イドラ

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昨日の日曜日には、この別荘地における新年会があるというので、夫婦二人して出かけてきました。

ここへ引っ越してきて、これまでは出席したこともなく、三年目にして初めてのことだったのですが、なぜ急に出る気になったかといえば、この4月から同じ地区内の「区長」さんをやってほしいというご依頼があったからです。

大方の人もそうでしょうが、私ももともとそういったものを引き受けて、人さまの前面にしゃしゃり出るのはあまり好きなほうではなく、固辞したいところでした。

が、この地に長らく住んでいくからにはいつかは回ってくるだろうという予感は私も持っており、依頼があったとき、タエさんがさっさと引き受けてしまったこともあって、仕方ないな~という気分ながらもしぶしぶ引き受けることとし、その顔見せにということで、この新年会にも出席したのでした。

と、いうわけで、別荘地内にある「サンシャイン修禅寺」という古いホテルで日曜日のお昼から開催されたこの新年会に初めて出かけたのですが、会費が2500円というわりにはかなりのご馳走が出て、しかもお酒は飲み放題、またこれまで知らなかった別荘地内の人ともお知り合いになれて、結果的にはお得感があったことは否定できません。

ビンゴゲームやカラオケといったこういう会ではおなじみのイベントもあり、ビンゴはともかくカラオケはご愛嬌ではあったのですが、時間が経つにつれ、賑やかな会場の雰囲気に飲み込まれていき、ひさびさに心身ともに酔って楽しいひとときが過ごせました。

この会の向かいに座っていたご夫婦とも話がはずみ、このうちの奥様は長岡温泉でスナックを経営されているとのことで、お話も上手で、てっきり日本人かと思っていたら、タイのバンコク御出身として聞いてびっくり。

もうかれこれ日本在住も7年にもなるとのことで、日本語がお上手なのも納得できますが、お隣に座っていた優しそうな旦那さんのご指導もあってのことなのだろうな、と二人仲睦まじい様子を拝見して、心温まる思いもしました。

ところで、このご夫婦との会話の中で、お二人のお宅の庭先にムジナが出るという話が飛び出し、この話に喰いついたのがタエさんでした。

実はウチにもハクビシンが出るんですよ、というわけで、ちょうど二人とも、ケータイでこのムジナやら、ハクビシンやらと思われる対象動物を撮影していたので、お互い、その写真を見せあったのでしたが、このとき、この旦那さんが、タエさんがハクビシンだと主張するものは、実はムジナだと教えてくれました。

一方、ご主人のほうが見せてくれた写真は、明らかにタエさんが撮影したものと異なり、こちらのほうがハクビシンだといいます。確かに鼻の中央に白い縦じまがあり、なるほどこちらのほうが、ハクビシンのようです。

とすると、ご主人の主張する通り、タエさんが撮影したものは、ムジナということになるようなのですが、私的には、ムジナというと、タヌキの別名、あるいは架空の生物で、妖怪の一種というイメージでいたので、ムジナ???と疑問は深まるばかり。

御主人の説明によれば、ムジナとは、アナグマとも言うことであり、この認識は、タヌキの一種と思っていた私の記憶とも異なっています。

そこで、今日になってネットで調べてみたところ、ムジナとは、「貉」または「狢」と書き、これは、ご主人のおっしゃっていたとおり、アナグマのことを指すのだそうです。

ところが、地方によってはこのムジナのことをタヌキやハクビシンと言ったりする地方もあるようで、いろんな呼び方をされるこれらを総称して、ムジナという場合もあるようです。

このほかにも、ムジナのことを「マミ」と呼んだりする地方もあるそうで、こうした混乱は各地で非常に複雑な様相を呈しており、栃木県の一部のように、アナグマを「タヌキ」、タヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域さえあって、何が何だかわからなくなっているようです。

そもそも、ムジナの「一候補」であるハクビシンという動物は、純国産種ではないようです。もともと、日本には生息しておらず、南方の台湾やフィリピンといったところから日本に入り込んできた帰化動物のようで、ちょっと前までは九州以外では確認さえされていいなかったようです。

が、日本の在来種でもあったという説もあって、こうした学術的な分類においてもはっきりしない生物であることも、その呼称がハクビシンと呼ばれたりムジナと呼ばれたりする混乱を招いている要因のようです。

かつては、こうした混乱が、裁判沙汰になった事件も存在しています。その名も「たぬき・むじな事件」と呼び、少々古いですが、これは1924年(大正13年)に栃木県で発生した事件です。

この被告人のオヤジさんはこの裁判があった年の2月に、猟犬を連れて鉄砲を持って栃木の山奥に狩りに入り、その日のうちに「ムジナ」2匹を洞窟の中に追い込み捕らえて持ち帰りました。

ところが、この持ち帰ったムジナを村の人に自慢していたところ、この行為が村の駐在所の警察官の知るところとなり、警察はこのムジナの捕獲行為が「タヌキ」を捕獲することを禁じた「狩猟法」に違反するとしてこのオヤジさんは逮捕されてしまいました。

もっともオヤジさんは、これを「ムジナ」であると主張してやまず、その後行われた下級審においても、このオヤジさんが捕えた動物が果たして、タヌキなのか、ムジナなのか、という点が論争になり、結果として検察側が「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」と主張したことが認められ、このオヤジには有罪判決が下りました。

ところが、被告人のオヤジ側は、自らの住む地域では、昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられているとし、無罪であることを主張して上告したため、この裁判は大審院の場で争われることとなりました。

結果として、この大審院裁判における判決では、タヌキとムジナは動物学的には同じと考えられているが、その事実は多くの国民一般に定着した認識ではなく、タヌキとムジナは別物だとするオヤジの認識は正しいとされ、「事実の錯誤」だったとして被告人を無罪としました。

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以後、この判決は、日本の刑法第38条での「事実の錯誤」に関する判例として現在でもよく引用されるようになり、この裁判はかなり有名な裁判となりましたが、同じような事件として同じ年に、「むささび・もま事件」というのが発生し、早速この裁判の判例が適用されました。

ムササビは、ある地方では「もま」と呼ばれており、この裁判でも、「もま」は「むささび」と同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」に当たるとして、被告人が狩猟法違反による有罪がどうかが争われました。

結果として、この裁判では被告人は「ムササビ」というものを知らなかっただけであり、このため、被告人がつかまえようとしていたのは、本人が「もま」と信じ込んでいたものであり、一般的にいわれている「ムササビ」ではなかった、という判決が下りました。

こうして、前述の「たぬき・むじな事件」と同じく、被告人は無罪となりましたが、前者では被告人は、タヌキが禁猟である事を認識していましたが、「ムジナ≠タヌキ」という確信があった上で、事実誤認をしていた結果起きた事件でした。

これに対して一方の後者でも、被告人はムササビというものが禁猟の対象になっているらしい、ということくらいは知っていましたが、自分が追い求めていたものが一般には「ムササビ」という呼称で呼ばれていたことを知らず、「もま≠ムササビ」という確信は持っていなかったという点が前者と異なります。

従って、これは事実誤認ではなく、単に知識に乏しく知らなかったためだ、ということになります。

とはいえ、「ムササビ」という言葉を知らなかったというのを「無知」であると言いきるのは行き過ぎで、この当時はまだテレビなども普及しておらず、山深い土地柄に住む猟師がこうした特定の地方でしか使われない「もま」ということばでしかこの動物を知らなかったのは仕方のないことでもあります。

いずれにせよ、こうした一つの対象物を全く別のものと認識している、といったことは我々の日常でもよくあることであり、例えばこのほかの例としては、「おにぎり」と「おむすび」の違い、というのがあります。

この両者は同じものだと思っている人も多いようですが、「おむすび」というのは、本来は宗教用語で、神の力を授かるために米を、山型をかたどったものを「神の形」とみなしたものです。これを奉納して、のちに山の恵みとして食べるようになったものあり、従って、「おむすび」は、「御結び」と書くのが正しいのです。

ところが、「おにぎり」というのは、これより更に時代が下ってからできた言葉で、「にぎりめし」から転じたものです。ご存知のとおり、おにぎりと称されるものは、三角のものもありますが、俵型のものもあり、まん丸のものもありで実に多様です。

つまり、「おにぎり」はどんな形でもいいわけですが、「おむすび」は三角形でないといけないわけです。従って、コンビニで売っている三角形の「御結び」を神様に感謝もせず、単に「おにぎり」だと思って食べている人は、山の神に祟られて腹痛を起こすかもしれませんから、注意が必要です。

この手の思い込み、思い違い、というのは他にもたくさんあって、我々が日常生活で普通に口にしている、「コンセントを差し込む」とうのも実は間違いで、「コンセントにプラグを差し込む」が正しい言い方です。

さらには、「どんぐりころころどんぐりこ♪」と歌っているものは、実は、「どんぐりころころどんぶりこ♪」が正解であり、ルパン三世のテーマ曲は「ルパンルパーン」ではなく、本当は「ルパンザサード」と、歌っています。

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このように、「思い込み」というのは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じこむことです。

自分では、常識であり、前例もあるからと、先入観・固定観念なども手伝って、信じ込んでいるため、いや実は違うんだと言って合理的な説得をしても信じてもらえない場合さえあります。

思い込みにも色々あって、個人的な問題であることも多いようですが、集団的な思い込みに発展するものも多く、17世紀のイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは、これを社会問題の一つだと捉えて重視し、これを「イドラ( idola )」呼びました。

イドラとは、ラテン語で「偶像」を意味し、英語のアイドル( idol )の語源でもあります。

人間の偏見や先入観、誤りなどの分類を試みたもので、ちなみに、この解釈にあたってベーコンが開発した分析方法は、「帰納法」とよばれています。

「帰納」とは、個別にバラバラだったり、特殊的な事例であったりする事例などから一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法のことであり、「帰納」の対義語は「演繹(えんえき)です。

帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されませんが、演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真になるという考え方です。このあたりのこと、高校の国語か社会、あるいは倫理だったか忘れましたが、何等かの授業で習ったはずですが、私もすっかり忘れていました。

政治家でもあったフランシス・ベーコンは、「知識は力なり」と語っていたそうで、自然の探求によって自然を克服し、人類に福祉をもたらすことを提案しました。

そして、その探求方法としては、法則から事実を予見するアリストテレス的な演繹法に対し、個々の実験や観察の結果得られた知見を整理・総合することで法則性を見出すという方法を提唱しました。これが「帰納法」です。

ベーコンは、一般論から個々の結論を引き出すアリストテレスの論理学はかえって飛躍をまねきやすいと批判し、知識とはむしろ、つねに経験からスタートし、慎重で段階的な論理的過程をたどることによって得られるものであると主張しました。

この両者の考え方の違いはこの時代には大きな論争になりましたが、その後、この帰納法は多くの学術分野で受け入れられていきました。

このように、結論を導く過程における観察と実験の重要性を説いたベーコンでしたが、その一方では実験・観察には誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとうことも否定できないことを指摘し、このような、人間が錯誤に陥りやすい要因を分析し、あらかじめ錯誤をおかさないようと確立した理論が、「イドラ論」です。

