電化はいいでっか?

秋が深まってきました。

ついこの間までの台風によって各地で大きな被害が出たことなども、なぜか遠い昔のような気がします。

しかし、久々に近所にある修禅寺自然公園の側までジョギングに行ったら、ここの紅葉はまだまだといったかんじでした。さらにその先にある修禅寺虹の郷の紅葉も、ホームページを見る限りでは見ごろはまだ先のようです。

今週末からは、毎年恒例の夜間ライトアップも始まるようですが、夜の紅葉狩りに出かけるのは来週ぐらいにしてみようかと思っています。

さて、今日は鉄道電化の日ということになっているようで、これは1956年(昭和31年)、東海道本線の全線が電化されたことを記念して1964年(昭和39年)に鉄道電化協会が設定したものだそうです。

しかし、日本で初めて電気鉄道が走ったのは、1895年(明治28年)のことであり、京都市で京都電気鉄道が開通したのが最初です。

ただし、1890年(明治23年)の第2回内国勧業博覧会のとき、会場となった上野公園において東京電燈が5月4日から一時試験運転を行っていた事があり、日本初を追及するならば、このときが初めてになるでしょう。

もっとも、商業化された電気鉄道がその後も継続的に営業されたのは無論、この京都電気鉄道が初めてです。

この鉄道が導入されたいきさつですが、これは京都は明治維新以後、それまでここに居をおいていた天皇や皇族がこぞって東京に移り住むことになり、それまでは日本の中心としてにぎわいを見せていたこの町が火の気が消えたように静かになってしまったことに始まります。

このため、京都市民の中からこのまま街が衰退することを憂慮し、産業の振興を呼びかける声があがりました。産業振興を推し進める市民から出されたスローガンの中には、784年(延暦3年)の長岡京遷都と794年(延暦13年)の平安京遷都に伴い、急速に衰退した奈良(平城京)を挙げ、「第二の奈良になるな」というものもありました。

こうして京都を再び活気のある町にしようという機運が次第に高まっていく中で、とりわけ京都復興のための目玉と目されたのが琵琶湖疏水でした。

この琵琶湖疏水のお話については、9月に書いた「疏水」に詳しいので、ご興味がある方はこちらも読んでみてください。

琵琶湖疏水は、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、これに並行して建設され、1912年(明治45年)に完成した第2疏水を総称したもので、現在では両疏水を合わせ、毎秒24トンを琵琶湖で取水しており、その内訳は、水道用水約13トン(毎秒)、それ以外の11トンを水力発電、灌漑、工業用水などに使っています。

水力発電は第1疏水の通水の翌年に運転が開始され、これは営業用として日本初のものでした。そしてその電力を使った日本初の電気機関車が走らせたのが京都電気鉄道であり、この電力はさらに工業用動力としても使われてその後の京都の近代化に貢献しました。

京都における路面電車の運転計画は、その水力発電によって供給される安価で潤沢な電力を基にして立てられました。これに加え、計画的に建設された都市のため主要道路が碁盤の目状になっていて電車の運行に都合が良かったこともその導入に幸いしました。

また、人口が多く観光客も多く見込めること、前述のような理由によって市民に進取の風潮が根付いたこと、更に平安遷都1100周年を記念して1895年(明治28年)に京都で第4回の内国勧業博覧会が催される事になったことも、計画の追い風となりました。

この琵琶湖疏水の工期途中の1889年(明治22年)、疏水工事主任技師の田辺朔郎と上下京連合区会(後の京都市会)議員の高木文平は、疏水の水力利用についての視察のためアメリカへ赴きました。この渡米時に2人は水力発電とともに、マサチューセッツ州のホリヨークなどで電気鉄道を見学しています。

帰国後2人は水力利用は発電を主とするのがよいとの報告を議会に行い、それに基づき蹴上発電所の設置など疏水工事の計画修正がなされました。蹴上発電所の運転が始まると、高木文平らは、1892年(明治25年)電気鉄道の敷設を府知事に出願し、同年知事の諮問を受けた京都府会市部会は市内における敷設を可とする答申を出ています。

これを受け、高木文平ほかは、1893年(明治26年)に内務省へ電気鉄道の敷設を出願し、こうして1894年(明治27年)2月に、電車敷設の事業を行うための事業者として京都電気鉄道が設立され、路線の建設が開始されました。このとき、この新会社の社長には高木文平自らが選出されています。

この高木文平という人ですが、京都府の南丹市の出身で、実家は地元の旗本の代官も務めた豪農でした。明治維新後は、地元で学校教育の指導などを行っていましたが、その後実業界に転じ、1882年に京都商工会議所の初代会長に選出されました。

前述のとおり、田辺朔郎と米国視察を経験し、現地で電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走するようになりますが、京都電気鉄道会社の社長に就任した後も京都政界で府議会議員、市議会議員として活躍しました。

また1900年には同郷の中川小十郎が設立にした京都法政学校(現在の立命館大学)の設立にも力を貸しています(明治43年に67歳で死去)。

1895年(明治28年)2月、現在の京都駅近くの「東洞院塩小路下ル」~「伏見下油掛」間で日本初の電気鉄道が走り、正式に京都電気鉄道が開業しました。続いて4月からは七条から岡崎の第4回の内国勧業博覧会々場にいたる路線も開業させ、その後も順次路線を延ばしていきました。

しかしなにぶん、日本初のことでもあり、この当時は運転技術や設備が未熟で、正面衝突や電圧変動による立往生・暴走なども発生したそうです。また開業当初は「停留所」という概念がなく、これは運営するほうもそうでしたが、利用する客のほうも同様で、電車は行きあたりばったりの場所で止まり、乗客を拾っていました。

勧業博覧会のほうも、日清戦争の勝利に伴って賠償金が入り好況になったこともあって、約112万人の入場者を集める活況を見せ、以後、毎年1万人ずつ人口が増加するようになった京都市の活況にあわせ、京都電気鉄道の利用客も増加し、会社は毎年1割配当を行えるまでの業績を上げていきました。

ところが、運行開始したころには、19箇所に交換所(電車の行き帰りを切り替える)が設けられましたが、「閉塞区間」という概念もまだこのころにはなく、このため事故もよく起きました。

閉塞区間というのは、線路を一定区間に区切り、1つの閉塞区間には同時に2つ以上の列車が入らないようにすることで、安全を確保するシステムであり、現在でも鉄道における安全確保の最も基本的な仕組みです。

ところが京都電気鉄道の発足のころには全線全区間が単線であり、時計を見ながら、この単線区間に複数の電車を乗り入れさせ、自由に初到着を行わせていました。が、この時計の精度さえもこの当時はまだ低く、このため電車の遅延はごくごく当たり前のことでした。

このため、単線区間に両方向から来た電車が同時進入して立往生し、どちらが交換所まで戻るかで運転士どうしが罵倒し、取っ組み合いが良く起こったといい、またこれに乗客まで参加した喧嘩騒ぎが頻発しました。現在から考えると、なんとのどかな、と笑ってしまえます。

しかし、笑って済ませられないのは、曲線区間で見通しが悪い場合などに、たびたび正面衝突などが起こったことです。また、このころは道路の幅が狭く、電車の開業によって更に道は狭くなり、かつ線路を横断する人が絶えなかったことから、開業2か月後には日本で初めての電気機関車による轢死事故が発生しました。

こうした事故を受け、京都電気鉄道に非難が集まるようになったため、1895年(明治28年)8月26日には、京都府によって電気鉄道取締規則が制定されました。

これに伴い、街角や曲線区間には昼間は旗などを使用して電車と歩行者に合図を送ることで安全を図り、また夜間には灯火によって単線区間に同時に2列車が進入しないよう監視する「信号人」を置くことなどの安全対策が義務付けられました。

ただし、このころの電車のスピードはかなり遅いもので、京都府の軌道条例でもその最高速度は8マイル毎時(12.9km/h)程度にすぎず、これは人間と並走しても、人のほうが電車を追い抜けるほどの速度でした。

このため、市街地などの危険な区間では電車の前を、歩行者に安全を知らせる「告知人(前走り人)」を走らせるようになり、また車両の前後に通行人を塵取りのように掬いこむための大きい網である「救助網」を設置することとなりました。これもまた現在では考えられないほどのどかな対策ではあります。

しかもこの告知人は大人ではなく、子供が多く登用されました。現在では信じがたいことです。この子供たちは、昼は赤旗を振り、夜は提灯を持って、街角や人の多い場所で電車を降り、先行して電車の通行を告知したそうです。

ところが、この子供たちは、走行中の電車からの飛び乗り・飛び降りを強いられる上、夜間は全線先走りが義務づけられるなど重労働を課されたため、鉄道の安全を図るべく導入された告知人である子供たち自らが電車に轢かれるといった悲惨な事故も多発するようになりました。

当然、世間からの非難も多くなり、京都電気鉄道としても府に告知人の廃止を申請したのですが、すぐには認可されず、1898年(明治31年)に夜間の全線先走りが廃止されたものの、告知人の制度自体は1904年(明治37年)まで継続されていたそうです。

ちなみに、こうした危険かつ重労働を子供にやらせていたため、京都では長らく、子供を叱るときに「電車の前走りにするぞ」という意味の京都弁が使われていたそうです。私は関西出身でないのでどんなふうな表現だったのか見当がつきませんが、かなりきついかんじの京都弁だったのではないでしょうか。

一方、信号人は子供にすぎなかったため状況判断の能力も十分とはいえず、このためミスや怠慢のために電車が出会い頭になる事故が絶えませんでした。こうしたことから、のちには行き違い箇所を必ず設けて、ここで電車を必ず行き違わせる方式にするとともに、信号人制度そのものを廃止しました。

そして信号人の代わりにはトロリーコンタクターや通票が導入されました。トロリーコンタクターとは、現在も使われている技術で、路面電車の分岐点におけるポイントや信号機を操作するために、電車の走行通路の高い箇所(架線)に取り付けられた装置のことです。

過去には、この分岐点にはポイント操作の信号人が置かれ、電車の行き先を確認して手動でポイントを操作していましたが、合理化が進む中でこの分岐点の無人化を行う技術が開発され、電車の停止位置でポイントを自動的に操作するしくみとして導入されたのがトロリーコンタクターです。

通常、架線にあるトロリーコンタクター棒状のスイッチがとりつけられており、電車が通過する際にパンタグラフがスイッチをたたくことで通過したことを検知します。と同時にその信号が電車内に伝えられるとともに、表示灯が点灯するなどして、閉塞区間内に電車が進入したことを知らせます。

また、通票というのは、1閉塞区間に1つ(1種)を定めてこれを持たない列車を閉塞区間内に入れないなどとするための、符合のようなものです。

一つの閉塞区間に電車が入るとき、その入口と出口で車上の車掌などの係員がポイントで立っている信号人とこの通票を交換し、仮に別の電車がこの区間に入って来たときには、もうこの区間用の通票は先行する車両に手渡してしまっているから、アンタは今は入れないよ、というふうに使います。

1つの閉塞区間(通常は駅間)で1つのみの通票を使用し、その通票を持っていない列車は出発できないと定めることにより閉塞を実現する方式であり、列車を発車させると、その通票が戻ってくるまで次の列車を発車させることができないわけで、チェックイン・チェックアウト方式の閉塞方法といえます

このほかにも、その後は円盤状をした金属製の「タブレット」ともよばれるものや、棒状の金具で「スタフ」などといったものも作られるようになりましたが、これらは通票を更に複雑化させて単純ミスがおきないように進化させたものです。

驚くなかれ、こうした閉塞確保のためのアイテムは現在も一部の鉄道で使われています。
もっともそんな時代遅れのことをやっていると人為ミスも出かねないため、現在ではJRをはじめ多くの鉄道会社が線路に電流を流して車両が線路上にあることを検知するなどの何等かの自動的な閉塞を行っています。

こうして、京都電気鉄道の事故は次第に減っていきましたが、これと同時に、当初は勝手な場所で乗降を行っていたのをとりやめ、停留所を設けてそこでのみ乗降を取り扱わせるようにあらためました。また、電気鉄道取締規則も改められ、街角や橋など往来の邪魔になる場所での乗降は禁じられるようになりました。

ただ、琵琶湖疏水の水力発電所は、こびり付いた藻を取り除くため月2回の停電日があったほか、保守点検のため年に数日の送電停止が行われており、これに伴い、電車も運休を余儀なくされていました。

これを解消するため、1899年(明治32年)には東九条村(現在の南区東九条東山王町)に京都電気鉄道自前の火力発電所が設置され、これによって運休も解消されました。このころにはまだ琵琶湖疏水の発電所からの受電と併用でしたが、さらに後に完全自給となりました。

しかし、大正に入るとこの自前の発電所は廃止され、停電のなくなっていた京都電灯からの受電へと戻され、京都電鉄が発電所を所有する必要はなくなりました。

こうした京都での電車導入の成功に伴い、次第に電化鉄道のノウハウも蓄積されるようになったころから、その後も全国で鉄道の電化が進んでいきました。

私有鉄道では、甲武鉄道に続き南海鉄道が難波~浜寺公園間を1907年(明治40年)に電化し、幹線鉄道としても、大正14年(1925年)までに東海道本線の東京~ 国府津間が電化されました。

その後も、名古屋鉄道など電気軌道系の路線が郊外へ延び大規模な路線網を形成していき、大正末期から昭和初期にかけて、東武鉄道・大阪鉄道・豊川鉄道など一般鉄道の電化が進むほか、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次ぎました。

こうした結果、1930年代には全国的にいたるところで電化路線が散見されるようになります。中には、大阪電気軌道・参宮急行電鉄の上本町(大阪)~宇治山田(伊勢)や東武鉄道の浅草(東京)~日光、金剛山電気鉄道の鉄原~内金剛など、全長100kmを越える路線も出現しました。

さらに太平洋戦争の敗戦後、石炭の価格が高騰し、これにより非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたし、1950年(昭和25年)前後に淡路交通、十和田観光電鉄などの多くの路線が電化を実施することになりました。

電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化も進み、とくに国鉄は1950年代以降、多くの路線を電化していきました。東海道本線については、1956年(昭和31年)の今日、つまり11月19日に、米原~京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了しました。これを記念し、今日が「鉄道電化の日」になったことは冒頭でも述べたとおりです。

