊員、ウルトラマンの活躍を描く物語であり、日本人なら知らない人はいないでしょう。

本来は、この番組の前の番組で、かなりの人気を誇った「ウルトラQ」の最終話がこの日に放送される予定であり、ウルトラマンは7月17日に放送開始の予定だったそうです。ところが、関係者の間でこのウルトラQの最終回の内容が難解であるという議論が出たそうで、なんとそれだけの理由で、これが急きょ放送中止となりました。

そして、その穴埋めとして7月9日に杉並公会堂で開かれた、新番組ウルトラマンの宣伝イベントの模様を「ウルトラマン前夜祭」として放映したのが、ウルトラマンとしての放映の最初だったというわけです。

従って、ウルトラマン本編としての第一話の「ウルトラ作戦第一号」が放映されたのはその翌週の7月17日からであり、このときの登場怪獣は「ベムラー」でした。

この第一話は、視聴率34.0%と好調な滑り出しでしたが、「前夜祭」のほうも30.6%もの視聴率を得ており、本番が始まる前からこの番組の評判が高かったことがわかります。

本放送時の平均視聴率はさらにこれを上回り、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%という大人気番組となりました。

放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録したといい、その後何度も再放送が行われています。小学生だった私も、夏休みになるとこの再放送を繰り返し繰り返し、飽きもせずに良く見ていたのを覚えています。

しかも、オープニングテーマ「ウルトラマンの歌」の売上はミリオンセラーを記録しています。「き~ったぞ、われら~のウルトラマ~ン」という少年少女の歌声は今も耳に残っています。初放映から46年経った現在でも世代に関係なく認知度が高く、固有名詞としての「ウルトラマン」は、広辞苑の見出しにも記載されているとのことです。

また、データは少々古いですが、2002年に朝日放送系列で流された「決定! これが日本のベスト100」の「あなたが選んだヒーローベスト100」でも、第2位にランクインしており、ちなみにこのときの1位は、今大人気の俳優オダギリジョーさんが主演した、「仮面ライダー・クウガ」でした。

このように大人気だったウルトラマンですが、前夜祭も含めて結局全39話が作られたものの、実は途中で打ち切りになっていたという裏話があります。

その話の真相は後述しますが、その話は別として、この最終回でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンは、放映当時の子供たちに少なからぬショックを与えたようです。

私もウルトラマンが倒されたのが悔しくてたまらず、その後ずいぶんと跡を引きましたが、私たちと同じ世代の元プロレスラー、大仁田厚さんや前田日明(あきら)さんも、「大人になったらゼットンを倒してウルトラマンの仇をとろう」と心に決め、格闘家を目指すようになったと語っているそうです。

このように、この当時の子供だけでなく、大人なまでをも夢中にさせたこの番組は、商業的にも成功し、主人公のウルトラマンだけでなく、番組に登場した数々の怪獣や「科学兵器」などに関連する商品は、その後現在に至るまでも玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されています。

しかし、その制作過程においては、涙ぐましい努力があり、ウルトラマンが全39話で終わらざるを得なかったのには、それなりの理由がありました。

企画のスタート

本作の企画が始動したのは、1965年の8月ごろのことだったそうです。このころ、ウルトラマンの前作の「ウルトラQ」もまだ放送が始まっていないころでしたが、TBSではこの「ウルトラQ」の放送を翌年の1月からと決め、放映時間はゴールデンタイムである日曜夜7時枠でスタートすることにほぼ決定していました。

ウルトラQはなかなか面白い企画だということで社内での前評価も高かったようで、実際、蓋をあけてみると、ほとんどの放送回で視聴率30%台に乗る大人気番組となっていきました。

これが追い風となり、ウルトラQを超える次回作を創ろうという検討がより具体的に進められるようになり、TBSの栫井巍プロデューサーと「円谷特技プロ」の企画文芸部室長・金城哲夫(きんじょうてつお)が中心となって、様々なアイデアが出されていきました。

ちなみに、この金城哲夫は、沖縄出身の脚本家で、1963年に円谷プロダクションへ入社後、「ウルトラQ」「ウルトラマン」はもとより、「快獣ブースカ」「ウルトラセブン」などの数々の黎明期の円谷プロ作品を手掛けて成功させた立役者であり、大変有名な人です。

この企画のかなり早い段階で、TBSは以下の4つの条件を、この金城哲夫率いる円谷特技プロに提示しています。

1.カラーで制作する
→ 完成作品をアメリカへ売り込むことを予定していた。「ウルトラQ」が米国三大ネットワークと放送契約を締結できなかったのは、白黒作品であったため、と当時は考えられていた。

2.怪事件を専門に扱う、架空の公的機関を登場させる
→ 放送評論家を招いた「ウルトラQ」の試写会では「民間人が毎回怪獣に遭遇するのは不自然」という意見がかなり多かった。

3.怪獣と互角に戦える、正義のモンスターを主人公にする
→ 「ウルトラQ」の第2クール(1クールは四半期、3か月間))では「ゴロー対スペースモンスター」や「パゴス対ギョオ」といった怪獣対決モノが検討されていた。

4.「ウルトラQ」のレギュラー俳優を1人残す
→ 最終的には「ウルトラQ」の毎日新報カメラマン・江戸川由利子役の桜井浩子が選ばれた。円谷プロダクション所属のプロデューサーでもあり、「ウルトラマン」では、フジ・アキコ隊員役となった。なお、ウルトラQでは、このころ新人だった石坂浩二がナレーションを務め、「ウルトラマン」でもその前半のナレーションを務めた。

会議の中では「主人公が怪獣では具合が悪い」という意見が圧倒的に多く、監修者の円谷英二から「スーパーマンのようなヒーローを出してみてはどうか」と提案がなされました。

またこの時期、円谷が特技監督を担当していた東宝特撮映画として、人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開するという内容の「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年、東宝)という映画が公開されていましたが、この映画もウルトラマンの企画に少なからず影響を与えていると言われています。

さらに、このころライバル会社のフジテレビ用に企画されていた「Woo」という番組における「人間に味方する友好的宇宙人の活躍」というアイデアがTBS側の誰かにリークされ、これをもとに、TBS側では独自に「科学特捜隊ベムラー」という企画書が作成されました。

この企画書の段階での新番組は、「常識を越えた事件を専門に扱う科学特捜隊」と彼らに協力する正体不明の宇宙人「ベムラー」という設定になっていました。そして既にこのころ、「飛行機事故で消息を絶った主人公がヒーローになって生還する」という内容設定だったそうです。

これはウルトラマンをご覧の方はご存知だと思います。竜ヶ森湖上空で赤い球体と小型ビートルが衝突して墜落し、主人公であるハヤタ隊員が命を落としてしまいますが、この赤い球体の正体が実はM78星雲からやってきた宇宙人だったという、設定です。

ただ、この時点では、主人公とベムラーのこうした明確な関係は企画書には明記されていなかったそうです。

ベムラーの容姿もまた、最初のころは、日本の伝説上の生物・烏天狗を思わせるものが想定されていたそうですが、関係者から「敵怪獣との区別がつきにくい」「ヒーローとしてのキャラクター性が弱い」との指摘がありました。

そこで「ベムラー」企画は再検討され、新たに「科学特捜隊レッドマン」という企画が出されます。

この企画書では、正義の怪獣ではなく「甲冑を思わせるような赤いコスチューム」をまとった「謎の男」として設定され、身長は2メートルから40メートルまで伸縮自在というもので、また、変身時間の制限も導入されていたそうです。

ただし、「ベムラー」の名は第1話の登場怪獣の名前として残されました。最終的には、ウルトラマンが乗った「赤い球体」は、宇宙の墓場へ護送中に逃亡した宇宙怪獣ベムラー(青い球体)を追跡してきたもので、これを追いかけ地球までやってきて、誤ってビートルと衝突したという設定になりました。

また、主人公である科学特捜隊員の名前は「サコミズ(迫水?)」に変更され、彼とヒーローの関係についても「飛行機事故でサコミズを死なせた宇宙人レッドマンが責任を取ってサコミズの身体を借りる」と本作に近いものになり、こうして後の完成作品であるウルトラマンの設定の基本的な部分は出来あがっていきました。

ただし、この時点では、「レッドマン」はすでに故郷が他の惑星の侵略で滅亡していること、サコミズ本人はすでに死亡してその心はレッドマンであること、サコミズには人気歌手の恋人がいること、といった設定があり、完成作品とは少々違っています。

