秋の眠りは……

2014-63999月も下旬に入りつつあり、我が家の庭先にはヒガンバナが咲き誇っています。

ヒガンバナの名前の由来であるお彼岸ももうすぐ。暑さ寒さも彼岸まで。これから迎える豊かな秋に向けて、少々心がざわついているのは私だけではないでしょう。

伊豆で迎える秋ももう今年で3回目になります。自然豊かな地であるがゆえに、あちこちに紅葉のきれいなところはあるようですが、京都や奈良の紅葉の名所のように知名度の高いところといえば、すぐ近くにある修禅寺自然公園か麓の修禅寺温泉ぐらいであり、他は地元の人さえもあまり行かないような山奥が多いようです。

このため、ネットで何を調べても、ここの紅葉がきれいだった!と評判の場所がヒットせず、行く場所にあぐねてしまう、というのがこれまでのパターンでした。

ならば今年は少し趣を変え、今までいったことがないような場所にも飛び込みで積極的に行ってみて、これこそが伊豆の紅葉の名所!といえるようなところを自分で探しあてようと思ったりしている今日このごろです。

それにつけても日の長さはどんどんと短くなっていて、日中に行動できる時間が限られるのがこの季節の難点です。が、一方ではその分、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする時間が増えていい、という人もいるでしょう。

とはいえ、私は基本的には朝型であり、夜明けとともに起きて活発に動き、日が沈むころには力尽きて眠たくなる、というパターンです。このように、早寝・早起きを好む朝型の人は、「ヒバリ型」ともいうそうで、これはヒバリが他の鳥たちと比べてみても早起きで、朝もはよからピーチク・パーチク上空で囀っているからでしょう。

逆に、遅く眠り、遅く起きる夜型の人は、「フクロウ型」というそうで、これは言うまでもなくフクロウが夜行性の鳥であるためです。こうした人それぞれが持っている生活リズムは、一般的には「体内時計」によるものだといいますが、これはより専門的には「概日リズム」と呼ぶようです。

平均的には、約24時間ちょっとで変動する生理現象であることが分かっており、ヒト以外の動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している現象です。「概日」の「概」は、英語の“circadian”の冠詞である“circa”が「約、おおむね」を意味することから来ており、またdianはdiesから来ていて、「日」を意味します。

つまり、“circadian rhythm”とすれば、「おおむね1日のリズム」といことになります。1729年にフランスのジャン゠ジャック・ドルトゥス・ドゥ・メランという長ったらしい名前の科学者が発表した科学論文の中で初めて使われた用語で、彼は植物オジギソウの葉が、外界からの刺激がない状態でも約24時間周期のパターンで動き続けることに気づきました。

植物は光合成で生活していますから、基本的には昼間に活動し、花などは夜間は閉じられることが多く、植物の中には夜間は葉を閉じるものもあります。ドゥ・メランが気付いたオジギソウの動きとはこれであり、ほかにはネムノキなども夜に葉を閉じますが、このような植物の動きを「就眠運動」といいます。

しかし、中には逆に夜間に花を開くものがあります。これは、主に夜行性の動物を花粉媒介に利用している植物です。が、一般の植物は、昼は光合成と呼吸をしており、夜になると光合成をやめて呼吸のみをするようになり、動きを止めます。

このため、夜になると、昼に比べて大気中の酸素濃度はわずかに減少し、二酸化炭素濃度は増加することが知られています。これは植物が日中は二酸化炭素を吸い、光合成によって酸素を生み出しているものが、夜になるとその活動をやめてしまうために他なりません。

夜になると活動を止めるのは動物も同じです。ただ、動物の中には、夜に主に活動するものもあり、これがよく言われる、夜行性、昼行性という区別です。ヒトもまた元々昼行性動物ですが、火を使用し、さらに電灯などを用いるようになり、現在では昼夜を問わず活発に活動するようになりました。

しかし、基本的には現在でもヒトの昼行性は維持されていると考えて良いでしょう。他の動物もその多くが昼行性です。ただ、熱帯地方の砂漠などでは、夜行性の動物が圧倒的に多いそうで、これは昼間は活動するにはあまりにも過酷な環境であるためです。

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さて、一般的な動植物の体内時計を司る、概日リズムは、次の3つの基準で定義されています。

1. 白夜や逆に暗黒の世界であっても、約24時間の周期を持続する。
2. リズムの周期は、日昇や日没などの光や闇といった刺激によってリセットされる。
3. リズムは、一定範囲内の温度において周期が変わらない。

3.の一定範囲内の温度において概日リズムが変わらないことを、「温度補償性を持っている」ともいいますが、これは裏返せば温度が急激に変化するような状態ではリズムが狂う、ということになります。天候不順などで気温差が激しいときに体調を崩す人が多いのはこのためのようです。

この概日リズムは、動植物すべてが持つ「時計遺伝子」と呼ばれる遺伝子群によって引き起こされます。動物では“period”、“clock”、”cryptochrome”と命名されている遺伝子などによって司られていることなどが知られています。

こうした遺伝子は、進化上最も古い細胞に起源を持っているといわれています。太古の地球にはまだ十分な大気がなく、このため生物は、昼間はかなり有害な紫外線にさらされていました。こうした環境下では、傷ついたDNAが複製されてしまうため、これを回避するため、DNAの複製は基本的には、夜間に行われることとなりました。

これが、「概日リズム」という形で遺伝子に残り、現在ではほとんどの植物や生物が持っているというわけです。とくにヒトを含む動物において、この概日リズムは、睡眠や摂食のパターンを決定する点において重要です。脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動において概日リズムが影響を与えます。

概日リズムが一時的に狂う現象としては、夜更かしによる不眠や航空機による移動により生じる時差ぼけが良く知られており、この症状の緩和に「強い光が有効」であることも広く知られています。これは、こうした症状の発生メカニズムを細胞レベルの実証実験で証明した結果得られた所見です。

また、外界からの刺激を絶たれた環境下で生活している人は、睡眠・覚醒リズムがずれてきますが、このような体内リズムの乱れは規則正しい明暗サイクルを与えることで解消されることもわかっています。こうした乱れた環境から元に戻すためには、朝晩規則正しく明暗の刺激を与え、これによりリズムを「リセット」します。

例えば宇宙飛行士は真っ暗な宇宙ではとかく体内リズムを崩しがちですが、こうした研究成果から、最近では宇宙船の中に明暗サイクルを模擬した環境を作ることで健康を維持するように仕向けています。

しかし、こうした宇宙のような一年中真っ暗な場所で生活する、というのは極端な例です。通常の人は、朝には陽を浴び、夜は日没によってもたらされる暗闇に促されて眠りにつきますが、こうした本来は、普通の概日リズムを持っている人が、現在では朝型と呼ばれています

一方では、仕事などによる生活パターンによっては、眠る時間がだんだんと後ろへずれて夜型になる人もいます。が、それでも正常な概日リズムを保ち、日常生活に差支えがなければ、誰からも文句を言われる筋はありません。

朝型か夜型かに係わらず、ノーマルな概日リズムを持つ人は、だいたい次のようなパターンを持ちます。

1.朝は予定した時間に起きる事ができ、夜は十分な睡眠がとれるように予定した時間に入眠することができる。
2.望みどおりに、毎日同じ時間に睡眠・覚醒できる。
3.いつもより早く起きなければならない新生活を始めた後も、数日経てば夜もいつもより早く眠ることができるようになる。

3についていえば、例えば、午前1時に眠り、午前9時に起きる習慣のある人が、新しい仕事に就き、月曜日からは午前6時に起きなくてはならなくなったとしましょう。その人は次の金曜日ころまでには、だいたい午後10時ごろに眠り始め、午前6時に起きる事ができるようになります。

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こうしたこの早い睡眠・覚醒時間への適応のことを専門用語で「睡眠相の前進」といい、健康な人は、睡眠相を一日におよそ1時間前進させることができるそうです。

また、通常の生活において24時間の昼・夜のサイクルを維持しようとするならば、規則的な環境の時刻情報を常に得ることが重要だといいます。例えば日の出、日の入りを確実に認知する、といったことのほか、朝食や夕食を決まった時間に摂る、といった毎日同じ時間に同じ作業を繰り返し行うといったことが有効です。

これによって、時刻情報を知った脳が細胞にこれを伝え、通常の概日リズムになるよう外界と調和させることができます。

ところが、最近のように昼夜逆転といった不規則な生活をする人が多い時代には、この概日リズムが何をやっても、元に戻らず乱れてしまう、ということもありがちです。これを「概日リズム睡眠障害」といい、この障害を持つ人は出勤、登校、その他の社会生活において要求される通常の時間に寝起きすることができません。

もし自らの体内時計の要求する時間に自由に寝起きすることが許される、例えば昼過ぎまで寝ていて、夜は朝まで起きているという生活パターンが許されるならば、通常十分な睡眠をとることができ、睡眠の質も通常なことが多いのですが、学校へ行ったり仕事を持っている人はそういうわけにはいきません。

このため、中には「非24時間睡眠覚醒症候群」という症状に陥る人もおり、これは概日リズムの乱れによる慢性的な睡眠障害であり、睡眠障害の中でも重症の部類に入ります。

この病気の原因は、環境の時刻情報に反応して睡眠覚醒リズムを調節する能力の低下にあると考えられており、こうした人達は通常より長い概日リズムにシフトするようになっており、時刻情報に十分に反応することができないようになってしまいます。

最近の研究では、健常者の概日リズムは成人であればだいたいどの年齢層も、平均で24時間11分であることがわかっています。が、非24時間睡眠覚醒症候群の患者の睡眠サイクルはこの時間を超えることが多くなり、このため、社会的に受け入れられる時間帯に寝起きすることができません。

例えば、最初のころは午前4時に就寝し正午に起床していたものが、だんだんと起床時間が遅れ、昼過ぎて2時になり3時になっても起きないというふうにずれていき、やがてはこれが当たり前になっていくため、日常のことをやろうとするあまりに睡眠時間が足らなくなり、通常の社会生活をおくる事が困難となります。

ヒトが睡眠をとる目的はまだ十分には解明されていませんが、心身の休息、記憶の再構成など高次脳機能にも深く関わっているとされ、このほか睡眠中には成長ホルモンが分泌されることがわかっており、子供の成長には欠かせません。また創傷治癒、肌の新陳代謝は睡眠時に促進され、免疫力の向上やストレスの除去などの効果もあるとされています。

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睡眠を十分にとれないということは、こうした効果が十分に得られないということであり、通常の生活支障が出るのはもちろん、人格的なものにも影響を与え、場合によっては精神分裂病のような精神障害に至る可能性もあります。

こうした概日リズム睡眠障害の治療法としては、まず、「高照度光療法」というのがあり、これは患者に強い光を当て、患者の生物的な概日リズム調整する方法で、患者は、睡眠相の前進か後進に適した時間に、一回に30分~60分の間、10000ルクス以内の高照度の光に曝され、これによって睡眠を遅らせたり早めたりすることができるようになるそうです。

場合によってはメラトニンのような自然な眠りをもたらす薬や、覚醒をもたらす薬、また短時間作用型睡眠薬などを与えることもあるということです。また、行動療法というものがあります。これは、患者に昼寝やカフェインなどの刺激剤を与えないことが避けることや、睡眠と性交以外のときにベッドに入らないことを医師が指示します。

さらに、一番手っ取り早い方法に、「時間療法」というのがあり、これはなんのことはない、毎日1~2時間ずつ寝る時間を遅らせたり早めたりして調節するだけです。

が、そうした指示に従えなかったり、元々動機付けとしてそうしたことができないためにこの病気にかかっているわけであり、個人の意思でそういうふうに調節できるようになるのは簡単なことではないでしょう。こうした病気にかかってしまわないよう、日常から規則正しい生活を心がけることが肝要です。

一方では、この非24時間睡眠覚醒症候群ほどではないにせよ、より軽い症状で、朝起きれない、という人も多いでしょう。

これも病名がついていて、「睡眠相後退症候群」といい、英語の“Delayed sleep-phase syndrome”を略して「DSPS」とも呼ばれます。慢性的な睡眠のタイミングに関する障害と考えられており、概日リズム睡眠障害のひとつです。DSPSの患者は、ほぼ毎日といっていいほど遅い時間に眠りにつく傾向があり、朝起きることが困難です。

ただ、非24時間睡眠覚醒症候群と違って、就寝リズムが少しずつずれていくのではなく、毎日ほぼ同じ時間に眠り起きできるとされており、睡眠時無呼吸症候群のような睡眠障害を持っていない限りは熟睡もできます。ただ、通常と同様の睡眠時間を必要とするわけで、夜遅く寝れば普通の人が起きる時間に起きれないのはあたりまえです。

このため、数時間の睡眠しか取れないまま、学校や仕事に出かけるため起床しなければならないことになり、社会生活の上では困難が生じます。ただ、例えば、午前4時から正午までのように自由な時間に眠ることが許されているのであれば、よく眠り、自然に目覚め、再び彼らにとっての”夜”が来るまで眠たいと感じないのがこの病気の特徴です。

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この症候群は通常、幼少期または思春期に発症し、思春期または成人期の始めになくなるといわれています。ただ、治療もできますが完全なる治癒はできないとされており、慢性的な不眠症の7~10%は、DSPSが原因であるとされるデータもあるようです。

しかし、こうした症状をDSPSだと断定してくれる、あるいはDSPSという病気を認識している医師そのものが少なく、このため、患者は治療を受けられなかったり、不適切な治療を受けたりしていることも往々にあるようで、中には精神障害による不眠症または、精神疾患と誤診する医者もいるようです。

睡眠相後退症候群とは逆に、「睡眠相前進症候群」というのもあり、これは睡眠相が望ましい時間帯から慢性的に前進しており、後退させることが困難な状態をさし、これはつまりはや夕方からもう眠くなり、夜中の2時3時には目が覚めると言った人です。

