雑草という草はない、けれども……

日に日に暖かくなってきました。日中の気温が20度を超えるのもめずらしくなくなり、去年植えた庭木もほとんどが新芽を吹いて、これまで土色一色だった庭がそれだけで明るくなったような気がします。

しかし、新芽と同じくらいに早くも雑草が生い茂るようになり、これを抜く作業だけで一苦労です。今朝も庭に出たところ、どうにもこれが気になったので、小一時間ほどもかけて目立つところだけ草抜きをしました。

それにしても、昨年の今ごろには、まだこの庭も荒れ放題のままで、長年放置されていたためか、萱(かや)が生い茂り放題で、これを抜く作業だけでも汗だくになるほどでした。しかしその後の苦労も実り、今やこうして背丈の低い雑草を定期的に引くだけの作業で済むようになったということは画期的です。

とはいえ、抜かれる雑草のほうもたまったものではありません。せっかく安住の地を得たのに引き抜かれてゴミとして捨てられる彼ら(彼女ら)の身になって考えれば、なんぼのもんじゃい!ということになるでしょう。

かつて、昭和天皇は、「雑草という名前の草は無い」という意味のことをおっしゃったことがあるようで、長い間昭和天皇の侍従長だった入江相政さんという方が、「宮中侍従物語」という本でこのことについて触れられているようです。

それによると、天皇が住まわれていた御座所の庭、これを「広芝」というのだそうですが、この広芝はキジやコジュケイなど野鳥がたくさん飛んできて、天皇もお気に入りだったということです。が、いかんせん広い庭であるだけに、あちこちから草の種が飛んできて夏になるとすぐにボーボーになってしまっていたようです。

ある戦後すぐの夏のこと、天皇皇后、両陛下が夏休みのために那須の御用邸か下田にいらっしゃって、秋口にお帰りになる予定あり、このとき侍従たちは、お帰りになって草がたくさん茂っていたらお見苦しいだろうと、この広芝の草を刈ることにしました。

しかし戦争直後のことでもあって草を刈る人手が足りず、陛下がお帰りになった時に、入江さんが「真に恐れ入りますが、雑草が生い茂っておりまして随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致しますから」とお詫びをしたそうです。

すると陛下は、いつもは侍従たちには穏やかに接しておられるのに、このときはいつになくきつい口調で、「何を言っているんですか。雑草という草はないんですよ。どの草にも名前はあるんです。どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」とおっしゃったというのです。

どんな草にも名前や役割はあり、人間の都合で邪険に扱うような呼び方をすべきではない、ということをおっしゃりたかったようで、これを聞いた入江氏にはこの言葉が強烈な印象として残り、天皇と過ごされたことを書いたこの述懐録にもぜひこれを書きとめておきたいと思ったようです。




昭和天皇は、生物学者としても知られており、とくに海洋生物がお好きだったようですが、植物の研究にも力を注いでいたようです。

1925年(大正14年)には赤坂離宮内に生物学研究室が創設されたほか、1928年(昭和3年)にも皇居内に生物学御研究所が建設され、ここでとくに変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)などの分類学的研究をされていたといいます。

戦前には天皇がこうした「人臭い」研究をしているというのはあまり公表されておらず、その研究成果の多くは戦後発表されたもののようで、ヒドロ虫類についての研究成果は、「裕仁」の名で発表され、7冊もの研究図書が生物学御研究所から刊行されています。

また、このほかの分野についても、専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果がやはり生物学御研究所編図書としてこれまで20冊ほど刊行されているということです。

この昭和天皇の生物学研究についてのレベルがどの程度のものであったかについては、山階鳥類研究所の創設者であり、元皇族の山階芳麿や、鳥類学者で侯爵だった黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の域を出ないという見解がある一方で、「その気になれば学位を取得できた」とする評価もあります。

とはいえ、研究者の中には昭和天皇の研究成果を見て「クラゲの研究者」と呼んでひそかに軽蔑していたという話もあるようです。

しかし、こうした見解を持つ学者はむしろ少数派であり、多くの研究者が昭和天皇自身が直接行った生物学研究の学究的な成果について、高いとはまではいえなくても好意的な評価をしているということです。

ただ一方では、昭和天皇が自ら学者として自然科学分野の研究に没頭されるようになったのは、純粋な個人的興味というよりも、むしろ天皇という「職業」を自然界の秩序における重要な地位と考え、自らの役割を「シャーマン(超自然的存在と交流・交信する呪術者)」と考えていたのではないか、という見解もあるようです。

昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦という方は、生物学研究の上において、昭和天皇は何か独自の堅い「信仰」のようなものを持っていたのではないかと語っています。

その根拠としては、昭和天皇が詠まれた和歌の中に、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うるものがあり、これを「祈る」という表現であらわされたことなどがあります。

かつての「現人神」、現代における「国民の象徴」である天皇が使うような言葉ではなく、こうした禁句とされる語を使っている点は非常に特異なことである、と諫早湾干拓事業に反対するなど干潟の保護活動に努めた自然保護運動家の山下弘文さんなども指摘しているそうです。

自らを国の自然を守るシャーマンと考え、生物学研究にいそしむことそのものが、天皇が行うべき「自然信仰」と考えられていたのかもしれません。

まあしかし、天皇のような国の頂点に君臨されている方々にとっては雑草も大事な研究対象かもしれませんが、我々庶民にとっては、雑草はやはり放っておくと庭を占領してしあう厄介ものには違いありません。

最近は手で草を引くのが面倒な人も増えていることから、化学的な薬品で草を枯らす、いわゆる「除草剤」の販売が増えているそうです。

かくいう我が家でも、昨年は萱の大量発生を防ぐため、この除草剤が大活躍しました。また芝生の間に生えてくる雑草には、これ専用の除草剤があり、芝は枯らさないで雑草だけを枯らしてくれるという優れものもあります。

ところが、最近では、除草剤も効かない「スーパー雑草」が拡大しているということです。

宮城県では田んぼに「オモダカ」という雑草が急速に増え、コメの収穫に影響が出ているそうで、福岡県でも麦畑に数種類の除草剤でも効かない雑草が出現したとか。

雑草の効率的な管理は農家の宿願でもあり、長い間の研究の結果、1980年代に優れた除草剤が次々に登場し、一気に普及しました。ところが同じ除草剤を散布し続けたことで雑草が抵抗性を獲得してしまったらしく、除草剤が効かない現象が日本各地で見られるようになってきているといいます。

日本だけでなく、世界的な傾向のようで、アメリカでは、「グリホサート」という世界的に広く普及している除草剤が効かない雑草が登場して、造園家や農家を悩ませているということです。

このため、更に従来の除草剤を改良して次々と新しい除草剤が開発されてはいるものの、今度はこうして開発した除草剤に耐性を持つよう、農作物の遺伝子組み換えなどが必要となっているそうです。

イタチごっこのように除草剤と農作物の改良が進む中、果たして食の安全を保っていけるのか、雑草とどう向き合っていけばよいのか、というのは、日本だけの問題ではなく、世界的な問題にもなっているようです。

ところで、この雑草、農作物のためだけに悪為を及ぼすものだけでなく、住宅や道路といった構造物にも被害を与えるものなどもあるようです。

「イタドリ」という植物がありますが、これは北海道西部以南の日本、台湾、朝鮮半島、中国に分布する東アジア原産種です。

日本ではごく普通に見られる植物で、茎は中空で多数の節があり、その構造はやや竹に似ています。茎を折るとポコッと音が鳴り、食べると酸味があることから、スカンポと呼ぶ地方もあるようです。確か私の郷里の山口や広島ではカッポンとか、コッポンとか呼んでいたように記憶しています。

ポッキリと手折って、口に入れると淡い酸味はあるのですが、渋くはなく、大量に口にしようとは思いませんが、少量なら食べれるので、私も子供のころにはよく口に入れていました。

また、私自身はやった記憶がないのですが、昔の子供はこのイタドリを使って、「イタドリ水車」という遊びをやっていたようです。切り取った茎の両端に切り込みを入れてしばらく水に晒しておくとたこさんウィンナーのように外側に反るので、この中空の茎に木の枝や割り箸を入れ、川の流れの中に置くと、水車のようにくるくる回るのだとか。

春に芽吹いた種子は地下茎を伸ばし、群落を形成して一気に生長し、路傍や荒地までさまざまな場所に生育でき、肥沃な土地では高さ2メートルほどまでになります。谷間の崖崩れ跡などはよく集まって繁茂しており、その茎は太く強靭で、これは生長の早い地下茎によるところが大きいようです。

この日本原産種ともいえるイタドリですが、実は世界の侵略的外来種ワースト100の一つにも選定されている厄介ものです。

その花は特段綺麗だとも思わないのですが、おそらくその竹のような日本的な姿が気に入られたのでしょう、19世紀に観賞用としてイギリスに輸出されました。日本原産とされたことから、その学名も“Fallopia japonica”と、なっているほどです。

ところが、その旺盛な繁殖力から、ヨーロッパの在来種の植生を脅かす外来種となり、とくに舗装率の高いイギリスでは、コンクリートやアスファルトを突き破るなどの大きな被害が出るようになりました。

イタドリが土地に生えると、建物の土台を強化コンクリートでさえ侵食して、十年後には建築物が何の前兆も無しに崩壊することもあるそうで、大阪ではイタドリがアパートメントを崩壊させた例もあるそうです。

あまりにも被害が多いため、イギリス政府は2010年3月、イタドリの駆除のために、天敵の「イタドリマダラキジラミ」を輸入することを決めたといいます。

このイタドリ、イギリスの有名作家、ジェフリー・アーチャーの「誇りと復讐」という小説(新潮文庫版、2010.6)にも出てきます。

物語のほうは、自動車修理工の主人公の復讐話なのですが、この主人公が若かりし頃、勤めていた修理工場のオーナーの娘にプロポーズして受け入れられ、この女性とその兄と三人でワイン・バーで祝杯を挙げていたところを、弁護士や、俳優、不動産屋、麻薬常習犯の会社員などの「札付き」グループにからまれ、喧嘩になります。

この喧嘩で女性の兄が相手の男らに刺されて死んでしまうのですが、札付きグループの証言によって、主人公は殺人者に仕立て上げられてしまい、その後22年もの懲役刑を喰らいます。

やがて刑期を終えて出所した主人公は、叔父が残していた莫大な遺産を苦労して相続することに成功し、この金を元手に、綿密な計画を練ったうえで、自分をおとしめた4人組に対する復讐を開始します。

やがて主人公は、人を使ってこの札付きグループに2012年のオリンピック開催に備えての自転車競技場用地の取得を持ちかけるのですが、このときその土地にこっそりと、イタドリを植え、これを大繁殖させることによってこの不動産の価値を暴落させ、グループに大打撃を与えることに成功する……

というような話です。

後半は法廷でのやり取りとなり、グループがコテンパンにやっつけられるところなどは大いに溜飲も下がり、久々に読み終わってスカッとする小説でした。さしずめ、現代版の「モンテ・クリスト伯」と言ったところで、ストーリーも良く練られています。興味のある方は一度読んでみてください。読み始めると止まらないと思います。

