サクラチル……

2014-1040268今日の伊豆はまた冬に逆戻りで、朝からなんとまた雪が降っています。

高地にある我が家ではこの前の大雪で積もった雪もまだ完全には融けておらず、もう3月にもなるのにこの雪で、一体ここは本当に伊豆なのか、と思ってしまうのですが、ここでの暮らしがまだ2年にしかならない我々にはこれが異常な状況なのかどうかもよくわかりません。

が、ここでの暮らしの長いご近所さんから伺った限りでは、今年の冬は少々例年とは違うようで、そうした異常気象に引っ越してきてごくわずかの時間の間に遭遇するというのも、きっと何か意味があるのでしょう。

一方、ここはこんなお天気なのに、テレビでは河津の早咲きのサクラがほぼ満開だと告げています。去年は、晴れた日を選んで二人して出かけたのですが、今年は先週急に入った仕事が忙しくて、もう見に行けないかもしれません。

ただ、フツーのサクラはまだまだこれからなので、そちらを楽しみにすることにしましょう。とはいえ、この寒さでは大幅に開花が遅れるのではないでしょうか。

この桜ですが、春を象徴する花として日本人には一番なじみが深いもので、俳句でも「花」といえば桜のことを指すのだそうです。春一番の梅に次いで、春本番を告げる役割を果たし、その開花予報、開花速報は多くのメディアをも賑わします。

話題・関心の対象としては他の植物を圧倒し、入学式や卒業式などの、例年3・4月に行われる式典を演出する花でもあるため、とくに強い印象を与えます。

色々なアンケート調査でも、好きな花として桜をあげる人が断トツに多いそうで、また、咲くときだけでなく、散って行くその姿にはかなさや潔よさ(いさぎよさ)を感じる人も多く、最も日本人の心の琴線に働きかける花といえるでしょう。

この桜の散りゆくさまの、はかなく、わびしいかんじは、古くから「諸行無常」といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でもあります。

江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜は「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神そのものだと言っています。

一方の「潔よさ」については、江戸時代以降しばしば武士道のたとえにされ、潔いことこそが、武士の模範と見たてられてきました。

無論、江戸時代には、武士だけでなく農民や町民もいたわけですが、士農工商の頂点に立つ侍が尊ぶ花なのだから右へ倣え、というわけでもなかったのでしょうが、その気分が伝染したのか、彼等もまた桜が大好きで、農地や町屋のあちこちに桜を植えてきました。

その「気分」は、明治時代以降も受け継がれ、五千円札にその肖像が使われた新渡戸稲造も著書の「武士道」」で、武士道=日本の象徴たる桜の花、とわざわざ冒頭に書き記しているそうです。

さらにこの気分は、明治、大正、昭和と続いた日本陸海軍にも受け継がれ、この武士道を軍の規律の中心においた旧日本軍でも、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

太平洋戦争末期に開発された、日本初のロケット戦闘機であり、かつ特攻兵器であった「桜花」に与えられたこの桜の意味は「華と散る」であり、戦死や殉職の暗喩です。

この殉職とは、一般に、特定の業務に従事する職員が、職務・業務中の事故が原因で死亡することを指します。先の太平洋戦争では、軍務こそがこの業務であり、そこで死ぬことは大変な名誉とされ、率先して散ることが美徳とされました。

とくに、日本軍においては、功績顕著な戦死者を階級の上で昇進させ、その死を称えました。この昇進のことを、とくに「特別昇進」と呼び、以後「特進」と略して使うようになりました。また、明治以降の日本では、こうした特進に値する殉職者はとくに、「軍神」として崇めたてられるような風潮も出てきました。

軍神と称された軍人としての代表としては、日露戦争における日本海海戦での大勝利を挙げた連合艦隊司令長官の東郷平八郎がもっとも有名ですが、このほかにも旅順港攻略で功績があったとされる乃木希典大将もまた、軍神とされています。

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「軍神」というのは、当初は公式のものではなく、主にマスコミが用いていた尊称です。

しかし、昭和13年5月17日に、それまで30回以上の戦闘に参加してきた西住小次郎中尉が、流れ弾に当たって戦死して以降、軍が公式に指定するようになりました。軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになり、「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていきました。

この西住中尉の話は、菊池寛が小説化し、「西住戦車長伝」のタイトルで東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載され大好評となり、1940年(昭和15年)には松竹により映画化され、上原謙が西住役として主演しています。

軍から公式に「軍神」として指定されたのは西住中尉が初めてであり、以後、日本陸海軍においては、「死して国を守った」彼等を神として尊敬するよう強要するようになっていきます。精神的な指導が行なわれるようになり、皇室に忠誠を尽くした彼等を日本史上の人物であるとして神格化していきました。

ちなみに、この西住小次郎中尉も死後、大尉に昇進しています。この軍神が正式な称号とされるより更に以前、功績があった死者を「特進」させるという風習が根付いたのは、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐が最初です。

実は、日本では元々戦死者を特進させる習慣は無かったそうですが、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐、橘周太陸軍少佐などが、死後それぞれ中佐に一階級特進したのがその嚆矢となりました。

広瀬少佐のことはご存知の方も多いと思います。日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死しました。

決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに「軍神」とされ、郷里の大分県竹田には、広瀬神社まで建立されました。広瀬少佐はのちにこの功績が称えられ、「中佐」に昇進しています。

一方の橘周太少佐のことは、あまり知らない人も多いでしょうが、この人は海軍ではなく、陸軍の人です。

日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長を務めていましたが、首山堡という敵の堅固な要塞の攻略に当り、最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げたことで有名になりました。この人もまた郷里の雲仙に橘神社という神社が建てられ、やはりその死後、中佐に昇進しています。

その後も戦争が起こるたびに、こうした「軍神」や「特進」の風習は続いていき、昭和に入ってからの第一次上海事変時には、「爆弾三勇士」と呼ばれた三人の軍人が出ました。

爆弾三勇士というのは、中国の国民革命軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した、久留米の独立工兵第18大隊の3名の兵士のことで、彼等もまた、死後に特進されて、一等兵から伍長へと昇進しました。

ところが、一等兵から上等兵を飛び越して、伍長へ「二階級特進」というのはそれまで例がなく、これが初めてのことでした。それ以降、旧日本軍においては、功績抜群の戦死者は全軍布告の上、二階級も階級が上がる、というのが慣例になっていきました。

戦後の現在になってからも、自衛官、警察官、海上保安官、といった職務階級が明確な職業においはて、殉職に伴って在職階級から二段階昇進させる制度は、慣行として残っています。

名誉・叙勲・その他の遺族に対する補償も特進した階級に基づきなされ、この結果「二階級特進」は、しばしば単なる「殉職」とは別のより位の高い称号とみなれることも多いようです。当然のことではありますが、死亡退職金や遺族年金は、特進後の階級を基準とするため、遺族はより多くの手当を受けることができるようになります。

ただし、現在では、自衛官の場合は「昇進」という言葉は使っておらず、「昇任」であり、こうした殉職の場合には、「特別昇任」として1階級だけの昇任が普通だそうで、戦前のような二階級特進(特昇)はごくまれのようです。

ま、これは大きな戦役がないからであり、あまりあってほしくないことですが、今度もし日本が戦争に巻き込まれるようなことがあれば、こうした戦争での二階級特進はありえるかもしれません。

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ところで、残念ながらというか、幸いにも、というべきなのかもしれませんが、私の親族には、戦前、戦後ともこうした二階級特進を受けるような、殉職者はいません。

が、私の母方の祖父は、長年の日本海軍の艦隊勤務で功績があったとされて、勲章を貰っています。勲章といってもそれほど階位の高いものではありませんでしたが、本人は無論のこと、祖母もこれを大変誇りにしていたようで、その勲章は今も郷里の山口の桐ダンスの中に大切に保管してあったかと思います。

ただ、この祖父は、第二次世界大戦では参役していません。第一次大戦直後ころに入隊し、その後長らく艦隊勤務を続けていましたが、戦争が始まる直前に予備役として最前線を退いていました。

とはいえ、軍務についたのはかなり長かったようで、その中には、長門や扶桑といったそのころの日本を代表する大型軍艦での勤務もあったようです。その勤務態度は結構高く評価されていたようで、その軍務の傍ら、官費で海軍の「潜水学校」へも行かせてもらっています。

「海軍潜水学校」は、大日本帝国海軍における潜水艦乗組員を養成する教育機関のことで、水上艦や潜水艦の勤務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校し、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得させた学校です。

他の術科学校が横須賀鎮守府の管轄であるのに対し、潜水校は呉鎮守府の管轄となっていて、山口出身であった祖父もまた、比較的郷里に近いこの広島の地で潜水艦についての知識を習得したようです。

他の術科学校とはまったく交流がない特殊な学校だったようで、これは何故かと言えば当時の潜水艦というのは、現在のジェット戦闘機なみの、トップシークレットの塊のような存在であり、その技術の流出を当時の海軍が極端に嫌っていたためです。

