黒潮と伊豆の関係

お盆の帰省ラッシュが始まったようです。

と同時に、伊豆半島内でも他県ナンバーが急速に増えてきました。今朝、ジョギング途中に、すぐ近くにある、かんぽの宿の前を通ったのですが、ここの駐車場に止まっている車のナンバーをみると、湘南や品川、茨城といった関東地方のものと、名古屋、岐阜といった中部地方のものが多いようです。

伊豆はそのどちらからも中間地点にあり、足を運びやすい手軽な観光地ということなのでしょう。無論、海水浴を目当てに来る方も多いことと思います。

そんな伊豆もさすがに一昨日から猛暑に覆われています。今日の予報をみると、静岡や浜松方面の最高気温が34~35度、同じく三島や沼津の都市部もこれくらいのようです。

これに対して下田などの伊豆南部の沿岸部では32~33度どまりのようで、この違いはやはり海が近く、海洋の水温の影響を受けるためでしょう。夏の間の天気予報をみると、いつ何時でも、静岡県内ではここ伊豆のほうが気温が低い傾向にあるようです。

ご存知のとおり、この伊豆南岸には、黒潮が流れています。赤道の北側を西向きに流れる北赤道海流に起源を持ち、これがフィリピン諸島の東で、北に向かった流れはその後、台湾と石垣島の間を抜け、東シナ海の陸棚斜面上を流れ、九州の南西で方向を東向きに転じトカラ海峡を通って日本南岸に流れ込んでいます。

さらに日本列島の南岸に沿って北上し流れ、房総半島沖からは日本を離れ、東の太平洋のほうへ向かっていきますが、これは途中でUターンして再度日本のほうへ帰ってきて、黒潮のさらに南側を西進する「黒潮再循環流」という流れになります。

この黒潮は、通常の年であれば、四国・本州南岸をほぼ海岸線に沿って並行に流れます。ところが、年によっては紀伊半島や遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れることがあり、この蛇行現象を「黒潮大蛇行」と呼びます。

1930年代ころからこの蛇行現象が知られるようになり、当時は異常現象と考えられましたが、その後の観測と研究によって、これは特別なものではなく、年によっては発生し得る黒潮のひとつのパターンであることが確認されました。

従って、大蛇行しない、通常の年のパターンを「非大蛇行流路」と呼び、一方、紀伊半島・遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れるパターンは「大蛇行流路」と呼ばれ、現時点では黒潮はこの2パターンのいずれかで流れていることが明らかになっています。

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しかし、この大蛇行はここ最近はそれほど頻繁には発生しておらず、1967年以降では5回発生しただけであり、最近では2004年7月~2005年8月に発生しています。昨年の2012年も「非大蛇行流路」の年であり、今年2013年も現時点までは大蛇行は発生していないようです。

また、黒潮がいったん大蛇行流路となると、多くの場合1年以上持続しますが、消滅は比較的短期間に起こるそうで、その発生については予測ができないといいます。

また、なぜこのふたつのパターンが発生するのかについてもまだはっきりしたことはわかっていませんが、流路を決定している要因はどうやら黒潮の流量らしいということだけは最近少しわかってきているそうです。

ところで、この黒潮大蛇行が発生すると、どんな問題があるのでしょうか。

それは、大蛇行が発生することによって、蛇行した黒潮と本州南岸の間に下層の冷たい水が湧き上がり、冷水塊が発生することです。この冷水塊の上昇が漁業へ与える影響は良しあしですが、いかんせんこの冷水塊の発生が漁場の位置に影響を与えることから、漁業関係者はその動向から目が離せなくなります。

黒潮の幅は、日本近海では100km程もあり、その最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)にもなります。また、600-700mの深さでも1~2ノットになることも珍しくないそうです。

時速7kmというと、人が歩く速度がだいたい3km/hくらい、また自転車が11km/hくらいですから、黒潮の流はだいたいこの中間くらいになります。

大した速さでないと思うかもしれませんが、考えてみればこの速度の潮流が幅100kmにもわたって流れるわけであり、黒潮全体で考えるとものすごいエネルギー量であることは、感覚的に誰にでももわかることでしょう。

従って、黒潮が大蛇行するときには、例年とは違ってこのものすごいエネルギーの量の向かう方向が変化することになり、漁業への影響だけでなく、気候変動にも大きな影響があるはずです。

ただ、その影響の度合いが日本本土の気象とどういう相関関係にあるのかについては、定説はなく、現在までのところまだはっきりとはわかっていないというのが現状のようです。

この黒潮が流れ続けるエネルギーがどこから生まれるのか、についてはかなり専門的になるので詳しくは述べませんが、その原因は、偏西風や貿易風といった風によって海水が吹き寄せられ、盛り上がることが原因です。

偏西風や貿易風が年間を通して定常的に吹くために、高水位状態は維持し続けられ、これによって北半球では時計回りの海水の流れが生まれます。この流れは「亜熱帯循環」と呼ばれており、黒潮は北太平洋の中緯度海域を時計回りに流れているこの亜熱帯循環の一部と考えられています。

その全体の正確な流量の見積もりは困難のようです。が、非常にラフな計算をすると一秒間に2000万~5,000万立方メートルの海水が運ばれる計算になるようです。東京ドーム一杯分がだいたい120万立法メートルだそうですから、その20倍から40倍の量の水が、しかも毎秒流れているのです。すごいことです。

この黒潮の表層(200m以浅)の海水温は夏季で30℃近く、冬季でも20℃近くになることがあるそうです。

従って典型的な「暖流」とされていますが、夏場の場合、黒潮の近くの海域の水温やその近辺の大気の気温は逆にこれ以上には上がらないわけであり、このため伊豆半島などでも、大気の温度がこれ以上になったとしても逆にこの黒潮によって冷やされ、あまり気温が上がらないというわけです。

逆に冬場は黒潮の水温のほうが、大気よりも暖かくなります。なので、伊豆が真冬であっても暖かいというのはそういうわけです。

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黒潮の化学的な特徴としては、まず高塩分であることがあげられ、夏季は34‰以下ですが、冬季には34.8‰に達します。溶存酸素量は5ml/l前後であり、栄養塩濃度はほかの海流、例えば千島列島から南下してくる親潮などに比べると1桁も少ないようです。

このため、貧栄養となりプランクトンの生息数も少なく、透明度は高くなりますが、これが黒潮の色を青黒く見せている理由であり、黒潮の名前の由来となっています。

さて、ところで日本人の祖先の一部は、南方からこの黒潮にのってやってきたという説が、その昔さかんに議論されたようです。

が、最近のDNA分析の技術を使った研究では、どうやらその可能性は低いといわれているようです。

最近の研究で有力視されている説としては、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民ではないかといわれており、2~3万年前、シベリアのバイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達したという説が有力なようです。

その一部はさらに南下し、北部九州に達したといい、この時代の日本人は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたこともわかっています。日本にもナウマンゾウがいたなんて信じがたいことですが、実際に化石も多数発見されています。

最初の発見は、明治時代初期に横須賀で発見されたもので、ドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854年-1927年)によって研究、報告されました。無論のこと、ナウマンゾウの語源となった人物です。

その後1921年(大正10年)には、浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見されているほか、後年の1976年(昭和51年)には、なんと東京で発見されています。

東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中に、地下約22メートルのところから3体のナウマンゾウの頭蓋や下顎骨の化石が発見されたといい、この出土地層は約1万5000年前のものだったそうです。その後もナウマンゾウの化石は、東京都内各所で見つかっており、田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など20箇所以上も発見されているそうです。

このほか、北海道でも化石が発見されていて、少なくとも35000年ほど前までは、マンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが生息していたことがわかっています。

この「日本人バイカル湖畔起源説」は定説になりつつあるようですが、これ以外の日本人の起源は南方ではないかとの説なども以前根強く、考古学者たちは長年その論争を繰り広げ続けているようです。

現在までもその論議は続いているようですが、それにお付き合いをしているほど、私も暇ではありません。

とはいえ、今のところの結論はなんなのよ、と気になるので調べてみたところ、平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会によって、「日本人の変遷に関する総合的研究」がなされており、その結果が、こうした国家レベルでの研究機関としては一応の結論とされているようです。

研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったそうですが、日本列島へのヒト渡来経路は現時点ではだいたい次のようになるようです(筆者改訳)。

1.アフリカで形成された人類集団の一部が、5~6万年前までには東南アジアに渡来。その一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった。

2.アジア大陸に進出した集団は、北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たした。

3.これによってこの集団は、現在の日本人の特徴ともいえる「北方アジア人的特徴」を得るところとなり、このうち日本列島に上陸した集団が「縄文時代人」の祖先となった。

なお、シベリアで寒冷地適応していた集団のうち、日本に上陸しなかった連中は東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布したそうです。従ってこれが中国人や韓国人のルーツになった、ということのようです。

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上説では、このシベリアで寒冷地に適応してからやってきた集団の前にも、2万年以上前にアフリカからやってきていた祖先がいたことになっています。ですが、これはおそらく集団としては発展せず、その後にやってきた「縄文時代人」に駆逐されるか、吸収・同化されていったということになるのでしょう。

その後アジアの東側の孤立したこの国で、独自の文明を切り開いていった民族は、やがて大和男(やまとおのこ)や大和撫子(やまとなでしこ)になり、前者は日本男性、後者は日本女性になっていきました。

武士道に代表される武芸に秀で、日本的道徳を蓄養し、教養・芸術、裁縫(和裁)、料理などのいずれをとっても世界的にトップともいわれる高度な技能を備える日本人は、その後2000年の時を経て完成されました。

……と、「完成された」、と書いてはみたものの、本当にこれが最終形か?と問われれば、無論そんなわけはありません。

これまでと同様に、これからも変容していくには違いありませんが、仮にこれまでの変化が「進化」であるとしても、同様の前進がこれからもあるとは限りません。退化していき、やがて滅亡の道を歩む、というシナリオも可能性としてあるわけです。

その性質的なものがどうなっていくかは別として、歴史的には日本人の「形質」は大きく変化してきているそうです。

よくいわれることですが、最近の日本人は足が長くなって身長が高くなり、欧米人に体型が非常に似てきました。しかし、一方、顎が縮小して面長になるなどの変化が著しいそうです。これは、食生活の変化により歯の縮小と永久歯の減少が進んだためといわれており、親知らずが生えない日本人が増えているといいます。

このことが顎の退化を促進させ、歯並びが悪い若者が増えているといい、国立博物館などが中心となって将来的な日本人のモンタージュを作ったところ、逆三角形のおキツネ様のような顔が標準という結果などが得られたようです。

歴史的にみても、江戸時代の徳川将軍家以下、諸大名家にも同じような傾向がみられていたそうで、これは柔らかい食べ物を好んで食べるようになったのが原因と考えられているといいます。

ま、私があと生きていたとしても、せいぜい30~40年でしょう。その間に劇的なほど日本人の容姿や性質が変わっているということはないとは思いますが、その間、これまでは考えもしなかったような天変地異があるやもしれず、また、財政の破たんによって日本という国すら存在しなくなっている可能性もないわけではありません。