現在ではJRの在来線のうち、東北、北陸、九州、北海道では交流2万ボルトで電車が運営され、その他のJR在来線では直流1500ボルト、新幹線はすべて交流2万5千ボルトで運営されています。

ところで、電化電化とはいうのですが、日本の鉄道の電化率は、せいぜい50%を越える程度です。スイス、オランダといった国々が90%を越えるのに対し、日本のほかドイツ、ロシアは同じく50%をやや越える程度であり、2000年代以降は韓国・中国が鉄道電化比率を急速に上げていますが、アジア・太平洋地域は全体でも3割程度にすぎません。

この理由は、国策や資源の状況、電力事情、産業の動向などさまざまですが、世界的に電化率にはかなり偏りが見られます。

日本で旅客線が完全電化されている都府県は、奈良県、大阪府、神奈川県、東京都、沖縄県のたった5都県だけです。ただ、和歌山県、静岡県、滋賀県、石川県、福井県、埼玉県、群馬県、山梨県、愛知県などは、ほぼ電化が終わっています。

その他の県では電化はまだまだといった県も多く、いまだに山間を走る列車の多くがディーゼル機関車など気動車によって牽引されているといった状況です。

旅客線がほぼ非電化の県もあり、これは島根県、鳥取県、高知県の3県です。

島根県では電化路線は山陰本線の西出雲駅以東の区間と一畑電車のみで、その他JR線は非電化のままであり、鳥取県も電化路線は伯備線と山陰本線の一部区間のみで、私鉄とその他JR線は非電化のままです。高知県もJRの旅客鉄道路線は全線非電化のままで、電化路線は土佐電気鉄道のみです。

さらに、徳島県に至っては、索道以外の鉄道にはまったく電化区間がなく、全国で唯一電車が自走しない県です。過去にも一切電化された路線が存在しないため、歴史的にみても電車が自走したことのない唯一の県です。徳島県民にとっては、遅れてる~と言われそうで、あまりアピールされたくない事実かもしれません。

が、電化がすべて良いことかというと必ずしもそうではありません。

電化は確かに初期投資を要しますが、輸送量の大きい路線では輸送単位あたりの維持費用は一般に低く、このため、一度電化が行われた路線の電化設備が撤去されることはまれです。

このため、急勾配と長大トンネルにおける蒸気機関車の煤煙問題を解決するために各地で電化が進みました。アメリカのカスケード山脈越えの路線はかつて蒸気機関車時代に電化されていましたが、ここでもこのような理由からディーゼル化が行われました。

ところが、その後蒸気機関車に代わり、内燃動力で作動する強力なディーゼル機関車が登場し、長いトンネル内でも強力な換気装置が登場しました。このためこうした気動車を再導入したほうが、電化をそのまま維持するよりも有利なケースが増えており、電化が必ずしも経済的に有利でないケースも出てきました。

(注:石油や石炭などの燃料で水を沸騰させて蒸気を発生させ、この蒸気の力でタービンエンジンを回して動力を得るものは「外燃機関」という。蒸気機関車などがそれ。これに対して、ディーゼルエンジンなど、エンジン内で燃料を燃やす内燃機関のほうが一般的には効率が高い)

このため、日本の各県にも同様にかつては電化されていたものが、逆に非電化に転じる路線が出てくるようになりました。とくに都市部においてインターアーバン線では採算がとれなくなり、貨物鉄道などに転換されたケースなどで、電車による頻発運転の旅客列車の消滅により電化が不要になり、電化設備が撤去された事例が多いようです。

例えば、陸前小野~石巻間の仙石線は、東日本大震災による電化設備損壊のため、暫定的に気動車のみで運行しており、このほかにも電化は金がかかるというので、気動に転換した路線は数多く存在します。

さらには、特急列車・貨物列車は電車・電気機関車で運行しますが、普通列車は全列車気動車で運行するなど、ハイブリット的な運用も目立ちます。

石川県の七尾線(七尾~和倉温泉)は1991年の電化時から、特急列車はJR西日本の電車で運行され金沢方面からそのまま和倉温泉駅まで直通しますが、過疎化のために普通列車は七尾駅で運行系統が分断されており、当該区間は気動車で運行されています。

日本の電化率が50%程度と欧米の国に比べて低いのは、総じてこのように地方で過疎化が進む地域における非電化のためです。

電化が進まない多くの場合、その理由は電化を行うには路線への投資額が多くなることです。このため、ある程度需要が継続的に見込まれる都市周辺以外では非電化のままとなっている路線が少なくありません。

その代表的な地域が、最近JRの不祥事でたびたびメディアでも取り上げられることの多い北海道です。人口密度の希薄な地域が多いため駅間距離が長く、輸送密度が低く、また、北海道の場合は機器や架線の雪や寒さによる頻繁に故障も起こります。

その結果、もし電化したとしても電化に関わる投資額や維持・修理のためのコストが高くなり、その割には鉄道電化のメリットを発揮しにくいのです。

日本の非電化路線ではおもに内燃機関を用いた内燃機関車、気動車が使用されています。とくに機関効率や安全性においてディーゼルエンジンが最も有利とされ、多く採用されています。

このあたりのことは、このブログでも、「ディーゼルってなあに?」で詳しく書きましたので更にご興味のあるかたはのぞいてみてください。

ほかにガソリンエンジンやガスタービンエンジンを使用した例もあり、将来に向けては、ディーゼルや水素燃料電池によるハイブリッド車両の開発やバイオディーゼルの実用化検討(いすみ鉄道・北条鉄道)などの取り組みが進められています。

今日本が世界の最先端を進んでいるといわれているハイブリッド技術を用いた鉄道車両の開発も将来的には更に進むかもしれず、そうしたものを輸出することができるようになれば世界にも貢献できますし、日本の経済力アップにもつながっていくに違いありません。

新幹線とともに世界へ羽ばたく技術として大事に育てていってほしいものです。

別府の熊と紅

先日、故郷の瀬戸内海のことを書いていたとき、日本ではじめて阪神・別府航路に投入されたドイツ製の貨客船「紅丸」のことを調べていたのですが、これにまつわる話もなかなか面白そうなので、今日はそのことについて書いて行こうかと思います。

この紅丸(くれないまる)は、1900年(明治33年)に竣工し、1911年(明治44年)に大阪商船が購入して運航した貨客船です。「初代の瀬戸内海の女王」とも言うべき存在で、大阪、神戸と別府温泉を結びつける大きなきっかけを作った貨客船であり、その後初代に続いて何代も後継船が作られ、現在もその後継船が就航しています。

1884年(明治17年)創立の大阪商船は当初、瀬戸内海沿岸部の小規模船主の集合体という感があり、手中の船舶も雑多でした。

創立当初は山陽鉄道(現・山陽本線)も全通しておらず、九州へ向かうには船しか交通手段がありませんでした。

このため、大阪商船は雑多な航路を整理しつつ瀬戸内海沿岸の複数の港町を結んで大阪と九州を往復する航路を開設することとし、1888年(明治21年)にはそのうちの一つである大阪と熊本を結ぶ大阪三角(みすみ)線が国から開設が奨励された「命令航路」となって補助金が得られるようになりました。

この大阪九州航路は、全行程が2日強というものでしたが、陸上交通網がまだ九州まで伸びていなかった1901年(明治34年)までは競合者はおらず、まさに独断場でした。

しかし、その明治34年に山陽鉄道が馬関(下関)まで全通すると、形勢はたちまち逆転します。山陽鉄道はあらゆる策を弄して航路に挑戦しはじめ、大阪から博多まで関門連絡船経由でも20時間しか要しないとなれば、この勝負は明らかでした。

このため、大阪商船はそれまでの方針を転換し、航路を大阪と、九州の港町のうち鉄道が十分に整備されていなかった町を結ぶものに再編成し、特に著名な温泉地である大分の別府に向かう航路に力を注ぐことになりました。

話はこれより一年さかぼりますが、1900年(明治33年)、上海のS・C・ファーンハム造船所で一隻の河川用客船が竣工しました。名を「美順」 (Mei Shun) といい、ドイツの海運会社である北ドイツ・ロイドという会社が中国の長江航路に投入するために建造されたものでした。

竣工後、「美順」は予定通りに長江航路に就航していましたが、1911年8月25日に上海で火災事故を起こして下部船体は無事だったものの上部の艤装部分は全焼し、ほぼ廃船が決まっていました。このため北ドイツ・ロイドは焼け落ちた「美順」を保険会社に委託して手放すことにします。

大阪商船がこの廃船寸前の「美順」に目をつけ購入しようとしたのは1911年12月のことでした。上海で仮修理を行ったのち日本に回航し、三菱神戸造船所で大修理を行った結果、「美順」は見事に復活し、この修理が終わったあと、大阪商船はこれを「紅丸」と命名しました。

そして、1912年(明治45年)5月から別府航路に就航させはじめました。しかし、就航当初のころ、別府港には十分な停泊施設がなく、当初は沖合に停泊し客は危険を伴うはしけでの上陸を強いられていました。

このとき、紅丸を運航する大阪商船に掛け合い、1916年には汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのが、地元別府の商人で、「油屋熊八」という人でした。歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家であり、別府の恩人として今もこの町の人々に語り継がれている人物です。

1863年(文久3年伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の生まれで、1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築きました。

別名「油屋将軍」として一時はかなりの羽振りの良さをみせていましたが、やがて日清戦争後のときに相場に失敗して全財産を失ってしまいます。

失意の中、35歳の時にアメリカに渡り、各地を放浪した結果、現地の教会でキリスト教の洗礼を受け、その後およそ3年にわたってカナダ、メキシコまで旅をして回りました。

帰国後、再度相場師となろうとしますがうまく行かず、熊八がアメリカに渡っていた間に別府に住むようになっていた妻を頼り、熊八もまた1871年(明治4年)に別府に移り住みました。ちょうどこのころ、別府では別府港が開港されために温泉地として飛躍的に発展してきており、熊八はここで再起を図ろうと決意します。

そして、1911年(明治44年)、「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、亀の井旅館(現在の亀の井ホテル別府店)を創業。この言葉をサービス精神の基本とわきまえ、旅館業を発展させていきます。

紅丸を運航する大阪商船に掛け合い、汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのもちょうどこのころで、1916年(大正5年)のことでした。

「旅人をねんごろにせよ」を彼が実践していたことの表れのひとつとして、この当時、彼の旅館には、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたことなどがあげられます。

またこの間、梅田凡平らとともに別府宣伝協会を立ち上げています。梅田凡平とは先祖代々医者をしていた人物で、京都でも有名な家柄に生まれたのち、別府に流れてきてここで医者をやるようになりました。敬虔なクリスチャンでもあったことから、おそらくは教会で熊八と知り合ったのでしょう。

子どもの頃から、歌と踊りと童話が大好きだったそうで、歌や踊りや童話で子どもたちを、楽しませるのを人生の任務にしていたといい、その一環として「別府お伽倶楽部」という子供たちと交流する活動を行っていました。これ梅田に誘われてこの活動に参加する中で、熊八もまた自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアを思いついていきました。

そして、その後盟友となる吉田初三郎とともに、このころからそれらのアイデアを使い、別府宣伝協会を通じて別府の名前を全国へと広めていきました。

吉田初三郎というのは、この大正期から昭和にかけて活躍した、「鳥瞰図絵師」です。鳥瞰図というのは3Dのように立体的に作った地図です。現在でいえば3D映像クリエーターといったところでしょうか。

この時代にそういう職業があったこと自体が驚きですが、1914年(大正3年)、日本で最初の鳥瞰図といわれる「京阪電車御案内」を完成させ、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受けたといいます。以後、大正から昭和にかけて日本の観光ブームの勃興もあいまって初三郎の鳥瞰図の人気はいよいよ高まっていきました。

生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれ、その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を持っていた鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会社、船会社といった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などに及びました。

高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けていましたが、そんな中、別府を宣伝していた熊八とも出会い、意気投合したようです。

また、ちょうどこのころ、熊八は加賀国(現石川県)出身の中谷巳次郎とも知り合い、彼と共に由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発を始めました。

中谷の実家は金沢の裕福な庄屋の家筋でしたが、巳次郎の代で資産を蕩尽した挙げ句、別府市内に流れ着き、熊八に見いだされたのでした。

熊八との出会いは何等かの偶然だったそうで、「別府の奥座敷」の建設のきっかけはその偶然会った熊八がたまたま話した将来の「夢」だったそうです。その熊八の夢に合い乗りして別荘を建てはじめたのですが、このころの二人はまだ「夢」ばかり大きくて「財布」の中身は極めて小さかったそうです。

しかし、鉄道会社やバス会社、船会社といった交通事業者や各地の旅館やホテル、役人などに顔の広い吉田初三郎の助け受け、その紹介で知己を得た大阪の財閥、清水銀行の好意などで食い扶持を繋ぎながら、熊八と巳次郎は徐々に別府と由布院盆地に根を生やしていきました。

そして、苦労の末、亀の井旅館での実績を積み重ね、1924年(大正13年)にはこれを洋式ホテルに改装することができるまでの資金を得るようになります。そしてこのホテルを「亀の井ホテル」として開業。

この亀の井ホテルは、熊八の死後、売却されていますが、平成6年に関西のファミリーレストランチェーンで有名なジョイフルに買収され、以後もこの「亀の井ホテル」を冠したビジネス系のホテルを各地に増やし続けています。が、無論、名前以外は油屋熊八とは全く関係がありません。

熊八はこのホテル事業の成功に続いてバス事業にも進出し、1928年(昭和3年)1月10日には、亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立。日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始しました。

クリスチャンだったこともあり、酒を飲まず、「旅館は体を休める所であり、飲酒をしたいなら外で飲むか他の旅館に行ってくれ」が熊八の口癖であったそうで、こうして経営するようになった別府や湯布院の旅館では、当時では珍しく酒類の提供は行わせなかったといいます。

亀の井自動車もまた熊八の指示で、運転手の飲酒を禁止し、破った運転手は乗務禁止を課していました。

ある日、森永製菓の創業者である森永太一郎が別府の彼の旅館を滞在中に酒を注文しようとして断られたという逸話が残っています。それでも酒を出せとなおも食い下がる太一郎に向かって熊八は、「あなたは子供のための菓子を作っている会社の社長であるのに、酒が飲めないのかと悔しがるのはおかしい」と言い放ったといいます。