実作ではウルトラマンには帰る故郷があり、主人公は宇宙人の魂を貰って蘇生しており、無論、恋人がいるなどといった設定はありません。

こうして、円谷プロから提示された「レッドマン」のデザインも次第に形をなしてきましたが、幾分ヒーロー的にはなったものの、TBSの拵井巍プロデューサーはもっとシンプルでインパクトのあるデザインを要求します。

また前述のように本作はアメリカへのセールスを予定しており、アメリカの事情に詳しいTBSの大谷乙彦らが「今の形では外国人に受け入れられない。もっと無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」と提案。こうして試行錯誤した結果、今のようなウルトラマンのデザインに収束していきました。

結局、新作のタイトルも、前作の「ウルトラQ」に由来した「ウルトラマン」に変更が決定。

なお、劇中では、第1話でハヤタが最初に正体不明の宇宙人を「ウルトラマン」と命名していますが、ウルトラマン自身がこれを肯定したかどうかは、初回のころには明らかになっていませんでした。

その後、敵対する宇宙人や最終回でウルトラマンを迎えにくるゾフィーも、劇中でこのM78星雲からやってきた宇宙人を「ウルトラマン」と呼んでおり、登場人物たちの間でも回が進むにつれ「ウルトラマン」で定着していきます。ただ、私の記憶では実は彼の生まれ故郷の星に帰れば別の名前が存在する、という設定だったかと思います。

撮影・そして放送

前作の「ウルトラQ」は、劇中に登場する怪獣が好評で「空想特撮シリーズ」呼ばれていました。「ウルトラマン」はこの第2作として、「ウルトラQ」の世界観を継承する番組として制作・放映され、そのスポンサーは武田薬品工業一社でした。

本作では、怪獣が毒殺されるといったシーンは一切出てきませんでしたが、これはスポンサーが武田薬品だったためと言われています、また、第26・27話での関西ロケは武田薬品工業の要請だそうで、本編ではゴモラが武田本社ビルを破壊しています。

こうして撮影が始まった「ウルトラマン」でしたが、この作品はほぼ同時期に放映されたフジテレビの「マグマ大使」とともにカラーで放送される連続テレビ映画の草分け的存在でした。この当時こうした作品は世界にも類例がなく、いずれも巨大な宇宙人を主人公とする大がかりな特撮中心のドラマのため、その番組制作は苦難の連続だったといいます。

前作の「ウルトラQ」は放送前に全話の撮影を終了させる形式をとっていましたが、本作では放映と平行して制作する、その後の一般的なドラマと同様のスタイルとなりました。TBSから支給された予算は、1クールにつき7000万円(1本約538万円)、本編のクランクインは1966年3月下旬でした。

撮影は本編・特撮を同一スタッフが手がける一斑体制でスタートしましたたが、作業は遅々として進まず、途中からは別班を起こし2班による製作体制に変更。

なんとか無事に放映が始まったものの、スケジュールは次第に切迫し、特撮を複数編成にしても間に合わなくなり、しかも他に比類のない特撮には金がかかり、1話につき300万円前後の赤字が出て行く有様でした。

TBS側としては、ウルトラQの人気をも上回る評判を高く評価し、当初の予定放映数以上の番組の続行を望んだといいますが、受ける側の円谷特技プロは悲鳴を上げ、これ以上の続行は不可能とこれを断りました。

両者の間で協議が重ねられた結果、「赤字はともかく、週に一回の放送に間に合わないのが確実になった」ことを理由に3クール39話の放送で一旦終了することが決定し、ウルトラマンの次回作についてはまた話し合おうということになりました。

結局、その次回作の「キャプテンウルトラ」は、円谷特技プロに代わって東映によって「制作されましたが、これが不評であったため、その後再び円谷プロが製作したのが、1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)の間に全49話に渡って製作された「ウルトラセブン」でした……

この項、明日に続く……

釣りはお好き?


以前勤めていた職場で、釣りの好きな同僚がいて、地方に出張に出るときでさえハンディタイプの釣竿を提げていき、仕事が終わると必ずその地の海岸で糸を垂れてから帰る、というほど釣り好きの人でした。

久しくお会いしていませんが、どうされているでしょうか。夏は釣りのハイシーズンでもあるため、おそらくは毎日とはいいませんが、週末には日がな一日どこかで釣りを楽しまれているに違いありません。

結局この人とは一度も釣りをご一緒する機会には恵まれず、もっぱらお付き合いは酒の席でした。ところが、日ごろから釣果の話ばかり聞かされているせいか、この人と居酒屋に行って酒が入ると、どうしてもこの幅広な同僚のお顔が魚に似ているように思えてきたものです。

どことなく太った鯉のようなお顔をされているような気がしてしょうがなく、そういう目でみると、この人だけでなく、釣り好きといわれる人はたいてい魚に似ているようにこのころから思えるようになってしまいました。

そのことを別の同僚に話したところ、そんなことあるわけないよ~、と一笑に付されてしまいましたが、私としては前世でさんざん魚釣りをやったあげく、その魚の怨念がとりついて、現世では魚に似た顔になったのではないか、と疑っています。

そうすると、前世に牧畜や肉屋をやっていた人は、牛や豚に似てくるのか、と突っ込まれそうですが、これまたしかり。今生での職業は、前世での職業をベースにしていることが多いといいますから、ありえない話ではないかもしれません。

なので、鏡を見て、ご自分の顔がどうも鳥に似ている、と思われる方は、前世で養鶏場を経営していたか、焼き鳥屋をやっていたことがあるかもしれないと、疑ってみるべきかもしれません。あるいは鵜匠だったかも……

かくいう私の顔は、魚でもなく、鳥でもないようで、キツネ顔でもありません。強いていえばタヌキ顔といえるようですから、前世では、野の狸を狩っては食っていたに違いありません。

もっとも、以前霊能力のある方に見ていただいたところ、江戸時代には船問屋を営んでいたそうで、海とは切っても切り離せないような人生を送っていた前世も多かったようです。

その関係からか、でっぷりと太った庄屋様のような方が現在も背後霊としてついてくださっているといいます。なので何かの動物に似ているというよりも、人さまにはどちらかといえば大黒様のように見えているのかもしれません(私はけっして太っていませんが)。

ところで、釣り好きといえば、その代名詞は「太公望」です。よく使われる言葉ですが、どういうゆえんで使うようになったのか気になったので調べてみました。

すると、太公望というのは、紀元前1046年頃~256年ころの中国の「周」の時代に政治家だった呂尚(りょしょう)という人の別名のようです。

そのころの周は文王という王様が治めていましたが、かなり有能な人だったようで、その家臣についても人物を探してはスカウトをかけ、有能な人材を抜擢しては彼らの進言を受け入れ、この国を次第に豊にしていったようです。

ちょうどこのころ、太公望もこの周に住んでいましたが、職にあぶれており、毎日本を読んで暮らしていたそうです。しかし自分の能力には自身があり、そのうちなんとか文王の目に留まって臣下にしてもらうことはできないかと色々考えていたようです。

ある日のこと、周の町をぶらぶら散歩していた太公望は、王城のすぐ近くにある渭水(いすい)という川で釣りをしている子供たちを見かけます。そこで、ハタ!と気が付き、これだ!もしかしたら釣りをしていれば、散策に出かけた文王に声をかけてもらえるかもしれないと考えました。

しかし、普通に釣りをしていては王様の目に留まるわけはありません。そこで、太公望は釣りをしているふりをすることにし、釣り針には餌もつけず、しかもその針も裁縫に使う直針を使うことにしたのでした。

これを水面から三寸上にあげたまま、じっと魚が飛びつくのを待っているフリをしていましたが、ちょうどそこを通った文王は、案の定、この不思議なことをしている人物が目にとまり、近づいて行って太公望を誰何し、なぜ餌もつけずに直針で釣りをしていたのかを尋ねました。

このとき、太公望がなんと答えたかはわかりません。まさか、この釣り針であなたを釣ろうと考えていたのですよ、とは言わなかったでしょうが、それに近いことをユーモアを交えて語るぐらいのことはしたでしょう。

これによって文王と親しく言葉を交わすことができた太公望は、そのかねてよりの願いどおり文王にその才能を認められ、軍師として迎えられることになりました。そしてこの故事をもととして、後世では、釣り人のことを太公望とも言うようになっていったということです。

