メランコリー

今日は中秋の名月です。みなさん、お月見の準備はできたでしょうか。

さて、まったく月とは関係ありませんが、私以上の年配の方なら、おそらくは誰でも知っていると思いますが、その昔、「こんにちは赤ちゃん」という歌がはやりました。

東京オリンピックが開催された1964年の前年の、1963年にNHKの番組、「夢であいましょう」のテーマ曲として歌われた歌であり、同年11月に発売されたレコードは100万枚を超える大ヒットとなりました。

歌っていたのは、福岡出身の歌手、「梓みちよ」さんで、この「こんにちは赤ちゃん」は、この年の第5回日本レコード大賞受賞曲ともなり、翌年の1964年センバツ高校野球の開会式行進曲にもなったそうです。

私はこのころまだ小学校入学前であり、物心つくかどうかの年頃でしたが、大ヒットしたこの歌はよく覚えており、これを幼稚園かどこかで歌っていたような覚えもあります。

その後も梓みちよさんは、「二人でお酒を」という大ヒットを飛ばし(1974年3月)、この曲で5年ぶりに「NHK紅白歌合戦」にもカムバック出場するなどして人気を維持し続け、さらには1971年から1978年まで桂三枝さんの「新婚さんいらっしゃい」の名アシスタントとしてお茶の間の人気を集め続けました。

1943年生まれといいますから、今年でも御年70歳になっておられるはずです。が、現在でもコンスタントに歌謡番組に出演されているそうで、あいかわらず意欲的な芸能活動を行っておられるようです。聞くところによると、実業家としても活躍しているとのことで、最近、「梓プラチナローズジェル」という化粧剤をご自身で監修して発売されたとか。

ところで、この、梓みちよさんのもうひとつのヒット曲に「メランコリー」というのがあります。1976年の作品であり、これも翌1977年にかけてロングヒットました。

歌の歌詞はというと、

秋だというのに 恋もできない
メランコリー♪ メランコリー♪

というもので、私もその昔よく歌ったものですが、このサビの部分は良く覚えているのですが、その前のほうの歌詞のほうはほとんど覚えていません。

ただ、このあとに続く歌詞は、次のようなものでした。

それでも 乃木坂あたりでは 私は いい女なんだってね
腕から時計を はずすように 男とさよなら 出来るんだって
淋しい 淋しいもんだね

一転して軽いテンポに転調し、まるで自笑するような詩の内容もなかなかしゃれていて、とても30年以上も前の歌とは思えません。

しかし、この歌が流行っていたころは、まだ子供だったため、「メランコリー」という言葉もよくわからず、国語辞典を引いても、「〈憂鬱(ゆううつ)〉または〈悲哀〉にあたる感情」といったまたわけのわからない説明が書いてあって、じゃぁ憂鬱ってなんなのよ、と思ったりしたものです。

その後、長じるにつけ、どうやら暗い気分になったときの感情を指すものらしい、となんとなく理解したつもりになっていました。が、この「メランコリー」という言葉の深い意味については考えてみたこともありませんでした。

ところが、最近、ようやく暑い夏が終り、秋風が吹き始めるようになると、妙に物思いにふけることが多くなり、そんなときふと口について出たのがこの歌です。しかし、これを口づさみながら、あれ、まてよ、メランコリーっていったいなんだっけ、と思ったのです。

そういうわけで、改めてこの言葉を調べてみる気になったのですが、色々検索してみると、これはなかなか面白いそうな用語である、ということがわかりました。

英語では“melancholia”と書き、これはギリシア語の“melagcholia”に由来するのだそうで、もともとはキリスト教の教義に出てくる、「七つの大罪」のひとつ「憂鬱」のことを指すようです。

七つの大罪とはいうものの、もともとはもう一つ多くて八つあり、厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」でした。

しかし、6世紀後半に八つから現在の七つに改正され、「虚飾」は「傲慢」に含まれるようになり、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加されました。従って、現在でいう七つの大罪とは、「傲慢 嫉妬 憤怒 怠惰 強欲 暴食 色欲」であり、実際には「憂鬱」という言葉は抜け落ちています。

ちなみに、この七つの大罪には、それぞれ対応する悪魔とその悪魔がかわいがっている動物があてがわれており、「傲慢」は、グリフォン(鷲の上半身とライオンの下半身をもつ伝説上の生物)、ライオン、孔雀であり、「嫉妬」には蛇や犬、「憤怒」はユニコーン、ドラゴン、狼、「強欲」は狐、針鼠、「暴食」豚、蝿、「色欲」蠍、山羊、だそうです。

で、メランコリーが含まれる「怠惰」には、熊と驢馬(ロバ)が割り当てられていて、これはこの二つに怠け者のイメージがある、ということからきているのだと思われます。が、怠け者という意味では、四六時中寝ているネコのほうがよっぽどふさわしいと思うのですが、猫はなんで割り当てられなかったのでしょう。

それはともかく、キリスト教上で、これらの七つの罪は、悪魔とその手下のこれらの動物が司っていたと考えられており、「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情のことを指し、人は死ぬと、この罪をあの世で清めなくてはならない、ということになっているそうです。

無論、キリスト教という一宗教の教義として教えられていることであり、あの世にいったらこれらの罪を償うために、何等かの制裁を加えられるなどということはあるわけはありません。

人は死ぬと、その生前に修業した魂のレベル毎に、それにふさわしい階層に行って、そこでまた新たな修業を積む、ということを繰り返すだけです。が、生前の行いが正しくない場合には低い階層に行くということなので、これをペナルティーと考えるべきかもしれません。

さて、このように、メランコリーとは、そもそもはキリスト教の教義の中での「罪」として登場してきた用語でしたが、その後これは、医学や哲学の世界においても研究されるようになりました。

ギリシアに発祥を持つ古代医学においては、「四体液説」というものがありました。古代ギリシアの医者だったヒポクラテスが提唱したものといわれており、この説では人間の身体の構成要素として四種類の体液があげられており、それは、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁です。

四体液説ではこれらの体液のバランスによって健康状態などが決まっていると考えられ、この四つの液体を重要視しながら、古代の医学は築きあげられたといわれています。

なぜ四つなのかというと、この当時には、これとは別途、「四大元素説」というのがあり、これは地球上にあるすべてのものが、四つの元素、すなわち、空気・火・土・水の4つからなるとされる考え方で、四体液説もこれに準じて考え出されたものです。

この説においては、体液は人間の気質にも影響を与えると説明しており、例えば、血液が多い人は楽天的で、粘液が多い人は鈍重、黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つとされ、さらに黒胆汁が多い人は憂鬱となっています。つまり、「メランコリー」の性癖を持つ人は、黒胆汁が多い人ということになります。

左から、黄胆汁質(短気)、黒胆汁質(陰鬱)、粘液質(鈍重)、多血質(楽天的)各々の表情

それにしても、血液や粘液はなんとなくわかるのですが、「胆汁(たんじゅう)」っていったい何なのよ、ということなのですが、これは現代医学的には人の「肝臓」で生成される黄褐色でアルカリ性の液体のことをさします。

肝臓を形成する肝細胞で絶えず生成され、総肝管を通って「胆のう」に一時貯蔵・濃縮される物質であり、食事をとると、胆のうから十二指腸に排出され、その効果を発揮します。実際には、近代医学では、胆汁は3つに分類されることがわかっており、これは、「胆管胆汁(A胆汁)」「胆のう胆汁(B胆汁)」「肝胆汁(C胆汁)」の三つです。

それぞれ意味があり、その組み合わせと十二指腸の中にあるその他の物質との反応によって、いろいろな効果を出しますが、例えば食物中の脂肪を乳化して脂肪の消化吸収を促すとか、酸脂肪を乳化して消化酵素の働きを助け、消化をしやすくする、といった具合です。

こうした近代的な知識をこの当時の人が持っていたとは思えず、胆汁を黄胆汁と黒胆汁の二つに分類したのは、前述のとおり四大元素説とつじつまを合わせたかったからにほかなりません。が、もしかしたら人の解剖実験などから、胆汁にも何種類かある、ぐらいは理解していたのかもしれません。

とまれ、ヒポクラテスら古代の医学者は、「憂鬱」というものは、黒胆汁が作りだすものだと考え、これが多い人は、「黒胆汁質」という気質を持ち、憂鬱な気分になることの多い人、というふうに分類しました。

もちろん、胆嚢の働きと、憂鬱との間などに因果関係などあるはずもありません。が、現在においてもドイツや日本では「うつ病が起こりやすい性格」が研究される中で、こうした「循環器質」との関連の研究がなされることもあるということで、あながち無関係とばかりはいえないようです。

ただ、現在医学ではうつ病と、こうした特定の体液の多い少ないなどの個人差を関連付ける研究は少ないようで、うつ病は、体液などによって規定されるその人の性格(例えばA型人間とか)とは無関係で、特定の出来事との関連により起こる、と考える立場をとる学者の方が多いようです。

しかし、そうした現代に至るまでの医学の進歩の過程においては、憂鬱な精神状態というものが、胆汁などの体内分泌物と関連があるのではないか、という考え方が支持される時代が長く続き、その結果、こうした風潮は、「西洋思想」としてその中に「メランコリー」という概念を定着させるのに役立ちました。

このため、もともととは宗教、さらには医学的な発想から出てきた概念であったものが、やがて「哲学」の世界でもさかんに研究されるようになり、現在の我々が使っている「メランコリー」というものの意味は、ボードレール、キルケゴール、サルトルといった名だたる哲学者によって概念化されるようになっていきました。

すなわち、哲学用語としての、メランコリーな精神状態というのは、それを引き起こす要因となるのが、個人的な性格ないしは身体的特徴であり、さらにはこれを基調としてその延長にある「存在論」から導き出される、という考えです。

だんだんと難しくなってくるので、あまりこれ以上は突っ込みませんが、「存在論」というのは、哲学の一部門です。

分かりやすく言うと、存在論では、例えばあなたや私、つまり「存在者」の個別の性格や身体的特徴を議論するのではなく、あなたや私という人間が、存在する「意味」や根本的に、いったい「何者か」、なぜそこに存在しているのか、ということを考える学問ということになります。

なーんだそんなの簡単じゃん。精子と卵子がくっついて、誕生してくるに決まってんじゃん、と誰しも思うでしょうが、そうではなく、それでは精子や卵子はなぜ、存在しているのか、というのを議論するのが、「存在論」です。

これを真剣に考えているとだんだんと頭がおかしくなってしまいそうですし、哲学というとどうも理屈っぽいものというイメージが私にもあって、こうした話をするのは本来あまり好きではありません。

がしかし、この存在論というのは、現在でも多くの大学でも教えられている学問体系を生み出す礎となったものであり、現在の文化を形作るのに役立っているのだ、といわれればそうはいきません。

その考え方を初めて明確にして、体系化したのは、古代ギリシアの哲学者「アリストテレス」です。

彼は「存在論」という学問を体系化し、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」とした上で、「理論」、「実践」、「制作」に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類しました。

難しい話はもうやめますが、もうお分かりのとおり、文科系の大学に進んだ人は、これらの一つや二つの講義を、単位取得のためにとったご経験がおありでしょう。

「存在論」というのはそれほど現代の人文系の学問に影響を及ぼした思想であり、現在の人類の文化を形作った基礎として大変重要な思想なのです。そしてそうした学問体系を生み出したのがほかならぬ「メランコリー」というわけです。

とはいえ、「憂鬱」という人の状態を哲学的に追及する、ということはあまりにも難しく、こうした頭の良い哲学者たちならまだしも、一般の人には難しすぎて馴染みがたい、ということもあり、結局哲学はその「普及」にあまり貢献しませんでした。

メランコリーという言葉を世に浸透させていったのは、やはり医学であり、前述のヒポクラテス(紀元前5世紀から4世紀にかけて活躍)は、黒胆汁が過剰になることで憂鬱室が引き起こされると考え、精神および身体にある種の症状を起こす「病気」である、とその著書で記述しました。

「恐怖感と落胆が、長く続く場合」と具体的な憂鬱質の症状を示したのもヒポクラテスであり、この考え方は多くの医学者たちに支持されていきました。

その後、2世紀のギリシアの医学者ガレノスは、このヒポクラテスの医学的知識や学説を強く支持し、ヒポクラテスの説をもとに四体液説をさらに発展させました。彼は、憂鬱質は脾臓と精巣で作られる黒胆汁の過剰により引き起こされるとし、さらにこれらの四体液を人間の四つの気質や四大元素と結びつけて説明し始めました。

もともと、四大元素説から発生した四体液説ですが、それまではその関連はあまり研究されていなかったものが、ここで初めて体系化されます。ガレノスの説では憂鬱は、四大元素のうちの「土」の元素と結び付いているとされており、彼はここから、四体液説をさらに「季節」や「気象」「時間」といったアイテムと無理やり結びつけようとしました。

「土」は四季のうちの「秋」と最も関連深いとし、また人生のうちの成人期と、一日のうちの午後と結び付けました。その理由は明瞭で、秋や人生の晩年、そして午後には人々は憂い悩みます。この時期になると黒胆汁が増え、憂鬱質になりやすい、と考えたわけです。

ガレノスは人間のさまざまな改質を説明するものとして冷熱乾湿の4つの性質があると考え、これを季節と関連づけました。それを整理すると、以下のようになります。

血液:春  熱・湿・・・多血質:楽天的
黄胆汁:夏 熱・乾・・・黄胆汁質:短気
黒胆汁:秋 冷・乾・・・黒胆汁質:陰鬱
粘液:冬  冷・湿・・・粘液質:鈍重

こうして、この世を構成する「元素」と結びつけらえた四体液説は、やがてその後中世になると、宇宙にある天体の運行を予測することから生まれた「占星術」と結びつくようになります。

ご存知のとおり、占星術では、木星や火星、水星、土星といった元素名がついた惑星の運行が重視されており、これが四体液説と結びつくことになったというわけです。

ちなみに、占星術では、「土星」が憂鬱質と関連付けられており、土星を守護星とする、やぎ座や、みずがめ座の人達がこの気質を強く持っている、とされました。この星座の方、憂鬱に心当たりはありませんか?

