松前とアイヌ

2014-1150692
5月も下旬に入ってきました。

そろそろ梅雨入りの発表があるのではないか、とひやひやしているのですが、東海地方の平年の梅雨入りは、6月8日だそうです。ところが昨年は、5月28日だったということで、今年も同じころだとすると、もうあとわずかです。

ただし、昨年は入梅も早かったけれども、梅雨明けも早く、平年値は7月21日ごろですが、7月7日ごろにはもうすでに太陽ギラギラでした。

とはいえ、その前に否が応でも雨の季節はやってきます。今年もまた梅雨の間の天気に一喜一憂するのか、と思うと、いっそのこと雨季のない国へ行きたいなと思ってしまいますが、そんな場所は日本では北海道ぐらいしかありません。

梅雨の間だけ北海道で暮らすために、彼の地の別荘でも買いたいな、とも思うのですが、そんな金があるわけはなく、仮に新しい家を買ったら買ったで、家具の搬入やら生活環境を整えるために莫大な手間暇がかかります。

私はこれまでに、両手の指では足りないほどたくさんの引越しを経験していて、これに慣れてはいるものの、この齢になるともうさすがにご勘弁を、というかんじです。

ここへ引っ越してくる際にも、タエさんの広島の実家と東京の自分の家の処分のために奮闘し、手やら腰やらをずいぶん痛めて、針治療に何ヵ月も通いましたが、もうあんな目には遭いたくはありません。

もっとも、北海道では最近、過疎による空家も多いと聞き、本当にその気になればこうした家を家具付きで格安に貸してくれるところもあるようなので、こうした貸し物件を探す、という手もなくはありません。

問題はどこにするか、ですが、私は北海道の中でもとりえわけ道東が気に入っていて、摩周湖などにもほど近い弟子屈町やカキのおいしい厚岸などは、行くたびにいいところだな~と思っていました。

このふたつの町は道東最大の都市、釧路にも近く、現在帯広東部の浦幌まで開通している道東自動車道も、2015年度中には釧路まで延伸される予定なので、これが実現すると、札幌と釧路間は4時間30分で結ばれることになります。

それまでは、クルマを使ったならまる一日がかりだったこの工程が、半分以下になるわけで、観光面でのメリットもさることながら、物流の活発化など、この道路の開通による道東区域への経済の波及効果は高いはずです。

加えて2015年末までに函館までの完成が予定されている北海道新幹線ができあがれば、本州から北海道、引いては道東への道程はかなり短くなります。

札幌までの延伸はまだまだ先で2035年ごろが予定されているといいますが、函館まで新幹線で行くことができるようになるだけでも、ずいぶんと道東を身近に感じることができるようになるでしょう。

ちなみに、札幌と函館を結ぶ道央自動車道は、函館にもほど近い大沼公園ICまで既に開通していて、今年度中には更に南の森ICまで開通予定で、函館までの開通も視野に入ってきました。完成すると、道東自動車道との接続ICである千歳ICから函館までは約250キロ超ですから、千歳までは3時間足らずで行けるようになるはずです。

従って、新幹線で函館まで行って、そのあとレンタカーでも借りて、一気通貫で道東まで行くとすると、千歳経由7時間30分で行けることになります。7時間超のドライブというとかなりの重労働かもしれませんが、それでも信号もなく、クルマの少ない北海道ですからストレスのないドライブになるに違いありません。

私は郷里の山口まで東京から何度もクルマを運転して帰省した経験がありますが、これは13時間ぐらいかかります。これに比べれば7時間はずいぶんと楽です。

もっとも、函館から道東までを必ずしも一気通貫で運転する必要もなく、せっかく北海道に行くのですから、途中途中で眺めの良いところに立ち寄りながら、場合によっては室蘭や苫小牧、帯広あたりで宿泊してこれらの地を観光しながら行く、という手もあります。

こうした話は、何やら遠い先に実現する話を書いているようにも感じますが、それも来年開通が予定されている北海道新幹線と道東自動車道が完成すれば現実のことになるわけで、旅好きの私としては実にワクワクする話です。

しかし、夏の道東は梅雨こそありませんが、濃霧に覆われる事が多く、夏の間は常に快適、というわけではありません。気温が上がらないことも多く、肌寒い場所です。逆に 冬季の積雪は少なく、太平洋側であるため好天に恵まれることも多くなりますが、平均気温は厚岸などではマイナス5度とかかなり低くなります。

なので、ここに実際に住むということになると、本州との気候の違いを知り、その格差をかなり覚悟していかなければならないでしょう。

ところで、道東はかつては、アイヌばかりが住んでいた土地であり、この地に和人が入りこむようになったのは17世紀の後半ころになってからです。厚岸では1624~1643年の寛永年間に松前藩がアッケシ場所を開設したのが、和人による初めての入植です。

「場所」というのは、この当時蝦夷地と呼ばれていた北海道・樺太・千島列島で松前氏が敷いた藩制において、松前氏家臣に知行を与える代わりに、アイヌと交易を行う権利を与えた土地のことを指します。

このころの北海道では現在のように米はとれず、また松前藩はほとんど無高の大名で、その知行もかなり少ない弱体藩でした。このため、家臣に対する知行も、厚岸のような商場(あきないば)を割り当てて、そこでアイヌと交易した物資を松前まで船で持ち帰る権利を認めるという形でなされました。

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一方、弟子屈に至ってはこの時代にはまだアイヌすら住んでおらず、原生林が広がるだけの土地でした。この地に人が入りこむようになったのは、明治になってからで、この土地で硫黄が産出されることが分かったため、1876年(明治9年)から佐野孫右衛門なる人物が政府の許可を受け、翌年に採掘を開始しました。

この最初の硫黄発掘事業はあまりうまくいかなかったようで、その後この所有権を安田財閥の安田善次郎が取得し、1887年(明治20年)から硫黄の採掘を開始、1888年(明治21年)には輸送のために北海道で二番目となる釧路鉄道が硫黄山~標茶間に敷設されました。

しかし、乱掘により資源が枯渇し、9年後の1896年(明治29年)に操業を停止したのちは、弟子屈は一次火の消えたように静かな町となりました。ところがこの地は摩周湖や屈斜路湖、摩周温泉、川湯温泉といった観光地を有することから、全国から多くの観光客が訪れるようになり、やがて観光を主要産業として潤うようになっていきました。

その後酪農を営む農家なども増え、その風光明媚な土地柄に惹かれて本州からの移住者も多くなったことから、別荘地帯が形成され、最近はリゾート地としての風格も持つようになっています。

一方の厚岸のほうは、明治に入り、1890年(明治23)に屯田兵村が創設されて本格的に和人の入植がはじまりました。そして、1900年(明治33年)にこの近辺の4町7村が合併し、厚岸町となって現在に至っています。

松前藩時代の江戸時代からも行われていた漁業を中心とし、水産都市として発展してきた町で、漁業産品としては、名産品のカキのほか、アサリや昆布、海苔等が主要産品で、また酪農、林業も盛んです。

山間部に少し入ったところの上尾幌地区にはかつていくつかの炭鉱があり、現在は閉山していますが、ここを通る根室本線の上尾幌駅周辺は、かつて大いに栄えた集落があったようです。

ところが、江戸時代を通してここを統治し、切り開いてきた松前藩は、ここでの入植にあたって、何度も現地住民のアイヌと争いを起こしています。

松前藩というのは、函館などを東部に置く、渡島(おしま)半島の一番南西部に居どころを置いた藩で、現在では北海道松前郡松前町になっているものがかつてのその中心地に相当します。

居城の名から福山藩とも呼ばれ、慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称しました。家格は当初、外様大名の1万石格でしたが、その後蝦夷地の開拓などで収益を上げ、幕末には3万石格となりました。

その始祖は、室町時代の武田信広という武将だとされており、「武田」の名前からもわかるとおり、これは甲斐の国の甲斐源氏の流れを汲む一族です。ご存知の武田信玄もまたその子孫であり、このほか甲斐源氏の一派は若狭国(現福井県)にも移り住んでおり、こちらは若狭武田氏と称しましたが、武田信広はこちらの武田家の出身です。

戦国時代のころ、この若狭国の守護は、武田信賢という若狭武田家の二代目当主であり、その近親に蠣崎季繁(かきざきすえしげ)という武将がいました。

このころ、ここより遠く離れた陸奥(現在の青森県から福島県に至る区域)、出羽国(秋田・山形県)には安東政季(まさすえ)という豪族がいましたが、安東政季は、その地の利を生かして、蝦夷南部の渡島(おしま)半島にも進出している一種の海賊でした。

この安東政季の娘婿となったのがこの若狭の蠣崎季繁であり、政季に気に入られて頻繁に出羽の国まで来るようになり、そのうち政季に勧められるまま蝦夷地にも渡るようになり、ここで安東家の土地まで貰い受けました。

一方、この蠣崎季繁の親戚筋にある若狭武田家の当主、武田信賢は男子に恵まれ、これが、武田信広であり、若狭小浜の青井山城に生まれました。父信賢は、この息子を世継ぎにするつもりでしたが、まだ幼かったため、弟の国信に家督を譲ることになりました。

しかし、弟の国信に家督を継がせる際、この弟の次には自身の子に家督を継がせることを確約させるつもりで信広を国信の養子にさせました。

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ところが、間もなく国信にも実子が誕生したことから、国広は叔父に疎遠されるようになります。これを苦にした信広は、宝徳3年(1452年)21歳の時に若狭国から出ていくことを決意し、郎党ら侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔しました。

その後、しばらくは鎌倉公方足利成氏のところに身を寄せていましたが、やがて陸奥国に移住し、ここで成氏の口添えもあって現在の岩手県にあった南部家の領分の一部を貰い、このときから若狭で縁戚関係にあった蠣崎武田氏の名を名乗るようになりました。

南部家の隣国の出羽国には、安東政季がおり、その娘婿は若狭出身の蠣崎季繁であることは上述したとおりですが、同じ東北にあり、やがて信広はこの安東政季と知り合うようになります。

そして享徳3年(1454年)には、安東政季の紹介で、その部下の蠣崎季繁を頼って蝦夷地に渡り、蠣崎季繁の居城であり、現上ノ国町(旧上ノ国・松前町のすぐ北の町)にあった花沢館という館に身を寄せるようになりました。

蝦夷に渡った信弘は、その後すっかり季繁に気に入られ、名前も既に蠣崎氏を名乗っていたことから、そのまま婿養子として蠣崎家に入りました。そして康正2年(1456年)には嫡男光広にも恵まれました。

蠣崎季繁の孫にあたるこの実子の誕生によって、季繁と信広の関係はさらに深まり、渡島半島南部一帯を統治する蠣崎一族の結束が固まった結果、彼等はより北部・東部蝦夷地へも進出していくようになっていきました。が、と同時に彼等のこれらの地への入植は、かつてよりこの地の先住民であったアイヌ部族との戦いの始まりでもありました。

1457年にはアイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間で
「コシャマインの戦い」と呼ばれる争乱が始まりました。

奇襲攻撃を受けた蠣崎一族は、開戦当初こそ当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど追い詰められていましたが、その後信広が中心となって武士達がまとめあげられ、大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将のコシャマインが射殺され、その首が討たれました。

この功績により、蠣崎季繁はさらに信広に信頼を置くようになり、蝦夷地における彼の地位は決定的となっていきました。信広はこの戦いのち、着実に蝦夷地の平定を進めていきましたが、1494年に64歳で死去。

しかし、その子孫もまた残る蝦夷地の平定を進め、二代目の光広の孫で4代当主にあたる蠣崎季広の代には、長年蝦夷地に関わってきた経験のある主家の出羽の国の安東家の仲裁もあって、アイヌたちとの争いを控え、交易などによる交流をも深めるようになりました。

ちなみに、この出羽国の安東家は、政李を初代として、以後、忠季、尋季、舜季、愛季、実季、と六代に渡って出羽国に君臨しましたが、この当時の安東家の当主は、四代目の舜季(きよすえ)になります。

この安東舜季の働きかけもあり、蠣崎季広は、東地の「チコモタイン」というアイヌの一族、及び西地のハシタインと和睦し、蝦夷地支配の基礎を固め、「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」といった講和条約も結びました。

「夷狄の商舶往還の法度」というのは、渡島半島の東部シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタインと、「唐子蝦夷」と呼ばれた半島西部セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタイン、そして蠣崎家の三者の間に結ばれた講和条約です。

安東舜季立ち会いの下で、大館(松前)の城主蠣崎季広が結んだこの講和で、当時の季広は、アイヌの首長らに対して財宝を分け与えたことからカムイトクイと称されたといい、これはアイヌ語で「神のように素晴らしい友」の意味です。

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この講和では、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタイン首長とハシタイン首長に支払うこと、シリウチから上ノ国(天河)までの地域より北東を蝦夷地とし、これらの地では和人の出入りを制限することなどが決められました。

また、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することも定められました。さらに、このときセタナイの首長ハシタインは蠣崎氏の拠点の一つである上ノ国(天河)へ移住しており、このことにより両者はより交流を深めるようになりました。

ところがその後、蠣崎家では季広の後継を巡って家督争いが起こりました。季広の家臣に南条広継という武将がいましたが、蠣崎家の重臣として重用されており、季広にもかわいがられていたため、その長女を正室としました。ところが、この長女には野心があり、しかし女では家督をつげないのを無念に思っていました。

このため、娘婿の基広(季広の従兄弟)に家を継がせようとし、基広をそそのかして季広を殺害しようとしましたが、これを季広に気付かれ、基広は季広の命を受けた配下の者に討たれてしまいました。

このため、長女は、今度は自分の夫の南条広継に家督を継がせたいと考え、実弟の舜広(季広の長男)と明石元広(季広の次男)を毒殺してしまいました。しかし、やはりこのことも季広の知るところとなり、長女と広継は自害させられることになりました。

ところが、この暗殺のことを夫の広継は全く知らされておらず、広継は身の潔白を申したてましたが、季広はこれを受け入れません。

哀れな広継は見せしめのために、生きたまま棺に入れられることになりましたが、この時、礼服に身を固めた広継は、一本の水松(イチイの木のこと)を棺の上に逆さにいけさせ、「水松が根付いたら身に悪心ない証であり、三年たっても遺骸が腐っていなかったら、それこそ潔白のあかしである」と遺言し、経文を読誦しながら棺桶に入ったといいます。