その後、太公望は周の軍師として文王を助け、またその子である武王の代にもこれを補佐し、殷などの他国からの侵略を防ぎつつ、軍略によってこれを打ち破りました。その軍功によってのちには、営丘(現在の山東省)を中心とする「斉」の地を治める王にも封ぜられています。

ところが、このように中国の歴史上においても、かなり重要な人物であったらしいと考えられるにもかかわらず、その出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめないといい、本当にいた人物であるかどうかも疑わしい、とする研究結果もあるようです。

いかんせん、紀元前のお話であり、日本ではまだ歴史そのものも存在していない時代です。中国においても「甲骨文」で記録を残していた時代のことであり、殷代に呂尚の領国であったとされる「斉」の名前は存在するものの、周初期の史料としては、呂尚に相当する人物の名前を記録したものはまったく確認されていないそうです。

とはいいつつも、こうした太公望と呼ばれるようになった釣りの逸話や、そのほかにも多くの伝説はかなり残されており、実在したとすれば、それほど人民には愛された統治者であったということなのでしょう。

太公望の伝説でもう一つ有名なのは、なんと言っても「奥さんに逃げられた」という逸話です。この故事はまた「覆水盆に返らず」の語源としても知られており、その話はこうです。

太公望呂尚がまだ周の文王に見いだされる前のことです。このころの太公望はいつも読書ばかりしており、食費もすべて本題に使ってしまうような人であったため、その暮らしぶりはかなり貧しかったといいます。太公望は既に結婚していましたが、こうした貧乏生活に耐えきれなくなり、とうとうその奥さんは太公望に離婚して欲しいと懇願しました。

太公望は妻に、いつか楽をさせてやるからと説得しましたが、妻はこの夫のことばを信用しなかったため、やむなく太公望は離縁を認めました。

ところが、前述のようにやがて太公望は周の文王に見いだされることになり、周の軍師となって殷の国を滅ぼしたあと、その功績により斉の国の王にまで封じられるほど出世します。

そして、その斉を治めるため長年暮らした周を離れ、ここへ向かおうと旅の準備をしていましたが、そこへ突然、かつて別れた妻が現われました。

そして、あなたはやっぱり私の見込んだような人物だった、こうして立派になった今それを見て誇らしく思う。離縁を迫ったことを許していただき、なんとか復縁してもらえないだろうか、とぬけぬけと太公望に言ったのです。

この妻に謁見したとき、太公望はちょうど侍女がお盆に載せて持ってきた水をすすりながらこの話を聞いていました。そして、かつての妻から復縁の話が出たとたん急に顔色を変え、気色ばんで、突然盆の上の器に入れてあった水をひっくり返して見せます。

そして、「この水を盆の上に戻してみよ」と言ったので、先妻はお盆にこぼれた水を必死に器に戻そうとしますが、当然すべての水を戻すことはできません。

これを見た太公望は、ひとこと、「覆水不返」と言い放ちます。そして、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻る事は無い。それと同じように私とお前との間も元に戻る事はありえないのだ」とキッパリ女からの復縁を断ったといいます。カッけぇー。

このはなしのオチはもともと、「別れた夫婦は元通りにならない」というフツーの教訓でしたが、やがて時代が下るにつれて、「覆水不返」が転じて、「すんでしまったことは取り返しがつかない」という意味に変わっていき、それがそのまま日本にも伝わりました。

このはなしにこれ以上のオチはありません。その後、この先妻が復讐鬼となり、体を鍛えて太公望の命をつけ狙うターミネーターになったとか、敵国の王女と懇ろになって周を攻め滅ぼしにきたとかいうのなら面白そうなのですが、そんな話はなさそうです。

その後太公望呂尚は、黄河や穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯の反乱を治めるなどして大いに活躍したといいます。かなり長生きしたようで100歳を超えてから死没したという話もあるようです。

こうした呂尚の活躍もあり、斉はその後、春秋時代初期には中国屈指の強国となっていきました。そして自国の権威を高めるためにもその軍制の始祖でもある呂尚の神格化を行ったため、太公望の名はその後も長く称えられるようになっていきます。

死してのちの唐の時代には、「武成王」という称号まで追贈され、現在では中国各地にある孔子や関羽といった偉人が祀られている廟に、彼らとともに祭祀されているといいます。

しかし、中国でも太公望は釣り人の代名詞として使われているようですが、日本のように単に釣り人一般の代名詞として使われるのではないようです。逆に釣りが下手な人を指して太公望と言うとのことで、これは餌もつけずに釣りをするふりをしたという故事に基づくのでしょう。

ところで、この釣りというのはいったいどのくらい昔からあるものなのでしょう。

一説によれば、釣りの起源は少なくとも約4万年前の旧石器時代まで遡ることができるそうで、日本でも石器時代の遺跡から骨角器の釣針が見つかっているようです。

現在のように趣味として広まっていったのは江戸時代ごろからのようで、江戸の庶民の間で流行し、「江戸和竿」と呼ばれる矢竹、布袋竹、淡竹、真竹、スズ竹などのいろんな竹を組み合わせた精巧な和竿が作られるようになりました。

そして、江戸だけでなく、このほかの地方でも和竿による魚釣りが流行するようになり、横浜竿、川口竿、郡上竿、紀州竿庄内竿などの多くのバリエーションが作られるようになりました。

具体的に和竿がいつから作られ始めたのかについては明確な資料は見つかっていないようですが、江戸和竿に関しては、1723年(享保8年)に書かれた日本初の釣りの解説書「何羨録」に継ぎ竿の選び方に関する記述があるそうで、この当時から既に数種類の竹を組み合わせた継ぎ竿が作られていたことが確認できるといいます。

和竿という分類は明治時代以降、西洋から竹を縦に裂いて再接着して製造する竿が紹介され、こうした西洋の竿(洋竿)と区別するために、和の竿(和竿)という呼称が用いられ定着するようになったようです。

明治時代のはじめころにはまだ日本の釣り竿の殆どが竹竿であったため、日本で作られる竿全般は「和竿」でしたが、その後欧米からスチール製や色々な素材の竿が輸入されるようになり、そのほかの釣用具も徐々にこうした欧米製のものが使われるようになります。

ちなみに、明治33年(1900年)に行われたパリ・オリンピック(パラリンピックではない)では、釣りが競技種目の一つとして採用され、釣果が競われたそうです。

パリオリンピックは、フランスのパリで1900年5月14日から10月28日に行われた第二回の夏季オリンピックで、この大会は万国博覧会の附属大会として行われたそうで、このため、その会期も5か月に及んだそうです。

初期のころのオリンピックであったため、大会運営もかなり混乱をきたしといい、メダルが与えられたのは、オリンピックの創設者クーベルタンが運営に関わった陸上競技のみだったそうです。

しかも、このメダルが実際に選手に届いたのは2年後のことだったそうで、現在ではこのパリオリンピックで行われた競技の中では、陸上競技のみの結果だけが公式な結果とされ、その他の競技結果は公式記録としては認められていません。

面白い話しとして残っているのは、ボート競技舵手付きペア種目では、オランダチームのコックス(舵手)の体重が、いざ競技を始めようとしたところ、重すぎるという理由でこの選手は外されてしまったそうです。

その代役として、たまたま観客席にいた7歳から10歳くらいと見られるフランス人の少年が飛び入りで参加したそうですが、なんとこのチームはそのまま優勝してしまったそうで、この少年は現在でも史上最年少のオリンピック金メダリストではないかと言われています。

しかし、その本人は競技終了後、身元確認を受けることなく会場から姿を消してしまい、少年の正確な年齢はおろか名前さえも分かっていないといいます。

このほか、射撃では鳩を的にして鳩を撃つ競技が行われたといい、さすがに残虐的だと非難され、この大会のみの競技となりました。このほかにも「凧揚げ」などといった競技もあったといい、魚釣りと同様にオリンピックといえどもまだこの時代には、ヨーロッパの国を中心としたのどかな地方スポーツ大会の域を出ないものでした。

魚釣り競技の結果がどうだったのか、調べようかとも思いましたが、時間を食いそうなので今日のところはやめておきます。

さて、その後も釣りは、たいして金もかからない趣味であるということで、日本国民の間で愛され続け、やがて戦後に国産のファイバー製の竿が作られるようになると、釣りはさらに手軽に行える趣味として国民の間で爆発的に広まっていくようになります。

このように魚釣りを娯楽・趣味とする風潮は、漁業者が行うそれとは別に、「遊漁」を目的とした趣味として広まり、やがて「釣り」そのものが一大レジャー産業として成長するまでになりました。