このベーコンが主張したイドラは、大きく分けて、以下の4つがあります。

●自然性質によるイドラ(種族のイドラ)
「その根拠を人間性そのものに、人間という種族または類そのものにもっている」とするもので、人間の感覚における錯覚や人間の本性にもとづく偏見のことであり、人類一般に共通してある誤り。例としては、水平線・地平線上の太陽は大きく見えることや暗い場所では別のものに見誤ることなどがあげられる。

●個人経験によるイドラ(洞窟のイドラ)
「各人に固有の特殊な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わりによることもある」とするもので、狭い洞窟の中から世界を見ているかのような、各個人がもつ誤りのこと。それぞれの個人の性癖、習慣、教育や狭い経験などによってものの見方がゆがめられることを指す。「井の中の蛙(かわず)」はその典型。

●伝聞によるイドラ(市場のイドラ)
人類相互の接触と交際」から生ずるもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のこと。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

●権威によるイドラ(劇場のイドラ)
哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってくるもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまう。

最後の権威によるイドラの例としては、中世において圧倒的な権威であったカトリック教会が唱えてきた天動説的な宇宙観が、ニコペルニクスやケプラー、ガリレオなどによる天文学上の諸発見によって覆されたことなどがあげられます。

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一方でベーコンは、人間の知性は、これらのイドラによって人は一旦こうだと思いこむと、すべてのことを、それに合致するようにつくりあげてしまう性向をもつと考えました。

例えば思いこみというものは、たとえその考えに反する事例が多くあらわれても、とかくそれらを無視ないしを軽視しがちです。このためベーコンは、この4つのイドラを取り除いて初めて、人は真理にたどり着け、本来の姿を取り戻すことができると説きました。

こうした考え方は、上述の帰納法にも生かされています。真実を追求していく過程で、人間の認識には限界があるため、様々な問題解決の過程において得られた結論においても、それが必ずしも真実ではないかもしれないことを推して知るべきである、と説いているわけです。

そして、これらのイドラにまどわされることなく、観察や経験によって得られる個々の事例を集めて選択・整理した上で、そこから一般的な法則を発見していくべきであるとし、経験論と合理論を統合することによって、科学は自然を支配することができる、としたのです。

さらに「人間の生活を新しい発見と資材によって豊かにすること」が人類発展の目的であるとし、このことの実現は個人的な才能によって担われるのではなく、人類すべての「共同作業」によって営まれるべきであるとベーコンは主張しました。

より具体的には、国家は科学研究を支援し、研究所や図書館など研究に必要な施設や研究者養成のための機関の設立をベーコンは説きました。この主張は、その後イギリスでは17世紀の王立協会や、科学アカデミーの設立によって実現し、それが世界中に伝搬して、その後の科学技術の発展に限りない影響を与えていきました。

一方では、この思い込みというものは、頑固であるとか、悪い意味で使われることが多いものですが、それをうまく使うことによって、目標達成の原動力にもなりえるものです。

周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手がプロデビューを果たしたり、無謀と言われながら選挙への立候補を重ねて、ついに当選し、政治家デビューを果たすのも、往々にしてこうした思い込みあってこそであり、これがあってこそその成功を手中にすることができたのです。

人間は、対象とする存在の性質や優位性の有無などを判断する上において、その対象物に関する見かけや所属といった断片的な知識に惑わされがちです。

高学歴社会を経て大きな組織に所属し、高級なスーツを着ていれば、確かな人間と思われがちですが、実はその内面は腹黒い、詐欺師のような人間であったりします。

情報や自らの属する社会、宗教、文化などが有する価値観、あるいは個人の経験則を判断に、勝手にその対象物を自分なりの判断基準で裁いている場合も多いものです。

オウム真理教の教義に同調し、知らず知らずのうちに社会では犯罪とされる行為の数々に及んで行った多くの信者たちもまたしかりです。

実際の性質や実態を無視し、主観的・恣意的に選択された比較的単純な判断基準として用いることで生み出される事実上の根拠がない思考は、「思い込み」の域を逸脱して、「偏見」にさえつながっていくこともあり、これはさらには「差別」をも生み出していきます。

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多様な視点に欠ける一方的・単純なものの見方に立脚した思想、態度は、往々にして社会的な偏見を生み出すことも多く、かつての部落問題やハンセン病がそうであり、現在でも、精神障害者に対する偏見などがあります。

ちょっと前に、精神障害者の障害者手帳が問題になったこともありました。それまで精神障害者さんの福祉手帳のなどの表紙は、障害者手帳と書かれ、一見、何の障害の種類が分からないようになっていました。

ところが、2006年(平成18年)の申請分からは、写真を貼付されることになりました。以前は貼付されることはなかったのですが、これに対して一部の精神障害者団体が猛反発しました。何故かと言えば、写真を添付すれば明らかに他の一般の身体障害者手帳や療育手帳と違う、ということがわかってしまうためです。

この手帳を提示したり、さらには紛失したことで、差別等の不利益を得る可能性が大であるというわけであり、このため、その後は本人都合により写真貼付なしにすることが認められる都道府県も出てきました。

こうした精神障害者の不利益を守ろうと、精神障害者の家族によって組織された全国的な家族会があるそうで、この活動により、「きちがい」という用語は現在使われなくなりました。

事の発端は1974年に、毎日放送(現テレビ朝日系列)で放送された「新・荒野の素浪人」の中にこのことばが登場したためであり、これに反発した大阪府の精神障害者家族連合会が、患者にショックを与える等の医学的な根拠を理由に毎日放送に初めて抗議を行いました。

以後、同会ではその後もテレビ・ラジオを一日中モニターするようになったそうで、このことばが放送されるやいなや、NHK、民放を問わず大阪の各放送局に対し繰り返し抗議するなど、激しい行動を起こし始めました。

その結果、例えば毎日放送のようにスタジオに「きちがいというコトバは禁句」の掲示板を常設することになるテレビ局も現れ全国的にもこのことばは自粛されるようになっていきました。

そのほか、足が悪い人のことを「びっこ」とか「ちんば」と呼び、在日韓国人のことを「チョン」と呼ぶなどの差別用語が昔はありましたが、現在では放送禁止用語に指定され、ほぼ現在では死語となっています。

このように思い込みは、社会的な差別を生み出す根源になる場合も多く、これらはいわばその社会における「固定観念」が生み出すものでもあります。

固定観念は、固着観念ともいい、もともとは心理学用語です。人が何かの考え・観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないようになっていくことです。

精神病においては、「妄想型精神病」というのがあるそうで、固定観念はある種妄想にも似たようなところがあり、また呪術に基づく迷信や、思想や宗教、文化慣習から来る固有の信念なども、固定観念となっている場合があります。

知識やものごとの把握方法のコントロールが、政治的目的や文化的な背景から、意図的、あるいは無意識的に幼少期の頃から行われ、長い成長の過程を通じても継続的に行われることもあります。

太平洋戦争に突入していった日本は、国威高揚という名の軍国主義に基づく妄想を国民の間に固定観念として定着させてしまったために、この悲劇を起こしました。

このような間違った固定観念の蔓延は、あるものごとの見方や価値観が、その人の人格や社会的な存在と切り離せないぐらいに密接に絡み合ってくることによって起こります。

やがては認識の過ちを指摘する情報に触れても、容易に考えや価値観が変化せず、その固定観念を変えることなく、ついには国民の大多数がその妄想にふけるようになっていきます。一種の集団催眠のようなものです。

かつての日本だけでなく、国策として「共産主義」による思想教育が行われたソビエト連邦もまたこの固定観念の犠牲者であり、かの国がその後衰退を招いたのと同じく、現在の中国もまた、再び同じ過ちを犯そうとしているのではないか、という指摘があります。

実は、「洗脳」というのは、中国においてかつて施された思想教育の中から出てきた用語だそうです。

もともとは、多くの主義主張に基づく政党がたくさんあった中国ですが、中国共産党が台頭した結果、彼等を共産主義に帰依させる目的で教育が行われるようになり、共産主義者にさせることを「洗脳」と呼びました。

ところが、その後太平洋戦争後に起こった朝鮮戦争時に、捕えた捕虜米兵に対して共産主義を信じることを迫った際にも、この行為を中国共産党が「洗脳」と呼ぶようになりました。

この結果、当時の捕虜米兵が次々と共産主義者であることを宣言するようになり、アメリカではこのことは関係者に大きな衝撃を与えましたが、この洗脳は英語でも“brainwashing”とそのまま訳され、主義主張が違う者の考え方を変えさせることを指す、世界的な標準語となっていきました。

かつて、中国共産党が、捕虜米兵を洗脳する際には、薬物を使用した例もあったといい、こうしたことから、洗脳といえば、何かと暗い、悪いイメージが現在でも伴います。

思想教育はどこの国でも行っていることでありアメリカをはじめとする西欧諸国も例外ではありません。しかし、情報や知識を国家が統制し、このことによって一党が国民の生活や思想を蹂躙しているような中国や北朝鮮のような国は、世界中から批判を浴びています。

とはいいつつ、アメリカ合衆国においても、 “アメリカは世界で最も自由な国である”というのは、文化的な思想教育になっており、いわば固定観念化している思想といえます。

また、日本においても、“日本は平和国家である”との固定観念が発達していますが、安倍政権による国粋主義の考え方が蔓延していく中、「積極的平和主義」の名のもとに、またかつてのような軍国主義に戻ってしまうのではないかという懸念も起こっています。

今の日本人はこの国が神の国である、という固定観念をもう一度見直し、その中のイドラを検証し、果たして「権威によるイドラ」ではないかをもう一度問い直し、日本人にとっての真に神とは何なのか、をもう一度考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

さて、みなさんはいかがでしょう。ひとつやふたつのイドラ、持っていらっしゃるのではないでしょうか。

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振袖のはなし

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今日の伊豆は、午前中は雪がちらつく模様、との天気予報でした。

が、今のところは薄日が差しており、雪が降りそうなかんじはしません。去年の今ごろは、かなりまとまった雪が降ったような記憶があり、そろそろではないかとは思うのですが、降るなら降るで、ドバ~っとふらんか~いと天に向かって吠えてはみるものの、白い雲の中から少し見える青空からは何の返事もありません……

連日こう寒いと、ストーブや電熱器が手放せません。最近石油が高いので、我が家ではできるだけ灯油には頼らないように心掛けており、石油ストーブなどで急速に部屋を暖めておいて、あとは小さな電気式のもので、ちまちま暖をつなぐ、というケチくさい対策をとったりしています。

家の中も寒いのですが、当然のことながら、外も寒く、庭の掃き掃除などをしていると、貯めた落ち葉に火をつけて焚火をしたくなります。が、最近は焚火は火事につながるからと、消防署などから厳しい御法度の通達が来る時代であり、ホームセンターなどに行っても、その昔はたくさん置いてあった、ゴミ焼却機などひとつも置いてありません。