棺桶には節を抜いた青竹が刺しこんであり、広継はこれで呼吸しながら鉦を鳴らし続け、その鉦の音と読経の声は三週間も続いたといいます。そして、三年が経ったのち、この水松は見事に成長し、さかさオンコ(逆水松)になったといいます。

ちなみに、オンコとは、常緑樹のイチイのアイヌ語で、この水松は実在するもののようです。「逆さ」の意味は、おそらく広継の死後に根付いたこの水松が、厚岸湖の湖面に逆さに映って見えることに由来しているのでしょう。

この広継の妻が暗殺した季広の二人の息子の下には実はもう一人、慶広(よしひろ)という弟がいました。そして天正10年(1582年)、季広は隠居を宣言し、その家督を継いで当主となる人物としてこの三男を指名し、松前大館の館山城で生まれたこの慶広が蠣崎家を引き継ぎことになりました。

慶広は実父から受け継いだ蝦夷の地の開拓にも励む一方で、宗家である安東家五代目の愛季の出羽の国での勢力拡大に協力し、これによって安東家中での発言力も確保していきました。ところが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置をはじめたことで、その運命は変わっていきます。

主家安東家の六代目、実季はこの秀吉の隷下に入ることを決め、上洛することになったため、このとき慶広もまた蝦夷地代官としてこれに帯同しました。しかし、慶広はかねてより、いつまでも安東家についていては蠣崎家の安泰はない、と考えていたようで、京に入るや否や前田利家らに取り入るようになりました。

やがて、利家らの口添えもあって主君の安東実季よりも先に豊臣秀吉に謁見を果たすと、秀吉からは松前や天河などの所領を安堵されました。

このとき、慶広は同時に朝廷から従五位下・民部大輔に任官されており、格の上では事実上安東家よりも上になりました。これにより蠣崎家は名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たしました。

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その後、慶広は、東北で乱が起きるたびに、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加するようになり、文禄2年1月(1593年)の秀吉の朝鮮出兵の際にも、肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見しました。

秀吉は「狄(てき)の千島の屋形(北の野蛮人の国の王)」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、さらに従四位下・右近衛権少将の地位を彼に与えようとしますが、慶広はこれを辞退します。慶広はその代わりにと、蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に彼を志摩守に任じました。

朱印状とは、花押の代わりに朱印が押された公的文書(印判状)のことであり、公家・武家・寺社などの所領を確定させる際に発給されるものです。

こうして、慶広はこの朱印状を蝦夷地に持ち帰り、和人の領民に示すとともに、アイヌを集めてこれをアイヌ語に翻訳させ、彼等にもこれを示しました。そして、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来るとアイヌたち伝え、これにより、樺太を含む全蝦夷地の支配をほぼ確立しました。

この秀吉からの朱印状の発行による蝦夷地の平定を「蝦夷地安堵」といい、これは慶長3年(1598年)に成立したとする説が有力のようです。

ところが、この蝦夷地安堵が成立した慶長3年には、朱印状を発行した当の秀吉が死去してしまいます。すると慶広は今度は徳川家康と誼を通じるようになり、翌慶長4年(1599年)には、家康の臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上するとともに、姓を家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって「松前」に改めました。

慶長5年(1600年)には家督を長男の盛広に譲り、盛広も従五位下、若狭守を賜りますが、その後も慶広が引き続き政務を司っていました。

慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得、翌9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下、伊豆守に叙位・任官されました。これらをもって、松前氏は大名格とみなされるようになり、ここに松前藩が誕生するとともに、慶広は名実ともに初代藩主となりました。

こうして、松前藩は、徳川家の一大名としてその地位を固めることとなったわけですが、徳川家から与えられた知行はわずか1万石にすぎず、このことから、今後は蝦夷地の開拓によってその知行を増やそうとし始めます。

その手始めとして渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地とし、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりましたが、その交流によって儲けていることを徳川家に知られないよう、こっそりとその交易を行おうとしました。

江戸時代のはじめまでは、アイヌ自らが、和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、徳川の治世になってからは、その取り締まりは次第に厳しくなっており、その発覚は藩のお取り潰しにもつながりかねない危険なものでした。

しかし、松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であり、限られた漁場で上げられる収入は少なく、しかも鰊が次第に獲れなくなっていったため、徳川の目を盗んででも収入を得ようと、こっそりと蝦夷地へ出稼ぎをする行為が広まっていきました。

このため、この当時の城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、かなりの繁栄を誇るまでに至りますが、一方では藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、たびたびアイヌによる反乱が起きました。

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寛文9年(1669年)には、「シャクシャインの戦い」という大きなアイヌによる反乱がおこり、この鎮圧も行われました。

その発端は、アイヌ民族集団間の対立で、これは、現北海道日高町の静内地区にあたる「シブチャリ」とよばれていた土地以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団(メナシクル)と、これより更に道東にかけてのシラオイ(現在の白老町)にかけて住んでいたアイヌ民族集団(シュムクル)の争いでした。

両者は、この地方の漁猟権をめぐって長年争いを続けており、抗争によりお互いの首長や副首長が殺害されるといった事件が相次いでいました。

両者の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し、1655年に両集団は一旦講和しますが、1665年頃から対立が再燃し、1668年(寛文9年)にはメナシクルによってシュムクルの総大将が殺害されるという事件がおこりました。

このため、シュムクルたちは松前藩庁に報復のための武器の提供を希望しましたが、藩側に拒否されたうえ、その首長が帰路に疱瘡(天然痘)にかかり死亡してしまいました。この首長の死亡の知らせは、「松前藩による毒殺」と流布されてしまい、メナシクルやシュムクルなどすべてのアイヌの間に広まっていきました。

皮肉なことに、この流布をもってアイヌ民族たちは、協力して松前藩に敵対するようになり、メナシクルの副首長であったシャクシャインは、蝦夷地各地のアイヌへ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌがそれに呼応しました。

この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられます。

対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となっていました。

1669年6月、シャクシャインらの呼びかけにより、アイヌたちは東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において鷹待や砂金掘りを襲撃し、交易商船を襲撃するなどの攻撃を始め、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害されました。

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いて、彼等への反撃を始め、幕府にも蜂起を急報し、援軍や武器・兵糧の支援を求めました。幕府は松前藩の求めに応じ弘前・盛岡・久保田の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、このときの松前藩主、松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣しました。

シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、一時は松前軍と互角に戦闘を行いましたが、軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことなどから次第に形勢不利となりました。また、松前藩と幕府軍は親松前的なアイヌの集落に対して恭順を勧めてアイヌ民族間の分断を進めたため、シャクシャイン軍は次第に孤立化しました。

しかし、シャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は、和睦を申し出ます。シャクシャインは結局この和睦に応じ1669年11月、和睦が成立しました。

ところが、松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴に招かれたシャクシャインは、この席で謀殺されてしまい、シャクシャインに協調していた他の部族の首長も同様に謀殺あるいは捕縛されました。

指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かい、翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品を受け取りました。

戦後処理のための出兵は1672年まで続きましたが、やがてアイヌたちの松前藩への恭順化は進み、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至りました。

その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)によって服従を誓わせ、これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は更に強化されました。

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18世紀前半からは、冒頭でも述べた「場所制」が広まりましたが、松前藩の家臣は自分で交易する能力に乏しかったことから、その権利を商人に与え、運上金を得るようになりました。

請け負った商人は、出稼ぎの和人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させ、これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られていきました。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになっていきました。

以後、漁場の拡大も行われ、これに伴い多くの和人が東蝦夷地にも入り込むようになりましたが、彼等によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていったため、請負商人によるアイヌ首長毒殺をきっかけとして、東蝦夷では寛政元年(1789年)に「クナシリ・メナシの戦い」という争乱が起きました。

この騒動で和人71人が犠牲となりましたが、松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たったため、蜂起した者たちは投降し、蜂起の中心となったアイヌは処刑されました。

この松前藩内の蝦夷地における争乱は、徳川家も知るところとなり、このためこの事件から10年を経た1799年(寛政11年)には、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)がお取り上げになり、公議御料(直轄地)となりました。

しかし、この直接統治により、幕府はアイヌの蜂起の原因は、彼らが経済的な苦境に立たされているものであると理解し、松前藩の場所請負制を廃することを決めました。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善されましたが、しかしこれはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していました。

一説によると、こうした和人の道東への進出によりアイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったこともあったといい、また、人妻は会所で番人達の妾にされたともいわれています。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうです。

こうして、アイヌ人は次第に減っていきましたが、本格的にアイヌ人に人口減少をもたらしたのは、実は和人がもたらした天然痘などの感染症であったといわれています。

その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握されていた人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減り、アイヌの人口減少はそれ以降も進みました。一例では、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口が、明治24年(1891年)には381人にまで減っていました。

しかし、明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少していますが、「混血」としてのアイヌ人は逆に増えていきました。

和人との通婚が増えた理由としては、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多かったことが指摘されています。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多いようです。

ただし、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義しており、純粋なアイヌ人がどのくらいいるかは、統計的にははっきりわかっていないようです。

松前藩が統治していた蝦夷地は、上述のとおりいったん幕府に取り上げられましたが、文政4年(1821年)には幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配が戻され、松前に復帰しました。

しかし、日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)にはふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになりました。明治2年(1869年)、14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事に任じられましたが、すぐにこの館藩も廃止され、同年、北海道11国86郡が置かれました。

このように、当初は蝦夷地全域が松前藩の所領でしたが、幕末以降は天領となったり松前藩に戻されたりの混乱を繰り返したあげく、結果として現在のような「道」としての北海道が成立したわけです。

厚岸などの道東の土地もまたこのとき北海道の一部となり、和人の国として確立したわけですが、かつては、道東におけるアイヌ民族の中心的都市でした。

和人との混交が進んだ現在ではここに住んでいる人達もその先祖がアイヌなのかどうかもわからなくなっており、史跡などもほとんどないようで、かつてのアイヌ民族の土地という面影は全くありません。

こうしたアイヌ民族の起源や歴史、北海道各地のアイヌの生活ぶり、といったことについても、詳しく書いてみたいと思ったのですが、今日のところは枚数がかなり行ってしまったのでもうやめにしておきます。

さて、お天気は下り坂のようで、明後日くらいにはまた雨のようです。本格的な雨季になる前に、浜松で行われている「浜松花博2014」にも出かけたいと考えているのですが、それはどうもそれ以降になりそうです。

皆さんはいかがでしょう。梅雨に入る前のひとときの行楽の場所、もうお決めになりましたか?

そして、今年の梅雨の過ごし方ももうお決まりになりましたでしょうか。梅雨のお嫌いなあなたは、北海道への移住も考えてみてはいかがでしょう。

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大当たり!

2014-1120272私は、肉よりもどちらかというと魚のほうが好きで、また魚の中でもとくにサバが好きで、〆鯖などがあると、他におかずはいらないぐらいです。

この〆鯖も出来上がったものを買うと結構いい値段がするのですが、自分で生のサバを買ってきて捌いて酢締めをする、ということを最近覚え、頻繁に自分で〆鯖を作るようになりました。

ところが、いわゆる「サバにあたった」ようで、先月末から頻繁にジンマシンが出るようになってしまいました。

最初はサバが原因だとは気が付かなかったのですが、ネットで調べてみたところ、その症状が一致したことから、それとわかりました。そこで、なぜ「あたる」のかについても色々調べてみたところ、原因は3種類ほどある、ということがわかりました。

まず、その一つはサバの身に対するアレルギー。これは体質の問題なので、どんなに新鮮なサバを食べてもあたります。

このアレルギーが起こる原因は解明されていませんが、生活環境のほか、抗原に対する過剰な曝露、遺伝などが原因ではないかと考えられているようです。

これまではサバを食べてもアレルギー反応が出ることなどなかったのに、急にジンマシンが出るようになったのは、生活環境の変化か何かかな~と思ってみたりもするのですが、あるいは、最近運動不足気味なのと何か関係があるのかもしれません。

このアレルギーとは、英語かと思ったら語源はドイツ語のようで、アレルギー(Allergie)という言葉を初めて提唱したのは、オーストリアの小児科医C・V・ピルケールという人だったようです。

ピルケールは、「生体が、自分の成分とは異なった物質(アレルゲン)が、いったん身体の中に入ってしまうと、これに反応する物質(抗体)などができてしまい、一定の潜伏期間を経て、同じ物質に対して違った反応をするようになる」ということを発見しました。

そして、この症状に、ギリシア語のアロス(変わった)とエルゴ(反応)を組み合わせ、アレルギー(Allergie)というドイツ語の造語を与えました。

外来の異物(抗原)を排除するために反応する物質ができることを、免疫反応といいますが、これはヒトの生体にとって不可欠な生理機能でもあります。とはいえ、大好きなサバを食べて、免疫反応が起こるというのはどこか釈然としないものがあります。

なので、もうひとつの可能性としては、「ヒスタミン中毒」ということも考えられます。ヒスタミンは花粉症などと関連するアレルギー症状を起こす物質で、サバの血合いにはアミノ酸「ヒスチジン」が多く含まれています。サバの死後、これが細菌の作用でヒス夕ミンに変わります。

人の体の中で、ヒスタミンが過剰に分泌されると、ヒスタミンは、「ヒスタミン1型受容体」というタンパク質と結合してこれがアレルギー疾患の原因となり、ヒスタミン中毒を引き起こします。

サバだけでなく、マグロやカツオにもヒスチジンが多く含まれているそうで、これらでも中毒は起きます。しかし、同じ赤身の魚の中でも、サバやイワシ、アジといった小型の青魚のほうがあたりやすいようなイメージがあり、マグロやカツオにあたった、という話はあまり聞いたことがありません。

これについて専門家は、大きい魚は内臓を取り除いてブロック化するのできれいに管理しやすく、細菌が発生しにくいのに対し、サバ、イワシなどの小型の魚は細菌がより活動しやすい可能性がある、ということを言っているようです。

