方言、それとも言語?

2014-1090906昨今のニュースネタでのトップは、やはりSTAP細胞なるものの真偽を巡っての一若手研究者と理化学研究所との攻防劇でしょう。

イギリスの科学雑誌、ネイチャーに投稿されたこの研究者の論文には、たくさんの共同研究者の名前が掲載されていたようですが、その中にはこの女性研究者の恩師の名前もあり、理化学研究所のナンバー2でもあるこの人の記者会見も数日前にあったばかりです。

私もかつて、アメリカの学会などに恩師とともに論文を提出したりしていたことがあるのでなんとなくわかるのですが、こういう論文を出すときにはこうした先輩研究者は、弟子である主執筆者が書いたその論文の中身について、それほど細かい部分まではチェックしません。

その理由は、そうした先輩研究者が後輩に名前を貸す、といったら過言かもしれませんが、自分が育てた研究者に敬意を払ってのことでもあり、自分がその論文に名を連ねるというのは、ある程度はその研究者を認めた、ということを表明する意味もあるためでしょう。

手塩をかけて育てた弟子が、世に出ていくときに、その手助けをしてやろう、という親心のようなもので、そういう面もあってやはりチェックは甘くなりがちです。

だからといって弟子のほうにも甘えがあってもいいということにはならず、認めてもらった以上は、御師の業績を汚さないように一生懸命良いものを出すべきなのでしょうが、この女性研究者にはそうした配慮がどこか足りなかったのではないか、と思えます。

こうした師弟関係において共同研究をする場合には、阿吽とまではいかずとも、それなりに「空気を読む」ということが大事なわけですが、しかしその空気についても明文化されるはずもなく、お互いが「なんとなく」察している、といった雰囲気の中で分かり合っているものであることが多いように思います。

なので、いってみれば不文律のローカルルールのようなものが、くだんの研究所内の研究者たちの間にもあって、そうしたあいまいさが今回の事件の根幹にあり、それが問題を難しくしているような気がしてなりません。

こうしたローカルルールというのは、一般家庭の中にもあって、例えば家族間の会話ひとつにしても、他の家庭では決して使われないような言葉を知らず知らずのうちに使っていたりします。

例えば、ウチの嫁のタエさんがよく「パイする」と口にするのですが、これはどうやら、「捨ててしまう」という意味のようで、彼女が育った家庭では、彼女のお母さんが普通にこれを使っていたとのことで、私と結婚して一緒に暮らすようになっても、彼女にとっては自然に口から出るようです。

無論、広島弁にはないことばで、他県にもない非常に限定的な言葉なのですが、長い間使っているうちには、自分でも標準語だと思い込むようになっていくものなのでしょう。

このほか、私が育った家では、「じらを言う」というのがあり、これは駄々をこねる、というほどの意味なのですが、同じ広島育ちのタエさんにこれを言ったところ、さっぱり通じず、何それ?と言われてしまいました。

エッ!?これって広島弁じゃないの? とそこで初めて気がついたわけですが、私は彼女と結婚するまで50年以上もの間、これを多くの広島の人がごく普通に使う言葉だと思っていました。

ところが、これは山口にしかない言葉のようで、山口で生まれ育った母親がやはり自分の家庭で普通に使っていたものを私が聞き覚えたもののようです。考えてみれば、こうした言葉は学校で友達同士使うことはほとんどなく、家に帰ったあと、何等かのわがままを言ったりやったりしたときぐらいしか、母親が口にしなかったことなどを思い出しました。

ローカルな家庭でしか使われない言語が、そこに暮らす住人にとっては標準語になっていく、という典型であり、こうした例はタエさんや私の家庭ばかりではなく、ほかの家でもよくあることではないか、と思います。

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すなわちこれは、いわゆる「方言」というヤツであり、ある一定の地域でのみ通用する口頭言語のことです。

文字言語がほぼ共通している地域内で、文法は同じであっても単語や発音・アクセント・イントネーションが異なる地方の言語をさし、地域人口の集中程度により同一方言が形成されます。

しかし、この地域に隣接地域から人の出入りが多く、異なる地域の言語が交錯し始めると、次第にその他地域も含んで、その方言全体が変容していくとともに、その方言を話す地域も拡大していきます。

ただし、その地域間が山や川といった自然条件、あるいはある規律によって定められた境界などによって分断されると、それぞれ離れた地域間ではほとんど会話が通じないことになってしまいます。

それにしても、そもそもいつから「方言」と言うようになったか、について調べてみたところ、日本においては、820年頃成立の「東大寺諷誦文稿」に既にこの方言という言葉が出てくるようです。

「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」といった記述があるそうで、これが国内文献で初めて用いられた「方言」だということです。そんなに古い時代から、既に方言という概念が存在していたことになり、古代日本においても地方毎に違う言葉が話されていたことが想像されます。

しかし、言語は変化しやすいものなので、地域ごと、話者の集団ごとに必然的に多様化していく傾向があり、日本においても発音や語彙、文法に至るまで微妙な相違が生じるようになりました。とはいえ、その違いが全く別の言語と認められるほどには異ならず、同じ言語の変種と認められる程度のものが方言と呼ばれます。

ただし、同一国家内にあっても、社会階層や民族の違いなどによって、同じ言語といえどもでもまったく異なる話し言葉になり、ひいてはそれぞれの言語がひとつの国を形成することもあるようです。

例えば、旧ユーゴスラビアのセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ地方などでは、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語といった言語が話されてきましたが、これらの言語は、異なる民族が使ってきた言語です。

それぞれ、表記体系・文法・規範的な語彙に違いがあってもお互いに非常に近く、第二次対戦後の旧ユーゴスラビアにおいては「セルボクロアチア語」という1つの言語だとされていました。

しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在、それぞれの国家・民族でセルボクロアチア語はセルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると再び主張されるようになっています。こうなると、もう「方言」というよりもむしろ、違う「言語」、というべきなのでしょう。

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しかしそれでは、方言と言語は、何が違うのでしょうか。何を基準にして方言といい、どこからが言語になるのかについては非常にあいまいな気がします。

一般には、方言同士が時を経てそれぞれ異なる方向に変化していくと、やがては意思の疎通ができなくなるほど別モノになっていき、そうした過程のある段階で各々の方言は別言語だとみなされるようになっていくようです。

理論上は、同じ「語族」に属する言語でも、その方言がさらに変化して別言語に枝分かれたものはもう全く別の言語のようになってしまうことも多く、一般的な感覚ではしばしば「お互いに意思の疎通が可能」であることが方言か別言語かの基準とされるようです。

しかし、言語学的にみると、「同語族の共通言語」と、この同語族内で話される「共通言語の中の方言」を区別する明確な基準はないそうで、こうした学問の世界でも言語と方言の違いは曖昧で、ジャッジがしづらいもののようです。

中には、同じ語族とされている中においても、隣接する地域同士ではそれぞれ意思疎通ができるのに、数地域隔たると全く意思疎通ができなくなる、といった特殊ケースもあるそうです。

また、国境の有無や、友好国同士か敵対国同士かというような政治的・歴史的な条件や、そもそもそうした言葉を表記する文法や文字のようなものがあるのかないのか、文法や文字がないようなものを果たして言語と呼べるのかどうか、といった議論もあり、こと「言語」といった場合の例外はいくらでもありそうです。

このため、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問に対しては、明確な答を出せる研究者はいないといわれています。

ただ、「言語」と「方言」に境界線を引くための指標としてしばしば引用されるのは、「言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである」ということです。これは、自分たちが話す言葉がはたして「方言」であるか、それとも独立した「言語」であるかについては、その言葉を使う共同体が独立国家として軍隊を持つか否かで決まるという意味です。

独立国家であるならば、当然のことながら他国との争いがあった場合に、自国を守る軍隊を持っている必要があり、そうした政治的・軍事的な要因に支配されている国家が使っている言葉が言語である、というわけです。

しかし、上の旧ユーゴラビアの例のように、実際にはひとつの独立国家であっても、多民族で構成されている国では異なる言語が存在するのは当たり前であり、こうした、軍事的なものが言語を規定するのだ、という主張は必ずしも正当性を持つものではありません。

また軍隊を持っているある一つの国の言語が、ほかには存在しないか、といえばそんなことはなく、英語やスペイン語は、それぞれ独立した多数の別々の国々で話されています。

英語はイギリスで用いられるものとアメリカ合衆国のものとで細部が異なり、前者はBritish English、後者はAmerican Englishと呼ばれるほか、インド英語は、Inglish、シンガポール英語はSinglishといわれます。

しかし、英語は万国共通の公用語だとよく言われますが、同じ英語を話す別国人同士が会話するときに、まったくといっていいほど通じないことも多いようです。

例えばイギリス北部訛を持つイギリス人とアメリカ南部訛を持つアメリカ人の会話は成り立たず、ほとんど異星人と話しているような状態になってしまいます。が、それでも英語を共通語として意思疎通を図る国々は多いものです。

このほか、インドネシアを例にあげると、この国の言語はインドネシア語が標準語とされています。ところが、インドネシア語というのは、マレーシアの公用語であるマレー語の方言を基盤に整備されたものです。

このためインドネシア語、マレー語というと別の言葉のように思われているかもしれませんが、この両者の共通性は元々非常に高く、正書法(言語を文字で正しく記述する際のルールの)もほぼ同一で、この二国語での会話もある程度可能だといいます。しかし、一般的には両言語は別言語として扱われています。

また、インドの公用語であるヒンディー語とパキスタンの公用語であるウルドゥー語は、両国が同一のムガル帝国のころは同じ言語(ヒンドゥースターニー語)でしたが、インドとパキスタンの分裂により別の言語とされました。

その後はイスラム教徒の多いパキスタンがこれにペルシア語やアラビア語の単語や文字を取り入れるとともに、仏教徒の多いインドでは逆にヒンディー語からイスラムの影響を排し、サンスクリット語を代わりに取り入れ、インド化をおこなうなどしました。

こうして、インドとパキスタンそれぞれで話される言語は現在は全く違う言語になってしまいましたが、それでも現在でも、それぞれの言語を使いながらも両者の意思疎通はある程度可能だといいます。

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国が違っていても、言葉が通じる例は、ドイツとオランダの間にもあります。ドイツ語は北部方言と、標準語とされる南部方言があり、これはお互いに通じないほど違うそうですが、どちらもドイツ語を構成する方言とされています。

他方、このドイツ語北部方言はオランダ語ときわめて近い関係にあります。しかし、オランダ側では、このドイツ北部方言をとくにオランダ語の方言とみなしていません。にもかかわらず、このドイツ語北部方言を話すドイツ人と、オランダ語の標準語を話すオランダ人との会話は普通に成立するそうです。

それぞれ別言語とされ、別国人なのに会話ができ、その一方でドイツ国内ではドイツ語北部方言を話す人とドイツ語南部方言を話す人とは会話が困難である、という我々からみるとさっぱり理解できない、奇妙なことになっています。

とはいえ、似たようなことは、中国と日本の間においても言え、日本人が使う漢字はもともと中国から入ってきたということは誰でも知っています。が、二国人間でそれぞれの母国語を使った会話はまったく通じません。

しかし、漢字を使った筆談ならばある程度の意思疎通はでき、漢詩の作り方などを学校でも教えていた明治時代には、日本人も文字を使えば、普通に中国人と会話ができたそうです。

一方、現在の中国国内の言語系体は、とくに発音においてヨーロッパ各国間の公用語ほどの違いがあるそうで、さらに表意文字である漢字にもかなりのバリエーションが存在するため、意思疎通が困難な場合も多いといいます。

ただ、同系の標準語が定められていて、これを共通語・補助語的に使うことで、意思疎通を図ることが可能です。

さて、我が日本国内を見てみると、やはり地方訛は存在します。とくに沖縄県や鹿児島県奄美群島の言語は、地理的、歴史的要因から本土の日本語とは差異が著しく、日本語というよりも「琉球語」として、日本語とは別言語とされることも多いようです。

しかし、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあるものの、独立言語として見た場合、日本語と系統が同じ唯一の言語と見なされるため、琉球語を話す人達は、日本と琉球を合わせて「日琉語族」と呼ばれています。

また、琉球語を日本語の一方言とする立場からは、これは「琉球方言」または「南島方言」と呼ばれていますが、逆に沖縄の人の中には、日本語は琉球方言と本土方言の2つに大きく分類できる、と言っている人もいるようです。