それはそれでわかるのですが、多くの自治体がゴミ処理の問題で悩んでいる現在、少しくらいの焚火は大目にみて欲しいと思うのですが、みなさんはどうされているのでしょうか。

ところで、現在、日本における火災の原因で最も多いものは放火だそうです。ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっているそうですが、江戸時代にも放火が多かったそうで、今日、1月18日から20日にかけても、「明暦の大火」という大火事がありました。

旧暦のことでもあるので、現在の暦に直すと、火事が発生したのは江戸初期の明暦3年(1657年)の3月2日から4日にかけてのことです。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であり、江戸の三大火の筆頭としても挙げられます。

ほかの二つは、江戸中期の明和の大火(明和9年(1772年)と、幕末の文化の大火(文化3年(1806年)です。

これらの大火と比較しても明暦の大火が大きな大火となった要因のひとつは、江戸独特な気象条件である、冬の季節風です。北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)が吹くため、江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生しています。

ほか二つの大火、明和の大火も新暦の4月1日に、文化の大火は4月22日に起こっており、明暦より一カ月以上遅い時期ですが、このころにはまだ関東では冬の季節風が吹きやすい状態にあります。

こうしたことから、幕府が江戸初期に創設した4組の定火消(幕府直轄で旗本が担当した)の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれていたそうで、この配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。

また、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳の雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことがあります。とりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきたようです。

この明暦の大火で江戸の町は、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者の数については諸説あるようですが、3万から10万人と推定されており、江戸城天守はこれ以後、再建されていません。

火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものといわれており、世界的にもロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられるほどのすさまじいものでした。

この明暦の大火は、別名、丸山火事、振袖火事とも呼ばれています。

この大火では火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したことが分かっており、最初の火災は、未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から発生したとされており、これがこの火事が丸山火事といわれる理由です。

この最初の火災は神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及び、現在も江東区にある霊巌寺には、炎に追い詰められた1万人近くが避難しましたが、類焼はここにもおよび、多数の市民が死亡。さらに浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となっています。

しかし、被害はこれだけでは終わらず、ひとつ目の本郷の火災が終息しようとしているところへ小石川、麹町などで次々に火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはほぼそのすべてが焼き尽くされました。

この最初に本郷で起こった火災は実は放火によるものではないか、とする説もあるようです。

幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したのではないか、という奇説もあるようで、この説では、この当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていたことが原因としています。

この当時、江戸幕府は、江戸の町を都市改造しようと考えていましたが、地方から流入する多数の住民は増え続け、これらの住民の説得をして立ち退きさせるためには莫大な補償が必要となっており、都市改造の大きな障壁となっていました。

そこで大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると幕府が考えたのだというのがこの説であり、前述のとおり、この時期の江戸はたいてい北西の風が吹くため、放火計画も立てやすかったと考えられます。

実際に大火後の江戸ではかなり大規模な都市改造が行われており、これがこの説が唱えられるようになった理由のようです。がしかし、一方ではこの火災により江戸幕府の本丸である江戸城までもが消失しており、このことから、この幕府放火説は疑わしいと考える人も多いようです。

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この火事は、本郷にあった、老中の阿部忠秋の屋敷が火元であったとする説もあります。しかし、老中の屋敷が火元ということが世に知れ渡ると、幕府の威信が失墜してしまいます。このため、幕府の要請によりこの阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたという話もあり、これを「本妙寺火元引受説」といいます。

この話には根拠があり、実はこれだけの大火のあとも、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあっていないことがあげられています。処罰を受けなかったどころか、大火後にこのお寺は、以前にも増して大きな寺院となっており、さらに大正時代にいたるまで阿部家から毎年多額の供養料が納められていたことなどがわかっています。

本妙寺側もこの説を否定しておらず、江戸幕府崩壊後の明治期以降にはもう時効だろうということで、むしろこの説を主張しているそうで、案外と出火元が老中の安倍家であったというのは真実なのかもしれません。

一方、出火したのが、安倍家であろうが、本妙寺であろうが、そもそもこの出火原因は不審火ではなかったかという説は現在に至るまで根強く、これが、この火事が「振袖火事」とも呼ばれる所以です。

不審火の意味は、必ずしも放火とは限りません。出火理由の原因究明をつとめても、結果が出ない場合、これは不審火と呼ばれます。明暦の大火もまた、結局原因がはっきりせず、振袖火事というあいまいな名前がつけられて現代に至っています。

この説は多少伝説めいています。

話しの発端は、この出火元といわれる本妙寺に、いつも墓参りに行っていた、ウメノという女性に始まります。このウメノがある日のこと、いつものように親戚の墓のある本妙寺に墓参りへ行ったその帰りのこと、上野のお山で一人の美しい美少年を見かけます。

この美少年はどこかのお寺の小姓だったようですが、その美しい横顔を見たウメノはその瞬間に少年に一目ぼれしてしまいます。この小姓は、きらびやかな振袖を着ており、それからというもの、ウメノの脳裏からはこの振袖を着た小姓のことが離れず、日々魂を抜かれたようになっていきました。

しかし、もう一度会いたいと何度か上野に足を向けたものの、その小姓には出会うことができず、思い悩んだウメノは、やてその小姓が着ていた振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえ、これを着て二人が夫婦(めおと)になった妄想にふけるようになります。

来る日も来る日もその遊びに明け暮れたウメノは、次々に振袖の衣装を変え、その紋も桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に菊の花をあしらってなどなどとエスカレートしていきました。しかし、何度上野へ行けども妄想すれども小姓はついに現れず、やがてウメノはその恋の病に臥せったまま、わずか17歳という若さで亡くなりました。

承応4年1月18日(1655年2月22日)がその命日という記録が残っており、ウメノの葬儀が行われたのも彼女と縁が深かった本妙寺であったとされ、実在の人物だったことをうかがわせます。ただ、ウメノが墓参していた親戚は確かにこの寺の門徒でしたが、ウメノの家はこの寺の宗派である「法華宗陣門流」に帰依していなかったようです。

この流派は日蓮を宗祖としており、日蓮は、「不受不施義(ふじゅふせぎ)」を思想としていました。不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、また、不施とは法華信者以外の供養を施さないことです。

このため、寺では葬儀が済むと、この不受不施のしきたりによって、異教徒であるウメノ
の振袖は供養せず、質屋へ売り払ってしましました。

やがてこの振袖は、別のキノのという女性の手に渡りました。ところが、このキノもまた、ウメノと同じ17歳で、翌明暦2年の同じ月の(1656年2月11日)に死亡しました。

こうしてウメノからキノに渡った振袖は再び質屋を経て、次いでイクという女性のもとに渡りました。が、なんとこのイクも、同じように翌年に亡くなりました。

亡くなったのは、明暦3年1月18日(1657年2月28日)であり、日付こそ違いましたが、イクもまた、2月に17歳で亡くなるという偶然としては、ありえないような死でした。

ところが、イクの葬儀において、この振袖を売った質屋が供養に出かけてきたことから、この質屋を通じて元の振袖の持ち主をイクの家族が知るところとなり、さらにその前の持ち主も判明したために、彼等の娘たちがすべて同じ月に亡くなっていた事実が浮上します。

イクの家族は質屋を通じて、ウメノとキノの家族を見つけだし、彼等もその奇縁に驚嘆します。やがて三家は相談し、不受不施義を流儀とする本妙寺に赴いて、異教徒の振り袖ではあるけれどもと頼み込んでそのしきたりを曲げてもらい、この寺で、三人の娘が袖を通した振袖の供養をしてもらうことになりました

こうして、この振袖を前にして、本妙寺の和尚による厨での読経が始まり、やがて和尚は、ころあいを見計らってこの振袖を火の中に投げ込みました。その瞬間、突如つむじ風が舞い起こり、振袖はこの風に煽られて運ばれ本堂に飛び込みました。

この結果、振袖の炎は近くのものに燃え移り、瞬く間に本堂全体を包む猛火となり、やがてそれが、周囲に燃え広がって江戸中が大火となっていきました……

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以上の話からは、出火原因は放火というよりも、失火に近いといえるようです。真実のところはいずえにせよよくわかりませんが、この話はその後江戸期を通じて語り継がれ、明治期になって矢田挿雲(やだそううん)という、金沢出身の小説家がその事実関係を細かく取材して出版しました。

この矢田挿雲の代表作は「太閤記」であり、これは大正から昭和にかけて人気を博し、のちには映画化やテレビ化もされています。この矢田が記した三人の少女の話は、その後、このブログでも過去に何度か取り上げた、かの小泉八雲も興味を持ったようです。しかし、作品化はなされず、また登場人物は異なる内容のメモのようなものを残しているといいます。

これがこの明暦の大火が別名、振袖火事とも呼ばれるゆえんですが、誰しもが疑問を持つような伝説の域を出ず、三人の少女が亡くなった月が同じ2月だったというのも創作の臭いがします。三人の誕生日がほぼ10日づつずれているのにもなにやら意図が感じられます。

従って、この明暦の大火の火元というのはやはり、前述のとおり老中安倍家ではなかったかと私は思いますし、おそらく多くの人がそう考えるのではないでしょうか。

しかしこの火事の原因が放火であるとしても、その真犯人が幕府であるわけはありません。幕府がその重職である家老の家に付け火するというのは考えにくいことです。

付け火だったとしても結局その犯人は特定されず、その捜査の過程で、上のような振袖火事の噂が流れ、まことしやかに人々の間に広まっていった中で、「振袖火事」のような俗名も出てきたと考えられます。

結果として、この大火では出火元として本妙寺が形ばかりの処罰を受けましたが、ほかに誰も罪をかぶるものは出ませんでした。

江戸の町では冒頭でも述べたように放火による火事が多く、江戸中期の享保8年(1723年)から翌9年の2年間の記録だけでも、放火犯が102人も捕らえられています。その内訳としては、非人が41人・無宿者が22人となっており、下層民が多く含まれていたことが特徴です。

こうした社会の下層にいる住人による放火が多かった理由としては、江戸の物価の高さや、保証人がなく奉公に出られないなど、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かったことがあげられます。彼等にとっては、火事で焼け出されたとしても、失うものが少なく、自暴自棄の中でそうした行為に及ぶことはしばしばあったと考えられます。

その放火の動機ですが、やはりまずあげられるのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒です。奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多く、中には商売敵の店へ放火する者もいました。

子どもの火遊びも多く、「ふと火をつけたくなった」というある子供の供述も記録として残っており、このころの江戸の下級庶民のすさんだ心がうかがわれます。

しかし、江戸の火事は、いったん火事が起きれば、大工・左官・鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、むしろ火事の発生や拡大を喜ぶものもいました。

火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、付け火をしたのではないかと思われるふしのある火災もあるそうです。これには幕府も手を焼いたようで、時には町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあったといいます。