案外と私がそれかもしれません。午前中よりも午後のほうが集中力が落ちるため、極端な場合には仕事や生活にも支障が出ます。もっともたいていの人は午後になると疲れてきて仕事の能率は悪くなりますが。

このほか、概日リズム障害には、「不規則型睡眠」というのもあり、これは覚醒パターンとしての睡眠や覚醒の出現が不規則に起こり、一日に複数回睡眠するというものです。脳腫瘍がある場合などにも似たような症状が出ることもあるようですから、いずれにせよ、病気であり、こうした症状があったら、病院に行ったほうが良いでしょう。

このほか、いわゆる「躁うつ病」も、最近は概日リズム機能の低下と結びつけて考えられており、薬物によって上述の「時計遺伝子」に働きかけることで症状を改善する、といった治療もおこなわれているようです。

また、長期的な概日リズムの乱れは、体の健康を深刻に悪化させることもわかっており、特に心血管病を発生・悪化させるそうで、リズムの乱れは、内分泌・代謝系および自律神経系も影響を与えることから、高血圧になる人も多く、高血圧は心血管疾患を起こしやすくなります。こうした病気にも体内時計を考慮した投薬による治療が行われています。

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気管支喘息もまた、概日リズム的な症状を呈することが多く、日中は内因性ステロイドというホルモンが分泌されているため発作が出ませんが、減少する夕刻〜明け方にかけて咳き込む症状が多く見られ、この病気には気温も影響しているということが言われています。

逆に糖尿病は、午前中のほうが午後と比べインスリン需要が高くなることが知られており、インスリン注射療法では午前中の投与量を多くします。このように、概日リズムは、よく知られている病気にも関係することが多く、病人もさることながら、健常者においても健康を保つために極めて重要なものであるといえます。

話しは変わりますが、古代インドで成立した思想・学問に「ヴァーストゥ・シャーストラ」というものがあります。

この教えは、ヨガのように心身の調整・統一を図る修業をするのではなく、また医学・健康法のようなものでもなく、どちらかといえば、現代の建築環境工学、都市工学、心理学、脳科学などに近い学問体系のようです。

インドでは住居や寺院の立地、間取り、インテリアの配置などを決定するため、こうした思想を伝統的に用いられてきており、いわゆる北枕はよくない、といった日常の行動についてもルールにも言及しています。

「インド風水」と称される場合も多く、「ヴァーストゥ」とは、サンスクリット語では「建築物」や「住居」を意味し、また、「シャーストラ」は「(~を扱う)思想・学問」を意味します。

「ヴァーストゥ」広義には「生命力」や「環境」などをも包含した概念を指し、気の流れと調和しようとする点では中国の風水思想と近いようです。が、立地や建物の間取りの方位など中国風水とは実践面で大きな違いがあるといいます。

その思想によると、自然は地(ブーミ)、水(ジャラ)、火(アグニ)、風(ヴァーユ)、空(アーカーシャ)という五つの要素で構成され、自然状態ではそれらのバランスが取れているとされます。他方、人工的なものはそのバランスが崩され副作用を起こすため、ヴァーストゥ・シャーストラによってバランスを取る必要があると考えられています。

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なお、この五つの要素、すなわち五大何々という考え方自体が、古代インド思想であり、のちに仏教の思想体系に取り込まれ、仏教思想として日本を含む東アジア一帯に広まっていったものです。身近な例としては、主に供養塔・墓塔として使われている五輪塔がありますが、これも、ヴァーストゥ・シャーストラの流れを汲むものです。

この地、水、火、風、空の五つの要素は、以下のエネルギーにも相当します。

地:安定性を表すエネルギー
水:流動性、冷性を表すエネルギー
火:熱性や反応を表すエネルギー
風:軽快さ、運ぶ働きを表すエネルギー
空:空虚さ、空間性を表すエネルギー

自然界や人工物同様、人間の身体や気分、そして出来事も、これらの組み合わせ、あるいはそれぞれのエネルギーでできているとされ、すべてこれら五つのエネルギーで表現されるといいます。

例えば、「体温」は火のエネルギー、「物流」は風のエネルギーとして表され、また、「憂鬱」は火のエネルギーの増大として、「冷静さ」は地のエネルギーの安定性として、「落ち着きのなさ」は風のエネルギーの性質として表現されます。

さらに、この五大要素はその調和・バランスによってエネルギーの性質が変わり、正の調和は良いエネルギーを、不調和は悪いエネルギーをもたらすとされています。

土地や家に関しても、この五大要素のバランスのとり方によって生じるそのエネルギー量が変わり、その総和がプラスであるかマイナスであるかによって、そこに棲む人間の生活への影響も変わってきます。

こうしたヴァーストゥ・シャーストラの五大要素の中には、「光」は含まれていません。が、光はこれらとは一線を画す別の次元の重要な要素のひとつと考えられているようで、そしてこの考え方が、睡眠障害や情動障害などに一定の効果があるとされる「光療法」と同様の効果を持つという人もいるようです。

とくに光の中でも朝日が重要とされており、これは日中に比べ朝は紫外線が弱いため、過度の紫外線による影響を予防する効果があるためだ、という指摘をする人もいるようです。

インド風水においても、朝早く起きて朝日を浴びることを推奨しているわけで、これが健康を保ち、規則正しい生活をするもとになるのだ、と理解できます。なので、毎日夜更かしをしてお昼まで寝ている人は、その一番大事な自然の恵みを逸していることになります。

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ちなみに、このヴァーストゥ・シャーストラは、インド本国においてはヒンドゥー寺院建築などに細々と伝えられるのみで衰退していましたが、近代以降、欧米諸国で注目を浴びるようになり、逆輸入される形で再び隆盛してきているそうです。

最近では、繊維メーカーから発し、巨大な石油化学メーカーとなり、最近では小売業や情報通信産業にも進出し世界有数の企業となっている、インドのリライアンス・グループの代表、ムケシュ・アンバニ会長が、ヴァーストゥ・シャーストラに基づいた、総工費約2000億円ともいわれる自宅を建設していることが話題になりました。

この家は、インドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都、ムンバイ中心部の一等地にあり、地上約170mもの高さがあります。本来、60階になるところを、各階ごとの高さを多めにとって27階建てにしたという贅沢な造りで、ヴァーストゥ・シャーストラに基づいた、インドの伝統的な建築デザインになっているといいます。

アメリカのフォーブス誌によれば、ムケーシュ・アンバーニーは、2008年度版の世界長者番付で第5番目となり、その資産が430億ドルといわれる大富豪であり、実弟のアニル・アンバーニーもまた関連する会社グループの代表で、同世界長者番付の第6番目に名を連ねており、兄弟の資産高を合計すれば世界一になるそうです。

そこまでの大富豪になれたのも、このヴァーストゥ・シャーストラの教えの賜物なのかもしれません。

アメリカでは、そんな大富豪もヴァーストゥ・シャーストラを利用していると聞き、急増するインド系市民を核に、一般層や企業にもこの思想が広がりつつあると言われており、マイクロソフト、amazon.com、ボーイング、世界銀行、NASA、オラクル等も、社屋の設計にヴァーストゥ・シャーストラを取り入れたと言われています。

ですから、これから家を新築される方は、一度研究されてみるといいかもしれません。3~4年前ころから、インドやアメリカで発売された翻訳本が日本でも発売されているようなので、ネットで探せば関連本がみつかるでしょう。

ただ、私も調べてみましたが、それほどまだ多くはないようです。まだ爆発的な大人気というところまで盛り上がってはいないというのが現状のようですが、案外とこれからブレークし、ブームなっていくのかもしれません。

秋の夜長に、ヴァーストゥ・シャーストラに関連本を一冊買って読んでみる、というのも良いかもしれません。が、概日リズムを崩して、睡眠障害にならないよう、気を付けましょう。

いつの世も「朝は夜よりも賢い」です。早寝早起きを実践しましょう!

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富士とはやぶさ ~富士山

2014-51869月も中旬を過ぎ、夜になって富士山方向を見ても、灯りが見えなくなりました。

夏山登山の季節が終わり、夜間に富士山を目指す弾丸登山の登山者がいなくなったためですが、何やら花火が終わったあとの夜のようで、これはこれで何か寂しいかんじがします。

こうなると、次は富士の初冠雪はいつか、ということになりますが、平年では9月30日ころとなっています。が、去年はこれより19日遅く、10月19日でした。しかし、その前の一昨年は、9月12日と早く、今年もこの年と同じくらい涼しそうなので、そろそろ頂に白いものが見えてもおかしくはありません。

一方、富士山頂の富士山測候所では、2004年に測候所が廃止されるまで、初雪の平年値は9月14日でした。また、最も早い初雪は1963年の7月31日です。遠目には見えなくても山頂ではかなり早くから雪が降るのでしょう。

逆に最後に雪の降る「終雪(しゅうせつ)」の平年値は7月11日だそうで、こうしたデータからも富士山頂ではほとんど一年中雪が降っていることがわかり、いかにその環境が苛酷かが想像できます。

ましてや、真冬の富士の頂はほとんど死の世界かと思われますが、そんな厳冬期でも、富士山レーダーが運用されていたころには、ここに気象庁の職員が常駐していました。

この冬富士山測候所への「通勤」に関して、どんな状況だったのか調べてみると、この当時の気象庁の職員さんの関係者らしい方の記録が掲載されているHPがみつかりました。

その内容を少し引用させていただくと、富士山頂に向かう観測要員はまず、登山の前日より、富士山南東部、標高1500mほどのところにある御殿場口の太郎坊中腹の避難所に入ります。ここで翌朝4時には起床、このとき、山頂の気象データをその日登山が可能かどうかが決められます。

ここから歩いて登るのかと思いきや、そこはちゃんと「通勤バス」があり、これはこうした雪山を上るために設計された雪上車のことです。6時前にこの雪上車で太郎坊を出発。しかし、これで山頂まで一気に、というわけにはいかず、五合目で雪上車を降ります。ここからは道が急峻であるため、さしもの雪上車も登ることはできないためです。

この位置で既に標高約2600m。ここから帰っていく雪上車もまた、平均斜度25度の急坂を下ることとなり、下山もまた命がけです。もしもアイスバーンなどがあって滑落したら、雪上車ごとあの世行きです。

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この五合五勺から山頂までは無論、徒歩です。ただ、ルートには鉄製の安全柵が設置されていて、これは所員の通勤確保のため作られた物です。現在も残っているらしく、この当時もそうですが、現在も一般登山者が利用しているようです。

2時間ほどで中間地点の標高3200mほどの7合8勺避難所に到着。食事や水分補給、高度順化も含め、ここで約1時間の休憩をとります。ここからは1時間ほどで山頂に到着するようですが、この最後の坂道はかなり斜度がきつくなっており、職員から地獄坂と呼ばれていたようです。さらに頂上に着いても、剣ヶ峰にある測候所に至る道もまた急坂です。

この測候所は、観測装置が置いてある観測棟とは別に居住棟もあったようで、これに付随して15トン水槽がふたつあり、ここに夏は天水、冬は雪や氷を入れヒーターで溶かして使っていました。トイレやキッチンのほか娯楽室、職員の個室も完備されており、ちなみにトイレは洋式ウォシュレット付き水洗トイレでした。

観測棟には、風向、風速、気温、露点温度、気圧、日射等のデータを観測する装置がひととおりあり、これらのデータを衛星通報システムを使って送っていました。また、データ整理などのためのパソコンも完備されていました。

この測候所が運営していた富士山レーダーは、これへの電源の確保のため、燃料を燃やしてタービンを回し、これから電気を取っていたようです。燃料は無論、雪の少ない夏の間にクローラーなどで上げておくのでしょう。これから6600Vの高圧電源が得られ、各棟の空調設備もこれによって賄われていました。

レーダー観測が行われていた当時は、5人一組を基本として、1回の勤務は約3週間。班長、気象観測、レーダー、通信、調理、とそれぞれ役割が決められていたそうで、基本的には観測は自動で行われるため、職員の主な仕事は各機器の保守点検でしたが、外部の観測機器の着氷落としなどの危険作業もありました。

また、強風や落雷などの恐怖もあったそうで、何もなければ平穏に過ごせるものの、必ずしもそうはいかず、つらいことも多かったようです。また、冬季の交替時の「通勤」はやはり危険なものであり、常に命がけだったといいます。

こうした努力もあり、1932年(昭和7年)に、外輪山南東の東安河原に公設の臨時富士山測候所が開設され、通年測候が行われるようになって以降、2004年(平成16年に完全無人化されるまで、富士山測候所では72年にもわたって貴重な気象データが蓄積されました。

観測所の廃止後、ここは2008年(平成20年)10月1日に「富士山特別地域気象観測所」と名称を変更。時に研究目的で使われることもあるようですが、平時は、観測棟や居住棟などは完全に閉鎖されています。

従って、現在は、仮に冬季に富士登山したとしても、避難スペースも有りませんし、仮に窓を壊して中へ入ったとしても、建物は機密性が高く空調が停止状態なので、中に入ると酸欠の恐れがあるそうです。

この富士山へ通勤する気象庁職員の麓における支援拠点は、観測初期の頃から御殿場太郎坊に置かれていました。臨時測候所が開設されてから9年後の昭和16年(1941年)に開設され、ここを拠点に御殿場口登山道を通って通勤や物資搬送が行われていました。

現在、この太郎坊にも種々の観測施設があるようですが、富士山頂測候所と同じく無人です。ただ、測候所に隣接して建てられていた避難小屋はまだ残されたままだそうで、「太郎坊避難所」として、現在も富士山測候所を利用する研究者達は、ここを出発点として使用しているようです。

この「太郎坊」という地名ですが、これは現在の太郎坊より北側に位置する富士山須走口で祀られていた「天狗太郎」を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた神社を太郎坊と呼んだことにちなみます。当時は神社といいながら登山やスキーのための基地になっていたようです。

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その後、この神社は富士山北側の吉田口五合目にある「小御嶽神社」に遷座されたか合祀されたかで消滅したようです。が、名前だけが残り、これゆえにこの地一帯が太郎坊と呼ばれるようになったものです。が、とくに地番や境界があるわけではなく、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしていません。