しかし、沖縄の人は普段使いではこの琉球語をしゃべる一方で、本土の人が来たときには、標準語(に近いことば)でしゃべってくれるため、中国のように意志疎通ができない、といったことはありません。

これは、一個の政府のもとに統一された日本では明治時代以降、中央集権国家を目指したため、沖縄においても学校教育や軍の中で標準語化が押し進められたためです。

1888年に設立された国語伝習所の趣旨には「国語は、国体を鞏固にするものなり、何となれば、国語は、邦語と共に存亡し、邦語と共に盛蓑するものなればなり」とまで書かれ、また富国強兵を進めようとした明治政府は、全国で軍部での標準語化の推進を強く推し進めました。

軍隊では、異なる地方の者同士が集まる場であり、戦場においてはこの方言の差異のために命令が取り違えられた場合には、死活問題にも発展する恐れがあったためで、このことから、方言を話すことを禁じる政策がとられました。

国会答弁などで、政治家がよく、国会答弁などで、「●●であります」と言ったりしますが、これはこの当時の軍隊の標準語化のなごりで、山口弁の丁寧表現の「~であります」からきています。

日本陸軍の創設者ともいわれる長州人の山縣有朋が導入したとものともいわれ、明治初期に軍隊用語の丁寧表現に導入された結果、やがては共通語としても使われるようになっていきました。

現在普通に使われる、~であります、は、どちらかといえば平坦なトーンですが、山口弁のありますは、ありますの「あ」の部分を強く発音されることもあり、このあたりが標準語とちょっと違います。

現在でも山口県のほぼ県全域で盛んに使われますが、県北部や西部の豊関方言、南部の宇部の方面ではあまり使われず、もっぱら山口市などの中央部のことばです。

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明治期、山縣有朋に代表されるような長州閥の多くは陸軍や警察の創設に深く関わったため、軍や警察などでこうした格式ばった表現が取りいれられたようになった結果ですが、このほかの国家統制組織においても、方言は徹底的に弾圧されました。

このため、方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になっていきました。ただし、だからといって明治時代に、方言追放を徹底できたとは言い難く、軍・政府の重鎮であった、米内光政などは、終生南部訛りが抜けなかったそうです。

がこれは、米内は長州閥の多かった陸軍の所属ではなく、薩摩や旧幕府方の藩出身者の多い海軍の人であり、彼自身も幕末に新政府と敵対した盛岡藩の出身であり、陸軍のみならず海軍までこうした長州言葉が蔓延することをあまり良く思っていなかったためでしょう。

とまれ、こうした軍部での方言の矯正を主として言葉の統一が求められるようになると、東京方言を基に標準語を確立し普及させようとする動きが起りました。

同時に、方言を排除しようとする動きが強まり、標準語こそが正しい日本語であり、方言は矯正されなければならない「悪い言葉」「恥ずかしい言葉」とみなされるようになっていきました。

昭和40年代頃まで、方言撲滅を目的の一つとする標準語教育が各地の学校で行われ、なかには地域・家庭ぐるみで自発的に方言追放活動を推進するところもありました。

都会出身者の方言蔑視と地方出身者の方言コンプレックスが強固に形成され、方言にまつわるトラブルが殺人・傷害・自殺事件に発展することもあり、とりわけ集団就職などで国民の国内移動が活発化した高度経済成長期にはそういうことが多かったようです。

その後はさらに、テレビ・ラジオなどの普及もあって、こうしてほぼ全国的に標準語が浸透しました。

ただ、方言が全く無くなってしまったわけではなく、地方へ行けばやはりその地方の言葉が話され続けており、公的な場ではこれを標準語に戻す、といった形で標準語との共存が図られています。

現代の方言分布は、江戸時代の藩の領域に沿っているところが多く、特に津軽藩や仙台藩、薩摩藩など東北や九州は、東京や京都などの中央部から遠かったために、お国訛りがぬけきらず、この地方の人々の標準語はどうしても聞き取りづらいものになっているようです。

江戸時代の藩制では、藩の間の移動は制限され、藩が小さな国家のように機能していたため、どうしてもその国特有の訛が発生しました。江戸時代には方言を集めた書物も存在していたそうで、「物類称呼」(1775)という本などにも、東西方言の違いが記載されているそうです。

江戸時代の前半までは、江戸はまだ発展途上にあり、このため京阪神のほうがまだまだ賑やかで、京都方言が中央語の地位を占めていました。しかし、その後江戸の発展とともに江戸言葉の地位が次第に高まっていき、また江戸時代には上方の言葉が江戸に流入したため、江戸・東京方言は周辺の関東方言に比べてやや西日本的な方言になったといいます。

例えば、それまで江戸弁では「行くべ」と言っていたものが、「行こう」となったのもこのころで、やがて上方方言に対して江戸方言のほうがより優位な状態が固まっていき、明治時代になってからは、さらに東京方言を基に標準語を確立することになり、以後も標準語教育の過程で東京弁が標準語として定着していきました。

さらにテレビや映画などのマスメディアによる共通語の浸透、交通網の発達による都市圏の拡大、高等教育の一般化、全国的な核家族化や地域コミュニティの衰退による方言伝承の機会の減少などから、伝統的な方言は急速に失われるところとなり、各地の方言は衰退や変容を余儀なくされるようになりました。

各地のアクセントは多くの地域で保持されてはいるものの、特徴ある語彙などが世代を下るたびに失われていっており、このため、積極的に方言を守るための動きなどもあり、各地に方言の保存会が作られているほか、各種テレビ番組などでも地方の方言を持ち上げる演出が多くなってきているようです。

自分達の方言を見直そうという機運が各地で高まっており、例えば、その昔「おいでませ山口へ」というフレーズが全国的にも有名になったことがありました。

これ以降、方言を観光面で積極的な活用しようとする動きや、そもそも地元住民向けだったかなりローカルな商品やネーミングなどを、全国区に登場させるような風潮が生まれ、方言を用いた弁論大会、方言自体の商業利用の機会が増えました。

もとは地元ラジオ番組の一コーナーだった「今すぐ使える新潟弁」などは、CDとして全国発売されてヒットしたようで、このほか、東京出身のEAST END×YURIが出して1994年にヒットした「DA.YO.NE」に対して、大阪弁や北海道弁のほか、広島、博多、名古屋などの各方言バージョンが作られてヒットする、といったこともありました。

このほか、「大きな古時計」の秋田弁盤などもカバーされて発売されるなどのブームが続き、2000年代前半に入ってからは、とくに首都圏の若者の間で方言がブームとなり、方言を取り上げるバラエティー番組や仲間内で隠語的に使えるように方言を紹介する本が話題を集めています。

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また近年、日常の口語に近い文面を多用する電子メールやチャットなどの出現によって、これまで書き言葉とされることの少なかった方言が、パソコンや携帯電話で頻繁に入力されるようになり、これに対応して、ワープロソフトの一太郎などで有名なジャストシステムは、各地方方言の日本語入力システムを発売しています。

このように、伝統的な方言の衰退は進んではいるものの、一概に標準語の中に埋没しているわけではなく、語彙については共通語化が著しいものの、文法やアクセントの特徴は若年層を中心に保たれているといった現状があります。

とくに、沖縄では、1980年代後半以降、標準語に対する独自性が、沖縄県のサブカルチャー愛好家の若者たちの間で見直され、戦後の沖縄県独自の習慣や風物ともども再発見されるようになった結果、「ウチナーヤマトグチ」と呼ばれる、新しい日本語の方言がよく使われるようになっています。

沖縄県民が「方言」として認識する土着の琉球語とは異なり、語彙・文法は、標準語とほとんど変わらず、このため、本土の人間がウチナーヤマトグチを聞いても理解は可能です。琉球語とは異なり、県外の人も俗に「沖縄弁」と呼ぶときは、この言葉を指すようです。

これは第二次世界大戦後、標準語(ヤマトグチ)を使ったメディアの普及や、学校における標準語普及運動により、旧来の話者は次第に高齢者に限られ、土地の方言が分からない、もしくは聞けても話せない若者が増えたためであり、普及した新方言は元の方言の影響を強く受けつつも、伝統的な方言と標準語のどちらでもない新しい方言に化していきました。

1990年代には、ウチナーヤマトグチを使った劇団、お笑い、音楽などが沖縄県で流行し、2000年代には、沖縄県の食文化、ライフスタイルなどへの興味を中心とした新しい「沖縄ブーム」や、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のヒットなどもあって、この言葉のスローで優しい印象が全国で認識されるようになっています。

このように、沖縄で伝統的な方言でも共通語でもない言葉が流行するのと同調するかのように、「なまら」のように特定地域だけに広まる若者言葉も生まれており、これらは「新方言」と呼ばれています。これは、北海道の若い人の言葉で、たいそう、非常にという意味で、道内だけで使われている方言です。

このほかにも方言だと気付かれずに公的な場でも使われるようになっているものが増えており、これらの中から地方にとどまらず全国区として取り上げられ標準語になったものもあり、若い人を中心にこうした言葉を使う人が増えています。

例えば、「ごみステーション」というのはもともと、北海道や富山県東部において「ゴミ捨て場」の意味で呼ばれていたものです。これが、他地域ではカラスや猫などからの被害を防ぐために金網などで囲われたボックスケージをごみステーションというようになり、現在では全国的な用語になりました。

また、マクドナルドを指す、「マクド」は関西地方での略語として使われていたのが全国区になったもので、このほか、「モータープール」も主として大阪で駐車場を意味していた言葉が、全国でも使われるようになったものです。

ただ、全国区になりきらずに地方だけの新方言にとどまっているものも多く、「しれ/せれ」「食べれ」「やめれ」「掃除せれ」などは東北・越後・関東北部および九州北部にとどまっている例です。

地方によってはその新方言を、その地方の標準方言と信じ切っているケースも多いようで、熊本の若者が標準の熊本弁だと思っている「死にかぶる」というのは、難儀な目に遭うという意味の新方言です。

このほか、中国地方のテンパール(住宅用ブレーカ)、千葉県のパンザマスト(防災行政無線で児童の帰宅を促す放送)はそれぞれ商品名などから来ており、北海道のサビオ、富山県でのキズバン、熊本県および周辺地域でのリバテープ、佐賀県・長崎県などでのカットバンはいずれも「絆創膏」を表す新方言として使用されています。

笑ってしまうものも多く、福井県で、テレビ放送終了後のいわゆる「砂嵐」画面を表現する言葉は「じゃみじゃみ」というそうで、仙台弁でジャスといえばジャージーの意味で、これは甲州弁になるとジャッシーというそうです。

一方では、こうした新方言を使う側もこれを共通語ではないことを意識して使っている場合もあり、若年層では方言コンプレックスも薄れつつあってこうした新方言を頻繁に使うようになり、これらが逆に東京の言葉に影響を与え、いわゆる「若者言葉」にもなったものも多数あるようです。

改まった場面では使われることはなく、くだけた場面でしか使われませんが、こうした新方言の登場により、方言自体は失われるというよりもむしろ安定期に入った、と見る向きもあるようで、これからの日本語はこうした新方言や若者言葉によって席巻されていくのかもしれません。

ウチのタエさんがよく口にする「パイする」もやがては、この伊豆地方で流行り、全国区に登場するやもしれませんが、そのためにはこのブログを読む人が更に増えなくてはなりません。

今日このブログを読んだあなたも今日からゴミにすることを、パイする、と呼んでみていただく、というのはいかがなものでしょうか。
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1981

2014-1090697昨日の日経新聞夕刊のコラムで、桜が終わると、とたんに初夏の気分になる、とある大学の先生が書いておられましたが、そのとおりで、まだまだ八重桜はこれからではあるものの、花が散り去ったソメイヨシノや河津桜の枝々はみな、黄緑に変わりつつあります。

が、おそらくここ伊豆より北の河口湖や山中湖周辺では、まだまだソメイヨシノが咲き始めているか満開のはずなので、今週末から来週にかけてでも、ちょっと遠出をしようかと考えはじめているところです。

ただ、今年はもう既にこれでもかというほどサクラを見る機会が多かったので、今週は少し中休みしたい気分で、昨日も夜遅くまでだらだらとBS放送の映画を見たりしていました。