このジェフリー・アーチャーですが、事業家として成功し順風満帆だったにもかかわらず、ある時国際的な株式投資の詐欺に引っかかって全財産を失い、破産宣告を受けます。

このときには、英国議会史上最年少で下院議員にも当選したばかりでしたが、その職も辞さざるをえなくなります。1974年のことでした。このときの怒りと体験をバネに彼はデビュー作「百万ドルを取り返せ!」を書き上げるのですが、これが大当たりし、アーチャーは一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たします。

その後、本人が「サーガ」と呼ぶ年代記風の物語のほか、エンターテインメント色の強いミステリを手がけ、また短編集なども出版するなど多彩な才能をみせつつ、一流作家の道を突き進みます。一方では、政治への情熱も失ってはおらず、やがて政界に復帰し、ついにはサッチャー政権の要職まで努めるようになります。

ところが、1986年、保守党の副幹事長職にあったアーチャーに、突如、彼がコールガールと性交渉を持ったと言うスキャンダルが持ち上がります。ちょうどイギリスでは、総選挙を翌年に控えていた頃で、選挙への悪影響を案じた彼は副幹事長の職を自ら辞し、と同時にスキャンダルを報じた新聞社を名誉毀損で訴えます。

この裁判において、アーチャーは勝訴し、これによって彼は莫大な損害賠償金を手に入れます。そして、しぶとくも再び政治の世界への復活をめざして活動を再開し、1999年にはロンドン市長選の保守党候補に選ばれるまでになります。

ところが、こともあろうことか彼の長年にわたる旧友が、先のコールガール事件の名誉棄損裁判において偽証することを頼まれた、と突然地元有力紙に暴露します。

事実の是非は今も不明ということであり、何かしらの陰謀があったのではないかという憶測も当然のことながら飛び交いましたが、ともあれこの暴露記事によってアーチャーは政界への復帰を断念せざるをえなくなり、市長選への立候補も取り下げます。

ところが問題はこれだけでは終わらず、このときアーチャーは十数件の容疑で逮捕され、7週間に及ぶ裁判の結果、2001年、司法妨害と偽証罪で実刑が確定してしまいます。

こうして刑務所に収監されることになったアーチャーは、これからおよそ2年もの間に、5つもの刑務所を転々としていくことになるのです。

ところが、七転び八起きというのは、本当にこのアーチャー氏のためにある言葉のようであり、彼は再び復活を果たします。まず彼は刑務所内での生活を克明に綴った獄中記を執筆し、これを新聞に連載します。

さらには出所後も、服役者達から問わず語りで聞いた身の上話やら、彼らが犯した犯罪の模様を小説化し、「プリズン・ストーリーズ」というタイトルで出版したところ、これが大ヒットします。

そして、その復帰第二作目が、先ほどのイタドリの話が出てくる「誇りと復讐」であり、この小説の主人公が刑務所に収監されている間の話も、彼のベルマーシュ刑務所での体験をほぼ忠実に再現したものだといいます。

まるで小説を地でいっているような人生であり、これが事実であるということが信じられないほど「奇なる」生涯です。

1940年生まれということなので、今年でもう73才。さすがに政界への復帰というのはもうないようですが、執筆活動は相変わらず精力的に進めており、日本語訳され出版されたものの中で最新作は、「遥かなる未踏峰」というタイトルです。

その内容は、登山家として有名なジョージ・マロニーのことを書いたもので、アーチャーとしては初めての「山岳小説」ということで話題を集めたようです。

実在の人物を描いたフィクションということで、これまでのミステリー調の作風とは違ったまた別の世界へのチャレンジをしたものであり、私も大いに興味がわくところです。今度の連休にでも買って読んでみようかなと思ったりしています。

さて、本日は大天気もよさげということであり、これからさらに庭の草引きを続けるか、出かけるか悩ましいところです。聞くところによると御殿場の富士霊園のサクラがほぼ満開ということで、触手が非常に動くのですが、どうしましょう。

これからはまだ八重桜も見ごろです。どこが名所だかまだ調べていませんが、この富士霊園か八重桜をもって今年のサクラはほぼ終わりでしょう。その先には長い夏が待っています。が、それまでに庭の雑草をみんな抜いてしまわねば……

雑草という名の草はない……しかれども、名があろうがなかろうが邪魔なものは邪魔…………字余り……でした。

泥酔への道

季節はずれの爆弾低気圧が足早に過ぎ去り、今朝の伊豆地方は朝から陽射しが出てきました。天気予報では午前中曇りで晴れ間が出るのは午後からということでしたが、どうやらこのまま好天に向かうようです。

その降り注ぐ朝の陽射しの中で今朝新聞を読んでいたら、郷里の山口の「川棚温泉」の話題が掲載されていました。

下関市街から北に約25km、山口県の西北端の海岸近くに位置する温泉街で、私自身は宿泊はしたことはないのですが、すぐ近くの角島に頻繁に海水浴に行っていたので、街中を何度も通過したことがあります。

この温泉街、長閑な雰囲気で、細い沿道に沿って何軒かの和風旅館や温泉ホテルが軒を並べており、一応、山口県を代表する温泉の一つとされているようです。

「下関の奥座敷」などともいわれているようですが、その名の通り辺鄙なところではあるので、下関市民はともかく、山口市や防府、岩国などの県中央・東部の人はあまり行く機会も多くないでしょう。

とはいえ、ここへは、山口市内からでも2時間くらいで行ってしまうのではないでしょうか。山口は全国でも一二を争うほど道路舗装率の高いところで、かなり山あいに入った過疎地ですら、ちゃんとした舗装道路があります。

一説によれば、これは8人もの総理大臣を出した賜物ということなのですが、その真偽はともかく、この道路事情の良さのため、たとえ高速道路を使わなくても県内のどこにでも驚くほど短時間で行けます。

山口市内からは、おそらくは80kmはあるはずですが、東京ならその半分の距離の八王子~新宿間でも下手をすれば3時間かかっても辿りつけないでしょう。

この川棚温泉の名物として有名なのが、温泉街の旅館や料亭で提供している「瓦そば」です。今朝読んだ新聞のコラムは、この瓦そばの特集をしていたのですが、最近、テレビのバラエティ番組などでも紹介されているので知っている人もいるかもしれません。

とはいえ、知らない人には熱した瓦の上で茶そばを焼く、というちょっと聞いただけで、エッツ!?と聞き返したくなるような食べ物です。

この瓦そば、西南戦争のときに、薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたことに由来しているということです。この話に参考にして、昭和30年代に温泉街の人が「開発した」そうで、いまや山口県内どこへ行っても蒸した茶そばとつゆのセットがスーパーマーケットなどで売られています。

本来は、この蒸した茶そばを本物の熱した瓦の上で焼くわけですが、無論、家庭では瓦に載せることはできませんから、ホットプレートやフライパンが用いられます。

食べ方としては、まずはこの茹でた茶そばを鉄板などで炒めます。この「炒める」というのも、焼きそばのようにフリップしながら炒めるのではなく、どちらかというと焦げ目がつくように鉄板に押し付けて焼き付ける感じで火を入れるのがコツです。また、このとき、甘辛い味を付けた細切れの牛肉も一緒に焼いておきます。

そして、本来ならば、別途熱してあった瓦の上に茶そばをのせるのですが、一般家庭では熱した鉄板またはフライパンでもかまいません。これに焼いたそばを形よく盛りつけ、その上から薬味として刻み小ねぎとのりを振りかけます。またこれとは別に、スライスしたレモン、もみじおろしをトッピングとして用意します。

そして、別途焼いてあった細切りの牛未来と錦糸卵を、この茶そば+トッピングと一緒にめんつゆにつけて食べるのですが、ここで注意が必要なのは、このめんつゆは、温めておくことです。まれに冷たいつゆにつけて食べる人がいますが、これは邪道です。

具を一緒に温かいめんつゆにつけて食べるというのが正道であり、また、つゆには薄切りにしたレモンを入れ、好みに応じてもみじおろしを加えていただきます。

家庭で調理する際は、焼き肉などをやるときに、みんなが食べる分の茶そばを一緒にホットプレートで炒めて食せば良いでしょう。しかし川棚温泉などで、本物の瓦で供される店では、瓦1枚の上に2~3人前が盛りつけられて出てきます。

で、そのお味はというと、これが意外においしいのです。ミソはやはり、蒸したそばを焦げ目をつけて焼く、というところで、これは通常のそばであっても良いのかもしれませんが、やはり茶そばのほうがおいしいように思います。

そして、暖かいおつゆと、一緒に食べる錦糸卵、牛肉もまたポイントです。この甘辛いお肉と茶そばの取り合わせがことのほか良いので、みなさんもぜひ試してみてください。山口市内でも提供しているお店は多いので、もし川棚温泉まで行く時間がない人でも食べることができます。山口へ行かれる際にはぜひ試してもらいたい一食です。

この川棚温泉ですが、その歴史は古く、約800年前には既に温泉が発見されていたと伝えられています。あるときこの地に大地震が起こり、その際に温泉が噴出したのが起源だそうです。

伝説によるとこの辺りにはその昔、大沢沼という大きな沼があり、青色の龍が棲んでいたそうです。ところがこの温泉の噴出によって沼が煮えたぎり、かわいそうにこの青龍は死んでしまったとか。これにちなんで「青龍権現」とも呼ばれる松五神社という神社が温泉街の一角にあり、地元の人から守護神として崇められています。

江戸時代には長州藩の御前湯として、毛利氏の御殿湯も作られた経歴もあるそうですが、のちの世にも、漂泊の詩人として有名な、種田山頭火がこの川棚温泉を至極気に入り、老後を過ごす庵を組むつもりでいたといわれています。

この山頭火の名前は、いろんなブランド名に冠されていて知っている人も多いでしょう。おそらく一番多いのが酒類で、そのほかにはラーメンチェーン店の名前にもなっています。

大正・昭和の俳人で、従来の五・七・五や季語といった約束事を無視し、自分自身が感じたリズムで「自由律俳句」を詠んだことで有名です。

種田は本名ですが、名は本当は、正一といい、1882年(明治15年)12月3日、山口県防府の大地主の家に生まれました。お父さんは、村の助役を務めていましたが、芸者遊びが大好きで妾を持ち、これに苦しめられた奥さんは、山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げて自殺しています。

井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったそうですが、彼は大人たちの足の間から、井戸から引き上げられた母の遺体を目撃し、心に深い傷を負います。

成績優秀だったようで旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)を首席で卒業したあと、早稲田に入学。しかし、子供のころからセンシティブな神経の持ち主だったため、22歳で神経症の為に中退して山口に帰郷しています。

この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、父は立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、酒造業を開始しますが、山頭火もこれを手伝うようになります。

やがて、27歳で結婚、子を持ちますが、このころから10代中頃から親しんでいた俳句を本格的に勉強するようになり、28歳から「山頭火」として、翻訳、評論など文芸活動を開始するようになります。