現在では釣具メーカーの中にはトッププロ(フィールド・テスターと呼ばれるそうです)と提携するところも現れ、マスコミを通しての商品のPRにつとめているところもあります。日本メーカーの釣具はあらゆる釣り人の利便性、機能性の要請に答えているという評価も高く、世界的にみてもトップクラスの水準にあるそうです。

釣りは竿だけでやるものではなく、リールや糸、針、浮きなどの様々な釣り具との組み合わせによって成立するものではありますが、しかしやはりなんといってもその主役は竿につきます。

細くなった先端部より釣り糸が伸び、魚が掛かると強い引っ張りを受けるため、柔軟性に加え相応の引っ張り強度を持つものが必要であるとともに、運搬や収納が便利であることも時に求められます。

このため、何本かの竿を継いで使用する継ぎ竿が考案されました。また、継ぎ竿は複数の部品で構成され、これを組み立てるものですが、これを組み立てずに手軽に伸び縮みさせることができるようにしたのが、振り出し竿です。振り出し竿では中空になった竿の中に細い部品が仕込まれており、これを引っ張り出す事により組み立あげることができます。

このほか、通常の竿にはリールを取り付けることができる釣り竿には、道糸を通すためのガイドが数個付いていますが、このガイドの代わりに釣り竿の内部に道糸を通すことができる「中通し竿」というものもあり、一口に竿といっても様々に工夫された竿が存在するようです。

こうしたことは釣りをやったことのある人にとっては、なーんだ当たり前じゃん、ということになるわけですが、釣りをやったことのない人、とくに女性にとっては、ふーんそうなんだーということになるのでしょう。

しかし、釣りをやったことのある人でも、かつての日本の釣り道具の主役である和竿についてはほとんど知識のない人も多く、例えば、「紀州竿」というのは、先端部を真竹、中間部を高野竹(こうやちく)、根元を矢竹と竹の特性(弾性や強度)に合わせて使い分けて一本の竿を製作するというかなり複雑なものです。

こうした和竿は単純に竹を適当な長さに切って繋ぎ合せただけのものではなく、このように複雑な製造工程が必要とされるものが多いようですが、その接合部(組み立ての際の差込口)もまた糸や漆で補強されたりといったいわば「工芸品」に近いものもあり、その設計と製作には高い技術が必要とされます。

こられの和竿の技術は、現代のグラスファイバーや強化プラスチック製の釣り竿にも継承されているといい、その技術を学ぼうと昔ながらの和竿の製作技術を継承する達人のもとには、弟子入り希望の一般人の申し込みがひっきりなしにあるといいます。

しかし、欧米にもこうした複雑な竿を製作する技術が伝わっており、例えば「六角バンブーロッド」と呼ばれるものは、中国の茶かん竹を裂き張り合わせて六角形にしたものです。

基本的には無垢構造ですが、ホロー構造と呼ばれる中をくり抜いて中空にしたものもあり、これを造るのにもかなり高度で繊細な技量が必要だということです。

とはいえ、こうした複雑な手造りの竿は当然高価になりがちです。一般人では手に入れることのできないような高額なものもあるようで、ましてやこれを海川の現場に持ち込んで使うのは、はばかれます。

ということで、登場したのがガラス繊維強化プラスチック(グラスファイバー)を用いた釣り竿です。

しかし、グラスファイバー製の竿は頑丈な反面、重量がやや重く、魚信を感知するためには少々低感度であり、また竹よりも反発が弱いという性質があります。このため、90年代までは主流でしたが、現在ではあまり使用されなくなってきています。

しかし、竿の自重だけである程度竿が曲がるため軽いものが投げやすく、魚の引きを楽しめながら強い引きも吸収して獲物を寄せることのできる柔軟さを持っています。このため、「プラグ」と呼ばれる木製またはプラスチック製のルアーを用いるルアー竿やフライフィッシング用の釣り竿には今でも主流で用いられているといいます。

しかし、最近での主流は、こうしたグラスファイバー製から炭素繊維強化プラスチック製へと変わりつつあり、これはカーボン竿、グラファイト竿などと呼ばれているようです。

引っ張り強度・弾性率が高くて軽く、カーボンのグレード(純度、弾性率にも関わる)も豊富にあるので様々な調子の竿が作れるのが特徴です。一昔前は、カーボンファイバーといえば高価な素材、というイメージでしたが、最近は製造技術の発達と普及により、かなりお安く手に入るようです。

私自身はまだ一度も使ったことがありません……というか、ここ十年ほど釣りには行っていないので、そのありがたみがよくわかりません。

しかし、カーボン純度が高いものはかなり高価になるものの、その「しなり」具合が違うといい、釣りの玄人さんには大人気のようです。しかし、一般的には従来のグラスファイバーなどと混ぜた比較的純度の低いものが使われます。

しかし、その混入率を偽る業者も増えてきたことから、全国釣竿公正取引協議会の規定では、かつては「炭素繊維強化プラスチック製」は炭素繊維含有量を25%以上としていましたが、2007年からは50%以上使用していないとカーボンファイバー製とはいえない、ということになっているようです。

しかし、安価な中国製のカーボンファイバー製にはこの含有率を守っていないものも多いようです。まがい物をつかまされないように注意しましょう。

これら釣竿の製作技術はさらに進化しつつあり、最近はさらにチタン製やアモルファス合金といった飛行機や宇宙船にも使われるような素材を使った竿のほか、ファインセラミックス、アラミカ(アラミドフィルム)といった最新素材も使われた竿まで登場しているとか。いったいいくらくらいするのか知りませんが……

こうしたますます最新鋭の竿の導入が進むというのは、それだけ需要があるということなのでしょう。竿以外はあまりたいした金もかからない釣りは、長く続く不況のさなかのことでもあり、日本全国どこへ行っても釣り人がいるというほどさかんに行われています。

伊豆などでも、ちょっと海岸へ出るとたいていどこにでも釣り人がいますが、ここからクルマで15分ほどで行ける三津港などでも、平日の昼間ながらも結構釣り客がおり、そんなに暇なんでしょうか……?と首をかしげるほどです。

とはいえ、日本中どこでもかしこでも釣りがOkかといえば、そういうわけにもいかず、当然、遊漁者に対する規制もあります。たいていは、各都道府県ごとに定められた「漁業調整規則」という条例によって規定されていて、とくに湖沼や川などの内水面ではこうした遊漁規則が設定されている場合が多いようです

また、遊漁者が使える漁具は、一般に一本釣りの釣り道具、小型のたも網のみであることが多く、これ以外の漁師さんが使っているような刺し網とか投げ網などは使えません。なので、釣りがさかんだからといって、どこでも誰でも、何でも使って釣りをしてもいいというわけには当然いきません。

ところが、近年の遊漁人口の増加と産業化によっては、こうしたタブーを犯す人も増えており、またこのほかにもいろんな問題が発生していて、その一つは、立ち入り禁止区域への侵入です。

進入禁止とされている場所での釣りが問題となっており、その代表例としては港などで立ち入り禁止とされている防波堤釣りです。こうした場所に釣り人が無断侵入しては高波にさらわれるなどして、2013年までに通算63人が亡くなっているそうです。

が、無論、記録を取る前から亡くなった方のことはわかりませんし、これ以外に海水浴と称して海辺で釣りをしていて流されたという人もいるでしょうから、被害者の数はさらに多いと考えられます。

なかには、3mもの高さのあるフェンスを、登れないからといって破壊したりしてまで侵入を繰り返す釣り人もいるといい、こうしたことはぜひやめてほしいものです。本人が危ないだけでなく、いざ事故が起こったときの周囲の迷惑をやはり考えるべきでしょう。

このほか、釣りにより発生するゴミの問題も深刻化しているといいます。

とくに河川・湖沼など淡水魚の生息する地域は野鳥にとっては、これらの場所において放置されたテグスや針付きのテグスなどは生命を脅かすものとなります。

また、特にワームと呼ばれ、自然界では不溶解の材料を用いた疑似餌による化学的な汚染や、撒き餌などによる水質汚濁も懸念されており、海釣りの磯でも同様で、波止釣りや埠頭でのゴミ放置はかなり問題化しています。

このほか、オオクチバス、コクチバス、ブルーギルなどの日本国内に天然では存在しない魚類の釣り人による意図的な放流も問題です。伊豆でも伊東の一碧湖のように、ある程度地元の人にも容認されているような場所はともかく、内水面漁業者がいるような場所では、漁の対象魚がこれらの外来種に駆逐されてしまった例も後を絶ちません。

