ナンバー2

2014-1150025この4月から、日経新聞朝刊の「私の履歴書」の執筆連載をトヨタ自動車の名誉会長、豊田章一郎さんがされています。

トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎の息子で、父の命で建設業や食品業を経験した後1952年にトヨタ自動車工業株式会社に取締役として入社。トヨタ自動車工業の常務や専務、副社長を経て、1981年にトヨタ自動車販売代表取締役社長に就任し、豊田本家出身者への社長職「大政奉還」の旗印となりました。

また、1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併に誕生したトヨタ自動車の初代社長に就任。以後、1992年に代表取締役会長就任、1999年に取締役名誉会長等を歴任し、1994年から1998年まで第8代日本経済団体連合会の会長を務めるなど、現在でも経済界の重鎮です。

このトヨタの偉いところは、創業者一族に経営を任せず、常に外からの血を入れて組織の活性化を図ってきたところで、このため大組織によくありがちな、血管閉塞を起こすことなく、ほどよい内部の活性化が図られ続け、その結果として、日本はもちろん、世界でもナンバーワンといわれるような大企業となりました。

そのトヨタの車を見ると、確かによくできていて、デザインもさることながら動力性能も優れたモノが多く、トヨタファンならずとも、なかなかいいな、と思わせるものがあります。

しかし、私はトヨタ党ではなく、ホンダのほうが好きです。昔はスバルやいすゞに乗っていたこともありますが、トヨタの車は一度も自分では購入したことがありません。

なぜか、といわれるとはっきりとしたことは言えないのですが、なんというか、ワクワク感がないとでもいうのでしょうか、例えばエンジンひとつにしても、ホンダやスバルのエンジンのような、あのブワッと吹け上がるときの高揚感がないのです。

デザインも優れていて、大衆車であるカローラなどをレンタカーで借りて乗ったりすると、あぁよくできているなーと感心するのですが、いざ運転してみると、可もなく不可もなく、優等生的なその出来具合に、しばらくすると飽きてしまいます。

業務用で使う分には非常によく出来た車だと思うのですが、普段自分が乗り回すクルマとしては少々どこか物足りなく感じてしまうのです。

無論、トヨタやたくさんの車を作っていて、それすべてに試乗したわけではありませんから、こうした批評をする立場にはありませんが、かつて乗ったことのあるトヨタの高級車にもやはり同じような感触を持ったことから、総じてこの会社の車はそうなのかもしれません。

なぜなのかはわかりませんが、私は昔からナンバーワンよりもナンバー2のほうが好きなようで、このほかにも例えば、カメラではニコンよりもキャノン、オリンパスといったメーカーのものが好きでしたし、パソコンでもSONYやNECよりも、東芝やエプソンといったどちらかといえばマイナーなメーカーをいつも選んでいました。

野球では巨人や阪神よりもカープが好きですが、これは育った町が広島だったからにほかなりません。が、巨人戦のカードのときには、がぜん燃える思いがあるのは、やはりナンバーワンに対しての対抗意識があるからなのでしょう。

それにしても、古来から日本では、ナンバー2といわれる人達があまた輩出され、彼らが歴史を作ってきたと言っても過言ではなく、有名なナンバー2としては、例えば主君上杉景勝のナンバー2であった、直江兼続がいます。

景勝と兼続は、幼い頃から兄弟のように固い絆で結ばれていましたが、主従の関係にありました。上杉謙信が倒れた時、景勝を跡取りとすべく画策したのが兼続であり、この時のもう一人の跡継ぎ候補は北条家からナンバーワンとして送り込まれた上杉景虎でしたが、兼続はこれを除いて自分の主君である景勝に家督を継がせ上杉家を守ることに成功します。

ここから兼続のナンバー2としての人生が始まり、口数が少なく不器用な景勝、対して容姿が美しく、言語晴朗、頭脳明晰な兼続はこの主君の良きサポーターとなり、その後の乱世を生き延び、上杉の名を幕末まで残しました。

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このほかの歴史上有名なナンバー2としては、若き将軍家綱を支え強力なリーダーシップを発揮した保科正之や、江戸城内で刃傷事件が起こした主君の遺恨を晴らした家老の大石内蔵助などが思い浮かびますが、千利休や真田幸村のように最終的には自らのその優れた能力のために身を滅ぼしたナンバー2もいました。

こうした彼等の立場は、終世ナンバー1ではなく、あくまでナンバー2でした。

人間という存在が組織的な活動をするためには、どうしても序列が必要になり、大きな組織になればなるほど、ナンバー1になるということ自体が並大抵のことではなくなります。

このナンバー1になるということが大組織ではどういうことかというと、そのためにはある種の正当性が問われることになります。特に組織が大きいだけでなく、機構が複雑になればなるほど、組織のトップは実力のみではなく、この正当性が重大な問題となってきます。