見ていた映画は、「駅~STATION」という高倉健さん主演の映画で、1981年11月公開の作品です。

健さん演じる、北海道警察の刑事は、オリンピック出場経験のある射撃選手でしたが、刑事としては拳銃操法を見込まれて危険な現場に投入されることが多く、その数々の現場でいろいろな人間ドラマに巻き込まれます。この映画ではとくに女性との関係が印象的に描かれ、これらをオムニバス形式にしたのがこの映画の特徴です。

哀愁のある北海道の冬景色をバックに撮影されたこの映画をみつつ、ついつい昔を思い出してしまいましたが、というのも、この映画の舞台となった北海道の増毛町というのは、その昔仕事で何度か行ったことのある場所だからです。東京からはるばる一人、この寂しい土地に調査に行くたびに妙に哀切な気持ちになったことなどを思い出します。

増毛町は北海道北部、留萌のやや南西の日本海側に面した町で、ここにある「雄冬海岸」というのは本当に美しい海であり、その背後にある暑寒別岳とあいまって、もうそれだけでも哀愁を感じさせます。が、町自体の歴史も古く、町内にはたレトロな建物が立ち並び、その多くはこの町の主産業である漁業の関係者の家々です。

私が仕事で行っていたころは、まだ北海道遺産などの制度はありませんでしたが、今はこれらの古い建築物がそれに選定され、そのひとつである明治時代からある國稀酒造(元:丸一本間合名会社)などは、日本最北にある造り酒屋として有名です。

アマエビやたこなどの水揚がとくに多く、ボタンエビの漁獲高は日本一です。秋にはサケマスなどが近隣の川へ遡上する土地柄で、私がここへ行った理由も、サクラマスの稚魚に関するある実験調査が目的でした。

サケやサクラマスなどのサケマス類の仔魚は、光に感応して光源を追随するのではないか、ということは昔から言われており、その習性を利用して、ダム湖などに溜まって海へ流下できないサクラマスを安全な流下口へ誘導できないか調査する、というのがその仕事の内容でした。

ご存知のとおり、サケマス類は豊富な栄養分を持つ海で大きく育って川へ戻り、川の上流まで遡ってここで産卵をします。産卵して生まれたサケの仔魚は、翌年の春になると川を下り、夏になる前に海に達します。

が、ここで問題なのは、その途中にダムや堰などの人工構造物があることで、その構造物の背後にある湖に達した仔魚は、そこを海と勘違いして、そこから下流へ行かなくなってしまいます。

海へ行かないということは、豊富な餌のある環境で育たないということであり、湖を棲みかとして育ったサケマス類は、一定の大きさ以上になることができません。これを「陸封」といい、最近、山梨県の富士五湖・西湖で絶滅していたと思われていたクニマスがさかなクンによって発見されましたが、これも陸封魚の一種です。

本来、湖などで養殖目的で人工的に放流されますが、天然モノのサケマス類も、こうしたダム湖や堰湖で陸封化されてしまい、海に下って大きくなることができないため、これを捕獲して生活している水産業者にすれば全体的に水揚げの減少につながる、ということで、昔から大きな問題になっています。

ダムや堰を防災や利水目的で造っている国土交通省や電力会社は、こうした面で非難されることが多く、ダム建設反対派をなだめるべく、なんとかサケマス類の海への流下を促進させたいという意向があり、そのための調査が私のいた組織に、こうした調査が発注された、というわけです。

この調査の結果、サケマス類のうち、とくにサクラマスに関しては光への追随性は確認されたのですが、では実際に広いダム湖において、放流口や発電タービンへの取水口といった危険な場所ではなく、安全な魚道などの入口にどうやってサクラマスを誘導するか、という点が問題になりました。

強い高原の光を一定間隔で、湖上に並べてそれに沿ってサクラマスの稚魚を誘導してはどうか、ということで、実際に多額のお金をかけてそうした実験も行いましたが、結局はその有効性について決定的な結論を出すことができず、この調査はその後打ち切りになりました。

が、私的には、こうした一連の調査のおかげで、頻繁に自然豊かな北海道へ出かけることができ、それこそ年に十数回も行っていたでしょうか、くだんの増毛町もその目的地のひとつであった、というわけで、今もこの当時のことを思い出すと、足しげく通った水産試験所や、その近くのひなびた海岸の風景が脳裏に浮かんできます。

この増毛町を舞台にして撮影された「駅」が公開された1981年という年もまた、私にとっては思い出深い年です。

この年の3月に大学をちょうど卒業して、ここ静岡を離れて東京へ引っ越したのもこの年であり、慣れない東京生活と、新人社員として越えなければならない数々のハードルに直面することになった年でもありました。

それまでの大学生活と違い、社会人として直面する新しい日々は緊張と反省の連続でしたが、この最初の年に学んだことは現在の私の資質を形成する糧にもなっており、非常に大きかったと今も思うのです。

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が、そうした私生活とは別に、社会的にはどんなことがあったかな、と改めて思い返してみると仕事が忙しかっただけに、あまりよく覚えていません。そこで、ちょっとこのころのことを調べてみようと思い、ウィキペディアなどを検索したところ、なんとこの年は後世にも語り継がれるような実にいろいろことがあった年でもあったようです。

例えば、この年の1月には、前年12月より続く大雪が継続しておこり、これは後に「五六豪雪」といわれる記録的な大雪となり、この降雪は3月まで続き、北や畿内北部で大きな被害が出ています。

また、海外では中華人民共和国元最高指導者毛沢東の妻江青に対して死刑判決が下りていたり、レーガン米大統領がアメリカの経済再建計画を発表し、これは後にレーガノミックスとして世界中で知られるようになりました。

そのレーガン大統領がワシントンD.C.の路上で銃で胸を撃たれ重傷となったのは、この発表からわず一か月後の3月のことであり、全く関係ありませんが、その3月の末日の31日には、ピンク・レディーが後楽園球場で最後のコンサートを開き、解散していたりします。

このほか、5月には、中国陝西省で日本国外では既に絶滅したと思われていた野生のトキ7羽が発見されたり、アメリカ疾病予防管理センターが、ロサンゼルス在住の同性愛者5人が、免疫システムが低下した場合のみに発生するカリニ肺炎を発症したことを発表。

これがその後世界中に蔓延する最初のAIDS患者の発見例でした。こうした医学、化学の世界ではほかに、科学雑誌「ネイチャー」でイギリスのケンブリッジ大学が世界で初めて「ES細胞」の作成に成功したことが報じられています。

作成したのはマウスのものでしたが、このES細胞の開発はその後の再生医療への道を開き、のちに日本の山中教授が開発したIPS細胞にもつながるものでした。

イギリスでは7月にイギリス王子であるチャールズ・ウィンザーが、のちに悲劇の王妃となるダイアナ妃と結婚しており、IBMがマイクロソフトのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)搭載の「IBM PC」を初めて発表したのもこの年です。

8月には、台湾で遠東航空機墜落事故発生し、このとき作家の向田邦子さんがこの事故に巻き込まれて死亡。9月、それまでジョナスといっていた小売店がファミリーマートに改称して、コンビニエンス事業を開始。またこの翌月には東京12チャンネルがテレビ東京と社名変更しています。

同月にはまた、フランス・パリ〜リヨン間で、高速鉄道TGV運行開始し、10月にはエジプトのサダト大統領が暗殺されて世界中に衝撃を与え、その後継大統領には、一昨年に失脚したムバラク副大統領が指名されました。

また、スポーツの世界の出来事としては、この年には、第24回夏季五輪(1988年)の開催地がソウルに決定し、日本が招致を提案していた名古屋市は落選。

また、日本ハムがプレーオフでロッテを下し、前身の東映時代以来19年ぶりにパ・リーグ優勝決めたのに続き、セリーグの覇者である巨人と日本一を争いましたが、4勝2敗で負け、このときの巨人の優勝はV9最終年以来となる日本シリーズ制覇でした。

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大きな事故としては、10月に北海道の北炭夕張新鉱でガス突出・坑内火災事故がおきており、近年におけるこの手の災害としては最大級の93名もの犠牲者を出しましたが、これは坑道の火災をしずめるため、不明者を確認しないまま、坑道を水没させたのが原因でした。

海外では、ジョン・フォードの西部劇「捜索者」やミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」、「草原の輝き」などに出演して大女優の道を歩んでいたナタリー・ウッドが映画「ブレインストーム」の撮影中のボートの転覆事故により、43歳で水死したことなどが話題になりました。

この彼女の死は、事故死とされた一方、殺されたという意見もあり、ロサンゼルス郡警察が再捜査を開始し、遺体には複数の打撲や傷跡の痕跡があったことを認定し、死因を「事故死」から「水死および不確定要因によるもの」と変更しました。が、最終的には殺人事件として扱うには証拠不十分であると結論づけられ、真相は闇の中に葬られました。

事故といえば、この年の4月には、その後2度の爆発事故を起こすことになる、スペースシャトルの打ち上げが行われました。打ち上げられたのは、コロンビア号で、これはスペースシャトルによる世界で初めての宇宙空間へのミッションでした。

スペースシャトルは、全部で6機製造されましたが、初号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されました。

実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、このコロンビアは宇宙へ行った初めてのスペースシャトルということになります。

当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定でしたが、構造試験のために製造されたSTA-099という機体をその後チャレンジャーとなる機体に改造したほうが安上がりだと判断されたため、この改造計画は取りやめになりました。

ところが、ご存知のとおり、チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして失われ、宇宙ミッション初号機のコロンビアもまた、2003年に空中分解事故を起こして消滅しています。ちなみに、爆発したチャレンジャーの機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たに製作されたのがエンデバーになります。

このように、この1981年という年には、後の歴史にも大きな影響を与えるような実に象徴的なことが色々起こったわけですが、私としては社会人1年生ということもあって心の余裕もなく、改めてこうしたことを調べて、あぁそうだったのか、あれもこれもこの年に起こったことだったか、と意外に思ったりしているところです。

ほかにも、大相撲で千代の富士と北の湖がそれぞれの場所で死闘を繰り広げただとか、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」や田中康夫の「なんとなく、クリスタル」がベストセラーになっただとか、寺尾聰の「ルビーの指環」が日本レコード大賞を受賞しただとか、色々あるのですが、やはり鮮烈な印象があるのは、上述のスペースシャトルでしょうか。

それまでは、ロケットで打ち上げられた宇宙船では、還ってくるのは先端に取り付けられた小さな円錐形の部分だけでした。これに対し、このシャトルは飛行機の形のまま打ち上げられ、また帰ってくるときにもその形のまま悠々と空を滑空して帰ってくるというわけで、こうした飛行機が大好きな私としてはワクワクものでした。

調べてみるとこのときのコロンビア号のミッションはわずか3日間だけで、1981年4月12日、コロンビアがアメリカのフロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられ、同年4月14日にカリフォルニア州エドワーズ空軍基地に帰還しています。

人類初のこの宇宙へのスペースシャトルの打ち上げミッションには、ジョン・ヤング機長とロバート・クリッペン操縦士の2人だけで行われ、その主要任務は、スペースシャトルのシステム全体を点検すること、軌道上を安全に周回すること、そして地上へ無事に帰還すること、の3つだけでした。

二人を乗せたコロンビアは高度307キロメートルの軌道上を36回にわたって周回し、そしてこれらの任務はすべて達成され、宇宙船としてのスペースシャトルの能力が初めて確認されました。

しかし、帰還後のコロンビア号からは16枚の耐熱タイルが剥がれ落ち、148枚の耐熱タイルが損傷しているのが発見され、その後の再飛行が心配されました。

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シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からシャトル本体(オービタ)を守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発でした。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ていますが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまいます。

大気圏再突入時に発生する際には1600度以上の熱が発生するため、このままではこの熱に耐える事は出来ません。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発されました。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができるのです。

しかし、機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しないため、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまいます。このため、機体と耐熱タイルの間に「フェルト」をはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が考案されました。

実はこのフェルトは特殊なフェルトでもなんでもなかったそうで、カウボーイハットなどに用いられるようなヒツジやラクダなどの動物の毛を、薄く板状に圧縮して作るシート状にするごく普通のフェルトでした。

また、機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられたそうです。

スペースシャトル一機に対して、この耐熱タイルは2万5千枚貼り付けられますが、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けるという手法がとられました。

こうして大気圏再突入時に発生する熱対策問題は一応解決しましたが、こんな幼稚園児でも思いつきそうな、耐熱タイルを貼りつけるだけ、という対策はその後やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行において何度も脱落を起こしました。