とはいえ、他の術科学校と同様に、普通科・高等科・専攻科・特修科の4コースが設定されており、のちに潜水艦長養成コースとして甲種が特設されました。また、すべてのコースが兵科と機関科の二本立てで実施されていました。

残念ながら、祖父からはどういうコースを履修していたのかは直接聞かされていませんが、射撃訓練をよくやらされたと語っていたので、おそらくは普通科の兵科ではなかったかと思われます。

ちなみに、この祖父はかなりの射撃の名手だったようで、この潜水学校当時なのかその後かはよくわかりませんが、何かの大会で優勝して、賞を貰っています。

戦後はその射撃の腕を生かし?、山口の山奥で、猪や兎の狩りによく出かけていたようで、幼い私は、そうした獲物を見るたびにキャッキャと喜んでいたと母が話してくれたことがありますが、無論、遠い昔の話で自分では覚えていません。

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ところで、この潜水学校を卒業後、祖父は予備役に入るまで潜水艦ばかりに乗るようになったようで、この潜水艦乗りとなった祖父よりもかなり先輩の潜水艦乗りで、やはり軍神とされた人物がいます。

大日本帝国海軍の佐久間勉という人で、1910年(明治43年)に、艦長を務めていた「第六潜水艇」という潜水艦の潜航訓練中にこの船が沈没した際の勇敢な行いが絶賛され、以後、軍神とされるようになりました。

この「事故」が起きたのは、1910年(明治43年)のことで、奇しくもその場所は、祖父の出身地と同じ山口県の新湊沖でした。

新湊というのは、錦帯橋で有名な岩国の近くにあった小さな港町だったようで、正確な位置を調べてみたのですが、よくわかりません。岩国沖は比較的推進の浅い海が広がっているため、まだ性能の低かったこの当時の潜水艇(潜水艦と呼ぶのもおこがましいほどの小船)はここら一帯でよく訓練をしていたのでしょう。

第六型潜水艇というのは、アメリカ合衆国の発明家ジョン・フィリップ・ホランドが開発に携わった潜水艇で、この当時日本に技術輸入されて建造され、「ホランド改型」と呼ばれていました。

ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造され、コピーながら日本で初めての潜水艦建造であり、竣工までに1年半がかかって、1909年(明治39年)に竣工しています。

原型のホランド型のコピーといわれ、船体はより小型で、たった76トンしかありませんでした。これは輸送船に運んで移動し、そこから運用する計画があったためといわれています。

1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かいました。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様です。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生しました。ところが、浸水の際に作動するはずの閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖をしようと手間取っている間に17メートルの海底に着底してしまいます。

第六潜水艇は日ごろから長時間の潜航訓練を行っていたため、同伴していた母艦の歴山丸の船員も、当初は浮上してこないことを異常と思われなかったようです。また、後日の調査では、この母艦の見張り員は、異常と報告して実際には何も問題がなかった場合、佐久間少尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、と陳述しました。

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この艦長の佐久間勉という人は、福井県三方郡八村(現・若狭町)の出身で、22歳でこの当時の海軍のエリート校、海軍兵学校を卒業していますが、この時の同期には後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいました。

兵学校卒業後もわずか二年で海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいました。

日露戦争後は水雷術練習所で水雷術を学び、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908年に29歳になったとき、第六潜水艇隊艇長を命ぜられました。

日本海海戦の経験者でもあり、この当時の海軍は、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮がありました。このため、一船の船長ともなると、部下を叱咤して命に従わせようとする者も多く、この佐久間船長もこわもてで通っていたようです。

佐久間少尉の怒りを買うのが怖かった、と陳述したこの見張も、さすが長時間の間浮上してこない潜水艇を以上と思い、上官に報告。これを受けて、歴山丸は呉在泊の艦船に、これは「遭難」である旨を伝達し、自らも救難作業を開始しました。

その結果、翌日の16日(17日説もあり)に第六潜水艇は引き揚げられ、内部調査が行われました。しかし、既に艇長佐久間勉少尉以下、乗組員14人は亡くなっており、うち12人は配置を守って死んでいましたが、残り2人は本来の部署にはいませんでした。

不審に思った調査員が詳しく艇内を探したところ、2人は、機関室でみつかり、そこにあったガソリンパイプの破損場所で最後まで破損の修理に尽力していたことがわかりました。

母艦の歴山丸の艦長は、この第六潜水艇の訓練においては、まだ性能の安定していない潜水艇でもあり、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止していたといいます。

ところが、艇長であった佐久間少尉は、ガソリン潜航を母船に連絡せずに行っていたようで、その後事故調査委員会において、歴山丸の艦長は佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼しており、このために禁令を無視したのではないか、と述べています。

この事故調査委員会ではまた、このときの潜航深度は10フィート(約3m)であったと記録しており、この深度は、シュノーケルの長さよりもかなり深い潜航深度でした。

このため、母艦からの伝令ミスによって、佐久間船長がこの深さまで潜ったのではないかという指摘もなされたようですが、この調査委員会では、実際にそのような命令ミスがあったのかどうかについては、明らかにしていません。

結局、母艦からの指示ミスだったのか、船長の独断により招いた事故であったのかはうやむやなまま、調査は打ち切られており、また母艦の見張り員が長時間の報告を怠った責任も問われず、この見張り員に対しても同情すべき点が多いとして処分は行われませんでした。

このように、この事故において、誰もが処分されなかった理由としては、亡くなった佐久間艇長以下の死に際を美化しようとした動きがあったことが想像されます。

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実は、佐久間少尉は、艇内にガスが充満し死期の迫る中、長文の遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していました。

この遺書で佐久間勉少尉は、関係者への謝罪の言葉を述べるとともに、事故発生からの経緯を詳しく記し、死期迫段になってようやく自身の状態を書きながら絶命していました。

艇内にガスが充満して死期が迫る中、その遺書では、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いています。

謹ンデ陛下ニ白ス 
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

自分の部下たちが死んだのち、その遺族たちの生活が窮することないよう、ご配慮願う、今の私の頭にあるのはそれだけです、と天皇陛下に訴えたこの文章には、さすがに心を打たれるものがあります。

その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と、この当時の海軍大臣である斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して佐久間少尉は絶命しました。

佐久間少尉が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだったといい、これが沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された際には、当時の国内で大きな反響を呼びました。やがてこの話が海外に伝わると、諸外国でも大きな反響を呼び、アメリカなどでは、議会議事堂にこの遺書の写しが陳列されたほどでした。

この事故が起こった時より少し前には、イタリア海軍で同様な事故がありました。その後この潜水艇が引き上げられたときに行われた調査では、乗員の多くが脱出用のハッチに折り重なった状態で発見されました。

このとき出口付近で発見された水兵たちには、他人より先に脱出しようとして乱闘を起こしたような痕跡が発見され、その死の間際にかなりの醜態を晒していたことなどが明らかにされました。

このほかのヨーロッパ諸国の海軍でも似たような事故が起きており、これらのケースでも脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生したケースもありました。

こうした過去の事例を知っていた帝国海軍関係者は、この第六施潜水艇の事故においても、引き揚げられた潜水艇の中で、同様の醜態を晒していることを心配していたそうです。

が、蓋を開けてみると、出入口への殺到などは全く見られず、船員たちは全員が持ち場でそのまま息絶えており、持ち場を離れていた二人も、最期まであきらめずに潜水艇を修繕しようとして機関室で命を落としていたことがわかりました。

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さらに佐久間艇長が残した遺書の中には、冷静に判断した事故原因の説明だけでなく、帝国海軍の潜水艦開発に関する意見まであったといい、上述のような乗員遺族への配慮に関する事柄までしたためてあったわけです。

当然、帝国海軍としても、「潜水艦乗組員かくあるべし」と内部でほめたたえましたが、さらにはこれを喧伝すべく、この事件を広く公表しました。

おそらくはそうした中で、佐久間少尉は無論のこと、母艦の関係者の責任問題云々を表立たせるのは得策ではない、という意見が出されたことは想像にかたくなく、関係者の処分についても闇に葬るという操作が選択されたのでしょう。

こうして、佐久間船長以下は、軍神として扱われるようになり、修身の教科書(戦前の道徳教育に関する教科書)や軍歌としても広く取り上げられるようになっていきました。

海外などでも大いに喧伝された結果、各国から多数の弔電が届いたといい、前述のとおり、合衆国議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版まで設置されました。

ちなみにこの銅版は、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかったといいます。さらに、イギリス海軍においても、その王室海軍潜水史料館には佐久間少尉と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦後の現在でも展示され続けているそうです。

ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間少尉を挙げており、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と、戦後1986年に岩国で行われた第六潜水艇の追悼式でスピーチしています。

この当時の修身の教科書でのこの話のタイトルは、「沈勇」だったそうで、これは沈没した船に乗船していた勇者というほどの意味でしょう。夏目漱石もまた、事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」という随筆で、佐久間の遺書とその死について言及しており、いかにこの当時の反響が大きかったかがうかがわれます。

今日でも佐久間少尉の出身地の福井県では、「遺徳顕彰祭」という追悼式が毎年行われているそうで、毎回、海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われています。