1970年代にはリフトを備えた本格的なスキー場である御殿場市営スキー場も営業されていましたが、やや張り出した尾根上の地形で、所々で火山砂が露出しているような地形のため、雪崩が起こりやすく、このためスキー場は閉鎖され、今も冬季の太郎坊一帯への出入りは禁止されているようです。

御殿場市を見下ろす位置であることから、地上波アナログテレビ放送の御殿場中継局が設置されており、以前のブログ「丙午の空」でも書いたように、1966年にはここで英国海外航空機が墜落し、その慰霊碑が建てられています。

澄んだ空気を持つことから夏季にはアマチュア天文家がここを訪れ、このため天文ファンのメッカともなっているそうで、1994年には、ここで群馬県出身のアマチュア天文家が小惑星を発見し、これを「太郎坊」と名付けました。

発見したのは、「小林隆男」さんという方で、その後も会社に勤める傍らで天体捜索を続け、「のぼる」や「八咫烏」といった多数の小惑星を発見しており、その数は2341個にも上るそうで、これは日本の天文家としては最大の発見数です。

富士山周辺においては、太郎坊以外にもあちこちの天体観測ポイントがあり、ここでも小林さんは数々の小惑星を発見しており、これらには「田貫」や「朝霧」といった富士山周辺の地名が命名されています。

この「小惑星」ですが、ほとんどの小惑星は、太陽からの距離が約2~4天文単位の範囲に集まっているといいます。一天文単位は、地球と太陽との平均距離であり、その2~4倍とうことは、木星軌道と火星軌道の間に相当し、この領域は「小惑星帯」と呼ばれており、多くの天文家が発見してきた小惑星はその多くがここに由来します。

1781年に天王星が発見されて以降、この小惑星帯にある未知の惑星を探索する試みが行われ、1801年にはケレスという小惑星が、また翌1802年にパラス、1804年にはジュノー、1807年にはベスタといった具合に、次々と小惑星が発見されるようになりました。

ただ、この当時はまだ小惑星という言葉はなく、天王星や海王星と同じように惑星(planet)と呼ばれていました。しかし、いずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星と区別される必要性が生じ、「小惑星(asteroid)」という用語が、1853年にはじめて考え出されました。

以後、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は約33万3個にのぼりますが、これ以外にも直径1km程度、ないしそれ以下の「小々惑星」については未発見のものが数十万個あると推測されています。

また、番号登録されたもののうち、既に命名されたのは約17000個ほどに過ぎません。この小惑星の名前については、数ある天体の中では唯一発見者に命名提案権が与えられており、上述の太郎坊なども発見者の小林隆男さんの希望でつけられたものです。

発見者によって提案された新小惑星の名前は国際天文学連合(International Astronomical Union:IAU)の小天体命名委員会によって審査されます。

名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項のようですが、これはその昔は科学技術が発展していた欧州の科学者の特権ということだったためでしょう。が、現在では日本も含め英語圏意外の国の発見者も多いことから、必ずしも守られてはいません。

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ただ、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、既にある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止などの基準があるそうです。

従って、「ムシャ&タエ」という小惑星名は付けられますが、我が家の愛猫を冠した「小惑星テン」というのはダメ、また、「おっぱい」や「あそこ」は無論、「イスラム国」なんてのは絶対ダメ、ということになります。

ところで、小惑星といえば、2003年に打ち上げられた日本の探査機「はやぶさ」は、この小惑星のひとつ、イトカワに2005年に着陸し、サンプルを採取したのち、2010年に地球へ無事帰還し、サンプルを納めたカプセルからは、イトカワ由来の微粒子が発見されました。

これは世界初の小惑星からのサンプルリターンであり、現在も容器内の微粒子の分析が続いているようです。が、このはやぶさでは、本来の目的であった岩石の採取を行うことはできず、またイトカワを自由に動き回るローバーの投入もしくじるなど、数々の失敗を重ねており、そのことは以前書いた、「はやぶさの失敗」でも詳しく書きました。

このはやぶさ1での失敗を教訓に、後継器として開発された「はやぶさ2」の打ち上げが、この年末に予定されており、いよいよその時期が迫ってきました。詳しい日時まではまだ公表されていませんが、2014年12月末にH-IIAロケットで打ち上げ予定です。

先月の8月31日(日)、JAXAは、相模原キャンパス内で、の報道関係者向けに、の「はやぶさ2」機体公開が行われ、と同時にその性能が明らかになりました。

新聞記事などによれば、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった数々の問題点が改良されています。

例えばサンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式であり、はやぶさ1では、着陸と同時に、弾丸程度の大きさの弾を撃ち込んで舞い上がった砂や岩石を吸引する、といったものでしたが、今回のはやぶさ2では、その打ち込む弾が格段に大きいのが特徴です。

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この弾は、直径約20cm、重さ約10kgの円筒形をしており、「プロジェクタイル」と呼ばれます。中には爆薬を内蔵しており、探査機本体から切り離され、小惑星の表面で起爆させ、爆圧によって変形した金属塊を目標天体に突入させ、直径数メートルのクレーターを作り、これによって舞い上がった砂礫を採取します。

はやぶさ1に比べて格段に金属塊の大きさが大きいことから、小惑星表面だけでなく、小惑星内部の砂礫の採取も可能になるといい、その秘密はこのプロジェクタイルの形状が「はやぶさ」の弾丸型から円錐型へと変更されたことです。頂点の角度は90度に設定されており、これにより弾丸型よりも効率的な試料採取が可能となります。

ニュース映像でJAXAによるその実験の模様を見た人も多いかと思いますが、この公開実験では、はやぶさ2の射出機と同じタイプのものを使って、10mほど先の岩盤のようなものへの弾丸の打ち込みが行われました。私もこれを見ましたが、バズーカ砲による射撃訓練と見まがうかのような光景で、当たった先の岩盤は見事に砕け散りました。

また、この「射撃」によって開けられたクレーターにもはやぶさ2を軟着陸させ、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、JAXAはこれら二つの方法を用意することでより確実に試料を取ることができるとしています。

さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの様子を撮影する他、巻き上げられた粒子の光学観測もはやぶさ2内で行うことでできるといいます。

今回目標とする小惑星体は、イトカワのような名前がまだ付けられていないもので、「1999 JU3」と記号で呼ばれています。これまでの国内外の観測結果からわかっているのは、自転周期は約7時間半と、これは約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速いこと、直径は約920メートルで約540メートルのイトカワよりも若干大きいことなどです。

また形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、強いていうならサトイモに近い形であること、また、「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在する可能性があることが観測によりわかっています。

これは、この小惑星からの光のスペクトル分析などによって確認されたものですが、ただ含水シリケイトの存在は観測によって発見されたりされなかったりしているため、実際に存在するかどうかは不確定なようです。が、もしこうした鉱物が発見されれば、小惑星のような星にも水の存在が初めて確認されたことになります。

この1999 JU3の探査においては、はやぶさ1でイトカワに着地させることが出来なかった着陸ローバー「ミネルヴァ」による表面探査も行われます。

しかも、この「ミネルヴァ2」は1基ではなく、3基も搭載されているといい、これに加え、独仏で開発された「マスコット」というローバーも投入予定です。数さえ多けりゃいいのかと突っ込みたくもなりますが、何がなんでもこの小惑星の表情を捉えてやるんだという開発者たちの意気込みは伝わってきます。

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このほか、はやぶさ2本体のはやぶさ1からの変更点としては、先代が航行途中にさまざまなトラブルに見舞われたことを踏まえ、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれました。

初代では信頼性強化の改造が裏目となり3基中2基が運用不能となったリアクションホイールも3基から4基へと増加され、なおかつ最後の1基はなるべく着陸時までは温存する運用を想定されているそうです。

リアクションホイールというのは、はやぶさ2の方向を、イオンエンジンなどの化学推進装置を使わずに変化させる姿勢制御装置で、1つの回転軸に対して、1つのフライホイール(円盤状のはずみ車)を電動モーターで回転駆動します。ほんの少しだけ機体を回転させるのに用いられ、これによっても燃料などを消費せずに済みます。

また、はやぶさ2では故障の多かったはやぶさ1でのパラボラアンテナに代わり、アレイアンテナを使用します。小さなアンテナを平面状に多数配列したもので、テレビアンテナをもう少し細かくしたものを想像してもらえれば良いと思います。

個々のアンテナの出力は微弱ですが、実際には複数のアンテナからの出力が合成されるので、結果として大出力が得られます。湾岸戦争で活躍したパトリオット地対空ミサイル用のレーダーや、アメリカ空軍の最新鋭の戦闘機のレーダー、国産の戦闘機・三菱F-2でも使われている高性能アンテナです。

さらにはこのアンテナでは、高速通信が可能であり、例えば万一自律判断によるタッチダウンが不可能になった場合などで、指令誘導をする必要に迫られた場合、迅速な指令を伝えることによって、すばやい姿勢制御が図れます。

はやぶさ1では、地球との通信を行うパラボラアンテナが3種備わっており、探査機の姿勢や電力状況によってアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。ところが、原因不明の故障によってはやぶさが意図とせずにイトカワに着陸してしまったときが、このアンテナの受信状態を切り替えるときでした。

このため、地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけをはやぶさは受信できず、地上局側ははやぶさの着陸の事実を把握できていなかったという失敗がありました。が、今回は、アンテナそのものを変え、高速通信もできるようになってこのような極限時においても、速やかに指令運用を図ることが出来るようになりました。

こうした高性能の通信手段を持つことで、はやぶさ2からの細かい信号も受信できるようになり、この情報から万一化学燃料の配管に破損などがあった場合の再検討や、イオンエンジンやリアクションホイールの制御なども細かく行えるようになり、搭載した機器の細かいモニタリングや指令の伝達などに関する大幅な信頼性向上が図れるようになりました。

また、主エンジンである、イオンエンジンの推力も8.5mNから10mNへと向上した改良型が使用されており、このために従来1機しか搭載できなかったローバーの数を増やすこともできるようになり、また地球との往復時間の短縮をも期待できるようになりました。

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ただ、目標とする1999 JU3はほぼ球形で、自転軸が黄道面に対して横倒しに近く、それが垂直でピーナッツ型をしていたイトカワでは、12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べ、この自転軸と形状が災いして一日かけても全面を観察できにくいそうです。

このためイトカワでは観測が3ヶ月に過ぎなかったものを、今回は6倍の1年半を費やして調査する事になるということです。しかし、2014年に打ち上げられた場合、2018年に 1999 JU3に到着後、ここでの観測期間も含め、2020年末に地球へ帰還するまでほぼ6年で帰ってくることができます。

はやぶさ1の場合は、打ち上げが、2002年9月で、カプセルが大気圏に突入したのが2010年6月ですから、7年と9カ月かかっており、今回は惑星本体の観測期間が延びるにも関わらず、エンジンが改良されたことでかなり短い時間で帰ってくることができるわけです。

この対象となる小惑星1999 JU3は、現在軌道が判明している46万個の小惑星のうちスペクトル型が判明している3000個の物の中から選ばれており、これらの中からはやぶさクラスの推進力で探査可能な小惑星が選ばれ、さらにタッチダウン運用が可能な自転6時間以上の対象としてほぼ唯一残った対象だったそうです。

また、1999 JU3に短時間で効率的に到着するためには、2014年という年は極めて望ましいタイミングにあるといい、この機会を逃すと次回と同様な条件が整うのは10年後となるということであり、今回のフライトはまたとない希少なチャンスということになります。

そもそもはやぶさ2計画は、新たな生命の起源の存在を探すために企画されたものです。

ヴィルト第2彗星とそのコマの探査を目的として1999年2月7日に打ち上げられ、約50億kmを旅して2006年1月15日に地球へ帰還した探査機スターダストは、この彗星の尾から試料を持ち帰り、その後の分析でこの中からは「アミノ酸」が発見されました。

発見されたのは「グリシン」といい、生命体がたんぱく質を作るのに必要なアミノ酸の一種で、中に含まれる炭素の同位体比率が地球の炭素と異なることも確認され、地球上の生命の起源を宇宙に求める説が裏付けされたと、この当時話題となりました。

1999 JU3は「C型小惑星」と呼ばれる炭素でできた小惑星で、有機物が存在する可能性が高いといわれており、もし1999 JU3から採取されたのと同じ組成の有機物を含む隕石が地球で確認された場合、こうした小惑星と生命の起源との関連が考えられるといいます。

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先月末にJAXAの相模原キャンパスで公開されたはやぶさ2の機体には、太陽電池パネルや地球との通信を担うアンテナ、小惑星から持ち帰るサンプルを入れるカプセルなどが既に取り付けられており、ほぼ完成形だということです。

今後、打ち上げ場がある鹿児島県・種子島宇宙センターに輸送され、今年12月に日本の主力ロケット「H2A」で打ち上げられます。

打ち上げ後、太陽を周回する軌道に入り、およそ1年後の来年12月ごろ、地球の重力を使って加速しながら進路を変更し、小惑星に向かう軌道に入ります。目的の1999 JU3に到着するのは、打ち上げから3年半後の2018年6月ごろの予定です。

その後、およそ1年半にわたって小惑星の近くにとどまり、さまざまな科学観測を行い、この間採取した石や砂をカプセルの中に詰め込んだ「はやぶさ2」は、2019年12月ごろ、小惑星を離れて地球への帰途に就きます。

そして東京オリンピックが終わったあとの2020年12月、長い旅路を経て小惑星の石や砂が入ったカプセルを地球に帰還させることになっています。その際、カプセルはオーストラリアの砂漠に落下させる計画ですが、「はやぶさ2」自体は大気圏に突入することなく、再び地球を離れて宇宙へ飛び立つそうです。

その先のミッションについては、JAXAは何も公表していません。この時点でまだたくさん燃料が残っていれば、新たな探査に出す可能性もあるのでしょうが、総飛行距離52億キロの旅のあと、さらにその工程を伸ばすのはなかなかに容易ではないでしょう。

