資格・就職・未来……

冬雲
2~3日前から、ここしばらく姿を見せなかった富士山が良く見えるようになりました。

何等かの季節変化の兆しだと思うのですが、テレビの気象予報などをみると、まだまだこの暑さは長く続きそうです。しかも、今年は梅雨明けが早かったせいか、例年になく夏が長いような気がします。

梅雨明けすぐのころ、今年は梅雨明けが早かったので秋になるのも早いだろう……と、ある気象予報士さんがおっしゃっていましたが、どうやらこの予想ははずれそうで、まだまだ涼しい季節の到来は先のようです。

この気象誤報士……いやいや気象予報士という職業ですが、当然のことながら国家資格を取得しなければなることはできません。1993年の気象業務法改正によって、気象庁以外の者でも天気予報が行えるようになった際、その予報業務の技術水準及び信頼性を担保するために一定の技能試験を課し、これにパスした人だけがこの資格を取得できるようになったものです。

第1回試験は、1994年8月28日に実施されており、現在までに7000人程度の気象予報士さんが誕生しているようです。

私もかつて会社勤めをしながら受験をしようと勉強を始めたことがあるのですが、日常の仕事が忙しくなってしまい、途中で挫折しました。ただ、どうしてもこの資格が欲しいというほどのモチベーションもなかったのも事実です。

気象予報士を受かったからといって、その資格で即座に飯が食えるようになるわけではなく、天気予報ができるからといって雇ってくれる企業というのはなかなかないでしょう。

今現在テレビなどでの天気予報番組で活躍している気象予報士さんは、ほんの一握りです。しかも実際問題として、気象予報士としての技量よりもむしろテレビ映りなどのルックスやおしゃべり上手かどうか、といった点のほうが重要視される業界ですから、テレビ局に雇ってもらうというのは至難のわざです。

気象予報の専門会社というのもありますが、それほど数が多いわけではなく、しかも気象予報士は既にゴマンといて、仮にこうした会社へ入社したとしても、天気予報ばかりを担当させてもらえるわけでもありません。

べつに私が資格を取れなかったから負け惜しみで言うわけではありませんが、気象予報という、ある種特殊な分野で資格を持っていたとしても、いわゆる「つぶし」がきかないというヤツで、なかなか収入や就職には結びつかないというのが現状でしょう。

それでは、日本では「資格」と呼ばれるものがどのくらいあるのか調べてみたところ、国家資格と呼ばれるものは300弱ほどもあるようであり、このほかの公的資格、民間資格、採用資格なども合わせると、「資格」といわれているものは全体で1100種類以上のようです。

国家資格とは、いうまでもなく法律に基づいて国が実施する国家試験によって取得するものです。個人の知識や技能が一定の段階以上に達していることを行政が確認するものであるため、年齢の下限・上限による制限があるものも多く、学歴による制限が課される場合もあります。

一方、公的資格とは、国の基準に基づき、各省庁から認定を受けた公益法人などが法律とは無関係に実施しているもので、地方自治体などが法律と無関係に実施しているものであり、一般には国家資格よりもとりやすい資格といえます。

従って、例えば都道府県や市町村等の定めた条例に基づいて与えられる「ふぐ調理師」はその地方自治体が課した試験にパスするだけで取得することができます。ただし取得した都道府県内のみにおいて有効な資格であり、全国的に有効な国家資格にはなりえません。

一方、民間資格とは、民間団体等が、独自の審査基準を設けて任意で与える資格であり、法令で規定されたものではありません。ひとつの業界団体が一定の能力があると認知して与えられる場合ものや、企業が自社の活動のために従業員に対して付与するも、社外では通用しない社内資格(内部資格)まで、さまざまなものがあります。

また、日本国内だけでなく海外でも試験が実施され、国際的な基準によって認定される資格もあり、TOEICやTOEFL、福祉住環境コーディネーター、フードコーディネーター、といったものがそれです。

この民間資格と公的資格の境界は、結構あいまいです。たとえば「漢字能力検定」は、1992年に文部省認定を受けた実施団体が設立した資格ですが、その後、2005年に「民間技法審査事業認定制度」が廃止になり、「文科省認定」から「文科省後援」になりました。

2009年には不祥事により文科省から後援を取り消され、2013年にはこの実施団体は公益財団法人となりましたが、いつのタイミングで公的資格から民間資格になったのか、それとも、公益法人が実施しているので未だ公的資格なのかは議論が分かれるそうです。

また、「民間技法審査事業認定制度」が廃止になったと書いたとおり、現在では「公的資格」の法的な根拠そのものが消滅してしまっているため、現在ではたとえ公益法人が認定したとしても、その資格はその公益法人を管轄する国の機関に認定されているとはみなされません。

従って現在では、公的資格は、国家資格ほど重くなく、むしろ民間資格に近いものと考えるべきでしょう。これから公的資格を取得しようとする人は、その資格の性格がどういうものなのかよくチェックするべきでしょう。

最近は、「資格商法」も流行っており、詐欺まがいの行為で入会金などをだまし取る団体もあるので、なおさら注意が必要です。

資格にはこのほか、「業界ルール」に近いものもあり、これが民間資格といえるかどうかについては、その解釈が難しいところです。

例えば、落語における前座・二つ目・真打といったものや、武道における段位・錬士・教士・範士、芸道における名取・師範代・師範、大相撲の親方などについては、一定の称号・免状や経験がなければ弟子を取れないことになっています。

が、はたしてこれらを資格と呼んでいいいのかどうか。あまり資格というふうに捉えている人はいないのではないでしょうか。むしろ「称号」に近いような気もします。

大相撲でも一定レベルに達しないと四股名を名乗れないとか、芸人さんも、師匠が認めないと芸名を名乗れない、命名できない、などのルールが存在しており、これも民間資格と考えられなくもないようですが、やはりひとつのルール、もしくは称号のようなものという気がします。

雪の登山道

このように、単に資格といってもその幅は広いようです。しかし、就職などの社会的活動に参画するにあたってはやはり国家資格を持っているかどうかを重視する向きは多いでしょう。

就職の際だけでなく、企業に入ってからも国家資格を持っているか否かでその企業への貢献度が変わってくるということで、国家資格の取得の奨励をする会社は多いようです。

また、会社勤めだけではなく、政治活動やさまざまな地域活動などにおいても、レベルの高い国家資格を持っている人が幅を利かせているというのは間違いのないところでしょう。

国家試験での難易度が相対的に高いものの代表としては、司法試験や国家公務員総合職 などがあり、このほか、公認会計士や裁判所事務官Ⅰ種、弁理士なども合格率は低く、昔から取得難易度の高い国家資格の代表です。

これらの資格を持っているということは、ひとつの社会的ステータスともいえ、結婚においても国家公務員や弁護士さんは、人気のある職業です。

このほかにも、国家資格の中には難易度の高いものがあり、医師を初めとして、税理士や技術士、一級建築士、薬剤師などは資格として人気があり、企業もこうした資格を持った人の採用を優先するきらいがあるようです。

このほかにもさまざま国家資格があり、こうした資格ばかりを取るために、必死で勉強し、人によっては、10も20も資格を持っている「資格オタク」とでも呼ばれるような人もいます。

そんなに資格ばかりとってどうするのよ、という気もするのですが、こうした人達にとって資格をとるというのは、もうすでに山登りと同じ感覚なのでしょう。そこに山があるから登る、というかんじであり、取った資格で就職を有利にするとか云々ではなく、困難に立ち向かうことそのものに興味が行っているという人も多いのではないでしょうか。

しかし、資格を取るのに必死で勉強していたのですが、ふと「まず、資格有りき」に囚われている自分に気付き、落ち込んでしまうという人もいて、「資格を取ってはみたけれども、役に立たなかった」という人も多いのではないでしょうか。

役に立たなかったという理由もさまざまで、例えば、賃貸営業に憧れ、宅建を取ってはみたものの、実際就職してみると不動産業界という特殊な業界になじめず、結局違う職業に就いたという例もあります。

こういう人に限って、さらにその新しい職場で嫌なことがあると「宅建を生かせない」と言い訳してを辞めてしまう、ということも多いようで、こうして考えると、資格っていったい何なのという気になります。

物を作るのが好きで将来は花屋さんで働きたいと思い、仕事をしながら夜や休日に講座がある学校に通い、フラワーデザイナーの資格までとった人がいます。しかし、花屋さんへの実習へ行ったら、生花を扱う店内は冷蔵庫状態であり、冷え性だったためにつらくなって、結局花屋になるのをやめた、という例もあります。

基本的な事を調べずにただ「好き・憧れ」で時間と費用を使ってしまったあげく、結局はやめてしまう、という若者が増えている、と聞きます。

昔からそういう人はいるよ、といわれるかもしれませんが、最近の日本は昔ほど食糧事情は悪くなく、仮にフリーターをしていたとしても、なんとか細々ながらでも暮らしていけ、生活環境を維持できるため、こういう人が増えているのではないでしょうか。

かたや就職難の時代とよくメディアなどにも取り上げられ、就職率の低さがよく話題になるのですが、この就職率というのがわたしにはよくわかりません。

どうやって計算しているのかな、と調べてみたところ、例えば大学卒業者の就職率であれば、「学校基本調査」というのを文部科学省が実施していて、就職率とは、「就職決定者数÷卒業者」という単純式で決めているようです。

問題は、この「就職決定数」ですが、いったいどういうふうに調べているかと思ってさらに詳しく調べてみたところ、たとえば大学などの高等教育機関であれば、これ専用の調査票様式というのがあるようです。

この調査票は、何枚かに分けられていて、その中のひとつである「卒業後の状況調査票」において、各大学の事務関係者が学生から就職先をヒアリングし、これをもとにカテゴリー毎の就職率を集計して文部省に提出しているようです。

従って、卒業した大学生が自分は「就職した」と自己申告した会社についてのみ、この調査票に記入されているものと思われ、これは当然といえば当然です。

ただ、その「就職先」なるものが大会社なのか、中小企業なのかといったところの区分はこの調査票にはなく、結果はただ単純に就職率として文部省によって集計され、公表されるだけです。

雪の船原峠A

ところが、私はこの就職先なるものの中に中小企業と呼ばれるものがどのくらいあるのかという比率が気になります。

中小企業といっても、大会社にもひけをとらないような高い技術水準を持っているにもかかわらず、会社規模が小さいがために、こうした会社に内定していたとしてもさらに良い条件を希望して別の大会社への就職を希望する場合があります。

従って、仮にこうした中小企業に内定したとしても、さらに大きな会社を狙っている学生は、この調査が行われる段階では、「就職未定」として申告しているケースが多いような気がします。

大学の中には、こうした就職先を一般向けに公表するところも多いことから、自分が就職した会社があまり世間的な認知度の高くない会社である場合、これを恥ずかしがって申告していないといったケースなどもあるのではないでしょうか。

従って、就職率が低い低いとはいうのですが、実際には中小企業からは引く手あまたな需要があるにもかかわらず、学生側でこれを「認知しない」という風潮があるのではないかと、私は思っています。

しかし、考えてみれば、今や大会社といえども、円高円安などの外貨変動や株価の上下ひとつで業績が一気に変貌するような時代です。こうした時代に、結果として大会社だけへの就職率だけが反映されるような調査をやっていること自体がナンセンスだと思います。

もっとも、同じやりかたで調査をしていた昔の就職率と比較したい向きもあり、その意味では無駄とはいえません。

ただ、高度成長期が終り、大会社だけが勝ち残るといった時代ではない今は、中小企業こそが、これからの発展のタネであり、これらの中から次世代の日本を担う先端企業が生まれてくるはずです。

従って、就職率云々を議論するとき、大会社向きの統計をとるだけでなく、「中小企業の活性度」という観点からも大学生のこれら企業への就職率の動向を明らかにしていくべきであると私は思います。

それにしても、昨今の新聞記事などを読むと、どうも最近の学生さんは内向きな傾向が強いようで、就職といえば、安定感のある大企業がいい、中小企業に入るくらいなら、フリーターになって次のチャンスを待つという人が増えているようです。

また、留学として海外へ出て行く学生も年々減少しているといいます。昨日の日経新聞に、今春大学に進学した学生の海外留学の意向を問うたアンケート調査結果が出ていましたが、それによると今後海外留学をするつもりがない、と答えた人は38.6%にものぼり、留学したいと考えている人よりも5.2%も多いそうです。

この手の調査は前々から行われていて、この割合は年々増えているそうで、こうしたところにも最近の学生さんたちの「内向き度」が出ています。

20年ほど前に私が留学を志したころはまだ留学制度が整っていない時代でしたが、それでも学生の間での留学志向は現在よりもかなり強かったと思います。正規の留学でなくても短期だけでも海外生活を経験してみようという風潮があり、私の友人たちの中にも少なからず海外へ飛び出していった奴らがいました。

今はそういう時代なんだよ、といわれればそれまでなのですが、今の日本の活力が落ちているのはこうした昨今の若者の気力不足も一因であると思えてしかたありません。逆に世相が悪いことがかれらの気力を削いでしまっているのかもしれませんが、その相乗効果のような気もします。