日本では、放火は古来より重罪として処されてきましたが、とくに江戸幕府は放火に対しては、火焙りをはじめとする厳罰で対処してその抑制を図りました。

しかし、いわゆる「失火」については、死罪などに至る厳しい処分を科すことがなかったそうで、火元となっても、武士の場合は屋敷内で消し止めれば罪には問われず、町人の場合も小火であれば同様でした。

失火による火事が大火に発展した場合には、火元の者を死罪・遠島などの厳罰とすることも検討されたそうですが、失火は誰でも起こす可能性があることや、老中の評議において、こうした大火があった場合、その発生を許した責任をとって老中自身が切腹する覚悟があるのかという指摘などがあり、結局、採用されなかったそうです。

この辺、自信が責任をとるのがいやなので、法令の中身をあいまいに操作して自分には火の粉が降りかからないようにした上で法令を通した、某巨大政党発案のスパイ法案などともどこか似ています。

とはいえ、失火と言えども罪がまったく課されなかったわけではなく、例えば、武士の場合は、失火により屋敷外へ延焼を許した場合には大目付への進退伺いを提出することが義務付けられ、失火も3回ともなると、江戸の外縁部に屋敷換えとなるなどの処分が下されました。

町人・寺社の失火の場合、小間10間(約18メートル)以上の焼失の場合は、10~30日の「押込」と定められていたほか、将軍の御成日に失火した場合は罪が重くなり、小間10間以上の焼失で火元は「手鎖」50日となりました。

また、延焼範囲が広く3町(約327メートル)以上に達した場合は火元以外にも罪が及び、火元の家主などは30日の押込、五人組などの近隣の者も協同責任ということで20日の押込となるなどの処罰がありました。

ただし、寺社の失火に対しては、上述の本妙寺の例などにもみられるように、幕府もその権威を考慮し、火元となってもその罪は7日の「遠慮」のみでした。これは軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)が命じられたものの、夜間のひそかな外出は黙認されるというものでした。

しかし、失火ではなく、放火である場合、捕らえられた犯人は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされました。先だってのブログでとりあげた八百屋お七もまた、若干15歳でその若い命を散らしました(注射はお好き?)。

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火事にまつわる罪といえば、上述の明暦の大火で面白い話がもうひとつあります。この大火の際、江戸でも最大級の牢屋であった小伝馬町の牢屋にも火の魔の手が及びました。このときの小伝馬町の牢屋奉行は、石出帯刀吉深という人物でした。

この石出帯刀という人は、歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられていたほか、国学者としても著名な人であり、同時に慈悲深い奉行として慕われていたようです。

この明暦の大火のときにも、迫りくる炎の中、普通なら焼死から免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に開放しました。

こうした処断は、それまでは法制化されておらず、仮にこうした牢が災害に見舞われる可能性がある場合でも大目付などの許可を得なければ囚人の解放は許されません。が、そんな許可を貰っている暇はなく、このため、帯刀はこの開放措置を独断で実行しました。

このとき、解放された罪人達は涙を流して帯刀に感謝したといい、その後、大火が静まったあと、実際に全員が約束通り戻ってきたそうです。

本来こうした独断を行った者に対しては処分が下されるところですが、帯刀は戻ってきた罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、事の一部始終を老中に報告した上で、自分の行為を正当なものだと主張し、逆に彼等の死罪も含めた罪一等を減ずるように上申しました。

この結果、実際に減刑が行われるところとなり、以後の江戸時代においては、こうした緊急時の「切り放ち」が制度化され普通に行われるようになっていったということです。

一昨年の2月に、中米のホンジュラス中部コマヤグアの刑務所でも火災がありましたが、このときはこうした「切り放ち」は行われず、無残にも受刑者ら359人が死亡した、という事件がありましたが、このニュースを覚えている人も多いのではないでしょうか。

大正13年に発生した関東大震災では、巣鴨刑務所の外壁が9カ所に渡って倒壊し、震災と火災におびえた囚人が一斉に怒声をあげはじめ、競うように安普請の検身所の壁を突き破り、屋根をはがしはじめたそうです。

刑務所側では全員が脱獄の気配濃厚と判断し、抜剣・発砲で騒ぎを収拾したといい、これによって事なきを得たようですが、この暴動の様子が刑務所外に漏れ伝わり、「巣鴨刑務所から囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返している」という流言が流布したそうです。

現在でもあながち起こらないとはいえない事件ですが、実際に発生したとしたら、現在の日本の法務省や警察はどのように対応するでしょうか。さすがに切り放ちは難しいでしょうが、かといって銃や剣で恫喝するということも状況としては困難でしょう。そうした場合の対処法は検討されているのでしょうか。

それはともかく、こうした明暦の大火のような災害が発生すると、焼失した江戸の町は、その再建に莫大な資材と費用を必要としました。

このため、大火が起きると江戸をはじめ全国の物価や景気が影響を受けたといい、このあたりのことを書いていると、昨日が19年目の記念日であった阪神淡路大震災のその後のことなども思い浮かびます。一昨年に発生した東日本大震災もまたしかりです。

明暦の大火の後は、江戸市中の物価が高騰したそうで、米をはじめとする食料品、家屋再建のため必要とされた建築資材などは何倍もの価格となりました。焼失した江戸市中の再建に伴って膨大な仕事量が発生し、職人や奉公人の賃金が高騰したり、家屋の不足により賃料が上昇するなど、大火が江戸の物価に与える影響は大きかったようです。

大火の後では江戸から各地への買い付け注文が増加するため、江戸市中のみならず全国の景気に影響を与え、需要の増加に便乗した値上げも行なわれました。明暦の大火後に材木を大量に買い付け、建築作業を請け負って莫大な利益をあげた河村瑞賢のように、大火を契機として富を築く商人もあらわれました。

東日本大震災以降も我々の生活はその余波を受けて、かなり変わりつつあります。大災害のあとには、景気が良くなるという説と悪くなるとする説の両派があるようですが、このように見解が分かれるのは無論、ではいったい大災害がなければどうだったのかという現実を検証できず、これとの比較検討が難しいことが原因です。

「たられば」が検証出来たら、タイムマシンなどというSFは生まれなかったでしょう。

ただ、大災害に見舞われた国が、長期的に高い経済成長を達成するという人もおり、これは災害によってインフラ資源の破壊とともに、それまでの社会の仕組みの創造的破壊と改変のプロセスが急速に促進されるからだという説です。

確かに、東日本大震災を通じて、日本のエネルギー行政や環境は変化せざる得ない状況にあり、とくに東北地方のこれからのグランドビジョンは大きく変わっていくことでしょう。

これらをきっかけとして、全国的にももっとたくさんの環境の変化があると考えられますが、こうした新たな環境の変化や課題に順応する知恵が逆に日本人の中に芽生えて、さらなる経済発展をするということは大いにありえるのではないでしょうか。

明暦の大火を初めとする江戸の大火の数々は、江戸幕府の力を衰退させ、その結果が明治維新へとつながっていきました。阪神淡路大震災、東日本大震災という未曽有の大災害を、20年という短いに期間に経験した我々もまた、その経験をもとに前向きに知恵を絞って、それらの環境の変化をチャンスに変換できるようになりたいものです。

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藪と野暮

2014-1120226小正月の15日が過ぎました。

関西方面では、松が明けるのはこの小正月が過ぎてかららしいので、正月は名実ともに昨日で終わり、今日から改めて仕事始め、という雰囲気の人も多いことでしょう。

この1月16日は、その昔は「籔入り」として奉公人にとっては、大事な日でした。江戸時代ころまでは、商家などに住み込みで働く丁稚や女中が数多くいましたが、一年のうち、この日と7月16日だけは、実家に帰ることが許されていました。

この藪入りの語源には諸説あり、はっきりしないようですが、藪の深い田舎に帰るからという説のほか、昔は実家へ帰ることを「宿入り」と言ったことから、これが訛って藪入りになったのではないかという説もあります。

ちなみに、大奥の女性たちが実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれていたそうで、これは年に二回に一日だけではなく、奉公勤続3年目ではじめて6日間、6年目からは12日間、9年目からは16日のあいだ、休みを貰って宿下がりが許されていました。

もっとも、季節は春先だけに限られていたそうで、また大奥の女中たちでも、実家に帰れるのは、「御次」と呼ばれる中堅クラス以下の女性たちだけでした。逆にこれより位が上の者たちは、より将軍に近い側近として、ほぼ終生を大奥で暮らしたため、実家に帰る機会というのはかなり少なかったようです。

ただ、「老女」と呼ばれるような、大奥でも侍女の筆頭格になると、町屋敷が与えられることもあったそうなので、こうした老女とその側近たちは、大奥を出てこうした屋敷で一生を終えるということもありました。

大奥の奥女中としては、当初は旗本や御家人などの武家出の女性が雇用されたようですが、時代が下ると、裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多かったそうです。このため、一定の期間を過ぎると、また元の町屋に返されて余生を過ごす、ということもあったようです。

いずれにせよ、こうした大奥に上がっていたのは、裕福な商家や金銭的に比較的余裕のあった武家の者だけであり、一般庶民がこうした場所に上がることはほぼありえない話でした。

貧しい農家や職人たちの子息は、余裕のある商家に方向に入って奉公働きさせられるのが普通であり、通常は10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役を始めます。

無論、丁稚は一人ではなく、大きな商家ではたくさんの丁稚を雇うことから、丁稚の中でも住み込み年数に差が出るのは当然であり、その経験年巣によって上下関係が出てきます。

丁稚の仕事は多岐に亘り、雑役のほかに蔵への品物の出し入れをはじめとする力仕事が多く、住み込みながら番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれます。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事も任され、経験が浅いうちは、商品を扱わせてもらうといったことはまずありません。

しかし、こうして働かされるばかりではなく、丁稚奉公はこの時代には教育の場でもありました。

丁稚は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わっており、こうした素養をつけさせることで、雇った側も人材育成を図ることができ、ひいてはそれが店のためにもなっていったのです。

丁稚は、他店や客からは「丁稚どん」、あるいは「小僧」「坊主」などと呼び捨てにされることも多かったようですが、その後成長して能力のあると認められた者は、その後主人(だんさん)の裁量で手代となることもあります。

小僧から手代までおおむね10年かかるそうで、手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働きます。やがて更に才覚が認められれば、番頭を任されますが、この番等にも大商店などでは位があり、小番頭、中番頭、大番頭などに分けられていました。

大番頭ともなると、主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになるとともに、支店をまかされたり暖簾分けされて自分の商店を持つことが許されることもありました。

番頭となるのはおおむね30歳前後でしたが、しかしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があり、江戸期の三井家の例をあげると、丁稚で入って暖簾分けまで到達できる者は300人にひとりというかなり低い確率でした。

手代や番頭になれない者は元の農家に返されるか、はたまた別の商家で働かせてもらうかします。奉公換えは頻繁に行われていたようで、無論、元の商家の主人や番頭と気が合わない、といったこともあったでしょう。