進歩していってほしいとは思いつつ、その行く末を思うとつい暗い気分になってしまいます。

アメリカで有名な超能力者、3.11を予言したといわれるロン・バードという人が、三ヶ月以内に日本で何か大きな自然災害が起こる可能性がある、と最近警告を発したそうで、そういう話を聞くと、また更に不安になってしまいます。

何ごともなければよいのですが……

さて、今日はまだ10時過ぎだというのに、手元の温度計は既に32度を越しています。黒潮のおかげで涼しいはずの伊豆も、今日ばかりは猛暑日となるのでしょうか。

気温もあがって思考能力も低下しているので、いつもよりは少し早めですが、今日はもう終わりにしたいと思います。みなさんも、暑さ対策は万全に。体調に気を付けて週末とお盆をお過ごしください。

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お盆を前に思う

ブーゲンビリアA

今年も暑い夏が過ぎていきます。

といっても、ここ伊豆では、酷暑といわれた昨日でも最高33度どまりであり、大都市圏などに比べると3~4度も低いようです。また、我が家は山の上にあり、風も通るので、日中はなんとかクーラーなしでもすごすことができ、朝方には毛布が必要なほどです。

ところで、ほんの数年前までは、この時期になると、「帰省」がまず大イベントであり、いつどの時期にどういうルートで、山口に帰るか、という点を実際に移動が始まるまで気にかけていました。

が、昨年から伊豆へ引っ越してきたのを機会に、世間様と同じような集団行動はやめよう、と決めたので、帰省も別にこんなクソ暑いときにしなくても、ということで心配する必要がなくなりました。

帰りたいときに帰ればいいさ、というのは真面目な勤務先を持っていらっしゃる方には少々難しいことなのかもしれませんが、休暇の取り方ひとつにしても、別に他人様と同じ時期に休む必要はなく、ある程度時期をずらして休みをとれるくらいの融通は、今の時代はたいていどこの会社でもあるはずです。

それをあえてせずに、この時期に休みをとるというのは、やはりみんなが休むときだから休みやすい、ということなのでしょう。村社会が浸透してきた日本ならではの悲しい風習。けれども、狭い国土の中の共存社会としては不可欠な慣習でもあるのでしょう。

しかし、今まで固執していたものを、いったん放棄してみると、改めてその意味がわかったりする、というのはよくあることです。

卑近な例では、毎月惰性で買っていた雑誌の購読をやめてしまうと、いままで買い上げても読みもせず、部屋の隅にうずたかく積み重なっているその雑誌のその内容には、実はもうすでに興味がなくなっていたことがわかったりします。

だからといって、今や国民的大イベントであるこのお盆休みをやめてしまえ、などという乱暴なことを言うつもりはありません。この風習があるからこそ、この時期にふだん見ることのできない人に会うこともでき、めったに会えないその人達と過ごす一時期は、人生の上でも大変貴重なものだといえます。

それにしても、お盆という時期に、本当に亡くなった故人たちの霊も本当に地上に帰ってくるのでしょうか。素朴な疑問ですが、誰しもが思うことでしょう。

私個人の理解としては、これに対する答えはイエスでもあり、ノーでもあります。

先日もこのブログでも書いたように、そもそもお盆というのは、仏教という宗教の儀式のひとつとして伝えられたものが一般化したものであり、仏教の教えでは、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界で迷っている霊を、精霊迎えと称して各自の家に迎え、供養するという意味があるようです。

この時期に、わざわざお寺からお坊さんを呼んで、お経を上げて頂く家庭も多いでしょうし、また、いつもよりたくさんの果物やお菓子などお供えして、先祖のご冥福を祈る方も多いでしょう。

日本の古くからの伝統行事でもあり、日本人にとっては馴染みの深いものであるがゆえ、なかなかこれをやめようという気にもなれず、毎年のことですから惰性的に行われている向きもあると思います。

だからといって、前述の雑誌のようにやめてしまえば、やはりこれには意味がなかったと気付く、というような軽いものではなく、やめないで続けているのにはそれなりの理由があります。

それは、こうした時期だからこそ、お互いに声をかけあって改めてみんなが集まり、出そろって故人や先祖に対して感謝の意や弔いの意思を示すことができるということです。

普段は学校や仕事に追われ、ともすれば仏壇を拝んだり、お墓詣りに行く機会がないにもかかわらず、こうした特別な時期が設けられているからこそ、仏教に基づいたこのお盆という儀式を通じて、故人や先祖を思うという行為ができるわけです。

過去には必ずしも幸せではなかった霊魂にも救われてほしいと皆で願うことができ、そのことでその魂の救済も果たすことができるかもしれません。

そうした思いに亡くなった人達が答えてくれないわけはなく、あちらの世界にいて、普段は地上に近づく機会もなかった霊の中にも、現生の人達と久々にコンタクトを取りたいと考える魂も多いのではないでしょうか。

従って、お盆の時期になると、そうした現世の人々の思いに答えた故人や先祖たちの霊が帰ってくる、という考え方は基本的には正しい、ということになります。

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ただ勘違いしてはいけないのは、仏教という宗教では、人は死んだあとには「仏に成る」といいますが、最近亡くなった故人のすべてが、あの世で急に、菩薩や如来と言った高度な意識体に生まれ変わるという事は無いということです。

この世でかなりの修業を積み、現生でのお役目をはたしてあの世に帰っていった人達はそうした高度な霊魂になる可能性もあります。またこの世ではあまり修業の成果があがらずにあの世へ帰った霊も、あちらの世界でその後長い時間をかけて修業し、さらに高度な意識体になっているということはあるでしょう。

しかし、最近亡くなったばかりのフツーのじいちゃんばあちゃんが、すぐにこうした高度な霊魂になるかといえば、なかなかそういうことはなく、フツーの人は死んだあとも、その生前の意識と全く変わりが有りません。無論、いきなり特別な霊力を持つわけはありません。

肉体が無くなり幽体を表面の身体としただけで、その意識は生前のじいちゃんばあちゃんのままといえます(ただし、生前から霊性が高いと言われていた人はこの限りではありません。もっともこうした人達は、フツーの人ではないはずですが)。

従って、そうしたまだ霊魂としての修業が進んでいない霊は、現生の人が帰ってきてほしいと願えば、じゃぁ帰ろうかということになります。しかし、お盆だから帰るということではなく、帰ることにどういう意味があるか、をわかっている霊は帰らないかもしれません。

例えば、お盆だからといって、その近親者が、現世で抱えている悩み事を彼らに祈れば、過度に心配してしまう霊もいるかもしれません。

せっかくお盆に呼んでくれたからといって地上に帰ってきたのに、そうして思い悩む妻や夫、子供たちを目の当たりにして、あの世で本来住むべき世界に戻る事が出来なくなる、ということもあるかもしれません。

逆に、呼ばれたからといっても、現生の人たちのためにならない、と考える高度な考え方を持った霊たちは帰ってこないでしょう。そうした霊たちはお盆だからといって必要もないのに軽々と帰ってきたりはせず、あの世において、本当に必要なときに現世の人達に送るためのエネルギーを貯めているに違いありません。

従って、故人を偲び、尊ぶのは人として自然な気持ちですが、お盆だからといって過度な願い事を掛けたり、心配させるような事は避けるべきだと言えます。

お盆に返ってきてほしいと故人に祈る、という行為は、故人が霊魂として熟成した人であったかどうか、あるいは新米で未熟な存在であるかどうかを見極めてするべきであるとも思います。

また、帰ってきてほしい、その意味合いは何なのか、単に頼みごとをするためだけなのか、それともお盆の間だけでも、一緒に過ごして、その生前共に過ごした一時期を分かち合いましょうという気持ちからなのか、よく考えてみるべきなのではないでしょうか。

ただ、現生で生きる人達にはたいてい守護霊さんがいて、この霊達は既に多くの経験を積み、それについている人を救うことで自らが成長したいと考えています。従って、もし何かの悩み事や実現したいことがあれば、こうした霊の助けを乞う、というほうが道理にかなっています。

とはいえ、こうした霊たちは普段から我々の側にいるわけですから、お盆だからといって特別にお祈りをしなければならない、というわけでもありません。

なので、普段あまり感謝をしていないのであれば、お盆くらいはしっかりと感謝の意を述べたい、という気持ちを持てば、その心はしっかりと守護霊さんにも伝わるでしょう。

さて、日本では、お盆といえばまた、故人を成仏させるためと称して、菩提寺などからお坊さんに来ていただき、お経を上げてもらう人も多いと思います。

では、亡くなった故人はこのお経についてどう思っているでしょうか。

これも私の見解ですが、結論からいえば、生前お経の意味が分からなかった人は、死後もその意味は分からないと思います。

お経というものは本来、仏教においてお釈迦様の説かれた教えを「物語り」に仕立て上げたものであり、これを読むことが故人への功徳となり、「成仏」への道につながると信じられてきたものです。

しかし、昔からある古い言葉で書かれた「物語り」ですからその内容がどんなにすばらしいものであっても、その内容が分からなければ、亡くなった人にも意味がありません。

その昔には、このお経を読める日本人も多かったと思いますが、長い時間が経つうちにはこれを読める日本人はいなくなってしまい、現在ではこれが読めるのは古文の先生か歴史学者、もしくは古物商の目利きだけであり、これ以外の最たるものはお坊さんでしょう。

このお坊さんによって抑揚をつけて上げられる読経だけはそのほかの専門家でも真似ができず、また古文でもあるお経の中身を理解して我々にその意を伝えてくれる、という意味では非常に貴重な存在であるには違いありません。

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しかし、だからといって読経そのものに、呪文のような意味があるかといえばそうではなく、現生でこれを聞いて意味が分からなかった人たちが、その死後に霊魂になって、これに救われると信じられていること自体、ナンセンスだと思います。

ただし、長い間輪廻転生を繰り返した魂の中には、古代の言語を理解しているものも多いでしょうから、こうした霊は地上から聞こえてくるこうしたお経の中身を正しく理解しているかもしれません。

ともあれ、一番大切なのは、故人が生前何らかの形で、霊的に高貴な何かを求め、死後もそういった存在から高級な霊的エネルギーを受け取り、自らの幽体を健全化し成長させることができるかどうかです。

従って故人が生前このお経そのものに、そうした霊的エネルギーを感じていたのなら別ですが、とくによくわからん呪文程度に捉えていたとすれば、死んだのちにお坊さんを呼んでこれをその墓前や仏壇の前で一生懸命捧げるのは、あまり意味があることには思えません。

生前のその人生において、多くの苦しい時期を過ごし、その積み重ねの延長として、あの世へ入り、そこでさらに自分の幽体の霊的状態を高めようとしているのに、それを現世にいる我々が、お経などという遠隔操作で救おうというのは、なかなか容易な事ではないのです。