おそらくは地球近傍の月とか、地球そのものの観測に使う、といったことが行われるのかもしれません。が、1977年に打ち上げられ、現在も運用されているボイジャー1号のように、地球から遥か彼方の星間空間を目指すために使うことができるのなら、それもまたいいかもしれません。

私が生きている間に、はるかかなたの宇宙空間からはやぶさ2を通じて宇宙人の声が届く……そんな夢をみながら、今日の項は終わりにしたいと思います。

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ダーウィンがいた!2

2014-5026この項、「ダーウィンがいた!」から続く。

ガラパゴス諸島への旅も含めた世界一周の船旅から帰ったダーウィンでしたが、原因不明の病に苦しみ、帰国後に引き受けた地質学会の事務局長の仕事もなかなかこなせない毎日を送っていました。また航海中に思いついた「種の起源」についての研究を進めるために始めた、資料収集もままならず、悶々とした日々を過ごしていました。

このとき、ダーウィン、29歳。結婚適齢期でもあり、ちょうどこのころ、姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が結婚すると自らも結婚を意識し始めました。

そして、この年の末についに、エマに正式にプロポーズ。前項でも書いたように、エマはダーウィン家と家族ぐるみの付き合いのある、叔父のジョサイア・ウェッジウッドの娘で、従妹にあたります。

しかし新居をロンドンで探している間にも病いは続き、婚約者のエマは彼に休みを取るよう訴えていたといいます。結局病状はそのままに、ロンドン中心部のガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその後「博物館」と呼ぶことになるこの新居へ引っ越しました。

そして、このころには少し病いは安定していたため、1939年に英国国教会で二人の結婚式が行われました。ダーウィン30歳。そして、その年の12月には長男ウィリアムが誕生しました。

このころ、ダーウィンは世界でも最も古い科学学会である、ロンドン王立協会の会員に選出されており、それまでにかなり進化論の基礎となる、「自然選択理論」のフレームワークを確立していました。

この研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んでいましたが、アイディアの細部を洗練させるためには、さらに調査が必要でした。そのための調査研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われ、以後およそ10年以上続きます。

33歳になったとき、その中間的な研究結果を端的にまとめるため「ペンシルスケッチ」と題した理論を書き始めましたが、さらに病状は思わしくなく、この年の7月ころには、早死にしたときに備えてこの「スケッチ」をさらに230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んでいます。

しかし、幸いにも病気はやがて治まっていき、病状が安定するとダーウィンは、ビーグル号で収集したフジツボを解剖し分類するなど、無脊椎動物の研究を始めました。病後明けのこの研究は実に楽しいものでした。美しい構造の観察を堪能した彼は、その中でも近縁種との構造を比較しつつ、さらに思索を深めました。

この8年にわたるフジツボの研究はその後の進化論の理論の発展を大いに助けました。やがて彼はある種類のフジツボを違う環境で育てた場合、わずかに異なった体の器官ができ、これが新しい環境で十分機能することを発見します。

またいくつかの属でオスのフジツボが雌雄同体のフジツボに寄生していることを発見し、これが♂♀二性の進化に関係していることに気付きました。フジツボは固着生活を送っているため、交尾のため自由に動き回れません。オスの寄生によって♂♀への分化を促進しこの問題を解決していると考えられ、進化の過程でそう変化したと考えられました。

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44歳のとき、こうした研究成果をまとめて発表するとこれが認められ、王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、ダーウィンは生物学者としてさらに名声を高めました。翌年に再び種の理論の研究を始め、さらに子孫の特徴の違いは、「多様化された自然の経済に適応した結果生じる」、と考えることで上手く説明できると気付きます。

均衡がとれた経済というものは、需要と供給のバランスがとれています。産業別の人口構成をバランスのとれた適切な割合するということや、赤字や黒字にかたよらないバランスのとれた国の財政や貿易などを目指し、それらによって「分散多様化」された経済こそが均衡がとれた経済です。

自然界も同じであり、そのバランスをとるために、微妙に子孫の形を変え、特定の種が突出せず、均衡がとれた自然界が形成されることが望ましいわけです。ダーウィンは、こうしたことを実証するため、47歳ころから卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べはじめました。

そして、違う環境に適応するためのひとつの変異を「自然選択」と呼びました。生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化します。

1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
3.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)

上記の3番目に関わるのが自然選択です。一般に生物の繁殖力が生存可能数の上限を超えると、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝えるため、不利な性質を持った個体の子供は少なくなります。このように適応力に応じて「自然環境がふるい分けの役割を果たすこと」を自然選択といいます。

ダーウィンが49歳のときのこの「自然選択」の理論の構築は半分しか進んでいませんでしたが、ちょうどこのころ、ダーウィンは同じく博物学者、生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取りました。

アルフレッド・ラッセル・ウォレスは探検家でもありました。マレー諸島を広範囲に実地探査し、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、「ウォレス線」を特定したことで有名で、このため生物地理学の父とも呼ばれます。

ダーウィンとは異なり、ウォレスはすでに種の変化を信じる博物学者として出発していました。彼は近接して生息している種同士は関連があるという進化の仮説を検証するためにアマゾン川流域を調査しましたが、この調査では、アマゾン河とその支流が地理的障壁になっていることに気付き、これを論文、の「アマゾンのサルについて」で論じました。

ウォレスは一度、直接ダーウィンに会ったことがあり、このころまでには親しい文通相手の一人となっていました。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いており、このウォレスのアイデアを用いて、ダーウィンの理論構築はさらに加速していきました。

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やがてダーウィンの記述を第一部と第二部とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成が完成し、これは共同論文として1858年7月1日のロンドンリンネ学会に提出されました。

しかし、当初この発表には何の関心も世間から寄せられませんでした。学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかありましたが、学会長は翌年の演説で昨年の発表の中には革命的な発見が何もなかったと述べました。

ダーウィンは、この論文の発表に先立ち、回答が困難と思われる課題をみつけるたびに論文を拡張したため、発表論文は「巨大な本」へと拡大していました。このため、理論の説明が難解になっていたことも理解が得られなかった理由と考えられます。

このためダーウィンはその内容を整理するため、発表後13ヶ月間にわたってこの「巨大な本」の要約に取り組みました。このころいまだ不健康に苦しんでいましたが、友人たちはそんな彼を励ましました。

とくに友人のライエルは出版社からこの論文が出版できるよう手配し、そしてついに1859年11月22日に「種の起源」が発売されますが、この年はダーウィン50歳の節目でした。この本の出版は予想外の人気を博し、その初版には1250冊以上の申し込みがありました。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではなく、この当時、すでに生物の進化に関する著作がいくつも発表されており、受け入れられる素地があったためです。ただ、この本は国際的な関心を引き、世界各国で議論を呼ぶようになりました。

しかし、病気で体調のすぐれないダーウィン本人は直接、議論の場に登場することはありませんでした。しかし、熱心に彼の理論に対する科学的な反応や報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と手紙を通じて意見を交換しました。

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当初ダーウィンは「人間の進化」についてはこの当時の宗教的優勢の雰囲気を察し、「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言及していませんでした。ただ、論評は当然この面にも向けられ、ダーウィンの説は「サルに由来する人間」の信条が書かれたとものだと批判されました。

とくに、ケンブリッジ大学時代の恩師セジウィッグは、道徳を破壊する物だとして彼を批判しました。それまで進化論の構築に協力していた親友のライエルですら、すぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したものの、当初はやはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させました。

「昆虫記」で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあいましたが、ここでも意見の合致には至りませんでした。ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べました。

しかし、その後強力な支持者であるトマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知度と影響力を拡大していきます。

トマス・ヘンリー・ハクスリーは軟体動物の形態学についての論文が有名な生物学者で「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、それほどチャールズ・ダーウィンの進化論を強く弁護したことで有名です。元海軍に所属し、ラトルスネーク号という海軍船の外科医のポストを得、この船の調査航海の傍ら海の無脊椎動物の研究に従事しました。

26歳の若さでロイヤル・メダルを受けたばかりか、王立協会のフェローに選ばれ、評議会議員にも選出されましたが、のちに海軍を辞め、王立鉱山学校の講師になり、次いで英国地質調査所の博物学者になりました。

ダーウィンが自然淘汰理論を発表すると、いち早く王立科学研究所のミーティングに参加し、この討論においてダーウィンの理論に賛意を表明しました。その後、ダーウィンが理論の要約として「種の起源」を出版すると、これにも大いに賛同を示し、これを大学での講義に使いました。

この講義には、様々な分野の次世代研究者が群がり、関心を引きつけ、やがてこの時代の主要な科学のテキストとなっていきました。やがてダーウィンの理論は生物学だけでなく、当時の様々な運動に取り入れられて「ダーウィニズム」という言葉が生まれ、その根幹にある「自然淘汰」の概念は世界中に広がっていきました。

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ダーウィンは、その人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされましたが、最後まで研究を継続しました。その後、友人のハクスリーは「自然における人間の位置」として解剖学的に人類は類人猿であることを示し、また、1871年、62歳になったダーウィンも多数の証拠を提示して「ヒトは動物である」と論じました。

さらには「性選択」を主張しました。性選択とは、現代においても進化生物学における重要な理論の一つです。異性をめぐる競争を通じて起きる進化のことであり、一つの種において、ある性(ほとんどの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ないというのが基本理論です。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが起き、進化を促します。

ダーウィンは、クジャクの羽のような非実用的な動物の特徴をこの性選択説を説明するために利用しました。クジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えました。

そして、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考え、自然選択説とは別に「性選択説」を主張したのです。

これと同じく、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴をもこの性選択によって説明し、同時にヒトは一つの「種」であると強調しました。絵や図を多用した研究に拡張され、翌1872年にこれらの理論は「人と動物の感情の表現」として出版されました。

この本では人間の心理の進化と動物行動との連続性が論じられるという専門性の高いものでしたが、写真を利用した初期の本の一冊でわかりやすく人気があり、これを知ったダーウィンは自分の意見が広く世間一般に受け入れられたことに深く感動したといいます。

1880年、ダーウィン70歳の時、兄エラズマスが闘病生活の末、没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べましたが、年をとったダーウィンもまた次第に疲れやすくなっていました。が、研究の手を止めることはなく、息子のフランシスと娘たち、使用人がこれを手伝いました。

彼の進化に関する実験と観察は、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響、同種の花の多型、植物の運動能力と多岐に及び、72歳のとき最後に出した本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じました。

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晩年の楽しみはエマのピアノと小説の朗読で、特に古典よりも流行の小説を好んだといいますが、1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になりました。そして、4月19日、ロンドン南東部、ダウン村の自宅で、生物学において大きな足跡を残したこの学者は亡くなりました。享年73歳。

ダーウィンは当時の多くの人と同じように、必ずしも男女平等主義者ではなく、女性は能力が劣るとも考えていたようです。しかしいわゆる「差別主義者」ではなく、他の生物と同様に、人種間の生物学的な差異は非常に小さく、異なる人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していました。いかにも彼らしい論理です。

ビーグル号での航海中にも、ここに乗船していた奴隷に関して艦長のフィッツロイと衝突することがしばしばだったといい、これは奴隷制度に対する意見の相違からでした。

ダーウィンは、フィッツロイが「奴隷たちは、現在の状態に満足しており、だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前だからそう言っただけで、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買いました。

また、ビーグル号がブラジルに寄港したときにも、この地で多くの奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、この虐待を二度と見ることが心底うれしかったらしく、この国は二度と訪れることはないだろうと書き残しています。

帰国後には、さらに奴隷解放運動を支援する行動にも乗り出し、「人種のランク付け」に反対し、被支配国の奴隷たちを虐待することに反対しました。

ダーウィンの主張した人種間の生物学的な差異は基本的にはない、という考え方は、こうした人種差別反対運動にも寄与しましたが、自由放任主義で弱肉強食の資本主義、戦争、植民地主義と帝国主義などに反対する人々もまたこうした考え方を利用し、自分たちのイデオロギーを構築するために、ダーウィンの説を役立てました。

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しかし、一方では、ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念に使われることもあり、「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ」「恐竜が滅びたのは改革を怠った怠け者だったから」といったふうに使われることもあり、必ずしも良い影響ばかりを世に与えたわけではありませんでした。

ところで、ダーウィンが亡くなったとき、誰もが彼はその晩年を過ごし、愛してやまなかったダウン村のセントメアリー教会に葬られると誰もが考えていました。

が、同僚たちは彼の死を科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なし、極力大々的に行おうと計画しました。このため、ハクスリーなどの友人たちや王立協会会長らは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけました。

その結果、ダーウィンの葬儀は同年4月26日に国葬として執り行われた上、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。ウェストミンスター寺院は歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されており、彼の墓の隣にも、天文学者のジョン・ハーシェルと物理学者アイザック・ニュートンが眠っています。

現在では墓地としては既に満杯状態ですが、国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)に隣接しているいわば国立墓地で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。英国国教会の教会でもあり、ダーウィン自身もかつて聖職者を目指したこともあり、その墓所としてはふさわしい場所といえるかもしれません。

典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をしましたが、そのうち約200人が聖職者であり、彼自身も生前、決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではありませんでした。

若いころのダーウィンは聖書の無誤性を疑いませんでした。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだことは、前回の項で述べたとおりです。「自然のデザイン」は神の存在の証明であるという自然神学を確信し、神が究極的な法則の決定者であると考えていました。

ところが、ビーグル号航海の間に、その信念に疑いを持ち始めました。例えば、なぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在が慈悲深いはずの自然神学といったいどのように調和するのか?といった疑念が次々と沸いてきました。

極め付けは、42歳のとき、もっとも愛した長女アニーが献身的な介護の甲斐無く亡くなったことで、この時ダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信しました。彼女の死はキリスト教信仰にピリオドを打つ選択を彼に与えたのでした。

ただ、晩年のダーウィンは、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れ続けていたといいます。しかし、60代になると一変し、このころ親族に向けて書かれた「自伝」においては、ダーウィンは宗教と信仰を痛烈に批判するまでになっています。