ところで、現在日本語でよく使われている「メランコリー」は正しくは「メランコリア」であり、その語源からもこちらが正しい使い方のようです。

が、現在では「メランコリア」というのは、その分野の表現やその由来などについての「研究」を表す用語として別途使われるようになっており、英語でも精神医学的な研究テーマの中での用語はmelancolia、一般的な話し言葉などで憂鬱、などの精神状態を表現するときにはmelancholyと使い分けているようです。

どちらも正しい用法なのですが、ややこしいのでここでもメランコリーとしたまま、続けたいと思います。

さて、占星術と結び付けられるなど、少々拡大解釈されるようになった「メランコリー」ですが、その後時代が下っても、依然、基本的には医学用語としてそのまま継承されていきました。

そうした中、医学も次第に、神経医学、精神医学的なども含めて次第に裾野が広くなっていくようになり、メランコリーもまたそうした精神神経医学的な分野の中で研究されるようになりました。

西暦980年ころのペルシアでは、この国の医師で心理学者だったアル=マジュシという人が、その著書で「精神病」についても触れ、その中で、メランコリーは、「狼化妄想症」という精神の病であると述べています。

そこには、「その患者は雄鶏のようにふるまい犬のように鳴く。夜に墓場をさまよい、目は暗くなり、口は乾き、こうなるとその患者は回復することは難しくなり病気が子へと遺伝する」と書かれており、これではまるで狂人です。しかも、遺伝するとまで書いており、ひどい扱いようになっています。

同じくペルシアを代表する知識人で、哲学者・医者・科学者であったイブン・スィーナー(980~1037)という人も、メランコリーは、「気分障害」であると述べ、「患者は疑い深くなることがあり、ある種の恐怖症を悪化させることもある」としています。

こうしたペルシア人医師たちが書いた著書は、12世紀にラテン語に翻訳され、近世までヨーロッパでも広く読まれるようになり、西ヨーロッパでもメランコリーが研究されるように至ります。

中でも、こうしたメランコリーの治療について最も幅広く述べたのは、イギリスの学者ロバート・バートンという医者でした。1621年に書いた著書の中で彼は、音楽とダンスによる治療法が、精神病、特にメランコリーの治療にとって有効であるという内容の記述を残しています。

しかし、このように、精神医学上で研究されるようになったとはいえ、このころにはまだ、メランコリーは、四体液説に基づく、血液の病の一種と考えられていました。

ところが、このバートンの著書が出版された7年後の1628年になると、ウィリアム・ハーヴェイというイギリスの解剖学者が「血液循環説」を唱えました。

血液循環説というのは、「血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る」という、現在ではごく当たり前で、小学生でも知っていることです。しかし、この仕組みは長きにわたって人類に知られておらず、これがこの学者によってようやく明らかになったのです。

かつて古代ギリシアのガレノスが、四体液説という、現在とは全く異なる内容の生理学理論まとめあげ、これが浸透した影響で、これに先立つ1600年代初頭の段階でも、例えば血液は肝臓で作られ、人体各部まで移動し、そこで消費されると考えられていました。

ところが、ハーヴェイが提唱した循環説によって、こうした考え方は完全に否定されました。

ハーヴェイは、血管を流れる大量の血液が肝臓で作られるわけはないとし、「血液の系統は一つで、血液は循環している」との仮説を立てました。そしてこの仮説が正しければ、血管のある部分では血液はもっぱら一方向に流れるはずであると考え、腕を固く縛る実験でそれを確認しました。

腕や足を縛れば、当然血流は止まりますから、血液が循環しているということは誰にでも理解できます。同様に他の部位の一部を止めれば、血流は悪くなることが確認され、これによって血液が体中を循環していることが証明できるようになった、というわけです。

ところが、この発表は、血液肝臓発生説をとなえる四体液説信奉者の間で強い反発を生み、当時この理論は激しい論争の的となっていきました。

しかし、ハーヴェイは、その後もこれらの古い考え方に反論に対する冊子を発行しつづけました。その結果としてその後血液循環説は多くの人々によって様々に実験・検証されるようになり、その正しさは次第に受け入れられていき、またこの血液循環説が後に心臓や血圧、静脈と動脈の存在などの正しい理解へと繋がっていきました。

こうして、血液循環説が正しいと信じられるようになっていったことから、古代の医学説は次第に否定され、メランコリーを引き起こす憂鬱質を説明する四体液説ももはや医学分野では顧みられることはなくなっていきました。

しかし、あまりにも長い間信じられていた説であったため、前述の哲学はもとより、哲学から派生した分野ともいえる、文学や芸術など他の知的分野にはなお大きな影響を与え続けていきました。

一方、その後の14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった「ルネッサンス」は、古代ギリシアのガレノスが提唱した占星術を広めるのに役立ち、これによって広く受け入れられるようになり、メランコリーは土星の影響下によって発生するという説が広く信じられるようになっていました。

前述のとおり、土星はやぎ座やみずがめ座の人の守護星ですが、星占いでは、この土星の運行と自分の守護星(例えば木星や火星)の運行との関連からその人の運命を占います。

従って、占星術上で、土星が自分の守護星に強い影響を与えるような位置関係になった場合には、あなたはやがて憂鬱な気分になりやすくなるだろう、といった占い結果を占星術師は告げるわけです。

こうした占星術は、コペルニクスが地動説を提唱するまでは、天動説を中心としてそのロジックが形成されていました。ところが、やがて天文学の発展によりこの天動説が覆され、地動説が主流になると、四体液説が血液循環説によって大打撃を受けたように、占星術界にも大きな震撼が走りました。

しかし、幸いなことに占星術はこのころまでに天文学とも深く結びつくようになっており、やがて占星術にも理解のあった天文学者、ヨハネス・ケプラーがこの問題に取り組み、地動説下においても非合理のない占星術を考え出し、従来の占星術の矛盾を取り除いて構成しなおしました。

このため、占星術は、再び息を吹き返しました。さらにケプラーは占星術を数学的なものに純化しようとする試みも含めて、様々な改革を試みており、こうして体系化された新占星術の概念はその後多くの占星術師に受け入れられるようになり、現代に到っています。

こうしてより「科学的」になった占星術は16世紀には、フランスが「先進国」でしたが、このあとの17世紀半ばにはそれはイギリスで主流になりました。

こうして、ヨーロッパ諸国では、フランスやイギリスを中心としてこの新占星術が流行するようになり、これに伴って占星術は「星座」のデザインにもみられるように、芸術としてのテーマとしてもよく選ばれるようになり、その影響はとくに絵画において色濃く出るようになりました。

そして、芸術家たちが腕をふるう上で恰好なテーマとなったのが、四体液説が滅びたあとも芸術テーマとして根強く生き残っていた「メランコリー」であり、占星術においても土星の影響下で人々がかかるとされていた、この「憂鬱」という症状は数多くの絵画作品で描かれるようになっていきます。

例えば、ドイツの画家で、アルブレヒト・デューラーという人が描いた寓意画に、その名もズバリ、「メランコリアI」と題されたものがあります。

1514年に制作されたこの版画で、メランコリアは霊感の訪れを待つ状態として描かれ、この寓意画には右上のほうに魔方陣や、角を切り落とした菱面体や、砂時計、太陽などとともに描かれており、これらはいずれもこの当時の占星術と関連したオブジェです。

ちなみに、魔方陣(注:「魔法」ではない)とは、正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるものです。

また、右上、右下、左上、左下のそれぞれ2×2の四マスも、中央の2×2の四マスも、いずれも和が34になっていることを下のマトリックスで確認してみてください。さらにこの魔方陣の中には、作者がこの絵を制作した、1514の数字も埋め込まれている点も驚きです。

16 3 2 13
5 10 11 8
9 6 7 12
4 15 14 1

こうして、ルネサンス以後の中世ヨーロッパにおいては、憂鬱質(メランコリー)は「芸術・創造の能力の根源をなす気質」とまで位置づけされるようになります。

芸術家たるもの憂鬱であるべき、ともいえるような風潮まで現れ、やがては、「メランコリスト」を自称する芸術家らが肖像画、寓意画において盛んにメランコリーをテーマにした絵が描くようになり、作家や音楽家、学者までがその作品の中でメランコリーを扱うようになりました。

とくに、17世紀初頭のイギリスでは、メランコリーという状態をまるで宗教として崇拝するかのような文化的現象すら起こっており、ここでもやはり絵画にとどまらず、文学や音楽などのあらゆる芸術においてメランコリーな作品が主役でした。

これは、ヘンリー8世時代に始まったイングランド宗教改革によって、罪・破滅・救済といった問題への関心の高くなったのが原因ともいわれていますが、ケプラーによって息を吹き返した占星術とも無関係とはいえず、イギリス人は現在でもそうですが、幽霊や霊といったオカルト的なものは大好きで、占星術も根強い人気がありました。

このため、星の運行によってもたらされる「憂鬱」という状態に対してもオカルティックな対象として見るような兆候があり、多くの人がなぜ憂鬱になるか、ということに対して強い関心を寄せていました。

音楽においてもその影響がみられ、イギリスの作曲家、ジョン・ダウランドなどの曲などがもてはやされました。彼は1612年に国王付きのリュート奏者となった人ですが、自分自身を “semper dolens”(常に嘆いている)と標榜し、悲しみやメランコリーを題材とした通俗作品を得意としました。

こうした風潮は、ケプラーを生んだドイツにおいても同じであり、ドイツ文学においても、この時代の「憂鬱」を表すような文化的なムードを示す文学作品が多数造られ、例えばドイツの詩人、で劇作家、小説家のゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)の「若きウェルテルの悩み」はその中でもとくに有名なものです。

その内容はというと、青年ウェルテルが婚約者のいる身である女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺する、というストーリーですが、日本でも翻訳されて親しまれているので、一度読んだことのある人もいるのではないでしょうか。

このほか、この時代にはヨーロッパ各国で「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語が流行り、これは「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句ですが、これもまたメランコリーの流行から派生したものです。

「死を記憶せよ」などと訳され、日本語直訳では「死を思え」、意訳では「死生観」とも訳すことができるもので、現在でもヨーロッパのお墓ではこのメメント・モリをモチーフにした意匠が施されるものを多く目にします。

髑髏や智天使、王冠、骨壷、墓掘り人のつるはしやシャベルといったものであり、お墓だけでなく、その他の芸術作品のモチーフとしてもヨーロッパではこのメメント・モリは広く使われる……といったことは、先日のブログでも書きました。

そもそもメメント・モリは、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われる言葉や意匠ですが、これもまたメランコリーからきたものとわかると、この時代のヨーロッパ人のこれへの傾倒ぶりがよくわかります。

こうした、ヨーロッパ諸国においてかつて浸透した「メランコリー」は、その後開国した日本にも持ち込まれるようになり、明治時代以降、その言葉がごく普通に使われるようになりました。

ただし「憂鬱」という言葉は、中国の古典にもあり、日本へもそのまま輸入されようですから、明治期以降にメランコリーを翻訳したものではなさそうです。であるとすれば、中国でもその昔から憂鬱という心理状況が認識されていたのでしょうし、当然、日本人もその意味を古くから理解していたはずです。

従って、メランコリーという新しい言葉が入ってきても、その意味がわかると、憂鬱のことであると理解し、あまり混乱はなかったようです。また、メランコリーであるという状態に対して、ヨーロッパ人ほどのめり込むこともありませんでした。

その理由はやはり、ヨーロッパのように四体液説や占星術の流行といったメランコリーが浸透しやすいような時代背景がなかったためでしょう。

それにしても、日本語の「憂鬱」という漢字は、こうしてワープロで書いている分には問題ありませんが、筆数も多くかなり難しい部類に入る言葉なので、いざ手書きで書こうとするとなかなか書けません。

むしろ「今日、私ちょっとメランコリーなの」といった表現のほうが粋なかんじがし、冒頭の梓みちよさんの曲などで使われたのもそうした理由からでしょう。

さて、このようにヨーロッパでは、芸術のあらゆる分野に影響を与えたメランコリーですが、医学分野では研究の対象として消滅した感があります。

しかし、「心理学」としてはまだまだ研究し続けられており、かつてその第一人者として名を馳せたのが、精神分析学者のフロイト(ジークムント・フロイト)です。

彼は、その著書で「悲しみ」(悲哀、喪)と「憂鬱」(メランコリー)を明確に区別しており、愛する者や対象を失って起こる「悲哀」の場合は、時間をかけて悲哀(喪)の仕事を行うことで、再び別の対象へ愛を向けられるようになると書いています。