その正当性をどう決めるかについては、その時代の特性や帰属する組織の性格にもよりますが、多くの場合が血統であり、あるいは多数の者たちの同意によるものでしょう。が、時には神の意志といったこともあるでしょう。

このように時代、文化によりその正当性は異なりますが、どうしても一部の人間にしか越えられないハードルがナンバー1とそれ以下には存在します。

しかし、人間はその出自や社会状況に関係なく、野心を抱き、向上することを夢みるものであり、自らの能力の有無を世間に問いかけたいと願うものです。それこそが人間性を形成する一部であり、こうして神の恩寵を受けたナンバー1へのハードルをどうしても越えることのできない多くの男たちは、組織のナンバー2を目指すことになります。

つまり、ナンバー2を目指す人は、歴史の神の恩寵を最大限に引き出すことの出来なかった、「優れた凡人」といえ、時には人には真似できないほどの愚直な努力によってその座を獲得するのです。

では、トヨタやニコンといったナンバーワン企業が神の恩恵を受けて誕生したメーカーかといえば必ずしもそうではないかもしれません。が、やはりどこか優等生的な雰囲気はぬぐえません。

これはトヨタがその後日本が太平洋戦争に突入していく中、国策企業として優遇されたといういきさつや、ニコンにしても「光学兵器」の国産化を目的として設立されたという経歴があることと無関係ではないでしょう。

これに対して、ホンダやキャノンといったナンバー2はこうした国の方針とは関係なく、戦後の混乱期に独自の努力で今の地位をなしえた企業であり、広島カープもまた、巨人のような老舗球団ではなく、原爆の焼け跡から市民団体が立ち上げた球団です。

多くの人間はリーダーにはなれません。その素質も、その正当性も、そして幸運をも持ち合わせていないからです。しかし、巨大な権力や組織の間をうまく泳ぎ抜き、その中で実務能力を身につけ、現実的な思考を生かしつつ未来に対する先見性を持ち、社会や歴史に大きな足跡を残すことは可能です。

ナンバー2であることは強権な権力や巨大組織と常に対峙して生きていくということでもあり、それらはいつの時代にも残酷で、冷酷な魔物でもあるため、ときに利休や幸村のように時代に埋没していきます。

いかにしてその魔物と対峙し、これをコントロールしていくのかこそが一生の課題なわけで、そこを必死に頑張っていく姿は泥臭くもありますがしかし、多くの人の共感を呼びます。私がナンバー2を好きなのはそのためかもしれません。

過去において、成功したナンバー2、失敗したナンバー2は数多くみられますが、それぞれの事例を見れば、どのように生きるのか、そのヒントが見えてくるのではないでしょうか。

優秀なナンバー2がいなければ、ナンバー1もありえません。今のトヨタがナンバー1でいられるのは、ホンダなどあまたのナンバー2が控えているからです。

しかし、そのトヨタにもまたナンバー2がいるはずです。この大企業にあって、そのナンバー2がナンバー1をどう支えているか、その生き様がどうであるかを観察することもまた勉強になるかもしれません。

さて、あなたの周りのナンバー2は誰でしょう。あるいはあなた自身が優秀なナンバー2であるかもしれませんが。

2014-1140999黄金崎にて

北条家のこと

2014-1140923今日は、北条時宗が亡くなった日だそうで、その死は弘安7年(1284年)のことでした。といっても、旧暦の話なので、現在では4月20日ころになるようです。

鎌倉幕府の第8代執権で、内政にあっては北条一族の幕府内の権力の強化を図る一方で、モンゴル帝国の2度にわたる侵攻、つまり元寇を退け、このことにより日本の国難を救った英雄とも評される人物です。

しかし、二度目の元寇である弘安4年(1281年)の弘安の役後のわずか3年後の弘安7年(1284年)に34歳で病死しており、その亡骸は自らが開いた鎌倉山ノ内の円覚寺に葬られました。死因は結核とも心臓病とも云われています。

先日、この北条時宗の先祖である北条家の発祥の地、伊豆長岡に行く機会があったので、今日はこの北条家の一族のことを少し書いてみようと思います。

はっきりとしたことはわかっていないようですが、この時宗の死より40年ほど前には既に伊豆では現在の三島市の三嶋大社の近くに国府が造られたようです。仁治3年(1242年)ころに書かれた「東関紀行」には、「伊豆の國府に到りぬれば、三島の社の…」云々の記述がみられるそうです。

伊豆はそれ以前は流刑地であり、鎌倉幕府の祖である源頼朝が伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていたことは有名です。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられて以降頼朝は本拠を鎌倉におきつつも、まだこの地に残る反源氏の豪族の討伐を続け、かつて自分が流されていた伊豆の平定を続けていたことは想像に難くありません。