サバ、イワシといった魚は身がやわらかく、水っぽいことも細菌の増殖には有利に働らくようです。しかし、こうした青魚でも、低温に保てばヒスタミンはつくられないそうです。ただし、獲れてから時間が経った魚は、低温処理だけでは、ヒスタミン生産細菌の増殖とヒスタミンの生成を完全に抑制することはできません。

このため、冷温してあったし、臭いとも思わないようなサバでも、実際にはヒスタミンの量が中毒の閾値を超えてしまっている場合もあるそうです。また、ヒスタミンは熱に強く、できてしまうと加熱調理しても防げないといいます。

じゃあどうすればいいのよ、ということなのですが、まずは新鮮なうちに捌いたものを食すことと、水分を取って身を引き締める「酢〆」も、酸が細菌の繁殖を抑える効果が期待されるということです。

酢には強力な殺菌作用があり、これで洗うなどの処理はヒスタミン生産細菌の増殖を抑制することができるため、鮮度保持には有効なようです。従って、ヒスタミン中毒にならないためには、できるだけ新鮮なサバを食べること、またできるだけ酢〆をして食べることが肝要のようです。

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さて、サバにあたる、という症状としてはもうひとつ、寄生虫によるものがあるそうです。「アニサキス」というのがそれで、サバを食べることによって、ヒトの体に入ると、その寄生部位により、胃アニサキス症、腸アニサキス症、腸管外アニサキス症などの症状が出ます。

普通は胃を通って腸などに達する以前に症状が出ることが多いので、表面に出るのは胃アニサキス症が多いようです。

その症状は、食後数時間のうちに始まる激しい腹痛と嘔吐です。嘔吐に際しての吐瀉物は胃液のみで、下痢も一切認められないことが一般的な食中毒と異なる特徴だそうで、これはアニサキスの虫体が寄生のために胃壁や腸壁を食い破ろうとするために生ずる症状だということです。

激痛のため診断の確定を待たず緊急開腹せざるを得ないこともあるほどそうで、これは罹患したらすぐにわかります。なので、私のサバアレルギーとは明らかに違う症状なのですが、ついでですから、もう少し詳しく書いておきましょう。

このアニサキスは、サバが生きている間は内臓にいることが多いとされ、死んでから身に移るといいます。

なので、とれたてのサバの場合は、アニサキスはまだ内臓にいますから大丈夫ですが、遠く離れた場所でとれたサバを輸送しているうちに、身にアニサキスが移動してしまっている場合もあるわけです。

しかし、アニサキスは加熱に弱いそうなので、煮たり焼いたりすれば死んでしまいます。また、冷凍でも死滅しますが、逆に殺菌力のある酢で締めても死滅しないので〆鯖も危険だということになります。

もっとも、アニサキスに寄生された魚類やイカをヒトが食べても、ヒトの体内では成体になることはできず、産卵もされません。なので、おなかは痛くなるかもしれませんが、未来永劫この寄生虫と暮らすハメになる、とうことだけは避けられそうです。

対策としては、まずは鮮度が落ちると内臓から身へ移るので、鮮度の良いうちに内臓を処理することです。が、内臓を避けて食べても身に移っていたら感染を完全には防げないわけで、ですからどうしてもアニサキス中毒になりたくなかったら、煮るか焼くか、完全に冷凍して再解凍して食べるかしかなさそうです。

万一、アニサキスの侵入を許してしまったらどうするか。これは、胃内寄生の場合、その初期段階での一般的な治療法としては、開腹手術をするか、あるいは上胃カメラを用いて、消化管粘膜上の虫体鉗子を用いて取り除くかしかないそうです。虫体を取り除くとすみやかに症状が消失することが多いそうですが、ちょっと考えただけでもぞっとしますよね。

このように、サバを食するということは、アニサキス摂取のリスクがあるわけですが、にもかかわらずサバを生で食べる習慣というのは結構日本人には浸透していて、とくに西日本、特に北部九州などではゴマサバなどのサバを生食する習慣が根強く残っています。

これはなぜかというと、ひとつには、こうした関西で獲れるサバに含まれるアニサキスは関東で獲れるサバに含まれるものとは種類が違うのではないか、ということがいわれているようです。

サバが収穫された場所によっては、その地域のサバが保有しているアニサキスの種類が異なるということになり、ある種のアニサキスは内臓から肉身に移行する率が極めて低いそうです。

従って、生食習慣のある西日本や九州で獲れたサバが保有する種類のアニサキスはこの種のアニサキスということになるようで、サバは全国的に獲れる魚ですが、西日本や九州のサバならば比較的アニサキスの心配をせずに食べれるということになります。

ほんとか~という声が聞こえてきそうですが、まだまだ研究途中の話のようなので、関西のサバが大丈夫で関東のサバはだめ、ということにはすぐにはならないようです。が、いかんせん、関西サバにせよ、関東サバにせよ、できるだけ新鮮なものを食するというのが一番のアニサキス対策です。

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このサバですが、生物学的には、マグロ属、カツオ属など外洋を旅する大型のものもあるようですが、一般的にはサバ科サバ属に属するマサバやゴマサバが代表選手です。日本近海では、とくにこのマサバとゴマサバが取れますが、このほかにも南西諸島だけで漁獲されるグルクマサバ・ニジョウサバといった種類があります。

日本ではこのマサバとゴマサバのほか、ノルウェーなどから輸入されるタイセイヨウサバを合わせた3種がよくスーパーマーケットで売られており、我々の口に入ることが多いようです。ただし、鮮度の関係からかノルウェー産は主に塩さばに加工されていることが多いようです。

このほか、サバは天然モノだけではなく、養殖技術も開発されていて、大分県や鳥取県では養殖が盛んに行われているそうです。ほぼ一年を通じて、スーパーマーケットで買って食することができるのは、このためでもあります。

しかし、サバはの味は秋が一番で、とくに秋のマサバは最高だという声が高いようです。ただ、太ったマサバは秋以外の季節では日本近海では捕獲できないそうで、この点、一年を通して日本中のどこかで獲れ、品質が安定しているゴマサバのほうが食卓に上がることが多くなります。

サバ好きの私としては、ゴマサバもマサバどちらも好きなのですが、調理方法として私が愛してやまないのはやはり〆鯖であり、このほか、焼き魚、鯖味噌などにしてもおいしく、鯖寿司、なれ鮨などは郷土料理としている地域もあります。

マサバでは豊後水道の関さば・岬さば(はなさば)が有名ですが、このほか、神奈川県の三浦市松輪の松輪サバ、ゴマサバでは屋久島の首折れ鯖、土佐清水市の清水サバなどの地域ブランドが存在します。

缶詰にされる煮鯖も多く、最近、このサバ缶には痩せる効果があると話題になっているようです。

サバの缶詰には、「GLP-1」という物質が含まれており、この成分は糖分が急激に体に吸収されるのを抑え、空腹感を抑制する働きがあるということで、サバ缶を食べることで無理なダイエットをしなくても自然と痩せる効果があるのではないか、ということが言われています。

しかし、もともとサバ缶は1缶あたりのカロリーは約380kcalとやや高く、糖質も含まれているため、食べ過ぎは禁物で、やはり栄養のバランスを考えながら、色々な食品を偏りなく摂ることが大切です。

とはいえ、サバ缶には良質なたんぱく質をも多く含まれており、血液をサラサラにし、動脈硬化を防ぐEPA(エイコサペンタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)などの高度不飽和脂肪酸も含まれているので、健康的な食品であるといえるでしょう。

その一方で、生のサバは、やはりマグロやカツオといった魚に比べると痛みやすく、「鯖の生き腐れ」と呼ばれるほど鮮度の低下が著しいという欠点もあります。

古来よりサバは、食あたりが発生しやすい食材と知られており、これは脂肪分が多く鮮度低下が比較的早いということと、上述のとおりヒスタミン生産細菌によりヒスタミンが生じやすいことが原因です。

年を誤魔化す際の「サバを読む」という言葉は、鯖が大量に捕れ、かつ鮮度低下が激しいため、漁師や魚屋が数もろくに数えず大急ぎで売りさばいたのが起源という説もあるようです。

また、相撲の「鯖折り」ということばは、釣り上げた鯖の鮮度を保つために、エラから指を入れて頭部を上方に折り曲げるという手法がよく取られたことに由来します。

こうした相撲用語にも使われるほど、サバは古くから日本人になじみの深い食用魚です。「さば」の名称の由来は、一説には、小さい歯が多いことから「小(さ)歯(ば)」の意であるといいます。

平安時代には貢納品として朝廷などに貢納されることもあったといいますが、このころ既に鯖売りの行商が行われていたという記録もあり、庶民には馴染み深い魚であったようです。

弘法大師が旅僧の姿である商人に鯖を請うたという話があり、このときこの商人は弘法大師に鯖を与えなかったため、のちに罰せられたという伝説も残っています。

徳島県海陽町の「鯖大師本坊」には僧が鯖を手にもつ像が祭ってあるそうで、このお寺さんは弘法大師を本尊としているそうです。ここでは「鯖斷ち三年祈願」と言って、願掛けした後に鯖を三年間食べないことで、病気平癒・子宝成就・心願成就の御利益があると信じられています。

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金沢の北國新聞社がかつて出版した「おもしろ金沢学」という本には、「棟上げのサバは天狗よけ」と題して、越中五箇山や飛騨白川の山間地では正月の膳に必ず能登の塩サバが用意される、といった話が書いてあるということです。

京都や大阪では、「年とり魚」に塩ブリを使うそうですが、このように金沢や富山県の山間部では塩サバが使われるようです。

「年とり」というのは、大晦日に行う新年を迎えるための行事のことで、歳神様を迎えるにあたって、豪華な縁起物の料理を並べて祝うもので、昔はいわゆる「おせち料理」もこの夜のうちからふるまわれていました。

この「年とり」になくてはならないのが「年とり魚」であり、味もよく、立派な外見を持っている魚を「年とり魚」として供しましたが、この「年とり魚」としては、「東の塩ザケ」「西の塩ブリ」といわれるように関西ではブリ、関東ではサケに決まっていました。

その昔は、魚の保存方法と輸送手段が限られていたためで、江戸ではサケが入手しやすく、西日本では魚がブリのほうが入手しやすかったのがその理由です。

もともと戦国時代に、京都や大阪で、年とりの魚として北陸地方産の寒ブリを食す習慣がありましたが、この習慣が東に移行し、信州の松本、木曽福島、諏訪、飯田あたりまで広まり、江戸時代中期にはこの地方でもブリで祝う習慣が定着しました。

つまり、この長野県のラインがいわば「ブリの北限」で、これよりも北もしくは東ではサケが年とり魚とされたわけです。

それにしても、なぜ関西では年とり魚がブリなのに、これにほど近い金沢や富山などの山間部ではサバなのかはよくわかりません。

が、サバはどちらかといえば太平洋側でよく獲れる魚です。このため、その昔は、日本海側の金沢や富山では流通量が少なく、ましてや山間部では手に入りにくいものであったため、正月のめでたい供物としてはこちらのほうがより高級魚と判断されたのかもしれません。

現在でも静岡や三重、千葉といった太平洋側の県のサバの漁獲量に比べて、石川県や富山県のサバ漁獲量は十分の一以下と少ないほうです。

ところが、同じ日本海でも、京都に近い福井県の若狭湾などでは、その昔はサバがよく獲れたようで、この若狭湾で獲れたサバを畿内に持ち込むために開かれた専用街道もあったほどです。

現在の福井県はその大部分がその昔、若狭国と呼ばれ、ここは小浜藩が領有していましたが、この街道はこの小浜藩領内と京都を結ぶためのものでした。主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートでしたが、その中でも特に鯖が多かったことから近年になってからこれは「鯖街道」と呼ばれるようになりました。

現在のように鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは無論、徒歩で京都に運ばれました。さすがに距離があるため、痛みやすい生サバを京都市民が食することはできませんでしたが、若狭で生サバを塩でしめ、京都へ持ち込まれるころにはちょう良い塩加減になっていたため、この塩サバは京都の庶民に大人気だったそうです。

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福井県側の小浜市南部から鯖街道を通って、滋賀県側の高島市に入る際、標高約830mの「針畑峠」という峠を越えますが、冬にこの峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされています。

しかし、夏期は運び手が多かったものの、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なく、運び手の中には冬の峠越えのさなかに命を落とす者もいたそうです。

この鯖街道は、サバだけでなく多くの種類の海産物を京都に持ち込みました。平城宮の跡や、奈良県明日香村の都の跡で発掘された木簡には、若狭からタイの寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたとする記録が残っているそうです。

また、現在の京都府橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡には塩の荷札が多数見つかっており、鯖街道を利用して塩も多く運ばれたとみられています。

こうした史料から鯖街道の歴史は1200年以上、あるいは約1300年程度もあると考えられていますが、この鯖街道と呼ばれるものは、小浜市から若狭町三宅を経由して京都市左京区に至る「若狭街道」を指し、これはおおむね現在の国道27号や国道367号に相当するようです。

ただし、往時の若狭街道は現在の国道367号ではなく大見尾根を経由する山道であったほか、それぞれの国道ではバイパス道路が建設されているため旧道となっている区間もあるため必ずしも全部が全部は一致しないようです。

また、広義には、福井県南部から京都を結んだ街道全てを鯖街道と呼ぶこともあるようで、これらには例えば、小浜から琵琶湖の水運を経由して京都へ至る琵琶湖経由のルートも含まれます。

これは琵琶湖の西側を陸路で辿るルートで「西近江路」とも呼ばれ、おおむね現在の国道161号に該当するものです。このほか、小浜から朽木・久多・花脊峠経由、鞍馬街道を経て京都へ至るルートもあり、そのほかにも小浜から京都への最短距離をとる小浜街道ルート、そして、小浜から名田庄を経由する「周山街道」などがあります(ほぼ国道162号と一致)。

しかし、これらの街道を通ってその昔には大量の鯖が運搬されたというのに対して、現在の福井県での鯖の漁獲量はかなり少なくなっています。平成23年の統計では、茨城県の121900トンが一位なのに対して、福井県のそれはわずか200トンにすぎません。