これに対しメランコリーは、「苦痛にみちた深い不機嫌さ・外界にたいする関心の放棄、愛する能力の喪失、あらゆる行動の制止と、自責や自嘲の形をとる自我感情の低下が起こる」ようになり、引いては妄想的に処罰を期待するほどになる、としています。

メランコリーの場合、愛するものを失った悲しみは悲哀と共通しますが、「愛するもの」が具体的なものではなく観念的なものである点が違います。

また、対象を失った愛は「自己愛」に退行し、失った対象と自我との同一化が進みます。

この過程で愛ははついに「憎しみ」に変わり、失った対象およびこれと同一化された自我に対して激しい憎悪が起こります。やがてこの感情がさらに高まり、自責や自嘲が起こる点が単なる「悲しみ」と異なるとしており、フロイトはここにこそ、自殺の原因がある、と言っています。

そしてフロイトのこうした研究成果を踏まえた現代の心理学では、憂鬱(メランコリー)の概念はうつ病(デプレッション)とほぼすべて置き換えられ、同一のものとみなされているそうです。

2008年3月、ローマ法王庁は新たな7つの大罪を発表しました。それは、遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒です。

この中に、自殺は含まれていませんが、年間3万人もの自殺者を出している日本では、これに太古のギリシアと同じように「憂鬱」を加え、「八つの大罪」としても良いのではないでしょうか。

災害による後遺症と不況に悩まされる現代社会において、多くのストレスと憂鬱をかかえる多くの日本人にとって、その解消こそが明るい未来を作る鍵になっていくに違いありません。

彼岸すぎまで……


台風一過、伊豆は快晴です。

が、伊豆だけでなく、全国的にもスカッ晴れのところが多いようです。気温もぐっと下がったようで、いよいよ秋本番を感じさせますし、そろそろお彼岸も近づいてきました。

お彼岸については説明するまでもなくご存知のことと思いますが、あえて定義しておくと、春分の日と秋分の日を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間のあいだに行う仏事のことであり、彼岸会(ひがんえ)とも呼ばれます。

彼岸会の「会」は言うまでもなく、亡くなった人々とこの日に「会いまみえる」の意であり、また、「彼岸」とは涅槃、すなわちあの世のことです。

ではなぜ、春分と秋分かというと、この日には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。古来、仏教では真西にあの世があると考えられていたため、この日に真西に沈む太陽を礼拝し、遙かその先にある極楽浄土へ行った人々への思いをはせたのが彼岸の始まりである、といわれています。

このように彼岸会は、もともとは仏教行事としてお寺さんが行なう法要だったのですが、それに合わせて一般民衆も仕事を休んで集まるようになり、個人個人で先祖の供養として墓参りや会食をする風習となって広まりました。

今や国民的な習慣となり、春分の日と秋分の日は、国民の祝日として休みになっているのもこの伝統的な風習を守るためにほかなりません。

法律的には、1948年(昭和23年)に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」によって定められており、同法第2条によれば、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としています。

一方の春分の日もまた同法によって規定されていますが、こちらは「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と書いてあります。従って、戦後の法律では秋分の日のほうが、先祖供養の日としてオーソライズされているオフィシャルデイということになります。

とはいえ、最初に法令化されたのは明治時代であり、これは1878年(明治11年)改正の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」という太政官布告令に基づいており、「春季皇靈祭 春分日」「秋季皇靈祭 秋分日」として両者は同格に扱われていました。

ま、俺は仏教徒でないからどっちでもいいや、という人にとっては別にどうでもいい話であり、休日なのだから合法的に休めるし、こういう日は多ければ多いほどいい、という人も多いでしょう。

私も別に秋分や春分だからお墓参りに行かなけばならない、という義務感や使命感は持っていません。亡くなった人々への礼を取るのはいつでもできることですから。

とはいえ、一年に二回、こうした日を定めておけば、家族や親戚も集まりやすく、集まったひとたちで一心同体、気持ちを合わせて祈れば、その思いは、ご先祖や亡くなった方により伝わりやすいでしょう。なので、古くからあるこの習慣を無下に捨て去ってもいい、などとも思いません。

なので、人並みに秋分や春分のころには、たとえ親戚一同が集まれなくても、一応お墓参りやそれができなければ仏壇に手を合わせるようにしています。

日本では、このお彼岸のときには、「ぼたもち」や「おはぎ」をよくお供えものとして捧げます。別ものと思っている人も多いかもしれませんが、実はこのふたつは同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだお菓子です。

名前の由来は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)から来ているといわれています。

昔は親戚一同が集まれば、お墓参りのあとに、お寺や自宅の一室に集まり、このおはぎやら他の料理をほおばりながら故人のことなどを話題にして酒などを酌み交わしたものですが、最近はもうあまりこういう風習は流行らなくなっているようです。

我が家でも両親や祖母が健在だった子供のころには毎年やっていたような記憶がありますが、長じて東京へ出てしまって以降はお彼岸に合わせて郷里の山口に帰ることもなくなり、風習としては完全に途絶えてしまっています。と同時にお彼岸だからといってお墓参りに行くということもなくなってしまいました。

ところで、このお墓ですが、そもそも日本ではいつのころからこういうものを作り、これを崇めるようになったのだろう、と気になったので調べてみることにしました。

しかし、お墓の起源は古く、いつのころから墓を作るようになったのか、を遡ると縄文時代や弥生時代、下手をすると有史以前の太古の時代にまで遡るためこれを調べるのはナンセンスです。

ただ、仏教が伝来する前は、遺体を埋葬する墓所はあったようですが、墓参りなどの習慣などはなかったようで、大昔の日本人の一般的な感覚としては、墓というものはまったくといっていいほど重視されていなかったといいます。

お墓お墓といいますが、そもそもその形態も問題です。一般には次の三つの分類に基づいて規定できると考えられています。

1. 遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2. 処理方法(埋葬か非埋葬か)
3. 二次的装置(石塔の建立、非建立)

2.の処理方法ですが、非埋葬という形があるのか、ということなのですが、昔は、遺体を風にさらし風化を待「風葬」という葬制が沖縄、奄美などで見られたそうです。無論、現在は行われていません。

日本以外の例えばチベットなどでは、現在でも遺体を鳥についばませる「鳥葬」というのもあるそうで、どこだか忘れましたが、日本でもこの風習があった場所があると記憶しています。

また、1.の遺体の処理方法ですが、現在の日本では防疫の観点からも遺体を直接埋める土葬はあまり奨励されていません(法律的に禁止されているわけではありません)。がしかし、江戸時代までは土葬が一般的でした。

そして、3.の石塔を建てるかどうか、です。石塔、つまり墓石のことですが、墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからだそうで、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もないのが普通だったそうです。

また、浄土真宗を信仰している北陸などの地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかったといいます。

墓石を造るようになったのは、江戸時代になってからのことで、これは檀家制度が確立し、お寺を中心としたコミュニティができるようになったことから、人々に先祖に対する供養や葬儀に加えて、墓を建立することなどの仏事が生活の中に定着するようになったためです。

これにより、それまでは身分の高い人達しか墓石を建てなかったものが、庶民まで墓石を建てるようになり、この墓石に家紋を入れるようになったのもこの頃からのことです。

しかも、はじめのころの庶民の墓石は個人や夫婦のためだけのものでした。従って、人が亡くなればその人の数だけ墓石を建てるということがごく普通に行われていました。当然数が多くなるため、こうした場合の一般人のお墓は小さな墓石ひとつといった本当に素朴なものでした。

ただ、例えば商売人などで、ある程度成功した人達や庄屋などの村の有力者などは、その財を使って一家のための立派なお墓を造るということはありました。私の先祖も比較的裕福だったためか、現在も金沢市内に残る立派なお墓には、たくさんのお骨が入れられる納骨スペースが設けられています。

ところが、明治中期以降になると、「家制度」の確立により、家単位で立派なお墓が普通に建立されるようになっていきます。家制度とは、1898年(明治31年)に制定された民法で規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、「戸主」と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度です。

そもそもは、江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしているものであり、明治になって何もかもが近代化されましたが、この制度だけは逆戻りして残存した格好です。

このため、明治以前のお墓では、その墓石の正面に故人の戒名(法名)だけを彫っていたものが、このころからは「○○家先祖代々之墓」などのような形に変わっていきました。

その他、正面には宗派の梵字や名号、「倶会一処」などの文字が刻まれていることがありますが、この倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の用語のひとつであり、阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土に往生した者は、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味です。

一処を省略して「倶会」とだけ記したものもあり、金沢にある私の先祖の墓もこれです。が、この墓は、江戸時代後期に建てられたものです。従って、「倶会」とか「倶会一処」と彫られたものは江戸時代より以前の比較的古いもの、「○○家先祖代々之墓」と書かれたものは明治時代以後のものが多いようです。

こうした墓石の側面には建之日・建之者・故人の命日・俗名などを刻み、文字の所に墨を入れる場合もありました。墨色は、石の色や地域により異なり、白・黒・金・銀などが多かったようですが、当然年月が経つとこれは色あせてしまいます。

ちなみに、明治時代以降は、東京などに代表されるように都市に人口が集中するようになり、都市部では土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができなくなりました。このため、それまで普通に行われていた土葬に代わって火葬が多くなっていきました。

火葬は、近代になって開発された埋葬方法だと思っている人も多いと思いますが、これは違います。実は火葬は仏教と共に伝わったという説が有力であり、仏教の祖である釈迦もまた火葬されています。

現代でも「火葬にする」の意味で用いられる言葉として「荼毘に付す」といいますが、この荼毘(だび。荼毗とも)は火葬を意味する梵語Jhpetaに由来する仏教用語です。

「続日本紀」によると、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧で「道昭」という人のようです。また最初に火葬された天皇は、702年に火葬された持統天皇です。8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士などの間でも火葬が広まったといいます。

ただ、これより以前の古墳時代にも火葬が行なわれていた証拠も残っていて、古墳の様式のひとつには「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められるそうです。これらの墓は6世紀後半から出現しており、このことから日本における火葬史は1400年以上あることになります。

とはいえ、火葬が流行るようになったために、土葬が廃れていったわけではなく、火葬が広まった後も、日本では土葬が広く用いられていました。むしろ、近世までの主流は火葬よりも棺桶を使った土葬でした。

これは仏教とは別に中国から日本に伝来してきた儒教の影響です。儒教の価値観では、身体を傷つけるのは大きな罪であったためであり、このほかにも、実質的な問題として火葬は燃料代がかかるという問題があり、土葬の方が安上がりであると考えられていました。

遺体という大量の水分を含んだ物質を焼骨に変えるには、大量の薪と、効率よく焼くための技術が求められ、このため火葬は費用がかかる葬儀様式であったというわけです。

しかも、明治になってからの新政府は神仏分離令に関連して、神道では土葬が一般的であったことから、火葬禁止令を布告しました(明治6年(1873年))。ところが、仏教徒からの反発があり、また都市部での埋葬地不足の問題から衛生面からも問題があるとされ、このため二年後の明治8年(1875年)にはこの禁止令を撤回しています。

その後火葬技術が進歩したこともあり、近現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率となっています。

現在も法律的には土葬など火葬以外の埋葬方法が禁じられているわけではありません。が、環境衛生面から行政は火葬を奨励しており、特に東京都(島嶼部以外では八王子市、町田市、国立市など10市2町1村を除く)や大阪府などでは、条例で土葬は禁じられています。

公衆衛生の観点から土葬よりも衛生的であり、伝染病等で死んだ場合はもちろんですが、通常の死亡原因による埋葬であっても、土中の微生物による腐敗では、埋葬地周辺域に長期に亘って腐敗菌が残存するため、衛生上広域な土地を必要とするという問題があります。

都市に人口が集中する現代ではそうした土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができない上、明治時代に導入された「家制度」の影響により、現在でも墓は「家」を単位として考える人が多く、このため、先祖と同じ墓に入れやすくするためには、火葬のほうが容量の少ないお骨だけになるため効率的というわけです。

ただし、神道家の一部の宗派には、今でも火葬を仏教徒の残虐な葬儀法として禁忌する思想もあり、葬を忌む場合があるそうです。ただ、家内のタエさんの父方の家も神道ですが、お墓は火葬にしているそうです。

なお、天皇などの皇族方は、明治以降も長年に渡って土葬を通常の埋葬方法としてきましたが、現在の今上天皇は、崩御の際は火葬を希望するとの意向を示しておられ、2012年4月にこのことを宮内庁が発表しています。

さて、お墓の話に戻りましょう。こうして、明治以降、一つの墓に火葬されたお墓に一族が入るという形式が一般化し、第二次世界大戦後の現在までこの風習は続いています。

が、墓石の形状は、従来ながらの縦型の和式から、最近の霊園型墓地によく見られるような洋型の墓石に変わってきており、「デザイン墓石」といわれるような従来からみれば奇抜ともいえるような墓も登場するなど多様化してきています。

現在、建立される墓石の形状は大きく和型・洋型・デザイン墓石に分けられます。

和型は、今でも一番多い型でしょう。基本的には台石を2つ重ねた上に細長い石(棹石)を縦にして載せる「三段墓」が多く、全体的に縦に長く背が高いのが特徴です。

仏式と神式があり、仏式は、各柱塔が三段積み重なっている典型的な三段墓であり、一般的には「和型三段墓」と呼ばれています。和型三段墓は上から「竿石(棹石)」「上台石」「中台石」「下台石」の四つの墓石で構成され、一番上の竿石だけを「仏石」と呼ぶこともあります。

石の種類は白御影石や黒御影石が使われる事が多く、和型の墓石は仏舎利塔や五輪塔を簡略化したものだといわれています。

上三つの石を天地人に見立て、最上位の竿石は、事業や金銭など動産を示す「天の石」、その下の上台石は寿命や家庭など人間を示す「人の石」、中台石を財産や家など不動産を示す「地の石」と呼ぶこともあるそうです。知っていましたか?