ましてやそのために、お坊さんという他人の手を借りる、というのはそのお坊さんにそれだけの功徳があれば効果があるかもしれませんが、あまり霊的に高いエネルギーを持っている人でないのであれば、お経をあげてもらうだけ無駄、とまではいいませんが、少なくとも故人の霊的状態を高めるという意味はないでしょう。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、私はお坊さんを呼んで読経をしていただくことがすべて無駄と申し上げているわけではありません。そうした儀式を通じて、故人や先祖を今もまだ思っていてくれているのだな、ということが霊たちに伝わるわけであり、その気持ち自体は通じるでしょう。ありがたい、と思ってくれるはずです。

ただし、それ必ずしもが仏教という宗教である必要はありません。キリスト教でもイスラム教でも構いません。ただ感謝の意を表したいならば、こうした宗教に頼らなくても他にもたくさん方法はあるはずです。

我々の魂は、現世だけのものではなく、何十年、何百年、いやもしかしたら何千年も前から死滅と再誕を繰り返し、その中で成長してきたものです。ただ、それでもまだこの世に生まれかわってきたのは、そうして鍛えられてきた幽体であっても、まだ完全なものではなく、そうした長い歴史の中で幽体に染み込んでしまった「穢れ」もあるはずです。

このケガレは簡単には消すことが出来ません。従って穢れすぎて、現生では悪事に手を染めてしまったり、自殺したりして、あの世に帰ったときにさらに苦むようになる先祖の霊もあります。

そうした霊魂にも救われて欲しい、と願う気持ちを伝えるのを、一年に一度お盆と決めたならばそれはそれでよしとしましょう。

そして、そうした魂を救うためには、その霊の子孫である我々自らの幽体が健全であり、すこやかに成長しているべきであり、その魂を磨くことに成功すれば、自分たちの死後、さらに高貴な霊魂とお近づきになることができ、それらの霊と合体することで、そうして穢れてしまった魂を救うことができるのです。

ただ、そうした救いの光も全く届かないあまりにも霊的に低い「地獄界」のような所に、落ちてしまった霊魂の救済は、なかなか困難といえるでしょう。

故人や先祖の中にそうした霊がいないこと祈りたいところですが、人によっては近親者や先祖の中にそうしたところへ行った霊を持っていることもあるかもしれません。

家族や子孫に立派なお葬式を上げて貰い、立派な戒名を付けて貰っても、生前ひどい人生を送ってしまった人が行く死後の世界は空しいものです。死んでしまってから「こんなはずでは無かった・・・」と、後悔してももう遅いだけでなく、その子孫たちもまたその世界に堕ちた霊たちを救うために長いあいだ苦しまなければならなくなります。

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従って、少なくとも自分自身はそうならないよう、努力して生きていくべきでしょう。やはり自分を救うには自分の努力しかなく、生前よりその魂をいかに磨くかに務め、自らの霊的進歩を目指す事が大切であり、そのことがあの世へ行ったあとでも、苦しんでいる霊たちを供養することにつながっていくのです。

こうした霊魂の存在、あるいは輪廻転生といったことを信じる信じないはご自由です。

が、こうしたことを信じないまま、亡くなった人達の霊魂がどうなるか、を例えた寓話をある人が書いたものがあります。多少手を加え、創作していますが、原文の意味は変わっていないはずです。ご一読ください。

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Aさんという霊魂がありました。あの世に来てからは、地上の時間ですでに数十年は経っている霊魂で、通常ならばもうとっくにこの世界に慣れていなければならない時期でした。

ところが、Aさんは霊魂になっても、生きていたころの時代の地上のことばかり気にしており、この新しい世界になかなか溶け込めず、いまだにこの霊魂の世界というものがよく分からない、霊魂としてはかなり未熟な初心者のような存在でした。

そんなAさんがやってきたのは、霊魂の世界ではどちらかというと下の方の世界でした。

霊の世界では、生前の努力やそれまでの生まれ変わりの修業の成果によって行く世界が決まっています。が、残念ながらAさんは、前世では自分の魂を成長させるようなことは特にはせず、漠然と日々を過ごしたまま、再びこの世界に戻ってきたのでした。

Aさんの生前の家は、お寺でした。しかし、Aさんには兄弟がおり、このお寺はお兄さんが継いでいたので、彼は普通のサラリーマンになりました。しかし、何しろお寺の坊さんの息子なので、小さいころからお寺の儀式には慣れ親しんでいました。が、お経などを聞いてもその意味はよくわかっていませんでした。

とはいえ、小さいころから大人になるまでお寺のしきたりには必ず従い、その教義を裏切るような行為は一度もしたことがありませんでした。なので、死んだあとも当然、上の方の世界に行くつもりだったようです。

ところが現実は、逆でした。実は、Aさん、お寺に生まれてその環境には慣れ親しんでいいたものの、日ごろから、霊魂なんていない、と公言しているような人だったのです。

それなのにAさんは、お寺の息子として生まれ、いつもその教義には忠実だったものですから、万に一つ、自分が死んだあとに死後の世界があったとしても、きっと極楽の方へ行けるに違いないと考えていたのでした。

ところが、現実は甘くありませんでした。サラリーマンとして過ごした一生は、淡々としたもので、他人を蹴落とすようなあくどいことこそはしませんでしたが、かといって自分を高め、その人生で努力するようなこともなく、ごくごく平凡に楽しくおかしく生きてきただけでした。

たまに実家のお寺に帰り、家族と共に先祖を供養することはありましたが、なにせ霊魂を信じていないので、その儀式が退屈でたまりません。お兄さんが読むお経の意味も、いくつになっても理解できず、また理解しようという気にもなりませんでした。

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そんなAさんですから、自分が死んだあとも、現生の人が極楽と呼べるような高い次元の世界へなど行けるはずはなかったのです。

Aさんが、ある年のこと、霊魂の世界を抜け出したのは、ちょうどお盆の頃でした。お盆になると、一部の霊魂は地上に帰って行きます。

上の方の世界では、許可の出た霊魂だけなのですが、下の方の世界の場合は、時々、地上に帰る方法を知っている霊魂がいるようで、そうした霊魂に帰る方法を聞いた一部の霊魂達は、許可も必要でないことから、勝手気まままに、地上に戻ることがありました。

Aさんが地上の家を見つけるのは、簡単でした。何しろ、この界隈でもかなり大きなお寺でしたから、地上へ降りてきてもどこにあるかがすぐわかったからです。

Aさんは、久々になつかしい実家に戻ると、ちょうどお盆で帰省してきていた家族に対してあることを必死に訴えました。それは、自分が生前信じていなかった死後の世界が、本当は存在するということでした。

ところが、家族は誰一人気付きません。しかも、そこにいる弟たちは、酒を飲みかわしながら、死後の世界なんかあるはずがないさと笑っているではありませんか。

「このままでは、みんな、自分の二の舞になってしまう」、そう考えたAさんは、とうとう決心しました。

弟や家族たちに、自分の霊魂の存在を気づかせようと、さまざまな細工を始めたのです。

ときには、仏壇に沿えてある花を大きく揺らしてみたり、また別のときには、蝋燭の炎を揺らしてみたりしました。

さらには、幽霊として出現しようとしたのですが、何分あの世での修業が足りないので、幽霊としての出現の仕方もよくわからず、何をやってみても、うまく行かず、結局自分の存在を家族たちに知らせるには何の効果もないのでした。

……そして、とうとうお盆は終わりました。

それでも、Aさんは家を離れませんでした。弟たちは仕事のある都会へ帰っていき、それからまたたくまに数か月が経ちました。

そのころから、この家には、なぜか、悪い事ばかり起こるようになりました。

どうやら、Aさんの自分の霊の存在をどうしても知らせたいという行為がことごとくうまく行かなかったため、結果として、その執着はネガティブなものとなっていったためのようです。

無念の思いが実家を覆うようになり、結果として、Aさんの思念はこの家に強く残るようになり、とうとうあの世に戻ることができなくなってしまいました。

このお寺に悪霊が出る、と近所の人達の間で噂されるようになったのは、それからしばらくしてからのことでした……

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広島城のこと

さるすべり

今日、8月6日は原爆記念日です。

先日の北条早雲の項を引き続き書こうかとも思ったのですが、原爆による死没者の追悼も兼ねて、今日は私が育った広島のことを少し書こうかと思います。

といっても、原爆のことについては、いまさらという気がしないではありません。その悲惨さを伝えることは大切ではありますが、その被害の全体像を書きだすことは到底困難でもあります。

私が卒業した広島県立広島国泰寺高等学校という学校は、別名「鯉城高校」ともいいます。

同様に、鯉城通り、鯉城会館、鯉城グループなど、広島市内中心部にある施設には「鯉城」を冠した名前のものが多く、「広島東洋カープ」CARPもこの鯉城の鯉をとってつけられたものです。

鯉城とは、いうまでもなく「広島城」のことをさします。かつて原爆が投下される前は広島のシンボルであり、戦後再建されたあとも原爆ドームとならんで広島の象徴とされています。

なので、今日はこの鯉城こと、広島城について少し書いて行こうと思います。

広島という町は、川の多い町です。市内に七つの川が南北に流れており、これらは上流に行くと一つの川に集約されます。太田川という川で、古い時代の広島の町は、この太田川が形成した砂州の上に造られました。

この砂州と海岸線が複雑に入り混じるような土地柄であり、この広島城があった一帯は昔「己斐浦」と呼ばれた汽水域でした。現在も広島市の西区に「己斐」という名前の土地が残っていますが、この地名はその昔は「鯉」と呼ばれていたと言われています。

一説には広島城が築城されたとき、その堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いために鯉からとったともいわれています。鯉といえば錦鯉ばかりだと思っている人も多いでしょうが、天然に生息する鯉は真っ黒というか、グレー色をしています。

この土地には、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していただけでした。鎌倉時代に後鳥羽上皇が幕府打倒を叫び旗揚げをした「承久の乱」という戦いがありましたが、このとき、幕府側について戦い、大いに戦功をあげた武家のひとつに武田氏がありました。

この戦いは幕府側の勝利に終わり、武田氏は幕府からその功によって安芸国守護に命じられ、その治世は室町時代まで続きました。

が、その後の戦国の世になると、防長から勃興してきた毛利家に脅かされるようになり、その毛利家の祖である毛利元就が武田氏を滅ぼし、また厳島の戦いでも陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地から防長一帯にかけては毛利氏によって支配されることになりました。

この広島城を築城したのは、元就の孫の毛利輝元です。天文22年(1553年、元就の嫡男、隆元の長子として安芸国に生まれ、元亀2年(1571年)、祖父・元就が死去すると、毛利両川体制を敷き、これによって地方に散らばった重臣たちの補佐を受け、親政を続けました。

毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、毛利家を中心として戦国時代の中国地方を統治するために確立された軍事体制です。この組織は、周防岩国を統治する吉川氏には元就の次男の元春を送り込み、また広島以東の領地を司る小早川氏へは、3男の隆景を養子として送り込むことによって成立しました。