就職活動そのものもワンパターンなかんじがし、とくに最近の若い人達には儀式のようなものになっているのではないかと思えます。

最近の就職活動のパターンとしては、ほとんどの学生が、3年次の秋や初冬には就職セミナーを受けるなどして、就職活動の準備に入るようです。11月になると経団連に属さない企業が面接などの採用試験を開始しますが、これらは無論中小企業であり、2、3月には経団連の紳士協定に沿う多くの大手企業が会社説明会を開始します。

大企業も中小企業もだいたい、4月1日から一斉に採用試験が開始し、ゴールデンウィーク前後には、最初の内定者がほぼ出揃います。

5月以降は地方、中小企業や、大手企業の二次募集が行われ、9月には留学生向けや公務員試験不合格組や内定辞退者の補充を目的とした採用が行われ、10月1日に多くの企業で内定式が行われ、学生の就職活動はほぼ終わります。

毎年秋口になると、東京都内では黒っぽいスーツを着た若い学生たちが、揃いもそろってみんなブリーフケースを持って街中をうろうろする情景をみかけるようになりますが、最近はもう風物詩化してしまっていて、あぁ今年もそんな年か、と思ってしまいます。

無論、これからの人生を左右するかもしれない「大決戦」に望むかれらにはそんなふうに自分たちが見られているというところにまで思いは及ばず、来たる戦においていかに自分を統制できるか、アピールするかだけしか頭にはありません。

ときどきこういう人達の中に、緊張しすぎて地下鉄を上る階段を踏み外したり、ボーっとしていて人とぶつかったりする輩もいて、そういう若者をみかけると笑ってしまうと同時に、おいおいしっかりせーよと言いたくなってしまいます。

とはいえ、かくいう私もかつて大学を卒業して、何社かの面接に行ったことがあるので、その緊張感はよくわかります。なかなか心臓バクバクものです。

雪の船原峠B

そうした面接では誰しもが普段の自分を出せないもの。しかし、それを逆手にとって、普段と違う自分を強烈にアピールし、内定を勝ち取る猛者もいたりします。

最近こうした就職活動における「都市伝説」を目にする機会があったのですが、これはなかなか面白いものでした。

例えば、面接担当者から「家業は何ですか」と聞かれた時、緊張の余り「か行」と間違え、「かきくけこ!」と言ってしまったという学生がいたそうです。

ほかにも、ある男子学生が、面接中に両手を組んで親指を回す?癖をし始めたところ、その落ち着きの無い態度に苛立った面接官は、「君にはそれしかできないのか」とたしなめたそうです。すると彼は、「いいえ、逆にも回せます」と言って指を逆回転させたというもの。

このほかにも、こうした類の就活に関する都市伝説はいろいろあり、有名なものとしては、サッポロビールの面接試験でのこと。質問に対し無言で何も答えない学生に、面接担当者が「なぜずっと黙っているのか?」と聞いたところ、学生は一言、「男は黙ってサッポロビール」と答えたといいます。

この回答によってこの学生は内定を得たそうですが、この話を聞いた他の学生が同じことをしたそうですが、「オリジナリティのない人間は不必要」と不採用になったとか。

ほかにも、具体的なメーカー名が出ていて有名な話としては、ある製菓会社の面接で「当社のCMソングを歌って下さい」と言われた学生が「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは…」と歌ってしまったというもの。

実は彼が受けていた企業は森永製菓で、このCMソングは明治製菓のものだったため、その学生は不合格となった、といいます。

これとは別バージョンもあり、別の学生もまた「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは…」と歌い始めてしまったのですが、途中でそのミスに気づき、その最後に、無理矢理「チョコレートはモッ・リナガ」と歌い切り、合格になったというもの。

さらには日産自動車の面接で「GNPとは?」と聞かれた学生が緊張のため答えられず、苦し紛れに「頑張れ・日産・パルサーです」と答え、てっきり不合格だと思っていたら、後日内定通知が届いた、というもの。

こうした話の中で極め付けは、ある航空会社(たぶんANAだと思いますが)の入社試験を受けた学生の話。

この試験ではある男子学生が担当者に自分をアピールしようとし、面接室に入るや否や「キーン」と言いながら両腕を広げました。

そして椅子に座ろうとした学生は面接官に「着陸許可を願います!」と尋ねたのに対し、面接官は「そのまま旋回して帰投しなさい」とひとこと。この学生は、やむなく両腕を広げたまま引き返し退室したといいます。その結果は当然ながら不合格でした。

こうした就職活動に関する都市伝説というかパロディというか、この類の話はちょっとネットを調べると山のように出てきます。

こうしたものを目にすると、就職難だ就職難だとよく言われますが、当の本人たちは案外と就職活動そのものに悲哀を感じていないのかもしれず、ある意味通過儀式として楽しんでいる風潮さえあるようです。万一就職活動がうまくいかなくても当分のあいだフリーターでいいや、と開き直っている人も多いのかもしれません。

最近の若者は欲がないともよくいわれます。

ある大学で若者にとってもっとも関係が深いと思われる「車」「酒」「貯蓄」「ネットショッピング」などの項目を中心としてアンケート調査を行ったところ、首都圏の20 代の若者の乗用車保有率は2000 年比で10 ポイント以上低下しているうえ、「乗用車が欲しい」と答えた人は半減したそうです。

また、20 代の「飲まない派」も10年前の3分の1 強になっているといい、家電製品などの他の耐久財や高額ブランド品、スポーツ用品でも「持っている」、「欲しい」の回答は半減し、「モノ消費」全般からの離脱が鮮明化している傾向が顕著だといいます。

こうした背景にはモノがあふれる一方、国内景気が低迷する中で育ってきた「成長を知らない子供たち」の価値観の変化の結果だとする指摘もあり、これに起因する無気力感が、就職活動にも反映されているのかもしれません。

ところが、月々の貯金額についても調べたところ、現在の若者は貯金をする人の割合がかなり増えているそうです。しかし、貯金をしている理由としては、「将来のため・貯めたい」という意見は少なく、むしろ大半の人が使うことを目的とした貯蓄をしているようです。

つまり、遠い将来の不安からではなく、近い将来自分が満足するために貯蓄している若者が増えていると考えられます。

その証拠に上述のように「欲しい」「所有したい」と考えるものがそれほど多くないにも関わらず、一方ではネットショッピングにおいては、ホテル・旅館の宿泊、コンサート・映画・スポーツなどのイベントチケット、乗車券・航空券などが上位に入っている購入対象物のようです。

モノは欲しくない、けれども今を楽しく過ごすためには貯金も厭わない、しかし、その使い道は刹那的……といった「今現在を謳歌する」ことに生きがいをもつ若者が増えているということなのでしょう。

そうした世相の中において、社会人として世に働きに出た人達のその職場における「働き甲斐」「労働意欲」といったものをいかにつなぎとめていくか、というのはなかなか興味深いテーマでもありますが、また非常に難しい課題でもあります。

ではどうすればいいのか、なのですが、なかなか難しい課題であり、今日はもうかなり長く書いてきてそこまで突っ込む元気もないので、また改めて考えてみたいと思います。

が、内向きになっている若い人達を外向きにする何かが今の日本には必要なのでしょう。それは何でしょう。みなさんも一緒に考えてみてください。

天城山冬景A

飛騨川の惨劇

涼水

プロローグ

1968年(昭和43年)8月18日の今日、岐阜県加茂郡白川町の国道41号において、乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうちの2台のバスが集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれ、増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡しました。

世にいう「飛騨川バス転落事故」であり、日本のバス事故史上における最悪の事故です。

実は、この事故には、私の遠い親戚が巻き込まれて亡くなっており、その親戚とは、私の父の叔母とその旦那さんにあたります。私とはどういう関係になるのかよくわかりませんが、「大叔母」ということになるのでしょうか。

父の母はこの叔母さんの実姉であり、この事故当時は既に亡くなっていました。しかし、父はその遺族である叔母さんたちとも交流があったようで、時に親しく会合などを持つ機会もまだ持っていたようです。

従って事故の報に接したとき、父は叔母夫婦が事故に巻き込まれたと聞くや否や、事故のあった岐阜までかけつけています。

そのことはさておき、この事故の経過についてみていくことにしましょう。

犠牲者となった観光バスの乗客の多くは、高度成長期のこのころ、名古屋市のあちこちで建設ラッシュだった、いわゆる「団地」の家族たちでした。

主催者はこうした団地の主婦を対象に無料新聞を発刊していた「奥様ジャーナル」という会社であり、バスの運行は名鉄観光サービスが引き受け、ツアー名は、「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というものでした。

乗鞍岳は、岐阜県の高山市と、長野県の松本市のちょうど中間あたりにある、標高3026mの山です。北アルプスの中南部に位置し、2,700m付近にある駐車場(畳平)まで乗鞍スカイライン(岐阜県側)や乗鞍エコーライン(長野県側)といった自動車道が通じています。

「日本で最も登りやすい3,000m超級の山」「ハイヒールでも上れる山」とも称され、マイカーが発達してきたこの当時もさかんに自動車登山が行われていました。ただ、現在では、環境保護のためのマイカー規制により、麓にある専用駐車場などからシャトルバス又はタクシーの利用が必要となっています。

こうした日帰りツアーは、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマ、飛騨高山の観光を手軽に楽しめる家族旅行むきの企画ということもあって人気がありました。このツアーもお盆休みの週末という日程もあいまって申し込み数は主催者側の予想を上回るもので、名古屋市内の団地を中心に750人以上の応募が集まりました。

貸切バスは、鉄観光サービス依頼からをうけた「岡崎観光自動車」が手配しましたが、何分大人数であるため、同社だけではまかないきれず、他の4社からも手配され、合計15台にも及ぶ大ツアーとなりました。




出発

こうして1968年(昭和43年)8月18日のこの日、名古屋市内の各団地で主催者側が用意したバスが乗客を拾いました。そして愛知県犬山市内の駐車場に午後9時30分に集結し、乗客を小休止させたのち、一行は午後10時に予定どおり車列を連ねて出発しました。

当初このツアーの行程は、予定では岐阜県に入って飛騨川の日本ライン沿いに国道41号を北進し、美濃太田(美濃加茂市)、高山、平湯を経由して目的地に向かう、というものでした。そしてバスの中で仮眠をとり、午前4時30分に標高3000メートル近い乗鞍スカイライン畳平で御来光を迎え、夕方に犬山へ戻り、各団地ごとに解散することになっていました。

片道160キロ。マイカーが発達している現在ならバス内での車中泊のツアーなどは考えにくいところです。しかし、高度成長時代とはいえ、このころはまだ一家に一台の車というのは夢のような時代であり、車中泊であれば宿代も浮くとあってたくさんの人が応募したのでしょう。

途中の飛騨川沿いを通るルートも、名古屋市内から北アルプスへ向かう人気の定番コースだったそうです。現場付近の国道41号は山側も谷側も切り立っており、落石の危険がある道路でもありましたが、バスの運行を任された運転手たちにとっても通い慣れた道だったといい、主催者側としても楽なツアーと考えていたようです。

ところが、その過信がやがて大参事を招くことになります。

流れ落ちる

暗転

8月17日の名古屋周辺は、日本海を北上する台風7号の影響で、朝からにわか雨の降るぐずついた天気でした。このため、岐阜地方気象台は午前8時30分に大雨洪水雷雨注意報を発表していました。ところが午後に入って小降りになり、ところによっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせて、夕方の午後5時15分にいったん注意報を解除しました。

午後7時前に放送された天気予報でも、岐阜県の天気は好転し翌朝は晴れるだろうと報じられていました。しかし、この当時は気象衛星による観測も端緒についたばかりで、気象台もこのあとの重大な気象の変化を把握しきれていませんでした。

ちょうどこのころ、北海道西側の沖合いに進んだ台風7号は、勢力を落として温帯低気圧となりました。その影響で大陸に横たわる冷たい空気との間で生じた寒冷前線が南西に延びて南下し、さらにそれに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気が「湿舌」のかたちで日本列島に入り込んできました。

このため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、各地で直径数キロ程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生しはじめます。これをとらえた富士山レーダーからの連絡により、岐阜地方気象台は午後8時にふたたび雷雨注意報を発表し、午後10時30分には大雨洪水警報に切り替えました。

ところがこのころ、岐阜県中部の旧郡上郡美並村では時間雨量114ミリ、白川町でも100ミリを越えていました。現地では既に過去の記録を大きく上回る集中豪雨となっており、その後日付が変わる前後には、岐阜県内各地で家屋の浸水や土砂崩が発生し、高山本線でも線路崩落が発生するなど、大きな被害が続出しはじめていました。

ツアーを主催していた奥様ジャーナル社は、標高の高い地点に客を誘導するだけに台風の動きを気にしており、午後7時の気象状況を岐阜の気象台に問い合わせたところ、予報と同じように天気は好天するだろうという答えを得ました。このため予定通りツアーの決行を決定しました。

一方、運行をゆだねられていた岡崎観光自動車以下の運行者側にも油断がありました。運転手ほか現場担当者は、1時間後の8時に発表された注意報、さらに午後10時30分発令の警報を把握せず、見逃してしまいました。

上述のとおり、天気が良くなると考えていた気象台は午後5時過ぎに注意報をいったん解除していました。解除されたのは午後8時までの3時間弱の間でしたが、気象台と同じく天候が回復すると考え、この間にツアー実施を決めた主催者側に責任はなかったといわれています。しかし、少なくともツアーが開催される前と最中の天候異変には気を配り、現場との連絡を密にすべきだったでしょう。

