辛い物はお好き?

我が家では、週末になると買い出しに出ます。

一週間分の食料を買うことが主な目的ですが、半分気晴らしも兼ねています。その先は様々なのですが、その一つに伊豆市の中岩というところにある「農の駅」という農協が経営しているお店があり、ここでの主な販売品は野菜です。

伊豆のあちこちにはこうした農産物の販売所があり、観光客の中でも「伊豆通」の人はこうした場所で野菜を買って帰るようです。

ここで販売している野菜の特徴はなんといっても安さです。大きな大根やキャベツひとつが100円とか80円であることも多く、時にはアイスプラントなどの東京都内では高級野菜で知られるようなものもかなりの格安で販売しています。

ほかにも東京ではみられないようなめずらしい野菜も時折見られ(例えば空芯菜とか)、そうしたものにはお店の人が食べ方などのメモを添えてくれていて親切です。

この店では、静岡ならではのワサビは無論のこと、生姜やニンニクといった香辛料も安く手に入り、付近の農家さんが栽培した様々な種類のものが並んでいて、どれにしようかとこれを選ぶのもまた楽しいものがあります。

そんな香辛料の中に、先日「世界一辛い唐辛子」なるものも販売されており、このほかにも、お隣の国、韓国で一番辛いとされる唐辛子なども売っていました。

辛い物好きな私は、この両方を買ってみようかと思い、値段を見たら、それぞれたったの100円でした。しかも20本ほども唐辛子が入っていて、かなりの格安です。が、安いから傷物なのかというとそんなこともなく、それどころか新鮮そのものであり、家に帰って早速料理に使ってみましたが、プリプリでした。

が、さすがに世界一、韓国一というだけあって、その辛さは通常の唐辛子のそれをはるかに超えており、とくに世界一と称するもののほうは、たった一本を使うだけで、ほっぺたが腫れ上がるほどの辛さで、思わず水を5~6杯もがぶ飲みしてしまいました。

そこで、こういう香辛料というものはいったい世界にはいくつぐらいあるのだろうと思い、調べてみたのですが、あまりにも数が多くて数字での統計などはなさそうです。

が、香辛料は辛いものばかりとは限らず、カレーに使うスパイスなどでは、辛くないものなどもあります。加熱することで辛みがなくなるニンニクなどはその代表でしょう。

香辛料の歴史

この香辛料ですが、インドにおいては紀元前3000年頃からすでに黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていたそうです。 ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていましたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするためには、肉や魚を長期保存する必要がありました。

このためクローブや胡椒などに高い防腐作用があると考えたヨーロッパ人は、これらの香辛料を食材の保存のために使うようになり、やがてはその生活に欠かせないものになっていきました。

実際には胡椒などの防腐作用は小さいそうですが、ある程度の腐敗防止の効能はあり、また何よりもその香りが病魔を退治すると信じられ、食糧の保存剤として以外にも香として焚いて用いられることも多かったといいます。

さらには、ヨーロッパなどの水がそれほど豊富でない地域では、風呂に入るという習慣がそもそもなく、このため体の洗浄不足と肉食が相まって体臭が問題になり、香の強い香辛料はこのためにも役立ちました。

とくに、クローブ、ナツメグなどの香辛料はインドネシアのモルッカ諸島でのみで産出されたため、貴重なものでし。また胡椒はインド東海岸やスマトラ島で多く生産され、このため、これらの地域と交易を行なって香辛料を手に入れることが、ヨーロッパ人にとっては、重大な関心事となりました。

その欲求は、やがてヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てていくことになり、造船技術や天文学などの科学技術の発達させ、これによって長期の航海が可能となったことで、大航海時代の幕が開けます。

やがてヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出するようになり、これらの地域に植民し、現地住民に対して略奪、虐殺を行うようになるとともに、キリスト教への改宗をも強制するようになっていきました。

古代ローマ時代には既に、東洋の香辛料がインド経由でヨーロッパに輸出されており、その後の中世では、東洋とヨーロッパの中間地点にある中近東出身のムスリム商人がこの香辛料貿易を独占するようになりました。

ヨーロッパ諸国の中ではとくにヴェネツィア共和国が、エジプトのマムルーク朝やオスマン帝国の仲買人からの輸入を独占しました。

一方、ポルトガルはヴェネツィアに対抗しようと、香辛料貿易独占を打破するために喜望峰経由のインド航路を発見し、貿易を独占しようとしました。こうして全世界の海を駆け巡るようになってポルトガルはやがて日本を発見し、日本だけでなく中国との交易にも精を出すようになっていきました。

のちの新大陸発見後はメキシコ、ペルーにおける領域支配を中心としたスペインとともに世界を二分するようになり、こうして成し得た世界的なネットワークは、やがて「ポルトガル海上帝国」とまで呼ばれるようになりました。

また後年、同じく世界へ進出していったオランダもまた「オランダ海上帝国」といわれるような植民地支配と交易体制を敷いており、香辛料はこれらの国による世界の未開の地の発見のために大きく貢献したといえます。

ポルトガルは、当初は東側に向けて香辛料を求める進出を通づけていましたが、やがてスペインなどの他国との貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになりました。クリストファー・コロンブスもその一人で、1492年にスペインから西に出帆しました。

コロンブスは、もともとはイタリア人だったという説もあるようですが、育ったのはポルトガルのリスボンであり、この地の貴族と結婚して財をなし、航海術や地図製作の技能もここで学んでいます。

しかし、その後スペイン王室に近づき、西回り航路の開拓を申し出たところ、イサベル一世がこれに興味を持ち、援助を受けることができるようになったため、コロンブスはスペイン国内で船と食料を調達し、西南部アンダルシアのパロス港から大航海に出発したのでした。

結局のところ、彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できませんでしたが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめる結果になりました。

彼の本来の目的地はインドでしたが、このアメリカ大陸発見当初、彼はこことインドと勘違いしており、そこに住む先住民を「インディオ」と呼びました。このため、アメリカ大陸の先住民は現在に至るまでこの間違ったままの呼称で呼ばれるハメになりました。

やがて17世紀に入ると、オランダもアジアに進出してポルトガルと争うようになり、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置きました。その後18世紀にもなると、香辛料はヨーロッパでも栽培されるようになり、やがて貿易における重要性は次第に薄れていきました。

日本における香辛料

このころにはもうありとあらゆる香辛料が格安に手に入るようになり、世界中の人々がこれらを使ってさまざまな料理を生み出していきました。

さて、それでは、日本における香辛料の輸入はいつこのころのことからだったのでしょうか。

日本が原産の古来からある香辛料といえば、ショウガやサンショウが代表的なものであり、古くは古事記中に「波士加美」、「波之加美」という記述が見られ、これは「はじかみ」と読みますが、これはショウガやサンショウといった当時の日本にあった香辛料類の総称です。

一方、輸入品はというと、756年に書かれた、大寺正倉院に遺る献納目録である「種々薬帳」には既に舶来生薬類の名が多く記載されており、中には「胡椒」や「畢撥(ヒハツ)」「桂心(=桂皮(ケイヒ))」などの名も見られるということです。