一方の神式は、仏式に比べれば少なく、あまり目にすることも多くないでしょう。これは、江戸時代以前には仏式の墓が主流であり、こうした神式の墓は、明治時代の神仏分離政策により神葬祭専用の墓が建てられることが多くなったためです。

明治以降、政府がこの政策を推進するため公営墓地を急造したことにより、一般の民営墓地以外のこうした公営墓地では、比較的こうした神道の墓をたくさん見ることができます。

神式の墓は仏式の和型三段墓とよく似てはいるものの、一般に「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道式の三段墓で、仏式のお墓と違うのは、お墓の最上部がとがったピラミッドのような形をしている点です。

この神道独自のお墓は、「トキン型」ともいわれ、トキン型以外にも、ドーム型やお社型のお墓もみられます。また左右に狛犬が配置するなど一般的なお墓とは違った形のものも多いようです。比較的新しい公営墓地へ行くとみることができると思いますので、見つけてみてください。

なお、神道ではもともと死は穢れとされていることから、通常は神社の敷地内に墓地はありません。ただ、最近は神社が事業主体となった神道専用の墓地も見られるそうです。

一方、洋型のお墓は、最近急増しています。基本的には台石の上に横長の石が乗る形であり、全体的に横に長く背が低いものが多いようです。日本における洋型墓石の主流は「ストレート型」と「オルガン型」に分けられ、各々の形状において二段型と三段型の違いがあります。

ストレート型というのは、上述の仏式の竿石部分を立てるのではなく、横に倒したようなものでかも短く、前面・後面とも垂直になっています。一方のオルガン型は、その名の通り、前面が斜めにカットされていて、竿石全体が台形になっているものです。

が、いずれも特に伝統的なものというわけでもないようで、どちらかを選ぶのに宗教的な意味合いもなく、単に好みで選ばれているようです。

最近は、この様式墓をさらに発展させた、独特の「デザイン墓」と呼ばれる形式が増えているようです。固定観念にとらわれず、故人への想い入れを反映した現代的なお墓といえるでしょう。

形式は様々であり、というか自由で何でもアリです。和型と洋型を融合させたような比較的落ち着いた形から、故人の個性を偲ばせる突飛で斬新な形まで多種にわたります。依頼人が遺族だけではなく、生前に個性的な墓石をデザインし注文することも珍しくないようです。

デザインの要素としては墓石の形状、色、表面の加工、石材、彫刻、碑文、付属品など色々ですが、従来のような御影石のみでデザインされたものに代わり、アートガラスやステンレス、銅板などの金属類をデザインに取り入れたものもあります。

これまでの和式の墓と比べると、一転してお墓を明るい雰囲気にする要素があることから、人気が出ており、墓石業界としてもデザイン墓石を推進する動きが見られます。

「全国優良石材店の会(全優石)」では「お墓デザインコンテスト」なるものを毎年実施しているそうで、仏事関連出版社である六月書房という出版社は、デザイン墓石コンテスト墓石大賞を毎年催し、デザイン墓石の写真集まで出版しています。

デザイン墓石は、個人がオリジナルで制作するものから、メーカーによりデザインされたものまで幅広く、これまでのお墓のように石の種類以外の選択肢がないといったこともなく、自由なものを選べるため幅広い人気を得ているようです。

こうした墓が日本で流行っているのは、当然のことながら英米圏の影響であり、欧米の墓石には、基部が直方体状のもの以外にも半円状や球状などがあり、さらに頭頂部は楕円形や錐形等があるなど自由自在です。

この諸外国の墓の話をし始めると、それだけで一冊の本ができてしまいそうです。ただ、ヨーロッパのお墓のひとつの特徴として、18世紀ころから墓石に、髑髏や智天使、王冠、骨壷、墓掘り人のつるはしやシャベル等のいわゆる「メメントモリ」の意を含む装飾がよく彫られるようになりました。

メメント・モリ(memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句であり、日本語としては「死を記憶せよ」などと訳されています。上にあげた髑髏や骨壺といったモチーフはその象徴であり、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われたのです。

「メメントモリ」の日本語の意訳としては「死生観」に近いものだという人もいるようです。

欧米ではその後、19世紀ころから墓の形の多様化が進み、現在では簡素なものから豪奢な装飾を施したものなどさまざまであり、簡素な十字架や天使などの装飾よりもより高度な加工が求められる場合も多いようです。

一方では、古くからある簡素な形状の墓石のほうが人気がある国もあり、さまざまです。が、外国の墓の話はエンドレスですから、このあたりでやめにしておきましょう。

さて、日本の墓石です。戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などが一緒になって共同で墓地を作り、墓を建てるケースも多かったようですが、戦後は、地方自治体による大規模な公園墓地が作られるようになり、これ以外では、寺院や教会が保有・管理しているものが多いようです。

基本的に「○○霊園」などの名前が付いた墓地が増えています。前述の洋式の墓石やデザイン墓はこうした比較的新しい霊園にたくさんみられます。

しかし、最近では都市部を中心として墓地用地が不足しており、このため、墓石を郊外に建てるよりも、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式の共同墓地も数多く造られています。

地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が結構かかることがほとんどであり、こうしたマンション式の墓地も永代使用料を求められることも多いようですが、一般霊園よりも安く、また何よりも墓石の建立などに多額の費用を必要としません。

しかし、それでもやっぱりお墓が欲しいという人は多く、人によっては生前に自らの墓を購入することもあります。これを仏教用語では、寿陵墓(じゅりょうぼ)または、逆修墓(ぎゃくしゅぼ)といいます。

仏教の教えにおいて「逆修」とはすわなち「生前、自分のために仏事をいとなみ、冥福をいのること」をさします。

生前にお墓を建てると「早死にする」、「縁起が悪い」という人がいますが、実際の仏教では「逆修」によって功徳がもたらされるとされ、その功徳はさらに、子から孫へと残すことができ、未来の繁栄と幸福につながるといわれているそうです。

私としては、墓などはいらないと思っており、ましてや生前にそんなものを作ったからといって子や孫が幸せになるなどとも思ってもいません。が、お墓信奉者の方々にはこうした教えはありがたいものとして目に写るのでしょう。

また、お墓だけでなく、生前に戒名を授かる人もおり、こうした人達は、自らの預かり知らないところで付与される名前がお嫌いなようです。自らの意思で受戒し、戒名を授かるほうが功徳があると考えていらっしゃるのでしょう。が、無論、どう考えようと自由です。

ただ、この場合は、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別されるといいます。自分の意思で選択した方法とはいえ、結局は死後も仏教という宗教の規則に縛られるわけであり、私としてはまったく無意味だと思います。

私のように、無宗教を奉じる人達は最近増えているようです。遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方が広がっているといい、気に入った樹の下にお骨をばらまいてもらう樹木葬というのもあるそうです。

私もそういうやり方でいいかな、と思っており、お墓は作らない予定です。ただし、こうした散骨による自然葬は、メディアなどによって大々的に報道もされて多くの人が賛同を示していますが、法的にはグレーだそうです。

大々的にやると、死体(遺骨)遺棄罪、死体損壊罪、廃棄物処理法違反に問われる可能性はゼロではないといい、何事もひっそり静かにやるというのが暗黙の了解のようです。従って豪華客船を雇い、そこで大々的なパーティをやった上で散骨、などというド派手なことはやめておきましょう。何ごとも質素で謙虚が肝要です。

最近ではさらに、インターネットの普及に伴い、ウェブサイト上に仮想的な墓を造り、そこで墓参や記帳ができるようにするというネット墓というサービスまでもが、専門業者、寺院により運営されるようにもなっているといいます。

そこまでいくと逆にちょっとやりすぎではないかという気もしますが、人は死んだら土に帰り無に帰すと考えているならば、それもまた良しとしましょう。

ただ、インターネット上にデータが残っていた場合、死後にそれが改ざんされ、実は地球の反対側では生きていることになっている、なんてのも嫌です。

死んだら、この世ではまったくの無になる。それでいいと思います。無論、魂は残り、未来永劫続いていくのですが……

さて、そんな先祖や故人の魂に今年もお彼岸になったら祈りを捧げることにしましょう。

あなたはどうされますか?

飛行艇!

先日、宮崎駿監督の映画、「風立ちぬ」に関連して主人公の堀越二郎の設計した飛行機についての記事を書きました。

しかし、この中で書き切れなかった話があり、それはこの映画の中で出てきた三枚もの羽根を持つ複葉機のことでした。映画の中では堀越二郎が夢の中で見た飛行機という設定でしたが、これは実在の飛行機です。

イタリアの「カプローニ Ca.60 トランスアエロ」という飛行艇で、100名もの乗客を乗せて大西洋を横断する計画の下に、イタリアのカプローニ社という飛行機製造メーカーによって造られたものです。

飛行艇というだけあって、水上から離発着します。この当時としては他に類をみないほど巨大であり、8基のエンジンと、前後三列に三葉の主翼を持ち、合計9葉もある主翼のあるその姿は飛行機とは思えないほどで、大きなな櫓(やぐら)を並べたその下に列車を取り付けたような不思議な形をしています。

こんなものが本当に飛んだのかな、と思ったのですが、案の定、実用化には至らず、試作機が造られ試験飛行が行われたものの、ごく短い飛行をするにとどまりました。

1921年3月4日のことであり、イタリアのマッジョーレ湖という場所で乗客60人分に相当する重量を積載したこの飛行機は、離水には成功したものの、機体はわずか60フィート(約18メートル)の高さまで上昇しただけで、その後すぐに墜落してしまいました。

機体は衝撃で破壊され急速に浸水し、数分で湖の底に沈みましたが、幸いなことにパイロットは脱出に成功したため死傷者は出なかったそうです。試作機だったため、同型機はなく、この沈んだものが世界で唯一の機体でした。

しかし、失敗はしたものの、まだ航空機の黎明期に近い時代に、100人もの乗客とともに大西洋を横断することのできる飛行機を開発するという野心的な試みは、世界中の飛行機開発者に夢を与え、その後の長距離旅客機の開発のための礎となっていきました。

宮崎駿監督もまた、その壮大なプロジェクトに惹かれ、この飛行機とこれを造った技術者を映画の中で登場させたのでしょう。

この飛行機を作ったのは、風立ちぬの中にも出てくる、その名も「カプローニ」という実在の人物であり、第一次世界大戦において、たくさんの発動機を持つ大型爆撃機で成功した経験を持っていました。第一次大戦は、カプローニ Ca.60の試験飛行の三年前に終結しており、彼は今度はこの大戦での経験を活かして、民間の大型機を作ろうとしたのです。

しかし、初飛行は失敗に終わったため、カプローニは機体を回収し、これを修理して試験続行をしようとしたようです。が、実際に修理に着手する前に火災が発生しこの世界唯一の試作機は焼失してしまったといいます。

従って残っているのは写真と設計図だけということになります。しかし、カプローニ社はこうした爆撃機や民間航空機開発で蓄えた技術力を活用してその後は大躍進し、1930年頃には、自動車・船舶用エンジンの生産など事業の多角化に成功し、イタリア有数の企業に発展していきました。

第二次世界大戦時にも、イタリア軍や枢軸国向けの中型・大型機の生産を行いましたが、この頃になるとカプローニ社の中核となる航空機部門は、フィアットやマッキなどの国内他社と比較しても、すでに時代遅れの感は否めないようになり、次第に競争力を欠いていきました。

このため、戦後には劇的に進歩した航空機業界の中で販路を失い、これに伴って多くの部門は1950年ころ閉鎖されてしまいました。

しかし、その一部のグループは生き残り、戦後はオートバイの開発・製造などを行っていましたが、やがては資金不足に陥り、1983年に同国の航空機メーカーである「アグスタ社」という会社に吸収されました。

ちなみに、現在日本の警察庁や多くの県警が導入している、タービンエンジン双発のヘリコプター「A109」はこのイタリアのアグスタ社の製品です。

救助用に警察庁が導入しているほか、富山県警、静岡県警、新潟県警、広島県警、福島県警、三重県警、兵庫県警、北海道警、宮城県警、島根県警などなどに導入され、現在日本の警察で最も多く運用されている外国製ヘリコプターです。

カプローニ社は消滅してしまいましたが、その技術力は継承され、それが今も日本の空を守ってくれているわけであり、その会社がかつて開発した飛行機を日本の映画監督の宮崎駿さんが取り上げたということに、不思議な縁(えにし)を感じます。

このカプローニ社による、大西洋をも渡れるような巨大な旅客機を開発するという夢は、こうして潰えてしまいましたが、その後も同様に大型の飛行艇を造る試みはヨーロッパ各国で続けられ、その一つがドイツで具現化しました。