もっとも、近年は日本近海で獲れるサバそのものの漁獲量が減っているようで、これが最近ノルウェーなどのヨーロッパからの輸入ものが多い理由です。

ヨーロッパでもサバはポピュラーな魚であり、フランスではエイプリルフールのことを Poisson d’avril というそうで、これは「4月の魚」とい言う意味で、この魚とは鯖を指しているといいます。これはヨーロッパではその昔、鯖が4月に入るとたくさん釣れたため、といわれています。

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このヨーロッパのサバは、「大西洋サバ」と呼ばれ、ノルウェー沖でよく獲れることから、通称「ノルウェーサバ(S. scombrus)とも言われているようです。昔は4月によく獲れたのかもしれませんが、やはりその旬は日本と同じ秋です。

アイルランド沖で春先に産卵し、孵化した幼魚は餌をとりながらノルウェー南部海域を目指すそうで、ノルウェー南部海域にはルンベと称される浅瀬があり、そこには海草が生い茂り波も静かでプランクトンが豊富です。

幼魚時期にここで成長し、回遊ができる体になってから北上を始めますが、ノルウェー北部海域にはプランクトンが豊富にある海域があり、索餌行動をして丸々と太ったサバは産卵のため南下を始めます。

程よく脂も抜けて、身もしまり風味が良くなる時期が、9月中旬から10月中旬であり、特にノルウェー中南部のオーレスンド沖で水揚げされる戻りのサバが最良とされているそうです。

近年の日本は、多くのサバをこのノルウェーから輸入しており、ノルウェーから日本への空路を指して、「現代の鯖街道」と言う人もいるほどです。

一方、日本で捕獲される鯖もやはり秋が旬で「秋サバ」と称されます。太平洋沿岸を回遊するサバは、伊豆半島沖で春頃産卵し、餌を食べながら北上します。特に北海道沖での海域は、プランクトンが豊富にありサバは丸々と太りますが、脂肪分は 皮と身の間などに貯められるため、まだ身に均等にまわっていません。

このサバが産卵のために南下を始める時期が9~10月頃であり、その時期のサバは脂肪が身に入りこみ、寒さのために身もしまり風味は格段に上がります。特に八戸沖で水揚げされる戻りのサバは最良とされているそうです。

北上するサバと南下するサバとでは脂肪含有率が全く違いますが、脂肪含有率の多い順は北海道沖→八戸沖→三陸沖→常磐沖→銚子沖→伊豆沖です。しかし、これより更に南下して九州沿岸に至ったサバ、あるいはこの海域で育ったサバは冬になると逆に脂肪を蓄えるようで、このためこの地域では冬が旬であり、俗に「寒サバ」と称されるのがこれです。

ちょうどいまごろ、我々が住まう伊豆半島の沖の海では、生まれたばかりのサバが餌を食べながら北上しているはずです。これから暑い季節がまたこの地にもやってきますが、この間、鯖たちは悠々と北海道の海で豊富な餌を食べ、またこの地に向かって帰ってくることでしょう。

秋になったら、その伊豆へ帰宅途中の丸々太ったおいしいサバを捕獲したものをたらふく食べたいものですが、それまでにこのサバアレルギーが完治していることを願ってやみません。

ちなみに、「秋鯖は嫁に食わすな」という言葉があるようです。元々は嫁いびりのために使われていたようですが、現代では「脂肪が多いから嫁さんにはよくない」という解釈もあるようです。

我が家でもデブになったタエさんは見たくないので、この秋サバを勧めるのはやめ、自分ひとりで食べようと思います。その秋が待ち遠しいところですが、その前にこのうっとうしい夏をなんとか生き延びねばなりません。

が、焦っても夏は通り過ぎてはくれません。月日の流れるのをサバサバと見守ることとしましょう。

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夏風邪にご用心

2014-1120278今日は、「種痘の日」だそうです。

1796年のこの日、イギリスの医師、エドワード・ジェンナーが、死の病といわれていた天然痘の抑止のために、8才の少年ジェームス・フィップスの腕に乳しぼりの女性サラ・ネルメスの手に出来た牛痘病変から採った材料を接種しましたが、これが世界初の種痘だといわれています。

1796年(寛政8年)というと、日本は江戸後期にあたり、伊能忠敬が蝦夷地を初めて測量したころであり、日本でも天然痘は何度も大流行していました。その致死率は40%前後ともいわれ、大きな感染力のため、日本以外の国では時に国そのものや民族が滅ぶといったことすらあったようです。

イギリスでも無論、この当時天然痘はもっとも恐ろしい病気の一つでしたが、ジェンナーの種痘の成功により、これ以降、種痘による予防が可能となったことから、その後天然痘による死亡者はヨーロッパでは劇的に減少し、その後も種痘は世界に広まっていきました。

1980年(昭和55年)5月には、世界保健機構によりその根絶宣言が出されましたが、このことにより、天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症ともいわれています。

天然痘は、ウイルスを病原体とする感染症の一つです。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、非常に強い感染力を持ち、全身が化膿して、膿の出る疱瘡ができます。仮に治癒してもあばたを残すことから、古くから不治の病、悪魔の病気と恐れられてきました。

発源地はインドであるとも、アフリカとも言われていますが、はっきりせず、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃だといいます。また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世で、そのミイラには天然痘の痘痕が認められるそうです。

ヨーロッパでは、165年から15年間ローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」も天然痘とされ、このときは少なくとも350万人が死亡しました。

その後、12世紀に十字軍の遠征によってヨーロッパ各地にウィルスがもたらされ、流行を繰り返しながらそのほかの場所へも広がっていき、アジアを含むユーラシア大陸ではとんどの人が罹患するようになりました。

ヨーロッパでは、ルネサンス期以降肖像画が盛んに描かれるようになりましたが、この当時は天然痘の瘢痕を描かないのは暗黙の了解事項であったといい、普通の風邪と同じくそれほど日常的な病気となっていた、ということのようです。

アメリカでは、コロンブスがここに上陸して以来、白人の植民するようになったために、これとともに天然痘も侵入し、先住民であるインディアンに激甚な被害をもたらしました。無論、持ち込んだ側の白人が罹患したことが原因ですが、奴隷として移入されたアフリカ黒人も感染源となっていきました。

しかし、ユーラシアやアフリカでは、天然痘の歴史は長く、天然痘は牛馬などの家畜にも伝染するため、これらの地域に住み、家畜とともに暮らす住民にはある程度抵抗力ができており、症状や死亡率はある程度軽減していました。

ところが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは、まったくといっていいほど天然痘の免疫を持たなかったため抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族も多数ありました。

とくに、北アメリカでは、植民地化のために、白人が故意に天然痘を広めるということもあり、とくにイギリスの軍隊は、天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようというひどいことまでやりました。

無論、銃器によるインディアンの駆逐もなされましたが、この天然痘のばらまきという、いわば化学兵器としての使用は、19世紀に入ってもなお続けられていたといいます。

中国でも天然痘は、シルクロードを通じて入ってきたようで、南北朝時代の495年ころに流行したとするのが最初の記録です。斉が北魏と交戦している間にまたたくまに中国全土で流行するようになり、この流行はやがて6世紀前半には朝鮮半島にも移行しました。

それまでは日本にも天然痘は存在しませんでしたが、中国や朝鮮半島との交易のために渡来人の移動が活発になるとともに流行し始め、6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられています。パンデミックとは、伝染病が予想される範囲(これをエンデミックといいますが)を超えて、急激に社会的に流行していく状態をさします。

中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、やがてはヨーロッパと同じく誰もがかかる病気となっていきました。天皇さえも例外ではなく、江戸初期のころの天皇、東山天皇は天然痘によって崩御している他、江戸時代最後の天皇、孝明天皇の死因も天然痘であったといわれています。

その息子の明治天皇も幼少時に天然痘にかかっており、この天皇は写真を撮られるのを嫌がったといい、その理由は痘瘡を煩い、口の周りにあばたがあったからだといわれています。

その後、18世紀半ば以降、日本では幕末近くになって、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきました。牛痘には人間も罹患しますが、瘢痕も残らず軽度で済むことから、これが天然痘の抑止に使えるのではないかと考えた人物がいました。

これが、冒頭で述べたエドワード・ジェンナーでした。 ジェンナーはイギリスの片田舎の開業医でしたが、1798年、この種痘法を発表した後、その名声はヨーロッパ中にひろまり、1802年にはイギリス議会より賞金まで贈られました。

しかし、この当時のヨーロッパ医学界はこのイギリスの田舎医師の業績をなかなか認めなかったといい、また一部の町村では、牛痘を接種すると牛になると言われたため、その普及はなかなか進みませんでした。

これに対して、ジェンナーは接種を「神の乗った牛の聖なる液」と説明して広めようとしたと言われています。こうした努力もありましたが、このころから天然痘がヨーロッパで大流行したのを機に、ジェンナーの種痘法の効果が人々に知られるようになりました。その功績から、現在では彼は「近代免疫学の父」と呼ぶようになっています。

なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする「美談」も昔もあったようですが、冒頭で述べたとおり、実際にはジェンナーの使用人の子に接種したのでした。

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実は、このジェンナーの成功よりも前に、種痘法を発見した日本人がいた、ということは日本の医学界でさながら伝説のようになっているようです。

現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔という医者で、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前の寛政4年(1792年)に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させています。

しかし、この種痘法は日本でも同じく偏見のためになかなか広まらず、これが日本で本格的に普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩がヨーロッパからワクチンを輸入してからになります。

大阪の蘭方医、緒方洪庵は、ワクチンが輸入され始めた1849年に、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼んでこれを成功させ、のちに私財を投じて「除痘館」という種痘所を開いて牛痘法の普及活動を行いはじめました。

これに触発されて、江戸ではやや遅れた1858年に伊東玄朴・箕作阮甫・林洞海・戸塚静海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙といった有名な蘭方医83名の資金拠出により、神田松枝町(現千代田区神田岩本町)の幕臣の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立されました。ちなみにこのお玉が池種痘所は、のちの東京大学の前身にあたります。

こうして、近代に入ってからは、ヨーロッパでもアジアでも種痘撲滅の運動が続けられるようになり、1958年には、世界保健機関(WHO)総会で、「世界天然痘根絶計画」が可決されました。

しかし、最も天然痘の害がひどいインドなどでは、天然痘にかかった人々に幸福がもたらされるという妙な宗教上の観念が浸透しており、種痘に対する反対運動まで起きました。ほかにもアフリカ諸国のように貧しい国々では、種痘のワクチンが行きわたらず、その根絶運動は多難を極めたといいます。

こうした困難にもめげず、WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象としてくまなく種痘を行い、徹底的にウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させるという方針で天然痘の感染拡大を防ぎました。これが功を奏し、とくに根絶が困難と思われていたインドでまず天然痘患者が激減していきました。

これと同じ方針はアフリカなどの他地域でも用いられ、1971年にはついに中央アフリカと南米から天然痘が根絶されました。こうして、1975年、バングラデシュの3歳女児の患者が罹患したのを最後に、世界で天然痘を発症する患者はいなくなり、1980年5月8日にWHOは正式にその根絶宣言を行いました。

天然痘は、人間に感染する感染症で人類が根絶できた唯一の例であり、人間以外を含む感染症全般ではウシなどに感染する牛疫も2011年に撲滅宣言されています。

日本国内においても、その発生は1955年の患者を最後に確認されていません。国外で感染した患者は1970年代に数例報告されたことがありましたが、天然痘の撲滅が確認された1976年以降、日本では基本的に接種は行われていません。

このため、2014年現在の今も、自然界においては天然痘ウイルス自体が存在しないとされています。根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5~10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいません。

ところが、撲滅したこの天然痘ウイルスを何等かの実験目的で培養し、研究施設などで保管している国もあるようです。このため、万一、これらが流出し、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されています。

アメリカの新聞社、ワシントン・ポストは、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げているそうです

実際には天然痘を発症したという例は報告されていないことから、とりあえずはそうした兵器の行使は行われていないようですが、昨今の東アジアや東ヨーロッパの不安定な状況を見ていると、これらの地域の紛争には天然痘サンプルを持っているとされる北朝鮮やロシア主役であることから、天然痘の再来を心配する声もあるようです。

このように、天然痘に限らず、感染症というものは、世界の歴史において紛争や戦争のみならず、社会的、経済的、文化的に甚大な影響を与えてきました。

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それでは、この感染症とはいったいなんでしょうか。

その定義は、マイコプラズマやクラミジアといった細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌、原虫、寄生虫といった、病原微生物ないしは病原体がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすことです。

これらの病原体はヒトの組織を破壊したり、病原体自体が毒素を出したりして体に害を与え、一定の潜伏期間を経たのちにさまざまな病気を発症させます。感染症と伝染病は何が違うのか、という質問が飛んできそうですが、伝染病というのは「伝染性をもつ感染症」をさしており、伝染病もまた感染症です。

伝染性をもつ感染症の流行を疫病といい、これは日本では「はやり病」と言われることもあります。感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきました。

感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーといわれています。

サーマーン朝というのは、9世紀から10世紀にかけて、中央アジア西南部、現在のイラン東部のホラーサーンと呼ばれる地域を支配したイラン系のイスラーム王朝のことで、この国の君主であったシャムス・ウッダウラの侍医となったスィーナーは、当時の世界の大学者であると同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価されています。

ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えたといい、「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼしました。

このスィーナーが1020年に執筆したといわれる「医学典範」においては、既に隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することが記述されているそうで、今よりも既に1000年以上も前から人類は感染症というものを認識していたことになります。

ただし、スィーナーはその物質が病気の直接原因になるとは考えていなかったようで、ましてや病原体(病原微生物)を直接視認できたわけではありません。

病原体の実像を人類が初めて見たのは、これよりもさらに700年近く経ったからであり、1684年のオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが、光学顕微鏡によって世界で初めて細菌の観察したのが初めてだといわれています。

なお、光学顕微鏡でも視認されえないウイルス(virus)の発見は、細菌よりも遅れ、1892年のロシアの植物学者ドミトリー・イワノフスキーによるタバコモザイクウイルスの発見が最初とされています。