伊豆は、頼朝をサポートしてくれた北条氏の本拠地でもあり、国府の建設に至ったのはこの北条氏の意向でもあったことでしょう。頼朝は建久10年(1199)に53歳で亡くなっていますが、ちょうどこのころに書かれた「吾妻鏡」の文治5年(1189年)の記述には、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたとあるそうです。

田方郡というのは、現在は函南町の一町だけを有する郡部ですが、かつては、現在の伊豆市の大部分や三島市の一部、伊豆の国市の一部をも含む広いエリアであり、そのほとんどが北条氏が拠点としていた区域です。

北条氏は、「得宗」と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で鎌倉幕府の執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出しました。

その権勢を確立したのは、頼朝の舅である北条時政であり、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力したことはよく知られている史実です。

頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得、頼朝亡き後もその子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となりました。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。

さらに、3代将軍実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしましたが、あまりにも自分に権力を集中させようとしたため、娘の政子や息子の義時の反発を招き、出家させられました。

そして、2代執権義時から数代にわたって北条家は、鎌倉幕府などの他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立していきます。実朝を暗殺したあと、義時は京都から九条頼経を4代将軍に迎え、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功しました。

こうして3代執権北条泰時の時代には、かの有名な「御成敗式目」が制定され、北条家は幕府の御家人としてその支配をゆるぎないものにしました。

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以後、鎌倉幕府における権力の中枢は北条家に集まるようになり、得宗家の家臣は「御内人」と呼ばれ、しばしば得宗家の代官として各地の所領や守護所などに派遣され、権力をさらに強化しました。

上述の8代執権北条時宗のときに勃発した元寇もまた、結果としては北条氏にプラスになりました。これを機に軍事指揮権も獲得できるようになっためで、これによって西国での支配権をも強化することができるようになり、北条一門から鎮西探題、長門探題なども派遣されるようになりました。

これと同時に北条一門の諸国守護職の独占も進み、時宗の息子・9代執権北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立しました。これらにより、北条系以外の御家人層の没落はますます進行していきます。

ところが、貞時の子・14代執権北条高時のころになると、そろそろその権力は末期を迎えるようになります。

京都では後醍醐天皇が、「正中の変」を引き起こそうとしますが、これはからくも未然に防ぐことができました。ところが後醍醐天皇は、引き続いて元弘の乱を1333年(元弘3年/正慶2年)に起こし、再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応しました。

尊氏は京都の執権北条家の拠点たる六波羅探題を滅ぼしましたが、これに上野国(現東京)の新田義貞も呼応し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返りました。

こうして、反北条・反鎌倉幕府の勢力は増大しつづけ、ついに鎌倉が陥落。この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、鎌倉市域において行われた東勝寺合戦において、ほぼ北条氏は滅亡しました。

最後の執権は、第16代の北条守時でしたが、39歳であった彼は、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つべく先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂という場所を拠点として、敵方と激戦を繰り広げ、伝説では一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。

しかし、衆寡敵せず現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺で自刃したと伝えられており、このとき、子の益時も父に殉じて自害しました。

そのほか、地方に守護職などで派遣されていた北条一族ものきなみ攻め滅ぼされており、第13代執権である北条基時の子であり、京都の北方六波羅探題(探題は北と南ふたつあった)であった北条仲時なども、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められています。

このとき仲時は、親鎌倉幕府派であった光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたそうですが、近江国(滋賀県)の番場峠(現米原市)で野伏に襲われ、軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺というお寺の本堂前で一族432人と共に自刃しています(享年28)。

かつて権勢をふるった北条得宗家は、彼等の復権を恐れる尊氏ら一派によってほぼ完全に根絶やしにされており、その中でも一番最後に葬られたのは北条時行だといわれています。

第14代執権北条高時の次男であり、文和元年(1352年)に、上野国で挙兵しようとしますが、武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月に鎌倉で処刑されました。

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こうして葬られた北条一族の面々の墓の多くは、関東地方のあちこち、あるいは鎌倉に集中しているようですが、一族のもともとの出自である伊豆には、本家である得宗家を初めとしてその他の連家についても新しい墓はないようです。

おそらくは、伊豆長岡にある第2代執権の北条義時のものが一番古いものだと思われ、これは、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の北條寺にあるものがそれだと言われています。

しかし、「吾妻鏡」には「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」という記述があり、この頼朝の法華堂というのは、鎌倉市内にあるものです。

従って伊豆にある、北条得宗家の墓所というのは、伊豆の国市寺家の願成就院にある初代執権の時政のものと、その息子で義時の弟である北条宗時のものだけということになるようです。