安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回ひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならない耐熱タイルは、その後も長い間、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになりました。

そうした不安は的中し、この最初のミッションから22年を経た2003年2月1日、28回目のミッションからの帰還の際、コロンビアは大気圏再突入中にテキサス州上空で空中分解を起こし、この事故では乗員7名全員が死亡しました。

その後の事故原因の究明調査の結果、この事故は打ち上げ時に外部燃料タンクから剥がれ落ちた断熱材の破片が高速で左翼前縁に衝突し、耐熱パネルに穴があいたことと判明しました。

スペースシャトルによって行われた数々のミッションのうち、この事故より17年前の1986年1月28日には、二号機として開発されたチャレンジャー号もまた打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になっています。

この事故の原因は、機体の右側の固体燃料補助ロケットの密閉用Oリングが発進時に破損したことから始まったとされました。

Oリングの破損によってそれが密閉していた固形ロケットから燃料の漏洩が生じ、高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して燃料タンクの構造破壊が生じたことが原因であり、空気力学的な負荷によりこの瀟洒な軌道船は一瞬の内に破壊されました。

乗員区画やその他多数の機体の破片は、長期にわたる捜索・回収作業によって海底から回収されましたが、乗員が正確にいつ死亡したのかまでは究明されていません。が、その何人かは最初の機体分解直後にも生存していたことだけはわかっているそうです。

しかし、スペースシャトルには脱出装置はなく、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士は一人もいませんでした。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断し、また事故の原因究明のため、レーガン大統領によって特別委員会も組織されて原因究明調査が行われました。しかし、この調査後のスペースシャトルの改良ついては、固定燃料ロケットの機構改善にばかり目が向けられ、耐熱タイルに対しては抜本的な改良は加えられませんでした。

こうしてその後、コロンビア号においてもまた悲劇が繰り返されました。このコロンビア号の事故の直接的な原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃し、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが地球の軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、コロンビアが宇宙空間を周回中の細かい調査を行わなかったといいます。

NASAによるシャトルの元々の設計要件定義では、外部燃料タンクから断熱材などの破片が剥落してはならない、と厳しく規定とされていたそうです。しかし、度重なる打ち上げと帰還が無事に遂行されてきたころから、技術者たちは破片が剥落し機体に当たるのは不可避かつ解決不能と考えるようになっていたようです。

何ごとにも慣れというのはこわいもので、こうして彼等は破片の問題は安全面で支障を及ぼさないかもしくは許容範囲内のリスクであると考えるようになり、こうして小さなタイルの接着がうまくいっていなくても発射はしばしば許可されるようになっていきました。

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しかし、度重なる打ち上げにおいて剥落した断熱材の衝突による耐熱タイルの損傷はしばしば記録されていたといい、コロンビアが事故を起こす2つ前の打ち上げでも、断熱材の塊が外部燃料タンクのから剥落し、左側の補助固体燃料ロケッの後尾を直撃して、幅4インチ深さ3インチの凹みを発生させていたといいます。

このミッション後にNASAはこの破片問題について「外部燃料タンクは安全に飛行可能であり、新たな問題(やリスクの増大)はない」としてこれを容認する判断を示しました。

こうした判断がこの後コロンビア号が爆発して空中分解することになったミッションにも影響を与え、ミッション管理の責任者はこの後の打ち上げに際しても、「当時も(かつての剥離事故を起こしたときも)今も危険性の根拠は乏しい」としてこれを無視してしまいました。

こうしてコロンビアは、大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解しました。事故後に行われた大規模な捜査が行われた結果、テキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州などの広範囲で搭乗員の遺体の一部や機体の残骸が多数回収されました。

その後、コロンビア号事故調査委員会(Columbia Accident Investigation Board, CAIB)が組織され、CAIBはNASAに対し、技術および組織的運営の両面における改善を勧告しました。

シャトルの飛行計画はこの事故の影響で、チャレンジャー号爆発事故の時と同様に2年間の停滞を余儀なくされ、国際宇宙ステーション(International Space Station, ISS)の建設作業も一時停止されました。

スペースシャトルを使った飛行が再開されるまで物資の搬送は29ヶ月間、飛行士のシャトルによる送り迎えもまた41ヶ月間停止し、この間の運搬は完全にロシア連邦宇宙局に頼ることになりました。

その後、2005年7月に、ディスカバリーが コロンビア号事故後の初の再開飛行を果たしたあと、スペースシャトルのミッションは、2010年に2回(エンデバーとアトランティス)、2011年に3回(ディスカバリー、エンデバー、アトランティス)実施されましたが、結局、2011年7月8日に実施されたアトランティスのミッションがスペースシャトル計画最後のものとなりました。

2014年現在、アメリカは現役で打ち上げ可能な有人宇宙船を保有しておらず、アメリカだけでなく他国も国際宇宙ステーション(ISS)への人と物資の運搬はロシアのソユーズロケットに頼っています。

NASAはシャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて月や火星まで到達できるような宇宙船を現在開発中といいます。が、2010年にオバマ政権はこれらの計画の予算打ち切りを宣言しており、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案しています。

ところで、退役したスペースシャトルはどうなったかというと、ディスカバリーはワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館の別館に、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設に、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示されているようです。

またスミソニアンに展示されていたエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることになったことから、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されたようです。

スペースシャトル計画は、そもそもロケットに比べて安価な、「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」として始められたものでしたが、スペースシャトルの最終飛行も終了し総決算の計算をすると、135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかってしまいました。

これは一回の飛行当たりに換算すると、15億ドルに相当し、通常の使い捨て型ロケットを打ち上げるのに比べて10倍以上高くついたことになります。

それでも、全スペースシャトル計画で使われた2090億ドルというのは、日本の防衛予算の4年分程度であり、アメリカの年間国防予算の半分以下です。宇宙開発に比べて各国ともいかに軍事費に莫大なカネを使っているかがこのことからもわかります。

地球温暖化や環境汚染などによって地球が滅亡してしまう前に、地球から脱出して別世界を探すための費用と考えれば、この程度の開発費は安いものだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

今、アメリカではオバマ政権が新しい宇宙船の開発に対して消極的であるため、民間の宇宙開発業者のほうが積極的に開発を進める、といった風潮が強いようです。既に2008年、NASAは国際宇宙ステーションへの商業軌道輸送サービスに関する契約を、民間の会社と取り交わしています。

そのひとつスペースX社による2段式の商業用打ち上げロケットは、2010年6月4日に初打ち上げが行われて成功。

また、オービタル・サイエンシズ社 (OSC) の開発した国際宇宙ステーションへの物資補給を目的とした無人宇宙補給機も、2013年4月にアンタレスロケットが初打ち上げに成功しており、次いで同年9月にシグナス1号機の打ち上げが行われ、ISSへの初結合に成功しました。

日本の場合は既に三菱重工業などがJAXAと提携しており、民間会社として世界でも最大クラスの打ち上げ能力を持つ、H-IIA、H-IIBなどの開発・打ち上げに成功しており、宇宙開発における民間の参入は本格化しています。

1981年から33年を経た今年2014年は、そうした宇宙開発において民間活力が大きく脚光を浴びる一年になるのかもしれません。

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ポストを愛すと…

2014-1100892今週から、一週間は「ポスト愛護週間」だそうです。

今週末の4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、このため郵政省と全国郵便切手販売協会が、郵便ポストを大切にし、お客様とポストの親近感を深めようとこの一週間をそれに充てることに決めたということのようです。

ポストを愛護するってどうするんだろーなー、雑巾がけでもしてやるんかい、と突っ込もうと思ったら、本当にこの一週間のあいだは全国でポストの清掃活動などをやるようです。ただし、これは必ずしも郵便局員がということではなく、地元の小学校の児童などがボランティアでやるのだとか。

また、「ポスト感謝祭」なるものを開催する地域もあるそうで、こちらはもっと小さな幼稚園や保育園の子どもたちが郵便局へ行くか、逆に郵便局員さんがこうした施設にやってきて、いろいろな交流行事をやるのだそうです。

郵便局員が持ってきた臨時のポストに園児たちが、自分で書いたハガキを投函したり、その「ポストさん」へ手作りの帽子を作ってあげたりし、「真っ赤なお顔のポストさん、雨の日も雪の日も頑張ってくれてありがとう。これからもよろしくね」という子ども達の言葉に対して、ポストさんもさらに顔を真っ赤にして喜ぶのだといいます。

近代日本の郵便制度改革は、明治維新で開催されるようになった議会において、それまでは東京~京都~大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両が幕府から支出されていたのを改め、政府の公的な手紙配達に併せて民間の手紙配達も行い、これによって利益を出そうという提案が前島密から出されたことに始まります。

この前島密(ひそか)という人は、日本の近代郵便制度の創設者といわれる人で、今も現役で使われている1円切手の肖像でその顔が知られています。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めたのもこの人で、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

天保6年(1835年)に越後国(現在の新潟県上越市)の豪農の子として生まれましたが、父が間もなく亡くなり、母方の叔父の糸魚川藩医に養われるようになったことで、この医家でその後の教養の基礎を身につけることになりました。

結構な神童だったらしく、わずか12歳で江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んでおり、23歳のときには航海術を学ぶため箱館へ行くなど、このころの最新の知識をふんだんに摂取しながら成長しました。

30歳のときには既に蘭学者として著名となっており、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりましたが、ちょうどそのころ、幕臣前島家の養子となり、家督を継ぐようになりました。この前島家は結構格の高い家だったようで、そのため前島も幕政にも口をさし挟めるほどの立場になりました。

このころ、教育の普及のためと称して、漢字を廃止し平仮名を国字とすることを主張した「漢字御廃止之議」を将軍・徳川慶喜に提出していることなどもそのひとつの表れです。

漢字を廃止するなんて無茶苦茶な、と思われるかもしれませんが、現在において漢民族を主な住民としない国で漢字を使っているアジアの国は日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムなどでもすでに漢字の使用は事実上消滅しています。

その理由としては自国の独自文化を重んずる外来文化の排他運動の一面もありますが、もっと実用的な側面として、漢字が活字印刷の活用、とりわけ活版印刷において決定的な障害となっていたことなどが挙げられます。

確かにワープロの変換作業などにおいて漢字を使いながら文章を綴っていくという作業は、かなりしんどいものがあり、ましてはや手書きともなると、これはかなり高度な技術活動です。かつて私も英語を使って生活をしていた時代には、あー26文字しかない英語ってなんて楽なんだろう、と実感したこともありました。

が、これだけ複雑な文字と仮名を合わせて繊細な表現をすることのできる日本語というのは世界に類をみないほど美しい言語であり、かつそれを自由自在に操ることができるからこそ日本人は頭がいいのだ、と主張する人もいることは確かです。

前島が漢字撤廃を提唱したのは、漢字を書いたり印刷する手間を省き、国政を効率化させたい、ということが理由だったようですが、最近はコンピュータ等による漢字変換技術も進んでいることから、手書き原稿を前提とした漢字制限・字体簡略化論はその有効性を失っており、こうした漢字廃止論もあまり議論されることがなくなりました。

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とまれ、そうしたワープロやタイプライターもない時代に、この前島密という人は、漢字の有効性についての議論を世に問うたという点などをみても、非常に先進的な頭脳を持った人とであった、ということは想像できます。

幕臣の立場であったために、明治維新が起こった直後には政府に登用されませんでしたが、そうした先進性が認められ、明治2年(1869年)には明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕することになり、これを機会それまで前島来輔と名乗っていた名前を、密に改名しました。

なぜ、密という名前にしたかについては、よくわかりませんが、この漢字の持つ意味としては、「秘密」という言葉があるように、ぴたりと閉じて外から見えない、あるいは人にわからぬように隠しているさまを指します。

が、これとは別に「深く閉じて人の近づけない山」といった意味もあるようなので、そうした奥深い人物になることを願っていたのでしょう。

翌年の明治3年(1870年)には、「駅逓権正」となりますが、これは翌年郵便事業が発足した際に設定された「駅逓頭」すなわち、のちの郵政大臣に次ぐ、ナンバー2の地位です。前島はこの立場において太政官に郵便制度創設を建議し、この年にはまた郵便制度視察のために渡英しています。