一方では、とくに優秀な手代などが、大店へ引き抜かれるといったこともあり、この際には給金や賞金、つまり現代でいえばボーナスが増える、といったことが多く、このためこうした転職はしばしば行われたようです。

このあたり、現在の日本と何ら変わりがありません。

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こうした手代や番頭をめざして日々の業務を励む丁稚などの奉公人たちにとって、藪入りは、年にたった2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントでした。

藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代からですが、本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるそうです。しかし、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じ、関西地方ではや「6」のつく日に嫁が実家へ帰ることが許されていたことから、「六入り」と呼ばれていたそうです。

やがて、この嫁の里帰りは奉公人の習慣に変わっていきましたが、嫁の里帰りがひと月に何度でも可能であったのに対し、奉公人の藪入りの日がたった二日となったのは、無論、そんなに頻繁に返していたのでは、その店としても、本人としても経済的に負担だったためです。

藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出したため、多くの丁稚を抱える商家では当然これは大きな出費となります。

丁稚たちが帰る実家でも、待ちかねた両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しみますが、帰って来た子供たちに振る舞う食事などもこのときとばかりに豪華なものにします。しかし、こうした贅沢もまた、年二回程度なら許されるものの、頻繁に行うということになるとかなりの物入りになります。

このため、遠方から出てきた者はその旅費だけでも莫大になることなどから、実家へ帰ることができないものも多く、こうした丁稚たちは、もっぱらその日だけはお暇を貰い、商家のある地元で芝居見物や買い物などをして休日を楽しみました。

江戸時代の人達にとっては小正月である1月15日と、盆でもある7月15日はそれぞれ一年のうちでもとくに重要な祭日であり、その翌日が藪入りと定められたのは、丁稚たちが奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるようにという意図だったと考えられます。

この習慣は、やがてこの藪入りが、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる「賽日(さいにち)」とも重ねられるようになり、人々はこの日だけは、普段は忌嫌っている閻魔様に参詣するようになりました。

一年のうち、正月16日と7月16日だけは、地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされるとされ、これを「閻魔賽日」と呼んで、日各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになったのです。正月のこの日はとくに「初閻魔」とも呼ばれ、また「賽日」以外にも「十王詣」という呼び方もあったようです。

十王というのは、地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10人の判官のことで、それぞれを閻魔と呼び、その筆頭を閻魔大王と呼んだりします。閻魔賽日には、こうした十王が描かれた地獄の図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣して過ごします。

ちなみに、これとは別の習慣ですが、浄土真宗門徒にとって1月16日は、「念仏の口開け」と呼び、この日に年が明けて初めて、仏様を祀って念仏をとなえます。

彼等の間では、正月の神様(年神様)は念仏が嫌いである、ということになっているそうで、前年の12月16日の「念仏の口止め」からこの日までの正月の間は念仏は唱えないこととされています。

なので、今日16日は正月の間封じられていた念仏がようやく再開できる日でもある、というわけです。閻魔大王を崇める賽日も、念仏の口開けも仏教の習慣なので、もともとは一緒のものだったものが、長い間に宗派の違いにより、こういう風に分化されたものかもしれません。

その後、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われた結果、藪入りが行われる日もまたそのまま新暦の日に移行して、現代に至っています。

明治期の文明開化後も商家の子息を丁稚奉公に出すといった労働スタイルにはそれほどの変化はなかったのですが、一方では産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となっていきました。

藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわったため、この当時に流行し始めた活動写真にも多くの人が足を運ぶようになりました。

今日のように、映画が大きな文化として日本で認められるようになったのには、この藪入りの行事が明治時代以降も引き続いて盛大に行われたことが大きかったようです。

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その後、第二次世界大戦が勃発している間はさすがにこの藪入りも大々的に祝われるということはなくなりましたが、戦後になると、労働基準法の強化などにより労働スタイルも一変します。

GHQの指導などもあり、アメリカスタイルと同じく日曜日を休日とすることが奨励されるようになり、このため、年に二回の休暇である藪入りはすたれていきました。

人々は週に一回の休みを取ることで更に多くの休みを取ることが義務付けられるようになり、このころにもまだ大阪などを中心に残っていた丁稚奉公人たちもまた週末には休めるようになりました。

さらに、正月休み・盆休みを許す会社も増えたことから、やがて、かつてあった藪入りはこの正月休みに統合されるところとなりました。

現在でも、正月や盆には、帰省することを何にも不思議と思っていない人が多いと思いますが、これはかつての藪入りの伝統が、現在の正月休み、盆休みと合体した結果です。本来は、休みを取るだけで済みそうなものをわざわざ、旅費をはたいて実家に帰るのは、藪入りの名残、というわけです。

このように、藪入りは、かつての奉公人たちにとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これにちなんだ小説や俳句などが、江戸期以降、たくさんつくられました。

落語にも「藪入り」というのがあり、これは、「衆道」をテーマにしたその名も「お釜さま」という噺を、明治末期から大正にかけて活躍した、初代の「柳家小せん」が改作したものです。

そのあらすじをざっと書くと、住み込みで奉公をする子供が一日だけ親元へ帰ることが許される藪入りの日のこと、門前で立派に挨拶をする様子を見て、我が子の成長ぶりに両親は感涙します。

そして苦労してきた息子をまずは湯屋へ汗を流しに行かせると、子供が紙入れを忘れているのを母親が気付き、その妙な膨らみに違和感を覚えます。中を見ると、15両もの大金が入っており、奉公先の小遣いにしてはあまりにも高額なため夫婦は息子が何か悪事に手を染めたのではという疑念を抱きます。

とりあえず我が子の帰りを落ち着いて待とうということになりますが、その日に限って息子は帰りが遅く、苛立ちを募らせた喧嘩っ早い職人肌の父親は、帰ってきた息子を有無を言わさず殴り飛ばして、なんで悪事になんか手を染めたんだと問いただしました。

すると、この息子は、その15両は悪事で手にした金ではないと答えます。母親がじゃあどうやって手にした金なのかと聞くと、なんでも息子の話によれば、巷で流行るペストの予防のためにお役所が懸賞金を出して子供にねずみ取りをさせ、彼が捕えた一匹のネズミがその懸賞に当たり、その賞金を手にしたといいます。

これに驚いた父親は、我が子が悪事に走ってなかったことを知ると共に、我が子の強運を褒め讃えます。

そして、最後に「これもご主人への忠(チュウ)のおかげだ」と父親が言い放つというところがオチとしてつき、この噺は終わります。

こうしたあらすじだけ書くと、面白くもなんともないのですが、柳家小せんなどの本番では、藪入りの前日、我が子の帰りを待ちきれない父親が、息子のためにどう考えても一日で子供が食えるとは考えられないほどの分量のご飯をこしらえようと妻に提案する、といったエピソードがユーモラスに交えられているそうです。

典型的な人情噺でもあり、親子の会話からほろりとさせられるシーンもあるそうで、なかなか抒情豊かな噺のようです。

ところが、この噺の元となった、「お釜様」のほうは、いわゆる「艶笑噺」といわれるものです。元は、江戸の小伝馬町にあった呉服屋「島屋」で、番頭がある丁稚に「性的な虐待」をした末に気絶させてしまったという事実が原題になっています。

このような事件は当時珍しくなかったそうです。この事件が表沙汰になったことにより、この落語が創作されましたが、この噺では、上述の「藪の入り」では息子がねずみ取りの懸賞金で金を得たと告白する部分において、「盗んだんじゃねえ」という息子が、番頭との「関係」を説明する、というところがオチになっているそうです。

おそらく番頭との性的な関係を面白おかしく言って笑わせる、という工夫なのでしょうが、現在でもこうした関係を笑えるか、というと、逆に笑えるどころか客席はシーンとしてしまうかもしれません。

そもそも、こうしたいわゆる「衆道」は、平安時代に僧侶や公家の間で流行した「男色」が、中世室町時代に武士の間でも盛んになったことに起源を発します。

「衆道」の言葉がいつから使われるようになったかは不明ですが、そもそもは武士の「主従関係」の価値観が男色と融合したとされています。この当時の武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える一般の少年を「お小姓」として連れて行くことも多く、これが始まりだとされています。

女性の代わりにこうした男性が主人の相手をすることも普通であったそうで、そうした話を聞くと、私などはぞ~っとしてしまうのですが、そちら方面がお好きな方は興味深々かもしれません。

さらに時代が下って、江戸幕府の時代になってもこの風習は生き残り、幕府の公式令條においても「衆道」という言葉が使われるほどであり、江戸時代初期から中期にかけては上から下までごくごくあたりまえの習慣だったようです。

江戸中期に、武士道の指導書として書かれた「葉隠」にでさえ、武士道における男色の心得が説かれているそうで、「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」などと書いてあるそうです。

さらには、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべきだとまで書かれてあり、怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、「切り捨つべし」とまで言い切っているとか。

さらに「葉隠」では武士における衆道は、命がけのものが最高のこととされているそうで、ここいらあたりにこの風習がかつての武士の主従関係に起因する、一種の崇高な風習であったことが見てとれます。

江戸期以前の食うか食われるかといった戦国の世でにおいては、お互いに体を許し合えるような間柄でなくては、安心して命を預けることはできない、ということはあったでしょうから、こうした風習が尊ばれるのもあながち不思議ではありません。

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ところが、江戸中期から後期に入ると、こうした武家社会における男色は、それまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていきました。必ずしも従前のような君臣的上下関係ではなく、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分的な同性愛が起こるようになっていったのです。

とはいえ、誰でもいいというわけではなく、この「若衆」と呼ばれる男性の多くは、平安の昔に立ち返って、やはり「美貌」を持っている少年でなければなくなりました。そこいらにいる不細工で小生意気な洟垂れ小僧では念者に愛されることはなく、今でいえばジャニーズ事務所にいるような美少年たちだけが対象になっていたのです。

ただ、この風習が全国的なものであったかというとそうでもないようで、諸藩においては家臣の衆道を厳しく取り締まるところもあったようです。

特に、姫路藩では家中での衆道を厳しく禁じていたそうで、江戸初期の同藩の藩主、池田光政などはこの藩規に違反した家臣を追放に処しています。

この理由はよくわかりませんが、こうした江戸太平の時代になると、主従として命を共にするために男色を奨励するというよりも、むしろそうした身を許した人間が政道に立ち入ることで藩政が乱れることを嫌ったためでしょう。

しかし、江戸を初めとし、その他の藩でもその後も衆道はさかんであり続けました。

元禄時代の将軍だった徳川綱吉もまた、男色に傾倒し、12歳年下の柳沢吉保を少年時より寵愛していたという話があり、この柳沢保はその後も寵臣として綱吉に愛され続けた結果、その権力を維持できたのだという説もあります。元禄文化は、衆道文化の一面もある、という人さえいるようです。