ヒハツというのはあまり聞き慣れない香辛料ですが、その果実はコショウに似た風味を持っており、ヨーロッパでは、コショウと同様にスパイスとして利用されていました。現代のヨーロッパの料理にはほとんど使われませんが、インドやインドネシア、マレーシアといった国ではいまだに料理によく使われています。

また、ケイヒというのは、シナニッケイというクスノキの仲間の樹木の皮を剥いで作った香辛料であり、この根っこからは、肉桂(シナモン)も採れます。

「種々薬帳」というタイトルからもわかるとおり、これらの香辛料類はまず薬品として日本にもたらされ、種類によってはその後長期にわたって漢方薬の材料などに使われました。

しかし、ヨーロッパ人のようにこれらを料理に用い、さかんに輸入・消費していくような気運は、結局日本では生まれず、その理由は昔の日本人は肉食をほとんど行わなかったためです。日本人は、こうした薬臭い香辛料よりも発酵調味料を積極的に利用したため、その後も長い間、香辛料への潜在的需要は低いままでした。

ただ、中世期になると、より身近な地産の草菜類を利用した、「薬味」「加薬(かやく)」などの概念が発展しはじめ、江戸時代には日本料理においては、この薬味が重要な立場を占めていくようになります。

当時の料理書には、大根・葱・紫蘇・芥子・生姜・山葵といった香辛料が特に薬味として好まれ多用されたことが書かれており、特にネギはやがて日本料理に欠かせない存在となり、ダイコンは大根おろしなどの形で大量に用いられました。

そのほかにも山椒、ゆずなどの日本古来の薬味が使われましたが、ヨーロッパの香辛料とも共通する唯一の例外は、前述の肉桂(シナモン)などでした。

胡椒も一時期、うどんの薬味として使われた事があるようですが、唐辛子の普及により結局廃れ、江戸時代にはほとんど使われませんでした。ただ、近畿などでは比較的使われることも多かったそうで、その名残で、現在でも関西では日本料理に胡椒が用いられることがあるそうです。

このように胡椒はあまり使われませんでしたが、唐辛子はそこそこ普及し、その後、日本独自のブレンド香辛料である七味唐辛子も登場しました。ただ、これらはいずれも風味付け程度の少量の利用にとどまったため、大量に出回ることはありませんでした。

やがて明治維新がおき、大正時代の頃になるとカレーライスを食べさせる店などが少しずつ創業するようになり、刺激の強いカレーの味覚も少しずつ日本人の知るものとなっていっていきまし。

おそらくは、カレー粉が日本の家庭に一番最初に普及した香辛料でしょう。が、これは各種の香辛料を混合したブレンド香辛料であることはみなさんもご存知でしょう。

やがて第二次世界大戦後は生活の洋風化がすすみ、さまざまな香辛料の輸入量も増加の一途をたどっていくようになります。経済成長を経て社会が豊かになると、本格的な欧風料理やいわゆるエスニック料理などを広くたのしむようになり、現在では様々な香辛料類が家庭内にも常備されるようになっています。

胡椒と唐辛子

そんな中でも、香辛料の王者ともいえるものはやはり、胡椒でしょう。

インドへの航路が見つかるまでは、ヨーロッパではあまり流通しておらう、かなり貴重なものでした。前述のとおり、大航海時代の幕開けのきっかけとなった香辛料の中でも最も重宝されたものであり、その取引における価値のほどは、1世紀のローマにおいて金や銀と胡椒が同重量で交換されていたことからもわかります。

ゲルマン部族のリーダーであったアラリック1世はローマ帝国に侵略を控える代わりに金、銀のほかに胡椒を貢物として要求したとも伝えられています。

さらに時代が下った中世ヨーロッパにおいても、香辛料の中で最も高価であり、このころには金や銀ほどの価値はなくなっていたものの、貨幣の代用として用いられる国もあったそうです。ヴェネチア人は胡椒をさして「天国の種子」と呼び、珍重していました。

ただ、現代に至ってはさすがに貨幣として使われるほどの価値はなくなり、原産地であるインドのほか、インドネシア、マレーシア、ブラジルでも栽培されていて、価格もかなり安くなっています。ただ、カメルーンのペンジャ産の胡椒は最高級品とされていて、20~30グラムが1000円内外もするそうです。

どんな味がするのか私は使ったことがないのでよくわからないのですが、コショウ自体がおいしいと感じられるほどだそうで、ある販売店でのキャッチによれば「エレガントで独特な風味が脳裏に突き刺さるほど衝撃的」だそうです。フランスの有名シェフが競って使っているという話もあり、やはり普通の胡椒よりは一味違うようです。

こうした胡椒には、中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える、いわゆる向精神薬であるアルカロイド性の物質が含まれているそうで、薬効を期待した薬膳料理にも使われています。消化不良、嘔吐、下痢、腹痛などの症状に対して効くそうで、また、抗がん作用、抗酸化作用[もあるといいます。

一緒に摂取した医薬品の作用を増強することも報告されていて、他の成分の吸収率を高めるなどの効果があるとして健康食品にも使用されることもあり、さらにはダイエット用などのサプリメントとしても最近注目を集めているそうです。

が、ダイエットに効く香辛料として最近よく耳にするのは、やはり唐辛子でしょう。

唐辛子にはカプサイシンという辛味成分が含まれていて、このカプサイシンには、血行を促進したり、ホルモン分泌を促進する効果などがあるといわれています。

ホルモンの分泌が促進されると、アドレナリンが出やすくなるのだそうで、このためエネルギーの代謝が盛んになり、脂肪をエネルギーに変えて燃焼するようになる、という理屈のようです。が、ただ食べるだけではあまり効果がなく、唐辛子を食べた後は脂肪が燃焼しやすい状態にあるため、ここでしっかりと運動をするとより脂肪が燃えるのだとか。

また、カプサイシンには、血糖値を下げる効果もあるそうで、運動によるエネルギー代謝とともに血糖値の上昇が抑えられ、このため糖代謝が促進されることになり、体内に新たに脂肪が蓄積を防ぐ効果もあるということです。

ただ、唐辛子は辛いので、逆に食欲増進効果も絶大であり、逆にごはんが進みすぎてダイエット効果が出ない、なんてこともあるようです。せっかくダイエットをしようとして唐辛子を摂取しても、食べ過ぎてしまっては、効果は現れにくくなってしまうので注意が必要です。

また、唐辛子の食べ過ぎは、胃腸に負担をかけてしまいます。カプサイシンは辛み成分なので、粘膜を傷つけることがあり、適量を超えて過剰に摂取すれば胃腸などの壁に問題を起こすこともあるそうです。過剰摂取にならないように、適量を心がけましょう。

唐辛子の過剰摂取は発癌を促すという指摘もあるようで、唐辛子を多く摂る国は胃癌や食道癌の発癌率が高いそうです。ただ、国際がん研究機関(IARC)の研究では、唐辛子は発がん性の可能性がある物質とは認められなかったそうで、カプサイシン単体が発がん性を有するということは、今では迷信と考えられています。