引き揚げられた第六潜水艇のその後ですが、その後修理が行われて使い続けられ、9年後の1919年(大正8年)には、第六潜水「艦」に改名されましたが、その翌年の1920年(大正9年)12月1日に除籍。

その後は、上述の私の祖父も通った呉の潜水学校で「六号艇神社」として保存されていたようですが、戦争に突入すると、物資不足のおりから船体は桟橋に供用されました。しかし、戦後の1945年の暮れ、進駐軍の命によって解体されたそうです。

その一部の部品は、いまだ海上自衛隊の潜水艦教育訓練隊潜水艦資料室で保存されているそうで、このほか、呉市内にある「鯛乃宮神社」には第六潜水艇殉難者之碑が残っており、ここでも毎年、事故のあった4月15日に追悼式が行われているそうです。

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殉職した佐久間少尉もまた、その死後、二階級特進で、大尉となりました。以後、戦中戦後に至るまで、殉職者の特進は、引き継がれ続けており、自衛隊員や海上保安官はいうまでもなく、警察官や消防職員はもとより、刑務官や入国警備官、税務署員に至るまで、殉職者には、昇進や特進が与えられています。

一般企業や工場においても、勤務・作業中の事故が原因で死亡した場合は殉職と呼び、この場合、「産業殉職者」として顕彰会が建つこともあります。また、その所属する組織から昇進や特進が与えられ、篤い遺族手当が報ぜられる場合もあるようです。

とはいえ、殉職には当然ながら、昇進や特進の処置がなされないものもあります。民間業者が行う土木工事などでは、殉職者が出ることは珍しくなく、青函トンネルで34名、黒部ダムでは171名、東海道新幹線建設に至っては、210名、などの多数の殉職者が出ていますが、その全員が昇進などの処遇を受けたというわけではありません。

また、一般のスポーツ選手が競技中の事故で死亡した場合や、サラリーマンが通勤途中に交通事故などで死亡した場合には通常は殉職扱いにはなりません。ただ、競輪や競馬、競艇といった公営スポーツの場合には、どんなケースがあるかは知りませんが、一応、殉職の規定があるそうです。

「病死」の場合も一般には、殉職扱いにはなりません。

しかし、広島市への原子爆弾投下で警察官と警察事務職員ら233人が即死し、その後も原爆症により病死する者が1946年までに119人いましたが、これらは殉職として扱われています。長崎も同様であり、広島の被爆から19年後の1964年には、原爆症で死亡した警察官が、一階級特進で警部になっています。

最近では、2003年11月29日、日本政府はイラクにおいてテロリストにより射殺された日本大使館の外交官(参事官、三等書記官の2名)に対して二階級特進に相当する職階の特進が行われ、このとき亡くなった参事官は、「大使」に昇格し、三等書記官は一等書記官になりました。

そもそも職務階級制度そのものが存在しない外交官では前例のない、異例なことだったそうですが、これは任地のカントリーリスクが際立って高い状況などを勘案してのものだったといいます。

あまりあってほしくないことではありますが、今後、自衛隊のPKO派遣などを始めとして、海外で活躍する日本人が増えるのに伴い、こうした人達が海外で殉職するケースも多くなっていくのかもしれません。

日本人としてのその散り際に似つかわしいのは、やはりなんといっても桜でしょう。

冒頭でも述べましたが、本居宣長は桜を「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

もののあはれ(物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つとされ、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁のことをさします。

もともとは、苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念でもありました。

本居宣長は「もののあはれをしる」ことは同時に人の心を知ることであると説き、これによって人間の心への深い洞察力を求めました。また、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、美を見出したのです。

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とはいえ、すぐに花が散ってしまう桜は、家が長続きしないという想像を抱かせるためか、江戸期以前の武家社会でも、意外と桜を家紋とした武家は少ないようです。しかも日本ではサクラは公式には国花ですらありません。

とはいいながら、事実上、国花のように扱われており、旧帝国海軍や警察官の徽章は、他国なら星形を使うべき所を桜花で表しています。現在の自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用した意匠は数多いようです。

1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインであり、このほかにもポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲームなど、桜は様々な作品のモチーフや題材にもなっています。

特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は「桜ソング」として知られています。個人的な好みで選ぶとすれば、以下のようなものがあるようです。

「桜坂」(福山雅治)
「SAKURAドロップス」(宇多田ヒカル)
「さくら(独唱)」(森山直太朗)
「さくらんぼ」(大塚愛)
「さくら」(ケツメイシ)
「桜」(コブクロ)
「桜色舞うころ」(中島美嘉)

さて、今年もこうした曲のメロディーが巷に流れ、桜が満開になる季節が近づいてきました。

財団法人「日本さくらの会」というのがあるそうで、この団体が決めた「さくらの日」は例年、3月27日だそうです。

去年は、伊東のさくらの里や、松崎の那賀川のサクラを見に行きましたが、今年はもっと別なところも訪問したいと思っています。

みなさんおお気に入りのサクラの名所はどこでしょうか。良いところがあれば、ぜひお教え願いたいものです。

最近、最新のブログについては、冒頭のタイトル右の吹きだし、及び最下段の ”leave a reply” からコメントの記入ができるようにしてありますので、よろしかったらご参加ください。

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うっ、暗いな

2014-1140045ちょっと前のオリンピックが始まったころのブログで、ロシアの「黒海艦隊」のことを書きました(ロシアは女尊?)。

その昔、ソ連邦が崩壊してウクライナが独立したとき、この黒海艦隊の母港であるのセヴァストポリ軍港もまたウクライナの領地内になり、ロシアは困ってしまったという話でした。

結局、二国間で協議が進められた結果、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれ、黒海艦隊の駐留も可能となり、ロシア海軍はウクライナ領に基地を残すことに成功しました。

ところが、先日のソチオリンピックが終わるか終らないかのうちに、このウクライナで政変が起こり、この借地艦隊の行方もわからなくなってきました。

オリンピックまではウクライナは親露派の地域党党首、ヤヌコーヴィチ氏に率いられており、おそらくはこの海艦隊の残存は安泰だろう的なことを書きましたが、そのヤヌコーヴィチ氏が失脚してしまったことから、ロシア軍の軍事介入が始まり、ずいぶんとキナ臭いことになっています。

おそらくは、ロシアはこのままに居座り、事実上ここはロシア領となっていくのでしょう。ウクライナの新政権を支持する西側諸国が何と言おうと、ロシアが長年実効支配してきた歴史を持ち、軍事的にも最も重要視しているこの場所を手放すはずはありません。

それにしても、このウクライナという国ですが、今回の政変によってニュースで取り上げられることも多くなり、また先日のソチオリンピックで黒海周辺のことなども何かとクローズアップされたことから、ヨーロッパのどこにあるのか、という点についてはようやく理解できるようになってきたという人も多いことでしょう。

位置的には、東ヨーロッパにあたり、その東にはロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシなどの東欧諸国が居並び、南に黒海を挟んでトルコが位置しています。

歴史的・文化的にもやはり中央・東ヨーロッパの国々の関係が深く、その前身のキエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、ウクライナ国内の王族諸侯は、近隣のリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。

17世紀から18世紀の間に入ってからは、ウクライナ人とコサック騎馬民族の共同体としての国家が興亡しましたが、そのすぐ後には強国のロシア帝国の支配下に入り、以後、ロシアとは切っても切れない縁となってしまいました。

第一次世界大戦後に一度独立を宣言したこともあったのですが、その後勃発したロシア内戦によってロシア国内を赤軍が席巻して勢力を伸ばしたことから、ウクライナもまたソビエト連邦内の構成国となりました。しかし、1991年のソ連崩壊に伴い、ようやく独立が実現しました。

そうした政変に次ぐ政変が起こり続ける中も、ウクライナは、16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られるようになるとともに、19世紀以後は東ヨーロッパの産業の中心地帯として大きく発展しました。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達したことがその要因です。

ちなみに、最近のニュースで話題にならないのが不思議なのですが、原発事故を起こしたチェルノブイリ発電所は、旧ソ連の手によってこのウクライナ領内に建設されています。先進的な工業力を保つためには多大な電力が必要であり、この原発も必要不可欠なものとして建設された経緯があります。

しかし、この原子力発電所事故が起きたあと、さすがのウクライナも1990年には一度原発を全廃しました。が、1993年より原発を再び稼働させ、現代でも原子力発電は世界的にみても盛んな国のひとつになっています。

日本とは一見あまり縁がなさそうに見える国ですが、大きな原発事故を起こした国同士、という点では共通点があります。また、第二次世界大戦の末期、ウクライナののヤルタで行われたヤルタ会談は、その後の日本の行方を大きく左右しました。

これは、1945年2月4日~11日にのヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談です。

第二次世界大戦が佳境に入る中、このヤルタ会談でソ連による対日参戦が決定づけられ、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなりました。

ちなみにこの新たな世界秩序は、後年「ヤルタ体制」と呼ばれています。

このヤルタのあるクリミア半島は、1991年のソ連の崩壊後、独立したウクライナの一部となりました。が、ウクライナの中にあっても、1992年5月5日、は独立を宣言し、ウクライナ内の自治区となり、「クリミア自治共和国」が成立しています。