1911年(明治44年)、31才の山頭火は、荻原井泉水(せいせんすい)の主宰する自由律俳誌「層雲」に寄稿するようになり、これが縁で1913年(大正2年)井泉水の門下となります。そして三年後の1916年(大正5年)には、「層雲」の選者になるまで俳諧の腕を上げます。

ところが、酒造業を営んでいた父の商売がうまくいかず、酒蔵の酒が腐敗して2年続きで酒造りに失敗するなどした結果、「種田酒造場」は倒産。父は家出し、ただ一人の弟も行方しれずとなり一家は離散してしまいます。

一人借金取りの対応に当たっていた山頭火も耐え切れなくなり、夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡ります。そして、熊本市内で古書店を開業しますがこれもなかなかうまくいきません。このころ蓄電していた弟も熊本へやってきて一緒にすむようになっていましたが、この弟も山頭火が抱えた借金を苦にして自殺。山頭火36才のときのことでした。

母に次いでたった一人の弟までも失った山頭火は、失意の中、職を求めて単身上京することに決め、東京で図書館員の職をみつけて、ここに通うようになります。

ところが、今度は、熊本に残していた妻から突然、離婚状が届きます。図書館員の給料は乏しく自らの生活もままならぬ中、酒におぼれ、妻子への仕送りも滞っていたためでした。40歳になっていた山頭火は、こうした不幸の連鎖によって神経症を再発し、このため図書館からも退職を余儀なくされます。

さらに悪いことは続き、翌1923年(大正12年)に関東大震災で焼け出された山頭火は、熊本へ戻ります。が、行場もなかったことから、元妻のもとへ行って泣きつき、ここで居候となります。

しかし、あいかわらず酒癖の悪さは直っておらず、熊本市内の酒屋で泥酔して路上にさまよい出た山頭火は、こともあろうに市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こしてしまいます。

一説によれば、この行為は生活苦による自殺未遂と言われていますが、急停止した市電の中で転倒した乗客たちが怒って彼を取り囲み、リンチに及ぼうとします。ところが、たまたまこの現場に居合わせた一人の新聞記者が彼を救い、市内にある禅寺まで彼を連れて行きました。

このお寺は、曹洞宗の報恩寺といい、山頭火は翌年、このことが縁でここで出家し、その名も「耕畝(こうほ)」と名乗るようになりました。

そして、報恩時とも縁が深かった熊本郊外の「味取(みとり)観音堂」と呼ばれる小さなお堂の堂守となります。43歳のときのことです。

しかし、堂守になったからといって生活が保障されたわけではなく、山頭火は生きる為に熊本市内で托鉢をして日銭を稼ぐようになります。

托鉢を始めるようになって1年余が経った1926年(昭和元年)の4月、かつて荻原井泉水の元で同門だった、漂泊の俳人尾崎放哉(ほうさい)が41歳の若さで死去。山頭火は3歳年下のこの元同僚の作品世界に共感し、これまで疎遠になっていた句作への思いが一気に高まります。

尾崎放哉は、山頭火とそれほど親しい間柄というほどではなかったようです。東京帝大法科を出、東洋生命に就職して出世し、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然それまでの生活を捨て、無所有を信条とする宗教集団「一燈園」に身を寄せ、俳句三昧の生活に入ります。

その後寺男などで糊口をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送りますが、山頭火にはこの放哉の生き方こそ自分の生き方だと共感する何かをその生涯から感じ取ったのでしょう。

放哉もまた、山頭火と同様、くせのある性格であったといい、周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称されました。しかし、その自由で力強い句は後年、高い評価を得、山頭火とともに昭和を代表する漂白の歌人とまで称されるようになりました。

こうして放哉に魅せられた山頭火は、法衣と笠そして鉄鉢だけを持って、熊本を出て西日本各地へと向かいます。この後、あしかけ7年にもおよぶことになる行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅に出ることになるのですが、この漂白の旅の中で数多くの名歌が生まれていくことになります。

山頭火が最初に向かったのは宮崎であり、九州山地を進む山頭火は、旅始めの興奮をこう詠んでいます。

分け入っても分け入っても青い山

続いて大分に入ったあと、中国地方を行乞し、四国八十八ヶ所を巡礼。そして尾崎放哉の最後の地となった小豆島に向かい、その墓も訪れています。

やがてこの流浪の旅もまたたくまに7年が過ぎ、1930年(昭和5年)、48歳になった山頭火は、思うところがあって、それまで克明につけていた過去の日記を全て燃やしてしまいます。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか
こころ疲れて山が海が美しすぎる

このころ山頭火が詠んだ俳句です。それまでの荒れ果てた自分の生涯を思い返し、何やらひとつの境地に達したのでしょう。

その2年後の1932年(昭和7年)、50歳を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となります。そして句友の援助を受けて山口県小郡(おごおり、現山口市)の小さな草庵に入り、ここを「其中庵(ごちゅうあん)」と命名します。

この其中庵は、新幹線駅のある新山口駅(旧小郡駅)の北口より徒歩20分の山裾の小高い場所にあり、現在は其中庵公園として整備され、20年ほど前にこの当時の其中庵の建物が復元されました。

実は私は行ったことがないのですが、写真を見る限りは、二間ほどしかない小さなひなびた庵であり、漂白の歌人のすみかとしてはぴったりというかんじです。

山口市内にある湯田温泉にも比較的近く、とはいえ、歩いて行くには少々あるので小郡の駅から電車に乗って6駅先のこの温泉に山頭火もしばしば通ったことでしょう。

郷里の防府にも近く、この地を気に入ったのか山頭火は、その後ここに7年間も住んでいます。深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていたようですが、やがて高名な俳人であることが知れ渡ると、其中庵には多くの句友が集まってきたといい、近所の住人たちも、次第に彼への接し方が温かくなっていったそうです。

この頃すでに山頭火の名は多くの俳人に知れ渡るほど高名であり、この年、出家からこれまで九州、四国、中国地方を歩き続けた日々に詠んだ歌をまとめた初めての句集「鉢の子」が刊行されるまでになっていました。山頭火のこれまでの苦難の魂の遍歴がここに初めて文字として刻まれたのです。

其中庵に入って二年後の、1934年(昭和9年)、山頭火は、江戸後期の俳人、井上井月(せいげつ)の墓参を思い立ち、信州に向かいます。井月は元長岡藩士で、武士を捨て放浪俳人となったため、江戸時代には乞食井月とまで呼ばれていましたが、その生き様には相通ずるものがあったのでしょう。

ところが、信州に入ったところで山頭火は、急性の肺炎にかかってしまい、緊急入院することになったため、ついに墓参は果たすことなく、山口に帰っています。

この頃の日記には、「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記しています。

このころ、ようやく自分の思うような人生を送っているという実感が得られるような心境になっていたのでしょう。1935年(昭和10年)には、第三の句集も刊行し、その俳句人生は頂点に達したかにみえました。

ところが、この第三の句集を発刊してから、およそ半年後の8月、山頭火は突如、睡眠薬を多量に飲みこんで、自殺未遂を起こします。しかし、眠ってる間に自然に体が拒絶反応したらしく、薬を吐き出し、一命は取り留めました。

この年の年末の日記には、「この一年間に私は十年老いたことを感じる。老いてますます惑いの多いことを感じないではいられない。かえりみて心の脆弱(ぜいじゃく)、句の貧困を恥じ入るばかりである」とあり、俳人としての充実とは裏腹に次第に「老い」がその心を蝕んできていたことがわかります。

しかしその弱くなった心を振り切るように、その翌年には、第四句集「雑草風景」を発刊し、関西、東京、新潟、山形、仙台まで出かけており、さらには岩手平泉まで旅をし、ここで「ここまで来し水飲んで去る」とだけ詠んでいます。

しかし、旅を終えて山口に帰ると、無常の思いが募るのか、無銭飲食のうえ泥酔して警察署に5日間留置されています。

このころ、第五句集の「柿の葉」が発刊されていますが、この中で自分が作った句に対して「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど」と書き、「こうした私の心境は解ってもらえると信じている」と書くなど、自分の句に対する自信のゆらぎのようなものが頻繁に見られるようになってきました。

1938年(昭和13年)、其中庵は、積年の風雪によってかなり朽ち果て、壁も崩れてきたため、山頭火は新しい庵を探しはじめ、やがて山口市中心街にほど近い湯田温泉に、四畳一間を借り、ここを「風来居」と名付けて住むようになりました。引越しにあたっては、友人たちがリヤカーで小郡から湯田までおよそ12キロの道のりを荷物を運んでくれたといいます。

この翌年の春先には、近畿から木曽路を旅し、6年前に肺炎で墓参できなかった井上井月の墓に巡礼を果たします。その墓前では、井月の墓を撫でさすりつつ、「はるばるまいりました」と語っていたといいます。

この年の10月、山頭火は再び小豆島に渡って尾崎放哉の墓参をしており、その足で向かった松山で終の棲家となる「一草庵」を見つけます。山頭火はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだといい、尾崎放哉の墓参も、「死に場所を求めて」の旅の途中だったといいます。

こうして山頭火は、松山の一草庵に住まうようになり、ここで、1940年(昭和15年)、山頭火を慕う句友たちとともに「柿の会」を結成。翌月の日記に「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と書いています。一時は揺らいでいた俳句への自信がまた戻ってきたのかもしれません。

この年、それまでの俳句人生の「総決算」として「草木塔」を刊行。第一句集からの全ての句より自選して収めています。そしてかつて中国や九州地方で世話になった友人たちにこの「草木塔」を献呈する旅に出て2ヶ月後に一草庵に帰着。

この年の10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいていました。仲間は酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき山頭火は実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆は山頭火を起こさないよう音も立てずに静かに帰りましたが、そのうちの一人が虫の知らせを感じたのか早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。

亡くなったのは朝方の4時ごろだったと思われ、本人がかねてより願っていたとおりの「コロリ往生」でした。享年57歳。日本がその後太平洋戦争に突入していくことになる前年の昭和15年のことでした。

山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し、この世を去っていきました。その最晩年の日記に、「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」と書いています。

辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」であったそうで、これは夏の空に盛り上がる入道雲を詠んだものでしょうか。山の上に湧き上がるその白い雲の中へ、自らも溶け込んでいきたかったのかもしれません。

生前、「前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」とも書いており、この「生活を前書きにした」というまるで法則を無視し、人を食ったような彼の句は、その死後大いに人気を博すようになります。

その人気は近年加速しているようにも思え、70年代前半は17ヶ所にすぎなかった句碑が、90年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているといいます。山口市内だけでも句碑が80有余もあるそうです。

山頭火のお墓は、小郡のすぐ隣にある防府市の護国寺にあります。母フサと並んで眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。また、元妻が住んだ熊本市・安国禅寺にも分骨墓があるそうで、現在、防府市の護国寺の本堂では自筆句や愛用品が無料公開されているといいます。

山頭火は、生涯を通じで酒好きで有名でしたが、その酒豪ぶりはそこ恐ろしいものだったらしく、本人が語ったという「泥酔への過程」は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であったといいます。