「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」という法律があり、これにより外来種の放流は基本的には禁止されています。しかし、この法律では、釣り上げた魚をその場で再放流する、いわゆる「キャッチ・アンド・リリース」については規制をしていないため、いつまでたっても外来種が減らないという悪循環が続いています。

このため、秋田県・新潟県・滋賀県琵琶湖などではキャッチ・アンド・リリースを条例で禁止しているといい、こうした規制は条例ではなく法令で強制力を強めていく必要があります。

なお、釣りの対象とされる外来種であり、在来種に影響を与える魚種でありながら、在来種と誤解されているものもあり、ニジマス、輸入種の鯉、一部の湖におけるワカサギなどがそれです。

また、外来種ではありませんが、鮎や国産の鯉、そのほかその地方には存在しない他府県の魚類を持ち込んで放流するといったことは、生態系の破壊につながりかねません。

例えば輸入種の鯉と在来種の鯉の交配によって、新種ができてしまうということも考えられます。外来種のみの増加による環境破壊ばかりが問題ではない、というようなことを、学校だけでなく、社会人にも伝えるべくもう少し幅広く世に伝える方法を考えていく必要があります。

なので、近所のお祭りで買ってきた金魚やメダカを、エサ代もかかる穀潰しということで安直にそのへんの川に放流するのはやめましょう。近所で見つけたザリガニは捕獲してその夜のご馳走にしましょう。ちなみに、ウシガエルも外来種です。こちらは照り焼きにするとおいしくいただけます……

……ということで、東海地方もどうやら梅雨明けしたのではないかと思われるような上天気で、このお天気の中、釣りに伊豆に来る人も多いことでしょう。

私自身は最近まったくといっていいほど釣りをやらないので、どこがおすすめとかあまりここで書けませんが、やはり黒潮にも洗われる伊豆南部の海岸は、釣りのメッカとして趣味人には人気のようです。

釣りはしないまでも、ちょっと海岸へ出て、カニや貝などの生物と触れ合うのもまた楽しいもの。釣竿はなくても、ちょっと手で捕獲してその日の晩御飯にできそうなものもたくさんいるようです。不況でその日の食材にも困っているあなた。ぜひ夏の伊豆にやってきましょう。

でも、ゴミの放置や危険な場所への立ち入りはくれぐれもやめましょう。フィッシング詐欺にも気をつけましょう。でも陸釣りはご自由に。

七夕の夜に


一昨日から伊豆は雨に見舞われ、気温も急上昇して蒸し暑いといったらありません。それでも関西やその他の地方に比べるとしのぎやすい方であり、とくにここは高台にあるので、風があって、その分ずいぶん助かっています。

梅雨前線はかなり北のほうに上がってきており、このため南側から暖かい風が吹き込んでいるためにこの気象状況が生まれているようですが、おそらくはこの週末にも梅雨明けが宣言されるのではないでしょうか。

週末といえば、明日は七夕です。

元来、中国での行事であったものが奈良時代に日本に伝わり、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に習合したものであり、中国では、もともと「乞巧奠(きっこうでん)」という女性が針仕事の上達を願うための行事でした。

ちょうどこの中国の乞巧奠が行われる時期が旧暦の7月ころだったころから、同じく7月に行われていた日本の盂蘭盆会(うらぼんえ)、つまりお盆の行事が重なったものであり、古くは、お盆の行事の一環としてこの七夕も行われていました。

従って、地方によっては8月の7日ごろに未だに七夕祭りが開催されるところも多く、商店街に七夕の幟が立つところも残っているようです。私が幼いころ、山口の商店街でも、七夕祭りといえば8月の最初の週に行われており、商店街のアーケード下にたくさんの吊り飾りや笹が取り付けられていたのを覚えています。

ところが、本来は旧暦のお盆が行われる7月初旬、つまり現代では8月中旬にこの七夕の儀式も行われるべきところを、この七夕だけはなぜか旧暦の日時のまま定着し、7月7日の日にその行事が行われるようになりました。

そもそも、七夕とは何ぞやということなのですが、前述のとおり、中国ではそもそも乞巧奠という行事であり、これはかの有名な織姫と彦星(牽牛)の伝説に由来するものです。

この織姫と牽牛の七夕伝説は、中国史における南北朝時代、つまり、北魏が華北を統一した439年から隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期に成立したのではないかといわれています。

このころ書かれた「荊楚歳時記(けいそさいじき)」という本には既に、7月7日が牽牛と織姫が会合する夜であると明記されており、この日の夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、これらの捧げ物を庭に並べて祈ったと書かれています。

つまり、七夕とは本来、中国の女性たちが手習いで作った縫い物を天上の織姫様に捧げ、針仕事の上達を願う行事だったわけです。

この行事はやがて奈良時代に日本に伝わり、宮中や貴族の家でも行われるようになりました。

宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギ(アカメガシワの古名。葉っぱは食用のほか薬用にも使われた)の葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたものをこの針の穴に通したといいます。

そして、一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が再開できることを祈ったそうです。

また、後年に書かれた」「平家物語」では、このヒサギの葉っぱがカジの葉に変わっています。カジとは「梶」と書き、古くは柏の葉と同じように食器として用いられ、後に神前の供物を供えるための器として用いられていました。

平家物語といえば、平安末期から鎌倉時代にかけて成立した作品です。このころから、貴族の間で願い事をカジの葉に書いて捧げることが流行り始めたようで、織女と牽牛が出会える「二星会合」を祈り、またこの風習の発祥国である中国と同じように裁縫・染織などの技芸上達が願われたほか、詩歌の上達も願われたといいます。

江戸時代になるころには、すべての手習い事の願掛けとして七夕の行事は一般庶民にも広がるようになりましたが、現代に至っては、手習いごとだけではなく、いろんな他の願いごとまで短冊に書いて願うようになりました。

時代が下るにつれ、神様への願いごとがどんどん増えていったということであり、人間の欲望もどんどん拡大していったということで、現代人の貪欲さはもう少し抑制してしかるべきではないでしょうか。

ところで、七夕といえば、笹に短冊を飾るというのがオーソドックスな作法ですが、このように笹に飾る風習は日本以外ではみられず、中国はもとより、ここから七夕の風習が伝わった台湾や韓国、ベトナムなどでもこうした風習はないそうです。

こうした短冊に願い事を書き葉竹に飾るという風習は江戸時代ころから始まったようです。

江戸の昔には夏の暑気を無事に越すための「大祓(おおはらい)」の意味も込めて、茅(かや)で輪をつくり、この両脇を笹竹で囲むように飾っていたそうで、現在よりももう少し手の込んだお飾りでした。

ではなぜ笹の葉だったかというと、これが中国の七夕と日本のお盆が習合したといわれるゆえんです。

日本では、古くから笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代(よりしろ)とされてきました。依代とは、依り代、憑り代、憑代とも書き、つまり神霊が「依り憑く(よりつく)」という意味であり、その対象物のことです。

日本には森羅万象のものに対し神や魂が宿るという考え方から、多くのものや事柄に対し「畏怖や畏敬の念を抱く」という考え方があり、またそれは、物に対する感謝や、物を大事にする・大事に使う・大事に利用する(食する)という考えにつながり、様々なものを依代として祀ってきたわけで、笹もそのひとつだったというわけです。

江戸時代には、このカヤと葉笹で作ったお飾りに短冊をぶら下げて手習いの上達を願ったわけですが、この短冊の色も最初は単色だったものが、いつのころからか小学校唱歌の「たなばたさま」にも出てくる「五色の短冊」をぶら下げるようになりました。

この五色の色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をさします。五行説とは五行思想ともいい、古代中国に端を発する自然哲学の思想です。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説であり、つまり、五色の短冊の色は、土や水、木といったこの世にある万物の象徴というわけです。

ところが、もともとの発祥国の中国では五色の短冊ではなく、七夕は針仕事の上達を願ってのお祭りでしたから、前述のように五色の糸を刺した反物をつるしていました。これが日本に伝来してからは単色の木の葉に変わったわけですが、江戸時代からはこれがさら短冊に変わりました。しかし、色だけは元の中国のような五色が復活したのです。

現在、お盆や施餓鬼法要でもこの五色は良く使われます。施餓鬼のために供えられる幡(のぼり)の色もまた五色であり、こうしたところにも、中国の七夕と日本のお盆が習合した実例がみてとれます。