函南町の函南駅周辺にその宗時の墓があるのですが、なぜ得宗家の本拠地であった伊豆の国市にないかといえば、頼朝が挙兵したとき、宗時は平氏方の伊東祐親軍に包囲され、この地で敵方の小平井久重に射られて死んだためです。

つまり、北条氏の発祥の地といわれる現伊豆の国市における一族の名残というのは、時政の墓のある願成就院とその関連寺院のいくつかと、あとその背後にあって、古北条氏の館跡があったといわれる「守山」という小高い山だけということになります。

山の中腹に古い砦跡があり、これに隣接して北条氏の館があったと伝えられているようですが、わずかばかりの遺構が発掘されているばかりのため、具体的な規模などはわかっておらず、これを復元しようとする動きなども今のところないようです。

この守山のすぐ側には狩野川が流れており、そのほとりにはソメイヨシノが30~40本ほども植えられていて、このあたりではこれでも有名なお花見スポットです。

先日退院してきたばかりの母を連れて、そのあたりを散策したのですが、少々お天気が悪く、曇りがちなのが残念でした。

お天気の良い日には、見張り番があったというこの守山の山頂から富士山も眺められ、遠くには鎌倉へと続く箱根山も望むことができるとともに、眼下には頼朝が居住していたという蛭ヶ小島や、北条早雲の居城であった韮山城跡のある小山もみることができます。

今日この北条氏の栄枯盛衰の話を書きながらこの景色を思い出し、この範囲なら自転車で巡るにはちょうどいいな、と思い始めているところです。

またもう少し季節が進んだら、これらの史跡をまとめて巡り、また新しい発見などがあったら、また今日のこのブログの続きを書くこととしましょう。

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災害のデジャブ

2014-1140723昨日発生したチリでの地震による津波は、今朝方日本の太平洋沿岸の各地に到達したようですが、あまり大きなものにはならなかったようで、海に近いところに住んでいる方々はほっとされたことでしょう。

ここ伊豆にも注意報が出されているようですが、今のところこちらにも大きな津波が観測されたというニュースはないようです。

一番最近で、伊豆に大きな津波被害があったのはいつのことだろう、と改めて調べてみたところ、これは1854年12月(嘉永7年)のことだったようです。

12月23日(嘉永7年11月4日)にまず、「安政東海地震」が発生し、駿河湾から遠州灘を震源とするこのM8.4の地震によって、伊豆では沼津で被害が大きく、ここから伊勢湾にかけて死者2,000~3,000人の人的被害を出しました。

ところが、この翌日の2月24日(嘉永7年11月5日)にも、今度は「安政南海地震」が起きました。安政東海地震のわずか32時間後のことで、この地震は紀伊半島南東沖一帯を震源とし、同じくM8.4という規模でした。

この地震では、和歌山の串本で津波高さ15mを記録し、これによって死者数千人となりましたが、その被害は紀伊半島から四国、九州のみならず大坂市内にまでおよびました。伊豆でもとくに下田での被害が大きかったようです。

この二つの地震には時間差はあるものの、「東海・東南海・南海連動型地震」としてひとつにとりまとめて扱われることもあり、最近気象庁や地震予知連絡会議が想定した地震津波のモデル地震のひとつでもあります。

これらの地震は嘉永年間末に起きたわけですが、この天変地異や前年の黒船来航を期に、改元されて「安政」と改められました。なので、嘉永年間に起きた地震津波ではあるのですが、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して安政東海地震・安政南海地震と呼ばれているわけです。

ところが、この年の地震はこれだけでは終わらず、更に安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生しています。また翌年には安政江戸地震(M 6.9~7.4)も起きており、おそらくは安政東海・南海地震の余震と考えるべきでしょう。

さらに最初の東海地震に先立つ8か月ほど前の5月(嘉永7年4月)には、京都の女院御所より出火があり、京都御所・仙洞御所が全焼したほか、今出川通・浄福寺通・烏丸通・椹木町通に囲まれた地域を広範囲に焼く大火となるなどの災害もあって、まさにこの年は日本にとっては大厄災の年でした。

こうした一連の地震はひとくくりにして「安政の大地震」とも呼ばれることも多く、また最初の東海・南海地震が起きた年がトラ年だったために、「寅の大変」とも呼ばれました。

今年もしこれと同じような大災害が起きたら、ウマ年なので、「午の大変」ということになるのですが、寅と違っておとなしい動物だけにいまひとつインパクトがありません。3年前の東日本大震災があった年に至っては、ウサギ年だったわけであり、これは「兎の大変」ということになり、もっと間が抜けています。