最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だったともいい、酒は俳句を作るためには必要不可欠なものだと考えていたようで、「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」とまで語っています。

ちなみに、山頭火という俳号は、中国古来からの占いである「六十干支」から来ています。木・火・土・金・水の五行を30に分類したもので、これを納音(なっちん)と呼び、それぞれの生まれ年にあてはめて人の運命を判断します。

「山頭火」の場合、これは「甲戌・乙亥」の年に生まれた人の納音になりますが、実際に山頭火が生まれたのは別の年であり、山頭火がこれを選んだのは、音の響きがよかったためのようです。

ちなみに、山頭火の師匠の荻原井泉水の「井泉水(せいせんすい)」も納音であり、これは甲申・乙酉生まれの人のものですが、無論、荻原井泉水の生まれもこの年ではありません。

同じ自由律俳句の代表として、この井泉水門下の尾崎放哉と山頭火はともに酒癖によって身を持ち崩したところは良く似ています。

しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」であるとは良くいわれるようです。

同じ酒によっても形づくられる句が違う…… 何やら人生訓のような気もします。人と似たような人生を送っていても、それはやはり自分のための人生であって、そこから得られるものは自分だけのものであり、他人が得たものとはやはりどこか違う……

……と無理やり結論づけて、今日の項は終わりにすることにしましょう。

さて、あなたのサケは動の酒でしょうか、静の酒でしょうか。

私の場合は…… ドウでしょう……

ツバメと雷鳥

昨日今日と、先日までの悪天候がウソのように晴れ渡っています。

週のはじめに発達した低気圧がもたらした雨は、富士の頂きでは雪になったとみえ、先週までは、ずいぶんと化粧が落ちたなというかんじだったのですが、再び真っ白なコートをまとったような冬の富士山に逆戻りしました。

その寒々しい眺めとは裏腹に、目の前にみえる桜の木はすっかり花びらを散らし、これを補うように新しい葉っぱ吹き出ていて、春の到来を感じさせます。

先日には、今年初めてのツバメを見ました。窓の外の電線に止まっていたのですが、このときは一匹だけで、他のお仲間はいない様子。多くは集団生活を送るようですから、ほかにもお友達がいっぱいいるに違いありません。

ツバメの主な越冬地は台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島、オーストラリアなどだそうですから、こうした南の国から戻って来たのでしょう。暖かい地方では3月中旬ぐらいには戻ってきているということですから、私が視認したのが少々遅かったのかも。

あるいは暖かい伊豆南部で越冬した、「越冬ツバメ」かもしれません。越冬ツバメは主に中日本から西日本各地でみられるそうで、その多くは集団で民家内や軒下などをネグラにして冬を過ごすのだとか。

そういえば、以前もツバメについてのブログを書いたような、と思い出したので、過去のアーカイブをみると……ありました、ありました。去年の8月22日に「ツバメが低くく飛ぶと……」のタイトルで色々ツバメに関することを書いています。

8月のころには、このあたりには大量のツバメが飛び回っていたと記憶しています。なので、先日南洋から帰ってきたツバメたちは、これから繁殖活動に入り、卵を産んだあと、その子達が育って7~8月にはこのあたりを飛びまわるようになるのでしょう。

ところで、ツバメというと、なぜか年増の女性が囲った若い愛人のことをさすようです。が、そもそもの由来はなんなんだろう、と疑問に思ったので調べてみました。

すると、年下の恋人をつばめと呼ぶのは、作家の平塚らいてう(雷鳥)あてにその若い恋人が書いた別れの手紙の一節から来たようです。

「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

というのがそれです。この時代にはまだ、女性が5歳も年下の男性と一緒になるというのはあまり一般的ではなく、とくに法律で禁じられていたわけでもないでしょうが、世間体としてはあまり評判の良くないことでした。

このため、二人の関係が公になるにつれ、女性解放を謳う平塚らいてうの運動に参加していた者の間でこれが騒ぎとなり、このため奥村のほうが身を引く決心をし、らいてうと決別するために送った手紙のようです。

結果的には、この二人の関係は続き、その後、間に子供を設けるまでになるのですが、らいてうがこの手紙を女性のための月刊誌、「青鞜(せいとう)」上で発表したことで、女性たちの間では、なんてロマンティックなのでしょう!と人気を博し、その後「ツバメ」は若い愛人を指すことばとして流行するようになっていったようです。

この平塚らいてうさんってどんなお顔だったのかなと思って調べてみたところ、若いころにはかなりのべっぴんさんだったようです。何年か前に亡くなった、ザードの坂井泉水さんと少し似ているような気もします。

本名は、平塚明(ひらつかはる)だそうで、1886年(明治19年)2月10日に産まれ、1971年(昭和46年)に85才で亡くなっています。この当時としては結構長寿になるでしょうか。

思想家で評論家、作家・フェミニスト、戦前と戦後にわたる女性解放運動・婦人運動の指導者、なのだそうで、元祖ウーマンリブの教祖様といったところです。

とくに、大正から昭和にかけての婦人参政権運動で活躍した人ですが、日本が太平洋戦争へと突入していく中では女性解放はなかなか具現化できず、戦後、連合国軍の占領政策実施機関GHQ主導による改革がなされるようになってからの活躍のほうが有名のようです。

その生涯にわたって婦人運動、反戦・平和運動を強く推進し、1911年(明治44年)9月に発刊された、雑誌「青鞜」に平塚が寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉として、世の女性のこころを広く捕えました。

若き頃

お父さんの平塚定二郎は紀州藩士の出で明治政府の会計検査院に勤める高級官吏だったそうで、のちに一高の講師も務めており、お母さんのほうも徳川御三卿のひとつ田安家の奥医師の出ということで、つまりは、いいところのお嬢さんだったようです。

東京府麹町で3人姉妹の末娘として生まれましたが、幼少時は生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だったといいます。

お父さんは明治政府の官僚として欧米視察に派遣されるような俊英だったらしく、この父の影響で、らいてうもハイカラで自由な環境で育ったといいます。しかし、何があったのかよくわかりませんが、その後は欧米的な家風を捨て去り、娘たちに国粋主義的な家庭教育を施すようになります。

このため、らいてうも小学校高等科を卒業すると、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごすことになります。ただし、テニス部で活躍したり、修身の授業をサボる「海賊組」を組織するなどそれなりに楽しんでいたといいます。

しかし、厳しい校則のあるお堅い学校であることには変わらず、そうした学校に無理やり入学を強いた父親に反発し、このころから既に、その後男性から女性を解放するための運動に走るらいてうの下地ができはじめていたに違いありません。

17才で大学に入る際、らいてうは生まれて初めて父親の意向に反した行動に出ます。父が「女子には女学校以上の学問は必要ない」というのを押し切って、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針の日本女子大学校家政学部に入学したのです。日本女子大学といえば、いわゆる「ポン女」です。

しかし、日露戦争が勃発すると、徐々にこのポン女も、国家主義的教育の度合いが強くなり、幻滅したらいてうはこの頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭するようになります。

大学3年のときに禅の存在を知り、日暮里にある禅道場「両忘庵」に通い始めるようになり、公案修行では見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっています。

このあたり、明治以降に形成された、近代的・欧米的な国家主義ではなく、むしろ古き良き時代の日本の中に自分を見出そうとしたところに、その後のらいてうの本質があるような気がします。

せっかく父の反対を押し切ってまで入った大学が、父の標榜する国粋主義に近い校風に変わっていくのを見て、それに反発したい気持ちもあったのかもしれません。

とはいえ、中退などもせず20才で日本女子大学校を卒業。さらに両忘庵で禅の修行を続けながら、次のステップをめざして二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学びはじめ、成美女子英語学校にも通うようになります。

この成美女子英語学校での勉強が、らいてうにとってはひとつの大きな転機になります。テキストとして使われたゲーテの「若きウェルテルの悩み」で初めて文学に触れ、文学に目覚めることになったからです。

やがてらいてうは、東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と夏目漱石の門下生の一人でもあった5才年上の作家、森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになります。

生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げるようになり、これを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になっていきます。

1908年(明治41年)2月。22才のらいてうは、森田と初めてのデートをします。ところが、翌月の3月に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという、塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を引き起こしてしまいます。

心中事件ではないかということで、新聞はある事ない事を面白く書き立て、らいてうの顔写真まで掲載したため、二人の行動は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、このため日本女子大学校に至ってはその同窓会である桜楓会の名簿から「平塚明」の名を抹消してしまいました。

このころから、らいてうは才色兼備ながらもスキャンダラスな女性ということで社会の注目を浴びていくようになります。

文芸誌「青鞜」

しかし、当の本人のらいてうは、この事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていきます。ちょうどこの頃、生田長江の強いすすめがあり、日本で最初の女性による女性のための文芸誌「青鞜」を立ち上げます。

そのための資金は母からの援助だったということで、しかも「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したものだったといい、お母さんはこの娘の大きな理解者の一人だったのでしょう。

青鞜社の運営にあたっては、らいてうはその企画を同窓生や同年代の女性に任せ、自身は主にプロデュース(製作)をする側に回ります。こうした点をみると、一般には女性解放運動におけるリーダーと目されることの多いらいてうですが、自身はむしろ表には出ず、現場での地道な作業を好む控えめな性格でもあったことがみてとれます。

この「青鞜」の表紙を描いたのは、後年「智恵子抄」で有名になった高村光太郎の妻になる、長沼智恵でした。また、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せるなど、「青鞜」の創刊にあたってはこの当時の俊英女史の多くがその力を寄せています。

らいてうはそれなりのお嬢さまであり、そのための人脈も厚く、こうしたコネを駆使して有名人に青鞜への参加を呼びかけ、かつ自分が担当した製作の現場に活用したのでしょう。

らいてう自身も、前述の「元始女性は太陽であつた……」に始まる「青鞜発刊に際して」という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて明ではなく、「らいてう」という筆名を用いています。

「青鞜」創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され、女性の読者からは手紙が殺到するほどの人気を博しました。が、一方の男性側からの反応は冷たく、新聞には冷たい視線から青鞜社を揶揄する記事が掲載され、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだったといいます。

一方では、読売新聞が連載を開始した「新しい女」では、このころの女性歌人・作家としてはおそらく一番人気のあった与謝野晶子のパリ行きを取り上げ、この見送りに訪れたらいてうと与謝野晶子との面会の様子を書いており、この中で二人を「新しい時代の女」として持ち上げています。

また、「中央公論」における「与謝野晶子特集号」でも、森鴎外が「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ」と評するなど、このころ既に文壇では、次の世代を担う若手作家として、らいてうの名が頻繁に取沙汰されるとともに、青鞜社の名も世に知れ渡っていきました。

ところが、このころはまだ女性の飲酒が大っぴらには認められていないような時代にあって、青鞜社に出入りする女性たちがバーで酒を飲んだことが表に出ます。そしてこれをマスコミが嗅ぎ付け、「青鞜の新しい女は、女のくせに五色の酒を飲んでいる」と批判するという、「五色の酒事件」が起こります。