実はこのツアーには、主催者側も参加していました。しかも、奥様ジャーナル社長の一家と他の社員も同乗していました。このため、その気になれば道中、現地の気象状況を確認するよう社員を残しておくこともできたはずです。しかし同社の名古屋本社にはツアーの開催期間中、別の社員が気象情報をチェックするような体制は敷かれていませんでした。

しかし、当時は現在のようにインターネットでリアルタイムに気象情報を把握することができない時代です。また仮に名古屋市内の関係者が天候異変に気付いていたとしても、現場の運転手たちに連絡を取る手段はなく、現在のように携帯電話が普及していない時代では気象変化を現場に伝えることはできなかったでしょう。

車載テレビなどはなく、唯一の情報を入手する手段といえばラジオぐらいしかありませんでしたが、就寝中の乗客がいるため、運転手たちも夜間運行のバスで車載のラジオをかけることは難しかったと思われます。




回避

こうした旅行主催者側の認識の甘さと現場での情報不足が、やがて悲劇を生むことになります。

奥様ジャーナルの社長らを乗せた1号車を先頭に、16号車まで合計15台の車列は、連なって午後10時10分ごろに犬山を出発しました。このバス群の構成は、岡崎観光自動車に所属する1号車~7号車の6台を第1グループとし、別会社の混成である8号車~16号車の9台を第2グループとしたものでした。

1号車から7号車までが6台なのは、縁起の悪い4号車は省かれていたためです。乗客725名、主催者・運転手・添乗員48名のあわせて773名が乗車しており、乗客の多くは前述のとおり、名古屋市内の団地に住んでいました。

父の叔母夫妻が同様に団地に住んでいたかどうかまでは私も父からは聞いていないのですが、あるいは団地ではなく一般住宅に住んでいた可能性もあります。が、いずれにせよ名古屋市内在住であり、あるいはツアー参加者の中に親しい団地住まいの友達がいて同道することになったのかもしれません。

こうして10時すぎに犬山を出発した一行でしたが、案の定、出発直後から雨が降り出し、警報が出た10時30分ごろに美濃加茂を通過したあたりから激しい雷雨に遭遇します。

そして、犬山方面から国道41号を北上してきて、午後11時半すぎに、現在は下呂市となっている、旧益田郡金山町内の「モーテル飛騨」に、ほぼ予定通りに到着。ここまでの経路は運転手たちにとっては勝手知った道であり、多少雨には見舞われたものの問題なく走ってこれました。

ところがこのころになるともうすでに、毎時50ミリ以上という猛烈な雨が降り始めており、前方の「中山七里」では土砂崩れが発生しているなどの情報が南下してくる対向車などから次々ともたらされました。

このため、主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、それ以上の北行を断念。ツアーを一週間延期することとし、名古屋まで引き返そうということになりました。

この決断は、結果として最悪のものになりました。天候の悪化によりこれまで南から突破してきた何でもないはずの道路は、最危険地帯に変貌しており、そこへわざわざ逆戻りすることになったためです。



夏の日にA

生と死の境

このころ、時刻は午前0時を少し回っており、日付は8月18日になっていました。ツアーの中止を決めた一行はこうして岡崎観光自動車に所属する1~7号車の第1グループと別会社混成の8~16号車の第2グループに分かれ、合計15台のバスは激しさを増した雷雨をおかして帰路につきました。

そして午前0時18分には、逆戻りを始めた位置から10キロほど南の、高山本線、白川口駅付近にある「飛泉橋」という橋梁を戦闘グループが無事通過しようとしていました。ところが、橋を渡ったところで、5号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町消防団第二分団の署員に呼び止められました。

このとき、この消防署員は、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせるよう、この運転手に勧告しました。ところが、このころはまだ通行規制がまだ実施されていなかったうえ、先行する1~3号の僚車はすでにこの橋を通過して遠く先へ行ってしまっていました。これに追いつこうと多少焦っていた5号車以降の運転手たちは協議の上、先行車の追尾をすることを決意します。

こうして、5号車に続いて、6号車・7号車が1~3号車を追いかける形でここを通過し、結果としてこの6台が死の淵に直面する結果となりました。一方、やや遅れて走ってきた8号車を先頭とする第2グループは、この消防職員の警告に素直に応じて白川口駅前広場で待機し、結局この夜の豪雨をやり過ごして無事に朝を迎えました。

やがて、名古屋に向けて走り始めた続けた5~7号車が、ようやく先行する1~3号車の姿をとらえようとするころ、先頭を走っていた1号車が小規模な崩落現場に遭遇します。

この時点で南進を断念すれば、おそらく事故は発生しなかったでしょう。しかし、ここからは豪雨とはいえ順調に走れば名古屋まで2時間とかからない距離でした。このため、崩落現場に次々と到着したバスの運転手や添乗員は、ずぶぬれになりながらも協力して道路に落ちた土砂をスコップで除去し、無理やりバスを発車させました。

こうして順調に先へ進めるかと思いきや、その後運転手たちは、飛騨川沿いにある上麻生ダムというダムを過ぎて1キロほど進んだ所で、今度は大きな崩落のために道路が完全に寸断されているのに直面します。

この場所は、「飛水峡」という景勝地のある場所の上流で、白川町河岐下山地区というところでしたが、これによって完全に行く手を遮られた格好になった一行は、結局、白川口駅までの2キロほどの距離を逆戻りすることを余儀なくされました。

そのためには、バスをUターンさせる必要がありました。が、大型バスばかりであったため、通常の道路幅ではこれができません。しかも、転回のために路肩に余裕を持たせてある位置にも、運悪く木材を満載した大型トラックが左車線を塞ぐかたちで立ち往生していました。

結局6台とも転回不能という状況に追い込まれ、やむなく転回ができる場所まで順次バックしながら移動を開始することにします。まずは6台をまとめようということになり、最後尾の6、7号車からやや離れていた5号車以下が順次、右側車線をバックしはじめました。

転落

ところが、1時35分ごろに今度は最後尾の7号車の後方でも土砂崩れが発生しました。こうして、猛烈な雷雨のなかで6台のバスは完全に前後を塞がれる形となります。

間断のない雷鳴と稲光のなか、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外しました。このころのバスには、こうしたときに備えてヘッドライトが外せる工夫がしてあったようです。

こうして運転手たちは、手に手にヘッドライトを持ち、崖に向けて照射して鉄砲水の警戒にあたりはじめました。このとき、先頭になってバックを始めた5号車を補佐するために3号車の運転手が5号車に乗り込みました。その一方で、少し離れた位置にあった6号車の運転手も対策を協議するため7号車に移動していました。

この移動が、のちに運命を大きく変えることになろうとは、このときこの4台のバスの運転手たちは想像だにしていなかったでしょう。

前後を土砂崩れによって塞がれた中バックを続け、6台がほぼ一丸となるまでに約40分ほど経ったそのときでした。

のちに、犠牲者の腕時計で確認されたところによれば、時は午前2時11分。この場所は名古屋方面に向かって右側に飛騨川を望みながら並行して狭隘な山沿いを国道41号が走っている場所でしたが、この道路の左側斜面の崖が突如、高さ100メートル、幅30メートルにわたって崩落し、巨大な土砂崩れが発生しました。

ダンプカーにして約250台分の土石流は急斜面を轟音を放ちながら滑り落ち、5、6号車を直撃。この時、7号車も土石流を受けましたが、1メートルほど横滑りしながらもガードレールに運良く抑えられたため、滑落を免れました。

生き残った人によるのちの証言によれば、このときその生存者を乗せた7号車の目前で、二人の運転手を乗せた5号車と運転手不在の6号車は、赤いテールランプの光を引きながら15メートル下の増水した飛騨川の水面にゆっくりと転落していったといいます。

跳水

運命の分かれ目

残された7号車の車内では、外で乗務員たちが必死になってバスを誘導しようとしていたことも知らずに熟睡している乗客も多かったそうです。が、土砂崩れの大音響とバスにぶつかる土砂の震動に全員が飛び起き、目の前で僚車が落下していくのを目の当たりにした車内は騒然となったといいます。

落下していった5号車には、3号車の運転手と5号車の運転手の二人が乗っていましたが、このうちの5号車の運転手は、転落の途中で割れた窓ガラスから投げ出され、たまたまそこにあった立ち木に引っかかって助かりました。

一方、3号車から乗り移ってきていた運転手はそのままバスもろとも飛騨川の濁流に飲み込まれて命を落としました。結局この運転手ともども5号車6号車の2台のバスに乗っていた3歳から69歳までの乗員・乗客104名が亡くなりました。

助かったのは、当時30歳だったというこの5号車の運転手と、21歳の添乗員、家族4人でツアーに参加していた14歳の男子中学生の3名だけでした。この添乗員と中学生の二名も運転手と同じく割れた窓ガラスから投げ出され、木に引っかかったために九死に一生を得たのでした。

生還した5号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちがあげた「アーッ」という叫び声がいつまでも耳から離れなかったと、その後証言しています。

対応協議のために7号車に乗り込んでいた6号車の運転手もまた、直前の移動によって命拾いをしましたが、自分がついさっきまで運転していたバスが乗客もろとも転落していくのを目の当たりにすることになりました。

運命を分けた直前の移動は、こうして一人の運転手だけの命を奪うという結果になりました。しかも、亡くなったのは自分が運転していたバスにおいてではなく、移りこんだ別の僚車の中だったというところに運命の分かれ目を感じます。



救難

こうして残された運転手たちですが、事故後は、難を免れた運転手や添乗員たちと協力し、生き残った乗客たちを車外に誘導して安全確保に努めました。

その一方で、このうちの4人が救助を求めるため、事故現場から上流900mにある上麻生ダムの見張所に向かいましたが、このときも複数の崩落現場を乗り越える必要があったといいます。

豪雨下の漆黒の道をたどって見張所にたどり着いた彼らから事故の知らせを聞いた当直所員は、直ちに通信線を使って名古屋市内にある中部電力のダム本部に連絡しました。

また、二次災害を防ぐために消防団員と共に転落しなかったバスの乗員・乗客や一般ドライバーたちを誘導し、ダム付属の見張所や水門機械室、資材倉庫などに分散させて避難させました。

上麻生ダムの当直職員経由で、80キロ離れた美濃加茂市内にある、岐阜県警加茂警察署に通報が届いたのは、転落から3時間29分経過した午前5時40分でした。この間、かなりの時間が経過していたのは、事故が起こったのが、人々が寝静まっている真夜中という最悪の時間帯だったからでしょう。

桂川の光景

翌朝、加茂警察署の公表から、さっそくこのニュースはその朝から全国に報道され、こうして、その日は終日、テレビの報道はこの飛騨川バス事故の話題に終始しました。

私がそのニュースに接したのは、おりしも夏の高校野球の甲子園大会をテレビでみていたときのことでした。

たしか、父とともに山口の母の実家で地元広島の高校の応援をテレビでしていたときのことであり、臨時ニュースを目にし、その直後に被害者のリスト名が流れ始めてしばらくしたあと、突然父の目が食い入るようにそのテレビ画面にくぎ付けになりました。

そして、何度か流れるその同じリストを確認したあと、こりゃー大変だ、というようなことをつぶやき、急いで電話をかけるために部屋を出て行きました。

その日のうちに、父は情報収集のためか、山口を立ち、岐阜へ向かいました。このとき小学生だった私も父の口から親戚がこの事故に巻き込まれたことを聞き、その日一日中、テレビで流れるそのニュースを食い入るように見ていたのを覚えています。

このニュースが流れていたころの、8月18日の日中には、岐阜方面の天候はかなり回復してきていました。このため通報をうけた加茂警察署ほかの4警察署機動隊や各地域の消防団、さらには陸上自衛隊などが岐阜県から災害派遣要請を受けて救助活動にあたるなど、はやくも捜索活動が本格化していました。

しかし、この事故現場付近は飛騨木曽川国定公園にも指定されている名勝・飛水峡の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立った峡谷を形成しており、すぐには100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できませんでした。

事故翌日の8月19日10時30分ごろになって、ようやく転落現場から約300メートル下流で5号車がタイヤを上に無残に押しつぶされた状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容されたほか、転落現場周辺で23名の遺体が発見されました。

ただ、6号車や他の行方不明者は発見できませんでした。普段から日本有数の急流であるのに加え、豪雨に伴う余りにも激しい飛騨川の流れの前には救助活動としてできることは限られています。ただただもどかしい時間だけが過ぎていきましたが、この間も行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を繰り返し行っていたといいます。



捜索

結局、この捜索活動は後日上麻生ダムのみならず、さらに上流にある名倉ダムの発電放流までも利用して行うことになり、水の引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない6号車の捜索を行わせることになりました。

上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから、「水位零(ゼロ)作戦」と名付けられ、8月22日の朝8時から決行されました。

上流部で降雨がないことを確認し、事故現場の上流にある両ダムのゲート操作を行い、下流への放水を可能な限り抑えた結果、事故現場付近の飛騨川の流量はほぼゼロとなりました。くだんの6号車は転落地点からおよそ900メートル下流の川底から半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかりました。