しかし、ニュースでも頻繁に報じられているとおり、その後、この共和国の主な都市である、シンフェロポリ、ケルチ、バフチサライのほか、このヤルタでも共和国内の多数派住民であるロシア人とウクライナ政府との間での衝突の危機が心配されています。

しかも上述のとおり、ロシアの軍事介入によって一方的にロシア領土に取り込まれてしまいそうな雰囲気であり、ウクライナによる統治は風前のともしびといったところです。

この「ヤルタ」の語源は、古代ギリシア語で「岸辺」を意味するそうです。東ヨーロッパに領土を拡げつつあったギリシャ人の船乗りたちが、安全な岸を求めてさまよっていたところたまたまみつけ、町を築いたといわれています。

南に黒海と接し、森林に取り囲まれており、温暖な地中海性気候であり、オリンピックが行われたソチ同様、現在は黒海沿岸では屈指の保養地として知られています。

このクリミア半島は、第二次大戦では、ソビエト連邦の大祖国戦争における激戦の部隊となりました。セヴァストポリでは、侵攻して来たドイツ軍との間に大規模な戦闘が起き、これはセヴァストポリの戦いと呼ばれています(1941年12月17日~1942年7月4日)。

その後ここは、タタール族の人々(クリミア・タタール人)の人が居住地としていましたが、1944年、対独協力を恐れたスターリン政権によって彼等は強制的に中央アジアに移住させられ、代わりにロシア系住民が多数派になりました。こうしてはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部として統治されるようになります。

その翌年の、1945年1月には、連合国の主要3カ国首脳による先述のヤルタ会談が行われましたが、このころソ連軍はポーランドをも占領して、ドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢でした。

会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてイギリス・アメリカ・フランスの三国はヤルタ協定を結び、ソ連を含めた4カ国によるドイツの分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。

併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定され、現在までも続く我が国の北方領土問題の端緒となったというわけです。

この会談ではまた、特に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定、いわゆる極東密約(ヤルタ協定)が結ばれました。

1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促しました。

この秘密協定は、当然のことながら日本には知らされておらず、この直後に突然の嵐のように参戦してきたソ連軍に日本は大混乱に陥りました。

この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持することのほか、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなども取り決められました。

またこれを条件に、ソ連はドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て対日参戦する、という具体的な日程までも決められました。

実は、太平洋戦争以前から、アメリカはソ連に対して対日参戦要請をしており、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日には、早くもソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフに対して、ルーズベルト大統領とハル国務長官からその要請文書が出されていました。

ただ、このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフを通じてアメリカ側に対して返答があり、その中には、独ソ戦へ集中したいという意向と日ソ中立条約の制約から現在では日本への宣戦布告は不可能と書かれていたといい、この中立条約のおかげで、日本はその命を長らえることができました。

しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明しており、先々での日本侵攻をほのめかしています。

その後、スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際だったといい、アメリカのハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言しています。

ヤルタ協定におけるソ連の対日戦への参戦の決定は、このようにかなり前から引かれていた伏線の上においてその実現が予定されていたことではあったのです。

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こうしてドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、ほかにも樺太や千島列島等を占領しました。

これは、ソ連の参戦を全く予想していなかった日本軍には晴天の霹靂の出来事でした。しかも、この宣戦布告は、日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告した前日のことでした(ポツダム受諾は8月10日)。

戦争末期のきわめて微妙なタイミングであり、このためソ連はほんの短い期間しか闘わなかったのに、その後この小さな戦果に対して、日本は樺太や北方4島などの貴重な領土を手放すという、結果としてソ連には極めて有利な内容になりました。

結局、日本はポツダム宣言受諾してしまったために、その後9月2日の降伏文書調印までほとんどこのソ連の参戦に対して何もできず、このため数多くの日本人がソ連軍の攻撃によって死亡し、また生き残った人の多くが捕虜としてシベリアに送られるという悲劇がおこりました。

ちなみに私の父もこの卑怯な侵攻によって、新兵として出陣していた当時の満州で捕虜となり、その後シベリアで3年間もの間、抑留生活を送るハメになりました。その父が無事に帰ってきてくれたからこそ、現在の私がいて、これを書いているわけです。

生き残った日本人の中でも、このソ連の日本北方進出によってその人生を狂わせられた人は多く、ソ連が樺太をはじめとする旧日本の北方領土に押し寄せてきたほんの短い時間の間に、祖国を追われ、日本に逃げ帰った人は多数におよびます。

当時、南樺太にはおよそ40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われました。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功しましたが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡したほか、陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡しました。

そんな中、からくも母親とこの地を脱出し、のちに戦後の相撲界を代表する力士となったひとりの人物がいました。

「大鵬幸喜」がその人であり、「巨人、大鵬、卵焼き」のキャッチフレーズでも有名となり、日本人なら知らないひとはいないであろうといわれるほどのあの大横綱です。

大鵬がこの南樺太で産声をあげたのは、1940年(昭和15年)5月29日 のことでした。本名は納谷幸喜(なやこうき)といいましたが、その後一時期は母親の再婚によって住吉幸喜(すみよしこうき)と名乗っていた時代もあります。

のちに第48代横綱となって以降は、長年の王者として相撲界に君臨し、生涯戦歴は872勝182敗136休(87場所)を誇り、幕内戦歴746勝144敗136休(69場所)という驚異的な数字をあげたほか、幕内最高優勝32回を誇りました。

その引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露されました。

引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成し、定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲りました。部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋となりました。

しかし、覚えている方も多いと思いますが、この貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになりました。

2005年(平成17年)には日本相撲協会を65歳の定年で退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任しました。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われています。

しかし、そのわずか3年後の2008年(平成20年)には、相撲協会理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認されています。同年暮れには、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退き、このとき、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と語ったそうです。

2009年(平成21年)10月には、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出されました。これを受けた大鵬は記者会見では、「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語りましたが、このことばからもわかるように、謙虚そのものの人でした。

それから4年後の昨年、1月19日、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。72歳でした。死去の数日前までは日刊スポーツの相撲面「土評」の解説コラムを書いたそうです。

大鵬の通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれ、この争議には王貞治のほか黒柳徹子、第69代横綱・白鵬翔らが弔辞を読みました。

没後、更に多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から没日の1月19日付で正四位並びに旭日重光章が追贈されました。また、2月には、日本政府が正式に国民栄誉賞を贈ることを発表。同年2月25日に遺族(夫人)と白鵬らが出席して故人として国民栄誉賞が授与されています。

この年の2013年3月場所千秋楽、平成の大横綱・白鵬が大鵬と双葉山の8回を上回る、史上最多の9回目の幕内全勝優勝を達成。

その全勝インタビューの際、白鵬自らが、「先場所やりたい事があったんです。今大阪の皆さんと一緒に、亡き大鵬さんにこの優勝を捧げて黙とうしたいと思います。皆さん起立お願いします」と発言し、春場所の観客と共に昭和の大横綱・大鵬へ1分間の黙祷を行いました。

白鵬は大鵬を「三人の父(生みの親・育ての親=師匠・角界の父=大鵬)」の一人と呼んで敬慕していたそうで、大鵬が亡くなる二日前にも見舞いに訪れていたといいます。

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ところで、この大鵬ですが、実はそのお父さんが、ロシア革命後に樺太へ亡命してきた白系ロシア人であったということは意外と知られていない事実のようです。

父は、ウクライナ人の元コサック騎兵隊将校であり、その名はマルキャン・ボリシコといい、大鵬はその三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれました。

しかし、この父のマルキャンはその後、外国人居留地に強制収容されたため、幼い大鵬は母親の手だけで育てられることになりました。父とはこのとき生き別れとなり、その後の消息は分からなくなっていました。

ところが、まだ大鵬が生きていたころの2001年になって、樺太の日本研究家によって樺太の文書や関係者の証言が確認され、マルキャンのその後の生涯が明らかになりました。

サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは1885年か1888年、ウクライナ東部のハルキウ州ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれ、ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植しました。

1917年にロシア革命が起こると、北樺太はアレクサンドル・クラスノシチョーコフの極東共和国に組み込まれました。その後、極東共和国が消滅し北樺太の社会主義化が進むと、1925年マルキャンは単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ移ってきます。

1928年、大鵬の母親である、洋裁店勤務の納谷キヨ(後志管内神恵内村出身)と知り合い、結婚。翌年から敷香で牧場経営を始めます。マルキャンは多くの日本人・ロシア人を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士にまで上り詰めたといいます。

この当時の南樺太には日露戦争以来、白系とされたウクライナ系・ポーランド系の住民が居住していました。ところが、このころから日本とソ連の関係が悪化してきたため、日本政府はこれらの住民を美喜内村の外国人居留地に強制収容しました。

このとき、マルキャンも一人居留地に移され、これによって大鵬やその母と引き裂かれ、生き別れになったというわけです。大鵬と母はその後、太平洋戦争末期のソ連参戦によって、樺太撤退を余儀なくされ、1945年8月に船で北海道へ引き揚げ、こうしてマルキャンとその家族との連絡は完全に絶たれました。