ところで、この大地震が起きた1854年という年がどういう年だったかといえば、その前年のペリー来航に次いで1月にはプチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に入港しており、2月には、ペリーが軍艦7隻を率いて江戸湾に再来航して、その翌月に日米和親条約が結ばれるなど、非常にあわただしい年でした。

4月には、吉田松陰が下田で黒船へ密航を試み幕吏に捕われるという事件がおき、5月には下田・箱館の開港を布告、10月になって今度はイギリスとの間に日英和親条約締結が結ばれるなど、近代日本における外交元年の年でもありました。

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その直後の12月に発生した2つの巨大地震は、四国の高知にも被害をもたらし、このときの土佐での死者は、372名と集計・報告されています。坂本龍馬はちょうど土佐に滞在していたらしく、その後日本の外交問題にも深くかかわることになるこの人物もこの大震災にさぞかし肝をつぶしたことでしょう。

明けて翌年1855年(安政元年~2年)には、先述のとおり、M7クラスの安政江戸地震がおき、この地震では津波は発生しなかったものの、大都市江戸の被害は甚大でした。

とりわけ日比谷から西の丸下、大手町、神田神保町といった谷地を埋め立てた地域では、大名屋敷が全壊するなど被害が大きく、小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが死亡しました。

また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷し、これら一連の指導者を失った水戸藩ではその後内部抗争が激化し、これがその後安政7年(1860年)におきた桜田門外の変へとつながっていきました。

江戸市中における死者は初回の幕府による公式調査では4,394人、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされていますが、これに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると、おそらくは死者は1万人くらいであっただろうと推定されています。

江戸城でも、幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難しました。幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられました。

その結果、幕末の多難な時局におけるその財政を著しく悪化させることとなり、これが幕府の弱体化につながり、西国の強藩の台頭を促し、これが維新への機運をあおりました。つまりは、安政の大震災は、その後の日本の運命を大きく変えたと言っても過言ではありません。

その後の大正期の1923年(大正12年)におきた関東大震災もまた、日本の運命を変えた災害でした。

既に第一次世界大戦期のブームによる反動で戦後恐慌に陥っていたところへ、震災は更に追い討ちをかけることになり、多くの事業所が壊滅したことから失業者が激増し、その結果として昭和金融恐慌が起こりました。

昭和恐慌下で地方・農村部の疲弊が進みましたが、政治腐敗のはびこる国内の政党政治はこれら諸問題へ十分な対処を行うことができず、国民の信用を失いました。

その結果、軍部の台頭を招き、1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が相次いで起こり、政党内閣はついに終焉にいたります。

軍部主導での日本の満州への進出はここでの利権拡大を良しとしない列強国との対立を招き、日本は1933年には国際連盟を脱退、その後のアメリカへの戦線布告、太平洋戦争への泥沼とつながっていきました。

このように、近代といわれる時代に入って起きた大きな震災は必ずその後の日本の運命を変えています。ちなみに、東・南海地震(安政大震災)のあった1854年から、その後の関東大震災までは69年間であり、関東大震災から東日本大震災までの期間は88年です。

こうしたことから、もし仮におよそ70~90年くらいで歴史が変わるという法則があるのだとすれば、そろそろ日本も歴史的な大革新の時代に入るということも考えられなくはありません。

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その昔、TBSの正月番組で「関口宏の“歴史は繰り返す”」というのが毎年放送されていましたが、この番組の内容は歴史の中に「デジャブ」を見出し、過去と現在の類似する現象を対比して、未来の動向を探る、というものでした。

デジャブ(既視感)とは、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることです。一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多いものです。

歴史の中にそれを見出すというのは、ようするにそれがいつどこでのことかよく思い出せないほど昔の出来事の中から、そうしたことを発掘していくことなのでしょう。

今から88年も前の関東大震災のころの記憶を持っている人は今の日本ではほとんどいないでしょうから、もしこの時代にその記憶を見出すとすればこれはまさにデジャブです。

が、案外と関東大震災後に起こったことが、今回の東日本大震災後に起こりつつあることに類似していることも多いかもしれず、それを比較検証して、今後の方向性を見出す、ということはわりと理にかなっているように思います。

現在の安倍政権の右傾化なども、関東大震災後の軍部の台頭と似ているといえなくもありませんし、関東大震災で概して被害の大きかった東京市・横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだことは、今回の地震で東北の人々の他地域への流動と重なるところがあります。

また関東大震災では、公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に13000台ほどだった自動車保有台数が震災後激増し、1924年(大正13年)には24000台に、1926年(大正15年)には4000台にまで増えました。

が、今回の地震ではクルマによる避難の脆弱性や津波に押し流されるその無力な姿が浮き彫りになり、逆に一層クルマ離れに拍車をかけるのでは、という気がします。

このほか関東大震災では、谷崎潤一郎など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えたり、震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが全国に広まったといいます。