「ドルニエDo X」という巨大な飛行艇が1929年(昭和4年)に完成しており、これはドイツのドルニエ社が製造した旅客用飛行艇であり、このころ流行っていた飛行船による大西洋航路の旅客輸送に代わる、「空の豪華客船」として鳴物入りで登場したものです。

この当時世界最大の重航空機で、設計はツェッペリン飛行船も担当したクラウディウス・ドルニエという人物で、ドルニエ社の創業者でもあります。このドルニエ社は、大戦前には大型の旅客機製造で成功し、その機体はルフトハンザ等、多くのヨーロッパの航空会社で用いられました。

また、戦争中には爆撃機の製造にも従事し、そのひとつの「バトル・オブ・ブリテン」は、大戦後期にイギリス空軍の夜間爆撃に対抗する夜間戦闘機として活躍しました。

戦後、ドイツの航空機生産は禁じられてしまいましたが、ドルニエはスペインやスイスに拠点を移しながら、航空コンサルティングサービスなどを提供することで苦境をしのぎ、1954年に禁が解かれると、小型の輸送機を製造してこれを成功させ、のちにはフランスのメーカーとの合弁でジェット戦闘機の開発も行いました。

しかし、1985年、ダイムラー・ベンツグループに統合され、現在はその航空機部門となっています。

このドルニエ社が製作したDo Xは、都合3機が製造され、うち2機はイタリアからの発注だったといいます。機内にはダイニングルーム、寝室、喫煙ラウンジ、バーを備え、高級カーペットを敷きつめ中央サロンまである豪華仕様を誇ったそうです。

600馬力のカーチス社製のエンジンを12基をも搭載し、各エンジンは2基一組で流線型のカプセルに収められ、下の写真を見てわかるように各エンジンは補助翼で結ばれていました。

このため機関士は飛行中でもエンジン関係の作業を行うことができたそうですが、実はこのエンジンは冷却や点火のばらつきが多く、12基のエンジンの調子をそろえることが難しかったため、こうした工夫により飛行中も付きっきりで調整を行う必要があったのでした。

こうしたエンジンの出力不足等から、試験飛行当初から500m以上への上昇は困難なことがわかり、このため低高度飛行を余儀なくされ、期せずして世界最初の「地面効果翼機」となりました。

地面効果翼機というのは、地表ないしは水面から数十センチ~数メートルほどの高度で航行し、これによってこれより高い位置を航行するよりも高い揚力を得ることができる飛行機のことです。プロペラで発生させた気流を分流して機体下部へ噴出して浮揚力を得る、ホバークラフトと同じようなものといってよいでしょう。

高い場所を飛ぶことはできませんが、その翼と地面もしくは水面との間の「圧力」が揚力に変換されるため、翼が小さくても高い揚力を得ることができ、また機体が重くなっても航空機に準じる速度で航行することができます。

余り知られていない飛行機ですが、普及はしなかったものの、第二次世界大戦頃から現在に至るまでも研究・開発が行われており、民間用・軍用として少なくない数の機体が製造されているそうです。

こうした飛行機の開発にとくに熱心だったのが、ロシアであり、「エクラノプラン」という実用機が作られ、冷戦時代には、大型かつ高速展開可能な輸送戦力として長期にわたってカスピ海沿岸部に配備されていたそうです。

西側諸国では、「カスピ海の怪物」という俗称で呼ばれており、外側の翼を切り落とされた航空機のようにしか見えないこの機体は、アメリカの諜報機関によって発見され、その昔かなり話題になりました。

このエクラノプランは、数百km/hの高速が出せ、最大100t以上の貨物を積載できたといい、約120「隻」がソ連海軍に導入される計画が立てられたそうですが、重量が大きい割には強度がそれほどでもない船舶用アルミ合金で造られていたため、強度不足が指摘されていました。

このため、試験機では度重なる補強工事が行なわれたといい、試験飛行にこぎつけた段階からも事故が多かったそうです。

しかし、こうした困難を経ながらも、一応この飛行機は艦隊配備までこぎつけました。

ところが、専用の浮きドックなどの特殊施設も用意する必要があり、運用コストが莫大になる事が予想されたため、結局、稼動可能なものは4隻ほど建造されただけで終わり、一応軍用輸送機として使われたことはあったようですが、すぐに廃役となり、現在使われているものはありません。

ただ、重量物を運べる高速機というアイデアには、ロシアだけではなく各国とも未だに固執しており、日本においても1990年代に船舶技術研究所(現海上技術安全研究所)が研究を行っていたということです。もしかしたら将来的にはもっと研究が進み、東京オリンピックごろには案外と東京湾を飛んでいるかもしれません。

さて、ドイツで開発されたドルニエDo Xのほうですが、乗員10名、正規の乗客150名、そして、なぜだかよくわかりませんが、密航者9名を合わせて169名を乗せたそのデモフライトは、1929年に実施され、大評判を呼んだといいます。

その後、この飛行艇は、当時通常の飛行機でも困難といわれた大西洋横断飛行も成功させましたが、やはりエンジントラブルなどの問題点が多く、結局イタリア以外の航空会社から注文を受けることは無く、完成した3機以外には造られることはありませんでした。

その後、そのうちの一機がベルリンの航空輸送博物館に収蔵されましたが、第二次世界大戦中、1945年のドイツ空襲によって破壊され、ドイツ国内には現存する機体は一つも残っていません。

イタリアから注文のあった2機は、予定通り納入され、イタリアの民間航空会社がこの2機を使った運用を開始する予定であり、投入予定の航路も決まっていたといいます。

が、やはりエンジントラブルなどの問題があっためか実際には運行されませんでした。このため、イタリア空軍によって実験的な任務を与えられましたが、その結果からも実用性が低いと判断され、実験が終了すると、2機とも解体されてしまいました。

このため、現存するドルニエDo Xはひとつも残っていません。が、北海道の新千歳空港ターミナルビル一階に復元模型が展示されているそうです。そういえば昔出張でよく北海道へ行ったときに見たような覚えがあります。

こうしてイタリアもドイツも大型の飛行艇の実用化には失敗してしまいました。ただ、第一次世界大戦において、機動力の高い飛行機は実戦に用いられて大活躍し、海上だけの運用しかできない艦船に代わって大躍進を遂げていきました。

とはいえ、その活動範囲は陸の上空や陸地周辺に限られており、このためカプローニやドルニエのような航続能力の高い飛行機によって太平洋や大西洋を横断することには、依然各国とも大きな魅力を感じていました

このため、このイタリアやドイツで培われた技術を流用して、1930年代初め頃からは新たな飛行艇開発が各国で始まるようになりました。

こうして、多くの飛行艇の開発が成功するようになり、1930年代の中ごろには、まず地中海横断路線が実現し、その後北米から南米に向かう航路も開発され、ここに旅客機として飛行艇が投入されるようになりました。

まさに1930年代は飛行艇の黄金時代の幕開けであり、飛行艇こそがこの時代の大型機の主役でした。その最大の理由のひとつは、この当時にはまだ、大型機を滑走路で運用する際の着陸の衝撃に耐えうる強度の降着装置、つまり脚とタイヤの製造に関して高い技術がなかったためです。

そもそも、機体の大型化に対して複数の降着装置でもって対処するという思想がなく、この点、飛行艇であれば、着水時の衝撃は機体底部の全面で受け止めることができ、降着装置は不要でした。

こうして、アメリカではパンアメリカン航空が、南米路線用に「シコルスキー S-42」という飛行艇を導入して成功させ、やがて太平洋路線に対してもマーチン社が「マーチン M130チャイナクリッパー」という飛行機を開発したため、これが採用され、実用路線へ投入されました。

初めて大西洋路線に進出したのは、ボーイング社であり、「ボーイング314」という4発の大型飛行艇を就航させましたが、この飛行機の内装もまた豪華なことで有名であり、誰もがアメリカ・ヨーロッパ間の快適な空路の旅を満喫できたといいます。

一方、ヨーロッパにおいても、イギリスが「ショート・エンパイア」という飛行艇の初飛行に1936年成功し、この機体を使ってイギリス本国からエジプトを経由してアフリカやインド、香港までの路線を開設し、「日の沈むことが無い」大英帝国を築き上げるために貢献しました。

ハリソンフォード主演のアドベンチャー映画、「インディージョーンズ」にはこうしたこの当時の飛行艇がいくつか登場したかと思います。ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

このころになると、日本でも「九七式飛行艇」という飛行艇が開発されていますが、この飛行艇は、軍用だけでなく民間用にも転用され、当時の統治領であったサイパン島などへの空路に使用されていました。

そのほかの各国海軍も飛行艇の利点に着目し、連絡・偵察・哨戒・救難・爆撃などの目的で単発から4発の各種の飛行艇を開発するようになり、これらはその後第二次世界大戦においても有用な輸送能力として活用されていくようになっていきました。

九七式飛行艇

戦時中に、日本海軍が開発した飛行艇に、「二式飛行艇」というのがありましたが、これは「九七式飛行艇」の後継機であり、当時の列強の飛行艇の水準を越えた優秀機だったといいます。

長い翼を持った4発飛行艇で、速度200ノット(370km/h)という高速時でも魚雷2発を搭載することができ、攻撃過加重状態(爆弾・弾薬などを積んで重くなる)でさえも航続距離は約5000kmに達したといいます。

それまで国内にあったどの飛行艇よりもすぐれ、当時諸外国が有した飛行艇の水準をはるかに上回る性能を持っていました。通称は「二式大艇」でしたが、輸送型は「晴空」と呼ばれていました。

この飛行艇を開発した「川西航空機」は、九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、紫電改などの数々の海軍用航空機を製造し、特に水上機や飛行艇の機種に定評を持っていました。

創設者の川西清兵衛は、明治29年(1896年)神戸の実業家27人を発起人として毛織会社を設立(日本毛織)。加古川沿岸に工場を建設して毛布製造をはじめたところ、戦時景気で軍用毛布等の売上が伸び、巨利を得ました。

この資金を元手に明治40年(1907年)、兵庫電気軌道(山陽電気鉄道の前身)を創業し、神戸と明石、姫路を結ぶ電気鉄道を開業。さらに大正に入ると、日本毛糸紡績会社を設立し、その後も昭和毛糸紡績、共立モスリン、山陽皮革、神戸生糸など多数の関連企業を創設して、いわゆる「川西財閥」を形成しました。

当初、川西財閥は中島飛行機に出資していましたが、やがて中島の技術者を引き抜く形で、1920年に川西機械製作所(神戸市・兵庫)を発足させ、飛行機部を設置。8年後の1928年(昭和3年)に飛行機部が川西航空機株式会社として独立しました。

当初はイギリスのショート・ブラザーズ社と提携し、同社設計の飛行艇、もしくはその改良型を生産していましたが、その後独自の努力によって、川西製飛行艇の決定版とも呼べる二式飛行艇を開発したのでした。

第二次世界大戦終結にともない、GHQ指令によって航空機の製造が中止になったため、川西航空機も航空機を製造できなくなりましたが、1949年(昭和24年)に「新明和興業株式会社」へ社名を変更しました。

その後は航空機で培った技術で民需転換に成功し、天突きダンプ、じん芥車、水中ポンプ、機械式駐車場、理美容機器などの、航空機以外の分野でユニークかつ多彩な製品を持つメーカーとして現在も存続しつづけています。

さらにその後、「新明和工業株式会社」に再度名称変更しており、名高い初の国産旅客機「YS-11」を製造したのもこの会社です。このほか現在も自衛隊の飛行艇、PS-1、US-1、US-2などの航空機を製造しています。

この新明和工業の前身の川西航空機が開発した二式大艇は、最高速度240ノット(444km/h)以上の速度を持ち、これはこの当時の海軍の主力戦闘機、九六式艦上戦闘機(堀越二郎が開発)と同等の速度であり、同時期のイギリスの4発飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速いものでした。

航続距離もまたすごく、偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上であり、いずれも陸軍の大型機であった一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増の距離になります。

B-29爆撃機と比べても、航続距離は30%近く長かったといい、無論B-29ほど大型ではありませんでしたが、その技術を流用すれば、日本は十分にアメリカ本土を空爆できるほどの性能を持った大型爆撃機を保有していたことでしょう。

ちなみに、日本帝国陸軍は、「富嶽」という超大型爆撃機の設計製造を川西飛行機のライバル、中島飛行機に命じましたが、戦況が悪化する中、この飛行機の開発は途中でとん挫しています。

二式大艇はさらに、20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火と防弾装甲を持っており、雷撃を容易にするための小型機並の良好な操縦性をも兼ねそろえていたといい、加えて1t爆弾または800kg魚雷2発の搭載が可能であり、中型爆撃機としても使えました。

飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利になりがちです。

しかし、その開発にあたっての海軍側からの要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものでした。

が、製作担当の川西航空機には、堀越二郎と同じく、東京帝国大学工学部航空学科卒の「菊原静男」という俊英技師がおり、彼が設計主務者に任命され、彼を中心としたプロジェクトチームが設計制作を開始しました。

そして、1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発、日米の緊張も高まる中1941年(昭和16年)3月に試作1号機が完成し、翌年の1942年(昭和17年)2月に「二式飛行艇11型H8K1」として海軍での制式採用が決定しました。