また、らいてう自身も青鞜社の同僚の女性三人と吉原に登楼したことなども報じられ、これが「吉原登楼事件」として世に知られるようになると、「女性のくせに」世情を乱す行為をしている、ということで、青鞜社の主唱者であるらいてうに一気に批判が集まるようになります。

ところが、らいてうはこうした報道もさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と青鞜の編集後記に自ら記すなど、逆に社会を挑発するほどの余裕だったといいます。

これら一連の事件や言動をみると、文芸誌の製作現場で才能を発揮するという繊細な一面をもちながらも、女性としてはかなり肝の据わった人物であったとも見受けられ、新聞での大々的な報道ともあいまって、やがて、らいてうには「新しい女」というレッテルがついてまわるようになっていきます。

こうした評価を受けたらいてう自身は、まるでそのレッテルを鼓舞するかのようにさらにその活動を活発化させていきます。

1913年(大正2年)の「中央公論」の1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載。また同年の「青鞜」の全ての号には、付録として婦人問題の特集が必ず組み込込まれるようになり、青鞜社の同僚たちに女性問題の記事を積極的に書かせています。

しかし「青鞜」の1913年2月号の付録で同僚の福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書くと、これが政府の目にとまり、「安寧秩序を害すもの」として青鞜は発禁に処せられてしまいます。

これ以前にもらいてうは、1912年(大正元年)にその処女評論集「円窓より」を出していますが、出版直後にその内容が「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられており、この発禁処分は二回目のものでした。

さらに、こうしたらいてうの暴走ぶりをそれまでは静観していた父親ですが、このことでその怒りは頂点に達し、それまでは実家で活動をすることを許されていたらいてうも、ついに家を追い出されることになります。

婦人解放運動へ

ところが、ちょうどこの時期と並行する1912年の夏、らいてうは茅ヶ崎で5歳年下で、21才の画家志望の青年奥村博史と出会って恋に落ちてしまいます。

そして、奥村を青鞜の編集作業に参加させたことで他の同僚の反発を買うなど、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののち、事実婚を始めます。が、らいてうはその顛末までをも「青鞜」の編集後記上で読者に暴露し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では、父親からの独立宣言ともいえる「独立するに就いて両親に」という私信まで発表しています。

奥村のほうは、こうした奔放ならいてうの行動に追いていけないと思ったのでしょう。自らをツバメに例えた前述のような手紙をらいてうに出して別れようとしますが、結局はらいてうに押し切られる形での同棲生活が始まります。

しかし、実家を出ていざ奥村との家庭生活をはじめてみると、次第に「青鞜」での活動との両立が困難になり始めます。その結果、らいてうは、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ってしまいます。

伊藤野枝は、そのころの「青鞜」でもっとも人気のあった執筆者のひとりであり、不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫を捨て、アナキスト(国家権威を否定し、国家のない社会の実現を目指す活動家)である大杉栄とその妻、愛人と四角関係を演じるなど、らいてう以上に自由奔放な女性でした。

しかし、わがままと言われる反面、現代的自我の精神を50年以上先取りした人物ともいわれ、人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、小説や翻訳を発表しました。

ところが、こうした過激すぎるともいえる活動が災いし、関東大震災直後の1923年9月、大杉栄とその甥・橘宗一、伊藤野枝の3名は憲兵隊に連行され、殺害されてしまいます。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされ、後年「甘粕事件」として有名になりました。

「青鞜」はこの伊藤野枝などの活躍もあり、その後、「無政府主義者の論争誌」として発刊部数を伸ばしましたが、その1年後に、伊藤が大杉栄との「四角関係」のもつれから、大杉を刺すという「日蔭茶屋事件」を引き起こし、ついに休刊に追い込まれてしまいます。

一方、青鞜の第一人者としての立場を退いたらいてうは、奥村との間に2児(長男、長女)をもうけました。

らいてうは従来の結婚制度や「家」制度を悪しき制度と考えていました。このため、自らや子供たちにも夫となるべき奥村の名は継がせず、父親に懇願し、平塚家から分家してもらって自らが戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れています。

その後、らいてうは「青鞜」の編集権をも他社に売渡し、肺結核を患うなど病弱だった奥村の看病や子育てなどに追われるようになります。らいてうも既に32才になっていました。

1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が「女子の徹底した独立」という論文を発表します。この論文の主旨は、「国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない」という内容のものでしたが、らいてうはこれに噛み付きます。

そして、同誌5月号で「恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ」という内容の反論を発表します。

すると、婦人問題研究科として名の知られていた山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で「真の母性保護は社会主義国でのみ可能」という論文を発表。その後、婦人運動家である山田わかなども論争に加わって、この「母性保護論争」は一躍社会的な現象になっていきました。

今考えると、「母性」が国家によって保護される云々という論争は、まったくもって奇妙な論争です。

が、社会における女性の立場の確立というのが彼女たちの究極の目標であり、この論争自体が世間の注目を浴びることで女性問題をクローズアップさせることができます。女性問題を国家における重大問題として一般人に認識させたいというのは、らいてう等論争者たちの共通の意図だったのでしょう。

一方では、こうした母性保護論争の中、らいてうは、1919年(大正8年)の婦人公論1月号に「現代家庭婦人の悩み」というタイトルで、「家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず」という内容の論文を発表しています。

国家における母性保護といった各論ではなく、ここにきてようやく「女性権の確立」を世に問うことを視野に入れ始めていたのです。

新婦人協会の設立と退会

そして、この年の夏には愛知県の繊維工場を視察しており、その際に女性労働者の現状に衝撃を受けたといい、その帰途に「新婦人協会」の設立の構想を固めています。

新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、後年参議院議員にもなる市川房枝や奥むめおらの協力のもと、らいてうの主唱で設立が発表されました。

設立の趣旨としては、「婦人参政権運動」と「母性の保護」であり、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立されたものでした。

協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出し、特に女性による集会や結社の権利獲得するための、「治安警察法第五条」の改正運動に力を入れていきます。

しかし、「青鞜」において、これまで苦楽をともにしてきた伊藤野枝が、山川菊栄らとともに社会主義の世界に足を踏み込むようになり、「赤瀾会」という社会主義を主張する会派を結成して、新婦人協会やらいてうを攻撃しはじめます。

これに加え、このころから会の運営方針などをめぐっての市川房枝との対立もあり、らいてうは過労を理由に1921年(大正10年)、新婦人協会から身を退けることを決めます。

新婦人協会はらいてうが去ったあと、奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。

その後むめは、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に国民協同党公認で全国区から出馬し、抜群の知名度を利して上位当選。以降無所属(院内会派緑風会所属)になり、1965年(昭和40年)に勇退するまで3期18年務めます。

議員活動の傍ら1948年(昭和23年)には新団体・主婦連合会の会長に就任、エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や「主婦の店」選定運動を全国展開。1956年(昭和31年)主婦会館を建設し初代館長となり、消費者・婦人運動を終生指導し続けました。

しかし、その後は前線から退き、1997年(平成9年)7月、新宿区若葉の自宅で死去。満101歳9ヶ月の大往生だったそうです

一方の市川房枝は、1924年(大正13年)「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続け、戦後は参議院議員に当選してその後長く活躍し続けました。

1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たしましたが、1981年(昭和56年)に心筋梗塞のため議員在職のまま死去。死去の2日後、参議院本会議では市川への哀悼演説と永年在職議員表彰がともに行われました。

戦後の平和推進活動へ

らいてうは、35才で新婦人協会を退いたあとは、その後長らくは文筆生活に専念するようになりました。表舞台に出ることは少なくなりましたが、それでも世界恐慌時代になると消費組合運動等にも参加し、無政府系の雑誌「婦人戦線」へ参加しています。

とはいえ、それまでのような活発な活動はなりをひそめ、うってかわったようなひっそりとした状況が長らく続いたのは、日本が太平洋戦争に突入するようになり、もはや女性解放運動を声高に叫べるような時代風潮ではなくなったためでしょう。

あるいは、「母性」を発揮すべく、家庭に専念したかったためであり、それまでの奔放すぎた人生への疲れもあったのかもしれません。

ところが、戦後、突如としてらいてうは、婦人運動と共に主に反戦・平和などの運動を推進し始めます。

64才になったらいてうは、日本共産党の一員として活動しはじめ、1950年(昭和26年)6月、来日した米国のダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を同党から連名で提出。

翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任など、相次いで婦人活動の主だった団体に積極的に参加していきます。

1955年(昭和30年)には、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となり、1960年(昭和35年)、「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」を発表するなど、これまでの活動の中心であった「婦人解放」というテーマの軸足を「世界平和」に移していくようになります。

しかし、このとき既にらいてう74才。現在ではまだまだ若いといわれる年齢かもしれませんが、昭和30年代にこの年齢でこのような世界をまたにかけた活動をしていた女性というのは他にはみあたらないのではないでしょうか。かの市川房枝もこのときにはまだ67才です。

さらに、1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成。1970年(昭和45年)6月には、かつての盟友市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表します。

このころからベトナム戦争が勃発すると、この反戦運動を展開するようになり、1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立するなど、ベトナムにおける女性と子供の保護運動にも奔走しました。

ベトナム戦争の終結の行方もまだ見えない頃の1970年(昭和45年)、既に84才になっていたらいてうは、自伝の作に取り掛かっていました。しかし、このころ胆嚢・胆道癌を患っていることが判明し、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。

入院後も口述筆記で執筆を続けていましたが、1971年(昭和46年)5月24日に逝去。享年85歳でした。

かつて、雑誌「青鞜」発刊を祝って自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、その後、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなりました。

また、「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言したこの孤高の行動家の名前もまた、その後の日本における女性活動家たちの間に長らく語り継がれました。

しかし、今日、終生婦人運動及び反戦・平和運動に献身したこの女性の名前を知っている人がどれくらいいるでしょう。

市川房枝の名前はテレビなどのメディアでも良く取り上げられるので知っている人も多いかもしれませんが、平塚らいてうが亡くなったのは市川さんが亡くなる前のさらに10年前であり、いまやメディアで取り上げられることもほとんどないのではないでしょうか。

私自身もあまり平塚らいてうという人の人物像を良く知りませんでしたが、その死後40年以上を経て、再び女性が元気になっているとよく言われる現在、再度マスコミなどに取り上げられ、クローズアップされても良いのではないかという気がします。

ところで、らいてうが、なぜペンネームを「雷鳥」としたのかを調べてみたのですが、その理由はよくわかりません。

雷鳥は、北アルプスから南アルプスの高所にしか住まず、身を外敵から守るために冬は真っ白に、夏は周囲の地面や藪と似たような色の羽根に抜け替わるその生態は良く知られています。

もともと寒冷な地域を生活圏とする鳥であるため夏場の快晴時には暑さのためにハイマツ群落内、岩の隙間、雪洞の中などに退避しており、寒さが得意なライチョウは逆に夏の暑さが苦手で気温が26℃以上になると呼吸が激しくなり、体調を崩すことも多いといいます。

また冬のライチョウは、捕食を恐れてめったに飛ばないそうで、ゆっくり歩いて雪の中で体力を温存しています。夜、休む時にも雪を掘り首だけ出して休むそうです。

一般的に登山者の間では「ガスの出ているような悪天候の時にしか見ることができない」と言われており、このように、できるだけ外敵の目につかない、めだたない生態こそが雷鳥の本質のようです。

この鳥の名をペンネームにした平塚らいてうもまた、本来は人の目に留まることが嫌いな内気な性格であったがためにこの名を選んだのかもしれません。にも関わらず後年これほど女性運動家として高名になったというのは皮肉な結果です。

というか、本来のその内気な性格を生涯をかけて矯正し、婦人解放運動や平和活動を通じて自らを鍛えることにその85年間の人生の意味を見出し、意義を享受できたのかもしれません。

その「雷鳥」が囲ったツバメの、奥村博史は、らいてうとの間にできた子供を二人で養育しつつも、その後、日本水彩画会研究所にまなび、のちに洋画家として活躍しました。

大正3年二科展では「灰色の海」が入選。その後、指環の制作者としても知られるようになり、昭和8年工芸部門で受賞、国画会会員となりました。昭和39年2月死去。らいてうに先立つこと7年前のことでした。享年74歳。

著作に「めぐりあい」というのがあるそうですが、この内容も色々調べてみたのですがよくわかりません。まさか、夢の中でツバメが雷鳥とあいびきをする、といった内容ではないでしょうが、よくよく考えてみると南の国の鳥と寒いところに住む鳥が一緒になったというのも、何やら意味深なかんじもします。どうとらえるべきでしょうか。

ツバメと雷鳥…… みなさんはどちらの生き方がお好きでしょうか?