しかし、さすがにその後、旅館で禁酒はあまりにも客が可哀相だという意見が多くなったため、清酒は2合、ビールは1本を限度に提供を開始したそうです。

こうして熊八の事業はどんどんと発展していきましたが、1935年(昭和10年)3月に72歳で死去。

その後もしばらくは、亀の井自動車や亀の井ホテルは営業を続けていましたが、熊八が亡くなったあと借金の返済のために売り払われました。

いまでこそ観光地の売出しや開発に公費の支出が当たり前な時代ですが、この当時は現代とは違い、別府温泉の宣伝はすべて熊八個人の私財と借財でまかなわれていたため、死後その宣伝費用が補えなくなったことなどが原因のようです。

熊八は別府の観光開発において数々の斬新な取り組みを行ったアイデアマンとしても知られています。

上でも書いたように大阪と別府港を結ぶ定期航路の汽船を運航する大阪商船に掛け合い、汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのをはじめとし、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案するなど、その生涯にわたって別府の宣伝に尽力しました。

このフレーズを刻んだ標柱を1925年に富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回ったといい、また、別府市内・大分県内はもとより福岡・大阪・東京などの建設する予定はさらさら無いところにでも「別府温泉 亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を、に立て別府を宣伝していたそうです。

自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型でもある、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間の観光自動車道を提唱したのも彼であり、1925年(昭和元年)にはルート上の長者原に自らのホテルを開設しています。

さらにその翌年には別府ゴルフリンクスというゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形も提案しました。1927年に大阪毎日新聞主催で「日本新八景」が選ばれた際に、葉書を別府市民に配って組織的に投票を行い、別府を首位に導いたこともあったといいます。

繰り返しになりますが、1928年(昭和3年)に日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスを考案し、これを使って別府地獄めぐりの運行を始めたほか、1931年(昭和6年)には手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催するなど、次から次へとアイデアが沸いてくる人でした。

現在日本中で使われている「温泉マーク」を考案したのも彼であり、これは当初別府温泉のシンボルマークとして人々に愛用されたものが、全国に広がっていったものです。

その行動力と独創力に敬意をこめ別府観光の父・別府の恩人として慕われており、現在も別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られています。2007年11月1日には、その偉業を称えて大分みらい信用金庫(本社・別府市)の依頼により、別府駅前にブロンズ像が建てられたそうです。

そのブロンズ像は片足で両手を挙げ、熊八がまとうマントには小鬼が取りついているそうで、これは、制作した彫刻家・辻畑隆子氏によると、天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージとのことで、人々に愛されたユーモアたっぷりの故人の姿が目に浮かぶようです。

しかし、彼の墓は別府には設けられず、故郷の宇和島市の光国寺にあるということです。

さて、ずいぶんと寄り道をしてしまいました。熊八の話はこれくらいにして、「紅丸」の話に戻りましょう。

この船は就航の時点において、これまで瀬戸内海航路に使われていた船の中では最大を誇り、当初から乗客の好評を得ていました。

なかでも船内設備は従来船と比べて格段に優れており、一等船室はベッド付き、二等船室も絨毯が敷かれて「船室にいながら瀬戸内の風景が楽しめる」ことが一つの売りとなり、三等船室も「蚕棚」と呼ばれていた殺風景な寝台を廃止して畳敷きの大広間としました。

就航当初の「紅丸」の就航ダイヤは、大阪市内の端建蔵橋(はたてくらばし)の船着場を午前10時に出港し、神戸港には正午過ぎに入港、午後1時に神戸を出港して翌朝に高浜港に到着、午前8時に出港して午後1時ごろに別府港に到着するというものであり、電車がない時代にあってはかなり多くの人々が重宝したようです。

ところが、この当時、前述の別府港だけでなく、今は日本でも有数の港となっている神戸港ですら、「紅丸」が横付けできるだけの埠頭がなかったといいます。

このため、乗客はメリケン波止場から小型の蒸気船で沖に停泊する「紅丸」に向かわなければならず、このための時間ロスは大きかったようです。それでも従来別々の汽船を乗り継ぐ方式の従来ルートと比べて1日の短縮となりました。

また、「紅丸」の就航は別府と大阪の観光やインフラストラクチャーの面で大きな影響を与えました。

一つは、それまでは、単に九州の保養地に過ぎなかった別府に、「関西からの入湯客」が訪れるようになり、観光地としての格付けが上がったことであり、いま一つは、大阪商船が、手狭になった端建蔵橋から天保山に新しいターミナルを建設しなければならなくなったことでした。

この天保山客船ターミナルは、現在国際集客都市「大阪」の海の玄関口として整備され、毎年多くのクルーズ客船が寄港しています。ターミナルに隣接して、「天保山ハーバービレッジ」や天保山公園があり、特に客船が寄港した際には乗客や乗員、客船ファンなど多くの人々でにぎわうといいます。

1921年(大正10年)12月、大阪商船はこうした天保山ターミナルなどの整備の結果を受け、別府航路向けにより大型で、初めから専用船として建造された「紫丸」(1,586トン)を投入し、これによって「紅丸」は大阪徳島線に転じることになりました。

さらに1924年(大正13年)には、機関を最新型のディーゼル機関した二代目「くれなゐ丸」(1,540トン)が就航したことにより、初代「紅丸」は「鳴門丸」と改名します。

1932年(昭和7年)から始まった船舶改善助成施設では、船齢が30年を越えていた「鳴門丸」も一度は淘汰の対象となりました。船舶改善助成施設というのは、日本政府が1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)まで3次にわたって実施したスクラップアンドビルド方式の造船振興政策のことです。

老齢船解体を条件に優秀船の新造について補助金を交付することで、造船需要の増加を図るとともに、余剰船腹の圧縮と商船の質向上により海運を合理化することも目的としました。また、有事の商船徴用に備える軍事上の目的もありました。

1935年(昭和10年)には大阪商船も新造貨物船「かんべら丸」(6,477トン)を建造する代わりに紅丸を解体予定船としてリストアップしましたが、最終的には対象から外れました。

一方、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦を経て、1942年(昭和17年)に大阪商船や他の船主の瀬戸内海航路を統合経営する「関西汽船」が設立されました。これは、大阪商船の内航部を分離し、宇和島運輸ほか5社と共同で設立されたものです。

このとき紅丸=鳴門丸の船籍も関西汽船に移りました。大阪商船は、その後1964年(昭和39年)に三井船舶と合併し、大阪商船三井船舶となり、現在は株式会社商船三井と呼ばれる会社になっています。

初代紅丸と同名の二代目「くれなゐ丸」はその後太平洋戦争のさなか、フィリピン沿岸航路に供出され、「くれなゐ丸」以降に建造された他の大阪商船の客船も陸海軍に徴傭されていきました。

このため、旧式の「鳴門丸(紅丸)」が別府航路に復帰しましたが、1945年(昭和20年)3月からの飢餓作戦により瀬戸内海にも機雷が投下され、ついに運航を停止せざるを得なくなりました。

「くれなゐ丸」は昭和18年からはマニラとセブ間の定期航路に就航し、運航から1年近く経った1944年(昭和19年)9月、アメリカ海軍空母の艦載機によって襲撃されて沈没しました。

鳴門丸に改名した紅丸も、大阪港停泊中の6月26日には空襲で至近弾を受けて損傷を生じましたが、8月15日の終戦を浮いたまま迎えることができました。しかし、それから1カ月経った9月18日に大阪港内で座礁沈没。

1946年(昭和21年)7月8日付の「神戸新聞」の記事では、大阪湾で沈没したままの船の一隻に入っており、記事掲載以降に引き揚げ・解体されたようです。

しかし、それから14年経った戦後の1960年には、三代目「くれない丸」が就航して、引き続き「紅」の名を世に残しました。造船所は新三菱重工神戸で、名前は「くれない」でしたが、イメージカラーはライトグリーンで、船体下部とファンネル(煙突)は同色に塗装されていました。

そして、この年、かつての紅丸のように、大阪港~神戸港~松山港~別府港を結ぶ別府航路に就航。このとき僚船として活躍したかつての「むらさき丸」も「くれない丸」の同型船として二代目復活し、ともに就航しました。

のちには更に僚船として「すみれ丸」「こはく丸」「あいぼり丸」「こばると丸」が次々と就航し、関西汽船の3000トン級クルーズ客船は、最大時6隻体制となりました。

この時期、「くれない丸」他5隻が就航していた別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運びました。

メインは2人部屋の一等客室であり、客船としては小型ではあるものの豪華で俊足を誇る優秀なクルーズ客船でした。

1961年に当時実験途上であったバルバス・バウと呼ばれる装備が取り付けられ、「むらさき丸」と比較するための併走実験も行われました。バルバス・バウは造波抵抗の低減に効果があると言われていた装置です。喫水線下の船首に設けた球状の突起であり、球状船首、船首バルブともいわれます。

その結果は良好でバルバス・バウによる高速化の効果が実証され、大阪港~別府港の航海時間は、急行列車にも引けを取らないおおむね14時間になりました。

こうした成果は、新しい時代の客船として広く世に知られるようになり、就航後3年を経た1964年6月には、河野一郎建設大臣と瀬戸内沿岸の知事・市長らによる「瀬戸内総合開発懇談会」が船上で開催されています。

しかし、他社による長距離フェリーの参入があったことに加え、その後1975年3月の山陽新幹線の岡山駅~博多駅間の開業により、別府航路の利用客は1979年にはピーク時の半分程度となり、「くれない丸」「むらさき丸」の乗船率も25%前後にまで下落しました。

1975年12月には、運行時間の変更が行われ、この変更によって両船の運行時間は景色を楽しめない夜行便となり、このことも人気の下落に拍車をかけました。

こうした情勢を受けて1980年に別府航路もまたフェリー化されることとなり、7000トン級フェリー船(旅客・自動車併載船)フェリーとして就航した「に志き丸」・「こがね丸」に航路を譲り、ここにくれない丸やむらさき丸は退役を強いられることになります。

こうして同航路は産業的輸送路線の色彩を強めまるところとなり、これ以降に建造された後続船は、搭載されるトラックのドライバー用船室のほか二等客室なども重視される設計となり、別府航路の格式は変化を余儀なくされていきます。

くれない丸は別府航路からの退役後は予備船となりましたが、その後関西汽船から佐世保重工業に売却され、しばらく係船されたのち、1988年スエヒログループ総帥の吉本日海が率いる日本シーラインによってレストランシップに改装され、その名も「ロイヤルウイング」と近代的な名前に改称されました。

同時に株式会社ロイヤルウイングが横浜市中区に設置され、同船を運航する企業となりました。そして2013年現在でも、横浜港大桟橋を母港とする横浜港東京湾クルーズ客船として同社により運営されています。

そのホームページをのぞいてみると、サービスとしては、ランチクルーズ・ディナークルーズなどがあり、これは乗船料2400円、ティークルーズ2000円と結構リーズナブルです。

ただし、食事をする場合は、食事代が別途必要であり、食事をしない場合はサンデッキのみの利用となるようです。バイキングを中心に、飲茶等が用意されており、中国飯店協会より最高料理人の認定を受けた蘇敬梨(ソケイリ)さんが総料理長を務めているそうです。

基本的に、毎日「ランチクルーズ」「ティークルーズ」「ディナークルーズ(2回)」があり、また、結婚式などの各種貸切プランも用意されています。このほかにも「記念日プラン」、「観光・デートプラン」など様々なプランがあり、季節行事などもいろいろあるようです。

総トン数2876トンという船腹はゆったりと海の上を過ごすには十分な大きさであり、オフィシャルHPによれば、

「ドアやカウンター、棚など、随所に木を使用した室内インテリアに、ダウンライトやピンスポットを効果的に配置したライティング、花々をモチーフにデザインされたタペストリーや絵、調度品の数々。窓からふりそそぐやわらかな自然光と相まって船内とは思えない洗練された落ち着きのある雰囲気」

だそうです。

関東地区で運航されているクルーズ客船の中ではかなり大きな船体を持つもののひとつであり、古い時代の姿を残している船として多くのテレビや映画での撮影に用いられているそうで、一度は乗ってみたいものです。

1911年(明治44年)に大阪商船が購入して運航した貨客船、紅丸の名前は失われてしまいましたが、その優美な姿はどこかその当時の面影を残しています。

別府を日本でも有数の観光地にした油屋熊八もまた、生きていたら乗ってみたがるに違いありません。

その姿を見るだけでもいい、という人は、神奈川県横浜港の大桟橋へ行かれると良いでしょう。2002年に完成したこの大桟橋は、船舶を係留するふ頭と国際客船ターミナルにより構成され、横浜港における国内及び外国航路の客船の主要発着埠頭でもあります。

横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られており、ロイヤルウイング以外にも日本郵船のクルーズ客船である飛鳥IIの姿も見ることができるはずです。晴れた日に、散策気分でぜひ行ってみてください。

ちなみに、この大桟橋屋上のフリースペースは、大型客船の入出港時等は多くの見物客で賑わい、今や横浜の一大観光スポットとなっていますが、このスペースをより親しみやすい場所に育てるべく、2006年に横浜市港湾局が愛称を一般から公募しました。

その結果、大さん橋全体を大きなクジラに見立てる形での「くじらのせなか」という物が選定され、同年12月に公式な愛称として同港湾局より発表されました。

またその後、この愛称を派生させる形で、大さん橋の室内部分は「くじらのおなか」と呼ばれるようになっているそうです。ミニコンサート等のイベントが行われる場合、「くじらのおなかコンサート」といった呼称がつけられることもあるとか。

みなさんもぜひ、くじらの背中に乗り、おなかに入ってみてください。

瀬戸内発


昨日の雨は富士山では雪に変わったらしく、今朝みると、この秋初めて宝永山火口すべてが真っ白になっています。

夜になると寒く、外はまだ秋色ではあるものの、いきなり冬がやってきた感じがします。秋はまだ間に合うのでしょうか?