二式飛行艇には、当時最強といわれた三菱の「火星シリーズ」と呼ばれるエンジンが搭載され、適切なプロペラ設計と細長い主翼に狭い胴体が特徴でした。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていましたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになり、幅を抑える一方で背の高い独特な形状となりました。

軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戦闘機と同じ超々ジュラルミンが採用され、操縦性を良くする親子フラップの採用や、胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)が採用され、滑走中に生じる波飛沫を大幅に抑えることに成功しました。

このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用。胴体や主翼に搭載された全14個、合計17080(ℓ)の燃料タンクには、他の海軍機には見られないような防弾カバーが施されました。

索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられていたといい、無線室も胴体前部と後部の2か所にありました。

唯一の欠点は、防水塗料の粗悪さから水密が不完全だったことで、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかったといい、戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけたといいます。

太平洋戦争直前に開発が間に合ったことから、戦争に突入するやいなすぐさま各地の戦線に投入されるようになり、大型でありながら高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれるようになりました。

制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠湾を再空襲した「K作戦」が実施され、これが二式大艇の初の実戦となりました

しかし、この作戦では、上空の視界の悪さや急遽の灯火管制の為もあり、爆弾は真珠湾内のドックや燃料タンク、停泊中の船舶などの目標を外れて周辺の道路などに落下し、アメリカ側の被害は軽微でした。

その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍しました。1944年以降は、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍の他の多くの軍用機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手であり、これ一機で十分な脅威でした。

B-25ミッチェルやB-17といった米軍大型爆撃機を積極的に追撃して撃墜したという逸話も残っており、その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれました。

1943年11月にはP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が米軍機1機を撃退したものの、その後エンジン2基が停止し、230箇所被弾・1名負傷という状態ながらも無事に帰還したという記録が残っています。

このように頑丈な本機でしたが、戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると、さすがに米軍の最新鋭の戦闘機の速度にはついていけず、足の遅さに加え敵の圧倒的な火力に対して重防御も耐え切れず、消耗していきました。

比較的大型であったため、機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま空襲で破壊されたものもあったといいます。

さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産でした。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされています。

また二式大艇は、長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に大きな損害も出しています。

補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したそうで、五航艦に所属していた二式大艇隊は、1945年の2月から終戦まで27機・約250名を失っています。

終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、米軍から機体の引き渡しが通達されたときは、香川県三豊郡詫間の詫間基地に残されていた3機を残すのみとなっていたそうです。

ちなみに、ラバウルからブーゲンビル島へ向かっていたとき、米軍機に発見されて撃墜され、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官が最後に搭乗していたのは、この二式大艇ではなく、陸軍の一式陸上攻撃機でした(海軍甲事件)。

そしてこの山本大将のあとを継いで連合艦隊司令長官となったのは古賀峯一海軍大将でしたが、この古賀大将が最後に搭乗したのが、この二式飛行艇の輸送機型「晴空」であり、古賀大将はこれに乗っていて殉職しました(海軍乙事件)。

この飛行の直前、古賀長官の搭乗機は燃料給油中だったそうで、7割方の給油が終わったとき、突然空襲警報があったため、急きょ離陸することになりました。が、折悪しく、熱帯低気圧が付近を通過しており、古賀大将の搭乗機はこの低気圧による擾乱に巻き込まれて墜落しました。

ところが、この空襲警報は誤報であったといいますから、運が悪かったとしかいいようがありません。しかも、このとき通信科・暗号・気象関係員などが搭乗した別の二式大艇も同行していましたが、この僚機もまた熱帯低気圧に巻き込まれてセブ島沖に不時着しました。

搭乗していた乗員は9名は泳いで上陸しましたが、ゲリラの捕虜となりました。このとき彼らは、作成されたばかりの連合艦隊の機密作戦計画書や司令部用信号書、暗号書といった数々の書類を所持していたといい、これらの最重要軍事機密のすべてをゲリラに奪われてしまいました。

この文書はその後、オーストラリアのダーウィンにあるアメリカ海軍基地に運ばれ、そこからブリスベーンに空輸され、ブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳部においてアメリカ陸軍情報部より派遣された5人の主席翻訳要員によって翻訳されました。

文書は暗号ではなくプレーンテキストの形態であったといい、翻訳された文書は、ダグラス・マッカーサーのもとへ急送され、マッカーサー通じてチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官まで直ちに送り届けられました。

これによって、帝国海軍による陽動作戦はアメリカに筒抜けとなり、その後のマリアナ沖海戦でアメリカ側に勝利を奪われた原因になったといわれています。

さて、終戦になったとき、二式大艇は、全タイプ合計167機以上生産されたうち、残っていたのは3機だけでしたが、そのうちの一機は移動中に不具合を起こして不時着し、島根県中海に海没処理されました。また別の一機の行方はよくわかっていませんが、ほかに残っていた機体同様、解体処理されたと思われます。

ただ、残る一機はアメリカに引き取られ、本土まで送られて性能確認試験が実施されたそうです。その試験飛行においては圧倒的な高性能を見せ、アメリカ側を驚かせたといい、米軍のある指揮官に「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と言わしめたといいます。

その後この機体は試験終了後、長らくバージニア州にあるノーフォーク海軍基地で厳重に保管されていたそうです。が、1959年(昭和34年)に一度返還話がもちあがりました。しかし、このときは日本へ輸送する良い手段が見つからなかったため、米海軍は合衆国内で永久保存の方針を日本側へ伝えたといいます。

しかし、その後、1978年(昭和53年)6月にアメリカ海軍の経費削減で保管終了が決定になり、「日本で引き取る」もしくは「スクラップ」を日本側で選択することになりました。その結果、今はもう営業をしていませんが、お台場にある「船の科学館」が引き取りを表明。この結果、1979年(昭和54年)に日本に返還されることになりました。

整備を経て1980年(昭和55年)7月から展示が開始され、その後も長らく野外展示されていましたが、2011年に船の科学館の休館が決まったことなどから、2004年(平成16年)からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館で保管されることとなり、現在もここで野外展示されているそうです。

前述のとおり、この優れた飛行艇に投入された技術は、その後これを製作した川西航空機の後身会社である新明和工業に受け継がれ、新明和はYS-11や飛行艇、PS-1、US-1などの傑作機を作り続けています。

現在、新明和工業の最新鋭機は、US-2という飛行艇ですが、防衛省は2011年、このUS-2について民間転用で必要となる技術情報を開示する方針を固め、これにより新明和は同機をインドやブルネイなどの諸外国への販売を計画するようになっています。

防衛省・自衛隊は、仕様が民間機と変わらないため武器輸出三原則には抵触しないと判断しており、また、武器輸出三原則の定義そのものが2011年12月27日に変更されたため、武器であっても特定の条件および取り決めを満たした国には輸出可能となりました。

それらのことや、この新明和工業が戦後に造りだした優れた飛行艇のことについても書いて行こうかと思いましたが、今日は例によってまた度をすぎた分量を書いてしまっているので、とりあえず、やめにしたいと思います。またの機会をご期待ください。

月見か月旅行か

だんだんと涼しくなってきました。

ここ伊豆での日中の最高気温は、ほとんど30度を上回ることもなくなり、我が家のあるこの山の上の夜間気温は22度程度まで下がります。

今日から一週間のちの来週の19日は、もう中秋の名月だそうで、これは「八月十五夜の月」といい、旧暦の8月15日から16日の夜にお月見をする風習です。

かつては8月14日~15日、16日~17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でていましたが、新暦に変わった今ではこれらは9月のことになりました。

平安時代頃には、仲秋の十五夜に月見の祭事が伝わると、貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しみながら歌を詠み、宴を催すのが流行ったそうです。

最近の日本でも、ちょっと前までは、月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めることなども行われていたようですが、現代社会ではもうそこまでやる家庭もほとんどないでしょう。

私も月見は好きですが、焼酎を飲みながらスルメをかじるのがもっぱらであり、団子などお供えしたことはありません。また、別に満月に限る必要はありません。月夜の晩に空を見上げながら酒を飲むのもまた風流です。

しかも、当たり前のことですが、満月はこの「十五夜の月」で終わりというわけではなく、旧暦の9月には、さらに「九月十三夜」というのがあり、これは八月十五夜の月に対して「後(のち)の月」と呼ばれます。このころには秋も更に深まり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を「豆名月」または「栗名月」とも呼ぶようです。

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」と呼んで縁起が悪い客として遊女らに嫌われたそうです。

遊女にしてみれば客にはできるだけたくさん来て欲しいものですが、最初の十五夜に来る客を歓迎したそうで、それは十五夜に誘われた相手は、遊女に嫌われたくないため、次の十三夜にも来る確率が高い、という理由だったようです。

更にお月見はこれで終わりではなく、旧暦の10月にはもう一度「十月十夜の月」というのもあり、これは、「中秋の名月」と「後の月」に対しては「三の月」ともいい、この夜にみる月はその年の収獲の終わりを告げるとされていたそうです。

現在では11月のことであり、この名月が終わればいよいよ冬支度ということで、今年ももう終わりか、という気分にそろそろなってくるころのことです。

この三度目のお月見を含め、年内にはまだあと3回もお月見ができるとなれば、一回くらいは雨にたたられてもいいか、という気にもなります。実際、9月には秋雨前線が残っていることもあり、来週のお月見が果たして実現できるかも微妙なところでしょう。

ま、来週月見酒が飲めなくても、そのあと二回まだ名月を見るチャンスが残っているというのは、なんというか安心感があります。長い人生、楽しみはたくさんあるに越したことはありません。

ところで、先日の新聞に、Googleが主宰する「Xプライズ」という財団が、民間による最初の月面無人探査を競うGoogle Lunar X Prize(GLXP)というコンテストを提唱しているという記事が載っていました。

この財団は、2004年にもAnsari X Prizeという賞を設けたコンテストを実施しており、これは民間初の有人宇宙飛行を競うというものでした。

このときには、世界中の各地から26チームが参加し、2004年10月4日に規定の条件を最初にクリアして高度100kmの有人宇宙飛行に初成功した、アメリカのスペースシップワン (SpaceShipOne) が賞金の1,000万ドルを見事に獲得しました。

この次なる目標としてXプライズ財団が提案したのが、上述のGLXPであり、民間が開発した無人探査機で月面を探査することを提案し、2007年9月にアメリカでコンテストがスタート。2015年12月31日が締め切り予定で行われ、規定の条件をクリアしたチームに最高賞金2000万ドルが与えられるそうです。

この優勝賞金2000万ドルは、2015年12月31日までに月面に純民間開発の無人探査機を着陸させ、着陸地点から500m以上走行し、指定された高解像度の画像、動画、データを地球に送信したチームに贈られます。

ただし、政府または国家主導の月面探査機が先に着陸した場合、賞金は1500万ドルに減額されるそうです。このほか、優勝チームの次に同様の指定ミッションを成功させた場合でも準優勝として500万ドルに贈られるといいます。

さらに、以下のミッションを達成したチームにそれぞれ特別賞金が加算されます。ただし、複数成功させた場合でも上限は400万ドルだそうです。

・アポロ計画で月面に残した機器を撮影する(賞金400万ドル)。
・アポロ計画以外の過去の宇宙開発で月面に残した痕跡を発見する(賞金100万ドル)。
・着陸地点から5000m以上走行する(賞金200万ドル)。
・月面の夜を乗り切る(月面は14日昼間が続いた後、14日間太陽が当たらない夜の期間になり温度は-170℃の厳しい環境になる。賞金200万ドル)。
・月面で水または氷を発見する(賞金400万ドル)。
・個性的な設計を行ったチーム(賞金100万ドル)。

既に世界中から参加を表明したチームが前回のAnsari X Prize のときと同じ26チームもあり、その国籍はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、デンマーク、ルーマニア、マレーシア、中国など様々ですが、各団体のバックボーンは、企業、大学などさまざまです。

日本からも唯一、White Label Spaceという日欧混合のチームが参加を表明しましたが、ランダー(月面探査車)の開発を担当していた欧州チームが撤退したため、現在は日本単独のチームとなり、今年の7月に「白兎」に由来する「ハクト」という名前にチーム名が変更されました。

新聞で私が読んだのはこの「ハクト」に関する記事であり、現在開発中の月面探査車の写真とともにその奮闘ぶりが記載されていました。ホームページを作り、さかんにスポンサーの募集や、新聞等メディアへの呼びかけを行っているようですが、2015年といえばあとたったの2年です。間に合うのでしょうか。

ま、もっとも、関係者たちは、実現しなかったとしても、その開発の過程で得るものは大きいと考えていらっしゃるようです。

ホームページにも、「宇宙ビジネスを飛躍的に活性化し、ワクワクする宇宙開発への道を切り拓きます。(中略)多くの人々が自分の想像の枠を取りはらい、 宇宙開発に限らず夢に向かって行動を起こすためのキッカケを与えることができると信じています。」と書かれています。

このチームも含め、世界各国のチームが、2015年の締切を前にして奮闘していることかと思いますが、果たして、2004年のスペースシップワンのように民間の団体が高いハードルを乗り越え、月探査を実現できるかどうか注目されるところです。