ところが、元禄以降になると、前述のように兄弟分的な男色関係のほうが大事にされるような風潮が出てくるようになり、相手の美少年との関係を大切にしたいがあまり、刃傷事件などのトラブルも頻発するようになりました。

このため、江戸時代後半になると、衆道は風紀を乱すものとして問題視されるようになり、次第に目立たなくなっていきました。しかし、目立たなくなっていただけで、陰ではやはり従前どおりの普通の風習であり続けたようです。

とはいえ、上杉謙信を藩祖に持ち、質実剛健の藩風を持つ米沢藩の上杉家などのように、男色や衆道に対しては厳重な取り締まりを命じるような藩もありました。

それでも、衆道は武士道の精神と深く関わってできた習慣ということもあり、こうした男同士の情愛は様々な形で続き、とくに南国にあって、江戸の風習が届きにくい薩摩藩などでは、むしろ衰えることもなく、幕末維新の時代まで続きました。

新撰組局長の近藤勇が、新撰組発祥の地のひとつとしても知られる武蔵多摩郡立川郷(現東京都)の人で、のちに神奈川県議会議員などを勤めた中島次郎兵衛に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されているそうです。

衆道が盛んだった薩摩からは、明治維新後、数多くの人材が政府に出仕しましたが、とくに帝国海軍においても陸の長州、海の薩摩、と言われるほど数多くの薩摩出身の軍人が台頭しました。こうした薩摩が造った海軍では、明治時代の後半頃まで衆道の影響が強く残っていたといいます。

その後、いわゆる「衆道」が完全が消滅したのは大正年間の頃だとされています。が、本当に「消滅」したのかどうか、といわれれば、答えはグレーでしょう。

もっとも「衆道」と、単なる「男色」は別者と考えることができ、江戸期以前の武士道に端を発して流行した同性愛の形はおそらくは現在のものとはかなり違うのではないかと考えられます。が、そこのところのビミョーな部分は私には理解のしようもありません。

とはいえ、少年愛は、古来から世界中のあらゆる社会で存在したと考えられ、古代ギリシャでは「社会制度」でもあったそうで、日本と同じく、戦士社会においては年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつけ、互いの信頼関係を築くために重要視されていたそうです。

時代が変われども、人間の基本的な性癖などはかわるべくもなく、あいもかわらず世界中で戦争が勃発していることを考えると、こうした「社会制度」もまた、表に出ないまでも各国では潜在的に行われていると考えても不思議はありません。

ギリシャや日本だけでなく、トルコでもその昔は、男色が一般に受け入れられており、オスマン帝国のスルタン(イスラム世界における君主)は、そのハレムに幾多の美少年と美女を囲っていて、最盛期にはその数は1000人を越えたという記録があります。

そのオスマン帝国の重要な拠点でもあった、ソチで、いよいよ冬季オリンピックが始まります。2月7日からだそうで、もうあとその開催まで3週間を切りました。

無論、現在はロシアの領土となっているソチで、同性愛者が多いといった話は聞いたことがありません。が、スポーツ選手の間では、わりと同性愛者が多いと聞いたことがあります。これは、やはりスポーツ社会もまた、「戦士社会」とみなせることと無関係ではないでしょう。

先日の9日には、サッカー元ドイツ代表として、2004年から2010年にかけて52試合に出場した有名な選手が、同国代表経験者としては初めて、同性愛者であることをカミングアウトしたばかりであり、こうした例はほかにもたくさんあるに違いありません。

私としてはまったくその気はありません。が、だからといって、同性愛はまかりならん、不道徳だ、などという野暮なことを言うつもりもありません。

スピリチュアル的に考えた上では、同性愛についても否定するものではありません。男も女も同じ魂である以上、性別とは無関係にこれが時に愛し合い、時に敵として合い交えることは普通にあることだと、受け止めています。

今後繰り広げられるソチでの多くの戦いにおいても、それが変わることはないでしょう。厳寒の地での魂と魂のぶつかり合い、早くみてみたいものです。

2014-1120234石廊崎神社にて

どぶ

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先日、いつも見ているNHKの火野正平さんの旅番組を見ていたら、その日の訪問地は、横須賀市内のある病院でした。

40年ほど前に、その病院の眼科で目の治療をしていた女性が、目の訓練にと、病室から見ていた神社の階段が何段あったか見てきてほしいという依頼内容でしたが、残念ながらその女性はその後失明されたそうです。

その病院も神社も現存し、無事火野さんはお役目を果たすことができたのでしたが、そこへ行く途中、火野さんが、横須賀市内の「どぶ板通り」なる商店街を通っていました。

私はまだここへは行ったことがありません。あぁこれがあの噂のどぶ板通りかぁと、じっくり見ようと思ったのですが、火野さんはすぐに通り過ぎてしまったので、詳細には見れませんでした。

ここ伊豆からもそう遠くはないので、今度ぜひ一度行ってみようと思うのですが、せっかくだからその由来なども調べてみようとパソコンを立ち上げると、このどぶ板通りというのは、神奈川県横須賀市中心部にあり、どうやらその長さも300m程度の短い通りのようです。

戦前、この通りには道の中央に、いわゆる「どぶ川」が流れていましたが、人やクルマの通行の邪魔になるため、近くにあった海軍工廠が厚い鉄板を提供し、このどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうです。

戦後は、このドブ川やこれを覆っていた鉄板ともに撤去されて下水道が造られ、その上の道路の舗装もきれいになって、その周りには150軒ほどの商店・飲食店ができるようになっています。通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれていますが、「本町商店会」というれっきとした正式名称があるとか。

このどぶ板通りを持つ横須賀は、明治時代から第二次世界大戦終了時までは大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊で賑わいました。

その結果、米兵向けの土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えるようになりましたが、ベトナム戦争以後は、こうした店は数を減らし、2000年代には日本人向けの店などが台頭するようになっていったようです。

現在では、アパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、「スカジャン」と呼ばれる横須賀ならではのジャンパー専門店が立ち並び、昔の名残りでミリタリーショップなどもあり、こうした店には横須賀港に多数係留されている自衛隊の艦船を見に来た観光客なども立ち寄り、人気があるようです。

かつて米兵が闊歩した経緯と、最近のこうした日本の文化が融合した独特の雰囲気を持っているとのことで、商店街としては更に観光客を呼び込もうと、通りの路面に横須賀に縁がある有名人の手形を埋め込む活動なども行っているそうです。

この「どぶ」の語源ですが、「土(泥)腐」、すなわち腐ったヘドロという説や、「泥深」、深い泥地、などがあるようですが、定説はなく、一説では「濁醪(どぶろく)」の「どぶ」ではないかともいわれています。

いずれにせよ、濁った液体を指す総称のようで、「どぶ汁」という用語もあります。これは、茨城県から福島県南部の太平洋沿岸地域に伝わる漁師料理で、つまりは「あんこう鍋」のことです。

水は使わずに、大根などの野菜や味噌と鍋を持ち込むだけで作れることが船上での調理に好都合で、何より栄養価が高かったために地元の漁師さん達に愛された調理法が、郷土料理になっていったものです。

このどぶ汁もまた、あん肝から出る肝油で汁がオレンジ色に濁り、酒のどぶろくの様に見えることから、こう呼ばれるようになったという説があります。また、どぶとは「全て」という意味があり、あんこうの全てを入れる事から「どぶ汁」というとの説もあるようです。

このどぶろく(濁酒、濁醪)とは、発酵させただけの白く濁った酒で、もろみ酒、濁り酒ともいいます。炊いた米に、米こうじや酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られ、日本酒(清酒)の原型でもあります。

では、「どぶろく」の語源は何かというと、これは平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを濁醪(だくらう)と呼んでいたのが訛って、こうなったのではないかと言われています。

3世紀後半に記された中国の「魏志倭人伝」には既に、倭人は酒をたしなむといった記述があるそうで、このことからどぶろくの起源はかなり長く、米作の発祥とほぼ同じ時期に発明されたのではないかといわれています。

どぶろくは米から作ります。日本では古来より、収穫された米を神に捧げる習慣があり、このどぶろくも合わせて供えることで、来期の豊穣を祈願したようで、こうした風習は現代でも日本各地の神社で残っています。

その製法は比較的簡単で、以下のとおりです。

1.まず、よく研いだ白米を水に浸し、少量の飯を布袋に包み同じ容器に浸した上、1日1回この浸けた袋を揉む。
2.この袋を3日程度置き、甘酸っぱい香りがしてきたら、水(菩提酛)と米を分け、米を蒸す。蒸した米を30度程度に冷やしてから米麹を混ぜ、取り置いた菩提酛と水を加える。そして、1日1回かき混ぜ、再び2日程度置く。
3.白米を蒸し、30度程度に冷やしてから麹と水を混ぜ、加える。翌日にも同様のものを仕込み、これらを毎日1回づつかき混ぜ、1、2週間発酵させて出来上がり。

この工程で出来上がったものが、どぶろくですが、さらに布巾などでこれを漉したものは、多少濁ってはいますが、いわゆる「日本酒」に近いものになり、酒造法上も、これを「清酒」とみなしています。

このように、どぶろくは、その気になれば一般の家庭でも製造することができますが、日本では酒の密造は法律で禁じられているため、無免許製造した場合、処罰されます。その製造には各種の申告義務を課されます。なので、このブログを読んだからと言って、さぁ作ってみよう、とはいきませんからご注意ください。

どぶろくを作ることが違法行為(酒税法違反)となったのは明治時代以降のことであり、このころから、「どぶろく」といえば「密造酒」の別名のようにして用いられるようになりました。別名「どぶ」や「白馬(しろうま)」、「溷六(ずぶろく)」とも呼ばれ、とくにこの「ずぶろく」とは、泥酔状態にある酔っ払いのことを指します。

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違法とはいえ、このようにどぶろくは簡単にできてしまうので、明治以前には各家庭、農家などでもごく普通に作られていた「家庭酒」でした。

しかし明治年間に入った1940年以後、酒造税が制定され、やがてどぶろくの自家醸造も禁止されるようになりました。禁止された理由は、どうやら日清・日露戦争にあるようです。

この戦争では戦争に勝つために官民が協力しあい、多額の金がその装備に投入されましたが、このための大増税も行われ、このころの高額納税者であった酒などの醸造業者にも多額の税が課せられました。

明治時代においては酒造税は政府の主要な税収源であり、酒税は国の税収の3分の1に達し、国税3税のひとつといわれており、明治政府は戦争に勝つためにその徴収を更に強化したのです。

これに対して、従来からの高税に悩んでいた醸造業者たちもさすがに悲鳴を上げ、その負担に耐え切れないと政府を糾弾する声が高くなりました。

このため政府としては、彼等の懐柔策として醸造業者を保護する、という名目で、それまでは自由に一般人が造ることができたどぶろくにも増税をするようになりました。

一種の酒造業者保護策というわけですが、こうしてそれまで誰でも自由に製造できたどぶろくを作るのにも許可がいるようになり、その税率も高かったため、誰もどぶろくを作らなくなっていきました。