こうして1871年(明治4年)4月20日に我が国の郵便事業はスタートしましたが、この郵便事業は宿駅制度をつかさどる「駅逓司」という省庁の所管でした。その初代駅逓頭には浜口梧陵という人がなり、こちらはヤマサ醤油の創業者としても知られています。

津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られ、以前このブログでも取り上げたことがあります(自己犠牲とてんでんこ)。

この初代駅逓頭への就任は、大久保利通の要請によるものでしたが、次官になった前島密との確執もあって、浜口は半年足らずで辞職し、その後継指名を前島が受けました。

近代郵便事業の展開が本格的になされるようになったのは、この第2代駅逓頭となった前島密の代からです。当初駅逓司は民部省に所属していましたが、その後大蔵省・内務省・農商務省と転々と所属が変わる度に組織が大きくなり、この間に「駅逓寮」「駅逓局」と昇格していきました。

そして、1885年(明治18年)に逓信省が設立されると「駅逓局」、すなわち現在の郵便局はその所属となりました。つまり、この逓信省は、2001年に廃止されることになった郵政省の前身ということになります。

明治4年(1871年)には駅逓頭になった前島は、その後の日本の近代的郵便制度の基礎を確立していきましたが、このほかにも数々の民間企業の設立にも関与しており、現在の日本通運株式会社の元となる「陸海元会社」を設立するとともに、郵便報知新聞、すなわち現在の「スポーツ報知」の設立にも関わっています。

明治11年(1878年)には、元老院議官となり、その翌年には内務省駅逓総監に任じられるなど、文字通り郵政一筋の人生を歩みましたが、明治14年(1881年)憲法制定・議会開催が争点となった、いわゆる「明治十四年の政変」においてはイギリス流の議会体制を推し進めようとしていた政府主筋と対立して辞職。

大隈重信らとともに立憲改進党を創立するとともに、大隈が設立した東京専門学校、すなわち現在の早稲田大学の、二代目校長に就任(初代は大隈)。また関西鉄道会社社長するなど、官を辞したのをこれ幸いと、現在までも続く数多くの民間機関の創設に関わりました。

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しかし、明治21年(1888年)には政府に請われて逓信次官に復職。明治24年(1891年)に退職するまでの間に官営電話交換制度にも着手し、これはのちの電電公社、現在のNTTの発展にもつながっていきました。

こうした功績に対して明治35年(1902年)には、男爵の称号が授与され、明治38年(1905年)には、貴族院議員にも選任されましたが、大正8年(1919年)、神奈川県の三浦半島にあった別荘にて没。84歳の大往生でした。

この前島密が1871年(明治4年)に導入した郵便制度はイギリスのものを手本としており、東京~大阪間62箇所の郵便取扱所に集積された郵便物を官吏が引き受けるというものでした。

管理・配送時間は厳しく守られ、従来の飛脚は丸笠をかぶった郵便配達員に取って代わられ、東京~大阪間144時間だったのを78時間に短縮しました。翌1872年には全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主をほとんど無報酬で要請・任命し、彼らの自宅を郵便取扱所として開放させました。

1873年(明治6年)には全国約1100箇所の名主が新たな国の役割を担える郵便取扱所として自宅を使うことを快諾し、それまでの主流であった飛脚やかごはやがて姿を消していきました。

しかし明治4年4月に日本の郵便事業が始まった当初は特に定められた徽章はなく、「郵便」の文字だけでした。このため明治10年(1877年)からは、「日の丸」をイメージした大きな赤丸に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵便マークとして用いられ始め、「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されるようになりました。

明治17年(1884年)6月23日太政官布達第15号により、この「丸に一引き」は正式に「郵便徽章」と定められましたが、その翌年の明治18年(1885年)には郵便等の所管官庁として正式に「逓信省」が創設されました。

これを契機に、この徽章も国際的にも認められるようなよりセンスのいいものに改めようという意見が出されたため、その二年後の明治20年(1887年)2月8日には、当時の逓信省が「今より「T」字形を以って本省全般の徽章とす」と告示し、このTの字が正式な郵便マークのさきがけとなるはずでした。

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ところが、2月14日に逓信省はTの字を「〒」に変更し、2月19日の官報でも「実は「〒」の誤りだった」という内容を正式な発表として公表しました。

このTが〒になった経緯に関しては、諸説あるようですが、そのひとつは、「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は国際郵便の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていたというものです。

このため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説がよく言われている説で、この訂正にあたっても、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」を取ってそうしたのだという説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という二つの説があるようです。

この「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代逓信大臣であった榎本武揚が出したとも言われているようです。

それにしてもなぜ「T」だったのかについても、漢字の「丁」が逓信の「逓」の略字としてみなせるからだという説と、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説のふたつがあるようです。

いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、郵便配達員が身につける帽子の正面や制服上着の袖口、郵便旗、あるいは書状集め箱(現在の郵便ポスト)につけられるようになりました。また、徽章はこれ以前の「丸に一引き」を引き継ぎ、「〒」を丸で囲んだものと定められました。

ちなみに、この〒マークの縦棒と横棒の比率は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号により横棒のほうが縦棒より広い(長い)のが正しい記号だそうです。

こうして郵便事業が発足してから、30年ほどを経た1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され、郵便法(旧)が制定されました。1920年(大正9年)には、さらに貯金局と簡易保険局が設けられ、その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになっていきます。

ところで、この「逓信」という文字の由来ですが、これは、駅逓の「逓」と電信の「信」を合わせたもので、ともに逓信省の母体となった組織である、「駅逓局」、「電信局」の名前から1字ずつ取ったものだと言われています。また「逓」という漢字には“かわるがわる伝え送る”という意味があるそうです。

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電信のほうは明治以後に欧米から導入された技術であり、江戸時代以前には存在しませんが、駅制度のほうは、江戸時代よりはるか昔の飛鳥時代から存在します。「駅」とは古代の律令制で設けられた“駅家”を指し、これは「駅」とも略して使われ、いずれもが「うまや」と訓読みされます。

京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、駅に備えられた駅馬を乗り継いで通信が行われ、重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられました。

「飛駅」には「駅鈴」が授けられました。これは官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴であり、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬を集めました。また、古くは馬だけでなく、船も運搬に使われたため、「駅舟」ということばもあったようです。

それぞれの駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をしました。

現在残っているこの駅鈴の実物はわずかです。国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」の二つだけで、これは、幅が約5 cm、高さ約6.5 cmほどの青銅製で、島根県隠岐の島町の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物館に保管・展示されています。

1976年(昭和51年)に発売された20円はがきの料額印面の意匠にもなったため、覚えている人も多いかもしれません。

その後、8世紀末頃になると、律令制は実効性が薄れ、実際には運用されなくなるなどほころびが目立つようになり、桓武天皇の時代に行われた長岡京・平安京への遷都などを機に完全にその制度が崩壊したため、この駅制もまた廃れていきました。

しかし鎌倉時代に復活し、公用便として鎌倉飛脚・六波羅飛脚などが整備されました。これは馬を用いた飛脚で、京都の六波羅から鎌倉まで、最短72時間程度で結んだといわれています。

鎌倉時代には、それまでに廃絶してしまっていた「駅」に代わり、「宿」がその代りをするようになり、宿はまた商業の発達に伴い各地で作られ、多くの人に利用されるようになっていきました。

しかし、戦国時代には、戦国大名をはじめとする各地の諸勢力が領国の要所に関所を設けたため、領国間にまたがる通信は困難になりました。とはいえ、戦国大名が書状を他の大名に送るためには飛脚が必要であり、このため家臣や寺僧、山伏が飛脚として派遣されました。

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江戸時代に入ると、幕府は飛脚制度を重視し、五街道や宿場などの交通基盤が整備して、飛脚による輸送・通信制度を整えていきました。

とはいえ、江戸時代の飛脚もまだ馬と、人の駆け足だけが主要な交通手段でした。しかし飛脚の種類としては、公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋と呼ばれた町飛脚などへの分化が進み、いずれもがこの当時の主要な通信手段として重要な役割を担いました。

とはいえ、これらの飛脚の利用は明治以降の郵便制度に比較すると費用的にも非常に高価であり、町飛脚なども庶民にはあまり利用されませんでした。天候にも左右されやすく、また江戸大阪間は一業者で届けられますが、江戸以東や大阪以西となると、今度は別業者を雇わなければなりません。

その連携は必ずしも円滑ではなく、このため書状などが期待した期日に届かないしこともしばしばだったようであり、また毎日配達しないため、別々の日に出された書簡をひとつにまとめて配達されるということも多く、そのための時間ロスも多かったようです。

この当時の書状は「親書(信書)」であることも多く、しばしば儀礼のために出されるものでもあったため、身分の高い武士や豊かな商家などでは、このように時間のかかる飛脚業者に頼まず、わざわざ自分の使用人を使って書状を運ぶことも多かったといいます。

とはいえ、江戸期を通じて、「システム」としての飛脚制度は、一応完成の息に達し、江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を届けることを目標として運営されました。

決められた日に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送し、荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀しました。

宿泊は指定の「飛脚宿」に泊り、盗賊の攻撃などにも気を配りました。しかし、人馬が疲労・病気などによって継立(馬方や馬の交換)がうまくいかなかったり、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災もあり、延着・不着・紛失もかなりありました。

このため、高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類がありましたが、やはり不測の事態は常にあり、遅れがちであったといいます。

このため飛脚を扱う飛脚問屋もまた、こうした事態に対処するため常にその賃銭を高めに設定したがり、これが飛脚を仕立てる費用をより高額にしていきました。

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こうした一般の武士や庶民も利用できる飛脚は「町飛脚」と呼ばれ、「継飛脚」「大名飛脚」と呼ばれるような公用のための飛脚とは区別されていました。

継飛脚(つぎびきゃく)は、幕府の公用便で、老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行だけが使うことを許されていた飛脚です。書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運び、その費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」が支給されていました。

また、大名飛脚は、各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚で、飛脚はその藩の足軽もしくは中間から選ばれることが多く、多くの藩では独自の飛脚を持っていましたが、維持費が嵩むことなどから、民間の町飛脚に委託する藩も多かったようです。

一方の町飛脚のほうは、1663年(寛文3年)幕府許可が出たために開業が始まり、大坂・京都・江戸の三都を中心に発達しました。1698年(元禄11年)に京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」として認め、毎夕順番に発信するようにしたため、これ以後、「定期便」としての飛脚システムが確立しました。

ところが、宿駅の交通量が増え、人馬継立が混み合うようになると、次第に飛脚の延着が目立つようになりました。このため、江戸の飛脚問屋9軒の願いにより、幕府は1782年(天明2年)、宿駅での人馬継立をこれらの飛脚問屋に優先的に管理させる特権を認めました。

この優先利用にあたっては、その権利料が「御定賃銭」として幕府に支払われるしくみで、これにより、飛脚問屋による継立をコントロールしやすくし、遅延を減らすことが狙いでした。

しかし、この取り立て料金がかなり高めであったため、町飛脚にかかる費用はかなり高額になるとともに、飛脚問屋への特権集中は所得格差や労働環境の差別化などの問題も生み出しました。

こうした特権を行使した飛脚問屋を「定飛脚問屋」といい、この制度の導入により地方の城下町などでも高利をむさぼる飛脚問屋が増えていきました。

しかし、このことにより飛脚制度そのものはある程度安定し、延着は比較的少なくなりました。とはいえ、人馬を利用するものであり、江戸~京坂を結ぶ飛脚のうちの最低料金の「並便り」などでは、日数の保証はありませんでした。また、昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要しました。

これより急を要する場合はやはり金がモノをいいました。所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用が可能であり、更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したといいます。一両は今の価値の
12~13万円ですから、軽自動車一台分の購入費用に相当します。

こうして「定飛脚問屋」の導入によって飛脚の遅延は軽減され、飛脚制度は定着したかのように見えましたが、しかし、その後江戸・京阪の人口はさらに増えていったことから、東海道の通信量は目立って増加するようになっていきます。

増加と共に各宿での滞貨もまた増大するようになったため、江戸末期ころには2〜3日の延着が通例になったといいます。このため江戸~上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、これは「定六」または「正六」と呼ばれました。

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このように早く正確に書状を運ぶため、飛脚の「走法」にも次第に工夫が重ねられていきました。「飛脚走り」と呼ばれる独特の走法がそれで、これは一説には「ナンバ走り」とも呼ばれていたそうです。ナンバとは大阪の難波のことと思われ、その発祥は大阪と推定されます。