レーウェンフックはそれまでの顕微鏡を大幅に改良することによって細菌を肉眼で容易に観察できるようにすることに成功し、この顕微鏡には更に改良が続けられ、この光学顕微鏡は世界中に広く普及するようになりました。

この結果、1875年にはドイツ人医師のコッホが、この光学顕微鏡を用いて、世界で初めて感染力のある病原体を発見しました。この細菌は、炭疽菌と呼ばれるもので、2001年にはアメリカで同時多発テロ事件直後に発生した「炭疽菌事件」に利用されたことでも知られています。

コッホは、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出し、これによって、感染症の研究は著しく進歩しました。

こうして、種痘の発見者である、エドワード・ジェンナーや、ジョナス・ソーク、アルバート・サビンといった、有名な細菌学者が登場するようになり、彼等はそれぞれ天然痘やポリオに有効なワクチンを開発し、その成果は後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するための大きな一歩となりました。

日本でも明治維新によってこうしたヨーロッパの近代医学の知識が入ってくるようになり、やがて医学の分野において独自の進化を歩み始めるようになっていきます。そして、1894年(明治27年)には北里柴三郎がペスト菌を発見し、志賀潔も1898年(明治31年に)赤痢菌を発見しました。

しかし発見されても、天然痘以外では現在も根絶されていない疫病菌も多く、それらの細菌の多くは、「コッホの原則」の提唱以降の、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中して発見されています。

細菌による感染症は1929年に初の抗生物質であるペニシリンがイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見されるまで根本的な治療法はなく、ウイルスによる感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きいのが現状です。

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ただ、1935年、ドイツのゲルハルト・ドーマクは初の広域合成抗菌薬であるサルファ薬を開発。既に開発されていた抗生物質とこのサルファ薬の組み合わせは、感染症治療に新しい地平を切り開いてきました。抗生物質の普及や予防接種の義務化、公衆衛生の改善は世界中で進んでおり、現在では感染症を過去の脅威とみなす風潮もあるようです。

しかし、耐性菌の拡大や経済のグローバル化による新興感染症の出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じており、いまだ、感染症はその脅威が人類社会に大きな影を投げかけています。

こうした災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまですが、現在の日本では、中国、韓国、ロシアから入ってきたのではないかといわれる、鳥インフルエンザや人間にも感染力の強い新型インフルエンザが猛威をふるっており、「インフルエンザ」という脅威への対策に主眼が置かれています。

しかし、幕末から明治にかけては、この時期に流行した「コレラ」が最大の脅威であり、後述するように、このコレラはその後の日本の近代化、国際化に大きな影響を与えました。

コレラはコレラ菌による感染症で、感染すると突然の高熱、嘔吐、下痢、脱水症状を起こします。その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行、コレラ・パンデミックを発生させており、2006年以降、世界的には第7期流行期が継続しているといわれています。

日本でもまた、2001年に、隅田川周辺に居住していた路上生活者2名がコレラを発病し、2006年にも、路上生活者1名がコレラを発病しましたがその後は駆逐され、2007年から施行された改正感染症法においてコレラは三類感染症に分類されました。

これは事実上の格下げであり、この変更に伴って、検疫法の対象病原体から除外され、空港・港湾検疫所では病原コレラの検出そのものが行われなくなっています。

しかし、かつて、幕府が鎖国を廃して諸外国といわゆる安政五ヶ国条約が結ばれた1858年(嘉永5年)からは、3年にわたってコレラが全国を席巻するほど大流行しました。これが、いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれています。

その後このコレラの流行は一服しましたが、文久2年(1862年)には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3,000人が死亡したといわれています。以後、明治に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えたこともありました。

このうち、1879年(明治12年)の流行については、この年の初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、7月には阪神地方など西日本で大流行しました。このため、明治政府は各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作成し、外国船の検疫停船仮規則も新設して検疫の実施を図ることにしました。

日本政府は各国公使に仮規則の内容を通知し、これに対し、アメリカ合衆国・清国・イタリア王国の各国代表は異議のない旨を返答してきました。ところが、駐日英国公使のハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張し、拒否の返答を送ってきました。

これに同調するかのように、ドイツとフランスもまた拒否の姿勢を示し、しかも日本が作成した規則の不備を指摘して、逆にイギリスと共同で日本に抗議文を提出してきました。

普通に考えれば、日本の勧告に従って検疫を受けた方が、外国人居留地に在住する彼等の自国民の安全にも資するはずでしたが、かれらは日本の検疫そのものが厭わしいというよりは、これが糸口となって、日本の行政規則にしたがわなければならなくなることを警戒したのでした。

ちょうどこのころ、ドイツ船「ヘスペリア号」という商船が、コレラ流行地である清から日本へ直航してきました。日本の防疫当局は、この船の乗員とともにコレラが流入するのを恐れ、へスぺリア号を神戸港外にいったん停泊させましたが、その後ヘスペリア号は神戸から東京湾へ廻航し、今度はここに入港しようとしました。

このため当局は、諸外国との検疫停船仮規則の締結を見ない現状ではありましたが、この仮規則で定めた神奈川県長浦港(現横須賀市)に設けた検疫場にヘスペリア号を強制的に回航させました。

これに対し、駐日ドイツ弁理公使であったフォン・アイゼンデッヘルは、公使館付一等軍医のグッヒョウを検疫場に派遣して独自の検査をおこないました。そして、あろうことか「異状はみられない」との自前調査の結果をまとめました。

アイゼンデッヘル公使は、船長の不服申立書と立ち入り検査報告書の写しをたずさえて再度ヘスペリア号の解放を日本の政府当局へ要求し、日本側の検疫規則にしたがうことはできない旨を当局に伝えてきました。

政府当局は最初、規則の遵守を強く主張しましたが、やがてドイツ側の強硬な姿勢に譲歩し、「異状のまったく認められない場合に限る」と強調した上で、停船日数を短縮するならば、ということで入港を認めてしまいました。

しかし、ドイツ公使はこの「停戦日数の短縮」すらも不服とし、一方的に東京港外から抜錨し、ドイツ砲艦ウルフ号の護衛のもと、今度は横浜へ向かい、ここでの入港を強行しました。これが後世、いわゆる「ヘスペリア号事件」と呼ばれるようになった事件のあらましです。

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外務卿の寺島宗則は、この出来事について、日本の行政権に対する重大な侵害に相当するとして、ドイツ政府に対し厳重に抗議しました。

しかし時すでにおそしであり、日本側が懸念したとおり、このヘスぺリア号の入港によって上陸したドイツ船員が罹患していたコレラが、横浜市民に伝染し、この年は横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行する、という結果になりました。患者は全国で約16万8,000人にものぼり、コレラによる死者は1879年だけでも10万400人にも達しました。

東京市においては、市内数カ所にバラックの板囲いで避病院を急造して患者を隔離しましたが、1日平均200名を超過する新規患者が出るようになると、医師も看護婦も人手不足となり、ろくな看護も受けることなくほとんどの患者は死んでいきました。死者は警察官立ち会いのもと火葬に付され、避病院も用済みになると建物ごと焼き捨てられたといいます。

このヘスペリア号事件に先だつ二年前の1877年(明治10年)には、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚していました。

これは安政五カ国条約のなかの日米修好通商条約に記載されていた、アヘンの輸入は禁止するという条項に明らかに違反していましたが、翌1878年、横浜イギリス領事裁判法廷は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡しました(ハートレー事件)。

このハートレー事件に限らず、開港以来の横浜居留地では、生糸を中心とした貿易において外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引が頻発していました。しかし、治外法権によって守られていたこともあり、多くの場合、日本人側が泣き寝入りを余儀なくされていました。

こうしたこともあり、ヘスペリア号事件に端を発して多くのコレラ患者が出たことから、それまでに日本が諸外国と結んでいた不平等条約に関して不満の声が高まり、日本の国内世論は条約改正に向けて沸騰しはじめました。

日本の知識人の多くが、この事件やハートレー事件等により、領事裁判権の撤廃なくば国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを主張しました。その論調が新聞で掲載されると、世論は、日本の経済的不利益の主原因もまた、日本に法権の欠如していることが主原因であるというふうに変わっていきました。

実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然でした。

ヘスペリア号事件やハートレー事件は、こうして不平等条約の改正の必要性を広く世論に知らしめた事件となり、高まる世論を受け、寺島宗則につづいて井上馨、大隈重信、青木周蔵など歴代の外交担当者はいずれも条約改正に鋭意努力していきました。

その結果、1894年(明治27年)に陸奥宗光外相下で日英通商航海条約が結ばれて改正条約が発効する運びとなり、その5年後の1899年(明治32年)になってようやく日本は海港検疫権を獲得しました。

このように、この明治期のコレラという感染症の蔓延は、これが契機になって不平等条約の改正を促すとともに、これが日本が国際的に対等に諸外国と渡り合えるほどの国力をつけていくきっかけにもなっていきました。

コレラの流行はまた、日本の近代的な科学技術の発展に大きく貢献しました。ヨーロッパにおいても、19世紀前半のコレラの流行は、彼の地の科学技術を大きく発展させたという歴史的事実があります。

19世紀初頭以来の急速な都市化の進んだヨーロッパでは、その大都市はどこも劣悪な衛生環境にありましたが、コレラの猖獗(しょうけつ・悪い物事がはびこり、勢いを増すこと)によって、多くの人々が感染症は「人間の病」である以上に「社会の病」であることを痛切に感じるようになりました。

その結果として、社会の健康を考える公衆衛生学が発達するとともに、コレラなどの感染症の蔓延を防ぐための上下水道の整備が進み、これに伴って道路拡幅などのインフラ整備も進んだ結果、近代的な都市工学という学問分野が生まれました。

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日本もこれと同様に、このコレラの流行を抑止するために、まず水道事業が発展しました。この当時の日本人は、河川から直接取水してこれを生活に直接使用していたこともあり、コレラだけでなく赤痢などの水系感染症が多発し、多くの死者を出していました。

これを防ぐべく、まず横浜市を皮切りに水道事業が実施され、これは次第に全国的にも普及していきました。近代的水道としては、1887年(明治20年)に横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりで、その三年後の1890年(明治23年)には、水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されました。

この中で全国第3番目の水道事業を開始した長崎市では、1891年(明治14年)に本河内高部ダムが完成し、これは日本で初めて上水道専用のダムでした。さらに1900年(明治23年)には神戸市が生田川に上水用の布引五本松ダムを完成させましたが、このダムは、日本で初めて建設されたコンクリートダムでした。

ちなみにこの両ダムは現在でも現役で稼働しており、本河内高部ダムは1982年(昭和57年)の長崎大水害、布引五本松ダムは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災という激甚災害を経験しながらも致命的な損壊をまったく受けていません。

こうしたダムの建設の促進もあって、上水道は各都市部で急速に実用化されるようになりました。旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成し、こうしてコレラの蔓延は次第に「水際」で防がれていきました。

さらに、ダムの建設は日本の電気事業をも喚起し、こうして水道事業に端を発した数々のインフラ整備は、その後の日本における土木事業、建設事業における礎を築いていくことにもつながりました。

一方では、コレラの蔓延は、医療技術の急速な発展をももたらしました。佐々木東洋によって杏雲堂病院が創設され、佐藤泰然によってひらかれた順天堂病院は、その後の日本の医療技術の発達の嚆矢となりました。

この佐藤泰然が創設した順天堂病院は元は湯島にあり、これが現在は文京区に本部のある順天堂大学病院の前身になります。しかし、さらにはもともとは千葉の佐倉にあった佐倉順天堂がその前身です。

佐藤泰然は、武蔵国稲毛(現川崎市)の武家の生まれで、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事しつつ長崎に留学し、江戸へ戻ってからは名医として賞賛されていました。が、天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾である佐倉順天堂を開設しました。

この佐倉順天堂の治療は当時の最高水準を極めていたといい、とくに外科技術は欧米の技術を凌駕していたともいわれ、安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術などはいずれも麻酔薬を使わない手術だったといいます。

嘉永4年(1851年)、日本初の「膀胱穿刺」手術にも成功。他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂はやがて大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾となりました。

安政6年(1859年)、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居。順天堂の2代目堂主佐藤尚中は、泰然に子供がなかったために養子として佐藤家に入った人で、この佐藤尚中下谷練塀町で開院したのが順天堂医院の始まりです。

湯島の地に移転したのは1875年(明治8年)であり、現在も学校法人順天堂が運営する「順天堂大学医学部附属順天堂医院(醫院)病院」として現存し、開院以来一貫して「醫院」の名称を用いており、順天堂大学本郷キャンパスの一部をも構成しています。

佐藤泰然の後を継いだ順天堂の堂主(理事長)となった佐藤尚中は、これ以前の1869年(明治2年)には既に、明治政府から大学大博士を任ぜられ大学東校(東京大学医学部の前身)の創設時の初代校長となり、後の東京大学医学部を開設しました。

この大学東校は、冒頭で述べたおおり、神田松枝町(現千代田区神田岩本町)にあった「お玉が池種痘所」が前身であり、佐藤泰然もまた、緒方洪庵の種痘所の創設に協力したという話もあり、順天堂医院もまた種痘撲滅の歴史とは無縁ではありません。

そして、この順天堂医院では、その創設当時から東京大学医学部から病院長や教授などを多く受け入れており、文字通り日本の医学界のトップであり、数多くの名医を生み出してきました。

実は、ここ伊豆にもこの順天堂医院の流れを汲む、順天堂大学病院があります。順天堂大学医学部附属静岡病院がそれで、順天堂2番目の病院であり、静岡県伊豆の国市にある医療機関です。

静岡県では他に2カ所しかない総合周産期母子医療センターや、他に1カ所だけある肝疾患診療連携拠点病院などを有し、静岡県東部の基幹病院と位置づけられています。

昭和42年4月(1967年)に町立伊豆長岡病院を譲り受け、順天堂大学医学部の附属病院として発足したものですが、なぜ順天堂大学病院のような大きな組織が、こんな片田舎に病院を作ってくれたのかについては、調べてみたのですがよくわかりません。