毛利家の血筋の者を吉川、小早川両家に潜り込ませ、これによって徐々にそれぞれの土地の正統な血統を絶やし、かつそれぞれの勢力を毛利側へ寝返させるというもので、時間はかかりましたが、毛利家はこの作戦に成功し、その後長きにわたり、現在の中国地方と呼ばれる地域の制覇を果たすことになりました。

元就の孫の輝元による広島城の築城は、いわばこの両川体制の集大成ともいうべきものでありました。それまでの毛利氏の居城は、吉田郡山城といい、この城があった場所は現在の広島市の北東部にあり、現在は安芸高田市吉田町という町になっています。

この城は、尼子氏の大軍を撃退したこともある堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していました。

しかし、両川体制が確立し、中国地方における毛利家の天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備する必要性が生じてきました。

このころから、全国的にも領国の政務・商業の中心地として平地にある利便の良い土地を発展させる「近世城郭」建築の時代に突入しており、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとっても、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭で不便なものとなり始めていたのです。

一の坂川の夏

そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かすことができ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めました。

1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて、叔父の小早川隆景や従弟の吉川広家(元治の息子)らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ、秀吉が作った壮大な近世城郭を目の当たりにし、その重要性を痛感します。

新しい城を造ることを決意したのはこのときのことがきっかけと言われています。1589年(天正17年)、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、現在の広島市内を見下ろすことのできる高台3箇所に登り、太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」であり、この当時「五箇村」と呼ばれていた場所に築城をすることを決めました。

この五箇村こそが、現在の広島城の建っている場所になります。

この視察の同年には、鍬入れ式を行い、築城が開始されました。城の構造は大坂城を参考として、縄張(設計)は聚楽第に範を取ったといわれており、その縄張は、秀吉の側近で築城の名手であった黒田如水が担当しました。

この当時、豊臣家と毛利家は、まだ一触即発というような敵対関係にはありませんでしたが、戦国時代のことです、いつなんどき毛利家の攻勢により豊臣家の安泰が脅かされるかもしれません。なのに、なぜ、秀吉が側近の黒田如水に築城技術のサポートをさせたか、という点については、色々歴史家の間でも取沙汰されているようです。

この広島城の築城にあたっては、市内でも数少ない高所である、比治山という山の上に築城するという案と、全く平らな低湿地帯に築城する案との二つがありましたが、如水は結局のところ、この湿地帯案のほう、つまり五箇村への築城を推薦したといいます。

如水は輝元の叔父である小早川隆景の友人であったといい、その如水が行ったアドバイスであるから間違いない、と家臣たちが考える一方で、輝元は要害が悪くて、水攻めにされたらひとたまりもない、と考えていました。

しかし、叔父の隆景は「要害の悪い城だからこそ安全。もし、毛利の城の要害が良かったら、謀反の恐れあり、と秀吉に警戒される」と、輝元を逆に諌めたという話が残っており、このことから秀吉は毛利氏を弱体化させるため、わざと側近の如水を派遣したのではないかとも言われています。

これが本当かどうかはわかりませんが、こうして広島城は浅瀬に築城されることになったため、結果的には島普請(川の中州の埋め立てと堀の浚渫などの工事)などには相当な出費を強いられることになり、毛利家の財政を大幅に圧迫することになりました。

楠木と五重塔

しかし、鍬入れから4年後の1593年(文禄2年)石垣が完成。1599年(慶長4年)には全工事が完了し落成し、ここに中国一の巨城が誕生しました。

「広島」という名はこのときに付けられたと言われています。広島築城事業は、当時120万石の「西国の雄」毛利家が、本拠地をそれまでの吉田郡山城から移して新たに築こうという大事業であり、城の名称には家運長久の願いが込められていました。

毛利氏は代々、源頼朝の側近で、鎌倉幕府創設に貢献した「大江広元」の末裔であることを誇りとしており、本姓もこの大江氏でした。このため、毛利氏では最も頻繁に用いられる「元」は大江広元の名前からとったものであり、またもう一つの「広」も諱(いみな)として頻繁に使用する字の一つでした。

また、「広」には、「広大」「末広」の縁起の良い意味もあり、このことから地名の命名にあたっては「広」の字を冠することとし、「島」については城普請案内を務め、この界隈の地勢に詳しかった普請奉行の福島元長の名字からとり、こうして「広島」の名が誕生しました。

完成したこの広島城は、堀を三重に巡らし、馬出(まいだし、城の戦闘用出入口の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの)も多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれます。

こうして苦労して毛利家が作った広島城ですが、そのわずか一年後にはこの城を明け渡すという皮肉な結果となりました。

関ヶ原の戦いが生じ、この戦いで毛利家は、輝元が西軍総大将となり、家康率いる東軍と対峙しましたが、西軍は破れてしまいました。しかし、毛利家はこの戦いでは不戦を貫いたために、なんとかお家のお取り潰しだけは免れました。

ただ、西軍への加担を家康から責められ、大幅に減封され、広島を追い出されて防長二州に押し込まれてしまったのです。

こうして広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)から広島城の城主となったのが福島正則です。福島正則は、その後広島城を大幅に改築しており、このため、この毛利輝元が最初に完成させた広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明なようです。

福島正則は、賤ヶ岳の七本槍で知られる猛将で、豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉が死してからは、石田三成とは仲が悪く、関ヶ原の戦いでも家康の東軍について勝利しました。

これによって、毛利家に代わり、戦後安芸広島と備後鞆49万8,200石の領国を得ることとなり、江戸時代に入って発足した幕藩体制により、「広島藩」の初代藩主に封ぜられました。

こうして広島藩の藩主になった福島正則は、「穴太衆(あのうしゅう)」とよばれる、近江の比叡山山麓を本拠とし、石工技術としては高い評価を得ていた技術集団を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりを本格的に行い始めました。

このとき、外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城の外郭が作られ、現在のような姿になったのはこの頃のことです。

また、城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えることなどにより、町人町が拡大し、広島は中国地方一の大都市となっていきました。

ところが、この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせるところとなり、福島正則は、1609年(慶長14年)、突如謹慎を言い渡されます。そしてその10年後の1619年(元和5年)には、広島城とその城下の改築が、武家諸法度を破った無届け改築と認定されたため、改易され信濃国川中島へ転封されてしまいました。

従って、福島正則が広島城の城主であったのはわずか10年にも満たない短い時間であり、その前の城主であった毛利輝元よりも長かったとはいえ、広島とは非常に短いご縁だったといえます。

こうして、福島正則に代わって、広島城の主になったのが、浅野長晟(ながあきら)であり、1619年(元和5年)以降、この城は浅野家の居城となり、この体制は明治時代に至るまで12代約250年間続きました。

広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いていました。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得たことから、浅野家は「芸侯の商売上手」と評され、その後、江戸期の全般に渡って大きく繁栄しました。

青と黒

しかし、明治維新により、1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が発布され、浅野氏による藩政体制は終りを告げ、広島県が発足しました。他藩の城の中には廃棄処分の憂き目を見るものも多数ありましたが、広島城は残され、その本丸には広島県庁舎が設置されました。

こののち、西南戦争が勃発したことなどにより、広島城本丸にも鎮西鎮台が置かれ、県庁舎はこのとき三の丸に移転しています。

1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、それまであった鎮台は熊本に移動して、熊本鎮台となりました。こうして、以後、広島城の城郭内には、大日本帝国陸軍の近代的な施設が建てられるようになっていきます。

1873年(明治6年)3月、三の丸に兵営が置かれると、県庁舎は国泰寺へ移転し、広島城は完全に軍の施設となりました。この間、江戸時代から維持されていた建物の多くが解体され、また火事によって失われており、特に1874年(明治7年)には本丸および二の丸で火災が発生し、本丸御殿(天守ではない)が全焼しました。

現在のこの広島城のある場所は、「基町」という名称に代わっていますが、これは1887年(明治20年)からのことで、広島に軍の基地が開設されたことから、旧城廓内であるこの土地に正式に「基町」の名前が与えられためです。

1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編され、その後の日清、日露と続く戦争に備え、本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市はさらに軍都として近代都市への道を歩んでいきました。

その後、基町全域は軍用地となり、1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内には広島大本営も設置されました。同年9月には明治天皇が行幸され、翌1895年(明治28年)4月まで滞在されたため、これに伴い第7回帝国議会も広島で召集されました。

東京にあった大本営が移設されたため、この期間は短いながらも、広島が「臨時首都」として機能した一時期でもありました。

1897年(明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置されるなど、軍属がどんどんと増えていき、とくに日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していくことになります。

これに伴って広島城の堀の悪臭が目立つようになってきたため、明治40年代になると、外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1915年(大正4年)ころまでにはこれらの埋立が完了しました。

この埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて、現在も存続する相生通りや鯉城通りといった道路が建設され、広島電気軌道(広島電鉄本線・広島電鉄宇品線・広島電鉄白島線)なども整備されました。

旧外堀一帯は繁華街となり、こうした中、ここから見上げることのできる、広島城の価値が見直されるようになり、1926年(大正15年)、その城郭内地の旧大本営跡地が史跡指定されます。さらには、1928年(昭和3年)、それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが天守の一般開放が開始されるようになりました。

そして、あまり知られていないことですが、1931年(昭和6年)1月、広島城天守は、ついに国宝保存法に基づく、国宝にまで指定されました。

戦前に国宝に指定されていたのは、この広島城のほかに、名古屋城、岡山城、和歌山城だけでした。これらもまた、空襲によって破壊・消失してしまいましたが、現在も生き残り、国宝に指定されている、松本城、姫路城、犬山城、彦根城とともに、8つもの城がこれまで国宝に指定されており、広島城もその栄誉を得ていたことになります。

その美しい城が、原爆によって失われてしまったことは返す返すも残念で仕方がないのですが、幸い、広島城はコンクリート造りながらも再建され、その往時の姿が復元されています。

その発端となったのは、1951年(昭和26年)に催された広島国体であり、この開催に伴い、広島の復興をアピールするために、木造の仮設天守閣が作られたことです。

この仮設の城は、国体終了後すぐに解体されましたが、これが天守再建の機運へとつながり、1953年(昭和28年)に、城跡が国の史跡に指定されると天守再建への期待が高まりました。

そして、戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定します。1957年(昭和32年)着工、翌1958年3月26日に竣工。同年6月から広島城郷土館としてオープンし、現在に至っています。

ただ、「元地元民」の私としては、願わくばこの城は、木造で復元して欲しかったなと思います。無論莫大な費用がかかることは承知なのですが、現在大改修が行われている姫路城のように、近代技術を駆使すれば原爆による崩壊前の木造りの美しい姿が再現できたのでは……とついつい思ってしまうのです。

とはいえ、建てられてしまったものは仕方がありません。現在のもので我慢するしかしょうがないでしょうが、遠い将来でもいいですから木造の本格的なものを建造してほしいものです。

緑陰の噴水

その美しい国宝の城を破壊した原爆の威力はすさまじいものだったようです。石垣の完成から6年もの歳月をかけて建てられた天守閣を初めとする建物群は、ほんの一瞬で倒壊したといいます。