また、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったりと、震災は文化面でも様々な影響を与えました。

案外と今回の地震によって日本の文化もかわりつつあるのかもしれません。しかも良い方向に。そのトレンドをうまく見いだせれば良い商売にもつながっていくかもしれません。

みなさんもここはひとつ、震災によるマイナスな部分だけを見つめるのではなく、震災によって変わりつつあるプラスの部分をみつめてみてはいかがでしょうか。

2014-1140759

金利とギャンブル

2014-11405544月になった昨日、退院してきたばかりの母も伴って買い物に出かけましたが、何か買おうとするたびに、??と思ってしまうのは、えっ、これってこんなに高かったけ?ということ。

たかが3%の値上げなのに、こんなにも値段が違うのか、とついつい思ってしまうのですが、おそらく前回消費税が3%から5%に上がったときも同じように感じていたはずであり、それが長らくの間に不思議とは思わなくなったことを考えれば、この税率の改正にもやがて慣らされていくのでしょう。

が、いずれはまたさらにこの消費税も上がるところとなり、2015年の10月からは今度はなんと10%になるということで、今回の増税はその前哨戦にすぎません。

10%ともなると、購入金額は対象とする商品の正味の金額の1割であり、ついつい、昔流行った高利貸しの金利である「トイチ」を思い浮かべてしまいます。

無論、利率は全く異なり、これは借入金利が「十日で一割の金利」の略で、年利365%の金利です。100万円を借りていると10日目に10万円の利子が発生し、このまま返済を行わずに20日目になると前回の10万円の利子にトイチの利子がさらについて121万円になります。

30日目には利子に利子がついて133万円になり、この調子で返済しないままでいると40日目には146万円、50日目161万円、と続いて行き、360日目には3091万円に達します

しかも、実際の借入に際しては、借入時に第一回目の支払利子を差し引いた形で支払われるので、100万円の借金契約を結んだ場合でも、90万円しか支払われません。これはすなわち100万円が欲しい場合には、112万円を借り入れたこととなります。

現在では利息制限法というのがあり、金融業では29.2%で、それ以外は109.5%が金利の限度となっているため、正式にはこうしたトイチによる融資をすることはできません。が、いわゆるヤミ金と呼ばれる違法金融業者は現在もいて、このトイチほどはひどくはないでしょうが、今もかなりの高金利での融資が実際に行われているようです。

自己破産したり、病気で仕事ができないなどの理由でやむを得ず闇金融に手を出す人々がいつの時代にも必ず一定数おり、闇金融側からするといい餌食となっている現状は今も続いています。このほかにも、客と業者ではなく、個人から個人への融資の形をとって貸し付けるといったケースも後をたたず、文字通りの「闇の世界」になっています。

最近あまりみかけなくなった、「質屋」ですが、ここでは現在でも法的にも利息制限法を超える109.5%の利息が認められているそうで、質屋として名目上許可を得るという「偽装質屋」も問題となっているそうです。

三年前の2010年(平成22年)には、出資法が改正され、利息制限法に定める上限金利は超えるものの出資法に定める上限金利には満たない、いわゆるグレーゾーン金利で融資を行っていた消費者金融(サラ金・高利貸し)業者の多くがこれによって大打撃を受けました。

おかげであのうっとうしい、初めてのア●●とか、ほのぼのレ××といったコマーシャルが街頭やテレビから姿を消し、ずいぶんと平穏になったかんじがします。

しかし、質屋を装った闇金融などはまだ摘発の対象となっておらず、こうした事態を抜本的に打開しようと活動を始めた自治体というのは、まだ岩手県と鹿児島県の2県ぐらいしかないそうです。

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実は、こうした闇金融とパチンコ業界は密接な関係があるようで、このグレーゾーン金利の撤廃がなされて以降、パチンコ業者の倒産件数が増えたそうです。この規制強化によって、賭博性の高い機器を交換する際の費用を消費者金融業者から調達することが困難になったことが原因のようです。

法改正の前には、地方都市の繁華街中心部や駅前などの一等地では消費者金融業者の看板が普通の看板を席巻し、どの街に行っても大手業者の巨大な看板が占拠しているといったことがよくあり、それぞれの街の持つ独自の景観が破壊されるということがありました。

それが最近はほとんどなくなりましたが、あいかわらずパチンコ屋は日本中にいまだあって、画一的で没個性的な街並みがつくられる原因のひとつとなっています。町の景観だけでなく、テレビのメディアにも頻繁に登場し、静岡県などではコン●●●●と称するパチンコ屋の宣伝がテレビ番組の合間を縫ってうんざりするほど流れています。