同病院のHPには「地域の要請により」、とだけさりげなく書かれていますが、おそらくは旧長岡町の有力者の中に、順天病院の関係者と懇意の人がいた、とかいうようなことなのでしょう。

その順天堂大学静岡病院で、手術を受けた母は、すっかり元気になって山口にいます。先日の母の日に、この病院への入院当時の写真を送ったらたいそう喜んでいました。

その母が次に来るころにはもう夏になっていることでしょう。今日は全国的にも暑いところが多いようで、伊豆市での最高気温の予想も26度でした。

暑い夏がまた今年もやってきます。夏風邪は、気温の変化によってひくものだと思っている人も多いでしょうが、一部のウイルスは高温多湿の環境を好み、夏に活動的になります。

その代表がエンテロウイルスやアデノウイルスと呼ばれるもので、エンテロ(腸)、アデノ(ノド)という名称が示すように、発熱に加えて腹痛や下痢、ノドの痛みなどが特徴的な症状です。「夏風邪はお腹にきやすい」といわれるのは、主にエンテロウイルスが腸で急速に増殖するためです。

ノドの痛みは、咽頭炎などを引き起こし、食べ物や飲み物がノドを通らなくなることもあります。その結果、体力が低下して夏バテの原因にもなりかねません。

夏風邪というと、つい軽い風邪と考えがちですが、症状が長引きやすいので、油断できません。天然痘やコレラと異なり、軽い伝染病とタカをくくらず、対処法や予防法をしっかり知って、こじらせないよう注意しましょう。

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冷夏の年は……

2014-0241つい先日まで桜が咲いていたような印象がありますが、町中を歩いていても早、桜はなく、じゃあ新緑だ、と思い返いしてよく見てみると、その緑も薄緑色ではなく、もうすでに濃い夏の緑に変わりつつあります。

今年の夏は、南米のペルー沖でエルニーニョが起こる可能性が高いそうで、これにより冷夏になるかもしれないとのことです。

エルニーニョとは、簡単に言うと、東太平洋の赤道付近のガラパゴス諸島あたり、つまりペルー沖を中心とした東太平洋で海水温が上昇する現象です。

太平洋では通常、東風(東から吹く風)である貿易風が吹いており、これにより赤道上で暖められた海水が、インドネシア付近の太平洋西部に寄せられ、これとは反対に太平洋東部には冷たい海水が湧き上がってきています。

このエルニーニョが発生する理由ははっきりわかっていないようですが、何らかの原因で、暖かい海水を押し流すこの貿易風が弱まるため、太平洋を流れる西向きに流れる赤道海流が弱まります。

海流が弱まったせいで暖水が西太平洋へ集まるスピードが弱まり、中部太平洋では暖水が広がるとともに、太平洋東部では暖かい海水が滞留します。

これにより、太平洋東部から中部にかけての海水の温度が全体的に上がると同時に相対的に太平洋西部の海水温が下がりますから、海水温の「西低東高」が生じます。

大気の気温は海水温に影響されます。なので、これも「西低東高」となります。一般に海に近い下層の空気が冷えて、地表面付近に寒冷な空気がたまり、密度が大きくなると、高気圧になりやすくなりますから、これはすなわち「西高東低」を引き起こすことになります。

このように、エルニーニョが起こると、風が吹くと桶屋が儲かる式に、太平洋上の海水や大気の循環を大きく変化させてしまい、とくに大気中の気圧の変化は湿・乾・暖・寒さまざまな性質を持った各地の大気の流れを変化させ、各地で異常気象を起こします。

例えば、南米のアマゾンでは内陸の気圧低下により大西洋からの暖かく湿った空気が流れ込んで高温・多雨となるほか、中緯度の日本においても夏は梅雨が長引くことが多くなり、冷夏となりやすく、また冬は西高東低の気圧配置が安定せず暖冬となる傾向があります。

ただ、エルニーニョの役割は、上で書いたような竹をスパッと割ったような単純なものではなく、異常気象も他の要因と重なって起こるものなので、これが南米で生じたからといって、必ずしも日本が冷夏暖冬となるわけではないようです。

1954年、1970年、1988年のように、猛暑になりやすいとされるラニーニャ現象が起きていた年でも、冷夏になったこともあれば、1992年、1997年、2002年のようにエルニーニョ現象が起きていたにもかかわらず、猛暑になったこともあります。

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ちなみにラニーニャ現象とは、エルニーニョ現象と逆に東太平洋の赤道付近で海水温が低下する現象をさします。

エルニーニョと同様に、世界中に波及して異常気象の原因となり、その性質上、エルニーニョ時と正反対の異常気象になる場合も多いようです。例えば、エルニーニョで大雨となるアマゾンではラニーニャの時は少雨・干ばつとなります。

ラニーニャ(La Niña))はスペイン語で「女の子」の意味です。「男の子」の意味の「エルニーニョ(El Niño)」の反対ということで「アンチエルニーニョ(Anti-El Niño)」と呼ばれていたこともありますが、「反キリスト者」の意味にもとれるため、男の子の反対で「女の子(La Niña)」と呼ばれるようになりました。

この男の子とは、実はイエス・キリストのことです。南米のペルーとエクアドルの間に位置するグアヤキル湾やその近海のごく一部の太平洋東部では、毎年12月頃に発生する海水温の上昇現象をラニャーニャと言っていました。

地元の漁業民の間では、この時期がちょうどクリスマスの頃であることから、スペイン語でイエス・キリストを指すと同時に「男の子」を意味するルニーニョと呼ぶようになりました。これがエルニーニョの語源です。

しかし、最近これを語源として国際的な気象用語として使われるようになったエルニーニョ現象は太平洋東部におけるもっと広域の大規模な海水温上昇を指すものであり、これは毎年のように起こるわけではなく、数年から5年に一回くらいにしか起こりません。

エルニーニョもラニャーニャも地球規模の大規模な気象変化であり、これが発生することによるその他の区域への影響予測は非常に難しく、しかもその予想は長期にわたる予報であることから、当たるも八卦当たらぬも八卦といったところがあります。

しかも、エルニーニョが起こるだろうと言われていること自体が不確定要素今年果たして冷夏になるかに至っては、神のみぞ知る、と考えていたほうがいいでしょう。

ただ、日本の気象庁は、世界でもトップレベルのスーパーコンピュータを天気予報に利用していて、その性能は定評があるようで、お隣の韓国国民などは、自分の国の気象庁が出す天気予報よりも、隣りの日本の気象庁の予測を確認した上で、納得する風潮が根付いているといいます。

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もっとも、その気象庁の天気予報も一週間や10日前後のものはともかく、一ヶ月先、二ヶ月先となると、これが当たるかどうかの確率はかなり低くなりそうです。いわんや、他の地域の予想があたっても、日本にだけは該当しなかった、なんてこともあり、これも気象庁の役人が言い訳としてよく使う常套手段です。

気象庁のスパコンは最新鋭のものであるだけに性能は良いのですが、ただ新しいだけに時々不具合が起こるようで、昨年の2月にも運用するスーパーコンピュータにシステム障害が発生し、障害が発生したスパコンを使用して予報を行う予定だった大気解析や黄砂予報などに支障が出ました。

一般向けの気象警報や気象情報、地震・津波に関する情報などには影響がなかったといいますが、結構大事な気象情報を発信できなかった、ということはよくあるようで、先の東北大震災の時にも、気象庁はその予兆をまったく捉えられませんでした。

とくに地震の揺れにおいては、東京などの関東地方で実際の揺れの状況と気象庁が発表した緊急地震速報の数値の違いを実感した人は多く、事後に大きな批判を浴びました。

私は別に気象庁の誹謗中傷を書くつもりもなく、長年仕事でもお世話になったこの機関に恨みを持つ言われはありません。なので、気象庁さんも頑張っているんだけど、やっぱり現状での気象予測には、技術的な限界があるんだよ、なので少々のことは目をつぶってあげてね、と一応掩護しておこうかと思います。

ところで、エルニーニョの話に戻ると、これが起こって実際に冷夏になった年の最後はいつだったのかな、と調べてみたところ、これは5年前の2009年だったようです。

この年は、梅雨明けが遅く日照時間も短かったこと、近年では珍しく残暑が厳しくなかったこともありますが、その前の2004年から2008年まで5年連続で猛暑が続いたこともあって、この年の夏は涼しかった、とご記憶の方も多いでしょう。

翌年(2010年)は観測史上1位、翌々年(2011年)は同4位、2012年8月も同3位の暑夏になりました。昨年は更にその上を行く烈夏になったという印象なのですが、昨年は6・7月はそれほどではなく、こうした猛暑統計は、6.7.8の三ヶ月統計で決まるため、トータルでいけば昨年はこれらよりも多少涼しかったことになります。

ただし、8月に限って言えば、西日本では史上2位、東日本でも史上4位の暑さだったようです。

この2009年の冷夏では、おでんなどの販売開始が前倒しになるほど涼しかったようで、とくに、9月になっての冷え込みが大きく、北・東・西日本、全国平均でそれぞれ、平年を0.6℃、0.7℃、0.0℃、0.42℃下回りました。

五年前のことなんて覚えてないよ~という人も多いでしょうが、この年に起こったことと関連づけてみると、あぁそういえばこの年は涼しかったな~と思い出すかもしれません。

例えば、この年の7月には、中国・九州北部で豪雨があり、このときの降水量は1953年(昭和28年)6月に発生した西日本水害の降水量に匹敵する記録的なものであり、鳥取・広島・山口・福岡・佐賀・長崎の各県で合わせて死者31名・負傷者55名を出すなどの大きな被害がありました。

私の郷里の山口でも、防府市などで7月21日に時間72.5ミリメートル、日雨量275ミリメートルといういずれも通年での観測史上最多の時間雨量を記録し、住宅などの浸水・土石流被害やライフラインの寸断などの被害が見られたほか、同市の真尾(まなお)という地区にある特別養護老人ホーム裏で大規模な土石流が発生しました。

施設の1階部分が土砂に埋まり、食事を終えた入所者7名が生き埋めとなって死亡したほか、このすぐ近くでも土石流が発生して3名が犠牲になりました。

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また、山口のお隣の福岡県でも、大野城市を通る九州自動車道の一部で法面上部の山が崩落し、走行中の自動車が防護壁のコンクリート片混じりの土砂にのみ込まれ、自動車に乗っていた夫婦2名が生き埋めになって死亡するなど、県内全域では10名が死亡する人的被害が生じました。

このときの豪雨は、山口県・福岡県・長崎県において1時間に80ミリメートルを超える猛烈な雨となったほか、福岡県と長崎県においては、7月24日、5ヶ所の観測地点で1時間の降水量が100ミリメートルを超える降水量を記録し、福岡市博多区(福岡空港)では19時25分までの1時間に116.0ミリメートルの雨を観測しました。

このほか各地でものきなみ1時間・24時間の降水量が各地の観測史上最多となる記録的な大雨となり、大分県日田市では、7月19日から26日までの8日間を通算すると702ミリメートルの降水量を記録し、福岡県と山口県を中心に広い範囲で平年同期比700%以上の降水量となりました。

気象庁はこの豪雨の原因をやはり6月から発生したとみられるエルニーニョ現象によるものだと分析しており、これによって地球全体の6・7月の平均海面水温が平年よりいずれも約0.3度高く、観測史上最高を記録したことなどを明らかにしました。

また、エルニーニョによって、太平洋西側の大気の対流活動が不活発になり、これが日本付近への太平洋高気圧の張り出しを弱めることになり、梅雨前線の停滞を招いたのではないかと分析しています。

このため、対馬海峡付近に向かって南方からの暖かく湿った空気が入り込み、これは「湿舌(しつぜつ)」という現象なんだよ、と気象予報士さんが言うのを各マスメディアも報道し、このとき我々も初めてそういう言葉があるんだ、と知ったのでした。

この湿舌によって、「テーパリングクラウド」(にんじん雲)と呼ばれる積乱雲が次々と放射状に発達し集中的な大雨をもたらしたものと分析されており、これ以後、頻繁に「湿舌」という言葉が報じられるようになりました。

実は、私はこの年の暮れに正月を過ごすために山口に帰っており、その機会に災害直後の防府市の現場を通ったのですが、まだがれきなどの片づけは十分に終わっていませんでした。

このため、その当時の被害のすさまじさを垣間見ることができたのですが、私の実家のある山口市内からもほど近い場所であり、他人事とは思えませんでした。

そして冷夏だったこの年の8月、末日の30日にあった第45回衆議院議員総選挙で、民主党が絶対安定多数を上回る308議席を獲得し第1党に躍進。これよって、それまで与党だった自由民主党は1955年の結党以来初めて衆議院第一党を失うといったことになりました。

7月の集中豪雨以外では、この歴史的な事件を思い起こせば、あぁそういばあの夏は涼しかった、と思い出す人も多いのではないでしょうか。

翌月の9月16日には、衆議院議員で民主党代表の鳩山由紀夫が第93代内閣総理大臣に任命され、鳩山由紀夫内閣が成立。

ついに日本も二大政党制が定着するかとと思いきや、鳩山内閣は当初、70%を超す高い支持率を得てスタートしたにもかかわらず、小沢幹事長のと鳩山氏自身に政治資金収支報告書の虚偽記載問題が再燃し、「政治とカネ」を巡る不信によって失脚。

その後も菅内閣、野田内閣と危ない橋を渡り続けましたが、ついに一昨年の第46回衆議院議員総選挙では、解散前の230議席を大きく下回る57議席と大きく後退し、民主党政権は潰えました。

不思議なことに、この年には、この西日本を中心とした水害と政権交代以外には目立った大事件と呼ばれるような事件が日本には少なく、しかも、この二つが、冷夏となった夏に起こったというのは不思議な偶然の一致です。

もっとも、4月には北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射して、これが日本上空を飛び越して太平洋上に落下するといった事件や、5月には今度は韓国で盧武鉉(ノムヒョン)前大韓民国大統領が自殺する、といった事件がありましたが、いずれもお隣の国のこと、と割り切ることができ、日本への大きな影響はあったもののそもそも日本初の事件ではありません。