むしろ唐辛子は、他の特定の物質を発がん性物質に導く体内の酵素の働きを抑制する、いわば抗がん効果があるとする研究結果などもあるようです。ただし、カプサイシンの単独摂取には問題はないものの、他の物質と同時に摂取すると癌発生を促進する場合もあるということです。

ま、何かと何かを合わせると発癌性のあるものに変化するという例はゴマンとあるでしょうから、あまり気にしすぎる必要もないと思いますが。

さて、先日私が農の駅で買った、世界一辛いという唐辛子ですが、どうやら「ハバネロ」という名前のようです。「世界一」というのは、お店の人が書いた説明書きに書いてあったのですが、実際にはもっと辛いものもあるのだろう、と思ったので調べてみました。

この唐辛子の辛さを量る単位というものがあり、これをスコヴィル値(Scoville scale)といいます。トウガラシにはカプサイシンという辛み成分が含まれていると書きましたが、スコヴィル値は実質このカプサイシンの割合を示す値だそうです。

ちなみに、この「辛い」と感じるのは、味覚というよりも「痛み」に近い感覚なのだそうで、実際、人の体がカプサイシンを「感じる」ために使われる口の粘膜にある「受容体」は、生化学的には痛み関連の受容体に分類されています。従って、唐辛子を「辛い」と感じるのは実は、口内で「痛覚」を感じているのに他ならないのだそうです。

ところが、インドやタイ、韓国などの人は、これを痛い!とも思わず平気で食べれるのは何故なのでしょうか。

実はこうした国では、小さい子供の頃から徐々に辛い味に慣れていっているため、胃腸や口の粘膜が刺激に対して強くなっているためだそうで、これがやがて大人になるにつれて、痛みを味覚として好む、つまり「快感」に変化していったのだと考えられています。

ようするに辛さに関してはこうした国の人は、完全に「M」なわけであり、これはこられの国の「社会文化」といっても良いでしょう。こうした国は、ほかにもメキシコや西アフリカなどがあり、このほかには、中国の四川省・湖南省などがあります。

これらの国、地域の共通点としては、「夏が暑い」であり、唐辛子のような辛い物を積極的に食べて「痛み」を感じ、発汗を促すことで暑さ対策をしているという見方が一般的です。

ただ、同じように夏の暑いベトナムや沖縄などでは、さほど唐辛子を好まないようで、一方では韓国やブータンなどの夏がそれほど暑くない国では唐辛子を好む食文化あります。

こうしたことから、唐辛子の嗜好は単に気候的要因ではなく文化的要因によるものが強いのではないかということが言われているようです。韓国の人が辛いものを好きなのは、日本や中国との間にあってこれらの国と争うことの多かった歴史があり、このために我慢強くなったからかもしれません。

それはさておき、私が買ったハバネロのスコヴィル値は、どれくらいかを調べてみたところ、これは10万~35万程度だそうです。……といってもわかりにくいので、他と比較してみると、例えばパスタなどによくかけて使う、タバスコ・ソースのスコヴィル値はせいぜい2500~5000だそうです。

また、一般的な催涙スプレーに使われている唐辛子成分のスコヴィル値は1万5000~9万だそうで、鷹のツメやチリ・ペッパーがだいたい4万~5万くらいといいます。

ということは、ハバネロの辛さはタバスコの40倍以上の辛さであり、また鷹のツメと比べても倍以上辛いことになります。なるほど辛いはずです。

ところが、上には上があって、「SBカプマックス」という唐辛子品種のスコヴィル値は65万もあり、これはハバネロの2~6倍の辛さとなり、2006年12月には世界一辛いトウガラシとしてギネス・ワールド・レコーズに認定されたということです。

ところが、3ヶ月後の2007年2月にはSBカプマックスの2倍近い100万ものスコヴィル値を持つインド・バングラデシュ原産の「ブート・ジョロキア」という品種がギネス認定されました。

ブート・ジョロキアはその後しばらく王座を占めていましたが、その後もギネス記録は塗り替えられ続け、2011年段階での最高峰は、「トリニダード・スコーピオン・ブッチ・T」という長ったらしい名前の唐辛子で、そのスコヴィル値はなんと146万3700です。

その名の通り、中南米のトリニダード・トバコ原産の唐辛子ですが、新たに品種改良されたとかいうわけではなく、土着の品種だそうで、世界にはまだまだ探せば辛い唐辛子が発見されるのではないかと思わせます。

純粋な植物品種として最も高いスコヴィル値を持つのは、このスコーピオン・ブッチですが、さらに人工的に辛みを濃縮したものには、痴漢や暴漢などの撃退のための唐辛子スプレーの200万というのがあり、このほか警察官などが使っている唐辛子スプレーの中には530万というものもあるようです。

ところが、食品としてこれ以上のスコヴィル値を持つものもあり、そのひとつは「ザ・ソース(The Source)」といい、アメリカのカンザスシティに本社を置く会社が実際に発売している「ホットソース」です。

ほとんどカプサイシンの抽出物のみで作られているそうで、その辛さはなんと、710万スコヴィルとされ、2002年に発売された当時は世界一辛いソースとされていましたが、現在ではこれよりもさらに辛い商品が発売され、16ミリオン・リザーブ(16 Million Reserce)というのが今、世界一といわれています。

その名のとおり、1600万スコヴィルを誇り、厳然と他を寄せ付けていません。実は、この商品は、「デスソース(Death Sauce)」という一連のホットソースシリーズの一つであり、これを売りに出しているは、アメリカのニュージャージー州ハイランズ(ニューヨーク・スタテン島の南)に本社を置く、ブレア社がという会社です。

「シリーズ」ということは他にも辛いソースがあるとうことなのですが、さすがに1600万スコヴィルを超えるものはなく、これに次ぐものが「ハロウィーン07リザーブ」という商品で、約1350万、以下、「5 AMリザーブ」が、550万、「4 AMリザーブ」400万といった具合です。

こんなものばっかり売っていて商売になるんかい、と思いきやもっとスコヴィル値の低い真面目な商品もあるようです。

「オリジナルデスソース」という商品は、完熟赤ハバネロとカイエンペッパーを使用し、隠し味にライム果汁を加えたソースということで、アメリカの人気激辛ソースウェブサイトで売り上げ人気トップ10に入賞したといい、スコヴィル値は約10000です。

なんでも、ここの社長「ブレア・ラザー」という人は、1990年代にレストランを経営しており、ここでチキンウィングに激辛ソースを塗りたくり、「これを完食できたら、飲み代は無料」として客に出したのだとか。

しかし、チャレンジしても脱落者が出るばかりだったといい、このあとにも改良を加えて更に辛いソースを作り出し、チャレンジ度の高いものを出し続けていたところ、次第にこれが評判となっていきました。これをみた社長は、このソースは商売になると確信し、1994年にはレストランをたたんで、ソース工場を設立。

このとき限定版として発売された「ブレア氏の午前2時」は瞬く間に完売したといい、さらに普及版が欲しいという激辛ファンの要望に応え、こうして「デスソース」シリーズが発売されるようになったのです。

それぞれの商品には髑髏のキーチェーンがおまけでついているそうで、これは実際にこの会社のソースを使った人の中に心臓発作で死んだ人がいるそうで、それを記念?しておまけをつけることになったといいます。

日本ならすぐにでも公正取引委員会か何かのお役所からお咎めを受けそうですが、そこは何事もおおらかでジョーク好きのアメリカのこと、いまだお取潰しになるどころか、大いに商売繁盛しているようです。

ちなみに、この会社にはデスレイン(Death rain)というシリーズがあり、これはポテトチップスなどの激辛スナック菓子などであり、こちらもデスソースと同様に、買うと髑髏のキーチェーンが付いてくるそうです。

こんな辛いものばかりで商売が成り立つなんてすごいことだと思いませんか?