これは「体をひねらずに走る」というものだったらしいのですが、より具体的にはどういった体勢で走っていたのかはよくわかっていないようです。

まさか「金チャン走り」のようなヘンテコなものだったとは思えませんが、ともかく、体力の消耗が抑えられるような走り方だったということだけ伝えられており、詳しいことを記した文献や口伝も存在しないことから真偽のほどすらも不明だそうです。

が、これをもし復活させることができたら、もしかしたら日本の陸上界にはセンセーショナルな革命がおきるかもしれません。来たる東京オリンピックまでにはその秘密を探し当てて復活させ、「ナンバ走り」を日本陸上界の切り札にしてはどうでしょうか。

このように、飛脚はこの時代、中央と地方を結ぶ唯一の公的な交通手段だったことから、重要な情報伝達手段でもあり、災害情報などについても得意先へ伝える機能がありました。地震、火災、洪水などのほか、戦争情報も伝えましたが、また同時に文化も伝える役割を担いました。

そのためもあって、飛脚は浄瑠璃や古典落語川柳狂歌などに登場し、庶民によく親しまれていた職業で、川柳や狂歌にもよく詠われました。

このころの川柳に、「十七屋日本の内はあいと言う」とか、「はやり風十七屋からひきはじめ」というのがありますが、この「十七屋」というのは飛脚問屋の「十七屋孫兵衛」のことで、京都に本拠を置いて日本各地にも出店を置き、広域的に書状や金銀荷物を輸送しました。

現在の佐川急便やヤマト運輸のように流行った飛脚問屋だったようで、このように川柳に詠まれるほどの人気業者でしたが、1785年(天明5年)に幕府御用金の不正使用が発覚し、闕所(営業停止)となっています。

近年でも飛脚は時代小説の題材にも取り上げられ、人気作家、出久根達郎作の「おんな飛脚人」は江戸の飛脚問屋「十六屋」を舞台にヒロイン「まどか」が繰り広げる人情話で、NHKではドラマ化もなされました。

また、同じく小説家の山本一力の作には、「かんじき飛脚」というのがあり、これは寛政年間に、金沢藩の御用飛脚問屋「浅田屋」の飛脚人たちが雪の金沢―江戸間を走り、幾多の障害を越えて漢方薬「密丸」を江戸藩邸へ届ける、という話です。私もまだ読んだことがないのですが、面白そうです。

現代の飛脚といえば、宅配便、軽貨物便、バイク便などがすぐに思いうかびますが、前述の佐川急便などは、まさに飛脚の絵をトレードマークにしています。

上で前島密が、日本通運の創業に関わったと書きましたが、この日本通運もまたその前身は江戸の定飛脚問屋でした。これを明治期になって「陸運元会社」としたのが始まりで、同会社は1875年(明治8年)2月に内国通運に社名変更、その後1937年(昭和12年)に現在の日本通運に改名しています。

江戸の時代の飛脚はもう残っていないかと思いきや、こうした運送会社といい、それが形を変えた郵便制度といい、今もまだ我々の身近なものとして存在しています。

なので、ポスト愛護週間であるという今週は、あの赤いポストを飛脚の名残と思い、愛おしんであげましょう。

ちなみに、日本で郵便制度が始まった初期のポストの色は、飛脚の衣装をイメージしてか、赤色ではなく黒色だったそうです。しかし、当時公衆便所が普及し始めた頃でもあったことから、黒い郵便箱の「便」を見た通行人が郵便箱を垂便箱(たれべんばこ)と勘違いして、これをトイレ替わりに使ったという話は有名です。

また、当時はまだ街灯などが十分に整備されていなかったため、夜間は見えづらくなるなどの問題が起こり、このため1901年(明治34年)に鉄製のポストを試験導入した際に「目立つ色」として赤色に変えられました。

ポストの設置数は郵便制度が始まった1871年(明治4年)には62カ所に過ぎなかったものが、現時点では全国でおよそ20万もあるそうで、その差出箱は、街頭のみならず、工場などの私有地内を含めいろいろな場所にあります。

特殊なケースでは自衛隊の基地内、自動車道やロープウェイなどの通じていない高山の山頂近くや和歌山県すさみ町などにある海底ポストのように海底にあるものも存在します。海底であろうと収集時間になれば収集し、配達先へ投函されるそうで、この収集を行う郵便屋さんはダイビングの資格を持っているらしいです。

ちなみに、私が住んでいるこの別荘地内には都合3か所ほどポストがあるようですが、山の上にあるため、1日に一回しか収集に来ません。しかも午前中なので、今日の便はもう終わりです。

が、ポストさんは今日もそこで雨風に打たれながらも頑張ってくれているので、ポスト週間であるという今週、感謝の気持ちを込めて何等かのエールを送ってあげたいと思います。

が、園児のように手作りの帽子を作ってあげることも、歌を歌ってあげることも気恥ずかしいので、せめて一緒に酒でも飲めればと思います。

きっと、「真っ赤なお顔のポストさん」はもっと顔を赤らめて喜んでくれることでしょう。

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たかが竹、されどタケノコ

2014-1110567伊豆では平地のサクラはほとんどが散り始めましたが、標高の高いところはまだ満開のようです。

が、この週末にはそれも散ってしまい、これに変わって新緑の季節がやってきます。既にウチの庭先の木々は緑色に染まりかかけており、先日は玄関先にお隣から忍び寄ってきた竹の根から伸びたタケノコが顔を出しました。

早速スコップで掘り出してみたところ、大きさは20cmほどもあり、茹でてアクを取ったあと、醤油で煮込んで食して見ましたが、春の香りと風味が口いっぱいに広がり、幸せな気分になりました。

タケノコは、ツル性を除く被子植物のうち最も成長が速く、日に数十センチから時には1メートルを超え、この時期にタケノコにうっかり帽子を掛けたまま1日たつと、取ることができなくなるほど成長している場合さえあるともいわれています。

昼夜を問わず伸びるのがとても速いことから、漢字の「筍(たけのこ)」は10日間を意味する「旬」から来ている、などと言われることもあるようです。

根から切り出した直後から、えぐみが急激に増加するといい、掘り採ってから時間が経つほど固くなるとともにこのえぐみは更に強くなっていくので、できるだけ早いうちに調理や下ごしらえを行うほうがいいそうです。

なので、店頭で売っているタケノコで、日にちが経っていそうなものは買わないほうがいいかもしれません。なかなかそれを見分けるのは難しいことではありますが。

このタケノコの親の「竹」ですが、旺盛な繁殖力を持つため、筍から2~3か月で成竹になってしまい、あっという間にその土地を覆い尽くします。「竹は切ることが植えること」ともいわれるほど生育能力が高く、地下茎は浅く、地表付近を横に這うように広がります。

とくに近世に日本に移入された外来植物である孟宗竹(モウソウチク)は、日本のタケ類の中で最大で、高さ25mに達するものもあり、1950年代頃までは食用としてだけでなく木材として使うために管理された竹林で栽培されていました。

古来、竹林を背にした家が多いのも、日本人はこの孟宗竹が生活材料として有用なものであることを経験的に知っていたからにほかなりません。

その昔は、竹林の周囲は深さ1メートル程度の空堀を掘り巡らすなど、伸びやすいだけに周囲に広がりすぎないように対策がなされていましたが、その後中国などからの輸入品のタケノコが出回り、また木材としても漆喰壁などがなくなりその骨材としての竹の需要がなくなったため、タケノコ栽培が経済的に成立しなくなりました。

竹林の経済性が薄れることで見向ききされなくなり、地主の高齢化に伴い放置される竹林が増え問題になっているといい、各地で管理されなくなった竹林が増え、元来繁殖力が異常に強い樹種であるため竹林の周囲に無秩序に根が広がり、既存の植生を破壊しています。

とくに孟宗竹が進出するとアカマツやクヌギ、コナラなどかつて里山で優勢であった樹種が置換され、生態系が単純化してしまいます。また孟宗竹は土壌保持力が低いため、これが広がりすぎると崖崩れが起きやすくなるなど、各種の害が発生することなども問題視されるようになっています。

竹は根を地中深く潜らせないためで、このため大雨の際などには斜面の竹林はそれ全体が滑り落ちるような崩れ方をする例があります。

また、ウチの玄関先に顔を出したタケノコのように、一般家庭を悩ますものもあります。ウチのものはお隣さんが観賞用に植えた孟宗竹の根っこが越境して進入してきたものであり、花壇の中にまで根を生やすため、いったん植えた花木をダメにしてしまうこともあり、その駆除に困っています。

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このように管理されなくなった竹藪が隣家の庭に侵入して悪さをするというケースは近年かなり多いようです。特に竹害が激しいのは京都府、静岡県、山口県、鹿児島県、高知県、愛媛県などです。このうち静岡県を例に取ると、1989年から2000年までの間に県内の竹林は1.3倍に拡大したとされています。

しかし、地表付近を広がる地下茎には「ヒゲ根」がびっしりと生えており、この「ヒゲ根」が地面をしっかりと保持するため、よく管理された竹林はある程度の防災効果を上げてきた、という側面もあります。

ただ、この防災機能は主として地震などのことで、地表をしっかりと覆う根茎が地面を押さえますが、上述のとおり洪水や地滑りに関してはあまり効果がありません。また、竹は防風林や防潮林としては役に立ちません。葉っぱが細く、枝もか弱いため、風や潮を簡単に通してしまうためです。

防風林や防潮林としては、とくに海岸付近では塩害に強く薄い土壌でも生育できる樹種が多く用いられ、また寒冷地では、寒さに強く枝が柔らかく雪が積もりにくい樹種が多く用いられます。

一般には、高低・多種多様な樹種を組み合わせて雑木林のような形をとるものが多く、それらは、海岸近くではスギ、クロマツ、カシワ、ニセアカシアなどであり、寒冷地ではカラマツやイヌグス、ポプラなどが多用されます。

日本の場合、防風林は公益性の高いものとみなされていて、「保安林」として地方自治体が管理し、多くの場合は幅の狭い帯状のものが防風保安林として整備され、落葉の採取や伐採等が制限されています。

防潮林のほうも、森林法に基づく保安林に指定されており、治山事業等により持続的な管理がなされています。

神奈川県の藤沢市から平塚市にかけた湘南海岸などの海岸に延々と松林があるのをご存知の方も多いと思いますが、これは砂防法に基づいて、海岸の砂浜が背後の住宅街に侵入するのを防ぐために造られた「砂防林」であると同時に、「防潮林」としての機能が期待されているものです。

ここでいう「潮」とは、高潮や津波の被害のことであり、かつて1983年に秋田沖で生じた日本海中部地震において発生した津波は、秋田や山形、新潟などの各県の防潮林によってかなり低減されたといわれています。

また、三年前の東日本大震災の津波でも、新日本製鉄釜石製鉄所のイヌグスの防潮林周辺などで被害が小さかったことなどが報告されていますが、このときの津波はあまりにも巨大すぎたため、陸前高田市や仙台市沿岸の例のように、根こそぎ防潮林が持って行かれる、というケースが続出しました。

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このように防災目的の林の多くは人工的に植林・造成されるものですが、富山県西部に広がる砺波平野などにある屋敷林のように、元からその地にあった原生林の一部を残して利用するという形で設けられたものもあります。

この地方ではこうした屋敷林のことを「垣入(かいにょ)」といい、こうした地域特有の広大な耕地の中にポツンポツンと孤立した民家(孤立荘宅)の周りに張り巡らされます。この点在する集落形態を散居村(さんきょそん)ともいい、栃波平野の風物詩でもあります。

この景観が成立したのは、16世紀末から17世紀にかけてであると考えられています。砺波平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば氾濫したため、この地域に住みついた人々は平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで家屋を建て、周囲を水田としました。

このような住居と水田の配置は農業をする上においても便利であったため、この地を治めていた前田家による田地割政策下でもこの地域の農民たちは引地、替田(他の土地との交換、他の田んぼとの交換)を行って自宅周辺に耕作地を集めようとしました。

しかし、このため家屋が1か所に集まって集落を形成するということが無くなり、冬にはそれぞれの家屋が厳しい風雪に直接晒されることとなりました。家屋の周囲にカイニョを形成してこれに対処するようになったのはその風雪対策のためです。