6号車の発見時の状態は5号車よりもさらに無残な状態でしたが、このときの捜索では社内から子供の1遺体が発見されただけでした。

しかも、ゲート操作をしてから30分後には、名倉ダムの貯水池が満水になり危険な状態となったため、放流を再開しました。ダムの緊急止水は、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置であり、その継続はまた別の災害を引き起こす可能性もあるためでした。

バス転落事故に際しての緊急事態であったとはいえ、もはや生存者の発見は絶望的と考えられての放流再開でした。しかしこの水位ゼロ作戦によってとりあえずは行方不明であった6号車は発見され、難航する捜索活動に大きく貢献しました。

この「水位零」は翌8月23日と24日にも再度実施され、この間、ようやく6号車の引き揚げに成功。しかし、車体はひらがなの「く」の字に折れ曲がり、屋根も座席等もえぐりとられて見る影もなく、濁流による水圧がどれほどすさまじいものだったかを、あらためて捜索隊に見せつけました。

その後も捜索は続けられ、さらに下流の捜索が必要として今度は、現場よりもさらに下流にある川辺ダムの人造湖である「飛水湖」に捜索範囲が拡大し、川辺ダムの貯水をも全放流して湖を空にしてまでも捜索が行われました。

こうした措置は、1937年(昭和12年)に川辺ダムが完成してから初の試みであったといい、空になった飛水湖には捜索隊1,000名が入って捜索を行いました。

この川辺ダム湖の捜索を初めとし、その後の捜索の結果、行方不明者の多くが発見されました。その死因の多くは急流渦巻く飛騨川に投げ出されたための溺死であり、中には遥かかなたの知多半島にまで流され、付近の海岸に漂着した遺体もありました。

魚が死体を食っているという根拠のない風評被害で伊勢湾の漁業者が打撃を受けるという余波もあったといいます。

このため、捜索は下流のさらに広い範囲に拡大され、最終的には、陸上・海上・航空自衛隊員9141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、のべ36683名が投入されました。そして、飛騨川・木曽川、さらには伊勢湾まで1か月以上にわたり捜索が続けられました。

多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくっては消防車の高圧放水で洗い流すという措置までとられた結果、死者・行方不明者104名のうち、最終的には9名の遺体が未回収となっただけでした。

しかし、収容されたとはいえ、これらの遺体の中には腕だけというものもあったようです。航空機事故さながらに損傷が激しく、DNA鑑定のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルも起きたといいます。

松川湖にて




無言の再会

前述のとおり、亡くなった乗客たちの多くは、名古屋市内の団地住民で、ファミリー向けのツアーだったことから一家全滅した家庭も4家族ありました。そのうちの3家族は、いずれも旧満州からの引揚者だったといい、戦後の混乱が治まり、高度経済成長のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事でした。

産経新聞の記者が伝えたあるエピソードの中に、私の父のように事故直後に現場にかけつけたある男性の話があります。この男性は、はるばる仙台から遺体安置所を訪れたのでしたが、名古屋の実家に帰省していた妻と娘二人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたのでした。

敬虔なクリスチャンだったそうで、最初に発見された妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」と新聞記者のインタビューにきわめて平静に応じていたそうです。ちょっと冷静すぎるのでは?と思うほどの落ち着きぶりだったそうですが、数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報がこの遺体安置所に流れました。

多くの人が現場に駆けつけたそうですが、そのなかにこの男性もいました。彼は50メートル上の国道41号から、見る影もない遺体を見るや、瞬時にそれが娘であることを判別してその名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつきました。

そして、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで上がってきたといいます。

この男性のように、家族をすべて失った人も少なくなく、自らもツアーに参加していた「奥様ジャーナル」社長も、5号車に乗っていた妻と長男を失いました。しかも彼は大惨事をもたらした当事者として、その後被告人とし法廷に立つこととなりました。

私の父は、叔母と義理の叔父の二人を亡くしただけでしたが、その後遺体が発見されたかどうかは父の口からは聞いたような記憶がありません。なので、発見されなかった9名の中に含まれていたのかもしれません。

裁判と補償

その後、事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった裁判が行われました。

生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視など業務上過失致死の容疑があるとして書類送検されました。しかし事故発生から4年が経った1972年、岐阜地裁は、消防団の警告に従わなかった運転手の判断に誤りはあったものの、災害回避に全力を尽くしたなどの理由で無罪の判決を言い渡しました。

また、主催者「奥様ジャーナル」の社長も状況判断のミスを裁判で問われましたが、結局過失の認定はされず、無罪となりました。

しかし、自然災害によってもたらされる大惨事であったとはいえ誤った判断に伴う人災という側面も垣間見えることから、ツアーの運営関係者らには世間から非難が集中したようです。

とはいえ、この世に起こっているすべてのことは必然です。この事故もその後の同様の事故を防ぐために起こりうるべくして起こった事故なのでしょう。

この当時、第2次佐藤内閣の内閣総理大臣であった佐藤榮作は、事故発生を知ると、その翌日には対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置しました。

そして道路管理者である建設省には瑕疵(かし)がないことを前提にした上で、岡崎観光自動車を対象に自動車損害賠償責任保険(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させたそうです。

自賠責保険では運行者の過失割合にかかわらず、事故により負傷した者は被害者として扱われ、相手の自賠責保険から保険金が支払われます。しかし、事故を起こした車の保有者及び運転者にまったく過失が無い、とされた場合には支払いは行われません。

ところが、現地を調査した損害保険会社調査団は、事故の原因となったがけ崩れは不可抗力であり、バス会社への業務上過失致死傷罪は問えない、としました。

これは自賠責保険に入っていた運行者は「無責」であるため、自賠責の支払いの対象とはならないとの認識を示したものであり、この判断を国家公安委員会が追認し、また岐阜地方検察庁も岡崎観光自動車を不起訴としました。

しかし佐藤首相はこれに異を唱え運輸省に命じて独自の調査を行わせました。その結果、当時の運輸大臣であった中曾根康弘氏が、その見解をまとめて閣議で報告。

その結論として、この事故は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務を怠っていたものではあるものの、その最終責任はこれを統括すべき運輸省にあるとしたものでした。業務上過失責任を負うべきは運輸省であるとしたものであり、これによりこの事故は自賠責の対象となりうるとの見解を示したものでした。。

無論、このときの運輸省は中曽根氏自らが統括する組織です。あくまでこの件に限り被災者を救済するための措置でしたが、この結論は閣議で承認され、特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなりました。

こうしてこの一件は後に「道路施設賠償責任保険」が誕生する契機にもなりました。これは、道路管理がしっかりとなされていない道路で生じた事故に対して、この道路を管理する官公庁に対して賠償金を求めることができる制度です。

柿田川F




訴訟

こうした救済措置は、無論事故により家族を失った遺族には朗報でした。しかしその一方で遺族たちは、「飛騨川バス事故遺族会」を結成し、天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対して損害賠償を求めました。

交渉は半年近くに及びましたが、翌1969年(昭和44年)3月9日、総額4090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立しました。

さらに遺族たちは、国に対しても損害賠償を求める訴訟を起こしました。彼らは当初から道路管理は適正と主張していたことに対しても不満を持っており、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとの認識を持っていました。

こうして国の国道管理に対する責任を問い、総額6億5,000万円の国家賠償を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こしました(飛騨川バス転落事故訴訟)。

これに対して名古屋地裁は1973年(昭和48年)、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9,300万円の賠償を国に求める判決を下しましたが、原告の遺族会はこれを不服として控訴。

翌年に行われた名古屋高等裁判所の控訴審判決では、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であったとして道路自体の欠陥は否定しながらも、事故現場付近で斜面崩壊が起きる危険性は予測可能であったとしました。

結局、通行禁止などの措置をとらなかったことを瑕疵と認めるなど原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じました。

この判決に対して国側は上告せず、結審しましたが、この裁判を契機として、国側には災害時における国道の防災体制を見直す機運が生まれました。事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されるようになり、これは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになりました。

また雨量にもとづく事前通行規制も制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られるようになりました。この雨量規制は現在は国道だけでなく都道府県道などすべての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されています。

事故が発生した現場である国道41号でも、現在では連続雨量が80ミリを超えた場合、加茂郡七宗町中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになるように規制が加えられるようになっています。

エピローグ

この事故が必然であったとするならば、こうした我が国の道路防災管理において大きな変革をもたらしたという点で大きな意味があります。また道路だけでなく、鉄道などの交通施設整備における防災管理にも大きな影響を与えたと考えられます。

亡くなった104名の犠牲者たちの魂はこのことのために捧げられたといっても過言ではないでしょう。

その後も、豪雨による土砂崩れによる事故は後を絶ちませんが、近隣のアジア諸国では頻繁に起こっているような犠牲者が3ケタにも及ぶような大参事はその後我が国では生じていません。事故後の一連の制度の導入が大きな効果があったことの証明となっています。

この事故現場には、事故の翌年の1969年(昭和44年)8月18日、国道41号脇に慰霊のため、全国からの浄財で「天心白菊の塔」が建立されました。偶然なのか必然なのか、この塔の除幕式の日に、現場から1キロ下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見されたそうです。

この慰霊碑は、現在でも現場近くの上麻生発電所員によって毎月清掃活動が続けられており、慰霊祭も毎年命日である8月18日に行われていました。しかし、遺族たちも高齢化してきたため、2002年に実施された33回忌を期に遺族会は解散し、その後は継続されていません。

ただ、2008年8月18日に事故から40年目の慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列しました。その際、既に亡くなっていた遺族会会長の息子が参加し、その手にはひとつのブロンズ像が握られていました。

かつて遺族たちから白い目で見られていた岡崎観光自動車の社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像だったそうです。遺族の反発から現場への設置が見送られてきたものでしたが、このとき初めて会場に安置されたのでした。

時間の経過とともに憎しみは悲しみに、悲しみもまた加害者として長年苦しんできた相手へのいたわりに、とかわっていったということでしょう。

ちなみに、このバス事故で亡くなった私の父の叔母は、男一人女四人の5人兄妹の末っ子だったようです。その姉であり、5人兄妹の次女が父の実母(私にとっては祖母)になるわけですが、父が幼いころに亡くなっています。

余談ですが、その亡くなった日というのが12月10日なのですが、同じ日に父も亡くなりました。偶然といえば偶然なのですが、私は亡くなった祖母が、自分が亡くなったとのと同じ日に父を招いたのだと信じています。

叔母夫婦の事故の報に際して、血相を変えて岐阜までかけつけた父もまた鬼籍に入りましたが、この叔母夫婦や祖母たちとも再開し、あの世で我々を見守ってくれているはずです。

この項を書きつつも、こうして亡くなっていった先祖や親族たちの魂の積み重ねの上にこの世に生を受けて生き続けているのであろう、今の自分が存在している意味を改めて考えてみたりしています。

こうした45年も前に起こった出来事の意味を、この場を借りて改めて人々に再確認してもらおうとしていることもその存在意義のひとつかもしれません。

皆さんも同じです。必ずこの世に必要であるから生まれてきているはずです。改めて、自分が生を受けた意味を考えてみてください。

凛01



落雷にご注意

大瀬崎夕景
お盆の三が日、終戦記念日も終わり、そろそろ夏も終わりかな、というかんじになってきました。

2~3日前あたりから、夏の終わりを告げるというツクツクボウシも鳴き始め、庭のコスモスも大きく育って秋への準備万端といったかんじです。

ところが、ここ2週間ほどは、富士山は一向に姿を見せません。伊豆より北方面の大気は、夏の間上昇気流が起こりやすく、湿っているためだと思われます。御殿場方面では結構雨量が多いと聞いたことがありますが、先週末にも落雷を伴う激しい雨が降り、2000世帯以上で停電になったと聞いています。

なぜ雷が落ちると停電になるのか、についてですが、なんとなく想像できるのですが改めて調べてみると、これは、雷が変電所などに落ちた場合、この影響により過渡的な異常高電圧が生じるため、電気を送るための機器などが破壊されるためのようです。

専門用語では、「雷大波電圧」といい、または「雷サージ電圧」とも呼ぶそうで、一般的には「雷サージ」と呼称されているようです。

雷サージは、こうした電力会社の送変電施設などへの落雷による停電だけでなく、携帯電話のアンテナなどの通信施設などへの落雷による通信ダウンをひきおこすことがあり、施設被害に加え、停電、通信サービスの停止などの間接被害が発生します。

雷は、こうした電力通信施設以外にも当然落ちることがあるようですが、一般住宅を直撃するといったことはあまりないようで、これよりも背の高いマンションなどの集合住宅などに落ちやすいようです。

こうした背の高い建物には、一般には「避雷針」が設けられていて、ここを経由して地下に電流を逃がすことができるために大きな被害になることは少ないようです。

ただし、落雷電流の一部がその接地地点を経由してさらに建物内に回り込み、電気機器などに及ぶこともまれにあるそうで、こういうのを「直撃雷サージ」というそうです。

雷は、背の低い一般住宅にはあまり落ちないと書きましたが、たとえ住宅には落ちなくても、近くの樹木などに落雷した場合などでは、猛烈な電磁界により、その近傍の電線などに過大な電流を生じ、引いてはこれが一般住宅に及ぶことがあり、これを「誘導雷サージ」といいます。