その後、ソ連の日本侵攻によって、日本からは自由の身となったマルキャンですが、1949年には、今度は反ソ宣伝を理由にソ連政府から自由剥奪の刑に処せられました。しかし1954年には、恩赦を認められ、サハリン州立博物館の守衛などを務めて余生を過ごしたといいます。

しかし、1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去。奇しくもこの日は、息子イヴァーン、つまり大鵬が、入幕6場所目の関脇の地位において、このとき行われた11月場所で初優勝した日でもあったといいます。

2001年(平成13年)に、こうした大鵬の父親であるマルキャン・ボリシコの劇的な生涯が明らかになって以後は、サハリン州の日本研究家の働きかけもあって、ウクライナのハリキフ市には大鵬記念館が建設されました。

その後大鵬自身もこうした事実を知り、ハリキフで相撲大会を企画するようになり、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びるようになりました。

やがてその交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させました。また、弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍しています。

大鵬はこのソスランの四股名に自分の「鵬」を与え、名前にも本名の「幸」の字を入れるほどの入れ込みようでした。この期待に応えた露鵬は、大鵬が定年退職した2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進しました。

しかし、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇されたことは記憶に新しいところです。

さて、少し話を戻しますが、この大鵬の出身地である南樺太の敷香町は当時日本領でした。
出生の直後にソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、この樺太を脱出しなければならなくなったというのは、前述のとおりです。

この母親と共に樺太を脱出したとき乗った船は、小笠原丸といい、樺太からの最後の引き揚げ船でした。

母は、最初は小樽に向かう予定だったといいますが、慣れない船旅によって船酔いし、それまでの疲労も重なって体調不良を起こし、稚内で途中下船を余儀なくされました。

しかし、もしこのときこの母親が体調不良を起こさなければ、その後の大横綱の誕生はなかったでしょう。なぜなら、小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没しており、大鵬親子はその前に下船していたため辛くもこの難から逃れることができたのでした。

この小笠原丸とは、逓信省の海底電纜敷設船で、初の国産敷設船です。1400トンだったといいますから、私が大学時代に乗っていた実習船と同じくらいの小船で、引き上げ船に用いるほどの大きな船ではありません。

東京から小笠原諸島経由でグアムに接続する太平洋横断海底ケーブルの敷設を主目的に建造されたため「小笠原」と名付けられましたが、終戦の日を過ぎた1945年8月22日に遭難し、このとき、この船に乗船していた600名以上が命を落としました。

1400トンで、600名というのは、これでも結構な詰め込みといわざるをえず、おそらくはソ連軍が侵攻してくる逼迫した状況の中で、できるだけ多くの人を助けたいと関係者が考えたのでしょう。

この小笠原丸の沈没は、いわゆる「三船殉難事件」のひとつです。小笠原丸が沈没したのと同日には、北海道留萌沖の海上で他にも、第二号新興丸、泰東丸の二隻がソ連軍の潜水艦と思われる潜水艦からの攻撃を受け、三隻とも沈没して1700名以上が犠牲となり、これを総称して「三船殉難事件」と呼びました。

小笠原丸は、海底ケーブル敷設船として計画され、三菱重工業長崎造船所で建造された本船は、日本初の国産海底ケーブル敷設船でした。竣工は1906年(明治39年)であり、長年海底ケーブルの新規敷設や修理に従事しましたが、そんな中、1910年(明治43年)6月4日には、長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助しています。

このときは、この船に同乗していたシャム王族一行および乗員100名を救出したといいますが、この時救った相手のロシアから、その後よもや攻撃を受けることになろうとは、このとき誰もが予想だにしなかったでしょう。

1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表時にも、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事していたといいますが、同日稚内港で終戦を迎えた小笠原丸は、樺太所在の逓信局長から急きょ、逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し大泊港へ向いました。

樺太では8月15日以降もソ連軍の侵攻による樺太の戦いが続いており、混乱状態にあったといい、18日には、殺到する引揚者のうち老人・子供・女性約1500人を大泊から稚内に運ぶことに成功しました。600人でも多いくらいですから、その倍の1500人いうともう、ギュウギュウ詰めだったことでしょう。

しかし、さらに20日にも再度大泊へ回航し、同じく約1500人の引揚者を稚内に運んでいます。ところが、引き続いて8月21日、乗組員86名、警備隊員13名、稚内で下船しなかった引揚者約600人の合計約700人を乗せ小樽港へ向けて出航していたとき、22日の午前4時20分頃、増毛沖5海里にて国籍不明の潜水艦から小笠原丸は雷撃を受けます。

この時の航海で大鵬親子も乗船していましたが、上述のとおり、母親の体調不良で途中下船したため難を逃れました。

このとき小笠原丸は、沈没しかけている中を、更に浮上した潜水艦の銃撃を受けたといい、この非道な攻撃を加えたことをソ連側は認めていませんが、ソビエト連邦のL-12またはL-19という潜水艦ではなかったかとする説が有力です。

一部の乗員が救命ボートで増毛町の海岸にたどり着き救援を求め救助活動が行われましたが、ほとんどの乗船者が船と共に海中に没し、合計638名(乗組員57名、引揚者581名)が犠牲となりました。生存者はわずか62名であったそうです。

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しかし、からくもこの小笠原丸の沈没から逃れ、下船した親子は、つてを頼って道東の川上郡弟子屈町の川湯温泉にたどり着き、大鵬少年はこの地で成長しました。

父親はウクライナ人で母親が日本人というハーフではありましたが、母親似であったため、大鵬にはロシア人の面影はありません。名前も母方の姓を名乗り、納谷幸喜としましたが、この「幸喜」というのは、彼が生まれた年が「皇紀」2600年であり、これにちなんだそうです。

ただ、父親から与えられたイヴァーンというウクライナ語名も持っており、その後生涯において使われることはありませんでしたが、彼自身はこの名にひそかな誇りを持っていたようです。

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、そのためか、後年母親は再婚しており、このとき住吉姓に改姓しました。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていたといいます。

あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名です。しかしその後、大鵬が10歳の時に母がこの再婚相手とも離婚したため、大鵬は納谷姓に戻りました。

中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じように、中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていました。

ところが、大柄のロシア人の血をひいていたためか、生まれつきの体格がよくスポーツ万能だったといい、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来たとき親方に見いだされ、説得されて高校を中途退学し、大相撲の世界に飛び込むことになりました。

実はこの入門に母親は反対だったといいますが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が感心し、彼が母親を説得してこの入門を実現させたという逸話が残っています。

相撲の世界に飛び込んだ大鵬は、1956年9月場所に初土俵を踏んでいます。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では早くも三段目で優勝、1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めました。初土俵から幕下時代までは本名の「納谷」で土俵に上がっていたといいます。

1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることになりました。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関からは「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われたといいます。

「どんな字を書くんですか? 撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは“オオヅツ”と読むんだ」と大笑いされたそうです。

この時に「大鵬」の字とその意味を問うたところ、親方は、大鵬の意味は、中国の古典にある「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来するのだと、教えてくれました。

そして、その鳳のごとく、大鵬はメキメキと頭角を現していきます。1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となりました。また12勝3敗の好成績を挙げ敢闘賞を獲得。

つづく5月場所は11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となっています。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後やはり史上最年少で大関へ昇進しました。

新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わりましたが、翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たしました。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝、場所後柏戸とともに横綱に同時昇進を果たしています。

この大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものでした。

それ以後の活躍は、紙面がもったいないので、割愛させていただきますが、幕内最高優勝32回は、未だ誰にも破られていない不朽の金字塔です。

大鵬は、現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益を寄付していたといいます。1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで連続して老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈し、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈っています。

血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつで、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつでした。

2009年(平成21年)9月に70台目となったとき、この数が自身の年齢と同数となったことを理由として、その贈呈を終えたところでこの事前活動も終えたといいます。が、その後も何かにつけて、慈善活動にいそしみました。

こうしたことから、「人格者」としてもその名を世に知られるようになった大鵬は、1982年(昭和57年)には「世界人道者賞」も受賞しています。この賞は日本では余り知られていませんが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞です。

相撲人としての人気や知名度は、当時の子供の好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からもわかります。

ただ、人気だけでなく、その強さと出世の早さゆえ、「相撲の天才」ともよく呼ばれました。ただ、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてそう呼ばれることを嫌っていたそうです。

実際、大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられましたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだったそうで、これに耐えながら大横綱になっていく過程においては、人には到底想像できないような努力もあったことは確かでしょう。

少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した大鵬相撲記念館があり、大鵬が実際に使用した化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料の展示されています。

このほか、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもあるそうです。今度、道東へ行く機会があれば、ぜひ立ち寄ってみたいものです。

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ところで、前述のとおり大鵬の父親はウクライナ出身でしたが、彼はまた、いわゆる白系ロシア人でした。革命後、日本領南樺太に亡命した旧ロシア帝国国民の白系ロシア人は多く、その内訳には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人や大鵬の父親のようなウクライナ人が含まれていました。