このカイニョは、とくに季節風が強い季節には大きな効果をあげましたが、そうした防災用途だけではなく、長い間にはこの地域におけるある種の風格をもつステイタスシンボルにもなっていきました。

同様のモノは、仙台平野にもあり、こちらは「居久根(いぐね)」といわれ、このほか島根県の出雲平野の「築地松(ついじまつ)」などが有名です。

日本では、ここ以外にも同じ島根県の斐川平野、香川県の讃岐平野、静岡県の大井川扇状地、長崎県の壱岐島、北海道の十勝平野、岩手県の胆沢川扇状地、富山県の黒部川扇状地などでもみることができます。

ただ、砺波平野のものはこれらと比べても格段に大きく日本国内最大とされ、現在およそ220平方キロメートルに7,000戸程度が散らばっています。

私も仕事でこの地へ行ったことがあるのですが、実に美しいもので、とくにこれからの季節にはるかかなたまで広がる水田地帯の中に、あっちにぽつん、こっちにポツンと点在する小集落とこれを囲むカイニョは本当に絵になります。

こうした風景が広がる、砺波市や南砺市などでは、「となみ野田園空間博物館」と称し「砺波平野全体が博物館」という構想に基づいて、こうした風景の維持保全を図っています。無論、観光客誘致の目的もあり、「となみ散居村ミュージアム」などの箱モノも建設し、これを中心に8カ所の地域拠点施設なども設けているようです。

どのくらいの観光客が訪れているのかよくわかりませんが、これからは富山県はチューリップの見ごろの季節を迎えるため、ゴールデンウィークなどには相当な人がここを訪れるのではないでしょうか。

このカイニョとはまたちょっと趣が違いますが、北海道東部の根釧台地には日本最大規模の防風林が広がり、これは最長直線距離約27km、総延長距離約648km、幅約180mにわたって格子状に造成されているという大規模なものです。

「根釧台地の格子状防風林」と呼ばれ、北海道遺産に指定されているほどで、ここも私は行ったことがあるのですが、実に壮大な風景です。別海町、標津町、標茶町などに広がる防風林で、これはこの地の開拓期にアメリカ人顧問ホーレス・ケプロンの提唱で作られたといいます。

このケプロンは、元アメリカ合衆国の軍人で、南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となりました。1871年(明治3年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年に訪日して開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となりました。

1875年(明治7年)に帰国するまで、積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進しましたが、札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンです。また、1872年(明治8年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレーが提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例です。

ちなみに、この当時はライスカレーとは呼んでおらず、表記はタイスカリイだったといいます。

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ところで、防潮林といえば、ここ静岡にも、ユネスコの世界文化遺産登録で有名になった三保の松原があります。静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝にも指定されています。

その景勝地としての歴史は古く、平安時代から親しまれているといい、日本最古の和歌集である「万葉集」に「廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」と詠われて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台にもなりました。また歌川広重の浮世絵にも描かれています。

三保半島の東側に総延長7kmに渡って連なり、ここにある松の合計は3万699本にもなり、その背景には駿河湾を挟んで富士山や伊豆半島が望めます。

三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を擁する有度山を削りながら出来た砂嘴です。何百年にわたり流された漂砂が静岡海岸、さらには清水海岸に幅百mを超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成しました。

羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)にはこの伝説の羽衣の切れ端が保存されています。

無論、伝説にすぎず、この切れ端も江戸時代か何がしかの時代にこの周辺に住む住人によって造作されたものでしょう。

この羽衣伝説というのは、いまさらの気がしますが一応説明しておくと、昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。

すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて空高く天に昇っていきました……

実は、竹取物語の中にもこの天女の羽衣が「天の羽衣」として登場します。かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語るシーンで登場し、これをまとうことで天女に戻ることができる力を持つものとして描かれています。

かぐや姫もまた天女であるわけであるわけで、ここでも竹とつながるわけでありますが、それにしてもこの天女のテーマがなぜ竹だったのでしょうか。

これについては、竹はほかの植物とは異なり、茎の中が空洞であることや、その成長の速さにより神聖視されたのではないか、ということが言われているようです。

皇室にも天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣があるそうで、天皇もこれを着ると、人ではなく、神様になる、ということなのでしょうか。

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日本の文化の面から竹をみてみると、竹は昔から庭園を構成する要素の一つとしても重宝され、竹林の織り成す景観は日本の風土を象徴するもののひとつとなってきました。

特に京都の寺院や郊外の景観を形づくる要素として重視され、また、日本画、水墨画のモチーフとしてもしばしば用いられ、多くの文人墨客が竹林の持つ独自の繊細なイメージを芸術作品に仕上げてきました。

また、視覚のみならず、風が竹林を通り抜ける際のざわめきは日本人の耳には心地よく響くものらしく、風情を感じさせるものとして俳句や和歌などに歌われ、多くの文学者、画家などの想像力を刺激してきました。

その真っ直ぐでしなやかな特性を生かして竹細工、建材、家具、釣竿などにも多く利用されており、大分県のマダケは面積、生産量とも全国一のシェアを占めています。別府市周辺の別府竹細工や日田市の竹箸など、大分県では豊富な竹材を利用した竹工芸が歴史的に盛んです。

ここ伊豆でも竹細工はさかんなようで、麓の修禅寺温泉街にも竹細工の店があるほか、伊豆から天城に向けての一帯には竹製品を専門に扱っているお店が点在しますし、同じように竹を町おこしの材料として生かそうとしているところは全国でも案外と多いものです。

このように竹は、我々の生活と密接なところに常に存在しています。

ところが、同じ竹でもタケノコに関しては、ことわざや比喩となると、あまりかんばしい印象のものは多くなく、「雨後のタケノコ」は、雨が降った後はタケノコが生えやすいことから、何かをきっかけとしてある問題が続々と発生することや、余計な問題に首を突っ込む人間が増えることをさします。

「タケノコ生活」はたけのこの皮を1枚ずつはぐように、身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って食いつないでいく生活であり、最近はあまり使われませんが、その昔「タケノコ剥ぎ」という言葉が性風俗店で用いられましたが、これは、ボッタクリ商法のひとつです。

タケノコの皮をはがす行為に由来し、初期料金を安く見せかけ、女の子の脱衣や接触行為などのオプション料金を積み上げていった結果、法外な高額の料金になってしまうことです。

さらにはタケノコ医者というのがあり、これはタケノコがやがて竹になり藪になることから、技術が下手で未熟な藪医者にも至らぬ医者のことをさします。

そういえば、その昔、竹の子族というのがあり、これは野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドにあわせて「ステップダンス」を踊る若者たちの総称でした。

1980年代前半東京都・原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国でラジカセを囲み路上で踊り始めたのがきっかけで、その後表参道などでも踊りだし、東京ではこのほか吉祥寺や池袋、地方でも名古屋等地方都市の公園でも小規模ながら竹の子族が踊っていたようです。

改めて調べてみるとブーム最盛期は1980年(昭和55年)ころといいますから、これはちょうど私が大学を卒業して、千駄ヶ谷の建設コンサルタント会社に勤め始めたころのことです。そういえば、このころ隣の部署でタケノコ族らしい若者がアルバイトに来ていたことなどを思い出しました。

それにしてもなぜ「竹の子」だったのかといえば、これは「大竹竹則」という人がオーナーを務める「ブティック竹の子」で売られていた衣装が受けたことから徐々にこの特色のある衣装を着る若者が増えていったことに起因するようです。

主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、アラビアンナイトの世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め、化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをするようになりました。

この「ブティック竹の子」では竹の子族ブーム全盛期には、竹の子族向けの衣装が年間10万着も販売されたといいます。

街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえ、若者集団の文化、ファッションとしても、1980年代前半で注目され、この竹の子族の中からスカウトされ、清水宏次朗や沖田浩之といった後のアイドルスターが芸能界にデビューしています。

が、1980年後半、ローラーや、バンド、ブレイクダンス等、多様なパフォーマンス集団に押され、竹の子族ブームは下火になっていきました。1997年ころには代々木公園前歩行者天国試験廃止され、1998年に完全廃止になってからは原宿から撤退、東京新宿のディスコなどに活動の場を移していきました。

さすがに現在はもうないのだろうと思ったらそうではないようで、現在も当時のメンバーが中心となり、新メンバーを募って「平成竹の子族」なるものが存在し、原宿や上野を中心に活動を続けているそうです。

今にして思えば戦後昭和を代表する文化のひとつであり、いかがわしさはあるものの、私が就職したてのころの街の風物詩でもあり、妙に懐かしさを覚えます。

もしもあのころに戻れるものならば戻ってみたい気もしますが、だからといって竹の子族をやりたいかといえばそんな気はさらさらありません。

竹の子はやはり食べるもの。旬である今は新鮮なものなら生で刺身としていただくこともでき、軽く湯がいたり、焼き物としてもその風味を最大限味わうことができます。

今日もお天気がよさそうなので、タケノコ掘りに出かける人も多いと思いますが、くれぐれも盗掘などされないように。人の敷地に勝手に入ってタケノコ堀りをするのは家宅侵入罪以外にも窃盗罪に問われます。

その点、ウチのタケノコは我が家の庭に生えてくるので大丈夫。さて、今年は何本生えてくるでしょうか。

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探せ、わだつみの音

2014-1150459マレーシア航空機が行方不明になって、昨日でちょうど一カ月になります。

報道によれば、ブラックボックスからの信号音を長時間にわたってオーストラリアの艦船がキャッチしたとのことで、これが行方不明機のものだとすれば、その発見も間近に迫っていることになります。

もしこの信号が深海に沈んだ行方不明機からのものだとすると、今後はその発信源であるフライトレコーダーやボイスレコーダーなどの引き揚げが焦点になってきますが、この際に問題になるのがこの海域の水深です。

インド洋南部のこの海の深さは4500mもあるとされており、もしここにくだんのブラックボックスが沈んでいるとすれば、その回収にはの投入が必要になってきます。

この深さを潜れる潜水艦は世界でも指折りしかなく、日本のしんかい6500のほか、フランス、ロシア、中国ぐらいしか持っていません。

アメリカは意外とこの分野では出遅れていて、1964年の就役したアルビンという潜水艇を持ってはいるのですが、潜水深は2,400mまで潜れるにずぎず、とても4000m以上には対応できません。

一番可能性があるのは、この飛行機にも多くの乗客が乗っていた中国の潜水艇でしょう。

「シーポール級潜水艇」というのを持っていて、水深7000m未満の海域まで潜れるといい、その最新型の「蛟竜号」は3人乗りで、2012年6月24日には7,020mに到達し、1989年に6,527mを達成した日本のしんかい6500の記録を抜いています。

しかし、聞くところによるとかなり視界の悪い潜水艇のようで、乗組員の生命維持装置なども、有人宇宙船の神舟号のものを流用しているということであり、どうも実験船というかんじがします。

ただ単に深くまで潜れればいいということではなく、不明機の探査ということになると、深海での操縦性などの機動力も問題になってくると考えられ、本当にこれが使える船なのかどうかは未知数です。

また、マレーシアと中国は、伝統的な友好国ですが、中国は近年、東南アジア各国が自国領としている南シナ海の島などを中国領土と主張しており、マレーシアなどの東南アジア各国と軋轢を強めています。

マレーシアも例外ではなく、中国はマレーシアの排他的経済水域にあるジェームズ礁を「最南端の領土」と主張しており、2013年3月には中国軍艦がジェームズ礁近海に入り、マレーシア側に威嚇発砲を実施したことがあります。

2014年1月には中国の揚陸艦1隻と駆逐艦2隻がジェームズ礁近辺で主権宣誓式を実施するなど、中国側は動きを強めており、マレーシア側も中国に対する反発を強めつつあるようです。今回のマレーシア機の捜索にあたっても、マレーシア側の捜索の初動体制の不備をめぐってかなり両国関係はぎくしゃくしているようです。

ただ、飛行機が不明になったのは公海域と思われることから、中国は独自ででも探査に乗り出すかもしれず、この場合、マレーシアが中国以外の別の国に依頼して、それぞれが別々に不明機の探査を行う、ということも考えられます。

日本は、上述のしんかい6500を保有しているほか、最大潜航深度7,000mまで潜航、調査することができる無人探査機「かいこう」などを保有しており、「かいこう7000II」は、1999年11月に小笠原沖水深2,900mの海底に沈んだH-2ロケット8号機の捜索に出動し、エンジン部品を発見した実績があります。