太平洋戦争末期の広島では、本土決戦に備え、1945年(昭和20年)6月には広島師管区司令部が中国軍管区司令部に改編され、広島場内の本丸にその司令部が置かれ、本丸の南端には、内堀の石垣に沿ってシェルター化された防空作戦室が建設されていたそうです。

このころには、まだ国宝に指定された天守をはじめ、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が数多く残っていましたが、これらの施設には軍の重要書類がびっしりと、押し込まれていたといいます。

この当時の広島にも既にいくつか高いビルは建設されていましたが、まだこの当時は天守を市内のどこからでも見ることができたといいます。

城内は、軍施設に位置付けられていたため、一般人の立ち入りは許可されていませんでしたが、司令部では学徒動員で比治山高等女学校(現比治山女子高校)の生徒が働き、臨時ニュースを放送するときのためにNHK広島放送局アナウンサーも待機していたそうです。

そして、運命の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍により、原子爆弾が投下。

広島城周辺は、軍事施設が集中していたことから、広島城天守はランドマークとしてその破壊目標となっていたといいますが、実際の爆心地は、ここから南に約900mほどのところでした。

とはいえ、ほぼ直近で原爆は爆発し、これにより、天守は爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊。まもなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱しました。

……と書けば、スローモーションのように倒壊していったように思えますが、実際には天守は爆風により一瞬にして自壊したようで、その後崩れ落ちた建材からも火災が発生しました。しかし、これらの建材すべてが完全に消失したわけではなかったようで、倒壊後はしばらくそのまま放置されていたそうです。

残った建材のその後に関しては明らかになっていないようですが、生活に困窮した市民が使用したという証言があるほか、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換したという本当かウソかわからないような話もあるようです。

このとき、天守以外の建物も完全に破壊されましたが、その周辺に植えられていた樹木も多くは根こそぎ引きぬかれ、あるいは真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数にのぼりました。

城内に勤務していた兵士たちの多くは、原爆が投下されたのが早朝であったことから、食事中あるいは朝礼の真っ最中の出来事だったようであり、彼らは爆風によって軽々と吹き飛ばされ、あるものは即死、またあるものは倒壊した建物により圧死しました。

原爆が投下されたのが城の南側だったことから、生き残ったものはほぼ全員が北へ向かって逃げたそうですが、無論、生き残った者は数少なかったようです。当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたそうですが、そのほとんどが亡くなり、軍部隊としては壊滅状態となりました。

このとき、唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が、内堀の石垣に沿いシェルターとして建てられた防空作戦室であり、ここで生き残った兵士からから被爆の第一報が東京他へ通信されています。

火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられましたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かったそうです。

翌8月7日には、松村秀逸中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントが設けられ、軍の再建を図ることになりましたが、その後8月15日の終戦をもって解散となりました。

こうして、かつての木造の広島城はなくなり、堀やその他の遺構もほとんど失われてしまいましたが、広島市内には、かつての城が由来の地名が今もたくさん残っています。

市内で一番の繁華街である「八丁堀」はかつてあった堀の名残であり、このほかにも「薬研堀」などの地名があり、八丁堀にあるバス停には「京口門」の名前が残されています。

また、城の鬼門にあたる北東部、広島駅のすぐ裏には「二葉山」という山がありますが、ここには、浅野藩の統治時に、藩主の加護により多くの神社仏閣が建てられて残っており、それらの中には、明星院(輝元の生母妙寿院の位牌所)や、広島東照宮や饒津神社、尾長天満宮・国前寺といったものがあります。

また、市の西部には、世界遺産の厳島神社がありますが、この神前の海上にある大鳥居には、それぞれの主柱下に45~60cmの松杭が約100本打ち込まれています。

実は、この工法は、広島城の築城にも使われた技術だそうで、広島城の築城当時も低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込み、その上に基礎を築いた工法が採用されていたそうです。

木造建築物としての広島城は失われてしまいましたが、その技術の一環が世界遺産として宮島に残され、そのシンボルである木造大鳥居が現在も健在であることは、唯一の救いです。

さて、今日は、予定を変えて原爆記念特集ということで広島城について書いてきました。

再建され、1958年(昭和33年)に「広島城郷土館」としてオープンした広島城天守閣はは、1989年(平成元年)に改装され、展示物の入れ替えも行われて、現在は、博物館「広島城」として開館しています。

内部は、5層のうち1階から3階は常設展示、4階は企画展示となっており、常設展示では、広島城の成立と役割などの歴史的な展示のほか、城下町としての広島の現在の状況も詳しく閲覧できるようなっています。また、甲冑・刀剣等も展示され、ときおり、歴史と広島城に関する企画展示も実施されています。

5階(最上階)は展望室となっていて、ここからは復興した広島の街並みを見ることができます。ベースが砂州であり、大きな建築物は無理といわれた広島にも最近は結構高層ビルが立ち並ぶようになりましたが、それでも、ほかの政令指定都市のように、大きくその視界を遮るものは少ないでしょう。

ここから見る広島は今や美しい地方都市に変身しています。もし、広島に立ち寄ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。最近行っていないのでよく覚えていませんが、天気がよければ南の方には瀬戸内海の島の一部も見通せたかと思います。

ちなみに、入場料は一般360円、小・中・高校生180円だそうです。夏休みの宿題テーマをみつけるにはぴったりではないでしょうか。

木立

早雲の夢

8月になってからというもの、ここ伊豆では各地で花火大会が続いています。

我が家が山の上にあり、地形的にも下の町からの音が聞こえやすいためか、夜になると麓の各地からは連日のように花火が上がる音が聞こえてきます。

1日は我々も参加した大仁の花火大会だったのですが、その翌日の2日には修善寺駅前の花火大会、昨日は韮山の狩野川まつりの花火大会、そして今晩は長岡温泉の戦国花火大会と続きます。

これらの花火が行われる会場はそれぞれ十数キロしか離れておらず、この至近距離で連日花火大会があるというのは、東京などではなかなか考えにくいことです。名だたる観光地が軒を連ねる伊豆ならではのことでしょう。

詳しく調べてはいませんが、おそらく伊豆の東西の海岸にある町々でも連日花火が上がっているに違いありません。

この伊豆長岡の「戦国」花火大会、というのがどういうものなのかは、よくわかりませんが、戦国をテーマにした花火大会、ということなので、通常ありがちな花火大会とは一線を画し、おそらくは乱れ打ち、といった趣向の激しい花火が上がるのではないでしょうか。

ちょっと興味はそそられるのですが、先日大仁の花火大会に行ったばかりなので、今日はやめておこうと思います。が、もしかしたらこの別荘地の北の端っこへ行けば見えるかもしれないので、今晩ちょっと遠見をしてみようかと考えています。

ところで、戦国時代の伊豆といえば、1493年(明応2年)に北条早雲の「伊豆討入り」があり、これ以降、韮山城を本拠として早雲が伊豆全体を統治するようになっていったようです。

北条早雲といえば、戦国大名となった後北条氏の祖であり、その生涯は関東諸国の成立に大きな影響を与え、また伊豆とは切っても切り離せない人物ですが、このブログではかつてはほとんど書いてきませんでした。

その理由はとくにないのですが、その出自から北条氏の滅亡までを書き始めると、膨大な量になりそうなため、ブログで書き連ねていくのは結構しんどいかな、と少々尻込みしていたのが理由と言えば理由です。

が、せっかくですから、気の向くまま、まずはその出自あたりから書きだしてみようかと思います。気が向けば少し詳しいことも書いていくかもしれません。

その出自の謎

まず、この北条早雲という名前ですが、実際には彼が存命中にこの名が使われたことは一度もないそうです。

最初は、伊勢盛時(もりとき)と称しており、通称は新九郎(しんくろう)でした。ただし、号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)であったことから、のちに盛時の嫡男の氏綱が北条姓を名乗るようになったために、死してのちに北条早雲と呼ばれるようになったようです。

また、実は生まれも年齢も不詳だそうです。生まれた年も、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたようですが、最近の研究では康正2年(1456年)説が有力視されつつあるとのこと。

1456年というと、8代将軍足利義政の継嗣争いに端を発して全国的な内乱となった応仁の乱が発生した1467年に遡ること10年ほど前のことであり、室町時代の末期にも近く、戦国時代の象徴ともいえるような下剋上の風潮がそろそろ発生しかけていたころのことになります。

その生まれた場所もはっきりしたことはわかっていないようです。

ただし、早雲の父は「伊勢盛定」という人で、室町幕府の政所執事であった伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいたことが最近の研究でわかってきました。

このため、その生まれた場所も盛定の所領であった、備中荏原荘、すなわち現在の岡山県井原市ではなかったかと考えられており、少なくとも若い頃はここに居住していたようです。

また、早雲はこの伊勢盛定と、京都の伊勢氏当主で政所執事の「伊勢貞国」の娘との間に生まれたこともわかっています。

従って、早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説がこれまでもまことしやかに吹聴され、彼を扱った多くの史書や小説にもそう書かれていて、通説とされてきましたが、決して身分の低い素浪人ではなかったようです。

現在の井原市の神代町というところにある高越(たかこし)城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。

この城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれており、東方面には山陽道を見下ろせ、毛利氏の軍港があった、瀬戸内の笠岡から北上する人馬の行き来を俯瞰することのできる位置関係にあります。

備中における山陽道の要害地であり、山陽道を東上する軍勢だけでなく瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸したのちの毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地を果たしたといいます。

無論、このころはまだ毛利氏などは台頭しておらず、この城も備中伊勢氏の傘下にあり、のちにこの備中からは、後北条氏の家臣である、大道寺氏、内藤氏、笠原氏などが出ています。

従って、関東・伊豆の覇者、早雲と後北条氏を語るとき、この備中との関係は切っても切り離せないものといえます。

この早雲の父の伊勢盛定は、この当時、荏原荘の半分を領する領主であり、早雲もこの備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力です。「北条早雲生誕の地」の碑が立つ、高越城で生まれたというのもおそらくは間違いないでしょう。

このように地方の有力な豪族の子として生まれた早雲が、その後素浪人になどなるわけはありません。多くの早雲の伝記を書いた小説には、一文無しから身を起こして、下剋上の世をのし上がっていった若き日の早雲が描かれていますが、これは間違いということになります。

私が敬愛する、司馬遼太郎さんも、その著書である「箱根の坂」では、早雲を武士ながらも、備中の身分低い者とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定にしています。

しかし、司馬さんの時代にはまだこれほど早雲の研究は進んでいいなかったためでしょう。上述のようなことは、ごく最近発見された新資料等によって次第に明らかになってきたことのようです。

応仁の乱

さて、早雲が、康正2年(1456年)に生まれたとすれば、「応仁の乱」が起こった応仁元年(1467年)は、彼が11歳のころのことのはずです。

応仁の乱というのは、室町幕府の9代将軍を8代将軍義政の弟(義視(よしみ))にするか、義政の子供(義尚)にするかという、跡継ぎ争いに端を発する内乱です。

足利将軍家8代目、足利義政(在1449年~1473年)には子がなかったため、出家していた弟をわざわざ還俗させて後継者としました(足利義視)が、わずか一年後には夫人(日野富子)が男子を出産(足利義尚)したことで、おきまりの後継者争いが勃発しました。