トルネードにご注意


今日は、「悪天の特異日」と「今日は何の日」や複数の方のブログに書かれていたので、ホントかな……根拠は何だろうと思って気象庁のHPを確認してみたところ、とくにそんなことは書いてありません。

良く考えてみれば、そもそも「悪天」とは何をさすのか、というところもはなはだ疑問であり、単に悪天といっても台風や大雨もあれば、竜巻や強風、大雪も悪天に入るはずです。

気象庁のホームページによると、「特異日」とは、「過去数十年の観測資料から統計的にみて、1年のうちである特定の天気が現れやすい日のこと」を指す、とあります。

従って、何等かの気象状況の特異日を特定するにあたっては、まずは対象とする気象状況の定義が必要なわけですが、「悪天」とは何かが示されていない以上、特異日も決められるわけはありません。

少々古いデータですが、東京管区気象台のホームページに、1967~1996年の30年間にわたる東京の日別天気出現率が公開されています。
(http://www.jma-net.go.jp/tokyo/sub_index/tokyo/otenki365/otenki365.htm)

このデータをもとに、東京学芸大学気象学研究室さんが特異日の計算を行ったデータをみると、東京地方の4月3日の降水確率は17.5%にすぎず、むしろ、雨や雪の降りにくい特異日となるようです。

もしかしたら、東京だけでなく、全国各地の4月3日の天気データを入力したらもっと降水確率があがって、これが「悪天」につながるという統計結果を誰かが出したのかもしれませんが、気象庁データにもそういう結果はなく、私が調べた限りではほかにもそうした結果が掲載されたようなHPはみつかりませんでした。

さらに「特異日」について書かれたHPを比較してみると、特異日とされたその日も微妙に違っていたりします。統計の仕方の違いや、その解釈、地域差を加味しているかいないか、などなどにもよると思われ、一口に特異日と言ってもいろんなものがあると考えておいたほうが良いでしょう。

なので、「悪天の特異日」などというあいまいな情報を鵜呑みにするのはやめましょう。

こと災害に関しては根拠のない風評は被害を拡大する要素になりえます。日本人が付和雷同的だというのはよくいわれることであり、間違った事実や指導者を信じやすいミーハーな国民性が太平洋戦争の悲劇を招いたというのは多くの歴史家が指摘するところです。

色々な災害の多い国だからこそ、身を守るためにも、せめてこうした身近な気象情報といえどもなおざりにせず、きちんとした認識を持ちましょう。

さて、冒頭から、あーだこーだとウンチクを述べたものの、ところがあいにく今日は、ウソかまことか、本当に悪天の一日になるようです。一日雨ということで、満開になった各地のサクラもその多くがこの雨で散っていくことでしょう。

ところによって竜巻も起こりうるというのですが、エーッ!?4月に竜巻ですか~と、またまた気になったのでまた調べてみたところ、4月に大きな竜巻が起こったという事例はこれまでにはないようです。

小さい竜巻などがまったく起こっていないわけではないのですが、1997~2006年のデータでは、1~12月の中では3月に続いて、2番目に発生確率が低い月のようです。

日本で竜巻が起こりやすい時期としては、9月がピークであり、このあとの10月、11月の初冬にかけても多く発生しています。これは、台風に伴う竜巻や寒気の南下に伴って竜巻が発生しやすい条件が整うからです。

一方、7月や8月の夏にも毎日のように積乱雲が沸きますから、竜巻が起こりそうなものですが、逆に竜巻を生み出すような性質の積乱雲は少ないのだとか。同じ積乱雲でも9月に発生する積乱雲のほうが、竜巻の発生条件としては整った下地になるようです。

10月11月に次いでは12月が多く、その他の月ではだいたい似たような程度の発生頻度のようですが、いずれにせよ通年を通じて条件さえ整えば発生し、その条件の最たるものが台風や冬型低気圧などであり、その他条件さえ整えば、年間を通じてさまざまな原因で発生しうるようです。

一方、場所的にみると、わが国では多くの竜巻が海岸線、すなわち人口密集地域で発生しているそうです。1997年から2006年までの10年間で発生した250個の竜巻について、被害をもたらした竜巻を発生原因別に調査したデータによれば、夏場の台風に伴う竜巻の発生場所は、太平洋沿岸、特に宮崎県、高知県、愛知県、関東地方に集中しています。

一方では冬季の竜巻は、冬場の低気圧に伴う季節風の発達しやすい日本海沿岸に集中します。

ところが、夏でも冬でもなく春や秋の一般的な低気圧においても竜巻は発生しており、ようは竜巻というものは、規模や頻度はともかく、季節を問わず、北海道から沖縄までいたるところで発生するようです。

台風や冬型の季節風下で発生する竜巻は特定の季節に特定の場所で発生しやすい一方で、一般的な低気圧の発達は、一年間を通じて日本中で起こりえますから、これに合わせて竜巻がいつどこで発生してもおかしくないわけです。

実際、近年被害の大きかった千葉県の茂原市の竜巻や、北海道佐呂間町の竜巻、鹿児島県徳之島町の竜巻などは、通常の低気圧の通過に伴い発生しました

2005年12月25日に山形県酒田市で発生した竜巻も本格的な冬場の季節風が吹く前の低気圧に伴って発生したもので、このときは羽越線の列車横転で5人が死亡しました。

このほか、竜巻による被害の大きかったものとしては、2006年9月17日に台風接近時に宮崎県延岡市で発生した竜巻があり、このときには3人が死亡しました。

先述の2006年11月7日に北海道佐呂間町で発生した竜巻でも9人死亡しており、2011年11月18日に鹿児島県徳之島町で発生した竜巻では、住宅一軒が飛ばされ、中にいた3人の命が奪われました。

千葉県茂原市で1990年12月11日に発生した竜巻は、日本で発生した最も強いものといわれ、ダンプカーが飛ばされるなど、その被害ランクはF3と推定されています。

「F」というのは、竜巻の強さを示すスケールで、1971年、シカゴ大学名誉教授の藤田哲也が、アメリカの国立暴風雨予報センターの局長だったアレン・ピアソンと共に提唱しました。

これは竜巻(アメリカではトルネードという)を強度別に分類する等級であり、建造物や草木等の被害に基づいて算出するものです。その階級区分の決定は、写真や映像を用いた検証に基づくほか、状況に応じて、竜巻襲来後に形成される円形の渦巻き模様のパターンや、レーダー追跡、目撃者の証言、報道映像などを基になされます。

F0は、風速17~32 m/sに相当し、F1の風速33~49 m/s程度の竜巻と同様に“弱いトルネード”と呼ばれます。F1になると顕著な被害が目立ち始め、屋根瓦が飛んだり、窓ガラスが割れたりします。

これがF2の風速50~69 m/sの竜巻になると、これは“強いトルネード”と呼ばれ、屋根が剥がれたり、大木の倒木、列車の脱線などが生じます。

この等級はさらに、F5まであります。前述の茂原市の竜巻はF3(風速70~92 m/s)であり、車が飛ばされたり、家屋の倒壊も起こりました。が、日本ではまだF4以上の竜巻は発生していません。

一方、アメリカでは、F4(風速93~116 m/s)やF5(風速117~142 m/s)ランクの竜巻もごく普通に観測され、F5は“想像外のトルネード”と呼ばれ、ある種の「ミステリー」が起こるといわれています。

これは、巻き上げられた車、列車、牛や魚などが空から降ってくるという普通では考えられないことが起こるからだそうです。その昔「マグノリア」というアメリカ映画がありましたが、この映画ではラストシーン近くに、空から大量のカエルが落ちてきました(事実かどうかは知りませんが)。

アメリカでは、2011年4月14~16日の3日間で、観測史上もっとも多い241の竜巻が14州で発生、45人が死亡したほか、バージニア州のサリー原子力発電所への電力供給が遮断され、原子炉2基が一時停止しました。

さらに同じ月の25~28日にも、今度はアラバマ州を中心に米国の南部および東部の各州で425以上の竜巻が発生しており、死者は少なくとも354人に達し1936年以来の大災害となりました。このときもアラバマ州のブラウンズフェリー原子力発電所が外部電源を喪失したため、ディーゼル発電機によりなんとか冷温停止状態が保たれました。

この年には、1日に数10個もの竜巻が起こった場所もあり、中にはF5クラスの竜巻も複数含まれていました。このクラスになると、地上にある住宅はめっちゃくちゃに破壊され、これによって重さが何十キロもある木片や石などのがれきが、時速100キロ以上の速度で別の家の壁を突き破るため、この飛散物は「ミサイル」とまで呼ばれます。

竜巻による被害は甚大でかつ局所的であり、単に強い風速で構造物が破壊されるだけでなく、破壊された物が飛散物として渦を巻き、次々に家屋を破壊していくという負の連鎖が続くという点が特徴的です。しかし、被害に遭わなかったその周囲の住宅は何事もなかったように無傷、というのはよくあることです。

北海道佐呂間町で発生した竜巻でも竜巻渦が通過した所は跡形もなくなってしまい、その近傍では屋根が吹き飛ばされ、剥がされるなど大きな被害が見られましたが、少し離れた場所では軽微な被害、あるいは被害が全く見られませんでした。

我々にとって最も記憶に新しいのは、昨年2012年5月6日につくば市から常総市にかけて発生した竜巻です。

この日の12時35分頃、つくば市から常総市にかけて竜巻が発生による被害範囲は長さ17km、幅約500mでした。この竜巻の規模については当初F2とされていましたが、その後の調査でF3と改められています。