不況によって広告収入が減っているテレビ業界にとってはお得意さんなのでしょうが、消費者金融がはびこっていたころとどこか似ています。早々に自粛して、こうしたコマーシャルを流すのを撤廃したテレビ局は大いに世の人々に賞賛されると思うのですが、いかがなものでしょう。

消費者金融のCMが姿を消したのは、日本弁護士連合会などがテレビCMの中止を求める意見書を政府に提出したからだそうです。

これを受けて、2005年(平成17年)ごろから、テレビ局側も午後5時~9時までは放送しないとする方針を決定し、「借りすぎにご注意」などの警告表現のないものは規定不適合とされ、放送が不可能になりました。

こうした規定によって長らく放送されていた業界間で内容が似通った「コミカルなストーリー」「ポジティブな演技」で一般受けを狙っていた大量のCMが姿を消し、これを機に自動契約機のCMも姿を消しました。

さらに、翌年の2006年(平成18年)からは午前7~9時、午後5~10時までといったゴールデンタイムでの放送ができなくなり、午後10時から深夜0時までの時間帯における放映数上限は50 本に制限され、しかも各社のCMをそれぞれ月間100本までに制限することになりました。

これによってあのうっとうしい消費者金融のCMはようやく姿を消したわけですが、同じような処置をパチンコのCMについてもぜひやってほしいと思います。

とはいえ、そうした表面上の対策をとったところで、闇の世界の業師たちの暗躍は消え去ることはけっしてないのでしょう。

いつの時代にも金利で暴利をむさぼる輩ははびこるものであり、金利を取る商売を禁止するとしたら、銀行などもすべて撤廃しなければなくなってしまいます。

が、モラル、というものがいつの世にもあってしかるべきであり、消費税のアップが次々と行われるこれから数年の間、そうした道徳的規範や倫理といったことが希薄になっていくことが心配です。

江戸時代の日本は、儒教のひとつである朱子学を中心に仏教や神道などの影響を強く受けての道徳が形成され、武士道では、「上を敬い、下を導く」といった上下関係を重んじる傾向が強く、また一般でも君に忠、親に孝の率先が美徳とされました。

明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容しましたが、明治政府が統一国家としての共有道徳を創生しようと努力した結果、現在においても多くの日本人が無意識にこの江戸時代の伝統道徳に従って行動しており、これこそが日本人の倫理観だといわれています。

「日本型管理社会」の形成の要因は、この道徳によるところが大きいわけであり、人格形成を重視することこそが、日本の道徳の特徴です。

そうした人格形成の重視傾向が損なわれているところが、ウソがまかり通る最近の殺伐とした世相を生み出しているともいえ、かつての消費者金融の蔓延、現在のようなギャンブル産業の繁栄もその延長にあるような気がします。

欧米の多くの心理学者や道徳哲学者は、道徳心が発露されるには他者への共感が必要であると主張しており、共感は、他者を同じ共同体の一員であるとみなすことによって起きます。

金利やギャンブルで人からお金を搾取する風潮が蔓延しているいまこそ、日本古来のこの道徳教育の復活と、この欧米の「思いやり思想」を合体させた新しい倫理観を築くべき時代が来ているのではないでしょうか。

2014-29

正のウソ負のウソ

2014-1140635
4月になりました。

今日4月1日はエイプリルフールとうことで、嘘をついてもよい、ということのようですが、正直者の私としては、ウソはつきたくありません……

……てなことを言っていること自体が既にウソなわけであり、生まれてこのかたいったいどのくらいこうしたウソを突き通してきただろうと思います。

がしかしおそらくウソをついたことがない人はいないのではないでしょうか。それくらいウソというのは生きていくために必要なものであり、「必要悪」でもあります。

フィクション作品では、読者や観客を楽しませるために作品に嘘が混ぜられていて、事実ばかりを組みあわせて作り上げた作品では、読者や観客になかなか楽しんでもらえません。

登場人物の人物像あるいはストーリー展開についてなにがしかの嘘を混ぜて作品に仕上げてゆく、というのは当たり前のことであり、NHKの大河ドラマなどでも、一応は史実に忠実にということで、時代考証がなされ大枠では史実から離れないように制作しようとしてはいますが、事実だけでドラマ作品を作っても全然面白くなくなってしまいます。

なので、台詞や殺陣や効果音等々等々、なにがしかの嘘をまぜて事実より強調したほうがかえって「リアル」に感じられる作品になるということで、いろいろアレンジされたものをある程度ウソとしりつつ、我々は楽しんでいます。

フィクション作品では事実と嘘の配分、「本当」と「嘘」の混ぜ加減が作家やクリエイターらの腕の見せ所であり、それゆえに、こうした芸術家さんたちはいかにウソをつくのが上手かによってその力量が試されるのでしょう。