ところで、民間の団体ではなく、国家レベルの月探査計画はどうなっているかというと、まずアメリカは、ジョージ・W・ブッシュ大統領が2020年までに再び月に人類を送り込む計画を発表し、NASAにより「コンステレーション計画」というものを発表しましたが、結局予算の圧迫などを理由に中止されています。

アメリカの目標はその後火星のほうに向いており、当面は月面探査のほうへは行きそうにありません。

このほかでは、欧州宇宙機関 (ESA)、中国国家航天局 (CNSA) 、インド宇宙研究機関 (ISRO) などが一応、月探査計画を持っており、日本の宇宙航空研究開発機構 (JAXA)も計画があるようですが、アメリカのアポロ計画のように人を月に送り込む、というのはかなり遠い将来計画のようです。

ただ、中国は月面探査にかなり積極的な姿勢をとっており、近いうちに月面へ人を送り込み、ヘリウムの同位体であるヘリウム3の発掘を行って、将来的にはこれを地球に持ち帰り、エネルギー資源として用いることを狙っていると言われています。

日本ではLUNAR-AとSELENE(かぐや)の2つの無人探査計画がかつてあり、このうちの月探査計画LUNAR-Aでは「ペネトレータ」と呼ばれる槍状の探査機器を月面に打ち込み、月の内部構造を探る計画でしたが、5年前の2007年に計画中止が決まりました。

しかし、月探査周回衛星計画であるSELENEのほうは、月の起源と進化の解明のためのデータを取得することを目的に2007年9月14日に実際に探査機が打ち上げられ、2009年6月11日まで月を周回してデータを集め、詳細な月のマップを完成させたのは記憶に新しいところです。

現在のところ、日本はこのSELENE 計画の後継として、SELENE-2(Selenological and Engineering Explorer-2、セレーネ2)という計画を持っており、これは2010年代半ばに月着陸探査機の打ち上げを実現しようとするものです。

SELENE計画で打ちあげられた月周回衛星が「かぐや」と呼ばれたことから、この月着陸探査機は「かぐや2」と称される予定のようです。

実は日本は、探査機を一度月に到着させており、これは「ひてん」という衛星でした。1992年1月に打ち上げられ、その後11回をも月に接近して観測を行った後、1993年4月10日に月のステヴィヌス・クレーターとフレネリウス・クレーターという二つのクレーターの間に衝突させ、計画は終了しました。

この衝突は意図的なものであり、当然「ひてん」はバラバラになってしまったため、月面からのデータなどは何も得られていません。が、この月突入の際に得られた技術は、この後打上げられた磁気圏観測衛星GEOTAIL(ジオテイル)や、火星探査機のぞみ、またかの有名な小惑星探査機「はやぶさ」等の運用に活かされました。

この「ひてん」の「月面着陸」は、いわば「硬着陸」でしたが、今度の「かぐや2」では、日本初の月面軟着陸が行われる計画であり、誤差100mという高精度での軟着陸を目指しているそうです。

この計画では、着陸機やここから放出されるローバー(月面探査車)による地質学的、惑星物理学的なその場観測を行い、月の表層や内部構造について調査を行う予定だといいます。

この探査車ですが、現在までのところ車輪使用型と無限軌道使用型(クローラまたはキャタピラーとも)の2つの候補が検討されていて、超音波モータを用いたマニピュレータや分光カメラ等が搭載される予定だといいます。JAXAの宇宙科学研究所のある、相模原市のキャンパスの一般公開日には、このモデル機が展示されることもあるそうです。

一方、つくば市にあるJAXAの研究開発本部でも別のローバーの開発が進められており、こちらは4つのクローラを装備した雪上車によく似た駆駆動系をもっています。ステンレス製の板バネをふんだんに使用することで軽量化に成功し、月面での低圧走行を可能としているといいます。

さらにはJAXAの宇宙科学研究所が明治大学や中央大学と共同で開発を進めているMicro5という5輪の小型探査車もあるそうで、これは、2分割の機体を持ち、5つの車輪によって十数cmの壁を乗り越えることが可能な高い走破性能を有しているといいます。

これら開発中の探査車のうちのどれが実際に月に行くのかはまだ決まっていないようですが、いずれにせよかなり開発は進んでいるようなので、その候補者が一般に公表されるのもそう遠くないでしょう。

一方、この探査ローバーを搭載する着陸機ですが、この着陸機自体にも観測装置が搭載されるということです。LUNAR-A計画はボツになりましたが、この計画が検討されていたときに開発された地震計を搭載し、「月震」などを観測する予定であるといい、月面の採掘による土壌調査も計画されているそうです。

このように、巷では日本は月探査計画とは無縁のように思われているようですが、計画だけは着々と進んでいます。

ただ、有人探査ということになると、かなりまだ先の話のようです。JAXAは2006年の「月周回衛星(SELENE)シンポジウム」において、2020年前後の有人月面着陸と、2030年前後の月面基地建設構想を明らかにしています。この月面基地は定員が2~3人で、居住棟、発電・蓄電システム、研究施設などから構成されるとしています。

しかし、2020年といえば先日東京オリンピックの開催が決まったばかりであり、この開催地の整備のために多額の資金が必要とされる中で、果たして実現が可能なものかどうか、あやしいところです。2030年のほうが現実的といったところでしょう。

アメリカは既にアポロ計画で月の有人探査を実現していますが、これに次いで最も早くに有人探査を実現させるのではないかといわれているのがロシアであり、ロシア連邦宇宙局は2007年8月、2025年までの有人月面着陸と、2028年~2032年の月面基地建設を柱とした長期計画を発表しました。

2028年といえば15年先です。私もかなり高齢になっているでしょうが、まだまだ達者なはずです。ロシアはこれまでも何人もの日本人を宇宙へ運んでいますから、もしかしたらこの月面探査のときに日本人宇宙飛行士が便乗するといったこともあるかもしれません。

そのころにまだ日本とロシアとの関係が友好的であったらという条件付きですが。

ただ、月の表面というのは、我々が考えている以上に過酷な環境のようです。宇宙線や太陽風なども大気や磁場にさえぎられることなく月面に到達するため、月面の有人探査や月面基地建設、月の植民に際しては、これらを阻止する必要があります。

また、大気や水(海)などの熱を対流させて均衡化するものがないため、月の一昼夜が長く、およそ29.5地球日、つまり約15日間昼が続き、その後夜が約15日間続きます。このため、表面温度は、赤道付近で最高およそ110℃、最低およそ-170℃となっており、温度の変化が大きいのが特徴です。

こうした月の表面に基地を作るのは容易ではありません。このため、月の「地下」にコロニーを建設し、放射線や微小隕石からの保護を得るのが有力な案と考えられています。

そのためには、居住棟を掘るための遠隔操作のボーリングマシンといったものが必要になり、また月の表面に存在する利用可能な資源からコンクリートのような物質を作り出すための特殊な硬化剤のようなものの開発が必要と考えられているようです。

掘る以外の手段としては、月に存在するかもしれない地下の枯れた巨大な溶岩洞が考えられているそうで、2009年に日本のかぐやが観測した月面データでは、その分析により、こうした基地に適した溶岩洞のような縦穴の存在が確認されているといいます。

その他にも、生命の維持のための水の確保、エネルギーの調達、輸送手段などなど問題は山積みですが、それらすべてがクリアーになるのはいったいいつのことやら。

現在、有人宇宙飛行で月に到達するだけでも莫大な費用がかかり、それに対する成果も少ないため、月探査は無人探査機を用いることが主流となっています。が、それでもやはり有人探査の方が成果は高いと考えられているようです。

その理由は、こうして苦労して作られる月面基地の建設によって、その有人探査を阻む問題が解決され、費用対効果が明らかになるためです。要するに作ってみて初めて色々な問題がわかり、そのためにかかる費用もわかり、費用がわかるからこそその将来も見えてくるというわけです。

また、月面に有人の基地があれば、月に関する詳細なデータを収集することができ、さらには他の惑星への有人探査の足がかりとすることもできる可能性があります。

さらに、月面基地が完成し本格的な稼働を始めれば、月への人類の移住の可能性も見えてきますし、それに伴う新たな資源採掘が進めば人類のエネルギー問題にも明るい兆しが見えくるでしょう。

また、月の重力は地球の約6分の1であるため、宇宙ステーションなどの無重量状態とはまた違った実験が出来る可能性があり、思いもよらないような発見により人類の科学技術は飛躍的に高まる可能性だってあるのです。

……といったところで、これらのことが実現するまでには私も、おそらくこれを読んでいる方々も生きてはいないでしょう。

すべては来世に生まれ変わったころのことでしょうし、しかも来世にまた再び地球に戻ってこれれば……の話です。

いっそのこと、地球になど生まれ変わらずに、別の星で次の一生を迎えれば、また別の面白い「宇宙体験」ができるかもしれません。そしてその世界は我々が現在「宇宙人」と考えている生物が住んでいる世界かもしれません。

そう考えると、苦労して宇宙旅行をしようとしている現在の人類の試みもなんだかちっぽけに思えてきました。宇宙は広い。月もまた、その宇宙のほんの一角にすぎない衛星です。

でも、中秋に見えるそんな丸い月は、宇宙一美しいものかもしれません。別の星に生まれかわったとき、ふとその前世で見た月のことを思い出し、あぁやっぱり地球の月のほうが美しかったと思うかも。

なので、生きている間は、この星の月見をせいぜい楽しむことにしましょう。さて、今年の月見にはどんな酒を飲もうかしら。今から楽しみです。

7年後……


東京オリンピックの開催が決まりました。

ひねくれ者の私ですら、喜んでいるくらいですから、おそらくは、国民の大多数が喜んでいると思います。が、大震災と津波の大被害にあった東北地方では、これから急ピッチで始まるであろう東京でのインフラ整備によって、復興の歩みが遅れるのではないかという懸念が広がっているようです。

福島原発の問題もまだ解決されていない中、いつまでも浮かれていてはいけません。東北の復興があってこそ、楽しく迎えられるオリンピックだと思います。

それにしても、これからの7年間、東北の復興に加えてオリンピックという新たな課題を抱えた日本はいったいどこへ行くのでしょうか。

おそらくは東北の再整備と東京での新規基盤づくりで、ありとあらゆるものが新しくなり、そうした「建設」をキーワードとした一時代になっていくに違いありません。東京オリンピックが開催される2020年までにはいろんな事業が加速していき、直前までそのバタバタは続くに違いありません。

そこで、ちょっと気になり、1964年にはオリンピックの直前までにどんなことがあったのだろうかを調べてみることにしました。以下は、必ずしも「建設」にこだわらず、その時代を反映したものを、私なりに抽出してみたものです。

1月
・森永製菓が日本初の高級チョコレート「ハイクラウン」を発売し、大ヒット商品となる。
・日本政府、公共料金値上げの1年間凍結を発表(景気高揚のため?)。
・第9回冬季オリンピック・インスブルック大会(オーストリア)開幕。
・連続殺人犯西口彰を逮捕(「復讐するは我にあり」で有名。5人を殺傷し、のち死刑)

2月
・ビートルズが初訪米(初来日は2年後の1966年)。
・日本国有鉄道で、新幹線以外の列車指定席のコンピュータでの予約が可能となる。

3月
・花王石鹸が「花王スターチ」を発売(2年後に「キーピング」に改称)。
・本田技研工業が「S600」を発売。
・早川電機(現 シャープ)が、日本初の電卓、世界初のオールトランジスタ・ダイオードの電卓(電子式卓上計算機)を発表(レジ並の大きさで重量25kg。価格は自動車並み)
・ライシャワー米大使が日本人少年に刺され負傷(ライシャワー事件)。

4月
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き。
・IBM、汎用コンピューター「System/360」を発表。
・東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が開局。
・富士航空ら3社が合併して、日本国内航空(のちの日本エアシステム)を設立。
・東洋工業が「ファミリア」ワゴンを発売して好評(10月には4ドアセダンも発売)
・週刊誌「平凡パンチ」が創刊。

5月
・ライオン歯磨が「デンター」を発売。
・東京都世田谷区で竜巻が発生。家屋450戸以上が被害を受ける。
・富士スバルライン開通。
・パレスチナ解放機構 (PLO) 設立。

6月
・三菱系3社の合併により三菱重工業発足。
・山形空港開港。
・太平洋横断海底ケーブル完成。池田勇人首相とリンドン・ジョンソン米大統領が初通話。

7月
・外務省、パスポート発給業務を都道府県に移管。
・「全国子供電話相談室」放送開始
・名神高速道路尼崎-栗東間開業。

8月
・大島空港開港。
・トンキン湾事件発生(北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦を攻撃。これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した)。
・東京・羽田に羽田東急ホテル開業(羽田エクセルホテル東急の前身)。
・俳優の高島忠夫の長男が家政婦に殺害される(「高島忠夫長男殺害事件」)。
・営団地下鉄日比谷線全線開業。
・日本人初のメジャーリーガー誕生(サンフランシスコ・ジャイアンツの村上雅則)。

9月
・ホテルニューオータニ、東京プリンスホテル開業。
・アジアで初となる国際通貨基金及び世界銀行総会が東京で開催される。
・道路交通に関するジュネーブ条約に加盟、日本人の国際運転免許証の利用が可能となる。
・福岡県粕屋町で自衛隊のヘリが墜落、愛知県犬山市上空で航空自衛隊の戦闘機が衝突、埼玉県岩槻市で、航空自衛隊リコが墜落するなど自衛隊機の墜落相次ぐ。述べ14人死亡。
・気象庁富士山レーダー完成。
・東京モノレール開業(片道250円)。
・大阪市営地下鉄御堂筋線の新大阪駅 – 梅田駅間が開業。