その後、大正、昭和、平成に至るまでもこのどぶろくに対する課税は続いており、現在に至っています。しかし、実際には上述のようにその製法は比較的簡単であり、家庭内で隠れて作ろうと思えばできてしまいます。

家庭で違法に作る酒は、当然「密造酒」となるわけですが、実際にはその摘発は簡単ではありません。

明治大正期には、米どころと呼ばれる北陸やその他の穀倉地帯では、酒を取り扱う商店等の少ない辺縁の農村などで、相当量のどぶろくが違法に作られ消費されていたようで、現在も地方へ行くと日常的にどぶろくを作っている農家があるのではないかといわれています。

1984年には、こうしたどぶろくの愛好家の一人が、酒税法違反容疑で起訴され、控訴上告した通称「どぶろく裁判」も行われました。

この被告人は、前田俊彦さんといい、日本共産党に所属する社会運動家でした。市民運動関係者から、「前田のじいさん」と、慕われていたそうで、戦前の1932年には、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙された経歴があります。

このときは懲役7年の実刑判決を受け、出身地である福岡の刑務所に抑留されています。戦後は、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、木工所を開業。1947年に日本共産党を離党すると、この延永村の村長に当選しています。

村長を辞したあとは、農業のかたわら種々の仕事に携わりながら、文芸活動なども行っていましたが、1970年代に入って勃発したいわゆる「成田紛争」に首を突っ込み始め、1977年には千葉県成田市三里塚に移住。

新東京国際空港建設反対の立場を明確にして、「三里塚空港廃港宣言の会」代表に選ばれ、1983年の第13回参議院議員選挙の、比例代表区にも無党派市民連合から立候補しました。しかし落選。

このころから正々堂々どぶろくを活動方たちにふるまっていたようですが、これがバレて検察に告発されて行われたのが、上述の1985年の「どぶろく裁判」です。

この裁判の結果は、1986年の3月に千葉地方裁判所で下され、結果として前田さんは罰金30万円の有罪判決を受けました。控訴するも棄却され、1989年12月には最高裁判所にて上告棄却の判決が確定しました。

しかし、前田さんは、この裁判を通じて、食文化の一つであるどぶろくを、憲法で保障された人権における幸福追求の権利であると主張し、自家生産・自家消費・自家醸造の是非を問いました。

また、酒税法で設けられた様々な制限が、大量生産が可能な設備を保有できる大資本による酒類製造のみを優遇し、小規模の酒類製造業が育たないようにしているとも主張し、明治期以来の悪しき税制を破棄すべきだと訴えました。ちなみに、この前田さんは、この判決の4年後の1993年に自宅の火災により焼死しています。83歳でした。

このどぶろく裁判における最高裁判所の判決は「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」というもので、国が酒税をとることは明らかに合法である、という内容でした。

しかし、この判決はかねてよりどぶろくの自由化を求めていた人々には不評であり、逆に前田氏などの主張は共感を呼び、官側にも賛同する意見が相次いだといいます。元国税庁醸造研究所や東京国税局鑑定官を務めた穂積忠彦氏も、「酒つくり自由化宣言」という本まで出版し、酒税法は時代遅れの悪法であると主張しました。

このほかにも日本大学法学部教授の甲斐素直氏などが、「自分の造った酒を自由に飲む権利」は精神的自由権に属するものであると主張。またどぶろく裁判の最高裁判例が「租税」を根拠としたことについては次のように反論しました・

いわく、「明治30年時点で酒税は国の税収の3分の1に達するほどの比重を持っていたが、近年では1兆円程度で推移し総税収の1〜2%の比重しかなく、酒税法を取り巻く環境は急速に変化しつつあり、そうした中で、自己消費目的の酒作りを、依然として明治時代の発想のままに規制する根拠が存在するのかは、大いに疑問とされるようになってきている」。

また、「審査基準として明白性基準を採用した状況下においても、純然たる自己消費目的の酒造りが、国の税収を大きく左右するような可能性は全く失われた今日、明白に違憲とみなすことは十分に可能と言うべきであろう」とも甲斐教授は述べています。

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一方、酒税法が定める酒類製造業・酒類販売業における免許制度についても日本国憲法22条の「職業選択の自由の観点」からも批判する向きも多くなっています。

1998年に最高裁判所で下された別の裁判の判決でも、最高裁は、酒税法に規定されている「酒類製造免許」について、「原則的規定を機械的に適用さえすれば足りるものではなく、事案に応じて、各種例外的取扱いの採用をも積極的に考慮し、弾力的にこれを運用するよう努めるべきである」としています。

ようするに、酒の製造免許を、これを既得権益的に持ってきた酒造業者だけに持たせるのではなく、一般市民にも持たせることができるようにもっと国は努力しなさい、というわけであり、どぶろくの製造そのものは違法であるけれども、もう少しその規制のタガを緩めても良いのではないか、と裁判所もやんわりと国に指摘したわけです。

そもそも、酒造をこうした醸造業者にだけ作らせているのは、上述のように明治期の戦争に端を発した税制上だけの理由からだけです。

我々も納めている所得税などは申告税制になっていますが、家庭内酒造についても申告して納税さえすれば自由に認めるべきであるという意見もあり、税金を納めさえすれば、国に文句を言われる筋はありません。

税金を納めずに、脱税酒を造っている輩の摘発を強化すれば済む話であり、それをやらずにいるのは国の怠慢です。家庭酒造りを申告制にして、自由化すれば、地方の活性化につながると考える人も多く、酒造メーカーだけに既得権益与える醸造業者の保護政策は撤廃すべきだ、とする意見には賛同する人も多いのでしょうか。

こうした時代背景を受け、最近は地域産品としてのどぶろくを製造する地域が日本各地に増えてきています。どぶろく作りを実際に「地域振興」に生かそうと、2002年に実施された行政構造改革では、「構造改革特別区域」が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造が認められるようになりました。

こうした特区内では、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されるようになり、これは通称「どぶろく特区」と呼ばれています。ただし、同特別区外へ持ち出すことになる「みやげ物としての販売」に関しては、酒税法が適用されるため、酒類販売の許可および納税が必要となります。

この行政構造改革においては、酒税法において最低醸造量として定められていた年間6キロリットル(一升瓶にして約3326本)という制限も撤廃されました。しかし、アルコール度数の検査等については、どぶろく特区といえども酒税法で定められてる検査方法などでチェックされ、その内容はあまり変わっていません。

どぶろくを作ることができるのも、申請によって特区と認められた自治体だけであり、その申請の際の手続きも煩雑で手間がかかりすぎるという意見も多く、どぶろくの解放、ひいては家庭内での自家醸造の自由化には程遠い内容です。

しかし、それでも、町おこし、村おこしになるのなら、ということで特区への申請を行い、どぶろく作りに参画する自治体は全国にあまたあり、北海道から宮崎まで、現在全部で22もの市町村で「地場産どぶろく」が造られています。

これらのどぶろく特区となっている市町村の多くは、主に祭などのいわゆる行事に使う目的で製造している地域が多いようですが、山形県飯豊町のように特定の箇所でどぶろくを常飲できる地域も少ないようです。

が、いずれもどぶろく作りの最大の目的は地域振興であり、その地域の特色を生かしたネーミングと味が勝負の鍵を握っており、各地でどぶろくを通じて都市と農山漁村の交流を活発にする方策と地域の活発化の模索が続いています。

このほか、全国の特定酒類の製造者及び関係者等が一堂に会し、各特区認定のどぶろくの製造状況や活用方法、地域への波及効果等について意見・情報交換を行う、「全国どぶろく研究大会」が、2006年(平成18年)から毎年一回開催されています。

第2回大会からは、「どぶろくコンテスト」も同時開催されているそうで、「濃醇の部」、「淡麗の部」の二つの部門で審査表彰が行われているそうです。

酒好きの私もその表彰されたことのあるどぶろくを一度飲んでみたいと思うのですが、残念ながら、当静岡県には、ひとつもどぶろく特区はないようです。

なので、この地でどぶろくが飲めるようになるためには、ぜひ酒税法を改定していただき、合法的に自家製どぶろくを作れるようにしてほしいものです。今後、何がしかの選挙がある際には、そうした悪法の撤廃を声高にかかげる政治家にぜひとも一票を投じたいものです。

選挙といえば、「ドブ板選挙」と呼ばれるものがあります。

現在、公職選挙法では戸別訪問を禁止しているため、小規模施設での集会や、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求めることくらいしかできませんが、かつての選挙活動では、候補者や運動員が有権者に会うために民家を一軒一軒廻った際、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)を塞ぐ板を渡り、家人に会って支持を訴えたことが「ドブ板選挙」の由来です。

そうしたドブすらも、最近は下水道の発達によってほとんど見られなくなってしまいましたが、古来からあるどぶろくは今も健在です。

ぜひ、どぶろく大好きな政治家さんが増え、庶民の手にどぶろくを取り戻して欲しいと思います。

ちなみに、どぶろくは、加熱殺菌処理されていない生酒であるため、保存は難しいとされ、もろみを濾した後は冷蔵して早めに消費しないと、雑菌が繁殖するなどすぐ飲用に適さない状態になると言われています。

できたて、しぼりたての生のどぶろく、皆さんも自分で作ってご家庭で飲んでみたいと思いませんか?