さて、今日は、私の生まれ育った広島や山口県が面している瀬戸内海について少し書いてみたいと思います。

瀬戸内海を知らない、という人はいないでしょう。しかし、瀬戸内海はどこからどこまでか、と聞かれると、うーんと迷ってしまう人も多いのではないでしょうか。

瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり、複数の法令で範囲が定義されています。が、基本となっているのは、領海及び接続水域に関する法律施行令(通称、領海法施行令)であり、これによれば、その海域の領域は次の三つのラインで規定されています。

1.紀伊日ノ御埼灯台から蒲生田岬灯台まで引いたライン
2.佐田岬灯台から関埼灯台まで引いたライン
3.竹ノ子島台場鼻から若松洞海湾口防波堤灯台まで引いたライン

と言葉で書いてもわかりにくいので、下の図をご覧ください。

思ったより広範囲だな、と思うか、あるいはだいたい思っていたとおりという人と半々だ思います。が、多くの人が迷うのが、四国と大分県に挟まれた豊後水道(豊予海峡)の海域が瀬戸内海かどうかという解釈でしょう。

実は、瀬戸内海の海域を規定する法律はもうひとつあって、これは瀬戸内海環境保全特別措置法といい、通称は「瀬戸内法」と呼ばれており、この法律では豊後水道の海域まで含めた海が瀬戸内海となっています。

この違いは何かといえば、前者はあくまで国際的に瀬戸内海はここまでですよ、と知らせるための法律であり、「領海法」の名前でもわかるとおり、もし他国と領海を争うことになった場合に、これは法律でも定めてあるから間違いなく日本の海ですよ、と開き直るためのものです。

一方の領海法のほうは、どちらかといえば国内向けの法律であり、「環境保全特別措置法」の名前のとおり、国をあげての環境保全を行う場合、豊後水道まで含めて面倒見ましょう、という範囲を規定したものです。

従って法律的にはどちらも正しいわけです。が、我々の通常の感覚からすると、瀬戸内海といえば領海法に規定されている、豊後水道は含まない範囲を指すことが多いかもしれません。

これに属する件は、山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、香川県、愛媛県、徳島県、福岡県、大分県の11もあります。無論、それぞれ海岸線を持っており、沿岸の陸地も含めて、その通称を「瀬戸」または「瀬戸内」と呼んでいます。

ただし「瀬戸内海」は「瀬戸内」に単に「海」をくっつけてそう呼ぶようになったわけではなく、これは「瀬戸の内海」という意味であり、「瀬戸という地域の内海」ということです。ま、どうでもいいような話ですが……

この瀬戸内海ですが、古来、畿内と九州を結ぶ非常に重要な航路として栄えました。その理由はもちろん、外海に面しておらず、通年を通じて波が低く、温暖なためです。ここの気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖なだけでなく、雨量が少ないことでも知られています。

また、島が多く、海が荒れた場合でも避難できる場所が多いことも船舶にとってはありがたかったわけです。内海に面しているため、外洋から大きな津波が侵入してくるおそれもありません。仮に瀬戸内海内で地震が起きて海底が隆起して大波が発生したとしても、陸地までの距離が短いので、大津波になりにくいということもあります。

津波というのは、かなり深い海で発生したときにはたいした高さがありませんが、これが陸地に向かって水深の浅い大陸棚を駆け上がるとき、加速されると同時に波高も増して数十倍までの大きさになるのです。

瀬戸内海の大きさは、東西に450km、南北に15~55kmほどで、平均水深は約31mですが、もっとも深いのは、豊予海峡と鳴門海峡のあたりで、ここでは最大水深が約200mあります。

多くの島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られており、天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリなどの海洋生物や、アユ、ホオジロザメを初めとする400~500種類を越す魚類が生息しています。

このカブトガニは、天然記念物なので当然捕獲してはいけないのですが、小学校のころ、私のクラスの男の子が、めずらしいからとこれを捕まえて教室まで持ってきたことがあり、当然のことながら、先生にはこっぴどく叱られました。

また、いたるところに遠浅の海があり、私が夏になると良く行く、山口県の宇部市の「岐波(きわ)」というところなどは、潮が引くと、はるかかなた1km以上も先まで海の中を歩いて行けます。海の中といっても、潮が引いている間は当然陸地です。

この場所が好きで、昔は潮干狩りがてら良く出かけ、アサリやハマグリをよく採ったものですが、最近は乱獲により、めっきり少なくなりました。

こうした瀬戸内海の豊かな自然がなぜ作られたかといえば、これはこの潮の干満差が大きいことが原因です。香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間の燧灘(ひうちなだ)というところの干満の差はこの岐波以上におおきく、実に2m以上にもなります。

こうした大きな干満差のため、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もあります。この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」です。この強力な潮流によって外洋の海底部の養分が常に巻き上げられ、強い流れとともに瀬戸内海に大量の動植物プランクトンが流れ込みます。

一方、いったん瀬戸内海に入ってきたプランクトンも大きな干満差と強い流れによって海水が撹拌されるため、その成育が促されます。プランクトンが豊富なため、当然これを食べる魚も豊富であり、かつ種類が多くなるわけです。

また信じがたいことですが、かつて20世紀初めごろまでにはここはクジラの一大生息地でもあり、コククジラやセミクジラなどが多数生息していたそうです。これらのクジラは捕鯨と汚染により瀬戸内海からはほぼ消えてしまいましたが、最近、90年代のはじめごろから、瀬戸内海でクジラの目撃がにわかに増え始めています。

広島県の倉橋町の沖では100頭ものゴンドウクジラの群泳が目撃されており、また大阪湾には九六年から子連れのミンククジラが相次いで出現したほか、香川県の志度町沖では漂流死体が揚がったそうです。

もっとも、瀬戸内海の自然が急速に回復したからというわけではなさそうで、専門家によれば黒潮の分流に乗ってエサを追いかけ、瀬戸内海に入り込んだとみるのが自然なのだとか。とはいえ、日本近海におけるクジラの個体そのものは増加しているのではないか、という見解もあるようです。

第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達しました。

が、その後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況です。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊されたことと乱獲のために激減しており、ハマグリはほぼ絶滅状態となっています。

しかし、瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場であり、江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んでした。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁や、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていました。

こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却されました。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれ、広島のカキも江戸時代には関西に広く流通していました。

広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼるといわれており、このほか現在ではブリ、タイ、ワカメ、海苔などの養殖が盛んに行われています。

明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていきました。山口県や広島県の一本釣り漁師たちの多くが台湾や、遠くはハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁し、その一部は彼の地で定住するようになりました。

このほか、瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られています。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことです。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かったといいます。

このように活発な漁業活動を支えた瀬戸内海の豊かな自然は、江戸時代に来日した医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価されましたが、彼等はまたこの瀬戸内の景色をみて、すばらしい景勝地だと、別の面からも高い評価を与えました。

19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンなどは、その著著「支那旅行日記」で「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と書き記しています。

この本は各国で出版されたため、見てもいないのに瀬戸内海は風光明媚な風景として世界で絶賛されるようになりました。

瀬戸の内海、瀬戸内海というこれらの地域をまとめてこう呼ぶようになったのは、江戸時代後期とされています。それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念しかなく、現在のように瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していませんでした。

とはいえ、江戸時代の「瀬戸内」の概念は現在のように広範囲ではなく、1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記「海陸道順達日記」によればこれは、尾道と下関の間の限定された範囲でした。

「瀬戸内海」の範囲が現在のようになったのは、明治期に入って欧米人がこの海域全体を指してを“The Inland Sea”と呼んだことによります。無論この範囲には大阪湾までの海域も含まれています。

欧米人がこう呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼ぶようになり、これが明治時代の後半には誰もが瀬戸内海といえば下関から大阪、淡路を含む広い範囲であると解釈するようになっていきました。

つまり、現在のような瀬戸内海の範囲を決めたのは日本人ではなく、外国人だということになります。

ただしこの時期の「瀬戸内海」はせいぜい明石海峡から関門海峡までの海域でした。これが更に現在のように明石海峡から南の和歌山沖や、豊後水道まで含めるようになったのは、1911年に小西和という学者が書いた「瀬戸内海論」という論文です。

小西はこの論文で瀬戸内海の範囲を現在のように豊予海峡と鳴門海峡と規定するとともに、「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議しました。

この建議は容れられて1931年に国立公園法が制定され、その三年後の1934年には、瀬戸内海は雲仙、霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となったのです。

瀬戸内海の地理地形

この瀬戸内海という大きな海がどうやってできたかですが、1600万年ほど前、日本列島はユーラシア大陸から分離し、このとき古瀬戸内海と呼ばれる海が出現しました。

古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていました。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していました。

1400万年前から1000万年前になると、奈良県の各所や、香川の讃岐、山口県の周防大島などで火山活動が活発化するようになり、これらの火山の噴出物によって古瀬戸内海はいったん陸地になりました。そして7万年前には、ウルム氷期という氷河期が始まり、瀬戸内海一帯にはステゴドンと呼ばれる大型の像やナウマン象が生息するようになりました。

広島では、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたこともわかっています。しかし、1万年前に氷河期が終わると気温が上昇し、これに伴い海水面も上昇し、6000年前までに現在のような瀬戸内海が形成されました。

それまでの火山活動、地殻変動や氷河の流れなどによりかなり凸凹していた瀬戸内海に海水ができたことにより、瀬戸内海には大小あわせて3000もの島が浮くようになりました。

これらの多くは現在でも無人島であり、周囲数メートルしかない小さな島も多数存在します。大きな島としては、東部の淡路島、小豆島、中部の大三島、因島などがあり、西部の周防大島、倉橋島、能美島、そして忘れてはならないのが、我々が結婚式をあげた厳島です。

歴史

歴史的にみると、瀬戸内海は古くから交通の大動脈として機能してきました。古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であり、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ、各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられました

またこの頃、崖の上のポニョで有名になったそのモデル地といわれる広島県の「鞆の浦」は瀬戸内海の中央に位置するため、汐待ちの港町として栄えていました。汐待ちというのは昔の船は帆走船しかなかったため、風が凪ぐと航海ができず、このため風を来るのを待機するための待合場所が町として発展したのです。

奈良時代に入ると、山陽道や南海道の陸上の交通網が整備されるようになりましたが、だからといって瀬戸内航路が廃れたわけではなく、唐などの外国使節が瀬戸内海を通った記録も残っており、日本人の多くも瀬戸内航路を引き続いて利用していました。

平安時代中期ころになり、武士が台頭してくると、中には海賊になる者も出るようになり、彼等の中には摂津国の渡辺党のように、水軍系氏族として名を馳せる者も出てくるようになり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏もまた九州の水軍である松浦党をつくりました。

こうした水軍は、その後の時代時代における権力者の手先として活躍するようになります。平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりしましたが、このときにも厳島の村上水軍を味方につけ、彼等にこれらの普請を手伝わせています。

鎌倉時代から戦国時代にかけての中世なると、これらの水軍勢力は力を更に示すようになり、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちはそれぞれ海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内における交通網を取り仕切るようになりました。

やがて豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力は排除されるようになり、瀬戸内海は自由に航行できる海となったため、回船商人らによる西廻り航路(関門海峡~大坂)を初めとして、瀬戸内海はこの時代の物流の主役の務めを果たすようになります。

幕末になると、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海するようになりますが、一方では攘夷派がこれらの外国船を攻撃するようになり、1864年(元治元年)には、下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海は一時封鎖されました。

この事件はその後、馬関戦争に発展し、長州藩と英仏蘭米艦隊との戦いが起きました。馬関というのはこの当時の下関の呼称です。無論このとき長州藩は大敗し、これを境に自国の兵力の弱さを知るところになり、一念発起して逆に欧米の技術を導入するようになり、これが幕末への動乱、ひいては明治維新へとつながっていきました。

明治時代以降、中国地方でも鉄道が開通し、四国においても交通網が整備されるようになり、瀬戸内海を交通路とみなす重要性は次第に薄れていきました。

とはいえ、大正時代のころにはまだ阪神・別府間などに観光航路が開設されたままであり、第二次大戦後においても、一大観光ブームが起こり、これに便乗したクルーズ客船が数多く出現して、瀬戸内海航路は江戸時代の往時に立ち返ったかのような賑わいを見せていました。

その後これらの航路の主役はフェリーに移行しましたが、平成に入った現在も無数の定期航路が存続しています。しかし、ご存知のとおり、本州と四国の間に、三本もの本四架橋が架けられ、陸上交通ルートが確保されたため、多くの定期航路が廃止されるに至っています。

とはいえ、観光を目的としたクルーズ船などはいまだ多数存続しており、近年の「地方ブーム」に乗って、こうした観光船を有する旅客会社や運送会社はそこそこの営業成果をあげているようです。

瀬戸内海の観光

こうした観光地としての瀬戸内海ですが、庶民の観光旅行が一般化した近世には、「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」などに登場する古戦場である、屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸などが観光名所として注目されるようになりました。

また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになり、瀬戸内海各地の名所は「諸国名所百景」などの浮世絵にもたびたび登場するようになります。

さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする旅籠、茶屋、土産物屋などといった観光産業が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになりました。

この時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されており、このほか幕末近くになると多くの外国人が瀬戸内海を訪れるようになります。中でも前述したとおり、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が世界に瀬戸内海を紹介しました。

トーマス・クックはイギリス出身の実業家で、自らの名前を冠した旅行代理店であるトーマス・クック・グループで事業を拡大し、近代ツーリズムの祖として知られる人です。

また、ユリシーズ・グラントは、元軍人で南北戦争北軍の将軍を経て第18代アメリカ合衆国大統領になった人です。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで最も有名な将軍の一人です。が、一方では大統領在任中の多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領の一人と考えられています。

1879年(明治12年)には国賓として日本を訪れており、このとき書いた瀬戸内海の見聞記が後に世界に広まりました。

このときは浜離宮で明治天皇と会見し、増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹しました。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなりました。

このころの日本人の瀬戸内海観光が「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝であったのに対し、こうした欧米からの賓客は瀬戸内海各地でこの当時当たり前のように見られた風景に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていきました。

それらは、日本人なら普通の風景として目にうつる多くの島々や、段々畑、白砂青松、行き交う和船などといったごくごく普通のものでした。しかしそれらの風景に価値があることを日本人は逆に外国人から知らされるようになり、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していきました。

こうして1912年(明治45年)には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となります。

1934年(昭和9年)には前述のように瀬戸内海は日本初の国立公園の一つとなり、その効果もあって、その後もこうした観光客船の就航が相次ぎました。

戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航させ、その後3000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)もまた、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運びました。