義視の後見にはかつて管領を務めた実力者の細川勝元がおり、これに対抗するために日野富子は実力者の山名宗全に義尚の後援を依頼します。

一方、この当時幕府の管領家を交代で務めていた斯波家と畠山家の両家でも、やはり相続争いが生じていました。争いの当事者はそれぞれに山名宗全か細川勝元につき、ここに二大勢力が争う基盤が整っていくことになります。

それぞれの勢力は各地の大名・小名を自陣営に引き込み、地方勢力側も自分の利益を守るためにこれに応じ、いわゆる東国の守護大名を中心とする「東軍」と西国中心の「西軍」に分かれます。

1467年1月、ついに対立は発火点に達し、両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。その兵力は東軍が16万、西軍が11万以上であったといい、無論、歴史的にみても最大級の合戦です。

幕府はこの争いを調停できないまま傍観。両陣営の大兵力は京の東西に布陣し、やがて前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月には本格的な合戦が始まりました。が、結局この初戦だけでは勝負がつかず、これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥ります。

長引く戦乱と、これに乗じた盗賊の出没によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。先日取り上げた芥川龍之介が描いた小説、「羅生門」はこの応仁の乱で荒廃した京都の町が舞台になっています。

この戦乱は、さらに上洛していた守護大名の領国にまで拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていきます。

かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府での権力も、幕府そのものの権威が著しく失墜したため、もはやこの戦いに勝っても誰も得るものは何もないという状態になっていきました。

やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになりましたが、結局この戦いが終了するのは、両者の間で和睦が成立した、10年後の文明9年(1477年)のことでした。

誕生と若かりしころ

この応仁の乱では、駿河国の守護であった今川義忠は、上洛して東軍に加わりました。実はこの今川家と伊勢家は昔から親交があり、義忠はしばしば備中伊勢家のリーダーである伊勢貞親を訪れており、その仲介役だったのが早雲の父盛定だったといわれています。

早雲には、北川殿という姉がいましたが、こうした両家の縁により、北川殿は、今川義忠と結婚します。無論、備中伊勢氏と今川氏と家格的に遜色なく、北川殿も側室ではなく、正室として今川家に入ったと考えられています。

そして、文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸を生みましたが、これが後の今川氏親であり、あの織田信長に、桶狭間の戦いで破れて死んだ、今川義元のお父さんになります。

このように、伊勢家は室町幕府の中枢部に近い人々で構成された家であり、同じく幕府内に権力を持っていた今川家とも縁を結んでその権力を高めたことから、早雲もその若いころには、将軍義政の弟の義視に仕えるようになります。

幼いころ新九郎と名乗り、元服してからは盛時と名乗るようになった早雲は、文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されています。申次衆というのは、将士が将軍に拝謁するために参上したとき、その姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぐ役目であり、現在でいえば大会社の受付役といったところでしょうか。

関連する雑務も処理するという、いわば走り使いに過ぎませんが、それでも受付を任されるというのは、筋目の正しい家柄の者だけだったでしょう。その後の出世の登竜門でもあったはずです。

早雲が1456年生まれだとすると、このとき、27歳になっていたはずです(以後、うっとうしいので、1456年生まれで通します)。

「伊勢新九郎盛時」の名は、これより少し前の文明13年(1481年)から文書に現れてきていますが、それまでの10代や20代前半にはどんな少年、青年だったかを物語るような史料はこれまでのところ見つかっていないようです。

が、お父さんが幕府の重職を務めていたこともあり、当然その跡継ぎとしての教養や武術のたしなみは人並み以上に教育されていたことでしょう。とまれ、こうして京都で将軍のすぐ近くで勤めるようになり、後年、長享元年(1487年)、31歳なったときにはさらに奉公衆の役を任じられています。

奉公衆のほうは、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍する御家人、という役柄です。これとは別に「奉行衆」というのがあり、これは室町幕府の文官官僚でしたが、奉公衆は武官官僚であり、つまりいざ戦が勃発すれば即召集される即戦力でもありました。

こうして、京都で室町幕府に出仕している間、その官務の傍ら、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたという記録が残っています。早雲はのちに30代の後半で出家していますから、このころ既に僧としての素養を学んでいたことになります。

今川家の家督騒動

早雲が禅を学んでいたころにはもう既に応仁の乱は終息していましたが、伊勢家と縁戚関係にあった今川家では、この応仁の乱に端を発して、お家騒動が勃発していました。

早雲の姉の北川殿の夫、義忠は、応仁の乱の最中の文明8年(1476年)、遠江の「塩買坂の戦い」という戦で遠江の守護、斯波義廉の家臣らの襲撃を受けて討ち死にしています。

残された嫡男の龍王丸(のちの氏親)はまだ幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなったのです。

この争いの際、京都の室町幕府が東国の平定にと向かわせていた堀越公方の「足利政知」と、東国の雄であった扇谷上杉家がそれぞれこのお家騒動に介入します。そして、上杉家からは、主筋の「上杉政憲」とその部下の「太田道灌」がそれぞれ兵を率いて駿河国へ派遣されてきました。

なぜ東国の上杉家がこの争いに介入したかといえば、今川一族の小鹿範満と上杉家の間には血縁があったためです。

堀越公方の「足利政知」のことについては、前にもこのブログの「関東管領」の項で書いたのであまり詳しくは述べませんが、幕府の「鎌倉府」を滅亡させて関東一円に勢力を伸ばしていた関東管領の上杉家を従わせるために、京の室町幕府から派遣された人物です。

しかし、上杉家や京都の幕府と対立する鎌倉府の足利家一派の妨害に会い、結局は関東に入れず、伊豆の長岡にとどまって「堀越公方」と称するようになりました。そしてのちにこの堀越公方は早雲によって滅ぼされることになります。このことは後段で再び述べます。

さて、駿河の国にあってその守護職を京都から任命されていた主筋である龍王丸派は、当然京都から派遣されてきた足利政知、堀越公方を頼ります。

が、もとももと東国にも入れず、伊豆くんだりに押し込められてしまったくらいですから、堀越公方にはこれを守る力などなく、東国からやってきた上杉家の勢力に押され、情勢ははなはだ不利な状況でした。

このとき、この今川家の内紛に割って入り、この調停を成功させたのが誰あろう、早雲でした。早雲は、北川殿の弟であることを理由に駿河へ下り、関東から派遣されてきていた上杉政憲らをうまく説得します。

両者が納得する案として、龍王丸が成人するまでは範満を家督代行とする、という案を提案したところ、なんとか両者の鉾を治めさせ、上杉政憲と太田道灌の勢力を撤兵させることに成功したのです。

このとき、若き早雲が、関東でも名高い武将である太田道灌と直接談判した、というようなまことしやかな話も残っているようです。しかし、ちょうどこのころ、関東では、関東管領上杉氏の有力家臣、長尾景春による関東管領に対する反乱などが生じており、上杉家としては、他国の内乱への介入などやっていられない、という状況になっていたのです。

こうして、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓い、家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母の北川殿と義忠の部下であった長谷川政宣の居城である、焼津の小川城に身を寄せることになりました。

この早雲による調停成功は、彼の抜群の知略によるものであり、これが後年の立身出世の第一歩とされることも多いようです。

実際にもそれだけのことをやってのけそうな有能な人物であったわけですが、駿河への下向については彼自身の判断というよりも、室町幕府の政所執事であった伊勢家筆頭の伊勢貞親らの命によるものであったという説が有力となっているようです。

駿河守護家今川氏の家督相続介入において自らが談判したという点についても、これが史実だとすればこのころの早雲はまだ、20歳くらいのはずであり、関東でも名高い太田道灌のような有名武将と差しで話し合えたかどうかということに対しては、この話の信憑性に疑問を呈する歴史学者もいるようです。

とまれ、一応史実としては、この今川家の内乱を無事に納めたためか、早雲は京都へ戻り、この功のために9代将軍義尚のほど近くに仕えるようになったようです。申次衆や奉公衆になるのは、さらに後年のことですから、このときはまだ将軍の剣術稽古の相手役ぐらいだったのかもしれません。

今川家の内紛の終息にあたっては、文明11年(1479年)に前将軍義政が龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。ところが、その後、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。

このため、長享元年(1487年)、早雲は再び駿河への下向を命じられ、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集め始めました。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害することに成功。

こうして龍王丸は駿河館に入り、2年後には元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。

このとき、早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられました。この時点でもうすでに、京都へ帰って将軍職を守る奉公衆として一生を過ごすというバカな人生を歩むつもりはさらさらなかったようです。

ちなみに、早雲が幕府から奉公衆に任ぜられたのは、この年の長享元年(1487年)、31歳のときと記録されており、もしかしたら幕府としては有能な官吏であった早雲を引き留めるために奉公衆の役に任じたのかもしれません。、

さらにちなみに、この興国寺城というのは、私が学生時代に沼津で下宿していたところのすぐ近くにあります。私が学生だったころには、ただの藪山でしたが、近年その発掘調査がかなり進み、沼津市によって整備が進められています。

遠くない将来に一部の施設が復元され、公園などとして一般利用も可能になるという話も聞いており、楽しみです。

こうして駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐するようになり、その能力を存分に発揮していくようになります。本来守護代の出すべき「打渡状」という書類を発行する権限を持たされていたといいますから、駿河守護代相当の地位が与えられていたことになります。

この頃に早雲は幕府奉公衆の「小笠原政清」という人物の娘、「南陽院殿」と結婚しています。早雲が興国寺城を得たと記録されている長享元年(1487年)には、嫡男の氏綱も生まれていることから、領主になったのとほぼ同時に結婚したか、それ以前から婚前交渉があったのでしょう。

伊豆討入り

こうして、事実上駿河国の国主に近い地位を得た早雲は、主君の氏親を盛り立てつつ、次々と自国を強国にすべく手を打っていきました。

まず手始めとして、駿河国に居つくことで事実上、手を切ってしまったことになっている室町幕府の勢力を自領から排除することから始めました。

ちょうどこのころ、関東地方では、鎌倉公方の足利成氏が幕府に叛くようになっており、これを憂えた幕府は、早雲が仕える今川氏に鎌倉を攻めるように命じました。そして今川軍は鎌倉を攻めてここを占領することに成功します。

しかし足利成氏はこの戦いでは死なず、現茨城県の古河市にあった古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、これまた幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦うという多方面作戦を展開し始めました(享徳の乱)。

足利成氏が鎌倉を撤退するに先立ち、時の将軍足利義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送りました。しかし成氏方の勢力が強く、政知は鎌倉に入ることもできず伊豆長岡に本拠を置き、ここに留まって「堀越公方」と呼ばれるようになっていたというのは前述のとおりです。

しかし、文明14年(1483年)に古河公方となっていた成氏と上杉氏との間に和睦が成立。堀越公方、政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆長岡に引っこんで、空威張りだけをしているという状態に追い込まれていました。