この竜巻により茨城県下では1人が死亡し、つくば市北条地区を中心に住宅など約300棟が損壊、他にも常陸大宮市で住宅など7棟が被害を受け1人が負傷、常総市で4棟・筑西市で25棟以上の被害が発生するとともに、つくば・筑西・下妻各市では停電になりました。

同日12時40分頃には、すぐ近くの栃木県真岡市・益子町・茂木町から茨城県常陸大宮市にかけてもF1〜F2とされる竜巻が発生し、住宅など345棟が損壊、9人が負傷しました。被害範囲の長さは約32km、幅は約650mでした。さらに同日12時30分頃には茨城県筑西市から桜川市にかけてもF1とされる竜巻が発生しました。

竜巻注意情報は栃木県で11時54分、茨城県で12時38分に発表されていたそうですが、被害が起こったのとほぼ同時か直前であり、心の準備をする余裕はとてもなかったでしょう。

しかし、仮に注意報が発令されていたとしても、いつどこに現れるかもわからない竜巻に備えることは容易ではありません。

統計的には、日本でF3ランクの竜巻は10年に1度、F2ランクの竜巻は1年に1度の割合で発生しています。

地球温暖化の影響によって近年竜巻が増えているのではないかという声もあるようですが、過去から、日本の殆どの平野部で発生しており、各県とも意外と多く発生しています。しかし、最近とくに目撃情報が増えているともいわれます。

気象庁では竜巻の目撃情報が増えたことについて、「携帯電話などで撮影するケースが増え、竜巻と確認しやすくなったことが主な要因」とみているようですが、近年、勢力の強い竜巻が目立ってきているとする向きもあり、地球温暖化の影響を指摘する声も高いようです。

日本で発生する竜巻の多くは、F0からF1ランクの“弱いトルネード”ですが、今後F4やF5クラスの強い竜巻が発生しないとはいえません。とはいえ、1人の人間が竜巻に遭遇する確率は、単純に計算すると1万年に1回程度といわれます。

しかし、一方で3年間で2回竜巻の被害に遭った家もあるといい、また前述のとおり、宮崎県や高知県、愛知県、関東平野などの太平洋側沿岸域では台風の時期に、日本海側沿岸一帯では冬季の低気圧の通過時期に多いなど、竜巻の起こりやすい地域と季節があります。

従って、竜巻が怖い人は、冬場には日本海側に住むのはやめて太平洋側に別荘でも造って住み、夏場には逆に日本海側へ逃げる、というのが一番です。無論その逆もありですが、一番いいのは、トレーラーハウスにでも住んで、ジプシー生活をすることでしょう。

しかし、そんなことが可能な人はほとんどいないでしょう。だとすれば、竜巻の予報に注意するしかありません。

竜巻の移動速度は、時速50 km/hを超えるような速いものが多く、気が付いてから逃げたのでは間に合いません。

人は、とかく屋根の下に居ると安心しがちですが、自分がどのような建物の中にいるか確認した上で、竜巻の予報をキャッチして危険を感じるような家なら、その家から脱出するに限ります。過去の例では、建物の中に居たがために被害に遭ったケースが多かったといいます。

佐呂間町の竜巻の事例でも、屋外に居た人が逃げて助かり、屋内に居た人が被害に遭うという皮肉な結果となったそうで、徳之島町でも、自宅に居ながら犠牲となった竜巻被害が多数報告されています。

一般に仮設構造物や強度の弱い住家などは、建物ごと飛ばされる可能性も高く、たとえ強度の強い建物でもガラスが割れ室内で被害に遭うこともあるので、なるべく雨戸を閉めるか、たとえ効果は少ないといえどもカーテンを閉じることである程度のガラスの散乱は防ぐことができます。

また、避難場所に使われることの多い学校の体育館などでも、ガラスが割れ屋根が飛ばされるという被害が多く見られます。いったん窓が破れると、竜巻による強風がその巨大な内部空間を吹き抜け、天上などへの内部圧力が高まるためです。

特に設計の古い体育館などは、風力に対するチェックもしていない可能性があるため、安易にこうした場所を避難場所として頼るのは危険です。むしろ、コンクリートや鋼構造物のしっかりした建物に避難したほうがより安全です。

竜巻は、「積乱雲」の下で地上から雲へと細長く延びる高速な渦巻き状の上昇気流であり、短時間の局所的な現象です。夏になると山のほうにもくもくと沸きだす、あの入道雲こそ積乱雲です。ただし、通常の夏場の積乱雲は通常は激しい雨をもたらすだけで、竜巻にまで発達することは少ないようです。

日本では、温帯低気圧(熱帯低気圧以外の低気圧)や、寒冷前線・停滞前線の通過が多くなる9月以降の時期に発達した積乱雲の近辺で発生しやすく、とくに前線の近辺で多く発生します。

ただし、夏場でも上空への寒気や乾燥した空気の流入があったり、下層への暖湿流の流入などがある場合などの著しく大気が不安定になった時には発生しやすくなります。

従って、その竜巻の親雲である積乱雲が間近くに迫ってくるようであれば、これに注意することで危険を回避することができます。すぐ近くにある積乱雲は逆に視認しにくいものですが、激しい雨を伴った真っ黒い雲が近づいてきたら積乱雲と考えて良いと思います。

竜巻が起こる前兆としては、真っ黒な雲や暗緑色に近い雲が現れる、低く垂れ下がった雲や壁のような雲など不気味な形の雲が上空低い所に現れる、空が急に暗くなる、などがあります。

夜だと、こうした視認情報は得られませんが、風が急に強くなる、風向が急に変わる、雹が降るなどの予兆があるので、合わせて木の葉や枝、土や砂といった飛散物が自宅を叩く音がしたら、自分の周りに竜巻が近づいている可能性を疑いましょう。

竜巻の接近によって気圧が急降下・急上昇すると、キーンという音や耳鳴りといった耳の異常を感じることもあるそうで、激しい気流の渦に伴う轟音、飛散物の衝突に伴う衝撃音なども聞こえることがあるため、危険を感じたら、即、避難するのが一番です。

なお、竜巻発生の予兆として雷が取沙汰されることもありますが、雷も竜巻の発生しやすい気象条件であるには違いないのですが、頻度からすれば関連性はあまり強くないそうです。

避難場所としては、風の影響を受けにくく窓がない地下室のような場所が最も安全な避難場所といわれますが、そんなものはない家のほうが多いでしょう。

このため、もし外部に自宅よりも安全な場所が見当たらず、逃げ出すような時間もなければ、床板をめくって床下へ逃げ込みましょう。たいがいの家には台所に床下収納がありますから、収納ボックスをどければ床下へ入れます。

しかし、ここが最も安全な場所というわけではありません。床下にある土台は上からの家の荷重を支えるためのものであり、下から吹き込む風の揚力には弱いものです。あくまで緊急避難の場所と心得て、できるものならば事前にもっと安全な避難場所を用意しておきましょう。庭に穴を掘ってシェルターを造っておくとか。

これは冗談ではなく、日本ではこのような地下シェルターほとんど普及していませんが、竜巻の常襲地域であるアメリカ中部・東部では、各家庭や公共の建物に堅固に作られた地下シェルターが普及していて、竜巻警報が出たら地下室やここに避難するという対応が市民に広く周知されているといいます。

日本においても地球温暖化のせいで、もし竜巻がこれから増加していくとすると、そういうものを常備する家庭が増えてくるのかもしれません。

ただ、もし、屋外にいた場合はどうするか、です。この場合には、まずすぐに壊れて飛散しそうな車庫や物置、プレハブの建物といった場所を避難場所としないことです。

鉄筋コンクリート等の頑丈な建物の中に避難するのが一番ですが、それすらもない場合には、体が収まるような水路やくぼみに隠れて頭を保護するのが一番適切な避難方法です。山中にいるならば、より窪地は見つけやすいでしょう。

さらには全く隠れる場所もないような草地や耕地にいる場合には、できるだけ態勢を低くし、できれば腹這いになって、自分を風による揚力から保つためのできるだけ丈夫なアンカーを探してこれを握りしめます。

ともかく、日中ならば、いつもと違う異様な雲を見たら、要注意です。最近は天気予報でも竜巻注意情報が出されるようになりましたから、気象情報と併せ、常に自分の目で見て判断する習慣が竜巻から身を守ることにつながります。

しかし、間違っても発生した竜巻をビデオに収めようとか、写メしようかと思わないようほうが無難です。めずらしいものには違いありませんが、自分の命と引き換えに映像を残しても仕方のないことですから……

さて、現在までのところ静岡県地方には竜巻注意報は出ていませんが、私の郷里の山口県では、午前中いっぱい竜巻注意報が出たようです。実家には老いた母親が一人で住んでいるのですが、屋根ごと持って行かれていなければいいのですが……

予報ではこの雨も午後一杯にはあがって明日は晴れ間が見られるようです。明日はこの低気圧一過によってきっと良い天気に恵まれるに違いありません。

今日の雨で多くのサクラが散ってしまっているとは思いますが、御殿場や北のほうではまだまだ花が残っているのではないかと思うので、余力があれば出かけてみましょう。

皆さんの町のサクラはどうでしょう。入学式を待たずして散ってしまったところも多いでしょうが、満開ではなくてもハラハラと散る桜の中の入学式や入社式もまた風情があるものです。

きっとハッとする瞬間があるに違いありません。お出かけするときはカメラや携帯をお忘れなく。でも竜巻が発生したら、けっして喜んでこれを撮っていないようにしましょう。サクラと一緒に散るのはおイヤでしょうから……

バカとアホのあいだ


4月になりました。

ここのところ、お天気が悪く……といってもザンザンと雨が降るでもなく、曇ってばかりでお日様がちっとも拝めないという煮え切らない日ばかりが続きます。

いわゆる「花曇り」というヤツで、このサクラの咲くころの曇天は、ちょうどこの時期には、移動性高気圧と低気圧の出現間隔が短くなるために起こる現象のようです。日本南岸に前線の停滞することも多く、これが花曇りの原因となるとのこと。

理屈はなんとなくわかるのですが、せっかくのサクラがスポイルされているようで、気分良くありません。ただ、今日は少し陽射しが出てきそうということで期待しましょう。

今日は4月1日ということで、今年も世界各国できっと何やら馬鹿げたメディア報道があるのではないかといつも新聞やニュースなどをそれとなく期待してみたりしています。しかし、最近ではあまり秀逸なのがありません。

ちょっと前には、2005年に日本の某新聞社が掲載した「スマトラ沖地震の余波で沖縄南端に新島が出現」などというのがあり、エッ!?ホントかな、と思わせるものであっただけに秀逸だと思ったものです。が、最近のネタは言ってはなんですが、パロディー化されすぎていて、おもしろいと言えば面白いのですが、なんというか姑息です。

沖縄新島の話は、韓国の新聞社がニュースとしてしまうなど、それなりにインパクトがあり、どうせウソをつくなら、これくらいの世界中をだませるようなスケールの大きいもののほうが後で笑えます。