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が、最晩年に70歳で書いた書簡では、自分は神の存在を否定する無神論者ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べています。不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし、人が経験することを越えることを問題として扱うことを拒否しようとする立場であり、本質的な存在については認識不可能だとする論理です。

宗教的には「神は「いる」とも、「いない」とも言えない」とする中立的不可知論な立場をとり、人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、と考えます。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というわけです。

ダーウィンの死後しばらくして、イギリス北部エディンバラにもほど近い、ノースフィールドの福音伝道者、ムーディ何某という人物が創設した学校で若者たちの集会があり、ここで「ホープ夫人」なる人物が講演したという記録が残っています。

この夫人は、死の床にあるダーウィンを自分は見舞ったと主張し、この時彼は地元の日曜学校の生徒たちに後日讃美歌を歌ってくれるよう頼み、同時にこのとき「進化論なんか発表しなければ良かったと、どれほど思っていることか」と告白したと語りました。

夫人によれば、このとき彼はさらに言葉を続け、「自分は至福の神々しい予期を熱心に味わっている状態であって、イエス・キリストと御救いのことを人々に語りたいから」聴衆を集めてほしいと夫人に依頼したといいます。

そして、ムーディ牧師の激励のもとで、ホープ夫人のこの話は1915年に出版され、この中には、ダーウィンが最後の死の床で信仰を取り戻したと書かれていました。

しかし、ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べており、彼の最期の言葉は妻に向けられたものだと語っています。そして、それは「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」だったといいます。

不可知論者だったダーウィンは、あの世において、神が存在するか否か、もう既に知っていることでしょう。

2014-4617

あぁねったい

2014-1424今朝の伊豆は久々に晴れて、良いお天気です。

しかし、一昨日の夜、伊豆では、相当の雨が降りました。……が、少々疲れ気味だった私は、早めに床に入り、それをタエさんからそれを聞かされたのは昨日の朝のこと。見ると、家の中からあちこちの窓がべしょべしょになっており、この夜の風雨の強さを物語っていました。

その雨が、東へ移動し、昨日の札幌近郊はだいぶ大きな被害が出たようです。現在まだ道東で雨が降っているようですが、これ以上被害が拡大しなければいいのですが。

この雨は、おそらくは先日来の台風のなごりによって、取り残された湿気がもたらしたものでしょう。台風による直接被害ではありませんでしたが、まだまだこの先、こうした気象擾乱は起きやすい季節が続きますから、油断はできません。

また、今年の台風の発生数は、8月までだとまだ13個です。平年だと13.6個ですから、だいたい平年並みです。が、年合計の平年値は25.6個だということなので、ようやく半分程度に達したにすぎません。まだまだ9月10月と発生して日本列島に接近する可能性もあるわけで、今後とも注意が必要です。

それにしても今年はなぜか台風による直接被害ではなく、前線の停滞などによる集中豪雨による被害が多いような気がします。台風が来ていなくても、日本中どこかで必ず雨が降っているような印象で、例年になく大気が不安定なようです。

この集中豪雨というヤツですが、積雲や積乱雲によってもたらされるというのは、さんざんテレビやら新聞やらで知らされて誰もが知っていることです。積乱雲はもくもくと発達して急激に雲頂の高さを増しますが、こうした雲の中で対流中の空気の上昇流の速度は他の循環による上昇流に比べて桁違いに大きいことが知られています。

このため、積乱雲の上層部と下層部では、かなり大きなエネルギー落差が生じ、これによって雨粒や氷晶の急激な発達が起こり、激しい雨となるわけです。

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では、にわか雨と集中豪雨は何が違うのでしょうか。

一般的な積雲や積乱雲では激しい雨をもたらすものの、そうした雨の多くは、急に降りだしてすぐ止んでしまう一過性の雨です。夏の日、とくに午後になると日本では大気が不安定になることが多く、このため散発的な積乱雲が発生し、いわゆる夕立をもたらしますが、これがにわか雨の代表選手です。

このにわか雨を降らせる積乱雲の場合、その塊が雑然と集ることなくそれぞれが独立的に活動しており、このため降雨は長続きしません。このようなタイプの降水をもたらす積乱雲をシングルセル(single cell)といい、雨域は水平方向に5~15km、寿命はおおむね30-60分ほどです。

ところが、大気が著しく不安定となった場合に積乱雲が発達すると、シングルセルがダブルセルになり、トリプルセルとなって雨量が増し、数十分で数十mm程度に達します。このような雨を気象庁は「局地的大雨」と読んでいます。

そしてさらに条件が整うと、1時間で数十mmの局地的大雨が数時間あるいはそれ以上継続し、総雨量が数百mmに達し、これが「集中豪雨」と呼ばれるものになります。集中豪雨になる必須条件としては、寿命の短い積乱雲が世代交代をして次々と発生・発達することであり、かつその積乱雲群が連続して同じ地域を通過することです。

局地的大雨も集中豪雨も、1つ1つのシングルセルの寿命は30-60分ほどですが、集中豪雨では積乱雲が世代交代しながら数時間もの間連続して通過することで雨の降った地域に壊滅的な影響を与えます。時には十数時間から数日に亘って強い雨が続く場合があり、過去には一週間以上も広域にわたって降り続いた例もあります。

昭和47年に起こった「昭和47年7月豪雨」では、高知、熊本、愛知、岐阜、神奈川などの各県において、7月3日から15日まで12日間も雨が降り続き、死者421名、行方不明者26名、負傷者1056名の大惨事を引き起こしました。

また、近年では5年前の平成21年(2009年)の7月19日から一週間に渡って山口県や福岡県で集中豪雨が続き、これは「平成21年7月中国・九州北部豪雨」と呼ばれました。時間雨量は防府市で70.5mm、福岡市博多区で114mmなどであり、大規模な土砂崩れが発生し、32人もの死者が出たことは記憶に新しいところです。

こうした集中豪雨では、積乱雲の世代交代において、降水セルが線状あるいは団塊状にまとまることが多く、これはさらに単一の巨大な降水セルとなり、こうしたセルのことを「マルチセル」またはさらに激しいものを「スーパーセル」といい、たいてい雷を伴った激しい降雨をもたらすため、マルチセル型雷雨、あるいはスーパーセル型雷雨とも呼びます。

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こうした雷雨は研究者によればさらに2~4種類に分けられるようですが、そのうちのひとつに「バックビルディング型」と呼ばれるものがあり、この用語は最近ニュースやワイドショーでよく取り上げら、すっかりおなじみになりました。

日本で最も発生しやすい型といわれており、成長期・成熟期・衰退期など異なるステージの複数のシングルセルが線状に並びつつ移動します。季節としてはやはり梅雨期が多く、1998年8月上旬に新潟県下越・佐渡で起きた「平成10年8月新潟豪雨」もこれでしたが、先日20日広島で起きた「平成26年8月豪雨」もこれだといわれています。

日本における集中豪雨は、発生時期で見ると梅雨の時期、特に梅雨末期が多いようです。が、この広島の災害の際には梅雨はとっくに明けており、にもかかわらずまるで梅雨前線のように停滞していた前線がこの豪雨をもたらしました。

停滞した前線がもたらす大雨は、年間を通して見ると、1時間程度の短時間のものは、「局地的大雨」として日本国内どこでも見られます。ところが、24時間以上続く長時間の集中豪雨は、暖湿流が流れ込みやすい九州や関東地方以西の太平洋側に多い傾向があるようです。また、梅雨期に限ると、集中豪雨はとくに西日本に多く発生するといわれています。

単位時間当たりの雨量の極値をみても、10分間程度の短時間における雨量は国内どこでもだいたい同じくらいで、その差は小さいようです。ところが、1時間雨量、24時間雨量になると南の地方ほど雨量が多くなる傾向があり、これらの地域でもさらに南側の斜面沿いの地点で多くなる傾向が顕著になります。

ちなみに10分間雨量の極値は日本では40~mm程度であり、これ以上になることはまずありません。これすなわち、10分程度の短時間の雨量は単一のシングルセルに起因するにわか雨であることにほかなりません。これに対し、長時間の大量の雨は上述のようなマルチセルやスーパーセルの積乱雲の連続通過に起因するわけです。

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気象庁の観測統計によれば、こうしたマルチセルによる集中豪雨は、アメダス1000地点あたりでみると、時間雨量50mm以上のものが、1976~1986年に160回でした。ところが、1998~2009年には233回になっていて、+45%と明らかな増加を示しています。ここ数年の統計はまだなされていないようですが、最近の状況をみていると更に増えていそうです。

また、同じく時間雨量80mm以上のスーパーセルといわれるような豪雨の年間平均発生回数は1976~1986年に9.8回だったものが1998 ~2009年には18.0回になっていて、これも+80%と更に急激な増加を示しています。

2011年、気象庁の外郭団体である日本気象協会は「総雨量2000mmの時代を迎えて」と題する見解を発表しました。

この中で気象協会は100年後をシミュレーションした予測結果によれば日本の南海上の海面水温は台湾近海並みに上昇した水温となり、台風の進行速度や海面水温を考慮すれば、日本も台湾と同様に総雨量2000mmを超える大雨を想定した対策が必要としています。

世界でも多雨地帯であるモンスーンアジアの東端に位置する日本は、年平均1718mmの降水量があり、これは世界平均(880mm)の約2倍にも相当します。年間降水量で日本を超えているのは、インドネシア(2702mm)、フィリピン(2348mm)、シンガポール(2497mm)の3カ国だけであり、2000mmはこれらに迫る値です。

いずれ、日本でもこうした国のように毎年のように大雨が降るようになり、このため植物がどんどん育ってジャングル地帯が多くなり、これに伴い生物相も増えて、ちまたにひらひらとたくさんの蝶々が飛び回る虫大国になっていくに違いありません。

こうした背景にはやはり地球温暖化があるというのが一般的な見解です。最近デング熱の発生で話題になりましたが、とくに東京では急速に「熱帯化」が進んでいるといわれているようです。この「熱帯」の定義としては、最寒月の平均気温が18℃以上でヤシが生育できること、平均気温が一年中19℃以上であることなどです。

港区にある、国立科学博物館付属自然教育園は、東京でも数少ない自然に近いかたちで森を残してきた場所ですが、ここにはヤシ科のシュロが大量に繁殖しています。このシュロは、園内1万本の樹木の2割を占めるまでになったといい、最近では、実こそ結ばないものの、キウイまでもが普通に自生し、インコが飛び回っているそうです。

このシュロという木の若芽は、通常冬の平均気温が4度以下になると枯れてしまうといわれていますが、最近は枯れることなく、逆に繁殖が増加しているといい、こうしたことからも、東京は早、熱帯に含められるのではないか、といわれているわけです。

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もっとも、熱帯ではなく、亜熱帯ではないか、といわれることもあります。しかし、実はケッペンの気候区分には亜熱帯という区分はありません。温帯に含まれる地域の一部を俗に亜熱帯と呼ぶことがあるだけです。

ケッペンの気候区分というのは、植生分布に注目して考案された気候区分で、気温と降水量の2変数から単純な計算で気候区分を決定できることに特徴があり、世界標準とされているものです。

このケッペンの気候区分に亜熱帯はないわけですが、一般的には、最寒月平均気温が-3℃以上18℃未満で、冬季の積雪は根雪にならないが、ヤシが生育するほどでもない地域のことを亜熱帯といいます。日本では、東京都小笠原の各諸島、鹿児島県の奄美群島、沖縄県の沖縄諸島・宮古列島・尖閣諸島などが亜熱帯に属するとされています。

その他の日本の地域はだいたい、「温帯」に分類されます。最暖月平均気温が10℃以上で、
安定した気候で四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息します。

こうした中にあって、東京だけが熱帯化、あるいは亜熱帯化しているとされるのは、上述のようなシュロのような熱帯性の植物がごく一部とはいえ見られるようになったことに加え、夏には謎の集中豪雨がここを襲うことが多くなったことなどにも由来します。

とくに新宿などの東京西部が多いとされており、この東京西部という場所は、相模湾からの南風と鹿島灘からの東風がぶつかって上昇気流が起き、集中豪雨に見舞われる場所として以前から知られていました。

しかし最近、海からの風が吹かない日にも集中豪雨が起きることが知られています。これは乱立するビルのためだということが言われており、ビルなどからの人工排熱で大気が局地的に熱せられて上昇気流が起き、積乱雲が発生するためのようです。

また、真夏の東京23区内で1日に排出される人工熱量を試算すると、東京ドーム0.7杯分の水を瞬時に沸騰させ、蒸発させることができるほどの熱量になるといいます。驚くべき熱量です。

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来たる東京オリンピックからわずか5年後の2025年ごろには、東京都心でも最高気温が40度を超すようになり、50年以降はそれが毎年のことになると予測する専門家もいるようです。また発熱は地下でも著しく、都心13カ所で下水道の温度を調べたところ、この30年で年平均温度が4.8度、冬に限ると7度も上昇しているといいます。

こうした現象は、家庭で風呂場や食器洗いなどで湯を使う量が増えた影響と考えられており、人工的に発せられる熱の1割が下水に捨てられているためだといいます。

さらには、この下水が流れ込む東京湾でもとくに冬場の水温上昇が著しく、20年間で2度も上がり、プランクトンが大量発生して酸素欠乏の状態が続き、外来種の貝の異常繁殖なども起こっているようです。

このような東京の熱帯化から、ひところ話題になった首都移転も再び現実味をおびてくるようになりました。しかし移転のためには多額の費用もかかることから、このためせめて夏場だけでも、首都機能を移転したらどうかという人もいます。真夏に霞が関の官公庁を訪れた人は分かると思いますが、ここは地獄です。

建物の中は非常に暑くて、到底仕事に集中できる環境ではなく、確かにエアコンは28℃設定になっているのですが、実際はパソコンなどの電子機器も動いているのでもっと暑く感じます。こんな環境で働いても効率が落ちるだけですし、スーパークールビズでどうにかなるような話ではありません。