さらに、稲妻は放電現象であるため、雷雲の内部などで放電が起こった場合、たとえ落雷に至らなくとも、雷雲と大地の間にぶら下がった状態のある送電線などに過大な電流が流れることがあるそうです。

これも「誘導雷サージ」の一種だそうで、こうしたことから、例え雷は遠くに聞こえていて落雷のおそれはなさそうでも、その接近には気を付けておいて「雷サージ」が発生する可能性を心配しておくにこしたことはなさそうです。

では、雷サージが発生すると何が起こるか、ですが、まず考えられるのは、家電製品などの損傷です。ときに修理不能になるほどのダメージを受けることもあり、特にパソコンなどの電子機器は雷の影響を受けやすいといいます。

一般家庭の多くは適切な雷対策がなされていないことも多いと思いますが、著しい雷サージが発生した場合、例えブレーカがあっても、ブレーカそのものが雷サージに耐え切れず、火災に至ることさえあるそうです。

一応JIS規格などでは、ブレーカのサージ耐力基準が定められてはいるものの、技術的限界より、単体として雷サージに完全に耐えられるものとはされていないといいます。

じゃあどうすればいいのよ、ということになるのですが、いまのところどうしようもありません。多大な費用をかけて特注のブレーカに買い替えるしかなさそうです。

とはいえ、ブレーカーが壊れるほどの著しい雷サージはあまり例がないそうで、確率的にもその可能性は低そうです。また、落雷の可能性があるとき、ブレーカをあらかじめOFFにしておけば、サージによる電流の伝播のカットにつながるため、例えばブレーカーが破壊されたとしても家電製品などの防護としては多少有効な対策となるようです。

ただし、家電製品などにも対策を施しておいた方が無難です。

雷サージ電圧は大きいため、一般的な電気機器の場合、電気機器の電源スイッチを切の状態として電源が入っていない状態にしていたとしても、多くの場合その効果は期待できず、電源スイッチを飛び越して雷サージ電流が流れます。

ブレーカをOFFにした場合でも、直前に電源用「避雷器」がない場合、30パーセントのサージが建物内部に侵入するといわれており、このため、雷注意報が発表された時などには、損傷して欲しくない機器につながる電源ケーブルや電話線などの全てをコンセントなどから抜くことが最も望ましい対策です。

富士吉田にて

しかし、雷が鳴るたびに、家中の電機機器のコンセントを抜いて回るのは大変なので、できれば避雷器があるにこしたことはありません。

この「避雷器」というのは、雷サージが発生するようなときには、自身が故障して大電流をバイパスさせ、他の部分や機器を保護する機械です。

ところが、日本では2011年現在、未だこの機械の安全審査・認証制度が進んでおらず、あまり普及しているとはいえません。2006年時点で、避雷器付住宅用分電盤の出荷数は全出荷数の1~2%だそうで、ほとんどの家には設置されていないようです。

従って、避雷器がない家庭では、雷サージが建物内部に侵入する可能性はかなり高いといえ、このため、雷注意報が発表されるような状況では、念のために、ブレーカを開放(OFF)にし、さらに電源ケーブルや電話線などの全てをコンセントなどから抜く、というのが現状では最善策となっています。

雷サージによる被害を軽減するための、いわゆるサージプロテクタとして、コンセント取り付け型あるいはテーブルタップ型の器具なども市販されており、またサージプロテクタが内蔵の無停電電源装置などもあるのですが、これらには全て限界があり、過信は禁物です。

日本の場合、一般民家以外の高層建物・機器に関する雷対策技術は世界トップレベルにあるそうで、例えば、世界の油タンク火災が圧倒的に落雷により発生しているのに対し、日本では統計のある1962年以降、落雷により発生した火災はわずか2件だそうです。

しかも最後の事故は1987年であり、以降、雷による事故報告はガソリンスタンドなども含めて1件もないといいます。

ところが、一般家庭への雷対策普及は遅々として進まず、年間、少なくとも数万件、数千億円の被害が発生し続けているといわれ、以前からも専門家の間で、「官民ともに一般の防雷意識が低い」ためであると指摘され続けてきた経緯があります。

前述のとおり、避雷器の普及も進んでおらず、その普及率が1~2%程度にすぎないというのは、強制力を持って一般家庭への避雷器設置が進められている欧米諸国と比べると、この数字は桁違いに低い数字だそうです。

法律的なことや電気配線のことはあまり勉強していないので詳しいことはよくわかりませんが、日本では、たとえ避雷器などがなくても、一般家庭の家屋内の現行の電気配線規程などをちょっと変えるなどの対策を講じるだけでも、80%以上の家庭で雷サージを防止できるようになるという研究結果もあるようです。

これまでのような無策のままでの雷被害の放置は行政の怠慢です。一般住宅の雷被害が年間、数万件も発生し続け、莫大な損失を出し続けているというような状況を改め、一刻も早く対策を施してほしいと思います。

某△務省消○局が推進している、悪名高き「火災報知器」の設置なども、全く無意味だとはいいませんが、所詮は小手先の対処療法にすぎません。火災が起こったあとに警報が鳴るような機械の導入を優先するより、こうした火災を予防する避雷器の導入のほうがよっぽど重要だと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

さて、このように雷による建物や電気機器による被害も甚大な我が国ですが、雷の直撃を受けて亡くなったり、重傷を負ったりする人の数も少なくないようです。

とはいえ、落雷による被害のおよそ全数を把握する体制・システムすら整備されていないのが実情のようで、これも△務省がやるべきなのでしょうがその作業を怠っていて、数字としてあらわれてこない雷による軽傷事故がどのくらいあるについてはまったく不明な状況のようです。

ただし、死亡事故は記録されやすいのでわりとはっきりしていて、2005年時点の世界平均では、全被害者のうち死亡者は30%程度とされているのに対し、日本では被害者の70%が死亡しているといわれ、日本の落雷事故による死亡率は異常に高い状況です。

この理由としては、日本では雷が発生した場合、屋外にいたほとんどの人が、危険な木の下などで雨宿りをしたためと考えられており、こうした高いものに落ちやすい雷の特性をよく理解していないためのようです。

高いものに落ちやすい、と書きましたが、正確には、落雷直前の稲妻からの雷撃距離を半径とする球内にある最も近いところに落ちる、というのが正しく、これは稲妻の最終停止位置と高いものとの距離が雷撃距離以内になる確率が相対的に高いというだけのことです。

従って、高いものの近くにある低いものへ落雷する確率は確かに低くはなります。しかしこれはあくまで理論上の話であって、実際の雷雲に電気が溜まっている範囲は数キロ以上と広く、この範囲の中では、落雷の起きない場所を探すほうが困難といわれています。

落雷は雷雲下のみならず、雷雲の周辺までも含め、広範囲に不規則に発生する性質があるということであり、つまり、雷雲がやってきたらその近くにいること自体がそもそも危険ということです。

だからといって、高い死亡率は、これを防止していない役人のせいだというのは言い過ぎで、国民一般の間で、雷に対する危険度の認知が低いのが原因です。ただし、「防雷意識」の啓蒙が進んでいないからではないかというのが専門家のもっぱらの意見であり、この啓蒙活動を国が怠っていることも原因のひとつといえます。

ちなみに米国では2008年現在のデータで、年平均被害者数400名、死亡者数62名であり、死亡率は15.5%と低く、これはアメリカではトルネードと同じく雷の被害が大きいため、官民をあげてその危険性をアピールしており、国民もこのためこれらの災害がどれほど恐ろしいかを知っているためです。

そういえば、私などもあまり小中高校などでも、雷が来たときの対処の仕方を教えてもらったというような記憶がなく、むしろ雷鳴がしたら、高い構造物の下に避難しろ、といった間違った指導をされたような記憶すらあります。

今年の7月8日に東京の荒川近くであった落雷での死亡事故も、高い木の下に逃げ込んだことが被害を大きくした要因でした。

荒川の中州で釣りをしていた男性4人は突然のゲリラ雷雨に遭遇し、まず中州にある簡易休憩所として作られた屋根のある「あずまや」に駆け込みましたが、この小屋は簡易な造りだったため、横殴りの雨が厳しく当たるためここでの雨宿りを諦めました。

そして、中洲に植えられている大きな木の下に避難したそうですが、不運にもこの木に落雷があり、一人が死亡、2人が重傷を負いました。残りの一人は木から3メートル以上離れた場所にいたため軽症で済んだといいます。

この大きな木に落雷したというのも、たまたまであり、おそらくはこのほかにも高い木はあったことでしょう。落雷直前の稲妻からの距離が最も近いところが、この木のてっぺんだったからというだけのことであり、稲妻の発生位置が少しずれたいたら、少し背の高い程度の灌木にだって落ちていたかもしれないのです。

秋風の中

この例からもある程度想像できると思いますが、屋外にいて雷に遭遇した場合、つまりはどこにも安全な場所はない、と考えたほうが良さそうです。ただ、背の高いものには落雷する確率は高いということは間違いなく、雷光をみたら、高いものを避けるにこしたことはありません。

雷があっても、直ちに避難することができるような大きな建物がないような場所にはできるだけ行かない、あるいは雷の発生が予想される場所に出かけるときには、あらかじめ天気予報に十分注意することが必要です。そもそも雷の発生の恐れのあるときにはそこへ出かけるのをはじめから控えるのが鉄則です。

そして、それでもそういう局面に出くわしてしまった場合は、黒い雲の接近をみたり、雷鳴が聞こえたり、急な冷たい風を感じたときにはできるだけその場所から遠くへ逃げることです。

雷予報の活用もかなり有効といえます。

かつて雷の詳細な予報は困難であり、天気予報においても雷注意報などで注意を呼びかけるにとどまっていましたが、現代では、気象庁も落雷を予報する「雷ナウキャスト」を2010年から運用しており、これは、日本全国を精度1000m四方、60分先まで10分刻みの局地落雷予測を行うとい精細なシステムです。

しかし、雷の挙動は速く、雷雲の形成開始より、わずか10分程度で落雷に至ることもあれば、数十キロメートルの範囲で同時に落雷する、さらに前線に伴うものなどでは、同時刻に落雷の起きる範囲が数百キロメートルといったことも珍しくありません。

雷雲の形成開始よりわずか10分程度で落雷に至ることもあり、このため「雷ナウキャスト」といえどもピンポイントで「落雷警報」が出せるのはせいぜい10分前です。

従って、日本においては、現時点で雷から身を守る方法としては、まず外出前に雷注意報が出ているかどかを確認することと、外出先で雷ナウキャストのような電子情報が得られないような場合、黒い雲の接近・雷鳴・急な冷たい風などが発生したらすぐに大きな建物に避難することが唯一、身を守る方法です。

簡単なことのようですが、意外にこれがみなさんできていません。

情報がない場合、とかく我々は雷が鳴ると、大きな木の下に身をひそめ雨宿りを兼ねてここで雷が通り過ぎるのを待つ、といった行動をとりがちですがこれは間違っており、こうした場合にはひたすら高いものを避け、身を低くして、他人の家でもいいからともかく家屋に飛び込む、これだけでも、かなり死亡率は低くなっていくのではないでしょうか。

ただし、山の中ではそうはいきません。避難する建物もなければ、身をかがめようにも周囲は高い木ばかり、といった状況下に置かれるのは目にみえています。

このときの対策は、といえば、その答えとしては、対策はない、ということです。従って雷が発生する可能性のある時期にその山へ入ったこと自体が判断ミスということになります。

かつて、1967年に、西穂高岳落雷遭難事故という大きな落雷事故がありました。同年8月1日に長野県の西穂高岳独標付近で高校生の登山パーティーが被雷した事故です。

この日、長野県松本市の県立松本深志高等学校二年生の登山パーティーは、北アルプスの西穂高岳にて教員の引率による集団登山を行なっていました。この集団登山は個人での登山による危険を避けるため、希望者を集めて毎年学校が主催している行事でした。

参加人数は教員5人を含む計55人であり、7月31日に松本市を出発して上高地で一泊し、1日の朝から西穂高に登山して、翌日下山、松本市に帰る予定でした。

参加者のうちの9人は体調が心配されたため、残る46人で登頂が開始されましたが、正午過ぎから天候が悪化し、大粒のひょうまじりの激しい雷雨となったためパーティーは避難行動をとりはじめました。

避難路として選んだ道を下山し始めた午後1時半頃、途中のガレ場を一列で下っていたところに、一行は突然の雷の直撃を受けます。これにより生徒8名が即死、生徒・教員と同じ道を下山していた会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、事故直後に教員が点呼をとったところ、生徒3名が行方不明であることが判明しました。

すぐに事故現場にほど近い西穂山診療所の医師らが現場に向かい、遺体と負傷者を山稜にある西穂山荘に収容し、無事だった生徒と教員も山荘に避難しましたが、行方不明者の捜索は濃霧により翌朝まで延期されました。

同日夜には事件の一報を受け、たまたま近くの上高地にいた東京医科大学の医師2名が救援に駆けつけたほか、自衛隊松本駐屯部隊のレンジャー隊員らが自発的に救援に向かいました。松本深志高校にはその日のうちに対策本部が設けられ、同校長を含む教員5名が上高地に向かいました。