10月
・東海道新幹線開業(東京~新大阪間。運賃はひかり2480円、こだま2280円)。
・伊豆スカイライン開通(1日)。
・日本武道館開館(3日)。
・九州やまなみハイウェイ開通(4日)。
・第18回夏季オリンピック(東京オリンピック)開催、開会式(10日、24日閉会)。
・コスイギンがソ連閣僚会議議長、ソビエト連邦共産党第1書記にはブレジネフが就任
・池田勇人首相、東京オリンピック閉会式の翌日に退陣を表明。

11月
・公明党が正式発足。
・アメリカ合衆国大統領選挙で、民主党のリンドン・ジョンソン大統領が再選される。
・仙台空港開港。
・東京パラリンピック開催(8日)。
・自由民主党第5代総裁に佐藤榮作が指名され、首班指名を経て佐藤政権発足。
・アメリカ、火星探査のためにマリナー4号を打ち上げる。

12月
・東京都立駒沢オリンピック公園開園
・帯広空港開港。
・世界貿易センタービルディング設立(浜松町)。

こうしてみると、1964年というのは、年明け早々から結構重要事件の多い年であり、連続殺人犯の逮捕や、高島忠夫長男殺害事件、相次ぐ自衛隊機の墜落や竜巻などの災害など暗い事件もそれなりに多かったようです。

その一方で、その後の高度成長時代の先駆けを思わせるような新しい時代の工業製品の発売も相次いでおり、この時代を代表する新鋭の自動車や電卓などの発売が相次ぎ、ようやく戦後の復興が軌道に乗った感があり、国民の誰もがその足取りの軽快さを感じ始めていたことでしょう。

ただ、海外に目を向けると、アメリカは泥沼のベトナム戦争へと突入し、ソ連ではブレジネフが登場するなど、両国は冷戦時代へと確実に足を向けはじめています。

そんな中で、日本人の海外観光渡航自由化となり、これを受けてパスポート発給業務が都道府県に移管されたり、国際運転免許証の利用が可能になったりと、戦後になって日本人がようやく海外へ飛び立とうとする機運も高まり始めています。オリンピックの開催は日本人の国際化にさらに拍車をかける出来事だったでしょう。

冒頭で述べた「建設」についても、直前になって東急ホテルやニューオータニ、プリンスといったホテルが開設され、各地で地下鉄やモノレール、高速道路の開通のほか、外国からの観光客を見越してか、「伊豆スカイライン」や「やまなみハイウェイ」などといった観光道路も開通しています。

しかし、やはり大きかったのは東海道新幹線の開業でしょう。この開通によって、いよいよオリンピックの準備が整い、あとは待つだけ、という気分になったに違いありません。

ちなみに私はこのころまだ小学校へ入学前であり、オリンピックをテレビで見たかどうかも記憶が定かではありません。

調べてみるとこのころまだカラーテレビは一般化していませんでしたが(1967年から放映開始)、白黒テレビの普及率は90%近くになっており、建設省で電気関係の仕事をしていた父のことですから、おそらくは早々とテレビを入手していたはずです。

そこでさらに調べてみると、この年にはNHKの「ひょっこりひょうたん島」の放映が始まっており(1964年4月6日~1969年4月4日まで)、このほかにもテレビアニメとしては、「0戦はやと(1月)」「少年忍者風のフジ丸(6月)」などが次々と放映開始され、また8月には手塚治虫原作の「ビッグX」の放映も始まっています。

このほかにも「忍者部隊月光」なんてのも放映されており、これらの番組はいつも毎回欠かさず見ていたことは覚えていますから、オリンピックもおそらくは見ていたはずです。

さらにこの年のNHK大河ドラマは、「赤穂浪士」であり主演は長谷川一夫とあって、きっと高い、視聴率を得ていたことでしょう。このほか「木島則夫モーニングショー」などが人気があったようで、現在も放映されている「ミュージックフェア」(フジテレビ)などもこの時すでに放送されていました。

こうした大人向けの番組もなんとなく見たことがあるような気がするのに、オリンピックの放送だけははっきりと見たような記憶がないのは、ひとえにこうしたスポーツ競技にはあまり興味を持っていなかったということなのでしょう。

考えてみれば、大の大人が走ったり跳んだりするようなものを、小学生にもなっていない私が面白がってみるわけはなく、おそらくは興味を持って見ていたとすれば、華々しい開会式ぐらいだったのではないかと思われます。

そういえば、延々と大名行列のごとく各国の選手団が国立競技場に入場してくる様子をテレビで見たような気がしてきました。後年の記録放送を見たのを思い出しているにすぎないのかもしれませんが。

が、悲しいかな、ほかの本番の競技ではどんなシーンがあったかなどもほとんど思いだせず、この当時に記録されたバレーボールの試合映像などを最近になってみて、あぁそういえば東洋の魔女ってあんなだったかな~とおぼろげながらな記憶を辿る始末です。

おそらく私と同世代の人達もまた似たりよったりでしょう。ちなみに同い年のタエさんにもそのことを聞いてみましたが、彼女もまったくといっていいほど覚えていませんでした。

ちなみに、この年には、1月にオーストリアのインスブルックで冬季オリンピック開催されており、この様子もテレビで放映されていたはずですが、これに至っては、まるで私の記憶からは抜け落ちています。

このオリンピックでは日本は一つもメダルをとっておらず、前評判も低かったためにもしかしたら放映すらされなかったのかも、とも思いましたが、無論そんなわけはありません。

調べてみると、このときには、早稲田大学1年生の福原美和選手が、フィギアスケートシングルで5位に入賞したのと、同じく大学生で明治大学に所属していた21歳の鈴木恵一選手も500mスピードスケートで5位に入ったのが最高位だったようです。

ちなみに後年の金メダリストの笠谷幸生選手はこのとき明治大学在学中の20歳であり、90m級ジャンプで11位に入っていますが、日本のジャンプ陣ではこれが最高位でした。

このほか、野球では日本シリーズで南海ホークスが優勝し、大相撲では初場所と、秋場所、九州場所で大鵬幸喜関が優勝するなど、大活躍をしており、競馬ではシンザンが史上2頭目の三冠馬を達成しています。

残念ながら力道山はこの年の前年の暮れに喧嘩沙汰から刺殺されて亡くなっていましたが、これに代わってジャイアント馬場やアントニオ猪木が台頭し始め、テレビを賑やかせていました。

このプロレスは父が好きだったためか、私も釣られてよく見ていたような記憶があるのですが、いかんせん、ほかのスポーツについてはほとんど記憶がなく、何度も言うようですがようするにオリンピックも含めて興味がなかったのでしょう。

さらにちなみに、ですが、この1964年には石森章太郎の「サイボーグ009」が週刊少年キングで連載開始されており、また藤子不二雄の「オバケのQ太郎」も週刊少年サンデーで連載が始まっていて、このほか週刊少年マガジンとも併せ、私もよく漫画を読んでいました。

スポーツなどよりもこうしたもののほうがよっぽど面白かったのでしょう。子供向けの映画としても「モスラ対ゴジラ」「宇宙大怪獣ドゴラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」などがこの年に封切られており、モスラ対……は見に行った覚えがあります。

さらに、歌謡曲としては、美空ひばりの「柔」や坂本九の「明日があるさ」、村田英雄の「皆の衆」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」、ペギー葉山「学生時代」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、園まり「何も云わないで」などなどがこの年のヒット曲です。

これらの曲の中には今でも歌詞を諳んじられるものもありますから、こうした歌手が出る歌番組もよく見ていたに違いありません。西田佐知子の「東京ブルース」なども流行り、この年は、タイトルに “東京” のつく楽曲が目立ったといい、これは東京オリンピックと無関係ではないでしょう。

こうしたことを書き連ねていると、不思議なことにこの当時のことがあざあざと蘇ってくるから不思議です。関連して、あそこで遊んだとか、どこへ行った、連れて行ってもらったはずだ、といったことも思い出され、まるで記憶の玉手箱のようです。

おそらくは私と同年代以上の方も同じではないでしょうか。


……さて、7年後です。この世がどうなっているかについては、想像がなかなか難しいところですが、これらの記憶を呼び覚ましてくれるのは、やはりこの当時既にあったテレビのおかげにほかなりません。

そこで、今後このテレビがどういう風に進化していくのか、について調べてみることにしました。

これについては、いろんな観測があるようですが、プレイステーション生みの親で、ソニー・コンピュータエンタテインメントの名誉会長だった久夛良木健(くたらぎけん)さんなどは、「みんなが想像するような“未来のテレビ”は、近い将来に実現できる」と語っています。

氏によれば、テレビはその配信先の端末の解像度や環境、ユーザーニーズに合わせ、超高精細な画像から低解像度の画像まで自在にエンコードして配信できるようになり、「壁面いっぱいのテレビからクレジットカードのように小さな有機EL端末まで、ありとあらゆるものが動画のインタフェース、という時代になる」ということです。

さらにはテレビから「枠」がなくなるといいます。未来のテレビでは、さらに没入感のある映像を楽しみたいという要望が増え、テレビが壁と一体化するようになるかもしれないとのことで、これを実現するための多視点からの映像撮影の実験はソニーなどではすでに行われているということです。

この技術を使えば、例えばサッカースタジアムにカメラを並べ、シュートの瞬間は、ゴール周辺のカメラからの映像をつなげて臨場感ある映像を楽しめるといったことも実現できるそうで、実験上は「夢の世界が、すでに実現している」といいます。

また、現在も既にパソコンとインターネットはつながっていますが、今後ネット上には、よりリッチな動画コンテンツが無限に増えていくと考えられます。

HD動画を撮影・ネット公開するハードルは現在よりもどんどん下がり、個人の気軽なホームビデオからプロ・セミプロの作品、放送局の制作した番組まで、あらゆる動画がネット上に蓄積され、こうしたものもテレビで自由に観れるようになるかもしれません。

映像の修復技術の研究も進んでおり、過去にVHSや8ミリビデオなどで保存しておいた古い映像をネットに上げ、修復・高画質化して保存するといったことも可能になってくるかもしれないといいます。

そうして世界中のあらゆる動画がネットに載り、動画の“クラウド化”が進んでさまざまなハードから閲覧でき、テキスト検索するように動画を検索できる時代が来るかもしれず、このころにはもしかしたら、テレビとコンピュータは完全に一体化し、現在でいう「テレビ」という概念はなくなっているかもしれません。

最終的にはワイヤレス化でケーブルがなくなり、脳波などでこうした「テレビ」を思った通りに操作できるようになる時代がくるかもしれず、リモコンがなくなり、本体は壁に埋め込まれて壁と同化しているかもしれず、「壁」になった未来のテレビはフレームがなく、壁全体がディスプレイになっているでしょう。

ただ、わずか7年先の時代にそこまで完成された技術があるかどうかはよくわかりません。日本でのテレビの普及率は現在97%を超えているそうなので、この現在のテレビの形態そのものが消滅しているということもまず考えにくいでしょう。

が、壁と一体化したテレビで大迫力の東京オリンピックを見ている家庭……というのは案外と多数あるかもしれません。

とはいえ、生きているうちにもう一度オリンピックを見る機会ができるわけですから、私もそうですが、もし可能ならば次回の東京オリンピックはじかに見てみたい、誰もがそう思うでしょう。

伊豆には2011年に完成したばかりの「伊豆ベロドローム」という立派な自転車競技用のトラックがあるので、もしかしたら東京オリンピックの室内自転車競技もここで行われるのでは……と期待していたのですが、どうもここでの開催はないようです。

はっきりしたことはまだ決まっていないようですが、自転車競技用のベロドロームは、東京オリンピックの関連施設が集中する東京都江東区有明に、木製自転車トラックと5000人収容のスタンドを備えた仮設のものを建設して開催する予定だそうです。

あくまで「仮設」なので大会終了後は、木製資材のリユースや、施設の移設を検討しているといい、仮設施設の工事費は、BMX会場とあわせて計65億円ほどだとか。

伊豆のベロドロームの建設費用が30億円程度だったといいますから、その倍以上かかるのは、ケイリン種目以外のBMXなどの競技も行うことを念頭に置かれているためでしょう。

せっかく、東京にも近い伊豆ですから、ここにそうした施設を現在の伊豆ベロドロームの隣にでも増設すればいいのに……と思うのですが、コンパクトな競技運営を売りにして勝ち取った開催ですから、さすがにそういうわけにはいかないのかもしれません。

ま、伊豆に来ないならば、こちらから見に行くしかありませんが、各種競技のチケットは今からもうかなり入手が困難だろうといわれているようなので、直接見ることのできる競技といえば、マラソンぐらいになってしまうのかもしれません。

だとすれば、高い費用を払って東京へ行くよりは、臨場感あふれる未来型テレビを買って自宅でオリンピックを見るほうが現実的かも……

まぁそれよりもまず、7年後まで生き延びることが大事です。たぶん生きているとは思うのですが、何があるかもわかりません。せいぜい現在の健康を保つことにしましょう。

皆さんも体に気を付けて7年後をお迎えください。