このため、思い切って夏の間だけでも中央官庁の機能を首都圏から仙台などの北にある場所に移転を考えてみようということで、官僚というものはもともと「転勤族」といわれているぐらいですから、元々移動には慣れています。これを契機に恒久的な移転の雰囲気も出てくる可能性もあるし、考えてみても良いのではないか、というわけです。

資料などの移動が大変だという意見も多いでしょうが、今のようにインターネット全盛でデジタルな時代には、基本的に身一つとオンライン環境さえあれば大概の仕事はできるはずです。機能を分散して涼しいところで働く人間を増やしたほうが、業務効率も上がるでしょうし、東北に官公庁が移転すれば、現地の復興の手助けになるかもしれません。

東京だけでなく、日本の気候はますます熱帯化しており、この首都圏のプチ移転を契機にあらゆる習慣、制度の見直しを進めるというのも手かもしれません。さらに、高校野球に代表される公式な競技大会も、酷暑の中で実施するのはやめて、思い切って北海道や東北などの涼しい地域に場所を移して大会を開催すればいいと思います。

あるいは、時期を秋にずらせば、春の大会と秋の大会ということでバランスがとれます。また、甲子園から東京ドームへ会場を移すといった手もあります。甲子園が聖地だからという理由だけで、これからも延々と真夏の炎天下での野球を球児に強要するのは理不尽な気がします。

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2020年の東京オリンピックもまた、真夏の一番暑いときに行われる予定のようです。7月24日〜8月9日までの日程で、競技会場はいずれも東京都に所在します。「東京オリンピック」と銘打っている以上、こちらはさすがに開催地移動、というのは難しいと思いますが、一部競技を別の場所でやるくらいはIOCも大目にみてくれるのではないでしょうか。

自転車競技などは仮設の競技場を有明に作るとか言っていますが、伊豆には伊豆ベロドロームという国際基準に合致した立派な自転車競技場があります。伊豆も東京の一部だ、というのは多少(かなり)無理があるかもしれませんが、新たな競技場の建設費用のことなどを考えれば、検討してみる価値はあるように思います。

しかし、競技場などの代替地を周辺に求めたとしても、東京の熱帯化が今後も進んでいくとすれば、依然デング熱のような、いわゆる「熱帯病」の対策が必要になってきます。国際都市としての東京をアピールする際に、ここにこうした病気が蔓延したまま、というのはぜがひでも防がねばなりません。

この熱帯病ですが、とくにはっきりした定義はないようですが、熱帯地方に多くみられる病気とされています。熱帯地域には蚊やハエ、寄生性の強い原虫といった有害生物が多く、これらの生物を媒介してヒトに感染する病気が熱帯病とされることが多いようです。

デング熱意外にどんなものがあるかといえば、マラリア、黄熱病、HTLV感染症、リーシュマニア症、トキソプラズマ症、肝蛭症、赤痢アメーバ、クリプトスポリジウム症、などなどです。

これ以外にも、狂犬病、トラコーマ、ハンセン病などのように、既に日本ではほぼ撲滅されたとされるものも含め、WHOではだいたい17種ぐらいを熱帯病として指定しているようです。

このうち、「マラリア」については、日本では過去に土着マラリアが存在しましたが、現在では絶滅しています。しかし海外から帰国した人が感染した、いわゆる輸入感染症が年間100例以上報告されており、増加傾向にあるといいます。現在も指定感染症とされており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要があります。

マラリアは、単細胞生物であるマラリア原虫がハマダラカによって媒介されることで発症します。発症すると、40度近くの激しい高熱に襲われますが、比較的短時間で熱は下がります。この点、現在流行しているデング熱と似ています。ただ、マラリアには、三日熱マラリア、四日熱マラリアなどの2~3種があり、症状はひとつではありません。

三日熱マラリアの場合は48時間おきに、四日熱マラリアの場合72時間おきに、繰り返し激しい高熱に襲われることになり、これが三日熱、四日熱と呼ばれるゆえんです。また卵形マラリアというのもあり、こちらは三日熱マラリアとほぼ同じで50時間おきに発熱します。

いずれの場合も、一旦熱が下がることから油断しやすいのですが、すぐに治療を始めないとどんどん重篤な状態に陥ってしまいます。一般的には、3度目の高熱を発症した時には大変危険な状態にあるといわれており、最悪なのは、マラリアの場合、放置した場合などにはこれが慢性化するケースがあることです。

マラリア原虫が肝細胞内で休眠型となり、長期間潜伏するためであり、この原虫は何らかの原因で分裂を再開し、再発の原因となります。四日熱マラリア原虫の成熟体は、血液中に数か月~数年間潜伏し発症させることもあるといいます。

明治~昭和初期の日本では、全国で土着マラリアが流行し多数の感染者を出しました。戦後も500万人を超える復員者による再流行が危惧されましたが、1946年ころの28000人ほどをピークに減少しています。しかし上述のとおり、外国でマラリアに感染し、帰国してから発症する例が年間100~150例程度あるものの、土着マラリアは流行していません。

その理由としては、マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化、稲作法の変化などによる発生数の減少や、日本の住宅構造や行動様式の変化により夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどが理由としてあげられているようです。

しかし、ヒトスジシマカのような、いわゆるヤブカといわれ、普通にどこでも繁殖する蚊によって最近デング熱が広がっているわけであり、ハマダラカもまた大量に発生する可能性は、今後とも大いにあります。

ちなみに、デング熱に効くワクチンはまだないようですが、マラリアの予防ワクチンは年々開発が進んでいます。このワクチンが実用化された場合、マラリア発症リスクが56%、重症化リスクが47%それぞれ低減されるとされており、日本でも大阪大学微生物病研究所らのグループで開発が行われているそうなので、オリンピックには間に合うかもしれません。

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このほか、「黄熱病」はネッタイシマカによって媒介される黄熱ウイルスを病原体とする感染症です。ネッタイシマカは、全世界の熱帯・亜熱帯地域に分布し、日本ではかつて琉球諸島と小笠原諸島で生息が確認されたことがありますが、国内での定着は確認されていません。また天草諸島でも1944年に異常発生しましたが、1952年までに駆除されました。

1970年以降は天草での採取例はなく、沖縄でも20世紀初頭に確認されたこともありましたが、いつの間にか姿を消し、ヒトスジシマカに席巻されている状況です。最近デング熱で話題になっている新宿界隈でもまだ発見はされていないようです。

しかし、2002年、日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定されており、再び国外から侵入定着する危険が指摘されています。

このネッタイシマカやヒトスジシマカによってもたらされる黄熱病の特効薬はありません。が、1回接種の生ワクチンによって予防が可能です。ただ、移されると潜伏期間は3~6日で発症し、突然の発熱、頭痛、背部痛、虚脱、悪心・嘔吐などの症状を呈します。

発症後3~4日で症状が軽快し、そのまま回復することもあります。が、重症例では、数時間~2日後に再燃し、発熱、腎障害、鼻や歯根からの出血、黒色嘔吐、下血、子宮出血、黄疸などの症状がみられます。黄熱病の死亡率は30~50%と高く、この黄熱病の研究途中で野口英世が自ら感染し、死亡したことは良く知られています。

主にアフリカで発見された風土病であり、アフリカから遠く離れた日本ではこれまでに多くの人が感染したという例はあまりないようです。だからといって安心はできませんが。

「HTLV-1」もまた、アフリカ由来のウィルスといわれており、最近話題になっています。平成20年度の厚生労働省の調査によると、現在、国内には約108万人の感染者がいることが明らかとなりました。これはB型肝炎やC型肝炎に匹敵する感染者数で、決して少ない数ではありません。

もともと感染者は九州などの地域に多いといわれていましたが、厚生労働省の調査で関東や関西の大都市圏でも増加傾向にあるとわかりました。HTLV-1は、ヒトT細胞白血病ウイルス(Human T-cell Leukemia Virus Type1)の略で、このウイルスは、血液中の白血球の1つであるTリンパ球に感染して白血病を起こします。

母子感染(主に母乳)、性交渉によって感染し、血液感染もします。HTLV-1に感染しても自覚症状はありませんし、また約95%の人は生涯病気になることはありませんが、ウイルスに感染していても症状がない人を「キャリア」と呼びます成人のHTLV-1キャリアのうち、約4~5%が白血病などを発症し、潜伏期間は約40年で男性にやや多い傾向があります。

日本にはもうすでにかなり浸透しているようであり、熱帯病というのは適当ではないかもしれませんが、そうしたものがある、ということも覚えておきましょう。

このほか、「リーシュマニア」は、原生生物が細胞内に寄生して引き起こし、この原虫は「サシチョウバエ」という、ハエによって媒介されます。日本にもチョウバエの仲間は、オオチョウバエやホシチョウバエなどがいますが、サシチョウバエのような吸血性のものは今のところ確認されていません。

これもアフリカ起源でアジア、アフリカ、中南米の熱帯地域に分布する吸血性の「サシチョウバエ」によって媒介され、感染後数ヶ月から数年たってから、発熱、肝臓や脾臓の腫大と貧血といった症状が出て、放置すれば死に至ります。ヨーロッパ各国による新世界の植民地化に伴って流行したもので、最近でも欧州と南米は発生が顕著なようです。

「トキソプラズマ」もまたは、寄生性の原虫によって引き起こされるもので、ヒトを含む幅広い恒温動物に寄生してトキソプラズマ症を引き起こします。世界人口の3分の1が感染していると推測されていますが、通常は免疫により抑え込まれるため大きな問題とはなりにくいようです。しかし、免疫不全の状態では重篤あるいは致死的な状態となりえます。

特に妊娠初期に初感染した場合、胎児が重篤な障害を負うことがあるそうです。日本では、まだあまり広まっていないようですが、症例がないわけではなく、また詳細な疫学調査はほとんど行われていないため、感染経路を含む感染の実数調査が望まれているようです。

「肝蛭症(かんてつしょう)」。これも寄生虫病であり、人獣共通感染症です。蛭によって感染します。日本ではこの原因になる「肝蛭」という蛭が広く分布しており、現状でも感染の可能性はあります。ただ致死性は少なく、初期では発熱や主に肝臓の機能異常を起こし、慢性期では不規則な発熱、貧血、腹痛、消化不良、下痢、黄疸、などがみられます。

「アメーバ赤痢」、これは一般にいわれている赤痢菌による赤痢ではなく、アメーバによって引き起こされるため、細菌感染症ではなく、これも寄生虫症に分類されるようです。大腸に寄生した赤痢アメーバによって引き起こされ、まれに肝膿症や脳・肺・皮膚などへの合併症が報告されています。

感染経路は性感染によるものもあるため、性行為感染症に分類される場合もあり、日本では男性同性愛者、海外旅行者や集団施設生活者などでの感染報告例などが多いといわれています。

「クリプトスポリジウム」、これも原虫によるものでヒトを含む脊椎動物の消化管などに寄生します。場合によっては致死に至ることもあり、先進国においてもしばしば集団感染が報告されています。有名な事例としては、米国ウィスコンシン州ミルウォーキー市(1993年)や埼玉県越生町(1996年)の感染事故などがあります。

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さて、以上ざっと熱帯病と言われる主なものを俯瞰してきましたが、ここに書いていないものでも日本で発症した例はいくつもあります。また、これらからわかるように、ほとんどの熱帯病は、原虫やウィルスを原因とし、蚊やハエ、蛭といった媒介者がこれを運ぶことでヒトに感染することが多いようです。

熱帯化するということは、こうした生物が増えるということです。なぜでしょうか?これは、生物が無生物から区別される特徴として、自己増殖能力、恒常性(ホメオスタシス)維持能力といった能力のほかに、高いエネルギー変換能力を持っているためです。

気温が高いということは、その生命維持のためのより高いエネルギーを得られやすいということであり、このため小さな微生物から大きな哺乳類に至るまで、さまざまな生物相が豊富になります。従って、赤道直下のように世界中で最も気温が高いところに、地球の生物相の大部分が集中しているといっても過言ではありません。

しかし、日本が熱帯化しているといっても、いきなりこのような赤道直下の国のようになることはあり得ません。日本の大部分の地域は温帯に属し、さらにいえば、温帯のうちの「温暖湿潤気候」に分類されますが、上述のとおり、小笠原村諸島や奄美群島、沖縄諸島などのように亜熱帯に属しているところもあります。

従って、熱帯化していると言われる東京もまた、熱帯地域と呼ぶのは少々言い過ぎであり、どちらかといえばこれらの島嶼地域のような亜熱帯に「移行しつつある」、考えるのが適当でしょう。

とまれ、熱帯であれ、亜熱帯であれ、東京だけでなく日本全体もまたこうした暑い地域の気候区分に分類される日が着々と近づいていることは確かのようであり、世界でももっとも生物相が多様といわれる地域になりつつあるわけです。

ということはすなわち、これからはますます、これまでには存在しなかった生物の脅威にさらされていく、ということにもなり、これまで経験しなかったような熱帯病の脅威もさらに増えてくると考えていいでしょう。

しかし、生物の数が増えるということは、必ずしも悪いことばかりではありません。上述のように世界で最も年間降水量の多いインドネシアでは、世界最大といわれる約32万種ともの動植物が生息・生育しており、とくに哺乳類は515種であり、これは世界の12%に相当します。

一国に生息する種数としては世界最多であり、またその多く(36%)が固有種であるなど、インドネシアはアマゾンなどとともに世界でも有数の生物の多様性に富んだ地域となっています。温暖な気候のためもあり、人口も多く、その総人口は日本のおよそ倍の2億4000万人ほどであり、中国・インド・アメリカ合衆国に次ぐ世界第4位です。

今後も人口は着実に増加してゆく傾向にあり、これを支えているのが、この国の豊かな生物相だといえます。マングローブ林などに代表される低湿地から高山帯にいたる森林まで、実に多様な生息・生育環境、生態系が存在します。