翌朝には長野県警と高校OBによる行方不明者の捜索が開始されましたが、不明になっていた3名は、結局尾根から300メートル下ったガレ場で遺体となって発見され、これによりこの事故での犠牲者は合計11人となる大参事となりました。

同日の朝には無事だった教員と生徒が下山を開始し、自衛隊のヘリコプター2機が現場に到着して負傷者を松本市の病院にピストン輸送をはじめ、遺体は高校OBの手で上高地まで下ろされた後、同じく自衛隊のヘリで高校まで輸送されました。

登山中のみならず通常の落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、この事故では、新聞各紙が一面で報じるなど大々的に報道され、全国に衝撃を与えました。

学校登山の歴史に残る大惨事であり、1913年(大正2年)に同じ長野県の中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の生徒が気象遭難し、計11名の命が失われて以来の大事故でした。ちなみに、この中箕輪高等小学校の事故は、作家の新田次郎が、「聖職の碑」と題して作品化しています。

長野県はこうした学校をあげての登山を行うことがさかんな県として有名ですが、県下ではこの落雷事故の影響で登山行事を一時的に中止し、これを契機にこうした行事を廃止した学校も少なくなく、またこの当時は引率教員の責任を問う声もありましたが、最終的に過失責任は問われませんでした。

山中湖にて

この当時、事故発生当日の気象状況についてはよくわかっていませんでしたが、その後1990年代になってから、この当時の落雷発生のメカニズムが次第に解明されるようになり、と同時にこうした時期の登山の危険性が次々に明らかにされるようになりました。

その結果として、落雷による人身事故は適切な安全対策を実施することによりある程度少なくすることが可能である、と考えられるようになり、避雷の知識を事前に十分習得し、雷の性質に対する正確な認識をもとに事前に準備しておけば、事故の発生は十分に回避できると、いわれるようになりました。

しかし、登ってしまってから落雷の発生を知っても遅く、このため落雷に遭う危険性のあるような高い山への登山については、雷の発生が少しでも予想されるのならば、迷うことなく中止判断されるべきである、とも考えられるようになりました。

こうして、平成20年から文部科学省は学校での安全教育、災害安全に関するものとして、小学生から高校生までそれぞれを対象にした「災害から命を守るために」という防災教育教材を配るようになり、この中で落雷被害防止について詳細な解説に及ぶようになりました。

その内容としては、例えば、

・厚い黒雲が頭上に広がったら、雷雲の接近を意識する必要があること。
・雷鳴はかすかでも危険信号であり、雷鳴が聞こえるときは、落雷を受ける危険性があるため、すぐに安全な場所(鉄筋コンクリートの建物、自動車、バス、列車などの内部)に避難する必要があること。
・また、人体は同じ高さの金属像と同様に落雷を誘因するものであり、たとえ身体に付けた金属を外したり、ゴム長靴やレインコート等の絶縁物を身に着けていても、落雷を阻止する効果はないこと。

などがあり、これらにはそれまでの研究者による科学的な知見に基づく研究成果が生かされています。

また、「屋外での体育活動をはじめとする教育活動においては、指導者は、落雷の危険性を認識し、事前に天気予報を確認するとともに、天候の急変などの場合には躊躇することなく計画の変更・中止等の適切な措置を講ずること」の一文にもあるように、学校関係者に対しては、危険性のある登山は危険が察知された段階で中止するよう釘を刺す文面となっています。

そして平成25年6月に文部科学省は、指導者、すなわち引率教員などの個人レベルで、有事にはためらうことなく落雷事故防止のための適切な措置を講ずる旨(つまり迷ったら中止するという意)を全国の小、中、高等学校等に通達しています。

実は、こうした通達措置は、欧米諸国に遅れること20年以上も経っているといい、それまでそうした通達すらされていなかったことが驚きですが、これによって日本でもようやく落雷人身事故は「人災」と認識されるようになり、正式に欧米諸国と同程度の具体的な取り組みが各学校単位で実施されるようになりました。

以上みてきたように、日本における雷対策というものは、建物や電気器具だけではなく、人の命を守るという点においても、長い間十分な対策が取られてきていないことがわかると思います。

地球温暖化のためもあってか、雷被害は年々増加しているといわれており、今後はたとえ、官公庁が定めていなくても自前で被雷器を導入したり、落雷に対する正しい知識を持ち、間違った行動をとる人を諌め、適切な避難行動をとれるようになることが大切です。

ちなみに、避雷器っていくらぐらいするの?と調べてみたところ、配電盤にとりつけ家全体をカバーするような大掛かりなモノでない限りは、5000円前後で手に入るようです。

最近は、避雷器付きのUPS(無停電電源装置)なんてのもあるようなので、停電対策と雷対策を兼ねたい人にはこうしたものを探すのも良いでしょう。私も大事なデータの入っているパソコンにだけは、この装置を導入しています。

が、いかんせん、そうしたものをどのように導入すればいいのかといった、指針のようなものを国が主導して示すことが先決でしょう。

政府は火災報知器の導入なんて後回しにして、本当に必要なこうしたものの普及に努力して欲しいと思うしだいです。

さて、お盆は終わってもまだまだ暑い日が続きそうです

そういえばまだ今年はスイカを食べていません。暑い日が続いているうちに、ほんのちょっとだけでも夏の気分を味わいたいもの。今日は午後から買いに出かけましょうか。

戸田港にて

ネコはツクモ神

酷暑は一段落したようです。

一昨日は伊豆も35度を記録し、我が家の温度計も34度まで上がり、さすがにいたたまれず、この夏、初めて日中からクーラーを入れました。

夏でも涼しい北海道では、クーラーすら入れていない家が多いといいますが、北のはての彼の地でも時折こうした熱波が襲うことがあり、そうした際にはクーラのない家では結構往生する、という話を聞いたことがあります。

それに比べれば、クーラーを完備している我が家ではかなりましといえるのですが、ところがクーラーのうちの一台が、長らく使っていなかったせいかなかなか起動しません。しかし、とうとうあきらめかけていたところ、夜になってあきらめきれずにもう一度トライしたら動き出しました。

おそらくは長い間クーラーを使っていなかったため、内部部品が錆びていたかなにかだと思われ、こうした機械モノはやはり普段から少しだけでも使わないとダメになるのだな~と改めて思った次第。

ウチだけでなく、電気代がもったいないからと、やせがまんでクーラーを使っていない方も、ときには起動させて、動作状況を確認しましょう。

ところで、この暑さのせいなのかどうなのかよくわかりませんが、我が家のアイドル、テンちゃんが、いつも普通に使っているおトイレで用を済ませず、その外でしてしまっているのをおととい発見。

その後もこのトイレを使わず、近くにあったネコ砂飛散防止のマットの上などでしていたことから、どうやらトイレかトイレの中のネコ砂に何らかの原因があることが予想されました。

おそらくはこの熱暑で何等かのバイキンが繁殖したか何かで、臭いに敏感なネコのことですから、これを嫌がったのではないかと推察はしてみたのですが、なにぶん人間である我々には認識できない領域のはなしです。

ともかく原因がわからなかったので、トイレと中のネコ砂ごと、まったく新しいものに変えたところ、新しいトイレを見た瞬間、それに近づき、中をおそるおそるチェックしたそのすぐあとに、私の目の前で用をたし始めました。

やはりトイレそのものが原因だったようです。そういえばいつもトイレの砂は頻繁に変えてやっているものの、ここ最近、トイレそのものの水洗いを怠っていたので、何等かの原因でネコが嫌がる臭いが発生するようになったのではないかと思われます。

それにしても気になることだったので、ネットで改めてネコの嗅覚について調べてみました。

そうしたところ、ネコの鼻は、イヌなどの他の動物に比べてそれほど優れているわけでもないようです。

ただ、ヒトと比べれば数万から数十万倍と言われる嗅覚を持っているそうで、ネコの鼻は体のバランスに比べて小さくできていますが、鼻腔内部は凹凸に富み、大きな表面積を持ち、小さな鼻の外観だけからは予想できない優れた嗅覚があるのだそうです。

イヌのように嗅覚を狩りに利用することはほとんどないといいますが、ネコの嗅覚は食物の峻別や縄張りの確認に主に使うと考えられているとのことで、ネコは頬腺(きょうせん)と呼ばれる場所から出す唾液や尿などによって、周囲のモノに自分の臭いを付け、縄張りづくりをします。

この臭い付けの行為は、仲間同士のコミュニケーションのためともいわれ、家猫では、飼い主やほかに飼われているネコに対して行うそうです。ネコが飼い主の足に顔をすり寄せるのは、頬腺などから出て顔の周囲にくっついている分泌物を付け、「自分の物」というマーキングをしているのだそうです。

この分泌物とやらも、我々の目や鼻では識別できないほど微量のもののようですが、ネコにとっては、これが敏感にわかるらしい。

従って、我が家のテンちゃん専用のトイレにも、何等かの他の生物の分泌物がついていたのかもしれません。考えられるのは私の大嫌いなゴキとかのほか、カメムシなどもあるでしょう。

ほかにも何等かのバイキンの繁殖とかも考えられますが、ともかく、我が家と同じようにネコを飼っていらっしゃる方は、暑いときや梅雨時のトイレ掃除はかかさないようにしましょう。

さて、ネコの話題に入ったので、今日はついでながらネコ話を続けていきましょう。

ペットとしてネコを飼育した例で、現在知られている世界最古のものとしては、トルコ南部の地中海にあるキプロス島のシロウロカンボス遺跡で確認された、人骨とともに埋葬遺体として発見された1匹のネコの骨だそうです。

紀元前8千年紀中盤、約9500年前のものだそうで、新石器時代もしくは石器時代後期から人類がすでにネコをペットとして手なずけていたことを示唆するといわれています。

またこれより後の古代エジプトの時代でも、ネコがライオンの代わりとして崇拝されていたり、「バステト女神」という神様として神格化もされていました。さらに後年の中世ヨーロッパでもネコは麦穂の精霊と同一視されており、中国でも、けものへんに苗、すなわち「貓」と書くように、その語源は稲穂の精霊だそうです。

日本名の「猫」もこの中国から伝わったもののようですが、その読みの「ネコ」は、「ネズミを好む」の意で、古くは「禰古末(ネコマ)」と書き、これは「鼠子(ねこ)」つまりネズミを「待つ」という意味の言葉「ネコマチ」が「ネコマ」に変じたものではないかといわれています。

このほか俗説としてよく言われるのが、「ネコ」は眠りを好むことから「寝子」と呼ぶようになったという説。また虎に似ていることから「如虎(にょこ)」が語源ではないかという解釈もあって、「ネコ」という読み方については、さまざまな説が存在しています。

その人間との付き合い方については、古代では蓄えられた穀物や織物用の蚕を喰うネズミを駆除する益獣として扱われ、とくに農家に親しまれていたといい、ヘビ、オオカミ、キツネなどとともに、豊穣や富のシンボルとして扱われていたようです。

とくに奈良時代頃から増え始めたようで、これは中国からの仏教の伝来と同時に、経典などが大事にされるようになり、これらの文書をネズミの害から守るためのネコが中国から輸入されたことによります。

ただここのころはまだペットとしてではなくあくまで益獣としてであり、愛玩動物として飼われるようになったのは、「枕草子「や「源氏物語」にも頻繁にネコが登場する平安時代からだとされています。

この時代に、宇多天皇という天皇がいましたが、彼の日記には、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っていた、という記述があるといいます。

さらに後年の鎌倉時代には、武将の北条実時が建設した金沢文庫の中に、南宋から輸入したネコによって典籍をネズミから守っていたと書かれた文書が残っており、同時代に書かれた「今昔物語」にも、加賀国(現石川県)で、の蛇と蜈蚣(むかで)が争う島でネコが人を助ける話が書かれた「猫の島」という物語が掲載されているとのことです。

平安時代には位階を授けられたネコもいて、「枕草子」にその話が出てきます。それによると、藤原道長が権勢をふるっていた時代に即位した一条天皇とその妻の定子は非常な愛猫家だったそうで、その愛猫に「命婦のおとど」と名付け、位階を与えていたといいます。

命婦(みょうぶ)とは、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性のことをいい、またおとどとは、おそらくは「御殿」と書いたとおもわれ、要は官位をもったお殿様、といった感じで愛情をこめたニックネームでしょう。

ある日このネコが翁丸(おうまる)というイヌに追いかけられて天皇の懐に逃げ込むという事件があり、怒った一条天皇は翁丸に折檻を加えさせた上でなんと島流しにまでしたそうです。

ところがその後、翁丸はボロボロになった姿で再び朝廷に舞い戻ってきて、天皇に向かって頭を垂れたといい、人々はそのけなげさに涙し天皇も深く感動したという話が残っています。

ネコに官位を与えたり、犬を島流しにしたりと、この時代には朝廷にいるペットすら人間並みであったことがうかがえますが、十二単を着たネコや、ボロになって着流しをまとったイヌが想像されてちょっと滑稽なかんじがします。

ただ、ネコに位階を与えたのは、結構真面目な理由からだったようで、この時代は従五位下以上でなければネコといえども昇殿が許されないためであり、そうした高位の地位にあるネコをいじめたイヌは当然島流しという感覚だったのでしょう。