その後、新幹線などの内陸鉄道の普及により、こうした船を利用した旅行は次第に影をひそめていきました。

しかし、1987年の「総合保養地域整備法」制定された際には、日本中にリゾート開発ラッシュがおこり、これは瀬戸内海でも例外はなく、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設されました。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもありました。

ところが、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発の多くは中断され、開発中途で放棄された土地も発生し、多くは廃墟のようになりました。これらがまた瀬戸内海の景観を壊すようになったとみる向きもあるようです。

その後、1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録されました。また1999年に本四架橋が全て完成すると、よくその代表とみなされる尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとしての注目を浴びるようになります。その他の二本のルートも観光名所として高い人気を誇っています。

現在の瀬戸内海は、これらの「新観光地」を中心として一定の人気を博しているようですが、バブル期ほどのにぎわいはないようです。またその昔は瀬戸内海の島々を巡る周回航路なるものも存在していたようですが、現在では定期的な航路はほとんどありません。

瀬戸内海はこうした観光・レジャー利用以外にも重工業、石油化学産業などが多く立地している工業地帯でもあり、現在、日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、そのための環境悪化も進んでいます。

上述のとおり、その昔は漁業も盛んでしたが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少しました。その原因は各地で埋め立てが行なわれたためであり、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されています。

日本の国立公園第一号として登場したという事実すら風化しようとしているといえ、ぜひそのことを思い出して、この美しい風景を後世に残していってほしいものです。

ちなみに、ですが、世界遺産登録された瀬戸内海に浮かぶ島、宮島へは、本州側の宮島口桟橋から宮島にある宮島桟橋までのフェリーが就航しています。

JR西日本宮島フェリーの宮島航路と、宮島松大汽船の宮島航路の二つがあり、いずれも料金は同じで、片道たった170円です。

乗船時間もまたたった10分ほどですが、この船上からは宮島の大鳥居はもとより、東は広島湾岸の工業地帯や住宅街が見通せ、西に目を向けると見渡す限りの牡蠣筏や海苔の養殖いかだを見渡すことができ、壮快そのものです。今日のこのブログに掲載した写真も以前、このフェリーに乗ったときに撮影したものです。

たった10分の船旅ではありますが、瀬戸内海の風景と世界遺産宮島の観光美を堪能して帰ってくるための対価がいまどき「たった」340円というのは安いと思います。

宮島へ行ったことのない方も一度はぜひお越しください。きっと素晴らしい景色に出会えると思いますから。

人間強化


先日、NHKで火野正平さんの旅番組、「こころ旅」を見ていたら、その日の旅先は、石巻市にある長浜海水浴場でした。

そこへ行く途中、石巻市内を火野さんたち撮影クルーが通ったのですが、その映像の中に川の側にある円形の丸いドームがあるのが目に留まりました。

何だろうなと気になったのですが、番組内ではとくに説明もありません。気になったのであとで調べてみると、これは、「石ノ森萬画館」という宮城県石巻市中瀬に立地する、宮城県出身の漫画家・石ノ森章太郎のマンガミュージアムであることがわかりました。

石ノ森作品の原画などを所蔵、展示しており、2001年7月に開館。しかし、一昨年の3月11日に発生した東日本大震災の影響によって長期休館を余儀なくされ、昨年の11月から再開館していたことなどもわかりました。

東北地方太平洋沖地震発生直後、来館者約40人は高台へと避難しましたが、その後、大津波警報が発令されたため、臨時休館し、防火責任者である男性職員1人を除き職員は全員帰宅しました。

地震発生から1時間後、津波が石ノ森萬画館へ到達しましたが、この時、この防火責任者の男性職員は、3階まで駆け上がって避難したため、幸い津波から逃れることができたそうです。

この施設は旧北上川の河口に近い中州にあり、津波により1階部分が天井近くまで浸水、配電盤の損傷を受け、瓦礫やヘドロに埋まったり、ミュージアムショップの商品が流失するなどの被害を受けました。

また、一階にあった「石巻マンガロード」という展示コーナーでは、設置していた19体のモニュメントの内、「シージェッター海斗」、「人造人間キカイダー」の2体が流失しました。

しかしこの建物は、チリ地震による津波の教訓から1階の天井が8メートルと高めに設計され、原画の保管や展示は2階、3階部分で行うという措置をとっていたため、館内に収蔵された物品や、避難者への被害はありませんでした。

ただ、建物には1階を中心として修復が必要な個所が多く、また石巻市内は大きなダメージを受け、市内の交通網も断絶するようになっていたため、これにより長期休館することになります。

2012年3月に行われた石巻市議会では約7億5千万円の改修予算案が承認され、石ノ森萬画館の修繕工事が決定しました。そして同年6月に修繕工事を開始し、同年。同年11月上旬には、修繕工事が完了したため、オープンが再開しました。

この博物館は、地上3階建てで1階は映像ホールになっており、石ノ森作品のオリジナルアニメ「龍神沼」、「消えた赤ずきんちゃん」、実写版「シージェッター海斗 特別編」などが上映されているほか、オリジナルグッズを販売しています。

2階は展示室で、石ノ森作品の世界を立体的に再現したコーナーや、原画、「石ノ森章太郎萬画大全集」、石ノ森章太郎が若かりし頃手塚治虫など他の有名画家と共に過ごしたアパートのトキワ荘を再現した模型などが展示されています。

3階は、ライブラリーで、石ノ森作品の本を収蔵するほか、「マルチメディア工房」と称してアニメーション制作を体験するコーナーもあるそうです。

火野正平さんたちがここを通りがかったとき、周囲は津波被害によってまだ殺伐としているかんじでしたが、がれきなどは大方片付いていました。石巻市内の交通網も復活したことから、再オープン後の入場者数もまずまずのようで、週末には結構にぎわっているようです。

ところで石ノ森章太郎といえば、その代表作はやはり「サイボーグ009」であり、このほかにも、「ロボット刑事」、「さるとびエッちゃん」、「マンガ日本経済入門」、「HOTEL」などのヒット作があります。

仮面ライダーシリーズを始め特撮作品の原作者としても活躍し、SF漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し「漫画の王様」、「漫画の帝王」とまで評されました。

残念ながら1998年、心不全により満60歳という若さで亡くなりましたが、没後、勲四等旭日小綬章を受け、全作品に対して第27回日本漫画家協会賞文部大臣賞、マンガとマンガ界への長年の貢献に対して第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られています。

サイボーグ

この石巻作品の代表作にある「サイボーグ」という用語は、「サイボーグ009」の出版をきっかけとして、日本人に広く知られるようになったもので、サイボーグとは人間や動物の肉体を身体機能の補助や強化の目的で改良を行ったものを指しています。

具体例としては、人工臓器などの人工物を身体に埋め込むなど、身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させたもの現実にあり、必ずしもSFなどの架空のものとばかりはいえません。

サイボーグ(cyborg)は、サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略で、広義の意味では生命体(organ)と自動制御系の技術(cybernetic)を融合させたものです。

アメリカ合衆国の医学者、マンフレッド・クラインズとネイザン・S・クラインらが1960年に提唱した概念で、当初は人類の宇宙進出と結び付けて考案されたものだったそうです。が、この提唱よりも前にSF小説では、人間と機械の合体というアイディアそのものは多数使われていました。

しかし、小説や映画ではアンドロイドとの区別が曖昧である場合が多いようです。アンドロイドとは、人間の姿形によく似せた「人間型ロボット」です。例えば映画「ロボコップ」事故で亡くなった主人公をマシンと合体させたサイボーグですが、映画「ターミネーター」に出てくる超人は完全に機械でできているアンドロイドです。

現在までに、サイボーグという言葉はかなり世界的にも浸透しており、サイボーグ技術と呼ぶことができて程度の差こそあれ実用化に達しているものには、ペースメーカーや人工心臓、筋電義手、人工内耳、人工眼(眼球・網膜・視神経などの代替)などが挙げられます。

近年、この分野はめざましい発展を遂げており、従来SFの中でしか語られて来なかった各種のサイボーグ技術が現実の物となりつつあります。

筋電の信号を読み取ることで義手を使用者の意のままに動かしたり、義手に取り付けた圧力センサの情報を逆に神経へ送り返して感覚を取り戻したりする筋電義手などの技術は、すでに実用段階に入りつつあります。

また、脳へ直接電極を差し込み、聴覚・視覚の情報を直接脳へ送り込んだり、脳へ部分的に電気刺激を送りパーキンソン病等の症状を和らげたり、うつ病を治療したりする技術(脳深部刺激療法)も発達しています。

このほか医療目的としては、主に失われた四肢や臓器・感覚器の機能を代替・回復させるために用いられます。代表的なものには、義肢や人工関節のほか、人工臓器である人工内耳、人工網膜、人工腎臓、人工心臓などが挙げられます。また、手足の震えを和らげたり、うつ病の治療に用いられる脳深部刺激療法もこれに含まれます。

人工臓器のうち、古くからあるものには義歯や眼鏡のような単純な器具もありますが、サイボーグの場合は何らかの機構を持つ部品を人体に取り付けたものと定義するとすれば、単なる器物、つまり単体では機能しない義歯・眼鏡などはサイボーグの範疇からは外されることになります。

機能強化目的のサイボーググッズもあります。健常者に用い、人間本来の機能を強化するために用いられるもので、その代表的な物には、パワードスーツ(人工外骨格)があり、追加四肢(3本目、4本目の手足)、追加感覚器(より鋭敏な感覚が得られたり、後方や遠隔地の情報が得られる目鼻)などなどです。

機能追加を目的とする埋め込み型の機器に関しては、ICタグなどのようなチップにID機能(カルテ・クレジットカードなど)を加えてカプセル状機器とし、これを人体に埋め込んで無線通信機能などを持たせることなどが実際に行われています。

が、さらに最近は「ブレイン・マシン・インタフェース」と呼ばれるようなものも開発されています。これは、現在は道具を手などで操作しているものを直接的に身体の一部のように扱えるようにする機械であり、頭に電極を取り付けて脳波を刺激することで、頭で考えた動作を機械が直接行う、といったものです。

アメリカ合衆国では、サイボーグ技術の軍事利用への研究が、DARPA(軍隊使用のための新技術開発および研究を行うアメリカ国防総省の機関)を中心にしてこのブレイン・マシン・インタフェースの研究が活発に行われています。

兵士の身体能力を大きく強化する、戦闘において手足を失った兵士に義手義足を適用する、といったことが目的で、例えば戦場で負傷した兵士の素早い戦場復帰が可能になるとされています。

将来的にはブレイン・マシン・インタフェースの導入により戦闘機パイロットの脳と戦闘機のコントロール機能を接続することで、反応速度の向上を図ることなどまでが考えられているそうです。

他にも、小動物の脳を制御し、遠隔操作で偵察・自爆を行わせたりする動物兵器への応用や、ブレイン・マシン・インタフェースによる無人航空機・無人戦車などの無人兵器(軍事ロボット)を遠隔制御する、などの研究も進められているといいます。

アンドロイド

一方の人間型ロボットであるアンドロイド(android)のほうですが、これはギリシア語のandro-(人、男性)と接尾辞-oid(-のようなもの、-もどき)の組み合わせです。冒頭で述べたとおり、人型ロボットなどの人に似せて作られた存在を指します。

主に人によって製造された、人型ロボットなどの人間を模した機械や人工生命体の総称です。「人造人間」と言われることも多いようです。

架空の存在として、特にSFの漫画、映画、小説などに頻繁に登場します。人造人間という語が広まる以前から「人造の人間」、つまり「自然な状態で生まれるのではなく、作り出されたもの」という概念は存在していました。

実在するものとしての人造人間は今のところ実現していません。しかし、伝説上の存在や架空の存在としての「人造の人間」は古くから語られ、また作品として創作されています。それらの多くは大きく「人造人間」というカテゴリに分類されてはいるものの、個々の「人造の人間」の特徴や特性、呼び名、形状は実にさまざまです。

伝説上の存在としては、古くは、ギリシャ神話の「タロース」、ユダヤ伝説の「ゴーレム」、ギルガメシュ叙事詩の「エンキドゥ」などがあり、有名です。

「ギルガメシュ叙事詩」というのは、現在のイラクの一部にあたる場所に存在した古代メソポタミア文明で生まれた文学作品で、実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュをめぐる物語です。

どこの民間放送だったか忘れましたが、その昔、「ギルガメシュナイト」というお色気深夜番組をやっていましたが、これはギルガメシュ叙事詩の中で主人公の王さまが様々な娼婦や女神さまと交渉を持つ様子が描かれていることに由来したのでしょう。

この「タロース」、「ゴーレム」、「エンキドゥ」について、どんな人造人間だったのか、簡単に見ていきましょう。

まず、タロースは、ギリシャ神話の鍛冶の神、ダイダロスによって作り出された青銅製の自動人形です。伝承によれば、ゼウスが現人類の前に「金の人種」、「銀の人種」、「青銅の人種」を造った際の「青銅の人種」の最後の生き残りです。巨人ではなく現人類と変わらぬ身長だったともいわれ、あるいは牡牛の姿をしていたともいわれています。

ゼウスは、あるときのこと、フェニキア王さまの美しい姫であったエウローペーに一目ぼれします。そしてエウローペーを誘惑するためにこのタロースを与えました。彼女はタロースをクレタ島へタ連れて行き、タロースはこの島を毎日三回走り回って守るようになります。

そしてり、島に近づく船に石を投げつけて破壊し、近づく者があれば身体から高熱を発し、全身を赤く熱してから抱き付いて焼いたといいます。胴体にある1本の血管にイーコールと呼ばれる神の血が流れており、この血管は踵に刺さった釘で止められており、この釘を抜くと失血死してしまうといわれていました。

あるとき、イオールコスという国のイアーソーンという王子が、父から王位を奪った王族のひとりに王位の返還を求めますが、このときこの王族から黄金の羊の毛皮(金羊毛)を要求されます。

イアーソーンは金羊毛を探すため、女神アテネの助言を受けて、有名な船大工のアルゴスに50の櫂を持つ巨船を建造させました。そして、この船名をアルゴスの名から「アルゴー」(「快速」の意)と名付け、航海に出るために船員を募ると、ギリシア中から多くの勇者たちが集まりました。