振り返ってみれば、日本は高齢化が進み、人口は減る一方です。現在においても豊かな季節変化に恵まれ、世界的にみても多様な生物や植物が生息・生育しているわけですが、これらがさらに多様な方向へシフトしていくと考えれば、まんざらでもなく、もしかしたらそのことによって、人口の減少にも歯止めがかかるかもしれません。

温暖化が悪い悪いとばかりいわずに、増え続けていくであろう生物や植物の多様性をむしろ積極活用し、生活に生かしていくようすれば今後はさらにより豊かな国になっていくような気もします。

熱帯化を大きなビジネスチャンスとしてとらえる向きもあります。例えば温暖化によって増える可能性のある災害に対する備えは、巨大な建設需要にもつながる可能性があり、環境の変化に対応した食住のダイナミックな変化対応の中にもまた商機はあるでしょう。更には、上述のような伝染病の蔓延を防ぐための企業の開発力も培われるでしょう。

また、アパレルの世界では、これまでは8、9月になると来たるべき秋を先取りして秋物が売れていましたが、最近では温暖化が進んで売れなくなっているといいます。秋になってもまだまだ暑いのに、そんなものもう着ていられるか、というわけです。

そういった中で、「見た目は秋、機能は夏」という商品が売れるようになっているそうで、こうした新商品は、購入者の「そろそろ秋モノという頭と、まだ暑いという実感」のギャップに注目したものであり、これからは気候の変動に伴うこうした新たな商品がどんどん出てくるに違いありません。

このように気候の変動は、人の営みに大きな影響を与えるだけに、その変わりゆく部分に広くアンテナを張り、ヒントを探し、取り込む力が、今後の日本人には求められていくのでしょう。

もっとも、暑いところが嫌いな私としては、それでもやはり、涼しいところに住んでいたいと思います。年間降水量2000mm時代の伊豆がどんなところになっているかわかりませんが、気温もさらに上がるようであれば、今度は北海道にでも移住を考えなくてはなりません。

しかし、ここ伊豆だけは、生きているうちには本気でそういうことを考えなくて済む程度の環境変化であってほしいと思うのですが、どうなるでしょうか。

皆さんのお住まいの土地はどうでしょう。熱帯化、進んでいますか?

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コピーが欲しい

2014-5604フランスのラスコー洞窟のことはご存知の方も多いでしょう。

フランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村の近郊に位置する洞窟で、先史時代の洞窟壁画があることで有名です。

この壁画は、1940年の今日、9月12日に、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見されました。俗には、犬が逃げ込んだ穴から入って、偶然見つけた、といったことがいわれていますが、これは間違いらしく、探検するつもりで、当時15~18歳の4人の少年がこの穴に入って見つけたというのが事実のようです。

地下に長く伸びるこの洞窟は枝分かれし、壁画は一カ所だけでなく、いくつかの大空間にそれぞれ集中して描かれています。これらの空間の側面と天井面、つまり上半部一帯に数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・カモシカなど描かれており、このほか人間や幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人の手形が500点ほども書かれています。

旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたと推定されており、絵の材料としては、赤土・木炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜ、黒・赤・黄・茶・褐色の顔料が使われていました。これらの顔料はくぼんだ石等に貯蔵されており、こけ、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら壁画を塗って描いたと考えられています。

古い絵の上に新しい絵が重ねて描いてある物も多く、レイアウトはなどはあまり気にせず自由に描かれているということで、驚くべきはこの時代にあって既に遠近法が使われていることです。黒い牛の絵などでは、手前の角が長く描かれ、奥の角は手前の角より短く描かれていて、このほかの動物や人の絵にも、同様の遠近法がみられるそうです。

かつては大勢の観客を洞窟内に受け入れていたようですが、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため、1963年以降から、壁画の外傷と損傷を防ぐため、洞窟は閉鎖されました。現在は壁画修復が進む一方、一日に数名ごとの研究者らに応募させ入場・鑑賞させているだけで、一般には非公開となっています。

このラスコーの壁画に描かれている黒い牛は、「オーロックス」と呼ばれる牛であることがわかっています。これは家畜牛の祖先とされており、体長約2.5~3mほどで、体高は約1.4~1.9m、体重約600~1000kgであり、体色はオスが黒褐色または黒色、メスは褐色です。角があり、これは大きく滑らかで、長さは80cmほどとされています。

およそ200万年前にインド周辺で進化したと考えられており、その後中東に分布を広げ、ヨーロッパに到達したのはおよそ25万年前であるとされています。1万1000年ほど前には、ヨーロッパ・アジア・北アフリカなどの広い範囲に分布するようになり、このラスコーの壁画に描かれたのは、これより4000年ほど古い、1万5000年ほど前のものです。

かつてはユーラシア全体および北アフリカで見られましたが、生息していた各地で開発による生息地の減少や食用などとしての乱獲、家畜化などによって消滅していき、南アジアでは有史時代の比較的早期に姿を消し、また、メソポタミアでもペルシア帝国が成立する時代には絶滅していたと考えられます。

北アフリカでも古代エジプトの終焉と同時期にやはり姿を消し、中世にはすでに現在のフランス・ドイツ・ポーランドなどの森林にしか見られなくなっており、16世紀には各地にオーロックスの禁猟区ができましたが、これは単に諸侯が自らが狩猟する分を確保するために設けたものでしかなく、獲物を獲り尽くすとそれぞれが閉鎖されました。

最後に残ったのはポーランドの首都ワルシャワ近郊のヤクトルフというところにある保護区でしたが、ここでも密猟によってオーロックスの数は減り続け、1620年には最後の1頭となってしまい、その1頭も1627年に死亡が確認され、オーロックスは絶滅しました。

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その後、1920年代より、ドイツのベルリンおよびミュンヘンの動物園において、現存するウシの中からオーロックスに近い特徴をもつものを交配させることによってオーロックスの姿を甦らせる試みがなされました。

このように往年の名種を再生したり、新たに品種を作り出したりすることを「作出」といいますが、オーソロックスの作出は1932年に成功し、その個体の子孫は、現在でもドイツの動物園で飼育・展示されています。

このウシは体形や性質はオリジナルのオーロックスに近いものを持っているといわれますが、体格はいくぶん小柄で、作出に携わった当時の動物園長でドイツ人の動物学者、ルッツ・ヘックの姓を採ってヘック牛(Heck cattle)と呼ばれています。

この例にもみられるように、太古に失われた生物や植物を復活させようという動きは、すでに20世紀初頭からあり、最近ではさらに、世界的にそうした動きが加速するようになってきています。

背景には近年、遺伝子操作の技術開発が急速に進んだことがあり、昨年の3月には、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学が、80年代に死滅したカエルの一種の遺伝物質を親類のカエルの卵細胞に埋め込む実験を行いました。

ただ、実際に胚子にまで発達したものの数日で死んでしまったそうです。また、2009年にも絶滅したヤギの一種のクローンが生まれましたが、生後数分で死亡しています。しかし、学者たちの多くは絶滅種のクローン化のブレークスルーは間近だと予測しています。

カエルであれば、あと1、2年で成功するかもしれないという遺伝子技術の専門家もおり、マンモスの場合でも、20~30年くらい実現できるのではないかといわれているようです。このほか、1930年代に絶滅したタスマニア・タイガー、17世紀に死滅した「飛べない鳥」ドードーなどの再生が研究されており、学者たちの挑戦は続いています。

このように絶滅した種を蘇らせるには、保存状態の良いDNAを摂取できる組織が必要です。だいたい20万年前までのDNAであれば、おそらくは問題なくクローンをつくることが可能だといわれています。が、もしかしたらだけど、これより前に絶滅したとされている恐竜の復活もできるのでは、ジュラシック・パークが実現するのでは、と誰しもが思うでしょう。

しかし、結論からいうと、これはかなり難しいということです。オーストラリアのマードック大学の研究グループは、たとえDNAが残っていて、これを最適な条件下で培養しても、恐竜が絶滅してから現代までの間の10分の1以下の時間で、DNAの結合が壊れてしまうことがわかったと発表しています。

彼等は、現在までに残されているいろんな生物の標本の年代と、これから採取されるDNAの劣化の状態を比べてみて、DNAの半減期はだいたい520年くらいだと割り出したそうで、これは、520年たつと、標本のDNA構造の半分が壊れてしまう、ということです。さらに520年たつと、残りの半分も崩壊します。

たとえ標本を理想的な状態のマイナス5℃で保存しておいたとしても、クローンが残せる効果的な結合は、最大680万年で完全に壊れてしまうと予想されるそうで、従って最後の恐竜が生きていたのは、6500万年前のことであるため、現在使えるDNAはこの世に存在しない、ということになるようです。

生物が死ぬとそのDNAはかなり早く解読不能になってしまうというわけで、520万年はおろか、150万年もたてば、残っているらせん構造が短くなりすぎ、重要な情報を伝達できなくなってしまう、ということもいわれています。

世界中で発見されている化石には、使えるDNAは残されておらず、これからもありえないだろうというのが、これまでの研究からみられる予測であり、恐竜の復元は、現在の科学技術では不可能というのが現実のようです。

が、もしかしたら、ありえない条件下で発見された恐竜の化石に、奇跡的にDNAが残されている可能性があるかも、とついつい思ってしまいます。また、恐竜の末裔ともいえるべき動物たち進化をさかのぼり、そのDNAを利用することで、新たなる道は開けるかもしれない、と思ったりもするのですが、我々が生きているうちにはその実現は難しいでしょう。

ただ、失われた生物の復活は難しいとしても、現在生きている種や、新しく作出された品種のコピーなどであれば、DNAさえあれば、現在の技術を使ってなんでも作れるまで科学は進歩してきています。

いわゆる「クローン」と呼ばれる技術を使えばいいわけであり、この「クローン」という言葉は、同一の起源を持ち、尚かつ均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の「集団」をさします。もとはギリシア語で植物の小枝の集まりを意味することばから来ており、本来の意味は「挿し木」です。

1903年、ハーバート・ウェッバーという学者が、栄養生殖によって増殖した個体集団を指す生物学用語として“clone” という語を考案しました。「栄養生殖」というのは、胚、つまり俗な言い方をすれば「卵」や種子を経由せずに根・茎・葉などの栄養器官から、次の世代の植物が繁殖する無性生殖であり、イモ類や球根で増える植物がその良い例です。

また、地上の浅いところに薄く「茎」をのばして増殖する植物もクローンであり、竹はその好例です。我々が根だと思っている竹の根は実は茎にすぎません。タンポポにも広大な範囲に渡ってクローンを形成する種があり、カビは、体細胞分裂により生殖子を作る無性生殖が広く行なわれており、これも子孫をクローンによって増やしています。

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従って、現在では新しい技術のように思われていますが、もともとこのクローンは自然界にも普通に存在するものです。特定の植物のように、「無性生殖」を行う種は、原則としてクローンを作って増えており、動物においても単細胞生物の細胞分裂は基本的にはクローンによる複製です。

天然にクローンを作る種では、進化により、その環境に応じた適応が生まれ、こうしたことができるようになったと考えられていて、環境条件にもよりますが、こうした種の親は自分のクローンのみを生みさえすれば生殖活動など必要なく、最も効率よく子供を繁殖できることになります。

しかしクローンは、同一種のコピーにすぎないため、伝染病、寄生虫などの単一の要因により大きな被害を受ける可能性があります。これが、クローンのみによる繁殖をする種が少ないことの一因です。

ただ、その弊害をも乗り越えて、自然界に存在するクローンを人為的に行おうとする試みは多数の研究者が行い始めており、これが「クローン技術」といわれているものです。例えば植物についてみれば、古くから農業・園芸で行われている「挿し木」が実はクローン技術です。これはクローンの語源である、とは上でも述べました。

また、遺伝子をクローニングすることは、インシュリンの製造などの過程で行われています。インシュリンは糖尿病などの治療に有効な薬で、当初はヒトインスリンに構造が非常に近いブタやウシのインスリンからヒトインスリンが合成されていました。

しかし、この方法では大量のインシュリンを製造できないため、1970年代の初頭から、ヒトインスリンの遺伝子の情報を、微生物中にあって自らを複製するDNA、「プラスミド」に組み込んで大量培養し、微生物にヒトインスリンを産生させる技術が開発されました。

現在ではインスリンの各アミノ酸配列に対応する遺伝子を化学合成してプラスミドに組み込み、大量にインシュリンを作り出すということが行われており、これも最新の遺伝子工学を応用したクローン技術です。

このように植物や遺伝子レベルでのクローン技術は現在までにも既に実用化されているものは多く、いまや有用物質を生産する上において、不可欠の技術となっています。

ところが植物とは異なり、動物ではプラナリアやヒトデなどのごく一部の例外を除き、分化の進んだ、つまり大人になった体細胞や組織を分離してその細胞を動物個体に成長させることは未だにできていません。これは、細胞分裂を繰り返したことより、こうした分裂化が進みすぎた体細胞には分化機能、すなわちコピーを作る能力が失われているためです。

ただ、分化の進んでいない、つまり分化機能を保ったままの受精卵ではそれが可能です。この受精卵を使った方法で最初に開発された方法は「胚分割法」といいます。受精卵を分割して、それぞれから正常な個体クローンを作成する方法で、この方法による人工的な動物個体のクローンは、ウニにおいて1891年に初めて成功しました。

その後カエルやマウスの実験から核移植法というものが開発されました。クローン元の動物の細胞核を未受精卵に移植することによりクローンを作成する方法で、クローン元の動物の細胞核が、生殖細胞(胚細胞)由来の場合は胚細胞核移植、体細胞由来の場合は体細胞核移植といいます。前者は卵細胞クローン、後者は体細胞クローンともよばれています。

この前者の卵細胞クローン技術を使った、哺乳類のクローンとしては、1995年、イギリスの、エジンバラ大学付属のロスリン研究所が、分化の進んだ胚細胞の核移植に成功し、これを育て上げてメーガンとモラグという2体のヒツジのクローンの作製に成功しました。これによって初めて分化後の胚細胞からのクローン化に道がつけられました。