世にはいろんな商売がありますが、普通は人が嫌がるような味覚で商売する……これもなかなか発想の転換で面白いかもしれません。

人が嫌がりそうなものには、辛い物、刺激味以外にも、酸味、塩味、苦味、渋味などいろいろありそうです。ほかにも金属味、電気の味なんてのもあるようですが、案外と「無味」なんてのが商売のネタになるかも。

ここはひとつ、あなたも考えてみてはいかがでしょうか。

ガル

先日のこと、以前このブログでも紹介したことのある宮崎駿監督のアニメ作品、「風立ちぬ」を見に行ってきました。

そろそろ興行も終わりになろうかというこの時期になんでいまさら、と思われるでしょうが、学校が夏休みである8月中では観覧する人も多かろうということで、人ごみの嫌いな私としてはこの時期に見に行くのは敬遠したかったのです。

ちょうどつい先日には宮崎駿さんの引退宣言があったばかりであり、タイミング的にもぴったりですが、これが宮崎アニメの見納めかと思うと、少々寂しくもありました。

が、宮崎監督が作り上げたスタジオジブリそのものがなくなってしまうわけでもなく、ご子息の宮崎吾朗や高畑勲といった実力者もまだ控えていて、ジブリ作品そのものはこれからもまだまだ楽しんでいけるでしょう。

宮崎駿さん自身も、長編映画からは手は引いたものの、おそらくは短編ものなどは手掛けられるのではないでしょうか。まだまだお若い……といってももう御年72ですが……まあ日本人男性の平均年齢にはまだまだ程遠いわけですから、引退などといわずにこれからも何等かの活動をしていってほしいものです。

さて、この「風立ちぬ」の出来栄えについての感想については、またのちほど述べるとして、この劇中に出てきたいくつかの飛行機について、映画の中では何ら詳しい説明がなかったので、改めて調べてみました。

まず、主人公である堀越二郎が、作品中で設計した新鋭の飛行機のことですが、これは左右の翼が途中から「跳ね上がる」というちょっと変わった形をしており、いかにも新しい時代の飛行機、というかんじのものです。

いったいどういう経緯で造られたものなのかな、と調べてみたところ、これは「九試単座戦闘機」と呼ばれる飛行機であり、後に海軍によって「九六式艦上戦闘機」として採用された単座戦闘機の試作機だったようです。

いかにも軍事オタクの宮崎監督が登場させそうな飛行機ですが、設計者の堀越二郎の代表作としてはこれよりも「零式艦上戦闘機」つまり、ゼロ戦のほうが有名です。

なのに、なぜこの飛行機のほうをクローズアップさせたのかな、思ったのですが、映画のストーリーをみると、そのわけがわかります。

映画を見た人はご存知かと思いますが、この飛行機は、堀越二郎がその設計技師としての長い人生の中で、最初にヒットを飛ばした会心作ともいって良い飛行機であり、宮崎監督も堀越二郎のその「最初の成功」の喜びをこの作品の中で描きたかったのでしょう。

この飛行機は、1934年(昭和9年)、海軍から三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果から、この三菱機が正式採用されることとなり、「九試単座戦闘機」と名付けらました。

このひとつ前のタイプ海軍の主力戦闘機、「九五式艦上戦闘機」などの戦闘機はまだ大正時代の色濃く、そのほとんどが翼が二段になっている複葉機であったのに対し、この「九試単座戦闘機」は単葉戦闘機でした。単葉の採用は日本海軍初であり、しかも九五式が機体の一部に木材を使うなどしていたのに対して、全金属製となり、これも日本初でした。

その性能も九五式と比較すると、速度は50km/hほども速く、平面での旋回性能は同等でしたが、垂直面での旋回性能はとくに良好だったといい、高速で運動性の良い機体だったといいます。

この「九試単座戦闘機」は試作品にすぎませんでしたが、その性能の素晴らしさが認められ、のちに「九六式艦上戦闘機」として量産されるようになり、その後に勃発した日中戦争で中国に送られた機体は、アメリカ製のボーイングやカーチスホークなどを主力としていた中国軍戦闘機を空中戦で圧倒しました。

「風立ちぬ」の中ではこの傑作機の成功に先立ち、堀越二郎が設計した別の飛行機が失速し、墜落することで、堀越二郎が思い悩むというシーンが描かれていますが、この飛行機は「七試艦上戦闘機」といいました。

1933年から1934年ころにかけて、欧米各国では軍用・民間用を問わず 単葉の高速機が順次開発されていましたが、日本海軍では航空母艦への着艦と空戦時の旋回性を重視し、単葉への切り替えが遅れていました。

1935年に制式採用された九五式艦上戦闘機も複葉で、速度は352km/時という低速でした。このため、この性能では将来の戦闘は戦えないと判断した海軍当局は、このころの国内における二大軍用飛行機メーカー、三菱内燃機製造と中島飛行機に新しい次世代型の飛行機の試作を命じました。

ちょうどこのころ、三菱内燃機製造の名古屋工場に入社したのが堀越二郎でした。堀越二郎のことは以前にもこのブログで少し触れましたが、群馬県藤岡市出身で、地元の藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科のそれぞれ首席で卒業するという英才であり、のちの三菱重工業となるこのころの三菱内燃機製造にも鳴物入りで入社してきました。

この堀越二郎が、三菱内燃機に入って最初に手掛けた本格的な戦闘機が、前述の「七試艦上戦闘機」でしたが、完成したその機体は海軍が要求する高水準には達せず、結局同じく海軍より試作を命じられていた中島飛行機の試作機とともにボツとなりました。

このため、海軍は1934年の次期艦上戦闘機の設計から方針を変え、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めることにしました。後述しますがこの方針を定めたのは世に名高い、のちの山本五十六少将です。

要求仕様の性能を抑え気味に変更したのは、これに先立って堀越二郎が設計した七試艦上戦闘機などが、高性能を要求し過ぎて失敗に終わった事への反省もあったためと思われます。

こうして、新たな戦闘機の試作の指示が再び中島飛行機と三菱内燃機に下り、再度その設計に携わることになったのも堀越でした。彼は、従前の失敗に終わった七試艦上戦闘機の反省も踏まえて技術革新を促すため、海軍からの要求事項のうちでも、さらに速度や上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点を絞った設計を行うことを決意します。