ただ、旧ロシア帝国からの亡命者を総称して白系「ロシア人」と称しているだけで、本来のロシア民族・スラヴ人種ではなく、中でも、ソヴィエト政府による弾圧のひどかったウクライナ系やポーランド系のほか、ユダヤ人の国外亡命者はとくに多かったといいます。

また、ボルシェビキの赤に対しての「白=反革命」というのも共産主義者側からつけられた彼等へのレッテルであり、偏見という見方もあるようです。

しかし、現在の日本ではこのような白系ロシア人の子孫による利益団体は作られていません。第二次世界大戦後のソ連軍の占領によって第三国に再移住し、こうしたかつての亡命者は極端に少数になったためです。

利益団体はもとより、まとまった社会的集団としても日本には存在しておらず、日本国内の少数民族問題として取り上げられることもなく、白系ロシア人の血を引く日本人の数もごく少数に限られています。従って、大鵬のような人の存在は非常に稀有といえます。

しかし、ロシア正教徒としてのロシア人は現在でも多数日本に在住します。彼等は必ずしも白系ロシア人ではなく、あくまでロシア正教会関係者としての亡命者であり、ソ連が無神論を掲げて反ソ的とみなした宗教組織を弾圧したため、国外に逃れてきた宗教者です。

彼等の多くは、もともとのロシア正教徒の系譜を継ぐものですが、時代が下るにつれ、日本で新たに構築された日本の正教会に所属するようになった者も少なくなく、また日本人と結婚することで、その数を維持しています。

現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命者の子孫からなるコミュニティを形成しています。ただ、民族的には非ロシア人、たとえばグルジア人系等のような人たちが多数派であり、白系ロシア人は多くありません。

大鵬の父親のような多数の白系ロシア人の多くは、戦後、満州国やその周辺地域へ亡命したといいます。太平洋戦争末期には、その中から対ソ謀略専門の「満州国軍浅野部隊」が編成されていたという記録も残っています。

実は、さらにこれより以前、極東では反ソ連派ウクライナ人により「緑ウクライナ」という国が建国されたこともあります。

ウクライナ語で、緑の楔(くさび)とも呼ばれ、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称でした。

1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画されました。ボルシェビキの極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東はこの国家を脱して緑ウクライナと呼ばれる国家の建設を試みました。が、この運動はソ連の勃興によりすぐに失敗しています。

しかし、さらにのちの第二次世界大戦中においては、これらの残党であるウクライナ系ロシア人が、反ソヴィエト系のロシア人と結束し、一大組織として、「満州国白系ロシア人事務局」を結成し、日本の関東軍や満州国軍に協力しようとする動きがあり、これが上述の満州国軍浅野部隊などのような具体的な形になったようです。

が、浅野という人物がどんな人だったのか、調べてみましたが、よくわかりません。おそらくは満州国陸軍の諜報担当の有力将校だったのでしょう。

彼等は、樺太などから逃れてきた白系ロシア人と協同してソ連に抗戦する計画を立案したこともあったといいますが、その後、核となるべき大日本帝国の敗戦により反ソ共同戦線は潰え、ここで緑ウクライナの系譜もまた途完全に絶えてしまいました。

もしこの共闘が成功し、ソ連を撃退してこの極東の緑ウクライナが残っていたら、現在黒海でくりひろげられているロシア対ウクライナの綱引きにも参加していたかもしれません。

当然、日本とこの緑ウクライナとの国交は引き続いていたはずであり、それはソ連=ロシアに対抗しうる、極東における一大勢力になっていたに違いありません。

歴史に「もしも」はないとよくいいますが、もしそうであったなら、日本とウクライナが結託して東ヨーロッパでもその勢力を伸ばし、極東でも中国やアメリカと敵対していたかもしれません。

我々の知らない、パラレルワールドではもしかしたらそうなっているかもしれませんが、そういう妄想をあれこれしているうちに、紙面もかなりの長大になってきました。今日のところはこれで終わりにしましょう。

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PM2.15

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Happy birth day to me♪ Happy birth day to me ♫~

ということで、今日はありがたくも私の誕生日です。今日で、5×歳となりますが、読者ががっかりするかもしれませんので、例によって詳細な年齢は伏せておきましょう。

が、何時に生まれたかだけは明らかにしておきましょう。午後2時15分です。

……というわけで、今日のブログタイトルが何故PM2.15なのかおわかりいただけたでしょう。

このPMとは何の略かと聞かれて即答できる方は少ないでしょう。英語では午前と午後をそれぞれ ante meridian / post meridian といい、これはラテン語の原形のante meridiem / post meridiem からきています。meridiem は昼の真中を意味するので、昼の中央の前、または後という意味になります。

普段使い慣れている用語でも、その意味を知らないで使っていることは多いものです。最近、ニュースではほとんど毎日のように出てくる、PM2.5もまたしかりです。

このPM2.5の意味ですが、「午後二時半」に発生するので、そう呼ぶのだと思っている人もいるかもしれませんが、無論これは間違いです。ひどい人になると、芸人の江頭2:50さんの別称だと思っている人もいたりして、そういう方は、もう一度小学校から勉強し直してきてほしいと思います。

とはいえ、このPMもまた何の略かと聞かれてすぐに答えられる日本人はほとんどいないでしょう。

いったん流行りだすと、その意味も分からずにその言葉が流行語のように広まっていくのは日本の悪い風潮です。この言葉を頻発しているそのメディア側さえ、そもそもその意味を知らないし、きちんと伝えていないのではないでしょうか。

こうした用語が流行りだしたら、まず何の意味なのかを調べる癖をつけましょう。物事の基本を理解するためには重要なことです。

と、エラそうなことをいいながら、私もこのPMが何の略だったか、大学で習ったはずなのに忘れていて、改めて調べてみると、Particulate Matter の略称でした。Particulateは、粒子状、Matterは物質です。

従ってPMとは、大気中に漂う「粒子状物質」のことで、このうち、粒径が2.5μm(マイクロメートル)以下のものがPM2.5です。マイクロは100万分の1のことですから、1マイクロメートルは、1mの100万分の1、つまり、1万分の1mmです。

つまり、PM2.5とは、2.5mmの1万分の1の大きさの粒子状物質ということになります。

PM2.5よりもう少し大きいものには、粒子径が概ね10μm以下のものがあり、これはPM10と呼ばれています。1987年にアメリカで初めて環境基準が設定され、以降世界の多くの地域で採用されて、大気汚染の指標として広く用いられています。

ところが、ややこしいことに、日本では、PM10は環境基準に採用されておらず、代わりに「浮遊粒子状物質」という定義がなされています。英語表記では、suspended particulate matterなので、略して「SPM」とも言われます。

その定義はほぼPM10と同じで、粒子径が10μm以下のものなのですが、日本の環境基本法に基づく環境省告示の環境基準においては、粒子径10μmで「100%の捕集効率を持つ分粒装置を透過する微粒子」とされています。

これに対して、PM10の「50%の捕集効率を持つ分粒装置を透過する微粒子」となっており、SPMの定義と少々異なります。

補集効率とは、粒子をろ過する効率のことで、この数字が大きいということは、それだけ細かい粒子も検出できるということです。つまり、日本の環境省が定義する「浮遊粒子状物質(SPM)」とは、大きさにするとPM6.5 ~7.0に相当し、PM10よりも少し小さな微粒子ということになります。

これは、大気汚染の指標としては日本のみで用いられているもので、なぜPM10よりも小さいかというと、これは1970年代に日本を席巻した光化学スモッグのようないわゆる「公害」の被害が著しかったことから、世界基準よりもより厳しい環境基準を設定しよう、ということで導入された概念だからです。1972年に正式に設定されました。

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PM2.5は、これよりもさらに細かいものですから、これを吸い込んだときには当然人体に悪影響を及ぼす影響もPM10よりさらに大きくなりますが、その害がどの程度かは後述します。

日本の環境基準では、PM2.5は、粒子径2.5μm以下でPM10と同じく、「50%の捕集効率を持つ分粒装置を透過する微粒子」とされていて、SPMあるいはPM10が「粒子状物質」と呼ばれるのに対して、「“微小”粒子状物質」の語が充てられています。

日本以外の外国では、この“微小”について、とくにsuper fineのような熟語はあてがわれず、もっぱらPM2.5とだけ呼ばれています。そもそもは、アメリカで1997年に初めて環境基準が設定されて以降、1990年代後半から採用され始め、世界の多くの地域でPM10とともに大気汚染の指標とされてきました。

実は、これらPM2.5や、PM10よりもさらに細かい「超微小粒子(ultrafine particle・ウルトラファイン・パーティクル)」というのもあり、PM0.1などのようにPM2.5よりもさらに一桁以上小さい粒子状物質もあります。PM2.5よりもさらに健康影響が大きいとされていますが、まだまだ研究途上にあって、その基準も定義もはっきりと定まっていません。

いずれにせよ、これらの大気中に浮遊する粒子状物質はこうした数ミリの大きさの物質の100万分の1という小さい粒であるため、いったん吸い込んでしまうと肺の奥深くまで入り込みやすく、ぜんそくや肺がんなどのほか、不整脈や心臓発作、花粉症など循環器への影響も指摘されています。