政知には「茶々丸」という長男がいましたが、茶々丸の母親は早くに他界。そののち添えとなった正室の円満院との間には「潤童子」と「清晃」という二人の子が授かりました。

茶々丸は嫡男ではありましたが、素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁されるほどの乱暴者だったといわれています。このため堀越公方を継ぐのは弟の潤童子であるとされていました。また、兄の清晃は出家して京にいましたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていました。

しかし、その願いもむなしく、延徳3年(1491年)に政知は病没してしまいます。ところが、彼が死ぬと、長男の茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという暴挙に出ます。

このあたりのことは、以前のブログ、「茶々丸」に詳しいのでそちらをご参照ください。

このころ、早雲はまだ、「伊勢新九郎」と名乗っていたようですが、その後彼が39歳のころの史料には「早雲庵宗瑞」という法名になっており、どうやら早雲と名乗るようになったのは、この茶々丸騒動の前後のころのことのようです。

この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、早雲が出家したのも、将軍家の一族である潤童子とその母の円満院の横死の責任を取ったのが理由とするという見解もあるようです。が、彼が出家することとこの堀越公方の奥方らの死との関連性については、あまりうまく説明がつきません。

このため、京から派遣されていた堀越公方を滅亡させる戦いに挑むようになり、この茶々丸事件を境に伊豆乱入に突入していくことに伴い、幕府奉公衆の役柄を返上するために出家したとも言われており、これによってかつての御家人としてのけじめをつけたのではないかとする説もあるようです。

さて、こうして早雲が堀越御殿に乱入しようと考え初めていたころ、室町幕府はかなり末期状態に陥っており、明応2年(1493年)には、幕府管領であった細川政元が、反乱を起こし、10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放してしまっていました。

そして、出家していたかの清晃を室町殿に擁立し、事実上の将軍に仕立てます。清晃は還俗して義遐(よしとお)を名乗り、後に義澄と改名。権力の座に就いた義遐は、伊豆で茶々丸に討たれた母と兄の敵討ちを、かつての幕府官僚であった早雲へ命じました。

このあたり、早雲のほうは、出家までして幕府と縁を切ろうとしていたわけですが、混乱する幕府は、いまだ早雲を頼りにしていたということになり、ある種の矛盾があります。

が、まさに伊豆制定を開始しようとしていた早雲にとってはこれは渡りに船の命令であり、これを受けて、同年(1493年)の夏か秋頃には、伊豆長岡の堀越御所の茶々丸を攻撃しました。

この事件を伊豆討入りといい、このとき早雲37歳。血気さかんなころであり、このときから東国における戦国期が始まったと考えられています。

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたというものもあります。

また、この討入りでは、早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が10艘の船に乗って清水浦(現清水港)を出港し、駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸したとする史料もあり、西伊豆に上陸した早雲の軍勢を見て、ここの住民たちは海賊の襲来と勘違いし、家財道具を持って山へ逃げれたともいわれています。

その後、早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた、とされていますが、実は茶々丸は生きていて、伊豆各地を転戦し、その後も早雲を苦しめたという話も残っています。

近年は茶々丸生存説のほうが正しかったのではないかとする意見のほうが多いようで、だとすると、伊豆長岡の願成就院にある彼の墓は何なの?という話になってしまいますが、ま、この話は今はさておきましょう。この話の詳細も以前のブログのほうをご覧ください。

こうして、早雲は、この堀越公方が拠点としていた伊豆長岡から少しばかり東へ離れた、伊豆国韮山(現伊豆の国市)に新たな居城を作り、伊豆国の統治を始めました。ちなみにこの韮山城は、かつて源頼朝が平家によって配流されていた「蛭ヶ小島」をすぐ見下ろす高台にあります。

「蛭ヶ小島」の場所は本当は、こんな場所ではなく、もっと狩野川に近い位置にあったという説もあるようですが、ともかく、この韮山や長岡といった一帯は、歴史的な大事件がいろいろあった場所であり、その偶然の不思議さをついつい思ってしまいます。

さて、こうして伊豆乱入での成功を収めた早雲は高札を立て、地元の民に対して味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告するなどメリハリのついた統治を始めました。

一方では兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施たため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従ってきたといいます。

こうして抵抗する伊豆の豪族たちを平定し、明応7年(1497年)ころまでには南伊豆にまで勢力を伸ばし、ほぼ伊豆を平定したとされています。1497年というと、早雲が41歳のころのことになります。

こうして伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧しています。

その後も早雲と氏親は連携して領国を拡大していき、やがては関東にも進出していくことになるのですが……

案じていたとおり、この項も、もうすでにかなり長くなってしまいました。

これらのことについては、また明日以降に書いていくことにしましょう。

8月の果て

夕景
8月になりました。

何かと行事の多い月ですが、8月を代表する行事としては、やはりお盆でしょう。

言うまでもなく、旧暦の7月15日を中心に日本各地で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、国民的大イベントでもあります。

しかし、だいたいの人が、これを仏教の行事と考えているようですが、実は必ずしもそうとはいえず、このお盆の行事には仏教の教義で説明できないしきたりも多いようです。

それもそのはず、もともとお盆は古神道における先祖供養の儀式や神事だったものが、江戸幕府が定めた「檀家制度」のために、一般民衆とお寺さんとの結びつきが強くなり、仏教行事の「盂蘭盆」(うらぼん)と習合して現在のようになったものだからです。

「檀家制度」というのは、徳川幕府が宗教統制の一環として設けた制度であり、一般人は漏れなくどこかのお寺に所属する信徒であることを義務付けた制度です。江戸幕府は、キリスト教を禁止していたため、どこかの寺に所属することを民衆に義務付け、この寺にキリシタンではないことを証明させるための制度でもありました。

これを証明するために、「寺請制度」というものが導入され、民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、必ずその檀家となる事が義務付けられました。

このため民衆が檀家であることを受け入れる寺院側には、現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」というものが作成され、旅行や住居の移動の際には、必ずその証文(寺請証文)を持ち歩くことが必要となりました。

こうして一般家庭にもそれまでにはなかった仏壇が置かれるようになり、法要の際には僧侶を招くという慣習が始まりました。このため、寺院としては労せずに多くの信徒を獲得できるようになり、収入を保証される形となり、その経営?はすこぶる安定しました。

しかし、その一方で、寺院としては幕府から、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、それまでは政治とは一線を画していた各仏教教団も、すべからく幕府の統治体制の一翼を担わせることになりました。宗教団体としての独立性が失われていったのです。

こうして、僧侶を通じた「民衆管理」が事実上法制化されたため、お寺は事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、やがて江戸265年間の間には、汚職の温床にもなっていきました。

このことが明治維新時に、新政府が過剰なまでの廃仏毀釈を推進し、神仏分離が徹底されることにつながっていきます。前にも書きましたが、この神仏分離はわが国最大の文化破壊であり、江戸期までに蓄積たされた多くの伝統美術がこの政策推進によって失われました。

庶民に強いられた檀家制度により、そもそも江戸時代以前には古神道の行事として行われていた祖霊祭(先祖を敬い祀る行事)は、その形を変え、仏教行事の一環として行なわれるようになっていきました。

自然の造形

それでは仏教と習合する前の祖霊祭はどんなものだったかというと、これは別に特別なものではなく、現在も多くの一般の家にも置かれている神徒壇、神棚に祭壇を設けて、先祖を祀るというものでした。現在では神棚には神様しかいらっしゃいませんが、その昔はここにご先祖様もともに祀られていたわけです。

江戸時代よりも前の祖霊信仰においては、「両墓制」というものがありました。両墓制とは、その名の通り、死者が出た時に二つの墓所を作ることです。

かつては遺体を埋葬する際には、実際に遺体を埋める「埋め墓(捨て墓)」と呼ばれる墓と、これとは別に自分の家の近くや寺院内に建てる参り墓、すなわち遺体が収容されない「詣で墓」を作ることがありました。

遺体を直接埋葬する埋め墓、捨て墓は、人が近づかない山奥や野末に作られたため、埋められた遺体や石塔は時が経つにつれ荒れ果て、しかもこれを代々受け継いでいくうちにその所在も不明になっていくことがあります。

しかし、この埋め墓、捨て墓自体は、そもそもここを死者供養のための墓所としていた訳ではなく、永く保存する事を目的とせず、あくまで遺体を自然に返すための場でした。

一方の参り墓、詣で墓のほうは、家の近くや田畑、寺院など参詣に便利な場所に建てられており、こちらの墓こそが、永く死者供養をすることを目的とした墓所になります。

こうして、先祖の霊を居住地の近くに配置し、供養し、家の安泰を願うことが、祖霊信仰という形で定着し、引いてはこれを家内の神棚の中に据える、という形になっていったのです。

このように、自分の家の中、すなわち「屋敷」の中にお墓的存在を据えたものを「屋敷墓」といいます。史料や遺構で確認される最も古い屋敷墓は、中世のころのものだといい、この時代の墓制や葬送習慣についての詳細は、地域や身分階級によって異なっていたようです。

従って庶民から貴族まですべて同じように神棚に先祖を祭っていたかどうかとなると微妙ですが、ともかく、この時代にはまだ仏壇に先祖を祭るという習慣は一般化していなかったのです。

しかし、どこの家でも「両墓制」を持ていたかというとそうでもないようで、とくに江戸時代に近い近世のころになると、身近な場所場所に直接遺体を葬り、ここに墓所を建てることも多くなっていたようです。

そしてそれがやがてそれが屋敷墓として家の中に入っていき、身近な神棚で先祖供養をする形に変わっていきました。

が、前述のように、江戸幕府によって寺請制度が浸透し、民衆と寺との関係が強くなっていくと、神棚に代わって仏壇が先祖供養の場所となっていき、それと同時に、もともとは神道で行うことも多かった祖霊祭も、仏教でいうところの「盂蘭盆」とも強く結びついていくようになっていきました。

「盂蘭盆」とはもともとは仏教の発祥国であるインドの母国語、サンスクリット語の「ウランバナ」が変化してきてこう呼ばれるようになってもので、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写されていたようです。

「ウランバナ」は、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」が語源だとする説もあり、古代イランでは、祖先のフラワシ、すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事でした。

従って、古神道における祖霊祭とも相通じるものであり、発祥の違いはありますが、もともとは本質的には同じ行事であり、お互いが結びつきやすい性質を持っていたわけです。

「盂蘭盆」は、仏教が伝来してきた奈良、平安時代以降、全国に広がっていき、このときから既に毎年7月15日に公事として行なわれるようになっており、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)もあわせ行なうようになりました。

「施餓鬼会」とは、「餓鬼に施す」ための行事であり、死後に餓鬼道、つまり地獄に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀式のことです。

先祖を供養する各家の祖霊、つまり天国へ行くことのできた一般人の祖霊を祀る、盂蘭盆の儀式とは別に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施しをしてあげようという、日本人特有の優しい行事といえます。