このように奈良時代に七夕が中国から伝わってきて以降、その風習はお盆の風習と合体し、そこに込められる願いの内容もかなり拡大解釈されて現在に至ってきました。

しかも、本来ならばお盆に祝うべき行事を、前倒しで梅雨も明けていない7月7日に行うというヘンなことになっているわけです。

私などは、いっそのこと、来年ぐらいからはもとの8月にやるように改めればいいのにといつも思います。毎年のようにこのころは良く晴れますから、織姫と牽牛のランデブーも成功の確立が高いのではないかと思うのです。

自民党さんも今度の参議院選挙で大勝したら、その政権が長続きすることを祈るためにも、こうした法案を議案に盛り込んだらいいと思うのですが、どんなものでしょうか。

ところで、そもそも、この織姫と彦星の話ってどんなんだっけな~と気になったので改めて調べてみました。するとそのいわれは、その昔、織女と牽牛という男女が恋しあっていたところを天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになったということでした。

小学校のころにそう習ったはずであり、あー、そういえばそうだったなと、思い出しましたが、そういえば、その時には牽牛星は、アルタイルという星のことであり、わし座の中で最も明るい恒星、また、織姫星はベガのことであり、こちらもこと座の中で一番明るい1等星であるといったことも習いました。

この二つは、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角を形成しており、夏空の名物である……というようなことも習ったはずです。

しかし、中国ではこの天の川は「西遊記」に出てくる猪八戒が天帝より任され、その管理をしていたことになっているそうで、さすがにそんなことまでは学校では教えてくれませんでした。

この天の川ですが、日本や中国だけでなく、当然、ヨーロッパからも見えるわけであり、織姫と彦星のようなラブストーリーはないようですが、ギリシャ神話にもこの天の川にまつわる別のお話があります。それはこういうものです。

ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていました。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかったそうです。

一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませました。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出します。そして、これが天のミルクの川になったのでした……

ギリシャ語では、この天の川の夜空の光の帯のことを、川ではなく、「乳の環」というそうで、英語での天の川の呼称もこの神話にちなんで「Milky Way」といいます。

なかなかロマンチックなお話であるのですが、日本や中国などのアジア人からみれば、これが乳にみえるという発想はなかなか出てこないでしょう。牧畜がさかんだったヨーロッパ人ならではの発想であり、同じ夜空にまつわる伝説も民族が違うとこういうふうになるか、と妙に感心してしまいます。

しかし、実天の川の実体は、今では知る人ぞ知る、膨大な数の恒星の集団にすぎません。

宇宙に数えきれないほどある銀河のひとつが「天の川銀河」、つまり「銀河系」であり、我々の地球を含む太陽系はその中に位置しているため、この銀河を内側から見ることになり、この星々たちが川のように天球上の帯として見えるわけです。

天の川銀河の中心はいて座の方向にあり、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためだそうです。

しかし、天の川の光は非常に淡いため、月明かりや、町の灯りなどの人工光による光害の影響がある場合はなかなか確認できません。

日本では、1970年代の高度成長期の終了以降、天の川を見ることができる場所は非常に少なくなってしまったといい、天の川を見るためには、月明かりの無い晴れた夜に、都会から離れたなるべく標高の高い場所に行くしかありません。

ただ、その見え方には季節差があります。

我々の太陽系は、この銀河系のわりと外縁の端っこのほうに位置しています。地球からみるとこの銀河系の中心方向が、夏の星座である「いて座」の方向になります。このため、夏にはその中心方向をみていることになり、天の川としてたくさんの星々が確認し易くなります。

逆に、冬の天の川が淡く確認が難しいのは、いて座が天上に出ることが少なくなり、銀河の中心方向を見づらいためです。無論、これは日本のことであり、外国にいけば、その地域で見えるいて座の方向によって天の川が良く見える季節は当然変化します。

透明度の高い夜空が見えるとよくいわれるオーストラリアなどでは、どの季節にいて座の方向が良く見えるのか知りませんが、シドニーやメルボルンといった都会を離れた砂漠地帯では、天の川の光で地面に自分の影ができほどよく見るそうです。

地球上の物体に影を生じさせる天体は、太陽、月、金星、天の川の4つのみだそうですが、日本では、せいぜい太陽と月まででしょう。せめて金星の影がみえるほどの場所へ行ってみたいところですが、ここ伊豆ならなんとかなるかもしれません。

もうすぐ梅雨が明け、夏空が戻ってくるころには、夜空を眺める機会も増えてくるに違いありません。できれば晴れた日を選んで天城山にでも登り、空いっぱいの天の川を眺めてみたいところです。

皆さんの夏はいかがでしょうか。まだ梅雨も明けていないのに予定なんか立ててないよーという人も多いでしょうが、いまから天の川観望のために伊豆までプチ旅行、なんてのも考えるとよいかもしれません。

あっそうそう。富士山も高所にあるので、ここからは星が良く見えるそうです。世界遺産に登録された今、こうした夜空観察含めて富士山を登山しようと考えている人も多いに違いありません。あなたも検討してみてはいかがでしょうか。大混雑が予想されそうではありますが……

我々はどうするか……。思案中です。

下田と黒船 ~下田市


今日7月4日は、アメリカでは独立記念日ということで、祝日でありお休みです。

1776年に独立宣言が公布されたことを記念したものであり、アメリカ各地ではパレードが開かれ、一般家庭でもバーベキューやピクニックなどのイベントが開かれることも多く、野球などもこの日に特別な試合が行われたりします。

各地では花火を打ち上げるところもあり、ワシントンD.C.の花火は1777年以来の伝統行事だそうです。

このように、7月4日の前後数日間は文字通り全米をあげてのお祭り騒ぎが繰り広げられます。独立記念日にかこつけてバーゲンセールが行われることも多く、乗用車などの高額な耐久消費財も含めて多くの店舗が特売を実施します。

しかし、独立宣言が行われた日をもってアメリカの独立戦争が終わったと勘違いしている人がいますが、これは間違いです。独立戦争はその後7年に渡って続き、最終的に戦争が収束したのは1783年にパリで講和条約が締結されたときになります。

ただ、「アメリカ合衆国」という国がこの日からスタートしたことは間違いなく、今から238年前の今日、13の植民地がイギリスから独立し、独自の路線で新しい国づくりを始めたのでした。

先日我々が訪れた下田に黒船が現れたのは、この独立記念日からさらに78年も後のことになります。

1854年(嘉永7年)のことであり、この年の米国艦隊の来訪は、その前年の1853年(嘉永7年)に同艦隊が浦賀を訪れて以来、二度目になります。

この年も最初に寄港したのは浦賀であり、その後の1ヶ月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れました。このとき全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国は、ついに解かれることになりました。

なぜその後、浦賀から下田へ交渉の場が変えられたのかといえば、江戸から多少離れているとはいえ、ここから艦砲射撃をやられた日には、その弾丸が江戸城まで届きかねないと幕府が考えたためです。

こうして移された交渉の場は、下田公園のすぐ近くにある「了仙寺」というお寺に設けられ、4月にペリーらが下田に上陸しておよそ2か月後の1854年の6月17日(嘉永7年5月22日)、和親条約の細則をめた全13箇条からなる、いわゆる「下田条約」が締結されました。

最初ににペリー提督が下田に上陸したとき、お供はわずか7人だったそうで、了仙寺で黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、お茶の接待を受け、「九年母」というみかんの一種で作られた菓子等が出されたそうです。

そのときは、境内はもちろんお寺の奥の庭まで、お寺中が見物の男女群集で隙間もないほどだったといいます。

しかし実際には、外国人が上陸しているときは女性は外出禁止、男性でも「用心して、見物のために外に出たりしないように」というお達しが出ていたそうで、このほかにも「人家は戸障子をかたくしめきり、店屋は商品を片付けて、人家に外国人が立ち入らないように、飼っている牛を外国人に見られないように」というお触れが出されていたそうです。

にもかかわらず了仙寺には多数の人が押しかけていたわけであり、よほどこのころの下田の住民は好奇心あふれる人達だったのでしょう。

ところで、このペリーの下田訪問に至るまでの独立戦争以来の78年間、アメリカはいったい何をやっていたのでしょうか。

まず、彼らが独立後に最初にやったことは、地元住民であるインディアンを征服することでした。ヨーロッパから移住してきた13の植民地の面々は、北西部を中心として各地でインディアンの掃討を繰り広げ、この結果これに勝利し、1795年ころまでにはほぼ北西部の全土を手中にしました。