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成人考

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一昨日のこと、山の上にあるこの別荘地内には、うっすらですが、雪が積もりました。初雪です。

麓の修禅寺温泉街や長岡へ出かけたときは、雪らしいものはなかったようですから、やはり200mの標高差がなせる技でしょう。外に出て遠くの天城山を眺めると、やはり山肌のあちこちに雪が見え、ここよりも更に厳しい寒さがうかがえます。

年が明けて1月、2月になると途端にこうした雪や雨の日が多くなります。寒さも増し、それまで毎日のように明るい冬の陽がさしていたものが、どんよりとした日も多くなり、時にドカ雪が降ったりもします。

しかし、先日母の見舞いの際に立ち寄った長岡の狩野川沿いの河川公園では、はやスイセンが咲き誇っており、菜の花も満開でした。我が家の庭のウメにも蕾が点々とあちこちに見受けられ、開花の準備に滞りはなさそうです。

春になったな~と本当に感じられるのはまだまだ先のことでしょうが、厳しい寒さの中とはいえ、こうした春の息吹を感じられる季節になったのだな、と改めて思う次第です。

明日は成人の日だそうで、若い人達にとっても、これからの季節は希望に満ちた日々に違いありません。かくいう、ウチの息子君も、今年成人式を迎えます。今年は先妻が亡くなってからちょうど10年目になりますが、あれからもうそんなに経ったかと思うと同時に、子供の成長がいかに速いかを驚かざるを得ません。

この成人ですが、日本では20歳ですが、世界的にみると18歳としている国が圧倒的に多く、さらには、北朝鮮のように17歳、キルギス、ネパールでは16歳とさらに低い年齢を成人としている国もあるようです。

プエルトリコとハイチに至っては14歳だそうで、これは日本ではまだ中学1、2年の年齢です。

じゃあ、成年とは何なのよ、ということなのですが、法的には、「単独で法律行為が行えるようになる年齢」ということになっているようです。

が、一般社会においては、身体的、精神的に十分に成熟する年齢を指すことが多く、日本以外の諸外国で18歳としている国が多いのはそのためでしょう。18歳ともなれば、とくに身体能力に関しては、成人以上の力を発揮する人達もいて、スポーツの世界大会などに出場するような選手の中には、14~15歳といったさらに若い人もいます。

じゃあオリンピックはどうなのかな、と思って調べてみたところ、一般的には年齢制限がないそうです。

しかし、スケート競技については、オリンピック大会前の7月1日に満15歳以上であることが出場要件であり、また体操競技では、男子16歳以上、女子15歳以上、新体操は16歳以上である必要があります。また、水泳の飛び込みにも15歳以上の制限があるそうです。

従って、基本的には国際競技とみなされるようなスポーツには年齢制限がないとはいえ、こうした例を見る限りにおいては、肉体的には、14~15歳くらいを成人とみなす、というのが普通のことのようです。

が、この年齢が精神的にはどうかということになると、うーんと考えてしまいます。14、15歳といえば思春期に入ったばかりのころのことであり、とても安定した精神状態にあるとはいえない年齢です。

また、日本では、飲酒、喫煙は20歳以上となっていますが、これは14、15歳といった弱年齢では酒やタバコは脳の発達には有害であるとする医学的な根拠もあるためであり、ひいては精神的なダメージを与えると考えられているからです。

ただ、一方では選挙権など公法に関わる行為については、こうした若年層にも認めることで、国や地域の一員であるという自覚を促す上で有効ということで、未成年者にも投票権を認める事例が増えています。

さすがに14、15歳で参政権というのは難しいだろうと思ったのですが、長野県平谷村では、2003年5月に中学生が住民投票に参加した例があり、また2002年9月に秋田県岩城町が実施した住民投票では、史上初めて未成年者を含む18歳以上の人が投票しました。

また、天皇家については、天皇、皇太子、皇太孫だけは、18歳で成年とするということが、皇室典範で定められているほか、結婚についてはご存知のとおり、男女とも18歳から認められています。つまり、子をなす生殖能力としてもそれが完熟するのは18歳ぐらいだろう、と考えられているからでしょう。

このように考えてくると、「成年はいくつか」あるいは「いくつであるべきか」という質問に対しては、おおむね18歳くらいが妥当ではないか、と多くの人が考えるのではないでしょうか。

そもそも、成年が20歳というのはどういう法律によるものかといえば、これは明治期に定められた「民法」に定められているそうです。第4条に「年齢二十歳をもって、成年とする。」という規定があります。

「20歳」という年齢については、この当時の徴兵制度や課税の基準年齢であったことに由来します。20歳ともなれば、戦争にやっても十分自分の能力で戦えるし、また働きに出て十分な稼ぎも得ることができ、税金も納めることができるだろう、という判断のようです。

しかし、この民法が定められる前の日本では、15歳程度を「元服」の年齢とし、これを成年としていました。また、日本以外の諸外国では逆に21歳から25歳が成年と見なされていたそうで、この両方の習慣との衡平を図るために、20歳という年齢が定められたという説もあるようです。

ところが、そもそも、戦後に作られた現在の日本国憲法では、憲法の改正手続きについて規定している「国民投票法」で、投票権は18歳以上の日本国民が持つことができると定められているそうです。これはつまり、憲法上も18歳が成年と認めているということにほかなりませんが、このことは意外にあまり知られていません。

しかし、1950年に、主として衆議院議員や参議院議員などを選ぶ国政選挙への投票を規定する、いわゆる「公職選挙法」では、18歳以上の者が国政選挙に参加できるようになるまでは、「暫定的に20歳以上とする」と規定されることになってしまいました。

この理由はよくわかりませんが、おそらく国会議員を選出するような重要な選挙において、20歳未満のような若輩者には選挙権を持たせるべきではない、との意見が席巻したか、GHQあたりが何等かの理由で選挙権を18歳とするのは時期尚早と判断したのかもしれません。

あるいは明治期に定められた民法の規定を遵守すべきとされたのかもしれず、いずれにせよ、このときには成年の年齢が20歳のまま据え置かれたため、これは結局現在まで変更されないままということになっています。

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しかし、明治維新から既に150年が経とうとしているのにこの規定はいくらなんでも古すぎます。

そもそも現行憲法で定めてあるのに、いつまでも20歳まで選挙権がないままにしておくのは問題があるだろうということで、このため、法務省は諮問機関の法制審議会に「民法成年年齢部会」という委員会を作りました。

そしてこの部会の最終答申としては、「民法及び公職選挙法は18歳に引き下げるのが適当」とする最終報告書をまとめ、これは一般にも2009年7月に公表されました。

今は政権を失ってかつてのような元気が見られない民主党も、これに先立つ2002年に、衆議院に成年年齢を18歳に引き下げること、18歳選挙権を実現すること、少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げることの三点を盛り込んだ「成年年齢の引下げ等に関する法律案」を提出しています。

同党によると、成年年齢等の引き下げは「政治における市民参加の拡大を図ると同時に、若者の社会参加を促進する第一歩」となると言っていたようです。

また「18歳は経済的自立が可能な年齢であり、現に結婚や深夜労働・危険有害業務への従事、普通免許の取得、働いている場合は納税者であること等、社会生活の重要な部面で成人としての扱いを受けている」こと、「世界のすう勢も18歳以上を成人としていること」に対応するものであるとも表明しており、全くその通りだと思います。

しかし、実際に、法律上での成年が、憲法ともギャップのない18歳まで引き下げられるためには、これに関する法令を200本以上も改正する必要があるとのことで、今後日本で永年が20歳となるまでには、まだまだかなりの時間がかかりそうです。

一方では、現行の成年は20歳とする法律では、酒煙草のような健康を害する嗜好品から子供を守るためには有効と考えられます。また公営ギャンブルなどのように賭博性の強いものに巻き込まれることを防ぐという意味でもこうした年齢制限は必要でしょう。

しかし、最近何かと話題になっている、性同一性障害を持つ子供の性別の訂正は、民法に基づき20歳の成年にならないとできなくなっているそうです。

これまではこうした問題を抱える人達は世間にそのことを知られるのを嫌がり、あまり表面化していませんでしたが、最近の調査では、こうした障害を持つ人は、全国で4万6千人ほどもいるということです。

ところが、最近はこうした障害を克服して異性としての自分を見つめ直す人が増えており、とくにテレビなどで有名タレントさんが実はそうであったことなどをカミングアウトした結果などが共感を呼び、堂々と障害があることを公表する人も多くなってきています。

しかし、現行の法律では、20歳以上でないと性別の訂正ができません。このためこれを18歳以上で可能にしてほしい、という切なる願いは増えています。

本来ならばもっと子供のころから異性であると認めてほしいという人も多いのでしょうが、まだその判断のできかねる15~16歳とはいわないから、せめて18歳くらいにはしてほしい、というわけです。

また、現行の法律では、満18歳以上20歳未満の者が自由にローン契約をすることができないそうで、このほか、この年齢で養子縁組をしたりすることはできなくなっています。

つまり、18歳では親の了承がなければカード決済などでローンを設定できないということであり、また子供ができないことを理由に恵まれない子供を引き取って養子にしたいと考えている若い夫婦の希望をも削いでいることになります。

成年を引き下げることは、税法上の未成年者控除や刑法上の未成年者保護の点で問題があるとする、慎重な意見もあるようですが、一方では高齢化が進む日本では、もっと若い世代に参政権を与えて、政治の世界に息吹を吹き込むべきだという意見のほうがもっと多いようです。

現行の強い安倍政権は、アベノミクスによる成功を治めつつあるようで景気は回復する方向にあるようですが、一方では外交や特定秘密保護法の立法を強行し、情報靖国問題などでも強気な姿勢を崩しておらず批判を浴びています。

これを機に、こうした成年年齢の引き下げなどの国民の多く望んでいるであろう法令の検討なども行い、人気を回復させるのはけっして悪い選択ではないと思うのですが、そのあたりのこと、どう考えているのでしょうか。

その昔、江戸時代より行われていた「元服」の儀式は、およそ数え年で12~16歳の男子が行うものでした。元服すると、氏神の社前で大人の服に改め、角髪(みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めて髷を結い、前髪を剃って月代にした上で、その頭に冠をつけてもらうという儀式を行ったそうです。

実は女性にも元服があったそうで、ただしこれは結婚と同時に行う儀式でした。女性の場合の元服は、地味な着物を着て、日本髪の髪形を時代劇などでよく見るあの「丸髷」などにしました。江戸時代には、髪型と化粧をみると、未婚か既婚かわかったそうで、未婚の女性は島田髷で、既婚女性は丸髷でした。

また、結婚=元服以降は、元服前より更に厚化粧になりお歯黒を付けてもらった上で、眉を剃って引眉をしました。

未婚の場合でも。18~20歳くらいでこの元服の儀式をしたそうですが、江戸時代には18歳を過ぎるともう婚期遅れとみなされる風潮があったため、たいていこれより低い年齢で元服だったようです。

こうした昔ながらの元服を現在に復活させろ、とまでは言いませんが、その昔は多くの日本人は18歳未満で既に大人とみなされ、それなりに大人としての自覚を持っていたはずであり、とくに男性はその傾向が強かったようです。

その証拠に幕末の志士たちの多くは20歳未満の若い人達でした。元服前の幼髪を切り落とし、各地の戦乱に飛び込んでいった若者が多数いた時代であり、そうした若い原動力が、時代を動かし、明治維新を成し遂げました。

日露戦争で連合艦隊を勝利に導いた東郷平八郎は、わずか14歳で薩摩藩士として薩英戦争に従軍しており、同じく日露戦争で、第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮した乃木希典は、16歳で長州藩士として奇兵隊に入り、幕府軍と戦っています。

のちの陸軍大将で陸軍参謀本部次長として203高地の攻略を指揮した児玉源太郎もまた、16歳で下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊しており、明治期に功をなしたとされる軍人の多くは元服間もないころから維新の矢の下をかいくぐっています。

そうしたことに思いを馳せると、現在のように成年が20歳というのは若者に大人になるという自覚を持たせる上でもあまりにも遅すぎるようにさえ思えてしまいます。

16.7、8歳というと、何かと子供扱いされる年齢ですが、その一方で最近のように未成年者の犯罪がやたらに目立つのは、まだ大人になっていないから、何でも許されるという甘えから来ているような気もします。

早い時期に自覚を持たせ、社会の秩序維持においても、社会的貢献においても若年層に期待すべき時代が来ていると、私は思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

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