噴水

とはいえ、仏教が中国を経由して日本に入ってくる途中で、中国で行われていた風習が仏教に取り込まれ、経典に書かれていたものが日本に輸入され、施餓鬼会に変化したものです。

この中国の経典に書かれていた施餓鬼の内容というのは、こういうものです。

ある神通力のある坊さんが亡くなった母親の姿を探していると、餓鬼道に堕ちているのを見つけました。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出してあげたのですが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかったそうです。

哀れに思って、釈迦に実情を話して方法の教えを請うと、お釈迦さまは、「安居(あんご)の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えられました。

安居というのは、仏教の行事のひとつで、もともとバラバラに布教活動をしていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行することをいいます。また「比丘」というのは、仏教に帰依する人達のことで、男性であれば「比丘(びく)」といい、女性であれば「比丘尼」(びくに)と呼ばれていました。

もともと比丘とは「乞食」のことを指していたようです。このため、この坊さんはこのお釈迦様の言うとおりに乞食たち、つまり比丘たちすべてに布施を行ったところ、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをしたそうです。

するとやがて、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも水や食べものが入るようになったとのことです。

おそらくは仏教が伝来したこのころの中国には、こうした経典に書かれているような施餓鬼を実践するような具体的な風習はまだ浸透していなかったと思われますが、日本に伝わってからは、一般の盂蘭盆と同時に施餓鬼会として浸透していきました。

こうして旧暦の7月15日には、盂蘭盆の儀式や施餓鬼の儀式が、それまでの神道行事に代わって仏教行事としても行われるようになり、それぞれ微妙に形を変えながら日本中に浸透していきました。が、前述のとおり、江戸期にはほぼ三者が統一され、「盂蘭盆」という呼称の省略形として「盆」と呼ばれるようになっていきました。

しかし、そもそも古神道では、7月に行う行事ではなかったようです。1年に2度、初春と初秋の満月の日に、祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流するという行事だったそうで、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったといわれています。

従って、お正月といえば神社に行き、お盆といえばお寺に行くという今の風習はこうした伝統に基づくものといえます。

さて、こうして日本の神道と仏教が合体して「お盆」として定着していくようになったわけですが、その儀式の内容は、神道よりも仏教の儀式の色あいの方が強くなっていきました。これは前出の江戸幕府の寺請制度が浸透したためです。

ところで、奈良時代に仏教がインドから中国経由して日本にやってきたとき、その儀式内容もまた中華文化における「道教」の影響をすでに受けていました。

道教では、旧暦の七月を「鬼月」とする慣習があり、旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方があります。

これが日本に伝来した仏教にも取り込まれ、日本では、お盆といえば、旧暦の7月1日からとみなされるようになり、この書に血を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」というようになりました。

地獄の釜の蓋が開く日であり、一般的にいう、「お盆」の初日であり、つまり昨日8月1日がその日になります。

この日を境に墓参などして、ご先祖様等をお迎えし始めますが、地域によっては山や川より里へ通じる道の草刈りなどもします。これは故人が山や川に居るという、そもそもの古神道における祖霊祭の名残ともいえます。

草刈りなどによって、彼岸、つまりあの世からご先祖様や故人たちがお還りになる際、通りやすくするのです。地域によっては言い伝えで「地獄の釜の開く時期は、池や川などの水源にはむやみに近付いてはならない」というものもあるようですが、そもそも古神道では、こうした場所に先祖たちの霊が宿っていると考えられたためでしょう。

冬木立02

さて、ここまで書いてきたら、一通り、お盆が終わるまでのその全行程をもう一度確認しておきましょう。

地獄の釜蓋が空いて、といっても、ご先祖さまたちすべてが地獄に堕ちているわけでもなく、便宜上、「あの世」の入口のことを地獄のふたと称しているだけですが、8月になると、その門を通って続々と霊たちが現生へ帰ってこられます。

そして、その7日目は、「七夕」として、故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡(ばん)を拵えます。幡とは、(旛・はた)ともかき、ようするに「のぼり」です。布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のことで、正式には、幡頭・幡身・幡手・幡足などと呼ばれる部位から構成された複雑なものです。

錦・綾などの高級生地や金銅や紙、板などを用いて作られた幡もあるようですが、現在全国の七夕祭りなどでぶら下げられている例のカラフルな幟はその簡易版です。

そもそもなぜ「七夕」というかについては、この幡とこれを設える棚の二つを合わせて「棚幡」と書いたため、これが変じて七夕になったためです。

七夕である7日の日には、夕刻からこの精霊棚や笹、幡などをご安置し、先祖などの霊ががそこへ「一時帰宅」してお休みになる準備をするわけです。

そして、それから6日後の13日夕刻には、野火を焚きます。これを迎え火(むかえび)と呼びます。客人や神霊をむかえるためにたく火のことであり、同じく先祖の霊を迎え入れるための目印です。

ただ、この「火」そのものの中に、先祖の霊が宿っている(一時滞在している)考え方もあるようです。

今は消防法がうるさくなってそんなことをすれば通報されてしまいますが、その昔は、家の門口などで、皮をむいた麻の茎(オガラ)などを折って積み重ねて、これに火をつけ燃やしていました。

関東地方などでは、オガラの代わりに麦藁を焚きながら「盆さま盆さま お迎え申す」と大声で叫び、子供がその火を持ち歩くという風習もあったそうです。また、信州などでは墓から家までの道に108本の白樺の皮を竹につけ、順に火をつけるとういことも行われていたようです。

この風習は鎌倉時代から行われていましたが、年中行事として定着したのは江戸時代のころのことです。

ただ、火事の多い江戸ではその後あまり奨励されなくなり、このため迎え火の変形として盆提灯が用いられるようになりました。現在ではさらにロウソクさえ使われなくなり、電球が中に入った盆提灯が主流のようです。

地方によってはこの盆提灯が発展したものが、秋田県の竿燈や青森県のねぶたであり、また京都の五山送り火もその発展形といわれており、このほかにも「御招霊」と称して大がかりな迎え火が行われる地方もあります。

この13日の迎え火以降、精霊棚の故人へ色々なお供え物を始めます。 地方によっては、「留守参り」をするところもあり、これは故人がこちらの世界へ帰ってきているため、もともとの居場所であるお墓を、その留守中に掃除する、という風習です。お盆にお墓を掃除するというのは、そういう意味だったのですね。

さて、こうして迎えたお盆の中日、つまり、13,14,15の三が日は、先祖や故人のことを思い、静かに過ごす、というのが本来のあり方でしょう。

ところが、この15日などに寺社の境内に老若男女が集まって、盆踊りを行うというのが現在では全国的な風習です。これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模したといわれています。

旧暦7月15日は十五夜、翌16日は十六夜(いざよい)であり、つまりどちらかの日に月は望(望月=満月)になりました。したがって、晴れていれば16日の晩は月明かりで明るく、今のように電燈が普及していない時代には夜どおし踊ることができたわけです。

もともとは、平安時代、空也上人によって始められた念仏踊りが、盂蘭盆の行事と結びつき、精霊を迎え、死者を供養するための行事として定着していったものともいわれています。

鎌倉時代には、さらにこれを一遍上人が全国に広めましたが、一遍らは、この踊りに念仏で救済される喜びを採りいれ、着物もはだけ激しく踊り狂うことで法悦の世界へ誘われる、と広めたところ、これが大受けし、庶民を巻き込む大ブームを引き起こしたそうです。

それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれるような念仏踊りに変化していき、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになりました。現在のように太鼓などを叩いて踊るような風習は、室町時代の初めのころには既にあったそうです。

現在では、これがさらにエスカレートし、場所は「寺社の境内」とは限らなくなってしまい、また宗教性を帯びない行事として執り行われることも多いようです。

いわずもがなですが、駅前広場などの人が多く集まれる広場に櫓(やぐら)を組み、露店などを招いて、地域の親睦などを主たる目的として行われるものも多く、盆の時期には帰郷する人も多くなることから、かつてはその地方の出身者が久しぶりに顔をあわせる機会としても機能していたようです。

青い池

さて、旧暦7月15日は十五夜、翌16日は十六夜であり、月明かりのあるこの日に盆踊りなどが行われるようになりましたが、この16日は、本来は「送り火(おくりび)」の日です。

その名の通り、あの世から帰ってきていた霊を送る時であり、例年8月16日に行われる京都の五山送り火がもっとも有名でしょう。ただ、奈良高円山大文字などのように15日に送り火を行うところも多いようです。

また、川へ送る風習もあり灯籠流しが行われます。山に灯りをともして送る風習がある地方もあるようで、このように山や川へ送るのは、古神道では故人が居るとされるのが山や川などの自然の中であったためです。

この送り火の期間は、基本的には16日から24日までであり、この間、お迎え同様に墓参などをして勤めて過ごします。

とはいえ、忙しい現代人の多くは、15日が過ぎればもとの職場に戻り、もうお盆のお休み気分は払しょくされ、新たな気分で仕事に取り組む人も多いことでしょう。

ただ、仏教では普通は、お盆といえば、1日から24日を指すようです。なぜ24日かというと、これは、地獄の王である閻魔王に対して、天国の王は地蔵菩薩であり、24日がこの地蔵菩薩の縁日だからです。ちなみに、大日如来の縁日は28日だそうで、従ってこれを御本尊とするお寺などでは、お盆は28日までだそうです。

さて、今年もまたそのお盆の季節が近づいてきました。

我々はというと、昨年もそうですが、今年も山口に帰る予定はなく、お盆の最中には故人を思って静かにここ伊豆で過ごそうと考えています。

麓の温泉街にある「修禅寺」の盆踊り大会は、実は昨日の8月1日だったそうで、夕方から施餓鬼会行われ、檀信家の総回向が修行されたあと、その後、旅館客も輪に加わって盆踊りが催されたようです。

実は昨日はこれと時を同じくして、麓の大仁で花火大会があり、我々もそちらを見に行ったため、この温泉街の盆踊り大会の風景は見ることができませんでした。

が、お盆期間中の、8月21日には、修禅寺正面にある鹿山という山の中腹から再び花火が打ち上げられるということで、こちらも楽しみです。

日本でも数少ない山の中腹からの打上げ花火だそうで、温泉街を流れる桂川にある独鈷の湯横でも、ナイアガラ花火が仕掛けられるということなので、これからまだ予定がない方は修善寺温泉に泊まりがけで見にこられてはいかがでしょうか。

8月にはこのほかにも、終戦記念日や原爆記念日もあり、例年のことではありますが、こうした戦没者の弔いもあって、やはり何かこう身が引き締まるというか、敬虔な気持ちにさせてくれる何かがある季節です。皆さんも同じではないでしょうか。

が、夏来たりならば秋近し、ということで、8月も終わればもうすぐそこに秋が近づいてきます。

昨日、今日と早朝に久々にジョギングに出たのですが、その際、その路上には早、小さな栗のイガイガが散乱していました。夏だ夏だと思っていたら、もうすぐに秋になってしまいそうです。

そんなもうあと短い夏の間、何をして過ごすか、この週末はじっくりと考えて過ごすこととしましょう。

影絵