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実は、日本ではこの年の8月11日にも、「駿河湾地震」と呼ばれるM6.5の比較的大きな地震が発生しており、伊豆市、焼津市、牧之原市、御前崎市では震度6弱を記録し、焼津港、御前崎港では津波を観測しました。

静岡市駿河区では、地震により積まれた書籍が崩れ、それに埋もれて窒息死した女性が発見されたほか、揺れが激しかった焼津市や牧之原市では、骨折などで被災者が重傷を負う被害が発生しました。

この地震は揺れの激しさに加え発生時刻が未明だったことから、大きな被害が出てもおかしくなかったのですが、意外にも死傷者数は比較的少ないほうでした。しかし、静岡や愛知県では、すわ東海地震の前兆かと騒がれたものです。

この地震も含め、二つの大きな災害が、冷夏の真っ最中の7・8月に起こったというのもなにやらを暗示しているように思えて不気味です。

そうすると、今年の夏にはまた5年前と同じような大きな政変でもあるのか?と勘ぐってしまうのですが、現時点を見る限りは自民党は衆参両院での絶対的多数によってその基盤をがっちりと固めており、絶大なる権力体制を築きあげつつあります。その可能性は低いといえるでしょう。

だとすると、何か別の大事件が起きるのか?と思ったりもしますが、今年はもうSTAP細胞の一件や、消費税の増税にまつわる色々があり、しかも冬季オリンピックでたくさんのメダルが取れたことなどなど、この4月までに大きな事件が相次いでおり、5年前のようにほかにはとくに目立った何も大きな事件がない、というようなこともありません。

が、先月には、やはりお隣韓国で大きな海難事故があったばかりであり、5年前の状況となんか似てないか?という胸騒ぎがしています。

とはいえ、根拠はないのですが、私的には今年も気象庁さんの冷夏の予想もはずれ、大きな災害も起こらないだろう、高をくくっています。果たしてその通りになるでしょうか。

さて、連休が終り、5月も中旬に入ってきました。沖縄では既に梅雨に入っているようで、雨のシーズンももうすぐ間近です。なので、五月晴れのすがすがしいこの季節を大切にしていきたいと思います。

今週は、一部崩れるときもあるようですがおおむね天気は良さそうです。うっとうしい季節の来る前に、短いさわやかな初夏の風を満喫するために、のびのびと遊びに出かけることにしましょう。

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志を得ざれば

2014-1130750先月の終わりのこと、母が山口に帰るというので、わざわざ名古屋駅まで送っていきました。

骨折後のリハビリを終えたあととはいえ、まだまだ歩行が困難なため、三島駅から新幹線に乗せると、名古屋駅では乗換となり、長いホームを歩かせることになるかもしれなかったためです。

少々過保護かな、とも思ったのですが、長いリハビリを頑張ってくれた母へのご褒美とも思い4時間もかけて車を走らせたのでしたが、この日はあいにく天気が悪く、途中の東名高速は激しい雨に見舞われました。

しかし、逆にこの雨が幸いして東名はガラスキで、このため予定時間よりかなり早く名古屋につきました。最後に駅近くのファミレスで昼ご飯を一緒に食べたあと、新幹線ホームからは万歳三唱で母を送りだしたわけですが、およそ1ヶ月もの間、寝食を共にしていただけに、その別れは少々ほろ苦いものでした。

山口に帰ったあとの彼女の様子が心配なので、その後も時々電話で確かめてはいるのですが、今のところ生活に支障が出たり、人の助けがどうしても必要ということもないようで、ほっとしているところです。

今回の彼女の来伊豆では、彼女自身も思いがけない経験をしたでしょうが、我々夫婦もまた、彼女の入院を通じで新たな知人が多数でき、またこれまで触れたこともなかった地域医療の実情も詳しくし知るところとなり、非常に良い経験ができました。

母にも入院した際にた同年輩の友人がたくさんできたようで、住所交換などもし、今度また来たらぜひ会おうというような親しい人も何人か得たようです。

今度いつ伊豆へ来るかわかりませんが、そうした知人との再会もまた、遠路はるばる伊豆へ来る理由にもなり、息子夫婦の家だからと気兼ねなであろう部分をカバーしてくれるのではないかと期待しているところです。

ところで、彼女が帰った翌朝にニュースを見ていたら、作家の渡辺淳一さんが亡くなったとの訃報が流れていました。4月30日の深夜に前立腺癌のため東京都内の自宅で亡くなったそうで、80歳でした。

北海道の上砂川町のご出身で、札幌医科大学医学部卒業した、医学博士でもあります。同大学の助手講師を続けていたころから、医業と並行して、北海道の同人誌に執筆も行っており、このころ、同大学の和田寿郎教授において、日本で初めて行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」という作品もあります。これは、後に「白い宴」と改題されて角川文庫からを発表されています。

その後、医学者としてではなく、文学者として生きていくことを決め、大学を去り、1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる「光と影」で第63回直木賞を受賞しました。

これを機に、本格的に作家活動を開始し、その後も吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞などを受賞するとともに、島清恋愛文学賞の選考委員なども務めました。

デビュー以来40年以上に亘り第一線で執筆を続け、ミリオン・セラーも多数ありますが、その中から映画化された作品も多く、ごく最近では、「別れぬ理由」「愛の流刑地」などが話題になりました。

その作品の主な主題は、伝記、医療、恋愛の三ジャンルで、伝記ものとしては、「花埋み」「女優」「遠き落日」などが代表作で、医療では上述の「白い宴」のほか「麻酔」などがあり、恋愛ものでは、「愛の流刑地」以外にも「化身」「失楽園」などが有名です。

初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多いようですが、伝記も時期を問わず書き続け、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセイも多く手がけていました。

「鈍感力」は、2007年に発売したエッセイ集ですが、同書は同年夏までに100万部を売るベストセラーとなりました。

元首相の小泉純一郎は同年2月20日、国会内で当時の幹事長中川秀直、官房長官塩崎恭久らと会い、「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率は上がったり下がったりするもの。いちいち気にするな」と発言し、この中で「鈍感力」という言葉を引用したため流行語となりました。

特筆すべきは近年の中国における評価であり、「言情大師(叙情の巨匠)」という異名で知られる人気作家となっているといいます。中国側の調査によれば、1990年代末以降、中国で最も翻訳されている日本の作家は村上春樹と渡辺であるといいます。

中国の女流人気作家で恋愛・結婚生活を描いた小説で話題を呼んでいる王海鴒など、渡辺の恋愛小説の影響を強く受けた作家も登場しており、中国では都市化による家族の紐帯の希薄化により、精神的支柱としての家庭が崩壊しつつあり、このために他人との愛に飢えているのでないか、ということが言われているようです。

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私も渡辺さんの恋愛小説はよく読みましたが、むしろ印象に残っているものは伝記もののほうが多く、そのひとつが、「遠き落日」です。

偉人としての野口英世ではなく「人間・野口英世」を描いた内容になっており、多くの伝記で取り上げることが憚れていた野口の借金癖や浪費癖などの否定的な側面も臆さず描き出している点が新鮮で面白く、一期に読み上げたことなどを思い出します。

同名で映画化もされていますが、映画のほうは、神山征二郎監督で、1992年に公開された、新藤兼人の著作、「ノグチの母 野口英世物語」(小学館刊)とドッキングした原作内容になっています。

野口の母シカと英世の母子ふたりの壮絶な親子愛を描いていて、野口シカは三田佳子、野口英世は三上博史のキャストでした。ただ、渡辺の原作と違い、野口英世の否定面はあまり描かれておらず、私もこの映画を見ましたが、いまひとつ野口英世の人間臭さは伝わってきませんでした。

野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれで、北に磐梯山、南に猪苗 代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに育ちました。

幼名は、「清作」といい、子供のころに、母のシカが目を離している間に、囲炉裏に左手を突っ込んで火傷を負ったというエピソードは有名です。

手が不自由になったため、百姓になることができず、学問で身を立てて行くことを決め、勉学に勤しみました。その結果小学校時代では、先生の代わりに授業をするという「生長」まで務めるほど優秀な生徒でした。

野口の父は酒好きであり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いようです。しかし、当人を知る人は、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言う人が多いようです。

が、いかんせんこの父親は怠け者で余り働かず、清作の家は貧乏でした。しかし、母シカの清作に対する熱い愛情と、小学校時代の恩師、「小林栄」の私財を投げ打ってまでの援助などがあり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ通うことができました。

この高等小学校時代、清作は同じ小学校に通う仲間に慕われていたようで、彼等の援助を受け、現在の会津若 松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けることができるようになりました。

この時、清作は医学の素晴らしさを知り、これを生涯の職業としようと決意したと言われており、高等小学校卒業後も、この左手を手術した会陽医院の院長、渡部医師に弟子入りしています

清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをどおり、これを実行しました。そして、19歳の時には、医師免許を取ることができるほど学力をつけ、これを実現すべく上京しました。

このとき、郷里を離れる際に言った言葉、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」は、のちにかなり有名になりました。

東京に出た清作は、会津若松の会陽医院の渡辺医師の紹介で、高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)で医学を学び始めます。この病院には、血脇守之助という医師がおり、彼が清作の直属の教師であり上司となりました。この血脇はその後の清作の人生においても何度もその窮地を救い、生涯に渡っての恩人となる人物です。

東京では、この血脇の指導により清作の医学の知識は急激に深まり、それから間もなく、清作はわずか20歳という若さで医師免許を取得しました。さらにその後、清作は、当時日本の医学会では知らない者はおらず、世界的にも有名であった北里柴三郎を所長とする北里伝染病研究所の助手に抜擢されます。

清作は語学の才能もあったようで、研究所ではとくにその才能を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当しました。

このころの清作の仕事ぶりからは強い出世欲がうかがわれ、外国図書係というどちらかといえば地味な職種には不満を感じていたようです。

自分の望んだことは何が何でも押し通したいという生来の我の強い性格に加え、不遇な環境から抜け出すためには手段は択ばないという、いつも何かギラギラしたようなものがあったようで、そうした人生に対する姿勢をうかがわせるエピソードがひとつ残っています。

あるとき、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る、この小説の登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ていることに彼は気づきます。

清作自身も若いころには金と女に関して非常に自堕落であり、この当時も借金を繰り返して遊郭などに出入りするという悪癖がありました。

ところが、この当世書生気質に、そんな自分にそっくりな人物が描写されていることを知り、清作は強い衝撃を受けます。この「当世書生気質」という本は、はこの当時の学生の間に爆発的にヒットした小説であったことから、もしかしたら、坪内逍遥はそのモデルとして自分を選んだのでは、と多くの人に邪推される可能性を懸念したのです。

作中の〈野々口精作〉なる人物の名前も「野口清作」にそっくりだったことから、そのモデルと誤解されるのを苦にした清作は、なんとかこの実名を改名することを決意。

早速、郷里の恩師、小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられました。が、改名のためには大きな問題がありました。

彼はこの新しい名前をペンネームとしてではなく、戸籍上も変えてしまいたいと考えたのでしたが、現在もそうですが、この当時も戸籍名の変更は法的にはなはだ困難でした。

そこで、清作は郷里の翁島村とは別の集落に、同名の清作という名前の人物がいることを知り、この男に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらうことにしました。

こうして、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、役所に出向き、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張し、これによってまんまと戸籍名を改名することに成功したといいます。

法を捻じ曲げてまで自分の我を通すというこの強引な手口からも、彼の若いころのエゴイッシュな側面がみてとれます。が、こうしたかなりきわどい行為までやってのけた意図としては、不遇だったそれまでの境遇を改名によってぜがひでも変え、新しい人生を歩みたい、との思いもあったに違いありません。

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こうして後世でも「野口英世」といかにもりっぱな人物のような名前を得た清作でしたが、その改名の効果があったためかどうかはわかりませんが、徐々に伝染病研究所内での彼の評価も上がっていきました。

ただ、実力があったことも確かであり、彼はこの当時、横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断する、という功績をあげています。

横浜の海港検疫所に派遣中のことであり、この当時ペストは、中国とインドで1200万人の死者を出すなど世界的に流行していました。

それまで日本ではペストの流行はなく、この野口が発見したものが初のペスト流行だといわれています。翌年より東京市は予防のために一匹あたり5銭で鼠を買上げるなど対策をほどこしたため、その後も日本では流行することはありませんでしたが、これを初めて発見し、未然に防止できたのはひとえに野口の功績といってよいでしょう。

ちょうどこのころ、ペストが大流行していた清国(中国)からは、日本に対して援助の要請がありました。これを受け、内務所は北里伝染病研究所に対策班の派遣を打診しますが、このとき、研究所としては、ちょうどペスト患者の発見で功績を認められていた野口を抜擢します。

こうして、野口は、ペストの国際防疫班に選ばれ、中国の牛荘(ニューチャン)へペスト国際予防委員会のメンバーの一人として派遣され、その実績をもとに、さらに世界の野口英世への足掛かりを作っていきました。

ところが、この中国への渡航に先んじては、政府から支給された支度金96円を放蕩で使い果たすというとんでもない事件を野口は起こしています。しかし、このときは恩師の血脇に資金をなんとか工面してもらい渡航することができました。

この中国での任期は半年で終了しましたが、その後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け中国に残留することになりました。そして、このように国際的な業務を初めて体験した野口の野心は、さらにそのほかの国にも向いて行きました。

中国へ渡航する前からもう既にアメリカに渡って学びたいと考えていたようで、1899年(明治32年)にアメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際にも、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診しています。

1900年(明治33年)には、中国では義和団の乱により清国の社会情勢が悪化したため、野口は 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷し、御師の小林に再びアメリカへの留学資金の融通を要請しています。

しかし、小林には逆に「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否されたため、やむなく東京へ戻り、再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻りました。

しかし、アメリカ渡航への夢は絶ち切れなかった野口は次の行動に出ます。このころ、英世は箱根の温泉地に出かけており、ここでたまたま斉藤文雄なる人物と知遇を得ます。そしてこの斎藤に医師を志す姪がいることを知らされると、あろうことか、この女性と強引に婚約を取り付けました。

ここでも目的のためなら手段を択ばないという野口のエゴイッシュな面が見て取れますが、彼はこの婚約持参金をそのままアメリカへの渡航費に当て、婚約者を放り出して単身でアメリカへ渡航しました。