この設計方針は、当時航空本部部長だった、のちの山本五十六海軍少将も支持し、その他の条件は極力緩和するから自分の考えを貫け、と後押ししたといい、艦上戦闘機としての性能すらも要求もしないから、自由な発想を試せ、とまで言ったといわれています。

それゆえに、のちに完成した試作機の名称も「単座」戦闘機であり、「艦上」戦闘機ではなく、この試作機をもとに、のちに大量生産された九六式艦上戦闘機で初めて艦載機としての機能が付加されました。

戦闘機としての飛行機の性能は、速度や上昇力などの機動力がやはり最優先されるべきであり、軍機としての性能はこの基本性能を満足してから追加すればいい、という山本五十六の合理的な思考から実現した方針であり、のちの世にも優れた指導者としてその先進性なども含めて高い評価を得た山本の人柄を見るようなエピソードです。

この、まずは基本性能を重視するという設計方針は、結果的に見事に功を奏し、堀越二郎が設計したこの機体は、競争相手の中島飛行機が制作した試作機を大きく上回る高性能を示し、関係者を驚かせることになります。

その性能試験においてこの九試単戦は、海軍の要求を20ノット上回る243ノットを発揮したといい、このとき試験の臨検として立ち会った横須賀海軍航空隊の士官達は、試験が行われた岐阜県の各務ヶ原の空は「空気の密度が小さいのではないか」と疑ったという逸話まで残っています。

ところで、この飛行機は特徴的な翼の形状をもっており、これは「逆ガル翼」と呼ばれています。

「逆ギレ」ではありません……

「ガル」とはカモメのことであり、その飛ぶ姿を見たことがある人は分かると思いますが、カモメはその翼を下へ折り曲げたような恰好で飛びます。「ガルウィング」つまりガル翼とはこれからつけられた名称であり、堀越二郎が設計した飛行機はその翼の形状が逆形状であったためにこう呼ばれたわけです。

この試作機第一号は、エンジン出力増加を活かせるよう直径の大きなプロペラを採用しており、このためある程度座高の高い機体を作る必要がありました。

しかし一方では爆弾取り付の作業性を向上させるためには胴体を地面から離しつつ、主脚を短く設計する必要などもあり、これらの理由から、翼をいったん下へ向けて伸ばし、途中からは逆に上へ折り曲げる「逆ガル」を採用することで、機体中央部の座高を高くすることができ、かつ爆弾の取り付けもしやすい形状が実現したのです。

従って、翼を上に折り曲げることによってなんとなく近代的なカッコよい雰囲気が醸し出されているように見えますが、この形状は空力的な性能の向上にはあまり関係がなかったようです。

機動性を最優先していい、とはいわれたものの、結局軍用機である以上、その使用目的を無視した飛行機を作ることは無意味です。軍おかかえの三菱内燃機という軍事産業に勤務していた堀越もそうしたことをさすがに考慮しないわけにはいかなかったのでしょう。

しかし、この九試の試作機は都合6機製作されましたが、この逆ガル型の主翼を持っていたのは、最初の試作一号機だけだったそうです。その後の試作機やのちに量産された九六式艦上戦闘機ではそれほど翼が反り返っていません。つまり、実質的にその後の九六艦戦の原型となったのは逆ガル翼を廃した、試作二号機ということになります。

宮崎アニメで悠々と空を飛び回った逆ガル翼の九試は、実はたった一機だけだったということになるわけですが、宮崎監督は、この二号機よりも逆ガルウィングの一号機のほうが格好エーと思ったのでしょう。

ただ、この飛行機の素晴らしさはそうした外見だけにあったわけではなく、日本初の単葉全金属製の機体を初めとする数々の技術革新にありました。例えば、この九試では、日本で初めて全面的に「沈頭鋲」と呼ばれるものが採用されました。

現在ではごく普通の技術ですが、これは、それまで金属板の締結に使っていた従来のリベット(鋲)を廃し、リベットでは金属板表面に頭が突出していたものを無くし、鋲の頭を機体の中に埋め込む、つまり「枕頭」させるという技術でした。

リベットは、それまで高速で飛ぶ航空機における重大な空気抵抗の原因となっており、これに対して沈頭鋲は加締めの際に皿頭が金属板を凹ませながら締結するという施行方法をとるため、機体表面を平滑に仕上げることが可能となります。

ただ、最初の九試単戦では、職工たちもこの作業に慣れておらず、鋲打ち作業で出来た表面には刺子様の窪みができていたそうで、これをパテで埋めて灰緑色塗料を厚めに塗った後に磨きを掛けたといいます。

ちなみに、この沈頭鋲の原型を取り付けて世界に先駆けて空を飛んだのは、ドイツの「ハインケルHe70」という飛行機で、この飛行機はドイツのハインケル社で開発、製造された郵便、旅客、連絡、練習、爆撃などの多用途目的で開発されたものでした。

要求される速度性能を満たすために、機体表面を滑らかに仕上げる皿リベットを世界で初めて採用し、これが沈頭鋲の元となりました。1933年初めに8つの世界速度記録を樹立するなど素晴らしい飛行機だったといいますが、戦闘用の機体としては早々と時代遅れになったために大きな成功は収めなかったそうです。

その初飛行は、九試の初飛行のわずか3ヶ月前のことだったといい、もし開発がもう少し急ピッチに進められていれば、沈頭鋲を用いた飛行機としては世界初の栄誉を勝ち取っていたことでしょう。

映画の風立ちぬでも描かれていますが、堀越二郎はこの九試の設計の前に、ドイツなどのヨーロッパの飛行機メーカーの視察を三菱から命じられており、この沈頭鋲のアイデアなども、この視察旅行の際にドイツなどで仕入れたものでしょう。

こうして、のちに九六式艦上戦闘機として量産されることになる九試でしたが、最初のころにはその性能を疑問視する声もあったようです。

1935年(昭和10年)6月に試作二号機のテストをおこなった横須賀航空隊の源田実海軍大尉(のちの自衛隊の初代航空総隊司令、ブルーインパルス創設者として知られ、参議院議員を4期24年務めた政治家としても知られる)もそのひとりでした。

源田は、九試の上昇力・速力に問題はないとしつつも、射撃性能・着艦性能は「特に勝れているとも感ぜられなかった」とし、さらに舵の効きも問題視して格闘性能に疑問があるとしました。

さらには、その後の採用会議で源田は単葉機の旋回性能の悪さを指摘し、「複葉機の九五式艦上戦闘機の方が優秀ではないか」といい、この意見を横須賀空教頭であった大西瀧治郎も支持し、中央当局は単に机上の空論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の披見を尊重して方針を定められたい」とまで言い放ちました。

このため海軍上層部では、再試験によって源田らの意見の真否を問うこととし、さっそくその翌日に九試と、九五式などの従来機による模擬空戦が行われ、源田自らもその判定を任されることになりました。

その結果、九試は他の僚機の性能を圧倒し、この模擬戦によって格闘性能にも優れていることが証明され、源田は三菱側に自身の発言を詫びたといいます。

源田実は、その後は堀越二郎の熱烈な支持者になったといい、山本五十六といい源田実といい、こうしたエピソードからもこのころの海軍の現場には自らの不明をすぐに正すことのできる優れた人材が数多くいたことがうかがわれます。