続いて未開の地であった西部の勢力拡大を目指しはじめ、南部では1803年にフランス領であったルイジアナ買収を行なっています。しかし、独立を勝ち取ったとはいえ、このころまだ北米大陸の西部のほうではまだイギリスが勢力を握っており、彼らが新生アメリカ合衆国の西部開拓を阻みました。

このため、1812年に再度米英戦争が勃発しましたが、1814年にはイギリスと停戦条約を締結することに成功し、事態は収拾の方向へ向かいます。

この条約で米英間の北東部国境が確定し、イギリスはカナダ側へ撤退。カナダをも併合しようとしていたアメリカ合衆国の野心は潰えたものの、その後イギリスはカナダの独立も許し、結局北米大陸から撤退していますから、両者ともに痛みわけという結果でした。

しかしアメリカにとって、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、このときからアメリカ人の心の中には現在のような大国意識が芽生えはじめたのでしょう。

1819年にはスペイン領フロリダを買収、さらに開拓を進め、入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも西進し、1836年にはメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立を実現。そしてその9年後の1845年にはこれをアメリカへ併合しています。

更に1846年にはメキシコと米墨戦争を引き起こして勝利。この結果メキシコ人を南に追いやることに成功し、これによりアメリカ合衆国の領土はついに西海岸にまで達しました。

こうして、現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアが確立されたわけですが、この頃からアメリカは太平洋へもさかんに進出するようになり、電気のないこの時代には夜間の明かりとして必需品であった「鯨油」を求めて遠洋捕鯨が盛んに行われるようになりました。

鯨を求めての遠洋航海は徐々に太平洋の西側にまで拡大していき、こうして1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣することになったのでした。

その結果、日本に日米和親条約と下田条約という二つの不平等条約を締結させることに成功。これ以後、アジア外交にも力を入れるようになっていくわけです。

この下田条約を締結するに先立ち、その前年の1853年(嘉永6年)に浦賀に入港したいわゆる「黒船」は以下の4隻でした。

蒸気外輪フリゲート:サスケハナ
蒸気外輪フリゲート:ミシシッピ
帆装スループ:サラトガ
帆装スループ:プリマウス

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に現れ、日本人が初めて見たこの艦隊は、それまでも何度か日本近海に現れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、この様子から、「黒船」の呼称が生まれました。

船体が黒かったのは、船内への浸水を防ぐためにタールやピッチを塗っていたためでしたが、この工夫はアメリカ独自のものというわけではなく、鎖国前に頻繁に交易をしていたポルトガルのキャラック船と呼ばれる大型の帆船にも採用されていました。

しかしその後ポルトガルは日本との交易権益をオランダにとられてしまっているため、幕末に至るまで多くの日本人はこうした黒塗りの船を見る機会は少なく、慣れていなかったのです。

しかも、浦賀沖に投錨したアメリカ艦隊の船は大きく、とくに旗艦サスケハナとミシシッピは巨大でした。

当時の日本の帆船、千石船は一番大きいものでも100トンほどです。これに対して、4隻の内で最も総トン数が少なかったサラトガでさえ、882トンもあり、その8倍以上の排水量を持っていました。

最も大きかったサスケハナに至っては2450トンもあり、しかも全体が真っ黒に塗られていたわけであり、当時の人々にとっては、見たこともない大きな黒い船はかなり不気味な存在であったことには間違いありません。

しかも、これらの船には合計で73門もの大砲が積まれ、入港と同時に湾内でさかんに空砲を発射しはじめました。さらに、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始め、その後もアメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として頻繁に空砲を発射したといいます。

実はこのペリー艦隊の来航は、その前年に、長崎の出島のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスから、長崎奉行に知らされていました。

この通報により、幕府は事前にアメリカが日本との条約締結を求めているということを知り、米国から派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がペリーであることや、艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなども知っていました。

ヤン・ドンケル・クルティウスからは、日本への到来はも4月下旬以降になるであろうと伝えられていましたが、アメリカ側の準備が手間取ったため、実際の来航はこれより数か月遅れになりました。

黒船の来航を知っていた幕府は、このことを市中の役人に通告しており、町民にも異国船がやってくるかもしれないから注意するようにとのお触れも出てはいましたが、この最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。

しかし、空砲だとわかると次第に町民もこの音に慣れ、やがては砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜ぶような風潮も出てきたといいます。

その後、浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、乗船して接触を試みるものもありましたが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになっていきました。

このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という有名な狂歌が詠まれました。

上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけでも、カフェインの作用によって夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(4隻)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄したものです。

この最初のペリーの来航の際、第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態にはありませんでした。

このため、老中首座阿部正弘は幕閣とも協議した結果、国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論を出し、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見しました。

ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため、1年後に再来航すると告げ、いったん帰国しました。

艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して、次回の来航まで香港に滞在していました。

こうして、翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。

最初のペリー出航からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)には、将軍家慶が死去しています。その後継者は家定となり、こうして第13代将軍が誕生しました。しかしこの家定も病弱で国政を担えるような人物ではありませんでした。

ペリーが再度来日するまでには、開国するか否かについて老中たちによる協議が重ねられましたが名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませました。

彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めましたが、結局のところ、ペリーの再来に至るまで結論は出ていませんでした。

ペリーの来航は、幕府との取り決めで1年後のはずでしたが、あえて半年で戻ってきたのは、幕府に動揺を与え決断を促すためでした。案の定、幕府は大いに焦りましたが、実はペリーは香港で将軍家慶の死を知っており、その国政の混乱の隙を突いて来航すれば必ず開国に持ち込めると考えたのでした。

こうしたところに、彼の優れた外交手腕を見て取ることができます。日本遠征の際にウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出したその基本計画にも、任務成功のためには少なくとも4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦にすることが日本人を恫喝する上においては有効である、と書いてありました。

日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識でき、「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」と述べ、さらにはオランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき、としており、浦賀を最初の寄港地として選んだのにはそれなりの意味があったのです。

こうして、1854年2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)がまず浦賀に現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までには蒸気外輪船である、旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」の3隻と、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の3隻、しめて合計7隻が江戸湾に集結し、江戸は再び大パニックに陥りました。

さらにその後も、3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)が、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着し、ペリー艦隊は総勢9隻という大艦隊になり、まるで威嚇するかのように時に位置を変えて、江戸の湾内に居座るようになりました。

しかし、江戸市中の市民はその前年のときのようにやがて慣れ、その後やはり浦賀には見物人が多数詰め掛けるようになり、観光地のようになっていったそうです。

こうして、約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れました。3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸。その後、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなりました。

しかし、前述のとおり、艦隊を江戸城のすぐ側に置いておきたくない幕府の意向もあり、交渉場所はその後下田の了仙寺へ移されました。

下田への入港にあたっては、まず4月15日(旧暦3月18日)にサザンプトンとサプライの2隻が入港、そしてその2日後には、レキシントンとバンダリアが、そしてその翌日の4月18日(3月20日)には、ペリー提督が乗っている旗艦ポーハタンとミシシッピーの巨艦2隻が入港。

さらに、すこし遅れて5月4日(4月5日)にマセドニアンが入港しましが、この遅れの原因は、マセドニアンは、米水兵達の食料を調達するため小笠原まで行って漁をしていたためでした。

入港に際し、海亀70匹と大鯨2頭を獲ってきたという記録が残っており、これによりペリー艦隊は豊富な食料を持っていたことがわかります。

こうして下田には7隻の船が入港しましたが、浦賀に入港した9隻のうち、帆装スループのサラトガだけは、その俊足を生かして日米和親条約の締結の成功を知らせるためにアメリカ本国へ戻ったようです。

サラトガに乗ってアメリカに向かい、その成功を知らせたのはアダムス中佐という人物で、彼はそのおよそ半年後、この7隻のペリー艦隊のうちのポーハタン号に乗り、アメリカ本土から正式な日米和親条約批准書を持って、再度下田に入港しています。

浦賀に入港した9隻のうち、下田に入港しなかったもう一隻は蒸気外輪フリゲート艦であるサスケハナです。この船が下田条約締結の際にどこに行っていたのかについても調べてみたのですが、私が調べた限りでははっきりとしたことがわかりませんでした。

しかし、ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去っており、東洋における拠点基地のある香港への帰路の前に、琉球王国にも立ち寄って正式に通商条約を締結させています。このため他の7隻に先んじて琉球へ向かっていたのかもしれません。