そして北里の紹介状を頼りに、かつて留学の可能性を打診したフレクスナー博士の勤める、フィラデルフィアのペンシルベニア大学医学部に押しかけます。そして、博士に次期談判の末、助手の職を得ました。

このあたりの行動力には本当に舌を巻いてしまいます。

が、彼のスゴイところは、この助手としての職を得たときに吐いた「必ずやお役に立てるように頑張ります」といった言葉有限実行に移したことであり、以後、フレクスナーからもらった「蛇毒の研究」というテーマについて翌年(1900年)から3年間もの間真摯に取り組み、研究成果を論文にまとめました。

この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士から絶賛され、野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなりました。

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こうしてアメリカでも実績を作った野口はさらにその目をヨーロッパに向けます。1903年からは、デンマークのコンハーゲンにある、カーネギー大学に赴任し、ここのマドセン博士に師事し、ここで約1年間ヨーロッパの最新医学を学びました。

デンマークでの勉強を終えたころ、野口は既に28歳となっていましたが、その後は再びアメリアに戻り、1904年からはニューヨークのロックフェラー財団によるロックフェラー研究所に迎えられます。

実はこの研究所には同年、かつての上司、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士が所長として迎えられており、野口を知るフレキスナーは彼を一等助手に抜擢したのでした。

ロックフェラー医学研究所は、石油王として知られる、ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーが、その資産の大部分を慈善活動につぎ込んだ中から生まれた財団のひとつで、医学研究の推進を目的とし、後年、野口による鉤虫症や黄熱病の発見などによって世界的にも有名となり、その根絶にも貢献しました。

野口が採用される3年前の1901年(明治34年)に設立されましたが、実はこの研究所の設立にあたっては、フレクスナーがロックフェラーから組織構成を任されていたという経緯もありました。

野口英世のこのロックフェラー研究所時代には、その後彼の名を世界的に高める数々の研究が行われました。その研究を分けると大きく3つに別れ、それらは、蛇毒の研究(1901年~)、梅毒の研究(1905年~)、黄熱病の研究(1918年~)などです。

ロックフェラー研究所での研究ぶりは猛烈で、他の所員から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われるほどでした。

このころ、野口は既に35歳になっていましたが、この地ニューヨークで同い年のアメリカ人女性と知り合い、結婚しています。メアリーといい、彼が没するまでその晩年の人生を支えました。

ロックフェラー研究所で梅毒のスピロヘータの研究に成功した野口は、この間、1913年には、ドイツ・ベルリンにも出かけ、ドイツを始めヨーロパ各地の講 演旅行をしています。また、1915年には一次日本にも帰国しており、この際にはヒーローとしてもてはやされ、大勢の新聞にその「来日」が取り上げられました。

しかし、その後彼の医学への情熱は、アメリカやヨーロッパだけにとどまらず、南米やアフリカといった未開の土地に向かっていました。

1918年、42歳になった彼は、黄熱病の研究のため、南米エクアドルのグアヤキルに出張。その後もこの黄熱病のさらなる研究のために、南米各地を回りました。このとき回った国はほかに、ペルー、ブラジル、メキシコなどで、それぞれの国で黄熱病の特徴を分析しました。

こうして黄熱病の研究に取り組んでから早、10年という月日が経ちました。

1928年(昭和3年)、野口は南米でついに黄熱病の特効薬とする薬の開発に成功します(実際には成功していなかった)。ところが、彼が作ったこの薬を、海を隔てたアフリカで試験したところ、アフリカのロックフェラー医学研究所の現地事務所からは、黄熱病に効かない、という連絡を受けます。

こうして、野口のアフリカでの研究がスタートします。この年、イギリス領ガーナのアクラに到着。しかし、野口の作った特効薬に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所において研究をするのを彼はためらいました。

そんな彼に対して、イギリスの植民局医学研究所に勤める病理学者、ウイリアム・A・ヤング博士が自らが勤める研究施設を貸与することを提案し、こうしてようやくアフリカでの彼の研究がスタートしました。

ところが、赴任した直後から、野口自身が発症し、軽い黄熱病と診断さ、入院を余儀なくされてしまいます。ただ、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この症状は後年の調べては黄熱病ではなかったと考えられています。

その後回復し退院、研究を再開しますが、この年の5月にナイジェリアにあるラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、更に体調が悪化。このときは、黄熱病に間違いないと診断され、アクラのリッジ病院に入院しました。

このとき野口は自分が生成した黄熱病の特効薬を自らが飲んでいたようですが、終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったのを不可思議に思い、見舞いに来たヤング博士に、対しても「どうも私には(効かない理由が)分からない」と発言したそうで、この言葉が最後の言葉とされています。

その直後から、病状が急激に悪化。1928年(昭和3年)5月21日昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じました。

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野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが改めて確認されましたが、このヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡しています。

野口の遺体は、その翌月にはアメリカのニューヨークに戻され、ブロンクスにあるウッドローン墓地に埋葬されました。この墓地には、日本人では野口英世のほか、高峰譲吉などの医学者や実業家の新井領一郎、宗教家の佐々木指月らの墓があります。

以上が野口英世の生涯です。小学校では学校推薦の伝記本などにも指定されているため、その一生をご存知の方も多いとは思いますが、確かに偉人といわれるほどの業績を残した人ではあるものの、特に若いころは、金遣いが荒く、女にだらしない側面があったということは伏せられることも多く、案外と知れれていません。

これらのことについては、上でも少し触れましたが、20歳のときに、医師免許を取得するために上京したときには、恩師の小林らから40円もの大金を借りており、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格はしたものの、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られています。

さらに、後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとしますが、彼の放蕩の噂を耳にした院長に拒否されています。

しかし、このときは血脇の一存で非公式ながらなんとか寄宿舎に泊まり込ませてもらうことができ、その代償として掃除や雑用をする学僕となりました。

それでもさらに厚かましくも、このころ来日していたエリザ・ケッペンという女性が開いていた夜学のドイツ語講座を受けるための学費を得たいと考え、これを血脇に相談しています。

が、血脇は医学院の一教員に過ぎず、月給4円(現在価値で2万円に満たない)の血脇には捻出できなかったため、野口は一計を講じ、血脇に院長に昇給を交渉させています。その結果、なんと血脇の給与は倍近い月額7円となり、ここから彼自身の学費を得ることができたといいます。

さらに、医師試験合格後も、開業するためその医術開業試験(臨床試験)を受けるためには予備校への入学が必要であり、このため野口は、現在の日本医科大学にあたる「済生学舎へ通いたいと血脇に訴えました。

このときも血脇に秘策を与えて院長と交渉させましたが、この結果、血脇はなんと今度は院長から病院の経営を任せてもらうことができるようになり、病院の予算を自由に動かせるようになりました。こうして野口は、血脇から月額15円もの学費援助を捻出することに成功しました。

その後23歳になって、北里伝染病研究所の外国図書係になってときも、蔵書が野口経由で貸し出された後に売却し、これを遊蕩に使ったという事実も発覚。この事件を理由に野口は研究所内勤務から外されましたが、野口の才能を認めていた北里所長の計らいで、横浜港検疫所検疫官補になっています。

この検疫所勤務では、上述のとおり、日本にまさに上陸しようとしていたペストを発見し、この功績で、内務省から中国へ派遣される国際防疫班スタッフに選ばれました。ところが、ここでも遊蕩のために、支度金96円を放蕩で使い果たしており、その資金補てんを血脇に頼み込み、工面してもらってなんとか渡航しています。

このように野口は恩師である血脇からは、まるで金を搾り取るように援助をしてもらい続けていますが、最初のアメリカ留学前にも血脇から500円という大金を貰っており、これさえも遊興で使い切ってしまったといいます。

このときばかりは血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったと言われます。それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しの所へ行き、野口の為に再び留学資金を準備したといい、この事に野口は涙を流したと言われています。

後年、1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜までつきっきりで案内してまわったそうです。血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまでも会わせたといいます。

別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言いました。

これに対して、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません」と言い返したというエピソードも残っています。

このように野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったと言われているようです。

ただ、野口の父は酒好きの怠け者でしたが、野口のように女癖が悪いというようなことはなかったようです。野口の女遊びはなかば伝説的ともいわれており、上で述べてきたような金にまつわる危ない綱渡りはほとんどすべてが、遊郭へ出向いて放蕩した結果でした。

初めて渡米するときの渡航資金も、血脇からもらってだけでは足らなかったため、これをほとんど結婚詐欺のような手口で入手しており、これについては、箱根の温泉地にてたまたま知り合った見ず知らずの男性の姪と強引に結婚したというのは、上でも書いた通りです。

この箱根の温泉出であった斎藤なる人物がどういう人物だったのか調べてみたのですが、何を調べてもよくわかりません。が、おそらくはやはり実業家か医家か何か裕福な一族だったのでしょう。

このとき、英世はこの斎藤の姪、ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当ててアメリカへ渡ったわけですが、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種だったようです。

実は、ます子に対しては何の愛情も持っていなかったいたようで、血脇とやりとりされた手紙の中にも「顔も醜く学がない」と書いているほどです。

婚期を逃す事を恐れた斎藤家からは、幾度も婚約履行の催促がアメリカまで来ていたようで、これに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと、いつも逃げてばかりいたそうです。

さらには逆に、この斎藤家に対して、結婚の履行を約束するために欧州への留学資金を数千円要求しており、ここまでくると厚顔無恥というのはまさにこの人のためにあると言われても仕方がありません。

このすま子とは、野口が後年、ヨーロッパからアメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍したあとの1905年(明治38年、)血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済したため、婚約の破棄が実現しました。

このとき、血脇は野口に破談を薦めたそうですが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していたともいい、どこまでもしたたかな男、という印象が残ります。

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そんな野口も、ロックフェラー研究所に勤めるようになって、ようやく物心ついたのか、35歳になってようやく生涯の伴侶を得ています。これが、野口と同い年のアメリカ人女性のメリー・ダージスであり、生まれ年は、1876年(明治9年)6月1日で、野口の11月9日とは5ヶ月しか違いません。

ペンシルベニア州スクラントンにおいて、炭鉱労働者の父アンドルー・ダージス、母フランセスの長女として生まれており、ダージス家はアイルランド系移民でした。彼女はハイスクール卒業後、ニューヨーク市に移り、ニューヨークのレストラン(一説には、酒場)で野口と知り合い、意気投合したといいます。

結婚を持ちかけたのは、メリーのほうだったといい、野口が病原性梅毒スピロヘータの純粋培養実験を続けていた最中の1911年4月にめでたく結婚。その後、基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされるほどの大学者になった野口を生涯献身的な支えました。

メリーは、野口がアフリカのアクラで黄熱病によって死去した後も、医学博士野口英世未亡人として慎みをもって余生を過ごしたといい、野口の死から19年後の1947年12月31日、ニューヨーク市にて動脈血栓のため71歳で亡くなりました。

墓所は英世と同じニューヨーク市ブロンクス区ウッドローン墓地にあります。英世とメリーとの間には子供はなく野口家は英世の姉のイヌが婿を迎えて継承しました。イヌの息子、英世の甥にあたる栄(さかえ)氏が英世の養子となった模様です。また、英世は長男で、他に弟もいて、その弟は北海道に移住したという話もあるようです。

このように晩年は一人の女性を愛し続けた野口ですが、若いころに放蕩ばかりを続けるようになったのは、その前の失恋が影響しているのではないかということも言われているようです。

野口は、会津若松の書生時代に日本基督教団若松栄町教会で洗礼を受けています。ここで出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、このヨネ子が通う女学校校長経由で教会牧師に連絡があり、彼の行為がバレて叱責を受けました。

実は、このヨネ子の父親も実は医師でしたが、ヨネ子が若いころに逝去しており、この父の後を継ぐため、ヨネ子もまた東京の済生学舎(現・日本医科大学)で、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指すようになりました。

このころ同じ済生学舎に通うようになっていた野口はヨネ子に再会して驚きます。が、昔の失恋は忘れて学友となろう、と彼女に言ったといい、このとき野口は学習用にと、彼女に頭蓋骨を贈呈するという不思議な行為に及んでいます。

1899年(明治32年)清国に出向く直前にはわざわざ正装して、湯島に下宿するヨネ子に会いに行っており、また清国より帰国した折には野口とヨネ子の名を刻んだ指輪を贈っています。

こうしたことからみても、野口としては、やはり初恋の相手であるヨネ子を忘れられなかったのでしょうが、頭骸骨の件といい、指輪の件といい、野口のアプローチを迷惑と感じていた彼女は下宿の主婦に依頼し、以降の面会を拒否したといいます。

その後彼女もまた、1902年(明治35年)20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚して会津若松で三省堂医院を開業しました。

野口はヨネ子の従兄弟から彼女が結婚した事を知ったようですが、このとき、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」と詠んでこの歌を従兄弟に送っています。

野口は、このころから、こうした俳句や短歌を詠うのが好きだったようで、このほか、浪花節も好きだったといい、医学以外の趣味の世界では将棋、囲碁、油絵などをたしなむなど、多才でした。

野口英世語録はいろいろ残っていますが、上述した「志を得ざれば再び此の地を踏まず」は、青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉として特に有名です。

研究の鬼をほうふつさせるような語録も数多く残っています。

「努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ」
「ナポレオンは三時間しか寝なかった」
「偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ」

一方では、女遊びや金使いの荒かった彼の山師的な側面をよく表す語録もたくさんあり、例えば、以下のようなものがあります。

「学問は一種のギャンブルである」
「名誉のためなら危ない橋でも渡る」
「忍耐は苦い。しかし、その実は甘い」

しかし、長い苦労の若いころを経て、晩年はノーベル賞にもノミネートされるほどの人格者ともなり、妻を愛して家庭も大事にしました。その頃残した語録には以下のようなものもあります。

「人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない」
「自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ」

また、晩年には、「人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」という言葉も残しています。

前半生をエゴイスティックに生き、後半生はそれを悔いるように世のため人のためにエネルギッシュに生きたこの偉人もまた、実は自分はその人生を選んで生きてきたのだ、ということをその死の前までには理解していたのに違いありません。

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