ただ、このように軍部に高性能を示すことのできた九試でしたが、着陸時のバルーニング(バウンドしながら着地する性能)や、大きく回転飛行する場合などの不安定性、大型の発動機を利用することからその選定などに手間取り、その後の九六式艦上戦闘機部隊への配備までには試作開始から丸3年という日時を要することとなりました。

しかし、逆に開発に時間をかけたこともあって制式後には大きな不具合は発生しておらず、その優れた性能はそのまま後継機である、零式艦上戦闘機に引き継がれていくことになります。

こうしてこの九試は、欧米各国の模倣を脱して、日本独自で確立された設計思想の下に制作された最初の機体ながらも優れた性能を持つものとして広く知られるようになり、その設計者である堀越二郎の名声も否が応でも高まっていきました。

この九試の設計に際し、堀越はとくに高速と空戦時の運動性に重点を置いていたといい、そのためには高い空気力学的に洗練されと形状と、重量軽減が追求されました。

「風立ちぬ」では、堀越二郎が昼飯時にいつも「サバ定食」を食べるというシーンがありますが、そのサバの中からでてくる「骨」を堀越技師は「美しい」と思い、その形状を飛行機の設計にも応用した、というふうに描かれています。

こうした発想は、この当時、それまでの複葉機を中心に主流となっていた「張り線」を多用した構造様式を採らず、高速時の空気抵抗減少のために構造材を金属板で覆う形式の翼を採用することに反映されました。これによって主翼外形は曲線を繋いだ美しい楕円翼となり、かつ重量軽減にも大きく貢献しました。

また、国産実用機として初めてフラップを採用することでさらに運動性能がアップしました。

サバの骨を参考にしたというのが事実なのかどうかはよくわかりませんが、そうした流線型の形状を持つ合理的な機体を求めた結果が九試の美しい形状と性能に反映されたわけであり、堀越二郎自身も戦後の談話の中で、この九試は後の零式艦上戦闘機よりも快心の作であったと語っています。

この飛行機には、枕頭鋲のほかにも数々の「日本初」が採用されていました。例えば、主脚は構造重量の増大や未舗装の飛行場での運用想定を勘案して引き込み式とはせずにできる限り小形とした固定脚とし、空気抵抗を抑えるため流線型の「スパッツ」で覆ってあります。

これらの技術を盛り込んだ結果、量産型の九六式艦上戦闘機では、海軍が課した高度3,200m、正規重量での正式飛行試験において、当時の固定脚機の水準をはるかに超える、最高速度450km/hもの速度を発揮するに至りました。

この結果、旧型の九五式艦上戦闘機と比較すると、その速度は50km/hも速くなり、平面での旋回性能に優れ、垂直面での宙返りでさえも軽々とこなし、高速で運動性の良いこの戦闘機は、日中戦争においてアメリカ機を主力としていた中国軍戦闘機を圧倒しました。

その初戦は、日華事変初期のころの1937年(昭和12年)9月4日に、空母加賀が上海方面へ派遣された際に搭載された、九六式一号艦戦による戦闘でした。加賀飛行分隊長の中島正海軍大尉指揮による、九六式艦戦2機がカーチスホーク3機を撃墜し、これが96式艦戦の初戦果となりました。

この戦いは艦上戦闘機が陸上戦闘機と同等以上の性能を有するといわれるようになった発端となり、その後もこの九六式艦戦は、日本軍の上海近郊への進出の足がかりをつくり、さらに南京方面の中国空軍を駆逐するようになりました。

ただ、この過程で、九六式艦戦の行動半径400kmという距離は、重慶他の中国奥地への長距離爆撃行に用いるには少々無理があることが明らかになり、この結果としてより航続距離の長い機体が求められるようになります。

この問題はその後、後継機の零式艦上戦闘機の開発によって実現し、更なる航続距離が獲得できるようになり、これがさらに後年、航空母艦から発艦して長距離を飛びハワイを奇襲するという、零戦を主体として実施された真珠湾攻撃にもつながっていくことになります。

九六式艦戦は、その後の活躍を同じく堀越二郎が設計したこの零戦に譲っていくことになりますが、太平洋戦争序盤の1942年(昭和17年)ころにはまだ、後継の零戦の配備が間に合わず、鳳翔・龍驤・祥鳳・瑞鳳・大鷹などの各空母に搭載されていました。

また内南洋や後方の基地航空隊に配備されていましたが、1942年末ころからは第一線から退き、以降は練習機として終戦まで運用されていました。

しかし、零戦が活躍するようになるまでは、海軍の主力戦闘機であり、多くの派生型も造られ、「九六式二号一型艦上戦闘機」と呼ばれた型では、プロペラを3翅としたものも造られました。

一番たくさん生産されたのは、「九六式四号艦戦」という機体であり、名古屋の三菱工場の他に佐世保工廠、九州飛行機などでも生産され、その総数は合計約 1,000機にもなりました。

大戦中の連合軍による九六式のコードネームは「クロード(Claude)」だったそうで、調べてみたのですが、これが何を意味するのかよくわかりません。ただ、大画家のモネは、本名Claude Monet といいますから、もしかしたらこの画家名を冠したのかもしれません。

モネは印象画家として有名な画家であり、美しい形状を持つ九六式艦上戦闘機を、その美しい作品になぞらえたのかもしれません。

現存する機体があるかどうかも調べてみたのですが、戦争の初期に使われたためか、現存物はないようで、残っているのは写真ばかりのようです。が、堀越二郎の設計した飛行機は、零銭のほか雷電などが、主にアメリカ各地の博物館で保存されているようです。

その堀越二郎の若かりしころを描いた宮崎駿監督の最後の作品、「風立ちぬ」をみた感想ですが、正直なところ、私としては以前の作品ほどの感銘は受けませんでした。

その前半部分にはファンタジーの要素が多く取り入れられ、その背景描写の美しさもあいまって、さすが宮崎駿!と思わせるものがあったのですが、後半になるとこれが、主人公と婚約者の悲恋物語に様変わりし、主役のはずであった「飛行機」がどこかへ「飛んで行ってしまった」感があるのが、私としては不満でした。

ラブストーリーとして完成させるなら、もっと別の造りこみをしてほしかったな、と思い、また従来の宮崎監督のファンタジー作品に見られたような、次にどんなことが起こるのだろう、というワクワク感も感じられなかったのが残念です。とくにその後半戦では、ワクワク感が次第に失望感へと変わっていきました。

無論、私の主観であり、この映画を推奨する人も多いでしょう。専門家の間では評価が高いといいます。が、私個人としての評価は低い部類に入る映画です。

とはいえ、設計技師、堀越二郎の若き日の姿を描いた作品としてはそれなりの魅力があり、国産の九試単座戦闘機や九六式艦上戦闘機の描写はもとより、ドイツやその他の国の飛行機、さらに夢の中の創造の乗り物の描き方も、さすが宮崎駿だと思わせるものがありました。

映画作品の完成度としての不満はあるものの、そうした「オタク少年」宮崎駿の最後の作品としては、記憶にとどめておくべきものである、とだけ付け加えておくことにしましょう。

ちなみに、作品中には世界的に著名な飛行機製作者として、イタリア人の「カプローニ」という人物が夢の中で堀越二郎と邂逅するシーンが出てきます。このカプローニが設計したという巨大な飛行機が映画の中で登場するのですが、これも宮崎監督の創作だと思っていたら、実在した飛行機があったことを知り、びっくりしました。

そのことについても今日書いて行こうかと思ったのですが、もうすでにかなり度を超しているのでまた今度の機会にしたいと思います。

皆さんは「風立ちぬ」ご覧になりましたか?