もっとも、おふざけが過ぎて、北朝鮮と韓国が交戦状態に突入!なんてのは困りますが……

一方、最近ではインターネットが普及しているので、ウェブサイトで手の込んだジョークコンテンツを公開するといったことも頻繁に行われるようです。

しかし大企業発の大労力をつぎ込んだものであっても、どことなく空々しいものも多く、すぐにウソとわかってしまうようなものはお金をかけてまでやる必要はないと思うのですが、いかがなものでしょう。

もっとも、企業発のジョークは、それなりの宣伝効果を期待してのことでしょうから、収益に見合わないことはやらないわけで仕方のないことではありますが……

しかし、そのジョークの出来不出来によっては、その企業の質までユーザーに見透かされるわけであり、そう考えると、たかがジョーク、されどジョークということになります。

このエイプリルフールの起源ですが、その昔、フランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用したことが発端という説が有力です。

この当時、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していましたが、1564年にシャルル9世がこの新暦の採用を発表したところ、これに民衆が反発。4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめたのが由来という説です。

しかし、シャルル9世は自分が発したこの規則をあくまで押し通そうとし、「嘘の新年」を祝っていた人々を検挙して片っ端から処刑していきます。

処刑された人々の中には、まだ13歳だった幼い少女も含まれており、フランスの人々は、この事件に大いにショックを受け、以後もフランス王への抗議とこの事件を忘れないためにということで、毎年4月1日には「嘘の新年」を祝う習慣を続けるようになったといいます。

しかし、一方では13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表す日にしようという意見もあったことから、少女が亡くなった年齢にちなみ、1564年から13年ごとの4月1日を「嘘の嘘の新年」とし、逆にこの日を一日中全く嘘をついてはいけない日に定めたということです。

いまではこの風習は全く廃れてしまったということですが、もしこの習慣が定着していたとすれば、最近ではこのウソの嘘の日は、2006年にあたり、次は5年後の2019年になります。

2006年といえば、現在の総理大臣の安倍晋三さんが、9月の臨時国会において内閣総理大臣に指名された年であり、戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての総理大臣ということで大いに話題を呼びました。

しかしその翌年には体調不良と参議院議員選挙での敗北を理由に辞職し、これがその後民主党政権によるマニュフェスト嘘つき政治につながっていくわけであり、そう考えると、この年が本来ならば「ウソをつかない年」であったというのは、その後の政治の混乱を予見するようで、何やら意味深です。

次は、2019年ということなのですが、このとき日本はどうなっているのでしょう。文字どおりウソのない真っ正直な政治が行われていることを願うばかりです。

フランスの故事が起源だろうとい説は有力とはいえ、エイプリルフールの起源は、実のところは全く不明なのだそうです。いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていないそうで、このフランス発祥説のほかにも、インドで悟りの修行はが春分から3月末まで行われていたことにちなむという説もあるようです。

これは、インドの修行僧たちがこの期間に精進を積んで修業をするのだけれども、だいたい3ヶ月も経つとすぐに迷いが生じることから、その節目にあたる4月1日を人々が「揶揄節」と呼び、修行僧たちをからかったことによるとする説だそうです。

フランス説にせよ、インド説にせよ共通するテーマは、愚かな制度や行為ということであり、つまりは「馬鹿」そのものです。

他にも「馬鹿」は、一般常識、知識の乏しい人物という人を表現するときにも使われますが、「親バカ」などの表現にもみられるように客観的で理性的な判断が出来ない状態を指すこともあります。

「数学バカ「野球バカ」などのようにある特定分野にのみ通暁し、一般常識が欠落している人物を評する場合使われる場合もあるし、「ネジが馬鹿になる」などのモノが役に立たなくなることにも使われます。

「馬鹿正直」「馬鹿騒ぎ」「馬鹿でかい」などの接頭語に使い、並外れて凄いものを表現する場合もあって、最近では「バカ受け」「バカ売れ」などもよく使われる言葉です。

こうしてみると、バカというのは、おそらく日本語の中にあって最も良く使われることばのひとつでしょう。

さきほどの「エイプリルフール」同様、その語源については様々なものがあるようですが、文献にみられるものの中で有力なのは、史記の「鹿を指して馬という」の故事です。

これは、秦の2代皇帝・胡亥の時代に、その部下として権力をふるった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)はあるとき謀反を企みます。しかし、旗を上げるにあたっては廷臣のうち自分の味方と敵の区別がなかなかしずらかったため、一策を案じます。

彼は宮中に鹿を曳いてこさせ「珍しい馬が手に入りました」と皇帝に献じ、これを見た皇帝が「これは鹿ではないのか」と尋ねますが、趙高が左右の廷臣に「これは馬にまちがいないよな?」と聞きます。このとき、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えたといい、趙高はこのあと、鹿と答えた者をすべて殺し、排除したそうです。

これだけだと、鹿なのに趙高の権力を恐れてこれを馬と言った者がバカなのか、逆に正直に鹿であると言った廷臣がバカなのかの評価が分かれるところですが、あるいはその両方がバカなのかも。本当の賢い人物なら、こんな茶番は「馬鹿げている」と皇帝に進言して、趙高を排除したと思うのですが、どんなもんでしょう。

ほかにも、禅宗の仏典などに出てくる破産するという意味の「破家」と「者」をくっつけて、「破産するほど愚かな者」という意味で「馬鹿者」いう言葉が生まれたという説や、中国にいた「馬」という富裕な一族が、くだらぬことにかまけて散財して没落したため「馬家の者」から「馬鹿者」となったとする説などもあるようで、バカの語源も様々です。

馬鹿の他にもアホ(あほう、阿呆)というのもあって、その違いは何ぞや、ということなのですが、阿呆と馬鹿はまったく同じ言葉ではない証拠には、例えば「野球阿呆」のような使われ方はしません。同様に「馬鹿でかい」とはいいますが、「阿呆でかい」とはいわず、「阿呆らしいほどでかい」のように言うなど、その使い方にも明らかな違いがあります。

阿呆の方の語源も、何だかはっきりわかっていないようですが、中国の江南地方の方言に「阿呆(アータイ)」というのがあり、これが日明貿易で直接京都に伝わったという説があり、この言葉は現在でも上海や蘇州、杭州などで使われているそうです。

「阿」は中国語の南方方言で親しみを示す接頭語であり、意味は「おバカさん」程度の軽い表現だということで、これは近畿地方で意味するところの「アホ」に似たニュアンスのようです。

阿呆と馬鹿では受け取られるニュアンスに地域差があって、関東などのようにどちらかというと「阿呆」よりも「馬鹿」を常用する地域の人に「アホ」と言うと、「馬鹿」よりも侮蔑的でとられることが多いようです。

逆に関西など「アホ」を常用する地域の人に「馬鹿」と言うと、「阿呆」よりも尊大に見下されたと受け取られる場合があるということで、阿呆という表現は京都を中心に広がった「方言」の一種だという説もあるようなのですが、私は関西圏に住んだことがないので、なんともいえません。関西の方、そうなのでしょうか。

かつて、朝日放送が放映していた、「探偵!ナイトスクープ」というバラエティ番組では、「アホとバカの境界線はどこか」という調査に取り組んだことがあるそうです。

これは、関東人である夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性から番組に、「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」という依頼が寄せられたことに端を発します。

この依頼を、番組のコメンテーターの北野誠(北野武のお兄さん)が受けることになり、北野さんは、アホとバカの境界線を調べるべく大真面目に東京駅から調査に乗り出したそうです。

その結果、名古屋駅前での調査で、「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」という表現が出てきたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更して調査を続けたところ、岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したそうです。

ところが、この番組の「局長」だった上岡龍太郎が、「じゃあ、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」という質問が出、またまた他の「探偵」からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、その後も北野さんは継続調査を行うハメに。

こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したものの、調査が難航するうちに、番組そのものが休止状態となります。しかし、視聴者からは引き続いての継続調査を望む声が強かったため、約1年後に調査が再開され、その結果が1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」として特番放送されたということです。

この調査は、テレ朝としてはそれまでとは比べもののないほど大きな予算を組んで行われ、言語学者の徳川宗賢氏のアドバイスを受けつつ、地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査まで行われたということです。

この調査結果をみると、やはりアホの西の境界は、兵庫県と岡山県の県境付近になっており、また岐阜県と京都、愛知県と三重県の県境あたりが東側の境界になっているようです。

この結果は、番組のプロデューサーの松本修さんによって「全国アホ・バカ分布考 はるかなる言葉の旅路」という名前で出版化され、新潮文庫にも納められているということなので、興味のある方は本屋で探してみてください。

この調査結果においてはまた、京都を中心とし、同心円状に離れた同じ距離にある異なる地方で、同一の方言が使われていたことなども判明したといい、「方言周圏論」という分野があるのだそうですが、この分野における重要な検証例として「国語学上大変貴重な」調査結果としてその道の学者にも評価され、学問的にも認められたということです。

後に日本方言研究会でも取り上げられるなど、大きな反響を呼んだほか、特番はビデオ化までされ、そして番組そのものも、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞、第29回ギャラクシー賞選奨、第9回ATP賞グランプリなどの数々の賞を受賞したということです。

バラエティの一つのテーマにすぎなかったバカ、アホの調査もここまでくると、立派な研究であり、ひとつのことを「馬鹿正直」にやるというのも、けっして無駄にはならないというひとつの良い例です。

私もせっせせっせと馬鹿正直にこのブログを書き続けていますが、いつかこれがみなさんの評価につながればうれしいな、と思ったりもします。

政治的用語には、「役に立つ馬鹿」というのがあります。英語ではuseful idiot といい、意味は、目指している方向を理解しないまま宣伝活動を行う人々、ということのようです。

ようするに政党などのリーダーに踊らされ、そのリーダーが実際に何を目指しているのかもわからずに活動を続けている党員たちを、その指導者が冷笑して指す軽蔑表現です。

元々、ヨーロッパの西側諸国で活動していたソビエト連邦のシンパを指す言葉として用いられたようで、本人たちは自分自身をソ連の協力者であると無邪気に考えていたのですが、実際にはヨーロッパ諸国の人達は彼らを軽蔑し冷笑していたわけです。

それ以降、良い活動をしていると無邪気に信じ実際には無意識に悪事に荷担している宣伝者を指す、広義の用語となっているといいます。

こうして考えると、日本の政治家たちの中にも「役に立つ馬鹿」がたくさんいるような気がします。政権が変わるたびに、マドンナやらなんとかチルドレンがたくさん出てくるような政治はもうそろそろ終わりにしていただき、本当の意味で役に立つ政治家さんたちの登場に期待したいもの。

安倍さんは大丈夫でしょうか。初めて総理大臣になった2006年がウソをつかない年であったことにちなみ、今後ともウソをつかない政治を心掛けていってほしいものです。

さて、私はといえば、馬鹿正直に「ばかうけ」するブログを書いていけるよう努力しましょう。そしてこれを集大成して、本として出版することにしましょう。

…… ウソです。