このように、多くの人はある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っており、これは学問的・精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

ただしそれも常識的な範囲を超えたり、統計的に見て一般的な範囲を逸脱するような程度になると、心理学・精神医学的には「虚言癖」や「作話症」などに分類されるようになります。

先日来世の中を賑やかせている作曲家さんはその最たるものであり、ウソかまことかが取沙汰されている理化学研の女性博士もまたこの分類に属すのかもしれません。

嘘をつく動機や技術、事実との関係などによって、嘘は正負、両方の効果を及ぼしますが、負のウソをついてはいけません。

得をしようとして数字をごまかすことを「サバを読む」と言いますが、これは鯖が大量に捕れすぎたとき、漁師や魚屋が腐る前に売りさばこうと、数もろくに数えなかったことに由来するといわれています。

自分の年齢について嘘を言うことは「年齢詐称」と言いますが、これは正負のどちらに属するかというと微妙なところです。が、テレビなどで大幅に年齢をごまかしていたタレントさんが、そのウソがばれたあげくに大バッシングを喰らったりすることなどがあるところをみると、年齢のサバ読みはやはりあまり良いことではないのでしょう。

ウソも、悪徳マルチ商法や悪徳キャッチセールスなどのように「詐欺」といわれるようなものになると、明らかにこれはマイナスのウソであり、被害者が生じることから法律によって罰せられます。

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そう考えてくると、そのウソが正負のどちらに属するかというのは、自分だけが悦に入っているうちはいいけれども、他人に何等かの被害を及ぼすものに至って、はじめて負のウソになると考えることができます。

一方では、欧米では、聞いたとたんに明らかにウソとわかるような話をして、それが嘘だと互いに十分に知っていることを確認しあって楽しむ、という風潮があるようで、これはまちがいなく正の範疇のウソでしょう。

私も留学時代にまるでホントのようなことをいう教授のウイットに富んだウソによく楽しまされました。こうした上手なウソを日本人もつけるようになるといいな~と思うのですが、生真面目な日本人には少しハードルが高いのかもしれません。

では、ヒト以外の動物は嘘をつくことがあるのでしょうか。

あります。ウソではなく、ホントにあるようで、例えば昆虫などが葉っぱやその他の自然物に化けてるいわゆる「擬態」は他のもののふりをして他の生き物をだますことです。

鳥類においても疑傷行動というのがあるそうで、これは例えば卵や雛をもつ親鳥が、近づいた外敵に対してけがをしているかのような動作をとり、注意を自分の方に向けつつ移動して、外敵を卵や雛から遠ざけてしまう行動です。シギ・チドリ類、カモ類、キジ類など,地上に巣をつくる鳥でよく見られるそうです。

チドリなどは、親鳥は外敵が近づくと、そのすぐ近くまで飛んでいき、背を向けると同時に翼を広げて地面をたたくような動作をします。そして中腰のまま、脚をひきずるようにして少しずつ外敵から遠ざかるといい、なかなかの演技派です。

ほ乳類でもイヌはウソをつくことがあるそうです。たとえば帰ってきた飼い主に対して、誤って吠えついてしまった犬が、主人の顔を認めた後に、隣家の犬に吠えかかったりすることがよくあるそうです。

これはイヌが「飼い主に吠えていたんじゃなく、隣のイヌに吠えていたんだ」というポーズを取っているのであり、自分の行動を取り繕う行為です。ウソというにはあまりにもかわいらしい行為ではありますが、一応はイヌのウソということでよく知られているようです。

ところが、ネコは嘘をつかないそうです。これはネコはイヌより知能が低いためではないかとされているようで、ようするにウソもつけないほどおバカだということです。

なので、ウチの愛猫のテンちゃんも、きっと嘘つきではないに違いありません。

が、すりすりと寄ってきて可愛いしぐさで鳴いた直後に、カツブシをねだり、それをせしめたあとにはフン!とばかりに居なくなったりするのを見ると、あれ?さっきのスリスリはポーズだったのかな?などと疑ってしまいます。

が、まあそれもよしとしましょう。仮にネコがウソをついていたとしても、その程度のウソならかわいいもので、招きネコになることはあっても、お金をだまし取るようなことはまずありませんから。

お金といえば、今日から消費税が上がります。今になって改めて昨日買い物に出かければよかったなーと思うのですが、後の祭りです。

が、消費税のことは忘れて今日は買い物にでましょう。昨日から咲き誇っている桜も呼んでいます。出不精の嫁を連れだすには、案外と桜はもう満開だ、散ってしまうぞ、とウソをつくのが一番かもしれません。

さて、みなさんが今日つくウソはどんなウソでしょう。

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