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卵細胞クローンとは一体どういったものかといえば、これは簡単にいえば、2匹の雌雄を親に持つ双子、3つ子、5つ子といった、多胎児を人工的につくってやることです。

牛や豚などの畜産動物の生産においては、良質の動物を数多く出生させる目的でこの方法が実用化されています。例えば、質の良い雌雄の受精卵をあるていど分裂が進んだ状態にあるとして、この分割数を仮に8個としましょう。そしてこの8個の受精卵を取り出します。

そして、これを核を取り除いた別の卵子に挿入し、別の雌の子宮で育てて、卵細胞クローンを作ります。 結果的には、質の良い遺伝子の雌雄を両親に持っ8つ子が誕生するという仕組みです。

ただし、この方法では、同時に生まれる子供の遺伝情報は同じですが、その遺伝情報は、親である雄と雌の情報を半々に受け継いでいます。つまり、雄親か雌親のどちらかの遺伝子だけを持った完全コピーではないわけであり、一般にイメージされているクローンとは違ったものかと思います。

これに対して、たとえば、ひとつの動物の遺伝情報から、その動物とまったく同じ動物を複製するのが、体細胞クローンです。体細胞クローンでは、まず、親となる成体の細胞を使い、この細胞の核を飢餓状態、つまり栄養を与えないようにし、細胞が分裂しないように停止させます。

その後、核を除去した未受精卵と電気的刺激を与えることにより「細胞融合」を起こさせ、その後「発生」、すなわち受精卵から成体になるよう促すことにより体細胞由来のクローンの胎子を作ることができます。この方法で誕生させ、育てた子供は、雄でも雌でもその片親とほとんどまったく同じ遺伝情報を持つことになります。

この方法でも、クローンを作るためには受精卵が必要です。しかし、方法はどうあれ、両親は必要なく、雌雄どちらかだけの体の一部を切り取って、クローンを作ることができる可能性を示したもので、これはすごいことです。

こうして、1996年7月、上述のロスリン研究所のイアン・ウィルムットとケイス・キャンベルによって、ヒツジの乳腺細胞核の核移植によるクローン、「ドリー」が作られました。これは哺乳類で初めて体細胞から作られたクローンということで、このドリーの衝撃は世界中を覆いました。

が、その後ドリーは2003年2月14日に死亡しました。ヒツジの平均寿命は10年から12年であり、20年生きるものもいることから、これはやはり人工的に作ったために遺伝子の劣化が起こったのではないか、ということが言われているようです。

さらに、1997年には同研究所において、人為的に改変を加えた遺伝子を持つヒツジのクローン2匹が作成され、これはポリーとモリー名付けられました。人為的に改変を加えた遺伝子を持つ動物は、「トランスジェニック」といいますが、これはトランスジェニック動物のクローンとして世界で初めてのものでした。

その後細胞融合による体細胞核移植はさまざまな動物で試されるようになり、1998年にはウシにおいてもクローンが作成されました。ところが、この年さらに体細胞を核を除去した卵子に直接注入することにより、細胞融合を行わずクローン個体を作製する方法が開発されました。

これをホノルル法といいます。前述までの体細胞クローンを作るためには、核を除去した未受精卵と電気的刺激を与えることにより「細胞融合」が必要でしたが、このホノルル法ではその過程を省くことができ、より簡単にクローンを作ることができるようになりました。このため現在、このホノルル法がクローン作成法の標準といわれています。

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この技術を開発したのは実は日本人です。若山照彦という人で、世界で初めてこの方法によってクローンマウスを実現した人物であり、2008年には16年間冷凍保存していたマウスのクローン作成に成功し、絶滅動物復活の可能性を拓きました。

どこかで聞いたことのある名前だと思う人も多いでしょうが、そうです。最近大騒動になっている、STAP論文の共著者でもあります。ちなみに、ホノルル法という名が付けられたのは、彼がハワイ大学に留学していた時代にこの方法の開発に成功したためです。

この細胞融合を必要としない体細胞核移植であるホノルル法によって、現在では、ネコ、ウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ラット、ラクダなど多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されるまでになっています。

ではヒトのクローンは現在存在するのでしょうか。ヒトのクローンは未だ成功していないとする考えが一般的ですが、一部には既に成功例があると噂されています。

アメリカのパナイオティス・ザボスという研究者は、実際に死者のヒトクローン胚も作成したことがあると語っています。10歳のとき交通事故で亡くなった赤ちゃんの血液が冷凍保存されていたものをその母親がこのザボス博士に送り、博士はこれを牛の卵子に融合させ、人間と牛を交配したクローンを造成したといいます。

この人と牛のハイブリッド種は試験管で生成後、クローン生成プロセスの研究に役立てられたといいますが、このときはさすがにザボス博士も動物と交配させてできた「ハイブリッドクローン人間」の創造にまでは踏み込まなかったようです。

ところが、博士は2009年4月、100%ヒトのクローン胚を14個生成し、うち11個を女性4人の子宮に移植したと発表しました。

移植手術に立ち会ったドキュメンタリー監督が英インディペンデント紙に語った証言によると、女性たちはみな人類初のクローンベイビー出産を望む人たちだったそうで、子宮提供者は既婚3名に未婚1名。イギリス、アメリカ、そして中東の出身です。

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無論、ヒト・クローンの作成は多くの国の法律で禁じられています。日本でも「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」が公布されていて、クローン人間の作製に罰則を科し、これを禁じています。

これは英米でも同じであり、このため、博士は米国内2つのクリニック以外に秘密のラボを構え、移植はそこで行ったようです。おそらくクローンが違法化されてない中東のどこかの国ではないかと噂されています。

しかし、このときは移植した胚はどれも妊娠には至らなかったとされており、博士は記者のインタビューに応じ、これは人の細胞からクローンベイビーを生成する研究の“第1章”に過ぎないと語り、さらに「研究を強化すればあと1年か2年で実現できる」と語ったということです。

このときから、現在すでに5年が経っており、その後ザボス医師からの公表はないようですが、既にタブーは破られ、ヒトクローン胚を実際に女性の子宮に移植した結果、クローン人間は既に世界中に存在しているのではないか、という噂が飛び交っているわけです。

先日も、24歳の日本人男性がタイで代理出産により16人もの子供をもうけていたとされる問題が発覚しており、その目的は何かよくわかりませんが、何が何でも子どもが欲しいという人は世界各国にいると思われ、とても噂の範疇では終わらない気がします。

この「クローン人間」が実際に実現している、と仮定しましょう。すると、一般には「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージがありますが、現在の技術水準を考えると、SFのようにまったく同年齢のクローン人間を創るということは不可能であり、いったん誰か女性の子宮を借りた上でコピーを作り、赤ちゃんのときから育てあげる必要があります。

従って、仮にコピーを創ったとしても、誕生した時点ではクローンは赤ん坊であるため、既に大人である細胞の提供者とは年齢のギャップが生じます。このため、当然容姿は似ているでしょうが、本人同士は互いに相手のことをコピーというふうにはあまり思わないかもしれません。

また発生生物学的に考えると、血管のパターン(配置構造)や指紋などは後天的な影響によって形成されることが知られています。従って、コピーといえども、血液パターンや指紋などは遺伝的に異なっている可能性が高く、「生体認証技術」などでもはじかれてしまう可能性があるといいます。

もっともかなり本人には近いはずなので、認証手法によってはシロ、とされてしまう可能性もなきにしもあらずです。ただ、最近の生体認証技術はかなり向上していて、こうした高度な技術を使った認証システムに基づいたセキュリティシステムにおいて、クローン体がこれを突破しようとすることは現実的ではない、といわれているようです。

ヒトのクローンをつくる目的は、このように犯罪への応用が懸念されています。それだけでなく、他にも多くの倫理的な問題を包含しており、例えばコピーしたヒトは、当然意思を持つはずであり、ロボットではないわけですから、その国籍はどうするのか、また人権はどうなるのか、といった色々な問題が出てくるはずです。

が、非常に難しい問題なのでこれに関する議論はカンカンガクガクであり、それに対する十分な答えはいずれの国でもまだ用意されていません。これが現在、日本をはじめ多くの国でクローンをつくることを禁じている理由です。

一方、完全なる個体全身のコピーではなく、その途中経過で発生した幹細胞を利用することで、元の細胞提供者の臓器などを複製し、機能の損なわれた臓器と置き換える、あるいは幹細胞移植による再生医療に使うためのクローン技術の研究もなされています。こちらなら、倫理的にも容認されやすいでしょう。

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しかし、臓器といってもいろいろあり、例えば心臓、また臓器ではありませんが、脳などのように人間が人間であるがゆえの根本機能を司る体の一部の製造には反対する意見も多く、どこまでがクローンなのかといった技術の体系化も含め、世界各国で議論がなされている中で、ともかくヒトクローンを創ることは許されないとする向きが多いのも確かです。

それぞれの国によっていろいろな事情があり、その理由もさまざまあると考えられ、例えば「外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる」といったことや、「優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る」、「独裁者がクローンで影武者を立てる」などといったSF的なものもあるでしょう。

もっとも、生まれてきたクローンにもそれぞれ意思があるはずであり、優秀な人間だけで軍隊や野球チーム、サッカーチームを作るためには、クローン人間に子供のころから強制的に軍人やスポーツ選手の道を歩むよう、し向けない限りは不可能です。それを強制するというのは人権の無視であり、奴隷制度にもつながりかねません。

では、クロマニヨン人やネアンデルタール人等といった、ヒトの祖先を蘇らせるのはどうか、ということになると、人類進化のための研究のため、という観点からは許されそうな気がします。しかしそもそも絶滅した古人類をヒトとして扱うか動物として扱うか、ということになるとなかなか結論が出そうもありません。

ただ、6500万年前に絶滅した恐竜と異なり、人類の歴史はせいぜい10万年程度ですから、マンモスの生体細胞の再生が研究されているのと同じく、人類のDNAの再現は不可能ではありません。アイスマンのような保存状態のよい、古人類の生体が発見されれば、そのクローン化の実現は望まれるかもしれません。

アイスマンとは、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリアの氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラです。ヨーロッパの青銅器時代前期のヒトとされるもので、解凍、解剖され、脳や内臓、骨、血管など149点ものサンプルが採取された結果、ヒトの進化に関する重要な発見もいくつか見出されているといいます。

このように、「自然の産出物」に対する興味から人類は科学を発達させ、生き延びてきたわけであり、このため法学者たちはいくら法規制をしたとしても、研究者やクローンを作ろうとすることは止められないだろうと述べており、また権力者の中にもすくなからず自分のクローンを欲しいと思っている人物も多いに違いありません。

上述のザボス博士の例にもあるように、自国では禁止されているから、他の国で作ろう、という研究者はあまたいると思われ、全世界共通の倫理基準を作るべきだと主張する法学者もいます。

ただ、こうした禁止措置はES細胞、iPS細胞などのような新しい生命科学の発展の障害ともなる可能性があり、両者の考え方の対立がさらに浮き彫りになりつつあるようです。

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一方、宗教的にみると、多くの宗教家はクローン、特に人間のクローンの作成について批判的な見解を持っているようです。

例えば日本の浄土宗は、クローン人間作製を批判する声明を出しています。クローン人間の作成は命への冒涜であり、「人間の優劣・差別、支配・被支配につながるとともに、奴隷人間の生産という修羅道への転落を予告するものである」と主張しています。

また、日本カトリック教会も、クローン人間も絶対的価値と尊厳を有する「人間」であることに変わりはなく、「人間」を作る行為は神によってのみなされるべきものであって人間の手でなすべきことではないと主張しています。

キリスト教ではまた、クローン人間が持つ「男女の営みにおいて誕生し、父と母とのもとで養育される権利」を誰がどうやって保証するのかが明らかになっていない、という点を批判しているようです。

さらに、ヒトのクローンの研究が本当に人類の存続に貢献するかどうかを疑問視する向きもあり、その理由としては、こうした「神の領域」へ踏み込むことによって、予測できない災厄が人類に降りかかる可能性があげられます。

クローン技術によって人工臓器を作って難病に苦しむ人を助け、不妊に苦しむカップルに子孫を残す方法を与えることは、なるほど理にかなっているようにも思えますが、そうした研究の過程において思わぬバイオハザードが起こる可能性もあり、また遺伝子汚染などによって人類が従来とは全く違う異なものになっていくことも考えられるわけです。

医師や研究者のように正しいクローンの知識をもたない者が、誤解から生じた誤った信念に基づきことさらに恐怖心を煽ったり、感情的な判断で世論を誘導したりして、これまで考えられなかったような理由で国際紛争がおこったりする可能もあるわけです。

クローン人間の出現が現実もののとしてあり得るようになったこの時代においては、研究者だけでなく、我々自身もまた今後は、そのあり方についてよくよく考えてみる必要がある段階に入ってきているといえます。

さて、最後に質問です。あなたのとなりにあなたと全く同じ姿をしたあなたがいる、これが現実となったとき、あなたはそのあなたを果たして受け入れられるでしょうか。

私ですか?わたしなら、そんなもの、受け入れたくもありません。こんなできそこないが、世界中をうろつき始めたら、それこそ世界の滅亡も近いことでしょう。

が、せっかくなので、彼と共同で何か面白い事業などをやってみるのもいいかも、とか思ったりもしないではありません。マジックショーなどがいいでしょう。この場所とどこか遠くに二人それぞれいて、これを「瞬間移動」と人に思わせる、なんてのはかなり受けそうだし、いい金儲けができそうです。

もっとも詐欺はいけません。犯罪にも使ってはいけません。が、アリバイを作ろうとすれば簡単にできそうです。

例えば、私のコピーが、私の知らないところで、浮気などをしたら、どうしましょう。万一にでもそれがばれるとタエさんに追い出されてしまいそうです。自分ではないのに……が、少しうらやましいかも……複雑です。

皆さんはいかがでしょう。もし自分のコピーができたら、どう使いますか?

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