こうしてアルゴー船に乗り組みイオールコスを出航した勇者たちとイアーソーンは、地中海の数々の島での冒険を経てエウローペーのいるクレタ島に達しました。そしてクレタ島に上陸しようとしたところ、島の番をしていたタロースが石を投げつけて攻撃してきました。

一行はタロースを欺いて薬で狂わせ、不死にするからいってタロースのかかとの釘を抜いたところ、神血が全部流れ出してタロースは死んでしまいました。また別の神話では、アルゴー探険隊がクレーテー島へやってきた時、タロースは呪文で眠らされており、この隙に足の釘を引き抜かれて死んだともいわれています。

次のゴーレム(golem)も良く耳にする怪物です。こちらは、ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く「泥人形」です。「ゴーレム」とはヘブライ語で「胎児」の意味で、作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在でした。運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化します。

現在では、運用上の厳格な制約が数多くありすぎて、これを守れずにすぐ狂暴化する会社社員がたくさんいますが……

ゴーレムは、ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、土をこねて人形のかたちに造られます。呪文を唱え、ユダヤ教の心理(emeth)という意味の文字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成します。ゴーレムを壊す時にはemethの“e”の一文字を消し、methにすれば良いとされます。methとは「死」のことです。

また、ゴーレムの体にはシェム・ハ・メフォラシュ(Shem-ha-mephorash)が刻まれています。シェム・ハ・メフォラシュとは、旧約聖書の「出エジプト記」の14章の第19節の文章を縦書きで下から上に書き出し、さらにその左に第20節を上から下にある文章、そしてその左の第21節の文章を下から上に綴り出します。

これらの文章は、19、20、21節とも各々3文字を持つ72ヶの単語で構成されており、これらを総合したものがシェム・ハ・メフォラシュです。

ユダヤ教の伝承では二人のラビがこうして生み出されたゴーレムを正式な礼拝の人数合わせに使おうと議論をしました。が、ゴーレムは厳格な規則を遵守しないで使おうとしたため、見るものすべてに火を付け始めたといい、このほかにも簡単な命令すら理解できていなかったといいます。

いったん製造すると、勝手に一人でどんどん巨大化したといいます。伝承ではある男が作ったゴーレムも大きくなりすぎ、額に貼りつけた羊皮紙を剥がそうとしましたが手が届かなくなりました。そこで男は一計を謀り、ゴーレムに自分の靴を脱がせるように命じ、彼がしゃがんだ時に額の紙を剥がしました。

その瞬間、ゴーレムは大量の粘土となって男の上に崩れ落ち、男は圧死したといいます。

アホです。

最後のエンキドゥ(Enkidu) は、先述のギルガメシュ叙事詩の登場人物のひとりです。人造人間ではありますが、物語ではギルガメシュ王の無二の親友という設定です。

ギルガメシュは、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王で、その在位は紀元前2600年頃ではないかといわれており、数多くの神話や叙事詩に登場し、実在の人物であったと考えられています。

叙事詩では、エンキドゥはギルガメシュと同等の力を持つ存在として神々が創り出したものとされ、元々はギルガメシュを倒すべく神々が地上に送った刺客だったそうです。

地上に降りたばかりの頃は毛むくじゃらの体を持ち、獣と同じように草原で草を食べたり、水を飲んで生活しており、知能は殆どありませんでした。

このため神々がギルガメッシュと引き合わせるには人間社会に馴染ませる必要があり、エンキドゥにシャムハトと呼ばれる聖娼と六晩七日に及ぶ「交わり」をさせる事でエンキドゥの体内にある過剰なまでの精を吐き出させました(なんということでしょう。このブログは18禁なので、その状況についてはこれ以上詳しく書けません)。

これによってエンキドゥは野人性を失いましたが、代わりに知恵と判断力を得て人間社会にも馴染めるようになりました。そして、神々の策略によりギルガメシュと出会います。そして神々の目論見では、あるとき国中をあげて行われる力比べにおいて、ギルガメッシュはエンキドゥによって倒されるはずでした。

ところが、ギルガメッシュは善戦し、エンキドゥと対等に渡り合ったことから互いに友情が芽生え、二人は親友同士となりました。やがてエンキドゥはギルガメシュと行動を共にするようになり、旅にも同行するようになります。そして、あるとき、王と協力し合って杉の森に棲む怪物フンババを退治します。

しかし、かねてよりギルガメッシュと親友同士になったことに腹を立てていた神々は、フンババが倒されたことにも立腹し、二人を始末するために天の雄牛を送りこんできました。二人はこの雄牛も倒すことに成功しますが、エンキドゥは結局その後、神々に呪い殺されることになりました。

いつの世も神々は人間に時に優しく、時には猛威をふるってきましたが、この話はそのうちの後者の典型です。ちなみに、エンキドゥは、獣と共に生きた出自から、家畜の守護神とされています。

さて、こうした人造人間の話はヨーロッパだけでなく、多少というか、かなり雰囲気は違いますが、日本にもあります。

日本でも鎌倉時代の説話集「撰集抄」巻五に、西行法師が故人恋しさに死人の骨を集めて復活させようとして失敗する話が出てきます。「高野山参詣事付骨にて人を造る事」というタイトルの話のようですが、これだけなので、人造人間の話というにはちと無理があります。

このほか、はるかに時代は下りますが、1928年(昭和3年)に元北海道帝国大学教授でマリモの研究として有名だった西村真琴という人が「學天則」というロボットを製作しています。これを再現したものが制作されたことがあり、テレビなどで何度か取り上げられたこともあるので知っている人も多いかもしれません。

造られたのは上半身のみでしたが、腕を動かして文字を書いたり表情を変えたりすることができました。日本人が最初に造った人造人間ということになります。

ちなみに、この西村教授の次男は、水戸黄門で有名な俳優の西村晃です。15年ほど前に惜しくも亡くなってしまいましたが。

人間強化

さて、以上みてきたように、人造人間のほうは、サイボーグよりもかなりフィクションに近く、「ロボット」という形で存在はするものの、サイボーグのように自分の意思を持ち、人間に限りなく近いものと定義するならば、これに該当するものは現在この世には存在しません。

もっともロボットの定義が明確に定め難いのと同様に、何をもって人造人間とするか、という明確な定義も事実上存在しません。

あえてそれに近いものをあげれば、現在までには、ホンダの開発したASIMOや富士ソフトが開発したパルロなど人間の動きに近いもの(二足歩行など)があります。

パルロというのは、アシモほど有名でありませんが、OSにはLinuxが使われ、そのミドルウェアは国の研究機関である産業技術総合研究所が開発しており、その一部はオープンソースとして配布されるなど、国策的な開発ルートに乗っているロボットです。

このほかにも、民間主体ではサンリオグループのロボットメーカー、株式会社ココロ(東京都羽村市)と大阪大学が共同で開発した「アクトロイド」などもあり、これは瞬きや呼吸といった人の挙動を模倣したものです。

これらの国産人造人間は、それぞれの分野に特化した形で実現しており、さらに研究開発が続けられています。

一方、フィクションの世界ではありとあらゆるジャンルにおいてこれまでも人造人間が登場してきました。が、その味付けは作品によって異なっており、フィクションにおいては人造人間と人間との境界において、精神的・抽象的なものから法的なものまで様々なものがテーマとなってきました。

それらの中には「人間とは何か」、「生命とは何か」、「心・魂とは何か」といったより根源的な問題を含む場合もあり、倫理的な扱いについては各フィクションの作品とも対応はまちまちです。

が、所詮フィクションはフィクションであり、物語の上でいくら人間に近づいたものを創作したとしても夢物語にすぎません。

この一方で、実存するロボットはロボットで、人間に近づけるためにはまだまだ進化が必要です。とくにその頭脳であるコンピュータ関連の技術開発はまだまだ遅れています。従ってフィクションに出てくるようなアンドロイドの実現ははるか遠い未来のことになりそうです。

それならば、ということで、生身の人間を「強化する」ということも行われはじめています。専門用語では、人間強化(human enhancement)といい、一時的か永続的かを問わず、人間の認識および肉体的能力の現在の限界を超えようとする試みを意味します。

サイボーグと何が違うのか、と思われるかもしれませんが、「人間強化」の場合、その手段は肉体の強化などの物理的な技術開発から、遺伝子工学的な操作などのソフト的なものまでいろいろなものがあります。

サイボーグ化のように技術的手段を使って人間の肉体機能そのものを強化する方法も人間強化のひとつといえ、例えば病気や怪我をした場合のヒトのサイボーグ化は、その施術そのものが人間強化といえます。

また、肉体の強化技術としては、見た目の向上のための美容整形や歯列矯正も人間強化技術であり、前述の義肢やパワードスーツ、インプラント(心臓ペースメーカーなど)や人工臓器など医療による強化も人間強化といえます。ドーピングや能力向上薬などの薬物による肉体強化もこれに含まれるとみてよいでしょう。

また、人間強化は、人体への遺伝子工学適用と同義と見る向きもあります。一般的には、ナノテクノロジー、生物工学、情報技術、認知科学を集約してヒトの能力を向上させることを指すのに使われています。これらの技術を使って行われる「強化」もしくは「予見」によって人間の特性や才能を選択または変容させることも、人間強化の一つの方法です。

例えば「予見」に関して実用化されている具体的な既存技術としては、着床前診断による胚の選別があります。これは受精卵が8細胞〜胚盤胞前後にまで発生が進んだ段階でその遺伝子や染色体を解析し、将来起こりうる遺伝疾患や流産の可能性を診断する技術です。

遺伝子解析により遺伝子が特定されている遺伝病や、染色体異常等を発見することができ、「受精卵診断」というものあります。

国によっては、男女産み分けに利用されており、染色体を全部調べられるので生まれてくるのが男か女かがわかります。希望する性別の場合は子宮に戻し、希望しない性別の場合は子宮に戻さないということまで可能な国もあるようです。

さらに、精神の強化技術というのもあります。スマートドラッグ、サプリメント、健康食品などがそれで、人間の精神機能(認識、記憶、知能、動機づけ、注意力、集中力)を強化するものです。

このほか、研究が進められている人間強化技術としては、人間への遺伝子工学適用があります。遺伝子導入や遺伝子組換えなどの技術で遺伝子を人工的に操作する技術を指し、特に生物の自然な生育過程では起こらない人為的な型式で行うことを意味しています。

最初の遺伝子組換え医薬品はかの有名なインスリンで、これはヒトから作った医薬品の嚆矢であり、アメリカで1982年に承認されました。もう一つの初期の応用例にはヒト成長ホルモンがありますが、これは以前には遺体から抽出されていたものです。

さらに1986年には最初のヒト用組換えワクチンであるB型肝炎ワクチンが承認されており、これ以後、多くの遺伝子組換えによる医薬・ワクチンが導入されています。

ヒトを遺伝的に「改良」することは倫理上の重大問題だとする意見がある一方、体の一部の細胞に必要な遺伝子を導入して、不足・欠失している機能を補う遺伝子治療は有望視され、すでに治験段階に入ったものもあります。

例えばゲノムプロジェクトの進展により、遺伝子科学は新しい段階に入っています。ゲノムプロジェクトとは、シークエンシングによって生物のゲノムの全塩基配列を解読し、タンパク質コード領域やその他のゲノム領域のアノテーション(あるデータに対して関連する情報を注釈として付与すること)をつけることを目的としたプロジェクトです。

当初はヒトをはじめ、マウスや線虫などのモデル生物が主な対象でしたが、多くの生物種に対象は拡大しています。各国の公的研究機関がチームを組んでプロジェクトを進行させるケースが多いようですが、現在ではイネや小麦などの主要農産物については民間企業による解読も進められています。

存在が明らかになっても機能が不明な遺伝子が増え、これを調べる研究、これは逆遺伝学と呼ばれますが、これらは生物学でますます重要性を増しています。

また生物学の関心は個別の遺伝子・タンパク質から、膨大なタンパク質の間の相互作用ネットワーク、およびそれと各種生命現象との関係に移りつつあります。これらの研究にも遺伝子操作技術は不可欠です。

先述のブレイン・マシン・インタフェースの応用で、脳や神経系へのインプラント技術である、「脳コンピュータインターフェイス」というのもあります。人と機械の意思や情報の仲介のためのプログラムや機器であるマンマシンインタフェースのうち、脳波を解析して機械との間で電気信号の形で出入力するためのプログラムや機器のことです。

これは脳の神経ネットワークに流れる微弱な電流から出る脳波を計測機器によって感知し、これを解析する事によって人の思念を読み取り、電気信号に変換する事で機器との間で情報伝達を仲介するというものです。

筋萎縮性側索硬化症患者や事故などで、脊椎の損傷による部分・全身麻痺となった人がコンピュータ画面上でのマウスポインタの使用、文字入力、ロボット・義手・車椅子などを自由自在に操作することが実現されています。

このほか、脳以外の器官を端末と捉えることでの医療も出現してきており、応用例としてパーキンソン病やうつ病の治療にも脳深部刺激療法として実用化されています。

しかし、人間の精神における強化技術において、究極ともいえるものはやはり「精神転送」でしょう。

これは、脳を詳細にスキャンまたはマッピングすることで、ヒトの意識または精神を無機的なもの(コンピュータ)に転送またはコピーするという考え方です。人間の心をコンピュータのような人工物に転送することを指すため、精神アップロード(Mind uploading)などとも呼ばれます。

精神をコンピュータに転送する場合、それは一種の人工知能の形態となると考えられます。人工的な身体に転送する場合、意識がその身体に限定されるなら、これは一種のロボットともいえます。いずれにしても、転送された精神の元の本人であるように感じるなら、こうした技術によって作られたコンピュータは「人権」を主張すると考えられます。

ロボット工学を使った身体に精神をアップロードすることは、人工知能の究極の目標の一つでもあります。この場合、脳が物理的にロボットの身体に移植されるのではなく、精神(意識)を記録して、それを新たなロボットの頭脳に転送します。

この「精神転送」という考え方は、個人とは何か、霊魂は存在するかといった多くの哲学的疑問を生じさせ、多くの論者を惹きつけています。もっとも、精神転送が理論的に可能だと判明したとしても、今のところ精神の状態を複製できるほど精密に記録する技術はありません。