無論、大気汚染の原因物質でもあるため、各自治体で測定の上環境省の定める環境基準(大気1立方メートルあたり35マイクログラム)を超える場合は、各種注意報を発令するとの措置が講じられています。

これからの季節では、季節風に乗って黄砂、および杉花粉との相互作用によってさらに気管支系統に障害が出てくる事も考えられ、外出する際のマスク装着等の着用はますます重要になってきます。

こうした微粒子を人間が呼吸を通じて吸い込んだ場合、まず、鼻、喉、気管、肺などの呼吸器にこの微粒子が「沈着」することで健康への影響を引き起こします。沈着とは、「底にたまって固着すること」であり、ようするにそこから粒子が動かなくなるということです。

つまり、その粒子に毒性がある場合は、その粒子が固着した場所から、いろいろな毒素が体に流れていくことを意味します。肺の奥のほうにまで達する(沈着する)とすれば、当然取り除くことは困難となり、沈着部位である患部における粒子は細胞などを構成する物質と反応して複雑な変化をおこし、場合によっては著しい化学反応を起こします。

では、その微粒子とは、どんな性質ものかというと、代表的なものとしては、煤煙、つまり燃焼により発生する粒子があり、石炭や石油の燃焼により発生するフライアッシュなどがこれにあたります。また、粉塵もそれであり、これは物の破砕等により発生します。

こうした微粒子として直接大気中に放出されるものを「一次生成粒子」といいます。最初は粗大粒子であることが多く、普通、滞空時間は数分から数時間で、数~数十kmを移動します。

水溶性、吸湿性が低いものが多く、煤煙や粉塵のほかにも、土壌粒子(風塵・砂塵嵐により大量に発生)があり、大規模なものとして、中国大陸奥部で発生する黄砂があります。

土壌粒子の成分は、主にケイ素 (Si)、アルミニウム (Al)、チタン (Ti)、鉄 (Fe) などの酸化鉱物です。ほかにも、海の表面から海水が蒸発する際に発生する、海塩粒子があり、これは主に炭酸カルシウム (CaCO3) や塩化ナトリウム (NaCl) からなっています。

このほかにも、ゴムタイヤ、スパイクタイヤなどの摩耗により発生する「タイヤ摩耗粉塵」や植物性粒子(花粉など)やカビの胞子などの動物性粒子なども、一次生成粒子です。

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これらは、一次生成粒子なので、比較的粒が大きいのが特徴ですが、やっかいなのは、この気体として大気中に放出された一次粒子が、大気中でさらに加工されて、生成される二次生成粒子です。

どう加工されるかというと、複雑でいろいろありますが、大気中での一次粒子同士の化学反応や、核生成、凝縮、凝固、雲や霧を構成する水滴への溶解や蒸発による析出、微粒子同士の凝集などが現在考えられている生成プロセスです。

また、高温環境下で凝集するもの、常温下で自ら凝集するもの、水滴に溶解して凝集するものなど様々です。

いずれにせよこうしたプロセスによって、微小粒子になることが多く、これらの多くがPM2.5の要因になります。無論、一次粒子のままでもPMになることもあります。

この二次粒子は小さくて軽いので、普通、滞空時間は数日から数週間で、数百~数千kmを移動します。日本にまで到達するのはこのためです。

水溶性、吸湿性、潮解性が高いものが多いのですが、成分としては、硫酸塩(SO42−)、硝酸塩(NO3−)、アンモニウム塩(NH4+)、水素イオンの化合物(水素化合物)、有機化合物(多環芳香族炭化水素 (PAH) など)などです。

また鉛(Pb)、カドミウム(Cd)、バナジウム(V)、ニッケル(Ni)、銅(Cu)、亜鉛 Zn)、マンガン(Mn)、鉄 Fe) などの金属、水を含んだもの(吸湿粒子)などからなどがあり、一見して、どれもこれもが人体に悪さをしそうな成分ですよね。

一次粒子が加工されて発生するばかりではなく、直接この二次粒子として大気中に出てくるものもあり、その発生源は、石炭や石油、木材の燃焼、原材料の熱(高温)処理、製鉄などの金属の製錬などです。

近年重化学工業を中心として著しい発展を遂げ、世界の工場といわれるようになってきた中国が得意とする工業ばかりであることは一目瞭然です。

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さて、こうして大気中を浮遊するようになったPMは一般に、鼻呼吸よりも口呼吸からのほうがより呼吸器の奥に沈着する傾向があります。これは鼻には鼻毛があって、奥深くまでPMが進入するのを防いでくれているからです。口から入ったPMをぶら下がっているだけのノドちんこは撃退してくれません。

なお、鼻・気道・肺胞などの形状は個人で異なるため個人でも差異があるといい、また、運動などにより換気量や呼吸数が増えると主に1~3μmの粒子を中心に沈着量が増えるといいます。つまり、外でジョギングなどの運動を行っているときには、PM2.5は摂取されやすくなるということです。

また、大人と子供でも摂取量が違うという結果も出ていて、アメリカ環境保護庁は沈着率は年齢に関係ないという結果も示す一方で、小児の方が成人よりもわずかに高かったという結果も提示しており、肺の表面積当たりの沈着量は小児の方が多かったことを報告しています。

日本の環境省が2008年にまとめた結果では、小児は呼吸数や単位体重あたり換気量が大きいため肺の表面積当たりの沈着量は大きい傾向があり、「吸入粒子に対するリスクが大きい可能性がある」としています。なので、お子さんの外出にはできるだけマスクをさせた方が無難でしょう。

さらに、呼吸器疾患、特に慢性気管支炎や肺気腫を含めた慢性閉塞性肺疾患の患者においては、健康な人よりも沈着量・沈着速度ともに大きく特に気道の病変に応じて大きくなるほか、沈着量よりも沈着速度の方が大きく増加するという研究結果があり、環境省はこうした疾患がある人への警告を呼びかけています。

このほか、粒子状物質への暴露は、人の気道や肺に炎症反応を誘導するほか、喘息やアレルギー性鼻炎を悪化させる作用を引き起こし、また呼吸器感染への感受性を亢進させる作用が実験動物でも認められているそうです。

人に関しては少なくともディーゼル排気ガスやディーゼル排気微粒子に関してはその毒性が確かめられていて、これを吸い込むことで喘息やアレルギー性鼻炎を悪化させる可能性が高いとされています。

さらには、循環器への影響もあるという研究結果もあり、実験動物では不整脈等の心機能の変化を示す報告があり、さらには自律神経についても、実験動物と人とで差異はあるものの影響を及ぼすことが示唆されているそうです。不静脈だったり、自律神経失調気味の人は、PM2.5の影響を考えたほうがいいかもしれません。

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このように、PM2.5はいかにもおどろおどろしい物質なのですが、その昔はこんなもの取沙汰されていなかったのに、なぜ最近になって話題になっているかというと、それはやはり中国から飛んでくる粒子状物質が激増しているからです。

資料が確認できる限りでは、中国の粒子状物質濃度は経済発展などにより、1990年頃にはすでに深刻なレベルに達していたようです。

例えば、上海における1990年のPM10の年平均濃度は350μg/m³を超えており、WHO暫定目標で最も緩い暫定目標1の5倍以上でした。この値は年々減少し、2001~2008年の間は年平均100μg/m³前後の水準にありましたが、最近では依然として暫定目標1よりも高い状態です。

また、北京におけるPM10年平均濃度も2000~2011年の12年間に減少傾向にあるものの、100μg/m³強の水準にあってこちらも依然として暫定目標1より高いままです。

このように中国の粒子状物質濃度は数十年来高い水準にありますが、こうした大気汚染の本場?の中国では粒子状物質以外の大気汚染物質、オゾンの発生源となる二酸化窒素などの方がどちらかと言えば影響度が大きいといわれているようです。これは、二酸化窒素との化合により急性の健康被害を起こす二酸化硫黄などが発生するためのようです。

こうした中、粒子状物質による大気汚染の深刻さを浮き彫りにしたのが、2011年11月に北京アメリカ大使館が始めた独自観測値の公表です。同大使館は独自にPM2.5や空気質指数(AQI)の監視を行い、ツイッターで公表を開始し、翌2012年5月には上海アメリカ総領事館も同様の公表を開始しました。

これにより、中国の行政当局が発表している値と大使館の値が比較されてインターネット上で大騒ぎとなり、当局が公表を差し止めるよう要求する事態にまで至りました。

その後当局は方針を変えて測定・発表を始めているそうですが、そもそも、中国では北京などがある華北を中心として暖房用燃料の使用が増える冬季に大気汚染が悪化する傾向がありました。

2011年12月や2013年1月に激しい汚染が発生して高濃度の粒子状物質が観測されています。はじめ当局は数値を公表せず、汚染について国営メディアは「濃い霧」などと報じていました。