ダウンフォール作戦

9月になりました…… いや、なってしまいました。

8月中には諸問題を片づけて、9月からは仕事に邁進しようと考えていたのですが、あいかわらず暑いこともあり、思うようになかなか作業がはかどりません。

9月もまだまだ暑い日が続きそうですが、今週末ぐらいから徐々に空気は入れ替わってくるようで、その秋の風に期待したいところです。

さて、このたび新規一転ブログの装丁を変えました。……といっても大幅にコンテンツが変わったわけではなく、気分に応じて背景やヘッダー画像を自由に変えやすくできるタイプに変更しただけです。

ご覧いただいている方にはあまり大幅な変更をしたような印象を与えないようなるべく配慮したつもりですが、改めて見ると……やっぱ変わっていますよね。

ま、これまで通り毎日見て頂いていればそのうち、次第に慣れて頂けると信じ、とりあえずはこの装丁のまま続けさせてください。

ところで、このブログの外観を変える過程で、過去の記述のバックアップを取る必要があり、その際、一部の画像などが化けてしまうという不具合があったため、この際と思い、これまでのブログを手間暇かけてひとつひとつチェックしました。

そしてこれら過去のブログをみているなかで、昨年の富士山の初冠雪は9月の12日だったことに気がつきました。朝起きて、いつもと富士山の様子が違うな……と思っていたら、その日のうちに気象庁からも初冠雪を確認した旨の報道があったことなども思い出しました。

12日といえばもうあと10日ほどです。今年は暑いのでどうなのかなとは思うのですが、初冠雪の平均発生日は、14日なのだそうで、だとすればそれほど遠い先ではなさそうです。

ただ、富士山の初冠雪は、おととしの2011年は24日、また2年前は25日、さらに3年前の2009年には10月7日までずれ込んでおり、その他過去には10月になってからでないと見られなかった年も結構あるようです。

ま、初冠雪があったからといって、何を得するわけでもないのですが、やはり夏の終わりを感じさえる一番わかりやすい指標でもあります。夏の暑さが苦手な私としては、できるだけ早く夏が終わったと証明するものが欲しいと思う次第。

ならばいっそのこと、人工的に雪でも降らしてしまえばいいのに、とまでも思ったりするのですが、仮に可能だとしても一般の賛同や公の許可が下りないでしょうね。

もっとも、雪を降らせるのにも多大なお金がかかるでしょうから、本気でそんなことをしようと思う人はいないでしょう。降らせたところでそこでスキーができるわけではないし……

ところが、戦争ともなればこれぐらいの規模のことはもし成果があるのならばやってみようか、と考える輩が出てくるようで、太平洋戦争でも、この富士山に雪……ならず、なんとペンキをぶっかけようという計画があったそうです。

アメリカのCIA(アメリカ中央情報局)の前身であるOSS(戦略情報局)には「神経戦部」という部局があり、ここのスタッフが考えた作戦だそうで、彼らは戦争末期の時期において“何をしたら日本人がへコむのか”ということを本気で研究していたといいます。

その結果として、米軍は「武力抵抗は無駄だ」というようなことを書いたビラなどを飛行機で散布していますが、いまひとつパッとした効果が出ず、「このまま戦っても無駄だ」と日本国民の士気を落とすためにもっと効果的な方法はないか、ということで考えだされたのが、この「赤ペンキ作戦」だそうです。

その主旨としては、日本人はこの山を大変愛しており、その理由はやはりあの美しさからゆえであり、これをペンキで塗って汚したら、さぞかし士気が落ちるに違いない、というもので、なんだか子供の喧嘩でガキ大将にいつもいじめられているひ弱っこが考えそうな発想です。

誰しもが馬鹿げていると思うに違いありませんが、ところが、驚くなかれこの作戦は、基礎提案の段階で、おおむね了承を得たということで、さらに具体的な実施方法を検討するよう指示が出たといいます。

この結果に喜んだ神経戦部のスタッフが早速検討しましたが、その結果としては、この作戦の実行は現実的でないことがわかりました。

実際に富士山を真っ赤にするためにどれほどのペンキがいるのかを試算したところ、表面積から考えて、必要とされるペンキはおよそ12万トンも必要だということがわかり、これを一斗缶18リットルに換算すると、およそ670万缶が必要になるという計算になります。

さらに仮にこの量が用意できたとしても、それを運ぶにはB29が約3万機いることがわかり、このB29をマリアナ諸島から飛ばすとすれば、富士山まではおよそ2500キロ。このために必要燃料は現在のお金に換算すると1機200万円くらいになり、すなわち燃料代だけでも600億円の費用がかかる計算になるそうです。

無論、その結果として日本人の戦意が本当に落ちるかどうかもわからず、逆に「やったぁ、赤富士だ~」といって喜ぶかもしれず、ということで、結局このプランが実行に移されることはありませんでした。

しかし、実際にこれだけのペンキが放出されたなら、これを除去するには相当な年月がかかったことでしょう。とはいえ、冬の間にはこの赤く染まった富士にも雪が降って白くなるでしょうから、夏の間は赤富士が楽しめ、冬には白富士とひとつで倍おいしいということにもなり、富士山鑑賞の楽しみが増えていたかも。考えようによっては残念です。

……とばかなことを書いていると富士山信仰をいまだに持っている団体さんなどからお叱りがくるかもしれないので冗談はこれくらいにしておきましょう。

ところが、この赤ペンキ大作戦はさすがに見送られたものの、米軍としては実際に日本に上陸した場合、自軍の部隊にどういう展開をさせるかということを別途真剣に検討しており、この作戦全体は、「ダウンフォール作戦(Operation Downfall)」と呼ばれていました。

いわゆる「日本本土上陸作戦」の作戦名であり、実際には発動前に日本が降伏したために、この計画は中止されましたが、この降伏がなければこの作戦は実際に間違いなく実行に移されていたでしょう。

ダウンフォール (Downfall) とは英語で「失墜」「滅亡」などといった意味であり、太平洋やアジア各地で大敗を続けても頑なに抵抗を行い続けていた日本に対し、その本土での陸上作戦を行い戦争を終結させるために検討された作戦、という意味も持ちます。

その具体的な内容ですが、「オリンピック作戦」と「コロネル作戦」というふたつの作戦から構成されており、両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにすることなどに主眼が置かれていたそうです。