今回の行方不明機の捜索にあたっては、日本からも自衛隊機などが出動しており、マレーシアとも友好関係がある我が国がこのを出す可能性は結構あるのではないかと思われます。

しかし、しんかい6500の運用には、その支援母船の「よこすか」などの航行が同時に必要であり、しんかい6500はこれに搭載されて調査海域まで運ばれます。これらワンセットの運用による一度の潜水に数千万円の費用が必要となることから、日本政府がその多額の出費を伴う要請をはたして飲むかどうかは少々疑問です。

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もっともマレーシア側が金を出す、というのなら話は別です。こうなると、日本だけでなく、ロシアやフランスの探査船の可能性もなくはなく、とくにフランスの保有しているノティールというは、2009年6月のエールフランス447便墜落事故に際しては墜落機のブラックボックス捜索に従事し、これを見事に見つけています。

フランスは昔からこうした潜水艇の優れた建造技術を持っていて、その中でもオーギュスト・ピカールによって発明されたバチスカーフが有名です。推進力をもち深海を自由に動き回ることが可能というこの深海潜水艇の登場は世界を驚かせました。

バチスカーフとはフランス語ではなく、ギリシア語の単語”bathys”(深)と”skaphos”(船)を組み合わせて”bathyscaphe”と命名されたものです。

1960年、このバチスカーフの第二号艇のトリエステ号は、ピカールの息子ジャック・ピカールとドン・ウォルシュ大尉の操縦によって地球表面で最も深い地点、すなわちマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の35,798フィート(10,911メートル)の地点に到達しました。

こうした技術を用い、フランス国立海洋開発研究所によって作られたノティールは1984年に就役。深さ6000メートルまで潜水可能です。

正副パイロットと科学研究スタッフの3名が乗り込むことができ、長さ8メートル、幅2.7メートル、高さ3.81メートルで、耐圧殻はチタン合金で作られています。

船尾のメインプロペラのほかに船体の前後左右に4つのスラスターを装備することで高い運動性を実現し、3つの観測窓の他に、静止画像カメラ2基、カラービデオカメラ2基のほか、深海を明るく照らす投光機も装備しています。

さらにリモート操作によるロボット・アーム2本により海底の標本採取や各種水中作業をこなすことができ、エールフランス機のブラックボックスもこれによって回収されました。

初めての本格的な調査任務は1985年に行われた日本とフランスの共同調査「KAIKO計画」であり、日本海溝などに27回の潜航を行って地震の元となる海底の断層調査などに大きな成果を挙げました。

銚子沖の海底で沈み込みプレート境界をはじめて直接視認し撮影することにも成功しており、襟裳海山に海底地震計・海底傾斜計を設置するなど、日本のプレートテクトニクス研究にもお大きく貢献しました。その潜航能力を活かしてノティールは科学調査以外の様々な任務に携わっており、ほかにも1987年のタイタニック号の残骸調査などが有名です。

このノティール号が発見したブラックボックスを搭載していたエールフランス447便は、乗客216人、乗員12人を乗せ、2009年の5月31日にブラジル・リオデジャネイロのアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港を出発しました。定刻では、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール国際空港に現地時間の6月1日の午前中に到着する予定でした。

ところが、6月1日の午前零時を2時間ほど回った午前2時ごろに最後の交信が行われた後、消息を絶ちました。この最後の交信では機内の与圧が低下したとの交信があったとのことで、その後、電気系統の異常を知らせる自動メッセージが同機から発せられていました。

当時の航路上では落雷を伴う乱気流が発生していたといい、また、同時間帯に現場付近を飛行していたTAM航空やエア・コメットの乗客・乗務員が「炎に包まれたもの」・「強烈な閃光」を機内から目撃しています。

この失踪を受け、ブラジルやフランス、スペインなどの各軍隊が、消息を絶ったブラジル沿岸から北東約365kmのフェルナンド・デ・ノローニャ周辺で捜索を行いました。

その結果、6月2日にブラジル空軍がセントピーター・セントポール群島付近の大西洋上で座席やジェット燃料など航空機のものと思われる残骸を発見。その後、ブラジルのネルソン・ジョビン国防相はこれらの残骸がエールフランス447便のものであると断定し、この海域に墜落したと発表されました。

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その後、ブラジル軍が現場海域で乗客と見られる遺体やエールフランスの社名が入った座席や機体の残骸、447便の搭乗チケットなどの遺品を相次いで発見し、6月8日には機体の垂直尾翼が回収されました。

この捜索で、フランス海軍は観測艦に搭載している水中探査機や原子力潜水艦を動員して機体の残骸やフライトデータレコーダーの捜索を行いました。その結果、最終的には、600点近い機体の残骸と51人の遺体が回収されましたが、ブラックボックスは発見できないまま、いったん6月26日に機体の残骸と遺体の捜索を打ち切られました。

その後もなお、ブラックボックスの捜索及び回収はフランス軍主導で続けられ、7月2日にはいったん打ち切られましたが、翌年の2010年2月より再び捜索を再開。2011年4月3日にエンジン及び主翼の一部を発見したことをフランス運輸相が発表し、続いて5月1日にブラックボックスの回収成功が発表されました。

事故機となったこのエールフランスのエアバスA330は、双発ワイドボディ機で、447便の事故が発生するまで全損した死亡事故は1機だけで、しかもこれは1994年6月にエアバス社で試験飛行中の機体で発生したものでした。

その後各国の航空会社に提供されるようになり、有償飛行中の機体には何らトラブルが発生したことはなく、またパイロットのイスなどによる員損失事故はまったく発生していないなど、高い性能が評価されかけていました。それだけに、その製造開発を手掛けたエアバス社を事実上保有しているフランス政府にとっては大きな衝撃でした。

また、生存者はその後も発見されなかったことから、全員が犠牲になったとされ、エールフランスの75年の歴史においてもこの事故は最悪のものとなりました。

それだけに、事故の原因究明にあたってフランス政府は国威をかけてあたったようで、もう回収は不可能といわれる中、年を越したあとも運用に多額の金のかかる潜水艇を使ってまでブラックボックスの回収にあたったことも、その必死さの表れでした。

事故機には、3人の操縦士と客室乗務員9人、計12人が乗務しており、乗客は、126人の成人男性、82人の成人女性のほか、7人の子ども、1人の乳児でした。その国籍はブラジル人58人、ドイツ人26人などでしたが、フランス人は61人と最も多く、このこともその捜索活動を熱心にさせた要因でしょう。

乗客のブラジル人の中には、旧ブラジル皇帝家の子孫の1人で、将来的にブラジルの帝位請求者となることが確実視されていたペドロ・ルイス・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ氏の搭乗も確認され、話題となりました。

このほか、ミシュラングループのフランス人の幹部社員1人と、ラテンアメリカの最高経営責任者を含むブラジル人の幹部社員2人、ドイツの鉄鋼会社ティッセン・クルップのブラジルの関連企業のCSAの社長、そして中華人民共和国の国営報道メディアの8人なども乗っていたといいます。

ブラックボックスが回収されるまでは、その事故原因について、現場付近を飛行していた航空機の乗客・乗務員などから「炎」や「閃光」が目撃されたという情報があったことから、落雷が発生し電気系統が故障したのではないかという説や乱気流に入る際の速度を誤ったのではないかという説がありました。

また、消息を断つ直前に事故機の速度計に異常が発生していた説、エールフランス社がエアバス社に勧告されていた速度計の交換を行わなかったためではないかという説などが浮上しましたが、確固たる物象がないためそのいずれもが決め手に欠けました。

しかし、ノティールの活躍によってブラックボックスが回収され、ここから取り出されたフライトレコーダーは、仏航空機事故調査局(BEA)によって解析され、その結果、墜落の詳細が次第に明らかになっていきました。そしてまず最初に発表されたのは、このエールフランス機の片方のピトー管が着氷したという事実でした。

ピトー管というのは、航空機の速度を計測する装置で、その構造は二重になった管からなり、内側の管は先端部分に、外側の管は側面にそれぞれ穴が空いていて、二つの管は奥で圧力計を挟んで繋がっており、その圧力差を計ることができるようになっているものです。

言ってしまえばただの管にすぎない単純構造であり、このピトー管の一方に氷が付着することにより、飛行機の左右の翼に合わせて2つ付いている速度計が異なる値を示すことになりました。

このため、機体のコンピュータはこの異常を感知し、異常をパイロットに知らせ、自動操縦を解除してマニュアルにするようと警告音を発し始めました。ところが、このときたまたま機長は休憩中であり、機長席に座っていたのは3人の操縦士のうちの最も経験の浅い副操縦士でした。

この副操縦士は、指示に従ってマニュアルに切り替えましたが、この時点でさらに失速警報が鳴り始めました。失速した際は通常機首を下げるべきでしたが、このときこの副操縦士はなぜか操縦桿を引き、フルスロットルとしたため仰角が増し続けました。

機長が戻った時には、時すでに遅く、3度目の警報が鳴って完全な失速状態にあり、エールフランス447便は、失速状態のまま海面に激突し、バラバラになったことなどが、このフライトレコーダーの解析からわかりました。

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一方、ボイスレコーダーには、墜落の3秒前、乗務員の1人が「なんてことだ、墜落するぞ、ありえない」と叫んでいた音声が記録されていました。また副操縦席のもう1人のパイロットが「上昇しろ」と叫んだのに対し、もう一人が「さっきからずっと操縦桿を引いている」と言っていたことも判明しています。

エアバスA330-200は、操縦輪式のボーイング機とは異なり、正福のパイロットがそれぞれ握る操縦桿が連結していない形式でした。このことから、お互いがこのとき行っていた操作をそれぞれが理解していなかったことが想像されました。

また、この二人は、失速の際の警報についてまったく話し合っていた様子はなかったそうです。そしてこれは、失速して落下するとき、迎角が瞬間的に0になることでこの機体が一瞬失速警報が鳴りやむしくみになっており、このため二人は失速という重大な事態に至ってないと判断していたのではないかということも考えられました。

失速警報がたびたび鳴っているにもかかわらず適切な操作が行われておらず、「失速状態にあることをしっかり認知していなかった」と指摘されており、また副操縦士は高高度における”計器速度の誤表示”への対応と、マニュアルでの機体操作訓練を受けていなかったことも後に判明しました。

2012年7月5日、仏航空事故調査局(BEA)は、事故原因を速度計(ピトー管)の故障と操縦士の不手際が重なったこととする最終報告書を発表し、フライトレコーダーとボイスレコーダーの二つの回収という成果によってこの事件は決着を見ました。

こうしてエアーフランス機の事故の原因は明らかになりましたが、今回のマレーシア航空の失踪と比較して異常なのは、エアーフランス機のときには比較的早期に機体の一部や遺体などが発見されたのに、今回はまったくこれらが回収されていないということです。

中国政府などが、漂流物らしき物が写っているとして公表した衛星画像なども、異様に大きいことなどについて疑問視され、その後中国からマレーシアに対して「誤って公表されたもの」との連絡があったといいます。

中国が新型艦船や、高解像度の衛星画像を提供する目的の一つは、軍事力の誇示であることなども指摘されており、この衛星画像もただのパフォーマンスだったのかと思わせます。

が、私の記憶が正しければオーストリアからも同様に衛星画像が得られたとの発表があったはずであり、もしかしたら、難破した船の残骸などが誤認されたのかもしれません。

いずれにせよ、このマレーシア航空機が本当に墜落したかどうかについての確証は何一つ得られていないわけであり、それだけに、オーストラリアの艦船がキャッチしたという今回の信号音に期待が集まっています。

いずれその音源の位置が確定されれば、深海潜水艇を持つ日本やフランスへの要請も現実のものとして浮上してきるでしょうが、それが実際のものとなるかどうかは、ここ数日のうちに明らかになってくることでしょう。

日本は1989年に運用を開始した、しんかい6500以降の有人の新たな開発を凍結しており、新しい船を建造する予定は今のところまったくないようです。

不況により財政が厳しいことが原因のようですが、このマレーシア航空機調査にはぜひ参加して成果を上げてもらい、そのことで国際的にも高い評価が得られればまた政府も考えなおすのではないでしょうか。

海好き・船好きの私としては、行方不明機の発見もさることながら、この事件をきっかけとした新しい潜水艇の登場が楽しみです。

2014-1150344大室山 さくらの里にて