2013年1月の汚染は「1961年以来最悪」(北京日本大使館)、「歴史上まれにしか見られないほど」(中国気象局)とされるレベルで、風が弱かったため10日頃から始まった激しい汚染はおよそ3週間も継続し、呼吸器疾患患者が増加したほか、工場の操業停止や道路・空港の閉鎖などの影響が生じました。

12日には北京市内の多くの地点で環境基準(日平均値75μg/m³)の10倍に近い700μg/m³を超え、月間でも環境基準(同)を達成したのは4日間だけとなり、北京日本大使館によれば143万km2・8億人、中国環境保護部によれば中国国土の4分の1・6億人に影響が及びました。

北京ではPM10も、2012年の年平均値が109μg/m³で環境基準(年平均値70μg/m³)を超過しています。この汚染の様子は他国にも報じられ、韓国や日本への越境汚染が懸念される事態となりました。

例えば日本では報道により国民の関心が高まり、2013年2月になって既存の環境基準に加えて環境省が「注意喚起のための暫定的な指針」を設ける事態となっています。

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中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」
の世論調査(2013年1月、31省市約3,000人対象)では、中国国内で大気汚染によって生活に影響が出ていると答えた人は9割を超え、約4割が外出時にマスクをつけるなどの対策をとっているといいます。

北京大学の研究(2012年)によると北京・上海・広州・西安の4都市でPM2.5に起因する死者は年間約8,000人で、世界銀行・中国環境保護部(2007年)によるとPM10を中心とする大気汚染による死者は中国全土で年間約35~40万人と推計されています。

経済誌「財経」に掲載された上海復旦大学教授の分析でも2006年の1年間で大気汚染に起因する死者は113都市で30万人、経済損失は3,414億元(約5兆1,000億円)とされているそうです。

こうしたPM10やPM2.5の濃度上昇の原因は、石炭の燃焼による排気成分や、自動車排気、煤煙などと分析されています。特に、石炭は中国では依然として発電用燃料の主力であり、家庭でも暖房用燃料に広く用いる。自動車も保有台数が年々増えており、北京市の例をとっても2012年末時点の保有台数500万台という数は2008年から僅か4年間での倍増です。

これについては、ガソリン中の硫黄分の規制値が日欧の15倍という緩さが拍車を掛けているという見方があります。

旧暦で新年を迎える際(春節1月前半~2月前半)の慣習で一斉に用いられる爆竹の煙も汚染源となっており、例えば北京ではPM2.5が2012年1月23日午前1時に前日の80倍の1,593μg/m³に急上昇した後、朝には約40μg/m³まで低下しています。

この状況について、大気汚染対策が全国人民代表大会の主要な議題になるなど当局の問題意識は高まっているようですが、市民は対策が不十分と感じている事が報じられています。

北京市の対策例を挙げると、自動車排気ガス基準の厳格化、石炭ボイラーの改造やガス化(石炭からガスへの転換を「煤改気」という)、電化(石炭から電気への転換を「煤改電」という)、植林などが掲げられています。

各国や地域では、他の大気汚染物質と並んでPM10、PM2.5、SPM(日本)などの、環境中の濃度の観測値や予測値を発表しています。

ところが、これらの環境中の濃度は屋外の大気を代表したいくつかの観測地点における値です。一方、人に健康影響を与える粒子状物質は、屋外だけではなく屋内も含めた様々な場所の空気に含まれ、それぞれの場所での暴露の量は地域・社会・個人により異なります。

ただ、道路沿いなど発生源の近くを除けば、概ね屋外と屋内の濃度は同じか、屋内の方が少し低いという研究結果が得られている。また多くの研究において、屋外よりも屋内、PM10よりもPM2.5のほうが、それぞれ個人の暴露影響との相関性が大きいとされています。

こうしたことから中国でも1990年代後半からはPM2.5の環境基準のほうが優先されて導入されるようになり、こちらの基準で監視が行われています。

また、10μmより大きな粒子はほとんどが鼻や喉咽頭などの上気道で捕捉され大気中でも比較的速く落下する一方、10μmより小さな粒子は下気道や肺胞での沈着が多く大気中でも落下が遅く長く滞留する事などから、PM10(日本に限ってはSPM)の環境基準でも引き続き運用され監視が行われているそうです。

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が、いかんせん、根本がクリーンになったわけではなく、汚れてしまったままの中国の大気は依然日本の上空へ流れつづけており、その脅威は依然残ったままです。

こうした大気の高濃度汚染への対策としては、汚染への暴露をできる限り低減することが基本とされています。具体的には手洗い、うがい、屋内では窓や戸を閉めて隙間を塞ぐ措置、屋外ではマスクの着用などが挙げられます。また、汚染の激しい日は外出を避ける、寝室などの長時間滞在する部屋に空気清浄機を設置するなどの対応も必要です。

とくに子供は汚染に対するリスクが高いことから、幼稚園や学校などでは汚染の激しいときに屋外活動を制限する対応が取られる場合もあり、北京ではこれが日常のことになっているようです。

PM2.5は粒子の大きさが非常に細かいため、通常のマスクで防ぐことはできません。

マスクに関しては、PM2.5に限ると、通常のマスクは製品ごとに性能に差異がある。高性能の防塵マスク(N95やDS1以上など)はフィルター自体は高性能のため粒子の吸入を低減する効果があるものの、適切な着用方法でなければ期待されるような効果が得られないとされています。

このため個々人の顔の大きさにあったものを選んだり、空気が漏れないようにするなどの検討が必要となります。ところが、こうしたものを選ぶと、息苦しさを感じやすいので長時間の使用には適さない、といったジレンマが出てきます。

空気清浄機に関しても、メーカーや製品により性能に差異があり、環境省の専門家会合報告書は製品表示を確認したり販売店やメーカーに確認したりするよう勧めています。

PM2.5は、人間以外にも影響を与えており、それは建造物や気象など自然環境などです。含有物質にもよりますが、建造物では金属の腐食、塗装面の劣化、彫刻などの芸術作品や人工構造物の劣化などの物理的被害があげられ、自然環境でも、降雨へ取りまれて酸性雨の発生に寄与するなどの間接的影響が考えらえます。

また、煙霧の原因物質として視程を悪化させる作用、凝結核として働き雲を生成する作用、雪の表面に堆積し太陽光を吸収する作用、大気中のエアロゾル粒子として働き太陽光を吸収する作用(日傘効果、地球薄暮化)による気候への影響も考えられていようです。

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こうした汚れた物質を排出し続け、大気汚染が日常化している北京では、北京咳(ぺきんせき、Beijing Cough)というのがあるそうです。これは、中国北京における呼吸器症状を指す俗語である。2013年初頭、北京におけるスモッグが深刻な問題となり、北京市民にも注目されるようになったものです。

1990年、国際ロータリーの機関誌「The Rotarian」において、北京における大気汚染を原因とした呼吸器症状を「Beijing Cough」と紹介したのが初出とされています。

2000年に入り、アメリカの経済学者の著書に再び取り上げられた後、2003年、アメリカの北京旅行ガイドが、12月から4月にかけて悩まされる咳として紹介し、その後、北京を訪れる外国人の間で、北京を訪れる間にのみ現れる呼吸器症状を指す言葉としてよく使われるようになりました。

当初北京市民にはあまり馴染みのない言葉であったが徐々に普及し、2013年1月に発生した、北京における大規模なスモッグを受け人口に膾炙し、中国国内の新聞記事においても取り上げられるようになっています。

原因としては、大気汚染によるものとされる一方で、北京の冬の気候が乾燥していることも影響しているとされているようですが、はっきりとした因果関係についてはわかっていないようです。

それをいいことに、中国政府系メディアである新華社が発行する経済参考報などでは、北京大学人民病院の医師の発言として、上記に加え生活習慣も合わせて考えねばならず、明確な原因がわからない中で北京咳と呼ぶことは「北京市に対する極度の侮辱」と伝えたそうです。

が、PMがその原因に違いないことは誰の目にも明らかです。

2013年1月12日、在北京アメリカ大使館の測定による北京の大気汚染指数(Air Quality Index)は過去最悪の755、PM2.5は1立方メートルあたり886マイクログラムを記録しました。

Air Quality Indexの値は201~300が「Very Unhealthy(とても不健康)」、301を超えると「Hazardous(危険)」となります。北京大学とグリーンピースの協同調査では、北京、上海、広州、西安においてPM2.5が原因となった死者は2012年だけで年間8,500人を上回ったとしており、2013年9月29日には市の大気汚染が最悪レベルにまで達しました。

中国の著名な実業家で慈善活動家でもある陳光標氏という人が、北京で「空気の缶詰」を1缶5元で販売したところ、10日間で800万個もの売り上げを記録した、というニュースは各メディアがこぞって取り上げ話題になったので、知ってる人も多いでしょう。

中国は、辺境のウィグル自治区など迫害していますが、こうした奥地のきれいな空気で新鮮な「空気の缶詰」作って、北京で売りさばいて、その儲けた金をこの地域の振興につかってはどうでしょう。

また、その金で北京の空を綺麗にすべく、日本の優秀な空気清浄器をたくさん買ってもらい、せめてこれを日本に飛ばさないようにしてほしいものです。

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