その三か月後の7月に入ってから、このサスケハナは初めて下田に入港しており、このときはアメリカ商船レデイ・ピアース号とサザンプトン、ミシシッピーなどの緒船が一緒であり、塗物や焼物、竹細工等が積みこまれたという記録が残っています。

このため、日米和親条約が締結されたことを香港などにいる他の自国船にも伝えるために、ここに帰っていたかもしれません。

以上、1854年に日本に再来航したペリー艦隊9隻の動向を整理すると以下のようになります。

○浦賀及び下田の両方へ入港
・サザンプトン 帆装輸送艦
・サプライ帆装輸送艦
・レキシントン 帆装輸送艦
・バンダリア(バンデーリア)帆装輸送艦
・旗艦ポーハタン 蒸気外輪フリゲート
・ミシシッピー 蒸気外輪フリゲート
・マセドニアン 帆装スループ

○浦賀へ寄港後、アメリカへ帰国
・サラトガ 帆装スループ

○後日、下田に入港
・サスケハナ 蒸気外輪フリゲート

こうして日本と条約を結び、長い鎖国の呪縛から解き放ったアメリカですが、その後、熾烈な南北戦争に突入することになります。そして皮肉なことには、その経過において日本や清に対する影響力を失い、その市場は結局、英国やフランス、ロシアによって奪われるようになってしまいました。

これら日本にやってきた黒船たちもまたその後、この南北戦争に投入されています。

旗艦であったポーハタンは、南北戦争中にはメキシコ湾艦隊の旗艦となり、フロリダやカリブ海での歴戦において活躍。南北戦争終了後は、南太平洋艦隊の旗艦としての任務につき、米国の権益を守るため、チリに派遣されました。

その後本国艦隊に復帰し、1879年まで旗艦を務めましたが、1886年に退役。その後売却され、1887年(明治20年)に解体されました。

他、日本を訪れた2隻の蒸気外輪船のうち、サスケハナ号はその後、1856年にはヨーロッパへ廻航され、地中海艦隊の旗艦となりました。1861年に南北戦争が勃発するとアメリカに戻り、大西洋封鎖艦隊に配属され、南北戦争中は主に大西洋で活躍し、その後ポーハタン号よりも20年ほど早い1868年に退役しました。

そして1883年(明治16年)に売却され、スクラップとなりましたが、来航した下田港には、この艦を模した遊覧船「黒船サスケハナ」が現在も就航しています。

もう一隻の蒸気船、ミシシッピは1855年にニューヨークに戻り、1857年に再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートしました。が、1860年にはボストンに戻り、やはり南北戦争に投入されます。おもにフロリダなど南部海岸で活躍し、キーウェスト沖やニューオリンズ沖での南軍との戦いにおいて活躍しました。

1863年3月、ミシシッピはハドソン港において南軍と対峙する作戦のため、他の6隻の僚艦とともに出港しました。このとき、この6隻はペアとなって行動していましたが、ミシシッピだけは単独で航行しており、ハドソン港を守る敵の砦の前を通過しようとしたとき、不覚にも操船ミスにより座礁してしまいました。

敵の砲弾が降り注ぐ中、艦長のスミス大佐と副官のジョージ・デューイ(後に、米海軍唯一の大元帥となる)は艦を離礁させるべくあらゆる手段を講じましたが、機関は破壊され、大砲は沈黙し、ついには南軍による鹵獲(ろかく、敵対勢力の兵器を奪って自己の兵器として運用すること)を避けるため、ミシシッピは自らに火をつけました。

火薬庫に火がまわり、ミシシッピは爆発・沈没し、このとき64名が死亡しました。しかし残る224名は他の艦に救助されたそうです。

これらの蒸気船に同伴して日本を訪れた他の帆走船の多くもその後の南北戦争に投入されています。そのすべての消息をここで詳細に記すことはできませんが、アメリカ本土へ日米和親条約締結の第一報を知らせたサラトガは、その後おもにカリブ海やメキシコ湾の巡航にあたっていました。

その後アフリカ沿岸へと向かい、イギリスの奴隷船を鹵獲し、多数の奴隷たちを解放するなどの活躍をしましたが、南北戦争勃発の報を受け、合衆国に帰還。

デラウェアの沖合で南軍艦船の接近とデラウェア湾外への展開を阻止することになり、その後数年はこの任務に就いていましたが、その後はカロライナ沖で海上封鎖に当たるよう命じられました。

この大西洋岸での任務についている間、何度か兵員を上陸させて南軍に攻撃を仕掛け、多数の捕虜を捕らえ、相当量の武器、弾薬、補給品を鹵獲ないし破壊し、さらに、多数の建物、橋梁、製塩施設などを破壊するなど大活躍をしました。

南北戦争後は1877年に最後の任務を与えられましたが、それまでの活躍を称えられ、これ以降11年あまりの間は練習船として用いられることになりました。練習船となったサラトガは、大西洋岸各地の海軍基地や海軍造船所を回り、さらにヨーロッパにも航行しました。

練習船としての任務は1888年に解かれ、ここでようやく退役となり、その後はペンシルベニア州に貸与され、ペンシルベニア州フィラデルフィアの州海事学校の練習船となりました。しかし、1907年(明治40年)に、スクラップとして売却され、解体されました。

このほか、同じく帆船スループのマセドニアンも南北戦争で活躍しましたが、その後一般企業に売却され、晩年はホテルとして使われ、またカジノ船として使われたこともあったようですが、1922年(大正11年)に火災により焼失。

帆走スループ船バンダリアもまた、南北戦争に投入されたあと、1863年にはニューヨーク海軍工廠で退役。その後沿岸警備船などとして使われていたようですが、1870年から1872年の間のころまでにはポーツマス港に係留されていたようです。しかし、痛みがひどくなっていたという記録があるだけで最後がどうなったのかはわかっていません。

残る3艦の帆走補給船は、これまでの船よりも小型であり、装備も貧弱であると考えられたのでしょう、南北戦争時にはたいして重用はされなかったようです。しかし、サプライ号だけは大西洋やヨーロッパ方面で軍の輸送船として使われ続け、1884年(明治17年)にニューヨークで売却、解体されています。

これらの黒船を率い、艦隊の主であったペリーは米国へ帰国後、日本への航海記を「日本遠征記」としてまとめて議会に提出しており、これは現在でもこの当時の日米交渉の実態を知る上で一級資料となっています。

しかし、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年(安政4年)に64歳で死去しており、自身がその開国の端尾を開いた新しい時代の日本の姿をついにみることはありませんでした。

ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、このペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われたといいます。

今はどうなっているか知りませんが、おそらくアメリカ海軍の資料館か何かに大切に保管されているに違いありません。

このほか、下田にはこのペリー艦隊の備品のようなものは何も残っていないようですが、ペリーらが外交交渉を行った了仙寺には宝物館があり、ここには、その当時の様子を書き記した書画や、船員たちが残した所持品などが展示されているようです。

また、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのは、下田公園下の「鼻黒」という地であり、ここに上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられるとともに、記念碑の前にはアメリカ海軍から寄贈されたという錨が設置されています。

どういういわれのある錨なのか、その前に説明の看板があったように思いますが、その内容は良く覚えていません。が、たしかこの和親条約時代のものではなく、かなり後世のアメリカ海軍の艦船のものだったと記憶しています。

この場所からは、ペリーらが停泊したはずである下田湾が一望にできます。先日行ったときにはその上に青い空が広がっており、そこには小さな貨物船も停泊していましたが、おそらくはペリーらの黒船のほうが大きかったでしょう。

ときおり、観光船のサスケハナ号がその湾内を横切る姿を見ることもできますが、その20倍もの大きさの黒船を見た下田の人達の驚きは、わかるような気がします。そのときから既に159年が経過しましたが、下田には今、こうした大きな船が来航することもなく、静かな時を迎えています……

さて、今日は、一日雨のようです。先日、この梅雨は空梅雨ではないかと書きましたが、関西方面はかなり降っているようであり、ここ伊豆地方も今日明日は結構な雨量になりそうです。

おそらくは、これが最後の雨で、来週には梅雨が明けるのでしょう。梅雨が明け、夏のあの青い空が戻ってくると、また海に行きたくなります。

そんなとき、下田がもっと近かったらいいのになぁと思います。このように毎回詳細にブログを書き続けているとそれほど下田が身近に思えてきました。次に行けるのはいつでしょうか……