またコンピュータ上で精神をシミュレートするのにどれだけの計算能力と記憶容量を必要とするかさえも分かっていません。従って、現時点では精神転送は未だ机上の空論でしかないといえます。

このように精神転送を実現する技術はまだ存在しませんが、ただ、理論的な精神転送手法はいくつも提案されてきており、具体的な取り組み例も既に存在します。

紙面の関係でその例については詳しくは書きませんが、一例だけあげると、2005年にIBM とスイスのローザンヌ連邦工科大学は、人間の脳の完全なシミュレーションを構築する「Blue Brainプロジェクト」を開始することを発表しています。

このプロジェクトは IBMのスーパーコンピュータを使って、脳の電気回路を再現するもので、人間の認知的側面の研究と、自閉症などの神経細胞の障害によって発生する様々な精神障害の研究を目的としているそうです。

こうした精神転送に関する実際の動きがあるほか、精神転送が実現可能だとする信奉者は世界中に少なからずいるようです。彼等はムーアの法則を引き合いに出して、必要なコンピュータ性能がここ数十年の間に実現すると主張しています。

ムーアの法則とは、コンピューター製造業における歴史的な長期傾向について論じた1つの指標であり、経験則、将来予測です。米インテル社の共同創業者であるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文上に示したもので、ムーアはこの論文を書く際、集積回路上のトランジスタ数の進化を参考にしたとされています。

これは「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」というもので、これによれば技術の進化は、2年後には2.52倍、5年後には10.08倍、7年後には25.4倍、10年後には101.6倍、15年後には1024.0倍、20年後には10 321.3倍ということになります。

ただし、精神転送がこのペースで進化していくためには現在までに主流となっている半導体集積回路技術をさらに越えた技術が必要となります。

こうした技術としては、いくつかの新技術が提案され、プロトタイプも公開されています。例えば、リン化インジウムなどを使った光集積回路による光ニューラルネットワークがあり、2006年にインテルがこれを公表しています。

また、カーボンナノチューブに基づいた三次元コンピュータも提案されており、個々の論理ゲートをカーボンナノチューブで構築した例が既にあります。また、量子コンピュータは神経系の正確なシミュレーションに必要なタンパク質構造予測などに特に有効と考えられています。

最終的に、様々な新技術によって、必要とされている計算能力を超えることは可能と予測されていて、技術的特異点に向けての技術開発の速度は加速していき、比較的素朴な精神転送技術の発明によって2045年ごろには技術的特異点が発生すると予測されているそうです。

このとき、私は80歳代後半ですが、まだ生きているかもしれません。が、私と同じような変人の頭脳を持ったコピーが世界中にはびこったら、人類は大いに迷惑するでしょう。

私だけでなく、ほかにもこうした変人が増えるかもしれず、精神転送にはやはり様々な倫理的問題があります。精神転送技術が実現したとき、財産権、資本主義、人間とは何かといった人間の根本にかかわる問題や、神が人間を創ったとする宗教の観点からの概念とは当然のことながら競合が起こるでしょう。

精神転送はまた、移植などの身体的延命や身体改良が倫理上許されるかといった問題の延長上にある技術でもあります。「生命倫理学」の範疇の世界であり、現在では夢物語ばかり書かれてあるサイエンス・フィクションにもまた、将来的にはこういった問題を扱う役割が出てくるでしょう。

さらに別の問題として、アップロードされた精神がオリジナルと全く同じ思考や直観を持つのか、それとも単に記憶と個性のコピーにすぎないのか、という問題もあります。この違いは第三者にはわからないだろうし、当人にもわからないかもしれません。

しかし、人の思考や直観が失われるとしたら、脳スキャンで精神転送した人格を消去するということ、これは殺人を意味します。このため、精神転送に反対の立場をとる人も多いようです。

ただ一方では、精神転送の技術を応用すれば、個人の精神(意識)のバックアップをとることができます。そして、あなたや私が死んだとき、そのバックアップから自分の精神の複製を永遠に保存することができるのです。

さて、あなたはご自分の精神を残したいですか?

文明開化のカレー


先日テレビを見ていたら、あるトークショーでどこのカステラが一番おいしいか、といったことが話題になっていました。

この番組は結局最後まで見ませんでした。忙しかったせいもありますが、仮に一番おいしいカステラがどこのものかがわかったにせよ、わざわざそのカステラを買いには行かないだろうと思ったからです。

懐かしい味ではあるものの、この齢になると、甘いものよりもついつい酒に合う食べ物のほうに興味が行ってしまいます。

それにしても、どこのカステラが一番おいしいかどうかは別として、我々の世代ではカステラといえば、やはり「文明堂」です。子供のころ、結婚式か何かの引き出物で父が貰ってきてくれたのを食べたときの衝撃は忘れられません。

あのしっとりとした柔らかい、ほんのりとした甘味のある上品な味は、こんなものが世の中にあるのかと、私の持っていた菓子というものの概念を変えたほどでした。表面についているザラメがまたひんやりとした生地とよく合い、いくらでも食べれたものです。

この文明堂が有名になったのは、1962年(昭和37年)から放映開始されたCMで、「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」という歌が流れ、これが評判になったことが大きいでしょう。

カンカンダンスを踊るクマの操り人形のテレビコマーシャルで、その始まりに「文明堂豆劇場」と書かれたテロップまで出る凝りようで、その聞きやすくて覚えやすい音調は、すぐに子供たちの間だけでなく、大人たちの間でも歌われるようになりました。

この文明堂ですが、その創業地は長崎であり、創業は明治33年(1900年)といいますから、この会社がカステラを発明したということではないようです。カステラそのものは江戸時代からあり、ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元におそらくは出島に出入りしていた職人が独自に開発した和菓子です。

文明堂の創業者は中川安五郎という人で、長崎県の南高来郡の大工の三男に生まれ、長崎市内の菓子屋でカステラ製造法を学び、彼が23歳の時にこの文明堂を開業しました。

しかし、この会社を大きくしたのは、佐世保に分店を出した彼の実弟の宮崎甚左衛門という人で、店の発展の礎となったのは大正11年(1922年)に上京して上野に店を構えたことです。

当時の三越呉服店と納入契約を結び、地方銘菓販売の先駆けとなり、そして上述の名コピー「カステラ一番……」を自らが考案し、文明堂のカステラ王国の基礎を築くことになります。

これ以降文明堂は、根は同じ長崎の文明堂ですが、別々の会社となり、地方に分散していきます。元々は長崎に合資会として発足した株式会社文明堂が総本店ですが、現在ではこのほかに株式会社文明堂神戸店、のほか、浜松、横浜、新宿などの7社の文明堂が存在しています。いずれも独立した会社であり、グループ企業ではありません。

この中には、文明堂東京、文明堂銀座、麻布文明堂も含まれていて、東京には4つの文明堂が存在することになります。文明堂は、会社ごとに別のカステラを扱っていたり、味が違うという点も特徴的であり、その特徴ゆえに、会社を間違えて、欲しいカステラが買えなかったという話まであるそうです。

それでもこれら文明堂各社では創業を1900年(明治33年)、初代を中川安五郎で統一しており、また現在、全社で中川家の家紋を掲げていて、味は違えどルーツは同じとしています。

しかし、同じ文明堂ながらライバル同士であり、広島県内では、長崎の文明堂総本店と文明堂東京(旧・日本橋店)の店舗が混在しているほか、東京では、上述の4社が各地で支店を出し合い、それぞれが競合関係にあります。

銀座文明堂と横浜文明堂の商品は、どちらも「文明堂製菓株式会社」という同名の会社が製造していますが、実はこれは別の会社で、銀座文明堂の製品は銀座文明堂の文明堂製菓が、また横濱文明堂の製品は横浜文明堂の文明堂製菓が造っていて、ややこしい限りです。

それにしてもいったいどこの文明堂の商品が一番おいしいのか、誰かに教えてもらいたいものです。売っている御当人たちは自覚されているのでしょうか??

ところで、この文明堂の名前の由来になったのは、無論、「文明開化」という言葉のようです。

文明開化の説明は必要ないでしょう。江戸時代を通じて行われてきた鎖国によって、封建制色濃い日本文化が飽和状態になっていたところに明治維新が勃発し、これをきっかけに発生した爆発的な西洋文明の吸収・取り込み現象です。

また、明治4年(1871年)には断髪が奨励され、旧来の丁髷から洋風の髪型に変えることが新時代を象徴する出来事となって「散切り頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」という歌が謳われました。

この「散切り頭」という用語は、この当時の歌舞伎芸能で流行っていた「散切物」と呼ばれる新しい形態の歌舞伎に由来しています。

散切物はこの時代背景を描写し、人力車・洋装・毛布・汽車・新聞・ダイヤモンドなどといった洋風の物や語を前面に押し出して書かれた歌舞伎の演目です。それでいて構成や演出は従来の大衆演劇の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの俗世物といえます。

散切物と呼ばれるもので、一番最初のものであるといわれるのは、明治5年に京都で上演された「鞋補童教学(くつなおし わらんべの おしえ)」と「其粉色陶器交易』(そのいろどり とうきの こうえき)」だそうです。

これらはともにサミュエル・スマイルズ作・中村正直訳による「国立志編」を原作とした翻訳劇であり、大衆演劇というよりもどちらかといえば政治劇のようなものだったようです。

サミュエル・スマイルズというのは、イギリスのスコットランドの作家で、最初はエディンバラで医者を開業していましたが、のちに著述業に専念するようになりました。

1858年に執筆した「自助論」が、明治維新直後に「西国立志編」として日本に紹介されました。あまり知られていない作品ですが、福澤諭吉の「學問ノスヽメ」と並んで日本の近代化を志す青年たちを中心に広く親しまれ、その思想は近代日本の基礎を作る上で大きな影響を与えたそうです。

これを翻訳したのは、当時幕府の留学生だった中村正直という人で、1871年(明治4年)に日本でこの翻訳本が発売されましたが、これは明治時代の終わりごろまでに100万部以上を売り上げた大ベストセラーでした。

どんな内容かというと、その章立てを抜粋すると、次のようなものでした。

邦国および人民のみずから助くることを論ず
新械器を発明創造する人を論ず
陶工三大家、すなわちパリッシー、ベットガー、ウェッジウッド
勤勉して心を用うること、および恒久に耐えて業をなすことを論ず
幇助、すなわち機会を論ず、ならびに芸業を勉修することを論ず
芸業を勉修する人を論ず
貴爵の家を創めたる人を論ず
剛毅を論ず
職事を務むる人を論ず
金銭の当然の用、およびその妄用を論ず
みずから修むることを論ず、ならびに難易を論ず
儀範(また典型という)を論ず
品行を論ず、すなわち真正の君子を論ず

いかにもお堅い内容で、これそのままでは歌舞伎にならないと思うのですが、その通り実際の演目では、この内容をかなり三面記事的な内容に改変しており、これを範として後には色々な散切物が制作されていきました。

いずれも勧善懲悪を主とした常套的な筋立てが多く、「女書生繁」や「高橋お伝」では新時代の女性の姿を描き、「筆屋幸兵衛」では没落士族の悲惨さを見せており、これらの作品は明治初期の社会風俗を知る貴重な資料となっています。

といっても、130年以上前の時代の歌舞伎ものですから、その内容を知っている人がいるほうが不思議です。が、「高橋お伝」は、現代劇などでも演じられることもあり、もしかしたら知っている人も多いかもしれません。

高橋お伝というのは、29歳のとき強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性です。上野国利根郡下牧村(現群馬県利根郡みなかみ町)出身で、「明治の毒婦」と呼ばれました。

26歳のとき、ヤクザ者の市太郎という男との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、枕を交わすなら金を貸すと言われ、金に困っていたおでんは、吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋で一晩を過ごします。

ところがその翌日、吉蔵が態度を変え、金は貸せないと言い出したため、怒りにまかせるままに剃刀で喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走しますが、12日後に強盗殺人容疑で逮捕されました。

裁判の結果、翌年の明治12年(1879年)1月に京裁判所で死刑判決が出たため、即日市ヶ谷監獄で死刑執行がなされました。

この当時はこうした死刑執行制度においてもまだ江戸時代の名残が強く残っており、この時の処刑方法はなんと斬首刑でした。遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部が現在の東京大学法医学部の参考室で保存され、その後小塚原回向院に埋葬されました。

一部というのは性器だそうです。そのことを含め、こうした一連の出来事は、逐一新聞で報道され、「明治の毒婦」として広く世に知られるようになり、あげくは歌舞伎の題材にまで取り上げられるまでになりました。

この斬首を行ったのは、江戸時代から代々続く、御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の者でした。

実際に執刀したのは、八代目当主の山田浅右衛門の弟で山田吉亮という人物です。「山田浅右衛門」という名前は、山田家の当主が代々名乗った名称です。このため、この死刑執行人は江戸時代から、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とばれることが多かったようです。

山田家にとっての最大の収入源は無論、「死体」です。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許されたため、これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられました。これは、当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があったためです。

浅右衛門の家では、町目付からお声がかかり、首を斬る者が何人いると聞くと、その人数だけの蝋燭を提げて出役しました。そして処刑場で蝋燭に火をつけ、一つ首を落とすたびにその蝋燭の火を一つ吹き消し、全ての蝋燭が消えると「御役目が済んだ」と言って帰投したそうです。まことに不気味な家業です。

しかし、試し斬りだけでは食えなかったのか、その経験を生かし、刀剣の鑑定も行っていたそうで、数多くの刀剣データを整理し、刀剣の格付けまで行っていました。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたようですが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得たといいます。

さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していたといいます。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家はこの副収入でも莫大な収入を得ていました。

また、遊女が客と交わす約束用のサインに使うため、死体の小指を売却することもあったといいます。どういう使われ方をしたのかよくわかりませんが、客に手渡し、次に来るときには忘れずに持ってきて私を指名してね、という具合だったのでしょう。

とはいえ、代々の山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使ったそうです。東京都池袋の祥雲寺には、6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っています。

また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代以降は俳諧を学び、俳号まで所持したそうなので、ここまでくると単なる死刑執行人というよりもひとかとの風流人、有名人といった感じです。こうしたことから江戸の人たちにも疎まれるといった風潮はなかったようです。

幕府瓦解後は、8代目の山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担っており、このとき高橋お伝の死刑執行にも関わりました。しかし1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなりました。