このように、日本に伝来してきて直後のネコはまだ、貴重な愛玩動物扱いであり、経典などを守るための鼠害防止の益獣としての使用も限定されていたようです。

放し飼いにされていたイヌと異なり、ネコはもっぱら屋内、またはつないで飼育する動物であり、絵巻物等にも魔除けの猿同様に紐・綱等でつながれて逃げないように飼育されているネコの様子が多数描かれています。

江戸時代前までは、貴重なネコを失わないために首輪につないで飼っている家庭も多かったようで、このため、江戸に入ってからは初代将軍の家康の時代の慶長7年(1602年)に、猫の綱を解き放つことを命じる高札が出されたところ、江戸市中で鼠害が激減したと言われています。

とはいえ、江戸時代もまだネコはかなり貴重な存在であり、江戸はともかく、全国的にはネコを飼っている家庭も少なかったことから、ネズミを駆除するための呪具として「猫絵」を描いて養蚕農家に売り歩く者もいたそうです。

日本各地には、猫に縁が深い寺院が多くあり、これらは地元の人たちから「猫寺」と呼ばれていることがありますが、これらのお寺には猫に救われたり、または祟られたりしたため、猫を祀った由来を持つものが多く、こうした寺には例えば絵に描かれたネコが古寺で大ネズミに襲われた主人の命を救う、といった話も残っています。

ネコの効用を説く猫絵師などが深く関わって、地方を流布した説話がこうしたお寺に残り、やがては地元のひとたちからは猫寺と呼ばれるようになったのでしょう。

やがて江戸時代中後期になると、ネコは繁殖によって数を増やし、一般の庶民・農家にも広まっていきましたが、それと同時に、ネコが人々を災いや病から救う救世主であったり、ネズミの害を防ぐ穀物霊として崇拝するという習慣は次第に失われていきました。

この江戸時代のいつのころのことからかわかりませんが、その後、ネコは妖魔や妖怪といった「あやかし」といわれるような存在に変じていくようになります。

ネコはだいたい、20年ぐらいが寿命といわれますが、これ以上生き、さらに50年を経るような老猫になると、尾が分かれ、霊力を身につけて「猫又」という存在になるといわれています。

この猫又は、ひとえに妖怪のような怪しい存在とばかりはいえず、地方によってはこれを、家の護り神となると考えたりするところもあり、解釈はさまざまです。

この「尾が分かれる」という言い伝えは、ネコはかなりの老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、二股に分かれて見えるようになることが元になっているといわれます。わたしはこうした老猫をみたことがありませんが、実際に尾が数本に見えるネコがテレビ番組で紹介されたこともあるそうです。

長い間飼った古猫は化ける、とされるのは、こうして長い年月を経て古くなったり、長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)には、神や霊魂などが宿るとされる日本の民間信仰における観念であり、こうした神格化された文物や道具、またイヌやネコのようなペットは、付喪神(つくもがみ)という存在になると考えられてきたためです。

こうして神や霊魂などが宿ったものは、荒ぶれば禍をもたらし、和(な)ぎれば幸をもたらすとされ、荒ぶる神の良い例としては、「九尾の狐」があり、和ぎる神としては「お狐様」がその代表です。

「付喪」自体は当て字で、正しくは「九十九」と書き、この九十九は「長い時間」つまり、99年にも及ぶ期間を示し、また「多種多様な万物」つまり99種類などの意味を持ちます。

古代から、「神さび」という言葉がありますが、付喪神もこれと同義であり、古くから使われ、長く生きたものや、古くなったものはそれだけで、神聖であり神々しいとされてきたわけです。

日常の道具なども長く使ったものには神が宿るとされており、例えば柄杓や臼といった日常用具さえも神格化し、このほか庭にある古木を神籬(ひもろぎ・木々のこと)として祀ったり、石なども磐座(いわくら・岩や山のこと)として信仰したりしてきました。

これらの価値観をもたらす背景には、道具や家畜などを「大切に扱い手入れを絶やさぬように」という教訓的なものや、手入れがおろそかになっている古道具を安易に用いることによる破損や事故の回避の意があり、長く身の回りの役に立ってくれた道具や家畜・愛玩動物に対する感謝の心としても解釈されます。

従って、こうして丁重に扱われ、付喪神となったネコが、可愛がられたゆえにそのご主人に恩を返すといった古民話や伝承も数多く残っています。

貧乏な寺に飼われていたネコが、世話になった恩返しのため、飼い主の和尚に手柄を立てさせる「猫檀家」という説話があります。

この話は、幼児受けしないためかあまり絵本にはなったりはしていないようですが、日本の昔話・民話の類型の一つです。

各地に伝承があり、典型的なあらすじは、こうです。

ある寺が貧乏の挙句、食事にも事欠くほどになり、寺の和尚さんはずっと飼っていたネコに泣く泣く暇を出すことにしました。

するとこのネコは、和尚さん和尚さん、近いうちに長者の家で葬儀があるだで、その時にお手柄を立てさせてあげるから、追い出すのはやめて、といって、和尚さんにある秘策を授けます。

ある日のこと、ほんとうにその村の長者が亡くなり、葬儀が営まれることになりました。この長者の家は和尚さんの檀家ではありませんでしたが、和尚さんも長年の付き合いがあったため、この葬儀に呼ばれて参列していました。

亡骸を納めた前で、別の寺から呼ばれた坊主たちが読経を始めたところ、驚くなかれ、この棺桶が突然、中空に舞い上がりました。

驚いた参列者たちが驚き、その場にいた僧侶たちは必死に祈祷するものの、棺桶は動きません。これをみていた和尚さんは、ネコが言っていたことを思い出し、咄嗟に経を唱えはじめたところ、やがてするすると棺桶が降りて来て、静かに元の位置に戻りました。

こうして、長者の家では無事に葬儀を済ますことができ、この一件でこの貧乏寺の和尚さんの名声は一気に広まるところとなり、多くの家がこの寺の檀家となり、寺は後々まで栄えたといいます。

話の中、葬儀の棺桶が持ち上がったのは、無論、貧乏寺のネコの仕業であり、長年世話になった和尚への恩返しです。

ところが、日本中に残るこの猫檀家の話の中には、ネコが火車(葬式や墓場から死体を奪う妖怪)に化けて葬儀を襲うなど、ネコを妖怪と見なして語られているものもあります。

寺が貧乏に喘いでネコに暇を出すのではなく、ネコが踊り出したのを見て追い出すといった具合に、怪異性をともなっている場合もあるようで、必ずしもネコを善玉として扱っているものばかりではないようです。

このように地方に残る「猫檀家」などで悪役としてネコが登場するのは、「ネコは死体を盗む」「老いたネコは火車に化けて葬儀を襲い、亡骸を奪う」といった、俗信を持つ地方のようです。

とくに、九州などの西南地方では猫又=火車とする伝承が多く伝わっており、ネコと葬儀との関連性に関しては、この地方ではネコの魔力を封じる呪法に僧侶たちが深く関っていたため、こうした話にすり替わっていったようです。

このように、ネコは善玉としてよりも悪玉妖怪として登場する例のほうが、民話や伝承の類ではむしろ多く、とくに「鍋島騒動」を始め、「有馬の猫騒動「などといった講談で語られる化け猫の話は有名です。

このほか、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う「猫と茶釜のふた」や、鍛冶屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺すという「鍛冶屋の婆」、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう「猫のおどり」などもあります。

さらに、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする「猫と南瓜」などなど、これらの話では付喪神と化したネコはいずれも悪役として扱われています。

死者に猫が憑いたり、死者の骸を盗むといった類の話が、岐阜県や佐賀県、愛知県にあり、岐阜県の例では、ネコが死者をまたぐと「ムネンコ」が乗り移り、死人が踊り出すと言われ、ネコを避けるために死者の枕元に刃物を置いたり、葬式のときにはネコを人に預ける、蔵に閉じ込める、といった風習があったそうです。

愛知県の知多郡、日間賀島に伝わる話では、百年以上も歳経たネコの妖怪を「マドウクシャ」と呼び、これが死者の骸を盗りにくるため、死人の上に筬(おさ、機織機の部品)を置いてこの怪を防ぐそうです。

このように、江戸期以降の猫は、化け猫として扱われることが多くなってしまいましたが、そもそも昔は、蚕を守ったり、経典を守ったりしてくれるありがたい存在であり、こうした名残は、ネコを「猫神」として祀る風習として各地に残っています。

養蚕がさかんだった宮城県内には、猫の石碑が51基も残っているそうで、このほか岩手県にも8基、福島県と長野県にも6基ずつその存在が確認されています。さらに、宮城県には猫神社が10カ所あることも確認されており、これは江戸時代に養蚕が盛んだった宮城県南部に集中しています。

宮城県内では、ネコは、漁業の神様としても祀られており、仙台湾(石巻湾)に浮かぶ田代島では、「猫神様」が島内の猫神社に祀られています。この島では、ネコが大事にされており、ネコが大好きなアマチュア写真家からは「ネコの島」として良く知られており、有名な動物写真家の岩合光昭さんも撮影のためにたびたび訪れています。

田代島沿岸では、気仙沼周辺から来る漁師と島民によって漁業が営まれ、昔から島内にいくつもの番屋(作業小屋兼簡易宿泊所)が設置され、番屋に寝泊りする気仙沼漁師らの食べ残しを求めてネコが集まるようになり、漁師とネコとの関係が密になって、ネコの動作などから天候や漁模様などを予測する風習まで生まれたそうです。

ところがある日、漁網を設置するため、重しの岩をある漁師が採取していたところ、崩れた岩がネコに当たり死んでしまったそうです。これに心を痛めたここの網元がその死んだ猫を葬ったところ、その後大漁が続き、海難事故もなくなったとか。そのため、葬られた猫は猫神様となり、島内で猫が大切にされるようになったという伝承が残っています。

同島には昔からイヌはおらず、島内へのイヌの持ち込みも島民から拒否されるほどの「ネコの島」が現在も維持されているそうです。が、一昨年の津波地震のときに、流された猫も多かったそうで、しかも震災直後の島はエサ不足だったため、猫が減った時期もあったようです。しかしその後、子猫が次々に産まれ、猫の数は回復しているとのこと。

このほか、養蚕がさかんであった、東京多摩地方の、立川市にも「立川水天宮」内に「蚕影神社」があるそうです。ここも蚕の天敵であるネズミを駆除する猫を守り神として祀っており、飼い猫の無事や健康、いなくなった飼い猫の帰還に利益があるとされ、「猫返し神社」として呼ばれ、親しまれているといいます。

このほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには人間に益する特別な力が備わっていると考える向きも多く、現在ではペットブームもあいまって、ネコを悪玉扱いする向きはほとんどないと考えていいでしょう。

しかし、日本でネコを飼われている数は350万頭程度だそうで、アメリカの6000万頭には遠く及びません。アメリカやイギリスは、大の猫好きで知られており、アメリカでは30%以上、ヨーロッパでは24%以上の家庭でネコが飼育しているといいます。日本では18%前後だそうですから、これらの国に比べればまだまだです。

さて、ネコ好きがあいまって、ずいぶんと枚数を重ねてきてしまいました。そろそろ終わりにしましょう。

今日は、お盆三が日の中日ということで、何かこの別荘地もいつになく静かなかんじがします。さきほど、どこかの家からポンポンという音が聞こえてきたのは、お坊さんを呼んでの読経でも始まったのでしょう。

我が家では息子ともども一家そろってのネコ好きですが、亡くなった先妻もネコが大好きでした。そんな先妻を弔って、我が家でもお線香をあげ、故人に祈ろうと思います。

そんな中、我が家の「付喪神」テンちゃんはというと……いましたいました。一階北側の涼しい風鈴の音のする窓際で、静かに眠っています。その窓の向こうの伊豆の空には、今日も静かに風がそよいでいます……

H3とオリオン

しぶき
先日の8月4日、国産大型ロケット「H2B」の4号機の打ち上げが成功しました。

搭載されていた、国際宇宙ステーション(ISS)に物資を届ける無人輸送機「HTV(愛称こうのとり)」も順調にロケットから切り離されて、ISSにドッキング成功。

これで、H2AとH2Bの2種類を合わせた日本の基幹ロケットの打ち上げは連続20機成功で、成功率は96.2%(26機中25機)となりました。

H2AとH2Bの違いは、運搬能力であり、H2Aはだいたい4トンくらいまでの比較的軽いもの、H2Bは7~8トンくらいまでの物資を運べます。

ただ、H2Aのほうは22回もの「実績」がありますが、H2Bはまだ今回で4回しか「実績」がありません。信頼性ではH2Aを使うほうが上ということになります。

とはいえ、国際的にも高い打ち上げ成功率を誇るようになり、海外からもこの国産ロケットで衛星を打ち上げてほしいという打診も増えており、H2Aのほうは既に韓国からの衛星打ち上げの受注を受け、2012年5月18日、H2Aの21号機により、韓国の人工衛星アリラン3号を予定軌道に投入し、初の商業衛星の打ち上げを成功させています。

H2Bによる諸外国の商業衛星の打ち上げはまだ実現していませんが、かなり重い衛星も打ち上げ可能なことから、重量の重くなることの多い静止衛星の打ち上げも想定されており、ほぼ同じ打ち上げ能力を持ち、欧州宇宙機関(ESA)が運用している「アリアン5号」との打ち上げ競争が始まるのではないかといわれています。