この作戦の序盤には広島と長崎への原爆投下が含まれていましたが、実際に実行に移された原爆投下に引き続き、日本本土に大規模な部隊を上陸させる予定だったといい、この舞台はその後、生物兵器、核兵器、放射能兵器などのいわゆる大量破壊兵器(NBC兵器)による無差別攻撃や、マスタードガス、サリン攻撃などの化学兵器を用いる予定だったといいます。

まるで今、シリアがやっているようなことをまさにこの当時の米軍は考えていたわけであり、このほかにも、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事までも考えていたそうです。

オリンピック作戦とコロネル作戦の違いは、オリンピック作戦は、日本の中枢である東京のある関東を占拠することを目的とする最終決戦であり、コロネット作戦のほうはこれを実現する前の前哨戦という位置づけでした。

つまり、オリンピック作戦では、まず九州南部への上陸し、九州全体を占領したあと、ここを足掛かりとして最終的には関東を占拠するオリンピック作戦が実施される予定でした。

このため、前哨戦であるコロネット作戦では、まず関東空襲を実施するための飛行場を九州に確保することが重視されました。

具体的なXデーまで決まっていたそうで、それは1945年11月1日だったそうです。九州へ投入される予定の海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻と400隻以上の駆逐艦が投入される予定であり、さらに陸上部隊は14個師団の参加が予定されていました。

これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入され、また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日ごろには高知県沖でもって、一師団8万人規模の陽動上陸行動を行うことも計画されていました。

この九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていたといい、さらに米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻してもほとんど死者を出さずにすむと信じ、この毒ガス戦を展開できるよう、マスコミと協力して世論づくりまでしていたという極秘資料が近年暴露されています。

この当時は既に、ジュネーブ協定で毒ガスの使用は国際的に禁止されていましたが、これより以前に日本軍が中国でサリンを用いたという事実を米軍は把握しており、これが米国側の罪悪感を軽減したともいわれています。

上陸予定地点は、宮崎、大隅半島、薩摩半島などで、動員される兵力は25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団だったそうで、この上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍は太平洋に散開していた艦隊のほぼ全部を投入する予定だったといいます。

もしこのものすごい勢力が九州に上陸していたら、このとき既にかなり疲弊していた日本はそう長いあいだ持ちこたえることはできず、おそらくは一週間も持たずしてここは占領されていたに違いありません。

その後、この九州を足場にして関東への上陸が実施される予定であったコロネット作戦についても、その「Yデー」までもが決まっており、これは1946年3月1日だったといいます。

コロネット作戦は、オリンピック作戦に続く最終決戦であったことから、その規模もさらに大幅にアップし、洋上予備も含めるとオリンピック作戦での18個師団を上回る25個師団の参加が予定されていたといいます。

こちらの上陸予定地点は湘南海岸であり、ここから相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東へ向けて東京都区部へ進行する予定でした。また、これと並行して九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけてにも侵攻をかけ、この両方から首都を挟撃することが予定されていました。

さらには、このYデーの3ヶ月前から、艦砲射撃と空襲によって関東地方に大規模な破壊活動を行なう予定だったといい、その攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機のほか、九州と同様に化学兵器の使用も含まれていました。

計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であり、これらの作戦によってだいたい10日くらいで東京を包囲を完成させる予定でした。

ところが、このアメリカの大規模な侵攻計画を実は日本側では事前にキャッチしていたといい、コロネット作戦における侵攻地が南九州と南四国であることも知り、その侵攻の時期・規模をほぼ正確に予想していたそうです。

そしてこれに対して、「決号作戦」と呼ばれる作戦を用意していましたが、これは大本営の提唱する「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入するという作戦でした。

まさに名前を変えた集団自殺であり、こうした狂気の発想を普通のことのように考えていた日本帝国陸海軍の指導者たちが、その後東京裁判で厳しく弾劾されたのはあたりまえといえばあたりまえです。

アメリカは、このダウンフォール作戦全体の連合軍側の損害予測としては、死傷者約27万人程度とみなしていたようですが、その後占領軍司令官として日本に赴任してくることになるマッカーサーはフィリピン戦などの経験に基づき、この死傷者約5万人程度と少なめに見積もっていたといいます。

が、実際にはどうだったでしょう。おそらく実施に移されていればこれだけの軍隊と大量破壊兵器よって、これを上回る大規模な被害が出ていたのではないでしょうか。

広島の原爆による被害は死者だけでも約24万、長崎は13万人といわれており、死傷者ということになるとその倍以上とも言われていますから、これと同等以上の被害が出ていたとしても不思議ではありません。

しかもサリンなどの化学兵器や生物兵器が使われたことによる後遺症にも悩まされたと思われ、戦後70年近くたってもなお、原爆の後遺症に苦しむ人達に加えて、日本はこうした障害者も抱え込むことになっていたかもしれません。

しかし、このダウンフォール作戦は、トルーマン大統領がポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、中止を命じたことで実際に実施されることはありませんでした。

大統領が中止を決断した最大の理由は、原爆の成功でした。この成功がアメリカよりもいち早く日本侵攻をしようと考えていたソ連をけん制することになり、満州まで接近していたソ連はついに日本上陸にまで至りませんでした。

アメリカにすれば、ソ連に対して、ワシの獲物だ手出しするな、と規制事実をつきつけたことになったわけです。

そしてその目論見どおり躊躇するソ連をみて、これで日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させることが可能になったと判断し、指揮者であったトルーマン大統領もまた、とりあえずこの原爆の成功によって今後日本がどのような行動をとるか、降伏するかどうかを様子見しようと考えたのです。

従って、もし広島と長崎への原爆投下が失敗していたら、まず間違いなくこのダウンフォール作戦は実施に移されていたと思われ、そのあかつきには、日本全土がサリンガスや生物兵器の行使によって汚染されるというおぞましい結果になっていたことでしょう。

原爆は確かにこれ以上の悲惨な結末を招きましたが、その投下の成功がダウンフォール作戦の実施の抑止力となったというのは皮肉な結果ではあります。

そしてそれから70年近くが過ぎ去りました。

そのアメリカが今は大量破壊兵器を持っているとされたイラクを攻撃し、またサリンなどの科学兵器を使ったとしてシリアを攻撃しようとしています。

時が経てば立場も変わるのさ、といいたげなアメリカ軍部の連中の声が聞こえてきそうですが、いつの世にも自分の都合の良い立場で軍事力を使いたいほうだい使ってきたこの国に、はたしていつまでも日本は寄り添っていていいのか、とついつい考えてしまいます。

国益のためにシリアを攻撃する、とまことしやかに述べているようですが、太平洋戦争後70年近く経つ中、ベトナム戦争やイラク戦争を経験してきた現在の一般アメリカ国民も、この国益とは何ぞやというところは、さすがに疑問視しているようです。

もうそろそろ他国へのおせっかいはやめて、独自の文化の熟成のほうに力を注ぐべき時代だと思います。日本もまたしかり。自分より大きな魚にくっついて暮らす小判ザメのような行為はやめにして、無駄な軍事費を削減すれば、消費税のアップもしなくて済むかもしれません。

皆さんはいかがお思いでしょうか。