1880年(明治13年)には旧刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定され、二年後の明治15年には刑法が施行され、斬首刑は廃止されました。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職しています。

こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅しました。

が、現在これを復活させ、消費税を上げようとする役人や政治家、偽装商品で金を設ける悪徳商人をとらえ、斬首にすることができる法律が検討されているということです。

ウソです。

さて、何の話をしていたのかわからなくなりました。「文明開化」の話です。

明治新政府は、文明開化の名のもとに、殖産興業や富国強兵・脱亜入欧などの一連の政策を推進し、西洋館・擬洋風建築といった西洋建築の築造を官費で行うとともに、庶民には散髪、洋装、洋食などを奨励し、その結果として、散切物に代表されるような大衆演劇が生まれました。

ただこういった西洋化は都市部や一部の知識人に限られた西洋文明の摂取にすぎないという面が強かったようで、地方町村部ではあいかわらず江戸時代と変わらないような生活が続いていました。昭和に入る頃まで明かりといえば菜種油で行灯を灯し、郵便や電信など西洋化の恩恵は中々行き届きませんでした。

長らく江戸後期の伝統や風習が続いたため、地方人の生活の変化は遥かに緩やかなものでした。しかしその一方では、地方では新政府の方針に従って県庁主導で従来の生活文化や民俗風習の排除することが行われ、こうした文明開化政策の影響で縮小や途絶した民俗風習も多かったようです。

こうした急速な西洋化は、この当時ヨーロッパなどの西洋列強国が盛んに日本以外の国を植民地化し、その植民地経営で、莫大な富をアジア諸国から吸い上げていたことに対する日本の危機感の表れでもありました。

当然、西洋文化の導入だけでなく、富国強兵の一環で西洋軍事技術の導入も盛んに行われるところとなりました。そして、設立された帝国陸海軍などの軍隊では兵隊の腕力や体力を強化する目的で、提供される食事(軍隊食)までもが西洋化されました。

ところが、この当時発足したばかりの帝国陸海軍は、地方農村部などの次男・三男を集めた集団であり、米飯や日本食で育った彼らの中には、あまりに異質な西洋の料理に対して拒否感を示す者も多かったようです。

このため海軍などでは米飯とカレーを組み合わせる・肉じゃがのように醤油味の折衷料理を開発するなど工夫を凝らしました。カレーライスは後に海軍カレーとして、また肉じゃがのような料理も軍港周辺部へと広がっていき、時代を下って昭和時代にもなると、一般的な家庭の味として広く受け入れられていくようになります。

この海軍カレーとは、陸海軍のうち、大日本帝国海軍に由来を持つカレーおよびカレーライスのことです。特徴はカレーに小麦粉を炒めて作ったルーを使うことであり、現在でも一般的に日本風カレーと言う場合には、この海軍カレーを元祖とするものを指します。和風カレーというものも存在しますが、これもまた海軍カレーの派生形です。

カレーがいつのころから日本の食文化に侵入してきたのははっきりわかっていないようですが、西洋との接触の多くなった幕末から明治の初めにかけてというのは間違いないようです。

この頃イギリスはインドを植民地「イギリス領インド帝国」として支配しており、イギリス海軍は、シチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよいインド起源の香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていました。

このため、このイギリス海軍の風習が日本に持ち込まれ日本風カレーに変化したのではないかという説が根強いようです。

一方、この当時、大日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の栄養が偏った白米中心の食事であることを突き止めた海軍軍医の「高木兼寛」は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試みました。

のちの東京慈恵会医科大学の創設者でもあり、脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれています。

高木は、日本海軍の糧食の改善にあたって、このイギリス海軍が食していた海軍カレーを導入することに目をつけました。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、こうしてライスにかけたカレーライスが誕生しました。

そして、このライスには通常の米ではなく、ビタミンが多く含まれる麦飯を採用しました。この当時陸海軍では、長い行軍や航海において脚気になる兵隊が多く、これに対して麦飯を食する部隊では脚気が少ないことが報告されており、経験的に脚気に効果があると判断されていたためでした。

この話には裏話があり、この当時、軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長にまで上りつめていた、森鴎外(本名森林太郎)は、この当時陸海軍で流行っていた脚気がビタミン不足によるものであるという説を否定していました。

鷗外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医の第一期生であり、医学先進国のドイツに4年間留学し、帰国した1889年(明治22年)には陸軍兵食試験の主任を務めるなど、当時の栄養学の最先端に位置していました。

しかし、ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、鴎外は当初からこの当時医学界の主流を占めた「伝染病説」に同調していました。

また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達さえ出したこともありました。

この結果として、日露戦争では、結果的に、陸軍では約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となりました。

ところが、一方の海軍では、このころちょうど海軍医務局副長就任していた高木兼寛らが、海軍内部でも流行していた脚気について本格的にこの解決にとりくむようになり、海軍では従来の洋食に「麦飯」をプラスするという兵食改革を行いました。

その結果、脚気新患者数、発生率、及び死亡数が1883年(明治16年)には23.1%もあったものが、1885年(明治18年)には、0.6%にまで激減しました。

しかし、高木の脚気原因説である、たんぱく質の不足説と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方が脚気にはよい)という説は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑でした。このため、高木は東京大学医学部を初めとする医学界から次々に批判されました。

結局、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることができず、高木はその後海軍を退きました。ところが、やがて東京大学医学部卒の医学博士、本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)以後、海軍の脚気発生率が急に上昇しました。

その後も脚気患者は増え続け、海軍では日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、太平洋戦争が勃発した以降も毎年のように3000人規模の脚気患者が出ました。

実は、脚気がビタミン不足に起因することは大正時代にヨーロッパで究明されており、日本でも1933年(昭和8年)には、東京帝大によって、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告されていました。が、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとっては脚気は難病でした(脚気死亡者が毎年全国1万人~2万人)。

その理由として、ビタミンB1が原因であることはわかっても、その特攻薬の製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられています。

脇道にまた逸れてしまいました。どうも今日はそういう傾向にあります。

海軍カレーはこうして、奇しくも脚気の「予防薬」である麦飯とともに、軍隊に導入されて普及していきました。

ただ、これはイギリス海軍が採用していたようなインド風カレーとは一線を画すものでした。しかし、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味することで、とろみによって船が揺れても食器からルーがこぼれる心配もなくなり、また日本米(麦飯)との絶妙なコンビネーションが生まれました。

そもそもこの海軍カレーの発案は、海軍の横須賀鎮守府が行ったもので、前述のとおり、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちが部隊に多かったことに配慮し、彼等に白米を食べさせることとなったことに起因します。そして、その副材として、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスが採用されたのです。

当時の海軍当局が1908年(明治41年)に発行した「海軍割烹術参考書」にこのレシピが掲載され、これがきっかけとなり海軍では麦飯とともに広く食されるようになり、結果として海軍内の脚気の解消につながりました。

この参考書は、さらにその後の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍でも広く使われ、カレーの国内普及にも寄与しました。

カレーライスの材料は、カレー粉などの調味料だけを醤油と砂糖に変えると、そのまま「肉じゃが」になります。そのため補給の面でも具合がよく、これも軍隊食として普及した理由です。肉は主に牛肉で、第二次世界大戦時には食糧事情の変化で豚肉も使われました。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日にすべての部署でカレーライスを食べる習慣になっている、というのは広く知られていることです。

海上自衛隊で金曜日にカレーライスを出すようになったのは週休2日制の導入以後です。それ以前は土曜日が午前中だけの半日勤務(いわゆる半ドン)であったので、給養員も午後には業務を終えての上陸・外出等に対応するため、土曜日の昼食をカレーにしていました。

カレーにすることで調理の準備や後片付けの時間を短縮できるため自分たちにとっても都合よく、また休みになっても上陸しない他の人員のための「取り置き」とすることもできたわけです。

長い海上勤務では、外の景色はほぼ変わらず、本庁と異なり交代勤務で休みの曜日が決まっているわけでもないため、曜日感覚がなくなってしまいます。「金曜カレー」の導入はその感覚を呼び戻すためであり、各部隊の調理員(給養員)は、腕によりをかけて、オリジナルカレーの完成に努めます。

なお、陸上自衛たにもカレーの日を設けているところがあり、横須賀市にある陸上自衛隊武山駐屯地では毎週水曜日の昼食はカレーとなっています。また、防衛大学校においても、毎週月曜日の昼食はカレーです。

このほか陸上自衛隊の旭川駐屯地においては金曜にカレーの日が設けられ、北鎮カレーや大雪カレーといったオリジナルカレーを提供する場合もあるといいます。

現在の海上自衛隊で食されているものは総称して「海上自衛隊カレー」とまとめて呼ばれていますが、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なり、単一の味・レシピは存在しません。

カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらにタンパク質補強に卵、ビタミンC補強に果物、を加えるなど、栄養学的に献立に工夫を加えることが海上自衛隊での通例です。潜水艦のカレーライスにはさらに多くの副食が付くそうです。

また、通常の護衛艦には最近ではかなり大型の冷凍貯蔵設備があるそうで、食材は一般の洋食店と同等の鮮度が維持されているといいます。とくに海上自衛隊カレーは、味や香りが非常に良くコクがあり、ボリュームもあり、「一般の洋食屋のカレーよりおいしい」と評判だそうです。

海上自衛隊に入り、どこの自衛隊艦隊に所属するかを自己申告する際、その決定のきっかけを、供されるカレーライスの美味しさに求める場合さえあるそうで、このため優秀な職員を獲得するため、それぞれの艦隊ではカレーライス調理の腕を競う、といったことまで行われているそうです。

実際、海上自衛隊カレーの味に惹かれて海上自衛隊に入隊する人までいるそうで、中には自らの職種を給養員として、海軍カレーの伝統継承に熱心に取り組む例もあるとか。

給養員は勤務において実務経験を得ることができ、調理師、栄養士の資格取得が可能です。海上自衛隊の給養員として勤務し、除隊後に食堂を開いた人もいます。護衛艦の母港では、何隻かの護衛艦を一般開放し、民間人に対し各艦自慢のカレーを振る舞うカレー大会も行われています。

各部隊、各艦艇で独特の隠し味があり、赤ワイン、ミロ、茹で小豆、インスタントコーヒー、コカコーラ、チョコレート、ブルーベリージャム等さまざまです。

「○○○カレー」といった、艦艇ごとの独自のカレーがあり、○○○には艦艇番号や艦名が入ります。 2008年からは、海上自衛隊のHP「海上自衛隊レシピページ」上にこうしたカレーライスなどの海上自衛隊の自慢料理のレシピの公開が始まっているそうなので、どうしても海上自衛隊カレーが食べたい!という人はのぞいてみるのも良いでしょう。

ちなみに、明治につくられた海軍割烹術参考書によるオリジナルレシピは以下の通です。

【材料】:牛肉(または鶏肉。ここでビーフカレーになるかチキンカレーになるかが決まる)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレー粉、小麦粉、ヘット(牛脂)、米、スープ、チャツネなどの漬物

【作り方】
1.まず米を研いでおく。
2.肉、玉葱、人参、馬鈴薯を賽の目に切る。
3.ヘットを敷いたフライパンで小麦粉を煎り、きつね色になったらカレー粉を加え、スープで薄めのとろろ汁の濃さに延ばす。
4.2の肉野菜を炒め、3に入れて火に掛けて弱火で煮込む。馬鈴薯は玉葱・人参がほぼ煮えてから入れる。
5.先ほどの米をスープで炊く。炊き上がったら皿に盛る。
6.4で煮込んだものを塩で調味し、皿に盛ったごはんに掛けて供する
7.供する際「チャツネ」などの漬物を添える。

ところで、海上自衛隊といえば、かつて海軍の横須賀鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊横須賀基地がおかれている神奈川県横須賀市は海上自衛官の故郷ともいえる場所です。

この横須賀市は、「カレーの街」を宣言しています。海軍割烹術参考書のレシピを導入している店舗を「よこすか海軍カレー」の名称を使用できる店舗として認定するとともに、キャラクター「スカレー」を起用する入れ込みようで、横須賀市のウェブサイトには「カレーの街よこすか」というページまで設けられています。

京浜急行電鉄とコラボレーションしたキャンペーンなども時々行っており、横須賀だけでなく、京浜急行の沿線でに食べられるようです。だからといって横須賀や京浜急行沿線でだけしか食べれないというわけではなく、横須賀市以外でも小麦粉を煎ったものを混ぜた「よこすか海軍カレー」のカレー粉が販売されています。

一方、2010年8月、「よこすか海軍カレー」のスピンアウト作品として「すこやか軍艦カレー」というものが横須賀市内で販売開始されたそうです。

ある日、ニッポン放送で放送中の人気歌手「ゆず」のラジオ番組、「ゆずのオールナイトニッポンGOLD」に一通のメールが届いたそうで、その中には「よこすか海軍カレーをお母さんが言い間違えて「すこやか軍艦カレー」と呼んでいた」と書かれていました。

そこから話が広がり、実際に「すこやか軍艦カレー」を作るという規格がこの番組でスタート。番組内でカレーを作ってくれる企業を募集し、番組・事業者でレシピを検討し、試行錯誤した結果、ゆずとリスナーの思いが詰まった「すこやか軍艦カレー」が遂に完成。

このカレーは、実際に横須賀市とのコラボで、須賀中央の海軍カレー店「YOKOSUKA SHELL(ヨコスカシェル)」(横須賀市本町1)で出されることになり、同店で販売が始まりました。

同店では「軍艦カレー目当てのお客さんが増え、1日120~150食販売する目玉商品になった」といいますから、きっとおいしいのでしょう。

すこやか軍艦カレーの価格は1,000円。「装備品」として、大砲(ウインナー)、砲弾(ミートボール)、羅針盤(目玉焼き)、浮き輪(イカリング)、岩礁(鶏空揚げ)、ゴジラの足跡(とんかつ)をトッピングすることができるそうです。

横須賀といえばアメリカ海軍のペリーが上陸した町であり、横浜DeNAベイスターズもこの町を本拠地としています。ほかに観音崎などの名所もあり、海風の吹く、おしゃれでこじゃれた町で、私も大好きです。

地方のあなたも、一度は訪れ、海軍カレーを一皿いかがでしょうか。