ただ、コスト面において、H2AやH2Bはまだまだ国際競争力が低いようです。H2Bの打ち上げ費用は150億円弱とされ、世界平均の2倍の水準であり、こうした使い捨て型のロケットとしては、かかる費用が高すぎます。

コスト競争力を高める切り札として政府はH2Aの後継機として「H3(仮称)」の開発を決めており、わが国のロケットメーカーの最大手、三菱重工やIHIなどの意見を取り入れながら、打ち上げ費用を半分に抑える方法を模索中です。

いまのところ、H3ロケットの打ち上げ費用は約50億円程度をめざしているそうで、これはH2Aロケットの打ち上げ費用100億円のおよそ半額になります。

ただ、現在運用中のH2AとH2Bは共通部分が多く、両方の機種の製造から打ち上げを一貫して担えるようになってきており、コスト低減がかなり図れるようになり、また打ち上げ成功率も高くなってきていることから、国際的な信頼性も向上してきています。

日本政府としては他のインフラ輸出の動きと合わせてセットとしての受注活動を進めたいと考えており、特にアジアや中東への売り込みに積極的に取り組みたいと考えているようです。

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今回打ち上げが成功したH2B、4号機は、その打ち上げ目的がISSへの物資補給が目的という、いわばボランティア打ち上げでしたが、このISSへの協力も2020年までと決められているようで、その後の計画については未定といいます。

ISSへの参加が無駄といはいいませんが、いつまでも延々とボランティア活動へだけ税金の投入を続けていくというわけにはいきません。H2A、H2Bともに商業目的の打ち上げ実績を増やし、今後日本独自の宇宙開発をしていってほしいものです。

例えば有人飛行ですが、既に官民が連携して開発に着手することが決まっているH3については、将来的には有人飛行も見据えた計画となっているようです。

H3は、現在宇宙航空研究開発機構(JAXA)と三菱重工業の官民共同で技術的検討が始められたばかりであり、いまのところ従来のH2A、H2Bの技術が継承されるようです。ただ、H2A、H2Bは2段ロケットですが、H3Aではこれまでにはない、3段ロケットが想定されているとか。

3段ロケットにする理由のひとつは、将来的にもし有人飛行を行う場合、1段目、2段目のロケットエンジン噴射に万一失敗したとき、3段目エンジンのエンジンを使って緊急脱出が行えるからだそうです。

具体的にどうやって脱出するのかよくわかりませんが、1段目または、2段目エンジンの失敗が分かった瞬間に、飛行士自らの判断で手動により3段目エンジンを切り離し、安全な場所へロケットを持って行く、ということなのでしょう。

おそらく世界的にみてもこれまでには類例のない方式ではないかと思われ、導入するにしてもかなり高度な技術が必要になるのではいでしょうか。

このH3は、有人飛行に使うことも想定しているだけに、かなり大きなものも打ちあげられる予定だそうで、国際宇宙ステーション(ISS)の高度に6トンの有人船を運べる能力を持たせるとのことです。

打ち上げ能力としては現在のH2Bとあまり変わりはありませんが、試案によれば、1段目に、H2Aの2段目と同じ形式のエンジンを3基ほどを並べるそうです。1基ずつのエンジンは高出力ではありませんが、これにより噴射される燃料の温度が低く、安全性が高くなるのだとか。

有人飛行に対応させるということで、現在のH2Bなどは固体燃料の補助ロケットで推進力を補っていますが、H3ではこの固体燃料は使わないそうです。

固体燃料は米スペースシャトル・チャレンジャー爆発の原因にもなったためだそうで、こうしたことからもJAXAのH3を有人飛行のために使う、「本気度」が垣間見えます。

また、一段目のエンジンも、複数積むことで、仮にこのうちの1基が故障しても推進力を確保できるという点も安全面に寄与します。これと同じエンジンを2段目にも使えば、同じエンジンばかりを使うことになり、低コスト化も図れるということで、3段ロケット化というのは、それなりによく練られたプランのようです。

このほか、3段にするメリットとしては、これまで、衛星などは一番てっぺんのロケット先端に取り付けていましたが、これを2段目に取付けることができるようになります。

従来の2段型だと、複数の衛星を積み込む場合には、先端部分が重くならざるを得ないので、ロケットのバランスが悪くなると同時に、先端のロケット段に観測機器を多く積むことでその予備系は少なくしなければならず、これまでは衛星放出失敗の一因にもなっていました。

3段にして、2段目に普通の小さ目な衛星を積み込むようにすれば、先端の段への機器への集中は少なくなり、ロケットの運用に幅ができることにもつながり、ロケットそのものも更に大型化できる可能性があるそうです。

このように、3段にした新型H3ロケットは良いことづくめのようです。が、H2シリーズは基本設計からもうすでに30年にもなるため、従来の培ってきた技術の部分改良よりも新規開発する方が多目的化できるのではないかという意見もあるそうです。

このため、H2A、H2Bとは全く違ったコンセプトのロケットとなる可能性もまだあり、その辺の検討が今まさに始まったばかりということのようです。

いずれにせよ、私がまだ生きているうちに、日本が開発した有人ロケットの打ち上げが実現するという快挙を見ることもできるかもしれず、ワクワクします。技術的には2020年ごろに初飛行できるということです。あと7年くらいはくたばらずに生きているでしょう。

神子元島を望むB

ところで、スペースシャトルをお払い箱にしてしまい、今のところ、有人飛行のシステムを持たない、アメリカの今後の計画はどうなっているんだろう、と気になったので調べてみました。

そもそも、なんでスペースシャトルをやめてしまったのか、ということなのですが、その理由の最たるものはコストのようです。

スペースシャトルというのは、宇宙と地球を往復する本体とこれを打ちあげるロケットや打ち上げ台などの総称であり、宇宙飛行士そのものが乗り込む翼のついた機体の正式名称は、オービタ(Orbiter、軌道船)といいます。

このオービタを繰り返し使用するには、実は多額のメンテナンス費用が必要で、使い捨てのロケット型の宇宙船を使用したシステムの方が現在の技術では経済的といわれています。

また、オービタには耐熱システムの問題があり、打ち上げ時には耐熱タイルや耐熱シールドが剥がれ落ちて本体に衝突する可能性があり、コロンビア号空中分解事故も主翼の耐熱シールドを損傷したことが原因になりました。

さらにオービタに装備されている主翼や垂直尾翼は、打ち上げ時と大気圏再突入〜帰還時にしか使用されないため、大気のない宇宙空間に出れば全く用をなしません。このため重量的には非常に効率が悪く、打ち上げと帰還時にだけ翼を使用するくらいなら、むしろ翼のない方が効率的です。

こうしたことから、シャトルに比べてロシアのソユーズ宇宙船のほうがよっぽど経済的ではないかということが、長い運用の結果から言われるようになり、しかもシャトルは1980年代初期に建造された4機とその後に加えられた1機のたった5機がボロボロになりながらもほぼそのまま使われ続けました。

その135回の打ち上げによって数多くの成果をあげ、アメリカの宇宙開発の威信を保ち続けましたが、ご存知のとおりこのうちの2機が事故を起こし、その都度クルー全員の命と共に失われています。

一方のソユーズ宇宙船は同じ40年余りの間に100機以上が打ち上げられており、初期のころに2度の死亡事故を含めて何度か重大な事故を起こしたものの、その都度改良が加えられ、1990年代以降は人命に危険が及ぶ事故は起きていません。

ロケット先端に取り付けられたカプセル型の宇宙船は、突入時に姿勢制御ができなくなっても、最悪、非制御状態での弾道突入でも帰還ができるような設計が可能なためでもあります。もっとも過去の打ちあげではこうしたトラブルはほとんどなかったといいます。

さらに、あまり知られていないことですが、スペースシャトルにはなんと、緊急脱出装置を搭載されていませんでした。

チャレンジャー号の事故の教訓から、コックピットからパラシュートを使っての緊急脱出するような訓練もなされたようですが、基本的にはオービタが事故によって急速に回転したりするような状況下では、脱出行動は困難である、との理由からだったようです。

ところが、カプセル型宇宙船では、緊急脱出用ロケット(通称「LES」)を設置することが可能なのだそうで、トラブル時にはカプセルのみを切り離して緊急脱出することができるといいます。このシステムはアポロやソユーズでも設置され、とくにソユーズでは一度使われて安全に避難できることが実証されています。

なのに、スペースシャトルでは何故緊急脱出装置が設置ができなかったのかよくわかりませんが、その構造上、設置ができない何か致命的な技術的な理由があったのでしょう。

ともあれ、こうした経済的な理由や安全面での問題点から、スペースシャトルはその運用が取りやめられました。将来型シャトルとして開発・検討されていたシャトルもあるにはあるようなのですが、結局は実現していない状況だそうです。

シャトルのコスト高を解決する方法として、このほかにも完全再利用型の宇宙機がいくつか検討されましたが、技術的な難易度が極めて高く実現には至っていません。

なお、日本のJAXAにおいても、かつて「HOPE計画」というスペースシャトルに似た再利用型宇宙船の計画がありました。が、同様の理由で中止になり、21世紀初頭における宇宙からの回収システムの技術的な最適値はカプセル型であるとの結論から、上述のH3開発のほうへベクトル修正したという経緯があるようです。

爪木崎の光景02

さて、こうしてスペースシャトルの廃止を決めたアメリカ航空宇宙局 (NASA)が現在スペースシャトルの代替として取り組んでいるのが、「オリオン(Orion、またオライオン)」と呼ばれるカプセル型有人ミッション用の宇宙船です。

2006年8月に、オリオン座に因み「オリオン」と正式に命名されたこの宇宙船は、国際宇宙ステーション (ISS) への人員輸送や、次期有人月着陸計画への使用を前提に開発されていたものでした。

ところが、2010年にこの月着陸計画(コンステレーション計画)が中止されたため、新たなオリオン宇宙船(Orion Multi-Purpose Crew Vehicle、略称はMPCV)として、ISSへの人員と貨物の輸送と回収のみに用途が変更されて開発が続けられることになりました。

しかし、それだけではもったいないということで、その後、この機体は小惑星の有人探査にも使うことが表明されました。

2011年にバラク・オバマ大統領によって発表されたコンステレーション計画中止後に、新たに発表された宇宙計画には、月以遠の有人探査、例えば火星探査や小惑星探査が含まれており、打ち上げロケットのスペース・ローンチ・システムと共にオリオンが使用される可能性が高いということです。

「スペース・ローンチ・システム(SLS)」というのは、NASAが開発中の、アメリカ合衆国のスペースシャトルから派生した大型打上げロケットシステムです。

打ち上げ能力の総量は130tに達するといい、これは今までに作られた中でも最も強力なロケットであり、SLSは月や火星のように、地球近傍の惑星探査を目的として宇宙飛行士と装置を輸送する目的で開発されています。

開発は、ロッキード・マーティンが主体となって行なっており、無人試験機が来年の2014年にデルタIV Heavyロケットで初めて打ち上げられる予定だそうです。このフライトでは、長楕円軌道を2周回した後、高速で突入させて耐熱シールドの能力確認を行う予定とのことで、このあと2017年にもSLSで無人試験機が打ち上げられる予定だそうです。

NASAは当初、2011年までに試作機を製作、早ければ2014年にも有人飛行を行うとしていましたが、2007年4月にスケジュールが見直され、SLSとは別に従来型のロケットを使った有人飛行も計画していましたが、それすらも2015年以降に延期となりました。

この延期によって、シャトルが退役した2011年以降、アメリカの有人宇宙飛行に最低4年のブランクが生じる見込みになり、その間のISS滞在要員輸送手段は事実上ロシアのソユーズのみとなっています。

また、コンステレーション計画では、月着陸船の打ち上げ機 (Cargo Launch Vehicle: CaLV)として、「アレスV」というロケットを開発する予定でしたが、計画そのものが中止となったため、アレスVの初飛行も2018年以降になり、ISSへの物資輸送も日本のHTVやロシアのプログレスなどに頼る状況になっています。

このオリオン計画や、アレス開発計画そのものも、サブプライムショック以降の財政悪化を理由に、コンステレーション計画と同様に白紙になるのではないかといわれていましたが、いまのところその開発を継続する方針であることが、オバマ大統領によって表明されています。

従って、今のところ、アメリカによる従来型ロケットを使った次の有人宇宙飛行は、最短でも2015年の2年後。また、新型のアレスロケットを使ったオリオンによる有人飛行は2018年に予定されているアレスの初飛行以降になると思われ、日本のH3の初飛行が期待されるのと同じ、2020年ころになるのではないでしょうか。

とはいえ、おそらくは日本のほうの有人飛行はまだまだそれより先の話。日米両方の宇宙飛行士を乗せた日本のロケットが種子島から打ち上げられるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。生きているうちにそんな光景が見れるかしら……

さて、今日も列島は酷暑が続きます。

手元の温度計はすでに34度。涼しいといわれる昨日の伊豆でも、35度の猛暑に達しました。おそらくは今日も同じくらいにはなるのではないででしょうか。

みなさんも暑さにめげず、お盆をお過ごしください。熱中症や水の事故にもくれぐれも気を付けましょう。

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